ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――...研 究 論 文 4 〉 「 種 の 論...
Transcript of ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――...研 究 論 文 4 〉 「 種 の 論...
〈研
究
論
文
4
〉
「種の論理」におけるメタフィジックス
ドゥルーズ哲学から見た田辺の実践哲学――
一 はじめに――田辺哲学の”メタフィジックス”
『思想』は、二〇一二年一月号に「田辺元の思想――没後五〇
年
を迎
えて
」と
いう特
集
を組
んだ。
し
か
し、
なぜ今
さ
ら「没後
五〇年」なのか。それ以前でも、「田辺哲学とは何か」あるい
は
『『種
の論
理』
と
は何
か」
と
いう問
いを
検討
す
る
きっ
かけ
は
あ
った
は
ずだ
。あ
えて
「没
後五
〇
年」
の特
集
を組
むの
は奇異
に
見
え
る。
何ら
かの作
為を
感じ
る
のは
、筆者
だ
けだろ
うか
。ま
た、
「種
の論
理
」研究
に
つ
いて
は、敬
し
て遠
ざけ
ら
れてき
た感
もあ
る。
こ
こに
も近
代日
本哲
学、
特に
京都
学派
研究
の怠
慢
か偏向
が見
て
と
れ
る。
しか
も
「種
の論理
」研
究
で最
も遅
れて
いるの
が、科
学
哲
学的
ア
プロ
ーチで
あ
る。
下
村寅
太
郎
は、「
田邊元
全集
」
第二
巻
の解説
で、
田辺
の科
学
哲学が「我が国に於ける最初の科学哲学であるだけでなく、我
森 村
修
が国
の哲学
が始
めて
哲
学そ
のも
のの根源
的動
機に到
達
し。純
粋
に理
論
=
哲学
を創
始
し
た歴
史
的意
義
をも
つ記
念
碑
的業
績
で
あ
る。
これ
は確か
に我
々
の学問史
の
、否
、我々
の精神
史
の事件
と
いふべきである」(T―二/664―665)と書いていた。下村の最大
限
の
賛辞
に
もかか
わら
ず、田
辺
の科学
哲学
は正
当
に評
価
さ
れて
こな
か
った。
これ
も、近
代日
本哲
学研
究の怠
慢で
ある
と
いえ
よ
う。と
いう
の
も、
田辺
の初
期科
学哲
学は
、当時
の自然
科学
者た
ち
から評
価
されて
いた
か
らだ。
彼
の科学
史研究
は、学問
的
に信
頼
のおけるものだった。ところが、晩年の科学の”メタフィジッ
クス〔=形而上学〕”については、当時も今も自然科学者は沈
黙
を守
り続
けて
いる。下
村で
す
ら、田
辺の後
期哲学
を理
解し
て
い
ると
は
い
いがた
い。
た
だ筆
者
は、
”補助
線
”と
して
ド
ゥル
ー
ズ哲学を用いて、”科学のメタフィジックス”、就中”「種の論理」
68
の
メ
タ
フ
ィ
ジ
ッ
ク
ス
”を
明
ら
か
に
で
き
る
と
考
え
て
い
る
。
そ
れ
は
、
田
辺
哲
学
と
ド
ゥ
ル
ー
ズ
哲
学
を
単
に
比
較
す
る
こ
と
を
意
味
し
な
い
。
筆
者
は
あ
る仮
説
を
立
て
て
お
り
、
そ
の
仮
説
に
基
づ
い
て
田
辺
哲
学
の
メ
タ
フ
ィ
ジ
ッ
ク
ス
を
と
り
出
し
て
み
た
い
の
で
あ
る。そ
の
仮
説
と
は
、
数
学
者
リ
ー
マ
ン
が
「幾
何
学
の
基
礎
を
な
す
仮
説
に
つ
い
て
」
に
お
い
て
「多
様
体
」
概
念
に
触
れ
た
こ
と
に
よ
っ
て
、
哲
学
的
な
イ
ン
ス
ピ
レ
ー
シ
ョ
ン
を
受
け
た
哲
学
者
た
ち
が
い
た
と
いう
仮
説
で
あ
る
。筆
者
は
、
こ
の
仮
説
の
も
と
に
ぷ
多
様
体
」
概
念
を
め
ぐ
る
異
端
的
系
譜
”
を
跡
づ
け
る作
業
を
行
っ
て
い
る
。
そ
し
て
筆
者
は
、
田
辺
も
こ
の
系
譜
に
属
す
ると
考
え
る
。
そ
こ
で
注
目
し
た
い
の
は
、
田
辺
と
ド
ゥ
ル
ー
ズ
が
『内
包
量
(intensive Grosse)」概念に注目し、コーヘンの〈微分の哲学〉
へ
と
遡
行
し
、
ラ
イ
プ
ユ
ッ
ツ
の
「無
限
小
」
概
念
へ
と
導
か
れ
て
い
る
点
で
あ
る
。
ド
ゥ
ル
ー
ズ
に
よ
れ
ば
、
ベ
ル
ク
ソ
ン
に
も
「多
様
体
」
概
念
が
導
入
さ
れ
て
お
り
、「持
続
」
概
念
に
影
響
を
与
え
て
い
る
こ
と
だ
。
ドゥルーズも、ベルクソンから『強度=内包量(intensite)」
概
念
を
摂
取
し
、
哲
学
を
構
築
し
て
い
る
の
で
あ
る
。
し
か
も
田
辺
も
ま
た
「多
様
体
」
概
念
と
「持
続
」
概
念
を
重
ね
合
わ
せ
て
理
解
し
て
い
る
こ
と
に
注
意
し
よ
う
。
こ
う
し
て
田
辺
哲
学
は
ド
ゥ
ル
ー
ズ
哲
学
と
交
叉
す
る
の
だ
。
確
か
に
、
異
質
な
哲
学
を
組
み
合
わ
せ
、
接
点
や
交
叉
点
を
見
いだ
す
こ
と
は
、
筆
者
の恣
意
的
観
点
に
基
づ
く
解
釈
に
過
ぎ
な
い。
し
か
し
、
こ
う
し
た
無
謀
と
も
い
え
る
解
釈
に
よ
って
こ
そ
、
新
し
い田
辺
解
釈
が
も
た
ら
さ
れ
る
と
考
え
て
い
る。
本稿では、田辺が「種の論理」を
”メタ数学的・メタフィジ
カルに(メタ物理学的に)”基礎づけようとしたことを明らか
にす
る。第一に、「種の論理」
が連続体という数学的構造を持
つことを指摘する。第二に、「種の論理」が力のダイナミズム
を背景にして
いることを確認し、第三に、「力学の哲学」がラ
イプユッツの「内包量」概念と繋がることを明らかにする。以
上から、ライプユッツ・ベルクソン・田辺・ドゥルーズが”「多
様体」概念をめぐる異端的系譜”に属することを確認する。最
後に、「種の論理」が新しい社会存在論の可能性を開示するこ
とを付言する。
二 「個
」
と
「種
」
と
いう
「連
続
体
」
田
辺
は
「種の論
理」
論考
と同時
期に
科学哲
学論
文
を書
いて
い
る。「数
学
卜哲学
ノ関
係」(
一九三
四)、「思
想史的
に見
た
る数学
の発達」(一九三六)、『哲学と科学との間』(一九三七)〔特に、
第五
論文
「量子
論
の哲学
的意味
」(一
九三
七)、
第
六論
文
「古代
哲
学
の質
料
概念
と
現代
物
理学」(
一九三
五
)〕、「物理
学
と哲
学」
(
一九
三
七)
等
で
あ
る。こ
れ
ら
が重要
なの
は、
田
辺の
科学
的思
考
のな
かに
、「種
の論理
」 へ
と生成
す
る要
素
が見
てと
れ
るか
ら
だ。「
思
想
史的
に
見
た
る数学
の発
達」
で田
辺
は、独
自
の
数学
史観
に基
づ
いて
、「種
の論
理」
に
”メ
タフ
ィジ
カ
ルな基
礎
づけ
”
を
与えている。田辺は、古代ギリシア幾何学を「サブスタンスの
69 1 「種 の論理」におけるメ タフィジックス
数
学」、近世
数学
を
「ファ
ンク
ショ
ンの数
学」、形
式
主義
数学
(集
合論
)
を
「メ
カニ
ズム
の数学
」
と位
置
づけた
。こ
の流
れ
のな
か
で、数学は一九世紀に「連統体(性)の問題」という危機を迎
え
る。
そ
して、
こ
の
「連
続体
(
性)
の問
題」
こ
そ、田
辺
が数理
哲
学
研
究
か
ら社
会
哲
学
研
究
へ
と大
きく
舵
を切
るき
っか
け
と
な
った。
田辺
は、「社
会存
在
の論理
」(
一九
三四
)で
、数
学基
礎論
の観
点
から連
続
体
の無
限性
を取
り上
げ
て
い
る。「種
の論
理
」
と対
立
す
る個
の論
理
は、自
ら
を否定
す
る自
由
を自己
の本質
と
す
る個体
存
在
の論
理
で
ある
。『個
は自
己自
身
の
うち
に有
無肯
否
の対
立
を
統
一
す
るも
の
であ
る
から、
相
対立
す
る反
対
方向
の統
一
を含
み
、
一
方
的限
定
を一
次元
と
す
れ
ば少
な
くと
も二
次元
の統一
をな
す」
(T―六/109)。田辺によれば、個とは種を基体としながら、種
を否定
し
種と対
立
する。
さらに
、田
辺は
、ま
ず種
を一
次元
的連
続
体
と
して考
えた
。種
と連
続す
る個
もま
た一
次元的
で
あ
る。
し
かし
個
は自由
を保持
し
て
いる
から、
基体
とし
ての種
や、自
ら
を
も否定
する自
由を
持つ
こと
にな
る。
そ
れゆえ
個は
、種
か
ら独
立
す
るた
めに種
を否定
し
、種
と対
立
する
こと
から、
種の連
続
性
を
断
つこ
と
がで
き
るので
あ
る。
つまり
個
は、種
に対
して否
定
的で
あ
る
が
ゆえに
、二
次元
的
な
存在
と
考
え
られ
る。
こう
し
て個
は、
肯
定/
否
定、
存在/
非
存在
=無
と
いう対
立を
二次元
的
に統一
す
る存
在
と
いうこと
がで
き
る。し
かも
個は基
体で
あ
る種
を否
定
し、
種
から分
離対
立す
るこ
とに
よ
って自
立的
に種
から独
立
す
る。
し
かし個
は、
種か
ら離
れて
は存在
しえ
な
い。
な
ぜな
ら、種
は個
の
基体
だ
か
らであ
る。
つま
り、種
と個
はそ
れ
ぞれ
一次元
的
に存
在
する連統
体
であ
る
が、種
と矛盾
・対
立を抱
えた個
が自
発的
な自
由
を持
つこ
とか
ら、
個は基
体
として
の種
から独立
し
、種
と対立
せ
ざ
るをえ
な
い。
そ
れゆ
え個
とは、
矛盾を
二次元
的
に統一
す
る
存
在と
いわ
なけ
れば
なら
な
い。
田
辺
は
、連
続体
に
お
け
る個
の独立
に
つ
いて、『今日
の直
観
主
義
〔ブラ
ウ
ワー
の直
観主義
〕
の数学基
礎論
にお
いて、
一次元
連
続
の要
素
た
る実数
が我
と汝
の多
次元的
統一
に相当
す
るごと
く
に
解せ
られ(
略)、
い
わゆ
る極
限要
素
はそ
の属
す
る体系
の限定
の
終末
として
はその体
系
の有
する
と同
じ次元
を有し
な
がら、
かえ
って体
系
の始源
た
るは
そ
れの含
む多次元
性
に由来
す
るよう
な
も
ので
あ
る。種
に対
す
る個
のもつ意
味
もかか
るも
のでな
けれ
ば
な
らぬ」(T―六/109)と語っている。田辺によれば、個は一次元
的連
続
の要
素
と
して
存
在
する
ので
な
く、「我
と汝
の多
次元
的
統
一」
であ
る。個
が多
数
集ま
るこ
とによ
って、
連続
体と
して
の種
が成
り立
つ
ので
は
な
い。個
が多
次元
で
あ
ること
によ
って、
種と
いう連続
体も多
次元
へと高
めら
れる
のであ
る。個
は類
・種
の要
素に
過
ぎな
いが、具
体
的に
は個体
で
あり、
それ
は存在
と非
存在
と
の直接
統一
に
ほか
なら
な
い。
それ
ゆえ個体
は、
種
が体系
の一
次元
であ
る
のに対
して
、
それ自身
で二
次元
的
であ
ると
いわ
れ
る
ので
あ
る。
だ
か
らこ
そ個
は、「種
の一
次元
的体
系
を二
次元
の契
機と
して
新
し
き立
場
に高
め、
そ
れに新
た
な
る意味
を
賦与
す
る」
(ibid.)のである。ここで重要なのは、田辺が、個と種の関係
がダ
イナ
ミ
ズム
を持
つこ
と、
つまり
個
の内
的
な力
の対
立・競
合
を視野
に入
れて
いる
こと
だ。
三 「種
の論
理
」
に
お
け
る力
学
的
構
造
――”メタフィジカルな”基礎づけ
田
辺
は種
と個
の対
立
に力
学的
な力関
係
を
持
ち込
み
、「種
の論
理」
を
”メ
タ物理
学
”
の領域
へと移
し
な
がら基礎
づけ
る。田
辺
によ
れ
ば、形
式
主義数
学
は、
それ
が
「メカ
ニ
ズム
の数学
」に留
ま
って
いる
た
めに、
一次元
的
な連続
体
とし
て要
素
の一次元
的
な
系列
を形
成
する
こ
とか
ら、形
式
的
に把
握
す
る
こと
はで
き
る
が、
直
観
主義
のよ
う
に、〈個
が種
の肯定
も否
定
も可
能で
あ
る〉
と
い
う自
由
選択
の可
能性
を
基礎
づけ
るこ
と
がで
き
な
い。
そ
れ
ゆえ、
形
式
主義
は
、個
の二
次元
性を考
え
られ
ず、
二
次元
的
な個
によ
る
連続
体
を捉
え
ること
がで
き
な
い。
それ
ゆえ田
辺
に
よれ
ば、運
動
の立場
に立
つ
「メ
カ
ニズ
ムの数
学
」で
は
、複
雑
な力
の複
合・対
立
を
説明
す
るこ
と
はで
き
な
い。
だ
から
こそ
、「ダイ
ナミ
ズム
の数学
」が要
請
さ
れた
と
いって
よ
い。
「ダイナ
ミ
ズ
ムの数
学」
として
の直
観
主義
数学
は
、「或
る一
方
に
行
かう
と
す
る方
向
と同
時
に逆
の
方向
と
が張
合
っ
て
い
る」「連続
の本質」を捉えることができる(cf.T-六/136-137)。ここで田
辺
が
いう「ダイ
ナ
ミズ
ム」と
は単
な
る「運動
の立場
」では
なく
、
「力
の
立場
」
で
あ
る
こと
に注
意
しよ
う。
田
辺
に
よ
れば
、運動
の
立
場
は
も
のの
運
動
を捉
え
る際
に、
一方
に動
く
一
重(einfach)
の見
方を
取
る。
たと
え反
対運動
が生じ
ても、
逆
の方向
の運動
と
して
一重
的
に捉
える。
しか
し田
辺
に
よれば
、運動
の立場
では力
を捉
え
るこ
と
ができ
な
い。運動
の立場
は、運
動
を記述
する
のに
役立
つ量
とし
て
、
ベクト
ル
を考
えて
いるに
過
ぎな
い。
つま
り、
ベクト
ルは
「大
き
さと方向
とを統
一
するに止
ま
る」
が、
ベクト
ル
では力
の複合
や現勢
化
されな
いまま
に留
ま
る不
可視
の力
を捉
え
る
こと
は
で
きな
い。
と
ころ
が力
とは
、「順
逆
と
いふ
もの
が一
緒にならなければ考へられない」(T-五/137―138)。「力となると、
どう
し
て
も順
逆
と
いふ
もの
が
一緒
に
く
つ
つか
な
け
れば
な
らな
い」(ibid.)。そして種としての連続体は、「二重の反対の方向
の統
一』で
あり
、
それを捉
え
るため
には
「ダ
イナ
ミズ
ムの力
学
的
統
一」
が必要
に
なる。
種や個
を支
え
る力
は、
互
いに対立
す
る
た
め
の
「方向
」
を持
つだ
けで
な
く、「量
」
も
持
つ。
も
ち
ろん、
方
向
と大
き
さを持
つベク
ト
ルでも
、力
を考
える
こと
はで
きる。
ただ田
辺
は、
ベクト
ルが一八世
紀
の
「メカ
ニズ
ムの数学
」に立
つ限
り、
運動
は捉
え
られて
も、そ
の背後
に働
く
「力
の場」
を捉
えき
る
こと
はで
きな
いと考
えた。
さ
ら
に
「種
の
論理
と
世界
図
式
」(
一
九三
五
)
以
降、
田
辺は
、
種と
し
ての連
続
体の根拠
づけのた
めに
、力学
的概
念を用
いな
が
ら
”メ
タフ
ィジ
カル(
メタ物
理学的
)に”基
礎
づけて
いく。「論
理
の社会
存在
論
的構造」(一九三
六)では、田
辺
は「テ
ンソ
ル量
」
と
い
う概念
を使
って、種
の間
に働
く
力
の交互
作用
を説明
す
る。
クス「種 の論理」におけ るメタフィジ ヅ7囗
田
辺
に
よ
れ
ば
、”
メ
タ数
学
的
な
”立
場
で
直
観
主
義
数
学
を
用
い
て「種
の
論
理
」
を
基
礎
づ
け
て
も
、
種
と
し
て
の
社
会
の
内
部
に
蠢
く
様
々
な
「力
」
を
捉
え
き
れ
な
い。
田
辺
に
よ
れ
ば
、
社
会
と
い
う
種
も
自
由
な
個
も
、
自
ら
の
内
部
に
錯
綜
し
た
「方
向
量
」
を
持
っ
た
「力
」
を
抱
え
込
み
な
が
ら
、
自
己
否
定
・
他
者
否
定
を
繰
り
返
し
、
二
次
元
化
/
二
重
化
さ
れ
た
力
の
複
合
に
基
づ
いて
、
離
合
集
散
を繰
り
返
し
て
い
る
。
そ
し
て
、
社
会
で
生
ず
る
、
個
の
力
と
力
の
絡
み
合
い
に
よ
る
物
理
的/身体的(physical)な現象を、”メタフィジカルな”「種の
論
理
」
を
用
い
て
説
明
す
る
こ
と
に
よ
っ
て
、
新
し
い
社
会
存
在
論
を
構
築
す
る
こ
と
こ
そ
、
田
辺
が試
み
よ
う
と
し
た
こ
と
だ
っ
た
。
そ
の
た
め
に
、物
理
学
を
超
え
る
”メ
タ
フ
ィ
ジ
ッ
ク
ス
”
と
し
て
の
「力
学
哲
学
」
が
必
要
だ
っ
た
。
し
か
も
、「
種
の
論
理
」
に
基
づ
く
社
会
存
在
論
は
、
個
や
種
の
力
と
力
の
複
合
、
力
と
力
の
対
立
・
矛
盾
や
、
静
止
す
る
現
象
す
ら
も
説
明
す
る実
践
哲
学
で
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
。
そ
れ
ゆ
え
、
力
が
方
向
を
持
つ
だ
け
で
な
く
、
力
と
し
て
働
く
量
も
ま
た
重
要
に
な
る
。
そ
の
た
め
に
導
入
さ
れ
た
概
念
が
「
テ
ン
ソ
ル量
」
だ
っ
た
。
し
か
し
そ
れ
は
、
田
辺
に
と
っ
て
は
”メ
タ
フ
ィ
ジ
カ
ル
な
”
意
味
を
持
つ
「
物
理
的
量
」
概
念
な
の
で
あ
る。
田
辺
に
よ
れ
ば
、
社
会
に
存
在
す
る
力
の
働
き
や
静
止
も
、
単
一
的
(einfach)な「
運
動
」概
念
で
捉
え
き
れ
ず
、高
次
方
向
量
と
し
て
の「
テ
ン
ソ
ル量
」
が
必
要
に
な
る
。
例
え
ば
「静
止
」
は
運
動
の
消
滅
と
し
て
理
解
さ
れ
る
べ
き
で
な
く
、
そ
の
背
後
で
力
の
交
互
作
用
の均
衡
が維
持
さ
れ
、「力
の
場
」
が広
が
っ
て
い
る
と
考
え
な
け
れ
ば
な
ら
な
い
。
常
に
『極
微
的
仮
想
的
な
る
運
動
の
絶
え
ず
間
断
な
く
無
限
に
生
起
せ
ん
と
しては抑圧せられる激動の直接統一」(T- 六/316)が存在して
い
る
。
田
辺
に
は
、
”メ
タ
フ
ィ
ジ
カ
ル
な
”
力
学
的
概
念
を
用
い
て
、
力
の
方
向
量
と
し
て
の
「
テ
ン
ソ
ル
量
」
が
支
配
す
る
力
の
場
と
し
て
の
社
会
と
い
う
場
が
見
え
て
い
る
。
そ
の
田
辺
に
は
、「
テ
ン
ソ
ル
量
」
と
して「力」の「強度=内包量(intensity)」が生ずる事態をも
説
明
す
る
「力
学
哲
学
」
が
必
要
だ
っ
た
。
四
「多
様
体
の
哲
学
」
の
異
端
的
系
譜
-ライプエッツ・コーヘン・ベルクソン・ドゥルーズ
そ
も
そ
も
田
辺
に
力
の
「
強
度
=
内
包
量
」
概
念
を
提
供
し
た
の
は
、
ラ
イ
プ
ニ
ッ
ツ
哲
学
だ
っ
た
。
ラ
イ
プ
ユ
ッ
ツ
の
「微
分
学
」
は
「力
の
統
一
を
捉
え
て
」
い
る
。
彼
の
「真
の
存
在
」
と
は
「
決
し
て
延
長
的
に
広
が
っ
て
い
る
も
の
で
は
な
く
、
自
分
自
身
の
力
で
内
か
ら
発
展
す
る
も
の」である(T―五/138)。田辺によれば、「内包的」とは全体(=
種
)
が
先
に
あ
っ
て
そ
の
制
限
と
し
て
の
み
部
分
(
=
個
)
が
考
え
ら
れ
る
。
つ
ま
り
、
ラ
イ
プ
ニ
ッ
ツ
は
連
続
(
=
種
)
の
要
素
と
し
て
の
微
分
(
=
個
)を
考
え
た
。
田
辺
の
理
解
を
助
け
る
よ
う
に
、下
村
寅
太
郎
は『
ラ
イ
プ
ユ
ッ
ツ
』
の
な
か
で
『
一
の
内
に
多
を
、
し
か
も
無
限
な
る
多
を
含
むもの、すなわち性質をもてる一として、量的一でなく質的一
で
な
け
れ
ば
な
ら
ぬ
。
か
く
の
ご
と
き
も
の
が
単
に
外
延
的
な
量
に
対
す
る
内
包
的
(intensif)
な
量
で
あ
る
。
一
七
世
紀
に
お
い
て
は
intentio
(intensif)とはinextensum(inextnesif)を意味し、さらに
infinitensima一と同義に解された。かかる意味での内包量がま
さしく『無限小』、『微分』と呼ばれたのである」と語っている。
そ
れ
ゆ
え
、「
一
」
の
全
体
と
し
て
の
連
続
体
は
、
単
に
要
素
の
集
合
で
なく無限小の積分として解されねばならない(cf.S-七/139)。
さ
ら
に
、
田
辺
が
「微
分
」
と
い
う
「内
包
的
統
一
」
を
得
た
の
は
、
コ
ー
ヘ
ン
か
ら
で
あ
る。
田
辺
は
、コ
ー
ヘ
ン
の
〈微
分
の
哲
学
〉
か
ら
、
ライプニッツの「無限小」概念を経て、「強度=内包量」概念
に
至
っ
た
。
そ
し
て
田
辺
は
「強
度
=
内
包
量
」
概
念
を
用
い
て
、連
続
体
(性
)
の
問
題
や
デ
デ
キ
ン
ト
の
「切
断
」論
に
向
か
っ
た
の
で
あ
る。
た
だ
田
辺
は
コ
ー
ヘ
ン
の
〈微
分
の
哲
学
〉
を
批
判
し
て
も
い
る
。「
私
の
種
と
呼
ぶ
も
の
は
プ
ラ
ト
ン
的
質
料
で
あ
っ
て
、
自
己
否
定
を
本
質
と
す
る
テ
ン
ソ
ル
的
力
学
的
契
機
で
あ
る
。
そ
の
連
続
性
は
、
単
に
全
体
が
部
分
に
先
だ
つ
内
包
量
と
し
て
、
無
限
分
割
の
極
限
た
る
微
分
を
原
理
と
す
る
に
由
来
す
る
も
の
で
は
な
い。
如
何
に
分
割
を
進
め
て
も
達
す
る
こ
と
の
出
来
な
い極
限
は
、
最
早
延
長
の可
分
性
を
否
定
せ
ら
れ
た
も
の
と
し
て
外
延
量
の
無
で
あ
り
な
が
ら
却
っ
て
延
長
が
そ
れ
に
倣
っ
て
成
立
す
る
所
の
、
延
長
の
創
造
的
根
原
で
あ
る
、
と
い
う
意
味
」
で
の
「微
分
の
内包量的原理」(T―六/344)は田辺には不十分なものである。
な
ぜ
な
ら
、コ
ー
ヘ
ン
の
〈
微
分
の
哲
学
〉
は
「
ベ
ク
ト
ル
的
運
動
学
的
」
な
ま
ま
に
留
ま
っ
て
い
る
か
ら
だ
。
し
か
し
、
コ
ー
ヘ
ン
の
〈微
分
の
哲
学
〉か
ら
ラ
イ
プ
ニ
ッ
ツ
へ
と
遡
源
す
る
こ
と
で
明
ら
か
に
な
っ
た
の
は
、
「
種
の
論
理
」
が
”メ
タ
フ
ィ
ジ
カ
ル
な
”
思
想
の
複
合
の
結
果
で
あ
る
こ
と
だ
。
こ
う
し
て
ラ
イ
プ
ニ
ッ
ツ
か
ら
コ
ー
ヘ
ンを
経
て
、
ベ
ル
ク
ソ
におけ るメタフィジ ックス「種の論理」73
ンや田辺へと至る”「多様体」概念をめぐる異端的系譜”を仮
定
で
き
る
の
だ
。
こ
の系
譜
は
、
も
ち
ろ
ん
、
あ
く
ま
で
筆
者
の
仮
説
に
過
ぎ
な
い
。
た
だ
リ
ー
マ
ン
の
「多
様
体
」
概
念
が、「無
限
小
」
概
念
や
「微
分
」
概
念
と
”化
学
反
応
”
を
起
こ
し
、『純
粋
持
続
』
へ
と
至
っ
て
い
る
こ
と
に
注
意
す
べ
き
で
あ
る。
そ
し
て
、
こ
れ
ら
の
哲
学
を
複
合
的
に
利
用
し
た
田
辺
も
、
こ
の系
譜
に
位
置
づ
け
ら
れ
る
の
で
あ
る。
こ
こ
で
あ
ら
た
め
て
指
摘
し
て
お
き
た
い
の
は
、「
種
の
論
理
」
の
”メ
タ
フ
ィ
ジ
ッ
ク
ス
”が
、ド
ゥ
ル
ー
ズ
哲
学
と
近
接
し
て
い
る
こ
と
だ
。
そ
の
両
者
の交
叉
点
に
、
ベ
ル
ク
ソ
ン哲
学
が
あ
る
。
田
辺
は
「純
粋
持
続
」
を
連
続
と
し
て
読
み替
え
、連
続
が
そ
れ
を
構
成
し
て
い
る
部
分
へ
と
分
割
不
可
能
な
連
続
体
で
あ
る
こ
と
を
、「純
粋
持
続
」
の
理
論
に
重
ね
合
わ
せ
て
い
た
。
ベル
ク
ソ
ン
は
「純
粋
持
続
」
に
つ
い
て
、「た
だ
単
に
質
的
変
化
の
継
起
で
し
か
な
く
、
そ
れ
ら
の
質
的
変
化
は
互
い
に
融
合
し
、
互
い
に
浸
透
し
あ
って
、
明
確
な
輪
郭
を
持
た
ず
。
自
ら
を
外
在
化
さ
せ
て
相
互
に
外
的
な
関
係
を
取
り
結
ぼ
う
と
も
せ
ず
、
数
的
存
在
と
は
ま
っ
た
く
無
縁
な
も
の
な
の
で
あ
る。
そ
れ
は
、
純
粋
異
質
性
と
で
も
呼
ぶ
べ
き
も
の
だ
」
と
述
べ
て
い
た
。
純
粋
持
続
的
連
続
は
、
部
分
(
=
個
)
と
し
て
の
質
的
に
異
な
る変
化
が継
起
し
な
が
ら
、
そ
の変
化
が互
い
に
明
確
な
輪
郭
を
持
た
ず
融
合
し
、
浸
透
す
る
ひ
と
つ
の
全
体
を
形
づ
く
る
。
そ
れ
は
、
外
延
量
と
し
て
の
連
続
で
は
な
く
、
内
包
量
と
し
て
の
連
続
で
あ
る
。
ドゥルーズは、「純粋持続」を『多様体(multiplicite)」とし
て
捉
え
直
し
、
通
常
の
意
味
の
外
延
量
に
基
づ
く
多
様
体
と
、
純
粋
持
続
としての多様体という二つの多様体を区別した。「重要なのは、
〔空間と持続の〕混合したものの分解が《多様体》の二つのタ
イプを私たちに示すということである。そのうちのひとつは空
間によって(あるいはむしろ、あらゆるニュアンスを考慮に入
れるな
らば、均質的な時間の不純な混同によって)表象される。
それは外在性・同時性・並置・秩序・量的差異・程度の差異の
多様体であり、すなわち非連続で現勢的な数的多様体である。
もうひとつのタイプは純粋な持続として存在する。それは継起・
融合・組織化・異質性・質的区別または本性の差異の内的多様
体であり、すなわち数に還元不可能な、潜勢的で連続的な多様
体である」。確かに連続体は、「多様体(=集合)」を表すもの
としては伝統的な語彙の一部にはなっていない。しかしリーマ
ンの「多様体」概念は、
ベルクソンのみならず、田辺に引き継
がれ、ドゥルーズにまで到達している。これら哲学者は、自ら
の立場で、「多様体」概念を用
いて自らの哲学を構築している。
この
”事実”を、私たちは無視するべきではない。いい過ぎを
恐れずにいえば、彼
らに共通なのは、「多様体」概念を活用し
ながら、新しい
”メタフィジックス”を構築していることなの
だ。
五
おわりに
――「種の論理」から新しい社会存在論に向けて
「種
の論理」の難しさは、田辺
の
”メタフ
ィジカルな思考”
に起因する。田辺は、複数の専門領域を横断しながら、説明ぬ
きに諸概念を複合させていく。プラトンの「質料」を説明する
ために「テ
ンソル量」という物理学用語を用いなければならな
かったし、種と個との対立を説明するために、力が様々に交錯
する「力の場」を、プラトン『ティマイオス』篇の「錯動原因」
と比較する必要があった(cf.T―六/316)。田辺にとっては、
古代哲学と現代物理学を両立させ、互いの概念を重ね合わせて
いく必要
があった。な
ぜなら、「種の論理」は、まったく新し
い社会存在論でなければならなかったからである。
私たちは、社会が不可視の力の対立。均衡によって成り立っ
ていることに気
づかない。私たちは、社会が物理的力の複合で
成り立って
いることを自覚しない。それゆえ私たちは、個の存
在から、基体としての種、種と種との対立や協働に基づく類を、
具体的にかつ原理的に説明する
”論理”を構築していないとい
ってよい。少なくとも田辺には、そのように見えた。だから田
辺は時空を超えて交錯する思想を凝集させ、個や種からなる社
会を
”メタフ
ィジカルに”基礎づける「種の論理」を考えた。
田辺にとって、たとえそれが天皇制に基づく社会存在論であっ
たとしても、国家を含めた社会存在論の構築が焦眉の急であっ
たからだ。悪化していく時代のなかで、田辺
が実践哲学を
”メ
タフィジカルに’構築しなければならなかったことを、私たち
は想像することすら難しい。しかし私たちは、田辺ほど社会や
国家を
”メタフィジカルに”思考しえて
いるだろうか。
そ
の
反
省
を
も
と
に
、
最
後
に
ひ
と
つ
の
試
み
を
紹
介
し
て
お
こ
う
。
ド
ゥ
ル
ー
ズ
哲
学
か
ら
影
響
を
受
け
た
デ
ラ
ン
ダ
は
、『千
の
プ
ラ
ト
ー』
(
一
九
八
〇
)
な
ど
か
ら
、「動
的
編
成
(agencement)」
概
念
を
引
き
継
ぎ
、
そ
の
英
語
訳
「寄
せ
集
め
(assem
blage)]
概
念
を
も
と
に
新
し
い社
会
哲
学
を
構
築
し
て
い
る
。
デ
ラ
ン
ダ
の
試
み
は
、
ひ
と
つ
の
試
論
に
過
ぎ
な
い
。
し
か
し
、
徹
底
的
な
マ
テ
リ
ア
リ
ス
ト
で
あ
る
デ
ラ
ン
ダ
は
、人
間
存
在
も
自
然
存
在
も
基
本
的
に
同
じ
存
在
者
と
し
て
扱
い
、
個
体
存
在
の
「寄
せ
集
め
」
に
よ
る
社
会
を
哲
学
的
に
追
求
し
て
い
る
。
こ
れ
こ
そ
、
ド
ゥ
ル
ー
ズ
哲
学
を
媒
介
と
す
る
、「種
の
論
理
」
の
新
し
い形
と
い
え
る
だ
ろ
う
。
(1) 『思想
』の対談
「田
辺元
の思
想」で、
杉村靖
彦は
「歴史
的・哲学
史的なアプローチ」に言及している(「(対談)田辺元の思想」『思想』
二〇一二年一月号、一〇五三号、岩波書店、一〇―一一頁)。しかし
問題
は「京都学派
」に対す
る「歴史的
・哲学史
的なア
プローチ」
で
はなく。形而上学的ア
プローチであ
る。
(2) 以下、『田邊元全集』
からの引用に
ついて、括弧内
に斜線
を挿んで
巻数を漢数字で頁
数を算用数字で示
す。
(3) 物
理学者石原
純は、一高
時代、田
辺と同
学年で
あり、田辺
が東北
帝国
大学理科
大学講師
の時代に
科学の識論
をして
いた。田辺
が書評
を書
いた
こと
のあ
る桑木
或雄
も石原
も、田
辺の科
学論を評価
して
い
る(西尾成子『科学ジャーナリズムの先駆者・評伝石原純』岩波書店、
二〇
一一年、二三六頁参照)。本稿
では、当時の物理
学史的
背景は割
愛して
ある。
(4) これまで、筆者は下記の論文を発表している。森村修「田邊元の『多
様体の哲学』(1)――「多様体の哲学」の異端的系譜(1)」(法政大
学国
際文化学
部
『異文化
』九、二〇〇
八年)、森
村修「多様
体と微分
法-
田邊元
の「多様体
の哲学
」(2)-
「多
様体の哲学」
の異
端的系
譜(2)」(『異文化』 一〇、二〇〇九年)、森村修「G・ドゥルーズの
『多様体
の哲学』(1
)―「多様体の哲学」
の異端的系譜(3)」(『異
文化』 一二、二〇一一年)、森村修「フッサールの『多様体の哲学』
(1)―『多様体の哲学』の異端的系譜(4)」(『異文化』 一三、
二〇一二年)。
(5
) 林はブラ
ウワーの直観主
義数学と
「種の論理」と
の関係
につ
いて
詳述している(林晋「『数理哲学』としての種の論理――田辺哲学テキ
スト生成研究の試み(一)」京都大学日本哲学史研究室『日本哲学史
研究』第七号、二〇一〇年、五四―六一頁)。
(6) 本稿は、「連続(体)の問題」
の重要性に
ついて触
れないので、こ
の点
に
ついて拙論
を参照
せよ(森
村修
『田邊
元の「多
様体の哲
学」
(1
)-
「多様
体の哲学」
の異
端的系譜
(1)」法
政大学国際文化
学
部
『異文化』九、二〇〇
八年)。
(7) 「連続体(性)の問題」は、デデキントの「切断」論との関係で
田辺にとって璽要な問題である。田辺は『数理哲学研究』(一九二五)
のなかで、「連続体(性)の問題」とデデキントの「切断」論に触れ
て
いた。田辺哲学
と「切断」概念
に
ついて、前
注の拙論と林論
文を
参
照せよ。林
は数学
史研究
から、田辺哲学
と「切断」概念
との関係
性
を指摘
して
いる。
(8) 嶺秀樹は、「種
の構造
」を「テ
ンソル量的力
の場」で説明す
ること
に否定的である(嶺秀樹『ハイデッガーと口本の哲学-和辻哲郎、
九鬼周造、田辺元』ミネルヴ
ア書房、
二〇〇二年、二四九頁)。
(9) 『下村寅太郎著作集ニフイプニッツ研究』第七巻、みすず書房、
一九八九年。以下、Sと略
し、斜線
の前に巻数を漢数字であらわし、
斜線の後の算用数字で頁を表記す
る。
(10) 田辺
の弟子・田中省
三は
『コ
ーヘ
ン』(一九四〇)
で、「外延最
的
な連
続に対
し、内包
量的な連
続
を、量的連
続に対
し、
性質的
連続、
思惟
の作用
の連関を一次的と考
えんとするコーヘンの連続論」が『專
ら外延
量的に単に対象
的、客観的
なも
のとしてでなく、作用
的、
或
クス「極の論理」 におけるメタフ ィジツ75
は
若
し
言
い
得
べ
く
ん
ぱ
主
体
的
な
も
の
と
し
て
明
か
に
せ
ん
と
す
る
所
に
、
注目すべき深い思想を含むといってよいであろう」(田中省三『コー
ヘ
ン
』
弘
文
堂
、
一
九
四
〇
年
、
一
〇
九
頁
)
と
い
っ
て
い
る
。
田
辺
と
コ
ー
ヘンとの関係について、拙論を参照せよ(森村修「多様体と微分
法
-
田
邊
元
の
『
多
様
体
の
哲
学
』
(
2
)
-
「
多
様
体
の
哲
学
」
の
異
端
的
系
譜
(
2
)
』
法
政
大
学
国
際
文
化
学
部
扣
『
異
文
化
』
一
〇
、
二
〇
〇
九
年
)
。
(
1 1)E
.
Bergson, Essai sur le donnis immediates de la conscience, 1889
.
(竹内信夫訳「意識に直接与えられたものの試論」「新訳ベルクソン
金
集
」
第
一
巻
、
白
水
社
、
二
〇
一
〇
年
、
一
〇
二
頁
)
。
(
1 2
)
ベ
ル
ク
ソ
ン
は
純
粋
持
続
を
意
識
の
状
態
と
し
て
記
述
し
て
い
た
の
に
対
し
て、田辺は「種の論理」の”メタフィジカルな基礎づけ”に用いて
い
る
。
(
1 3) G
.
Deleuze
,
Le Bergsonisme, PUE 1966
, p
p
.30-
3
1
.
(
1 4) Cf
.
G
.
Deleuze
,
ibid
., p. 3
1
.
(
1 5) M
.
DeLauda, A New Philosophy of Society
.
A
ss
em
b
lag
e
T
heo
ry
a
n
d
S
oc
ia
l C
o
m
p
lex
ity
, C
o
n
tin
uum
, 20
0
6
.
(
も
り
む
ら
・
お
さ
む
、
哲
学
・
倫
理
学
、
法
政
大
学
教
授
)
76