学級数 6学級 生徒数 63名...

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公益社団法人 香川県教育会発行 発行日 平成27(2015)年10月1日 第3号   夢は人を育て、人は夢を育てる 第3号 西URL http://k-kagawa.sakura.ne.jp 好きです!わたしたちの校区! 鶴尾中学校の自慢 沿校 名 高松市立鶴尾中学校 住 所 〒761-8052 高松市松並町639番地1 学級数 6学級  生徒数 63名 校長名 増田 聖 T E L (087)867-3382 F A X (087)867-3392 沿使調沿沿西使沿西西西西西西使西本校にて講話中の喜田さん 高木の出水 ウォッチング ウォッチング ズームイン ズームイン

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Page 1: 学級数 6学級 生徒数 63名 鶴尾中学校の自慢k-kagawa.sakura.ne.jp/pdf/H27turuochu.pdf公益社団法人 香川県教育会発行 夢は人を育て、人は夢を育てる

公益社団法人 香川県教育会発行 発行日 平成27(2015)年10月1日 第3号  夢は人を育て、人は夢を育てる

第3号

夢づくり 

人づくり新聞

発行者 

公益社団法人 

香川県教育会長 

松平賴武

〒七六〇

〇〇〇四

高松市西宝町二丁目六番四〇号

香川県教育会館内

電話・FAX(〇八七)八三四

一〇五五

URL http://k-kagaw

a.sakura.ne.jp

印刷所 

株式会社太陽社

発行者のねがい

 

学校や地域の良さを県下の友

達に発信し、郷土香川で学ぶ喜

びを分かち合おう。

 学校や地域の良さを自覚し、

郷土香川を大切にする心を忘れ

ず、世界に羽ばたこう。

好きです!わたしたちの校区!

鶴尾中学校の自慢

沿 革

昭和二十二年四月、

高松市立鶴尾小学校

に併設する形で創立。

昭和三十年代には、

全校生徒が七八○名

を超える。昭和五十

年十月、現在地に鉄

筋校舎が完成。卒業

生は七、七〇六名を数

える。平成二十一年

二月には新体育館が

落成。小規模校の特

性を活かして新たな

歴史が刻まれている。

校 名 高松市立鶴尾中学校住 所 〒761-8052 高松市松並町639番地1学級数 6学級  生徒数 63名校長名 増田 聖T E L (087)867-3382F A X (087)867-3392

喜田さんは、十二歳の

時、現在の亀井町で高松空

襲を体験されました。高松

の街は、二時間に及ぶ空襲

によって、死者一、三五九

名、罹り

災さい

者しゃ

八六、四〇〇名、

被害建造物一八、九一三戸

という大きな被害を被った

そうです。「当時、空襲に

なっても逃げてはいけない

と言われていた。父は逃げ

ず、私は家族とともに逃げ

たが、空襲後には、たくさ

んの遺体を目の当たりにし

た。」ところが、翌日の新

聞には「最後の勝利は日本

にあり。市民敢闘、午前十

時鎮火」という小さな記事

が出ているだけでした。ま

た、三十八歳の頃、図書館

で手にした郷土史では、「高

松にも空襲がありました

が、戦後、復興しました。」

とたった

一行しか

書かれて

いません

でした。

「目の前

であれだ

け多くの

尊い命が

奪われ、

怪我をし

たにもか

かわらず

その悲し

みや涙の部分が歴史に残さ

れていない。」と喜田さん

はショックを受けたそうで

す。そ

こで、自ら犠牲者の遺

族を訪ね空襲体験を記録す

る「聞き書きボランティア」

を始めました。勤めていた

鉄工所の仕事を終えた後、

犠牲者の遺族宅を訪問して

話を聞く毎日。突然の訪問

に相手にもしてくれず、門

前払いの繰り返し。疲ひ

労ろう

困こん

憊ぱい

と敗北感にまみれた日々

でした。それでも五年間の

聞き取りで、二百件ほどの

話が集まりました。「空襲

で亡くなられた方々の声な

き声を伝えたい。無念の死

を遂げた多くの人々の思い

を伝えたい。」

ところが、聞き集めた内

容を本にするために文章を

整理しようとしていた矢

先、喜田さんは仕事場での

事故で両手を骨折し、右手

の指を一本失ってしまいま

した。それでも指にペンを

巻き付け、病院のベッドで

文章を書いたそうです。

そして、ついに「高松空

襲を記録する会」によって、

本としてまとめ上げられま

した。一九七三年、四十一

歳の時に一冊目、五年後に

二冊目が発刊されました。

現在、「高松空襲の語り

部」として集会や学校に招

かれて平和のための活動を

続けられています。鶴尾中

学校でも、平和学習の一環

として、毎年講師としてお

招きして、高松空襲のお話

を伺っています。講演会で

は、ご自身の体験より聞き

取りをした内容を中心にお

話を進められます。「僕は

今生きて、こうしてお話が

できますから。あの日亡く

なられた方々は、伝えたく

ても伝えられません。お年

寄りも中学生も、お母さん

の背中で亡くなった赤ちゃ

んもいました。その方々の

思いを伝えなければと思う

のです。」

朝、中学校の正門でお会

いして挨拶を交わすことも

ある喜田さんが、こんな体

験や活動をされていたとは

思いもよりませんでした。

喜田さんには、今後も、元

気にご活躍されることを

願っています。

鶴尾中学校は、全校生

徒六十三名の小規模校で

す。本校には、「ひとり

はみんなのために

みん

なはひとりのために」と

いう生徒会スローガンが

あります。「みんなが笑

顔で過ごせる学校や地域

にしたい。誰かの役に立

ちたい。」という思いか

ら、「生徒会三大運動」

である「あいさつ運動」

「花いっぱい運動」「ク

リーン作戦」の三つの活

動を設定し、継続的に取

り組んでいます。

「あいさつ運動」で

は、毎日、正門前でなか

まや地域の方々にあいさ

つを行っています。生

徒会本部役員以外の生徒

も自主的に参加したり、

保護者や地域の方々も参

加していただいたりと、

気持ちのよいあいさつで

一日がスタートしていま

す。あいさつ運動で、朝

の正門は明るい雰囲気に

包まれています。

鶴尾中正門や生徒玄

関、廊下には、季節ごと

のいろいろな花が並び、

私たちを優しく迎えてく

れます。この花は、「花

いっぱい運動」で季節ご

とに花の植え替えをした

ものです。一鉢一鉢、生

徒一人ひとりが自分の花

を咲かせようと、丁寧に

水やりや草抜きを行い、

命を大切にする優しい気

持ちを育んでいます。

「クリーン作戦」で

は、毎月一回、放課後に

ボランティア清掃の日を

設けています。生徒数が

少ないので、普段の清掃

で行き届かない所をきれ

いにしたり、草抜きをし

たりしています。また、

年に一回、エリアを広

げ、校区内の清掃も計画

し、実施しています。歩

道や国道沿いのゴミ拾

い、草抜きを生徒だけで

なく地域の方々や保護

者、関係団体の方々も多

数参加し、地域がきれい

になっていく喜びを感じ

る瞬間です。

今後も、生徒会三大運

動を通じて、誰かが気づ

き、考え、行動し、その

輪を広げていきたいと考

えています。そして、な

かまとの絆を深め、鶴尾

中学校のよいところを

もっともっと発信してい

きたいと思います。

「子どもたちに自己表現

の場をつくり、それに向け

て練習に取り組むことで自

信をもたせ、なかまとのつ

ながりを実感させたい」と

いう思いから、一九九七年

に鶴尾中学校で鶴尾太鼓は

発足しました。当時、田村

文化センターに保管されて

いた太鼓、鶴尾中学校にあ

る太鼓、他の中学校から借

りてきた太鼓の三鼓でのス

タートでした。その後、太

鼓数も増え、三年生が文化

祭で演奏を披露するように

なりました。三年後には鶴

尾小学校も演奏を始め、そ

れに続いて田村・鶴尾の両

保育所でも樽太鼓を使った

演奏を始めました。地域に

広がった太鼓演奏は、地域

の方々の協力によって、鶴

尾校区のシンボルとなって

います。

私たちは、人権学習で

「労働と文化」について学

習します。差別に負けずた

くましく生きてきた人たち

の生き方に共感し、感動

し、自分の生き方について

考えます。その思いを込め

て太鼓を打ち、太鼓の響き

を合わせることを通じてな

かまと心をひとつにするこ

とをめざしています。それ

が達成できた時、自分に自

信をもつことができ、自分

や地域を好きになっていけ

ると考えています。

昨年、全国人権・

同和教

育研究大会が香川県で開催

され、オープニングで演奏

を披露する機会をいただき

ました。全国から一万を超

える人が集まるなか、田村

鶴尾両保育所の樽太鼓、

鶴尾小学校、鶴尾中学校の

和太鼓の音を会場に響き渡

らせることができました。

参加者の多くから「心に残

る演奏が聴けて、よかっ

た。」という声をいただき

ました。大観衆を前になか

まとともに大舞台で演奏を

やり遂げた体験は大きな自

信になりました。

鶴尾の町や人について調

べてみると、自分たちが恵

まれた環境の中で生活して

いることが分かります。ふ

るさと「鶴尾」を誇りに思え

る場所にするためにも、鶴

尾の良さを見つけ、伝えて

いきたいです。

編集後記

現在の県道二六六号線、私

たちの中学校の前を走る道

路です。街道沿いには、緑

の松並木が植えられ、そこ

から「松並町」という町名

がつけられたそうです。松

の緑に、きっと旅人は癒い

れたことでしょう。このよ

うに、私たちの故郷は、豊

かな水に恵まれた素晴らし

い町です。水は緑を育み、

産業を支え、そして私たち

の暮らしを潤してきたので

した。

ている栗林公園は、国から

「特別名勝」に指定されて

いるほどの名園ですが、そ

の敷地は、八兵衛が大改修

を行う前は、ほとんどが香

東川の河床でした。香東川

の大改修に併せて、その豊

富な湧き水を利用して築庭

したもので、その原型は、

この時、八兵衛によって造

られたと思われます。「大

禹謨」が発見された場所の

すぐ近くを、現在の香東川

に沿って、小川が流れてい

ました。これこそが、かつ

ての香東川本流の名残では

ないでしょうか。現在で

は「大野の出水」と呼ばれ

ている所です。すなわち、

私たちの「ふるさと鶴尾」

に、いくつもある出水や小

学校の前を流れる「御坊

川」は、かつての香東川本

流の名残であると考えまし

た。現

在の「紙町」は「紙す

きの町」と呼ばれていまし

た。それは、昔からここで

は製紙業が盛んだったから

です。ではなぜ製紙業が盛

んになったのでしょうか。

それは、この町を東から西

へ横切る御坊川が流れてい

たからです。その水を使っ

て紙をつくることを発案し

たのが、鶴尾出身の南部伊

平です。その伝統を受け継

ぎ、かつてこの付近には、

製紙工場があったそうで

す。現在、製紙工場は残っ

ていませんが、製紙の原料

となる古紙の販売会社は校

区に数多く残っています。

かつて香東川本流が、私

たちの故郷に流れていた当

時、その土手沿いには金比

羅街道が走っていました。

かつての香東川本流は川

幅がとても広く、現在の栗

林公園から田町商店街まで

あったそうです。そして幾

度となく氾濫を起こしてい

ました。香東川本流の下流

には、江戸時代まで城下町

がありました。この城下町

を洪水から守るため、東西

の流れのうち、城下町を流

れる東の河川を、現在の香

川町大野でせき止め、西の

流れ一本にすることにしま

した。一六三七年のことで

す。私たちは、かつて東西

の香東川の分岐点であった

香川町大野に行ってきまし

た。そこには当時、工事の

責任者であった西嶋八兵衛

の直筆とされる「大だ

禹う

謨ぼ

と呼ばれる碑のレプリカが

ありました。「大禹謨」は

八兵衛が東西の流れを現在

の西の流れに一本化した

際、工事の安泰を祈って自

ら書いて地中に埋めたもの

と言われています。洪水で

流されていたその碑を、大

正元年、先ほどの香東川の

分岐点付近の住民が発見し

たのです。今から、約百年

前のことでした。あまり大

きな物ではありません。現

在、実物の碑は、栗林公園

の中庭に移設されていま

す。「大禹謨」が保存され

まず私たちは、校区に存

在していた「出水」を探し

ました。すると、高木の出

水の他に、三箇所の出水を

発見しました。それが「紙

町」「上天神町」「田村町」

の、それぞれに残る出水の

跡です。近所の方にお伺い

すると、かつては農業用水

などの貴重な水資源として

利用してきた出水ですが、

現在は使用されておらず、

中には、ゴミが捨てられて

いる所もあり、今ではその

面影はなく、悲しい気分に

なりました。

では、なぜ私たちの「ふ

るさと鶴尾」には、こんな

にたくさんの出水、そし

て「湧き水」が見られるの

でしょうか。その答えを求

めて、再び「出水の謎」を

追ってみました。この鶴尾

校区の西には香東川が流れ

ています。そして、東側に

は現在「中央通り」や「空

港通り」が走っています。

しかし、古い書物による

と、かつてこの中央通りや

空港通りにも、香東川の本

流が流れていたそうです。

それが、どうして現在のよ

うに香東川は一本化したの

でしょうか。

ふるさと探検隊

出水の謎に迫る

「白し

鷺さぎ

群れし高木の水に心洗われ伸び伸び育つ」これは、私

たちの母校「鶴尾小学校」の校歌に見られる歌詞です。「高木

の水」とは「高木の出で

水すい

」をさし、「出水」とは湧き水のこと

です。何気なく歌ってきた私たちですが、なぜ、私たちの校

区に出水なるものが存在するのか。その謎を追ってみました。

本校にて講話中の喜田さん

高木の出水

ウォッチングウォッチング

響け!鶴尾太鼓

生徒会三大運動

ズームイン!ズームイン!

高松空襲を今に伝える

校区の人 喜田清さん