イザーク・チチング URL Right - HERMES-IR | HOME · 易 は 十 七 世 紀 を 全 ... 善...
Transcript of イザーク・チチング URL Right - HERMES-IR | HOME · 易 は 十 七 世 紀 を 全 ... 善...
(Z9一
一
橋
論
叢
第一
巻
第六
戟
40入
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ダ
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チ
チ
ン一
グ
7
重
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十八
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新村田教授
、
京城の
田
保橋常徽授
、
及び
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三
氏の
儲文
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第一
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、
最初史導難詰二
坊
攣一
約款
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後積
層聾
廣忍野
蔚け
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第二
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日
本研究と
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、
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第三
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ク
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草二
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一
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論文
は
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論文
に
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新に
加
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氏の
嶺女は
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・
田
保橋両教授の
論文
に
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或る
戯に
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い
て
確に
優つ
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そ
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大英静物館に
所蔵
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れ
て
ゐ
る
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チ
ソ
グ
の
書簡草稿海
嶺讃聖畑
ゾ竺他説
を
自
在に
使用せ
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結異と
考へ
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自分は
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部四
年冬日
々
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上
三十某を
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溌
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数年
折
角の
幸蓬を
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とを
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五
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四
年
暮若七
く
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七
四
五
年一
月
早々
の
誕
生で
為ら
う?
後家布は
れた
一
七
四
〇
年
詮は
宜し
{
厚東すべ
うだ
。
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は
外科常や
船貞と
し
て
著名な
人々
が
ゐ
溌
澱
め・+
彼を最初は
外科博と
して
■立
つ
べ.く教育を
受け
カ
が、
一
七
六
八
年一
時して
束印度合歓
に
入
ら、
バ
ク
ビ
ヤ
に
航し
溌。
尤も印度へ
凍て
か
ら
数年の
周、
▲
ぜ
う
い
ふ
勤
務に
従事し
溌
か一
向偉は
ら
ぬ
が、
一
七
七
三
年
に
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ク
ビ
ヤ
市穀物倉庫の
第二
支配
人と
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て
彼
の
名が
見え
ゑ
そ
の
後
数年+
七
七
九
年比
重
ら長崎出島の
和
蘭商館長
に
任
ぜ
ら
ゎた
併を
以て
見れ
一ば
、
・・
倉
庫第二
支配
人
と
して
勿
勤
務振は
上
局の
意に
過つ・溌
に
相蓮を
い。
日
蘭貿易は
十七
世紀
を
全
盛と
し、
十八
世紀に
至っ
て
は
もう
言ふ
に
足
ら
ぬ
が、
ノ
そ
れ
と反動に
、
日
本に
お
け
る
蘭人
の
社食的位置は
十八
世紀
に
至
ら著し
ぺ
向上
し、
■百
年
前に
此
し
て
天.地
番壌の
凄を
生七
. ■ね
。
破
奪は
将軍や
大
奥の
人々
の
前に
歌舞を
餞儀を
ぐせ
ら
れ
た
ケ
シ
ペ
ル
の
苦痛を
繰返
す乙
七
は
孝. い
。
串戸蓼府
り館長は
恰
も一
個の
大
名の
ご
と
く、
播軍の
面
前に
出づ
る
こ
と
を
許さ
れ.た
。
か
ふ
る
好邁
と蘭撃切
勃興せ
7 85
イ
ザ.-ク
・
チ
チ
ン
グ
42
一
橋
論
叢
第一
巻
第+
ハ
教
は
撃寛
八
代牌軍吉宗の
西洋撃術尊崇に
基
づ
ぐ
と■・い
へ
よ
う。
何等か
の
縁故を
求め
‥
て
蘭人在府中の
宿舎長
伸
崎屋・を
藩閥
し、
彼等と談話▲空文
換せ
ん
とする
者、
或は
扇子
せ溌
は
耗片を
出し
、
⊥二
の■蘭語を
忍め
んこ
と
を
需む
る
者の
多か
つ
串は
、
そ
の
茸蘭人
に
とら額は
し
く
あ
つ
た
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せ
よ、
蘭畢尊重蘭人
好
遇
の
饗
露と
黎
め
ざ
る
を
得を
い。
然し
な
が
ら
不
幸に
し
て
長
崎在留の
蘭館員は
概し
て
長崎地
役人
裁許の
下
収
私利を
督む
に
疲々.■とし
、
本国
及び
東印度合歓の
利益の
究
め
に、
こ
の
好
機を
利用する
こ
と
を
怠つ
た。
一
七
七
九年
ナ
チ
ン
グ
は
長崎蘭館長に
任ぜ
ら
れ、
同年
六
月
廿七
日
バ
ク
ビ
ヤ
を
螢
t、
一
八
月
十五
日
長崎着
、
前任
館長.ア
レ
ン
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ル
レ
ム
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フ
エ
イ
ト
か
ら薫風し
カ
事務を
引稔ぎ
、
直ちに
之
が
整理に
従事し
溌。
観
近の
日
蘭貿易を
通観する
と、
輸出高
は
着々
減少
し、
蘭人
と
日
本官吏と
の
間に
は
商費上
の
紛議が
絶え
ず
あ
る■ 。
従前の
館長
蓮
は+
番に
そ
の
原因を
通詞の
腐
敗及び
奉行の
貪欲
に
擬し
潅
が、
チ
≠ソ
グ
は
彼等と見
る
所を
具に
し、
吉雄幸作
、
樹林
善兵
衛、
同重兵
衛等の
名を
奉げ
、
「
欧屡巴
人
は
自分の
怠惰を
取
繕う
溌
め
に、
.常に
好
ん
で
通詞等を
清疑深く且つ
政弘
難い
人物と
言ふ
が、
決し
て
左様で
無い
。
反
対に
、
彼等は
有
▲
用な
知識を
自分に
輿へ
、
彼等が
不
得手
の
種々
の
事件に
つ
い
て
は
官吏骨侶の
中最も博聾の
者と相談し
、
普
潅
自分の
研究に
入
用を
書物を
供給し
ょ
う
と熱中する
。
+旭
三
畑三
嶋よ
綿
と
賞賛し
、
彼等
皇璽父
を
結ん
だ
の
み
か、
■
吏収
清音
通詞某を
通し
て
奉行久世丹後守廣民と捏手し
溌。
彼は
一
七
八
〇年二
月
十九
日
長崎を
饗
し
三
月
廿五
日
江戸に
入
ら+
四
月
五
月
牌軍家治虹
謁見
、
五
日
の
後
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一
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7、
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Jf・■イ.
男j
老中か
ら御暇を
勝は
ら、
同月
十四
日
江戸を
馨
し、
五
月
廿七
日
長崎に
転つ
た。
社家
参府の
蘭人
一
行の
申
で
蘭学者の
注意の
由と
を
つ
た
は
唇輌で
あつ
た。
殊に
数年
前ブ
ン
ベ
ル.グ
の
参府に
よ
つ
て
こ
の
傾
向
は
助
長
せ
ら
れ
ね
らし
■い
。
然る
に
今や
彼等は
一
宿の
首席に
チ
チン
グ
の
如
さ
博畢宏才の
人あ
る
を
見て
驚嘆禁ぜ
ず、
一
層
敬慕の
念を
深くし
溌。
そ
の
中に.は
前薩摩侯臥津重豪丹
波福知山
侯朽木左門昌綱の
如
き
が
あつ
た。
田
保橋氏の
論文に
は
尽日
を省
略せ
ら
れ
た
場
合が
多い。
追加滝本九
三
九一
及
び
九
三
九三
に、
一
七七九年よ
打一
七
八
五
年に
至
る
まで
、
チ
チ
ン
グ
の
動静に
つ
き
年月.日
が
明
記さ
れて
ゐ
る
の
で、
煩
を厭は
す之
を
挙げ
る
こ
と
と
し
た。
→
年の
任期を
絡へ
溌
チ
チ
ン
グ
は、
一
七
八
〇
年
十一
月
六
日
出島を
去
つ
潅
が、
逆風の
溌
め
廿九日
せ
で
長
崎港外に
出づ・る
能は
ず、
′
漸
く
ク
リ
ス
マ
ス
の
前夜を
以て
バ
ク
ビ
ヤ
に
達し
潅。
彼が
日
本滞在を
利用し
て
書
、
い
■溌
小論文
二
篇、
(一
)
酒の
醸造及び(
二)
醤油の
醸造は
翌
年
出版の
「
美術及び
科撃把
餉する
バ
ク
ビ
ヤ
協
骨報告+
第三
戟に
出発
。
同じ
髄に
日
本編係の
小論文
が
二
つ
あ
る。
チ
チ
ン
グ
の
署名は
ない
が、
少
くと
も
材
料は
彼の
辛か
ら
出欠
に
相違な
い。
チ
チ
ン
グ
は
由長とし
て
成績が
優良で
あ
つ
充
た
め、
⊥
七
八一
年
再び
館
長に
伍命せ
ら
れ、
同年
六
月三
十
日
バ
ク
ビ
ヤ
を
饗
し、
八
月
十二
日
長崎に
着し
た。
さ
う
し
て
第二
同の
江戸参府とし
て
彼は
一
七八
二
年
二
月
廿六
日
長崎螢
、
四
月
七
日
江戸着
、
十三
日
洛軍に
拝
謁
し、
五
日
後老中よ
ら御暇を
賜
は
ら、
丁
二
十二
日
江戸
-7
非
番、
五
月
廿七
日
長崎に
凝着し
た。
例に
ょ
つ
て
慌しい
波布と
言は
ぎ
る
を
得ぬ
。
~8
イ
ザ
ー
ク⊥
チ
テ
ン
ゲ
什
Oq八
一
∵
橋
論
叢
第一
春
草六
親
∵
、
蘭鹿は
毎年
南西季候風を
利用し七メ
ク
ビ
ヤ
か
ら
打
本に
向う
。
・隻数は
年
に
よ
つ
て
布達す
る
が、
今迄
に
挿
入
舶の
登
ぐ
無か
つ
た
は一
七一
九年
潔
け
で、
日
本行の
舶が
三
隻と
も茎渾沖で
騰風の
窄め
難破t
充
か
ち
で
あ
つ
た。
然る
に
本年
再び
蘭触の
入
港を
か
らし
た
め、
長崎パ
オ
ビ
ヤ
問の
通億断絶し
、
∵
チ
チ
ノ
グ
は
出島に
越
年
せ
ざ
る
を
得な
か
つ
溌。
こ
れ
ユ
ら先東
光
利加
合衆固の
淘立
戦車把
闊聯し
、
敬洲諸国は
概ね露国東
の
主張す各
港上
仲立
同盟に
加
入
し
潅
が、
和蘭が
そ
れ
に
加
塘する
に
及び
、
英吉利は
之
に
宣戦し
た
(
一
七
八
〇
年
十二
月
廿打)。
和蘭の
海軍が
英書利に
括抗し
ね
時
代は
遠い
過去
や
あ
る。
ド
ッ
グ
ル
パ
ン
ク・の
海戦だ
け
は
互
角で
あつ
溌
が、
そ
の
他は
到る
虞英軍に
魔迫せ
ら
れ、
コ
ロ
マ
ツ
デ
ル
沿
岸の
ネ
ガ
シ
ガ
及びス
マ
ト
ラ.
島の
西岸を
失
以、
彿閣
艦隊の
援助
に
よ
つ
て
辛う
じ
七セ
イ
ヮ
ソ
島及び
喜望岬
を
特薦け
得た
位で
、
バ
タ
ビ
ヤ
政
府は
船舶を
打
本紀
振向け
る
飴裕を
持た
な
か
つ
た。
チ
チ
ソ
グ
は
嘩年
を
飴儀な
く
せ
ら
れ
溌
と
はい
へ
、
そ
の
時間を
塞愛する
や
う
を
人で
は
をいt∵
一
方
に
は
日
本の
朋友と
の
交贋を
深
め、
せ
発
熱心
に
日
本人の
生活習慣に
関する
研究を
遵遜
る
と
共
に、
■
他方
に
は
入
港
船皆無を
口
茸とし
て、
銅輸出額の
増加
そ
の
他脅所の
利益と
を
る
べ
ぎ
諸駄を
要求し
充。
渦
を
蒋じ
て
頑と
をさ
ん
と
する
チ
チ
. ノ
ダ
の
商才に
は
敬意を
表せ■ぎる
を
得ぬ
て・
.■
初め
奉行久
世丹
後守が
蘭触不
着の
理
由をナ
チ
ン
グ
に
質問
す各
や、
彼は
下の
如
く
答へ
を。
⊥七一
九年
l・
1
1
「■一■
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チト
ー
ポ
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ヨヨ
叫′
鼻■
叶
∴巧
.
.
-..一
。
パト
、
領、
⇒.
「1
.。
∵.
11+
J町
r.
■ヰ
+頂
司。
1.
にバ
ク
ビ
ヤ
か
ら
日
本に
向つ
溌触が
三
愛と
も沈没し
、
一
隻も凍
を
か
つ
た
例が
あ
る。
本年
も
或は
難破し
た
の
か
も知れ
な
い。
,然⊥バ
ク
ビ
ヤ
政
府は
連
年の
損失と長崎倉所の
意地
患い
虞置とに
普惑し
、
日
本貿易か
ら
全然手
を
引て
こ
と
が
得策で
は
な
い
か
と、
眞創に
考慮し
て
ゐ
る
こ
と
も睦で
は
無い
。
尤も之
は
重大
問題
で
最後の
決定に
至
る
普
で
に
は
充分考を
練ら
ね
ば
を
らぬ
が、
そ
れ
せで
利益
多き
地
方
に
船舶を
蓬用する
に
決し
允
の
か
も知れ
をい
と。
か
う
い
ふ
返事を
請取つ
売
春行が
、
その
昔
ゝ
引込む
筈は
な
い。
蘭人
の
不
平
は
何か
、
希望
は
何か
と幕
間する
に
至
る
は
陪易き
道理
で
あ
る。
丹
後守の
下
問に
勤し
、
チ
チ
ン
グ
は
十二
見
十
日
附を
以て
一
書を
奉行に
呈し
た。
.
書中彼は
東印度合歓の
希望は
、
.(
一
)
樺銅を
一
層
多量に
請取らた
き
こ
と、
(
二)
和
蘭商品
を一
層高債に
責りた
きこ
七、
(
三)
長
崎曾所の
注文
を
満足
せ
し
め
る
溌
め■に
、
改正
を
箕施し
た
き
こ
と
を
りとい
弘、
次
ぎ
に
商館が
平
戸か
ら
出島に
移蒋し
溌
後、
市怯安男に
よ
ら、
小
判の
麗質と
を
らし
に
よ
ら、
.
棒鋼の
輸出額の
一
定把
よ
ら、
商品
の
低き
評債に
よ
り、
又
長
崎曾所の
好手
段に
よ
ら、
如
何に
多く曾敢が
損害を
招
き
しか
、
一
六
甲一
年
以後の
書類に
よら充分澄明し
得べ
し
と
述べ
、
左の
五
項を
奉げ
て
同意を
求め
溌。
一
、
長崎曾所は
すべ
て
の
輸入
品
に
暫し
詐償を
引上
げ、
且
つ
年
々
丁
子
二
官ピ
コ
ル
を
誇取る
べ
く、
之に
封し
て
東印度合歓は
長
崎倉所の
要求
する
だ
け
の
砂
糖・
錫・
蘇木
・
銀貨
・
鈴そ
の
他の
商品を
必
ず
輸入
す
qノ
2 7
ベ
⊥。
7 8
イ
ず
ー
ク
・
チ
≠ン
ダ
山
0り一
∵
橋
論
葦
第一
巻
第六
兢
二、
棒鋼の
捻出額を
檜加
し、
且
つ
そ
の
額は
永
久に
確賓を
る
基
礎の
上
に
定め
ら
る
べ
し。
然ら
サ
ん
ば
多
脚
数の
支部ジ
ャ
ン
ク
の
到着又
は
銅の
産出額減少の
口
茸の
下
に
減税さ
れ
る
恐
あ
ら。
三、
長崎合併が
蘭舶の
出番
に
際し
注文
する
商品
は、
そ
れ
が
印度産で
、
さ
う
し
て
バ
ク
ビ
ヤ
で
入
手し
難
い
分は
第二
年に
、
外国
製
晶を
ら
第三
年
に
持参すべ
し。
こ
れ
は
優息品を
注文
額だ
け
持参し
得る
横合を
合
歓に
輿ふ
る
た
め
で
ある
。
四、
船舶の
難破そ
の
他孜潤すべ
か
ら
ざ
る
事靂に
よ
ら、
合歓
が
注文
せ
ら
れ
溌
商品の
全
部若し
くは
一
部
を
そ
の
年
引渡し
得ざ
る
にせ
よ、
棒鋼の
定額輸出を
寸
分売
らと
も襲吏すべ
か
ら
ず、
合歓
は
不
足
せ
る
商品
を
最も需要多き
他の
商品を
以て
代償すべ
し。
五、
長崎合併は
品質劣等とい
へ
る
口
茸の
下
に、
或商品の
債格を
引下
ぐる
権利な
し。
若し
品
質劣等を
ら
ば
館長に
遺骨し
、
館長を
し
て
そ
の
事賓を
寵め
し
むべ
く、
こ
の
瘍合長
崎骨所は
何時
に
て
も
代償を
得べ
し払
但し
館長は
通告せ
られ
た
債格に
同意し
、
或は
問題の
商品
をバ
.ク
ビ
ヤ■に
積廃す権利を
有し
、
更に
勝
家
同一
種類の
商品に
し
て
品質注文
に
過払
売
る
もの.を
輸入
し
溌
る
時、
前岡の
許
債を
主張する
権利を
有す
。
こ. の
壁書は
何等直接
の
結果計
生じ
な
か
つ
潅
が、
常時の
蘭人が
貿易上
に
威じ
溌
迷惑は
之
に
よ
つ
て
了
解
せ
ら
れ
よ
う。
一
七
八
三
年ト
ー
ソ
ペ
ソ
ブ
ル
グ
戟が
入
港する
や、
チ
チ
ン
グ
は
書面
を
奉行に
呈し
、
簡下
よ
ら
前年
蘭触不
着の
理
由
を
御下
問あ
ら
ば、
右は
全
く
東印度合歓が
今日
せ
で
に
被つ
溌
大損害及び
日
本人
が
和
t
十
ノ
りl
l・
「
も
ヒ
巨「
ト
ナL
l
匡∴
島h
ザ
...
トト
Hr.
れ
トナ
声■
rナ
拝
卜け.
「
⊥r
叫
ふ
一.
-:
+
▲
十
.
一骨
■
叫
一
†
J
胡
†
≠
一
,-.
JJ
l
j
ヨ、
.も叫
.
亀■-J
「′上
″
∃
外
蘭商品
に
低債を
附
する
に
由る
もの
な
る
こ
とを
率直に
中上
ぐ
る
よ
う、
㌦
ク
ビ
ヤ
絶督か
ら
訓令を
受け
た。
親督は
欧洲か
ら
輸入
せ
ら
れ
衆
多額の
銅が
日下
合歓の
倉庫に
充満せ
る
こ
と、
並
に
英蘭間の
戦争開始に
よ
ろ、
.合敢の
賂舶を
他の
商館に
振向け
れ
ば、
一
層
大い
な
る
利益
を
得ら
れ
る
と
は
知らな
が
ら、
長
崎在任の.
.館長が
良侶を
以で
提議し
溌
要求
に
封し
、
閣下
の
御沙汰如
何を
期待し
、
ヰ
長和
蘭商品
を
使用し
慣れ
た
固
か
ら一
時に
多額の
南畝
を
引上
げ
る
も如
何と
考へ
、
本年は
必
要商品
だ
け
を
積込ん
だ一
般を
派
遣し
溌。
之
計
以て
和蘭の
商品
が
従前同様の
債格を
要求し
得る
を
ら、
商合は
社家通ら日
本と通商を
欲
する
苦慮と
忍
め
ら
る
べ
し
と
い
ひ、
最後に
、
輸入
品
検査
に
際し
館長の
身倦に
手
を
触る
ゝ
こ
と
は、
バ
ク
ビ
ヤ
政
府を
侮辱
する
に
督る
か
ら、
自分及び
勝家の
館長に
勤し
、
断七
て
こ
の
侮辱を
加
キへ
か
ら■す
と
力
詮し
た。
奉行は
遺憾な
が
ら自
分は
是等の
要求を
許可
する
権力
を
持た
ぬ
と答へ
た。
勿論チ
チ
ソ
グ
は
満足
せ
ぬ。
若し
軽蔑が
容れ
ら
れ
ぬ
な
ら、
来年
は一
姫潅
¢と
も
触を
日
本に
寄せ
ぬ
と
脅し
た。
そ
れ
で
日
本側は
差昔々
樟脳の
費込値段を
一
ピ
・コ
ル
に
つ
き一
テ
ー
ル
減と
し、
脇荷物定額六
十貫目を
本年
に
限ら宵
貫目と
し、
普
売
春行江戸着の
上
は
輸入
商品
の
大部分に
若干の
倍増を
運
動する
旨を
約束
し
た。
テ
ナ
ン
グ
は一
七
八
三
年
十+
月
六
日
長崎を
敬
し、
十二
月
十三
日
バ
タ
ビ
ヤ
へ
韓つ
た。
政府は
日
本に
お
け
る
彼の
成績を
嘉し
、
三
キび
彼に
館長の
任を
輿へ
.、
然も打
本到着専務虞理
の
上
蹄邁勝手溌
る
べ
し
とい
へ
溺
名
特典を
附し
寛
彼は
一
七
八
四
年
六
月
廿六
日
エ
ペ
ル
:デ
ナ
畿打
乗じ
、
バ
ク
ビ
ヤ
を
馨
し、
八
月
十八
田
押
イ
ザ
ー
ク・
ナ
チ
ン
グ
一
■れ
檜
静
革
帯一
巻
第六
放
射
長崎へ
入
?充
。
廃艦ア
ケ
エ.
ル
ヶ
ル
ク
壊が
途中で
難破し
溌
偉大
難航で
あ
つ
潅。
∵
奉行把
封し
、
チ
チ
ソ
グ
の
要求と
脅迫と
は
繰返
さ
れ、
漸く九月
三
日
に
至
ら決着を
見た
。
長崎禽所は
向
十五
年間輸入
品
の
大部分に
勤し
値段を
引上
げ
る
こ
と、
毎年
一
萬二
千ポ
ン
ド
の
丁
子
を
請取る
こ
と、
尭印
度倉敢は
毎年
舶二
隻
軒日■
本に
派
遣する
こ
と等で
、
館長の
身髄検査
問饅は
江戸か
ら命令が
到着せ
ぬ
とい
ふの
で
未
決の
曾ゝ
頚つ
溌。
か
く
て
彼は
本年
の
荷物の
費却を
監督し
た
後、
十一
月
廿六
日
乗船
、
一
七
八
五
年一
月一
首H
を
以て
メ
タ′ビ
ヤ
に
還つ
潅。
一
以上
三
岡の
訪問に
よ
ら、
彼が
日
本で
費し
た
日
月
を
合計する
と
三
年八
ケ
月と取る
。
.
7 9 2
打
蘭貿易改
善に
閲する
チ
≠ン
、グ
必
達動及■び
結果に
.つ
い
て
は、
新村
・
田
保橋㌧
ポ
ッ
ク
サ
ー
三
氏は
殆ど
・触れ
て
居ら
れ
ぬ、。
とれ
は
三
氏の
論文
の
趣意が
主とし
て
日
本文
化の
研究者及び
解介者
怒
る
≠チ
ソ
グ
を
叙
述す
る
に
あ
つ
た
か
らで
あらう
が、
彼の
全貌を
知る
に
は、
こ
の
方
面の、
研究を忽に
すべ
か
ら
ざ
る
は
勿論で
あ
る。
蝕し
之
を
委細に
訣萌せ
ん
と
すれ
ば、
ヘ
ー
グ
の
文
書館に
ある
常時の
館長
日
誌・
往復書簡集等を
播
か
ねば
な
ら
ぬ。
そ
れ
は
現在の
自分に
とつ
て
布
可
蘭で
ある
潅
め、
不
満足
な
が
らマ
イラ
ソ
の
日
欧貿易史概
説≡
蛋■
を
唯一
の
材料と
し
て、
前璃の
叙述を
試みる
に
止め
溌。
但しマ
イ
ラ
ン
は一
八
二
七
年か
ら
三
〇
年
普
で
蘭館長
を
勤
務し
衆
人故
、
彼の
記
事は
蘭館に
あつ
た
日
記
や
書簡集を
資料と
t
た
に
相違ない
。
「
チ
チ
ン
、
1
†・
\-
ト
.
■▼
-
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‥、
叶
l
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、
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わ
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■,
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▲
▼
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上r
,
施
Fr
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乳
ノー・
トーl
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島
サ
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う.
1.、
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J叫
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・
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』.
一.-
1が
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7朔
J「".1
司-
11.
.
...
.
一
.J
J
⊥、
阜
†
:
ノ†
叫
グ.
の
努力の
結果は
表
面か
ら見れ
ば
大
し
た
もの
で
は
をい
。
本国
のY十七
人曾が
銅
輸出額の
増加
を
迫る
べ
か
ら
ずと明か
に
命令し
焚
こ
と、
,
並に
嘗七十七
人
倉が■、
■
日
本人
に
勤し
て
は
荷物を
陸揚げせ
サ
し
てメ
タ
ビ■・ヤ
に
蹄る▼と脅迫する
よ
ら
む
二■歩を
譲つ
溌
方
が
宜い
との
意味を
公
言し
発
こ
とを
考へ
.る■と
、
チ
チ
レ
ク
は
運
動切
自由
を
制限せ
ら
れ
な
が
ら、
歯大い
に
成就する
研が
あ
つ
潅
と
観め
ぎ
る・
を
希ない
。
放る
に
十七
人
合の・
意見は
之に
相違し
、
女約僅項を
知る
や、
毎年
触二
隻を
日
本に
盗
る.
義務■
は、
折角得た
債格引上
を
無数を
ら
し
め
た
と
公
言し
滋+
とい
ふ
彼の
批評
は、
甚だ
蛮
骨で
ある
と信ず
る。
、
∴
チ
チソ
グ
が
打
本滞を中に
得溌
親友に
つ
ミ彼自身の
手
記
すみ所を
引用し
ょ
う
∵
「
自分の
日
本静在中
、
江戸京都及び
大
阪で
身分の
あ
る
若干の
人々
が
熱心■に
蘭語の
轟習と
蘭書の
解讃打
努臥
ら
れ
潅。
現
将軍の
虜薩摩侯醜嗣
は、
優の
言は
ん
と
欲する
所を
第三
者に
暁
ら
れ
ぬ
や
う
手紙に
和
蘭の
文
字
を
用
ひ
溌。
舟渡侯
諜、
癖軍の
侍唇鹿
川
甫周
、
若狭侯の
侍醤中川酎馴
そ
の
外数名は
驚くべ
き
雀進歩し1
バ
ク
ビ
ヤ
で
生れ
∵
我
々
秒
間で
生長し
た
多数の
葡萄牙
人
㌃
らも
、
一
層明白
藍息
息
を
表
示
し
得る
や
う
に
をつ
溌。
,
自分の
江戸滞
在の
盛期を
る
㌃
とを
考へ
れ
ば、
か
ゝ
る
上
達
は
た
ゞ
驚異と嘆賞と
を
促すの
みで
あ
る。
・
前掲の
打
本人
と
文
通し
、
彼等の
同答を
訂正
町
上
返送
し、
而
も官憲に
よつ
て
開封せ
ら
れ
る
こ
と
の
無か
つ
た
は、
奉行丹
後守
殿の
特別の
取
計に
法
ら、
彼等の
蘭語
聾習を
容易を
ら
しめ
溌+
。
′
義行丹
後
諾内外人の
人
署博し
潅。
帥ちチ
チ
ン
グ
は
級を
呼
ん
で
「
尊敬すべ
さ
若+
とい
以、
骨
身
79 3
イ
ザ
ー
ク・
チテン
ゲ
■
一
橋
論
・叢
第一
巷
第六洗
32
長
嶋の
市民は
彼の
輪任
に
際し
、
琴訪
社に
額
を掲
げ
て
武蓬長
告所つ
平と
い
ふ。
・一
七
八
三
年
丹
後
守がメ
7 9 4
ク
ビ
ヤ
か
ら
船大
工
を
呼
寄せ
る
や
う
チ
チ
ソ
グ
に
依頼し
た
こ
と
が、
後者の
手
記
に
見
え
る。
日
本側の
趣
意は
大
阪か
ら
長
崎へ
の
週銅を
積廻す
賂が
屡と
破損し
て
そ
の
都度膠
多しい
損害を
生ず
る。
堅固な
触を
造つ・
て
楓銅の
用に
供し
た
い
とい
ふの
で
すが
、
バ
ク
ビ
ヤ
の
造船所に
さ
う
多数の
優等吸工
が
ゐ
る
繹もな
い
の
で、
チ
チ
ソ
グ
は
自身出螢の
際、
日
本職工
盲
人を
同伴し
、
各邁触所に
分配
し
て
充分教育を
施さ
う
とい
ふ
意見
を
申出で
溌。
飴し
日
本に
は
海外渡航の
禁令が
あ
る
の
で
容易に
行は
れ
さ
う
もない
?
同年
八
月ト
ロ
ソ
ペ
ン
ブ
ル
〆
が
入
港し
溌
時、
そ
の
端艇に
日
本水
夫.
を
乗せ
て
嘩内を
漕廻つ
潅
が、
そ
ん
な
こ
と
で
奉行は
満足
せ
ぬ。
結局■バ
ク
ビ
ヤ
で
触の
模型を
造り
、
そ
れ
に
精細を
詭明書を
添へ
、
来年
入
港する
時に
持参する
と
約束
し、
翌
年
八
月
約の
通ら持参し
た
が+
田
沼
山
城守
の
横死
に
よ
つ
て、
「
我々
の
美しい
すべ
て
の
計量は
叔
絶さ
れ
わ
こ
と
あ
る。
丹
後守の
依頼に
若年
寄田
沼
山
城守が
蘭係し
て
ゐ
た
こ
と
だ
け
は
分らせ
すが
、
西洋風の
船舶
建造の
外に
更に
どん
な
計量が
あつ
た
か、
解き
難い
謎と
して
残る
だ
け
だ。
■
㌢チ
ン
グ
が
日
本の
友人を
賞賛し
た
と
同席に
、
彼等は
普
ね
チ
チ
ン
グ
を
賞賛し
溌。
新村博士
は
こ
れ
に
閲
し
興味あ
る
幾多の
尊貴を
輿へ
ら
れ
て
ゐ
告
チ
チ
ン
グ
が
深く日
本の
事情に
通じ
、
婚鰻の
水
引計
糖切
に
す
る
意味
計
禽得し
た
こ
と、
自分の
部屋を
日
本風に
改
造し
、
漢字を
解し
、
漢文
を
嵐ん
ゼこ
.と
、
博聞
強
記
好
ん
で
各国の
舌
貸を
愛玩
し
た
こ
と、
書籍の
財輿
に
者で
な
か
つ
焚
こ
と
等が
\
博士
に
よ
ら
臥
本側の
史料か
ら
t
い
11心.i
F.■ト山r
′
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ュ町.
ポト
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⊥=
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引覆せ
ら
れ
て
ゐ
る七
但し
森島中良の
紅毛
難詰讃
に、
チ
チ
ン
グ
が
通詞猶林重兵
層に
暦つ
ゃシ
ョ
・
メ
イ
芸・
日
用官
科字
典七
冊
が、
重兵
衛か
ら東低
中良必
見
桂
川膚周の
手■収
席七
た
こ
七普
溌
司
馬江漢の
西滞竜顔
に、
彼が
チ
チ
ン
グか
ら
rレ
ッ
ス
の
大童帖を
得た
こ
とが
、
明記せ
ら
れ
て
ゐ
る・に
反
し、
朽木侯の
西洋鋳∵
譜に
は
彼我
姦の
趣味
を
同じ
う
し、
一
軍び
食談すれ
ば
時間の
過ぎ
る
の
を
忘れ
る
と
辛で
書い
て
菅ノ
を
が
ら、
■サ
ザ
ン
グ
の
名
藍川
し
芸い
。
大名とい
ふ
偉置
に
ある
た
め
に
障る
研が
あつ
た
の
で
あ■ら
う. 。
一
七
八
四
年
七
月
言ビ
ヤ
総督及び
評
議員骨は
、
前年
の
戦禍に
よ
つ
て
摩絶
し
た
印度ベ
ン
ザ
ル
地
方
初
和
蘭貿易を
再興する
に
決し
、
日
本よ
ら蹄図し
カ
チ
チ
ン
グ・
聖ン
ガ
ル
長官に
任じ
、
虜に
員外密議員の
名拳
を
彼に
加へ
寛
チ
チ
ン
グ
はバ
ク
ビ
キ
か
らベ
ン
ガ
ル
の
基
地ヰン
…仁
一
収
フ
グ
リ
に
移蒔す
る
に
常ら
、
日
本滞在三
年
間に
蒐集し
た
版本
・
寒本
・
貨幣
・
美術
.品
一
嘗携帯し
た
の
み
か、
由贋の
助手
と
し
て文
字
ある
支
郵人
二
名を
同行し
カ。
ヵ
γ
カ
ッ
タ
の一
英人が
チ
.チ
ン
グ
の
蒐集品
至
言ッ
ク
の
ル
ピ
ー
即ち二
甫虜で
買入
れ
よ
う
と
申出で■た
時、
サ■サ
ン
ダ
が
そ
句
中込を
謝絶
し
をとい
ふ
儲が
、
一
七
九九年パ
タ
ー
出版の
べ
■ン
ガ
ル
旗行記
に
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る。
こ
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般にサ
ヤ
、ル
、ハ
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ー・・
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去薯と
観め
ら
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る
が・、
ボ
ッ
ク
サ
1氏の
詮・に
よ■る
う同人
は
出版居た
る
に
空言
、
著者で
は
を
や
とい
ふ. 。
然ら
ばチ
チ
ン
グ
せべ
一ン
凄ル
に
訪問し
て
て
の
美談せ
我等
一7 9 5
イ
ザ
ー
ク・
チ
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ン
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一
橋
静
養■第
一
巻
第六
蚊
収
償へ
允
は、
コ
づ
…-
で
濱
く
て
氏名不
詳の一
偉人であ
る
主口
は
ねばを
らぬ
。
岳同書に
は
日
本で
死
か
饅の
硬直を
柔げ
る
溌
め
収
用ふる
土
砂につ
ミチ
チ
ン
グ
が
研究し
た
こ
と
を
述べ
て
ゐ
る
が
∵こ
れ
は
事茸で
、
「
土
砂と
そ
の■蜃
明者弘法大師に
関する
思
事+
が
彼の
発後レ
ミ
′ユ
ザ
一
に
ヰつ
て
枚刊せ
ら
れ
潅
「
日
本に
お
け
る
婚鵡と葬式+
の
億凍収
蔵っ
て
ゐ
る。
づ
ぅ
して
こ
の
「
婚鰻
と
葬式+
の
巻骨収
ナ
チ
ン
グ
の
遺品目録が
出
て
ゐ
る
が、
果し
て
そ
れ
が
英人某が
二
萬虜で
買取
ら
う
と
し
た
もの
で
あ
る
か、
疑は
しい
。
碧空日
銀の
第二
に
チ
チ
ソ
グ
虜の
蘭文
書億四
十大
通が
ある
。
一
七
八
五
年
ふ
ら一
七
九〇
年
せ
で、
如ちチ
サ
ン
ダ
がベ
ン
ダ
サ
長官時
代の
書簡集で
、
大正
三
年
京都帝圃大
草で
燭逸の
某書店か
ら
屑入
れ
ら
れ
溌。
I日
本人
の
儀信者は
朽木眉綱
・
中川
淳庵
・
過詞楢林重兵
衛・
同堀門十郎等十三
名で
計二
十二
準.
そ
の
中朽
木昌綱が
五
通、
、
五
通の
中
で寛政
元
年三
月
九
日
何の
手耗は
、
チ
チ
ン
グ
の
十二
ケ
俵の
質問に
封する
返書で
、
最も興味を
惹くに
足
る。
天
明五
年
四
月
二
十日
附の
手紙の
末尾に
「
乙
の
書面御訂正の
上、
御返書と
同時
に
御選樹下
さ
らば
干満難有可
有償+
とある
の
も、
侯の
好畢
堅不
七
て
面
白い
。
然し
こ
の
尊敬集に
つ
い
て
■也
漑収
新村教授の
解儲が
ある
か
ら省略する
。
チ
チ
ッ
グ
は
大き
を
期待を
以て
ナ
ン
ヌ
ー
てに
-赴任
し
溌
の
で
あ
冶
が、
風土
に
慣れ
サ
し
て
集束を
書ね溌
ケ、
資本の
儲乏
切
冬め
に
息
ふ
や
う
に
利益を
奉げ
得を
か
つ
売
ら、
注文
品
を
満載し
た
べ
■ル
ク
リ
+t
我が
船長の
不
注意で
難破し
声究め
、
館員
一
周と
共
に
生活必
需品
の
窮乏
を
味Jの
み
か、
■日
本ふ
ち
の
返書が
放と
一
緒
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1.七
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十
一サ
り
ヰ
十
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-
り
声、
仰1
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ま一
次
Jl。
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、
混人瀧没し
イ
礪ぺ膚腰サ冶
等、
色々
の
不
快が
積ら頑つ
て
バ
ク
ビ
ヤ
督局に
召■層を
願胡で
た。
然る
に
骨局は
却.つ
イ
うサ
ン
ザ
収
常置笹瀾を
求め
溌
の
で、
遂
に
堪
り息
ね解職の
上
英国に
移催
する
収
快心
し
凌。
流石に一
昔局も捨置
く繹に
行か
ず、
一
七九
一
年
五
月の
合議に
お
い
て、
彼に
名馨の
解職を
命じ、
侍政府は
藤凍彼
■の
優助を
凍む
塩日
を
可
溌
七翌
九二
年
四
月
下
旬チ
チ
ッ
グ
の
バ
ク
ビ
ヤ
到着を
待つ
て
彼を
正
評
議員と
し、
オ
ン
ト
フ
(
ン
ゲル
・
ゲネ
ラ
ー
ル
租
蔵
.頭
の
電磁を
授け
た。
一
七
九三
年マ
カ
ー
J
七
-
卿が
英国
大使と
心て
空足
に
赴くに
曹ら
、
バ
■ク
ビ
ヤ
政
府は
大使
一
行を歓迎ん
+
チ
チ
ソ
グ
裾そ
■の
番犬使と葡己
収
を
つ
充。
常時
は
勿論数月
後に
至
る
せで+
、
チ
テ
ン
ダ
は
百分が
夫
と
し
て
支部也
鹿てや
ぅ
収
な
らう
せ
偲
夢に
も
息は
ず、
⊥七
九四
年二
月ロ
ン
ド
ン
の
友人に
通信
-
セ
敦見
な
らず
し
て
欧漸に
凝らせ
せ
うっ
英盲利虹移住
する
決心
で
すか
ら、
昔冬は
御面
蒸
せせ.う
と
言つ
潅。
盤る
に
廣
東の
凍都度骨蔵
代表者フ
ハ
■ン
・
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ラ
一
入
. ・
フ
ッ
ク
ヘ
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ス■ト
か
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タ
をヤ
凌
府収+
乾隆帝切
革層
優に
使
節せ
派
遣すべ
三月
盲厭言し
、
且つ
白ちその
任に
営ら
ん
て
とを
灰か
すや
、
政
府は
位簡派
遣を
可
とする
と
典
促、
チ
サ
ン
ダ
に
そ
の
大任を
依頼し
た。
チ
チ
ン
グ
は
自
己の
財政
上
の
理
由
で一
應辟過し
た
が、
一
旦
政
府
せ
空父
潜腐せ冶
や、
直ち紅
潮凧し
、
.九月
二
十日
廣来着∵
約ニ
ケ
月切
後副
使フ
ハ
てブ
うーム
、
邁層小
下
1
骨
+ヌ
..等を
僻心
、
整点
に
向つ
て
出費t
髭。
■㌧
言ソ
グ
望
ま五
竺.月
九
月
息孟貰紀
久っ
舟。
■
慶束
志H
て
か
ら
約大
過
周
である
。
漑
甲如ぺ
長
潮
イ
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ー
ク・
チ
テ
ン
ゲ
、
一
橋
諦
葦
第一
巻
第六
兢
価
堂々
繁
る
使節の
遜府に
為
ら
ず、
軽騎丘
名実邁に
似光
らと
、
フ
ハ
ン
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ブ
ラ
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鐘評t
托
率
ゑ∵
盲十
l
斗り
蛸
日
初過
て
乾優帝に
謁
し丁
滞在蔚
二ノ
月
∵二
月
八
日
圃明園で
暇を
賜
び、
一
週
間後蹄途に
就
ミ五
月
十日
を
放て
廣束に
達し
奄
ヱ
ゝ■で
彼は
備軍の
和
蘭乱入
、
組統ヰ
ル
レ
ム
五
世の
農園逃亡
等本国
に
起、つ
湧激棉
の
囚報乾
接し
溌・
。
ナ
チ
ン
グ
の
支部行招マ
ちー
ト
ニ
ー
卿の
そ
れ
よ
ぅも
一
層の
失敗で
あ
る
上竹
ふ
人々
が
満
々■
壌も
て
こ
の
号
批評
が
正
鵠を
得て
居る
か
甚だ
疑は
しい
。
∴
北京駐
葡の
耶
蘇倉員ダ
ラ
ン
鞋
ン
が、
一
七
九
式
年
二
甥二
十月
滞
で
真東の
友人
忙
輿へ
た
手
紙の一
節収
、
「
こ
の
使節派
遣の
成功少
き
に
拘ら
良き
評
判を
残し
た
こ
と、
及
甲一
行出螢
後皇帝が
屡ミ
一
行
.
和層人,一
行が
そ
ゃ
地忙
最濁
を
鷺牽骨℃
碍寸心
藩賓で
藩る
尤も乙
の
使節国の
唯一
の
目的
は
些兄
に
承っ
て
皇帝に
敬意を
表し
、
暦
物を
春巻する
収
あ
つあ
乾
一さ
行は
偽
すべ
き
訴厩もな
く、
求む
べ
き
思慮もなか
つ
聖断軌
覧即
題諾旭即
とある∵
眞
竺符の
優命ぶ
乾
昏や
膚蕃
ヽ
りi
一
節を
奉祀する
だ
け
で
あつ
発
と
すれ
ば、
皇帝及び
北
京の
上
流社食に
好
戚を
輿へ
発
こ
と
は
成功で
あ
る。
積
極的の
結果を
得を
か
つ
溌
とい
つ
て
非難する
に
は
督る
曾い
。
■
欧洲大
風切
究
め、
一
和
蘭地心
よ
つ
て
本国
に
蘇る
こ
とは
不
可.億とな
つ
溌。
∴
チ
サ.
ン
グ
は
先づ
白月切
荷働の
一
部を
西班
牙
触に
積み
込み
、
次
や
で
庶子ヰ
ル
レ
ム
を
瑞典凝に
乗せ
、
自身は
一
七
九
大・
年
三
月
英圃
濁印度
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、
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十二
月
十一
日
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ン■
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カ
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卿を
始とし
、
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ル.
時代の
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ー・
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ン、
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ト∵一
▼㌣
バ
ー
ト
‥
チャ
ン
バ
十
夫
妻等の
熱心
な
歓迎を
受け
潅
が、
そ
の
僚の
間紅
む、
彼は
決し
七印度及びバ■ク
㌔ヤ■
の
友人を
忘れ・サ
、
「
わが
心
は
宙多く印度に
傾
く+
とい
以、
又
本国の
膏友に
宛
て「
自分が
希ふ
所は
平
和安
静の■
生陪で
あ
る
が、
今日
砂
和
嵐共
和囲
に
そ
れ
を
見出すこ
と
は
難し
か
らう
。
自分の
知ウ
て
ゐ
る
入収
軒身
の
昏地
滞在を
観知し
、
彼等終
何とい
ふ
か
通知を
乞ふ+
と
告げ
て
中る
㌢
号
∵孝
三
十二
年
の
東洋滞在と
喜望岬
迂麹の
長途旗行とに
疲弊し
、
せ溌ロ
ン
ド
ン
の
塞寒■
に
避易し潜
+
約
ごノ
舟ば
か
かゲッ
ス
に
韓地
療養を
試み
、
略平
癒し
て
再び
。
ン
ド
ン
に
晦つ
■た
。
号七九七
年三
見
某夫
人に
輿へ
軍手紙に
、
「
不
幸な
る
共
和
酪の
欺態に
鑑み
、
平
和に
倭
冬せでバ
ブ
ス
打
滞留し
㌻
う
と決心
し
冤
英国
移住は
久しい
登別
か
らの
決心
で
あつ
潅
が、
何うし
て
も不
可
能で
あるヂ
自分■
の
覿数は
最
亀熱心
紅
顔固を
、
‥
求め
、
・疲等の
手耗を
受取.
る
どと
に
心
が
動く
。
督地
で
非常を
懇遇
を
受け
耳ゐ■み
軽∴凡
そ人
南東る
む砂
は、
■
本国把
賀する
打勝ち難き
欲望を
、
自然に
植附け
ら
れ
て
ゐ
る
もの
と
見え
告
打身は
鮭卜長く外囲
で
漂浪
し
発
た
め、
塵に
頚つ・て
ゐ
る飴生を
本圃で
絡は
る′よ
ろ▼外は■.
な
こと
書い
て
ゐる
朗を
見る
と、
∵
如
衛紅
英観
で風
囲む
象通
計
受けて
も、
矢琴細
蘭が
卑し
ふつ
溌
に
相違孝叶
。
完〇二
年ア・■
ミ
ナ
ン
の
車和
晩約後彼は
海峡を
渡つ
て
和蘭に
晦
妄。
∴
和
蘭は
嘗路
子ダ
ビ
ヤ
鼻私
酪と稀
抄
イ
ザ
ー
ク・
チ
チ
ン
グ
〔
【〉3
一
橋
論
章
啓一
巻
第⊥
へ
映
し
で
雷が
、
園
内・
は
引
警勤務す
今慈父
薮弟は
霊する
、
勉
君島版机
訂不
適
嘗の
で
速
筆ザ
紬
r
に
移住し∵
同
地
を
本壌とし
で
屡之
本圃
と往復する
打
至ケ
ね。
1ハ
リ
ー
で
は
ド・
.ギ
ー
ミク
ラ
ッ
プ
甘
-ト
、
・
レ
ミ
ュ
ザ.-
等の
東洋聾者と交ケ
、
せ
溌
絶
え
ず
英国の
友人七
も信書計
灸
換し
た
が、
む
の
中で
鼻も頻
繁払
通信し
於
は
海輩本部副
官ウ
イ
リ
ア
ム
・
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トス
デ
ソ
で
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チ
ン
グ
は
自著の
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鹿放す・か
辱に
∵
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†み
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卜
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升
ソ
〆
の
手術や
草稿が
多数
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¢
で
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チ
チ
ソ
グ
は
英囲に
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を
が
ら、
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こ
と
と
て
如
何をる
迷惑を
鐘
や冬争
静㌧
れ難し
と療躇
し
∵普た
和
蘭の
出版界が「
美術や
科畢に
関する
書経を
要求せ
ヤ滋ゞ
小
説や
小
説類似秒
針町
を
求払
か+
と憤慨し
て
ゐ
管
すが
、
彿固の
出版界も決し
て
そ
れ
に
勝る
もの
で
は
を
か
ウ
怒勺
一
灯
八
〇七
年六
月
二
十二
日
彼が
「
支部日
本年代記+
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英辞
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ン
に
準ケ
身
障町
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譜に
、
「
ガ
ル
ニ
ト
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忠告に
よ
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飾繹
繁ハ
■リ
ー
で
出版する
こ
とを
拒絶し
溌。
慾蛮人
種か
ら
迷惑や
詐欺
む
蒙らぬ
究め
と、
せ欠
本書が
先づ
英国で
出版せ
られ
る
こ
と
が
自分の
希望そあ
る
か
む
で
あ
告い
怒張入線
に
は
併圃生粋の
人すら
迷惑し
て
ゐ
各
←
とあ
らせ
す。
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一
八
〇
九年二
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日
彼が
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ム
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ル
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か
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ース
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に
蓬つ
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町〕
大
郷五
首
寛紅
蓮する
内裏記録め
僻帝政
面倒な
仕事だ
、
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ハ
リ
ー
で
は
絶え
ず
邪魔計
受け
る
か
ら、
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リ
ー
で
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之
を
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勇気は
起
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か
つ
光
ら
う。
.
然し
普地
で
は
如何に
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に
時降を
資すか
とい
ふの
如主を
昏的で
、
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徒事に
遺骨な
地で
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〆
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と述べ
、
同書を
嘗て
朽木侯に
呈し
た由
日
を
訣
ミ■現在は
頗る
健康だ
か.ら
自分は
出家る
だ
け
仕事を
進め
て
ゐ
る十
日
本に
関し
て
集め
溌
材料の
御繹
藍花
成せ
んこ
とは
自分の
熱望する
所だ
と言ケ
て
ゐ
賞す
。
・
け
れ
ども乙
の
希望は
達せ
られ
を
か
つ
溌。
一
八一
一
年
六
月彼は
.
「
日
本に
お
ける
鰭鰻と
葬式+
並び
ぬ
「
蝦
夷志+
二
審の
英繹を
法
ら、
そ
れ
か
ら一
年
溌ゝ
ぬ
中に
度し
た。
時
に一
八一
二
年
二
月
九日
で
ある
。
日
蘭貿易の
退潮時代に
骨ト
、
チ
チ
ン■グ
が
束印度合歓の
究め
に
沸つ
溌
毒力は
、
そ
れに
相督する.だ
け
の
効果を
得を
か
つ
た
ともい
へ
よ
う。
然し
な
が
ら日
本を
欧洲に
岸介し
、
欧洲を
日
本に
紹介し
溌
功頼に
つ
い
て
は
何人も之
を
否定する
こ
と
は
出蒸
せい
。
不
幸に
し
て
彼の
著述の
■中生前に
出版に
な
つ
充
は、
前に
も述
べ
溌
通ら
一
。七
八一
年、
バ
ク
ビ
ヤ
協骨報告第三
紅
あ
る
二
篇に
とゞ
せ
ら、
そ
の
他は
皆死
後に
刊行さ
れ
た。
そ
れ
等が
チ
チ
ソ
グ
の
原稿通らで
あ
る
かへ
出版者に
よ
つ
で
勝手を
重厚が
加へ
ら
れて
居らはせ
ぬ
か、
充分
論議の
餞地
が
あ
る。
(
一
)
由の
醸造
醤油の
醸造
汐弓
監富喜ロ■
計
琶打
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2
表口
計
量P
(
弓胃F
邑】
i
毒口
召ロ
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各
署{
等-
琵琶F
¢①
ロ0
0
訂
各省
畠ロ
R亡
日伊
訂n
昌
宅
告監C
F
名句
昌・
H古①
ニⅠ
}・
出
監
彗ダー
諾-
・
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(
二)
・
蝦夷志
■
茅息祭日
d①
-
苧
冒①
宗。
邑告告
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遥昌已琵
琶
㌢づ・
(
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霊
3 9
く○
葛篭Ⅷ
一
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一
対舛Ⅰ
く一
句
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四)
-
‥空中)
イ
ザー
ク・
チ
チ
ン
グ
8 0 Ⅰ
ハ
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,一
橋
静
養
第一
巻
第六
牧
草行本に
あ
ら
す。
追加罵本九三
九七.を
見よ
。
(
三)
日
本に
お
け
る
婚虚と
葬式
附囲
一
冊
パ
■リ
ー、
■
ア
・
子
プ
ー、
二
八一
九各
町
ノ
Cかー
・
中
臣
邑霊
邑蒜悪
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遥昌
で弓
訂
呂
邑品悪
①
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与ト
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邑-
-
革も什
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A.
り
訂七
宝亡
こ00
一
軍
出版
者子
ブ
ー
の
緒言に
よ
る
と、
彼は
チ
チ
シ
グ
の
盆前その
飛澤に
な
る
日
本王
代一
髪、
将軍
家譜等の
出版
に・づ
き
交
、渉を
受けたこ
と
が
あ
る。
一
八一
八
年チ
チ
ン
グ
の
遺品
多数を
購入
し
たこ
と
を
誇と
し、
その
一
部を
出版
する
旨を
述べ
、
次に
彼が
買入
れ
たチ
チ
ン
グ
の
遺品目
録を
載せ
て
ゐ
る。
本文は
特種と
葬式及
び
瞥
倉の
部と
よ
り
成り
パ
ケの
あ
とに
圭
一
秒
と
その
泰明
卦弘法大
師に
閲する
記
事、
太宰容量撰
古文孝摩の
序文
の
瞬詳が
あ
る。
最初に
出版せ
ら
れ
ただ
け原稿
lが
よ
く
整理せ
ちれて
ゐ
た
もの
と
考へ
ら
れ
る。
追加
完本
九三
九
七及び
九三
九〇
を
見よ。
附囲は
彩
色入の
銅版
園
十九
改む
牧心
。
(
四)
歴代牌
慧肝
ア
ペ
ル
・
レ
ミ
ュ
ザ
一
枚訂・ 、
パ
ク
ト、
ア
. ・
子
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ー、
一
入
二
〇
年刊∴
冨㌢訂
玖
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悪故
弓-
p
d
冒邑訂-
唐戸
邑①
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品。
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・
冒書か
室町
。
計扱
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霊
①t
冒-
乱
邑琵望ロ①
ロ故
習H
A
訂-
拙か
2
宏監・
評ユm
、
A.
け
訂巧
言亡
こ00佃
戸
・
.出
版
者津
は
前に
同
じ。
校
訂者レ
ミュ
ー
ザ
ー
の
序文に
、
チ
チ
ン
ダ
ほ
本書の
原本を
示
して
ない
か
ら(
自
分ほこ・の
爾
∵繹め
正
確さ
姦明
する
方
法が・ない
。
成る
べ
~原文の
誉出版
する
積で
は
雪た
が■、
著居め
伊憩齢
鰍酪だ
ら
軌で
、
普通の.
訂正で
は
重
く不
充
分
なの
で、
壷文
を書直し
た
場合が
ある
主芸て
∵
ゐ
賢か・ゝ
る
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宜はレ.
、
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ず
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..葛
J
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1
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か
ら
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‥
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と
り
て
は
甚だ
迷惑で
あ
るひ
チ
チ
ン
グ
は
除か
し
地
下で
盾を
聾め
たで
あ
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七
シ
ー
ボ
ル
ト
が
レ
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ザ
1
と
ク
ラ
ッ
プ
て■
ト
と
を
叱
咤
して
「
不
法在
る
遺
産楷承
者+
と
言つ
た
は
別
望息
味で
参らう
が、
チ
チ
ン
グ
遺
著校
訂者と
して
の
両
人
に
封し
、
.自分も亦
好感が
持て
ぬ。
愈敢に
は
長
崎の
和
蘭商館及彷
支
部
商館の
挿童と
説明と
を
揚げ
、
次に
本文
町
入
斗
秀吉か
ら
十一
代
家斉
将軍
まで
の
事件
を
述べ
、
幕府の
年中行事
、
ノ
五
節句
及伊
予
蘭盆抄
詮
明
む
以て
経
見
附録と
して
、
日
本の
.目
方と
尺
度、
歌論数首
、
年の
直分
、
朝
腹の
仕法の
四
篇を
添ふ■一
。
銅版彩色丸め
挿
檜四
菓あ
少。
追加
象本
一
八T
0
0
を
見よ
。
(
各
日
本国合
フ
レ
デ
リ
ッ
ク・
シ
ョ
ーバ
ー
ル
英層
ロ
ン
ト
ン、
ア
ー
ル
・
ア
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ル
マ
.
キ一
八
二
二
年
刊■
一
戸賢邑。
渾。
:葛戸
冒邑巴
阜■
昔日
臣¢
句
謡口
早b
叫
句
溝邑Q
夢b
訂ユ.
、
ど息○
ブ
ザ
AO
打①
H
ロ9日ロ
ー
ー
00
畑
野
二
部に
分
れ、
第一
部は
(
二)
、
第二
部は(
この
英課で
ある
。
(
こ(
二)
が
オ
ク
タ
ー
ボ
版で
ある
に
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し、
こ
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ォ.
-
†
版で
、
彩色入
.の
挿董十枚は
原
本よ
カー
壁止
沢で
あ
る。
チ
チ
ン
グ
が
生
前マ
ー
ス
デン
に
寄せ
た
英澤木が
ある
に
拘
は
ら
ず、
そ
れが
まだ
世に
知ら
れ■億か
つ
た
と
見え
、
シ
ョ
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バ
ー
ル
が
彿文か
ら
翻詳し
たこ
と
は
如何
に
為残念だ
. 。
さ
り
なが
ら、
■シ
ョ
ーバ
ー
ル
の
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用
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つ
た
こ
と
ほ、
レ
ミ
ュ
ー
サー
の
序文
中チ
チ
ン
グ
の
俳文の
拙劣さ
を
遊べ
み
二
簡を
省い
たの
で
分る
。
徹同
人の
小
序に
「
チ
チ
ン
グ
の
才能は二
か
ら
十まで
腱観たる
商業の
支
配
下に
あ
つ
たの
で
は
な
い。
か
ゝ
る
人が
如何■に
多く欧洲■の
美術及び
科挙に
封する
日
本人の
興味を
増
進し
たか
、
吾人は
そ
の
茸例を
著者に
お
イ
ザ
一
夕・
チ
チ
ン
グ
払3 .
24
}
橋
論
叢
第一
巻
第六
軟
い
て
見る+
、
と
ある.
の
は
適評
とい
ふ
ぺ
をだ
。
(
六)
日
本の
特徴
二
冊
.入
〆
ラ
フ
…
Tグ
、
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ー・
てフ
ル
ト
未亡
人
二八
二
由、
二
五
年刊
空音O
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計り
訂計ロ
.〇
宕H
J
名賀
・
柑
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濡-
①
ロ・
す曾当昌F
品乎
£
計
宅且占
弓¢
十
七-
邑F
こ00
筐1-
加"
声
(
五)
の
蘭詳で
、
その
第二
部を
第一
食に
、
第一
部を
琴
哀に
牧む
。
巻首に
繹者の
小
序、
立た
諸所に
評者の
底注が
挙る
が、
氏名を
記
し
芸い
。
オ
ク
タ
ー
ボ
版で
彩色入
挿董の
数も
四
故に
減じ
て
やる
が、
第
毒の
扉の
ビ
三ブ
ト
漑
高砂の
島
墓、
第二
巻の
そ
れに
衣
桁に
懸けた
小
袖と
只
桶む
彩色入
に
心て
出して
あ
る
の
は
宜い
息
付だ
。
(
七)
日
本三
代一
層
ク
ラ
ッ
プ
p
.-
ト
校訂
バ
リ
ー、
一
八三
四
年刊
ヨ勺
昌○
冒:
t
乱
昌ロ
ー
。
コ
Aロ
邑悪
d
悪
出
臼勺①
苫
弓切
dロ
J
葛?P
R
当日
一
言m勺
ぶt
か
①
:○
邑gか
勺
甥J
・
内-
遥
邑F
訝
昇-
00∽
再
校
訂者ク
ラ
ッ
プ
ロ
ー
ト
は
序文に
お
い
て
チ
チ
ン
グ
の
嗣詳の
不
完全
なこ
と
を
指
摘し
、
彼は
原
本王
代一
党が
書か
れて
あ
る
日
本
譜及
び
支部
語を
知
ら
ない
。
通澤と
して
和
蘭商館に
附属して
ゐ
る
通詞
特に
助手
を
見
出し
た。
そ
の
主な
る
は
青堆幸作
・
檜林寺兵
衛・
樹
林重兵
衛の
三
人で
、
彼等が
原
昏の
内容を打
頭骨
説明
する
庸
を、
.彼は
蘭語で
筆記し
た。
こ
ん
な
風に
して
出
来た
爾澤が
不
正
確不
充
分で
掛る
こ
と
は
言ふ
迄
も
な■
い。
況ん、や
出島嵐静の
通■
詞は
聾者で
な
くて
、
畢な
各
通辞に
過
ぎ
ない
。
内
裏の
歴史の
起原等に
ウ
い
て、
自分逢に
本町
の
多ぐの
鄭を
看過
して
し
ま
う臥
は
自殊で
、
従つ
て
内
容に
つ
い
て
充
分知
識を
持た
ない
文
章を
、
鈴少
上
手で
む
ない
外囲静で
囁詳する
ひ
だ
か
ら、
■そ
町
飛澤は
無
傾
聴で
ある
と
明
言して
ゐ
る。
レ
ミ
ュ
ー
ザ
ー
と小
ひ、
∴
ク
チ
ッ
プ
アー
ト
小
ひ、
■療分
靡評
を
下し
た
もの
ガ。
ク
ラ
ッ
プ
炉
-
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l
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1し。
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‥-
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∃
∴
「・
け・
・
叫.一.、
一
】
ト
の
遺
書目
録を
見る
とチ
チ
ン
グ
の
草稿が
若干
あ
り、
ま
たチ
チ
ン
グ
の
遺品で
あ
ら
う
と
想
像せ
ら
れる
地
国籍本類が
彼
此
見える
。
現
に
大
英博物館所蔵の
チ
チ
ン
グ
囲係島本軒
、
四
鮎は
明
か
忙■ク
ケタ
ブ
ロ
ー
ト
蓄
蔵本と魯る
。
然ち
ぼ
彼
¢
研
究の
一
部はチ
チ
ン
グの
草稿ま
た
ほ
将来品把
負ふ
所が
あつ
たの
で
はな
い
か。
■非難す
る.よ
りも
寧ろ
感謝すべ
き
位
軍
収
あ
る
の
で
は
ない
か。
同
じ
序文
の
中に
一
八
〇
七
年八
月
七日
附で
チ
チ
ン
グ
か
ら
浮木三
代一
覚な
蕎麦朽木
昌綱
に
献じ
た
彿安め
書状が
ある■。
こ
れ
と
同一
の
英文の
書状で
追加富木九三
九
三に
ある
もの
を1
ボ
ツ
ク
サ
ー
氏
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ン
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