は、その人の「レジリエンス」です。ス」のこと。 …...2 プロローグ 3...

プロローグ 1

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プロローグ

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病気を治すのは、医者でも薬でも治療法でもない

批判を恐れずにぶっちゃけますが、病気が治るか治らないか、その決め手となるの

は、医者でも薬でも治療法でもありません。

患者さん自身です。

さらに誤解を恐れずにいえば、病気が治る決め手となるのは、患者さんの年齢でも

遺伝でも環境でもありません。患者さんの「気持ちの強さ」です。

気持ちの強さ……なんだか、精神論みたいに聞こえますが、これは、「レジリエン

ス」のこと。つまり、病気が治るか治らないか、また、病気か健康かを決めているの

は、その人の「レジリエンス」です。

このようにいわれても「レジリエンスって何?」という方も多いことでしょう。

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レジリエンスの低い人は、ちょっとしたことで傷つきやすく、なかなか立ち直ること

ができません。最悪の場合は立ち直れずにつぶれてしまいます。

こうした精神的なレジリエンスの他に、私たちはもう一つ、レジリエンスを持って

います。それは身体的レジリエンスです。

わたしたちの体は、ちょっとしたケガなら、特に治療などしなくても放っておけば

数日で治ります。風邪を引いたときも、薬なんか飲まなくても二、三日寝ていれば治

ります。こうした自然に治る力を「自然治癒力」といいます。

また、人間の体は常に体温や血液の成分、免疫などを一定の状態に保とうとする機

能があります。これを「ホメオスタシス(恒常性)」といいます。

体を守り、治し、よい状態を維持する力、それが「身体的レジリエンス」なのです。

◉                                                                  

                                                                    

   

どうして、治る患者と治らない患者がいるんだろう

身体的レジリエンスが高い人は病気になりにくく、なったとしても早く治ります。

そして、身体的レジリエンスが低いと病気になりやすく、治療を受けてもなかなかよ

レジリエンスとは、最近、ビジネスの世界で注目を集め始めている言葉で、もとも

とは心理学や精神医学の世界で使われていた「精神的回復力」を意味する用語です。

精神医学の用語といっても、難しく考える必要はありません。レジリエンスとは、

ごく簡単にいえば「もとに戻る力」のことです。

レジリエンスを理解するには、ゴムボールをイメージしてもらうとわかりやすいと

思います。ゴムボールは手でぐっと押さえるとへこみます。このとき、手には押し返

す力が感じられます。そして、手を放すとゴムボールは元の形に戻ります。

この「圧力が加わったときに押し返す力」「圧力が外れたときにもとに戻る力」こ

れがレジリエンスです。

人は嫌なことがあったとき、辛い経験をしたとき、精神的に落ちこみます。でも、

しばらくすると「いつまでもくよくよしてはいられない!」と自分を奮い立たせたり、

あるいはいつの間にか忘れてさほど辛くなくなったりして、再び元気を取り戻します。

この苦しみや悲しみを乗り越え立ち直る力、それがレジリエンスです。

同じような辛い環境にあっても、ダメージの受け具合、立ち直りの早さは人それぞ

れ違います。レジリエンスの高い人はストレスや環境の変化に強く、立ち直りも早い。

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ない人にはそれなりの因果関係があるはずだと思っていました。

同じ治療を施しても「治る人」と「治らない人」がいる。

なぜ医療では同じ結果が得られないのか。

条件が同じなのですから、答えは一つしかありません。どんなに条件が同じでも、

医療の現場ではどうしても同じにならないものが一つだけあるからです。

たった一つ違うもの、それは「患者さん」です。

病気も病状も同じでも、患者さんは一人ひとり違います。

問題は医者や治療法ではなく、患者さんにあるのではないか。

そう思ったわたしは、病気を診るのをやめました。

一応いいわけをしておきますと、病気を診ないといっても、医者としての職務を放

棄したわけではありません。それまでは「病気」を診て、病気を治療することを考え

ていたのですが、それをやめて、「患者さん」を診ることにしたのです。

カルテもそれまでは病気のことしか書きませんでしたが、患者さんを診るようにな

ってからは、診察時に話した個人的な悩みや、うれしそうに語るお孫さんのことなど、

病気にまったく関係ないこともメモするようにしました。

くなりません。

身体的レジリエンスは加齢とともに低下します。人は年齢を重ねると、傷が治りに

くくなったり、病気が治りにくくなったり、ちょっとした細菌やウイルスをはね返す

ことができず感染しやすくなったりします。これは加齢によって身体的レジリエンス

が低下するからです。

医学も薬学も、低下した身体的レジリエンスを補ったり、高めたりする方法を模索

することで発展してきたといえます。

ところが、現実の医療現場では、治療や薬で身体的レジリエンスを高めても、なぜ

かその効果は患者さんによって大きく違います。

同じ病気、同じ程度の病状、患者さんの体力もほとんど同じ、だから同じ治療をし

ているのに、治療効果は患者さんごとに大きく違うということです。

はっきりいってしまうと、医者がどんなに最善を尽くしても、治る人と治らない人

がいる、ということです。

わたしは西洋医学を学んだ医師です。人が病気になるのにも、治るのにも、そこに

ははっきりとした因果関係があると学んできました。ですから、当然、治る人と治ら

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思い当たること……それは、今から二〇年ほど前、わたしがオックスフォード大学

医学部博士課程で移植免疫学の研究をしていたときのことです。

当時わたしは、マウスの腹部に心臓を移植し、その心臓がどのぐらいの期間動き続

けるかを観察するという研究をしていました。通常は一週間ほどで拒絶反応が起きて、

移植した心臓は止まってしまいます。

ところがあるとき、通常の倍、一四〜一五日も移植した心臓が動き続けたマウスが

いたのです。しかもそれは一匹ではありませんでした。あるゲージに入れたマウスす

べての心臓が動き続けたのです。そのゲージというのは、たまたまいつもとは違う場

所に置いたゲージでした。

そのときは、「不思議だなぁ、何がよかったんだろう」と思いながらも、それで終

わってしまいました。でも、そのときのことが日本に帰ってきた後も、ずっとわたし

の心に引っかかっていたのです。

あのときのマウスは、もしかしたら、「気持ち」がよかったのかもしれない。

マウスがいい気持ちだったから、というのも変な表現ですが、植物にモーツァルト

を聞かせるとよく育つとか、美味しくなるという話もあります。そこで、ちょっと実

そうしたことを続けているうちに、患者さん自身の「気持ち」が病の治癒に大きく

影響しているということに気づいたのです。

物事を前向きに受け取る人、感謝の言葉が多い人は治癒が早く予後もいい。反対に、

物事を悲観的にとらえる人や、不満や愚痴の多い人は、治りが遅く、予後もよくあり

ません。それはまさに、古くからいわれてきた「病は気から」という言葉そのままの

結果でした。

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病は気からは本当だった! 

「病は気から」は本当かもしれない

―。この事実に直面したときのわたしの気持ち

は……、チルチルとミチルが世界中探し回っても見つけられなかった青い鳥が、家に

戻ったら鳥かごにいた!

―とでもいうような、うれしいような、拍子抜けするよう

な、西洋医としては少々複雑な気持ちでした。

でも、真実に気がついてしまった以上、後には引けません。

それに、思い当たることがないわけでもありませんでした。

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ントロール機能がアップし、結果として移植心臓が長期間動き続けたということです。

この実験結果は、わたしたちがいい音楽を聞いたときに感じる「気持ちのよさ」を

マウスも感じ、それが精神的レジリエンスを高め、その精神的レジリエンスの高まり

が身体的レジリエンスを高めた可能性を示していました。

つまり、マウスでさえ「気持ち」で身体的レジリエンスが高まるのです。

人間だって、「気持ち」で身体的レジリエンスが高まる可能性は十分あります。可

能性があるどころか、すでに臨床では状況証拠は十分すぎるほどそろっていました。

◉                                                                  

                                                                    

   

大病でも治ってしまう人、名医にかかっても治らない人

「病は気から」の言葉通り、前向きな気持ちを持つことが身体的レジリエンスを高め、

ネガティブな気持ちを持つことが身体的レジリエンスを低下させるのであれば、医療

に大きな希望の光が差し込みます。

なぜなら、前向きな気持ちを持つためには、精神的レジリエンスを鍛えればいいこ

とがすでにわかっているからです。精神的レジリエンスは、年齢に関係なく鍛えるこ

験をしてみることにしました。

心臓を移植したマウスにオペラ「椿姫」のCDを聞かせたのです。

すると、どうなったと思いますか?

驚くべきことに、倍どころか平均で四〇日間、つまり通常の五倍も長く心臓が動き

続けたのです!

マウスの体の中でいったい何が起きているのだろう。

そう思ってマウスの体内を調べてみると、何も聞かせなかった通常のマウスに比べ

て「椿姫」を聞いたマウスは、免疫機能をコントロールする免疫制御細胞が増加して

いたことがわかりました。

ちなみに、他の音楽も試してみたところ、モーツァルトでは平均二〇日で効果は

「椿姫」の半分、わたしの好きな石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」や、ヒーリ

ング音楽として有名なアイルランドの歌手エンヤの歌ではほとんど効果がありません

でした。

つまり、マウスは「津軽海峡・冬景色」よりモーツァルトを好み、そのモーツァル

トよりも「椿姫」が好きで、マウスが「椿姫」を聞いたことによって、体内の免疫コ

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ですが、四人は全く同じ過酷な環境を同じ年齢のときに経験していたにもかかわらず、

まったく違う人生を生きたのです。

この症例が教えてくれているのは、問題は「物事」そのものの幸不幸にあるわけで

はない、ということです。

つまり、同じ不幸を体験しても、その出来事をどうとらえたかによって、その後の

人生の幸不幸は違ってくる。物事の中から喜び・楽しみを見つける人は幸せになり、

苦しみ・悲しみを見つける人は不幸になるのです。

レジリエンスの低かった前者二人は、自分たちの不幸な過去に目を向け、不幸な人

生を歩み、レジリエンスの高かった後者二人は、自分たちの今の幸せに目を向け、幸

せな人生を生きたのです。

これは医療の現場にもそのまま当てはまります。

人は病気になったから不幸になるわけではありません。

病気でも幸せ・楽しみを見つける人は幸せになり、苦しみ・悲しみを見つける人は

不幸になります。

確かに、医療の進歩によって、身体的レジリエンスは、投薬やさまざまな治療でそ

とができるのも大きな救いです。

気の持ちようで、人は幸せにも不幸にもなる。そのことをわたしたちに教えてくれ

る症例をご紹介しましょう。それは、二〇世紀最大の悲劇、ナチスのホロコーストを

生き延びた孤児たちのその後を検証したものです。

一九七九年と一九八四年の二度にわたり、アメリカの心理学者サラ・モスコビッツ

は、幼いときにナチスの強制収容所から生還した四人の子ども(調査当時は三七歳)

が、どのような人生を送ってきたか調査しました。

四人は同じ年齢のとき強制収容所から解放され、同じ孤児院に引きとられた子ども

たちです。四人のうち孤児院の大人たちから「ぐずりや」と呼ばれていた一人と、養

子縁組をしてもその家庭になじめず孤児院に逆戻りしていたもう一人は、成人しても

ずっと不眠症を患い、その後もいくつもの重い病気を患い、調査した三七歳のときに

は無気力な病人になっていました。

ところが、彼らと同じ経験をした残りの二人は、成長後はきちんとした仕事に就き、

人生の伴は

んりよ侶

を得、子どもにも恵まれ、健康で幸せな人生を謳お

歌か

していたのです。

これは『レジリエンス 

復活力』(ダイヤモンド社)で紹介されていたエピソード

12

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症状に悩まされ続けます。

治らない病気があるという事実にがっかりしましたか?

でも、人はみんな最後は死ぬんです。

今は「死なない医療」「死なせない医療」が主流ですが、それでも人は必ず死にま

す。どうせ死ぬのであれば、大切なのは「一分一秒でも長く生きること」ではなく、

「一分一秒でも長く幸せであること」ではないでしょうか。

まあ、考え方は人それぞれなので、わたしの意見を押しつける気はありませんが、

わたしは「幸せであること」を選びます。

精神的レジリエンスが高まれば、身体的レジリエンスも高まります。しかし、それ

以上に素晴らしいのは、精神的レジリエンスを高めることは、間違いなく「幸せな時

間」を増やすことにつながるということです。

そういう意味で、わたしは、精神的レジリエンスを高めることこそ病気で苦しむ人

を救う特効薬になると信じています。

「治る病気」は、あなたがレジリエンスを高める気持ちを持てば、速やかに治ります。

「治らない病気」は、あなたがレジリエンスを高める気持ちを持てば、症状が和らぐ

の力をある程度は補ってあげることができます。しかし、いくら医師が適切な治療を

行っても治りが悪い人がいることからもわかるように、医療だけでは身体的レジリエ

ンスはせいぜい七〇%までしか回復しないというのがわたしの実感です。

残りの三〇%を高めるためには、患者さん自身が精神的レジリエンスを鍛え、高め

ることがどうしても必要なのです。こればかりはどんな名医にもできません。

だからこそ、病気が治るか治らないか、それを決定づけるのは患者さん自身だとい

う結論になるのです。

◉                                                                  

                                                                    

   

「治る病気」を治し、

「治らない病気」と上手に付き合う方法がある

はっきりいいますが、病気には「治る病気」と「治らない病気」があります。治る

病気は、レジリエンスの高い人は早く治り、レジリエンスの低い人は治るのに長い時

間がかかります。でも、治らない病気は、レジリエンスが高くても低くても治りません。

それでも、レジリエンスが高い人は症状が軽くなり、レジリエンスが低い人は重い

1415

ので、治らなくても充実した幸せな人生を楽しむことができます。まさに、レジリエ

ンスによって、人はぴんぴん生きられる。多少の不調や持病があったとしても、不満

や不安とうまく折り合いをつけながら、前向きにぴんぴん生きる人は、健康といえる

とわたしは思うのです。

本書ではどのようなことがレジリエンスを高めることにつながるのか、実際の医療

現場の話と絡めながら、四つのステップでご紹介していきます。

1章では、まず前向きな気持ちが身体的レジリエンスを高める効果があることを知

っていただきます。2章は、医療の現実を知ることで不安を解消するとともに、あな

たにとっての幸せに結びつく治療法を自分の意志で選び、前向きに医療と向き合うこ

とについてお伝えします。3章は、過去や未来に囚われすぎず、今の生をめいっぱい

楽しむために効果的な「養生」の方法をご紹介します。4章は、誰もがいずれは迎え

る老いや死という現実を、受け入れて感謝するための考え方を提案します。

本書は難しい医学書ではありません。とにかく、気楽な気持ちで、楽しみながら読

んでください。楽しんでいただければいただくほど、この本はあなたのお役に立つこ

とでしょう。お待たせしました、どうぞ診察室にお入りください。

誰でもぴんぴん生きられる

―健康のカギを握る﹁レジリエンス﹂とは何か?  

目次

プロローグ 病

気を治すのは、医者でも薬でも治療法でもない

………

1

どうして、治る患者と治らない患者がいるんだろう

………

3

病は気からは本当だった!

………

6

大病でも治ってしまう人、名医にかかっても治らない人

………

9

「治る病気」を治し、「治らない病気」と上手に付き合う方法がある

………

12

1章 病気か健康かは「レジリエンス」が決める 

病気と健康、幸せと不幸せの法則

こんにちは、僕が新見です

………

22

  

1617

話を聞いてあげるだけで治っていった、不思議な臨床経験

………

26

「おかげさま」といえるかどうかが健康を左右する

………

30

拒めば拒むほど病気はあなたから離れない

………

33

健康になりたければ、病気のことは忘れなさい

………

37

臨床医が日々感じながらも口にできない「ある現実」

………

43

オペラ「椿姫」を聞かせたマウスの心臓が止まらない!

………

45

イグ・ノーベル賞を運んだ数々の「幸運」

………

48

運も不運も、健康も病気も、すべては「気持ち」次第だった!

………

54

精神的レジリエンスを高めれば健康力は上がる

………

58

「いいにおい」もレジリエンスアップに効果がある! ?

………

61

早く治したいなら「病気」には向き合うな!

………

63

末期がんからの生還は決して奇跡ではない

………

67

「まじめにいうことを聞く患者」が治るとは限らない理由

………

73

2章 医者を「かしこく」使いなさい 

レジリエンスを高める「医者と医療の選び方」

「肉は体にいいのか悪いのか」の正解はない

………

80

新薬を使ってもいい人、使ってはいけない人

………

83

バイアグラが生まれたのは「意外な人体実験」だった

………

88

タバコは「丸腰で高速道路の路肩を歩くようなもの」と考えなさい

………

91

「治療法」ではなく、「医者」を選びなさい

………

95

病気になったら「近所の医者」を選べ

………

99

医者を「自分にとっての名医」に変えるコツがある

………

103

ベストな治療法を見つけるための、医者への「ある質問」

………

107

「病気と戦わない」という究極の選択肢もある

………

110

早期発見・早期治療がすべてなんて、ウソである

………

113

遺伝子検査は、「恋人の携帯電話」だと思いなさい

………

116

「今ここにない病気」への不安が本当に人を病気にする

………

120

1819

「メタボ健診」に潜む危険なワナを知っていますか?

………

123

乳がんのマンモグラフィー検査は意味がない! ?

………

126

うつ病は「混んでいる病院」にかかりなさい

………

130

医者をかしこく使えば、病気とうまく付き合える

………

134

3章 この「養生」があなたの自然治癒力を高める 

― 医者が教えるレジリエンスを高める生活習慣

人間の体は、放っておけばよくなるようにできている

………

140

養生の基本は日々の生活管理……でもね

………

143

健康診断の「基準」がゆるやかになったのを知っていますか?

………

146

「これを食べると健康にいい」は、占い程度に信じなさい

………

149

「負荷を楽しむ」生活習慣がレジリエンスを高めてくれる

………

152

「バランスよく食べなさい」の本当の理由を知っていますか?

………

156

食事は、これを「ちょい足し」、これを「ちょい減らし」なさい

………

159

「快眠でなくちゃ」と思えば思うほど、不健康になる

………

163

医者がすすめる「早起き・お風呂・おまじない」の快眠法

………

165

意外なほどに効果絶大な「偽薬」の条件とは何か

………

170

風邪や発熱の「ちょっとした病気」には、喜んでかかりなさい

………

175

「健康のためにジョギング」は今すぐやめなさい

………

178

「九二キロのカナヅチ」から「アイアンマンレース完走」へと激変したわたしの経験

……… 181

「排便反射」を体に叩き込むための毎朝の習慣

………

185

尿もれ・頻尿「下の不安」に効果的な「ちょこっとトレーニング」

………

189

風邪予防には「うがい」「手洗い」「マスク」もムダである

………

193

除菌のしすぎが、体のレジリエンスを低下させる

………

195

人生の幸せ感度をあげるために、「不安や心配」は必要なもの

………

197

我慢のしすぎは、人を不幸に、不健康にする

………

200

4章 最期まで「自分で」、ぴんぴん生きるために 

受け入れる姿勢がレジリエンスを高める

ちょっとの不調や持病ありでも「これ」なら健康だ!

………

204

20

1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

21

「一〇歳若く」いる努力で、健康に老いる

………

206

バカの一つおぼえのように「長生きが勝ち」なんていうな

………

210

自分が自分とわかるうちに死にたい、という本音

………

214

「ちょっとできの悪い嫁さん」のほうがありがたい

………

216

料理をすることは、効率のいいボケ封じになる

………

219

高尚な趣味より、くだらないおしゃべりがいい

………

220

「ありがとう」といわれることをする習慣は、ボケ防止にいい

………

223

母の介護を楽にした、この考え方

………

226

「死に様は自分で選べ」 多くの「死」と向き合ってきた医者からの提案

………

229

「でも、幸せ」が口ぐせの人は健康になる

………

232

あとがき

………

237

装  丁/渡辺弘之

構  成/板垣晴己

本文組版/山中 央

編集協力/くすのき舎

編  集/橋口英恵(サンマーク出版)

1章病

気か健康かは

「レジリエンス」が決める

―病気と健康、幸せと不幸せの法則

22

1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

23

◉                                                                  

                                                                    

   

こんにちは、僕が新見です

わたしは、初めての患者さんには、いつも最初に「僕が新見です」と自己紹介して

から診察に入ります。

ということで、この本でも最初に簡単な自己紹介をさせていただきます。

わたしは現在、帝京大学病院の外科に勤務する医師です。専門は血管外科ですが、

わたしの診察を希望される方なら、誰でも、どんな病気でも、一応診察します。そし

て、わたしが対処できるものは対処し、専門医の治療が必要な方には専門医の診察を

受けるようすすめます。

そもそも大学病院というのは、専門的な検査や治療を必要とする人が来る病院なの

で、こうした「何でも診療」を行っているわたしは、大学病院の医者としては少々変

わり者だといわれます。

でも、わたしは特に「何でも診療」と看板を掲げているわけではありません。ただ、

「この世はすべて運と縁」だと思っているので、縁があってわたしのところに来てく

れた患者さんにはできる限りのことをしてあげたいと思っていたら、いつのまにか

「何でも診ます」になっていたのです。

とはいえ、わたしも最初から何でも診察できたわけではありません。

今も、一応どんな病気も診ますが、わからないこともたくさんあります。そんなと

きは「ごめんね。僕にはわからないから○○科の××先生の診察を受けてね」と正直

にいいます。それでも、血管外科という外科の中でもニッチな分野を専門とするわた

しが多くの病気の診療ができるようになったのは、漢方薬と出会ったおかげです。

慶應義塾大学医学部を卒業し、同大学病院の外科を経て、オックスフォード大学医

学部博士課程において博士号を取得しました。帰国から現在に至るまで帝京大学の外

科で臨床医として働いているわたしは、バリバリの西洋医学の医師です。ですから治

療に必要な薬は、基本的に西洋薬を処方します。でも、それに加えて、これも縁あっ

て勉強した漢方薬の処方もしています。

バリバリの西洋医がなぜ漢方薬を処方するようになったのか、この「縁」を説明す

るとちょっと長くなるので、詳しいことは後にゆずります。今は、新見というのは漢

方薬も処方する外科医なんだ、ということだけ覚えておいてください。

もう一つ、わたしの医者人生に大きな変化をもたらしたものに、「セカンドオピニ

24

1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

25

オン外来」があります。

セカンドオピニオンというのは、患者さんが担当の医師以外の専門家に、自分が受

けている検査や治療について質問や相談をすることです。ごく簡単にいえば、今診て

もらっている先生の診断や治療方法にちょっと疑問があるのだけれど、当の主治医に

は聞きにくい、でも不安なので専門的な知識を持った他の人に相談したい、という人

のための相談窓口です。

今では多くの病院にセカンドオピニオン外来がありますが、わたしがセカンドオピ

ニオン外来を立ち上げたのは二〇〇二年、オックスフォードやアメリカではすでにあ

たりまえだったセカンドオピニオンも日本ではまだほとんど普及していませんでした。

医師でさえ「セカンドオピニオンって何?」というような時代ですから、日本の大学

病院としては初の試みでした。

そのセカンドオピニオン外来で、わたしは普段は聞くことができない患者さんの悩

みや不安に数多く接することになりました。そして、患者さんたちの訴えを聞いてい

るうちに、単に病気を治療すること以上に患者さんが医師に求めているものがあるこ

とを知りました。

それは一言でいえば「不安の解消」です。

患者さんはみんなさまざまな不安を抱えています。

自分の体はどうなっているのだろうという不安、将来に対する不安、治療法に対す

る不安、治療費に対する不安、等々。

病気は体だけでなく心も蝕む

しばみ

ます。体を治療しても、心のケアがおろそかだと病気

はなかなかよくなりません。でも、体と同時に心のケアもしていくと、体は「勝手

に」というと少々大げさですが、そういいたくなるぐらい順調に回復していきます。

わたしが患者さんの「心のありかた」、つまり「気の持ちよう」と病気の関係に着

目するようになった理由はセカンドオピニオン外来に携わったことだけではないので

すが、患者さんの生の声を聞いたことが大きな契機になったことは事実です。

こうして最初は半信半疑だった気持ちと病気の相関関係、つまり、気持ちが病気の

進行や治癒、症状の表れ方にとても大きく影響しているということは、今やわたし自

身の臨床体験と、「はじめに」で触れた心臓移植マウスにオペラ「椿姫」を聞かせる

実験を経て、もはや疑いようのない事実として確信するまでになっています。

さて、自己紹介の最後に、本書の中にこれからチョコチョコ登場することになると

26

1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

27

思うので、わたしの個人的な情報も少し付け加えておきます。

わたしの家族は、縁あって結ばれた愛妻が一人、目の中に入れても痛くないほどか

わいい娘が一人、そしてかつてはわたしのよき理解者でしたが、今は認知症になって

時々わたしのことも「このおじさんはだあれ?」と聞くようになった母が一人。

趣味は五〇歳をすぎてから始めたトライアスロン。ちなみにわたしは、トライアス

ロンに挑戦するまで顔を水につけることもできない完璧なカナヅチでした。

さあ、これでわたしの自己紹介は終わりです。診察を始めましょう。

◉                                                                  

                                                                    

   

話を聞いてあげるだけで治っていった、

不思議な臨床経験

今のわたしの治療方針は「患者さんと一緒に頑張る」です。

だから、患者さんには最初に次のようにいいます。

「治療と薬で七割はよくなりますよ。でも残りの三割をよくするにはあなた自身の頑

張りが必要です。一緒に頑張りましょうね」

でも、最初からこのように考えていたわけではありません。以前のわたしは、病気

は医者が治すもので、患者さんのするべきことは医師の指示をきちんと守ることだと

思っていました。

しかし、臨床医を長く続けていると、自信を持って「わたしが治しました!」とい

えないことがたくさん起きます。そうしたことを経験するうちに、必ずしも医者が病

気を治しているわけではないのではないか……、と思うようになったのです。

実際、これは臨床医なら誰もが経験していることだと思いますが、同じ治療をして

も、患者さんによって治りがよかったり悪かったり、効果はバラバラなのです。

人によって治療効果が違うだけなら、体質の違いかな、と思うこともできますが、

なかなかよくならなかった人が、特に治療法を変えたわけでもないのに急に快方に向

かったり、逆に今まで問題なく快方に向かっていた人の症状が悪化したりすることも

あります。とにかくセオリー通りに行かないのが実際の臨床の現場なのです。

それでも外科治療だけを行っているときはまだよかったのです。なぜなら、外科は

悪いところが目に見えるからです。悪いところが目に見えるということは、よくなっ

たことも目で見て確認できるということです。

28

1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

29

たとえば、転んで膝をすりむくと、皮がめくれ血が出ます。ケガをした場所をきれ

いに洗い、ラップなどで覆っておくと、やがて血は止まり新しいきれいな皮膚ができ

て「治った」となります。

わたしが専門とする血管外科では、血管そのものは皮膚の下に隠れていますが、血

液の流れが改善しているかどうか、つまり治療の効果は、調べれば数値ではっきりと

わかります。こうした見た目や数値で悪さや治療効果がわかる病気をわたしは「デジ

タル疾患」と呼んでいます。

一方、痛みやしびれ、冷えやのぼせ、不安、イライラ、うつ状態や不眠といった、

目で見ても数値を測ってもわからない症状を訴えるのが「アナログ疾患」です。

たとえば、冷え症で寒くて寒くて、夏でも靴下の重ね履きをしないといられなくて

困っていると訴える患者さんがいます。ところが、そういう患者さんの手足に触れる

と、不思議なことに冷たくないことが多いのです。わたしの診察室には赤外線温度計

があるので、それで見てもやはり体温は決して低くない、正常なのです。体温が正常

だということは、血流にも問題はないということです。

最初わたしはこうした患者さんには「おかしいですね、冷えていませんよ」と数値

を見せて納得させようとしていました。でも、そういう患者さんに何人も接するうち

に、そんなことをしても無意味だと知りました。

問題は手足が実際に冷えているかいないかではなく、本人が冷えを感じて辛い、と

いうことだからです。とはいえ、実際には血流が悪くないのですから、西洋医学では

どうすることもできません。

西洋医学にはアナログ疾患に対する効果的な治療法がない!

この衝撃的な事実に直面したとき、わたしにできることは、「そうですか、それは

辛いですね」と、患者さんの訴えを信じて、話を聞いてあげることだけでした。

ところが、どういうわけか、そうしているうちに「おかげでよくなってきました」

という患者さんが増えてきたのです。わたしとしては特に治療をしていないのですか

ら、「おかげさまで」といわれてもねぇ……、という少々複雑な気持ちでした。それ

でも、「おかげさまで」といわれて医者としてうれしくないはずがありません。

何かもっと、今のわたしに患者さんにしてあげられることはないのか、そう考えて

いったとき思いついたのが漢方薬だったのです。

漢方薬には西洋薬のような劇的な効果はありません。その代わり、重篤な副作用も

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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ほとんどありません。そして何よりも、わたし自身が試しに飲んでいて、少しずつで

すが効果を感じ始めていたので、患者さんに「漢方薬でよければ処方しますよ。試し

てみますか?」と聞き、望む人に処方するようになったのです。

最初は気休め程度の気持ちでした。でも、実際に処方してみると、思っていた以上

の効果がありました。しかも、以前から「おかげさまで」といっていた人ほど漢方薬

の効果が早くあらわれたのは不思議でした。

病気の治癒には、西洋医学だけでは解けない「何か」が関わっているようだ。

そして、それは「おかげさまで」という人といわない人の違いに関係しているらし

い。こんな些細な気づきから、わたしの「心と病気」の関係をめぐる旅はスタートし

ていきました。

◉                                                                  

                                                                    

   

「おかげさま」といえるかどうかが

健康を左右する

二〇世紀、西洋医学は病気の原因を探ることで進歩してきました。

なぜ人は病気になるのか。病気の原因は何なのか。

先人の努力によって、多くの病気の原因が明らかになりました。病気の原因はさま

ざまです。細菌やウイルスなど外的原因もあれば、生活習慣や遺伝などの内的原因に

よる病気があることもわかりました。しかし、原因不明の病気はまだまだたくさんあ

ります。中でもアナログ疾患の原因の多くはわかっていません。

病気の原因を明らかにすることは、治療法の確立につながるとても重要なことです。

たとえば、血行が悪くて手足が冷えている人は、冷えの原因になっている血行を改

善すればよくなります。でも、血行が悪くないのに手足の冷えを感じる「アナログ冷

え症」は、なぜ「冷え」を感じるのかわからないので、具体的な治療法が確立されて

いません。

しかし、治療法が確立されていなくても、臨床医は目の前の患者さんが苦しんでい

れば対処しなければなりません。特にわたしの外来に来るアナログ疾患の患者さんは、

いろいろな病院へ行ったけれどよくならず、長い間辛い思いをしているという人たち

が多いので、少しでも効果が期待できる方法は試す価値があると思っています。

臨床の現場では、「なぜ病気になったのか」という原因追求よりも、「どうすれば病

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

33

気が治るのか」「どうすれば少しでも楽になるか」ということのほうが求められます。

極端なことをいえば、因果関係などわからなくても、結果として、よくなりさえすれ

ばそれはそれでいいのです。

ですからわたしは、「過去に同じような症状の人が来て、この漢方でよくなったこ

とがありますが試してみますか?」「こういう運動をしたらよくなった人が多かった

ですね。あなたもやってみてはどうですか」「ストレスが関係しているかもしれない

から、悩みがあったら何でもいいから素直にいってくださいね」と、なりふり構わず

あらゆる方法を提案することで、病気と治療効果の相関を探っています。

臨床ではこうした「相関」の蓄積がとても大切なのです。わたしが「心と病気」の

関係に気づくことができたのも、臨床現場で相関を積み重ねてきた結果です。

一般的には、医者はカルテには病気に関係のあることだけしか書きません。わたし

もセカンドオピニオンを始めるまではそうでした。しかし、いろいろな患者さんと接

する中で、病気ではなく患者さんと向き合おうと思うようになってからは、診察時に

聞いた話や、患者さんの性格や印象などもメモするようになりました。

そうしているうちに気づいたのが、「おかげさまで」という人ほど薬の効きがよく、

治るのも早い。それに対し、不満や文句が多く「でも」と「まだ」を口ぐせのように

いう人は薬の効きが悪く、治りも遅いということでした。中でも最悪なのは、「お前

医者なんだろ、治る薬を出せよ、俺の病気を治せよ」と、居丈高に不満をぶつけてく

る人です。こういう人のアナログ疾患は、まず間違いなく治りません。

科学的な因果関係はわからないものの、臨床における相関では、これは間違いのな

い事実でした。

◉                                                                  

                                                                    

   

拒めば拒むほど病気はあなたから離れない

喉が渇いた人に、水を満たしたコップを差し出し、半分だけ飲んでもらいます。そ

して水の量が半分になったコップを見てどう思うかで、その人の性格がわかるという

のはよくある心理テストです。

まだ半分も残っている、と思った人は楽観的でポジティブ思考の人。もう半分しか

残っていない、と思った人は悲観的でネガティブ思考の人、というものです。

実は、これと同じようなことが臨床の現場でもいえます。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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治療が進んで、半分ぐらいよくなってきたとき、患者さんには「おかげさまで痛み

が半分ぐらいになりました」という人と、「先生、まだ痛みが半分も残っています」

という人がいます。どちらも病状は同じなのですが、見ているところが違います。

「おかげさまで」という人が、よくなった部分を見て喜んでいるのに対し、「先生、

まだ」という人は、残っている悪い部分を見て不安と不満を訴えるのです。そして、

両者を比べると、「おかげさまで」という人の方が、圧倒的に治りが早いのです。

治りが早いということは、その人がもともと持っている自然治癒力、つまり身体的

レジリエンスが高まっているということです。

ここでは説明をわかりやすくするために、どちらも「半分よくなったとき」といい

ましたが、実際の臨床現場では、「おかげさまで」という人は、ほんの少し、割合で

いえば一割程度しかよくなっていなくても「おかげさまで楽になりました」とうれし

そうにいいます。逆に、「先生、まだ」という人は、ほとんどよくなっていても、わ

ずかに残る痛みに全神経を集中させ、「先生、まだ痛みが完全には消えません」と、

辛そうな顔をします。

こうした患者さんがいるので、わたしは「治してあげますよ」と、安請け合いする

ような言葉はいいません。特にアナログ疾患の場合は、「先生、まだ」という人の痛

みを一〇〇%取り除くことは、医者がどんなに頑張っても、患者さんが気の持ち方を

変えない限りできません。

「治してあげますよ」とはいいませんが、「治りませんよ」ともいいません。治らな

いといってしまうと患者さんは絶望して治療する気をなくしてしまいます。

では、何というのかというと「半分は治してあげるよ、だから一緒に頑張ろうね」

というのです。

医者が半分治し、残りの半分は患者さんが頑張る。

患者さんが頑張るというと、辛い治療に耐えたり、できるだけ安静に努めたりとい

うイメージを持つ人が多いのですが、実はレジリエンスを考えると、そうしたことは

逆効果になる場合が多いのです。

もちろん「がん」など外科手術が有効な病気では、手術の痛みやリハビリに耐える

といった頑張りが必要になることもありますが、多くの場合は、病気のことなど忘れ

て楽しくすごした方が、レジリエンスは高まります。

目指すは、よくなった部分や日々の生活に幸せを見いだし「おかげさまで」という

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

37

言葉が患者さんの口から自然に出てくるようになることです。

そのために医者がすべきことは、まずは患者さんが病気を「理解する」手助けをす

ることです。

たとえば、アナログ冷え症の人は、実際の血行は悪くなく、体温は決して低くない。

はっきりした理由はわからないけれど、自分は「偽りの冷え」に苦しめられているん

だ、と知ることです。これはデジタル疾患でも同じです。自分の病状や病気の原因、

痛みの理由などを知ることで不安が消え、気持ちが楽になります。

こうして病気のことを理解したら、次は病気を「受け入れる」ことです。

病気になったときに、「なんでわたしがこんな目にあわなければならないんだ!」

という人がいます。確かに病気というのは理不尽なものですが、病気は拒めば拒むほ

ど離れてくれません。なってしまったものはしかたがない、というぐらいのおおらか

な気持ちで、受け入れてしまった方が治りは早くなる気がします。

幸いなことに、人間には何事にも「慣れる」という能力が備わっています。痛みや

しびれといった身体的な症状もある程度は時間の経過とともに慣れていきます。

そして、慣れると人はそのことを意識しなくなるので、次第に忘れていきます。こ

うして痛みを忘れ、病気を忘れると、それだけで、そのまま症状が完全に消えていく

ことも実は少なくないのです。

◉                                                                  

                                                                    

   

健康になりたければ、病気のことは忘れなさい

そんなに簡単にいくかなぁ、と思うかもしれませんが、些細な「忘れる効果」は多

くの人が日常的に経験しています。

たとえば、普段は腰痛で長時間立っていられないという人が、大好きな歌手のコン

サートでずっと立っていたり、普段は足が痛くて近くのスーパーに行くのも辛いとい

っている人が、旅行先で観光に夢中になっていたら、いつの間にか何キロメートルも

歩いていたり。風邪で鼻水が止まらなかったのに、会社で大事な取引先と商談してい

たら、気づかないうちに鼻水が止まっていたり。

逆に、せっかく忘れて遊んでいたのに、何かの拍子に「あなた腰が痛かったんじゃ

ないの? 

大丈夫?」と聞かれて腰痛を意識した途端、激しい痛みが襲ってきた、と

いうこともよくあります。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

39

このように病気の症状というのは、意識すればするほど重くなり、何か他の物事に

意識が向くと軽くなり、忘れているといつの間にか消えてしまうということが実はよ

くあるのです。

なぜ意識が逸れるとよくなるのか、これもはっきりとした因果関係はわかっていま

せん。でも、実際に「受け入れ」て「忘れた」人ほど症状は軽くなり、気にして片時

も忘れない人はいつまでも症状に悩まされ続けることになるのは事実です。

実際、こんなことがありました。

昼でも夜でも、横になると咳が出て止まらない。激しい咳なので苦しいのはもちろ

ん、毎晩座って眠らなければならないので熟睡できずに困っている。某有名大学の呼

吸器内科も受診したけれど一向によくならない。わたしの診察室で、そう訴えたのは、

受験を間近に控えた神奈川県の有名進学高校三年生の男の子でした。

わたしにも初めての症例で、原因はまったくわかりません。そこで、いつものよう

にまずは彼の辛さを分かち合い、信頼関係ができたところで、詳しい検査をしてみよ

うということになりました。

その検査は、体を横たえた状態で、口(または鼻)から気管支鏡という肺まで届く

ファイバースコープを入れて気管支の中の状態を見る検査です。通常でも気管支にス

コープが入ると咳が出るので、この検査には局所麻酔が使われます。彼の場合は、体

を横にしただけで激しい咳が出るので、麻酔をして感覚をなくしてから体を横にして

検査を行いました。

すると、この検査後、不思議なことに横になっても咳が出なくなったのです。

この結果を経て、わたしは彼の咳の原因が「心」にあったことを知りました。もし

も体に問題があるのなら、麻酔で一時的に押さえても、麻酔がさめたら同じように咳

が出るはずだからです。

心に原因があったというのが非科学的な感じがするなら、脳が誤った思い込みをし

ていたといってもいいでしょう。つまり、「横になったら咳が出る」という間違った

思い込みが、麻酔を使ったとはいえ、「横になっても咳が出ない」という経験をした

ことで、外れたのです。

本人にもこのことをよく説明し、心の問題だからもう大丈夫だよと伝えました。さ

らに、万が一また横になって咳が出そうになったら、麻酔をして横になったときのこ

とを思い出せば出なくなるはずだよ、ともいいました。それでも咳が出そうな感じが

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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したら飲むようにと、漢方薬も処方しました。そして、漢方薬を飲んでも収まらなけ

れば、いつでも外来においで、すぐに麻酔で咳が出ないように対処してあげるから、

というと彼も安心したようでした。

その後彼は、自宅で漢方薬を飲んだことはありましたが、大きな発作には至らず、

無事外来を卒業していきました。

痛みや発作の中には、このケースのように薬で症状を抑えたり、本人が別のことに

意識を向けるなどして、一度「脳の思い込み回路」を断ち切ると、起きなくなること

が実はよくあります。

もちろん、体に問題が隠れている場合は、思い込みを取り除いただけでは症状は消

えません。ですから、慣れたり忘れたりすればそれだけですべての症状が消える、と

はいいません。それでも、たとえ体に原因がある場合でも、意識を逸らすことで症状

はある程度楽になります。

そのことをわたしに証明して見せてくれたのは、大腸がんを患い人工肛門になった

五九歳の男性Aさんです。

彼がわたしのところへ来るようになったのは、手術後の痛みに耐えかねてのことで

した。人工肛門になったことで本来の肛門はなくなっていたのですが、肛門があった

場所が痛くてたまらない、と訴えていました。診ると、足もかなり腫は

れていて歩くの

も辛そうでした。

手術したとき、すでに大腸がんがかなり進行していることを告げられていたAさん

は、自らの余命がそれほど長くないことも覚悟しているようでした。

痛みに耐えかねていたAさんが、あるときわたしに聞きました。

「先生、死んだらこの辛い痛みがなくなって楽になるんですかね?」

わたしは正直に答えました。

「そりゃあ死んだら楽になるよ。でもね、死ななくても痛みは少しずつ楽になってい

くよ。こうした症状は、時間の経過で楽になるものなんだ。

それにね、まあ、人はみんなどうせいつかは死ぬんだから。あなたはこれまで精一

杯頑張ってきたんだから、どうせ考えるなら、死ぬことより幸せだなって思えること

のほうがいいんじゃないかな」

もちろん、初対面でこんな会話をしたわけではありません。ある程度、信頼関係が

できたと感じられてからのことです。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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がんの患者さんに「どうせいつかは死ぬんだから」というなんて、デリカシーのな

いひどい医者だと思う人もいるかもしれませんが、死は誰もがいつかは受け入れなけ

ればならない事実です。

わたしは、人は自分の死を受け入れることで、むしろ一生懸命生きることができる

ようになると思っています。

実際、このときを境に、Aさんは何かが吹っ切れたかのように明るくなりました。

あれから今年でもう三年がすぎようとしていますが、Aさんは重篤ながんを患った

とは思えないほど明るく元気に、仕事も以前通りこなしています。

わたしが「最近、痛みはどうですか?」と聞くと、Aさんは笑いながらいいます。

「いやあ先生、痛いかと聞かれれば、やっぱり痛いですよ。でもね、昔の痛みを一〇

としたら今は二ぐらいかな。それより、最近は仕事がけっこう忙しくてね。まあ、こ

の程度の痛みは、死ぬまで治らないんでしょうから、しかたないと思っていますよ」

痛みが完全になくなったわけではありません。それでも彼が元気に仕事をして、笑

顔でこういえるようになったのは、病気を受け入れた上で、痛みから上手く気持ちを

逸らせ、今ある幸せに目を向けているからです。

症状は、時間と気持ちの持ち方で大きく変化するものなのです。

◉                                                                  

                                                                    

   

臨床医が日々感じながらも口にできない「ある現実」

多くの臨床医が漠然と感じながらも、それを口に出していうことがはばかられてき

た「病は気から」という現実。

臨床はサイエンスがそのまま通用する世界ではない。結果として患者さんがよくな

れば因果関係はわからなくてもいい。

―とはいうものの、やはりわたしも学者の端

くれです。何とかして科学的に心と病の関係を立証できないものかと思っていました。

そんなわたしの秘めた思いが通じたのでしょうか、ある日、運命の女神がわたしに

声をかけてくれました。

「マウスが余ったんですが、何かしますか?」

実際に声をかけたのは、運命の女神こと中国からの留学生の女の子でした。

「はじめに」でも触れましたが、わたしはかつてオックスフォード大学に留学してい

たとき、移植免疫の研究をしていました。マウスの腹部に別のマウスの心臓を移植し、

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

45

さまざまな条件下で、移植した心臓がどのぐらいの期間動き続けるか調べる研究です。

この研究は、日本に帰国し臨床医として患者さんを診るようになってからも、ライ

フワークの一つとして暇を見つけては地道に続けていました。

ですから、マウスが余りましたといわれたときも、いつものようにマウスの腹部に

心臓を移植し、その経過を観察することにしました。このときの実験が運命的な実験

になるなんて、そのときはそんなことは思いもしませんでした。

さて、今度はどんな条件下で経過観察をしようかな、と思ったとき、たまたま目の

前にあったジュゼッペ・ヴェルディのオペラ「椿姫」のCDが目にとまりました。

それは、アンジェラ・ゲオルギューというルーマニア出身のソプラノ歌手の舞台を

収録したもので、わたしがオックスフォード時代に妻と二人で彼女の舞台を見に行っ

たときに、感動のあまり少ないお小遣いをはたいて買った思い出のCDでした。

「マウスにこのCDをエンドレスで聞かせておいて」

わたしの少々風変わりな指示に、運命の女神は一瞬怪訝な顔をしましたが、指示通

りマウスに「椿姫」を聞かせ続けてくれました。

通常、移植された心臓は八日ほどで止まります。

それが、「椿姫」を聞かせたマウスの移植心臓は、一〇日経っても二週間がすぎて

も止まりませんでした。

「先生、やっぱり止まりません!」

一ヶ月をすぎても止まらなかったときには、さすがに研究室のみんなもわたしも、

これは何か通常ではありえないことが起きているということを感じ始めていました。

結局、マウスの移植心臓が止まったのは、移植後四〇日目(平均値)。通常の五倍

という驚異的な記録でした。

「これは明らかにおかしいね、もう一回試してみよう」

とはいったものの、当時のわたしはセカンドオピニオンと血管外科の手術や外来で

忙しい日々をすごしていたため、研究ばかりもしていられません。次の機会は、やは

りマウスが余ったときになりました。

◉                                                                  

                                                                    

   

オペラ「椿姫」を聞かせたマウスの心臓が止まらない!

通常こうした実験では、一回当たり五匹のマウスを使います。少ないように思うか

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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もしれませんが、同じ条件下で観察する必要があるので、手術も一度にしなければな

りません。マウスとはいえ一応、心臓移植手術です。一日で五匹手術するのは、慣れ

ないとかなり大変です。

でもわたしは、ちょっと自慢させていただくと、何度も移植手術を繰り返したおか

げで、オックスフォードの最後の二年間には、一匹当たり三〇分、一日に一五匹のマ

ウスに移植手術を施せるまでに熟達していました。これは通常の三倍のスピードです。

「椿姫」を聞かせた日からさかのぼることおよそ五年前、オックスフォードで、そん

な研究三昧の日々をすごしていたある日のことです。

いつもは二〇匹のマウスが入る大きなゲージに一五匹全部を入れて観察するのです

が、そのときはたまたま大きな箱が売り切れていてなかったため、しかたなく小さな

箱に七匹と八匹に分けて入れました。

さらに、これもたまたまなのですが、普段は箱が二つになっても並べて同じ場所に

置くのですが、その日は棚がいっぱいで二つ並べて置くことができません。しかたな

く、一つは離れた別の場所に置くことになりました。

すると、二つのゲージで結果に大きな差が出たのです。いつもの棚に置いたマウス

の心臓が八日程で止まったのに対し、離れた場所に置いたゲージのマウスの心臓は、

一五〜一六日も動き続けたのです。倍近い差です。これは通常ではありえない有意差

でした。

なぜなら、実験に使われるマウスというのは、兄弟交配を繰り返し、どれも同じ遺

伝情報を持っています。こうしたいわば一卵性双生児のようなマウスを使うことで、

個体差がほとんどないという条件下で、研究者は実験を行うことができるのです。

ただし、同じ遺伝子を持つマウスを使って、同じことをして、同じ環境に置いても、

実験結果は、まったく同じになることはありません。研究者はみな、そのことを経験

的に知っているので、必ず実験には同じ遺伝子を持った個体を複数匹使い、その平均

値や中央値を結果として使います。

しかし、その違いは誤差といえるもので、何倍もの差が出ることはまずありません。

ましてや、このときはゲージごとの平均値で二倍もの差が生じたのです。これは明ら

かに異常な数字でした。

マウスに何が起こったのだろう。そう思ったものの、オックスフォードでは、これ

以上細かい実験をすることができないまま帰国する日が来てしまいました。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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日本に戻り、以降、外来で忙しい日々をすごしながらも、わたしの中にはずっと、

このとき感じた「免疫力に作用する何かがある。それは何なのだろう」という問いが

引っかかっていたのです。

音か、匂いか、光りか、温度か、湿度か、何かはわからないけれど、何らかの環境

因子が免疫の働きに大きく影響する可能性がありました。

オックスフォードで得た、この「何が移植心臓を長持ちさせたのだろう」という問

いと、その後、日本で臨床医をする中で感じていた「治療効果は気持ちの持ち方で変

わるのではないか」という問いが、わたしの中で大きくなっていたとき、たまたまマ

ウスに「椿姫」を聞かせてみようという気になったのです。

◉                                                                  

                                                                    

   

イグ・ノーベル賞を運んだ数々の「幸運」

その後もマウスが余るたびに、条件を変えながら同様の実験を繰り返しました。

「椿姫」が効果があるなら、聞かせると植物がよく育つといわれるモーツァルトはも

っといい結果が出るかもしれない、とモーツァルトを聞かせてみたり。わたしの好き

な「椿姫」がよかったのだから、同じくわたしの好きな石川さゆりさんの歌もいい結

果が出るのではないかと、「津軽海峡・冬景色」を延々と聞かせてみたり。

ヒーリングミュージックとして有名なアイルランドの歌手エンヤの歌や尺八の音色、

小林克也さんの流暢な英語や地下鉄の音なども聞かせました。

音以外のものが影響している可能性も考えられたので、同様の条件で、鼓膜に細工

した「耳の聞こえないマウス」でも実験しました。

結果は、明らかに音(音楽)がよい影響を与えていることがわかりました。

音楽の種類による違いでは、モーツァルトが平均二〇日とかなりいい結果を出しま

したが、「椿姫」の平均四〇日には遠く及びません。そして、それ以外の音楽や音は

すべて効果は見られませんでした。

実際に移植心臓が長期間動き続けたマウスと、通常の八日間で止まってしまったマ

ウスでは何が違うのか、それぞれを調べてみたところ、「椿姫」やモーツァルトを聞

かせたマウスは、通常のマウスと比べて免疫制御細胞が増加していることがわかりま

した。音楽を聞いたことで、免疫制御細胞が増加したということは、脳が体の免疫を

コントロールしている可能性が高いことを意味しています。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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つまり、マウスにとって「椿姫」やモーツァルトを聞くことが心地よいことであり、

その心地よいという思いが、マウスのレジリエンスを高め、結果的に免疫制御細胞を

増やし、移植心臓が長持ちしたと考えられる、ということです。

この結果を見たとき、わたしは自分の運の強さに驚嘆しました。

なぜなら、たまたま最初に、最もマウスのレジリエンスを高める効果を持っていた

「椿姫」を選んでいたからです。もしも、最初に選んだのが「津軽海峡・冬景色」だ

ったら、何だやっぱり音楽にレジリエンスを高める効果なんてないんだなと思って、

それ以上他の音楽を試すことはなかったでしょう。

わたしはかねがね人生は「縁」と「運」だと思っているのですが、今思い返しても、

あのときのわたしには運命の女神が微笑んでくれていたのだと思います。

わたしはこの研究結果を論文にまとめ、イギリスの医学専門誌に投稿しました。

この論文は、日本ではまったく話題になりませんでしたが、わたしも気がつかない

うちに世界では話題になっていたようで、なんと「イグ・ノーベル賞」を受賞するこ

とになったのです。

遺伝子が同じマウスに同じことをしても、結果にはばらつきが出る。そんなことは

実験をする研究者ならみんなあたりまえに知っていることです。知っているからこそ、

何か実験をするときには、遺伝子が同じマウスを複数使って、その平均値や中央値を

結果として採用するということをみんなしているのです。

遺伝子が同じなのに結果が違うということは、DNAですべてが決まるわけではな

いということを意味します。

しかし、何が結果のばらつきを生んでいるのかということは、何らかの環境因子が

影響しているのだろうというだけで、その環境因子についてきちんと研究した人はい

ませんでした。そういう意味では、わたしの実験は、この世界の盲点を突いたような

実験だったといえるのかもしれません。

とはいえ、わたしもまさかこの実験が「イグ・ノーベル賞」という大きな賞に結び

つくものになるとは思ってもいませんでした。受賞を知らせるEメールが届いたとき

も、最初はよくある詐欺メールだと思って無視していたぐらいです。

二〇一三年四月某日に届いた、「C

ongratulations

(おめでとう)」という言葉で始ま

るそのメールには、イグ・ノーベル賞の授賞式に来て欲しいと書かれていました。

人を笑わせるとともに考えさせるユニークな研究や業績に贈られるイグ・ノーベル

52

1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

53

賞。世界的な名誉となる「ノーベル賞」に「イグ(Ig

)」という否定を意味する語を

冠したこの賞の存在は知っていましたが、特に応募した記憶もないし、そんな有名な

賞の受賞の知らせが、怪しげな(と、わたしが勝手に思っただけなのですが)メール

で届くとは予想外のことでした。

この受賞メールが詐欺などではなく本物だと知ったのは、過去に受賞経験のある研

究者が、お祝いの言葉とともに、本当に君が受賞したんだよ、と教えてくれたからで

した。

考えてみれば、イグ・ノーベル賞の受賞も含め、この研究は幸運の連続でした。

最初の幸運は、先ほどもいいましたが、たまたま最初に手にとったCDが「椿姫」

だったことです。

次の幸運は、最初に論文を投稿したアメリカの一流の医学雑誌『T

ransplantation

』が、

「こんなバカな実験の論文は載せられない」と、けんもほろろに掲載を断ってくれた

ことです。

医学論文というのは、一度に複数の雑誌に投稿することはできない決まりになって

います。そのため、一つの雑誌に送ったら、掲載してもらえるかどうか結果が出るま

で他の雑誌に送ることはできません。一流誌に断られたわたしは別の雑誌にも投稿し

ましたが、そこでも不採用でした。そして、いい雑誌なのですがランクとしては少し

下の雑誌を狙うことにしました。

こうして二〇一二年七月、わたしの論文はイギリスの医学雑誌『Journal of

Cardiothoracic S

urgery

』に掲載されました。

七月掲載という、その年の後半戦に入ってからの参戦だったにもかかわらず、わた

しの論文は二〇一二年に『Journal of C

ardiothoracic Surgery

』の中でのサイト閲覧件数

のトップになりました。これはたまたま競合する論文が少なかったからなのですが、

トップになったおかげでイグ・ノーベル賞の選考員の目にとまったのではと思ってい

ます。

もしも、最初に投稿した『T

ransplantation

』に掲載されていたら、おそらくわたし

の論文がトップになることも、注目されることもなく終わっていたでしょうから、本

当に幸運でした。

54

1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

55

◉                                                                  

                                                                    

   

運も不運も、健康も病気も、

すべては「気持ち」次第だった!

たまたまマウスが余り、たまたま「椿姫」のCDを手に取り、論文を掲載してくれ

た雑誌にたまたま競合論文が少なく、おかげで、たまたまイグ・ノーベル賞の選考委

員の目にとまった。

すべて狙ったわけではなく、本当に「たまたま」なのですが、たまたまもここまで

重なると、我ながらかなりの「強運」だと思います。こんなふうに、普段から、自分

をかなり運のいい人間だと思っているからでしょうか、不運に思えるようなことが起

きてもあまり落ちこみません。幸運の持ち主である自分にそういうことが起きたとい

うことは、別の道を行った方がいいということなのだろう、と何の根拠もなく勝手に

思っているからです。

実際、今回のイグ・ノーベル賞もそうですが、わたしはいつも方向転換させられた

先で幸せに出会っています。そもそも、わたしが医者の道に進むことになったのも、

不運の姿をした幸運がきっかけでした。

わたしが医者になろうと思ったのは、「どもり」だったからです。

今でこそテレビに出たり、講演をしたり、もちろん外来でも、ペラペラとよくしゃ

べるわたしですが、研修医になるまではどもりだったので、人前で話すのが本当に苦

手でした。

高校生になるまでは勉強もできる方ではありませんでした。今でも覚えているのは、

小学校の四年生頃まで右と左がよくわからなくて、普通はお箸を持つ手が右、お茶碗

を持つ手が左と覚えるらしいのですが、わたしの場合はなぜか学校の黒板の右端と左

端が左右の基準でした。左右がわからなくなると、その度に頭の中に黒板を思い浮か

べて、「ああ、こっちが右だ」と確認を取っていたのをおぼえています。

そんな幼少期でしたが、なぜか高校生になった頃から突然、勉強がわかるようにな

りました。勉強することが俄然面白くなり、夢中になって勉強しました。おかげで成

績は急上昇。でも、それでもどもりは相変わらず続いていました。

今にして思えば、わたしのどもりも「気持ち」から来ていたのだと思います。口を

開けばいつも必ずどもるというものではなく、人前で話したり、朗読するときにだけ

症状が出るものだったからです。文章を丸暗記して暗唱するときは、すらすらと言葉

56

1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

57

が出るのですが、同じ文章でも人前となると途端にどもるのです。しかし、人前では

できない朗読も誰もいないところではできました。

人前でまともに話せない以上、学生生活は何とかなっても、就職はかなり厳しいだ

ろう、自分の将来に危機感を覚えたわたしは、勉強ができるようになっていたのを幸

い、医者になることを思いつきます。

「どもりだから医者?」と、思うかもしれませんが、医者の仕事は臨床医だけではあ

りません。あまり人としゃべらなくてもすむ分野が数多くあるのです。それに、何よ

りもわたしを勇気づけたのは、医師免許を取得するための国家試験に口頭試問がない

とわかったことでした。

こうして高校二年の冬から、医学部合格めざして受験勉強を始めましたが、最初の

年、翌年と第一志望には受からず二浪しました。勉強が楽しくなり、たくさん勉強し

て慶應義塾大学医学部や歴史ある国立大学医学部にも合格しました。この浪人時代に

勉強した国立受験のための勉強、たとえば古文や倫理社会や歴史などが、大人になっ

てからとても役立っていて、今思えば浪人できて非常にラッキーでした。

大学生になっても、やはりどもりは続いていました。

今でこそ自分のどもりを「不幸の姿をした幸運」といえますが、当時はどもる自分

が恥ずかしくて、本当に嫌でした。国語の時間に出席番号順に教科書を朗読させてい

た小学生の頃、今日は当たりそうだなと思うと「おかあさん、お腹痛い」といってず

る休みをしたことが何度もありました。

母にはわたしがどもりだとバレていないと当時は思っていましたが、今になって考

えれば、保護者面談などもあるし、母は知っていたと思います。だからなのかはわか

りませんが、わたしが「お腹が痛いから学校に行きたくない」というと、母はよく

「行かなくてもいいわよ」といってくれていました。

それでも、わたしは母に何もいいませんでした。そして、母もわたしに何もいいま

せんでした。「病院へ行って診てもらいましょう」といわれたことはおろか、「学校で

どもっているの?」と聞かれたことすらありません。今、わたしの母はボケてしまっ

たので、当時なぜ何もいわなかったのか、母の気持ちを確かめることはできませんが、

何もいわずただ見守り続けてくれたことを心から感謝しています。

そんなわたしの「どもり」が治ったのは、研修医のときです。

それまでは隠そう、隠そうとしてきたどもりを、あるとき、自分はそういう人間な

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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んだからしかたない、とある意味開き直って隠すのをやめたのです。すると、気にし

て隠していたときはどうしても治らなかったどもりが、いつの間にかでなくなったの

です。これは本当にいつの間にかで、いつ治ったのかはっきりとは覚えていません。

つまり、わたしの場合も、受け入れ、忘れたことで症状がでなくなったのです。

でも、医者になり立てで、病気は医者が治すものだと思っていた当時のわたしは、

自分のどもりが気持ちの変化によって治っていたことにすら気づきませんでした。

実をいうと、この本の原稿のためにいろいろと昔のことを思い出すまで、自分がか

つてどもっていたこと自体を忘れていたくらいです。

患者さんを通して「病は気から」と気づいたと思っていましたが、実はそれ以前に、

わたし自身が「病は気から」を証明していたとは。何とも不思議な気がしています。

◉                                                                  

                                                                    

   

精神的レジリエンスを高めれば健康力は上がる

病気の因果を研究するのはサイエンスの世界です。

しかし、病気を治療する臨床の現場では、必ずしもサイエンスは通用しません。

そのためか、日本では研究をする医者は研究ばかりして臨床の現場をあまり知らず、

逆に、臨床医は現場主義が強く、手術など技術は素晴らしいけれどサイエンスを軽ん

じるところがある、というように両者の間にはちょっとした隔たりがあります。

わたしは幸せなことに、サイエンスとしての医学も、臨床の現場も並行して携わる

ことができました。その上で今、わたしが確信しているのは、サイエンスと臨床は決

して矛盾しているわけではない、ということです。

ではなぜ、サイエンスがそのまま臨床に通用しないのでしょう。

これは、サイエンスが通用しないのではなく、サイエンスを臨床に応用するための

方程式がまだ見つかっていないだけなのだと思います。

サイエンスというのは、こうすればこうなるというある種の「法則」を探し出す作

業です。そして、どんな世界でもそうですが、法則というのはあくまでも基本なので、

現実の世界の多種多様な条件下では、そのときの条件次第で結果が違ってきます。

医学の場合、条件は患者さんごとに違います。どのような違いが、基本法則をどの

ように変えるのか、数学でいえば関数の公式「y=f

(x

)」の「f/変数」がまだわか

っていないということです。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

61

マウスにいろいろな音楽を聞かせたわたしの研究結果は、「f」は必ずしもDNA

(遺伝情報)の違いだけではない、「音楽」のような環境要因によってもたらされた

「脳の変化」もまた「f」に含まれる要素の一つである、ということを示してくれま

した。そして、ここでいう「脳の変化」こそ、わたしは「精神的レジリエンスの高ま

り」だと考えているのです。

まあ、難しい理屈はともかく。

精神的レジリエンスが高まるようなことをすれば、脳の働きがちょっと変わり、脳

の働きが変わると免疫力や自然治癒力といった身体的レジリエンスが変わるので、同

じ治療を行っても結果が違ってくる。

つまり、精神的レジリエンスを高めれば、身体的レジリエンスも高まる可能性があ

る、ということです。

臨床の現場では、みんなあえて口に出していわないだけで、「病は気から」である

ことを経験的に知っています。わたしの論文が多くの方に読んでもらえて、イグ・ノ

ーベル賞を受賞できたのも、多くの人が心のどこかで「やっぱりそうだったか」と感

じたからだと思います。

なぜ同じ治療を行っているのに効果が違うのか。マウスたちはいろいろな音楽の中

から、「椿姫」だけに強い反応を示したことで、ある種の音(音楽)がマウスの身体

的レジリエンスを高めることを科学的に立証してくれました。

小さな一歩ですが、わたしはこの実験によって、サイエンスと臨床がお互いに歩み

寄る取っ掛かりができたのではないかと思っています。

◉                                                                  

                                                                    

   

「いいにおい」もレジリエンスアップに効果がある!?

音楽の他にもレジリエンスを高めてくれるものはたくさんあるはずです。現在わた

しは、「匂い」や「運動」など、さまざまな条件下でさらなる実験を続けています。

既に行った実験もいくつかあります。その結果からちょっとだけ見えてきた可能性

をお話しすると、「匂い」はかなり有力な効果がありそうです。

面白いことに、ある漢方薬を使って実験したところ、飲ませた場合はまったく効果

がなかったのに、飲ませずに匂いをかがせると効果があった、ということがありまし

た。

62

1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

63

飲むと効果がないのに、匂いをかぐと効くというのは、思いがけない発見です。

これは、「いい香りに癒やされる〜」という女の子たちの言葉が、気のせいなんか

ではない可能性を示しているといえるでしょう。

もちろん、これらはあくまでもマウスを使った実験なので、そのまま人間に当ては

まるわけではありません。何しろマウスが「いい(?)匂い」と感じる匂いが人間に

とっても心地よいとは限りません。

忘れてはいけないのは、マウスがわたしたちに与えてくれるのは、あくまでも「ヒ

ント」だけだということです。

人間はマウスよりも大きく複雑な脳を持っているので、結果もより複雑でしょう。

実験に使ったマウスはみんな「椿姫」でレジリエンスがアップしましたが、人間には

それぞれ好みがあるので、誰もがみな同じように「椿姫」がベストの選択ということ

にはならないと思います。わたしの場合なら、マウスには効果がありませんでしたが、

「津軽海峡・冬景色」でも結構いい結果が出るような気がしています。

民謡が好きな人は民謡が、ロックが好きな人はロックが、モーツァルトが心地よい

人はモーツァルトが、というように人間の場合は、自分が好きな曲、聞くと元気が出

たり穏やかな気持ちになる曲がその人のレジリエンスを高めるものになるのではない

かと、経験的に感じています。

音楽でも香りでも、環境によって病気の治癒力や免疫力が変化するのであれば、医

療現場でも、個人的にも、できることはまだまだたくさんあるといえます。

そう考えるとわくわくしてきませんか?

◉                                                                  

                                                                    

   

早く治したいなら「病気」には向き合うな!

病気を治すためには、患者さん本人の頑張りが必要不可欠です。

でも、頑張り方を間違えると、せっかくの努力がムダになるどころか、ときとして

悲劇を招くことさえあるので注意が必要です。

患者さんが頑張るべきことは、病気と正面切って戦うことではありません。ある意

味、自分が病気であることを忘れることです。

病気になったとき、「治ると信じて治療に専念します」という人がよくいますが、

わたしの経験からいわせていただければ、これはあまり賢い選択とはいえません。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

65

病気を早く治したいなら、病気に向き合うのではなく、自分の人生に向き合うこと

をおすすめします。

病気に向き合ってしまうと、どうしても不安になるし、痛みなど症状にも意識が向

いてしまうので、「慣れる」ことも「忘れる」こともできなくなってしまうからです。

レジリエンスの高い人は、物事のよい面に意識を向け、苦しみの中に喜びを見いだ

すことのできる人です。そして、目先のことに一喜一憂せず、自分を長い目で見るこ

とができます。

ということは、物事のよい面に意識を向け、小さくても日々喜びを見いだし、目先

の変化に一喜一憂することなく、自分の人生を長いスパンで見るように努力すれば、

レジリエンスは高まっていく、ということでもあります。

ですから、病気のことを一応受け入れたら、後は病気のことなどさっさと忘れて、

自分の人生における幸せとは何か、どうやって楽しい時間をすごすか、ということに

意識を向けた方がいい結果に結びつく可能性は高いということです。

実際、客観的に見たら苦しい状況の中でも、上手に意識を病気から逸らし、幸せを

感じながら生活することでレジリエンスを高めた患者さんはたくさんいます。

Bさんもそうした患者さんの一人です。Bさんは七六歳の男性、病名は胃がん。わ

たしの診察を受けるようになったのは、手術後のことでした。

最初に診たときは、自分ががんであるという告知を受けたこともあって、元気がな

く、食事も流動食しか受け付けませんでした。すでに転移もあり、消化器外科の専門

医でもあるわたしの目から見ても、彼にそれほど長い時間が残っているとは思えない

状態でした。

でも、そんな状態だからこそ、わたしは彼に思い切って次のようにいいました。

「確かにあなたは胃がんです。でも、人はみんなどうせいつかは死ぬんですから、そ

んなに死ぬことを恐れなくてもいいんじゃないですか。わたしだって早晩死にますよ。

それに、何よりも今あなたは生きているじゃないですか。そのことをもっと前向き

に考えてください。病気のときは何よりも気持ちが大切なんですよ」

今は、医者にとっても患者さんにとっても「死は敗北である」、という考えが主流

です。そのため、臨床の現場で「死ぬ」という言葉を使う医者はほとんどいません。

でも、わたしは、死は必ずしも敗北だとは思っていないので、患者さんにも「今、

自分は生きている」という現実を前向きに考えてもらうために、こうしたことをはっ

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

67

きりといいます。

Bさんも、まさか医者から「みんなどうせ死ぬんだから」といわれるとは思ってい

なかったらしく、一瞬、驚いたような表情をしましたが、「そうですね」と笑顔を見

せてくれました。

その後、Bさんは治療は続けていますが、二年以上経った今も、元気に明るく生活

しています。食事も量は多くありませんが、ちゃんと普通食を家族と楽しんでいます。

その一方で、こんな人もいました。

Cさんは六三歳の男性、彼も胃がんでしたが、Bさんより軽いがんだったので、手

術をすれば十分全快が見込まれました。

今は、どんな病気でも患者に正直に病名をつげ、病状や治療法をきちんと説明する

ことが一般的です。彼も医師から「胃がんです」と告知を受けました。そのとき、き

ちんと治療を受ければ完治する可能性が高いことも説明されたはずなのですが、告知

を受けた直後、Cさんは治療を受けることなく自殺してしまいました。

実は、彼はわたしの患者ではなく、知り合いだったのですが、彼の選択は、Cさん

のことを知るほとんどの人にとって意外なものでした。なぜなら、Cさんはお坊さん

で、いつもにこやかで落ち着いた口調で仏の教えを語られていたからです。

主治医も恐らくは、この人ならきちんと現実を受け止めて、治療もスムーズに進む

だろう、と思っていたことでしょう。

でも、病気に向き合うことについての彼の精神的レジリエンスは残念ながら高くあ

りませんでした。自分ががんだという事実を受け入れることができなかったのです。

彼が「自分は死ぬかもしれない病気なんだ」ということではなく、「今、自分は生

きている」ということに意識を向け、その人生をより充実したものにしようという意

識を少しでも持っていたなら、違う結果になっていたと思います。

◉                                                                  

                                                                    

   

末期がんからの生還は決して奇跡ではない

Cさんと同じ選択をする人が二度と出ないように、ここではっきり申し上げておき

ます。

レジリエンスを高めれば、末期がんからの生還は決して夢でも奇跡でもありません。

事実、わたしは末期がんを完治させた人、あるいは、完治には至らないけれど、が

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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んの進行を食い止め、がんと共存しながら充実した人生を送っている人を何人も知っ

ています。

おそらく、これはわたしに限ったことではないと思います。率先していわないだけ

で、多くの医師が必ずしも「末期がん=死」ではないことを知っているはずです。

ただし、ここでいう「末期がん」については少し説明する必要があるかもしれませ

ん。なぜなら、一般の方は末期がんと聞くと、お腹に水が溜まったり、やせ衰えて痛

みに息をすることすら苦しそうな状態をイメージしてしまうからです。医者がいう末

期がんというのは、もう少し前の段階です。

がんの進行度は、ステージ0〜ステージ4までの五段階で表されます。ステージは、

がんがどの程度体内に広がっているか、その範囲によって決まり、進行すればするほ

ど数字が大きくなります。

ちょっと体調が悪くて、念のためと思って病院で検査を受けたら、「ステージ4、

末期のがんです」といわれて驚いたという話を耳にしたことがあると思いますが、こ

こでいう末期がんとはそうした、離れた場所にも目に見える形でがんが転移している

状態のことです。

ところで、がんとよく似たものに良性腫し

ゆよう瘍

といわれるものがあります。腫瘍が見つ

かったとき、組織を検査して、悪性か良性か検査をし、良性だと良性腫瘍、悪性だと

「がん=悪性腫瘍」と診断されます。

何が「悪性」の決め手となるのかというと、ごく簡単にいえば転移するかしないか

です。転移する危険性があるもの、あるいはすでに他の臓器などに転移が認められた

もの、それが「がん=悪性腫瘍」です。

ということは、転移さえしなければ、腫瘍自体はそれほど怖いものではない、とも

いえます。

わたしは研修医の頃から数多くのがんの手術をしてきました。がんの手術で最も大

切なことは、腫瘍をきれいに取り除くことです。なぜなら取り残しがあると、そこか

ら再び体内にがんが広がる危険性があるからです。

そのため、腫瘍を切り取るときは、目で見て明らかにがんとわかるところだけでな

く、その周囲まで少し余分に取り除きます。さらに、がんはまず近くのリンパ節に転

移するので、リンパ節に転移が見られたときは、リンパ節も取り除く。これが現在主

流の手術方法です。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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ここで問題となるのが、目で見えない微小な転移の危険性です。これは目に見えな

いのですから、あるかないか実ははっきりとはわかりません。それでも、リンパ節へ

の転移が予測される場合、その筋道に当たる部分は、実際には転移があってもなくて

も取り除いておいたほうが安全だろう、という考えのもと取り除くということが行わ

れています。

実際わたしも、かつては腫瘍の他に、その周囲、さらには近くのリンパ節およびリ

ンパ節に至る筋道にあたる部分まで、ごっそり取り除く手術を行っていました。こう

した手術は時間もかかるし、患者さんにも大きな負担を強いることになります。でも、

命を助けるためには、それが最良の方法だと信じて行っていました。

ところが、わたしが研修医だった頃に出会ったある医師は、がんであるにもかかわ

らず、腫瘍部分しか取らないという、当時としては常識破りの手術を行っていました。

当時まだ研修医だったわたしは、その先生の手術方法に疑問を感じていました。で

も、あれから二五年。今のわたしはリンパ節まで取る大がかりな手術は、患者に負担

を強いるだけでなく、治療効果という意味でも大きなメリットはないと思っています。

思い返してみれば、当時わたしがその先生に「なぜリンパ節まで取らないのか」と

聞いたとき、その先生は「僕の経験上、再発する人はリンパ節まで取っても再発する

し、たとえ転移がみられたリンパ節を残しても、長く生きた人はたくさんいる。それ

だけじゃない、別の理由でかつて同じ人を再び手術したとき、リンパ節に転移してい

たはずのがんがきれいに消えていた人だっていたんだよ」といっていました。

当時は信じられませんでしたが、わたしも多くの手術をし、患者さんのその後を見

てきた今は、あの先生がいっていたこともウソではないとわかります。

がん細胞は非行少年と似ています。

以前、非行に走った子どもを「腐ったみかん」と称して、他の子どもたちまで悪く

ならないように迅速に排除するということが多く行われたとき、それは子どもの更生

機会を奪うことになるのではないか、という議論がされたことがありました。

がんの転移にも同じことがいえるのではないでしょうか。

決定的に悪くなった部分はいち早く取り除くことが必要です。でも、ちょっとぐら

いなら悪いところがあっても、それは自然治癒力で治すことができるのです。

事実、わたしたちの体では毎日がん細胞が生まれています。それをわたしたちは身

体的レジリエンス「自然治癒力」によって取り除いたり、修復したりして健康を保っ

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

73

ているのです。

まだがんに犯されているのかいないのかわからないリンパ節まで切り取ったり、ち

ょっとがんに犯されただけのリンパ節をごっそり取り除くのは、腐ったみかんの理論

で更生の余地のある子どもを排除するようなものです。上手に処置すれば、非行少年

(がん細胞)も更生する可能性を十分持っているのです。

それに、リンパ節は免疫細胞と深く関わっている場所なので、それを大きく取り除

く手術は、間違いなく免疫力を低下させます。つまりリンパ節の切除は、むしろ身体

的レジリエンスを低下させる危険性さえあるのです。

一人の患者さんは一つの治療法しか試せないので、リンパ節まで取ったのが本当に

よかったのか、取らなくてもよかったのか、正確には比べることはできません。

しかし、リンパ節まで取った人たちと、取らなかった人たちの予後を数多く見てき

た今、少なくともわたしは、自分、あるいは自分の大切な人ががんになったときは、

レジリエンスを低下させるような手術は選択しません。

それで、たとえ小さながんが体に残ったとしても、レジリエンスを高めればがんが

消える可能性があることをわたしは知っているからです。

もちろん、中にはがんが完全に消えないこともあるでしょう。でも、ちょっとぐら

いがん細胞がいても、がんとともに幸せに生きていくことができればそれでいいとわ

たしは思います。皆さんはどう思いますか?

◉                                                                  

                                                                   

「まじめにいうことを聞く患者」が

治るとは限らない理由

人というのは面白いもので、相手の話を聞いているようで、実は自分の聞きたいこ

としか聞いていません。

たとえば、がんの患者さんでどうしてもタバコがやめられないという人に、「体の

ためにやめた方がいいですよ。でも、どうしても我慢できないようなら、イライラす

るのもよくないので、少しなら吸ってもいいですよ」といったとしましょう。

診察室を出た後、この患者さんが覚えているのは、「イライラするのはよくないか

ら、吸ってもいいよ」という部分だけです。「やめたほうがいい」というアドバイス

と、「少しなら」という制限はきれいさっぱり忘れられてしまいます。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

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実際、後から家族の方が来られて、「先生にタバコを吸ってもいいといわれた、と

いっているのですが本当ですか?」と質問されたこともあります。

同じようなことを、家族同席の状態で話したところ、患者さんは「タバコを吸って

いい」というところだけ、付き添いの家族は「やめた方がいい」というところだけを

覚えて帰って、家に帰ってからいったいわないの口論になったという笑い話のような

話もあります。

いずれにしても、人は自分に都合のいいことしか聞いていない、ということです。

でもわたしは、「吸ってもいい」という部分だけ聞いて帰った患者さんは、自分に

とっての「幸せ」をわたしの言葉の中から拾っているのですから、ある意味レジリエ

ンスの高い幸せな人だと思っています。

レジリエンスの低い人の中には、聞いた言葉の中から、わざわざ悪いことだけを拾

い出して、大事に持ち帰ってしまう人もいるからです。

たとえば、先ほどのがん告知を受け、自殺という残念な選択をしてしまったCさん

は、「胃がんですね。手術を受けて治療すればきっとよくなりますよ」という主治医

の言葉の中から、わざわざ「胃がんですね」というところだけを持ち帰って、絶望的

な気持ちになってしまったのだと思います。

医者がどんなにフェアに、事細かく説明しても、人は自分の聞きたいことしか聞き

ません。ならば、自分に都合のいいように「いいこと」だけ聞いて持ち帰る人の方が、

「悪いこと」だけを持ち帰る人よりずっと幸せです。

ですから、わたしが患者さんに求める「頑張り」は、必ずしも医者のいうことに従

うことではありません。たとえ、医学的に見たら、少々体に悪いことであったしても、

患者さん自身が前向きな気持ちで、少しでも幸せや喜びを感じる時間を増やすこと、

それがわたしが患者さんに求める「頑張り」です。

「おかげさまで」といえる人は幸せです。

なぜなら、その瞬間は今ここにある幸せを見ているからです。

もちろん「おかげさまで」といったからといって、その人に不満がまったくないわ

けではありません。痛みがあったり、悩みがあったり、不安があったりしているので

すが、そうした中でも「今ここにある幸せ」を見ているそのときは、間違いなく幸せ

な時間です。少しずつでも、こうした幸せな時間を積み重ねていくことで、その人の

レジリエンスは高まっていきます。

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1章  病気か健康かは「レジリエンス」が決める

77

反対に、不幸なのは「でも」「でも」と不満や不幸ばかりをあげつらう人です。

わたしの外来にも、そういう女性患者さんがいました。

彼女は四八歳、頭痛や不眠、イライラといったさまざまな自覚症状を訴える、典型

的なアナログ疾患、いわゆる「不ふ

定てい

愁しゆう 

訴そ

」といわれる症状の患者さんでした。

いくつかの開業医を受診したけれど病名がなかなかつかず、結局は「自律神経失調

症」ということで帝京大学病院の内科を受診し、内科からわたしの外来に来ました。

漢方薬を処方して、毎月容態の変化を診ていたのですが、彼女はいつも口を開くと

「でも」ばかり。もちろん、容態は一向によくなりません。さすがのわたしも彼女の

話を聞くのが辛くなってきたので、一つルールを決めました。

それは、どんな些細なことでもいいから、診察の最初に「こんないいことがあっ

た」という話を一つ笑顔でする、というものです。

すごくいいことでなくてもいいのです。たとえば「いいうんちが出た」とか「ぐっ

すり眠ることができた」とか。健康面で何もなければ、「庭にきた雀の親子がかわい

かった」でも「テレビのドラマが面白かった」でも、何でもいいのです。

それでもルールを決めたばかりの頃は、やはり診察室に入るなり愚痴と不満が噴出

しました。わたしがそれを制して「最初はいいことを一つお話しするお約束でしたよ

ね。話してくれれば、後は何でも聞きますよ」というと、「ああ、そうでしたね。い

いことねぇ、そういえば

―」というように思いだして話す、という状態でした。そ

れが最近は「先生、聞いて

―」と自ら楽しかったことやうれしかったことを話して

くれるようになりました。

こうしたことを続けているうちに、彼女の表情は明るくなり、それに伴って不定愁

訴も徐々によくなっていきました。

彼女での成功に気をよくしたわたしは、その後、いろいろな「でも、でも」患者さ

んにこのルールを課しているのですが、効果は絶大です。

わたしの外来は、一人当たりの診察時間は決して長くありません。長くても患者さ

ん一人当たり初診で一〇分、再診だと五分です。よく、大学病院は二時間待って五分

しか診てくれない、と不満をいわれますが、どこの大学病院でも多くの方が待ってお

られる外来のペースはこれが限界です。

そんな限られた時間で話せることは多くありません。その中でどうしても一つはい

いことを話さなければならないとなると、患者さんは用意をするようになります。

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2章  医者を「かしこく」使いなさい

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普段から次に病院に行ったときに話す「いいこと」を探すようになる。おそらくは、

こうして日常的に「小さな幸せ探し」をすることが、レジリエンスを高めることにつ

ながり、結果的に症状が治まり、健康状態が回復していくのだと思います。

考えてみれば、わたしは自分は強運だと思っていますが、どもりだったり、受験に

失敗したり、ここには書ききれませんでしたが、外科の専攻もくじ引きではずれて変

えざるを得なくなったり、一流誌から論文の掲載を断られたりと、お世辞にも順風満

帆とは程遠い半生でした。運が悪く見えることもたくさん経験しています。

では、その中でなぜわたしは「自分は強運だ」と思い続けることができたのかとい

えば、自分でもはっきりとはわかりませんが、強いてあげるのなら、「きっと、もっ

とよくなる」という希望がいつもあったからだと思います。

どんな状況でも、自分の人生に希望を見いだすこと。

病と向き合わず自分の人生と向き合い、日々「小さな幸せ探し」を楽しむこと。

これがレジリエンスを高め、健康で幸せな毎日につながるのだと思います。

2章医

者を「かしこく」使いなさい

―レジリエンスを高める「医者と医療の選び方」

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