マラヤの社会状況と政治制度の評価(二) URL DOI -...

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Meiji University Title �(�) Author(s) �,Citation �, 38(1-2): 43-75 URL http://hdl.handle.net/10291/8319 Rights Issue Date 1970-05-31 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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  • Meiji University

     

    Title マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    Author(s) 沖田,哲也

    Citation 政經論叢, 38(1-2): 43-75

    URL http://hdl.handle.net/10291/8319

    Rights

    Issue Date 1970-05-31

    Text version publisher

    Type Departmental Bulletin Paper

    DOI

                               https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    マラヤの社会状況と政治制度の評価

    第三章 連邦主義と州制度

      州の概念ー連邦と州の権限ー

      各州の執行部

      州議会と州行政委員会

      州の行政区域

    第四章 地方自治

      地方制度の起源と現行制

      マレーシア国都制

    第五章 選挙制度と選挙状況

      選挙制度

      選挙状況

    (二)

    中、》イ゜

    (43)43

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    第三章 連邦主義と州制度

    44

      州 の 概 念ーー連邦と州の権限ー

     マレーシアは、=二州からなる連邦国家である。西マレーシア(マレi半島およびその周辺部) は、一一の州にわかれ東

    マレーシア(ボルネオ島の一部)は、サバ州、サラワク州の二州にわかれている。ー第1、第2図参照1。 これら=二

    の州は、独立以前イギリス植民地体制の下、大部分は藩侯国であり、その他は海峡植民地、直轄植民地にわかれていた。

    それら三種の類型領地は、前述した経緯によりマレーシアの連邦体制のもとに統合され、それぞれが州(ω蜜8)になった

    のであるが、州の地位および権限、いわぽ州権(ω富8ユαq窪)は、憲法によれば次の通りである。

     マレーシアの州権は、デメリカ合衆国の州権の性格とは異り、中央政府の権限はきわめて強く、州政府の権限は相対的

    に弱覧中央政府の立法権限範囲は・いわゆる聖Φ邑い醇といわれるがこの聖Φ巨い一ω芝含まれる権限を列挙す

    ると、対外問題、国防、国内治安、新聞、出版、出版業、印刷、検閲権、市民法、刑法、司法行政、市民権、帰化、外国

    人、財政、貿易、商業、産業(企業を含む)、海運、航海、漁業、通信、運輸、教育(図書館、博物館、古代.歴史的遺物およ

    び記録、考古学的場所遺蹟を含む)、医療保健、労働、社会保障、非法人組織の団体、専門職業、等が挙げられている。

     これに対してω母8=ω什つまり、州政府の立法権限範囲に、前者のいわぽ残余権であり、回教法、土地、農林業、地

    方自治、州工事、水道(これには制限がある)、州政府機構、州の休日、亀.河魚漁業、等の範囲があげられるが、サバ、 の

                                                          q

    サワラクの両州に対しては、これらの諸権限のほかに土着法(昌鋤一一く① 一9≦)、 州法によって創立される諸団体を法人とす

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

             h      KEDAH

    PENANG

    45

    第1図 西マレーシア11州

          JOHORE

                 (45)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    第2図 東マレーシァ2州

    ー.」

    r-”1@    tSARAW.AK !      .ノ゜ r’L隔.1ノ’

    る立法、連邦所有の、連邦法に基づくものと宣

    言された以外の港務、土地台帳による土地調査、

    図書館、古代・歴史的遺物および記録、考古学

    的場所遺蹟が加えられ、またサバ州に対しては、

    以上に加えてサバ鉄道に係わる権限が含められ

    ている。

     マレーシアにおける、政府権限の特殊な類型

    よ、082護Φ9=鴇である。この権限は、連

    邦政府、州政府の共同立法権で、当該政府間の

    協議によってなされる立法行為の範囲のことで

    ある。この権限は、 閃巴興9いδけに機能的に

    は複合するが社会福祉、奨学資金、野生動物鳥

    類の保護、家畜業、地方計画 (8≦昌働巳69

    ζ暮曼覧餌昌三昌σq)、保健、浮浪者、行商取締等

    にかかわる権限で、東マレーシア両州に対して

    は、一五トン未満の船舶、水力、農林調査、慈

    46(46)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    善寄託、劇場・映画・慰安施設、間接選挙の州議会議員選挙、が加えられ、さらにこれに、サバ州には一九七〇年まで医

               (2)

    療保健が付加されている。

                                                        スト

     かかる三種の各政府段階の権限範囲をみると、自ら中央集中的な性格をみることができるが、それぞれの権限領域も厳

    リクト                            プロ ド

    密に定められておらず、かなり拡大的な解釈、とらえ方がなされ広義に運用されている。このブロード・センスは次の憲

    法各条文においてあらわれている。

     連邦議会は、対外関係の利益のため、あるいは各州法の統一のため(東マレーシァを除く)、行政執行の便宜のため、財

    政的理由、または非常事態宣言の発令のさいは、当該州と協議した上、ω冨8ピ一曾に掲げられている権限を制約し、立

    法化することができる。 (憲法第七六条ω、②、ω、第八〇条ω、⑥、第=○条ωの㈲、第一五〇条)。

     国家政策策定機関としての、国家土地委員会(Z9二〇昌巴い①&Ooロ昌o一一)は、鉱業、農業、森林にかかわる土地活用の

    ために政策を策定し、地方政府の開発計画およびその進行に関与するが、各州はこの政策に従わねぽならない (東マレー

    シアを除く) (第九一条㈲)。

     自然資源の開発、改良、保存計画について、国家財政委員会、国家土地委員会と関係政府の間で協議がおこなわれ、専

    門委員会の承認するところであれば、計画公表後国家元首は、当該地域を設定発表し、州政府の権限であるにも拘らず連

    邦政府は計画を法制化できる(第七九条、第九二条)。

     そのほか中央政府の権限によって、直接州政府に関与する権限は、連邦政府による土地取得、助言(o自く一〇①)、 照会

    (旨ρ∈H《)、調査(ω霞くΦ《)、監査(一昌ωO①o鉱8)、財政上のコソトロール、非常事態宣言下の処置、公共サービス等にみ

    (47)47

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    ることができる。

     土地取得は、連邦政府がその目的のために州内の土地を要するならば、州政府と協議の上、土地を取得することができ

    る。そのぼあい適切なる価額を州政府に補償しなけれぽならない。 (第八三、八八、九〇ω、②各条)。-ただしこの規定

    にかかわらずネグリ・セソビラソ州、マラッカ州の〇二ω仲o日ρ蔓い帥巳、トレソガヌ州のマレー人所有に係わる土地取得

    については制限がある。 (第九〇条)1

     連邦政府による助言については、東マレーシア両州を除いて、州農林業担当官は連邦政府の専門的助言を受け入れるこ

    とが義務づけられている(第九四条)。

     連邦政府の照会、調査および適切と考える統計の収集に対して、州政府は立法権の範囲内にあるにもかかわらず協力助

    力する義務が課せられている(第九三条)。

     州政府は、連邦政府からのみ一二ヶ月を超えない範囲で、また使途が連邦政府から承認されている場合のみ銀行から財

    政債務を負うことができるが、その他からの借財は認められていない。 (第一一一条②)。各州政府は、連邦政府の許可を

    得ずして年金、退職金、実物給与等によって連邦政府の負担を増加させるような制度を拡大し、省庁を増設してはなら

    ず、既定の俸給・報酬率を改訂してはならない。

     非常事態宣言(中oo一鋤ヨ9二80胤国言興σqoロo《)は、憲法第一五〇条にもとづき国家元首が宣言する非常緊急状態でこ

    れによって、すべての州の立法権は憲法の規定にかかわらず、連邦政府の介入するところとなる。宣言は、連邦全土およ

    び連邦内一部の地域の安全、経済生活がおびやかされ、または、戦争、掴内の内戦状態、侵略が生じたぽあい発せられる

    48(48)

  • マラヤの社会状況ど政治制度の評価(二)

    緊急処置令と同様のものである。宣言の発令を要する客観状況はかなり広範で、実際には連邦政府執行部の判断で発令を

    決定している。

      各州・の執行部

                          馳

     西マレーシアにある九つの州のうち、パハン州(勺簿冨昌σq)、ケラソタン州(内①冨口冨昌)、トレソガヌ州(↓話5σqσqo5⊆)、

    ペラッ州(℃o「9。犀)、ケダ州(閑Φ畠魯)、セランゴール州(ωo冨昌σq霞)、ジョホール州(冒70お)の七州にはサルタソ(ω巳35)と

    よぶ藩侯がおり、ペルリス州(勺o≡ω)にはラジャ(凋①宣)とよぶ藩侯、ネグリ・セソビラン州(Z①σqユω①ヨ窪冨昌)には

    く雪σq島・勺①詳§コゆ8ω程とよぽれるそれぞれ敬称を異にする藩侯がある。これら九州はいつれも旧藩侯国である。

     九州のうちネグリ・センビラン州とペラッ州を除いて藩侯は、世襲、長子相続によって継承される。ネグリ・セソビラソ

    州では、旧藩領が九領にわけられていたから藩侯家が九家あり、この間で継承藩侯が互選されている。ペラッ州では藩侯

                                             (3)

    家が三家あカて輪番(「o冨ユo昌)で世襲されることになっている。各藩侯は男子で終身制である。すでにのべたパソコー

    ル条約で定められたごとく、藩侯は独立以前、形式的に政治的主権者であったが、イギリスに従属する立場におかれその

    自治性は回教の保護と伝統的マレー慣習の保護に限られていた。しかしこの効果は、回教と政治体制を別物にひき離して

    しまったのではない。逆にマレー人の社会のなかでは回教がイギリス支配下の藩侯の政治体制を内側からささえることに

            (4)

    役立つものとなった。こんにちマレー・コソミューナリズムの支柱が回教であり、後述するようにマラヤ回教党が民族主

    義政党として野党の一翼をになっている現実からみれば、当時の藩侯統治体制は、回教とマレi社会の政治体制の表裏一

    体性を維持、強化したことが看取できる。

    (49)49

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

     歴史的背景は、このようなもので、マレー人の社会では依然としてサルタソへの畏敬の念は強い。しかしながら三人種

    のコンミューナリズムの基盤の上に成立するマレ:シアの憲法では、この伝統的体制を近代化させるため、統合の象徴

                        (5)

    としての国家元首を創造し、旧藩侯地を州とし、サルタンは、州の統合の象徴に位置づけた。実質的な行政権は、中央政

    府では首相に、州政府では主席大臣(筈①昌陣『一 じd⑦ω凶「11()置一①{ ζ一昌一ω叶Φ「)に委任した。藩侯はかくて宗教的権限を行使する

    存在となったのである。マレーシア一三州のうち、ペナン州(℃oロきαq)、マラッカ州(蜜巴鋤08)の両州は、一九四八年のマ

    ラヤ連邦成立までイギリス領海峡植民地であったから藩侯がなく、国家元首の任命する在任期間四年の知事(Ωo〈o旨o「)

    がおかれている。ペナソ、マラッカ両州の知事は、国家元首が州主席大臣と合議の上、任命される。知事の罷免は、州議

    会の少なくとも三分の二の多数の意志が定められたのち、それによって国家元首が罷免する。知事は藩侯のように回教の

                                                   (6)

    行事の主宰者とはならない。両州の回教の行事は国家元首が主宰する。行政権は主席大臣が補ひつしている。

     サラワク州(ω錠9≦艮)には国家元首の任命する知事がおかれ、サバ州(ω9び魯)には、州統治者(囑きσq巳らo暮§昌

    2①窓旨)がおかれている。両州の両者の任免、地位と権限は、ペナン州、マラッカ州知事と同様となっている。

     藩侯、知事、州統治者の権限は実質的には州主席大臣が委員長をつとめる州行政委員会(0りけ薗け① 国×ΦO⊆け一くO 盒OO信昌O一「)の

    助言にもとついて行使しなければならない。その自由裁量の範囲は、行政委員会の委員長である主席大臣の任命、州議会

    (い①σq一ω冨二くΦ〉°・ωΦ日げξ)の解散要求の承認にとどまる。藩侯は、これらのほかに回教の保護者としての伝統により、統

    治者の一人として統治者会議(∩りO昌hO「①昌OO Oh 男二「①機ω)の招集の要求、宗教的行事、マレー慣習にかかわる行為、継承者

                                                       (7)

    配偶者(Oo昌ωoH梓)、摂政および摂政会議会議員の任命、マレi称号名誉の授与、藩侯裁判所、藩侯室の支配権を有する。 50(50)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

     ところで藩侯、知事、班主席の自由裁且里権ば政治状況によワて拡大するひここに一、二の例をあげておくこととするo

     トレンガヌ州において、一九六一年州議会で汎マレi回教党の議員が脱党し、同党は多数議席数を割ることとなった。

    州主席大臣は、この事態に対し議会解散を要求したが藩侯は、これを拒否、主席大臣は州行政委員会委員長としての辞表

    を提出した。このため、藩侯は同党に対立する多数党の連合党に行政委員会の組閣を要求した。これは藩侯が、州議会に

    おいて多数を獲得した政党に、行政委員会組閣を命ずる権利がある州憲法条文を遵守したものと解され、藩侯の自由裁量

                                           (8)

    権の範囲の可否というよりも、むしろ9Φω巳冨ロ碧8畠8昌ω葺暮δ昌巴ξと評価された。これは、二つの筋の併立を法

    の理念で一方を通した実例であるが、次に非常事態の宣言によって知事の権限を拡大したサラワク州のケースをあげてお

    こう。

     一九六六年、サラワク州の州議会与党は、BARJASA党五人、PESAKA党一五人、SNAP党六人、SCA党

    三人、PANAS党三人によりなるサラワク連合党(ω餌「餌♂く餌評 ㌧r「=9昌OO)であったが、結党以来、土地問題、官吏ボルネ

    オ人化、国語問題で内部政争を繰り返していた。連合党内は、SNAP党党首2ぎσq冨昌州主席大臣の派と反対派にわか

    れており、同年六月、2一昌σq冨昌は、BARJASA党の有力者目巴げ通信・建設相を州政府転覆陰謀の理由で解任した。

    これに対して、BARJASA党の五人は、PESAKA党の一五人とともに解任に反対し、クアラ・ルンプールのマレ

    ーシア連合党本部におもむいて同主席大臣の更迭を要請した。党本部は、主席大臣を解任し、PESAKA党の↓塑三ω=

    を主席大臣とするこことを決定し、Zヨσq冨昌反対派のO℃①昌σq州知事にこれを実施させた。サラワク州憲法では、州主

    席大臣の更迭は、州議会の不信任案通過によって成立するものであり、手続的に違憲であるから、2ヨσq冨昌氏は州知事

    (51)51

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    と新主席大臣を相手どって訴訟をおこしたのである。この判決は、2ぎσq冨コ氏の勝訴となったが、他方この間↓ρ三ω=

    派は多数派工作を進めており、判決の下ったときには、州議会議員四二人中二五人(与党議員)を確保していた。したが

    ってZぢσq冨コ氏が再び主席大臣の地位に戻っても、議会開会と同時に不信任案を提出され、はかれぽ、通過してしまうこ

    とになる。解散承認はもとより知事の権限である。ここに全く2ヨσq冨昌派は八方ふさがりに陥ち入ってしまの.た。中央政

    府は、この状況打解のために、九月一五日サラワク州に非常事態宣言を発表した。 (非常事態宣言国ヨ。.σq①5。《勺。≦。.ωにつ

    いての憲法の規定は前述)。非常事態が、国家元首によって宣言されたばあい、国会が招集され、必要な立法措置がなされ、

    宣言中は、中央政府は憲法の如何なる規定にもかかわらず、州の立法権内の如何なるものにも介入できるのである。かく

    してマレーシア国会が招集され、提出された「非常事態法一九六六年」が与党議員全体の賛成で可決通過した。この法に

    よれば、州知事は州憲法のいかなる視定にもかかわらず、自己の絶対的裁量によって自己の定める場所、日時において州

    議会を招集でき、州知事は、議事が正当に行なわれるようにするため、州議会議事視則を一時停止することができる。ま

    た州知事は、議長がこの指定に従わないぽあい、新議長を任命できる、というものであった。サラワク州知事は、この絶

    対的裁量権という広範な権限をもって州議会を招集し、Zヨσq冨昌主席大臣の不信任案を可決、目⇔≦一ω一一氏を新しい主

                (9)

    席大臣に就任させたのである。

      州議会と州行政委員会

     さきにのぺたω雷8ピ冨けおよびOo昌oロ轟①三=曾の範囲、運用からみて、州議会の権限は相対的に弱いものとみる

         (10)

    ことができる。

    52(52)

  •        マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    第1表 1969年5月改選・各州議会政党別議席数, ()内は前回議席数

    ㍉一戦1ALL I DA・1・MI・iGRMI PPPI・R l劉sF luD・1簸

    Perlis

    Kedah

    Kelantan

    Trengganu

    Penang

    Perak

    Pahang

    Selangor

    NegriSembilan

    Malacca

    Johore

    11(11)

    14(24)

    11(9)

    13(21)

    4(18)

    19(35)

    20(24)

    14(24)

    16(23P)

    15(18)

    31(32)

    3

    6

    10

    8

    4

    1

    1(1)

    8

    19(21)

    11(3)

    1

    2

    16

     12(5)2

    1

    4

    1

    1

    2 1

    (2)

    (4)

    (2)

    (4)

    12

    24

    30

    24

    24

    40

    24

    28

    24

    20

    32

    合計腸)1・・ 1・・(25)1261・2(・)1・1・1(・)1(・)1282

    資料・アジア経済研究所および南洋商報1959,5.11.

    ALL=連合党, DAP=民主行動党, PMIP=汎マラヤ回教党・GRM=人民

    運動党,PPP=人民進歩党, PR=人民党, SF=社会主義者戦線, UDP=

    連合民主党

    一九六九年五月の選挙の結果、サバ、サラワ

    ク両州を除いて、各州ごとにいちじるしい党

    53

    各州とも政党党員が議会を構成しているが

    予算審議がそのもっとも重要な内容である。

     州議会は、各年四回あるいは五回開会さ

    れ、それぞれ審議時間は短いが、土地問題、

    に出席することにある。

    る。州議会構成の特色は、政府吏員の行政長

    官(ω冨8ω①R①冨曼)、州法務官(oD雷梓⑦

    ピ⑦σq巴〉畠≦ω興)、州財務官(ω冨8「ぢ拶コ99

    0{h一6嘆)の三名が議決、投票権はないが国会

    参照)。

    議事手続きは、連邦下院と同様であ

    大のペラッ州四〇席となっている。

    (第-表

    は、ペルリス州議会の=一席を最少とし、最

    は、各州とも一院制をとっており、議席数

    州議会(ω冨梓oピoσq一ω一暮ぞ①〉ωω⑦ヨ三《)

    (53)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    勢力の相異がみうけられる。次に各州ごとの勢力分布をあげてみると、第-表の通りで泌る。一九六九年五月一〇日にお

    こなわれた選挙状況については州議会の選挙は、国会選挙と同日であり、政治状況からみても国会選挙とほぼ同傾向をも

    つので、第-表カッコ内の前回選挙にくらべ、州によっては、いちぢるしく連邦与党の連合党の後退が目立っている。

    次に、この表をみると、全般にGRM11Ω29冨昌菊暁9《響]≦巴塑《ω一㊤△≦巴餌《ω冨勺8豆oω、】〈【o〈①ヨ①簿n人民運動党が

    いちぢるしい伸びをしめしている。とくに、ペナソ州議会では二四の総議席のうちで三分の二の一六席を獲得し、選挙前

    与党の連合党と完全に入れかわった。ケラソタソ州では保守系民族主義政党のPMIP11勺9昌ζ巴僧賓き匠㊤3冨勺舞仲《

    H汎マラヤ回教党が三分の二に近い(あと一議席で三分の二)議席を得て、前回と同じく与党の地位を確保している。そ

    のほかトレンガヌ州では、連合党、汎マラヤ回教党が接近し、ペラッ州、セラソゴール州では多党化し与党連合党の勢力

    一本では政局が収拾しにくい分布状況となった。全般的にみて連合党の後退、革新系の進出および保守民族政党の進出と

    いう、相対的に多党分極化がすすんでいる。これの状況から各党とも少しつつ、地盤を固めつつあり、ペルリス州、ジョ

    ホール州を除いて連合党の圧勝できる州はない。

     州行政委員会(ω冨8国×⑦2菖くoOo彗6一「)は、州議会に対し責任をもつ、議院内閣制による執行機関(O餌σぎ9)であ

    る。サラワク州では、同委員会のことを最高委員会(ω口震①旨⑦Ooロ昌o=)とよび、サバ州では州内閣(09玄昌Φけ)とよん

    でいる。したがってその頂点には藩侯、知事、主席があるのではなく、州議会によって選出されて州主席大臣(ζ〇三二

    切①ω鉾110三①hζ一巳ω8「)がある。州主席大臣は行政委員会の委員長(Oげ巴「目き)である。しかしながら、実際の州行

    政の執行運営は、官吏である行政長官(。。§ΦωΦ自Φ§罵)によっている。長官官房は、官房総務部、土地・鉱山部、行

    54(54)

    9

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    政委員会事務局、財務部、地方自治・住宅部に部門別化されており、長官は各部門機能の執行調整にあたっている。

                                                          の

     法務行政は、連邦法務庁の官吏である州法務官の助言によって執行される。このさい、州検事総長に対しては、独自の 6

    立場で法務行政にあたる。

      州の行政区域

     各州は行政目的のため、いくつかの行政区域(㌧r畠5P圃昌一ωけ『鐙け一くO 一)一ω仲「一〇一)に分けられている。サラワク州はもっとも明

    確で第一省(けゴ① {一「ω梓 H)一く一ω一〇昌)から第五省までに分割されている。同州の各省は、さらに県(∪δ巳9)に分けられる。

    各州の県には、連邦公務員庁(寓巴昌ω冨昌Ω〈目ω興≦8)もしくは、州公務員庁(ω冨8Ω〈一「ω碧≦oo)から派遣の県監

    督官(一)房㌶一〇けO{鵠6興ふつうDOという)が在任し、州の土地行政、ゴム業許認可を執行し、地方団体の官吏を統括し

    ている。DOは連邦、州各省庁の地域出先機関長に対して地方事務を報告し、指導を受けているので地域の自治制はDO

    を通じて連邦、州のコントロールを受けていることになる。

     DOのもとに≠級治安官(ζoσq蓉鑓80h匪⑦コ笏梓Ω9ωω)があり、さらに二級治安官(ω⑦8&Ωoωω蜜①σq互鑓8)

    があって、

     註(1)

      (2)

      (3)

      (4)

      (5)

    土地行政、地方行政を補佐している。

    国母蔓国゜08〈oω噛目ず⑦Oo冨ユε二〇昌oh寓ロ一”誘言一⑩①♪℃’目ω一゜

    閏母「団国陰08くoの層ぎ置゜”O°一ω剃~一ω9

    切二犀ρ幻pω3一↓07¢昌餌POh喘一臼9ピΦ母切8評一80】≦自⊃一団ω一PO.O一゜

    築島健三、マレi人における自治と宗教、アジア経済くoドδーZρ㎝噛二五頁。

                                                     55

    藩侯地が州とされたのは、岬入九五年の四藩によってなるマレー連邦州(「巴。翼8ζ巴ミω翼。ω)の成立と、一九一四年

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

      のその他五藩によってなりたつ非連邦州(ごコh①価①機笛け①自 ω仲口梓Oω)の成立をもって考えることがでぎよう。

    (6)ゆ島=幻器巨↓昌当”P一玄畠゜唱゜①駆。°

    (7)即Q。°峯ぎρO。<①§∋①茸四巳勺。葺冨菅竃毘ミω[P戸=b。°

    (8) 竃一一昌ρ一三F戸一良゜

    (9) 「アソアの動向一九六六年」アジア経済研究所所収

    (10) 竃一言ρ戸一b。㊤゜

    第四章地方自治

    9

    56

      地方制度の起源と現行制

     マレーシアはすでにのぺた国家の独立過程、独立後人種の複合による統合の至難な過程、あるいは各人種の孤立性と都

    市の発展形態など、数多くの要因によって、地方自治制度とその運用はきわめて複雑である。したがってマレーシアの地

    方自治の性格を一括して表現することはできないが、理解のひとつの手がかりとして、なん点かの傾向を提示することが

    可能であろう。

     第一に、第二次大戦後の独立近代化をいそぐ執行過程のなかで、この国の地方制度は中央集権的な集中性が強いという

    こと。とくに非都市部にこの型の運営が強くあらわれている。

     第二に、マラヤ地域社会に伝統的に残る部落秩序、あるいは封建的支配制も地方制度に包括されているということ。し の

                                                          6

    かしながち、第一と第二の性格は矛盾することなく、妥協的な型で展開されている。

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

     第三に、地域的には、マレi系と中国系のひとびとが融合せずに、分離して同種定住しているから、第二に対応する中

    国系地域社会も独自の秩序を形成している。

     第四に、以上の傾向とまったく逆に旧イギリス直轄植民地であった地域社会では、つとにイギリス支配のもとに都市化

    がすすみ、近代的な地方自治機関が設置されている。

     第五、国都クアラ・ルソプールは連邦政府直轄の首都制度のもとにある。                  ’

     ところでマラヤの自治制は、日本のそれのように全土がいつれかの自治体に属し、各自治体は同級の自治体と同じ権限

    をもつ、画一的自治制度の下にあるのではない。

                                                      ル ラル エ

     自治能力をもついわゆるδo巴㊤暮げoユ蔓は主として人口が稠密の都市部にあるにすぎない。自治体ではない田舎部の

    リア地

    域は、連邦もしくは州の地域担当官によって行政が総括担当されている。地域担当官はO一ω三90hゑ6興(通称DOと

    いわれる)およびその下の勺Φ昌σqゴ巳⊆で、いずれもマレー人であるが、DOは、旧英連邦時代のインドで施行されていた

    制度で、元来は準司法権も行使する土地行政にあたった担当者であった。DOのもとに治安官があるが、DOを補佐する

    ことはもどより、彼は、DOの担当する地域がさらにω魯島湾二9に分けられ、その土地署(冨邑o窪8)の監督を権

            (1)

    限とするものである。

     マラヤの、法制度上自治能力をもたない、つまり地方自治体になっていない地域は、このように州政府の直接統治をう

    けるが、それらの地域の行政区画は次のようになっている。まず一般に州は、県(自一ωけ「一〇一開α90「97)にわけられる。県の

    行政官がDOである。県はさらに地区(】≦二置ヨ)にわけられ、その行政担当者がマラヤで伝統的な勺①5αq7巳ζ1ーゴ$ニヨき

    (57)57

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    で、サルタンの任命によって就任し、DOの監督の下に執務にあたる有給の官吏である。℃窪σq7巳口の執務は只一人でた

    るもので業務大系、組織によっておこなわれるものではない。これは、蜜屋置ヨをはさんで上下団体と法制上の業務関係

                   (2)

    がうすいことをしめすといわれている。家ロ置日のなかに部落(国鋤目℃o昌ゆq)があり、その代表者が部落長(〆Φけ§区鋤ヨ・

    や9σQ)であるが、部落長は行政機関の末端処理にあたり、部落民をまとめかつ、℃o昌σq『巳口の協力相談相手となる。部落

                                          (3)

    長は、官吏ではなくしたがって、地方行政の権限は勺o昌oqず巳二によって掌握されている。

     ところで自治能力をもつ地方団体がマラヤで初めて設けられたのは、ペナソ、マラッカで、一九世紀半ぽに市制が施か

    れたのが端緒であった。この両海峡植民地には市制委員会(蜜⊆三〇昼巴Ooヨ目δωδコ)が設けられ、一八五七年になると

    海峡植民地都市法(ω茸繊件ωω①琶①目o暮ω竃ロ巳o甘包》90明HQ。鶏)の制定にともなって委員の選挙が定められた。 一九

    =二年には、新都市令(Z①ξζ‘三。昼巴O巳ぎき。oo目H㊤H。。)が施行されて委員は理事官参事会(図①ω己Φ暮Oo彗o一「)

    の助言にもとづき、総督によって任命されることになった。理事官参事会は、海峡植民地内の地域社会の利益代表、有識

    者から総督の任命で構成されるものであった。この制度は一九五〇年の選挙制再導入まで継続する。

                ル ラルロエリア

     他方、ペナン、マラッカの田舎部の地方行政は、もとの海峡植民地都市法による村部区委員会(菊屋「P一 しdO卯『ユ)によっ

    て担当されていた。

     こうして両海峡植民地の地方行政は、マラヤ全土の地方行政の先端をゆくものとして、つとに施行されていたのであ

    る。こんにち権限にしてもその運用の能率にしても、マラッカ、ペナソが他の地域に比して発達しており、つづいて旧マ

    レー連邦州を形成した四州、さらに旧非連邦州の五州がこれにつづいているといわれるのはこうした沿革的理由による。

    58(58)

  • マラヤの桂会状況と政治制度の評価(二)

    6

     一八七四年ペラッ州にイギリス理事官制が採られてから、当該の州の都市に出先地方行政機関としてあいついで衛生委

    員会(oo餌巳冨qじd8巳)がつくられた。のちにこの委員会は町制委員会(↓o≦昌bdo母α)となっているが、州の出先機

    関であるからその委員長は、ふつうはDOであった。委員は任命の有識者で執行能力をもっており、技術官、保健官も加

                                         (4)

    わっていた。両官は任命委員でもあり同時に委員会の技術局、保健局担当官であった。

     第二次大戦後の地方自治の傾向は、地方団体の委員会委員の公選と財政的独立にうつってゆく。都市団体のかかる傾向

    に照応して、田舎部の団体も別の理由から自治的態勢に入っていった。一九四八年六月マラヤは、反英武力闘争を激化さ

    せる共産党に対処して非常事態を宣言するが、これとともにジャングル内部の共産ゲリラの物資補給源となる中国人村落

    を、新しくつくった部落へ移転集結させるいわゆるZΦ≦≦=四σq①政策を採るにいたった。この整序された新村落にも地

    方行政の機関としてZo≦≦一一四σq⑦Oo目ヨ一露ΦΦが設置されて地域事務の担当にあたった。当時の地方団体は主要都市に

    既設の都市団体(竃彗互で巴三Φω)、都市部の町制参事会(目o≦昌09旨。=ω)、その他に町制委員会(↓o≦昌切o錠αω)、村部

    区参事会(一四口「餌一 H)一ωけ円一〇け ∩UO二昌6=ω)、地域参事会(ピoo巴Oo⊆昌昆ω)などに分けられ、格付けされた。都市団体と町制参

    事会は、一九五〇年地方団体選挙令(】じOO塑一 〉¢陣ゴO『一け一Φω 団μ①Oけ剛O昌 ()「α一昌僧コ60 0h μ㊤朝O)によって、委員すぺてが公選に

    もとついて就任することが規定され、委員長は委員互選制となった。町制委員会も一部の官選委員を除いて公選としたの

      (5)

    である。

                                                      (6)

     こんにちマレーシアの地方団体は、一〇種あり総計五六一団体をかぞえているが、その細目は第2表の通りである。

     9蔓と都市団体(竃二三〇昼巴一芝)は権限が同様であるが、前者が伝統的地位において上絡の団体である。 Ω受は、

    (59)59

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    ペナソ州もとジョージ・タウソのペナソ市だけで一九五七年一月にΩ蔓Oo¢昌o一一の地位が付与せられた。Ωξとは、

    法的には都市団体の一つであるが名誉の呼称である。都市団体はそのほかにイポー市(甘oぽ)(ペラッ州)、マラッカ市

    (】

    ?@冨08)(マラッカ州)、国都の国直轄市であるクアラ・ルンプール(セランゴール州)の三市があげられる。 クアラ・

    第2表 マレーシア地方団体別設置件数

           (1965年)

    設置数称名体団

    1 3 25 11 5 3243鵬捌

    Cities*

    Municipalities**

    Town Councils(自主財源をもつ)

    Town Councils

    Town Boards(自主財源をもつ)

    Town Boards

    Rural District Councils(自主財源)

    Rural District Councils

    Local Councils***

    New Village Committees

    561

    長(竃翅o「)の地位につく。

     マラッカ市(目O≦昌鋤口α岡O暮

    計A口*ペナン州旧George Townペナン市のみo**国直轄のK.L.を含む。***New Village

    にのみ設置。

    ルンプールを除いて三市とも起債権は制限され

    ているが、自主財源を有し、参事会はすべて公

    選される。他種の団体に比し、もっとも自治権

    能をもち、独自の雇用契約による自主人事権を

    もっている。自治の権能の範囲は、公衆保健、

    公共土木設備の建設、文化活動、都市計画、住

    宅建設などで、 このほかペナソ市では交通、

    上下水道、電気事業がこれにくわえられてい

    る。 

    ペナン市参事会は一五人の議員によって構成

    され、参事会員のうちから一名が互選されて市

    oh冨巴碧8)の参事会は一二名によって構成され、互選で市長(中Φω三〇茸)が就任

    60(60)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    する。

     イポー市は、町制参事会から都市団体に昇格したのは一九六二年五月であるが、一八名の参事会員と、その互選にもと

    つく市長(勺匪α①邑により畿され驚.

     クアラ・ルンプールは、こまかくは後述するが、自治制のもとにはない。一九六〇年国都法(閃Φα興巴O鋤嘗冨一>90h

    μ80)によって、国家元首により指命、任命された長官(O◎旨P旨P一ωω一〇旨①「)が主宰する直轄団体となった。

     町制参事会(一『O乏昌血OO口昌O一一ω)と町制委員会(↓o≦昌bdo碧畠)は州政府の出先機関であって制限的自治の地方団体に

    すぎない。両者の差は、一九六〇年地方選挙法(いoo巴Ωo〈①ヨヨ⑦馨巨ooユ8>orμ㊤①O)の定めるところに従って、

    町制委員が公選される規模の団体となれば町制委員会は、町制参事会に昇格することにすぎない。委員会も参事会も自主

    財源をもつものともたないものがある。委員会の主宰者(勺門Φω一α①旨け O属 07鋤一『∋鋤5)は州官吏のDOで地方行政の執行を

    統括している。保健、技術の執行責任は地区保健官(U一ω爲一9=Φ巴匪Oh臣6碧)、地区技術官(U一珍二9国昌αQ3⑦興)の

    権限であり、両者とも委員会委員として官選任命されている。しかし、地域需要に対応する政策の作成と決定は、公選委

    員のイニシャティブによるものであり、その行政過程の効率性を州政府が監督とすることになっている。

     村部区参事会(図霞巴コω巳暮Ooロ昌9一)と村部区委員会(菊二「僧一 一)一ωけ【一〇梓 切09「α)は、旧直轄植民地であったペナソ

    州、マラッカ州に伝統的に、およびサバ州、サラワク州に設置されているだけで、一般的な制度ではない。町制参事会と

    委員会の構造とほぼ同様で、委員会の委員が公選による規模に達したとき参事会と称せられるようになる。連邦、州政府

    の関与は町制参事会、委員会と同様である。

    (61)61

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

     地域参事会(い08「αo§oεは、一九五二年地域参事会令(い08一〇〇ロ旨o=ω9隻葛昌80㌦ち切b。)によって設置された

    マラヤではもっとも新しい地方団体で、強い自治権を有している。その規模も人口二、○○○から一万六、○○○にわた

    る幅の広いもので、参事会は公選委員により構成され、委員長も公選され、自主財源をもっでいる。その団体が存在する

    行政区域のDOは参事会に対して予算案と条例の拒否権をもつほかは、助言の権限を行使するにすぎない。参事会の権限

                             (8)

    領域は、保健、通信開発、給水で財源の範囲で行使する。

     2⑦≦≦一冨σq⑦政策は、非常事態宣言下のゲリラ活動阻止のひとつの大作戦ともいえるが、約五〇万人の中国人を五五

    〇村以上の20妄≦「冨αqΦに移動させ収容した。一九六五年にその約半分が村内で自治を施き、参事会も設け委員の公選

    と委員長の公選を実施し、自主財源を獲得した。参事会は、公衆保健、通信、給水開発を主要の機能としている。執行に

    あたっては、全くDOの監督によっている。

     ところで、地方自治は、憲法上ω富8い一ωけとして州の権限内に所在するから、これは、自ら州政府と地方団体の関係

    問題となる。この関係が尖鋭な型であらわれるのは、州立法部の多数党と地方団体の参事会の多数党が政党あるいは党派

    上くいちがいをおこす場合である。

     一九六五年当時ネグリ.セソビラソ州の議会は、連合党が支配していたが、セレソバン町参事会は連合民主党(UDP、

    色彩ノン.コンミューナル、中国系が多い)、労働独立、社会主義者戦線(い鋤ぴo霞・冒ユ①℃Φ鼠①暮鴇ωo息巴一ωけ「3暮革新系)の

    提携であり、州は、参事会の失政を告発し、執行を停止した。停止期間中、地方行政を州政府が代執行している。同じよ

    うにペナン州では州議会が連合党に支配されていたのに対し、ペナン市議会は社会主義者戦線が多数を制しており、ペラ

    62(62)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    ッ州議会が連合党であるのに対し、 イボi都市団体議会は人民進歩党(PPPイポーの地方小政党といわれたが一九六九年総

    選挙で中央政界に進出した。後述)が多数党、 マラッカ州議会が連合党であるのに対し、 マラッカ都市団体議会の多数が社

    会主義者戦線、ケランタン州議会が汎マラヤ回教党(PMIP)であるのに対し、 コタ・パル…町参事会が連合党によっ

    てしめられているなど主要都市にこの例が多い。マラッカ市では都市団体総務部長の任命の件で両政府の見解の相違がで

    ており、イポーおよびペナソでは市営住宅の州の融資が途だえた。

     トレンガヌ州はPMIPが多数を制しているが、州内の連合党の支配する地方団体は、道路建設に州政府の手を通ぜず

    に、直接連邦政府から補助金をうけている。これら、政策上のぞこからあらわれるくいちがいは別として、州政府と地方

    団体の、権限による執行行為の両政府間調整が州政府、地方団体関係の次の主要な問題である。この調整権限は、中央政

                                   (9)

    府の内務大臣の監督のもとにある地方自治、住宅管理官の権限であった。

     マラヤ連邦当時の憲法には第九四条三項に連邦政府が諸州に対し助言、技術指導を行ない、地方行政の調整を行なう権

    限を留保していた。しかし、一九六〇年の改正で、国家政策の促進と地方行政の発展、監督のため、地方行政国家会議

    (Z餌叶一〇昌9一 〇〇口】日O一一 hO「 】UOO⑳一 轟りO〈①円昌5P①昌け)の設置が規定された。この会議は、決定したいかなる政策も、連邦、州政

    府が執行しなけれぽならない強力な調整力を有することになった。会議がもっとも強力な権限を発揮したのは、各地方政

    府の人事、職掌を画一化した地方公務員法(H、OO鋤「 ∩ΨO<Φ「昌5PΦ昌什 ω①「<一〇⑦)の法案作成であった。この会議の設置目的は

    基本的には連邦、諸州政府間の関係調整であるが、連邦政府は、州政府を支配し、州政府は地方政府を監督するという論

                               (10)

    理で、会議の地方行政に対する強力な調整権が確立されている。

    (63)63

  • Vラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

      マレーシア国都制

     国都クアラ・ルソプールは、 一九六〇年まで、自治体(ζ屋三〇昼巴Oo§o一一)であったが、同年の国都法(閃①畠鐙o「

    O碧器巴>oけohお①O)により一九六一年四月から連邦政府直轄地となり、自治体は改組された。国都の行政長官は、

    五年以下を任期として国王によって任命される。

     行政長官は正式には国都クアラ・ルソプール長官(9ヨ邑ωωδ昌興o{」匪Φ聞①α①N巴9且琶o{訳§冨ピヨO霞)と称

    し、当該の地域の行政権を集中的に掌握しているが、諮問委員会(〉α≦ωo蔓切o母畠)が補佐する。諮問委員会の構成は、

    地方自治、住宅省秘書長、大蔵省秘書長、文部省事務次官、官制編制官、保健省事務次官、労働・郵政.通信省秘書長の

    六名の官吏がメソバーとして参加し、別に五名の民間代表者(一九六九年現在、中国人三名、マレー人二名)が参加し、合計

    十一名で構成されている。いつれも国王の任命によっている。諮問委員会は長官を基本政策上補佐するにすぎず、執行権

    能は全く長官に帰属している。会議は年六回の定例会議と月一回の臨時会議を開いて審議するが、会議決定は長官を拘束

    しない。

     長官の下に執行部門として七部がある。この人事は一九六〇年直轄化以前の自治体当時の吏員のままであり、各部構成

    もその事務分掌も従前のままである。総務部、財政部、建設部、技術部、保健部、税評価部、都市計画部の七部がある。

     クアラ・ルソプールの住民と都市経営の接点として各常設委員会(Oo目日一洋Φo)が設置されている。各委員会は、官制

    組織委員会(Ooヨ巨§Φ8》召oヨ§Φ昌けω)、個人商業苦情処理委員会(閏o⇔二昌σqO9Φ〇二8ω1勺『ぞ98ω耳09≦o美ω

    Ooヨヨ一洋8)評価苦情処理委員会(出8二轟o{09①a8ωー》ωω⑦ωω日o昇O。ヨ巨g。)、都市計画委員会(↓o≦昌勺鼠雪言σq

    64(64)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    Ooヨヨ一馨①⑦)、合同委員会(冒一暮Ooロ昌o=)、産業合同委員会(智一馨ぎαロω巳巴Oo巷6一一)、 監督委員会(目o鼠o諺

    bdo曽「α)、交通諮問委員ム万(目属9哺臣o>畠≦ωo「賓Ooヨヨ一洋⑦o)游泳プール一諮問委員ム諏(ω≦一ヨ】β一昌σq勺oo一〉自く一ωo「《Ooヨ】B一洋o⑦)

    の旧委員会のほか、特別委員会として、行商問題委員会(国⑦画興巴O鋤且冨「国p≦犀o「ω.Ooヨヨ一け80)、不法建築居住者処

                                                   甲

    理委員会(ωρ§§【ωΩ8鑓昌800§ヨ一§①)、国都予算委員会(Ooヨヨ葺o㊦o昌聞o畠臼巴〇四風9一国ωニヨ母oω)、公営企

                                              (11)

    業諮問委員会(08ω巳冨鉱くoOo∋§葺Φoo喘罫』三〇昼巴Oo60轟け阿8ω)、以上の諸委員会がある。

    註(1) ≦ぎΦLげ一α.o」O切

     (2) 築島謙三「マラヤの村の自治」東南アジア研究・第四巻第二号。

     (3)築島・前掲論文。                       .

     (4)竃躍器コげ回O°娼」①①゜

     (5) 政府刊行資料Ho8一〇〇〈Φ∋ヨ魯8℃°卜。.

     (6)≦言oし三α゜O」①刈’

     (7)響巨勾霧邑目讐ロ轟P一三P,β

     (8) b口鼻億即器ヨ一弓p。7§pP一玄α゜℃°刈ω.

     (9)言言①」ユα゜o」①9

     (10) 言一一5①L三拝℃°旨一゜

     (11) ぎho吋ヨ妙二8口雪自8評一㊤鵯~o。月冨Ooヨ葺ψ゜・δ50『oh団oαo「9・一〇昌一冨一〇h訳轟冨ピ虞3薯『°

       第五章 選挙制度と選挙状況

    選挙制度゜

    O

    (65)65

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

     第二章においてのべたように、マレーシアでは、上院は州議会で選出された議員と国王により任命された議員によりな

    りたっているので、直接の公選制議員は、下院議員、州議会議員および地方議会議員である。

     第一回の下院総選挙は、マレーシ・ア独立以前の一九五五年当時のマラヤ連邦立法委員会選挙で、五二議席が公選されて

    いる。第二回は一九五九年の一〇四席、一九六四年に同じく一〇四議席、一九六九年に一〇四議席が公選されている。一

    九五五年の選挙は、総議席九八議席のうち五二議席が公選によるものであって、残り四六議席は任命議員であった。当時

    の公選制度は、マラヤ全土を五二選挙区に分割し、一区一人の定員をもって施行する小選挙区制であったが、一九五九年

    には、この選挙区を倍増し一〇四区とし、同じく一区一人制をとったものである。以降下院選挙はこの制度を継続してい

    る。一九六九年の選挙から西マレーシアの一〇四議席とサバ州一六議席、サラワク州二四議席、合計一四四議席の公選が

    定められたのであるが、すでにのぺた事情で東マレーシアは下院総選挙の延期がきまり、一〇四議席の公選が実施された

    にすぎない。ただし、この選挙のさいサバ州で連合党の一〇名が無競争当選しており、これは非常事態宣言の結果の選挙

    延期でも当選失効はなかった。その結果合計一一四議席が定った。下院議員の任期は五年、国王による解散もある。

     総選挙の管理は、選挙委員会(け70 閏U一ΦO仲一〇昌OO日ヨ一ωω一〇昌)によっておこなわれる。選挙委員会は、州統治者会議の審

    議を経て国王により任命されるもので委員長と二名の委員、計三名によって構成されている。委員会は、他の機関から全

    く独立している行政委員会である。委員会のもっとも重要な機能は、八年から一〇年ごとに選挙区の区分けを検討し、こ

    の結果の修正案を下院で審議するよう首相に進言することである(憲法第一一三条)。さらに、これにともなって首相から

    代議制の数の修正を諮問される。州議会の議員選挙の管理権をも委員会は行使しているので、その選挙区の修正および一

    66(66)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    区一人の定員制にもとつく議員数を進言する。各州はそれぞれ規模が異るので議員数は区区である(前掲の第-表参照)。ま

    た下院と州議会の選挙区は異り、前老の方が後者より広域である。都市のような人口稠密の選挙区と非都市部の選挙区の

    代議権の差がさんきん目立ち、都市部選挙区の有権者数は非都市部の平均二倍となっている。しかし、非都市部にはマレ

    素の住民が多く・の票を強化するため代議制不均衡の是正はされないだろうといわれている塵萎格は・肇区に居

    住するもので選挙人確定名簿に記載されるとき二一才に達する男女にある。

      選 挙 状 況

     マレーシアの下院選挙は、四回を経ているにすぎず、コンミューナルな利益の葛藤のなかで、しかも対イソドネシア、

    フィリピソ、シンガポールとの国際関係もこの少ない選挙の間に微妙かつ複雑にからみあっているから、各回とも特質の

    ある状況を露呈した。一九五五年のマラヤ連邦立法委員会選挙では、当時マレー人優先の市民法があり、有権者の人種別

    構成がマレー系八四・二%(一〇八万)、中国系一一・二%(一四万)、その他四・六%(六万)となっていた。 かかる中国系の

    政治参加の制約は、結果として当然マレー系の政党に有利な効果をもたらした。また選挙区は一区一人制ではあるが、当

    時は、第二回選挙の二倍の広域が、一選挙区の面積となっており、広域に基盤をもつ連合党が絶対有利に選挙対策をくめ

    たのである。第3表にあるように五二議席中、マレi系民族主義政党の汎マラヤ回教党一議席を除いて、連合党がすぺて

    の議席をしめたのである。この選挙にはこれらのほかにいくつかの注目すべき問題点があった。一九四八年六月から一二

    年間にわたって非常事態宣言下にあるが、この間、対共措置の一端として労働政治運動がきびしく制限され、活動が可能

    であった政党は、連合党の母体としての連合マレー国民組織だけであった。他方、一九四九年に組織されたブルジョア華

    (67)67

  • d

    第3表 国会議員選挙・各回・政党別当選状況

    1955年当幽得票数辮

     51 10000

    ー°

    0

    0

    52

    OAC党党会盟党党党党党党線党属

    N 教協連歩主歩動戦動

    Mc-姫爺進∵進行働臓運所

    罷マラたフA口民主

                 会民

    連合党汎国ぺペペマ連人民労社人無

      (11)坦瀧Q遡羅鯉督幻駕萎姻担Q辛甑セ

    計合

     818,013

     40, 667

    } 79,909 20, 996

      1:謝

    4,786

    31,642

    1959年当幽翻劃得票率

    79.6

    3.9

    7.6

    2.0

    0.5

    0.1

    0.4

    3.0

    100%

    4nj1

    71

    789,730

    324,635

    32,578

    13,404

    97,391

    51.5

    20.9

    2.1

    0.9

    6.3

    12.2

    4.8

    100%

    1964年当幽騨数晦率

    8

    3

    104

    198,454

    74,194

    97390

    「09臼

    1

    2

    1

    2

    0

    104

    1’2°4’ 34°P300,837

     7,319

    84,224

    74,898

    42,130

    330,898

    13, 519

    58.4

    14.6

    0.4

    4.1

    3.6

    2.0

    16.1

    0.7

    100%

    1969年

    oO

    当幽徽数得票率

    li}12

    43

     1

    8

    104

    49.2

    24.3

    4.9

    12.5

    8.4

    100%

    (注) 空白欄は当時立候補しないあるいは,存置しない政党。連合党=Alliance,連合マレー国民組織=UMNO,,マラヤ中国

      人協会=MCA,マラヤ印度人会議=MIC,汎マラヤ回教党=PMIP,国家党=・ Neg・ ・連合民主党=UDP・人民進歩党

      =PPP,民主行動党=DAP,労働党=LPM・社会主義戦線=SF,人民運動党=GRM・

    (°。O>

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    僑政党のマラヤ中国人協会は、 一九五二年のクアラ・ルンプール市議会選挙で、連合マレー国民組織と同盟して圧勝し

    た。これが契機となって、両組織の結合化がすすめられるが、一九五五年直前になってマラヤ印度人会議がこの結合に加

    わってこんにちの連合党が組織されたのである。ところで、こうした三人種のブルジョア階層の丸がかえ組織が完成した

    もうひとつの背景は、一九五五年選挙がマラヤ連邦独立交渉をすすめる暫定政府担当者を選出する選挙であったというこ

        (2)

    とである。かくて反植民地主義、民族の独立をうたう革新諸政党の制約下でブルジョア的連合党が圧勝することは自明で

    あ・た。事実イギリスが・の時機から、独立の交渉相手をザルタン支配体制の旧指導層から、連合党のなかの連合マレー

                    (3)

    国民組織の上層部にのりかえつつある。

     一九五九年の選挙もまた非常事態の宣言下で執行されている。しかし、翌年の宣言解除の直前のことであるから幾分共

    産ゲリラの恐怖感も弱まっており、社会主義戦線八議席の伸長と、人民進歩党の四議席確保がその結果としてあぢわれ

    た(第3表参照)。また新市民法が制定され、有権者の構成はマレi系五七%(=;芳)、中国系三六%(七八万)・その他七

    %(一七万)とかわり、先回選挙に比して中国系の構成率が三倍以上となり、両革新政党の伸長に大きな役割を演じていた

    のであった。さらに前述のようにこの回の選挙から選挙区が倍増しており、この効果は、都市部では両革新政党の、農村

    部では汎マラヤ回教党の=二議席の確保を促した。かくてかつての連合党万能の時代を脱皮した。それでもなお連合党

    は、三分の二議席を上回ること四議席を確保しており依然として与党の強大さを保っていた。

     ところで、一九五九年以降の政治事情の大きな問題は対イソドネシア問題が顕在硬化してきたことである。マレーシア

    の成立は一九六三年であるが、六一年五月、ラーマン首相はマラヤ連邦にシンガポールとサバ、サラワク、ブルネイを加

    (69)69

  • マヲヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    えてマレーシアを結成する構想を発表した。しかしこれがいわゆる新植民地主義であるとして、当該地の革新系組織から

    批判をうけ、’イソドネシアも新興勢力を抑制するものとして、構想を非難反対した。一九六四年の選挙直前には、ボルネ

    オにおけるマレーシア軍と、マレーシア領内のイソドネシア・ゲリラの停戦の方式が討議されていた。四月二五日の総選

    挙の前の二月には、このマレーシア紛争の最後の問題点であった、イソドネシア・ゲリラを撤退させるに当り、イソドネ

    シア側は英軍のマレーシアからの撤退を要求することがデッド・ロックにかかり、結局、紛争の解決は、引き伸ぽされ

    て、事実上決裂したのであった。

     一九六四年選挙にいたって、この事情を背景にしてマレ」シア紛争の見通しが不確定であるときに、政府が解散・選挙

    にもち込むことは、与党にとってきわめて有利なことであった。しかも、マレーシアの成立が国民にとってどう評価され

    るか、という問題を問う選挙でもあったら、この時機はまさに与党連合党にとって絶好の好機であったのである。簡明に

    いえぽ、イソドネシアと闘うーマレーシアの安全を守る与党に対する信任を問う選挙でもあった。

     選挙のさなか野党の革新政党はマレーシア成立を新植民地主義として反対するもの、汎マラヤ回教党はマレー人のみの

    異人種を容れないマラヤを固守するもの、したがってマレーシア成立を反対するものとして、連合党から批判を浴びなけ

    れぽならなかった。

     かくて執行された一九六四年選挙は、連合党が失地ぽん回を達成した。先回の議席から一五席の伸長をみて八九議席を

    獲得した。これに対し、野党の全面的後退は、明らかに不利な背景の選挙であったといえよう(第3表参照)。しかし、も

    う少し細かく革新勢力について検討すると、社会主義戦線のばあい、議席は減少しているが、得票率がふえていることで

    70(70)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    ある。選対の失敗と、反面、小選挙区制における小党の不利が災わいしていることをこれは示しているのである。こうし

    てあながち政局は、連合党の圧勝を意味しているものではなかった。この選挙において、政治的状況の与党に対する有利

    が、一つの特質であるならぽ、もう一つの特質として、シソガポールを基盤とする人民行動党の立候補進出もあげること

    ができる。民主行動党(人民行動党)は、一九六三年、シンガポールの州議会選挙で圧勝して以来、マレーシア成立を支持

    し、六四年国会選挙においては、革新政党を批判する型で立候補した。しかし、民主行動党は、一議席を得るにすぎない

    という結果で惨敗するが、やはり準備不足と中国系の有権者の大部分が、与党内のマラヤ中国人協会と民主行動党への二

                                    (4)

    分化、むしろ前者への大量傾斜という結果が原因であったといわれている。

     一九六五年つまりこの選挙の翌年に、マラヤは、マレーシアからシソガポールを分離させるにいたるが、その原因は、

    いろいろ取り沙汰されてはいるが、なんといっても政治の力関係からみて、この選挙後、シソガポール州政府与党の人民

    行動党とマレーシアの連合党はますます離反の距離を増してゆくことからくる。

     一九六九年五月一日執行された選挙は、すでにのべたように選挙後に暴動をともなったものであり、最初は野党側革新

    系支持者たちと与党側保守系支持者たちの葛藤であったが、対立の激化は後半において人種騒動と化した。政治的勢力の

    相剋とコソ、ミューナリズムの矛盾が明らかに表裏一体であった特質をもたらしたのである。今日になって労働者側の与党

    に対する挑戦が原因となったという説もあり、与党側の挑発という説もあり、不分明であるが一応選挙にいたる迄の背景

    をとりまとめてみよう。いつれにしても中国系の動向ないし、その動向に対する問題意識が大きな核になっていることだ

    けは、見おとしてはならないであろう。その基盤になるものは、すでにいくつかの事例ないし政治問題の背景としてとり

    (71)71

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    あげたコソミューナリズム、つまり人種間の縦割りと、冨く①と莚く⑦昌o陣という横割り、この接点あるいは混合の政治

    的イッシューである。前者、マレー系と中国系のコンミューナルな溝を深めたのは、やはり国語問題であった。一九六七

    年、与党は国語法案の国会上提につづいて、一挙に多数の力でこれを通過させたのであるが、この間にいくつかの間題を

    露呈させた。一つは、すでにのべた連合党内の、マラヤ中国人協会と連合マレー国民組織間の内紛対立である。もう一つ

    は、マラヤ中国人協会の国語問題に対する弱体に少なからず不満をもつ、中国系選挙民が、同協会支持から離反し、他の

    中国系諸政党へとくらがえをはじめたことである。他方、この間ラーマン首相は、国語問題でマラヤ中国人協会との妥協

    ないし中国系かん和策のための妥協として、英語の併用をはかるわけであるが、こうした妥協案が、マレー人への裏切り

    として反対する汎マラヤ回教党の強い非難を呼びおこし、同民族的政党の伸長基盤を提供してしまうのである。中国系の

    ひとびと、マレー人のマラヤを標榜するマレー人の間の隔絶には、すでにいく度かふれたように、根深い対立と距離が

    ある。前者が、マレー人優先政策ないし制度に潜在的な不満をもっているのに対し、マレー人側は、政府の奨励するマレ

    ー国語で教育をうけ、学校を終了しても、英語教育で学校を終了したものに就職の好機を常にさらわれるという現実の不

    満がある。英語教育の結果優遇されるといううらみが、中国人さえいなければ、という問題にすりかえられているわけで

    ある。くわえて、政府は当初マレ…語を教授用語とする小学校を国民学校(ω①ざ冨げ閑oげ鋤昌σqω器ヨ)として財政援助を施

    したのであるが、その後非マレー系の圧力により、もしマレi語を必修とするならば英、中、タ、ミル語を教授用語とする

    学校にも、国民学校に準ずる国民型学校(ωoぎ冨げ円①三の国①げきσqω①9昌)として財政援助を与えるという方針に変ってい

    った。これは明らかにマレー系のふんまんをかった。こうしてマレー系、中国系の距離を拡げる一方、両者の連合党支持

    72(72)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    からの離反をすすめていったのである。

     ところで、連合党は、党内マレー系の主流政党である連合マレー国民組織を中心に、親イソドネシアの政策をとる革新

    系、労働党に対して取締りを強化し、前述のようにペナンの暴動のさいには労働党内の中国系、人民党、さらにその相手

    方となった民族的ラディカリストとしての汎マラヤ回教党を含めて党員幹部の多数逮捕を行ない、翌六八年にも労働党幹

    部の逮捕を断行している。こうして、六九年総選挙寸前には毛沢東路線を標榜する労働党が選挙のボイコットと弾圧反対

    のための、一万人動員の大デモをクアラ・ルンプールで展開しており、ゴ母o昌oけと与党の対立激化が如実にあらわれて

    きたのであった。これによる中国系とマレー系の深い溝が、選挙後、人種間の憎悪と化し、政治問題よりもコンミューナ

    ルな問題へ変容拡大されていったことは、すでにのぺたところである。

     また、他方、コソ、ミューナルな垣根を破って汎マレーシアの政策をかかげる組織化の動きが一九六四年以降拡げられて

    きた。このオルグは、六四年選挙で議席一を獲得した連合民主党である。同党はペナソを基礎にした中国系を多数党員か

    かえているが、いわぽノン・コンミューナルな政党で、六七年に至って社会主義戦線の穏健左派、マレi系インテリゲソ

    チャの支持を得て、一応解党し、同年、人民運動党(O①「四犀餌昌園僧”坦《9件一≦巴凶《oo冨11Ω閑】≦)を成立させた。新党は、社

    会主藩祉国家を目指し、マ・夫優先政策を原則的に認めるという柔軟な立場をと・てい疇.

     以上のような長く根深い政治的潮流のなかで、選挙戦に入る直前、連合党にとっては、直接的に間接的に不利になる事

    件が発生した。四月二四日ペナンにおいて連合マレー国民組織の党員が選挙運動中に殺害され、五月四日には前述のよう

    に中国系労働者が警官に射殺されており、マレー系および中国系選挙民の間に政治とコソミューナリズムの接点における

    (73)73

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

    衝動的な感情を与えたのである。これよりさきに、中国系野党の間で、中国語による教育の独立大学設立の構想が出され

                                             (6)

    ており、政府はこの設立認可を出し渋ったことが中国系の住民の感情を悪化させたのであった。

     こうしたなかで一九六九年五月一〇日の、西マレーシアの選挙結果は、連合党が解散前の八九議席から六六議席へと凋

    落した。東マレーシアの選挙投票は、投票箱を河川をめぐる舟で持ち回る方法をとるので、はるかに投票と開票はおくれ

    る。したがって選挙結果の判明は、時機的につれをみるのであるが、暴動に対する非常事態宣言によって今回は延期され

    たのである。けれども無競争当選者はこの限りではなく当選となり、当該者のサバ州連合党系一〇名が加わり、七六名の

    議席となった。いつれにしてもマラヤにおける連合党の勢力の後退はいちぢるしいが、第3表に示すように、その内わけ

    としては、マラヤ中国人協会の一四議席の減少が非常に大きい。それに対し、民主行動党の一議席から=二議席への増加、

    新党として登場した人民運動党の八議席の獲得は、きわめて注目すぺき政治分布の変動をしめした。

     民主行動党は、その性格を一部前述したが本体はかつてのシソガポールを基盤にした人民行動党であり、シンガポール

    の分離後マラヤに残った党員らによって形成された党である。マラヤでは同党の評価は、社会主義政党であるが、人民行

    動党に追ずいし、社会主義的指導者をもたないと酷評されており、したがって労働党の挫折以降その支持者を吸収しえな

    い弱体政党といわれていた。同党の今回のス目ーガンは、回教の国教化否定、サルタソ体制の否定、マレー語の国語化否

    定という、マレー.コソ、・・ユーソに対立する、いわば竃巴鋤旨昌宮巴①《ω冨に対立する竃負。冨網ω冨昌竃巴国くω冨であると

    し、それが中国系の心情に訴えるところがあったといわれている。また事実上、許される革新政党は、これただひとつだ

    けでもあり、この全く有利な背景からとくに都市部で進出した。

    74〈74)

  • マラヤの社会状況と政治制度の評価(二)

     連合党の連合マレi国民組織も議席こそ八席の後退にすぎなかったが、マレー系の支持者の離反とその、汎マラヤ回教

    党への移向が各所であらわれた。汎マラヤ回教党の地盤は、そもそもは、ケラソタソ州をはじめペルリス州、トレンガヌ

    州、ケダー州にあり開発の遅れた農村のマレ!人に支持をえていたのであるが、今回は、これらの四州で伸びると同時

    に、あらたにパハソ州の切り崩し進出に成功している。人民運動党の八議席の獲得は、穏健、健全野党としての価値に集

           (7)

    中した結果である。

     ところで、野党の進出は、総選挙ぽかりでなく同時に執行された州議会選挙でも、かなりな勢であった。だいたい連合

    党を除いて、野党は限られた地域に、したがって人種が地域的に偏在をみるから、支持層の人種が特定化する性格が強い

    が、今回から州議会選挙で、一、二の例外を除いて連合党の全面後退と同時に比較的広い州に亘っての、野党進出ないし

    拡大化が示されたのである。

     かくて、今回の選挙は、かなり下部から新しい政治勢力の分布をえがきだすとともに、また新しい政治状況をくりひろ

    げてきたと評価することができよう。

     註(1) 串国.O容く⑦ω、目冨68。■蜂鐸ユo口oh寓曵亀ω断P,刈Q。

      (2) 口羽益生「マレーシア連邦の総選挙(一九六九)について」東南アジア研究・一九六九/九所収。

      (3) 長井信一「マレーシアの政治と一九六九年総選挙(1)」アジア経済・一九六九・一〇所収。

      (4)長井・前掲書。

      (5) 口羽・前掲書。

      (6)長井・前掲書。

      (7) ↓7¢Qo樗巴冨↓一∋窃”寓ミ目卜。°一Φ①P南洋商報星期刊.五月十一月。

    (75)75