ジューンガルジューンガル帝国 帝帝国国帝国の の …2012/11/11  · - 2 - 3333...

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- 1 - 201 201 201 2012 年 11 11 11 11 月 11 日「東トルキスタン トルキスタン トルキスタン トルキスタン独立記念行事 独立記念行事 独立記念行事 独立記念行事」 ジューンガル ジューンガル ジューンガル ジューンガル帝国 帝国 帝国 帝国の興亡 興亡 興亡 興亡:新疆 新疆 新疆 新疆はいかにして はいかにして はいかにして はいかにして清朝 清朝 清朝 清朝の領土 領土 領土 領土になったのか になったのか になったのか になったのか 講師 宮脇淳子 宮脇淳子 宮脇淳子 宮脇淳子(東洋史家 東洋史家 東洋史家 東洋史家・学術博士 学術博士 学術博士 学術博士) 1 ジューンガル ジューンガル ジューンガル ジューンガル帝国 帝国 帝国 帝国はなぜ はなぜ はなぜ はなぜ「最後 最後 最後 最後の遊牧帝国 遊牧帝国 遊牧帝国 遊牧帝国」と呼ばれるのか ばれるのか ばれるのか ばれるのか モンゴル系遊牧民ジューンガルは、17 世紀後半に今のモンゴル国西部から新疆北部、カザフスタ ンに広がる大帝国を築き、帝政ロシアと清朝に脅威を与えた。1755 年、ジューンガル帝国が支配 層の継承争いから内部分裂したのを好機として、清の乾隆帝は満洲軍とモンゴル軍をイリに進軍 させ、ジューンガル帝国を滅ぼした。1759 年、ジューンガルの支配下にあった天山山脈の南のイ スラム教徒を征服した清は、天山北部のジューンガルの故地と併せて、「新疆(新しい領土)」と 呼んだ。これが、今の中国新疆ウイグル自治区の起源である。ジューンガルが清朝に滅ぼされた 後、中央ユーラシア草原は大清帝国とロシア帝国の勢力下に二分され、かつてのモンゴル帝国に 代表されるような遊牧帝国は二度と現れなかった。それで「最後の遊牧帝国」と呼ぶのである。 2 モンゴル モンゴル モンゴル モンゴル帝国時代 帝国時代 帝国時代 帝国時代のオイラト オイラト オイラト オイラト モンゴル語で「左翼」という意味のジューンガルは、もともと西モンゴル族と呼ばれるオイラト 部族連合の一部族であった。今はロシア領となっているモンゴル国の北西トゥワの地を本拠とし たオイラト部族は、チンギス・ハーンの臣下となった後、その四子、ジョチ、チャガタイ、オゴ デイ、トルイ家のいずれとも婚姻を結ぶ名家となった。しかし、1260 年に始まったトルイの息子 フビライとアリク・ブガ兄弟によるモンゴル帝国の大ハーン位継承争いの際、オイラト軍はアリ ク・ブガ側に立ち、フビライ軍に大敗した。その結果、フビライが建てた元朝一代を通じて、オ イラトのみならず、アルタイ山脈以西の大部族は、元朝の直接の支配下には入らなかった。 地図:宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水書房, 2002 年)

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講師 宮脇淳子宮脇淳子宮脇淳子宮脇淳子((((東洋史家東洋史家東洋史家東洋史家・・・・学術博士学術博士学術博士学術博士))))

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モンゴル系遊牧民ジューンガルは、17 世紀後半に今のモンゴル国西部から新疆北部、カザフスタ

ンに広がる大帝国を築き、帝政ロシアと清朝に脅威を与えた。1755 年、ジューンガル帝国が支配

層の継承争いから内部分裂したのを好機として、清の乾隆帝は満洲軍とモンゴル軍をイリに進軍

させ、ジューンガル帝国を滅ぼした。1759 年、ジューンガルの支配下にあった天山山脈の南のイ

スラム教徒を征服した清は、天山北部のジューンガルの故地と併せて、「新疆(新しい領土)」と

呼んだ。これが、今の中国新疆ウイグル自治区の起源である。ジューンガルが清朝に滅ぼされた

後、中央ユーラシア草原は大清帝国とロシア帝国の勢力下に二分され、かつてのモンゴル帝国に

代表されるような遊牧帝国は二度と現れなかった。それで「最後の遊牧帝国」と呼ぶのである。

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モンゴル語で「左翼」という意味のジューンガルは、もともと西モンゴル族と呼ばれるオイラト

部族連合の一部族であった。今はロシア領となっているモンゴル国の北西トゥワの地を本拠とし

たオイラト部族は、チンギス・ハーンの臣下となった後、その四子、ジョチ、チャガタイ、オゴ

デイ、トルイ家のいずれとも婚姻を結ぶ名家となった。しかし、1260 年に始まったトルイの息子

フビライとアリク・ブガ兄弟によるモンゴル帝国の大ハーン位継承争いの際、オイラト軍はアリ

ク・ブガ側に立ち、フビライ軍に大敗した。その結果、フビライが建てた元朝一代を通じて、オ

イラトのみならず、アルタイ山脈以西の大部族は、元朝の直接の支配下には入らなかった。

地図:宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水書房, 2002 年)

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3333 元朝崩壊後元朝崩壊後元朝崩壊後元朝崩壊後のモンゴルのモンゴルのモンゴルのモンゴル高原高原高原高原ででででオイラトオイラトオイラトオイラトがががが覇権覇権覇権覇権をををを握握握握るるるる

1368 年、植民地の中国本土を失って草原に退却したフビライ家に対抗して反元連合となったオイ

ラト諸部は、1388 年、アリク・ブガの子孫を支援してフビライ家のハーンを殺した。この後オイ

ラトは、チンギス・ハーンの子孫をハーンに推戴しながらモンゴル高原の実権を握る。トゴン、

エセン父子がオイラト帝国の君主になったとき、全モンゴルを支配下に入れ、明をも圧迫した。

オイラト遊牧民は、西方のトルコ系遊牧民からは「カルマク Kalmak=留まった者たち」と呼ば

れた。イスラム教徒になったトルコ系遊牧民が、改宗しなかったオイラトをこのように呼んだの

である。17 世紀シベリアに進出したロシア人は、トルコ系遊牧民を通じてオイラトと接触したの

で、ロシア語でも彼らをカルムィク Kalmyk と呼ぶ。オイラト連合の一つトルグート部は 1630 年

にヴォルガ河畔に移住し、その大部分は、ジューンガル帝国が清に滅ぼされたあとの 1771 年に故

郷のイリに帰った。ヴォルガ河が凍らず渡河できなくて右岸に取り残された人々が、現在のロシ

ア連邦カルムィク共和国の祖先である。レーニンには四分の一カルムィクの血が流れていた。

4444 北元時代北元時代北元時代北元時代ののののモンゴルとオイラトのモンゴルとオイラトのモンゴルとオイラトのモンゴルとオイラトの抗争抗争抗争抗争からからからから、、、、チベットチベットチベットチベット仏教仏教仏教仏教のののの受容受容受容受容へへへへ

1449 年、オイラトのエセンは明の皇帝を捕虜にし、北京を包囲もしたが、1454 年に部下の反乱で

殺されるとオイラト帝国はたちまち瓦解した。このあとフビライの唯一の男系子孫と言われるダ

ヤン(大元)・ハーンのもとでモンゴル諸部が連合し「四十モンゴル」と呼ばれるようになる。

北元の歴史は四十モンゴルと四オイラトの抗争史で、明は「韃靼」と「瓦剌」の抗争と呼んだ。

1578 年、ダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンは、チベットのゲルク派の高僧にダライ・ラマ

の称号を贈った。ダライはモンゴル語で「大海」を意味し、この人は二代の前世があったので、

ダライ・ラマ三世と呼ばれる。この後、モンゴルとオイラトはすべてチベット仏教徒になった。

ダライ・ラマ五世は、チベット仏教に帰依したばかりのオイラト遊牧民に、ライバルを排除す

るための軍の派遣を要請したので、1637 年、青海に遠征したホシュート部長グーシは、カルマ派

支持のハルハの三万の軍を滅ぼし、ダライ・ラマ五世から「持教法王」の称号を授かった。グー

シ・ハーンは 1642 年にチベット全土を統一して王の位につき、ダライ・ラマを教主に推戴した。

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グーシ・ハーンに率いられたホシュート部は青海に移住し、遠征に同行したジューンガル部長が

故郷の盟主となった。チベットの高僧の転生と認定されたその息子のガルダンは、10 年間チベッ

トに留学したが、兄の仇を討ってジューンガル部長となり、1671 年、ダライ・ラマ五世からホン

タイジ号を授かった。ガルダンが 1678 年に「持教受命王」の称号を授かり、ジューンガル帝国が

建国される。ガルダンは、1679 年ハミとトルファンを征服し、1680 年にはアルティ・シャフル(六

城地帯、タリム盆地西部の六都市)に遠征し、カシュガル、ヤルカンド、ホタンを服属させた。

この地方はチンギス・ハーンの第二子チャガタイの子孫であるモグリスタン・ハーン家の領土

だったが、この頃イスラム教徒の住むオアシス都市の指導権を握っていたのはムハンマドの子孫

と自称するホージャ家の一族で、白山党と黒山党の二派に分かれて闘争を繰り返していた。チャ

ガタイ家のイスマイル・ハーンに追放された白山党のアパク・ホージャはカシミールを経てチベ

ットに逃げこみ、ダライ・ラマ五世に援助を求めた。白山党を援助するようダライ・ラマに要請

されたガルダンは、チャガタイ・ハーン一族と黒山党のホージャをイリに幽閉し、白山党のアパ

ク・ホージャを代官としてヤルカンドに据えて、このあと莫大な貢納を取り立てるようになる。

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ガルダンは、1681 年以降、毎年西方へ遠征し、カザフ人やキルギズ人を攻め、1685 年にはアンデ

ィジャンに遠征した。1688 年には三万の軍を率いてモンゴル高原に西から攻め込んだ。北モンゴ

ルの人々は清に亡命し、1691 年、元の上都の跡地で清の康煕帝に臣従を誓った。1696 年、康煕帝

率いる清軍に敗れたガルダンは翌年病死し、こうして今のモンゴル国東部が清の版図に入った。

ガルダンの死後も、彼の甥ツェワンラブタンを君主とするジューンガル帝国は、中央アジアで

勢力を振るった。1717 年にはジューンガル軍がチベットのラサを急襲し、ライバルの青海ホシュ

ート部長ラサン・ハーンを殺した。救援を乞うラサン・ハーンの手紙を受け取った清では、西寧

を出発した清軍に青海ホシュート兵を加えて七千の兵力でラサに向かったが、ジューンガル軍に

敗れて全滅した。次に清軍は二手にわかれ、四川軍が東チベットからラサに入ると、ジューンガ

ル軍は北方へ逃げ去った。1720 年、清朝の公認を受けたダライ・ラマ七世が、清の青海軍の護送

を受けてラサに入城した。これが清のチベット保護の始まりで、このあと青海も清の領土になる。

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ジューンガルの支配下に入ったトルコ系イスラム教徒は、ロシア語文献ではすべてブハラ人と総

称される。彼らは、砲手となって軍事的奉仕をし、イリ地方に強制移住させられて農耕に従事し、

さらに商人として、清朝とロシアを結ぶ中央アジアの東西中継貿易に活躍した。

ジューンガル支配下のセミパラチンスク、ウスティ・カメノゴルスク、ザイサン湖畔などでは、

移住させられたブハラ人農民が、黍、小麦、大麦、豌豆などを栽培した。これらのブハラ人農耕

地をオイラト語でタランと呼び、これらの農民がのちにタランチ(モンゴル語ではタリヤチン)

と呼ばれるようになった。小麦、大麦、黍、米、南瓜、西瓜、葡萄、杏、林檎などが栽培された。

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アルティ・シャフルの毎年の貢納は、穀物、綿花、紅花(サフラン)、または計 10 万テンゲ(銀

1 両が 5 テンゲ相当)と定められていた。その他貿易商人から商税、一般商人から金・銅税、園

戸からは果税、砂金も徴発された。君主の幼い息子や、一族の貴族たち、高官たちは、貢納の徴

収を保証するためと、ジューンガルへの隷属の保証のために、人質としてイリに拘留された。

ブハラ商人は、当初ロシアから関税を免除されて、シベリアに中央アジアの綿製品やカザフの

家畜や牧畜製品を持ち込んでいたが、オイラト諸部が青海からヴォルガ河畔にまで広がると、ジ

ューンガルの貢使となって、ロシアと清の間の貿易を担当した。ことに甘粛から青海を原産地と

する大黄(ルーバーブ)は、昔から下瀉剤、健胃剤として有名で、10 世紀以降、西アジアやヨー

ロッパへ供給されていた。ロシア人はこの大黄を珍重し、トボリスクやキャフタ貿易でも、もっ

ぱら大黄を買い入れた。ブハラ商人は、清の辺境の西寧と多巴までやって来て大黄を購入した。

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ジューンガル帝国が崩壊したのは、継承争いのせいだった。ツェワンラブタンの外孫であるホイ

ト部長アムルサナーが清に投降したとき、乾隆帝は、この機を利用して一挙にジューンガル問題

を解決しようと計画した。1755 年、各二万五千のモンゴル軍と満洲軍が二路に分かれてイリに進

軍すると投降者が相次ぎ、タリム盆地に逃亡したジューンガル帝国最後の君主ダワチは、ウシュ

で捕らえられ、北京に送られた。わずか百日の作戦でジューンガル帝国は滅亡したのである。

しかしこの後、アムルサナーが独立を宣言し、ハルハ部でも清に対する反乱が起こった。アム

ルサナーはカザフに逃亡し、さらにシベリアに逃げ、1757 年トボリスクで天然痘を発病して死ん

だ。この間、各地でジューンガル帝国の残党が清軍を襲撃したため、清軍は報復の手段として虐

殺に訴え、天然痘の大流行によって草原の遊牧民人口は激減し、イリ渓谷はほとんど無人になっ

た。乾隆帝はここに東方から満洲人、シベ人、ソロン人、ダグール人を屯田兵として入植させた。

天山の南のイスラム教徒は、これを機会に独立を企てたが、1759 年に清軍に征服された。大清

帝国の最大版図は、ジューンガル帝国の版図を継承したものだったのである。

9999 五大種族五大種族五大種族五大種族のののの同君連合国家同君連合国家同君連合国家同君連合国家としてのとしてのとしてのとしての清朝清朝清朝清朝((((1636-1912))))

清朝は万里の長城の北で建国

され、満洲人、モンゴル人、

漢人、チベット人、イスラム

教徒の五大種族の同君連合帝

国だった。モンゴルとチベッ

トと回部は藩部と呼ばれ、種

族ごとに宗教も言葉も法律も

違い、満洲語が共通語だった。

ところが 1840 年のアヘン戦

争、1851~64 年の太平天国の

乱の後、1865~77 年イスラム

教徒が反乱を起こしたので、

1884 年、清朝は新疆省を設置

し、漢人に行政を担当させる。