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152 【書評論文】 John Braithwaite, Crime, Shame and Reintegration , Cambridge University Press, 1989. 長谷川みゆき HASEGAWA Miyuki 要旨 本書は、1989 年、センセーショナルに世に出て以来、刑事・社会政策、犯罪学、 被害者・加害者学他、内外を含め多くの分野に多大な影響を与え、Restorative Justice(修 復的司法)や RISE プロジェクト(Reintegrative Shaming Experiments)などへの実践 的影響力を未だに持ち続けている John Braithwaite によるものである。しかしながら、 これほど世界的に知れ渡っているにもかかわらず、不思議なことに未だ日本語訳は出てい ない。 本論文では、Reintegrative Shaming という命名ゆえに多くの誤解を生んで来た本書の 内容を、引用を多用することにより、誤解がないかたちで要約し検討する。 はじめに ジョン・ブレイスウエイトは冒頭で以下のように述べている。 Crime is best controlled when members of the community are the primary control- lers through active participation in shaming offenders, and, having shamed them, through concerted participation in ways of reintegrating the offender back into the community of law abiding citizens. 1 地域(共同体)のメンバーが犯罪者に shame を与えることに積極的に参加し、そし て実際に shame を与えたあとで、犯罪者を、法律を遵守する市民の地域(共同体) に再統合的に戻すことに一致団結して参加することを通して、地域(共同体)が主要 な犯罪統制者となるとき、犯罪は最も有益に統制される。 そこには、刑法の制度的非難に対するインフォーマルな社会統制としての shaming の 力と、極端な個人主義・個人責任に対する Braithwaite の批判がある。本論では、以下の 論点から、極端な個人主義に対抗する communitarian な社会の中で機能する reintegra- tive shaming の内容を解明・検討する。 1.Reintegrative Shaming と Restorative Justice (修復的司法) 2.「shame」・「shaming」≠「恥」・「恥づけ」 3.Predatory crime と Non-predatory crime 1 John Braithwaite, Crime Shame and Reintegration (Cambridge University Press, 1989) , p. 8.

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【書評論文】

John Braithwaite, Crime, Shame and Reintegration, Cambridge University Press, 1989.

長谷川みゆきHASEGAWA Miyuki

要旨 本書は、1989 年、センセーショナルに世に出て以来、刑事・社会政策、犯罪学、被害者・加害者学他、内外を含め多くの分野に多大な影響を与え、Restorative Justice(修復的司法)やRISE プロジェクト(Reintegrative Shaming Experiments)などへの実践的影響力を未だに持ち続けている John Braithwaite によるものである。しかしながら、これほど世界的に知れ渡っているにもかかわらず、不思議なことに未だ日本語訳は出ていない。 本論文では、Reintegrative Shaming という命名ゆえに多くの誤解を生んで来た本書の内容を、引用を多用することにより、誤解がないかたちで要約し検討する。

はじめに

 ジョン・ブレイスウエイトは冒頭で以下のように述べている。

Crime is best controlled when members of the community are the primary control-lers through active participation in shaming off enders, and, having shamed them, through concerted participation in ways of reintegrating the off ender back into the community of law abiding citizens.1

地域(共同体)のメンバーが犯罪者に shame を与えることに積極的に参加し、そして実際に shame を与えたあとで、犯罪者を、法律を遵守する市民の地域(共同体)に再統合的に戻すことに一致団結して参加することを通して、地域(共同体)が主要な犯罪統制者となるとき、犯罪は最も有益に統制される。

 そこには、刑法の制度的非難に対するインフォーマルな社会統制としての shaming の力と、極端な個人主義・個人責任に対するBraithwaite の批判がある。本論では、以下の論点から、極端な個人主義に対抗する communitarian な社会の中で機能する reintegra-tive shaming の内容を解明・検討する。 1.Reintegrative Shaming と Restorative Justice(修復的司法) 2.「shame」・「shaming」≠「恥」・「恥づけ」 3.Predatory crime と Non-predatory crime

                1 John Braithwaite, Crime Shame and Reintegration (Cambridge University Press, 1989), p. 8.

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 4.Braithwaite の立場を明確にするために  4.1. Braithwaite のスタンス  4.2. Reintegrative Shaming とラベリングとの関係 5.フォーマルな社会統制からインフォーマルな社会統制へ  5.1 基本は文化的コミットメントとファミリー・モデル 6.Shaming  6.1. Shaming とはどのようなものか  6.2. なぜ shaming なのか―Shaming までの道―  6.3. Shaming に関するブレイスウエイト自身の経験談     ―The Mechanics of Gossip―  6.4. なぜコミュニティ的規模の shaming が必要か     ―shaming の社会的プロセス― 7.Reintegrative shaming を行うための社会的条件 8.まとめ まず、世界的に大きなムーヴメントとなっているRestorative Justice(修復的司法)とreintegrative shaming 理論を基にした修復的司法とは同じものなのかどうかを確認しておきたい。

1.Reintegrative Shaming (John Braithwaite)と Restorative Justice(修復的司法)

 昨今話題になっているRestorative Justice(修復的司法)は世界のさまざまな地域で実践されている。ブレイスウエイトの reintegrative shaming 理論を基にしたRISE プロジェクト(Reintegrative Shaming Experiments)も Restorative Justice のひとつの実践例としてとらえられているが、両者は同じものなのであろうか。Restorative Justice のルーツは意外と古く、世界のさまざまな地域で既に実践されてきた形態である。

修復的司法は、もともと実践的経験の産物であり、諸外国の先住民が実践していた、そして現在も実践している司法であり、近代の史的展開で埋もれてしまったのである2。

 また、それぞれの地域の文化や習慣と密接に関係があるため、これがRestorative Jus-tice であるという唯一のかたちはない。 2006 年7月、ハワード・ゼア3 が来日し Restorative Justice について講演した際に、ブレイスウエイトの「reintegrative shaming」をどう思うかと質問してみた。その際の録音を基に内容を再現したい。

I think that shame is a very helpful tool for analysis, helps to understand victims’ behavior, helps to understand off enders’ behavior.

                2 高橋則夫『修復的司法の探求』(成文堂、2003 年)p. 74。3 Howard Zehr, Changing Lenses: A New Focus for Crime and Justice (Christian Peace Shelf), Her-ald Pr, 1990, 『修復的司法とは何か―応報から関係修復へ』(新泉社、2003 年)他。

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But I don’t think we ought to try to shame people.I think we ought to try to remove shame.We need to be aware of shame, because shame is actually operating for victims and off enders. So we need to pay attention to shame.But we shouldn’t be trying to create shame.4

 以上のように話した後ゼアは、「オーストラリアでは、ブレイスウエイトの reintegra-tive shaming 理論の所為で、Restorative Justice に携わる人たち(たとえば警察官)が、shaming を与えよう・引き出そうとしていることが気にかかる」と、敢えて与えようと努力しなくてもRestorative Justice 会議を通して加害者にも被害者にも自ずと現れてくるshame という感情を殊更引き出そうとしている reintegrative shaming 理論を基にしたRestorative Justice に疑義を唱えていた。 千葉にあるNPO法人、「被害者加害者対話の会」副理事長である山田由紀子弁護士にも同様の質問をしてみた。山田は、ブレイスウエイトのCrime, Shame and Reintegrationを読んでいないのでその内容についてのコメントは出来ないと断った上で、私の質問に答えてくれた。この際には録音機がなかったので、以下は山田弁護士の話を私が要約したものである。

われわれは、shaming 恥のことは念頭に置いていない。われわれのプログラムは、米国で行われているトニー・マーシャル等のRestorative Justice をモデルとしている。われわれは、被害者と加害者のために少しでも良かれと思い、双方が対話できる機会をつくるお手伝いをしたいと考えている。そこで、shaming、恥づけの概念を入れることは、むしろ双方の対話のためにはよくないような気がする。

 世界各地で実践されているRestorative Justice の中には、ブレイスウエイトの reinte-grative shaming 理論を実践している地域もあればそうでない地域もある。大きな差異は、意識的に shaming を使うかどうかであるらしい。また、もうひとつの大きな違いは、re-integrative shaming は日本がモデルであるという点である。

2.「shame」・「shaming」≠「恥」・「恥づけ」

 「shame」、「shaming」は日本語の「恥」や「恥づけ」とは意味合いが違うため、あえて英語のまま表記する。たとえば、ブレイスウエイトの「reintegrative shaming(再統合的恥づけ)」に対する速水洋の以下の批判文を見て頂きたい。

ブレイスウエイツの恥の概念には問題が多い。彼は shaming を次にように定義している、「shaming とは、辱められた人に後悔の念を呼び起こす意図もしくは効果を持

                4 Personal communication with Howard Zehr in July, 2006.

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つような非難を表現するあらゆる社会的過程である」。shaming とは極端に言えば、恥をかかすこと、辱めることであるが、それと後悔の念を抱くこととなぜ結び付くのであろうか?5

 原文はこうである。

Shaming means all social processes of expressing disapproval which have the inten-tion or eff ect of invoking remorse in the person being shamed and/or condemna-tion by others who become aware of the shaming.6

 原文に忠実に、また「shame」、「shaming」を原語表記のままに訳すると以下のようになろう。

Shaming は、shame を与えられた当人の中に悔恨を促すような意図、あるいは効果をもつ、非難を表現する全ての社会的プロセスを意味する。そして /あるいは、shaming を意識するようになる他者による非難を表現する全ての社会的プロセスを意味する。

 ここで、ブレイスウエイトは shaming を、「all social processes of expressing disap-proval …… and/or condemnation」、つまり、「不承認・非難を表現する全ての社会的プロセス」であると明確に定義している。「shaming とは極端に言えば、恥をかかすこと、辱めることである…」と速水は続けるが、ブレイスウエイトの shaming は外形的な非難に近く、内心的に恥をかかすこと・辱めることを意味していないのではないだろうか。また、「shaming とは極端に言えば、恥をかかすこと、辱めることであるが、それと後悔の念を抱くこととなぜ結び付くのであろうか?」という速水の疑問には、以下のように反論することが可能だろう。ブレイスウエイトは、悔恨を促すような意図、あるいは効果をもつ、非難を表現する全ての社会的プロセスを shaming と定義しているので、悔恨を促すような意図、あるいは効果をもたないものはブレイスウエイト に言わせると shaming ではないだろう。したがって、上記の速水の批判は的外れということになる。また、速水は、「ブレイスウエイトが恥の心理的発生過程の分析をほとんど無視して」いるとし、以下のように述べている。

恥を付与するとは、何らかの失敗があったときに、それを当人自身の欠陥を示すものと解釈して社会的非難を課して、痛みや傷つきの念を生じさせることである。……どんな制裁を課すにせよ、それが恥として機能するかどうかは主観的な問題に属するので、一切制裁を課さなくても、当人は恥を付与されたとみなす場合もあれば、重罪を課しても、当人がそれを少しも恥と感じない場合もあり得る7。

                5 速水洋「非行統制要因としての恥の考察―恥は犯罪・非行を抑止するか?―」(犯罪社会学研究、1993 年)67~68 頁。6 Braithwaite, op. cit., p. 100.

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 確かに、社会的非難から当人の内的な痛みに向かう場合もあろうが、向かわない場合もある。速水が言うように、恥を感じるかどうかは当人の主観的な問題であるので、社会的非難や罰が当人に恥を感じさせる場合もあるしない場合もあるだろう。しかし、ブレイスウエイトは、そのような、感じるか感じないか分からないような心理的要素を shamingの定義に含んでいないのではないだろうか。Shaming を社会的プロセスと言う限り、ブレイスウエイトは shaming をもっと形式的なものとしてとらえているのではないだろうか。 以上みてきたように、「shame」を「恥」、「shaming」を「恥の付与」・「恥づけ」などと訳することはかえって混乱を生じさせ、ブレイスウエイトの主張のエッセンスを取りこぼすことになりかねないため、本論では、英語表記のままとする。また、「reintegrative shaming」についても同様英語表記のままとする。

3.Predatory crime と Non-predatory crime

 Reintegrative shaming 理論は全ての犯罪と犯罪統制に対して使える理論ではない。また、犯罪であるかどうかについてのコンセンサスが得られていない領域や、犯罪に至らない行為にも使えない。

刑法が明確に多数の道徳性を体現しないような領域では、Reintegrative Shaming 理論は行為のばらつきを説明できないだろうということを理解することは重要である8。

Reintegrative Shaming 理論は逸脱の一般理論として申し分のないものという訳ではない。何故なら、ある行為が逸脱とみなされるべきかどうかについての不一致が増せば、この理論の説明力は減少するからである。本理論は、略奪的犯罪(predatory crimes)(一方が他方によって犠牲となることによって生じる犯罪)についての強力な一致がある領域のためのものである9。

売春・同性愛・マリファナの使用などの数少ない被害者なき犯罪に関する不一致の程度は除外すると、少なくとも現代民主主義には、犯罪である殆どの行為は犯罪であるべきであるという圧倒的なコンセンサスがある10。

 Predatory crime ………… Reintegrative Shaming 理論が使える。 Non-predatory crime …… consensus がないからReintegrative Shaming 理論は使えない。

 Reintegrative Shaming 理論は、犯罪にかかわること、しかも圧倒的なコンセンサスが                7 速水洋、前掲、70 頁。8 Braithwaite, op. cit., p. 14.9 Id..10 Ibid., p. 39.

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ある犯罪に限定した理論である。この点は注意が必要である。圧倒的なコンセンサスがある犯罪やそれにともなう政策に限定した実践的理論であるということは、道徳的要求を度外視していることと同一ではない。事実、ブレイスウエイトは多くの箇所で道徳に言及しているし、reintegrative shaming 理論は犯罪にはならないが非難に値する行為にも使える可能性をもった理論であると私は考えている。そのことは後述することにして、ブレイスウエイトがどのように道徳を語っているのかみてみよう。

reintegrative shaming の理論は、その抑圧的特質によってではなく、むしろ社会統制の道徳的特質によって、法律遵守を説明できる11。Shaming は、刑法の道徳的要求に人々の関心を向けるよう誘い込み、丸め込むための道具であると考えられる12。

本理論の皮肉な点は、社会統制を道徳化すること(道徳的社会統制)は、抑圧的社会統制よりも法律遵守を保障する可能性が高いという主張である。なぜなら、どのような道徳基準からしても、犯罪行為というのは多くは有害であり、そのように多くの市民に認められているものであるから、市民を正しい選択が為せる責任ある人間として扱う道徳的要請は、(必ずというわけではないが)一般的に、人を道徳観念のない計算者として扱い人間としての尊厳を否定する抑圧的統制より肯定的に対応する。市民への高い道徳的期待がしみ込んでいる文化というのは、悪党に痛みを科すことによって統制が成し遂げられると考える文化に比べ、優れた犯罪統制を実現するだろう13。

 ここだけをみると、Rule of Law に批判的にとられるかもしれない。また先の引用にあるように、「地域(共同体)のメンバーが犯罪者に shame を与えることに積極的に参加し、そして実際に shame を与えたあとで、犯罪者を、法律を遵守する市民の地域(共同体)に再統合的に戻すことに一致団結して参加することを通して、地域(共同体)が主要な犯罪統制者となるとき、犯罪は最も有益に統制される」14 などという箇所をみると、法の支配を外して、法を一般市民の手に戻そうと主張しているようにとられるかもしれない。この点に関してブレイスウエイトは以下のように言っている。

‘The rule of law’ から ‘the rule of man’ に変更することを主張しているのではない。もし犯罪問題について道徳的に議論し、犯罪問題を解決するよう援助する、コミュニュティの参加がなければ、‘the rule of law’ は恣意的であるととられるような公的制裁過程の無意味な集合に等しくなる15。

 道徳的に議論し、人間が素朴にもっている、何が良いのか悪いのかについての法を

                11 Ibid., p. 9.12 Id.13 Id.14 Ibid., p. 8.15 Ibid., p. 8.

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Rule of Law に近づけていこうというふうに理解できる。また、冒頭において、

本理論は、犯罪統制のための鍵は、私が ‘reintegrative shaming’ と呼ぶやり方でshaming へ文化的コミットメントをすることであることを示す。犯罪率が低い社会というのは効率的にそして賢明に shame する社会である。犯罪という手段に出る個人というのは自身の悪行に関して shame から遮断されている個人である。

 と延べ、文化的コミットメントを企てると明言している。法の領域に越境し、reinte-grative shaming 理論を使って法を変革するのではなく、法だけでは不十分な部分を文化的に実践していこうと主張しているのである。法と、reintegrative shaming という文化的コミットメントが相互にサポートするやり方、つまり法と reintegrative shaming とのシナジー作用を模索していると理解できる。 また、reintegrative shaming の道徳的特質とは何か、具体的にどのような道具として刑法の道徳的要求に人々の関心を向けるよう誘い込み、丸め込むのか等については後述する。

4.Braithwaite の立場を明確にするために

4.1. Braithwaite のスタンス ブレイスウエイトの立場を明確にするために、敵方の主張を示そう。ラベリング理論家Frank Tannenbaum はCrime and the Community (1938)で以下のように述べている。

人は、そうだと描かれるようなものになる。…評価が誰によって為されるかは関係ない。・・・・人(逸脱者)にしつこく作用しようとすることは――それが正しい意図のもとで行われようと――、悪影響を与える。何故なら、そのことによって、抑圧しようとする悪い行ないを生じさせるだけだからである。そうならないためには、悪をドラマ化することを拒否することである。悪について語られることが少なければ少ないほどよい。悪以外のことについて語られることが多ければ多いほどよいのである(Tannenbaum, 1938: 20)16。

 これはブレイスウエイトの主張とは真逆である。ブレイスウエイトはこう主張する。「the more said about crime the better」17(犯罪について語られることが多ければ多いほどよい)と。犯罪が少ない社会というのは、「悪をドラマ化」18 する社会なのであると。では、どのようにドラマ化しようと言うのか。それはもちろん reintegrative shaming によってである。その際には、ラベリングすることも必要であると主張する。

                16 Ibid., p. 17.17 Id.18 Id.

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4.2. Reintegrative Shaming とラベリングとの関係 ブレイスウエイトは、ラベリング理論家たちが主張したように、ラベリングすることが悪いとは考えていない。

もし、ラベリング的観点が、一貫した経験的支持が期待できるような検証可能な命題にとって刺激となるなら、ラベリングが逆効果となる状況と、ラベリングが実際に犯罪を減少させるであろう状況とを予測する方法が必要である。このことが、本理論が達成しようと試みる課題である19。

Reintegrative shaming は犯罪を減少させるラベルリングとして理解でき、烙印とは犯罪を生じさせるラベリングとして理解できる20。

 ラベリングすることがどんなに事を悪くするかということにばかりに一生懸命になりすぎて、その主張の限界を明確にすることをしてこなかった、とブレイスウエイトは言う21。「社会統制が逸脱を悪化させる」という点ばかりを強調してしまった結果、犯罪統制に対してシニカルになり、放っておけば一時的なものに過ぎない逸脱行為には介入するべきではないという不介入主義や、逸脱者に対してリベラル的寛容と理解を示した方が賢明なのだという風潮を招いた22。しかし、「利益のあがる製薬に対する禁止令を解除するよう厚生大臣に賄賂を贈るようなドラッグ生産者を犯罪者とラベリングすることや、レイプ犯を犯罪者とラベリングすることは本当に逆効果なのだろうか」23 とブレイスウエイトは言う。些細な少年犯罪に対するラベリングと、女性へのある種の性的虐待やホワイトカラー犯罪に対するラベリングとは違うだろう。あらゆる犯罪や逸脱に対してラベリングを止めるのではなく、犯罪や逸脱の内容によってラベリングするべきかどうかを明確にする必要があるのである。

多様性を容認するということは、些細で取るに足らない逸脱に対する過剰な非生産的取締りを避けるためには重要であるが、同時に、多様性に対する不寛容は犯罪統制にとって決定的に重要な意味をもつ24。

 つまり、 ・Reintegrative Shaming:犯罪を減少させるラベルリング ・Disintegrative Shaming (⇒ stigmatization):犯罪を生じさせるラベリングということになる。

                19 Ibid., p. 20.20 Id.21 Id.22 Ibid., pp. 18-20.23 Ibid., p. 20.24 Id.

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5.フォーマルな社会統制からインフォーマルな社会統制へ

It would seem that sanctions imposed by relatives, friends or a personally relevant collectivity have more eff ect on criminal behavior than sanctions imposed by a re-mote legal authority.25

 それは以下の理由によると主張する。

This is because repute in the eyes of close acquaintances matters more to people than the opinions or actions of criminal justice offi cials.26

個人が恐怖によって逸脱を思いとどまるという場合には、当該の恐怖は、彼(女)の逸脱が、知り合いや全体としてコミュニティの中での尊敬やステイタスの喪失を引き起こすのではないかという恐怖である可能性が最も高い(Tittle, 1980)27。

重要な他者(signifi cant others)による shaming は、個人的に関係のない国家による shaming より効果がある。われわれの多くは、われわれが定期的に会う隣人によってもたれる評判について気にするほど、(人生でたった一度会う)裁判官がわれわれのことをどう思うかについてあまり気にしないだろう。さらに言えば、接触の頻度(frequency of contact)は、たとえ国家による shaming―より権威的である―の方がより効き目があるとしても、shaming が与えられる頻度の点で、コミュニティによる shaming ほど有効ではないだろうということを意味する。裁判官が私に冷酷なまなざしを向けられるのはたった一度の機会だけしかないのに対し、私は毎日隣人の冷酷なまなざしに耐えなければならないかもしれない28。

5.1. 基本は文化的コミットメントとファミリー・モデル ブレイスウエイトは、Crime, Shame and Reintegration の4章The family model of the criminal process:reintegrative shaming の冒頭でこのように書いている。

If we are serious about controlling corporate crime, the fi rst priority should be to create a culture in which corporate crime is not tolerated. The informal processes of shaming unwanted conduct and of praising exemplary behavior need to be em-phasized.29

Fisse & Braithwaite, The Impact of Publicity on Corporate Off enders, 1983.

                25 Ibid., p. 69.26 Id.27 Ibid., p. 70.28 Ibid., p. 87.29 Ibid., p. 54.

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もしわれわれが企業犯罪を統制することに本気であるなら、真っ先に優先することは、企業犯罪が許容されないという文化をつくることでなければならない。迷惑な(好ましからざる)行為を shaming するインフォーマルなプロセスと立派な行動を誉めるというインフォーマルなプロセスは強調される必要がある。

 上記は企業犯罪に関する研究であるが、ブレイスウエイトは「企業犯罪」というところを通常の「犯罪」にしても shaming は有効であると確信したようである。そのことを示すためにCrime, Shame and Reintegration を書いたと言っている30。なによりも shamingする「文化」をつくることが肝要だと強調している。

Cultural commitments to shaming are the key to controlling all types of crime.31

 また、最も有効な reintegrative shaming が見られるのは愛情あふれる家族の中であると言っている。

Family life teaches us that shaming and punishment are possible while maintaining bonds of respect.32

 家族の中では、いたずら・ちょっとした逸脱行為・攻撃的行為等々は日常茶飯事である。その場合、親によって子どもに科される shaming や罰にもさまざまなスタイルがあろう。しかし、shaming や罰によって、永久に親子の関係を終結させるようなものは特殊な例を除いてはない。家族は、子どもを shaming したり罰したりしたあとも家族であり続ける。そのようなとき、どのようなしかり方、shaming や罰が効果的だと考えるか。Shamingし罰しながら、かつ家族としての愛情ある絆が壊れない方法は何だろうか。それは、rein-tegrative shaming であるとブレイスウエイトは言うのである。

Our theory predicts that cultures in which the ‘family model’ is applied to crime control both within and beyond the family will be cultures with low crime rates.33

 したがって、ファミリー・モデルが犯罪統制に使われるような、そういう文化をもつことを求めたものが reintegrative shaming 理論の基本なのである。

6.Shaming

6. 1. Shaming とはどのようなものか Shame と Guilt に関するよくある定義は、たとえば、                30 Ibid., pp. 54-55.31 Ibid., p. 55.32 Ibid., p. 56.33 Ibid., p. 57

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Guilt = a failure to live up to the standards of one’s own conscience.Shame = a reaction to criticism by other people.

といったものであるが、このような区別をブレイスウエイトは否定しない。むしろ大事な点は、

‘guilt-induction’ は guilt を促す人によって常に shaming を暗に含んでいるし、(後に議論するが)、より広い社会的文脈において、guilt は shaming という文化的プロセスによってのみ可能となるからである。われわれの理論にとっては、guilt を促すこと(引き出すこと)と shame することは同じ社会プロセスのほどけない部分なのである。

You cannot induce guilt without implying criticism by others. われわれに guilt をもたらす良心は当該文化において shaming によって形成されるからである。

 では、実際にどのようなものが shaming なのだろうか。

それは、眉をひそめることであり、舌打ちをすることであり、人を傷つけるような悪意に満ちたコメントであり、背を向けることであり、頭を軽くゆすることであり、笑い、といったような些細なこと(微妙)であるだろう。いかに加害者が責任を感じるべきかについて、あるいは加害者の行為に対して身内や友人たちがいかにショックを受けているかについて、忠告されるような直接的な言葉による対決であるだろう。加害者に戻ってくるようなゴシップによる間接的な対決であるだろう。マスメディアを通して、あるいは(フェミニストがレイプ犯の家の正面フェンスにスローガンをペイントするといったような)私的な伝達手段による広がりであるだろう。法廷において裁判官によって公式に宣告されるものであるだろう。政府による発表。映画…。34

 上記の例から、shaming とは外からの非難のようなものとしてとらえることができるのではないだろうか。そして、その shaming にはさまざまなかたちがあり、それらの多くは文化的に特定されるものである35。

6. 2. なぜ shaming なのか――Shaming までの道―― Labeling、Subcultural、Control、Opportunity や Learning 理論などの伝統的な犯罪理論の中でブレイスウエイトが最も影響を受けたのは、ハーシー(Hirschi, 1969)のコントロール理論であろう。「コントロール理論は、全ての諸個人は見返りのある犯罪行為に手を染める多くの誘惑にさらされていると前提する」36。つまり、人間は誰もが罪を犯す可

                34 Ibid., pp. 57-58.35 Ibid., p. 58.

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能性があると考え、このような、至るところにある誘惑に直面して、「何故(彼)女は犯罪を行なったのか?」ではなく、「何故(彼)女は犯罪を行なわなかったのか?」というふうに問いを転換したのである37。そして、ブレイスウエイトも「何故人は犯罪を思いとどまるのか」と考えた。

抑止というのは、「社会の道徳的規範を自己に取り込んでしまっている多くの人々にとっては」無関係なものである(Jackson Toby, 1964)38。

人が多くの場合法を守るのは、罰を恐れているからではなく、ましてや shaming を恐れているからでもない。そうではなく、犯罪行為というものが単に人々にとって嫌悪感を抱かせるものだからである。多くの重大な犯罪は、多くの人々にとって考えられない(unthinkable な)行為なのである。それらの人々は、法を遵守すべきかどうか決めるに先立って、犯罪のコストとベネフィットを合理的に比較考慮しているわけではない39。

 「人が多くの場合法を守るのは、罰を恐れているからではなく、ましてや shaming を恐れているからでもない」という箇所のみを聞くと、では何のために shaming する必要があると言うのか、犯罪抑止のため shaming を有効に使っていこうという主張と矛盾していないかという疑問がでてくるだろう。しかし、もし shaming を恐れているから犯罪をしないというのであれば、それは罰と同じことである。「なぜ犯罪をしなかったのか」、それはあとで shaming されるから、罰せられるからではなく、「それが shameful な(恥ずべき)行為だから」、「私は恥ずかしいことをしたくないから」しないのである。そして、そう思う人―社会の道徳的規範を自己に取り込んでしまっている多くの人々―にとってそのような行為は嫌悪感を抱かせる、考えられない(unthinkable な)行為なのである。

なぜ多くの重大な犯罪が多くの人々にとって考えられない(unthinkable な)行為なのかを理解するために、shaming は決定的に重要な意味をもつ40。

The unthinkableness of crime is a manifestation of our conscience or superego.41

For Eysenck (1973: 120) conscience is a conditioned refl ex. 良心は条件反射である42。

 犯罪行為は嫌悪感を抱かせる、考えられない(unthinkable な)行為であるという考えをもつことは良心の現れであるとブレイスウエイトは言う。この場合、そのような犯罪行                36 Ibid., p. 27.37 Id.38 Ibid., p. 71.39 Ibid., p. 71.40 Id.41 Id.42 Id.

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為をしないということは内面化されている。そして、その内面化のために shaming が重要な役割を担うのである。どのように良心がかたちづくられるのかについて以下の例をあげている。

As infants we have many experiences where minor acts of deviance are associated with smacks, rejection, spells in the corner, reprimands, and other unpleasant stim-uli. These experiences attach conditioned fear and anxiety responses to the deviant behavior. Names like ‘bad’ and ‘naughty’ also become associated with these unpleas-ant events and in time also produce a conditioned anxiety response.この言葉によるラベリングはさまざまなタイプの不品行を ‘bad’ や ‘naughty’ としてグループ化する一般化プロセスへの鍵である。そして、‘bad’ や ‘naughty’ は全てconditioned anxiety を引き出す。そのうちに、 ‘naughty’ や ‘evil’ として意味づけられるような、より抽象的な「犯罪」概念をともなって、この一般化はさらに進む。良心の習得と一般化がどの程度に条件付けなのか /認知プロセスなのかという論争は心理学者に任せることにする。重要な点は、良心は習得されるということである43。

For adolescents and adults, conscience is a much more powerful weapon to control misbehavior than punishment.44

For a well socialized individual, conscience delivers an anxiety response to punish each and every involvement in crime ‒ a more systematic punishment than hap-hazard enforcement by the police.法廷で決定される刑罰とは違い、不安という反応は遅れず起きる(直ちに生じる)。法によるどのような刑罰も犯罪から得る見返りよりかなり後からやってくるのに対して、確かに不安という罰は犯罪から得る見返りに先行する。それゆえに、多くの者にとって、われわれ自身の良心による罰は、刑事司法システムによる罰よりより効き目のある脅迫となる45。

Shaming は、子どもの中に良心を形成させるというファミリー・プロセスを保証する社会プロセスとして重要である46。

 ここで、ブレイスウエイトは、shaming は社会プロセスであると明言している。犯罪というものが、多くの人々にとっては考えられない(unthinkable な)ものであり、このような考えられなさは人々の良心に関係し、良心による罰の方が刑事罰より効き目があり、そのような良心を形成させるためにファミリー・プロセスが、そのようなファミリー・プロセスを保証するために shaming が重要であると主張する47。つまり、                43 Ibid., p. 71..44 Id.45 Ibid., p. 72.46 Id.

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Shaming という社会プロセス→ファミリー・プロセス→良心の形成→犯罪とは考えられない(unthinkable な)行為

ということである。この点は極めて重要であるので、さらに詳しくブレイスウエイトの主張を引用する。

Shaming はそれ自体、重要な子育ての実践である。shaming は責任ある愛情豊な親の手にある有用な道具である。しかしながら、子どもの道徳性が発達し、社会化が外在的統制に対する応答から内面的統制に対する応答(責任)へと変化するにつれて、直接的な shaming のかたちは induction より効果的ではなくなる。Induction とは、子どもが他人に対してもつ優しい感情や敬意に訴えかけること、正悪に対する子ども自身の基準に訴えかけることである。確かに、子どもが成長するにつれて、直接的なshaming のかたちに頼ることは induction に頼るよりも効果的でないといういくつかの証拠がある。ちょうど、罰や権力を行使するしつけに過度に頼ることはのちの非行に関係があるという多くの証拠があるように。おそらく、外在的統制のために、内面的統制の成熟を抑えてしまうからだろう48。

 shaming は外在的統制であり、それゆえ子どもが成長するとあまり効果的ではない。子どもがまだ小さいころは、「そんなことしちゃダメでしょ!」といった、有無を言わさない外からの統制が有効であったが、なぜ怒られるのか、なぜこの行為はしてはいけないのか、などについて思考できるようになるとそのようなしかり方は効果がない。むしろ、「そんなことしたらおばあちゃんはどう思うかな?」「なぜそんなことをしたの?」といったように、子どもに問いかけ、子ども自身に考える機会を与える方が効き目がある場合が多い。

しかし、外在的統制はなお背景に控えていなければならない。もし良心の成熟がそうあるべきであるように進めば、直接的な Shaming のかたち(罰においてはもっとそうであるが)に頼ることは次第に少なくなる。しかし、良心がわれわれ全てを裏切る時期が度々あり、妥協した良心の結果として再教育コースが必要となる。このようなバックストップの役割として、shaming にはフォーマルな罰よりも優れた利点がある。Shaming は罰よりもシンボリックな内容に満ちている。罰というのは、規範に従うことを雑なコスト&ベネフィット計算に還元することによって、犯罪者がもつ道徳への信頼を否定することである。他方、Shaming は、そのようなあなたに相応しくない行為をしてしまったのかと(あなたは人が変わってしまってそのようなことをしたはずであると)個人的な落胆を表明することによって、そして、もし shamingが再統合的であれば、犯罪者の人格が修復されたことを見て個人的な満足感を表すこ

                47 別のところで、「Shaming はあるタイプの犯罪が考えられないものであるという認識に導く社会プロセスである。Shaming の社会プロセスが弱められている文化は、市民がしばしば犯罪への嫌悪感を内面化していない文化である」とも述べている(p. 81)。48 Ibid., p. 72.

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とによって、犯罪者の道徳性を再確認できる。罰は、関係を権力の行使と被害の関係に変えることを通して、犯罪者と罰を与えるものとの間にバリアをつくる。Shamingは、それが痛みを伴うにもかかわらず、双方の間により強い相関性を作り出す。その相関性とは、烙印に対する嫌悪あるいは再統合の後に起こるより肯定的な関係の可能性を秘めた構築を引き起こすことができる相関性である。罰は多くの場合 shamefulであり、shaming は通常罰することである。しかし、罰が、shaming と結合した非難からのみ象徴的な内容を得るのに対し、shaming は純粋に象徴的な内容をもつ49。

犯罪に対する報酬とコストを単に変化させることに基づくコントロール戦略より優れている、shaming の良心を築く効果は、shaming の参加的な特性によって高められる。実際の罰が一人の人間あるいは限られた数の刑事司法関係者によって与えられるのに対して、罰と結合している shaming はコミュニティのほとんど全てのメンバーを巻き込むことができるだろう50。

他者の犯罪行為に対する嫌悪の表現に参加することは、犯罪というものをわれわれにとってそれを為すことが嫌悪すべき選択とさせていることの不可欠な要素である51。

 つまり、「何てひどいことをしたんだ!」と非難することは、その犯罪がそのように嫌悪すべきものであると言っていることである。この点は非常に重要である。単に人が非難するからではなく、自分自身もその行為を非難する・嫌悪するということは、その行為をしたくない・選択しない、ということにつながるだろう。 次に、外からの shaming 非難ではなく、自己が為す自分自身への shame についてみていこう。

自分自身を shame するとき、それは良心の呵責を感じ、自己を shame するに足る対象として扱うことによって他者の役割を受け入れるときである(Mead, 1934; Shott, 1979)。われわれは犯罪者や悪人を shaming することに他者とともに参加することを通してこのことを学習するのである。内在的統制は外在的統制の社会的成果である。当該文化において事前の外在的統制という存在を通して統制が内面化されたときのみ、自己規制が外在的仲介(agent)による社会統制に取って代わることができる52。

 つまり、外在的統制としての shaming があってこそ、それを内面化し自己規制することができるのだとブレイスウエイトは言っているのである。Shaming によって、個人の中にある良心や自分自身を非難する能力を育てることができるのである。 次に、日本における shame 文化について以下のような素晴らしい点があるとしている。

                49 Ibid., pp. 72-73.50 Ibid., p. 73.51 Ibid., p. 74.52 Id.

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再統合的に shame する日本のような文化は shaming の儀式の後に悔恨と再受容の儀式が続く。良心を築くためにそのような文化がもつ素晴らしい利点は一つの儀式ではなく二つの儀式があるという点である。しかし、より決定的な点は、二つの非常に違った領域からの道徳的秩序の肯定である。傷つけられた側と傷をもたらした側との両方からの道徳的秩序の肯定。特に、道徳秩序を侵した当人が隠れず出てきて、自身の違法行為の悪を認めるとき、道徳秩序は特別な種類の信用を得る53。

 これは、われわれがよくTVで目にする謝罪のことを言っているのだろう。企業の重役などがテレビカメラを前に深々と頭を下げている光景は、以前は日本の奇妙な姿として描かれることが多かったが、このような肯定的な評価も可能であったとは興味深いものがある。また、そのさまをブレイスウエイトが「儀式」と呼んでいる点も適切な表現である。なぜだか分からないが本当に謝っているのかどうかが理屈なく分かる場合もあるし、本当に心から謝っているのか分からない場合も多々ある。しかし、謝罪が真であるかどうかが問題なのではなく、加害者側が表に出てきて頭を下げるという象徴的な謝罪儀式によって、侵害された社会秩序が肯定され信用を得ることが重要なのである。そのための儀式なのである。 また、謝罪というものをゴフマン(Goff man: 1971: 113)の言葉を援用しつつ、自身のreintegrative shaming を説明している。

これは、ゴフマンが disassociation と呼ぶものによって達成される。   謝罪は、人が自分自身を二つの部分に分けることを通した行為(ふるまい)である。犯罪行為について罪ある部分と、違法行為から自身の有罪である部分を切り離して考え、侵害された秩序の中にある信頼を肯定する部分とのふたつである54。

したがって、Goff man の言葉を使うなら、reintegrative shaming は自己をまず特別抑止効果、一般抑止効果、道徳教育効果、恥の対象である非難に値する部分に分けることによって、同時に第二の自己の部分は後ろに下がって上記の効果が達成できるように非難を与える道具としてコミュニティに参加することによって達成される。この第二の自己の部分は許され、再統合される部分でもある55。

日本の reintegrative shaming に関する Goff man の解釈は、したがって、shaming の道具であり同時に reintegration の対象でもある「真の」自己を、shaming の対象である自己の悪の部分から分離することであるかもしれない56。

 要約すると以下のようになる。① 非難に値する部分=特別・一般抑止効果の対象、道徳的教育効果の対象、shaming

                53 Ibid., p. 74.54 Id.55 Ibid., p. 75.56 Id.

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の対象。② 離れたところにいて、上に挙げた効果が達成できるよう手助けする、非難を与える側の道具として、共同体に参加する。許され、再統合される自己。

したがって要約すれば、shame は社会統制を達成するために二つのレベルで機能する。第一に、重要な他者による社会的是認はわれわれが失いたくないものであるから、shame は犯罪行為を抑止する。第二に、そしてより重要なことであるが、犯罪と関連する外在的 shaming が何ら無い場合でさえ、shaming も悔恨も内面的に犯罪行為を抑止する良心を築く。Shaming は二つの全く異なる種類の罰するものを存在させる。それらは、社会的非難と良心の呵責である57。

 ここで、shame の二つの機能が示された。犯罪を抑止する点と(内面的に犯罪行為を抑止する)良心を築く点である。そして、shaming には社会的非難と良心の呵責という二つの罰があるのである。

6.3. Shaming に関するブレイスウエイト自身の経験談―The Mechanics of Gossip―

具体的な子育て戦術としてより、より広い文化的プロセスとして shaming はより重要であると以前に述べた。なぜなら、shaming なしでは、良心を確立することが困難であるからである。社会化するということに内容を与えているのは社会の中でのshaming の存在である。

 つまり、shaming なしでは、形だけの社会化で中味がなく空っぽであるということである。次に、shaming に関するブレイスウエイト自身の経験をみてみよう。

私の隣人がギャンブルに関する食い違いが原因で地元の肉屋に殺されたとき、殺人とはいかに恐ろしいものであるかについて学んだことを覚えている。私の母がその出来事について道徳的に話したこと(moralizing)を覚えている。肉屋を shaming し、それが肉屋の両親にとっていかに不名誉なことであったかについて話しながら。このような shaming が隣近所のどの家でも行われていたことは疑いようがない。そして、そのプロセスにおいて新しい内容が若い良心に加えられていたのである58。

近隣の誰かが実際にその家族と shame をもって対峙したかどうかは疑わしい。彼らはそうする必要がなかった。肉屋の家族は道徳的に話すことやゴシップが広まっていたことを知っていただろう。代わりに、人々は何か大変ひどいことが起こってしまったと、その家族に同情を示す傾向にあった。例外は知的障害がある若者Eddie だった。彼が「おれはなんで『x』がこの店にもう働いていないのか知っている!奴が何をし

                57 Id.58 Ibid., p. 75.

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たのか知っている!」と大声で叫んだとき、彼は肉屋の当惑した客によって黙らせられたのだった59。

言い換えれば、Eddie の件は別にして、shaming は関係する肉屋の家族の耳に届いていなかったが、再統合のジェスチャーは届いていた。(訳者注:肉屋の家族に直接恥づけをしようとする者はいなかったが、人々が肉屋の家族を再び社会に迎えようとする行為は肉屋の家族に分かった)。これが、このように reintegrative shaming がそのように頻繁に功を奏するかである。再統合のための、受容・後悔を示すための、オープンに表現された努力と、逸脱者と彼の家族がゴッシプのことを忘れるようにさせ、新しくスタートさせるための必要性と結合した、逸脱者や彼の家族が決して直面することのないゴシップ(しかし、彼らはそれが避けがたく起こることは知っている)。密かで間接的なゴシップが再統合のためのオープンで直接的なジェスチャーと一体になっている60。

グラックマン(Gluckman, 1963)によれば、ゴシップはコミュニティの価値を具体化し強固にするために非常に重要である。けれどもこれらの人類学者は、多くの社会では人に面と向かって(公然と)ゴシップすることを強烈に避けることがあるということを示している(e.g. Campbell, 1964)。彼らは、もしコミュニティのメンバーがゴシップしたら、ゴシップは対立を生じさせることになり、実際に暴力的な反応を引き起こすことになるだろうと主張している。その代わり、ゴシップはそのグループの密着と結束を促進する61。

 日本において、ゴシップするという行為が表向きには非常に低く評価されるため、(もちろん、それはゴシップすることに対するゴシップの所為だとも言えるが)、実際はほとんどの人がゴシップに参加しているにもかかわらず公にゴシップするということを咎めるという傾向があるにしろ、ゴシップによってグループの密着と結束を促進するということは多いにあるだろう。ゴシップという行為が低く評価されるのは、敵意を含むような否定的なゴシップや事実関係が曖昧なゴシップである場合が多いが、明らかな事実に関するものであると一般市民が考えるものに関してはゴシップは非常に重要な社会的非難となる。 また、ゴシップが仲間の密着と結束を強めるということ以外にも、ゴッシプによってわれわれが学ぶことがある。

他者に対して密かにささやかれるゴシップを聞いたり、ゴシップに参加したりすることによって、われわれは、人がゴシップを通して信望を失い苦しむという状況を学習する。したがって、(人にゴッシプされるような)同様な行為を自分がしたとき、たとえ直接耳にするわけではないにしても、他者が自分に対してゴシップしているだろうということを知るのである。われわれはそういう文化を学習するのである62。

                59 Ibid., pp. 75-76.60 Ibid., p. 76.61 Id.

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6.4. なぜコミュニティ規模の shaming が必要か―shaming の社会的プロセス― 家庭内での shaming だけでなく、なぜコミュニティ規模の shaming が必要かについて以下のように述べている。

コミュニティ的広さをもった shaming は必要である。なぜなら多くの犯罪は平均的な家庭の中では体験されないからである。子どもたちは、地元の肉屋への糾弾やテレビ画面での遠く離れたイメージを通して、殺人・レイプ・自動車窃盗・環境汚染犯罪等の悪について学ぶ必要がある。近所で子どもたちに個人的に知られている地元の犯罪者への shaming は特に重要である。なぜなら、悪行と shaming は永続する印象を残すほど非常に強烈だからである63。

子どもの社会化において、多くの shaming はもちろん物語を通しての(他人の経験を通じて自分のことにように感じられるような)想像上のものである。それらは実生活の shaming の出来事のようにそれほど強烈ではないので、あまりパワフルではない。しかしながら、それほど多くのタイプの不正な行為が家族や近隣に起こることはないので、想像上の shaming は必要なのである。教訓が明白に描かれ、悪なる行為が明確に定義づけされているような子どもに対する物語がない文化というのは、子どもを道徳的に発達させられなかった文化であろう。人間は物語を語る生き物であるから、自分たちのアイデンティティの多くを「自分自身がどの物語の一部と考えるのか?」という問いへの答えから得る。「子どもたちから物語を奪ってみなさい。それは子どもたちを台本なしで放置することになる。言葉においてそうであるように活動においても不安でつっかえながら動く人として放置することになる」(MacIntyre, 1984)64。

 確かに、幼い頃の自分自身だけの経験はかなり限定されたものでしかない。自分の身内が、隣近所の人が、世の中の人が、世界の人が、ある出来事に対してどれほど憤慨しているか、憤っているか、悲しみにくれているか、等々に触れることによって、自身の経験を超えたところで起こるさまざまな出来事に対するさまざまの人々の評価を学習する。もし、ある行為に対する社会的 shaming がなかったら、その行為を悪いとか、不正であるとか、どのように子どもは学ぶのだろうか。また、もし、ある悪しき行為に対して明白に定義づけがされていなかったなら、その行為をしてはならないとどうやって知るのだろうか。もちろん、その中には偏見や間違いもあるだろう。しかし、そのような社会的 shaming があってこそ、後に偏見や間違いを見抜くことができるのである。

 ブレイスウエイトは、shaming の社会的プロセスについて以下のように要約している。

基本的に、shaming の社会プロセスは実践として三つのことができる65:                62 Id.63 Ibid., p. 77.64 Id.

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1 .主に帰納法(induction)66 を通して起こる日々の子どもの社会化に内容を与えることができる。既に見てきたように、shaming は良心を築く道徳の代理をすることができる。子どもたちの直接の経験を超える悪なる行為は純粋に論理的思考よりもshaming によってより効果的に伝えられる。

2 .shaming という社会的な出来事は、子どもたちに広い範囲の悪事について道徳的に話さなければならないということを親たちに気づかせる。親たちは子どもたちと話し合うために犯罪のチェックリスト(照合表)―悪のカリキュラム-を保持する必要はない。Shaming が重要である社会では、shaming という社会的な出来事が、刑法典が最終的には多かれ少なかれ自動的にカバーできるように、家族内で想像上の(代理的な)shaming に契機を与える。そのようにして子どもはいつか、レイプを行った者に対する非難を目にすることになり、この悪行の根拠について親や他の大人に尋ねたり、あるいは一連のそのような出来事から細切れの情報をつなぎ合わせて物語を作ったりするだろう。もちろん、中途半端に shame する社会は犯罪の全カリキュラムがカバーされないというリスクを負う。しかし、この点、そして最後の点であるが、公の shaming は、親・教師・近隣が十分にシステマチックな私的 shaming を行うよう保証するために親・教師・近隣にプレッシャーを与えるという別の方法で要約することができる。

3 .一旦子どもたちが家族や学校の影響から離れてしまうと、多数の社会的 shamingが、親の社会化に取って代わる。別の言い方をすれば、shaming は人生の早い時期に学習した幼児期の原則の域を超えて一般化する。

7.Reintegrative shaming を行うための社会的条件

 Reintegrative shaming を最も効果的に実践するための社会的条件は、communitarian-ism と interdependency であるとブレイスウエイトは言う。また、「これらは、日本の犯罪状況を研究した犯罪学者が、低い犯罪率・犯罪率減少を保証する日本の成功の核心であると結論した特徴である」67 とも述べている。ここでは、communitarianism の定義をみていく。

Communitarianism 「Communitarianism と interdependency とは相互に密接に関連している概念」68 であり、「個々人が相互に依存しあう集合体は社会的 communitarianism の基礎」69 であるが、相互依存の関係があればすぐさま communitarianism な社会であるという訳ではない70 と

                65 Ibid., pp. 77-78.66 「Induction とは、子どもが他人に対してもつ優しい感情や敬意に訴えかけること、正悪に対する子ども自身の基準に訴えかけることである」と説明している(ibid., p. 72)。67 Ibid., p. 84.68 Ibid., p. 85.

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言う。それは、「真にお互いに助け合い信頼し合うという意味で、人々と community を共有することなく、われわれは人々と相互依存の関係になり得るから」71 である。たとえば、裁判官と被告人は相互依存の関係にあるとも言えるが両者が community を共有しているわけはない。

社会がCommunitarian であるためにはしたがって、濃密に網のように構成された相互依存性が大衆にとって特別な種類の象徴的意味を持っていなければならない。相互依存性とは、関係があるコミュニティ内で、他者に対する個人的義務を引き起こす(invoke)結合(密着)でなければならない。それは利便性についての独立の交換関係というように理解されているのではなく、深遠なグループ義務の問題として理解されている。したがって、Communitarian な社会では、個々の相互依存性が濃密なネットワークと、相互義務への強い文化的コミットメントとが結びついている。個人の相互依存性はグループ忠誠という枠組みの中で解釈される。父と息子という相互依存は家族的義務の象徴的部分であるし、雇用者と被雇用者という相互依存は会社に対する忠誠の部分である。

In summary:Communitarianism の3つの要素 :⑴  densely enmeshed interdependency, where the interdependencies are charac-terized by⑵  mutual obligation and trust, and⑶  are interpreted as a matter of group loyalty rather than individual conve-nience. ↓Communitarianism is therefore the antithesis of individualism.

 現代的な意味での communitarianism には、構成員が基本的に平等であるといった平等概念が含まれているが、ブレイスウエイトは必ずしもそのような概念を前提にしているわけではない、ということを確認しておきたい。 ここであげられている要素とは、弱い自我や近代的でない自我として、あるいは社会に埋没している個人として、近代法モデルとの比較において劣位に置かれていたものに等しい。個人を弱体化するものとして近代法モデルが忌み嫌った上記のような要素が現代において犯罪統制のために必要であるというブレイスウエイトは主張しているのである。 「多くの西欧社会は、communitarianism というよりは個人主義的社会として特徴づけられるかもしれない」72 が、そのことによって、インフォーマルな社会統制を実行する、家族、教会や居住共同体の能力が低下してしまった(Nisbet, 1979)73 とブレイスウエイトは言う。                69 Id.70 Id.71 Id.72 Ibid., p. 86.

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個人主義の思想は、家族や教会や共同体などの親密なグループによる制裁能力を、個人と国家に分解する。皮肉にも、ベイリーが言うように、このことは個人主義的社会が、急増する犯罪問題を処理するために、強制的な国家組織に委ねる他ないことを意味する74。

また、個人主義的思想より communitarianism の衰退の方が重大であると言う。

Communitarian な社会は、個人主義的な社会が出来ないような方法で、隣人や身内や(宗教的)集合体のメンバーによる shaming を可能にする。重要な他者(signifi cant others)による shaming は、個人的に関係のない国家による shaming より効果がある75。

 なぜ、個人主義的思想より communitarianism の衰退の方が重大であるか、それは重要な他者(signifi cant others)の存在にある。個人主義的社会においても、多くの重要な他者(signifi cant others)に恵まれている場合もあろうが、先にあげた communitarianismの3つの要素を個人の自律を妨げるものとして避けてきたため、他者や社会との関係がapathetic になり、同時に respectful social bond が希薄になってしまった。重要な他者(signifi cant others)は respectful social bond によって存在するのである。 自分勝手にふるまい他者がそれに文句言うことは個人の尊重を妨げるものであるといったような考えに対しては個人主義的思想よりも communitarianism な社会の方が多くを語れる可能性があるだろう。しかし、個人主義的思想が上記の自分勝手な行為に対して何も言うことが出来ないという主張をしているのではない。個人主義的思想よりも communi-tarianism な社会の方が社会的非難の効果がある、と主張しているのである。それにはもちろん、自分の行為がどのように見られどのように評価されるかを気にする尊敬できる重要な他者(signifi cant others)の存在がまず必要であるが。

Communitarian な社会は、より有効な shaming を行える能力を持っているだけでなく、より reintegrative な shaming も実行できる。Shaming はしばしば、裁判システムによって国家から直接与えられる shaming のフォーマルな宣言を通して、Com-munitarian な社会において機能する。そして、犯罪者にオープンに表現されないようなスキャンダルやゴシップを通してコミュニティによって間接的に機能する。対照的に、reintegration はしばしば家族や親密な友人たちの仕事である。彼らがやるべきことは、いたわり慈しむことである。それは、たとえ評判に対する打撃が厳しくても、犯罪者は許され、なお愛する人たちによって受け入れられ、愛する人たちは彼(女)がくじけずに毎日を生きていくうえで実践的なサポートを提供するために彼(女)の側にいる、ということを示すことなのである76。

                73 Id.74 Id.75 Ibid., p. 87.76 Ibid., p. 87.

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人文社会科学研究 第 18 号

8. まとめ 

 以上みてきたことから、ブレイスウエイトの reintegrative shaming に関する主張内容をまとめ、私なりの解釈を加えてみたい。 ブレイスウエイトは shaming を、個人の中にある認知・行動の枠組みを変えるためのボタンのようなものとしてとらえている。認知・行動を変化させるために理性的なものがどれ程影響を与えられるのかという問いに対して、近代法は満足な結果をもたらしてくれなかった。むしろ、近代法が措定する理性的かつ独立した主体は、個人責任という名のもとに自分勝手な個人と無責任は社会をつくってしまった。 ブレイスウエイトは決して近代法を否定し、全ての紛争処理をコミュニティや重要な他者の手に戻そうと主張しているわけではない。その意味で、刑事責任を広げようと主張しているのではない。被告人の有罪を認定する際に、刑事責任が帰属させられる主体の範囲を被告人以外にまで広げようと主張しているわけではない。その意味で、近代法の拠って立つところを外そうとは思っていない。刑事責任は近代法のまま、刑事責任が担えない部分を社会的統制力である shaming でやっていこうと主張している。 裁判において、通常の刑事責任を拡大する方向を模索しているわけではない。したがって、その意味では、刑事責任がない人を shaming することは可能である。あなたがもう少し頑張れば、Aさんの犯罪を止められたはずだ、と。しかし、この場合、「お前のせいだ」という言い方で過剰な shaming や謂われない shaming を招き、責められることもあろう。過剰な shaming や間違った shaming にはメタ shaming を使えると考える。過剰に sham-ing する人や間違って shaming する人を shaming することによってよりよい shaming が可能であると考える77。

補足―ネーミングについて―

 明らかに、ブレイスウエイトの reintegrative shaming は、いわゆる「再統合的恥づけ」ではない。また、shaming も「恥づけ」ではなく(社会的)非難である。最初から再統合的に恥づけされることが分かっていれば、恥づけにどのような社会統制力が期待できようか。恥づけという語を使わず、仮に、「再統合的 shaming」とやっても同じことである。ブレイスウエイトの reintegrative shaming を彼の主張内容に沿って忠実に訳すなら、「(社会的)非難、そして再統合」という表現がより適切であると考える78。 「Shaming」という語を使ったことが誤解の一因ではあるだろう。英語圏においても、shaming というのは「恥づける」ことであると一般的に理解されている。もちろんブレイスウエイトのCrime, Shame and Reintegration を読めば、ブレイスウエイトが「非難」という意味で shaming を使用していることは明らかなのであるが。Bas Van Stokkomも                77 Shaming が適切だった場合にどこまで行われるべきか、広がり過ぎると危険ではないのか、という点に関しては現在のところ答えを用意できていない。具体的に 10 軒先、100 軒先の近隣なのか、マスメディアを通して事件を知る遠隔地にいる人たちまで全て含むのか、community の概念をどのようにとらえればよいのかにも関わってくる問題であろう。

Page 24: Chiba U - John Braithwaite, Crime, Shame and …opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900051755/jinshaken-18-11.pdf155 John Braithwaite, Crime, Shame and Reintegration, Cambridge University

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John Braithwaite, Crime, Shame and Reintegration, Cambridge University Press, 1989.

shaming というネーミングに問題があったとしている。Stokkomは Nathan Harris を引用して次のように述べている。

Harris …… argues that the word ‘shaming’ should actually only be applied to what Braithwaite terms ‘stigmatizing shaming’. He casually remarks that shaming is not really necessary for the acknowledging of shame feelings during the conferences. Shame will often occur, regardless of whether shaming occurs actively, formally or at all (Harris, 2001: 200).79,80

 ブレイスウエイトは、Crime, Shame and Reintegration 以降、現状や批判に沿って主張内容を訂正している部分もあるが、このネーミングは変えていない。

参考文献:1)Braithwaite, John, Crime, Shame and Reintegration (Cambridge University Press, 1989).2)細井洋子、西村春夫、樫村志郎、辰野文理編『修復的司法の総合的研究』(風間書房、2006 年)。3)藤岡淳子編『被害者と加害者の対話による回復を求めて』(誠信書房、2005 年)。4)Karstedt, Susanne, Emotions and Criminal Justice, Theoretical Criminology, vol. 6 (3), 2002.

                78 ハワード・ゼア(西村春夫・細井洋子・高橋則夫監訳)『修復的司法とは何か―応報から関係修復へ―』(新泉社、2003 年)では、reintegrative shaming に「再統合・迎え入れのための恥」をあてている(p. 266)。「再統合的恥づけ」よりも「恥をかかせる」というニュアンスが緩やかであるが、やはり「恥」という言葉は使わない方が、ブレイスウエイトの主張内容と齟齬がないだろう。79 Bas Van Stokkom, Moral Emotions in Restorative Justice Conferences: Managing Shame, Designing Empathy, Theoretical Criminology, 2002, vol. 6 (3), p. 351.80 最後の部分に関して、前述のハワード・ゼアも同様の意見を示していた。