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音楽の文化は、紀元前4000年頃、現在のIraq, Kuwaitの地域、TigrisEuphrates川に挟まれた、Mesopotamia地域に住 んでいたSumerによって作られたとされています. Persia湾に近いUrという町のUr王朝遺跡から、黄金をちりばめた楽 器や、楽人が演奏している図らしい彫り物などが見つかっています. Mesopotamia文明は、Egypt, Assyria, Babyloniaへ、 更ににArab, インド, 中国へと拡がっています. MesopotamiaEgyptの楽器は美術的な装飾があります. Israelの楽器に装飾は希です. Hebrew語の聖書Jubalから、2 つの楽器、ugab (pipes:)kinnor (lyre:竪琴)が主に使われていた事がわかります. この時代の他の楽器には、Tof (frame drum), Pa’amon (小さなbelljingle), Shofar (古代Horn), Hasosra(古代trumpet)があります. 古代エジプトの新王国時代、Tutankhamun(在位 : c.1333 – c.1324 BCE)の王墓から2本のTrumpetが発掘されています. 金箔装飾付きの銀製のTrumpet (長さ 57.2cm*) と青銅製のTrumpet (49.6cm)、それぞれに木製の芯が付いています. bellにある装飾に、太陽神のアメン(Amun-Re)とラー(Re-Horakhty)が描かれています. 古代エジプトではtrumpetを、Shenebと呼び、新王国時代のHatshepsut女王(在位:c.1479 – c.1458 BCE)Luxorにある 葬祭殿のレリーフに出て来ます. その後、Amārnah時代(c.1353 BCE)の壁画にも描かれています. TUT’ s Trumpetsは、 遺物の中でも唯一演奏できる楽器です. 新王国時代には、oboe, trumpet, 竪琴(lyre), lute, castanet, cymbalなどの楽器 が使われていたようです. BBC broadcast 16 April 1939, played by James Tappern エジプト考古学博物館 Museum of Egyptian Antiquities 1922 by Howard Carter 音楽の起源 TUT’s Trumpets *標準的なBtrumpetで約137cm, piccolo B trumpet 65cm, piccolo A trumpet 69cm, Es trumpet 95.3cmと比べると 随分短い楽器で、多くの種類の音を出すことは出来ません. せいぜい2種類の音が出せる程度で、信号を伝える為 に使われていたようです.

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音楽の文化は、紀元前4000年頃、現在のIraq, Kuwaitの地域、TigrisとEuphrates川に挟まれた、Mesopotamia地域に住んでいたSumer人によって作られたとされています. Persia湾に近いUrという町のUr王朝遺跡から、黄金をちりばめた楽器や、楽人が演奏している図らしい彫り物などが見つかっています. Mesopotamia文明は、Egypt, Assyria, Babyloniaへ、更ににArab, インド, 中国へと拡がっています.

MesopotamiaとEgyptの楽器は美術的な装飾があります. Israelの楽器に装飾は希です. Hebrew語の聖書Jubalから、2つの楽器、ugab (pipes:笛)とkinnor (lyre:竪琴)が主に使われていた事がわかります. この時代の他の楽器には、Tof (frame drum), Pa’amon (小さなbellやjingle), Shofar (古代Horn), Hasosra(古代trumpet)があります.

古代エジプトの新王国時代、Tutankhamun王(在位 : c.1333 – c.1324 BCE)の王墓から2本のTrumpetが発掘されています. 金箔装飾付きの銀製のTrumpet (長さ 57.2cm*) と青銅製のTrumpet (49.6cm)、それぞれに木製の芯が付いています. bellにある装飾に、太陽神のアメン(Amun-Re)とラー(Re-Horakhty)が描かれています. 古代エジプトではtrumpetを、Shenebと呼び、新王国時代のHatshepsut女王(在位:c.1479 – c.1458 BCE)のLuxorにある葬祭殿のレリーフに出て来ます. その後、Amārnah時代(c.1353 BCE)の壁画にも描かれています. TUT’ s Trumpetsは、遺物の中でも唯一演奏できる楽器です. 新王国時代には、oboe, trumpet, 竪琴(lyre), lute, castanet, cymbalなどの楽器が使われていたようです.

BBC broadcast 16 April 1939, played by James Tappernエジプト考古学博物館 Museum of Egyptian Antiquities ◎1922 by Howard Carter

音楽の起源

TUT’s Trumpets

*標準的なB管trumpetで約137cm, piccolo B trumpet 65cm, piccolo A trumpet 69cm, Es trumpet 95.3cmと比べると随分短い楽器で、多くの種類の音を出すことは出来ません. せいぜい2種類の音が出せる程度で、信号を伝える為に使われていたようです.

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銀製のTrumpetのbellにある装飾太陽神のアメン(Amun-Re)とラー(Re-Horakhty)

音楽の起源

TUT’ s Trumpets

最も古い原形を留めている 中世のリコーダー

Dordrecht Recorder 14th.C / Kunstmuseum Den Haag◎Huis te Merwede城趾 (3 km 東 – Dordrecht), 1940

Göttingen Recorder 14th.C / Musikwissenschaftlichen Seminars der Universität Göttingen◎Weender Straße 26, Göttingen, 1987

最古の笛は、Sloveniaのディビエベイブ(Divje Babe)洞窟から見つかった、43,000年前(旧石器時代)の動物の骨に穴を開けたNeanderthalの笛の断片※2008年、Ulm近く(西へ18km)のSchelklingen, Baden-WürttembergにあるHohle Fels洞窟から35,000年前の笛が発掘されています. また、同じくUlm近く(西へ16km)のBlaubeuren, Baden-Württemberg近くにある, Geißenklösterle洞窟から42,000~43,000年前の笛が発掘されています.

Pan flute (Syrinx)は、古代ギリシア時代から存在しています. シルクロードを通って中国、奈良時代の日本に伝来し、排簫(haisyou)と呼ばれています. 正倉院の宝物、墨絵弾弓(dankyu)に描かれた散楽(sangaku)図や平安の信西古楽図(shinzei kogaku zu)に、排簫を演奏する人が描かれています.

南米Andes地方の民族音楽 Folklore に使われる笛、Siku (西 Zampoña)は、PerúとBoliviaの原住民アイマラ(Aymara)民族に由来し、チリバヤ文明(c.900 BCE – 1440)の墓、ナスカ文明(CE–c.800) の遺跡から見つかっています. 西欧のPan fluteととの脈絡は不明です.

古代Egypt、古王国時代のflute

Eberhard Karls Universität Tübingen

青銅製のTrumpetこちらのbellにも同じ様な装飾があります

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Hellenismの時代、紀元前264年にAlexandriaに住むクテシビオス(Ktesibios)が、水力によって空気を送り込み、手で弁を開閉させる水オルガン(Hydraulis)を製作しています. 青銅、木、大理石が使われ、大理石の中には貯水槽とピストンがあり、圧縮空気を上部のパイプに送り出します. AlexandriaのHeronとRomeの建築家Vitruviusが改良し、地中海地方に水オルガンを普及させています. 水オルガンはローマ帝国の衰退以後も、Byzantine帝国の宮廷で儀式用に用い、Arabにも伝播しています. 水の力でなく、人力の「鞴」を使う方式は、紀元前1世紀頃に出来ています.

Constantinopleの競馬競技場(Hippodrome)で使われています. 757年、皇帝Constantine V 世が、Frank王国の国王Pippin III 世に、大きな鉛製のPipeを備えたOrganを贈っています. Pippin国王の息子、Karl大帝(742 – 814, Frank王(768 – 814), Rome皇帝(800 – 814), 神聖Rome皇帝)は、西方教会の音楽を確立する初期、812年、Aachenの大聖堂(Aachener Dom ; 別名皇帝の大聖堂, Nordrhein-Westfalen州)に同じ様なOrganを求めています.

音楽の起源

Organ : Hydraulis

Hydraulis, 考古学博物館 Dion, Greece

スイスのSionにあるValère城にある大聖堂(basilica)の西面にあるorganは、1435年に作られたpipeを使っている、演奏出来る最古のOrganとされています. ツバメの巣organ

欧州最大のOrganPassauにある聖Stephen大聖堂(Dom St. Stephan)にあるpipe organは欧州最大のpipe数(17,774 pipes, 233 registers, 5 Manual)です.

1. Boardwalk Hall Auditorium Organ, Atlantic City, New Jersey33,112 pipes, 449 ranks, 314 registers, 81 perc. (1932)

2. Wanamaker Grand Court Organ, department store, Philadelphia28,750 pipes, 464 ranks, 401 registers (1902)

1. Cadet Chapel, U.S. Military Academy, West Point, New York23,236 pipes, 874 stops (1911)

2. First Congregational Church of Los Angeles, California20,000 pipes, 233 registers, 265 stops (1931)

最初の大型Organは、1361年、Halberstadt, Sachsen-AnhaltのDom zu Halberstadt大聖堂に設置されたOrganで、半音階の鍵盤を使った最初の楽器です. 初期のOrganは、stopとpedal無しの Blockwerk方式のOrganです.

Stopが付くのは15世紀中期、Renaissanceの時期からです. Halberstadt大聖堂のOrganは、1495年にPedalと鍵盤を増設しています.

この聖堂のOrganistであった、Michael Praetoriusの著作、音楽大全(Syntagma musicum) II の中に、このOrganの説明が残っています.

現在のOrganは1718年のBaroque organの外見を保ち, 1965に改修された名器です. (5184 pipes, 66 register, 4 Manual, Pedal)

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古代オリエント文化との融合古代ギリシャのアルゲアス(Argeadai)朝(c.700 – 310 BCE)、Macedonia王国の国王(Basiléus)アレクサンドロス大王 (Alexander III of Macedon, Αλέξανδρος Γʹ ὁ Μακεδών; 356 – 323 BCE)の東方遠征(336 秋~323 BCE 夏)によって東方の地域に伝播したギリシア文化が、オリエント文化と融合し、Hellenism文化が生まれ、西欧文明の基調となります. また、それ以前からあった交易を広げ、東西文化の交流を盛んにしています.

音楽の起源

音楽文化の交流:メソポタミア文明 ヘレニズム文化 ビザンチン文化

Mesopotamia文明 : Sumer文明 c.4000 BCE頃・・・発掘遺物にある楽器の絵などEgypt : 初期王朝(c.3100 – c.2686 BCE)~古王国(c.2575–2134 BCE)~新王国(c.1570 – c.1070 BCE)~

末期王朝(664 – 332 BCE)~Ptolemaioi朝(305 – 30 BCE)Assyria帝国 : c.2500 – c.609 BCEBabyloniaやArabにも、更に、インド、中国へ伝播

Assyria

BabyloniaArab India

ByzantineConstantinople

Athēnai

Alexandria

Georgia

Armenia

Damascus

Jerusalem

Extent of the empire of Alexander the Great

Egyptの壁画 Assyriaの粘土板SumerUr王朝時代のモザイク

Sumer王の墓から発見された Lyre牡牛の彫刻 金やLapis Lazuliの装飾

Petra

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音楽の起源

音楽文化の交流:メソポタミア文明 ヘレニズム文化 ビザンチン文化

東Rome帝国 (Res Publica Romana, Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων) / Byzantine帝国 (330 – 1453)

東Rome帝国 (Byzantine帝国)は、広大なRome帝国を395年以降、東西に分割統治していた東側の国家です. 首都はConstantinopolis (現在のIstanbul)で、330年にRome皇帝 Constantinus I 世が、古代ギリシアの植民都市 Byzántion (Βυζάντιον) の地に建設した都市です.

キリスト教(正教会)を国教として定め、原始キリスト教の五大総主教座(Rome, Constantinopolis, SyriaのAntiókheia, Jerusalem, エジプトのAlexandria)のひとつとして、Aagia Sophia大聖堂に正教会の総主教庁を置き、現在のトルコ、ギリシャ、ブルガリア、セルビア、ロシアまでを管轄しています.

Byzantine文化は、長い変遷を経て、広い地域の音楽からキリスト教音楽(聖歌)を、記譜法、旋法と共に醸成し、後のRome Cathoric音楽、西欧音楽の基礎となります.

Frank王国の国王、西Rome帝国皇帝、Karl大帝は、教会音楽に特別な興味を持ち、教会音楽を高めて行きます. 789年、Frank王国Caroling朝のキリスト教化統治(再成編)のために、“万民への訓諭勅令(Admonitio generalis)”を布告します.

Karl大帝は、欧州西方教会の典礼音楽を盛んにするだけでなく、この時代の音楽文化の基礎を築いています.

Charlemagne/Karl der Große

グレゴリオ聖歌 (Gregorian chant)

Gregorian聖歌集は、Rome Catholic典礼用に編成されます. 750年頃以降、Frank王国Caroling朝は、Rome聖歌と、Celtの流れを持つGallia聖歌を統合し、Gregorian聖歌として発展させています. Frank-Rome折衷のCaroling聖歌は、教会暦上で不足を新しい聖歌で補いながら、記譜され、Gregorian聖歌として形を整えて行きます.

9世紀中期までに、Gregorian聖歌を歌いやすくする為に、Neuma記譜が使われ始めます. 現存する最古の記譜は、850年頃のFrank王国のAurelian of Réôme (fl. c.840 – 850)の著作“Musica disciplina”の中に、誰が考案したのか不明のDaseian記譜法という、線の間に歌詞を書き込む記譜法が残っています.

Guido da Arezzo (991/992 – c.1033)はArezzo, ToscanaのBenedict修道会の修道士で、音楽理論家、音楽教師、合唱の指導者で、Pomposa修道院などで活動しています. 4線を使った現代の記譜法の原型を使い、Gregorian聖歌を正しく歌えるように、教育的観点から工夫を凝らしています. 聖歌の音楽に使われていた「旋法」を憶えやすくする為の暗唱歌詞(mnemic verse)や、ドレミを使って旋律を歌う為のSolmizationを考案します.

Solmization : Ut(Do) Re Mi Fa Sol La Si聖Johannes賛歌 (Ut queant laxis, Hymnus in Ioannem) 「ドレミの歌」中世版

Byzantine Neume Daseian記譜法 Gregorian Neume

Ut queant laxisResonare fibrisMira gestorumFamuli tuorum

Solve pollutiLabii reatumSancte Iohannes

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ピタゴラス(Pythagoras)は音階の音程を物理、数学的に定義できることを発見しました. Octaveを2:1、完全5度を3:2、完全4度を4:3、そして完全5度と完全4度の差としての全音を9:8と定義しています.

6世紀初期の古代ローマの議員、執政官、内務長官(magister officiorum), 哲学者である、ボエティウス(Boëthius, c. 477 – 524 AD) の著作、音楽教程(De institutione musica)の巻頭に、Pythagorasが音程と数比の関係を発見したエピソードを書いています. ある日鍛冶屋の前を通ったPythagorasは、ハンマー*(鉄床)の音が共鳴し和音となっていることに気付き、音程は重量が単純な数比であることを見つけます. *ハンマーとなっているのですが、おそらく鉄床の重さだと思います.

実際に、Pythagorasは弦楽器や笛で実験し、Monochordを使い、弦の長さ、音の波の長さの比が音程の比率となる音程の法則を発明したとされています.

音楽の起源

Pythagoras (Pythagoras of Samos, c.570 – c.495 BCE) サモス島の賢人

Pythagorasの死後、音楽理論に関する信奉者は学派を形成します. 古代ギリシアの音楽の基本にPythagorasの音律が使われている以外、ギリシア音楽の実践面では、

理論が影響した可能性は殆ど無く、音楽理論家が認識しているものの、本当に見直され評価されるのは音楽理論の形成が進むイタリアで、15世紀になってからです.

中世後期からRenaissance初期の木版

Franchino Gafurio (Franchinus Gaffurius)の著作「音楽理論 Theoria musice」(1492)からPythagorasがベルなどを使い調査Pythagorasの音律を解説しています.

Monochordのレプリカ

哲学者が語る音楽の特性について

Plátōn (427 – 347 BCE)は、著書 “国家 ; Res Publica”の中で、特定の形式の音階、音域と声域、特徴となるリズムの様式、テキストなどの音楽を演奏することで、その音楽に脈絡のある特定の行動を取る傾向が強い

と書いています. 音楽を聴いて志気を高めたり、静寂を保つと考えています. Plátōnは、地域の音楽が変わることで、大きな社会的な変化を引き起こすと信じていたようです.

Aristotélēsは政治学 ; Politiká の中で、次の様に述べています :

旋律にはその中に性格を真似た内容を含んでいる. 他のものと異なる性質を持っているのであれば、その音楽を聴けば異なった反応を示し、お互い同じ反応となることは無いことは明らかである. 音楽は、人の感情面に特定の性格を持った質、道徳的な性格(ethos)を作り出すことが出来る. もし、これが可能ならば、若者の教育に取り入れ、巧く活かすべきであろう.

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Carolという言葉は、手をつなぎ、先導役が歌い、皆はこれに応えるように歌いながら踊るサークル・ダンスを指す、古代フランス語のCaroleが元になっています. 歌が付きものの舞踏ですので、Latin語のchoraulaに由来した言葉です. Carolは1150年代から1350年代の間、大変人気のあったダンス歌曲で、西欧州の田園地域と宮廷で使われています. ただ、この時期のCarolの歌詞や音楽は残っていません. そして、この後、お祭りで使われる行列の歌としても使われるようになります. 一方で、宗教色の強い神秘的なCarolも書かれるようになります. 代表的な例としては、1534年あたりに作られた、新約聖書の中のマタイ伝に出てくる物語を取り上げたCoventry Carolがあります.

北フランスでは、この様式のダンスに、Rondeとも呼ぶようにもなり、小品にはrondet, rondel, rondeletという呼び名を使うようになり、その後、Rondeauとなります. ドイツ語圏では、このような歌、合唱を伴うダンスをReigenと呼びます.

Carolは、Catholic教会の聖職者が伝統的にLatin語で歌います. Protestantの改革以降、carolは会衆が歌い、音楽を人々に取り戻すとしています. 一般の人々が教会で歌うようにすることで、音楽のLatin語のテキストはそれぞれの国の言葉に翻訳されます. 同時に、Protestant教会は、宗教音楽についてCatholic教会の聖職者が持つ抑圧感を徐々に減らそうとします. William Byrdの様な作曲家は、Christmasのためにmotetのような作品を作りCarolと呼ぶようになり、田園地域でのCarolは歌われ続けます. この時期に何曲か有名になっているCarolが書かれ、19世紀になるとこれらの曲は見直され、有名な作曲家も取り上げるようになります.

クリスマスの音楽

Caroleについて

Christmasのための音楽

J. S. Bach : Weihnachts-Oratorium (Christmas Oratorio) BWV248 (1734, Leipzig)クリスマスの12日間(降誕節) 降誕祭12月25日~公現祭1月6日の期間に教会で演奏する全6部64曲のカンタータ集

初演は、Leipzigの聖ニコライ教会(Nikolaikirche)と聖トーマス教会(Thomaskirche)1734年

1735年

Oratorio (Oratorium)は、宗教的な聖書などにある物語を取り上げて教会で演奏する目的で作曲されています. オペラと比べると、演技、大道具、小道具、衣装などは用いません. 音楽の構成は、教会カンタータと同じですが、規模は大きく、一連の物語を音楽にするために使われます.

Pyotr Ilyich Tchaikovsky : 全2幕24曲のバレエ音楽と、全8曲のバレエ組曲「くるみ割り人形」ドイツのE.T.A.ホフマンの童話「くるみ割り人形とねずみの王様」を原作とするバレエ曲で、クリスマスイヴの夜が舞台になっています. 第2幕には、フランスバレエに由来するディヴェルティスマン (Divertissement)や、パドドゥ (Pas de deux)や、ロシアワルツの「花のワルツ」など人気のある名曲が含まれています.

初演 1892年12月18日, サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)のマリインスキー劇場(Мариинский театр)

George Frideric Handel : Oratorio “Messiah” HWV 56 (1741, London)第2部: メシアの受難と復活、メシアの教えの伝播44. (23.) Hallelujah chorus / Hallelujah (anthem and fugue chorus)

初演 1742年4月13日, ダブリンのNew Music Hall, Fishamble Street

12月25日 第1部 -早朝、聖ニコライ教会、午後、聖トーマス教会12月26日 第2部 -朝、聖トーマス教会、午後、聖ニコライ教会12月27日 第3部 -朝、聖ニコライ教会

1月 1日 第4部 -朝、聖トーマス教会、午後、聖ニコライ教会1月 2日 第5部 -朝、聖ニコライ教会1月 6日 第6部 -朝、聖トーマス教会、午後、聖ニコライ教会

1741年の夏の間、William Cavendish, 第三Devonshire公爵は、HandelをIreland王国の首都Dublinに、地域の病院で慈善の演奏会を開くために招待しています. Handelの“Messiah”は、1742年4月13日、Fishamble StreetにあるNew Music Hall で、聖Patrick大聖堂とChrist Church大聖堂の合唱団から、26人の少年と5人の成人の合唱が参加して、初演されています. Handelは独唱者と合唱の間で、決して合唱が大きくないようにバランスを考えたようです.

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ローマ帝国年表

古代ローマ(元老院ならびにローマ市民, Senatus Populus que Romanus)紀元前753年~紀元前509年、王政ローマ時代、1. Romulus, 2. Numa Pompilius, 3. Tullus Hostilius, 4. Ancus Marcius, 5. Lucius Tarqinius Priscus, 6. Servius Tullius, 7. Lucius Tarquinius Superbusの7人の王が統治紀元前509年~紀元前27年、共和政ローマ時代イタリア中部の都市国家から、地中海の全域を支配する共和政の巨大国家

ローマ帝国(Imperium Romanum)紀元前27年、イタリア半島を支配する都市国家連合の共和政から帝政へと移行し、ローマ帝国の成立

初期は、元首政(Principatus)285年、Diocletianus帝の即位以降、専制君主制(Dominatus)

4世紀330年、Constantinus I世は、後に帝国東方の皇帝府となるローマ帝国の首都Constantinopolisを建設します. 392年、Theodosius I世は、古くからの神々を廃し、キリスト教を国教とします. 395年、Theodosius I世の没後、

2人の息子、長男のArcadiusによる東ローマ帝国統治と、次男のHonoriusによる西ローマ帝国統治と分担統治を始めます. 東西ローマ帝国と呼び分けていますが、統治者は一つのローマ帝国と考えています.

西ローマ帝国の皇帝政権は、経済的に豊かでなく、兵力などの軍事的基盤が弱くゲルマン人の侵入に抗していません.

5世紀~10世紀 中世前期476年以降、衰退した西方正帝の権限は東方正帝に吸収されます.

西ローマ帝国の地を統治したゲルマン系諸王国の多くは、東の皇帝の宗主権を仰ぎ、任命されローマ帝国の官僚の資格で統治します.

481年、Frank人の諸勢力を統一したClovis I 世による、Méroving朝 Frank 王国が出来ます.

6世紀、東ローマ帝国による西方再征服が行われます. 7世紀以降、東ローマ帝国は領土を減らしています. 8世紀、東ローマ帝国はローマ市を失いますが、長く存続します768年、Frank王国がCaloring朝の時代、Karl大帝が、教皇 Leo III 世によりローマ皇帝に戴冠され、

ローマ総大司教管轄下の「東の皇帝」の宗主権下から、名実ともにローマ帝国は東西に分裂します. 神聖ローマ帝国のローマ皇帝と帝権が誕生し、1806年まで継続します.

11世紀~13世紀 中世盛期1204年、東Rome帝国の首都Constantinopleが第4回十字軍によって陥落し、帝国の皇族達はNikaiaへ亡命し

Nikaia帝国を建ています. 1260年、Constantinople包囲戦後、1261年に奪回し、Michaēl VIII世 PalaiologosがRome皇帝に戴冠し、

東Rome帝国(Palaiologos王朝)が復活します.

14世紀~15世紀 中世後期1453年、Osmânî帝国により、首都Constantinopleが陥落し、完全に滅亡します.

中世の東ローマ帝国は、ビザンティン帝国と呼ばれ、キリスト教国であり、徐々にギリシア的性格を強めています.

音楽史で使う、中世、ルネサンス、バロック時代の目安5世紀~14世紀 中世

15世紀~16世紀 Renaissance17世紀~18世紀中期 Baroque