自己増殖する極小の「ナノロボット」をめぐる議論 · Web...

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新気象学(その四十二):レッドクリフ(赤壁の戦い)                             気象予報士 松岡賢也

序論:

平成19 年3 月7日、日本気象予報士会・静岡支部に「諸葛孔明とローカル気象学」という演題をメールで公表しました。 その後、平成21 年1 月31 日、日本気象予報士会・静岡支部会でパワーポイントを使用して「レッドクリフ(赤壁の戦い)と諸葛孔明の気象予報」として発表しました。ジョン・ウー監督の映画「レッドクリフ」PartⅠ 、Ⅱが大ヒットし、「レッドクリフ」ブームとなりました。日本気象予報士会・静岡支部長にこれを機にこの論文をまとめて「てんきすと」に投稿した方がよいとすすめられ、そのきになって発表することとなりました。ご笑覧ください。「三国志演義」は西遊記、水滸伝とともに中国三大奇書(金瓶梅を加ると中国四大奇書)といわれている。日本にて多くのフアンがいて実に95 パーセントの日本人が「三国志演義」を知っているという。「奇書」とは「世に稀なほど卓越した書物」という意で決して「あやしい書物」ということではない。しかしこれらの本は文化大革命時、あやしい本として禁書となり、長らく庶民が読むことを禁じられていた。 しかし文化大革命の終焉とともに次第に解禁となり再び、人気が出てきて京劇や芝居に取り上げられるようになった。

正史の「三国志」は3 世紀の中国でちん

陳じゅ

寿(最初、蜀の劉邦に仕えたが後に西晋に仕え

た)によって「三国志」と名づけられた事に由来する。この書は曹操が築いた魏の正当を示すため記された史書であるため魏の立場から歴史をみて、曹操の敗北を詳しくかく必要が無く、赤壁で戦いが行われ、曹操が黄蓋の火攻めで艦隊を失い、疫病の蔓延にて撤退した事を淡々と記述しているだけであった。その後、歴史書の「三国志」やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争

覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期にら

羅かんちゅう

貫 中らの手によって

「三国志演義」として成立した。「三国志(史書)」と「三国志演義」の違いは単に「三国志」と言う場合、本来陳寿が記した史書のことを指す。「三国志演義」とは、明代の白話小説であり、「三国志」を基としながらも説話本や雑劇から取り込まれた逸話や、また、おもしろおかしく描かれた娯楽性の強い小説に基づくものが多い。作者自身による創作が含まれている。三国時代の時代考証からみて不正確なものも多い。

現在一般的に普及しているのは清の初期に書かれたもうそうこう

毛宗崗版「三国志演義」である。

本来の「三国志演義」を相当改編し、  道教的色彩を除去していると考えられる。「レッドクリフ(PartⅡ )」が平成21 年4 月より上演されていますが、その中で随所に本来の「三国志演義」より変更されていて、ジョン・ウー監督の改訂版「三国志演義」となっているように思います。また史実に基づいて興味のある事実を指摘して

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諸兄の中国の歴史の理解を深めてもらうために改めて松岡版「三国志演義」を書いてみました。

● 諸葛孔明の多才:歴史の伝える諸葛孔明は2 世紀から3 世紀、中国・後漢末期から三国時代に活躍した

軍師です。非常に多才で色々のジャンルに才能を発揮していたと思われる。これは後世15 世紀から16 世紀にイタリアのルネサンス期に活躍した万能の天才という異名で知られる西洋のレオナルド・ダ・ヴィンチに相当する。レオナルドは小さい頃学校に行くことなく、引きこもり、数々の書物を読破し、どん欲に知識を吸収した。又自然界を鋭く観察しその動きを脳裏にたたき込んだ。その為、レオナルドは絵画、彫刻、建築、土木、医学および種々のジャンルに通じていた。筆者は諸葛孔明こそ東洋のレオナルド・ダ・ビンチと考えている。孔明は幼少より学校に行くことなく独学で沢山の書物に触れ、博学多才であった。多くのジャンルで活躍していた。詩や歴史、音曲、医学、獣医学、薬学等に造詣が深い一級の文化人であった。風流人・周瑜と琴の連弾をおこない、又武器では矢を連射可能な連弩を開発したり、その他天文学、紫微斗数(中国占星術)、易学、気学、風水学、奇門遁甲(方位学)、等の各種の方術・占術にも長けており、一種の超能力者(中国でいうところの特異功能)であったと思われている。今日でいうところの陰陽師の元祖といわれている。日本にもこの術は伝わり「魏志倭人伝」によると、馬邪台国卑弥呼は鬼道(道教による占術)で衆を惑わしたという。又壬辰の乱においても大海人皇子(後の天武天皇)は中国から伝わったこれらの秘術(特に奇門遁甲)を駆使して数々の超能力を使って天気の変化を予知し、味方の軍隊を勝利に導いたとされている。さらに平安時代の陰陽師・安部清明も数々の方術(特に陰陽道)をもちいて宮中を裏から支配し、藤原道長の独裁政治を助けたとされており、同様な超能力を持っていると考えられている。又戦国時代から江戸時代にかけ徳川家に仕えた初期の徳川幕府の宗教界の指南役の一人であった南光坊天海は幕府の永年の繁栄を願い、東北の方位「鬼門」に異常に気を遣って邪気が入らないようにこの方位に東叡山・上野寛永寺を、東北の反対側の「裏鬼門」に芝の増上寺(徳川家菩提寺)を大造営しています。天海和尚も数々の秘術に通じていたとされています。江戸は天海和尚の奇門遁甲によって結界となっていたと考えられます。日本の支配層が古代中国のように秘術を巧みに取り入れ人心の安定を図っていたかが分かります。

一方現代のローカル気象学の観点から見ると諸葛孔明は普段からこの地を散策し、四季において観察し、風の動き、雲の動き、山や河の地勢に通じ、観察による正確な科学的気象学の目を持っていたのではないかと考えられている。現在の我々気象予報士は数値予報による天気図、衛星画像、気象レーダー等を用いて前線の通過及び風向の変化を正確に時間単位で予想することができるが今から約1800 年前にこれらの近代兵器を持たない孔明が風向の変化を経験と五感(観天望気)で予知していた事が事実とするとたいへんな優秀な隠れ気象予報士とも考えられる。祈祷師のような行動は単なる表面上のパーフォーマンスに過ぎないとも考えられる。現在、オカルト学者孔明と科学者孔明の虚実両面の諸葛

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孔明観が浮かび上がってくるがどちらが正しいかは今後の研究によってもっと明らかになってくるものと考えられる。

● 諸葛孔明のもっている二面性及びジョン・ウー監督の合理的解釈:古来、中国では戦いにおいて合理的・戦略的な判断をもって行う「孫子」を重んじ

る「兵家」と「漢書」でいうところの易や星相等の道教的呪術を重んじる「兵陰陽家」があった。将軍の好みのよってどちらの軍師を徴用するかを決定していたようである。「三国志演義」の明代の著者は羅貫中であるとされる。「三国志演義」の初期は「兵陰陽家」として諸葛孔明の活躍が描かれている。その後時代とともにさまざまの版がでて昏迷状態であるが現在、多く流布している版は清の初期に書かれた毛宗崗版「三国志演義」である。時代の流れから道教的なものから儒教の影響が強くなり、儒教的歴史観から物語から荒唐無稽な作り話を出来るだけ削除し、史実に忠実にするために改編・加筆を繰り返したのである。そのため毛宗崗版「三国志演義」では「奇門遁甲天書」及び道教の協議及び秘術は削除されていった。さらに「レッドクリフ」

では一層合理化が進み、諸葛孔明が東風をよ

呼んだ「しゃく

借とうふう

東風」では呪術で風を呼んだ

のではなくこの地に起こる東風を自然現象としてすでに知っており、それは南東の方位におこる暖風と独特の黒雲の存在によって察知したとされる。則ち諸葛孔明は東風

をよ

読んだとされる。これが事実ならば諸葛孔明はローカル気象学に通じた優れた気象

予報士ということになる。ずっと現代的感覚にて「借東風」を捉えている。ここにおいて諸葛孔明はオカルト気象予報士から科学的気象予報士に進化したのである。

●の ろ し

狼煙:

 古くから敵の攻撃を知らせることなど、戦絡みの合図用に使われた。狼煙を上げるために、特に作られた施設を狼煙台といい、中国の万里の長城などにそれらしい遺構が残っている。モンゴルのチンギス・ハーンの帝国でも狼煙の連携による情報通信が行われていた。20 世紀以降、電気的な通信手段が発達し、実用で使われることはほとんどなくなった。狼煙そのものの起源は明確ではないが、言葉の由来は、煙が多くでる狼の糞を燃料したことがあったからとされる。しかし現代気象学的には下層大気の成層状態を知るのに結構役に立っている。事実、ローカル気象学的には煙のたなびき方によって逆転層、成層安定、成層不安定が分かる。これはかって気象予報士の学科試験に提出された。著者は新幹線にて上京する際、富士の製紙工場から立ち上る煙を参考にしてその日の成層の判断に活用している。又煙のたなびき方によっては高度による風速の変化がある程度察知できる一種のウィンドプロファイラーとしての働きをしているのではないかと著者は考えている。下層風の高度による又風向きによっては微妙な天気の変化を察知することが出来ると考えられる。ばかにならない気象情報の一つと考えている。諸葛孔明は昼間に拜風台にて祈祷の合

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間立ち上る煙の方向を観察し、風向の代わる兆しをいち早く察知しようとしていたのではないかと著者は考えている。

狼煙(古代のウィンドプロファイラー?)

● 天灯(孔明灯):天灯は軽い紙製の気球の下に蝋燭をつけ火をつけることによって空中にとばす。いわば熱気球の元祖である。三国時代に諸葛孔明が発明したと言われている。それ故「孔明灯」とも呼ばれる天灯は、軍事情報を友軍に伝えるためや、天に浮かべて星に似せることで、敵の軍師が作戦の根拠とする「星相」を狂わせる目的があった(当時の軍師は陰陽道に通じていたため星相によって軍事作戦を立てることが多かった)。それが後に民間に伝わり、死者を弔う行事に利用されたり、神に祈りを捧げる道具となったのである。現在も日本で行われる、お盆のときに川に流す灯籠もこの変形とも考えられる。

 

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   天灯(古代のレーウィンゾンデ?)

それ故、劉備・孫権連合軍の間で軍事情報のやりとりに活用したものと考えられる。又同時に昼の旗や狼煙にて地上及び下層風の風向及び風速を目視観察していた。夜も情報のやりとり以外に天灯をとばすことによって下層風の風向・風速をみていたと考えられる。いわば現在のレーウィン・ゾンデの元祖と考えられる。「レッドクリフ」では疫病で亡くなった多数の兵士の霊を弔う時に天灯を飛ばした。さらに赤壁の戦いの開始時、友軍への連絡に用いている。

● 諸葛孔明、風を呼ぶ(読む):赤壁は長江を挟んで烏林にある敵陣からみて南東にあり、冬においては北西風が卓

越している。ここにおいて火攻めを用いるには南東風がなければならない。このこと

は両陣営の軍師は理解していた。ここにおいて漢のじょうしょう

丞 相・曹操は赤壁において冬は

南東風が吹くことはないと確信していた。長江沿岸の地理・気象に詳しいさいぼう

蔡瑁及び

ちょう

張いん

充は荊州水軍を率いて曹操軍に参戦したが、周瑜の謀略で斬首された。そのため

曹操その他北方から来た重臣達は長江付近のローカル気象学に精通していなかった。一方、諸葛孔明は一冬に数回東風が吹くことを知っていた。問題はいつ吹くかの時期

であった。劉邦・孫権連合軍のと と く

都督・周瑜もこれといった妙策がなくノイローゼ状態

となって床に伏せっていた。ここで陰陽師・諸葛孔明はならい覚えた道教の方術「奇門遁甲天書」を用いて祈祷力によって東風を呼び寄せて見せますと大見得を切った。

そのため「なんべいざん

南屏山に祈祷のためのしちせいだん

七星壇を築いて結界を作ってください」と依頼した。

これらの「奇門遁甲天書」や道教オカルティズムは毛宗崗本「三国志演義」「七星壇にて諸葛風を祭る」には記載されていないとされる(自分は確認していない)。本来

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の「三国志演義」によれば古式にのとった祈祷の儀式が実際に行われたと思われる。兵陰陽家としての諸葛孔明孔は軍を動かすとき日本の平安朝の陰陽師・安倍晴明のように、その日の吉凶を定め、天体の方角に留意し(主に北斗七星の破軍星の方位)、天象・気候を観察して(今日でいう観天望気)鬼神の助力を得るという、きわめて呪術性の高い兵法を用いていた。  諸葛孔明は数々の兵法書をあらわし兵家としての評価が高いが「三国志演義」で繰り出される戦術はほとんどが兵家としてよりも兵陰陽家に属する兵法である。21 世紀の「レッドクリフ」では以下のように描いている。軍議にて「暖冬の折りに、東の空が黒い気に覆われ、太陽の輝きが気に隠れている、という現象が重なると、長江沿岸の山が険しく川幅の広い9 つの場所で穏やかな南東

の風であるりく

陸が起こる」と説明している。又曹操の水軍の将・さいぼう

蔡瑁も知っていたのだ

とされ、いわばこの事は常識的知識とされている。つまり諸葛孔明は人知を越えた超能力で風を呼んだのではなくあくまでも風が起こる場所を気候の観察から予測したとしたのである。これが事実とすれば以前から長江流域を散策し、ローカル気象学に精通した科学的気象予報士ということになる。すなわち呪術師として風を呼んだのではなく科学的気象予報士として風を読んだのであるとして表現している。諸葛孔明は周瑜に七星壇及び拜風台を実際に作らせこの上で怪しげな風を呼ぶ呪術

をやったのは歴史的事実で、その舞台装置が実在している。風を呼ぶためあらかじめ

「こ ふ う

呼風ふ

符」というお札をこの結界に貼っておいた。さらにかずかずの風を呼ぶ秘技を

実施した。

ここにおいて諸葛孔明がとったに似たポーズをとった。

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これは左手の中指の真ん中に親指を当てる(右図参照)。やってみると影絵の狐のポーズとなる。これは神をよぶポーズでありきわめて呪術的である。映画の中ではよく見ると中指の爪の上に親指の指腹を乗せて上から押さえて円形を作っている。これでは厳密な意味では発爐ではない。さらに発爐のあと結界という聖域を作り出すため

北斗七星の形に足を運ぶ。これはう

禹ほ

歩と呼ばれている。又上下の齒をカチカチと鳴ら

すこ う し

叩齒等の動作をする(悪霊を払うへき

僻じゃ

邪の儀式である)。事実京劇の「借東風」では

このような動作をする。

このように「三国志演義」の話は本来道教の呪術と密接な関係があるがジョン・ウー監督はこの映画ではそれらの動作を出さず、それとなくの動作を表現して極力、神秘主義的な道教の道術に深くふれないように努めているとお見かけする。これには後で述べる中国共産党の気功集団・法輪功への弾圧にみられるように現在の中国では唯物論を国是としているので道教のような神秘主義は好ましくないとする政治的背景が深く絡んでいるかもしれません。事実、最近まで外国人が道教の寺院を見学すると公安関係の人によって常時監視されていたのである。

● 長江の川霧の予報:

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川霧(大蛇のような雲が山麓より川面に漂っている)

川霧は蒸発霧または蒸気霧の代表的なものである。冷たい空気が暖かい川や湖の上に移動した際にみられる。風呂の湯気も原理は同じで、北海道などの川霧が代表的なもの。ここにおいては冬場、比較的に暖かい長江に周囲の山から冷たい空気が入り込んで発生したものと思われる。この発生時期において諸葛孔明は正確に予知し、わら人形を積み、わらで全体を覆った20 隻を水上に浮かべ敵陣に接近し、敵襲とみせかけた。敵水軍は雨あられと矢を放ち、全船を矢でハリネズミのようにする。三日以内に周瑜との約束通り10万本の弓矢を獲得するのである。有名な史実であるがいったい何の根拠を持って三日以内に霧の発生を予測したのであろうか?レッドクリフによると孔明はこの地をよく散策し、この地の気や水の流れ(風水と考えられる)、月・太陽・星々の運行によって天候の変化を知ると述べている。諸葛孔明は風水師、陰陽師としての感覚を持っていると考えられる。又亀の背中に結露していることによって湿度が高く、霧が近いことを述べている(これは現代気象学的感覚である)。さらに道教の方術である観天望気の一種である雲気をもって予測したとある。すなわち天の川に一筋の雲があたかも大蛇がうねるように現れてきたときその晩は霧が発生するという。一般気象学的には風が弱く、昼間天気が良くて夜、陸上で放射冷却にて冷えた空気が夜間、川面に流れ出し、川霧が発生すると考えられている。日本の戦国時代の川中島の合戦の時、八幡原に深い川霧が出ました。武田軍、上杉軍ともに、地元の地理や気象に詳しい人がいたため両軍ともこの霧の発生を予知した。結果的には謙信の作戦計画の方が、信玄のそれを上回っていた。赤壁の戦いでは曹操側は察知する能力にかけ、諸葛孔明だけが川霧を察知して作戦を成功させた。現在では諸葛孔明のような特殊能力をもった気象予報士は一人もいないと考えられる。その秘密は諸葛孔明が修行した道教の聖地・武当山(ぶとうさん)にあると筆者は考えている。

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武当山・紫宵宮

諸葛孔明は、風水の術も習得し特殊な能力(超能力)も持っていた人物ともいわれていますが、劉備に仕える前に彼が修行をしていたとされるのが世界文化遺産に指定されて

いるぶ

武とうさん

当山です。中華人民共和国 湖北省 十堰市 にある山で、山脈中には道観(道教 寺院 )

群がある。「玄天真武大帝」を奉っている。

陰陽図

陰陽図(ying-yang )は道教の自然観(宇宙及び自然はすべて陰陽からなり互いに変化を繰り返している)を示している。武当山は中国でも知られる「道教」の聖地のひとつです。陰陽の印でも知られる独特の世界は、後に中国武術の「太極拳」も生み出した発祥の地です。ここで、かつてこの山にいた道士の下で諸葛孔明は修行を積んだと考えられる。現在も50 年以上も山で暮らし修行をする道士の暮らしの中に諸葛孔明と通じる思いを感じる。近年、革命後の中華人民共和国で道教、儒教、仏教(中国三大宗教)の流れをくむ気功師が世に出て活躍していた。その中には色々の特異功能(日本では超能力と呼ばれる)を見せ物にする人たちが現れた。当時中国最強の超能力者(エスパー)として名高かった気功師・厳新老師(中国一の実力者・鄧小平の主治医で超能力気功によって治療に当

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たっていた)は念力で気象を変えられる(風を呼んだり、雨を降らせるとした)と豪語していた。中国東北区で大規模の山火事が発生したときに、北京より祈祷によって現地に雨を降らせ、鎮火させたと述べていたが、鎮火作業にて人民解放軍の兵士が何名か焼死して殉職していた。厳新の言動が不謹慎であるとして消火活動に関わり合った関係各位の激怒をかい、失脚の始まりとなったようである。その後、さらに中国各地で超能力によってお金を稼ぐ不心得な気功師が続出したため、次第に中国共産党ににらまれた。法輪功に至っては狂信的宗教団体として徹底的弾圧の対象になった。超能力ブームも姿を消し、その後の厳新老師の行方を知るものもいないが米国に逃亡したという噂を耳にしたことがある。今や中国においては口がさけても超能力で天気が変えられるということはいわない方がよい風潮である。

「レッドクリフ」においては道術による特殊能力をにおわせているが実際には現地のローカル気象学に通じていれば当日の気象条件を肌で感じれば予測不可能ではないと著者は考えている。 

平成19 年3 月7日、日本気象予報士会・静岡支部にて発表したパワーポイント版「レッドクリフ(赤壁の戦い)と諸葛孔明の気象予報」 の 内 容 に つ い て述 べ ま す 。

●レッドクリフ(赤壁の戦い)と諸葛孔明の気象予報:日本気象予報士会・静岡支部 松岡賢也

「レッドクリフ(PartⅠ )」のクライマックスは、亀の甲羅をヒントにした九宮八卦陣での戦です。甘興(中村獅童)の呉軍調練の様子を見た諸葛亮が白羽扇をかざし、その鶴翼の陣(川中島の合戦にて武田軍が用いた)がぴったりと合致しているのをわざとらしく確認したうえで、「不錯(すばらしい)、ただし時代遅れ」とのたまいます。同盟をお願いしにきたとは思えないほど無礼な態度です。しかし、陸上で曹操の軍とぶつかることが決まったとき、孔明は言います。「もっと古い陣形があります」と。そこで登場するのが九宮八卦陣。曹操軍は見事これにひっかかります。孔明が発明した陣みたいな解説になっていますが、これは古典的な陣形となっています。

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九宮八卦陣(円陣)         九宮八卦陣(方陣)

 「三国志」の中の「赤壁の戦い」の古戦場として有名になった赤壁は、当の湖北省には二カ所があります。一つは湖北省の蒲圻(現在は赤壁市と改名)の西にあり、後漢末期の208年、曹操と、孫権・劉備の連合軍が実際に闘った場所です。もう一つは宋代の詩人蘇軾( そしょく) (東坡)が作った韻文「赤壁賦(ふ)」で有名な黄州(湖北省黄岡県)赤壁です。 1082 年、蘇軾が流罪地黄州の長江に舟を浮かべて赤壁で遊び、「前赤壁賦」と「後赤壁賦」を詠った。ここは戦場ではなかったため、人々は黄州赤壁を「文赤壁(詩文の赤壁)」と呼ばれ、「武赤壁(戦いのあった赤壁)」蒲圻赤壁とを区別しました。

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赤壁摩崖石刻

 赤壁の遺跡は三山から構成しています。つまり せきへきざん

赤壁山、なんべいざん

南屏山、きんらんざん

金鸞山。その中に多

くの所の名所があって、たとえば赤壁摩崖(懸崖)、拜風台(武侯宮 )、鳳雛庵と翼江亭 などがあります。これらの名所の距離は遠くありません。

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208年新暦12 月、曹操の兵約20 万と2千隻の軍船を従えた水軍、計80 万の大軍が長江を下り始める。東は孫権・劉邦連合軍の水軍約5万が対抗。決戦の場として孫権・劉邦連合軍は赤壁に陣取った。曹操の大船団は、川岸を埋め尽くすほどひしめき合っていた。これを見た孫権・劉邦連合軍は曹操軍に火を放って焼き尽くすことができないかと考えたが、風向きという問題があった。

 曹操軍は川の北西側の烏林に陣取る。その船団に火をかけるには、南東の風が吹かなければならないが、冬の長江流域に吹くのは北西の風。これでは風向きが逆で火をかけることができない。火をかける前に曹操軍が動き出せば敗北する。孫権・劉邦連合軍は焦る。周瑜は曹操軍を火攻めで滅ぼそうと考えていたのですが、南東の風が吹かない限り、敵の陣地を燃やすことはできないと悩んでいたのです。周瑜は諸葛孔明に何か策があるのかと尋ねました。

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「三国志演義」では、諸葛孔明は国益のためのみに呉を利用し、周瑜は孔明の才能を嫉妬し、最後まで孔明に心を許すことはなかったとしている。しかし「レッドクリフ」では「知謀にたけた諸葛孔明と周瑜は互いにライバル意識をもって対立しながらも奇妙な友情によって心を通わしていたとする解釈をしている。周瑜夫妻は戦いの終了後、手塩にかけた愛馬を諸葛孔明に送り、この馬を戦場にかり出さないように依頼し、お互いに戦場で戦いたくないと願うのであった。」しかし現実は過酷でその後、劉備の蜀と孫権の呉は荊州の帰属をめぐって激しく争うのである。諸葛孔明と周瑜は再び敵対関係になる。赤壁では知略で貢献した策士・諸葛孔明よりも実際に軍を動かした勝利した劉備・孫権連合軍の総司令官(都督)の周瑜の武功を高く評価していて、いまだに尊敬の念を抱いているようである。そのため赤壁には巨大な周瑜の立像が建設されている。

そこで孔明は自分が風雨を呼びそれを操る法術を心得ていると答え、東漢建安13 年( 西暦208年) 旧暦11 月20 日(甲子の日)新暦12 月7 日(二十四節気の大雪の日)に南東の風を吹かせると約束。この甲子の日は奇門遁甲では大事な意味を持っていて60周する干支のはじまりで物事の変化の兆しを表していた。周瑜は驚愕しながらも、孔明に

言われるままに南屏山(なんべいざん-漢音、なんびょうざん-呉音)にしちせいだん

七星壇を築かせ

ます。そして孔明はこの壇に上がり、風を呼ぶ祈祷を始めたのです。

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七星壇

連日、大勢の将兵の見守る中でこのような儀式を続けた。すると不思議な事に新暦12 月のある日、赤壁の地に忽然として南東の風が吹いた。皆は唖然とし、あらためて孔明の超能力に畏敬の念を抱いた。この機を逃さず、孫権・劉邦連合軍は直ちに油をたっぷりしみこませたわらを積んだ10 隻ほどの船を出す。これに火をつけ敵陣につっこみ、二千隻の船団を火だるまにした。

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● 赤壁の戦いの天文学的な検討:「レッドクリフ」では曹操軍は呪術師による魔よけの儀式の後、長江に死体を流す。

劉備・孫権連合軍は疫病で死んだ兵隊の死体を集め、手厚く葬っている。その日、日中は皆既日食となっている。これはその後、劉備・孫権軍の陣営に疫病が流行するという不吉なことが起こることを暗示している。道教占星術では日食、月食は不吉な出来事を表しているためと考えられる。しかしこれを天文学的に検索すると赤壁(北緯29°51′ 、東経113°38′ の地点)では赤壁の戦い(西暦208年12 月7 日)より前の西暦208年は10 月27 日に部分日食が起こるのみである。時期的にも合わないため皆既日食は演出効果を高めるためのジョン・ウー監督の創作と考えている。

紀元208年10 月27 日13 時31 分、赤壁にて部分日食がおこった。

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赤壁の戦いが開始される一日前、こよなく酒と詩を愛する風流人・曹操は並みいる武将の前で赤壁の戦いの勝利を確信し、みんなを鼓舞するため、名酒を飲み、ほろ酔い機嫌で月を愛でながら以下の自作の朗読します。

 酒に対しては当に歌うべし人生 幾何ぞ 譬えれば朝露の如し去る日は苦(はなは)だ多し 慨して当に以って慷すべし幽思忘れ難し 何を持って憂いを解かん唯だ杜康有るのみ

 青青たる子が衿悠悠たる我が心 但だ君の為の故に沈吟して今に至る ゆうゆうと鹿鳴き 野の苹を食らう 我に嘉賓有らば瑟を鼓し笙を吹かん

 明明たること月の如し何れの時にかとるべき 憂いは中より来たり断絶す可からず 陌を越え阡を度(わた)り枉げて用いて相存す 契闊談讌して心に旧恩を念(おも)う

 月明らかにして星稀なり烏鵲南へ飛ぶ 樹を繞ること三匝何れの枝にか依る可き 山は高きを厭わず海は深きを厭わず 周公は哺を吐きて天下心を帰したり

 西暦208年12 月7 日赤壁の戦い(月齢11.9 )

新暦、西暦208年12 月7 日(甲子の日、24 節気では大雪)いよいよ合戦がはじまります。「レッドクリフ」ではほぼ満月に近い月を映し出していました。天文学的には映画の通りほぼ満月に近い月であった。合戦はこのようにほぼ満月下にておこなわれ、翌日

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の日中にも激戦が続き、夕方までには決着がついたようである。 

新暦208年11 月20 日は甲子の日ではない。

新暦208年12 月7 日が甲子の日となる。

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209年1 月に甲子の日はみあたらない。

筆者は万年暦より、西暦208年11 月20 日甲子の日は旧暦で、新暦208年12 月7日甲子の日にあたり、南東風が吹いたのはこの日にあたると推定した。この日の真夜中に突然風向が変わったとする。「レッドクリフPartⅡ 」では丑の刻(夜1 時~3 時)に変化したとされる。もしそうなら厳密には7~8 日にかけての真夜中に急な風向きの変化があったとされる。

しかしここで一つの矛盾が生じている。それは「レッドクリフ」では冬至の日にみんなで餅を食べて祝っている。古代中国では冬至の日に餅を食べて一家の団らんに楽しむ習慣があったそうである(日本では冬至の日にカボチャを食べる習慣がある)。ここでは奥さんが失踪して気落ちしている周瑜にみんなで餅を一個ずつ与えて家族意識をもり立てている。周瑜ももらった餅を無理矢理、全部口に入れた。出陣前団子をみんなで食べた記述は「三国志演義」にはない。これはジョン・ウー監督の創作と考えられる。しかも208年の冬至は12 月21 日である。則ち赤壁の戦い以後に出陣の餅を食べたことになり、このシナリオには矛盾がある。

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拜風台(武侯宮)紀元1610 年に建立された。

果たして旧暦11 月20 日(新暦12 月7 日)甲子の日、突如激しい南東の風が赤壁一帯を吹き荒れ始めたのです。孔明は旧暦11 月になると、この辺り一帯に数日間だけ南東の風が吹くことを、天文学から学び得ていたのでした。

 孫権・劉邦連合軍はこの時に備えて一部の兵が降伏するというニセの情報を流していた。近づいてくる船を曹操軍は降伏するものだと手を出さずにいたが、これらの船にはわらを満載した船がつながれていた。孫権・劉邦連合軍は川の中頃でわらに火をかけると、ヒモを切り解き放つ。炎の固まりとなった船は曹操の船団に突入。曹操は「連環の計」にはまり、あらかじめ舟の揺れを防ぐために鎖でお互いに結びつけてあったため曹操軍の船は身動きがとれぬまま折からの南東の風に吹かれ燃え上がる。曹操軍は大打撃を受け北に敗走する。全国統一を目前にしていた曹操の野望は頓挫した。劉備は221年蜀を建国し、ここに魏・呉・蜀の三国鼎立を迎えた。

しかし諸葛孔明が方術を用いて冬の赤壁においける風向を北西から南東に変えたという話はながらく、作り話と思われていたが、最近新たなローカル気象学から見直されることになる。 赤壁市近郷の地方気象台によると、この付近では真冬でも南東の風が吹くことがあるという。長江の北から冷たい風が吹く時、南に温かい空気の固まりがあると激しい対流が起こり風向きが変わる。もし、長江の南側で暖かい日が続けばそれは南東の風が吹く兆しとなる。

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 孔明は南東の風が吹くと予測の上で、風を呼ぶ儀式を行ない、超能力があるかのように見せかけたのではないか?との憶測を呼んでいる。

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 諸葛孔明は夜、北斗七星を観察し季節の変わり目を察知し、昼間の狼煙は現在で言うウィンドプロファイラーの役目をし 、上空の風の変化を読みとったと考えられる。

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諸葛孔明は20 代前半で結婚しています。相手は、荊州の名士・黄承元の娘です。 この娘は有名なブスだったようで、誰も嫁の貰い手が無かったのを、孔明が引き取ったのでした。その当時、「♪孔明の嫁取りだけは、絶対に見習うなよ♪」という戯れ歌が流行したと言われています。それ以来、不器量な娘を娶ることを孔明の嫁選びと呼ぶようになった。それくらい酷い面相の女性だったようです。 しかし皮肉なことに中国史で美人(美女)を妻又は愛人にした多くの皇帝、将軍は国を滅ぼし、一族は死に絶えた。美女におぼれて政治をおろそかにしたり、美女獲得のため不必要な戦いをする事が多かったためである。曹操も初恋の人でその後周瑜に嫁いだ美女の獲得のために赤壁の戦いをしたといわれている。「三国志演義」で活躍した英雄達の子孫はほとんど絶えてしまった。諸葛孔明の慧眼は的中した。不美人の妻の「内助の功」に助けられ、子孫達にめぐまれた。一族は後世、戦乱から逃れるため長江下流の諸葛鎮に移住し、諸葛八卦村を作り現在も繁栄している。

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八卦盤(後天の八卦と太極図)

 諸葛八卦村は八卦盤を模して造られている。町の中心に太極をイメージした池があり、その周囲に八卦に相当する位置に八つの代表的建築物が、さらにその外側には八つの山がありこれらはいわば僻邪のための結界を形成し、外敵から守っているとされている。現在も多くの諸葛孔明一族が生活している。

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易と気象学: 中国の古典にある易の概念は萬物の流転、変化を表している。このことは気象の世界で千変万化の現象をうまく表現しているものと考えられる。 太極(たいきょく、タイチー)とは、「易」の生成論において陰陽思想と結合して宇宙の根源として重視された概念である。一般には太極拳のロゴマークでよく使われている。太極は万物の根源であり、ここから陰陽の二元が生ずるとする。

「易に太極あり、これ兩儀( 陰陽のこと)を生じ、両儀は四象(太陽・少陰・少陽・太陰を生じ)、四象は八卦(乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤)を生ず。八卦は吉凶を定め吉凶は大業を生ず」といったように易の八卦の生成過程、ひいては天地万物の生成論を示すものであった。この事から自然現象である気象の世界も易の理論を当てはめていた。先天の八卦では震(雷)、巽(風)、坎(水)、離(火)として気象現象を表している。

 このようにして古代中国では道士やその他の仙術に通じた人たちによって天気占いが行われていたと思われる。当然、諸葛孔明も同様のテクニックに通じていたものと思われる。

先天図:伏義が河図より作ったといわれる,天の気が地に向かって下降し,地の気が天に向かって上昇し,その両者が大気中にて交わり,その力によって万物が育成するという天地自然の本質の図。後天の図:文王後天八卦方位。周の文王が先天の図より作った天地自然の変化活動の図。

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乾:大体晴れ。夏は夕立があったり、冬なら厳しい寒さに襲われることがある。兌:いまにも雨が降り出しそうな曇り離:晴れ。夏には干ばつのことがある。震:晴れ。夏には夕立があり雷を伴うことがあります。巽:風の吹く日で、曇っても雨は降らない。但し、春から秋にかけては、強風を伴う雨  が降ることがある。坎:雨又は雪。時には雨が降りそうな曇り艮:曇りですが雨は降りません。長雨の時でしたら雨がやんで晴れることがあります。坤:大体曇り

 古代では易家は算木や筮竹を用い天気予報をしたと思われる。観天望気をしたり星の運行を参考にしたりしても相当はずれたと思われる。あたるも八卦、あたらぬも八卦と言い訳に徹していたと思われる。「レッドクリフ」では易の八卦を布陣(九宮八卦陣)に用いたり、又亀の甲羅を参考にして盾を並べて亀甲の陣形をとっている(亀甲陣ともいうべきか)。「レッドクリフ」では所々に亀を登場させているが亀の甲羅が亀卜や気学等の占いの原点となっている事のヒントとなっていることを示している。

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陰陽太極図と気象学:

太極図(陰陽魚太極図 )             

右二つ巴(高気圧性循環)            左二つ巴(低気圧性循環)

温帯低気圧の推移

発生期       発達期・最盛期   衰弱期(閉塞期)       

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 赤壁の戦いと星相:又道家の人は天象の変化をみるに星の運行を参考にしたと思われる。ここに諸葛孔明

が参考したと思われる南東風が吹いた日の北斗七星を示す。

赤壁における北天(西暦208年12 月7 日黄昏時、午後7時頃)破軍星の位置より旧暦11 月であることがわかる。(北斗七星と季節の巡り(斗建)、旧暦及び二十四節気参

照)

古来中国では北極星の柄の部分の一番下の7番目を破軍星と呼んでいて、この方向に敵陣があるときには戦を仕掛けない方がよいとされた。負けるというジンクスがあるためである。これは当時の軍師にとって周知の事実であった。しかし黄昏時の斗建(破軍星の指し示す方向は)一年ですこしずつ変化し。季節の移り変わりを知るのに大切な指標となっていた。諸葛孔明はこれも風の変化を知る参考にしていた可能性がある。これにあやか

るため七星壇のうえでう

禹ほ

歩という北斗七星の形にステップを踏む。これは現在、子供達が

遊びに使うケンケンパーのようなものであったかも知れない。

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北斗七星と季節の巡り(斗建)、旧暦及び二十四節気  

天蓋の外から観察          地上より北天を観察

著者は諸葛孔明の祈祷師のような行動は単なる表面上のパーフォーマンスに過ぎないと考えている。現在、オカルト学者孔明と科学者孔明の虚実両面の諸葛孔明像が浮かび上がってくるがどちらが正しいかは今後の研究によってもっと明らかになってくるものと考えられる。現在「レッドクリフPartⅠ 、PartⅡ 」によって三国志ブームが巻き起こっています。赤壁を始め三国志ゆかりの遺跡には日本からたくさんの観光客が押し寄せることが予想されます。日本の気象予報士も興味を持ち現地を訪れると思います。「三国志演義」にて町おこしをしているようです。それによって観光業関係の人や現地の人は潤うと思います。 しかし今後、赤壁市近郷の地方気象台(又は測候所、アメダス等にて)での気象学的研

究がすすみ、科学的データの蓄積によって「諸葛孔明の超能力で風を呼んだ」事の実態があきらかになる可能性がある。諸葛孔明の神秘的超能力のファンにはやや期待はずれになるかもしれません。観光業等現地の人にとっては古代中国の歴史ロマンを楽しませてくれる神秘的な諸葛孔明であった方が良いのかもしれません。ハムレット風に表現すれば;

諸葛孔明はオカルト気象予報士か、科学的気象予報士かそれが問題だ!!

備考: 1) 苦肉の策:

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赤壁の戦いに突入するきっかけになった黄蓋の「苦肉の策」です。周瑜が先陣を誰にするか迷っているとき、黄蓋になら先陣を任せられると信じ、苦肉の策を実行することを決めます。次の作戦会議の時に、黄蓋はわざと周瑜の作戦に逆らいます。これにより、黄蓋は怒った周瑜から100たたきの刑にあい、全身血まみれ、傷だらけとなる。そして、黄蓋は脱走して曹操に降伏したいとの手紙を出します。このとき、孫権軍に潜入していた曹操軍のスパイがこの状況を伝え、黄蓋の降伏は本物だという連絡をしてきた。曹操は黄蓋の手紙を信用する。そして、曹操軍に攻め入る日、黄蓋は降伏と偽って渡河しているとき、長江の半ばにさしかかったとき油をしみこませたわらをつんだ船10 艘に火をつけ曹操軍につっこんでいきました。警戒していなかった曹操軍は黄蓋が放った火により水軍を焼き払われてしまいます。これにより勢いに乗った孫権軍は、80 万と言われた曹操軍をうち破りました。この「苦肉の策」は、孫家3代に仕えた黄蓋だからこそできる策でしょう。しかしこの軍事上重要な出来事を何故か「レッドクリフ」では周瑜は100たたきの刑のようにむごい仕打ちを老将軍に実施することが出来ようかと否定している。そうすると「苦肉の策」という言葉が生まれなかったことになり史実と矛盾する。

2)連環の計:

「三国志演義」では、軍師・ほう

龐とう

統の策とされます。それまで野にいたが赤壁の戦いの直

前、周瑜に招かれ、呉陣営にいました。龐統は曹操の船団を一挙に焼き払うべく軍船を鎖で連結し、身動きを取れなくするという策を周瑜へ進言しました。周瑜はこの計を採用た。龐統は周瑜の陣営にスパイにやって来た蒋幹をうまく欺いて曹操の軍営に潜り込み、曹操と面会して北方人の弱点である船酔い対策として船同士を鎖で繋げることを進言したのである。曹操はこの進言を聞き入れ軍船同士を鎖で連結させました。かくして、諸葛亮が南東の風を起こし連結していた曹操軍の船は焼き払われてしまいました。これが「連環の計」です。「レッドクリフ」では荊州水軍の将軍・蔡瑁と荊州の指導のもと鎖ではなく木製のくさびで船同志を連結し、有事の際は切り離すことができるとしていた。水軍の軍事訓練において盛んに切り離しの訓練を積んでいた。これでは簡単に切り離しができて、各船が容易にばらばらになりって逃げ出すことができ、思ったようには火攻めの効果がでなかった可能性がある。やはり史実は鎖でつないだ「連環の計」ではなかったかと思われる。

3)諸葛孔明とほう

龐とう

統:

臥りょう

龍ほう

鳳すい

雛又はふく

伏りょう

龍ほう

鳳すい

雛とは諸葛孔明(臥龍、伏龍)と龐統(ほうしげん

龐士元、鳳雛)のこ

とを表す。才能がありながら機会に恵まれず、力を発揮できない者のたとえ。機会を得ず、まだ世に隠れているすぐれた人物のたとえ。また、将来が期待される若者のたとえとしても用いる。伏竜は伏し隠れている竜。鳳雛は鳳おおとりのひな。諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3 度諸葛亮の家に足を

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運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。 しかし、別の文献「襄陽記」には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「臥龍」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統を薦めたという話が載る。ここでどっちを選ぶか迷ったすえ諸葛孔明を訪ねたとある。その後、龐統は縁あって呉の将軍・周瑜に軍師として仕えることとなり赤壁の戦いにて連環の計を進言し、曹操軍の軍船を鎖で結び、黄蓋の苦肉の策による火攻めと諸葛孔明の祈祷による借東風によって水軍を全滅に追いやった。軍師として諸葛孔明に劣らない重要な実績をあげている。「レッドクリフ」では孫権軍の軍師・龐統の功績に一言もふれていない。

後に龐統は運命のいたずら?で劉邦に仕えることとなるが不手際で一時失職するが周

囲の取りなしで再就職し、蜀の建国に活躍する。龐統は劉備軍の成都攻略の前にらく

雒を包囲

したが、この包囲戦の最中、龐統は流れ矢に当たって死去した。享年 36 才(一説では38 才)であった。諸葛孔明と龐統は日本において戦国時代「羽柴の両兵衛」といわれた羽柴秀吉を支えた名軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛の関係に似ていて劉邦を知略にて支えていた。奇しくも名軍師・竹中半兵衛も龐統と同じ36 才の若さで戦場にて肺の病気(肺炎か肺結核)で死んだ。

4)曹操の敗走: 「レッドクリフ」では戦いの終焉部で曹操、孫権、周瑜、劉備、関羽、張飛と主人公が一堂に顔を合わせ、曹操、周瑜がお互いに差し違えるかのような緊張状態におかれる。周瑜は「この戦いに勝者はいない」と曹操に故郷に帰るように促して釈放する。これはジョン・ウーの創作で事実は異なると思う。このような劇的なシーンはなく、曹操は一部の部下と戦場より敗走するさいに関羽に捕まる。かって孔明は曹操に恩義を感じている関羽を逃亡先に配置して情に負けてわざと逃がすことにする。それはもし曹操を殺してしまうと魏の力が低下し、結果的に呉の孫権の力が増大し蜀の脅威になることを恐れた孔明の深謀遠慮であった。曹操の逃亡によって孔明の天下三分の計が実現し魏、呉、蜀の三国鼎立となった。しかし曹操が手放した荊州の所属をめぐって、蜀と呉の争いが激化し関羽はその戦場で死亡する皮肉な運命が待っているのである。

5)名医華佗(後漢末;109?-207?):曹操は頭痛持ちであった。今でいう片頭痛か?主治医として華佗は戦場である赤壁にか

り出されていた。又軍医として戦場で働いていたが疫病がはやり、これ以上戦いを続けるのは無理であるから、一時戦争を延期して兵の回復を待った方が良いと曹操に進言するが、聞き入れられず一層病気が広がった。今でいう消化器伝染病(赤痢、疫痢、チブス、感染性大腸炎等)又は重症の船酔いが考えられるが診るところ厥陰病のような重症状態の患者が多かった。此を薬草を用いて治療していた。薬も不足していたようにお見受けした。 病人を無理に戦場に駆り立て、ますます病気が広がるのをみて曹操の患者に対する態度が無慈悲にみえて華佗はとうとうあいそをつかして、故郷に帰ってしまった。華佗は非常な名医ですでに全身麻酔による開腹手術に成功していて民間では神医との評判をとっていた。

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その評判を聴いた曹操は御殿医として召し出し、持病であった頭痛の治療に当たらせていた。しかし、華佗は社会的地位が低く見積もられていて自分が士大夫(科挙 官僚 ・地主・文人の三者を兼ね備えた者)として待遇されず、医者としてしか見られないことを不満に思っていた(当時、医者の社会的地位は低かった)。そこで、帰郷の念も手伝って、医書を取りにゆくといって故郷に戻って二度と曹操のもとに戻ってこようとはしなかった。 そのため、曹操はこれに怒って華佗を投獄し、家臣の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまった。一説には頭痛の治療に開頭手術を申し出たが曹操の怒りにふれて斬首された。曹操は名医で頭痛を治せる唯一の人物であった華佗を殺してしまったこと、またそのことにより庶子ながらその才気煥発な面を愛していた曹沖を治療することができず夭折させてしまったことを、後々まで後悔したと言われている。

なお、「レッドクリフ」でも曹操が望郷の念と故郷に残した病弱な愛息・曹沖のことを心に残しながら振り切って戦に臨んでいることを述べ、病にふせた兵士の心を奮い立たせるシーンがある。又赤壁の戦いで詠ったとされる詩は、同時期の曹沖の死を嘆く曹操の心情を模写していたという指摘もある。

曹操は今日でいうところの典型的なモンスター・ペイシェントであった。これ以後、中国の医者は足の速い馬を競って買い求め、診ている高貴な人の容態が悪化した時には後難を恐れ、いち早く馬に乗って国外に脱出したという。半日前(馬によっては1 日前?)に逃亡すれば追っ手を振り切って隣国に脱出できたと思われる。日本では狭い国土であるため馬を使って逃亡してもすぐ追っ手に捕まるためにこの手は有効でないと思われる。原南陽、浅田宗伯等の大名家、皇室の御殿医は治療がうまくいかなかった場合は責任をとって自刃するため常時、懐に短剣を隠し持って診察におもむいたとされる。

華佗は世界で初めて全身麻酔による外科手術を成功させていた。用いた麻沸散と言われる全身麻酔のやり方はいまだ不明である。しかし、彼により影響を受けた華岡清洲は通仙散を用いて全身麻酔を実施し乳癌の摘出で有名である。日本とアメリカの医学書には世界ではじめて全身麻酔下の手術に成功したのは華岡青洲ということになっている。又華佗は五禽戲という気功の演技が気功家に伝えられている。針灸では背部に華佗穴がありいまだ利用されている。又華佗の作成した華佗膏という軟膏はいまだに薬局にて売られ命脈をたもっている。

6)美女(周瑜夫人)と醜女(孔明夫人):                    「三国志演義」では、二喬は、喬玄の娘で「江東の二喬」と呼ばれており、姉は大喬、

妹は小喬と呼ばれ、二人とも地元では評判の美人姉妹であった。姉の大喬は孫策(孫権の兄)の妻となり、妹の小喬を周瑜の妻になった。一方、諸葛孔明の妻は荊州の名士・黄承元の娘であった。この娘は地元では有名なブスで、誰も嫁の貰い手が無かったのを諸般の事情からやむなく孔明が引き取った。孔明のようにはなるなと冷やかしの歌がはやり孔明の嫁取りと世間から揶揄された。しかし歴史は皮肉なもので美女を嫁にした孫策と周瑜の

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呉の一族は皆、死に絶えて後世に種を残すことはなかった。一方諸葛孔明の一族は長江を下り、江東の地に諸葛村を作った。易の秘術によって結界を作り、戦乱の世から一族を守った。その後、長らく生き残ってたくさんの子孫を残した。まさに多子多宝である。

7)中国の「お茶を一杯」と京都の「お茶を一杯」: 「レッドクリフ」では周瑜夫人の小喬が単身曹操の陣に乗り込み、これから戦陣に臨もうとする曹操にお茶を一杯飲んでいきなさいと引き留める。このため曹操は大事な戦機を逸し、北西風が南東風に変化したため敗戦に追い込まれる。敗戦の将・曹操は「一杯のお茶と風」で戦いに破れたと語っている。小喬の策と孔明の術によってやられたと反省をしているのである。げに恐ろしきは美人の「お茶を一杯」である。日本でも似たような言葉がある。京都の「お茶を一杯」である。古都・京都はかって公家や武家の諸勢力の入り乱れた戦乱の地であった。俗にいう「武家は刀で人を斬り、公家は陰謀で人を斬る」という状態であった。このために京都の人は後難を恐れてすぐかえってほしい好ましからざる人にも本心を明かすことなく「一杯のお茶」を勧めるのであった。その心情を察して辞退するのが行儀作法となっていた。あとでその不作法を揶揄されることが多かったので、京都以外の人(特に礼儀作法に疎い関東の人)は「京都のお茶を一杯」という言葉は警戒しなくてはならないという教訓となっていた(現在でも?)。断った方が身のためということを知っていたからである。しかし小喬が単身曹操の陣営に乗り込んでお茶を点てた、中国版「お茶を一杯」は本来の「三国志演義」になくジョン・ウー監督のオリジナルによる創作の可能性もあります。これによって物語りがさらにおもしろくなったのは事実です。ジョン・ウー監督は京都の「お茶を一杯」の故事を知って利用したのかもしれません(松岡説)。8)風林火山: 「レッドクリフ」で周瑜の剣舞のシーンで登場する中国の兵法である。戦国時代、織田信長が圧倒的大軍の今川義元に無謀とも思える戦いを挑む前、舞を一差し舞い、決死の覚悟を表現していた。それと同じように周瑜も圧倒的多数の曹操軍を前にして、絶望的とも思われた戦いにおける勝利を祈って風林火山の舞を一差し舞った。「風林火山」は日本では武田信玄の旗印となって、武田軍の軍略と考えられている。しかし本来、「風林火山」は、中国古代の兵法家・孫武の記した「孫子軍争篇第七」の一節から取ったものです。現在我々が読んでいる「孫子の兵法」は軍略家・曹操が注釈をつけてまとめたものです。「レッドクリフ」では「風」「林」「火」「山」にさらに「陰」と「雷」が続いている。孫子の中で風林火山がある節は、主に敵軍を攻撃したり、敵地に侵攻する場合を想定した部分ですが、次のような9つの文章のなかで4 文章のなかで「風」「林」「火」「山」の4 文字の言葉が連なっています。「レッドクリフ」ではさらに「陰」と「雷」を追加し6 文字になって舞っている。

 其疾如風 其のはや

疾きこと風の如く、

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 其徐如林 其のしず

徐かなること林の如く、

 侵掠如火 しん

侵りゃく

掠 すること火の如く、

不動如山 うご

動かざること山の如く、

難知如陰 知りがた

難きことかげ

陰の如く、(かげ

陰のように敵にこちらの状況を知られないよう

              にする)

 動如雷震 動くこと雷のふる

震うが如し。(動く時は雷鳴が鳴り渡るように猛烈果敢、

     一気に激しくせめる。)

掠郷分衆郷 きょう

郷 をかす

拮めてしゅう

衆 を分かち、(偽りの進路を敵に指示するには部隊を分

けて進ませ、)

廓地分利 地をひろ

廓めて利を分かち、(占領地を拡大するときは要地を分守させ、)

懸権而動 けん

権をか

懸けて動く、(権謀をめぐらせつつ機動する)

先知迂直之計者勝 ま

先ずう

迂ちょく

直 の計を知るものは勝つ、(迂回路を直進の近道に変え

る手を敵に先んじて察知するのは、

此軍爭之法也  こ

此れぐんそう

軍争の法なり。(これこそが軍争の方法なのである。)

曹操軍の矢10 万本をもって曹操軍を攻撃し、劉備・孫権連合軍の軍師・諸葛孔明

が曹操が注釈をくわえた「孫子の兵法」をもって曹操軍を敗退させた。まさに「まめ

豆がら

殻をも

って豆を煮る」であった。

8 )美人(美女)と戦争:

世界三大美人:クレオパトラ7 世

ヘレン又は小野小町

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楊貴妃

世界四大美人 :上記三名にオーストリア皇后エリーザベートを加える。

中国四大美人: 西施(春秋時代)

虞美人(秦末)又は貂蝉(後漢)

王昭君(漢)又は卓文君(漢)

楊貴妃(唐)

日本では世界三大美人ではヘレンの代わりに小野小町が入れることが多い。基本的には、歴史の流れを彼女たち自身の男性を魅了する力で変えたことが、「美人」たる所以となっている。実際にはクレオパトラ7 世は「絶世の美女」というほどの美貌ではなかったと考えられており、同様に楊貴妃も太っていたと考えられる逸話があるなど、映画やテレビで見られる美人女優とは異なっていたという指摘もある。此が事実ならクレオパトラも楊貴妃も男心を惑わす妖術ともいえるテクニックに通じていたと思われる。いずれにしてもこれら美女は戦争と政治的混乱の火種となっていて、一般市民にとっては災いの種になっている事が多い。事実これらの美女は革命や、戦乱にて殺されたり、自殺することが多かった。

トロイア戦争:紀元前1200 年中期、エーゲ海を挟んで2つの勢力があった。トロイ、もう一つはギ

リシャのミュケーナイ。2つの国は長年争いを続けてきたがやがて和平が結ばれ、トロイから2人の王子、ヘクトールとパリスが使者としてギリシアに遣わされた。そこでパリスはスパルタ王メネラオスの妃ヘレンと恋に落ち、彼女と手に手をとってトロイへと駆け落ちした。ヘレンを取り返すため(本当のところは仇敵トロイを征服するという野望のために)アガメムノン王は兵士10 万と船1168 隻からなるギリシア軍を率いてトロイに向かう。ここで10 年以上のトロイア戦争が起こるのである。ヘレンは千艘の船を繰り出させた美人とされた。この故事以来、西洋では美女の美人度の指標として動員された船の数で表す習慣が生まれた。

アクティウムの海戦:                             紀紀元前31 年9 月にローマ軍のオクタウィアヌス支持派とエジプト軍のプトレマイオス朝及びマルクス・アントニウス支持派連合軍の間で行われた海戦である。海戦の

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名は戦場がイオニア海のアクティウム(現ギリシャ共和国 プンタ )沖であったことによる。

オクタウィアヌス派:軍船 400隻 軍団兵 16,000  弓兵 3,000アントニウス派:軍船 230隻 軍団兵 20,000  弓兵 2,000

兵員の数ではアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていたが、両軍が少し交戦した時点でクレオパトラの艦隊が戦線を離脱し、アントニウスはこれを追って撤退したため、指揮官を失ったアントニウス軍は陸海ともに総崩れとなって潰走、オクタウィアヌスの勝利となった。

赤壁の戦い:曹操軍 軍船 2000 隻 軍団兵80 万劉備・孫権 軍船 数不明 軍団兵5 万

ここで各時代の大戦争でかり出された軍船の数はまとめると

トロイのヘレン:船千艘の美人クレオパトラ:両軍あわせて船六百艘の美人小喬:船二千艘の美人

これから単純に数学的に計算すると小喬は世界三大美人、中国四大美人に入っていないがヘレンやクレオパトラをしのぐ超美人ということになる。小喬は曹操がはじめての茶席で小喬のたてたお茶を味わったとき見初めた初恋の人となった。さらに人妻になった小

喬を忘れることが出来ず、小喬に容貌が似ていてお茶をた

点てるのが上手な女性をそばにはべ

らせるが、小喬をあきらめきれず思いが募り、さらに呉に対する領土的野心もあって

2000 雙もの軍船をかり出したものと考えられる。しかし先に述べたように小喬のた

点てた

「一杯のお茶」が大いなる災いとなり、敗戦の一因となった。

9 )尚香と点穴:「レッドクリフPartⅠ 」では尚香が女性ながら武勇にたけ、自ら女性だけの軍隊を結成し、敵曹操軍の先発隊を陸上で悩ませる。この女性は中国武術(ウシュー)の名人で、指さきにて敵の急所をつき瞬時に失神させる秘術を心得ていた。これは中国武術(ウシュー)の

極意でてん

点けつ

穴とよばれている。点穴は、中国の大衆小説である、武侠小説においてよく用い

られる言葉で、全身に存在する特定の経穴を衝いて、経脈を遮断する技である。内力の循環を止め、各種の身体機能を封じたり、命を奪う作用がある。主に攻撃や止血、毒が回る

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のを防ぐために用いられる。機能を回復させる場合は、再び経穴を衝く。中国武術に伝承される点穴はほぼ人体の急所に当たる箇所と重なる。尚香の用いた穴は頚部であった。又「レッドクリフPartⅡ 」ではかって友人であった敵兵士の蘇生のために鼻の下の経穴(人

中)を指圧し、一時蘇生させるのに成功している。日本では古来この秘術をみ っ か

三日ご

殺しとか

ひゃくにち

百 日ごろ

殺しと呼ばれ、一部の武術の達人のみに伝えられる秘術といわれている。

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