Home away from home: Father Tony's 15 years in Taichung

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Father Antonip Salvanya leaves Taichung after 15 years' constant struggle to improve the living and working conditions of the OFW's in the middle part of Taiwan. This article first appeared in Hanabi No.44 in June of 2009.

Transcript of Home away from home: Father Tony's 15 years in Taichung

台湾中部で 15 年間に渡ってフィリピンから来

る契約労働者たちにとっての『故郷を離れた故郷

Home away from home』であったパストラル・セン

ター(Pastoral Center for Filipino Migrant Workers)が、

センターと歴史を共有してきたアントニオ・サル

バーニア神父の帰国とともにその歴史を閉じる

ことになった。

アントニオ・サルバーニア(Antonio C. Salvania)神

父、通称『トニー神父』。1949年、ラグナ州サン

パブロ市(San Pablo, Laguna)に生まれる。10人兄弟

の 7番目。高校から神学院に進み、ルセナ(Lucena)

教区のユニサン市(Unisan City)教区教会神父と

なった。45歳(1994年)のとき、ル

セナ教区の司教によって台湾台中

教区の神父として派遣され、60 歳

になる今日まで 15 年間を台中で

OFW(Overseas Filipino Workers-海外

フィリピン人労働者)救済のために奮

闘してきた。帰国後はルセナ教区で

中華系フィリピン人信者たちのた

めの神父を務める予定だ。今回、セ

ンターの歴史を閉じるにあたって、

設立から今までを振り返っても

らった。

日本男性日本男性日本男性日本男性ととととフィリピンフィリピンフィリピンフィリピン女性女性女性女性

ののののカップルカップルカップルカップル、、、、OFW のためにのためにのためにのために

奮闘奮闘奮闘奮闘すすすす 当時の台中では、烏山逸男(から

すやま・いつお、英語名は Simon)とア

イーダ(Aida)という夫妻が自分達

の自宅を解放してOFWたちのため

這間位於台灣中部擁有

15 年的歷史的天主教牧靈中

心(Pastoral Center for Filipino

Migrant Workers),對於自菲律

賓來台工作的短期移工們來

說,是相當於『在故鄉之外的

另一個故鄉 Home away from

home』這樣的存在。然而,和

此中心從創辦開始一路走來

的 Antonio C. Salvania神父即將

歸國,牧靈中心的歷史也將隨

著在此劃下句點。

Antonio C. Salvania神父,大

家稱呼他為『Tony 神父』。1949

年出生於 San Pablo, 盧賽納。在 10 個兄弟姐妹當中排

行第七。高中畢業之後進入神學院就讀,之後在盧賽納教

區的(Unisan City)擔任教區教會神父。45 歲(1994

年)的時候,接受盧賽納教區司教的指示來到台灣的

台中教區,直到今年即將邁入 60 歲,一共 15 年時

光都在台中為 OFW(Overseas Filipino Workers 菲律賓

外籍移工)付出心力。返國之後,預計將在盧賽納教

區繼續以神父的身分為菲律賓華人的信眾服務。這

次,在牧靈中心即將走入歷史的機緣之下,我們請

神父回顧了從創立至今的歷程。

日本男子和菲律賓女子日本男子和菲律賓女子日本男子和菲律賓女子日本男子和菲律賓女子

的夫婦 為的夫婦 為的夫婦 為的夫婦 為OFWOFWOFWOFW竭盡心力竭盡心力竭盡心力竭盡心力 當時在台中一對名為烏

山逸男(Karasuyama,Itsuo 英文

名 Simon)和艾妲(Aida)的夫妻

提供自家的空間讓 OFW 舉

辦各式各樣的活動。

烏山逸男先生在 1981

年,參加了日本國際援助機

構(JICA)名下的海外青年志

工隊,曾被分發到菲律賓的

ミンダナオ島サン・イシド

ロ。回到日本之後,烏山先生

於 1984 年和在サン・イシド

ロ認識的艾妲小姐結為連

理,並進入日本的大型企業

工作。之所以會來到台中,是

15 年の歴史を閉じる

““““故郷故郷故郷故郷をををを離離離離れたれたれたれた故郷故郷故郷故郷故郷故郷故郷故郷をををを離離離離れたれたれたれた故郷故郷故郷故郷故郷故郷故郷故郷をををを離離離離れたれたれたれた故郷故郷故郷故郷 Home away from homeHome away from homeHome away from home”””” トニートニートニートニー神父神父神父神父と Pastoral Center for Filipino Migrant Workers 洪金月・陳妤琳・阿川

トニートニートニートニー神父神父神父神父―――― 2009.5.15、、、、センターセンターセンターセンターにてにてにてにて

2009年 6月発行 花火 44号記事

の活動を行っていた。

烏山逸男さんは 1981 年、日本の国際協力機構

(JICA)が行っている青年海外協力隊に参加して

フィリピンのミンダナオ島サン・イシドロに派遣

された経験を持つ。日本に戻った後、烏山さんは

1984年にサン・イシドロで知り合ったアイーダさ

んと結婚し、日本の大手商社に勤務するようにな

る。台中へは、この商社の派遣社員として赴任し

ていた。彼のアパートが多くの OFWが集えるほ

どの広さであったことは、1990年代初頭の日本企

業の派遣社員の待遇が今とは比較にならないほ

どよかったことを示してもいるのだろう。

烏山さんは 94 年秋にアイーダさんとともに日

本に帰国し、勤めていた商社を辞職、故郷長崎に

戻り養護施設で働くが、97年にサン・イシドロに

移住し、そこに私財を投じて「歓びの家(House of

Joy)」という孤児院を設立している。台中勤務の

際に OFWたちの面倒を見ることに熱心であった

のは、アイーダさんの意向もあっただろうが、逸

男さんのこのようなフィリピンへの思いの表れ

でもあったのだろう。『彼は金儲け仕事よりも人

を助けることに思いを傾けていた』と、当時を振

り返ってトニー神父は語る。

1994 年当時の台中でフィリピン人が参加でき

る英語でのミサは三民路の小さなチャペルで、メ

リノール・ファーザーズ(Maryknoll Fathers)がやっ

ていたミサしかなかった。メリノールとはアメリ

カ合衆国系の海外布教組織(Catholic Foreign Mission

Society of America)で主にアジアへの布教活動をし

ていたが、教区教会を構えて地元に根を張った活

動を行うような基盤はなかったようだ。少数の

OFWがそれに参加していたが、大部分の OFWは

言葉が分からないまま近隣のカトリック教会で

台湾人のミサに参加したり、家で祈るだけだった

りという状態だった。英語はすべての OFW に

以這間公司的派遣員工的身分來的。他的公寓具有

足以讓很多的 OFW 在此集會的寬闊,這也顯示

1990 年代初期日本企業對派遣員工的待遇可是好

到沒有辦法和當今比較的吧。

烏山先生在 1994 年秋天的時候和妻子艾妲一

起回到日本,辭去了原有公司的工作,轉而回到故

鄉長崎當地的安養機構就職。1997 年移居到聖伊西

德羅,在那邊自費成立了名為「歡喜之家(House of

Joy)」的孤兒院。他們在台中工作的期間,之所以會

對 OFW 如此熱心付出照料,或許是出自於愛妲小

姐的意思,也或許是出自島山先生對菲律賓那份特

殊的情感吧。一邊回想當時的 Tony神父是這樣描述

的:『他比起能夠賺錢的工作,他更致力於能夠幫

助別人的工作。』

1994 年當時在台中菲律賓人可以參

加的以英文進行的禮拜,是只有在三民路

的小小的禮拜堂,由 Maryknoll Fathers 所主

持的。Maryknoll Fathers 是美利堅合眾國的

海外傳教組織(Catholic Foreign Mission

Society of America),主要對亞洲各地進行

傳教活動。然而,似乎沒有能像教區教會

那樣在當地紮根進行各式活動的基礎,故

僅有少數的 OFW 參加。大部分的 OFW 都

是在語言不通的情況之下參加附近天主

教教堂的台灣人的禮拜,或者是在家中祈

禱而已。況且對 OFW 來說英語也不能說是

共通的信仰語言。如果可以的話以菲律賓

母語他加祿語舉行的禮拜也是必要的。烏

94年当時のトニー神父と烏山逸男(右)

94 年當時的 Tony神父和烏山逸男(右)

烏山家に集うフィリピンの人たち。最左がトニー神父、その隣の

眼鏡の人物が烏山逸男、横の赤ちゃんを抱えているのがアイー

ダ。/來自菲律賓大家在烏山先生家聚會。最左邊的是 Tony神父,

旁邊戴著眼鏡的是烏山先生,在他旁邊抱著小孩的是愛妲。

とって共通の信仰言語とは言えない。できればタ

ガログ語のミサが必要だ―烏山夫妻は、当時の台

中教区司教、ジョセフ・ワン(王愈榮)に事情を訴

え、フィリピンから神父を台

中に派遣してくれるよう働き

かけた。ジョセフ・ワンはフィ

リピンにこの依頼を伝えた。

依頼に応えたのは、ルセナ教

区司教だったルーベン・プロ

フゴ司教(Bishop Ruben Profugo)

だった。プロフゴ司教は、教区

内の神父であり、すでに福建

語の勉強を始めていたトニー

神父に『二年間台中に行って

中文か台湾語を勉強してきな

さい。そして帰ったら、この地

(ルセナ)の中華系信者たち

のために働きなさい。』と指示

した。『自分から進んでやって

みようと思ったわけではない

んです。司教から言われて、2

年間のつもりでこの仕事を引

き受けたんです。』とトニー神

父は当時を回想する。

トニー神父は、かくして

1994年 7月 2日に台中にやっ

てきた。今でも日付を正確に

覚えている。最初にしなけれ

ばならなかったのは、OFWた

ちがミサ(礼拝)を行うことが

できる教会堂を捜すことだっ

た。台中教区の中心であった

復興路にある南台中天主堂を

使うことができるようになっ

た。そこでタガログ語による

ミサを始めると、台中だけで

なく彰化や苗栗、南投などか

らも電車に乗って OFWが集まるようになった。

すべてのきっかけを作った烏山夫妻はしかし、

トニー神父がやってきたほぼ 2ヶ月後の 94年の 9

月末に日本に帰国した。OFWの安らぎの場(home

away from home)であった烏山夫妻の家は使えな

くなってしまった。

最初最初最初最初ののののパストラルパストラルパストラルパストラル・・・・センターセンターセンターセンター トニー神父は OFW たちのための新たな場所を

復興路の教会近くに捜した。見つけたのは台中路

44号の 4階の小さな部屋だった。大きさは極めて

不十分だったが、当時のトニー神父にはそれ以上

の大きさの場所を借りる金はなかった。トニー神

父の活動資金は、基本的には日曜日のミサで信者

たちが寄進する金がすべてだった。94 年 10 月 2

山夫婦向當時的台中教區司教王愈榮先生提出這

件事,想因此促成菲律賓當地派遣神父來到台中。

王愈榮先生隨即對菲律賓提

出委託。回應這項要求的是盧

賽納教區當初的司教 Bishop

Ruben Profugo。Profugo 司教對

當初同時為教區內的神父,並

已開始學習福建話的 Tony 神

父下達了這樣的指示:『你到

台中兩年好好學習中文或是

福建話。回來之後,再為這裡

盧賽納的華裔信眾服務。』

Tony 神父一邊回想,說:『當

初不是我主動想要嘗試才來

的。是因為被司教拜託,抱著

只有兩年就回去的打算才接

下了這份工作。』

Tony 神父在曾在 1994 年

7 月 2 號來過台中。不過現在

也記不太清楚確切的日子。當

初之所以得來,是為了尋找合

適 OFW 做禮拜的教堂。最後

成功找到位於台中

教區中心位置、復

興路上的南台中天

主教堂。在這邊以

他加祿語進行的禮

拜開始之後,不光

只是台中當地、漸

漸地從鄰近的彰

化、苗栗、南投等地

搭火車、客運過來

的 OFW 也愈來愈

多。

然而,促成了

一切開端的烏山夫婦卻在 Tony 神父來台大約兩個

月之後的 1994 年 9 月底回到日本。烏山夫妻的家雖

為 OFW 心目中的安樂的居所(home away from

home),但也面臨了不能夠再繼續使用的困境。

早期的牧靈中心早期的牧靈中心早期的牧靈中心早期的牧靈中心

Tony 神父為了 OFW 在復興路的教會的附近尋

找新的場所。找到的是位於台中路 44 號 4 樓的一間

小小的房間。就大小來說實在是非常不足,但這對

當時的 Tony 神父來說實在沒有能力再租到比這裡

還要大的地方了。Tony 神父的活動資金,基本上就

只是每個星期天的禮拜信眾所寄贈的錢。1994 年 10

月 2 號,台中路 44 號 4 樓成為最早的「為了 OFW

現在現在現在現在のののの南台中天主堂南台中天主堂南台中天主堂南台中天主堂

南台中天主堂内南台中天主堂内南台中天主堂内南台中天主堂内にはにはにはにはタガログタガログタガログタガログ語語語語がががが・・・・・・・・・・・・

南台中天主堂內貼著以他加祿語書寫的標語南台中天主堂內貼著以他加祿語書寫的標語南台中天主堂內貼著以他加祿語書寫的標語南台中天主堂內貼著以他加祿語書寫的標語

日、台中路 44号の 4階が最初の「OFWのための

パストラル・センター」となり、トニー神父の住

まいとなった。同時に、このセンターを運営する

ための“パストラル委員会”が設けられ、委員会

のメンバーたちはここで定期的に会合をもった。

センターと委員会の任務は、OFW たちが抱える

信仰上の問題だけでなく生活上の問題に対処し

ながら、彼らのための home away from homeを創

出、維持することだった。

1995年に入って、それまで台北と高雄にしかオ

フィスがなかった MECO(Manila Economic and

Cultural Office -フィリピン駐台代表処)が台中にも

OFW 支援を主目的としてオフィスを構えた。そ

れまでは法的措置が

必要な OFW のケー

スを抱えて台北まで

行き来していたト

ニー神父にとって、

MECO台中は大きな

助けとなった。しか

し、当初の MECOは

問題を抱える OFW

をとにかくまずト

ニー神父のところに

連れてきて、それか

らゆっくりと問題に

対処するという感じ

だった。持ち込まれ

るケースが増えたけ

れど、問題への対処

はなかなかなされないので、トニー神父とパスト

ラル・センターにとってフラストレーションが溜

まる結果ともなった。トニー神父は『今の MECO

はとてもよくやってくれています。問題を放置せ

ずに対処しようという姿勢があります。』と、昔

と今の MECOを比較する。

今帰今帰今帰今帰るわけにはいかないるわけにはいかないるわけにはいかないるわけにはいかない――――

せめてあとせめてあとせめてあとせめてあと 4年間年間年間年間 このようにして最初の 2年間はあっと言う間に

過ぎ去り 1996年を迎えた。OFWたちが晒されて

いた虐待や、給料の未払い、過剰労働の現状など、

仕事上のトラブルは想像以上だった。もし自分が

いなくなったら、この人たちの面倒を誰が見るの

か・・。トニー神父は今帰るわけにはいかない、

あと 4年、台中にいさせてほしいとルセナの司教

に頼んだ。司教も事情を理解してくれて許可が出

た。

それからの 4年間、センターと外事警察と入管

とを行き来しながら、暇を見つけては(不法滞在

者の)収容所、警察の留置所、刑務所などに収監

されている OFWを見舞う毎日が続いた。『問題が

所成立的牧靈中心」,同時也是 Tony 神父的住所。

另外,為了此牧靈中心能夠順利運作還設立了「牧

靈委員會」,委員會的成員們會在此定期聚會。牧

靈中心和委員會的任務不只是解決 OFW 在信仰上

的疑惑,一邊還協助他們解決生活中遇到的問題。

創造出專為他們的 home away from home,並繼續維

持下去。

1995 年後,以往只有台北及高雄才有的 MECO

(Manila Economic and Cultural Office -馬尼拉駐台

經濟文化辦事處)也以協助 OFW 為目的在台中設

立了分會。以往為了牽涉到法律的 OFW 的個案須

台北台中兩地奔波的

Tony 神 父,也 因 為

MECO 台中的設立而

得以減輕了很大的負

擔。然 而,當 時 的

MECO 對於需要協助

的 OFW 似乎都是希望

先去找 Tony 神父再來

一 起 慢 慢 地 思 考 對

策。需要協助的個案

忽然大量增加,反而

沒有辦法好好針對每

一個問題做出適當的

應對,為此 Tony 神父

忍 受 了 不 少 的 挫 折。如 今 比 較 過 去 和 現 在 的

MECO,Tony 神父說「現在的 MECO 做得十分地完

善。不會對問題置之不理,而且感覺很有心會去做

出適當的處理。」

現在還不是回去的時候現在還不是回去的時候現在還不是回去的時候現在還不是回去的時候、、、、

至少還要再過至少還要再過至少還要再過至少還要再過 4444 年年年年 就這樣兩年的時光在一轉眼就過去,很快地來

到了 1996 年。OFW 處在受虐、領不到薪資、超時工

作等等的惡劣環境之下,關於工作上的問題比想像

中的還要多。如果自己不在了,那這些人該由誰來

照料呢? Tony 神父認為現在還不是回去的時候,至

少還要再 4 年,便向盧賽納的司教請求讓他繼續留

在台中。司教在瞭解事情的原委之後也答應了。

在那之後的四年,每天不停地在牧靈中心、外

事警察和入境管理三個單位之間奔走,只要一有空

閒就到(非法居留移工所在的)收容所、警察機關

的看守所等地去探視被拘留的 OFW。『雖然說發生

問題的都是工作上的事,但獨自在異鄉生活,那是

會對精神層面造成影響的。心是會因此生病的。我

1999年年年年にににに引引引引っっっっ越越越越したしたしたした信義街信義街信義街信義街ののののセンターセンターセンターセンターにてにてにてにて/

1999年搬遷到信義街的牧靈中心新址年搬遷到信義街的牧靈中心新址年搬遷到信義街的牧靈中心新址年搬遷到信義街的牧靈中心新址

仕事上のことだとしても、異国で孤

立して生活していると、それが精神

に影響するんです。心を病んでしま

うんです。そういう人々と一緒に寝

起きし、付き合っていくわけですか

ら、自分もだんだんに心を病んで

いったんだと思います。』-トニー神

父は言う。

MECO と台湾の外事警察は徐々に

協力関係を築き上げて、不法滞在で

見つかっても外事警察は本人の身柄

を MECOに託し、よほどのことがな

ければ収容所などに収監することは

なくなっていった。身柄を託された

MECO は、本人をトニー神父のセン

ターに連れてくる。センターは手狭

になり、1996 年にもっと大きいアパートに移っ

た。1999年に現在の信義街 250号に再度引っ越し

た。引っ越した当初は 5万元以上の家賃を払って

いたが、OFWの信者数も多かった時代なので、何

とか家賃を工面できた。MECOからの援助(月額

にして 2~ 3万元)も、この 1999年に始まった。

最も多かったときには 20人以上のOFWがそれ

ぞれの問題を抱えて信義街のセンターに寝起き

していたこともあった。あるときは、ビザが切れ

てしまったアメリカ人が駆け込んできたことも

あった。インドネシア人労働者、観光ビザで入国

してきたパキスタン人、タイの労働者などが駆け

込んできたり、人から紹介されてセンターに寝泊

りしていたこともある。

約束の6年間が終わる 2000年に、トニー神父は

再びルセナの司教に滞在延期を願い出た。自身の

滞在延期だけでなく、彰化でタガログ語のミサを

行うためにもう一人神父を派遣してくれるよう

頼み込んだ。OFW

の数は増え続けて

いた。ルセナの司

教もそうした事情

を理解して、新た

に一人の神父を派

遣してくれること

になった。こうし

て、レヴィ神父(Fr.

Levi)が新たにセ

ンターの一員に

加わった。

変化変化変化変化はははは徐徐徐徐々々々々にににに訪訪訪訪れたれたれたれた 現在進行中の世界規模の不況にいたるまで、台

湾の OFW人口は増え続けた。それに伴って、2000

年にトニー神父の要請で彰化縣を担当する神父

が派遣された。台中郊外の潭子の輸出加工区に雇

用される OFW の数も増えてメリノールのジョイ

和那些人日常生活起居都相處在一起,也察覺到自

己的心也漸漸地病了。』Tony 神父這麼說著。

MECO 和台灣外事警察慢慢地在建立合作關

係,就算發現有違法居留的 OFW,只要沒有牽涉到

其他案子外事警察會將當事人交給 MECO,漸漸沒

有再強制把人帶進收容所之類的情況了。被託付的

MECO 會將當事人帶到 Tony 神父的牧靈中心。由於

牧靈中心的空間變得不敷使用,1996 年搬遷到更大

的公寓。1999 年再次搬到信義街 250 號的現址。在

剛搬遷的時候每個月要付五萬元以上的房租,但由

於那個時候教友人數還相當地多,募集到的資金勉

強還能應付房租。而從 1999 年開始也受到了來自

MECO 的資助(一個月 2~3 萬元)。

在人數最多的時期大約有 20 名以上,各自遇到

不同困境的 OFW 聚集在這個信義街的牧靈中心共

同生活。有的時候還有簽證到期的美國人、印尼的

移工、以觀光簽證入境的巴基斯坦人、泰國移工等

等會接受暫時安置,還有經由別人介紹來到牧靈中

心借宿的情況也常常發生。

在先前約定好的 6 年期滿之後的 2000 年,Tony

神父再次向盧賽納的主教提出希望延長在台的期

限。不只是自己的居留期間延長,為了在彰化也可

以有以タガログ語進行的禮拜,希望可以再派遣一

名神父來台。由於 OFW 的人數不斷地再增加,盧賽

納的主教也相當能夠理解現在的情形,便新派了一

名神父來台。如此一來,Levi 神父也以新成員的身

分加入了牧靈中心。

變化悄悄地來訪變化悄悄地來訪變化悄悄地來訪變化悄悄地來訪 到達現在世界規模的經濟不景氣之前,台灣的

OFW 的人口曾持續地增加。隨著人數的增加,2000

中央がレヴィ神父― 04年 11月撮影/

中間為 Levi 神父 攝於 04年 11月

閉鎖閉鎖閉鎖閉鎖をををを目前目前目前目前にしたにしたにしたにしたセンターセンターセンターセンター内内内内ののののチャペルチャペルチャペルチャペルでででで/

已決定要關閉的牧靈中心內的禮拜堂已決定要關閉的牧靈中心內的禮拜堂已決定要關閉的牧靈中心內的禮拜堂已決定要關閉的牧靈中心內的禮拜堂

神父(Fr. Joy Tajonera)が潭子に赴任したのはも

う少し後の話(2004年)になるが、結果として彰

化近辺、台中市近辺、潭子近辺それぞれにフィリ

ピン人の神父が配置された。以前のように中部全

体をトニー神父が一人で背負わなければならな

いという過酷な状況は緩和された。台湾の入管や

法曹界との関係を一定程度樹立したMECOも、安

定的に機能するようになった。台湾の外国籍労働

者の雇用者に対する

法律も整備され、以

前のような非人道的

な虐待事件も目に見

えて減少した。

さらに 6年が経過

した 2006年、レヴィ

神父は帰国。新たに

ベ ニ ー 神 父 (Fr.

Benny)がレヴィ神父

の替わりとして派遣

されてきた。しかし、

思えばこのころから

すでにパストラル・

センターはその使命

を終えていたのかも

しれない、とトニー

神父は感じている。一時は 20 名以上いたシェル

ター利用者の数も激減し、多くても数人の状態が

続き、誰もいないこともあった。OFW自体の数も

一時のように多くなくなった。2008年に入ると不

況の波が世界を、台湾を覆い、OFWの状況にも大

きな変化が訪れた。

2008年から 2009年にかけて、倒産する台湾企

業、閉鎖される工場が相次ぎ、それらが抱えてい

た OFW たちを契約途中にも関わらず帰国させな

くてはならなくなるという事態が起きた。台湾政

府は海外からの契約労働者数の削減に乗り出し、

2009 年 1 月には科学技術分野での外国人労働者

受け入れを凍結した。

『『『『何何何何とととと言言言言ってもってもってもっても疲疲疲疲れましたねれましたねれましたねれましたね。。。。司教司教司教司教からからからから

ももうももうももうももう潮時潮時潮時潮時だろうとだろうとだろうとだろうと言言言言われましたわれましたわれましたわれました。』。』。』。』 『OFWを取り巻く状況が変化し、彼らの救済の

ために死に物狂いで走り回った時代は終わった。

問題を抱えた人々とともに生きてきて、自分も精

神的に燃え尽きてきたように感じている。一時は

落ち込んだが、今冷静に考えてみると次のステッ

プに進むべき潮時なんだろうと思う。』―トニー

神父は落ち着いた声でそう語る。『帰国は決めま

したが、いつ帰国するか、まだ決心していないん

です。今は自分に猶予を与えているというか・・・

帰ったら最初の計画通り、ルセナの教区で中華系

の信者のための神父になりますよ。』

年 Tony 神父的請求之下,另一名新來的神父被派遣

到彰化縣。台中郊外的潭子加工出口區的 OFW 人

口增加,Joy 神父(Fr. Joy Tajonera)到潭子的事情暫

且不談(2004),就結果而言,彰化近郊、台中市近

郊、潭子近郊各個地區都有分配菲律賓籍的神父。

舒緩了從前全中部地區不得不只由 Tony 神父一個

人負責的嚴苛情況。

MECO 建立起台灣入

境管理局和法政界之

間一定程度的關係,

組織的運作也趨近安

定。對於台灣外籍移

工雇用者的相關法律

也整備好,以前常見

的非人道虐待事件也

減少了。

在 6 年之後的

2006 年,Levi 神父回

國了。替代的 Benny

神父被派遣來台。但

是也許就是在這個時

候,Tony 神父就覺得也許已經算完成了天主教牧靈

中心的使命了吧。曾經有過 20 人以上的牧靈中心如

今使用者人數銳減,即使人多時也只是幾個人的狀

態持續著,也有沒人使用的時候。OFW 本身的人數

也不像過去那麼多。2008 年的金融海嘯向全世界,

向台灣襲捲而來,OFW 也面臨了極大的變化。

2008 年到 2009 年,破產的台灣企業,倒閉的工

廠相繼出現。造成了 OFW 的勞工們即使契約還沒

期滿,就必須讓他們回國的情況。隨著台灣政府減

少來自海外的外籍勞工人數,2009 年 1 月,還凍結

了科技技術領域的外籍勞工的引進。

『『『『其實我已經感到疲憊了其實我已經感到疲憊了其實我已經感到疲憊了其實我已經感到疲憊了。。。。司教也司教也司教也司教也說說說說時機時機時機時機

已經到了已經到了已經到了已經到了。』。』。』。』

『『『『OFW 周圍的環境已經改變了。為了救濟他們

而疲於奔命的時期也已經結束。和身陷困境的人一

起生活,也感覺幾乎將自己的精神被消磨殆盡。我

曾經陷入低潮過,但是現在冷靜地思考過後,也許

是往下個一階段邁進的時機。』-』-』-』- Tony 神父沉穩著

說著。『『『『雖然決定好要回國了,但是還沒下決心什

麼時候回國。現在說是自己猶豫不決…回國之後,

會按照最先的計畫,到盧塞納的教區擔任菲律賓華

人信徒的神父。』』』』

取材中の記者、洪金月(右)と答えるトニー神父(左)

.訪問中的記者、洪金月(右)及接受訪談的 Tony神父(左)

ルセナは、セブやマニラなど

フィリピンでも特に中華系が

多い 11 地域の一つだ。そもそ

も、それが目的で台湾にやって

きて 15年が経った。少しずつ勉

強はしてきたが、トニー神父は

今でも北京語は片言しかでき

ない。来台前からしゃべること

ができた福建語(台湾では福建語

の一種である福老語を「台湾語」と

呼んでいるくらい話者数が多い)

は 15年の成果とは言いがたい。

言葉を勉強している暇なんか

なかったのだ。トニー神父を必

要としている人たちが、トニー

神父の優先事項であり続けて

きたのだ。

カソリックの神父は妻帯できない。子供もいな

い。ここ 2年間飼っていたビーグル犬「クマ」は

2、3週間前に出て行ったきり戻ってこない。パス

トラル・センターの常連の誰にも相談しないま

ま、一人黙々と荷物を整理し、フィリピンに送り

出す作業を続けている。「トニー神父は本当に

帰ってしまうの?」「嘘でしょ!?」・・・そん

な声が信者やセンターの常連から聞こえ始めて

数ヶ月になる。

トニートニートニートニー神父神父神父神父はははは真真真真のののの先駆者先駆者先駆者先駆者ですですですです 『私がトニー神父から帰国の話を聞いたのは去

年のクリスマスのときでした』、MECO台中の代

表、ホセリト・エルヴェーニャ(Joselito Elvena)さ

んは語る。『われわれ(MECO)が来る前から彼

は活動していて、われわれ

は彼がいなかったら大変

だったでしょう。彼こそ真

の先駆者と言えます。帰国

して今度はフィリピンで活

躍されることでしょう。』

エルヴェーニャ代表は、

OFW をめぐる状況の変化

をある意味で肯定的に捉え

ているようだ。『メイドさん

や介護の仕事―これは女性

が多いんですが―だと、台

湾人の家庭の中に一人で

入っていくからどうしても

孤立してしまいます。以前はこういう仕事が、し

かし、圧倒的に多かった。われわれは、OFWの受

け入れ数が減っても、その内容として工場労働が

増えてきたことを歓迎しています。工場労働なら

仲間がいますから、精神的にぼろぼろになること

はないですからね。今まで大量にやってきて、将

来の見通しも立てられないまま、どんどん入れ替

盧賽納和宿霧或馬尼拉等等,都是菲律賓的華

人較多的區域之一。起初,因為這個目的來到了台

灣,並且經過了 15年。一點一點有在學習,但是Tony

神父仍只會隻字片語的中文。來台灣以前已經會說

的福建話(在台灣,福建話之一的福佬話。稱「台

灣話」的人較多。)說不上是 15 年的成果。根本沒

有閒暇時間可以學習語言。需要 Tony 神父的人們,

一直是神父的優先處理事項。

天主教的神父不能娶妻。沒有子嗣。這兩年養

的米格魯「kuma」在 2、3 週前出去後就沒有再回來。

沒有和天主教牧靈中心的朋友們商量,自己一個人

默默的整理行李,寄些包裹回菲律賓的動作不斷進

行著。「Tony 神父真的要回去嗎?」「不會

吧!?」・・・這些話語在信徒和中心的朋友們之

間流傳了幾個月了。

TonyTonyTonyTony 神父是真正的先驅神父是真正的先驅神父是真正的先驅神父是真正的先驅 『我是去年聖誕節的時候聽到

Tony 神父要回國的事情』,MECO 台

中代表,Joselito Elvena 這麼說。『我

們(MECO)來之前他就已經有所行

動了,如果我們沒有他的話,應該會

很辛苦吧。他正可說是真正的先驅。

這次回國後,則是會在菲律賓繼續

活躍吧。』

Elvena 代表對於 OFW 的未來變

化採取正面的態度。『家管和看護的

工作-這些工作女性居多-,一個人進入到台灣人

的家庭裡,不論如何都會感到被孤立。以前大部分

是這樣的工作。雖然 OFW 的名額減少,但就內容而

言我們樂於接受以在工廠的工作增加的情形。工廠

的工作有其他的夥伴,這樣一來精神狀況也會比較

穩定。到目前為止大量的勞工來台灣,對沒有考慮

取材中の陳妤琳記者(右)、洪金月記者(中)と、答えるトニー神父。

訪問中的記者陳妤琳(右)、洪金月(中)及接受訪談的 Tony神父(左)

MECO台中の Joselito Elvena代表

わって・・・フィリピンに戻っても

結局またどこかへ出稼ぎに出るこ

とになる。本人も家族も、将来を見

越して経済的な計画を立てるとい

うことをしてこなかったし、そのよ

うな教育も受けていないんですね。

MECOでは 2009年の初めから潭子

にセンター (Ugnayan Center)を作っ

て、そこでコンピュータなどの専門

職の訓練や、中文教室、家庭経済セ

ミナーなど、いろいろな活動を始め

ています。トニー神父が始めた仕事

を、そういう形で発展させていこう

としているんです。』― Ugnayanとは

タガログ語で「繋がり」「連帯」などを

意味する。

OFWは「量」から「質」の時代に

入った、というのがエルバーニャ代

表の言わんとするところなのかもしれない。一人

で過酷な状況にさらされて心を病んでしまう人

たちをどうにかケアしようとして奔走してきた

トニー神父とパストラル・センターは、今、近代

的な工場で仲間とともに楽しく働く人々への帰

国後の生活を視野に入れた支援を目的とするコ

ミュニティ・センターによって取って変わられよ

うとしている。もちろん歓迎すべき変化なのだろ

う。

15年間年間年間年間でででで一番一番一番一番よかったとよかったとよかったとよかったと思思思思うことはうことはうことはうことは………… 『それは毎週土曜日に、ここ(センター)に OFW

の仲間がたくさん集まって、みんなで家族のよう

に歌い、食べ、しゃべることができたことですね。

それが私が達成できたもっとも幸せなことでし

た。月曜日から金曜日まで、私は一人で働いてる

到未來的狀況下,不斷地更換新的人。即使回到菲

律賓之後,結果又會到其他地方工作。勞工本人和

家人都沒有為了未來建立經濟計劃,也沒有受過相

關的教育。MECO 在 2009 年從頭開始建立潭子的活

動中心(Ugnayan Center)。並在此開設電腦等專業

的訓練課程、中文教室、家庭經濟實習課程等等,

開始舉辦各種的活動。想以這樣的形式將 Tony神父

起頭的活動延續發展。』- Ugnayan 是他加祿語中

的「連繫」「連結」的意思。

Elvena 代表想表達的應該是,OFW 從「量」進

入了「質」的時代。。為了照顧這些受到嚴苛對待

而煩惱的人們而四處奔走的 Tony 神父和天主教牧

靈中心現在目的變成了幫助那些在台灣的近現代

工廠裡和夥伴們一起快樂地工作,回國後增加生活

視野之類的支援。這樣類型的溝通中心。當然,這

樣的轉變也是令人開心的。

15151515 年之中年之中年之中年之中,,,,覺得最棒的事情是覺得最棒的事情是覺得最棒的事情是覺得最棒的事情是…………

『每個星期六日,OFW 的夥伴們會聚集到這裏

(牧靈中心)來,大家會向家人一樣唱歌,吃東西,

聊天呢。這是我所完成的最幸福的事情。星期一到

星期五,我一個人工作。非常的孤單。孤獨。但是,

一到星期六,大家都會熱鬧地來到這裡・・・』

Home away from home -這句標語正實踐了 15

年的時間吧。決定停止這個活動中心的神父,表情

流露著似乎失去了什麼重要的東西一樣,呆然的想

著。但是又看得出來這之中似乎也獲得了滿足。『花

火是中文和日文的雜誌,但是我的事情透過中文來

介紹的話,也可以分享給盧賽納的華裔信徒們看

了。』

取材中の陳妤琳記者(左)と答える Joselito Elvena代表(MECOにて)

在 MECO 訪問中的記者、陳妤琳(左)及 Joselito Elvena代表

でしょ。私自身、とっても孤独でした。寂しかっ

たですよ。でも土曜日になると皆がわいわいと集

まってきて・・・。』

Home away from home-その標語をまさに実践

してきた 15年間であったのだろう。センターの閉

鎖を決めたトニー神父の表情は、何か大切なもの

を知らないうちに失っていたことに気づいて呆

然としているようにも見えたが、どこか満足そう

にも見えた。『花火は中文と日本語ですか。私の

ことが中文で紹介されているのを、ルセナの中華

系の信者たちに見せることができますね。』

個人的個人的個人的個人的なななな謝辞謝辞謝辞謝辞(阿川記者):私がトニー神父と初め

て会ったのは 2000年の秋だった。コミュニティ・

スタディのためのクラスを立ち上げるにあたっ

て台中近郊の外国人労働者関連のさまざまな活

動を捜していた私は、一広(第一広場:台中駅前

のショッピング・モール。当時の外国人労働者の

溜まり場だった)から人々の群れを追って南台中

天主堂に辿りついた。教会の門衛・清掃人をして

いるブヌンの人、ルース・アブさんと知り合いに

なり、神父さんを紹介してもらった。それがト

ニー神父だった。以来、神父は、毎年、毎年、恒

例のように私のクラスに来て話をしてくれた。学

生たちを連れてセンターにも数え切れないほど

お邪魔した。トニー神父は実に不思議な人だ。「神

のしもべ」ではあるのだろうが、嬉しがったり悲

しがったり、浮かれたり落ち込んだりする姿が実

に「人間的」なのだ。友人と呼ぶのはトニー神父

に失礼かもしれないが、神父が帰国することは私

にとっての個人的な喪失でもある。『私がフィリ

ピンに帰っても、あなたが遊びにくればいい』と

神父は優しく言ってくれる。神父、お疲れ様、そ

して、Salamat Poh!『お別れパーティなんか開きま

せんよ、ひっそりといなくなる計画なんです』―

いかにもトニー神父らしいが、そうはいかないで

しょうね。

個人感想個人感想個人感想個人感想(洪金月記者):初めてパストラル・セン

ターに行ったとき、一階に OFW の一人がいた。と

ても熱い少年のような人だった。親切に挨拶をし

個人感謝辭個人感謝辭個人感謝辭個人感謝辭(阿川記者):第一次見到 Tony 神父是

在 2000 年的秋天。為了社區研究,我開設了一門課。

搜尋台中近郊的外籍勞工各式各樣的相關活動。當

時,我從一廣(第一廣場:台中車站前的購物中心。

當時的外籍勞工聚集的場所。)跟著人群走到了南

台中天主堂。認識了教堂的門衛、打掃人員,布農

族人的ルース・アブ先生。他再介紹我和神父認識。

也就是 Tony神父。一直以來神父每年都會按照慣例

來我的課堂分享。帶著學生到牧靈中心打擾的次數

也是不計其數。Tony 神父真是個不可思議的人物。

雖身為「神的侍者」,但是他開心、難過,情緒起

伏的模樣,是實實在在地「人性化」。以朋友相稱

對神父來說是有些失禮。但是神父要回國的事情,

對我個人來說也是一種很不捨的失去。『就算我回

到菲律賓,只要你來找我就可以啦。』神父親切地

說。神父,辛苦您了。然後,Salamat Poh! 『沒有要

舉辦離別派對喔,我打算偷偷的離開。』-真的是

很 Tony 神父的作風,真是拿他沒辦法呢。

個人感想個人感想個人感想個人感想(洪金月記者):第一次到牧靈中心時,一

樓有位OFW的人。是一位很熱情的少年般的人,

親切地跟我們打招呼。上樓之後,才看到牧靈中心

的招牌,上面有段字寫到 home away from home。

感覺很棒卻有些孤單。進到裡面之後,發覺到這棟

公寓設備有很多問題。雖然是間寬敞的公寓,卻美

中不足。那天是週六,所以OFW的人有在。和他

2008年クリスマス礼拝で―中央はまじめなトニー神父、左右はトニー神父の「バックストリートボーイズ」

2008 年的聖誕節禮拜-中間為嚴肅的神父,左右兩邊為神父的「BACKSTREET BOYS」

てくれた。階段に上がって、二階からはパストラル・

センターの看板が見えた。home away from homeと

いう文字もその上にあった。いいことばだと思う。し

かし、少しさびしい。中に入って、見てから、アパー

トはいろいろなところに問題がある。広いが、完璧な

家とはいえない。その日は土曜日なので、OFW の人た

ちもいた。話し合いをした。最初は緊張したが、みん

な優しくて、ずっと笑顔だったから、心も安心した。

トニー神父もお父さんのように、若い OFW と話した。

『英語がまちがっているよ。・・・』と語った。この

画面は家族の中によくあることだろう。学校に帰っ

て、先生がトニー神父は帰国すると授業で教えてい

た。トニー神父はどんな人かまだ知らないのに、もう

帰国と思った。しかし、取材のとき、トニー神父のこ

とばで、帰る決心が感じられた。15年間の間に、台湾

人はどういう変化があったかと聞いた。トニー神父

は『台湾人が OFWに優しくなった。受けられるよう

になった。』と語った。その理由で、安心で帰国する

のだろう。帰国しても、中華系の信者のために、神父

になる。トニー神父のことはほかの人にも知らせた

い。この優しい人は 15年間、OFWの人もほかの国の

人たちも、同じように扱っていた。トニー神父、あり

がとうございました。

個人感想個人感想個人感想個人感想(Chen,Yu-Lin 記者):初めてトニー神父さ

んに会ったのは、去年阿川先生の授業でパストラル

センターに行ったときのことだった。にぎやかな台

中駅の後ろのほうの、人通りが少ない静かなコミュ

ニティにあって、外観から見るとここがセンターだ

と絶対気づかないだろう。正直に言って、初めてセン

ターに入った前に、実は疑問と不安もあった。中はど

んな様子だろう、まさか収容所みたいなところだろ

うって。でも、階段に登って、ドアを開けたら、目に

映るのは一つ心温まる家だった。大きなソファと広

い台所とちょう長いテーブルといっぱい英語の曲が

入っているカラオケがあった。それも、トニー神父が

ここに来るみんながリラックスできるように、心が

けて設えたでしょう。そのあと私も何回かセンター

に行ったことがあって、あまり英語ができないけど、

簡単な単語で OFW のみんなとおしゃべりして、とて

も親切にしてくれた。一週間の仕事が終わった週末

に、OFW がここに集まって、食べたり、歌ったり、踊っ

たりして、最高な笑顔を見せてくれた。センターが閉

まることを聞いたときとても残念だと思ったけど、

今回の取材で、神父さんに心の話を話してくれたあ

と、私もなんとなく神父さんの気持ちが分かってき

た。本当に、「お疲れ様です」。

この台湾人の住宅に隠されたパストラルセンター

では、一人一人 OFW の物語がたくさん書かれている。

私もここにきてからその一人一人のことを改めて

知った。たとえパストラルセンターが歴史になって

も、その一人一人の物語も変わらずに書き続いてい

くだろう。

們聊天時,一開始很緊張,不過他們人都很好,

而且笑著,看到這些畫面,我才安心了。Tony

神父像父親一樣和一位年輕的OFW說話。『你

講錯了喔。・・・』神父說。這種畫面在一般家

庭中很常看到吧。回到學校,老師上課時告訴我

們神父要回去的事情。雖然當時還不了解 Tony

神父是個什麼樣的人,心理面只想著神父那麼

快就要回去了喔。但是正式去採訪他的時候,

Tony 神父的話語裡,感覺得到他要回國的決

心。在這15年之中,台灣人有什麼樣的變化呢?

我問了神父。他說:『台灣人對 OFW 的態度改

變了。對他們比較友善,也比較能夠接受他們。』

或許是因為這個理由,所以神父可以放心地回

國吧。就算回國,他也要繼續服務華人信眾們。

Tony神父在台灣的服務的事蹟,也想介紹給大

家知道。這個善心人在台灣服務了不只OFW

的人還有別的國家的人,並且以一視同仁的態

度。Tony神父,謝謝您。

個人感想個人感想個人感想個人感想(陳妤琳記者):第一次見到 Tony 神

父是在去年因為阿川老師的課而去了牧靈中

心。就位在人多擁擠的台中車站後方、很少有人

通行的住宅區裡。從外觀看的話根本不會察覺

到這裡有個牧靈中心吧。老實說,在進到牧靈中

心以前,我的心裡其實有很多問號和不安。裡面

會是什麼樣子呢?該不會像收容所還是難民營

一樣吧?然而,在爬上階梯、打開門之後映入眼

簾的是一個佈置溫暖的家。有舒適的沙發、寬廣

的廚房、超大的餐桌、還有收錄了許多英文歌曲

的卡啦 OK。想必這些也都是 Tony 神父為了讓來

這裡的大家都能夠好好放鬆而用心擺設的吧。

在那之後我也去過幾次牧靈中心,用著不流利

的英文拼湊字句和他們聊天,每次去都受到大

家的熱情招待。一週辛勤的工作結束之後,OFW

來到這邊吃飯、唱歌、跳舞,每次都能看到他們

最棒的笑容。當初聽到牧靈中心即將關閉這個

消息的時候,我也覺得非常的可惜。但在這次的

訪問當中,神父我們分享了許多他心裡的話,我

也有點懂了神父的心情。總歸一句,真的是「神

父,您辛苦了!」

這個隱藏在台灣人住宅區裡的牧靈中心裡,

記述了OFW 每一個人的故事。我也是來到這裡之

後才重新認識 OFW 的每一個人。我想,即使牧靈

中心即將走入歷史,但這裡每一個人的故事都

還是會繼續寫下去的。