中国に追放された マラヤ華僑 - Project...

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257 中国に追放された マラヤ華僑 補論

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中国に追放されたマラヤ華僑

補論

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1 序論

 かつてのマラヤ華僑で中国に送還(追放)されたか、または自発的に帰国した人々は、中国各地で自分たちの社団を組織してきた。1980年代初頭から、彼らは香港で自分たちの回想録を出版し始めた1)。2009年に、広州、海南、深圳、珠海、香港にある彼らの社団は、成員の略歴集を出版している2)。2年後に、五つの社団(広

東の汕頭、梅州、恵州、中山市、広西の南寧)が加わり第二巻(続集)が刊行された3)。各巻の帰国者の人数は264ページの表に掲げた(第一巻が479人、第二巻が212人)。 新たに建国された中華人民共和国への追放の初期に帰国華僑聯誼会は、マラヤ華僑を迫害した英国植民地当局を非難する本を出版している4)。そこにも多数の追放者の名が掲げられている。 英国側の資料によると、1948年12月6日から1953年3月10日までにマラヤから追放された華僑の合計は24,036人である5)。他方、中国側の資料によると、1948年6月から1950年8月までのマラヤからの追放者は3万5千人以上である6)。最後の、すなわち第38次の追放者は1963年に「輸送」されている。したがって、合計は今述べた数字をはるかに上回るはずである。とすれば、名簿に名前が載っている人物は氷山の一角にすぎないことになる。 帰国華僑聯誼会(ROCFA)の1951年(?)の資料と『帰国華僑人名録』(以下では人

名録と称す)2009年、2011年版のいずれにも登場するのは下記の人々である。

 1950年12月19日に、英帝国主義を糾弾する大衆集会が潮陽で開かれた。

鄭桂玉の経験 1949年3月10日に、私はムアールから10マイル離れたカンプン・パ

Malayan Chinese Who were Deported to China

Hara Fujio

Former Malayan Chinese who either were repatriated (deported) or spontaneously

returned to China organized their associations in various places in China. From

the early 1980s, they began to publish their memoir in Hong Kong. In 2009,

their associations in Guangzhou, Hainan, Shenzhen (深圳), zhuhai (珠海) and

Hong Kong published a collected brief curriculum vitae of the members. Two

years later, 5 associations (Swatou=Shantou 汕头, Mei Zhou 梅州, Hui Zhou 惠

州, Zhong Shan City 中山市 of Guangdong and Nan Ning 南宁 of Guangxi 广西)

joined them to publish the second volume. Number of the returnees listed in both

volumes is shown on Table 4 (in Vol.1, 479 persons and in Vol.2, 212 persons).

In the earliest stage of deportation to newly established People’s Republic of

China, the Returned Overseas Chinese Friendship Association published a book to

accuse British colonial authorities who persecuted Chinese in Malaya. Dozens of

deportees’ names are recorded there also.

According to a British source, total number of Chinese deportees from Malaya

between 6 December 1948 and 10 March 1953 was 24,036. On the other hand,

according to a Chinese source, Malayan deportees from June 1948 to August 1950

was more than 35,000. The last batch, i.e., 38th, of the deportees were ‘shipped’

in 1963. Accordingly, total number should be much more than these figures.

Therefore, these listed persons are just the tip of the iceberg.

Abstract

原 不二夫

補論 中国に追放されたマラヤ華僑

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20世紀アジアの国際関係とインドネシア華人の移動 補論 中国に追放されたマラヤ華僑

1942年12月に民運に参加し、次いでマラヤ人民抗日軍(MPAJA)の第

5支隊に加わった。戦後は三民主義青年団の郡責任者を殺害したと讒訴

され逮捕。無罪とされるもタイピン刑務所に収監。1947年8月に秘密

裏に厦門に追放され国民党当局に引き渡される。刑務所で激しい拷問を

受ける。1949年12月の厦門解放時に釈放。警察、公安、運輸事務所に

配属。1986年に離休を認められる[人名録 , Vol. 1: 212-213]。

陳振洪の記録 福建省仙游人。1917年トゥルク・アンソン(現トゥルク・インタン)生

まれ。日本の降伏後にトゥルク・アンソン人民委員会の文化局長となる。

1946年に中国民主同盟トゥルク・アンソン町支部書記に。1946年か

ら1948年まで『民声報』、『怡保日報』、『現代日報』、『南僑日報』紙トゥ

ルク・アンソン記者。1945年から1948年までペラ写作人協会執行委員。

1948年6月21日に逮捕、1949年9月に追放。広州の中学校で勤務。

離休を認められる[人名録 , Vol. 1: 159]。

 英国国立文書館のファイル FO.371/92374には、広州の聯合報1951年7月5日付の抜粋記事の翻訳が収められている8)。このファイルは多くの追放者に言及している。そのうち3名が『人名録』にも登場する。前日6月28日に広州に到着したマラヤから中国への第8次帰国華僑に関する簡潔なコメントに続き、同紙がマラヤにおける英帝国主義者の残虐性について述べるなかで、この記事は下記の3名の名を挙げている[FC 1821/115 of FO 371/92374]。

 クアラルンプールの商人Ko O-yaoとその妻Li Hsueh-meiは、マラヤ解

放軍(引用者注:この記事の前の箇所ではマラヤ人民解放軍について触れ

ている。正式な名称はマラヤ民族解放軍である)兵士が彼らの自宅周辺で

目撃されたという理由で英軍により逮捕された。Li Hsueh-meiは残忍に

も8回にわたり、血を吐くまで殴打を受けた。彼女は自殺を試みてのど

を切ったが救助され収容所に送られた。Ko O-yaoは尋問中に服をすべて

脱がされ、8時間にわたり氷の上に座るよう強いられた結果、深刻な健

康障害が生じた。

シールに着きました。友人の家で、私は残忍な兵士たちに取り囲まれま

した。12人の残忍な兵士たちは、私を地面に押し倒し、私が失神するま

で暴行しました。そのあとで彼らは私を拷問しました。今でも全身が激

しく痛みます[ROCFA : 4-7]。

 59年後に彼女は次のように記録されている。

 1924年にジョホールのムアールで生まれる。日本による占領期に、

マラヤ共産党(MCP)指導下の抗日同盟の民運(民衆運動)に参加。戦後

はムアール婦聯会の会長となる。1946年に MCP に入党。1946年6

月より、継続してパシールとパゴールの民運の責任者に。1949年3月

に逮捕。ムアールとクルアンの収容所に拘留。1950年11月に中国解

放後の第1次追放者として追放を受け、汕頭の潮陽に上陸。難僑処で勤

務したのち海南の興隆華僑農場に配属。1966年に陸豊華僑農場へと配

置換え。1985年に定年退職。1987年に離休(離職休養)を認められ、

子供たちに従い深圳の華僑城に転ず 7)[人名録 , Vol. 1, p.207]。

 1950年12月10日に、英帝国主義を糾弾する大衆集会が厦門の帰国華僑聯誼会で開かれた。そこでは、汕頭に上陸したマラヤからの帰国華僑を慰問すべきことが採択された。張輝煌はそのときの参加者の一人である。 陳振洪は集会で次のように訴えた。

我々は悲しみとともに、英帝国主義者の迫害を受けている家族、親族、友

人そしてマラヤの人々のことを思い出します。この悲しみを力に変えな

ければなりません。我々は英帝国主義者への抵抗を統一し、援朝抗米運

動を支持しなければなりません。米国が率いる帝国主義一味の打倒に

よってのみ、我々華僑は出口を見つけることができるのです[ROCFA:

11-16]。

 59年後に張輝煌は次のように記録されている。

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送る。その結果は「現代の反革命分子」の帽子と監禁であった。1964年

ごろに放免されるも、彼女には香港への定住を申請する以外の選択肢は

残されていなかった。最終的に、シンガポール・マラヤ帰国華僑聯誼会の

支援を得て名誉回復がなされ、離休が認められた。1998年1月に香港

で死去 [人名録 , Vol. 2: 94-95]。

 Huan Yu-mei 黄玉妹については、人名録は次のように記録している:

 1931年シンガポール生まれ。浙江人。シンガポールで1947年に中

国共産党(CCP)指導下の華僑民主青年同盟に加入。1951年5月に組

織の安排により、社会主義建設に従事すべく母国に帰還。帰還後は広州

の建築機械会社に勤務。中共党員。離休。

 どうやら二人の Huang Yu-mei は別人のようである。 ここからは、彼らがどういった人物であったか、またどのように逮捕され追放されたのかを知ることができる。中国での彼らの生活は容易ではなく安定もしていなかった。二冊の人名録に収められた彼らの生活を子細に分析することには、充分な意義があろう。

2 マラヤ追放者の分析

2.1. 原[2001]のリストにある帰国者

 人名録に記載されたマラヤからの追放者の分析に先立ち、2001年の拙著書で掲げたマラヤからの帰国者(追放または自由意思による帰国者)名簿に言及しておきたい9)。数十年にわたり収集した情報に基づき、筆者は同書でかつてのマラヤ華僑の名簿を作成した。その概要は次の通り。  ● 合計人数:378人。戦前とサラワクからの帰国者を含む。  ● そのうち185人が太平洋戦争終結後に帰国。  ● 二冊の人名録とは17名のみ重複。  ● 原の著書は比較的著名で影響力のある人物をとりあげている。

 スランゴールに住むHuang Yu-meiは、彼女の夫が解放軍兵士であった

ことが発覚し英国入国係官に身柄を拘束された。英警察は彼女の部屋で、

南僑日報紙と4足の古い靴を発見し、彼女がマラヤの共産主義者の伝令

であるに違いないと主張した。警官たちは彼女が真実を語らなければ発

砲すると威嚇し、怯えさせるために故意に彼女の首の背後に向け銃を二

回撃った。逮捕された同日に彼女はイポーの政治部に送られ、そこに7

日間閉じ込められた。(中略)40日以上にわたり、彼女は何度も繰り返し

尋問され、連日激しい殴打を受けた。(中略)彼女は最終的に収容所に投

獄された。

 60年後に Li Hsueh-mei(李雪梅)は次のように記録されている。

 1921年、広東梅県の湯家に生まれる。子供時代に李家に童養媳とし

て売られる。夫とともにイポー付近の村に移る。抗日戦争の勃発後に、

MCP 郡委員の陳洪銘の指導下に封建的家族を離れて抗日組織に身を投

じ民運に加入。裏切り者の密告により日本軍に逮捕される。残忍で流血

を伴う拷問を耐え抜く。終戦による釈放後は演劇活動に従事。組織は、

彼女が舞女に扮して敵の情報を収集すべきとの決定を下す。この任務は

ペラ州委員会書記の(引用者注:鍾)愛克同志とのみつながっていた。

1946年末に愛克がペラから配置替えになり、彼女の任務も終了する。

その後、婦聯会の大衆活動のためイポーに配置替えとなる。しかし舞女

としての任務が党員たちの猜疑を招き、不安のなかで活動を行う。その

ため彼女はクアラルンプールに移り、亡姉の夫であった許亜佑(上述の

Ko O-yao)と結婚。組織との関係を回復し当地で革命運動に従事。1948

年の非常事態宣言により家族全員が逮捕され追放となる。

 中国帰国後は、広東の農墾局と華僑農場で勤務。許亜佑が農場での厳

しい生活に不慣れだったため、彼とその子供たちは香港での定住を申請

する。李は広東の中医病院の鍼灸部に配属される。

 1956年に「粛反運動」が発動されると、当時の広東省労働組合の科長

だった陳洪銘(上で李をイポーに連れてきた人物)は自殺した。強い義憤

に駆られた李は、陳を知る党員たちや関係部署に無実を訴える嘆願書を

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 次の表ではいくつかの傾向が示されている。

(1)表1 帰国年 太平洋戦争終結後にマラヤから帰国した168名(185-17)のうち、大部分(112名、66.7%)が1948-50年すなわち非常事態宣言発令直後に集中している。にもかかわらず、人民共和国の建国直後には、自由意思による帰国者の数が追放者の数を上回っている。

(2)表2 政党帰属 MCPとCCPの党員数は同数(それぞれ76名)であり、中国民主同盟(CDL。CCP寄りの民主派諸政党の一つ)の党員数は若干少ない。ほとんどのCCP党員はマラヤへの渡航前または中国に帰国後に入党している。彼らはすべて秘密党員である。それとは対照的に、CDLマラヤ支部はマラヤで合法的地位を認められていた。CDLはマラヤでのCCP(英国植民地当局によって禁じられてい

た)の代理人の役を果たした。CDL党員の大部分はマラヤで入党している。多くは複数の党に所属している(CCPとCDLは20名、MCPとCCPは18名)。

(3)表3 中国の国会におけるマラヤ帰国代議員 原の名簿には、多くの影響力ある人物が含まれている。表3には、全国人民代表大会代議員および全国政治協商会議メンバーの数を示してある。そのなかで最も著名なのは陳嘉庚、胡愈之である。これは、二冊の人名録のなかでわずかに1名のみ(陳其揮)が全国政治協商会議メンバー(Ⅵ期)に任命されているのと対照的である。このことは、人名録中の追放者が総じて草の根の人々であったことを示している。

2.2. 人名録からうかがえるいくつかの傾向

 二冊の全般的な統計は次の通り。第一巻 第二巻 計

リストに掲げられた人数合計 479 212 691 太平洋戦争終結後の帰国 477 193 670 そのうち追放者 343 154 497 自由意思による帰国 134 39 173(多くの者はほかに選択肢をもたず)

(1)表4 祖籍 これは必ずしも、本人がそこで生まれたことを意味しない。むし

表 1 帰国年(原 2001)帰国年 追放 帰国 計

1946 9 2 111947 3 4 71948 20 18 381949 15 23 381950 15 21 361951 1 3 41952 1 4 51953 1 11957 4 41958 0 01959 1 11961 4 41963 1 1 21967 1 11970 1 1

1940年代後半 2 21950年代 7 7

1960年代後半 1 1不明 1 4 5

計 72 96 168

表 2 政党帰属(原 2001)マラヤ渡航前 マラヤ 中国定住後 その他 計

CCP 30 2 35 9 76 CDL 3 46 7 7 63

戦前の帰国 戦後 不明 計 MCP 24 44 8 76 CCP + CDL 20 MCP + CDL 4 MCP + CCP 18 MCP + ZGD 3CCP: Chinese Communist Party(中国共産党), MCP: Malayan Communist Party(マラヤ共産党), CDL: China Democratic League(中国民主同盟), ZGD: Zhi Gong Dang(致公党)

表 3 中国の国会におけるマラヤ帰国者代議員期間 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ NPC 14 11 11 7 12 10 8

PPCC 11 14 11 8 9 18 9NPC: National People’s Congress(全国人民代表大会)PPCC: People’s Political Consultative Conference(全国政治協商会議)

『人名録』からは1名(陳其揮)のみが PPCC 代議員(VI)になっている。

●各期の開始時期NPC: I =1954年9月、Ⅱ=1959年4月、Ⅲ=1964年12月、Ⅳ=1975年1月、Ⅴ=1978年2月、VI =1983年6月、VII =1988年3月PPCC: I =1949年10月、Ⅱ=1954年12月、Ⅲ=1959年4月、Ⅳ=1964年12月、Ⅴ=1978年2月、VI=1983年6月、VII =1988年3月

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ろ圧倒的多数はマラヤで生まれている。彼らの祖先の半数近くが広東出身である。客家の場合、全員が広東省出身であり、彼らを含めると広東は全体の4分の3に達する。福建がマラヤ(半島部マラヤ)での最大グループであることを考えると、福建の数は不相応に少ないように見える。これは人名録出版プロジェクトに福建系の団体がひとつも参加していないことによる。第二巻には、比較的多くの海南居住者が協力している。

(2)表5 出生地 客家を含む広東が過半数を占めている(103名のうち53名)。海南(23名)は福建(16名)をかなり上回っている。理由は上記と同じである。マラヤ以外の出生が確認されるのはこの103名で、全体総数と比較すると、圧倒的多数がマラヤ生まれであることがわかる。

(3)表6-1、6-2、6-3、表8 定住先と祖籍 定住先とは帰国者/追放者が定住した省をさす。彼らのうち少数は別の省へと配置換え(たとえば広東から海南)になっている。そうした人々は表の中では双方の省で記録されている。 定住先の省については、圧倒的多数すなわち435名(77.3%)が広東に定住している。それに続き、海南の78名(13.9%)、福建の20名(3.6%)、他の省30名(表8)

(5.3%)となる。広東省に定住した435名のうち、311名(71.5%)が広東を祖籍とする者(広東+客家)である。しかし65名の福建華僑(14.9%)もまた広東に定住している。他省の出身者は少ない。海南に定住した78名のうち、「土着民」すなわちこの場合でいえば海南人の比率(15名、19.2%)は、広東における海南人の比率よりもかなり高い。しかし広東人が、ここでも51名(65.4%)と大部分を占めている。 福建に定住した人々については、福建を祖籍とする者が多数派である。しかし福建への定住者の総数はごくわずかなものにすぎない。理由は上述のように、このリストが主に広東と海南に居住する帰国者の記録であることによる。 表8。中央政府や省政府で働いた者の数(30名)は少ない。これはおそらく、彼らが主に農民や労働者で、国家建設の枢要な組織から求められる知識人がごくわずかしかいなかったことが理由であろう。

(4)表7-1、7-2 定住先と出生地 広東、海南への定住者のうち、中国生まれの者は比較的少ない(広東49名、海南38名)。これはまた、圧倒的多数がマラヤ生まれで

表 4 祖籍第一巻 % 第二巻 % 計 %

広東 199 50.9 53 40.5 252 48.3客家 107 27.4 33 25.2 140 26.8福建 61 15.6 20 15.3 81 15.5海南 15 3.8 17 13.0 32 6.1広西 7 1.8 8 6.1 15 2.9浙江 2 0.5 0 2 0.4計 391 100 131 100 522 100

客家:広東省の恵州、恵陽、梅県、大埔、宝安に祖籍をもつ者。

表 5 出生地出生地 第一巻 第二巻 計 %広東 15 19 34 33.0 客家 8 11 19 18.4福建 9 7 16 15.5海南 11 12 23 22.3広西 0 5 5 4.9香港 1 1 2 1.9インドネシア 2 0 2 1.9ジャマイカ 1 0 1 1タイ国 0 1 1 1計 47 56 103 100

表6 定住先と祖籍1 広東祖籍 第一巻 第二巻 計 %広東 178 23 201 46.2客家 95 15 110 25.3福建 52 13 65 14.9海南 11 0 11 2.5広西 6 5 11 2.5浙江 2 0 2 0.5不明 30 5 35 8計 374 61 435 100

2 海南祖籍 第一巻 第二巻 計 %広東 7 27 34 43.6客家 2 15 17 21.8福建 3 2 5 6.4海南 1 14 15 19.2広西 0 2 2 2.6不明 4 1 5 6.4計 17 61 78 100

3 福建祖籍広東 2客家 2福建 9海南 1広西 0不明 6計 20

表 7 定住先と出生地1 広東出生地 第一巻 第二巻 計 %広東 12 9 21 41.2客家 6 4 10 19.6福建 5 1 6 11.8海南 4 4 8 15.7広西 0 2 2 3.9香港 1 1 2 3.9インドネシア 1 1 2ジャマイカ 1 1 2計 30 21 51 100

2 海南出生地 第一巻 第二巻 計 %広東 11 11 28客家 7 7 18福建 1 3 4 10海南 4 10 14 36広西 2 2 5タイ国 1 1 3計 5 34 39 100

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ため、同書での学校の分類、すなわち初等小学、小学、高等小学、初等中学、中学、高等中学をそのまま表に残した。それぞれの下位区分合計も示しておいた。 データの判明した186名のうち、小学校卒ないし小学校中退者の数は68名

(36.6%)であり、中学校については92名(49.5%)である。10名は各種の師範学校(教員養成学校)を卒業している。当時のマラヤの一般的教育水準に比べ、彼らは相対的に高い教育を受けているといえる。ただし、データが示されていない者のほとんどは、貧困ゆえにいかなる公教育も受けられなかった可能性がある。中国:表10-2の「マラヤ渡航以前」は、マラヤへの渡航前に中国で教育を受けていた者をさす。この数値(7名)は、表5での103名と比較する必要がある。移住前に公教育を受けていた者は極端に少なかった。高等教育を受けた3名のうち、1名は大学での勉学のため一時的に中国に来たあとでいったんマラヤに戻っ

あったことを示している。 広東に定住した51名のうち、31名は広東生まれであった。これを表5と比べると、53名の広東生まれの者のうち、わずか31名(58%)のみが同省に定住していたことがわかる。海南の場合、同島生まれの23名(表5)のうち14名(61%)が同島に定住している。表7-2によると、海南への定住者のうち、広東生まれの者

(18名)が海南生まれの者(14名)を上回っている。これは、帰国華僑を配属する際の基本原則が、彼らの出身地にかぎらず、彼らを受け入れ可能でその能力を経済発展に活用できそうな場所に配属するものであったことを示唆している。

(5)表9-1、9-2 マラヤと中国での職業

マラヤ:職業が判明した220名のうち、81名(36.8%)はゴム採取業従事者であった。これに農民や木こりを加えると、95名(43.2%)が農業部門に従事していた。これは華僑の多くが農業に従事していたマラヤの特殊な産業構造を反映している。工場、鉱山労働者、商店の従業員は4分の1以上(59名、26.8%)を占める。これもまた、マラヤ華僑の経済構造を反映している。ジャーナリストや教員など知識人も一定の数(62名、28.1%)を占めている。彼らは抗日抗英闘争において重要な役割を演じた。彼らの多くは、社会主義新中国の建設に参加すべく自由意思で中国に帰国している。中国:かつて筆者は、帰国者のほとんどが農園に定住したものと想定していた。この想定は裏づけられた。職業が判明した692名のうち、茶園を含む農場の成員が最大グループ(235名、34.0%)となっている。これに農民と林業・漁業従事者を加えると、農業部門(245名)は35.4% を占めることになる。海南島にゴム園が開かれると、同島のみならず広東に定住していたかつてのゴム採取業従事者も同ゴム園に配置替えとなった。工場労働者(141名、20.4%)の数は二番目に多い。ただし商業・サービス部門の従事者をあわせると農業労働者を上回る(276名、

39.9%)。公務員や党官僚がそれに次ぐ(109名、15.8%)。彼らの多くは華僑関連部局に関係していた。教員やジャーナリストも一定数存在した。マラヤで教員やジャーナリストだった者は、中国でも同じ職に就く傾向にあった。

(6)表10-1、10-2、10-3 マラヤと中国での教育

マラヤ:マラヤでの初等学校、中等学校の指標は一貫しないようにみえる。その

表9 職業1 マラヤ職業 人数 %ゴム採取業従事者 81 36.8農民、木こり 12 5.5漁民 2 0.9労働者 42 19.1鉱山労働者 11 5小売店店員 6 2.7技師 2 0.9企業オーナー、自営 2 0.9ジャーナリスト 19 8.6教員 43 19.5計 220 100

表 8 他の定住先北京および中央 11広西 6四川 5山西 2湖南 2上海 1江西 1湖北 1黒竜江 1計 30

2 中国職業 人数 %政府職員、党専従 109 15.8農場 154 22.3農場関連の労働 22 3.2茶園 59 8.5農民 7 1.0 林業、漁業 3 0.4工場労働者 141 20.4商業、サービス 135 19.5ジャーナリスト 8 1.2教員 36 5.2技師 8 1.2病院 9 1.3マラヤ革命の声 1 0.1計 692 100

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ている。1名は香港にある英国の大学を卒業している。 表10-3の「中国」(「マラヤ離国以降の中国」の意)は、中国に定住してから受けた教育をさす。彼らのほとんどは初等中等教育年齢を上回っていたため、ごく少数のみがそうした学校に入学した。一部の者は選ばれて党学校、軍事学院、マルクス・レーニン主義学院に入学した。中等教育卒業水準にあった一部の者(9名)は、厦門大学や北京大学に入学を許された。高等教育としては、広州の南方大学と香港の達徳学院が重要な役割を果たした。 南方大学は、CCPの華南掌握後に同党によって創設されている。その目的は新たな国家の幹部を育成することであり、学長は葉剣英であった。公式には1950年1月1日に授業を開始している。教育期間は当初1-2年に固定されていた。しかし国政改革に参加すべく、第1期生は7か月で卒業した。1952年10月に、同大学はほかの6大学と合併し華南師範大学となった10)。 達徳学院はCCPの方針により、1946年10月に中国民主同盟(CDL)によって創立された。理事の50% 以上、教員の40% 以上はそれぞれCDLの党員であった。同学院から全国解放のための多くの優秀な人材が輩出したといわれている。香港の英国植民地政府による免許取り消しを受け、1949年2月22日に閉鎖されている11)。 CCP主導の新国家建設に参加しようとした元東南アジア華僑は一般に、人民共和国建国前は達徳で、それ以後は南方大学で地方級ないし中級の幹部となるべく訓練を受けたもののようである。

(7)表11 マラヤ共産党員の入党年 MCP党員と明記されているのは257名である。そのほかに、7名が党員だったことが示唆されている。 257名のうち、太平洋戦争前に入党した初期の党員は40名(1940年までが31名、

1941年が9名、15.6%)を数える。戦争中に100名(1942-45年が93名、1940年代初

頭が7名)が入党している。終戦の翌年にその数は38名と単年のピークに達する。1947年から、新規入党者は激減する。これは厳しい取り締まりと非常事態宣言によるものであろう。 (8)表12-1、12-2、12-3  他党の党員 中国共産党の党員数(119名)はマラヤ共産党(表12-2)に次ぐ。そのうち2名がマラヤへの渡航前に中国で入党し、1名がシ

表10-1 教育1 マラヤ学校 人数 % 学校 人数 %なし 8 4.3 初等中学 28初等小学、同・中退 9 中学 57小学校 52 高等中学 7高等小学 7  中学校 計 92 49.5小学校 計 68 36.6 夜間学校 8 4.3

師範学校 10 5.4総計 186 100

2 中国(マラヤ渡航以前)小学校 1中学 3大学・学院 3 (1名は香港)

3 中国(中国定住後)小学校 2 党学校、軍事学院、

マルクス・レーニン主義学院 14初等中学 2中学 6 師範大学、簡易師範、

  職業専門学校 5南方大学 15他の大学 9 (1名は香港)達徳学院(香港) 6 計 59

表11 MCP 党員、入党年年 人数 年 人数

~ 1940 31 1950 81941 9 1951 71942 18 1952 31943 25 1953 21944 26 1954 11945 24 1955 01946 38 1956 11947 13 1961 11948 12 1962 21949 12 計 233

厳密な入党年不明1940年代前半 7 伝書使 21940年代半ば 3 おそらく党員 51950年代前半 1 総計 264

入党年不明 13計 257

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ンガポールで入党している。それ以外はすべて、中国に来てからの入党であり、その大部分が1950-60年代に入党している。三番目に多いのが致公党(ZGD)である。同党は清朝の打倒をめざす華僑秘密結社の洪門会の流れをくむ。13名の党員すべてが中国に帰国後の入党である。 四番目に多いのが中国民主同盟(CDL)であり、11名の党員を有する。ZGD とは対照的に、全員が1946-47年にマラヤで入党している(表12-1)。CCP がマラヤに支部をもたなかったため、CDLはCCPの代わりに同党を支持する運動を推進する役割を与えられていた。しかし若者向けには、CCP はマラヤで華僑民主青年同盟という直属の傘下団体を有していた。3名がこれに参加している。 多くの者は複数の党籍をもっている(表12-3)。最も多い組み合わせは、MCPとCCPの双方に所属するグループ(51名)である。そのうち2名がマラヤへの渡航前に中国でCCPに入党している。1949年までは、MCP党員は中国に帰還すれば全員が自動的にCCP党員となっていた。しかしそれ以後は、思想や過去の活動に関する厳しい審査が求められるようになった。ほかのMCP党員は中国に帰国後にCCPに入党している。それ以外の組み合わせは非常に少ない。MCPとZGDの双方に所属した6名は、全員が中国定住後にZGDに入党している。MCPとCDLの二重党籍をもつ5名は全員が両党にマラヤで入党している。三つ以上の党に所属している者は8名いる。

(9)表13 離休(離職休養) この表は、政党帰属が定年退職者の身分に関係があるかを調べたものである。全体としては、定年退職者の三分の一が離休を認められている。他方、MCPとCCPの二重党籍をもつ者の実に70.6% が離休を認められている。CCPのみに所属する者や、他党に所属する者は、その半数が離休を認められている。このことは、MCP党員のマラヤでの活動やCCP党員の中国での活動が高く評価されていることを示唆している。

(10)表14 ゲリラ兵士の数 追放者の多くがゲリラ軍、すなわち、日本による占領期にはマラヤ人民抗日軍(218名)に、非常事態宣言後にはマラヤ民族解放軍

(MNLA、117名)に参加していた。抗日軍隊員(MPAJA入隊者)のうち、42名(19.3%)のみが民族解放軍(抗英ゲリラ)に参加している。そのほか、抗日軍の MCP 党員75名のうち、19名(25%)のみが民族解放軍に参加している。抗日軍メンバーの

表12-1 マラヤにおける他党の党員労働党(LP) 1人民党(PR) 1CDL 11OCDYL 3

LP: Labour Party, PR: Parti Rakyat, CDL: 中国民主 同 盟(全 員 が1946-47年 に マラヤ で 入 党) , OCDYL: 華僑民主青年同盟

表12-2 CCPとZGD(致公党)年代 CCP ZGD

マラヤ以前 2 (全員が中国で入党)

~ 1945 0

1946-49 6

1950年代 30 31960年代 13 11970年代 7 01980年代 7 31990年代 2 0入党年不明 51 8シンガポールで入党

(1940年代後半) 1

119 15

表12-3 複数政党への所属MCP + CCP: 51(うちCCP→MCP 2)MCP + CDL: 5 MCP + ZGD: 6MCP + CDL + CCP : 3MCP + CDL + ZGD: 2 MCP + CDL + CCP + ZGD: 1 CDL + ZGP: 3 CDL + ZGD + CCP: 2 CDL + CCP: 0 Labour P.+ ZGD: 1

表13 離休(離職休養)離休者数 全体の人数 %MCP のみ 82 202 40.6CCP のみ 32 63 50.8MCP + CCP 36 51 70.6他の政党 10 20 50.0 政党所属なし 57 317 18.0 計 217 653 33.2

表14 ゲリラ兵士の数抗日戦(A) 抗英戦 双方に参加(B) B/A(%)

218 117 42 19.3上記のうち MCP 党員

76 47 19 25.0 (34.9%) (40.2%) (45.2%)

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うち抗英ゲリラ戦にも身を投じた者の数がこれほどまでに少ない理由の一つは、彼らが二年間の合法活動の後に、再び過酷な密林での武装闘争を始めることを望まなかったという点に求められるかもしれない。もう一つの、おそらくはより重要な理由についてはすぐ後で述べることにする。 ゲリラ兵士のうち、35% が抗日戦時に、40%が抗英戦時にMCPの党員であった。両方の戦争に参加したゲリラ兵士の間では、MCP党員の比率が若干高い(45%)。彼らは戦士たちの中核をなしていたのであろう。

(11)表15-1、15-2 逮捕と虜囚 表15-1は、かつての抗日軍メンバーの逮捕年を示すものである。逮捕歴が記録されている152名のうち、半数近く(70名、46%)が1948年であり、1949年(26名、17%)がそれに続く。そのため、63% の者は非常事態宣言の直前ないし最初期に逮捕されたことになる。これは、元抗日軍メンバーがなぜ抗英戦に参加できなかったかを説明するより重要な理由なのかもしれない。彼らは「望ましからざる人物」として、ゲリラに参加しないよう英国当局から周到に監視されていた。 これは逮捕者全体の数と比較可能である(表15-2)。全体では逮捕や虜囚は1948年(147名、30.6%)と1949年(100名、20.8%)に集中しているものの、その後の数年間(1950-53年)にも、もと抗日軍逮捕者よりもはるかに多い人数が逮捕されている。 表15-2では、植民地主義者との初期の闘争にかつて参加していた「密告者」の情報に基づく逮捕/虜囚の数も示されている。全体としては、122名(四分の一)がこの種の情報によって逮捕されている。1951年、1952年、1956年にその比率は半分にまで達する。これは、英国の情報機関がこの時期きわめて効果的に反対運動を取り締まっていたことを示唆している。

(12)表16 中国での迫害の経験 毛沢東主席治下の中国は、反右派、反修正主義運動を頻繁に発動した。帰国華僑はこうした運動に巻き込まれた。この表では、どのような機会や運動にマラヤからの帰国者が巻き込まれたか、より正確に言えば告発や抑圧を受けたか、が示されている。この表は、単に人名録でそうした経験に言及した人の数を示しているにすぎない。それよりはるかに多くの人々が、そうした苦痛に満ちた経験をしたものと思われる。

表15-1 元抗日軍隊員の逮捕年 人数 年 人数 年 人数

1945 0 1950 7 1957 21946 4 1951 5 1958 21947 3 1952 10 1959 21948 70 1953 4 1950s 51949 26 1956 6 不明 6

計 152

表15-2 逮捕/虜囚年年 逮捕 % 密告者の情報による逮捕

1945 0 0 0 %1946 5 1.0 1 201947 6 1.3 0 01948 147 30.6 17 11.61949 100 20.8 23 231950 74 15.4 26 35.11951 43 9.0 24 55.81952 26 5.4 12 46.21953 24 5.0 2 8.31954 7 1.5 1 14.31955 8 1.7 1 12.51956 11 2.3 6 54.51957 7 1.5 2 28.61958 5 1.0 2 401959 4 0.8 2 501960 0 0 01961 0 0 01962 1 0.2 1 1001963 1 0.2 0 0

1940 年代末 1 0.2 01950s 10 2.1 1 10.0

不明 0 1計 480 100 122 25.4

表16 中国での迫害の経験運動 三反運動 粛反運動 反右派闘争 四清運動 文化大革命時期 1951- 52 1955 - 56 1957- 58 1963- 66 1966-76人数 6 3 15 4 49理由/詳細 ● 投獄 1

● スパイ 1● 反逆者 1 ● 反逆者/右翼分子 2

● 下放/労働改造 3● 黒戸/CCPを除名 2● 糾弾/投獄 3

● 糾弾 1● 四清工作隊 3

● 下放 17● 反逆者/ スパイ/ 右翼分子 10 ● 糾弾/投獄 9● 労働改造 2● 死亡 2

迫害の回数 2 回 : 13 名 複数回 : 2

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注釈

1) 新馬僑友会編『馬来亜人民抗日軍』香港:見證出版社、1992/同編『馬来亜人民抗日闘争史料』香港:見證出版社、1992.

2) 黎亜久ほか16名編『新馬帰僑抗日抗英人名録』香港:足印出版社、2009.

3) 黎亜久ほか20名編『新馬帰僑抗日抗英人名録』続集、2011.

4) 北京帰国華僑聯誼会編『抗議英帝迫害馬来亜華僑』北京、1951?。

5) British National Archives, CO 1022/132. Federation of Malaya, “Paper to be laid before the Federal Legislative Council by Command of His Excellency the High Commissioner; Detention and Deportation during the Emergency in the Federation of Malaya” 1953, p.18.

6) 北京帰国華僑聯誼会、前掲書、pp. 11, 21, 25, 34, 43.

7) 国務院通達62号(1982年)により、革命と国家建設に多大な貢献をなした元幹部に対して、退職後に年金が上乗せされる離休(離職休養)の資格が認められている。これに対して、一般の退職は「退休」である。

8) FO.371/92374: “Repatriation of Overseas Chinese from Malaya.” Courtesy, Prof. Lee Kam Hing.

9) 原『マラヤ華僑と中国──帰属意識転換過程の研究』東京:龍渓書舎、2001.

10) 百度百科(http://paike.baidu.com)、南方大学。〈2013年12月22日閲覧〉

11) 中国民主同盟上海市委員会(http://www.minmengsh.go.cn)/Wikipedia(http://zh. wikipedia.org)、香港達徳学院。〈2013年12月22日閲覧〉

 1951-52年の最初期の運動である、三つの悪すなわち汚職、浪費、官僚主義との闘いにおいてさえ、6名が批判を受けている。それに続く運動である、1955年、1956年の粛反運動においては、3名が標的にされている。1957年、1958年の反右派闘争では、15名が様々な罪状で有罪判決を受け処罰されている。それとは対照的に、1963年から1966年の四清運動(FCM)では、わずかに4名が巻き込まれているにすぎない。そのうち3名は四清工作隊であった。これはおそらく、この3名がこの運動の標的ではなく推進者であったことを意味しているのだろう。 彼らにとって最も大規模で最も打撃が大きかったのは、1960年代半ばから1970年代半ばにかけての文化大革命である。49名が標的となり、下放や、根拠のない反逆者としての有罪判決などを含む様々な過酷な取り扱いを受けた。2名は迫害のなかで命を落としている。そのうち1名は自殺である。 全体としては13名が二度にわたり、12名が数次にわたり標的とされている。1970年代末以降、彼らのほとんど全員が名誉を回復している。

(13)表17 香港への移住 一部の帰国者は、生活条件に耐えられずに、あるいは中国での待遇の悪さゆえに、それぞれの関係当局の許可を得て香港に移住している。ここでの総数は37家族である。1970年代末に改革開放政策がはじまる前でさえ、12家族が移住している。同政策が導入された直後(1976-80年)には、より大きな人数が記録されている。 ほとんどの帰国者は、自身の意思ではなく追放処分によって中国に帰国している。今述べた移住はそうした背景を反映しているといえる。

表17 香港への移住 年 人数 年 人数 年 人数

1960-69 4 1981-85 5 1990-98 21970-75 8 1986-90 2 不明 11976-80 14 (1980s) 1

計 37