Title 明末の都市改革と杭州民變 東方學報 (1977), 49: 215-262...

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Title 明末の都市改革と杭州民變 Author(s) 夫馬, 進 Citation 東方學報 (1977), 49: 215-262 Issue Date 1977-02-15 URL https://doi.org/10.14989/66540 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 明末の都市改革と杭州民變

    Author(s) 夫馬, 進

    Citation 東方學報 (1977), 49: 215-262

    Issue Date 1977-02-15

    URL https://doi.org/10.14989/66540

    Right

    Type Departmental Bulletin Paper

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 明末の都市改革と杭州民襲

    都市巡警役の改革

    都市徳役としての維甲

    ・火夫

    江南諸都市の改革

    杭州都市改革運動

    間架税改革運動

    巡督力役磨止運動

    筋暦十年杭州民党

    3

    JJ■

    明代も'永楽時代をすぎて宣徳時代に入ると'明初の健制ははや崩壊を見せはじめる。農村牡合では、まず農民の土地

    からの遊離となって'それは現われ'農村人口の相封的減少がもたらされる。雷時の経済的最先進地帯とされる揚子江下

    流地域では'この傾向がことに著し-'多少なりとも目先さが利-できの良い農民は'土地や農具を捨てて移住してゆき'

    (-)

    何もできない愚かな者のみがtやむをえず農村に頻る、といわれるまでの事態が生じてゆく。この離農現象は'時代を追

    うにしたがって顧著になり'何良俊の

    『四友粛叢説』によれば'正徳時代

    (l五〇六-一五三

    )以前には'人民の九

    〇%が

    農村にいたのに比べ'この書が著わされた隆慶時代

    二五六七-一五七二)の頃には'人民の六~七〇%までもが離農したとい

    明末の都市改革と杭州民襲

    二1五

  • (Q・)う。何艮俊の表現に誇張が見られるとしても'農村人口の大幅な相封的減少は'動かしがたいことであ

    った。

    (3)

    郷里を捨てた彼らのかなりの部分は'湖北

    ・湖南

    ・四川等の未開墾地めざして流亡していった。しかしまた'離農者の

    かなりの部分は'都市

    へ流入していったのである。たとえば'その

    一例を'後に問題とする江南の

    一大都市'新江省省城の

    杭州にとろう。『常暦杭州府志』によれば'杭州市内は'嘉靖初年にはまだ人口が少なかったとみえ'市中の街路には

    一尺

    錬りの草が生えていたり、城内の遁部な虞では狐や兎が群をなしていたという。それが'寓暦初年には'び

    っしり家が建ち

    (4)

    ならび'きわめて繁庶となったということである。何点俊の描-農村の情況と'全-封照的な情況を'嘉靖から寓暦時代

    にかけての都市に見出すのである。都市人口の増加は'主に農村人口の流入によったと考えてよいであろう。こうした都

    市人口の増加は'商工業の活況をまねき'いわゆる

    「都市の沓展」をもたらす基礎であったが'また

    一面'都市に新しい

    問題を生むこととな

    った。やはり杭州について見れば'都市の登達にともなって'

    一方で立派な店鏑を構えて商いする者

    がいるのと封照的に、

    一方では

    「家に蓄えのない者」が多量に草生し'こうした者が十家中で五家もあ

    ったという。

    貧困な都市生活者も含めた都市人口の増大は'ここに一つの新しい政治的動きを生み出すこととな

    った。都市の住民に

    は、次第に政治意識が芽争

    え'人口増にともなって'それが

    一つの政治的力量となりうるまでになったのである。彼ら都

    市の住民を'嘗時の史料に即して'ひとまず

    「市民」と呼ぶことにしよう。商工業にたずさわる彼ら市民は'自らの生活

    に即した諸要求をかかげ、商工業の菱展にとって桂桔となってきた蓉衆の諸制度の改革を求め'都市改革運動を展開する.

    そして、商工業の尊属にとって'その阻止要因があまりに大きい時'そこに何らかの切っ掛けが加われば'この改革運動

    は'市民の反乱に特化するであろう.すなわち、都市民壁の勃拳である。

    これまで'都市改革運動との連続において都市民愛をとらえる研究は'ほとんどなされなかった.これまでの民愛研究

    でその封象とされたのは'蘇州織傭の愛'蘇州開講の轡'臨清民奨'景徳鏡民壁といった'いわば

    「反官官民轡」ともい

  • (・,I)

    うことができる性格を持つものが中心であ

    った。すなわち、常時のほとんどのひとびとにと

    って'宵宮およびそれと結託

    ・する者は'それ自健惑なるものと考えられていたので'宵宮の横暴と、それにともなう商工業の停滞が原因とな

    ってひき

    おこされた民愛には'しばしば多数の士大夫暦が参加し'彼らも含めた虞範な市民の共感を呼んだのである.

    これに封Ltここに考察の封象とする杭州民愛は'都市警備の篠役負据をめぐ

    って'多量に草生した

    1般中下層市民と'

    特樺者である城居郷紳との封立から生じたところの'「反郷紳民奨」

    ともいうべき性格のものであ

    った。

    それは、勤番に

    至るまでの地道な都市改革運動ののちに生起したものであ

    ったLtまたそこには'宵宮は

    1切開係していない。反郷紳と

    いう、きわめて鮮明な色彩をもつ中下層市民の反乱であ

    ったために'反嘗官民轡で見られたような贋範な市民各層の参加

    や同情は見られないのである。これまでの民奨研究によって紹介されたのとは'全くイメージをことにする民衆運動の姿

    を'われわれはそこに見出すであろう。

    また、明清時代の都市問題

    ・都市社骨の研究白魔も、これまでややなおざりにされてきた。

    1連の格役改革史にしても'

    郷紳研究にしても'その視座は農村におかれることが多かった。役の銀納化'郷居地主から城居地主

    へ、郷紬的土地所有、

    郷紳支配など'これらの歴史的諸範境は'すべて農村社骨を解明しようとして用意されたものであ

    ったo民襲研究と商工

    業史研究を別とすれば'都市が時に問題とされる場合でも'それはほとんど農村社食との関連においてであ

    った。農村人

    口の減少'都市人口の増加'地主の城居化といった顛著な敢合壁動が見られるにもかかわらず、都市それ自健に

    どのよう

    な問題が生じたか'

    一般中下層市民はどのような責態であ

    ったか'城居化した地主あるいは郷神が、都市行政においてい

    かなる動きを見せるかといった'都市社食そのものめ研究は、あまりなされなかったのである。

    杭州民壁では、都市の格役改革をめぐ

    って、郷紳などの特権的住民とこれに封する

    1般中下層市民とが'生の姿で登場し'

    抗争をくりひろげる。そこには、次のような問題を提起できるであろう。すなわち'都市の篠役改革はいかに進行したの

    明末の都市改革と抗州民奨

    二1七

  • 二一八

    か'人口増によってもたらされる都市問題は何か、

    1般市民の政治意識や運動の形態はどのようなものであったか、郷紳

    などの特権的住民の賓態や'都市における国家支配と

    「郷紳支配」なるものとの関係はどのようであ

    ったのかtなどの問

    題である。これらについて'本稿では都市改革と関連させつつ、できるだけ具健的な史賓にもとづいて'考察を進めてゆ

    くことにしたい。

    都市巡警役の改革

    都市揺役としての兼甲

    ・火夫

    諸都市における都市格役改革を紹介するに先だち'都市格役なるものの7般的性格と'なかでも市民が負槍せねばなら

    ない線甲

    ・火夫の役の〝

    都市的″

    性格とを'農村との封比において'少し見ておきたい。

    7般的に言えば'都市の住民に封する国家の掌握と、彼らに封する格役科坂は'農村の住民と同じレベルでなされたも

    のと言いうる。すなわち'国家による人民掌握の基礎ともいうべき賦役黄筋が作られ'これにともなって里甲が編成され

    (6)

    た時には'

    「城中を坊といい'近城を廟といい'郷都を里という」と規定されるとおり、都市と農村とは地域的に区分さ

    れ'坊

    ・廟

    ・里と名稀を異にしながら'しかも同じレベルでとらえられているのである。篠役についても同じことがいえ

    るのであって、都市格役を考えるうえで'これはその前提としてよい。

    では'どのようなものを

    〝都市的″

    な徳役としてあげうるのだろうか。まずはじめに'商税を徴収するために設けられ

    た役をあげることができよう。商税を徴収する税課司の巡欄の役は'も

    っぱら市民にだけあてられ'農民はこれを負増し

  • B(:i:

    なか

    ったのである。これは'都市と農村との税徴収の違いから生じた、〝都市的″

    な格役といいうる。

    巡欄のほかに'都市の住民にはどのような役の負損があ

    ったのだろうか。練じていえば'次のようなことが言えるであ

    ろう。すなわち'工部によって直接掌握され、織染局などに隷属する匠戸の匠役などは、労働それ白燈が格役であるから'

    ひとまず別としても'このほかに都市住民に課せられる徳役についてみても'宮中あるいは官頗御用の性格がきわめて濃

    厚なものであ

    った。都市と農村の差違を明瞭に指摘する史料が'比較的す-ないなかにあ

    って'南京の事例を記述した

    (も)

    『寓暦上元麻志』が

    「坊痛賦役」の項目を特に立てていることは'これを象徴的にあらわしている。南京は明初に宮廷が

    おかれ'北京遷都後も副都として'移しい官廉が存在したから'宮中と官磨使用の器物の供鷹や、城内各所の建造物の修

    理や'宴合の接待などの諸役は、南京市民に課せられていた。線坊や嘗頭とか坊長などと解されるこれらの役は'きわめ

    て過重であ

    って\何良俊によれば'この負据過重により'嘉靖三十九年

    (一五六〇)の南京兵壁と時を同じ-して'南京市

    (d>)

    民による民愛の勃菱が危ぶまれるほどであ

    った。このため'生員暦が中心とな

    って都市格役の改革運動をおこない、次第

    に雇役化されていった。こうした趨勢にあるにもかかわらず'音更が雇役を力役にもどそうとしたので'

    「坊民は騒ぎた

    (川)

    てた」とあるように'反抗している.これは、後に見る杭州民壁と類似したうどさといえるであろう.官塵御用の性格は

    また'官廉が配置される各地方都市で

    一般的に見られることであ

    って'副都の南京に限

    ったことではなか

    った。蘇州府嘉

    定麻でも'砥鹿

    (官磨・官吏の小便)や巡梯

    (商税徴収のための役)には市民があてられるうえに'日中は曹席につとめ'夜間には

    (‖)

    巡守をする排門夫の役も'市民があてられていた。府廉が置かれていた嘉興府城で

    「坊役」つまり都市格役とは、賓客を

    (12)

    (_3)

    接待することを意味した。杭州府でも'坊頭あるいは坊里

    (妨痛)の砥鹿とは'官僚や賓客を接待することであ

    った。つま

    り'農村との比較においていえば、都市格役がこうした性格を著しくもっことは'明らかである。

    しかし'それは比較においてであり、これに類似した格役は'農村にも負靖があ

    ったということも見逃せないであろう。

    明末の都市改革と杭州民奨

    二一九

  • 二二〇

    とすれば'都市の格役が農村のそれと異るのは'国家による都市と農村の同レベルでの把捉と相まって'資質的内容の差

    異であるよりは'その負揖者と区域の差異であるといえよう。ここに都市の徳役改革の

    一例としてとりあげる縫甲

    ・火夫

    の役も'農村にも類似したものがあったがへ負据者においても区域においても農民

    ・農村と分けられていたため'都市的

    性格を帯びることとなった。鍵甲については'たとえば

    『崇藤松江府志』に次のような記述が見える。

    ヽヽ

    各国では歳ごとに線甲

    一名を輪番とする。も

    っぱら喧嘩を防ぐことを職務とし、なみの争いでなければ'官に申し出

    (14)

    て究治する。盗賊が草生したら'衆を率いて防禦する。ただ附郭の維甲は'最も煩苦といわれる。

    火夫については'呂坤に次のような記述がある。

    ヽヽ

    ヽヽ

    火夫は城市開胸で巡夜し、もともと火災を救い盗厳を防ぐためのものである。鎗夫は郷村で保甲に編成され、もとも

    (_.I?)

    と順番にとりしらべて郷村を護るためのものである。

    つまり'都市の火夫は'農村の鎗夫と類似するが'その管轄匡域が異る。同じ-呂坤によれば'「城市の火夫」は「開聞

    の郷夫」と封比されながら、しかも都市に限られたものであり'それは市民に課せられ'夜間市内を巡等し'市内の欄柵

    〕那c

    の管理などをするものであった。管轄区域が異るだけではな-'負蜂者においても農村と区別されていたのである。兼甲

    は火夫をしたがえ'市内を巡警するのがその役目であり、北京では戸等によって上戸を殖甲にあて、中戸を小甲にあてへ

    (L=)

    下戸を火夫にあてる健制がつ-られていた。

    都市の線甲と火夫の役は'匿域的にも負推者においてP.このように農村における徳役と区別されていたため、都市格

    役の一つとして'その改革を見てゆけるであろう。はじめ市民の力役であった練甲

    ・火夫は'次第に雇役に改革されてゆ

    くが'その動きは都市的諸問題に規定されたものであ

    った。はじめに、都市格役改革の

    一般的情況を'江南諸都市にかぎ

    って見てゆ-ことにしたい。

  • 江南諸都市の改革

    嘉興府附郭の嘉興願では'隆慶年間

    (一五六七-一五七二)に纏甲と火夫の役が雇役化される。

    そこでは、都市部の匡割で

    ある坊に課せられる絶甲や火夫などの雑役につき'これ以後戻税銀

    (借家賃)に見あ

    った額で徴収する門灘祝によって雇役

    (18)

    (19)

    する方式がとられた。その経緯は'孫植の

    「門灘碑記」に詳しい。すなわち'鹿筒鵬が均卒の法をおこな

    ってから'郷村

    部農民の篠役員槍の過重は除去されたが、都市部市民が負据するところの線甲

    ・火夫

    ・義官

    ・坊民といった類の役につい

    ては'その法がなお均し-なか

    った。富裕で絞滑なものが賄賂でとりいったりしてこの役を逃れるのに反し'貧乏で善良な

    ものが'おおむね幾度もこの役を負増し、交替して休むことがなかった。城内放生坊に住む施千国なる人物は、そこで訴

    えをおこし'これが聞きいられた結果'門灘の法がつくられた。この法によれば'繕紳大夫や郷貢生

    ・歳貢生

    ・例貢生の

    居所には課税しないが、「その他はその家屋を債格評定Ltそれが銀十両にあたればおおよそ借家賃は

    一雨である。借家賃

    1両であれば'その屋敷

    への課税は、年間八分五盤をすぎることなく、評債額が百両を上下すれば'これにしたが

    って

    増減する。道路が僻随であ

    ったり住民が貧苦であるものにはまた'これを逓減して規定どおりにしなか

    った」という。こ

    うして徴収した税を用い'官は代役者を雇

    って纏甲

    ・妨民などの都市格役をさせたのである。

    力役が雇役銀納化することにより、役のための費用は定額化し'賓質的には非常な減税を意味した。それまで評贋額百

    両以下のものが'

    一年に

    一月線甲にあてられると'

    一月の費用は七

    -八両を下らず、十両をこえる場合もあ

    ったという。

    これ以後'家屋評債額百両でも'課税額は

    1両以下であ

    ったから、非常な減税であった。ただ'借家賃の八

    ・五%を最高

    限度として徴収される門灘税を'業主

    (家持ち)から取

    ったのか'あるいは借家人からも取

    ったのかは、この史料によるか

    ざり明らかではない。しかし、次に見る嘉興府属海鰻僻の事例から'嘉興麻でもも

    っぱら業主からのみ徴収したのだと考

    明末の都市改革と杭州民奨

    二二1

  • えられる。

    海硬麻都市部の門灘徴税改革へおよび火夫等の役の改革の概要は'嬬皐譲の

    「察邑侯市民去思碑」によれば'次のよう

    】琳E

    であった。すなわち'改革以前には二つの問題があった。第

    一の問題は'借家住いの販夫

    (小商人)と門雄視との関係であ

    って、彼らは

    「今日こちらに籍があったかと思うと'明日はあちらに移籍し'また翌日には商頁をやめて去

    ってゆ-」と

    いったように'流動性にとみ'彼らから門雄視を徴収しにくかった。第二の問題は'火夫の役についてである。嘉興麻で

    見たのと同様'海墜麻でも官僚

    ・畢生

    ・背吏などが優免され'さらに校滑な者がこの役を免れたので'貧民弱夫のみの負

    塘となっていた。そこで寓暦九年

    二五八一)'

    嘉興

    ・秀水雨願にならって

    「業主の賃借

    (借家賃)によって銀を科し」'こ

    銀によって雇役するといった改革がなされたのである。この史料によってへ隆慶年間の嘉興解の改革は'同じ嘉興府附郭

    の秀水爆でも賓施されていたことを知りうるし、府下の各願にも類似した改革が飛び火していったことをも知りうる。す

    くな-ともこれら三麻では'門推挽は家持ちから借家賃に見あ

    った額で徴収していたのである。

    孫植の

    「門擬碑記」で見たとおり'都市のこうした改革は'農村での腐筒鵬の改革に腐登されたかたちでおこったoま

    た'樵役優兎と不法免除により'貧民のみが格役を負増せねばならぬ矛盾が生じていたことも'都市

    ・農村ともに共通で

    った。都市と農村がいかに分ちがたく'連唐的'劃

    一的性格を持

    っていたかを'ここに見うるのである。しかし'流動

    的な都市的性格のゆえに'借家人からは雇役化のための金銭を徴収しがた-㍉これを家持ちから借家賃を基準として徴収

    したこと'これも注目してよいであろう。

    常州府下の諸都市でも改革が進む。『寓暦常州府志』によれば'府城であ

    った武進願では'嘉靖十六年

    (一五三七)から

    火夫が設置され'健気者を除いて全都市住民がこれにあたり'纏甲の差榛をうけていた。ところがここでも金持ちがこれ

    を逃れるため、貧乏人に数寄せされた。そこで寓暦十三年

    (1五八五)'知願徐国は'借家賃の十%を課税し'これをも

    って

  • (21)

    代人を召募する費用にあてたのである。つまり火夫は雇役されたわけであるが'ここに注意すべきことがある。すなわち'

    それまで火夫として力役に駆りだされていたのは'自宅所有者のみならず借家人まで・その封象とされていたこと'いやむ

    しろ'業主

    (家持ち)は多-富裕であったからこの役を逃れ'賓際に役についたのは多-借家人であったと考えられること

    である。『寓暦常州府志』を編纂した武進麻の唐鶴徴は'火夫の雇役化について'次のような指摘をしているのである。

    寓暦のはじめ'この土地の周某がはじめて徴銀の策をはかり'歳ごとにその借家賃をもととしてその十%を徴収し、

    召募の費用にあてた。つまり'組をつ-って役にあてれば業主

    (家持ち)が利をえ'儲者

    (借家人)が苦労するのに封Lへ

    銀を徴収すれば業主が金を出し'儲者は楽をうける。おおよそ、業主は有力者であり'働者はことこと-販夫販婦で

    ]聯E

    ある。こちらの業主を扱じてあちらの儲者を益するこ

    とは'ことに得策である。

    これによれば'改革以前は借家人も火夫の役を負揖していた。そして雇役化に改革された後は'その費用を家持ちから

    徴収したのである。さらに言えば'この火夫の雇役化改革は'借家人にとって非常な利益を意味し'家持ちにとっては逆

    に損失を意味するものであった。都市の具健的

    一改革をめぐって'同じく市民である借家人と家持ちとは利害を異にした

    のである。家持ちからの徴銀は、借家人の流動性に対する音数的措置でもあろうが'唐鶴徴が指摘するとおり'敢曾的に

    公正な措置であるとも考えられていた。

    同じく常州府の無錫願では、寓暦十年

    (1五八二)以降、屋債

    (家屋評倍額)によって仁

    ・義

    ・躍

    ・智

    ・信の五ランクをもう

    けて徴税し'これによって雇役化された。さきに見た嘉興厭の事例に類似したものであったのかも知れない。宜興願では'

    もと火兵な-'城の内外では十家牌法がおこなわれていたoつまり'十家を

    l甲とLt十甲を

    1保とするかの保甲法であ

    り、毎甲では夜ごとに1人を出して保内を巡警させ'これが火夫と名づけられていた。保甲法に火夫が加えられていたわ

    〕稚i:

    けであるが'ここでも寓暦三十四年

    (一六〇」ハ)以降'火兵が設置されて雇役化している。

    明末の都市改革と杭州民奨

  • 二二四

    さて、南京での宮中

    ・官廉御用の役が'次第に雇役化されたことは'すでに述べた。そして市内巡警の役もまた同じ方

    向をたど

    っていったo南京城内でははじめ、市民負揖の警備健制は'家''Uとに輪番でわりつけられる線甲

    一名'火夫五名か

    らなる火甲によって編成されていた.兼甲と火夫は更舗

    (窺舗-番小屋)に詰め'人の通行が禁止される夜間に巡警してまわり'

    軍士と協力髄制をとるよう義務づけられていた。これらの役は'富者が私に代りに人を雇うことも認められ'貧者はみず

    から役についていたが'この鰭制下においては'富者によって私雇募された線甲が音更と結託して悪事をはたらくなどの

    弊害が生じた。そこで私に雇募する制度を官が雇募する制度に改革するよう訴える市民の運動がおこり'ついに甫暦三十

    3矧E

    七年

    (一六〇九)前後に改革され'これ以後戸等を三等九別に区分して徴銀Ltこれによって官が召募することとなった。

    宮中

    ・官廉御用の役とともに、市内巡警の役も次第に雇役化されていったのである。

    蘇州府嘉定願でも'この役は銀納化される。城内各家が軒なみに編入される排門夫の役は'大族富人がほとんど負揖を

    逃れたので'販夫傭客の過重負塘とな

    っていた。そこで家屋の間架

    (門口等による家の大きさ)を通編Lt

    これをもととして差

    3醒E

    をつけて徴銀Ltこの銀によって火夫を雇募するようにな

    ったのである。

    蘇州府府城でも'やはり類似した改革が見られる。蘇州と杭州は'同じ-良質絹織物の中心産地であることのほか'類

    似鮎が少な-ない。市内巡警の役の改革についても'両都市では保甲制改革という形態をとるのであ

    った。蘇州での改革

    は'杭州での改革ならびに民壁を考察するうえでの'鉄くことのできぬ重要参考史料となるであろう。その中心的史料は

    『鎮呉線』である。それは'蘇州に移鎖してきた

    一兵士、遊撃牌軍の妾良枝によってなされた市民巡警の役改革を'詳細

    に記述している。

    寓暦二十九年

    (1六〇一)'蘇州ではすでに周知の民奨

    1織傭

    (機綴職人)による暴動-

    がおこった。蘇州城内ではこれ

    を機として'保甲制が強化される。保甲に編成された市民は'夜間巡同して警備し'市内各所に設けられた柵門を管理し'

  • (26)

    夜行の人を取締らねばならぬようになった。蘇州での保甲制の強化が'いかに歴史的刻印をうけるものであったかを'こ

    れは示すであろう。また'それまで句容に移鏡していた巡撫が、蘇州へ移

    ったのも'

    二十九年

    (一六〇

    の民壁と三十

    (l六〇三)の土壁-

    生員膚による科馨

    ・学校暴動I

    がその原因であり、潜辞としておこる市民の政治行動を規制し、

    暴動がおこれば速やかに鎮壁健制をとるための措置であった.妾良棟もこの時に、蘇州を守備するために移

    ってきたので

    (27)

    ある。

    彼は、城内の保甲制

    ・柵門

    ・夜行禁止の諸不便について、次のような指摘をする。簡保書きに列馨すれば'以下のとお

    (加)

    りである。

    ∩市内の柵門について〕救急患者が出たり'お産の際に、柵門があるとこれに阻まれ、撃者や産婆を緊急に呼べな

    ■ヽ0し②

    ∩夜行の禁止と織工の不便について〕蘇州城内東牛城の貧民は、機織を専業としており'毎日富家へいって雇傭労

    働Lt碁になると蹄宅する。誤

    って夜禁を犯すとtかならず番人に酷-搾りとられる。

    〔零細商人の不便について〕

    眉挑

    (ふり責り),背負

    (塘ぎ責り)といった葉菜を販責す.る小民はtかならず五更

    (朝四時

    頃)に城を出'仲買人と取りひきして要りはらう。

    日中わずかばかりを要

    って利を求める彼らが'捕ま

    って責買でき

    ないようなことでもあれば'

    一家

    一日餓えを忍ばねばならない。

    ∩盗賊と柵門について〕盗厳は手足軽-'しかも道筋を熟知しているので、柵門があ

    っても逃げうせる.逆に巡兵

    は柵門に阻まれて追捕できない。

    ∩保甲制と役の免除について∪保甲は良法であるが、蘇州城は士夫槽紳きわめて多く'彼らが優免されるうえに'

    有力者に依倍する者も差役を免れる。か-て貧弱の下戸のみが排門夫役として巡警するが'盗賊がねらうのは多くt良

    明末の都市改革と杭州民愛

    二二五

  • 室を封象とするのであ

    って'貧民のみが巡警してもやる菊が出ない0

    ∩諸経費の負糖について〕各門軒ごとに鮎す燈火の池代は'貧民にとってきわめて高僧な自己負損である。

    妻良棟の指摘は'蘇州市民の生活史料であるとともに'都市問題を端的に表現したものと言ってよい。ここで注目すべ

    きは'②と㈲の指摘である。

    (e.9)

    闇の指摘は、資本主義萌芽論争で問題とされる重要史料'徐

    7嚢の

    「織工封」との比較において注目されよう.すなわ

    「織工封」に登場する織工が住みこみ労働者

    (居工)であ

    ったのに射し'『鎮呉録』

    に登場する織工は、

    毎日雇傭労働を

    いとなむ通勤労働者とな

    っていたのである。さらにまた'「織工封」

    の織工が夜の二鼓

    (卒均九時前頃)にな

    っても依然とし

    て働いていたのに封Lt『鎮呉録』の織工は、しばしば遅-なるこ

    とはあるにしても'ともか-原則として'夜行の禁が

    3肌凸

    はじまる時間までには厨宅していた。

    一方が住みこみ労働者であり、他方が通勤労働者であれば'その労働時間に違いが

    見られるのは'嘗然かもしれない。問題は'『鎮呉線』

    の叙述に従うかぎり'機織を専業とする通勤労働者が蘇州東城に

    虞範に存在していたこと、むしろこうした生活様式が

    1般的であったとさえ見られることである。

    「織工封」

    は元末史料

    といわれる。他方

    『鎖呉録』は明代寓暦期の史料である。ここに'歴史的趨勢'社食的事象として'

    「住みこみ労働者」

    から

    「通勤労働者」への推移を、われわれは讃みとってよいであろう。

    夜行の禁止'柵門の設置、保甲夜巡の義務といった'都市とその市民とを規制する諸制度は'大きな梗稽となり、

    一つ

    の都市問題と化していた。彼ら通勤労働者や櫛で見た零細商人には'身健的時間的な自由が必要であ

    った。彼らには何よ

    (=)

    りも、明日の仕事がまっている。都市商工業の拳展をささえる彼らにとって'これらの諸制度は非常な束縛となっていた

    のである。

    妻良枝が指摘する㈲も'同じ-都市問題として注目してよい。この問題は'都市のみに限られたことでないこと'すで

  • (32)

    に述べた.しかし'時代的趨勢として見られる

    「郷居地主から城居地主

    へ」の敢骨奨化は、この問題をも

    一つの都市問題

    と化していった。普代の代表的文化都市蘇州では、ことのほか優秀該嘗者が多-'「今'蘇州の郷官

    ・拳人

    ・監生

    ・生員

    V組F:

    ・知印

    ・承差

    ・吏書といった優兎者は'市民の七

    ~八〇%である」といわれるほどであった。か-て保甲は'織工や零細

    商人らのみの十家によって編成され'しかも最も盗賊にねらわれる郷紳ら貢室の家を警備せねばならなかったのである。

    ここに'保甲および夜巡をめぐり'都市の二階暦の隠然たる封立を見てとれるであろう。

    その封立は、抽象的には

    「富者」と

    「貧者」の封立であったがtより具健的には'徳役優免樺を認められる郷紳等の特

    権的都市住民と'織工

    ・零細商人等の非特権市民との封立にはかならなかった。そしてまた'常州府でみたようにtより

    深層においては'業主

    (家持ち)と借家人の封立を意味することもあ

    ったのである。彼ら借家人は'多-都市

    へ流入してき

    て織工や零細商人とな

    ったものにちがいな-'彼らこそ最も活動の自由を求める階層であり'最も都市格役の改革を切望

    するものであ

    った。

    3矧E

    蘇州城内でも'火夫の役はこれより以前にすでに雇役化していた。にもかかわらず'貧民のみによって編成された保甲

    にも'火夫と同様な役がまたまた課せられるといった逆行がおこったのである。中下層市民の不便を見た兵士妻良棟は'

    保甲による巡撃をやめ'柵門を撤廃し'かわっても

    っぱら兵士が市内を巡警する健制に改革する。火夫と同様な役が保甲

    にも課せられて問題化することや'兵士と市民との係り'また市民による力役の廃止といった諸事象を、次にとりあげる

    杭州においても見出すのである。

    明末の都市改革と杭州民奨

  • 杭州都市改革運動

    江南諸都市が抱える問題は'同じ-杭州も掩える問題であった。杭州でもやはりこれらの改革運動が進む。それは二鮎

    に集約されうる。

    一つは'都市住民に課せられる問架税の減税運動である。いま

    一つは'蘇州と同じように保甲制にとも

    なう都市巡警役の廃止運動である。この二つの改革では、ともに

    一介の塾の教師丁仕卿なる人物が'中心的役割をはたす

    ものであ

    った。丁仕卿なる人物こそtのちに勃登する民壁の中心人物であ

    ったのである。都市改革運動と民壁との達磨す

    る様を'ここに見てとれるであろう。彼はどのような改革をめざしたのであろうか。

    間架税改革運動

    丁仕卿が関係した都市改革の一つは'杭州市民に課せられる特殊な課税方式を改め'ひいては減税をもたらそうとする

    ものであった。間架税なるものは、火夫とともに、杭州府域内のどこにもな-'ただ省城である杭州の市民にだけ課せら

    (35)

    (36)

    れる重税とされていた。また

    「問架の税は'他省になく、ただ杭州城だけが煩

    っている」といわれるとおり'全国的に見

    ても特殊であった。他の一般的都市での徴税法は'門灘間架といわれるように門面

    (門口)がどれだけあるかを課税の基準

    V緬E

    としており'すでに見た嘉興府三顧

    (嘉興鯨・秀水爆・海盤牒)の都市部をその例としてあげることができる.江南諸都市のみ

    ならず'華北でも同じであり'呂坤の

    『資政録』にも'「およそ'間架を定めるには'門面の間数を主な基準とする」とい

    (38)

    っているとおりである。ところが杭州は'これとちがい'基地間架'つまり敷地がどれだけあるかを間架数に換算して徴

    税する方式がとられていたのである。杭州省城以外のより

    一般的な門推挽の場合でも'園初の商税的性格はすでにうすれ'

  • (39)

    商店の門口のみならず'房室にまで課税がおよび、住民税ないしは固定資産税的な性格をもつ場合があっ

    杭州の基地

    (敷地)による間架税では'この性格がさらに張かったと思われる。

    明初からの杭州間架税は'市民の住む嘗該の敷地が'官基地か民基地かの別によって'それぞれ課税方式がことなって

    (㈹)

    いた。その差異の中心は'官基地

    (官間架)であれば税糧のみをとって差役にあてず、民基地

    (民間架)であれば'逆に差役

    のみ負増して税糧を徴収しないところにあった。ところが次真の表のように、園初以来十問で

    一丁分の差役を徴収する民

    間架が、嘉靖中頃から七問で

    1丁分と増税された。それは民基地だけの問題であ

    ったから'まだしもであった。しかしさ

    らに隆慶二年

    (一五六八)以降になって'「郷村部の田糧の重いものを'これまで税糧を徴収しなかった都市部の民間架の中

    に-み入れ」'また「郷村部格役の重いものを'従来格役がなかった官問架の中にくみ入れる」ようになると、問題は大き

    -なった。つまり'郷村部の重税部分を都市部が眉代りせねばならなくなったわけである。これにともなって'民基地と

    官基地の徴税方式は

    1則化され'七間で

    1丁分を徴税する基準は官基地にも及ぶようになった。

    こうした都市部の重税化に対し'「杭州城市民すべてが繁重であると口ではいいながら'だれもこれを官府

    へ申し出る

    者がなかった」といわれる。だれも官府

    へ申し出ないなかにあって'この税制の不合理を官府に訴え、減税化案を提出し

    た人物こそtT仕卿にはかならなかった。

    その改革案を簡単にいえば'七間

    (〇二二五畝)で

    一丁とする都市部の格役銀を、

    二〇〇問

    (一〇畝)

    一丁分とする郷村部なみにまでひき下げることであった。郷村の高負据部分を都市部の軽負据部分に

    -み入れ、官間架と民間薬の税則が

    一律平均化された以上、都市部も農村部なみにすることこそ'「

    (一別平均化)の名

    にかなうものだ」と主張したのである。

    しかし、彼の減税案は'あまりに過激であった。巡撫の徐桟は、丁仕卿の提言を正しいとしたが、仁和

    ・鏡東南知麻はt

    T仕卿案に道理を認めつつも'「弊害を改革するには'少しずつやるべきだ」として'

    二十問を

    一丁とする提案をした。

    明末の都市改革と抗州民襲

    二二九

  • 杭州 (仁和願 ・鎖塘麻)都市部減税各案

    0.5畝(10問)-1T

    0.35畝( 7問)-1T

    10.00畝(200問)-1T

    1.0畝(20間)-1丁

    2.5畝(50間)-1T

    1,o畝(20問)-1丁

    明 初 民 間 架

    改 革 前

    丁 仕 卿 英

    知 麻 薬

    知 府 案

    布 政 俵 等 案

    ※郷 村 部 】10.00畝(200問)-1丁

    二三〇

    これを受けた知府は'市民が非常に因

    っているのを思い'五十間を

    一丁とする提案をし,こ

    議の決着はつかなか

    った。郷綿の陳善や馬三才は'おのおの巡撫に意見を提出したりもした。

    か-して'布政使

    ・分守参政

    ・分巡余事の合同提案として'二十問を

    一丁とすることにして,

    (‖)

    一鷹の決着を見たのである

    (上表参照)0

    都市部と郷村部とを

    1律化しようとする丁仕卿の減税案が'他の案、たとえば最終的決定を

    みた布政俵等案に比べ'いかに

    「革命的」ともいうべき内容のものであ

    ったか,理解されよう。

    巡撫が正しいとLt知願までもがある程度認めているように'丁仕卿案は道理にかな

    ったもの

    であ

    った。しかし'それは、都市と農村の現賓的差異を無視したところになりたつ'形式論理

    的平等化案にはかならなかったのである。

    寓暦十年

    (一五八二)に杭州府知府とな

    った方揚は'土地丈量にさいして次のような注意をしている。

    すなわち,都市部

    などの地債は'田土の地債に比べて倍する。何故なら'都市部はひとびとが集まり'商費で大いに利益をあげているから

    3駆E

    である.もし'土地面積のみを

    7律に基準として税額を決めるなら'戚税の大半をな-してしまうことになる,と。同

    1

    面積でも、都市と農村で収益をことにする以上、地債にひらきがでて-るのは嘗然であ

    った。都市の高負靖を解治し,農

    村と

    一律化しようという二

    見公平かに見える丁仕卿案は'音質的にはかえ

    って,農村に比べて都市を優遇硯するものに

    はかならなか

    った。彼の提案は'都市に居住する商工業者によってへ非常な歓迎をうけたにちがいないのである。

    都市に封するこうした優遇策はtより具健的にどのような階層のひとびとに有利であ

    ったのだろうか。この問題につき,

    あるいは都市と農村との関係について'布政使等案は貴重な示唆を投げかけてくれるO

    まして'城内で居室を多-もつ者は'郷村でも必ず田を多-も

    っている。都市部での徴税額を減らして,この分を郷

  • 村部で加額徴収してみても'彼らにはたいした利益にならない。ところが'住いはあるが田土を持たない貧民にとっ

    (4)

    て'この措置は大きな恵みである。

    問架税減税問題は'郷村部に田土を持たない

    一般市民の問題であ

    った。城屠地主は'城内で屋敷を多-持つと同時に'

    郷村部でも必ず田土を多-持つ。市中の屋敷にかかる間架税を減じて郷村部の田土に同してみてもへそれは減税を意味し

    なかったのである.これに封Lへ

    一般中下層市民には'間架税減税は印減税を意味した。丁仕卿の提案は'郷村部に田土

    を持たぬ

    一般市民'都市に居住して商工業のみを生活の糧とする中小市民にこそ'非常な歓迎を呼ぶものであり'この意味

    ヽヽヽヽ

    ヽヽヽヽヽヽ

    で、すぐれて都市的な'あるいは都市のための改革案であ

    ったのであ.TOO

    巡撃力役廃止運動

    丁仕卿が荷

    ったもう

    1つの改革運動'それは'保甲制にともなう都市巡警役の廃止運動であ

    った。もともと'杭州城内

    の民間警備は、繰甲

    ・火夫によって構成される火甲が塘嘗Lt

    この線甲

    ・火夫はすでに、

    おそ-とも

    嘉靖

    二十四年

    (一

    五四五)以前に雇役化されていた。また'線甲

    ・火夫を雇役化するための費用は'問架税銀によってまかなわれていた。都

    市格役の問題と間架税問題とは連摩しているのであ

    って'二つの問題がひとし-丁仕卿によって論じられたのも'こうし

    た事情によると考えられる。この頒甲

    ・火夫について'杭州でもやはり、富者が賄賂で免れ'貧者が負据しきれない情況

    が生まれ'問題化する。嘉靖二十四年になると、陳星なる

    1市民の願い出

    により'優発着を除いて間架銀を上

    ・中

    ・下三

    (44)

    等に分けて徴収する'

    一定程度の負塘公平化がなされ、これによって纏甲

    ・火夫を召募したのであるOちなみに'杭州城

    (45)

    内の河川管理についても'房屋の多寡を規準にして川渡えの人夫を徴沓していた。市内巡警の役も同じ-、間架を基準と

    してなされる問架銀によってまかなわれていたのである。

    明末の都市改革と杭州民襲

  • 二:≡

    すでに雇役化されていた火甲による市内巡肇に加えて'保甲によ

    っても巡警がなされるようにな

    ったのは'嘉靖三十四

    (〓九五五)頃からであ

    ったらしい。

    その頃'侶源をきわめていた倭蓮に備えてそのスパイを党察するため、坊内に保甲

    が組織された。ところが三十四年に倭脇が杭州城にせま

    ったため'保甲にも分番屠守を義務づけ'かつ雇役化されていた

    火甲と協力して夜巡させるようにな

    った。これははじめ全-の便宜的措置にすぎなか

    ったが'その後通例と化し'市民は

    またまたみずからで巡警せねばならな-な

    ったのである。そのうえ、杭州城各官塵の修理まで力役として'保甲が負塘せ

    ねばならないようにな

    った。修理官夫とよばれるこの役は、すでに嘉靖三十二年

    (一五五三)

    の段階で銀納化しており'

    かも全省に割りつけられていた。保甲が設置されると'保甲は火甲を補完する義務を負うとともに、この修理官夫までも

    DIEjn

    力役をも

    って補助せねばならな-な

    った。都市における兼甲

    ・火夫および宮塵御用の役の雇役化という'これまで見てき

    たとおりの歴史的趨勢に'それは逆行する動きであ

    ったと言いうるであろう。そしてここでもまた'富者が負糖を免れ、

    貧者のみが負揺するといった、幾度も指摘した事態が生じたのである。

    こうした都市行政における不合理と不平等に反封Lt障害を克服してついに改革をなしとげた人物'それが丁仕卿であ

    った。杭州市民が困苦するさまを見て、彼は次のような訴えをおこしたといわれる。

    「夜巡の役に頼遣するには'百七十名の官夫で十分です。戸ごとに間架鐘を出して兼甲

    ・火夫を召募しておりますう

    えに'さらに保甲にも差役が及んだことにより'市民は金銭的にも肉健的にも疲れはてました。市民による力役をす

    (‖)

    べてやめられますように」

    この訴えは、嘉靖三十八年

    (l五五九)

    からおこされ'

    四十四

    ・五年頃には'漸江省で

    1傑鞭法を資施したかの鹿荷鵬

    (伯)

    も上言

    したよう

    である。

    ところが'市民を力役に駆り出す制度こそ'官廉修理の監督や市内巡警を据嘗する背吏たちにと

    っては'賄賂をかせぐた

  • めの恰好の制度であ

    った。改革が進んだかと思うと'また逆もどりを繰りかえすのも'彼らの力によるものであ

    った。つ

    いに彼らは'「丁仕卿は定められた法律をかき乱している」

    と訴えそしるに至る。

    裁判官もさして深くもとり調べず'彼

    3聞爪

    をきびしく

    苔うち伽をつけ'

    彼の郷里(越-

    斬江省紹興府上虞解)に迭り

    還すこと、

    三度に及んだという。

    しかし'

    隆慶六年

    (一五七二)になると'丁仕卿の上呈文がとりあげられ'改革は賓施を見るのである。さらに寓暦二年

    (三

    七四)に'彼はま

    た杭州

    へ蹄り'この問題について陳請Ltこれより雨役はことどと-除かれるようにな

    った。執劫な反攻等の動向を目に

    Ltさらなる逆行を恐れた彼は'改革されるに至

    った縁由を石碑に刻害し'五年九月に鎮海棲下と武林門下にそれを立て'

    これを永遠に停えようともした。これが、彼のなしとげた第二の改革運動である。

    間架税問題にしても'夜巡などの力役塵止問題にしても'

    一般市民がみずからの言葉で'みずからの意見として地方行

    政に反映させること'それは嘗時にあ

    ってはきわめて困難であ

    った。それが最も切賓な問題であるにもかかわらず'

    「杭

    州城市民すべてが繁重であると口ではいいながら'だれもこれを官府

    へ申し出る者がいなか

    った」のである。下級知識人

    たる丁仕卿の代群をま

    って'あるいは

    「きびし-苔うたれ伽をつけられ'越に還らされること三度」という彼の不屈の精神

    をまって'それははじめて可能であ

    った。『寓暦杭州府志』を責任編持した陳善は'

    この改革を目のあたりにして'

    丁仕

    ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

    卿を

    「義行」の人として評償する。かつまた'郷紳であるにもかかわらず'いや郷紳であるがゆえにかえ

    って、この改革

    を塘いえなか

    った自己を悔恨し、次のような興味深い感想を書き残しているのである。

    夫役と夜巡の害は、学士

    ・大夫に及ばない。だから縛紳先生がこれについて言うととはまれであるLtよ-このこと

    を知

    っている者も'またすくない。私は丁仕卿の

    「省城内外夫宿菟役録」を讃み'浜して深-感歎しないことはなか

    った.十無益

    ・一十有害に論及した二十傑に至

    っては、何とまた切賓で鮮明なことか。私は官としての俸線を病むこと

    三十年'誤

    って大夫の後に従

    ってしまい'郷里のためにこの禍難を除くことができなか

    った。しかるに'丁仕卿は孤猫

    明末の都市改革と杭州民奨

    t三三

  • 二三四

    Bl孤E

    な旗人であるにもかかわらず'憤慨して陳議すること先後十八年'ついにその志をなしとげたのである。

    (引)

    ここに'陽明学派としての多感な

    1知識人'良質な

    1郷紳の姿を見出すことも'もちろん可能である。しかしより問題

    とす

    べきは'ここに彼が

    「誤

    って後に従

    ってしま

    った」という'その

    一般的大夫

    ・梧神の姿である。

    「郷村部でも必ず田

    土を多-持

    つ」彼ら、夜巡などの力役の害が

    「及ばない」彼らの都市改革運動に封する態度をこそ'問題とすべきであろ

    う。城居地主は同時に'ほとんど特権的市民でもあ

    った。彼ら特樺的市民と'郷村部

    「田土を持たず」、

    力役も免れぬ

    非特権的

    1般市民との、同

    一都市間題についての態度の雫離こそ'その後の都市行政の行方を暗示するものであ

    った.両

    の態度の帝離、ひいては利害の封立こそ'丁仕卿らの都市改革運動を挫折させ'ついに

    「反郷紳民奨=杭州民奨」を誘

    尊させたのである。三

    高暦十年杭州民奨

    寓暦十年

    (1五八二)の杭州民壁は、兵壁に誘寄されたかたちで起

    った。

    同じ-杭州に駐屯する兵士が、

    これまた自らの

    生活にかかわる要求を掲げて反乱したのである。直接民壁を見るに先だち、兵士および兵壁と市民および民愛との深い関

    (52)

    係を見ておく必要がある。

    反乱を起こした兵士たちには'輝かしい職歴とそれにともなう誇りがあ

    った。北方で封モンゴ

    ル族戦に戦果をあげ'南

    方で倭完討伐に活躍したのは'彼らであ

    った。有名な胡宗憲の倭完討伐も'彼らの活躍によるところ大き-'彼らの戦果

  • は全図に響き'「新兵新兵」

    と頼りにされたのである。兵襲時に見せた彼らの悪びれぬ態度'

    「正常な要求をしているの

    だ」との信念は'これに起因する。

    彼らはもと

    「掘山覇碇の夫」'

    つまり虞州

    ・金華

    ・衝州等地方

    一帯の鏡山で盗掘を生業としていたらしいが'父子にわ

    (.Q.,I)

    たって兵士に召募されるようになると、累世の盗掘業を棄て、杭州東南候潮門外の羅木管に来て駐屯することになった。

    彼らは家長

    ・子孫を携えてやってきており'半ば職業軍人化していたとはいえ、年末には郷里へ締り、その地の産物を杭

    州へ持ち願って交易していた。こうした商品交換責買をともなう市民との接廟は'彼らが文字に明るいことと相侯

    って'

    おま

    両者にかなり親密で協調的な関係を生み出すこととなった。兵士たちは'「杭州城内へ入ると'

    三衛の兵や住民と

    3G,.1E

    呼びあう親しい間柄」であ

    ったといわれる。つまり、通常見られるような兵士と市民との敵封的な関係ではな-、両者は

    かなり親密で協調的であ

    ったといえよう。こうした両者の関係は、互いの生活にある程度の理解と同情を生みだす要因で

    もあった。このことは'兵愛と民饗との関係を見るうえで注意してよい。

    兵士たちが反乱を起すにいたった原因も'市民と関係深いものであった。すなわち'貨幣問題である。

    寓暦九年

    (7五八1)の秋'諸経費節減のl環として兵約が問題となり'

    それまで兵士

    一人あたり毎月

    一両

    (あるいは九銀五

    分)支給していたものの三分の一をカッ-し、さらにその半分

    (あるいは三分の1)を新鎌で輿えようとする議論がおこった。

    北京では啓鏡の債格が低-'これに射して新鎌は精好で債格が高かったため'上下軍民ともに通行しており'この議はそ

    れなりの意味を持っていた。問題はむしろ'地方差を無視して中央の決定を

    一律に賓施したところにあった。北京とちが

    って杭州では'新鏡は啓鏡と貨幣債格が同じであるか、あるいは菌鏡よりも債格が劣るとされ'銅なみにしか見られず'

    このため新鎌は流通しなかったという。兵士は'市民ともども貨幣経済の崖ただ中におかれ'貨幣奨動がすぐさま生活に

    (.I,5'

    影響していたのである。

    明末の都市改革と杭州民変

  • 給料の

    1部カットのうえに銅同然の新鎌を給興されること五箇月、ついにたまりかねた兵士は賓力行使に出た。常暦十

    年三月二日へ馬文英

    ・楊廷用の二人を代表とする彼らは、巡撫呉善言のところへ趣き、従来どおりの給輿復活をせまった。

    彼らは自らの行動を耕明し'次のように言う。

    「こうしたわけは'

    1時の鱗寒のために謀

    っただけで'何も義に背いて赦されぬ罪を犯そうとするのではありませんO

    (w.n)

    これを'公然と反乱したと言えましょうか」。

    彼らには'国家そのものに封して反乱しているのだとの意識はな-、むしろ

    「朝廷が兵を養

    って警備するには'必ずま

    ず十分に兵繭を輿えてのち、兵に死力を出させるもの」との'いわば園家の論理そのものに基づいた

    「正常な要求」との

    信念があった。だからこそ、彼らの行動はきわめて統制がとれ'秩序整然たるものであった。主謀者二人は他の兵士たち

    (r-.,I)

    とともに

    「人を殺すな。財を盗むな」と言いかわし'事賓'市民に封しても放火

    ・狼籍など

    7切見られなかったようであ

    。兵壁が市民と民壁と深い関連性をも

    ったことにつき'見落してならない鮎がもう

    1つある。それは'兵士が自らの生活

    維持のためにこうした要求をかかげるとともに'この時'

    ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ(58)

    民間のいろいろな不便を数えあげへまず力役のことを言った。

    とされることである。市民の生活にかなりの理解と同情を持つ彼らは、市民の要求を先どりしたかたちで代蹄心ているの

    である。蘇州でも'兵士が市民の願望を先どりして改革したことを'思い合わせてもよいであろう。民奨が兵壁に廟尊さ

    たかたちで起った理由の

    Lつは、てこにある。

    このような要求をした兵奨主謀者二名は'翌朝三月三日'自ら縛して巡撫のところへ趣き'罪を待

    った。その措置とし

    て、兵士の主張を認め、ひとまず二人をゆるLtさらに五箇月分の食糧を輿えたうえに三箇月分の食糧まで前貸しするな

  • どの封策がとられた。兵愛はここにひとまず終息したのであるo

    「杭州兵奨起る」の知らせは'北京政府を驚博させた。なぜなら'すでに敷皮の兵壁を経験することによって'兵士の

    危険性と御Lがたさを、十分に認識していたからである。杭州兵壁が'同様な不満を抱える他の響兵に飛び火でもすれば'

    取り返しがつかないことになると考えられた。時の宰相張居正は'すでに南京兵奨鎮壁などの賓鏡をもつ張佳胤を鎮撫に

    抜擢した。この命をうけた彼は'急速杭州へ趣いたが、嘉興府崇徳麻まで至った時'「民襲績いて起る」

    の報を聞いたの

    である。この報に接した彼が'まず第

    一に問いただしたこと'それは'「響兵のうちで海上をパトロールする部分はすでに

    3艦i]

    出養したか」であり'そして'「留

    った皆兵は市民と合健していないか」であった.兵壁と民愛との結合'

    これこそ最も

    恐るべき事態だ

    ったのである。

    3池E

    民撃を-Iドした人物は、すでに幾度も紹介した丁仕卿であ

    った。彼は、杭州の平安里に借家住いし

    (脚-愉)'

    東里坊

    の社撃の数讃

    (塾の教師)をしていたが、もとは杭州から南東約八十キロ下った紹興府上虞願の人であった

    (㈲-仙)。上虞解

    では'「幼い時から畢業を習い、しばしば督撃使者をやりこめた」(㈲-5)といわれる。

    そしてまた、「民間で訴訟事件があ

    れば'必ず丁仕卿に相談した」(仙-3)ともいわれる.

    官憲をさしも恐れず'しかもなかなか頭の切れる人物であったに

    ちがいない。彼は郷里に容れられず、杭州へやってきて東里坊の塾の教師とな

    ったのだが'ここでもやはり訴訟事件があ

    るとしばしば勝訴にもちこみ'喧嘩があると仲に入って解決した

    (仙-愉他)。

    「杭州の人は多-子供を彼について勉強させ

    た」(仰Iは)ともいわれるから'よほど杭州市民の信望を集めていたのだろう。

    こうした市民の信蔵をえている'

    あるい

    は市民の代将者であるとの意識'これが彼の持唐的な活動を支えたであろうこと'想像にかた-ない。塾の教師が'間架

    明末の都市改革と杭州民奨

    二三七

  • 二三八

    税政改革や市民力役廃止といった大都市の市政を左右する提言をLtこの責現のために運動し、ともかくそれを賓現させ

    たこと、これは新しい時代を象徴的に示すものであ

    った。彼の活動は'彼に信頼をよせる市民'都市商工業の登展にとも

    って増大する市民の世論をバックにしてなされたものであ

    ったにちがいないのである。・

    また'彼自身が借家住いする

    1

    般市民の

    一人であ

    ったことも'改革運動に大きな意味を持つであろう0

    ところが、反改革派の策動は執劫であ

    った。工事監督

    ・夜巡塘雷の音更が改革に反封したことはすでに見たが、彼らに

    もまして市民力役廃止の反射に大きな力を持

    ったのは、郷紳ならびに杭州出身の中央官僚であ

    った。その反改革派の代表

    として'沈董

    ・沈稚父子を畢げることができる。

    (=)

    沈家が杭州の有力名家となったのは'沈童の父沈鑑が鴻膿寺序珪なる職を、おそらく買宮によって得てからのことらしい。

    沈重は願撃の生員となり、のち鴻艦署丞という官をえている。彼は進士となりえなか

    ったが、ついでその子沈椎が'嘉靖四十

    (62)

    四年(1五六五)に進士となった。彼は床束道監察御史

    (別史料では'湖筋道監察秘史)などを歴任したのち'常暦七年(1五七九)に官を

    やめて杭州に頗郷している。その年は'丁仕卿が市民夜巡力役廃止を永遠に停え'逆行を防止しようとして石碑を立てた翌

    V認乃

    々年にあたる。また父沈童は'子の沈椎が御史とな

    ったため'封典をうけている。すなわち'沈董父子はともに字義どおり

    「郷紳」であり'だからこそ

    〝郷大夫″や〝

    郷御史″と呼稲され'その言動は地方行政に大きな影響を輿えたのである。

    夜巡の力役をやっと廃止させながら'寓暦八年にまたまた市民による力役に愛東されたとき'丁仕卿は監司

    ・知府

    ・知

    願にすぐさま訴えでた。そして'市民の力役にすべきか、あるいは雇役でゆ-かの問題は'杭州府同知の呉日強に下され'

    事情聴取されることにな

    った。これに魔じて〝

    郷御史″

    沈椎は'雇役化を不可とし

    (㈲-3)'

    〝郷大夫″

    の沈重も

    「火甲

    (この場合'保甲による夜巡)をtやめてはいけない」といったという

    (㈲-矧).郷紳が自らの利害を地方行政に反映できる仕組

    みを'ここに明らかに見出すのである。寓暦八年に雇役から力役に逆もどりしたのはへ彼ら在地の郷紳暦の意見にもとづ

  • -ものであったと考えられる。

    地方官鹿に訴え出たところが、郷紬の塵力によって失敗した丁仕卿は、ついで北京

    へ走

    ってこれを論ずるOところが'

    ここでもまた

    「顕官」に欺かれて失敗するのである

    (仰-仙㈲)0

    北京で彼を欺いた顛官が誰か、諸史料は明らかにしない。ただ推測するとすれば'民襲時に丁仕卿に乗り込まれ'その

    家屋を焼打ちされてしまった陳三誤であったと見て、おそらく誤りではない。彼は沈椎と同じ-やはり嘉靖四十四年の進

    (64)

    士であ

    ったから'同郷同年及第の彼に対する沈硬らの働きかけがあ

    ったとも考えられよう。丁仕卿が北京

    へ上った寓暦八

    年頃といえば、更科都給事中から太常寺少卿に陛進した時にあたり、陳三講は得意の鱒頂にある

    「顧官」にはかならなか

    3誕r:

    った。彼を中心とした北京在住の杭州出身官僚が'杭州在住の郷紳と連絡をとりあい'丁仕卿の改革を阻止したと考えら

    れるのである。

    中央

    ・地方両地で'官僚

    ・郷紳の改革阻止にあい、失意の日々を遮

    っていたその時'兵士が反乱を起こした。兵士たち

    が反乱を起こすさまを見た彼は、次のように言

    ったという。

    「宮司は'われわれを手懐けやすいと思っているのだろうか

    (脚I仰)」。

    「皆兵は、月銅をすこしへらされるや'すぐさま巾をぬぎ腕ま-りして反乱したが'誰も何も言おうとしなかった。わ

    れわれは日夜辛苦しても、これまで升斗の給輿もなかったし'難や犬がやかましくても'おこられる

    (倒-㈲)」。

    兵壁を目のあたりに見た彼は、反乱した兵士たちにひき比べて見た、市民の境遇を不満としたo兵轡に飼豪されて'彼

    は市民を煽勤しはじめたのである.そして'最も恨みに思う沈董

    ・沈梗父子宅の焼打ちを計量する

    (㈲-異

    相-i).

    郷紳家屋焼打ち計蓋は'しかし事前に漏洩してしまう。沈根の家にこの計墓を告げる者があり'急いで所司に密告され

    る。か-て丁仕卿は逮捕され'杖たたきにあ

    ったうえで'手かせ足かせ首かせを荷わされ'市にさらし者にされてしまう

    明末の都市改革と抗州民襲

    二三九

  • のである

    (㈲-価仙)0

    彼は市民に呼びかける。

    「私が頗更

    (夜巡の役)のことを訴えたのは'もともと君たちのためにしたことだ。今'私だけを困苦させている。どう

    して君たちは'私のためになって-れないのか

    (脚-㈲)」.

    「私は君たちのために'蹟更のことを訴えた。私

    一人伽をはめられ筈うたれているのに'たえしのぶことが

    でき

    (㈲-㈹)」。

    これに呼廃したのであろう。市民の方も'

    「丁仕卿は自分たちのために罪をえたのだ。論じて救けなければならない(似Im)」。

    といい'数百人が

    1時に呼厳し'按院におしかけて丁仕卿を助けだLtついに民壁が勃畢したのである.

    (67)

    かつての

    「義行」の人は'ここに1樽して

    「大滑」'「坂民」'「最葉栗者」として諸史料に登場する.

    時に常暦十年四月二十九日'丁仕卿を救出した反乱市民は'群衆となって市内各所に建てられた巡警模

    (=更楳'物見やぐ

    ら)を打ち讐すとともに、最先に沈樵宅に走り'まずこれを焼打ちした

    (脚-仙・㈲-Iは)。この時の反乱参加者は千人であっ

    たといわれる。仁和知願陳良棟と鏡塘知願孫琉の二人は'急いで救助に赴いたが'かえって市民に包囲されてしまう。夜

    にな

    って二人は奨装し'やっとのことで脱出できたほどであ

    った

    (他-価)0

    夜に入って'反乱の勢いはいよいよ蛾んとなった。反乱市民はおのおの陰巷を占接し'郷紳の家から奪

    ってきた紅い嬬

    智を竿につけて旗をつ-り'

    1軒ごとに1燈を懸け'十軒ごとに1旗を挿すよう命じ'

    夜は白日の..Uと-煙いた

    (㈲-仰).

    市内は彼らの掌撞下におかれたのである。そして陳三読ら郷紳の家を焼きうちして同

    った。この時'富室で家を守ろうと

    するものは'みな丁仕卿を歓待する態度をとらねばならなかった。陳三謀の家や南京右通政となった馬三才の家では'料

  • 理人に命じて新鮮な肉を料理して丁仕卿を待ち'丁仕卿が至るや音楽附きで歓待Lt妻子は膝行して進みへ挽いて死罪を

    請うといった事態まで見られた

    (㈲-仙・仰-㈲).

    翌四月三十日'反乱市民は按察司へおしかけ'蔀廉使を擁して巡按察院に赴き'巡按御史張文県と倉見しようとした。

    この時'巡按察院の門が開いておらず'彼らは門を破

    って入った。巡按御史は増を破

    って腕出してしまっていたので、郵

    廉使を巡按察院の門におき去りにLt大家を掠奪Lにいった

    (脚-5)0

    五月

    1日、反乱に参加した市民は二千人となったo彼らは市塵

    ・門柵

    ・物見やぐらをほとんど望し去

    った

    (㈱-価)0

    この日'巡撫とな

    って兵襲鎮撫を命ぜられた張佳胤が'杭州城内にある巡撫都察院に到着した.夕暮れ時'反乱に参加

    した市民二千徐人が'巡撫都察院にむかい'その門前で諌いだ。張佳胤は接門を開き'教卒を従えたのみで眉輿に乗

    って

    門を出'望仙橋で市民と出合った

    (㈲-㈲・㈲-脚).

    ここで市民は張佳胤をとりかこみ'両者には次のような談判がかわさ

    れた。張佳胤はいう。

    「汝らには、必ず苦しむところと、大いに不平な事があるはずだ。それを言ってみなさい

    (墓誌銘)(仙-価)」.

    これに射して、丁仕卿を中心とした市民は次のように訴えた。

    「夜役に苦しんでいるんだ。有力者の家や'貴勢に凝りかかる家は'これを免れている

    (墓誌銀)。監司や府麻に訴えても、

    まるで耳が無いかのどとくだ.こうしたわけで不平なのだ

    (仙-

    仙)」。

    (的)

    「育吏が詐

    って賄賂をとり不公正だ。腰更に私事をはたらき'不法だ。上官に訴えたところが抑えられ、不平なのだ」。

    張佳胤はこれを聞き'

    「簡単なことだ。汝らの

    一時の憤瀞でも

    って'汝ら

    1家皆殺しにかえるなど'どうしてするのか

    (脚-㈲).

    汝らの不便

    わし

    は'す

    っかりわかった。ただちにこれを除去しよう。吾

    がこの場

    へやってきたのは、汝らの命を惜しみ'保全したいため

    明末の都市改革と杭州民襲

    二四

    1

  • 二四二

    わし

    おれ

    だ。--吾

    の言葉を聴きいれて解散したらへ首謀者のほかは

    7切問罪しない。そうでなければ'お前ら

    殺してみろ'

    おれ我

    は死を健れぬ人間だ

    (帆-㈹)」。

    と答え'解散を勧告した。

    張佳胤は市民の要求を賛施するよう誓

    ったため'市民はここに始めて散去した。しかし'

    1度反乱にたった市民は'も

    はや止まるところを知らなかった.そして'張佳胤の返答を信じない丁仕卿らの煽動が績いたらしいのである

    (㈲-佃)0

    夜に乗じて、反乱市民はまた諸々の亘室を大いに掠奪して同

    ったo城内では'火光が天を照らし'その騒音と巷で突き

    さけぶ聾とが'朝まで続いた。張佳胤はいそいで敏文をしたため'禍福をも

    って諭し、夜明け方に大通りにこれを布告し

    たが'市民はこれをとって裂きやぶり'ますます掠奪した

    (仙-㈲仰)0

    布告文まで破られた張佳胤は'もはや武力による鎮塵の他なしと考えた。民轡を静観していた先の反乱兵士の首謀者二

    人を呼びつけ'「なんじ'わがために部下を-1ドして反乱者を捕えよ。

    功なれば噴罪を論ずるどころか'御褒美までい

    ただけるぞ」と説きかける

    (仙-

    ㈲㈲)。

    かつて兵轡を指導し'自ら縛して巡撫をおもむき'罪を待

    った時には'馬文英

    楊廷用の二人は'死ぬ覚悟でいた。「棺と死装束を自分にあたえ'妻子に費用をやってくれ」tと兵士たちに告げたかつて

    3E51n

    の覚悟も'また

    「民間のいろいろな不便を数えあげた」市民への同情も'張佳胤の誘惑には勝てなかった。張佳胤は'最

    も恐れる市民と兵士との合流を阻止すると同時に'市民と兵士とを直接戦わせるのに成功したのである。

    五月二日'菜市橋'格家培、官巷口'章家橋など'ほとんど杭州市内全域にわたるところで市街戦が展開され'民壁は

    鎮塵される

    (凶Iq'タ杭州民襲関係地復元禦

    参照)。

    丁仕卿もふ-めた百五十徐人は捕えられ'

    五十線人はただちに斬具される

    (70)

    (

    也-仙

    ・脚-3!)

    。「大都骨中に掘起し'今度のように勝手放題にふるまった民壁は'かつて聞いたこともない」t

    といわれ

    た事件は'前後四日にしてここに終息したのである。

  • 民襲終息後'望仙橋で交した市民との約束をはたそうとしたのであろう。張佳胤はただちに践更の役を改め'間架税を

    〕i:=E

    罷めるといった

    1連の改革を賓施する.かつまた、これまで定海に設けられていた漸江練兵を杭州に移し'民奨鏡壁健制

    3耐n

    を固めていったのである。

    市民が反乱せねばならなか

    った動機と、反乱の過程で見せた行動は'以上ではぽ明らかにな

    ったであろう。それは二鮎

    に集約しうる。

    1つは'改革を阻止して彼らを苦しめる郷紳に封する反抗である。この動機から'郷紳ならびに富裕商人

    の家屋を'彼らは焼打ちしていった。あと

    一つは'国家に封して身健的自由を求めようとしたのである。このために、彼

    らを苦しめる物質的象徴であるところの巡警棲

    (-更棲)と柵門を'打ち崇していった.

    この二鮎は'国家支配と

    「郷紳支配」なるものに封する'

    1般市民の意識と行動を鮮明に表わすものであ

    ったO

    郷紳が'夜巡力役問題について地方行政に介入し、これを墾断するさまは'すでに沈董沈梗父子の言動に見た。

    一般市

    民はこうした動きに封Lt

    「貧しい市民を差役にあてるようにしたのは'陳

    ・柴

    ・沈各宮人の干渉によるものだ

    (脚ISi)」O

    との認識をもち'これにもとづいてそれぞれの家屋を焼打ちして同

    った。陳が陳三講であり'沈が沈董

    ・沈根父子である

    〕耐E

    ことは言うまでもない。柴は'嘉靖三十五年進士で南京監察細見などを歴任した柴群である。

    このほか'その家屋を焼打ちされた人物としては'美容と馬三才の名が判明する

    (㈲-仰).芙蓉は寓暦元年

    (一五七三)に

    (74)

    すでに郷試解元で拳人とな

    っており'十

    一年になると進士に及第している。十年頃までは'所謂士人として地方行政に介

    り脱E

    入しうる立場にいた。馬三才は嘉靖二十六年の進士で'太僕寺卿

    ・南京通政司着通政等を歴任ののち厨郷。轟郷後も郷紳

    明末の都市改革と杭州民奨

    二四三

  • 二四四

    として'地方行政に参蓋し'すでに見た間架税問題についても'寓暦六年

    (一五七八)に陳善とおのおの意見を提出してい

    る。彼は'宰相ともなった高供と婚姻関係を結び'その子馬魔華は高供の女をめとり'また高供の子も馬三才の女をめと

    るといった関係にあった。彼の家族は杭州市内の名家であったのである。

    ただ馬三才は八年

    (一五八〇)にすでに死亡して

    いるが'その子馬庶華が太学生とな

    ったり'高供の女をめとったりして'地方行政に相愛らず大きな影響力を行使したと

    考えられる。

    すなわち'名前が判明する沈

    ・陳

    ・柴

    ・莫

    ・馬の五家は'いずれも杭州の名望家であり'地方行政に参姦しうる立場に

    あった。この五家に象徴される郷紳で'焼打ちの封象とされた家は四十徐家にのぽったといわれ

    (岬-仰)'

    また

    「薦紳

    室でその筈を被らないものはなかった」といわれるほどであった

    (仰-㈲)0

    反乱市民は'このような明確な認識にもとずき'各郷紳家屋を個別的に的確に攻撃して同

    った。

    〝杭州民壁関係地復元

    圏″

    を見ていただきたい。焼打ちされた家屋のうち'莫沓

    ・沈樵

    (沈重)・馬三才

    (馬腹華)の家屋は'

    その位置を確認しう

    (76)る。莫香の家は'鏡塘麻界宮巷口の附近にあるが、馬三才の家は'それから約二キロ北方の貢院の西に位置している。ま

    た'馬三才の家と沈棟の家とは、虞大な貢院を問にはさむ形となっている。三郷紳の家屋は、それぞれ遠-隔たって位置

    していたのである。この国から見て、郷紳家屋の焼打ちは'目標を定め'個別的になされたものであ

    ったことがわかろう。

    それは軍なる延焼ではなかったのである。

    しかも興味深いのは、『寓暦杭州府志』を編纂したかの陳善の家屋についてである。陳善の家は'焼打ちされた美容の

    家の近蓮に位置していたにもかかわらず'焼打ちにあ

    っていないのである。陳善の家についてはと-に'民奨参加市民が

    (77)

    「その室を犯さないよう、お互いに戒めあ

    った」という。これから見ても'彼らは無批判に手嘗り次第に攻撃したのでは

    な-'目的意識的にきわめて整然とした統制の下に攻撃したに違いないのである。

  • (民国二年の地国をもとに

    『寓暦杭州府志』、『寓暦鎖解除志』等所載の圏と記事を参照して復元。なお駐防管城は、明代にはなかった。)

    明末の都市改革と抗州民奨

  • 二四六

    反乱市民は'郷紳のみならず商貫富民の家も焼打ちした。商貫富民は'軍に金持ちだからというのでな-'焼打ちされ

    ねばならぬ明白な理由があった。丁仕卿は反乱にあたって'次のような煽動を市民にしたといわれる。

    「商貫富民は'椅麗な着物を着てうまい物を食い'美姫を抱えて豪華な家に住み'力役は金の力で逃れている。諸君は

    借家住いしながら'間架税についても全-免除されない。長い夜を寒さに苦しみ'空

    っ腹を抱えて夜同りしている。こ

    れでは'商貢富民お抱えの奴僕にも及ばないではないか

    (㈲-5)」。

    富裕な商人の家を焼打ちしたのも'やはり無目的になされたことではなかったのである。すなわち'貧民の富民に封す

    1般的怨恨感情だけでな-'具健的力役負増について明らかな封立感情があ

    ったのである。また、こうした直接的

    ・具

    健的事例の外にも'富裕商人は、何かと地方行政機関に関係し、自らの便宜をはかってもらうべ-運動していた。たとえ

    ば、新安商人は'郷里微州と杭州とが地理的に近いために多数杭州に移り住んでおり'知府が同郷人であ

    ったりすると'

    Bl雌E

    非常な運動を展開したらしい。

    しかし'地方官府

    へのとり入りにもまして効果的な方策は'ほかならぬ郷紳

    へとり入ることであ

    った。なぜなら'地方

    行政の指針は'彼らの力でどのようにも動いたからである。杭州の人で嘉靖朝に生きた呉鼎は'その

    「士風を正すの議」

    で'次のようにその様を措窟している。

    いま'郷里にいる士大夫は、高宙厚緑をうけて官籍にあり'

    公府

    (地方官府)と封等な附きあいをしている。

    その片言

    によってどんなことでも生じ'彼らが利益を

    一人占めしても'これとあえてあらそおうとしない。彼らが暖か-すれ

    ば生きてゆけ、彼らが息をひと吹きすれば枯れ死んでしまう。官府に働きかけて訴訟をやめさせるともなれば'千両

    の賄賂をうけとり'す-な-てもそれは'数更の取り込みにあたるだけはある。--地方官としての位にある者は'

    私情にとらわれて人菊をとろうとし'かき乱されはしないかと畏れて問題にしない。あるいは'すこしでも抑制する

  • (79)

    と'士人らの論議が紛然とおこる。

    夜巡を銀納雇役化すれば'賄賂をとれな-なるので、丁仕卿の改革に反射した音更などは、呉鼎にいわせれば、淵

    おおもの

    すぎなかった。郷紳こそ地方行政を塾断Lへ賄賂を大いに取り込む鯨

    にはかならなかったのである。商人の唐致思なる

    人物が

    「寓金を携えて沈董宅の近傍におり'す

    っかり掠奪されつ-した

    (仰-㈲)」という記事は'郷神と富裕商人との関係

    を、暗示的に物語るものではな

    いだろうか。郷紳(-特種的都市住民)は、都市行政に介入することによってこれを聾断するとと(80

    )

    もに、他の非特権市民をもその支配下に置こうとする。

    「郷紳支配」なるものは'都市においても成立していたのである。

    ところで、こうした

    「郷紳支配」を'丁仕卿たちはどのように認識していたのであろうか。夜巡の役の雇募化を'沈董

    ・沈梗らによって阻止された時'彼は次のような見解を述べたと停えられる。

    「これは官の意志ではない。諸豪家が妨害することに'官はもとから困

    っている。

    私がやつらを撲

    って家を焚けば'官

    も聞いて菊持ちよかろうO私の言葉に従いなさい(㈲-燃し」。

    彼の認識によれば'地方官と郷紳とは

    一健ではな-'むしろ地方官は郷紬の地方行政墾断を苦苦し-思っている。自分

    たちが郷紳を除去する行動をとることは'かえって地方官も望むところであった。国家およびその行政末端と'自分たち

    との中間に介在する

    「郷紳支配」をとりのぞき'国家と

    一般市民が直接関係を持つべきだと'彼は考えたのである.つ

    り彼の

    「郷紳支配」批判は'

    一君常民の国家支配の論理に則ってなされたのであ

    った。杭州民愛は

    「郷官を恨む」を名目

    (=)

    としたと'『明賓録』にも記されている。杭州民愛を反郷紳民愛と規定しうるのも'

    そこにこうした論理と動機を見出す

    からである。

    杭州民轡には'これまでの

    「反官官民奨」の研究によって形づ-られた民襲像と'全-異質なものがある0

    1連の反官

    官民轡には、しばしば多くの士人が参加し'大商人も郷紳も、民轡に多-同情と賛意を示した.ところが'反郷紳民愛で

    明末の都市改革と杭州民襲

    二四七

  • 二四八

    は'大商人や郷紳こそが攻撃の封象であった。杭州民轡に射して'嘗時の知識人は他の

    一連の民壁に封して示したような

    同情と賛意を示さなかったのであり'むしろ逆に'民壁を見事に鏡塵した張佳胤を'口をきわめて馨めたたえたのである。

    これまで紹介した数多-の杭州民襲関係史料は'ほとんどそうした立場から書かれたものであるLtまた

    『督撫爾断定奨

    輿頒録』なるものが作成されたことのなかに'杭州民壁に封する杭州地方の士大夫の態度と'民壁鎖塵に封する彼らの喜

    (紹)

    びを'最も端的に見うるであろう。さらに、北京に在任していた杭州士民も'張佳胤の杭州鎮撫を聞き'非常な喜びを見

    (幻)

    (臥)

    せているのである。それは'杭州民壁が'「反郷紳支配」という鮮明な目的をもつ政治行動であったからであるo

    ところが'「郷紳支配」の排除によってもたらされるべき国家と市民との直接的関係は'反乱市民にとって'国家による

    人身的支配

    ・身健的拘束を意味するものでは、もちろんなかった。都市格役を磨止しようとする

    一連の都市運動は'