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Page 1: obahi.up.seesaa.net · Web view久留米 草野の妹が奈良へ遊びに来たときに、耳納山脈と似ていると言ったが、しかりである。右に見える高良山が、奈良の二上山になるようにここも似ている。

筑後川と我が生地勿体島、何故島の名前がついているのか_第二部

§ 1 国宝「勿体島の謂われ」 650 年頃の天智天皇の御世の物語 久留米市山本町に、普光院 観興寺というお寺がある、このお寺の草創 縁起を書いた「観

興寺縁起」の話は 650 年天智天皇御代(白雉_ハクチ))の頃のものである。

今の住職は風雅人で拝観一つにしても難ぐせをつける様な人物である、後述理由で奈良か

ら拝観を思い立ったのであるが、同窓生の上野健三郎君に聞いたところ、うまく話さな

いと断られるぞ と聞いたので念入りな FAX を入れた後電話した、奥さんが電話に出た後、

彼に変わったので、丁重に訪問拝観の趣旨を述べ調べていた同寺が曹洞宗ゆえ、その宗派

の話を始めて何とかうまく行っていた、出身が勿体島というと、勿体島のどこかと聞く

ので、土居の根本の大場慎一の弟ですと名乗ると、ふんと言い方が変に変わった、why?

この寺の縁起の絵は、replica が草野歴史資料館にあるので、そちらに行けという。

理由:夜に兄貴と一杯やっている時に判明したが、兄貴は寺院やお宮に高木大木切を仕

事としており、このお寺の仕事を請け負ったそうだが、杉の大木を切る時に、邪魔にな

る草みたいなのを取り除いただけで、大文句を吹っかけられ、やめさせられたそである

(100 万円の仕事)。

“ここの住職は、とても ろくな奴じゃなか”と言っていた。

  観興寺 久留米市山本町 耳納山の麓にある

それで久留米での同窓会の翌日(2013-10-13)この歴史資料館へ出向きこの「観興寺縁

起」の懸け絵 二幅を見た、妹がここで語り部をしているので、一緒した、原本は鎌倉時

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代のもの(京都博物館にあり)と天保時代のものとあり、後者原本がこのお寺にあるも、

12 年に一度開帳というので、今は 5-6 年経っており、まだ暫く見れそうにない。

この replica は、かすれがかかっておりあまりよく見えないが、話はある程度聞いていた

ので、かなり解かった。

奈良県生駒山山系の信貴山にある榧の木、樹齢 1500年あり。聖徳太子が守屋討伐のときに、

この山の朝護孫子寺の毘沙門天を守護仏として拝み、勝利を収めたという。いちい科の常緑

木20mにもなる。実の核は食用・薬用とする、固いので碁盤などを作る

物語(有名故詳細は省くが、筋は以下):筑後川で久留米の約 40km 上流、日田の“串出

山”という山に鬼がおり、この鬼が人が千人もいた家(日下部長者の家)に次々と彼等を

殺し、最後の一人となった娘を襲いに来る鬼を、草野太郎常門が目白、花白、鏡丸という

3匹の愛犬と連れて行き、弓矢で鬼を射る話、また館の様子がいろいろと描かれている

幅、もう一つの幅は、観興寺の壮大なる敷地と伽藍配置の様子などが描かれている。

さらに、まだ見ていない「榧の木伝説」があるが、これも 12 年に一度の開帳という。

私の生地、勿体島の名前の由来が知りたいことが主眼であり、これの方が一番見たいの

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であり、今は致し方なしである、榧の樹が日田の串出山から筑後川により、久留米の神代

に流つき、逆流して今の勿体島まで川を登ってきた、常門が試みにこの木に斧を入れた

ところ、血が滴りて、木中からギャと発声したので、斧を捨てて「あゝ勿体なや、勿体

なや」と叫んだことから、この勿体島という名前が付いたという。

ほかのもう一つの話は、この榧の木が勿体島まで火を噴いて逆流してきて、その木の上

に観音様が乗ったままでおられた、この光景を草野太郎常門が見て、「あゝ勿体なや、勿

体なや」と叫んだことからこの地を勿体島と名づけた、との説がある。

もとの千手観音は、この物語に出てくる榧の樹で造られたことになっているが、

現在のは、後日造られた桜の木の一木造りの千手観音が本堂にそなわっており、重要文化

財となっておる。

この観興寺および勿体島の名前の縁起のお話は、この文章の最後に記入する*

(現在このお話の現物は秘宝(国宝)となっており、京都国立博物館にあり、12年に一

度開帳されるが、2013年現在まだ5-6年経たないと見れないので私は未だ見ていな

い。

(この辺りは、もとは筑後川がもっと南へ蛇行していたし、低地ゆえ、今でも梅雨来期

には逆流する)(下記の写真 参照)

 もとは筑後川がこの南の方へ、さらに蛇行していた、従って手前が勿体島で左が島部落、

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真正面は、椛目(川辺の訛という)左方が低地、右方は堤防。

耳納連山からの日の出時撮影

この写真のところは、昭和 28 年の大水害時に水流の逆流により、上流の日田からの板や

柱の木材が流れつき、それらの木材が山となった付近。7世紀頃の“榧の木伝説”物語の

頃と全く同じで、大水害時の筑後川の逆流である。

人間が放水路を作り、水を早く下流に流そうとしても雨量が多すぎて捌けられないと低

地に流れ込む、すなわち昔の島である勿体島とか島部落の方へ逆流するのは榧の木伝説

の頃と何ら変わらないのである。

昭和28年の大水害時は、昭和に開墾した放水路は既に完成しおり、そしてその真っ直ぐ

な川の流れにも拘わらず、水流が捌けきらないばかりか、それ以前に善導寺の鎮西橋

(赤岩付近)から大城へ曲がりくねっていた勿体島の川田の方へ逆流してきていたので

ある。

昔の網流の如く、低地へと水は移動して行く。

草野太郎の話であるが、昔は勿体島やそこの東方の低地は、今の北方の筑後川から網流し

て南方へ流れていた。つまりこの低地の南側に椛目とか川崎とかの地名があるが、椛目

は川辺のなまりである、と言うことはこの辺りの低地は草地がいっぱいあった。この川

岸から極近い耳納山麓に豪族がいて、彼らの名前を“草野”と名乗ったのであろう。

今の吉木から九大本線 草野駅付近にかけての山辺の道には、今も集落が山麓の東西方向

とともに連なっており、古墳もたくさんある、装飾古墳などもある。

孝徳天皇の御代白雉 4 年の草野太郎常門の話(勿体島と名付けた)は653年であり、相

当以前から草野豪族がおったが、まさに低地の草原からの豪族の名前の起源もあったの

だ。

その後、豊臣秀吉来九州 筑後入りした際にの吉見ケ岳に参謁しなかった門で不興をかい

秀吉配下の蜂須賀阿波守家政の肥後の庄屋の館に呼び出されて暗殺された。ここに草野氏

は滅びた。1588 年のことである。

なお、友人の健三郎君から、京都博物館に現物(鎌倉時代の方のもの)があると聞いた

ので、早速電話して学芸員と話し合った、彼も本件よく調べており、京都からわざわざ

勿体島まで来て、風景とか地形とかの様子を見たそうであるが、観興寺のある耳納山が遠

くて、この様子が全然わからなかったと言われた、私は、生地ゆえ川水の逆流、低地と

かがよく解かるので、“そのうちに京都へ行って原本を見た時には話し合いましょか”と

言った、彼は“あなたの Blog を見たい”と言って電話を切った。

観興寺の登り口に深山重行先生のお家があると妹に聞いたのでびっくり、早速に入り口

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を叩いたが、彼は不在であった、お寺にお参りして住職の奥さん(住職は不在であっ

た)に聞いたところ、先生は村のことをやっていて怪我をされ入院(?)されたらしい

という、

結局会えずにがっかりだった、先生は、記憶力のよい方で、独特の教え方であった、

ジャスターゼ、アミラーゼ、アルブミン、リパーゼ、気化熱、冬に身体が暖かいのは着

物そのものが暖かいのではなく、着物間の空気が暖かいからである etc このときの習っ

た固有言葉がいまだ記憶にある。お蔭で九工大に入学してからすぐに化学のテストが

あったが 100点をを獲れたのも中学時代からの先生のお陰である(中尾善信助教授出

題)。

しかし一つ間違った記憶がある、太陽が西に沈む時正午ころの真上に来たときとの大き

さが前者の方が大きく見える理由につき、大気が厚いためだと記憶しているが、これは

間違いである。後にこのことを大阪科学館の雑誌投稿したら、学芸員からきびしい指摘

があった、先生は空気の層が山端近くは暑いために赤外線の関係で赤く見えると言われ

た筈である。弟が帰省時に先生のところに遊びに行っていると聞いたが、一度お会いし

て上記のことを確かめたい。先生が引き揚げて筑水中学の先生になられて間もなく、あ

る中小企業の社長が、先生の今の給料の 10倍出すから来いとの声がかかったそうである、

数年前の同窓会で聞いた話だが、未だになんだか心残りのするような口ぶりであったよ。

§ 2 筑後川の流れの現場へ行く 妹と別れ、勿体島の筑後川の方へ、車を飛ばした。

懐かしの大城橋、昔の放水路がこの川を本流化しており、耳納連山、背振山、宝満山、大

刀洗の“花立山”、甘木の右方の“古処山”、山好きの私はこの素晴らしい景色に酔い、思わ

ずスケッチをした。

そういえば思い出したが、小学校の夏に父親と兄と3人で、この金島の南方にある蜷川

の平野に毎夏魚取りに来た、広々とした平野は高低がなく殆ど水平で稲作の水路碁盤目の

ように綺麗に整備されており、この水路に川の両岸に草むらがあり、そこに鯉、鮒、鯰

などいろんな魚がいる、これらを草むらの下にいる魚を両手で探って掴み取るのである。

取った魚は家で焼いて串刺にしておき、お正月などの寒い時期に食べる。太平洋戦争中は

食べ物が少なかったし、よいタンパク源であったのだ。

明善高校の同窓の井上力の故郷である金島へ急ぐ、途中に宮司、蜷川(この間が明治 31年開削開始される迄のこの川の本流であったところで、今は埋め立てられて肥沃な畑と

化している)の間を通り抜け、片の瀬橋(今は筑後川橋に改名されていると、釣り人が教

えてくれた)へ東方の浜埼まで、名前からして ここは昔に浜があったところであったろ

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う、橋を渡ると大刀洗町の看板あり、土方の人に聞くと、このすぐ西が金島の町という、

いよいよ待ちに待った金島へ、北方には甘木方向の古処山が威厳を放っていた、戦時中に

陸軍の大刀洗飛行場を B29 が編隊を組んで爆撃したり、夜中に甘木の町が爆撃され真っ

赤に燃え上がる様を思い出す、思えば 68 年前のことである。

今日は久しぶりに素晴らしいお天気だ、神様よ有難う! 広大な筑紫平野 山川の綺麗なこ

と!

写真を、がばがばっと写した。

片の瀬橋のすぐ上、落ち鮎釣り、この辺りに瀬があり流が早い、遠景は甘木の北の古処山

2013年 10月 13日撮影

筑後川の善導寺、大城あたりの勾配は 1/1000 という、流速は1里/1時間という低速で

あり、

大水時は水が捌けずによどむ筈である、また流れがコの字の終わる大城下では小石原川

や陣屋川、巨瀬川が筑後川に合流しており、水が南東の勿体島の方へ逆流する“逆瀬川”に

なる理由があるのだ。

大水は度々起ったが、最近では明治22年、明治34年、特に前者は昭和28年の大水害

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以上な災害が発生したと祖父は語っていた。

片の瀬橋と耳納連山、

この辺りの少し上流の川の中に“瀬”があったので“片の瀬”と呼ぶ

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地図: 金島、蜷川が中程少し上に見える、勿体島は少し左の下方にある。

金島辺りから大城橋までが、放水路として 19 年間かかり、掘削されて新川の流れに変

わった(昭和 7 年~26 年)

§ 3 放水路掘削と川の流れの変化 (私が小学生の頃からのこの辺の様子):

昭和 22-23 年頃だが、夏休みには兄貴や近所の人達と毎日のように、この川へ泳ぎに

行ったが、潜ると木杭が川底にたくさんあった。これらは上流の宮地付近の川を堰き止

めして、流れを放水路の方へ切り替えるため、最後の川底へ杭打ちしており、この杭が

流されて来たものだったのだ。川はこの辺でコ字形に大蛇行しおり、“島”の波止場に激突

する水流がまた下方の流を変え、4-5百m下に“飯田”の中洲浜が出来ており、北側の“船

端”が深くなっており、夏に大雨が降った後水位が上がり、子供が度々流されて溺れ死ん

だりしていた。この辺りの砂浜の端に砂が黒色のところがあったが、これは砂鉄であっ

た。

(この BLOG の別の文章“科学小説”を参照下さい、砂鉄から磁石さらに宇宙へのお話を書

いています)

今では前述の放水路が完成(昭和 26 年)した後、筑後川の支流である巨瀬川が島部落の

ところで合流しておったが、この支流も下方へと放水路を掘削した、このお陰で勿体島

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辺りは大水が入らなくなり、低地の田んぼはお米の出来がよくなった(以前は、大水が

ひどい年には、稲穂が枯れたみたいになり、米の実は空であったりしていた)、ただこ

の辺りは巨瀬川支流に変ったので、川には藻が生えており、水がよどんで汚たなくなっ

ている。

“蜷川”と“宮地”間に放水路が出来る前の筑後川であったが、これが昭和 26 年に堰き止め

られたのであるが、掘削した大量の土は堰止めの下流(日比生地区とか)の埋め立てに

したのであろう、勿論 放水路の両側の土手にも一部土は必要であったろうが、工事期間

は昭和 7 年から 26 年完成まで、実に 19 年間を要している、太平洋戦争中を挟んでいる

ので、敗戦前後は掘削機の燃料も乏しかったであろうから、この 19 年は長くなった結果

であろう。

放水路の上流の端である“宮地”にある“宮地嶽神社”の鳥居はは昭和 16 年に建て替えられて

いる、紀元二千六百年との銘がある、そこに板書きがある。

「筑後川は太古から山地を侵食し、谷を穿ち、土砂を流して沖積地を造りながら網流して

いた、平地に拡がるにつれて一定の本流ができて、やがて蛇行するようになった。そう

なれば大雨が続くと水はけが悪くて、洪水となり害を起こす、それで大城・金島地区で

は、南部の大湾曲する基部に洪水時水捌のため、明治 39 年(1898 年)に金島放水路が

開削された。ところで金島の宮地地区は、この放水路のため部落の大部分が南北に分断さ

れて、家屋の移転をよぎなくされた------」と記されている。まさにその通りであったろう。網流の言葉通りで、昔は金島辺りも北

側も低地であり、今度行き写真を撮ったが、この様子がよくわかる、片瀬橋(今は筑後川

橋と名前が変わっていた)辺りは名前の通り、瀬があって流れが急であった、鮎釣りの

ポイントで、たくさんの釣竿が並んでいた(10月半ばだった、落ち鮎ねらいで賑わって

いた)

釣り人に聞いたらこの瀬の流は前にはだいぶ上流だったそうで、流水力で穿たれ だんだ

んと下流へ瀬が変わったそうである、そういえば、中学の初め頃ここでコンクリート材

にする砂利ふるいのアルバイトをしたことを思い出す、砂利が豊富で川の両側に砂浜が

あり、片の瀬橋の下辺りで、砂ふるいをした記憶がある。

なお、この板書きにある、明治 39 年の「金島放水路掘削」とあるので、この時に既に

一部は放水路をつくり流水を捌いていたのである。

§ 4 更に流れの変化の様子 “網流”と言っていたが、この川を治水してきた歴史といえる。

話は前後するが、元禄年間の筑後川改修工事で蜷川新川改鑿(蜷川新掘削と呼ぶ)、およ

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び享保の鯰久保新川改鑿が、行われており、勿体島の東を流れていた筑後川を勿体島の北

側へ流れるように変えている、

三井郡総出夫させて築堤工事も続けられた、私の大場家の近くの堤防はこの頃に築堤され

たものであろう、そして堤防の北側を私達も“川田”と呼んでいたが、筑後川が田んぼに変

身したものであろう。(父や兄と、何度も蜷川に魚取りに行った時の、広々とした田ん

ぼが水平に広がっており、稲株が大きく、水が田んぼに行き渡っていたのを思い出す、

昔人のお陰である)

現在では、夜明けダムから水を引き、耳納山の山辺に土管を埋めて、下流域の田んぼに水

を潤しており、米作利用は目覚ましいものがある。

この川は、さらに下っていくと、川の北側の北野地区、宮の陣地区とやはり低地があり、

さらに久留米市街のすぐ下流の北茂安、南茂安地区もしかりで治水戦であったそうだ、

“宮の陣”の旧家佐々木家の蔵から、最近治水関係の書類が出てきたそうだ、明善同窓会で、

一級下の佐々木淑子さんから聞いた、また“茂安”あたりは、同窓の能丸君が詳しそうであ

るので、さらに調査したいものである。

川は一度褶曲し出したら、益々褶曲していく性質を持っている。水流力は直線的に流れる、

物理学でいう慣性の法則による(P=mv運動量は質量と速さの積で表わされる Potential E=mgh、E=1/2mv2 水流が 2倍になるとエネルギーは 4倍になる)このような力とか

エネルギーで川底や周囲を穿っていき、川の流を変えていく。

余談:福知山線の列車事故にしても、Spain での列車事故にしても運転手が「慣性の法

則」を知っていたら、カーブでスピードを出し過ぎることはなかったであろうよ、この

簡単な物理の基本法則を教育されていたら、貴い人命は助かったであろうと思う。

放水路を造る以前の昔の川が、私の幼時のころのコの字形の曲流が、もっと大きいコの

字形にて南方へ流れていたのはこのことを証明している(宮地嶽神社の板書きにそのこ

とが書かれている(前記を参照)。

そして土砂、泥水による“あじ”が年月経過によりだんだんと堆積していき、肥沃な土壌を

つくり上げていく、これが勿体島や島部落、金島辺りとかの田んぼとして人々が利用し、

米どころとなっていった、田植え後の稲株の成長は、養分の違いで山辺辺りのそれより

も早くて大きいので、稲株の大きさは前者が 2倍とかに成長する、子供のときに川魚採

りに行ったときにこの稲株をよく見つめては驚いたものである。

米どころが、この川の流域の人々に偉大な恵みをもたらして来たのである。

私の生地のこの辺りに限らず、上流の水車があるところや、下流の北野、宮の陣、茂安、

三潴、大川と米どころが広がっているのである、そして そこここにいろいろな歴史や物

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語があるのであろう。

筑後川は、日田、夜明ダムから千足付近へと流れ込み、あと広い筑後平野へ注いでいく。

思うに まさにヤマタノオロチと言えるのでは、出雲東の宍道湖の注ぎ込む斐伊川を、古

からの出雲の人々が、やはりヤマタノオロチと呼んだように、上述の蜷川から勿体島辺

りまで網流にて流れておった。田植え時分はカエルの音がやかましくてそれらを蛇たち

が餌にして食い荒らし、川魚類も一杯群れて賑やかだった。これらの惠で大場家は田圃

を買占めて地主に成長してきたのだ。

ヤマタノオロチは、コお字の筑後川をさらに下っていくと宮の陣から篠山城、水天宮へ

とたどり着く。ここは久留米市の中核にて、この城の北川ををこの川が流れており、敵

からの攻撃を防御できる。

久留米市は筑後平野の中心に位置しており、この広い肥沃な平野をさらに開墾などにより、

水流を利して産米豊かで、市の名のとおり米が久しく留まったのであろう。巨大な水車

があり、大堰があり、放水路があり 水を治める歴史がある。

勿体島の数百メートル下流に、飯田があり筑後川は砂浜になっていた(放水路が出来る以

前の話)そこに川下りの基地があったそうで、久留米藩の有馬の殿様は、上流の方で鷹狩

などをした後に、この基地から水路経由で久留米市街は篠山城の近くの“水天宮”あたりま

で下っていかれていたそうである。

金島の数キロメートル上流の田主丸には、有名な“鯉取りマーシャン”という人がいる、

本名は上村政雄なるも、冬のさなかに筑後川へ潜り、深みにいる鯉を素手で抱いて上

がってくる。

平成 11 年に 80歳でなくなられたが、生き河童といわれる人である、国道 210号線にこ

の鯉を食べられる店があった、真冬の鯉こくは熱燗と一緒すると、格別の味だったそう

な-----

もっと上流の方の話になると、小郡生まれの森山成彬君は、ペンネイムで帚木蓬生とい

う(源氏物語桐壺の次の“帚木”から採用している)が、彼の著書“水神”は、筑後川中流

(筑後平野が狭まる、東方のくびれ目のところ)にあたる大石堰辺りの五庄屋の実話によ

る話で、少し高地にある田んぼにこの川から水を引く話であるが、筑後川から引く水を

神として崇めることから題名を採っているのだろう。

また、彼の生まれた近くの北野町近辺は、やはり低地でその昔、筑後川が北側にあたる

そちらの方へ曲がりくねっていたという、治水の歴史がある筈だ、すぐ下流の宮の陣も

しかりという、明善卒で 1級下の佐々木淑子さんの蔵から、最近になってこの川の治水

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に関する古文書が出てきたそうである。

また同じ明善の同級生の能丸喜義君によると、彼の育った佐賀県南茂安付近もしかりで、

この川は今の流よりも東側へ曲がりくねったところだという(善導寺から御井町付近を

経て久留米の下方への放水路計画があったこともなんとなく解かる)

筑後川は化け物であり、人々がこの竜と戦ってきた歴史でもあろう。

私が 19歳の時で、大学受験勉強最中のとき、兄貴が気晴らしにと言って進めてくれたの

であるが、筑後川を下り有明海の潮干狩りに連れていってくれたことがある、魚げ登れ

る川の端の流れや、海に近くなると開閉橋があったり変わった風景が楽しめた、有明海

の満潮と干潮の差は 2m以上あった、塩が満ちてくる速さも結構速かったが、泥水が一杯

で見慣れない様々な生き物が泥の上や中にいたのは、忘れられない。

§ 5 筑後川がもたらす肥妖な土地 私の生地から上流を見渡せば、筑後川の北側には“朝倉の五連水車”がある、百姓さんたち

が田んぼを潤す仕掛けを造り、米づくりに励んできた。

川は大水での大水害を起こすが、反面 前述の土地を肥沃化させ、水をうまくコントロー

ルすれば、お米の増産にも役立つし、さらに物の輸送面でも利用できる、川下の“城島”で

は瓦造りをしており、川にてこれらの製品を輸送していた、筑後川はいろんなことで益

をもたらして来たのである。

次に筑後と奈良の山のことについて、比べて少し書く。

筑後平野の筑後川中流の南にある屏風のような耳納山脈、夏目漱石が熊本から筑後の彼女

との date のためもあり、何度も久留米へ来たというが、屏風の如き山脈と表現している。

東方の最も高い山は鷹取山で802mある。一方奈良の北葛城郡上牧町から見える葛城山

脈(実際には、ダイヤモンドトレイルと呼ぶ)も二上山を北に南へ延びて葛城山(960

m、更に南へ金剛山へと延びている(金剛山は楠正成が戦った頃以前はここの山も葛城山

と称した)。

久留米 草野の妹が奈良へ遊びに来たときに、耳納山脈と似ていると言ったが、しかりで

ある。右に見える高良山が、奈良の二上山になるようにここも似ている。

お蔭で故郷を思い出させる。毎年 葛城山への 町の雪中登山に参加しているが、楽しい。

2013 年 10月伊宇佐

榧樹物語と勿体島の名前の由来

草野太郎常門、久留米市山本(耳納)に観興寺を開く:

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天智天皇の御代(白雉四年)草野の領主であった草野太郎常門は狩の名手であった。

目白、花白、鏡丸の3匹の猟犬をつれて、山野に狩をしていた。ある時、迷い込んで日田

(大分県)の山奥まで行ってしまったところ、知っていた日下部春里長者の家付近まで

行ってしまった。広大な屋敷の中に泊めてもらおうと思い、声をかけたところ、奥の方

で、女が一心不乱にお経をあげていた。話しかけてみると、上記長者の娘お玉姫と申し、

もと千人もいた一族が、毎夜悪魔の鬼にさらわれていて、今やこの娘一人になった「今

宵限りの命ゆえ、このようにお経をあげ、父母のいるあの世へ参る覚悟でございます」

という。

常角は、驚いて不憫に思い、その怪物を退治せんと固く決心した。

夜が更けて しんしんとしている時に、一陣の生ぬるい風がさっと吹いてきて、目白、花

白、鏡丸が身を震わし、吼えまわり出した。常門は、「来たれ鬼―――」と勇気凛々、信

じる観音様を念じ、強弓をとり上げて、矢を番え身構えた。

眼光爛々とした形相の鬼がウオッと玉姫に飛びかかろうとした刹那、常門の手を離れた

矢はぐぐっと鬼の胸元につき刺さゝった。一瞬黒雲が乱れ雷鳴轟き、この世の終わりか

と思われ大嵐が吹きすさんだ。

夜が明けるころ、嵐もやんだが、血の滴る先を追っていき、串川山の頂に達したところ

不思議や不思議 常門の矢は、そこに切り倒された大木の榧樹に立っていた。あっと驚く

と、一人の僧が現れ、「これは千手観音の霊木である、お前はこの霊木に矢を向けた。そ

の大罪を除くために、早く心から供養して此の重罪を償わねばならぬ」と言って姿が消

えた。余りの不思議に常門は、急ぎ山を下って、玉姫にそのことを話した。彼女が言う

には、 父春里長者は、或る夜夢をみて一人の僧が現れて、串川山の頂に千枝の榧樹があ「る。これを伐って、千手観音の像を刻めよとのお告げがあった、父は驚いて山に登って

みると、その夢通り大榧樹があった。これを伐り倒したもののそのままにしている中に

先ず父母と次々にかようなことになったのでございます と涙流しながら申した。」常門は、またその山に駆け上り、「私の国へ帰り次第、一寺を建て千手観音を刻んで安置

しましょう、然し此の峻しい山から大木の枝や幹を傷つけずに国へ運ぶことは出来ます

まい。どうか大雨洪水の便に乗じて私の国までおい出下さるように」と祈った。その夜

大雨車軸を流すように降り、霊木一夜にして神代(久留米市宮の陣近くのところ)に流れ

ついて、

光明を放っていりのを見た。人々はこのことを常門に知らせた、彼は驚いてかけつけ喜

びのあまり三度伏し拝み「私の家はここから遥か東でございます、もう一度お上り下さ

るよう」と念じたところ、その夜忽ち大木は逆流し東に上った。

常門は試みに斧で削ってみたところ、血滴淋漓として、木中に響きがあったので、

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Page 14: obahi.up.seesaa.net · Web view久留米 草野の妹が奈良へ遊びに来たときに、耳納山脈と似ていると言ったが、しかりである。右に見える高良山が、奈良の二上山になるようにここも似ている。

「あら勿体なや」と斧を投げ捨てた。

現在の勿体島の名は、これから起こったのであると言われる。渚(変わった音を表すも

の)を手斧の柄とも言うし、筑後川を一夜川というのもこしたことから来ていると言う。

此の時の木片を「コケラ観音」といい今の島に祭り、千手観音とあがめて山本の地に寺を

建て、普光院と名づけた。これが観興寺の起こりである。

鎌倉時代に常門の子草野太郎永平は、土佐光信に縁起絵を描かせた、今、国宝としてこの

お寺にある。

 この「榧樹物語と勿体島の名前の由来」のお話は、わが母校である久留米市立の小学校

の“善導寺小学校創立百周年記念誌”172-173頁から書かせて頂きました。秘物公開

される6-7年後に京都で現物をみたい。

望郷

詩人陶潜や李白は、盛んに望郷を念じている。

陶淵明(陶潜) 

「帰園田居」(園田の居に帰る)

「帰去来兮辞」帰去来兮 田園将蕪

李白

「静夜思」牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷

「春夜洛城聞笛」 誰家玉笛暗飛声 散入春風満洛城 此夜曲中聞折柳 何人不起故園情

勿体島 大場家系譜(我が家が本家から別れてからの系譜18世紀末近い頃)

没年(享年、行年)祐作 26 1785 天明5 この次男から本家と別れ新家へ 有馬の殿様泊った時

1810 文化7トラしゃんの親辺り(スミカさんの里

の家の人)

七作 73 1809 文化6 トキ 82 1830 天保1

1881 明治1

4直吉祖母 1912 明治 45

サノ 26 18111836 天保7

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七次 64 1847 弘化4

1910 明治4

モモヨ 77 1852 嘉永5 吉井から嫁入り安武龍次長女 19歳結婚1928 昭和3

直吉 76 1872 明治5

1948 昭和2

6月2

9日

キタ 69 1878 明治2

4吉井から

安武末次 本家_油屋_長女

cf新屋は菜種の油屋

1946 昭和2

7月0

2日蝋の油つくり(好人 esp 奥方)

保明治3

10月

7日

昭和2

6月0

4日

ノブ明治3

7月1

8日

昭和4

6月1

3日慈照院釈居信女 67歳(行年 69歳)

七作の

妻サノ、かつ、トキの3名

かつ;サノ没後の後妻?

かつ; 1820 生 39歳 1859没トキ; 1830 生 82歳 1912没

新新家石之助(直吉弟) 長男 実蔵 石之助から新家から家別れした

マサオ(本家:彌太郎、キクの

長女(彌太郎:十三の父)

上んうらだのお婆ちゃん

本家 大字飯田 1361番地

新家 大字飯田 1365番地

新新家 大字飯田 1360番地

吉井 安武油屋(本家と新家とあり、菜種油家と櫨の木から採る油で蝋燭を作った家)

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と大場家 本家 新家との何代にもわたる親戚関係があった(サツキ叔母が詳しかった)

祖母 キタ:

吉井か

安武末次 本家_油屋_長女

cf新屋は菜種の油

安武利三次(気難しい人?兄貴

蝋の油つくり(好人 esp奥方) son:安武正敏

安武ナツ大正 11 年没 72歳_嘉永 3 生(大場家から吉井へ嫁入りした人? 院号に記述あった)

安武テツ昭和 14 年没 77歳_文久 2 生(上記に同じ)

              ― 完 ―

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