和泉式部集に次のような散がある。燕郷鰄斡氏糀珂文岬泉
昭和三一年三H
刊本文による。秋
(二十首のうち)
四八すず虫のこゑふりたつる秋の夜はあはれに物のなりまさ
るかな
この歌は松井本和泉式部集に「むしの歌よみしに」とし
て出ている(一七四一)。この歌を読んで、私は源氏物語桐
壺の巻に出ている次の歌を想起した。袖椚哩識辨士”読物諦
一朝日新聞社昭和二一
年一二川刊本文による。
鈴虫の声のかきりをつくしても暖き夜あかずふる派かな
(一六二頁)
和泉式部の歌と同時代の文学
1
L凸色
はたして和泉式部が源氏物語のこの歌の影響をうけて前
記の歌をつくったか如何かはこれのみでは速断出来ない。
そこで古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集をひと通りみ
て類似の歌を求めてみたが、類歌は見あたらなかった。
次に古今和歌六帖燕噸蠅麩慨一小の「す埒むし」のところ
には、
’一西八四一逓遁にけふ逢見れば鈴虫は昔乍らの畷和拒壁娯て剛
ゆる
三四八四三人の妹かると聞くまで女郎花もと毎に鳴く鈴虫の
圭源
三四八四四狩にき一一」野べにぞ惑ふ鈴虫の声はさやけき知べな
れ共
の三首があるのみで、類似欲は兄あたらない。
さて和泉式部集には紫式部の名は出ていない。しかし伊
大橋渭秀
ノ
I
11
友院(上東)の中宮と叩ける時。内におはしま
し鍬
いしに。ならから僧都のやへ桜を参らせたるに。
今年のとりいれ人は。いままゐりそとて紫式部
のゆつりしに入近殿(通便)きかせたまひて。た.
上にはとりいれぬ物をとおほせられしかは
詞花
古への、ならの都の八霞桜けふこ上のへに匂ひぬるかな
(五首略)
和糸式部院にまゐりて始めたる夜逢てものなと
いへとおほせられしかは夜ひとよ物話なとしあ
かして年ころかたみに心かけしほとのことなと
いひ川てつとめてつほれよりいひたりし
思はむと思ひし人と思ひしに恩ひしかともおもほえしかな・・
かへし
君を我おもはさりせは我遊汀思はむとしもおもはましやは
とあり、「思はむと」「君を我」の贈答敬は「宮にはじめ
てまゐりたりしに、祭主輔親がむすめ大輔といふ人をいだ
きせ給ひたりしと物語などして、局におりて大輔のもとに
(九三○)」「返し(九三一)」として和泉式部統集にあるこ
とによって、すでに先学が述べていられるように紫式部、
伊勢大輔、和泉式部がともに中宮彰子にお仕えしていたこ
とがわかり、この頃紫式部はすでに源氏物語を作って居り、
和衆式部の歌と同昨代の文学
勢大輔集辨誰釧碓奄に、
母
j里
耐刊州舜唇猩奔一ハの、
同じ宮に仕える和泉式部も源氏物語にふれる機会に恵まれ
たことが想像されるのである。
源氏物語と和泉式部の歌との先後関係については判然わ
からず、源氏物語桐壷の巻と全くか‐かわりのないものであ
ったかもしれない。また「あはれに物のなりまさるかな」
とある和泉式部の歌と源氏物語の「鈴虫の」歌とは用語は
似ていても、表現されている内容は異なつ一ている。が私に
はこの紫式部と和泉式部との二つの湫の発恕の如似が偶然
のように思えなかつ一ただけである。たとえこの二つの歌が
全く無関係であったとしても、和泉式部が源氏物語にふれ
註
る機会のあったことはまちがいないと考えるのである。
次に和泉式部統集に、
夜いもねぬに、障子をいそぎあけて、ながむるに
一○九○恋しさも秋のゆふくにおとらぬは霞たな引く春のあ
けぽの
と言う歌があるが、これは枕冊子胡鋤霊謡榊硫誹校轆日諦鮴
春はあけぼの。やうやうしろくなり行く山ぎは、すこしあかり
て、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。夏は夜。月のころはさ
らなり、開もなほ殻のおほく飛びちがひたる。また、ただ一つこ
し
’二
守
つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝どこ
ろへ行くとて、三つ四つ、一ろ三つなど飛びいそぐさへあはれな
り。まいて雁などのつらねたるがいとちひさく見ゆるは、いとを
かし。日入りはてて、風の音、虫の吾など、はたいふべきにあら
ず。
とあるのと似通ってはいないであろうか。これも古今和歌
集、後撰和歌集、拾遺和歌集及び古今和歌六帖に類似の歌
をさがしてみたが見あたらなかった。これまた和泉式部の
歌と枕冊子との先後関係については断定出来ないが、清少
納言枕冊子に「いとをかし。」とあるのに対して、「恋しさ
も」と和泉式部が歌ったのではないかと思われるのである。
和泉式部は中宮彰子、満少納言は皇后定子と仕える官は
異なり、済少納言は早く后の姥去にあい、二人はそれぞれ
ちがった境遇にあったが、先学が説かれていることく親交
があったと考えられる。それは和泉式部集にある次の贈答
歌によって想像することが出来るのである。
同じ日、清少納言
五○四駒すらにすさめぬ幌に老いぬればなにのあやめも知ら
れやはする
かへし
五○五すさめぬにねたさもねたしあやめ草ひきかへしても駒
かへりなん
6
1
詞書にある「同じ日」については五○三の「ながれつつ
みつのわたりのあやめ草ひきかへすべきねやは残れる」の
歌の「詞害賦落力」と清水文雄氏が脚註に記して居られる
ように、
祭主輔親がむすめの、花にきじをつけていひたる
五○一春の野のかぜはふけども
かへし
五○二鴬のねぐらのはなとみる物をとりたがへたる心ちこそ
すれ
の詞害と「同じ日」とは考えられず、五○三の歌の内容を
みるとやはり五○三の歌の詞害が脱落していると考えられ、
「同じ日」についての詳細は現在のところわからない。五
○四、五○五の贈答歌は済少納言築評歸池織確榧註皿諏が
に鄙にはみえない。なお五○四の歌の詞書について清水文
雄氏は「清少納言l乙本・清水『清少納言に』、内本(イ
モ)乙本等二同ジ)と註一記して勝られるのであるが、この
「浦少納言に」と言う詞害によれば五○四の歌の作者は和
泉式部と言うことになってしまうのである。
五月五日、菖秘の根を清少納言にやるとて
五三八これぞこの人のひきけるあやめ草むくこそねやのつま
となりけれ
かへし
’
|’八
「一一
ムリ形
・
膿等今鶚
對呼士
また日本古典全書枕冊子の底本である三巻本、及び前田
本、堺本枕冊子になくて、伝能因所持本系統の本文にのみ
ある、甜鋤煙嘩郎唯秘漏癖年兼蔀鍬畑野雄挙
いわつ上しもことなる事なけれと折もてそ見るとよまれたる
さすかにおかしく畦綜は草)
の「いわつ上し」「折もてそ見る」は、和泉式部集の、
春(二十首のうち)
一九岩つつじをりもてぞみるせこがきし紅ぞめの衣ににたれぱ
によつていることは、すでに保田与重郎氏の和泉式部私抄
霊峰膳唯冊荊据証や、岡一男博士の源氏物語の基礎的研究
穎碓瞠訓郵圭融年、清水文雄氏の和泉式部歌集解説叩噛頁三
において詳細に述べられている通りである。(↑域印唱鑑》
和泉式部の歌と同時代の文学
五三九ねやごとのつまにひかるる報よりはほそくみじかきあ
やめ草かな
またかへし
五四○さはしもぞ君はみるらんあやめ草ねみけん人にひきく
らべつつ・
おなじき人のもとより、海苔のおこせたりければ
五四一まれにてもきみが口よりつたへずばときける法にいつ
かあふべき
=
F1
』
確輪鼬蝶嘩迄艤可味鎬一一坪壁歌)
なおまた日本古典全書枕冊子解説において田中重太郎先
生は「人皇第五十二代嵯峨天皇の御代には、すでに漢詩の
題詠が廷臣の間で日常化し、やがて和歌の題詠が普遍化し
て、題の数五百を有する類題和歌集の古今和歌六帖が生ま
れた。これらの題詠や、当時までに成立した諸種の辞書、
類纂の類が清少納言の枕冊子へ直接に与へた影響は大きい
ものであらう。唐の李義山(李商隠)の雑纂もあるいはこ
の冊子の典拠となったかも知れない。また和泉式部集に見
える『つれづれなりしをり、よしなしごとにおぼえしこと』
『世のなかにあらまほしきこと』以下『人に定めさせまほ
しきこと』『あやしきこと』『苦しげなること』『あはれな
ること』などの題詠、また、やや後のものではあるが、梁
塵秘抄の題歌(四句神歌雑)などを読むとき、『..…・は』
『・…:もの』といふ枕冊子の形態が決して彼女の独創でな
いことが知られる」洞封貝と述べて居られるのであるが、こ
こにあげられている和泉式部集の詞聿日は群聿自類従本罐唖一
の本文によられたもので、榊原家蔵忠次女庫旧蔵本を底本
とする岩波文庫和泉式部集をみてみると、
世の中にあらまほしき事(三三七’三四一)
人に定めさせまほしき事(三四二’三四五)
あやしき事(三四六・三四七)
Lイノ
類に従って第一類和泉
くるしげなる調(三四八・三四九)
あはれなる事(三五○’三五四)
となっているのである。和泉式部集諸本系統については西
下経一博士凱舜痙脾碓癖塾和泉錨銅軸」岬珂清水文雄氏昂却
部正集の形態に関する研究」国文学試論第一価昭和八年九月刊
所救、「和泉式祁正菜の成立」国文学孜輔一帆昭和一○年刊所
誕辮溌諏吉川理吉氏議騨硴蠣一臘舗妹許鯉、
「和泉式部統集偽樮考」固語国文昭和一九年三・四月号所救、
「和泉式部轆五巻本の正偽i一国文学諭叢第二聯川和二四年二一月
訓零恥腰、藤岡忠美顔鰯硫理識蒻恥窪螂
恥獅群碓郷疵韮癖錘辞職輸舜蛛池哩率諦珪輌竝粋州麺訶蓉埜凡
艫所などのすぐれた御研究があるのであるが、岩波文庫和
一一・l泉
式部歌集解説において清水文雄氏は第一類和泉式部難を、
第一稲流布本以前の形態をとれるもの
第二稲流布本
みてみると次のようになって
節一蹴和呆式部集
第一称(
A)榊原家蔵忠次女庫旧
第三称右二繩のほぼ中間形態1
の三種の系統に分けることが
式部集を中心に諸本の本文の大体を
、
蔵本世の中にあらまほしき事
をとれるもの
できるとされている。この分
いる。
ト
ィつれj、なりしおりよしなし鄭
におぼえし事世の中にあらまほ
しき事
内閣文庫蔵和学淋談所旧蔵本世間にあらまほしき羽
彰考館文庫蔵叩本世川にあらまほしき邪
(B)彰考館文庫蔵乙本世中にあらまほしきこと
鋪二極
群害類従本
つれノ、なりしおりよしなしことにおぼえし事
世中にあらまほしき事
第三種
静嘉堂文庫蕨岸本由豆流楳註館三草稲本
つれI\なるをりよしなしことにおぼえしこと魁もかきつけしに世
の中にあらまほしきことイ
世中にあらまほしきとと
餉三狐辰翰本和泉式部集
第一称
第二繩
無窮会神調文庫職伝後拙洲天県辰翰本
つれj、なりしをりによしなしことにおぼえしこと
よのなかにあらまほしきこと
谷村一太郎氏蔵伝後士御門院衷翰本
,つれl、なりしおりよしなしことにおほえしこと
枇の中にあらまほしきこと
宮内庁書陵部蔵本
つれj、なりしおりよしなしことにおぼえしこと阯
の中にあらまほしきこと
○
F
第四類松井本和泉式部集
静嘉堂文庫蔵松井簡治博士旧蔵本
つれj、左りしおりよしなしことにおほへしことと
もかきつけしに世中にあらまほしき事
これによってわかることは類従本の「つれ,I、なりしお
り云々」の詞言は第一類和泉式部集本文にもとからあるも
のでなくて、清水文雄氏が岩波文庫和泉式部歌集解説に
「類従本は内閣本を親木としてゐることは明かである。」
伺感頁三とされて「類従本は忠実に内閣本を継承してゐると
はいへないのであって、類従本校訂者の私意の加はった跡
が随所に兄られ」るとして一例を示され、その原因として
「類従本の校訂者は、どういふわけか、原本の本文のかは
りに、行棡に書入れられた本文の方をとったものと恩はれ
る。」洞峨頁三と述べて居られるごとく、この場合も類従本
は内閣文庫蔵和学講談所旧蔵本の本文の「世間にあらまほ
しき事」をとらずに「イ」として行間にちいさく書きこま
れている「つれノー、なりしおりよしなし事におぼえし事世
の中にあらまほしき事」をとって詞書としているのである。
そして内閣文庫本がイ本としているもとの本文は伝後土御
門院腹翰本系統のものかと考えられるのである。とすれば
辰翰本系統の和泉式部集の成立は時代が下るから、これ以
上の詮議は不要かと思うが、一寸ふれて置きたいのは和泉
和泉式部の歌と同時代の文学
●
rF卜
式部統集に、
つれづれのつきせぬままに、おぽゆる事をかきあつめたる歌
にこそ似たれひるしのぶゆふぺのながめよひのおもひ
よなかのねざめあかつきのこひこれを書きわけたる
として四十六首の歌(一○一四’一○五九)が収められて
いることである。この「つれづれのつきせぬままに、おぼ
ゆる事をかきあつめたる歌にこそ似たれ」と言う詞害が、
辰翰本の「つれ,I、なりしおりよしなしことにおぼえしこ
と」によく似ていて、「ひるしのぶゆふくのながめよ
ひのおもひよなかのねざめあかつきのこひ」とあるの
と「世の中にあらまほしき事人に定めさせまほしき事
あやしき事くるしげなる事あはれなる事」と題詠が集
められているのと同じたぐいの物と考えて、痕翰本和泉式
部集の編者が和泉式部続集のこの詞書をとり入れたのでは
ないかとも考えられる。
そこで和泉式部共と枕冊子との先後関係を考えてみるに、
前に記した「岩つつじ折りもてぞ見る」の和泉式部の歌が
伝能因所持本系統の枕冊子の本文にのみあって他の系統の
諸本に見られないことは、田中重太郎先生が日本古典全書
枕冊子解説において「枕冊子には草稿本・初稿本・再稿本
四
■
などがあった。このうち草稿本らしいものは現在一本も伝
はってゐない。(中略)本書の底本とした三巻本は、かな
りくづれてはゐるが、この初稿本の姿をほぼ備へたもので
あらう。この草稿本、初稿本の成立年代は、この冊子中の
史実の文から傍証できるのであって、長徳二年と長保二年
との記事が充実してゐることは、これらの記事がその年代
を離れないころ執筆されたと考へられるのである。さらに
この初稿本を増補した再稿本があったと思はれる。それは
その本文における人物の官位名その他から見ておそくも治
安元年(一○一二)までに成立してゐたと考へられる。現
存の伝能因所持本にはこの再稿本のおもかげを留めてゐる
ものと推考されるのである。」詞壁頁と述べて居られるの
によって明らかなように、初稿本に増補された部分に和泉
式部の「岩つつじ」の歌がとり入れられているのであって、
済少納言が和釆式部の歌によって枕冊子を州袖する以前に、
既に述べたごとく和泉式部が枕冊子の「春はあけぼの云
々」によって「恋しさも秋のゆふくにおとらぬは」の歌を
作っていたかと考えられるのである。なお枕冊子の成立に
ついては類纂形態をもつものが原形であろうとされる池田
亀鑑博士の御説によらず、雑纂形態をもつものが原形であ
ろうと考える説に従った。又、三巻本と伝能因所持本との
関係については前者をA的、後者をB的と見る説に従った。
ザ
60画“
=》
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五
以上述べたごとく和泉式部は同時代人である紫式部と浦
少納言と親交があったと思われるところから、二人の女性
によって書かれた源氏物語や枕冊子にふれる機会のあった
ことが考えられ、和泉式部の歌が同時代の文学である源氏
物語や枕冊子の影響を受けていると考えられるのである。
そして清少納言が枕冊子の類纂の部分を書くにあたって
特に和泉式部集の詞耆の影響を受けたとは言い難いのでは
ないかと思うのである。
和泉式部の歌と源氏物語との関係について吉川理吉氏は国文
学諭叢第二帆所赦「和泉式部菜五巻本の正偽」の中で、
みし人の要と成にし索なれは降可さへもめつらしきかな
(斎官女御集群害類従巻第二七一)
見し人のけふりとなりし夕より名もむつましき塩竈のうら
(紫式部集群書類従巻第二七四)
みし人のけふりを雲となかむれは夕の空もむつましきかな
(源氏物語夕顔)
はかなくてけぶりとなりし人により雲ゐのくものむつまじ
きかな(
和泉式部集二七四、三七二)
などの歌をあげて触れて居られる。(同誌再版五七、五八頁)
二
三
三申
九
五