ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――...研 究 論 文 4 〉 「 種 の 論...

9
ドゥルーズ哲学から見 はじめに――田辺哲学の”メタフィジックス” 『思想』は、二〇一二年一月号に「田辺元の思想――没後五〇 五〇年」なのか。それ以前でも、「田辺哲学とは何か」あるい 哲学が「我が国に於ける最初の科学哲学であるだけでなく、我 いふべきである」(T―二/664―665)と書いていた。下村の最大 う。 のおけるものだった。ところが、晩年の科学の”メタフィジッ クス〔=形而上学〕”については、当時も今も自然科学者は沈 ズ哲学を用いて、”科学のメタフィジックス”、就中”「種の論理」 68

Transcript of ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――...研 究 論 文 4 〉 「 種 の 論...

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〈研

「種の論理」におけるメタフィジックス

ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――

一 はじめに――田辺哲学の”メタフィジックス”

『思想』は、二〇一二年一月号に「田辺元の思想――没後五〇

を迎

えて

」と

いう特

を組

んだ。

し、

なぜ今

ら「没後

五〇年」なのか。それ以前でも、「田辺哲学とは何か」あるい

『『種

の論

理』

は何

か」

いう問

いを

検討

きっ

かけ

った

ずだ

。あ

えて

「没

後五

年」

の特

を組

むの

は奇異

る。

何ら

かの作

為を

感じ

のは

、筆者

けだろ

うか

。ま

た、

「種

の論

」研究

いて

は、敬

て遠

ざけ

れてき

た感

もあ

る。

こに

も近

代日

本哲

学、

特に

京都

学派

研究

の怠

か偏向

が見

る。

しか

「種

の論理

」研

で最

も遅

れて

いるの

が、科

学的

プロ

ーチで

る。

村寅

は、「

田邊元

全集

第二

の解説

で、

田辺

の科

哲学が「我が国に於ける最初の科学哲学であるだけでなく、我

森 村  

が国

の哲学

が始

めて

学そ

のも

のの根源

的動

機に到

し。純

に理

哲学

を創

た歴

的意

をも

つ記

的業

る。

これ

は確か

に我

の学問史

、否

、我々

の精神

の事件

いふべきである」(T―二/664―665)と書いていた。下村の最大

賛辞

もかか

わら

ず、田

の科学

哲学

は正

に評

れて

こな

った。

これ

も、近

代日

本哲

学研

究の怠

慢で

ある

いえ

う。と

いう

も、

田辺

の初

期科

学哲

学は

、当時

の自然

科学

者た

から評

されて

いた

らだ。

の科学

史研究

は、学問

に信

のおけるものだった。ところが、晩年の科学の”メタフィジッ

クス〔=形而上学〕”については、当時も今も自然科学者は沈

を守

り続

けて

いる。下

村で

ら、田

辺の後

期哲学

を理

解し

ると

いがた

い。

だ筆

は、

”補助

”と

して

ゥル

ズ哲学を用いて、”科学のメタフィジックス”、就中”「種の論理」

68

Page 2: ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――...研 究 論 文 4 〉 「 種 の 論 理 」 に お け る メ タ フ ィ ジ ッ ク ス ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――

”を

る仮

る。そ

「幾

「多

いう

。筆

る作

ると

『内

(intensive Grosse)」概念に注目し、コーヘンの〈微分の哲学〉

「無

「多

、「持

ドゥルーズも、ベルクソンから『強度=内包量(intensite)」

「多

「持

いだ

の恣

い。

って

い田

る。

本稿では、田辺が「種の論理」を

”メタ数学的・メタフィジ

カルに(メタ物理学的に)”基礎づけようとしたことを明らか

にす

る。第一に、「種の論理」

が連続体という数学的構造を持

つことを指摘する。第二に、「種の論理」が力のダイナミズム

を背景にして

いることを確認し、第三に、「力学の哲学」がラ

イプユッツの「内包量」概念と繋がることを明らかにする。以

上から、ライプユッツ・ベルクソン・田辺・ドゥルーズが”「多

様体」概念をめぐる異端的系譜”に属することを確認する。最

後に、「種の論理」が新しい社会存在論の可能性を開示するこ

とを付言する。

二 「個

「種

いう

「連

「種の論

理」

論考

と同時

期に

科学哲

学論

を書

いて

る。「数

卜哲学

ノ関

係」(

一九三

四)、「思

想史的

に見

る数学

の発達」(一九三六)、『哲学と科学との間』(一九三七)〔特に、

第五

論文

「量子

の哲学

的意味

」(一

九三

七)、

六論

「古代

の質

概念

現代

理学」(

一九三

)〕、「物理

と哲

学」

一九

七)

る。こ

が重要

なの

は、

辺の

科学

的思

のな

かに

、「種

の論理

」 へ

と生成

る要

が見

てと

るか

だ。「

史的

る数学

の発

達」

で田

は、独

数学

史観

に基

いて

、「種

の論

理」

”メ

タフ

ィジ

ルな基

づけ

与えている。田辺は、古代ギリシア幾何学を「サブスタンスの

69 1 「種 の論理」におけるメ タフィジックス

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学」、近世

数学

「ファ

ンク

ショ

ンの数

学」、形

主義

数学

(集

合論

「メ

カニ

ズム

の数学

と位

づけた

。こ

の流

のな

で、数学は一九世紀に「連統体(性)の問題」という危機を迎

る。

して、

「連

続体

性)

の問

題」

そ、田

が数理

ら社

と大

きく

を切

るき

っか

った。

田辺

は、「社

会存

の論理

」(

一九

三四

)で

、数

学基

礎論

の観

から連

の無

限性

を取

り上

る。「種

の論

と対

る個

の論

は、自

を否定

る自

を自己

の本質

る個体

の論

ある

。『個

は自

己自

うち

に有

無肯

の対

るも

であ

から、

対立

る反

方向

の統

を含

的限

を一

次元

ば少

くと

も二

次元

の統一

をな

す」

(T―六/109)。田辺によれば、個とは種を基体としながら、種

を否定

種と対

する。

さらに

、田

辺は

、ま

ず種

を一

次元

的連

して考

えた

。種

と連

続す

る個

もま

た一

次元的

る。

かし

は自由

を保持

いる

から、

基体

とし

ての種

や、自

も否定

する自

由を

持つ

こと

にな

る。

れゆえ

個は

、種

ら独

るた

めに種

を否定

、種

と対

する

こと

から、

種の連

つこ

がで

るので

る。

つまり

は、種

に対

して否

的で

ゆえに

、二

次元

存在

られ

る。

こう

て個

は、

定/

定、

存在/

存在

=無

いう対

立を

二次元

に統一

る存

いうこと

がで

る。し

かも

個は基

体で

る種

を否

し、

から分

離対

立す

るこ

とに

って自

立的

に種

から独

る。

かし個

は、

種か

ら離

れて

は存在

しえ

い。

ぜな

ら、種

は個

基体

らであ

る。

つま

り、種

と個

はそ

ぞれ

一次元

に存

する連統

であ

が、種

と矛盾

・対

立を抱

えた個

が自

発的

な自

を持

つこ

とか

ら、

個は基

として

の種

から独立

、種

と対立

るをえ

い。

れゆ

え個

とは、

矛盾を

二次元

に統一

在と

いわ

なけ

れば

なら

い。

、連

続体

る個

の独立

いて、『今日

の直

〔ブラ

ワー

の直

観主義

の数学基

礎論

にお

いて、

一次元

の要

る実数

が我

と汝

の多

次元的

統一

に相当

るごと

解せ

られ(

略)、

わゆ

る極

限要

はそ

の属

る体系

の限定

終末

として

はその体

の有

する

と同

じ次元

を有し

がら、

かえ

って体

の始源

るは

れの含

む多次元

に由来

るよう

ので

る。種

に対

る個

のもつ意

もかか

るも

のでな

けれ

らぬ」(T―六/109)と語っている。田辺によれば、個は一次元

的連

の要

して

する

ので

く、「我

と汝

の多

次元

一」

であ

る。個

が多

集ま

るこ

とによ

って、

連続

体と

して

の種

が成

り立

ので

い。個

が多

次元

ること

によ

って、

種と

いう連続

体も多

次元

へと高

めら

れる

のであ

る。個

は類

・種

の要

素に

ぎな

いが、具

的に

は個体

あり、

それ

は存在

と非

存在

の直接

統一

ほか

なら

い。

それ

ゆえ個体

は、

が体系

の一

次元

であ

のに対

して

それ自身

で二

次元

であ

ると

いわ

ので

る。

らこ

そ個

は、「種

の一

次元

的体

を二

次元

の契

機と

して

き立

に高

め、

れに新

る意味

賦与

る」

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(ibid.)のである。ここで重要なのは、田辺が、個と種の関係

がダ

イナ

ズム

を持

つこ

と、

つまり

の内

な力

の対

立・競

を視野

に入

れて

いる

こと

だ。

三 「種

の論

る力

――”メタフィジカルな”基礎づけ

は種

と個

の対

に力

学的

な力関

ち込

、「種

の論

理」

”メ

タ物理

の領域

へと移

がら基礎

づけ

る。田

によ

ば、形

主義数

は、

それ

「メカ

ズム

の数学

」に留

って

いる

めに、

一次元

な連続

とし

て要

の一次元

系列

を形

する

とか

ら、形

に把

こと

はで

が、

主義

のよ

に、〈個

が種

の肯定

も否

も可

能で

る〉

う自

選択

の可

能性

基礎

づけ

るこ

がで

い。

ゆえ、

主義

、個

の二

次元

性を考

られ

ず、

次元

な個

によ

連続

を捉

ること

がで

い。

それ

ゆえ田

よれ

ば、運

の立場

に立

「メ

ニズ

ムの数

」で

、複

な力

の複

合・対

説明

るこ

はで

い。

から

こそ

、「ダイ

ナミ

ズム

の数学

」が要

れた

いって

い。

「ダイナ

ムの数

学」

として

の直

主義

数学

、「或

る一

かう

る方

と同

に逆

方向

が張

る」「連続

の本質」を捉えることができる(cf.T-六/136-137)。ここで田

いう「ダイ

ミズ

ム」と

は単

る「運動

の立場

」では

なく

「力

立場

こと

に注

しよ

う。

れば

、運動

のの

を捉

る際

に、

一方

に動

重(einfach)

の見

方を

る。

たと

え反

対運動

が生じ

ても、

の方向

の運動

して

一重

に捉

える。

しか

し田

よれば

、運動

の立場

では力

を捉

るこ

ができ

い。運動

の立場

は、運

を記述

する

のに

役立

つ量

とし

ベクト

を考

えて

いるに

ぎな

い。

つま

り、

ベクト

ルは

「大

さと方向

とを統

するに止

る」

が、

ベクト

では力

の複合

や現勢

されな

いまま

に留

る不

可視

の力

を捉

こと

きな

い。

ころ

が力

とは

、「順

いふ

もの

が一

緒にならなければ考へられない」(T-五/137―138)。「力となると、

どう

も順

いふ

もの

一緒

つか

れば

らな

い」(ibid.)。そして種としての連続体は、「二重の反対の方向

の統

一』で

あり

それを捉

るため

には

「ダ

イナ

ミズ

ムの力

一」

が必要

なる。

種や個

を支

る力

は、

いに対立

「方向

を持

つだ

けで

く、「量

つ。

ろん、

と大

さを持

つベク

ルでも

、力

を考

える

こと

はで

きる。

ただ田

は、

ベクト

ルが一八世

「メカ

ニズ

ムの数学

」に立

つ限

り、

運動

は捉

られて

も、そ

の背後

に働

「力

の場」

を捉

えき

こと

はで

きな

いと考

えた。

「種

論理

世界

」(

九三

降、

辺は

種と

ての連

体の根拠

づけのた

めに

、力学

的概

念を用

いな

”メ

タフ

ィジ

カル(

メタ物

理学的

)に”基

づけて

いく。「論

の社会

存在

的構造」(一九三

六)では、田

は「テ

ンソ

ル量

う概念

を使

って、種

の間

に働

の交互

作用

を説明

る。

クス「種 の論理」におけ るメタフィジ ヅ7囗

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、”

タ数

”立

て「種

「力

い。

「方

「力

いて

を繰

的/身体的(physical)な現象を、”メタフィジカルな”「種の

が試

、物

”メ

「力

、「

る実

ル量

”メ

る。

(einfach)な「

」概

、高

の「

ル量

「静

の均

が維

、「力

が広

『極

しては抑圧せられる激動の直接統一」(T- 六/316)が存在して

”メ

、「

して「力」の「強度=内包量(intensity)」が生ずる事態をも

「力

四 

「多

-ライプエッツ・コーヘン・ベルクソン・ドゥルーズ

「微

「力

「真

の」である(T―五/138)。田辺によれば、「内包的」とは全体(=

)を

、下

は『

むもの、すなわち性質をもてる一として、量的一でなく質的一

(intensif)

intentio

(intensif)とはinextensum(inextnesif)を意味し、さらに

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infinitensima一と同義に解された。かかる意味での内包量がま

さしく『無限小』、『微分』と呼ばれたのである」と語っている。

、「

なく無限小の積分として解されねばならない(cf.S-七/139)。

「微

「内

る。

、コ

〈微

ライプニッツの「無限小」概念を経て、「強度=内包量」概念

「強

、連

(性

「切

」論

る。

〈微

。「

い。

い極

の可

「微

内包量的原理」(T―六/344)は田辺には不十分なものである。

、コ

〈微

〉か

”メ

ンを

におけ るメタフィジ ックス「種の論理」73

ンや田辺へと至る”「多様体」概念をめぐる異端的系譜”を仮

の系

「多

が、「無

「微

”化

、『純

る。

の系

る。

、「

”メ

”が

、ド

の交

ン哲

「純

み替

、連

、「純

ベル

「純

、「た

って

る。

る変

が継

の変

が互

ドゥルーズは、「純粋持続」を『多様体(multiplicite)」とし

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としての多様体という二つの多様体を区別した。「重要なのは、

〔空間と持続の〕混合したものの分解が《多様体》の二つのタ

イプを私たちに示すということである。そのうちのひとつは空

間によって(あるいはむしろ、あらゆるニュアンスを考慮に入

れるな

らば、均質的な時間の不純な混同によって)表象される。

それは外在性・同時性・並置・秩序・量的差異・程度の差異の

多様体であり、すなわち非連続で現勢的な数的多様体である。

もうひとつのタイプは純粋な持続として存在する。それは継起・

融合・組織化・異質性・質的区別または本性の差異の内的多様

体であり、すなわち数に還元不可能な、潜勢的で連続的な多様

体である」。確かに連続体は、「多様体(=集合)」を表すもの

としては伝統的な語彙の一部にはなっていない。しかしリーマ

ンの「多様体」概念は、

ベルクソンのみならず、田辺に引き継

がれ、ドゥルーズにまで到達している。これら哲学者は、自ら

の立場で、「多様体」概念を用

いて自らの哲学を構築している。

この

”事実”を、私たちは無視するべきではない。いい過ぎを

恐れずにいえば、彼

らに共通なのは、「多様体」概念を活用し

ながら、新しい

”メタフィジックス”を構築していることなの

だ。

五 

おわりに

――「種の論理」から新しい社会存在論に向けて

「種

の論理」の難しさは、田辺

”メタフ

ィジカルな思考”

に起因する。田辺は、複数の専門領域を横断しながら、説明ぬ

きに諸概念を複合させていく。プラトンの「質料」を説明する

ために「テ

ンソル量」という物理学用語を用いなければならな

かったし、種と個との対立を説明するために、力が様々に交錯

する「力の場」を、プラトン『ティマイオス』篇の「錯動原因」

と比較する必要があった(cf.T―六/316)。田辺にとっては、

古代哲学と現代物理学を両立させ、互いの概念を重ね合わせて

いく必要

があった。な

ぜなら、「種の論理」は、まったく新し

い社会存在論でなければならなかったからである。

私たちは、社会が不可視の力の対立。均衡によって成り立っ

ていることに気

づかない。私たちは、社会が物理的力の複合で

成り立って

いることを自覚しない。それゆえ私たちは、個の存

在から、基体としての種、種と種との対立や協働に基づく類を、

具体的にかつ原理的に説明する

”論理”を構築していないとい

ってよい。少なくとも田辺には、そのように見えた。だから田

辺は時空を超えて交錯する思想を凝集させ、個や種からなる社

会を

”メタフ

ィジカルに”基礎づける「種の論理」を考えた。

田辺にとって、たとえそれが天皇制に基づく社会存在論であっ

たとしても、国家を含めた社会存在論の構築が焦眉の急であっ

たからだ。悪化していく時代のなかで、田辺

が実践哲学を

”メ

タフィジカルに’構築しなければならなかったことを、私たち

は想像することすら難しい。しかし私たちは、田辺ほど社会や

国家を

”メタフィジカルに”思考しえて

いるだろうか。

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、『千

ー』

、「動

(agencement)」

「寄

(assem

blage)]

い社

、人

「寄

、「種

い形

(1) 『思想

』の対談

「田

辺元

の思

想」で、

杉村靖

彦は

「歴史

的・哲学

史的なアプローチ」に言及している(「(対談)田辺元の思想」『思想』

二〇一二年一月号、一〇五三号、岩波書店、一〇―一一頁)。しかし

問題

は「京都学派

」に対す

る「歴史的

・哲学史

的なア

プローチ」

はなく。形而上学的ア

プローチであ

る。

(2) 以下、『田邊元全集』

からの引用に

ついて、括弧内

に斜線

を挿んで

巻数を漢数字で頁

数を算用数字で示

す。

(3) 物

理学者石原

純は、一高

時代、田

辺と同

学年で

あり、田辺

が東北

帝国

大学理科

大学講師

の時代に

科学の識論

をして

いた。田辺

が書評

を書

いた

こと

のあ

る桑木

或雄

も石原

も、田

辺の科

学論を評価

して

る(西尾成子『科学ジャーナリズムの先駆者・評伝石原純』岩波書店、

二〇

一一年、二三六頁参照)。本稿

では、当時の物理

学史的

背景は割

愛して

ある。

(4) これまで、筆者は下記の論文を発表している。森村修「田邊元の『多

様体の哲学』(1)――「多様体の哲学」の異端的系譜(1)」(法政大

学国

際文化学

『異文化

』九、二〇〇

八年)、森

村修「多様

体と微分

法-

田邊元

の「多様体

の哲学

」(2)-

「多

様体の哲学」

の異

端的系

譜(2)」(『異文化』 一〇、二〇〇九年)、森村修「G・ドゥルーズの

『多様体

の哲学』(1

)―「多様体の哲学」

の異端的系譜(3)」(『異

文化』 一二、二〇一一年)、森村修「フッサールの『多様体の哲学』

(1)―『多様体の哲学』の異端的系譜(4)」(『異文化』 一三、

二〇一二年)。

(5

) 林はブラ

ウワーの直観主

義数学と

「種の論理」と

の関係

につ

いて

詳述している(林晋「『数理哲学』としての種の論理――田辺哲学テキ

スト生成研究の試み(一)」京都大学日本哲学史研究室『日本哲学史

研究』第七号、二〇一〇年、五四―六一頁)。

(6) 本稿は、「連続(体)の問題」

の重要性に

ついて触

れないので、こ

の点

ついて拙論

を参照

せよ(森

村修

『田邊

元の「多

様体の哲

学」

(1

)-

「多様

体の哲学」

の異

端的系譜

(1)」法

政大学国際文化

『異文化』九、二〇〇

八年)。

(7) 「連続体(性)の問題」は、デデキントの「切断」論との関係で

田辺にとって璽要な問題である。田辺は『数理哲学研究』(一九二五)

のなかで、「連続体(性)の問題」とデデキントの「切断」論に触れ

いた。田辺哲学

と「切断」概念

ついて、前

注の拙論と林論

文を

照せよ。林

は数学

史研究

から、田辺哲学

と「切断」概念

との関係

を指摘

して

いる。

(8) 嶺秀樹は、「種

の構造

」を「テ

ンソル量的力

の場」で説明す

ること

に否定的である(嶺秀樹『ハイデッガーと口本の哲学-和辻哲郎、

九鬼周造、田辺元』ミネルヴ

ア書房、

二〇〇二年、二四九頁)。

(9) 『下村寅太郎著作集ニフイプニッツ研究』第七巻、みすず書房、

一九八九年。以下、Sと略

し、斜線

の前に巻数を漢数字であらわし、

斜線の後の算用数字で頁を表記す

る。

(10) 田辺

の弟子・田中省

三は

『コ

ーヘ

ン』(一九四〇)

で、「外延最

な連

続に対

し、内包

量的な連

を、量的連

続に対

し、

性質的

連続、

思惟

の作用

の連関を一次的と考

えんとするコーヘンの連続論」が『專

ら外延

量的に単に対象

的、客観的

なも

のとしてでなく、作用

的、

クス「極の論理」 におけるメタフ ィジツ75

Page 9: ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――...研 究 論 文 4 〉 「 種 の 論 理 」 に お け る メ タ フ ィ ジ ッ ク ス ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――

注目すべき深い思想を含むといってよいであろう」(田中省三『コー

ヘンとの関係について、拙論を参照せよ(森村修「多様体と微分

1 1)E

Bergson, Essai sur le donnis immediates de la conscience, 1889

(竹内信夫訳「意識に直接与えられたものの試論」「新訳ベルクソン

1 2

) 

て、田辺は「種の論理」の”メタフィジカルな基礎づけ”に用いて

1 3) G

Deleuze

Le Bergsonisme, PUE 1966

, p

.30-

1 4) Cf

Deleuze

ibid

., p. 3

1 5) M

DeLauda, A New Philosophy of Society

ss

em

lag

 T

heo

ry

 a

oc

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l C

lex

ity

, C

tin

uum

, 20

76