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管路更生 No. 11 45 河井竹彦 誰にも故郷があります。私の故郷は、四国は香川 県大川郡引田町(現在、東かがわ市)です。香川県 も東の端、徳島県鳴門市や板野町と境界を接する県 境の町です。最近は、年に1回程度の帰省ですが、 思いつくままに引田について紹介したいと思いま す。 引  田 (ひけた) 小さい頃には、引田という地名の由来や意味を考 えたこともありませんでした。この五月の連休に帰 省した折に訪ねた大坂峠で「引田部族」を説明した 掲示板を見かけました。 この掲示板によると、日本書紀に引田部赤猪子(ひ けたべあかししこ)という人名があり、古事記に引 田朝臣(ひけたのあそん)、引田君(ひけたのきみ) などが見られるので、引田は一つの部族名であった ことはたしかでしょう、と述べられています。また、 和名抄などの昔の本に引田郷が記されており、古く から存在した集落であったようです。 引田町の変遷は、1890年(明治23年)町村制施 行に伴い、大内郡引田村、相生村、小海村が成立、 1909 年(明治 42 年)に引田村が町制施行し引田町(第 1次)となり、1955 年(昭和 30 年)4月に引田町、 相生村、小海村が合併し引田町(第2次)となりま した。私の生まれ育った頃は、この第2次引田町の 頃でした。 大 坂 峠 大坂峠は、阿讃山脈東端部が瀬戸内海へ落ち込む 手前に位置する香川、徳島両県の県境の峠です。海 岸沿いに国道11号線が整備される前には、九十九 折りの峠道を車が往来していたのを覚えています。 明治時代に整備されたといわれる旧街道も残ってお り、この峠は古くからの交通の要衝であったようで す。 平家物語では一の谷の合戦ののち、平氏一門を追 う源義経の軍は、阿波勝浦に上陸し、屋島壇ノ浦へ 向かうこととなっています。その阿波から讃岐へ向 かう道筋の一つに大坂峠が想定できるようですが、 確証はないようです。ただ、引田側には、馬宿とい う地名も残り、古くからの街道筋であったようです。 今の大坂峠は、瀬戸内海国立公園の一部として整 備され、ハンググライダーのランチャー台も整備さ れています。その施設の横には、元東京帝国大学 南原繁総長の歌碑が建立されています。 (写真1参 照) 南 原  繁 大坂峠の南原繁さんの歌は、次のようです。 幼くて われの越えにし 大坂峠に 立ちて見さくる ふるさとの町 この歌碑は、昭和32年(1957年)12月に引田観 光協会、引田町によって建立されたものであり、歌 碑の背面には、南原先生が昭和28年(1953年)10 月に郷土入りされた際に大坂峠に立ち、幼時を偲ん で詠まれたことが刻まれています。 (写真2 参照) 南原繁先生は、明治22年(1889年)9月に相生村 で出生され、香川県立大川中学校(現在、三本松高 等学校)、第一高等学校、東京帝国大学法科大学を ご卒業されています。内務省、東京帝国大学法学部 などを経て、昭和21年(1946年)12月に東京帝国 大学総長に就任され、学問、教育の分野で我が国の 戦後の復興に大きく貢献されています。 同じ郷土の生まれ、高等学校の後輩でありながら、 今回こうして調べるまでは、深く南原先生の業績に

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管路更生 No. 11  45

ふ る さ と 雑 感

河井竹彦

 誰にも故郷があります。私の故郷は、四国は香川県大川郡引田町(現在、東かがわ市)です。香川県も東の端、徳島県鳴門市や板野町と境界を接する県境の町です。最近は、年に1回程度の帰省ですが、思いつくままに引田について紹介したいと思います。

    引  田 (ひけた)

 小さい頃には、引田という地名の由来や意味を考えたこともありませんでした。この五月の連休に帰省した折に訪ねた大坂峠で「引田部族」を説明した掲示板を見かけました。 この掲示板によると、日本書紀に引田部赤猪子(ひけたべあかししこ)という人名があり、古事記に引田朝臣(ひけたのあそん)、引田君(ひけたのきみ)などが見られるので、引田は一つの部族名であったことはたしかでしょう、と述べられています。また、和名抄などの昔の本に引田郷が記されており、古くから存在した集落であったようです。 引田町の変遷は、1890年(明治23年)町村制施行に伴い、大内郡引田村、相生村、小海村が成立、1909年(明治42年)に引田村が町制施行し引田町(第1次)となり、1955年(昭和30年)4月に引田町、相生村、小海村が合併し引田町(第2次)となりました。私の生まれ育った頃は、この第2次引田町の頃でした。

大 坂 峠

 大坂峠は、阿讃山脈東端部が瀬戸内海へ落ち込む手前に位置する香川、徳島両県の県境の峠です。海岸沿いに国道11号線が整備される前には、九十九折りの峠道を車が往来していたのを覚えています。明治時代に整備されたといわれる旧街道も残ってお

り、この峠は古くからの交通の要衝であったようです。 平家物語では一の谷の合戦ののち、平氏一門を追う源義経の軍は、阿波勝浦に上陸し、屋島壇ノ浦へ向かうこととなっています。その阿波から讃岐へ向かう道筋の一つに大坂峠が想定できるようですが、確証はないようです。ただ、引田側には、馬宿という地名も残り、古くからの街道筋であったようです。 今の大坂峠は、瀬戸内海国立公園の一部として整備され、ハンググライダーのランチャー台も整備されています。その施設の横には、元東京帝国大学南原繁総長の歌碑が建立されています。(写真−1参照)

南 原  繁

 大坂峠の南原繁さんの歌は、次のようです。

   幼くて われの越えにし   大坂峠に 立ちて見さくる   ふるさとの町

 この歌碑は、昭和32年(1957年)12月に引田観光協会、引田町によって建立されたものであり、歌碑の背面には、南原先生が昭和28年(1953年)10月に郷土入りされた際に大坂峠に立ち、幼時を偲んで詠まれたことが刻まれています。(写真−2参照) 南原繁先生は、明治22年(1889年)9月に相生村で出生され、香川県立大川中学校(現在、三本松高等学校)、第一高等学校、東京帝国大学法科大学をご卒業されています。内務省、東京帝国大学法学部などを経て、昭和21年(1946年)12月に東京帝国大学総長に就任され、学問、教育の分野で我が国の戦後の復興に大きく貢献されています。 同じ郷土の生まれ、高等学校の後輩でありながら、今回こうして調べるまでは、深く南原先生の業績に

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ついては知らなかったというのが、実情です。昭和32年12月から翌年1月にかけて、引田へ寄られた際に心筋梗塞症を発症し、引田町内で療養されていたようです。私の父のアルバムには、その頃の南原先生のお写真が何枚かあったのを覚えています。 南原先生は、昭和49年(1974年)5月に84歳で永眠されています。政治哲学を専攻され、政治理論史、政治哲学序説などの執筆をされるかたわら、「歌集 形相」を出され、また、何度か母校の三本松高等学校で講演をされるなど精力的な活動をされています。いまさら遅きに失することかもしれませんが、郷土の偉大な先人を見習わなければと思いました。

笠置シヅ子

 「ブギの女王」といわれる笠置シヅ子さん、本名亀井静子さんも引田町出身で、正確には、相生村に大正3年(1914年)に出生されました。詳細は不明ですが、生後間もない頃に大阪市福島区の米屋の養女となったようです。大阪松竹楽劇部生徒養成所を経て、太平洋戦争前は、松竹楽劇団で活躍されたようです。戦後、昭和22年(1947年)に日劇のショー「踊る漫画家・浦島再び龍宮へ行く」で歌った「東京ブギウギ」が大ヒットし、戦後の荒廃した庶民の心に開放感をもたらしました。笠置シヅ子さんのショーは、それまでの歌を重視する従来の歌手と異なり、派手なアクションと大阪仕込のサービス精神にあふれた当時としては斬新なものであり、「ホームラン・ブギ」や「買い物ブギ」などヒットを出して一世を風靡したようです。 ブギが下火となった昭和32年(1957年)には、歌手廃業を宣言し、俳優活動に専念され、昭和60年

(1985年)3月に70歳で逝去されました。 小学校5年、6年の学級担任の先生は、相生の生まれで、その実家から自転車で通勤されていました。何かの折に相生生まれで有名な歌手がいることを話されました。そのとき初めて、笠置シヅ子という名前を知りました。テレビ番組で昔のヒット曲特集のときに「東京ブギウギ」などを聴く程度で、特に親しみを感じたわけではありません。ただ、生まれた町出身者に有名な歌手がいることには、少し自慢し写真−2 大坂峠に建つ南原繁先生の歌碑

写真−1 大坂峠からの引田町の眺め

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たい気持ちもありました。カネヨン石鹸の台所クレンザー「カネヨン」のコマーシャルに出ていたおばさんには親しみが持てました。

瀬戸内寂聴

 最近、齋藤愼爾著「寂聴伝-良夜玲瓏」(白水社)を読んでいて、驚いたことかありました。この本は、瀬戸内寂聴さんの生涯と作品の批評鑑賞を綴ったものですが、生い立ちを紹介したところに、お父さんの事が書かれていました。瀬戸内さんのお父さんは、三谷豊吉といって、香川県引田町黒羽(くれは)の生まれと書かれていました。黒羽は、旧相生村の集落です。生家は、砂糖の製造業を営んでいたようです。サトウキビから作る和三盆といわれる砂糖で、今でも数軒の砂糖製糖店が引田町相生にはあります。 三谷豊吉さんは、徳島市の指物商へ奉公に出され、仕事を覚え、神仏具商の看板を掲げるまでになったそうです。瀬戸内さん自身が、お父さんの実家を尋ねたかどうかはわかりませんが、自分の故郷に関係のある作家の方とはまったく知りませんでした。瀬戸内さんのご活躍の様子は、ここに紹介する必要もないとは思いますが、この5月の連休に徳島市へ遊びに行った際に、新町川水際公園で見かけた瀬戸内さんの文化勲章受章記念碑の石の彫刻は、流政之さんの作品で、「ICCHORA」の銘があり、面白い形をしていました。ICCHORAは、阿波弁で一張羅のことだそうです。(写真−3参照) 讃岐山脈を挟んだ人の行き来は、昔からあったようです。私の祖父、増吉も現在の鳴門市勝瑞付近か

ら引田の河井家へ養子縁組で来ました。私の妻の実家は、徳島県小松島市です。人の往来の不思議さを思います。

   安 戸 池 (あどいけ)

 引田町の北部にある安戸池は、海岸沿いの入浜を締め切った海水湖であり、日本で最初にハマチの養殖に成功した場所です。養殖を手がけたのは、野網和三郎さんです。野網さんは、明治41年(1908年)に引田村で網元の三男として生まれ、三重県志摩と島根県の両水産学校を卒業されています。沿岸漁業の将来を考え、それまで不可能と考えられていた海水魚の養殖に取り組みました。その頃の魚の養殖は、ウナギやコイなどの淡水魚に限られていたようです。お父さんの全面的な協力により、養殖試験開始後2年の昭和3年(1928年)にハマチの餌付けに成功し、本格的なハマチ養殖事業を開始したそうです。 昭和16年(1941年)戦時統制によって飼料を入手できなくなり、昭和26年(1951年)に再開されるまで中断した時期もあったようです。野網さんは、ハマチの養殖技術を積極的に公開し、日本全国に広めることにも努力されました。マダイやカレイなどの養殖海水魚がスーパーマーケットの鮮魚売り場に並ぶ様子は、当然ごとくのように思っていますが、先人の努力の賜物なのですね。野網さんは、昭和44年(1969年)61歳で亡くなっています。 野網和三郎さんのお孫さんの一人は、小学校時代の同級生でした。この同級生の家は、安戸池を見下ろす小高い丘の上にあり、たまに遊びに行きました。家の前の林の中には、大きなヤマモモの木があり、6月末から7月上旬にかけて濃い赤紫の小梅大の実がなります。甘酸っぱい野生的な味のする木の実です。枝の折れやすい木ですが、恐る恐る登ってヤマモモを食べ、口の中が紫色になったことが何度かありました。懐かしいふるさとの記憶です。

 生まれ故郷について、何人かの先人の事績を書きながら雑感としてまとめてみました。歳を取るとふるさとへの思いも変わってくるようです。これからも一年に一度は、帰省しようと考えています。

(かわい・たけひこ ㈶下水道業務管理センター 常務理事兼業務部長)

写真−3 瀬戸内寂聴 文化勲章授章記念碑“ICCHORA”(徳島市新町川親水公園)