フェルナンド•タヴォラ研究...26-1 藤村 将史 1.はじめに...

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26-1 藤村 将史 1. はじめに 1-1. 研究の背景と目的 フェルナンド • タヴォラ (Fernando Távora, 1923-2005) は ア ル ヴ ァ ロ • シ ザ (Álvaro Siza, 1933-) の師であり、建築家として、また教育者とし て 20 世紀のポルトガル建築の発展に重要な貢献をし た人物である。タヴォラの功績のひとつに、全盛期 を迎えていたモダニズム建築に地域性を取り入れた ことが挙げられるが、建築史家ウィリアム • カーティ ス (William J. R. Curtis, 1948-) によると、それ は単なる地域主義ともいえず、またモダニズムから 乖離した teamX に属するとも言えない彼独自のスタ イルであった 1) 。本国ポルトガルにおいてタヴォラに 関する研究は多岐に渡るが、それらは個々の作品の 分析に終止するものが多く、その表現手法の変遷を 論じているものは未だ少ない。本稿ではタヴォラの 建築観の特異性に迫るにあたって、その作品に見ら れる「現代性」と「地域性」それぞれの表現手法に 焦点をあて、その変遷をたどる。そして、本来相反 するものであるそれらの融合がタヴォラの中でどの ように解消されていったのかについて、新たな考察 を得ることを目的とする。 1-2. 論文の構成と研究方法 本稿ではタヴォラの生涯を、1960 年の世界旅行の 前後で二つの時期に分けて考察する (2-1. 略歴参照 )。 ここで二期に分けて考察するのは、この世界旅行を 機にタヴォラの作風や建築観に変化が見られるから である。そこで、まず第2章において、当時の社会 背景を把握しつつ、その著書や国際的な活動、世界 旅行から、彼の生涯を追う。この際、世界旅行に関 しては彼の日本における活動に特に注目する。そし て、第3章で第Ⅰ期 (1923~1960) の、第4章で第Ⅱ 期 (1961~2005) の作品分析を行い、最後に第5章を 研究のまとめとして、総括する。 研究方法については、日本で得られる文献や情報 に加えて、ポルトガルにおける現地調査を実施し、 作品や展覧会 2) を訪れると同時に諸機関を利用して 資料収集を行い、分析を行った。 2. タヴォラの生涯 2-1. 略歴 2-2. 論説 『The Problem of the Portuguese House』 1945 年、タヴォラは 24 歳にして『The Problem of the Portuguese House( ポルトガルの住宅における 問題点 )』という論説を雑誌 Aléo において発表した。 このなかで彼はポルトガルの伝統的な住宅建築群のよ り正確で適切な調査の必要性を説き、そのルーツと特 性の歴史的な価値をモダニティのビジョンに統合し た「第三の手法」こそがポルトガルにおける現代建築 になると論じた 3) 。したがって、タヴォラは建築家と して活動を始めた当初から、当時のモダンムーブメン トの「現代性」にポルトガルの「地域性」 4) を融合さ せることに価値を見出していたと考えることができる であろう。その後、1955 年から 1960 年にかけて当 時のポルトガル建築家協会の主導の下「ポルトガル地 域建築調査」が実施され 5) 、1961 年には調査報告書 『Traditional Architecture in Portugal( ポ ル ト ガ ル における伝統建築)』 が出版された。 2-3. 国際的な活動 タヴォラは生涯を通じて建築分野の国際的な会議や 展示会に数多く参加しているが、ここでは特に 1950- 60 年代の CIAM や UIA における活動 6) に注目する。 このなかでタヴォラは各国を代表する建築家たちと交 フェルナンド • タヴォラ研究 - 現代性と地域性の融合による表現手法の変遷に関する考察 - 1923 2005 ポルトで生誕 ポルトの美術学校に入学 1941 兄とともに建築家としての活動を始める 1945 CIAM の第8回会議や UIA の第2回世界大会に参加 1951 1959 CIAM の第 11 回会議に参加 シザがタヴォラの事務所で働き始める (3 年間 ) 1955 死去 世界旅行 1960 1950 ポルトの美術学校を建築の専攻で卒業、後に教授となる 1947 論説『The Problem of the Portuguese House』を出版 1953-59 「VILA DA FEIRA MUNICIPAL MARKET」 1956-61 「QUINTA DA CONCEIÇÃO MUNICIPAL PARK AND TENNIS PAVILION」 調査報告書『Traditional Architecture in Portugal』を出版 1961 「VACATION HOUSE IN OFIR」 1957-58 ............................................................................................. ............................................................................................. 1962 論説『On the Organization of Space』を出版 「SANTA MARINHA DA COSTA POUSADA」 1975-84 「RUA NOVA HOUSE 1985-87 「SUMMER HOUSE AT BRITEIROS」 「RENOVATION OF THE OLD CITY COUNCIL」 1989-90 1993-03 1978 論説『Barredo: Operation of urban renewal』を出版 リスボンのベレン文化センターで大規模な回顧展が開催される 1993 「POLICE STATION GUIMARAES」 1988-93

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26-1

藤村 将史

1. はじめに1-1. 研究の背景と目的 フェルナンド • タヴォラ (Fernando Távora,1923-2005) は ア ル ヴ ァ ロ • シ ザ (Álvaro Siza, 1933-) の師であり、建築家として、また教育者として 20 世紀のポルトガル建築の発展に重要な貢献をした人物である。タヴォラの功績のひとつに、全盛期を迎えていたモダニズム建築に地域性を取り入れたことが挙げられるが、建築史家ウィリアム • カーティス (William J. R. Curtis, 1948-) によると、それは単なる地域主義ともいえず、またモダニズムから乖離した teamX に属するとも言えない彼独自のスタイルであった 1)。本国ポルトガルにおいてタヴォラに関する研究は多岐に渡るが、それらは個々の作品の分析に終止するものが多く、その表現手法の変遷を論じているものは未だ少ない。本稿ではタヴォラの建築観の特異性に迫るにあたって、その作品に見られる「現代性」と「地域性」それぞれの表現手法に焦点をあて、その変遷をたどる。そして、本来相反するものであるそれらの融合がタヴォラの中でどのように解消されていったのかについて、新たな考察を得ることを目的とする。1-2. 論文の構成と研究方法 本稿ではタヴォラの生涯を、1960 年の世界旅行の前後で二つの時期に分けて考察する (2-1. 略歴参照 )。ここで二期に分けて考察するのは、この世界旅行を機にタヴォラの作風や建築観に変化が見られるからである。そこで、まず第2章において、当時の社会背景を把握しつつ、その著書や国際的な活動、世界旅行から、彼の生涯を追う。この際、世界旅行に関しては彼の日本における活動に特に注目する。そして、第3章で第Ⅰ期 (1923~1960) の、第4章で第Ⅱ期 (1961~2005) の作品分析を行い、最後に第5章を研究のまとめとして、総括する。 研究方法については、日本で得られる文献や情報に加えて、ポルトガルにおける現地調査を実施し、作品や展覧会 2) を訪れると同時に諸機関を利用して資料収集を行い、分析を行った。

2. タヴォラの生涯2-1. 略歴

2-2. 論説 『The Problem of the Portuguese House』 1945 年、タヴォラは 24 歳にして『The Problem of the Portuguese House( ポルトガルの住宅における問題点 )』という論説を雑誌 Aléo において発表した。このなかで彼はポルトガルの伝統的な住宅建築群のより正確で適切な調査の必要性を説き、そのルーツと特性の歴史的な価値をモダニティのビジョンに統合した「第三の手法」こそがポルトガルにおける現代建築になると論じた 3)。したがって、タヴォラは建築家として活動を始めた当初から、当時のモダンムーブメントの「現代性」にポルトガルの「地域性」4) を融合させることに価値を見出していたと考えることができるであろう。その後、1955 年から 1960 年にかけて当時のポルトガル建築家協会の主導の下「ポルトガル地域建築調査」 が実施され 5)、1961 年には調査報告書

『Traditional Architecture in Portugal(ポルトガルにおける伝統建築)』 が出版された。2-3. 国際的な活動 タヴォラは生涯を通じて建築分野の国際的な会議や展示会に数多く参加しているが、ここでは特に 1950-60 年代の CIAM や UIA における活動 6) に注目する。このなかでタヴォラは各国を代表する建築家たちと交

フェルナンド • タヴォラ研究- 現代性と地域性の融合による表現手法の変遷に関する考察 -

1923

2005

ポルトで生誕

ポルトの美術学校に入学1941

兄とともに建築家としての活動を始める1945

CIAM の第8回会議や UIA の第2回世界大会に参加1951

1959 CIAM の第 11 回会議に参加

シザがタヴォラの事務所で働き始める (3 年間 )1955

死去

世界旅行1960

1950 ポルトの美術学校を建築の専攻で卒業、後に教授となる

1947 論説『The Problem of the Portuguese House』を出版

1953-59 「VILA DA FEIRA MUNICIPAL MARKET」

1956-61 「QUINTA DA CONCEIÇÃO MUNICIPAL PARK AND TENNIS PAVILION」

調査報告書『Traditional Architecture in Portugal』を出版1961

「VACATION HOUSE IN OFIR」1957-58

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1962 論説『On the Organization of Space』を出版

「SANTA MARINHA DA COSTA POUSADA」1975-84

「RUA NOVA HOUSE 」1985-87

「SUMMER HOUSE AT BRITEIROS」

「RENOVATION OF THE OLD CITY COUNCIL」

1989-90

1993-03

1978 論説『Barredo: Operation of urban renewal』を出版

リスボンのベレン文化センターで大規模な回顧展が開催される1993

期「POLICE STATION GUIMARAES」1988-93

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現代建築にとって重要性を持ってきたに違いない。」12)

このようにタヴォラは日本特有の建築や景観に関心を示しており、なかでも建物と庭園の一体感を高く評価している。また、桂離宮を当時の現代建築と結びつけて考えていることは興味深い。これらの体験がタヴォラの作品に与えた具体的な影響に関して次章以降で言及する。3. 作品分析 - 第Ⅰ期 (1923-1960)3-1.1950 年代初期の作品 タヴォラが建築家として活動を始めた頃に実現した作品には「THE FOZ DO DOURO BLOCK(1952-1954)」( 図2) と「 RAMALDE RESIDENTIAL UNITY(1952-1960)」( 図3) がある。前者は 19 世紀の住宅の改修プロジェクト、後者は 6000 人のための大規模な住宅プロジェクトであるが、両者ともコンクリート造の無装飾で平坦な面によって構成されており、その普遍的 • 機能主義的な様は、モダニズム建築の特徴と言える。とりわけ、前者に関しては伝統的な住宅の面影を排して改修がされており、タヴォラ自身も作品集において、「これは単なるひと

つの住宅のための解答というよりは、このタイプの区画に対する

スタンダードな解答のためのタイポロジーの探求である」13) と述べている。したがって、初期の作品においてタヴォラは自らが打ち出した「第三の手法」の実現よりも、モダニズム建築を持ち込むことでポルトガル建築の近代化を図ることを第一の目標としていたと考えられるだろう。

3-2.1950 年代中期以降の作品 この時期よりタヴォラは本格的に「第三の手法」を実践することとなる。ここではその理念が大きく反映されているものとして三作品を選定し、分析を行った( 表2)。まず、共通する設計手法として【素材の切り替え】が挙げられる。これは、コンクリートや鉄といった近代建築を象徴するような素材と、石や木、タイルなどの伝統的に用いられてきた素材を共存させる手法であり、多くの作品に確認することができる。この時期、多様な素材は建物を構成する要素を強調するように用いられており、その切り替えは明快である。ただ、素材の扱い方には作品ごとに変化が見られ、「VILA DA FEIRA MUNICIPAL MARKET」ではコンクリート造の構造体に従属するように仕上げ材としてタイルや石が

流をもち、自らも作品やその思想を発表する機会を与えられたが、それらの諸機関において中心人物となることはなかった。それは、この時期の国際的な活動の目的が、当時の建築界を牽引していた思想やその作品に学び、1933 年から 1974 年のあいだファシズム的な独裁政権下 7) にあり建築の近代化において後進的であったポルトガルの状況を打開することであったためと考えられる。実際、タヴォラはポルトガルにおいてモダニズム建築を実現したものの、生涯を通じて作品をポルトガル国外に残すことはなかった。2-4. 世界旅行 タヴォラは 1960 年の 2 月から6月にかけて、グルベキアン財団8)

の奨学金によって世界一周の旅に出ている。この旅の主な目的は建築分野の教育法と都市計画学についてアメリカの様々な機関や大学で学ぶことであったが、結果として 9 カ国 9) で多種多様な都市や建築物を歴訪しており、これらがタヴォラの建築観に与えた影響は多大であったと思われる。旅の詳細は多くのスケッチを伴う彼の日記 10) に記されており、ここから各地で目にしたものに対する彼の理解を窺い知ることができる。この旅の中で、タヴォラは 5 月 11 日から 28 日にかけての 18日間日本に滞在している。日本に訪れたきっかけはこの年に東京で開催された世界デザイン会議 11) に招待されたことであったが、その傍らで京都や奈良、日光において、伝統的な寺院建築を中心とした日本建築に精力的に訪れている ( 表 1 参照 )。日記を参照すると、各地で目にした日本人の生活様式を記すほかに、その町並みや訪れた寺院のスケッチを平面図や立面図なども交えながら詳細に描いていることがわかる ( 図1)。京都では東本願寺、龍安寺、東福寺、桂離宮などに訪れているが、なかでも桂離宮を目にして、タヴォラは次のように述べている。 「私が望んだとおり、それは希少なものであった。我々がもつ

ヨーロッパの宮殿の思想を全く含んでおらず、( 中略 ) 住宅と

庭全体に渡って素晴らしい魅力がある。これは庭に付加された

住宅ではなく、これ全体こそが桂離宮なのだ。桂離宮の発見は、

表1:タヴォラ来日時の日程

図 2:THE FOZ DO DOURO BLOCK 図 3:RAMALDE RESIDENTIAL UNITY

  図 1:スケッチの一例 ( 龍安寺 )

5月 12-19日

5月20日

5月21-27日

5月28日

日時 場所 内容

5月 11日 ホノルル→東京

東京→京都

京都•奈良

京都→バンコク

東京•日光

東本願寺 晴鴨楼 ( 旅館 ) 桂離宮東大寺南大門 春日大社 東福寺知恩院 二条城 龍安寺 

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世界デザイン会議 (WoDeCo) 晴海団地東京都庁舎 東京文化会館 浅草寺国立西洋美術館 日光東照宮

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用いられている程度であるが、「TENNIS PAVILION」になると、それぞれの素材は適材適所といったように役割を担っており、素材間で格差はなくそれらの扱いは対等となる。また、同作の花崗岩の柱 ( 図4) のように、「地域性」を表す素材が下端を床から離されることで浮遊感を演出し、同時に「現代性」も表現するといった手法も見受けられた 16)。次に、【周辺環境との一体化】も共通してみられる手法である。これに関連して、タヴォラは世界旅行を記した日記 10) において、「旅全体

を通して数千の建物を見たにも関わらず、建築単体で完結す

るものは見られなかった」と述べており、旅の中で訪れた建築物のランドスケープとの一体性を痛感している 17)。したがって、建築の近代化において建物を周辺環境と一体に考えることはタヴォラにとって必要不可欠なことであり、旅以前のこの時期より、作品においてすでにその理念を実践していたと考えられるだろう。そして、これら2つに加えて【合理的な構成】、【他文化の影響】といった表現手法が確認できた。前者はモダニズム建築の繁栄とともに生み出された新たな技術や手法によるものとみられるが、後者について、「TENNIS PAVILION」では、デ • ステイルやフランク • ロイド• ライトの影響が指摘されている 18) とともに、日本における体験の影響によって世界旅行の後に雨樋や手すり、周囲の敷石といったディテールに変更が加えられたことが確認されている 19)。これらに関連して、タヴォラは『The Problem of the Portuguese House』において、

「外国の建築を学ぶことによってポルトガル建築の特性が失わ

れることはない」20) と発言をしていることから、当時影響を受けた他国の建築文化について、その手法を自らの作品に積極的に取り入れる姿勢があったと考えられる。4. 作品分析 - 第Ⅱ期 (1961-2005) 管見ではその理由を示す文献は見当たらないが、世界旅行後タヴォラの仕事は改修のプロジェクトが大多数を占めるようになる。新築のプロジェクトには

「POLICE STATION (1988-1993)」( 図7) などがあるが、そこに以前の「地域性」を感じさせるような表現は見受けられない。そこで、ここでは改修のプロジェクトに絞り四作品を選定 21) して分析を行った ( 表3)。その結果、全てに共通して【既存部の提示】という手法が見受けられた。これは、改修の際に既存の構造物を部分的に表出させる手法であり、その見せ方にタヴォラの意図を見出せる。作品によって表出の仕方は多様であるが、壁などの建物を構成するひとつの要素の中に新旧の素材が混在していることが共通している。結果として、新たに挿入された部分に既存部を強調する役割を担わせることで、新旧の対比を演出している。タヴォラはこの手法に、見る人の内面に作用し、過去の

表 2:作品分析 ( 第Ⅰ期 )

名称

写真

特徴的な設計手法

VILA DA FEIRA MUNICIPAL MARKETフェイラの市営マーケット /1953-1959

TENNIS PAVILION OF THE QUINTA DA CONCEIÇÃOテニス•パヴィリオン /1956-1961

VACATION HOUSE IN OFIRオフィールの別荘 /1957-1958

[ 素材の切り替え ]建 物 の 構 成 要 素 を 際 立 て る よ う に 素 材 を 使 い 分け て お り、そ の 際 構 造 体 以 外 の 部 位 に は 石 積 みや タ イ ル 張 り と い っ た ポ ル ト ガ ル の 伝 統 的 な 建築物に見られる素材を使用している。[ 合理的な構成 ]50m×50m の敷地を 1m×1m のグリッドに分割し、Y 字型の構造体 ( コンクリート造 ) をひとつの ユ ニ ッ ト と し て 集 合 さ せ る こ と で プ ラ ン を 構成 し て い る。各 ユ ニ ッ ト は 壁 を た て た り ガ ラ スを 張 っ た り す る こ と で 必 要 に 応 じ て フ レ キ シ ブルに使用することができる。[ 周囲環境との一体化 ]Y 字型のユニットは多くの半屋外空間と中庭をつくりだしており、敷地の外部へとつながっている。こ れ ら は 市 場 と い う 機 能 を み た し つ つ、都 市 に人々が集まる場所を提供している 。

[ 素材の切り替え ]建物の構成要素ごとに、花崗岩、コンクリート、鉄、木、竹、タイルといった多様な素材が使い分けられている。それらは表面の仕上げではなく、適材適所といったようにそれぞれが役割を果たしている。[ 合理的な構成 ]コンクリート造の壁と梁 ( 軒桁 ) によって無柱空間をつくりだしている。[ 周囲環境との一体化 ]内 部 空 間 は 下 の テ ニ ス コ ー ト に 向 か っ て 完 全 に開 か れ て お り 公 園 と 一 体 化 し て い る。こ の 開 放感 は 浮 遊 感 を 伴 う 前 面 の 腰 壁 や 手 す り な ど の 部材によっ て強調されている。[ 他文化の影響 ]竹製の雨樋や手すり、周囲の敷石 ( 図5 ) には日本の伝統的な寺院建築の模倣が見てとれる。また、デ•ステイルやライトなどの影響も指摘することができる 。

[ 素材の切り替え ]白 色 の 壁 と 石 積 み の 壁 が 共 存 す る 中 に、コ ン クリート造の梁 ( 軒桁 ) や木造の小屋組、2色のタ イ ル で 仕 上 げ ら れ た 床 な ど を 確 認 す る こ と がで き る。ま た、屋 根 を 一 部 片 流 れ に す る こ と で角 度 に よ っ て 見 え る 素 材 が 異 な り、建 物 の 印 象に変化が生まれている。[ 周囲環境との一体化 ]建 物 を 構 成 す る 3 つ の ボ リ ュ ー ム の あ い だ に敷 石 が 敷 設 さ れ て お り 、 庭 の 環 境 を 内 部 に 引き 込 む 効 果 が 見 て と れ る 。 こ れ は 平 面 図 に おい て も 意 図 的 に 表 現 さ れ て い る ( 図 6 ) 。[ 他文化の影響 ]一部の窓にル•コルビュジエの、南東側の軒先の表 現 に は ア ルヴァ•ア ア ル ト の 影 響 が 見 て と れる 。ただし、軒先はポルトガルの気候に合わせて深く設定されていることも確認できる。14)

15)

左 図 4:「TENISS PAVILION」花崗岩の柱 中 図 5:「TENISS PAVILION」敷石 右 図 6:「VACATION HOUSE IN OFIR」平面図

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【註】1) 参考文献 [2].p26-37 の論説『memória e criação: o parque e o pavilhão de tênis de fernando távora na quinta da conceição 1956-60』より。 2)2012-13 年の展示会「FERNANDO TÁVORA MODERNIDADE PERMANENTE」 3) 参考文献 [1].p11-13/ 参考文献 [3].p30 より。 4) ここでいう「地域性」とは、単なる装飾ではなく、自然発生的 ( 土着的 ) なポルトガルの伝統的住居に見られるスタイルのことを示す。 5) タヴォラも調査チームで指導的な立場をとった一人であった。 6) 第8回から第 11 回までの CIAM や第2回、第3回の UIA 世界大会などに参加した。 7) エスタド・ノヴォ(Estado Novo) と呼ばれる長期独裁政権。 8) ポルトガルのリスボンにある、芸術、科学、教育などの助成を目的とする財団。 9) アメリカ、メキシコ、日本、中国、タイ、パキスタン、レバノン、エジプト、ギリシャに訪れている。 10) 参考文献 [5] 11) 日本初の国際デザイン会議であり、メタボリズム・グループが結成されたことで有名。 12) 参考文献 [5]TEXT EDITION.p335 より。 13) 参考文献 [1]p51 より。 14) 参考文献 [2]p26-37 より。ライトに関しては、特に Taliesin West の影響が指摘されている。 15) 窓には Le Corbusier の Chapelle Notre-Dame-du-Haut de Ronchamp、軒先の表現には Alvar Aalto の Maison Louis Carre の影響が見てとれる。 16) 参考文献 [2]p26-37 より。 17) 参考文献 [5]TEXT EDITION.p9 より。ここでは特に Frank Lloyd Wright の Taliesin West を賞讃している。 18) 参考文献 [2]p26-37 より。 19) 参考文献 [3]p44-46 より。雨樋や手すりは竹製のものが使用されている。20) 参考文献 [1]p27 より。 21) 参考文献 [1][2] によって図面 • 写真が揃い、かつ第Ⅱ期の設計理念が大きく反映されているものをこの時期の代表作とした。 22) 参考文献 [1][2][3] における第Ⅱ期各作品の解説より。

【図版出典】( 略歴 ) 筆者作成 ( 図 1) 参考文献 [5] より ( 図 2)( 図 3)( 図 6)( 図7) 参考文献 [1] より ( 図 4)( 図 5)( 図8) 筆者撮影 ( 表 1) 筆者作成 ( 表 2) 筆者作成 - 表中の写真について、『VACATION HOUSE IN OFIR』は参考文献 [3] より。他は筆者撮影 -( 表3) 筆者作成 - 表中の写真について、『SANTA MARINHA DA COSTA POUSADA』内観と『RENOVATION OF THE OLD CITY COUNCIL』のみ筆者撮影、他は参考文献 [1] より -

【 主 要 参 考 文 献 】[1]Luiz Trigueiros:『FERNANDO TÁVORA』、Editorial Blau,1993 [2]José António Bandeirinha:『FERNANDO TÁVORA MODERNIDADE PERMANENTE』,Matosinhos : Casa da Arquitectura, 2012 [3]Ana Barkeley Cotter『CASA EM PARDELHAS - O Desenho Fernando Távora na Arquitectura Popular』,Norprint -Artes Gráficas Sa,2013 [4]『OASE 92 codes and continuities』,nai010 Publishers,2014 [5]Fernando Távora:『FERNANDO TÁVORA “ON BORD” DIARY』,Associação Casa da Arquitectura,2012 [6]Mesquita,Ana Raquel da Costa:O melhor de dois mundos: a viagem do arquitecto Távora aos EUA e Japão - Diário 1960,2007 [7]『「家」とは何か―アルヴァロ・シザの原点』, 新建築社 ,2014 [8]『a+u 建築と都市』,1988.7 [9] 和田邦平:『桂離宮』, 保育社 ,1959 [10] 日本建築学会:『日本建築史図集』, 彰国社 ,2008

記憶を伝える機能を期待していたのではないだろうか。これは、彼が改修のプロジェクトに取りかかる際に過去の文献や図面を徹底的に調査していたことからも窺える 22)。また、一部の作品においては第Ⅰ期に引き続き、他文化に影響を受けたと思われる意匠が見受けられた。特に日本建築の影響が顕著であり、「RUA NOVA HOUSE」の内壁( 表3中 ) では下地窓の、「RENOVATION OF THE OLD CITY COUNCIL」の天井 ( 図8) では格天井の影響と思われる意匠を確認することができる。改修において、既存部の復元や強調に留まらず、新たな要素を付加していくこともこの時期の作品の特徴と言えるだろう。5. まとめ 以上、タヴォラの生涯を二期に分けてその作品を分析し、そこに潜む「現代性」と「地域性」について表現手法の考察を行った。第Ⅰ期の初期において、タヴォラはほぼ純粋なモダニズム建築を実践していたが、その後、建築の構造や構成において、「現代性」としてモダニズムの機能主義や合理主義論による新たな技術や手法を取り入れつつも、そこに素材の選定や、気候に合わせた形態の決定によって「地域性」を組み入れることで「第三の手法」を実現するようになった。それは当初、単なるポルトガルの伝統としての「地域性」が「現代性」に従属しているスタイルであったが、後に両者は対等に扱われるようになり、ひとつの建築物の中で互いに作用しあいながら “融和” するようになる。この

際、「地域性」の概念も当初のものに加えて他国の建築文化による手法を含めたものに変化している。その根底には、論説や調査を通じてポルトガルの伝統的な建築文化に価値を見出していたタヴォラならではの、世界各地で触れた建築文化を積極的に取り入れることで、ポルトガル独自の建築の近代化が達成されるという考えがあったと推測できるだろう。また、その近代化においては、建築物を周辺環境と一体に考えることもタヴォラにとっては不可欠であった。 第Ⅱ期においては、既存物件の改修プロジェクトが大多数を占めるが、そこで「地域性」の概念は主に既存の建物が伝える過去の記憶としての意味合いが大きくなっており、第Ⅰ期と同様に他文化の影響も見られるものの、既存の建物と新しい建物をどのように調和させるかという点に最も意識が集中しているように思われる。ここで、改修時に付加された新たな構造体や仕上げ材などで表現される「現代性」はあくまで既存の建物を際立たせ、過去への想起を促すために “対比” 的なものとして挿入されたと考えることができるだろう。結果として、第Ⅱ期の作品においては「地域性」を演出するために「現代性」が用いられたとらえることができ、ここに第Ⅰ期からの大きな表現手法の変化が見てとれる。このように、タヴォラは「地域性」の概念を変化させながら、さらに「現代性」と「地域性」の関係性を変化させながらも、ポルトガルの伝統的な建築文化への尊重を失うことなく、両者の共存を実現してきた。それゆえに、タヴォラは単一的な枠組みからでは捉えきれない独自の建築観を確立しつつ、ポルトガル建築の発展に多大な貢献を果たすことができたのだと考えられるのである。

名称

写真

SANTA MARINHA DA COSTA POUSADAギマライシュのポサーダ /1975-1984

RUA NOVA HOUEルア•ノヴァの住宅 /1985-1987

SUMMER HOUSE AT BRITEIROSブリテイロスの別荘 /1989-1990

RENOVATION OF THE OLD CITY COUNCIL旧市議会の改修 /1993-2003

上:外観左:[ 既存部の提示 ]白く塗られた壁の中に現れる既存の壁

上:[ 既存部の提示 ]白く塗られた壁の中に現れる既存の壁左:外観

上:[ 既存部の提示 ]外壁の中に混在する新旧の素材左:外観

上:[ 既存部の提示 ]壁の中に混在する新旧の石積み左:外観

表 3:作品分析 ( 第Ⅱ期 )

図 8:「RENOVATION OF THE OLD CITY COUNCIL」天井部

図 7:「POLICE STATION」