スエズ危機と1950年代中葉のイギリス対中東政策...

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Hitotsubashi University Repository Title �1950Author(s) �, Citation �, 7(2): 489-510 Issue Date 2008-07 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/15894 Right

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Hitotsubashi University Repository

Title スエズ危機と1950年代中葉のイギリス対中東政策

Author(s) 池田, 亮

Citation 一橋法学, 7(2): 489-510

Issue Date 2008-07

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/15894

Right

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スエズ危機と1950年代中葉のイギリス対中東政策

池  田    亮※

Ⅰ はじめにⅡ エジプト・チェコスロヴァキア軍備協定Ⅲ スエズ危機Ⅳ スエズ戦争Ⅴ 結論

Ⅰ はじめに本稿は、1956年に勃発したスエズ危機と、それに続く第二次中東戦争(スエ

ズ戦争)勃発までの国際政治過程を、イギリス政府の認識を中心に分析するものである。その際、本稿はイギリスの対中東政策全体の文脈でスエズ危機を位置づけることを試みる。以下に説明するようなスエズ危機の持つ特異さもあって、先行研究はスエズ危機をイギリスの対スエズ運河政策の観点のみから考察する傾向があったからである。しかし、現実には1950年代中葉の中東はイギリスにとって極めて重要な地位を占めており、スエズ危機への対応はこの文脈の中で決定されたのである。スエズ危機の端緒となったのは、同年7月に発表されたエジプトのスエズ運河国有化宣言であった。国有化に対して英仏が敵対的姿勢を見せる中、10月29日、イスラエル軍がシナイ半島に侵攻を開始し、ついでイスラエル・エジプト間の調停を名目に英仏軍がともにエジプトを攻撃し、スエズ戦争が開始される。しかし国連を中心とする国際世論の強い非難を浴び、英仏イスラエル三国は11月初旬には停戦を余儀なくされる。加えて、イギリス政府は公式には否定するが、当時から、この三国間にはエジプト攻撃に関する何らかの密約があったと考えられ、それが更なる非難を浴びる理由となった。

このスエズ危機およびスエズ戦争は様々な意味でイギリスの戦後外交政策史上の大きな例外とされ、それ故に大きな学術的関心を集めてきた。スエズ危機がイ

 『一橋法学』(一橋大学大学院法学研究科)第7巻第2号2008年7月 ISSN 1347-0388※ 一橋大学大学院法学研究科客員准教授

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ギリス外交史上の例外とされた理由の第一点は、戦後イギリスの脱植民地化政策がフランスなどと比べて穏健だと考えられていたにもかかわらず、スエズ戦争という形で軍事力を行使したことにある。イギリスは1947年に既にインドとパキスタンの独立を承認するなど、植民地地域への政治的自律性付与に積極的であった。また、フランスとは対照的に、第二次世界大戦中からアフリカ植民地において現地人に政治的権限を委譲し始めていた1)。しかしスエズ危機においてイギリスは、武力による解決を最終的に選択し、戦後の支配的趨勢であった脱植民地化の潮流に抵抗しようとしたとされる。第二にこの戦争は、アメリカ政府の明示的反対を押し切って行われた。戦後の英米関係はしばしば「特別な関係」と呼ばれ、現在でも緊密であるが、スエズ戦争は反植民地主義を標榜するアメリカとの関係を一時的に極度に悪化させた。後述のとおり、アメリカは第三世界ナショナリズムが武力行使によって反西側的色彩を帯びるのを恐れ、英仏とは明らかに一線を画する態度を示し続けていた。第三に、1950年代半ばごろ中東はイギリスの影響力圏であり、イギリスはイラク・ヨルダンなどのアラブ諸国と緊密な関係を持ち、むしろ反イスラエル的であるとみなされていた。しかしスエズ戦争の折には、イギリスはイスラエルとの「共謀」に関与したのである。さらに第四に、イギリスは1956年10月半ばまで運河国際化案による平和的解決を模索しており、しかも同時期には国際化案に極めて好意的だった。にもかかわらず、イギリス政府はその直後に方針転換し、10月終わりには対エジプト攻撃に踏み切るのである。

基本的には先行研究は、戦後の度重なる植民地地域からの撤退に耐え切れなくなったイギリスが、武力行使によって脱植民地化の潮流に抵抗を試みたのだと議論してきた。より端的にいえば、イギリス政府はスエズ運河国際化を拒絶し、武力による運河奪回を選んだ、という主張である。この主張には、時代錯誤的な武力行使によりイギリスは国際世論の猛反発を浴び、その結果惨めな失敗をしたということが含意されている。たとえば、アメリカ政府の視点からスエズ危機を分析したハーンの著作はこの見解を前提としている。また、カールトンのように、同年10月に入り、イギリス保守党議員を中心に対エジプト強硬論が強くなった

1) John D. Hargreaves, Decolonization in Africa, second edition, (London: Longman, 1996).

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ことを理由としてあげるものも存在する。また日本の研究書では、佐々木雄太教授が、イーデン(Anthony Eden)英首相と閣僚らの抱いていた「世界の大国」の幻想が、戦争の決定に大きな役割を果たしたと強調している2)。強調のポイントは異なるが、いずれもこの論調に従った議論だと言える。そして英米関係についても、イギリスがアメリカからの警告を軽視してしまった、そしてイーデン首相が病気を患っていたため正常な判断ができなかった3)、などという議論すらなされた。しかしこれらの説の問題点は、なぜイギリスがそれまでの外交努力を放棄して戦争を選択したか、その必要性を十分に議論していないことである。

これに対してルーカスはその著書において、ヨルダン要因を指摘することによってイギリス側が戦争に踏み切る必要があったのだと論じた4)。1956年10月、ヨルダンからアラブ・ゲリラがイスラエル領に侵入を繰り返しており、イスラエルが報復としてヨルダンを攻撃する可能性が高まりつつあった。イギリスはヨルダンとの防衛条約を締結していたため、イスラエル軍による攻撃の際には、イスラエルに対して参戦義務があった。しかし、対イスラエル攻撃が対米関係を極度に悪化させることを恐れたイギリスは、イスラエルの注意をエジプトに向けさせるため、フランスとともにスエズ問題の武力解決に踏み切ったというものである。

2) スエズ危機に関する研究は膨大に存在するため、ここでは代表的なものを挙げるにとどめる。Peter Hahn, The United States, Great Britain and Egypt, 1945-1956, (Chapel Hill: The University of North Carolina Press, 1991); David Carlton, Britain and the Suez Crisis, (London: Basil Blackwell Ltd, 1988). 佐々木雄太『イギリス帝国とスエズ戦争』(名古屋大学出版会、1997年)。ほかにアメリカ側の視点からスエズ危機を研究したものとして、Steven Z. Freiberger, Dawn over Suez: The Rise of American Power in the Middle East, 1953-1957, (Chicago, Iva R. Dee, 1992). Diane B. Kunz, The Economic Diplomacy of the Suez Crisis, (Chapel Hill and London: the University of North Carolina Press, 1991). さらに、当時の英仏外相による回顧録として、Selwyn Lloyd, Suez, 1956; A personal Account, (London: Jonathan Cape, 1978); Christian Pineau, 1956 Suez, (Robert Laffont, Paris, 1976). またスエズ危機を、関係当事国のみならず英連邦諸国・アラブ諸国の視点も含め、多角的に分析した著作として、Wm. Roger Louis and Roger Owen, eds., Suez 1956: The Crisis and its Consequences, (Oxford: Clarendon Press, 1989).

3) スエズ危機に関して刊行された近年の研究であるピアソンの著作は、この点を強調している。Jonathan Pearson, Sir Anthony Eden and the Suez Crisis: Reluctant Gamble, (New York: Palgrave Macmillan, 2003).

4) Scott Lucas, Divided We Stand: Britain, the US and the Suez Crisis, (London: Hodder and Stoughton, 1991).

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しかし、この議論も問題点を持っている。なぜなら、対エジプト攻撃も同様に英米関係を極度に悪化させるにも拘らず、なぜイギリスが軍事攻撃を選択したのか、依然としてその理由を説明していないからである5)。

この問題に対して筆者は、イギリスの対エジプト攻撃の動機は、フランスとイスラエル二国がイギリス抜きで攻撃を行うことを阻止することにあった、とする研究を発表している6)。当時中東はイギリスの勢力圏であり、イギリス抜きでの二国による対エジプト戦争は、イギリスの威信に大打撃を加えるものだと認識された。軍事力行使がもたらす不利益を十分に認識していたイギリスは、影響力失墜を最小化するためにこの戦争を選んだのであり、脱植民地化そのものを拒否したのではない、というのがこの論文の議論である。本稿ではこの議論をさらに進め、なぜ二国のみによる対エジプト攻撃が、なぜイギリスの威信への打撃となるのか、検討を行う。従って、この二国の行動がイギリスの中東戦略の文脈でいかなる意味を持っていたかが本稿における重要な焦点となる。その際、前述の拙稿とは異なり、1955年初頭のバグダード条約設立に遡って議論を行い、特に1955年9月のチェコ・エジプト軍備協定に注目する。実質的にソ連がエジプトの軍拡に協力することを意味したこの協定の結果、イギリスがエジプトに対する敵意を募らせ、最終的にスエズ戦争につながったことは先行研究でもしばしば論じられる。しかし、仏イスラエル二国による軍事行動が発生したときにこの協定がイギリスにとって含意しうる意味は、十分に検討されていない7)。本稿は、イギリスによる参戦の目的が、従来議論されてきたように戦争によって運河を奪還することにあるのではなく、エジプトに対する懲罰的姿勢を維持することによって、中東地域における石油権益を維持することにあったのだと結論付ける。

5) 後述するが、そもそも、当時イスラエルは対ヨルダンではなく対エジプト攻撃をより積極的に検討していた。イギリスとの防衛条約を持つヨルダンを攻撃することは軍事的に非常に危険だからである。

6) 池田亮「イギリスとスエズ戦争」『一橋論叢』第121巻第1号1991年1月号。この論考以外に、仏イスラエル二国によるエジプト攻撃の可能性がイギリス政府内でも懸念されていたことを指摘する研究は、スエズ危機に関する最も包括的で詳細な研究書であるKeith Kyle, Suez, (New York: St. Martin’s Press, 1991)のみである。しかしカイルの議論は、仏イスラエル二国の戦争によりイギリス船舶に脅威が加えられる可能性があるためイギリスは参戦を決意した、と述べるに留まっている。Ibid., p. 556.

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Ⅱ エジプト・チェコスロヴァキア軍備協定第二次大戦の終了直後の時点で、中東地域にはすでに多くの独立国が存在して

いたが、中東は依然としてイギリスが勢力圏としており、強い政治的影響力を保持していた。イギリスは、特にイラク・ヨルダンやアラビア半島沿岸の首長国と防衛条約を締結して防衛義務を持っており、その代わりに石油利権・基地使用権を保持していた。イギリスはエジプトにおいてもスエズ運河とスエズ基地使用権を有していたが、1954年7月にはスエズ基地撤退協定を締結し、1956年夏までに英軍を段階的に撤退させることを約束した。

1955年2月24日、イラク・トルコが対ソ防衛を名目とする相互援助条約を締結した8)。この同盟は、中東での軍備供給独占を確保することを狙うイギリスの働きかけが結実したものであり、イギリスの影響力保持に資するものだとみなされていた9)。現に同年4月にはイギリス自身がバグダード条約に加盟する。そして、将来的にはこの軍事同盟は、他の中東諸国を加盟させ、中東防衛機構に発展させることが意図されていたのである。その際、中東に多くのリソースを振り分ける余裕のないイギリスは、アメリカからの軍備援助を獲得することを計画していた10)。しかしこの条約は、以下に説明する、中東における二つの対立軸を従来以上に表面化させてしまう。

7) 言うまでもなく、このアプローチに際してはフランス政府の動向を詳細に検討する必要がある。しかし筆者の調査では、2006年夏の時点で、10月半ば以後のフランス外務省資料はほぼ全く公開されておらず、当時のフランスの外務政策が軍事作戦とどのような関連をもつのかは不明である。フランスの視点からスエズ危機を研究したものとして、Maurice Vaïsse, sous la direction de, La France et l ’Opération de Suez de 1956, (Paris: ADDIM, 1997). しかしこの著作もまた、イギリスがなぜ後述のシャル案を受諾したのかについては議論していない。

8) この段階では、この条約の正式名称はトルコ・イラク相互援助条約であるが、便宜上、本稿ではのちの名称であるバグダード条約機構という名称を用いる。

9) The National Archives [以下TNA], CAB129/74C. (55)70, 14. 3. 1955. イギリスは1950年から中東コマンド(the Middle East Command)、次いで中東防衛機構(the Middle East Defence Organisation)とよばれる組織を構想しており、エジプトを中心としてアラブ諸国を加盟させることで、中東における影響力温存を図っていた。イラクは1954年に西側と軍事同盟を締結する意図があることをイギリス側に伝えており、イギリス政府はそれを後押ししてきたのである。なお、1950年代半ばまでのイギリスの中東防衛政策については、以下を参照。David R. Devereux, The Formulation of British Defence Policy towards the Middle East, 1948-1956, (New York: St. Martin’s Press, 1990).

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第一に、アラブ・イスラエル紛争である。1948年のイスラエル独立と第一次中東戦争以後、両者間には平和条約が締結されておらず、国境紛争が続いていた。1950年5月には米英仏三国が三国宣言を発表し、中東での戦争と軍拡競争とを防止するために、中東軍備管理委員会(the Near East Arms Control Committee)を組織して、この地域への軍備供給を制御し始めた11)。そして、同年6月にアラブ連盟(the Arab League)加盟国の間で集団安全保障条約が締結され、アラブ一国に対するイスラエルからの攻撃の際には他のアラブ諸国が支援を供与することが規定された12)。しかし、イラクがトルコとの同盟締結を公表したことはイスラエルの安全保障上の不安を高め、1955年2月28日にイスラエルはガザ地区の襲撃を敢行した。この結果、アラブ・イスラエル間の軍事的緊張が急速に高まってゆく。第二に、アラブ内で覇権を狙う、エジプト・イラクの伝統的な対立である13)。イラクへの軍事援助にイギリスが積極化したことは、エジプトのスエズ基地を中心とした従来の軍事戦略からイギリスが転換しつつあること、そして逆にエジプトは軍備供給の道が絶たれ、アラブの盟主としての地位を脅かされつつあることを意味していた。イスラエルからの襲撃を受けて、軍備増強を進めるため、エジプトは独自に軍備の供給源を探す必要性に迫られる。

1955年9月27日に公表されたエジプト・チェコスロヴァキアの軍備取引協定は、エジプト側のこの努力の帰結であり、この事件が中東に対する西側の軍備供給独占を崩すことになる。これは実質的に、ソ連がエジプトの軍拡に協力を開始したことを意味していたのである。西側による軍備供給から疎外されたエジプトは、1955年4月に開催されたバンドン会議にも出席するなど、ナセル(Gamal Abdel Nasser)首相の指導の下、中立主義的傾向を強めていた。実は、当時エジプトは、

10) 1955年7月、アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)米大統領はイーデン首相に対して、イギリスがイラクにセンチュリオン戦車10台を供給することにつき、アメリカが資金負担をすることに同意を与えた。しかしイギリス側は、10台ではなく70台の供給をアメリカ側に求めていたのである。Devereux, British Defence Policy, p. 168.

11) この軍備供給独占により、西側三国はアラブ・イスラエル間の軍備力の均衡を維持し、中東地域の軍事情勢を安定化させようとしていた。

12) アラブ連盟とは、1945年3月にエジプト・イラク・ヨルダン・レバノン・サウジアラビア・シリアにより、アラブ諸国の独立を目指して結成された組織である。

13) Elie Podeh, The Quest for Hegemony in the Arab World: The Struggle over the Baghdad Pact, (Leiden: E. J. Bill, 1995).

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アスワン・ハイダム建設の資金援助に関して米英を中心とする西側諸国と交渉中であり、このため東西両陣営から援助を獲得しようとするナセルの中立主義政策は、エジプトだけでなく他地域のアラブ民衆からも熱狂的支持を得た。続けてエジプトはシリアに対して軍事援助を行うことを約束した協定を10月に締結した。シリアには、イラクもまた軍事援助の申し出を行っており、エジプトはこの協定によってイラクの影響力がシリアに浸透するのを防ごうと試みていたのである14)。

このエジプト政策は、英米仏間の大きな政策の乖離を生むことになる。エジプト・チェコスロヴァキア協定を受けてイギリス政府の危機感は急激に高まった。この軍備協定に対抗してイギリス政府が決定した基本方針は、中東における同盟国・友邦国への支持を拡大し、それらの国々がソ連による軍備の申し出を受諾しないようにすることにあった15)。イギリスはバグダード条約を拡充することが必要だと感じ、イランの加盟を実現させ、同時にイラクに対して更なる軍備援助を行おうとした。しかしイギリスは、そのためのリソースを欠いていたため、アメリカに対して支援を求め、アメリカ自身が条約に加盟するよう要請した。しかし、アメリカは拒絶する16)。第三世界ナショナリズムの動向に敏感であったアメリカは、アラブの反植民地主義世論を刺激することを恐れ、イギリスに同調するべきではないと考えていたのである。一方フランスは、米英主導のバグダード条約がソ連の影響力を中東に浸透させていると非難し17)、同時にエジプトへの敵意を強める。ナセルは英仏の政策を帝国主義的だと非難する強力な宣伝活動をアラブ民衆に対して展開していたため、北アフリカの仏領植民地での反仏中立主義勢力への強力な支援となり、フランスは対応に苦慮させられることになる18)。加えてフランス政府は、エジプトへの対抗措置として、イスラエルの軍拡に協力して戦闘

14) Foreign Relations of the United States, [以下 FRUS ], 1955-1957, vol. XIV, doc. 411, National Intelligence Estimate, NIE 36.1-55, 15. 11. 1955.

15) TNA, CAB 128/29, CM(55)34, 4. 10. 1955. 同盟国として想定されているのは、ヨルダン、バグダード条約加盟国であるイラク、そしてペルシャ湾岸の首長国である。

16) FRUS, 1955-1957, vol. XIV, doc. 323, Memorandum of Conversation, 3. 10. 1955.17) Ibid., doc. 383, the Delegation at the Foreign Ministers Meetings to the Department of

State, no. 145, 3. 11. 1955.18) 詳細は、Ryo Ikeda, ‘The Paradox of Independence: The Maintenance of Influence and

the French Decision to Transfer Power in Morocco’ in The Journal of Imperial and Commonwealth History, vol. 35, issue 4 (London: Routledge), December 2007.

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機の売却をイスラエル政府に行うことを決定する19)。英米はエジプトに対し、ソ連からの軍備搬入を中止するよう何度も要請するが、

エジプトは拒絶を続けた。11月3日のイランの条約加盟の後20)、11月20日、バグダード条約理事会が開催され、理事会・事務局などを備えたバグダード条約機構が完成した。このことについてイギリスは非常に満足しており、将来的にはアメリカも加盟するであろうと楽観視していたのである21)。ついでイギリスはヨルダンをもバグダード条約に加盟させ、イラクの孤立感を軽減しようと目論む。イギリス側では、「他のアラブ諸国と溝を作るという危険を冒してまで西側を選択したイラクには、共産主義国より軍備を獲得したエジプトよりも多くの利益が与えられなければならない22)」と認識されていた。

しかし、イギリス政府はこの時点では、エジプトを完全な敵だとは認識しておらず、もう一度、親英的態度に戻らせることが可能だと考えていた。イギリス政府は1955年10月20日、スエズ運河という貿易航路の要衝を握るエジプトとの関係悪化を防ぐため、エジプトが計画しているアスワン・ハイダム建設の援助を行うこと23)、及び援助に関してアメリカ政府の協力を仰ぐことを決定した。これは、チェコスロヴァキアとの武器取引協定に対抗し、エジプトへのソ連の影響力浸透を阻止するという目的を持っていた24)。このように、イギリス側はエジプトに対して「飴と鞭25)」の態度を示すことが必要だと認識していたのである。1955年12月には、英米両国政府によるダム建設融資計画がエジプト側に手交された26)。

19) FRUS, 1955-1957, vol. XIV, doc. 468, footnote 2.20) イラン政府は、1955年10月11日にバグダード条約加盟を決定した。FRUS, 1955-1957,

vol. XII, doc. 67, Editorial Note. なお、遡って1955年9月23日にはパキスタンがバグダード条約に加盟している。

21) Documents Diplomatiques Français, [以下DDF ], 1955, Tome II, No. 402, Chauvel to Pinay, 1. 12. 1955.

22) TNA, FO371/115587, V1193/155, Bagdad to Foreign Office, 4. 11. 1955.23) TNA, CAB128/29, CM36(55)1, 20. 10. 1955.24) FRUS, 1955-1957, vol. XIV, doc. 347, London to the Department of State, no. 1602,

20. 10. 1955; doc. 348, London to the Department of State, no. 1603, 20. 10. 1955.25) ダレス(John Foster Dulles)米国務長官と会談した際に、マクミラン(Harold Macmillan)

英外相はこの表現を用いている。Ibid., doc. 310, 26. 9. 1955. これはエジプト・チェコスロヴァキア協定公表の前日であるが、すでに米英両国政府は同協定が調印されたとの情報を得ていた。

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ところがこの後も、エジプトはチェコスロヴァキアからの軍備購入を継続する。そして1956年3月1日、ヨルダン国王が国内の反英世論に触発されてグラブ将軍(Sir John Glubb)27)を解任し、ここに至ってイギリス政府はエジプトを明確に敵だとみなす政策に転じた28)。この事件の結果、イギリス政府はアスワン・ハイダム建設援助を撤回することを検討し始める。同様に、同月終わりには、アメリカ側もナセルが中東での西側権益維持の障害になっているとの見解を持ち始めた29)。しかし、ソ連がダム建設援助を行うことを恐れたアメリカ政府は撤回に消極的であったため、米英両国政府はダム建設援助交渉を遅延させるという方針を採用する30)。続いてイギリス政府は、エジプトをアラブ諸国の中で孤立させるという方針を決定した31)。

1956年6月ごろ、エジプト政府はソ連側からも援助を受けとる可能性を排除しない姿勢を見せていた。6月16日から28日にかけて中東諸国を歴訪したソ連のシェピーロフ(Dmitri Shepilov)外相は、17日にはエジプトに対してダム建設援助を申し出た。続いて22日には、両者がコミュニケを発表し、ナセルが1956年8月に訪ソするとの声明を出した32)。こうしたエジプト側の姿勢を見たイギリス政府は、「エジプトは共産主義者の影響から自由ではなくなっており、ソ連との武器取引を縮小させるという目的が失敗に終わった33)」ことを理由にアメリカ

26) Ibid., doc. 461, Department of State to the Embassy in Egypt, no. 1282, 16. 12. 1955.27) イギリス人でありながら、グラブ将軍は事実上のヨルダン国軍であったアラブ軍団の司

令長官を務めていた。28) TNA, CAB128/30, CM(56)24, 21. 3. 1956.29) FRUS, 1955-1957, vol. XV, doc. 223, Memorandum from the Secretary of State to the

President, 28. 3. 1956.30) Ibid., doc. 243, Letter from the British Ambassador to Secretary Dulles, 5. 4. 1956.31) 具体的には、ヨルダンおよびサウジアラビアとの関係改善を指す。グラブ将軍事件直後

にイギリス閣議はヨルダンへの財政的・軍事的支援停止を検討するが、1956年3月半ばに入って関係改善を決定する。Evelyn Shuckburgh, Descent to Suez: Diaries 1951-1956, pp. 342-345. また1955年以来、イギリス政府はサウジアラビアとブライミの油田を巡って紛争を抱えていたが、4月に入ってサウジアラビアとの関係改善に乗り出す。FRUS, 1955-1957, vol. XV, doc. 327, note 6.

32) にもかかわらずナセルは、側近に対して「ソ連よりもアメリカからの援助を期待している」と漏らしたとされる。Ibid., doc. 411, Memorandum from the Director of Central Intelligence to the Secretary of State, 27. 6. 1956, pp. 751-754.

33) Ibid., doc. 384, London to the Department of State, no. 5584, 2. 6. 1956.

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側に援助撤回を迫った。7月に入ってアメリカ政府もそれに同調し、19日にダレス国務長官がエジプト側にその旨を通知する34)。アメリカ側は、ナセルが東西両陣営を競わせることによってより良い条件で援助を獲得しようとしていると認識しており、このような態度を示すエジプトに対して援助を撤回するという強い姿勢を見せる必要があると考えたのである。翌日、イギリス政府も撤回をエジプト政府に通知した。

Ⅲ スエズ危機ダム建設援助の撤回はナセル政権の予想外の反応を生む。1956年7月26日の

スエズ運河株式会社の国有化であり、いわゆるスエズ危機の勃発である35)。国有化を知ったイギリス政府は直ちに、運河の国際管理36)とナセル政権打倒を基本方針とし、それらの目的達成のためには武力行使も排除しないことを決定した37)。そして直ちに、米仏との協議を開始したのである。これら三国のうち、最も強硬な態度を示したのがフランスであった。ピノー(Christian Pineau)仏外相は7月29日に、ナセルの威信向上がチュニジア・モロッコの親仏政権に悪影響を及ぼしていると強調し38)、英仏二国のみでも軍事計画を立案する決意だとアメリカ側に伝えた39)。これに対してアメリカが懸念していたのは、反植民地主義を標榜するアラブ・ナショナリズムの動向であった。平和的解決への努力がないまま武力行使が敢行されば、アラブ世論を反西側で結束させ、中東から西欧への石油供給が中断される危険が高いことが懸念されたのである40)。その結果、ダレス国務長官は、ロイド(Selwyn Lloyd)英外相とピノーに対して、他の手段がなくなっ

34) Ibid., doc. 478, Memorandum of a Conversation, 19. 7. 1956.35) 以後のスエズ危機の展開について、より詳細な説明は、池田「イギリスとスエズ戦争」

を参照されたい。36) 1968年にはスエズ運河協定は期限切れを迎えることになっており、その後イギリス政

府は運河を国際管理下に置くことを計画していた。37) TNA, CAB128/30/2, CM(56)54, 27. 7. 1956. この日の閣議においてエジプト委員会(Egypt

Committee)と呼ばれる閣内委員会が設置され、軍事作戦などより機密性の高い議題の決定にあたった。

38) 両国は、1956年3月にフランスから独立を承認されたばかりであった。詳細は、Ikeda, ‘The Paradox of Independence’.

39) TNA, CAB134/1216, EC(56)3, 30. 7. 1956.

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た場合にのみ武力行使が正当化されると述べ、国際会議を開催して国有化問題を検討することを提案する41)。つまりフランスとは対極的に、アメリカは武力行使に消極的だったのである。

これに対して、イギリスの立場は米仏の中間的立場だったと言ってよい。上述したように、運河国際化とナセル政権打倒が目標だとされたが、この目標達成のためにイギリスは様々な圧力行使をエジプトに開始する。第一に、国際会議によって各国が国有化に賛成していないことをナセル政権に認めさせることであった。そしてエジプトが運河国際化案を拒否した場合には、アメリカの支持のもと軍事作戦を遂行できるとイギリス政府は計算していた。第二に、フランスとともに、運河通航料を新エジプト当局ではなく旧来のスエズ運河株式会社に支払い続けるよう、英仏船籍の船舶に通達した42)。第三に、フランスと共同で対エジプト軍事作戦の準備に着手し、7月31日には仏軍が英軍の指揮下に入ることが合意された43)。現実の戦争への準備だけでなく、軍事作戦の準備自体が威嚇となり、エジプトから譲歩を引き出すことに効果的だと判断されたのである。この軍事作戦はマスケット銃士作戦と呼ばれ、英領マルタ島にある基地を拠点に英仏軍がまずアレクサンドリアに侵攻し、ついでカイロを経てスエズ運河に進軍するというものであった。つまりイギリスの政策は、外交交渉によってエジプトを譲歩させるか、そうでなければ軍事攻撃によってエジプトを屈服させるという、両面作戦だったのである。

英米仏三国政府の主導の下、1956年8月16日からロンドンでスエズ運河に関する国際会議が開催された。出席国はソ連やアジア諸国を含めた22カ国であった。二日後にダレスが提出した決議案は、第一に、自由で国際的海路としてのスエズ運河を維持し、発展させる。第二に、運河管理をいずれの国の政治からも隔離する。第三に、エジプト主権の尊重と、通航料のうち公正な額をエジプトに払い戻すために、運河を経営する国際委員会を設立するというものであった。この委員

40) FRUS, 1955-1957, vol. XVI, doc. 34, Memorandum of a Conference with the President, 31. 7. 1956.

41) Ibid., doc. 41, Memorandum of a Conversation, at the British Foreign Office, 1. 8. 1956.42) TNA, CAB134/1216, EC(56)1, 27. 7. 1956. 43) TNA, CAB134/1216, EC(56)5, 31.7. 1956. 軍事作戦決行予定日は9月半ばだと設定された。

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会にはエジプトの参加も想定されていた。これに対してインド代表は、運河管理を国際委員会ではなくエジプト当局に委ねるべきだとの案を提出し、ソ連代表もインド案に賛同した。しかし、18カ国の支持を得て会議はアメリカ案を採択し、エジプト側に提示することを決定する44)。

イギリス側の期待に反し、アメリカ政府は、ナセルが18カ国案を拒絶した場合にも英仏による軍事作戦を支持するつもりはなく、むしろ英仏が攻撃を開始することを恐れていた。この時アメリカ側が直面していたジレンマは、アメリカが英仏による戦争を支持すればアラブ世論に反西側傾向を与えてしまい、反対すれば西側同盟内に深刻な亀裂を作ってしまうことであった。しかし、8月30日に至りダレスは、平和的手段を尽くした後であっても問題は軍事行動によって解決されるべきではないとの結論に達した45)。軍事作戦は、何世代にも渡りアラブ世論に反西側傾向を与え、長期的にはアラブから西欧への石油供給が途絶する事態につながると、ダレスは恐れていた。特に、アメリカが英仏の軍事作戦に同調すれば、西側主要国が一致してアラブ人民を抑圧しているような外観を作ってしまう、という強い懸念があったのである。

ナセルは9月3日に18 ヶ国案の提示を受けたが、懸念された通り、9月9日に18カ国案を拒絶した。この間、交渉の進捗が思わしくないとの報告を受けたダレスは、スエズ運河利用国団体 (Suez Canal Users’ Association、以下SCUA) 案を構想し、イギリス側に提示した。SCUAとは、独自の運河パイロットを雇用し、加盟国の船舶の通航料を徴収する団体であった。イギリス政府はこの案の受諾を9月11日に決定する46)。その理由は第一に、アメリカが参加すれば、SCUAが一種の経済制裁として対エジプト圧力となると考えられた。また第二に、経済制裁に苛立ったエジプトが英仏船の通航を拒絶した場合、「安保理付託を行った後であれば47)」、アメリカ政府が英仏による武力行使の支持に回るだろうと期待

44) FRUS, 1955-1957, vol. XVI, doc. 95, the Delegation at the Suez Canal conference to the Department of State, no. 20, 18. 8. 1956.

45) Ibid., doc. 151, Memorandum of Conversation between the President and the Secretary of State, 30. 8. 1956.

46) TNA, CAB1218/30, CM(56)64, 11. 9. 1956.47) TNA, CAB134/1216, EC(56)26, 10. 9. 1956.

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されていた。ところが、9月13日に発表されたダレス声明は、イギリス側に強い衝撃を与え

ることになる。彼は、SCUAをエジプト政府が拒絶してSCUA加盟国船舶の通航を妨害したとしても、アメリカ政府は対エジプト武力行使には同調しないことを宣言したのである48)。しかもアメリカは、アメリカ人所有のものが運河を通航する船舶のうち多くの割合を占めていたにもかかわらず、SCUAに通航料を支払うよう通達を出すことを拒み続けていた。その理由は、通航料のエジプトへの支払いを拒絶するこの行為が、SCUA船舶への妨害を招く可能性が高く、英仏が船舶のケープ岬迂回を甘受しない限りアメリカは同調できないからであった49)。つまり、SCUAが失敗しても、英仏による対エジプト軍事作戦には支持を与えないとの立場だったのである。このことはイギリスを深刻な立場に追いやった。なぜなら、アメリカ船舶の不参加故にSCUAが成功する可能性が低いにもかかわらず、それが失敗した時に武力行使を敢行してもアメリカから支持を得られないことが判明したからである。つまり、スエズ危機の平和的解決にも軍事作戦にもアメリカの支持を取り付けることができない、このような手詰まりの状況にイギリスは置かれたのである。

その結果、危機解決に向けて独自のイニシアチブをとることを迫られたイギリスは、フランスとともに問題を国連安保理に付託することを決定する。イギリスにとっての問題はアメリカが安保理付託に反対していたことであったが、問題解決に向けて協力が得られない以上、その反対を押し切る必要があると判断されたのだと考えられる。そして9月22日、前述の18ヶ国がSCUA設立に同意した翌日、イギリス政府はスエズ運河問題の安保理付託を行い、翌23日にフランス政府が同調する旨声明を発表した50)。

イギリスがSCUA案を採択したことは、フランスにとっては決定的な意味を持っていた。なぜならイギリス政府のこの決定は、9月半ばに予定されていたマ

48) FRUS, 1955-1957, vol. XVI, doc. 216, Memorandum of Conversations between the Egyptian Ambassador and the Secretary of State, 13. 9. 1956.

49) TNA, CAB134/1216, EC(56)26, 10. 9. 1956.50) DDF, 1956, II, doc. 29, Pineau to Chauvel, no. 9934-9937, 24. 9. 1956.

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スケット銃士作戦が非現実的になったことを意味していたからである。現にイギリス政府は、9月19日に修正マスケット銃士作戦を採択していた51)。この結果フランス政府は、イギリスが軍事力によるナセル政権打倒の意思を失いつつあるのではないかと疑念を抱き始めたのだと言える。その結果、9月後半からフランスはイギリス抜きで軍事作戦を展開すべく、イスラエルとの共同作戦を模索し始めた52)。マルタのイギリス基地を使用できないとすれば、イスラエル国境から軍事作戦を展開することを代替案として考えざるを得なかったからである。とはいえ、フランスにとってもイギリスとの共同歩調が望ましいことには変わりなかった53)。それゆえ、ピノーは9月11日にイーデンやロイドと会談を持った際、安保理付託に同意すると述べたのである54)。

逆に、イギリスにとってもフランスとの共同歩調は不可欠であった。すでにイギリスは、単独でエジプトに対する圧力を行使できないと判断しており、英仏共同戦線の維持によってエジプトを譲歩させようとしていたのである。具体的には、英仏共同での軍事作戦の準備と経済制裁の継続であり、安保理においても何らエジプトから譲歩を引き出せない場合、軍事制裁に踏み切る覚悟を示していた。そして重要な点は、エジプトによる運河国際管理の承認と危機の平和的解決は、イギリスにとって、ナセル政権打倒という目標を放棄したことを意味していなかったことである。イーデンは9月25日、「エジプトが国際化を承認すれば、長期的にはナセル政権の崩壊につながる55)」との認識を述べており、譲歩がナセル政権

51) これは、ポートサイドという運河北端の都市を占領したのち、運河地帯全体を占領するという、マスケット銃士作戦に比べて小規模な軍事作戦であった。TNA, CAB 134/1216, EC(56)30, 19. 9. 1956.

52) Mordechai Bar-on, The Gate of Gaza: Israel ’s Road to Suez and Back, 1955-1957, (New York: St. Martin’s Griffin, 1994), p. 192.

53) イスラエルはこの時期、対エジプト侵攻作戦を立てていたが、その際に、イギリスがエジプト防衛のために介入することを恐れており、フランスと共同で対エジプト軍事作戦を展開できれば、少なくともイギリスの中立性を確保できると期待していた。もし対エジプト軍事攻撃にイギリスも参加することになれば、他のアラブ諸国がエジプトの支援に回ることもないため、最も望ましいと考えられた。André Baufre, The Suez Expedition 1956, translated from the French by Richard Barry, (London: Faber, 1969), p. 68. この結果、フランスもまた、イスラエルとの軍事作戦遂行にあたり、イギリスの参加が望ましいと認識していたのだと考えられる。

54) DDF, 1956, II, no. 177, Conversations franco-britanniques, 11. 9. 1956.

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の自滅を招くことを十分に認識していた。つまり、軍事的解決にせよ外交による解決にせよ、スエズ危機を通じてイギリスの目標は、運河国際化とナセル政権の打倒だったのである。

Ⅳ スエズ戦争10月5日から、国連安保理においてスエズ問題の審議が開始され、事態は新た

な展開を見せ始める。エジプト側が大幅な譲歩の姿勢を示し始めたのである。つまり、イギリスの発揮したイニシアチブがついに奏功し始めたのだと言ってよい。10月10日に至り、エジプトのファウジ(Mahmoud Fawzi)外相は、ハマーショルド(Dag Hammarsköld)国連事務総長の提示した「六原則56)」について交渉に応じ始めた。さらに翌日、ファウジはその第三原則である「運河経営を、いずれの国の政治からも隔離する」という原則を承認する構えを見せるのである。この第三原則は、エジプトの政策が運河経営を左右することを禁じるものであり、実質的な意味で国有化の撤回に近いと判断された。それゆえ、イーデンはこの点に大いに満足しており、「現在の圧力が加えられるのであれば、今週末までに交渉を中止する必要はない57)」と10月11日にエジプト委員会は結論付けることができたのである。続いて10月13日に英仏両外相は安保理に決議案を提出し、その第一部でエジプト政府に六原則の遵守を求め、第二部でSCUAが直ちにエジプト政府と共同で運河経営に当たることを要求した。このうち第一部は全会一致で可決されたが、第二部はソ連の拒否権によって否決された58)。

この時、皮肉なことに、英仏共同戦線には明白な亀裂が生じ始めることになる。すでに10月10日の時点で、アメリカ側は英仏両外相の態度の相違についてハマー

55) TNA, CAB134/1216, EC(56)31, 2, 25. 9. 1956.56) 「六原則」の内容は以下のようなものであった。①差別なく、自由かつ開かれた運河通

航②エジプトの主権尊重③運河経営はいずれの国の政治からも隔離される④通航料を課する方法は、エジプトと利用国の合意によって決定される⑤通航料のうち適切な割合は、運河の発展に割り当てられる⑥旧スエズ運河会社とエジプト政府の間で解決できない問題が発生すれば、調停によって解決を図る。FRUS, 1955-1957, vol. XVI, doc. 337, Editorial Note.

57) TNA, CAB134/1217, EC(56)58, 11. 10. 1956.58) FRUS, 1955-1957, vol. XVI, doc. 341, Editorial Note.

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ショルドは、「ピノーはだまされたと感じているようだった。ロイドは交渉を進捗させようと努力していた59)」と述べている。フランスは、イギリスよりもはるかに短期的な解決を望んでおり、第二部が否決されたことは、交渉による解決が不可能になったことを意味していたのである。ロイド外相は、フランス側が交渉の経緯に不満を抱いていることを明確に感じ取っていた60)。実はフランス政府は数週間以内のスエズ危機解決を目指しており、最早この時点では新たな交渉を開始する意図は持っていなかったのである61)。

この直後、スエズ危機は急展開を迎える。10月14日、フランス政府はロンドンに密使を派遣し、イーデンらと会談を持った。この席でフランスのシャル

(Maurice Challe)将軍は、まずイスラエルがエジプトに侵攻を開始し、両者の戦闘調停の目的で英仏が運河地帯に軍事介入する計画を提示した。この計画に関し、事前にイスラエルへの打診があったことは明らかであった62)。そしてこの会談を期に、イーデンは急速に対エジプト戦争に傾斜してゆく。

イギリスにとって、シャル案は何を意味していたのだろうか。第一に、これは英仏共同戦線の崩壊であった。イスラエル基地を使用すればフランスが軍事行動を開始できる以上、交渉を打ち切るというフランス側の意思はこの時点であったといってよい。イギリスが単独でエジプトと交渉しても譲歩を引き出すことができない以上、イギリスはもはや交渉を打ち切らねばならない状況に追い込まれたのである。第二に、シャル案は、フランスがイギリス抜きでも対エジプト軍事攻撃を開始するという明白な意思表示であると認識されたと考えられる。現にイーデンは10月25日の閣議で「イスラエルがエジプトに参戦する可能性が高く、その場合、我々が参加を拒絶してもフランスがそれを口実にエジプトを攻撃する可

59) Ibid., doc. 326, Memorandum of Conversation between Secretary-General Hammarskjold and the Representative at the United Nations (Lodge), 10. 10. 1956.

60) TNA, PREM 11/1102, PMPT T459/56, no. 829, 11. 10. 1956. Cited in Pearson, Eden and the Suez Crisis, pp. 131-132.

61) 10月19日、シャバン=デルマス(Jacques Chaban-Delmas)国務大臣はディロン(Douglas Dillon)アメリカ駐仏大使に対して、スエズ危機にあたり「アメリカ政府が長期的解決を、イギリス政府が数カ月単位の解決を考えているのに対して、フランス政府は数週間単位の解決を考えている」との内容を伝えている。FRUS, 1955-1957, vol. XVI, doc. 357, Paris to the Department of State, no. 1839, 19. 10. 1956.

62) Anthony Nutting, No End of a Lesson, (New York: Clarkson N. Potter, 1967).

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能性が高い」と述べ、「これらの状況では、イスラエルがエジプトに対して戦争を開始したら、英仏が介入を行うべきだ63)」と続けている。つまり、イギリス側でも、仏イスラエル二国が軍事作戦を開始する可能性があることが懸念されていたのである。

それでは、なぜイギリス政府は、仏イスラエルと共同での対エジプト攻撃を決定するのか。仏イスラエル二国による戦争はいかなる意味を持っていたのか。第一に、イギリスが何らかの形で仏イスラエルによる戦争に介入しなければならないことは明白であった。イスラエルからアラブの盟主であるエジプトへの明白な戦闘行為を前にして、イギリスは、1955年秋以後急速に揺らぎ始めた親英アラブ諸国からの「信頼性64)」を、維持・回復しなければならないからである。第二に、エジプトがまだこの時点で完全には譲歩していない以上、イギリスは依然としてエジプトに懲罰的行動をとり続ける必要があった。少なくとも、仏イスラエル軍の進撃を停止させれば、それがエジプト防衛を論理的に意味する以上、極めて大きい政治的危険が伴うことになる。第三に、英仏二国のみによる戦争も困難であった。なぜなら、その場合「イスラエルが独自にエジプト攻撃を開始する可能性を排除できず、…(イギリスは)イスラエルとの共謀という非難にさらされる65)」からであった。つまり、イギリス自身が参戦することを前提とするならば、イスラエルにまず攻撃の口火を切らせ、イスラエル・エジプト間の戦闘調停の名目で軍事介入するという現実の選択がイギリスにとって最も政治的リスクの低い選択だったのである。

シャル案を受け、英仏イスラエル間で交渉が行われ、10月24日、パリ近郊のセーブルで三者が対エジプト攻撃に関する秘密協定に調印した66)。アメリカがこの段階での戦争に反対するのは明白である以上、イギリス側はシャル案についてアメ

63) TNA, CAB128/30, CM(56)74, 25. 10. 1956.64) この言葉は当時のイギリス政策文書に頻発している。たとえば、TNA, CAB131/17,

DC(56)17, 3. 7. 1956 in David Goldsworthy, ed., The Conservative Government and the End of Empire, 1951-1957 (British Documents on the End of Empire, Series A; vol. 3) (London: H.M.S.O., 1994), doc. 51.

65) Ibid.66) 三者の交渉過程については、Avi Shlaim, ‘The Protocol of Sèvres, 1956: anatomy of a

war plot’, International Affairs, vol. 73, no. 3, 1997.

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リカ政府に報告することもできない状況にあった。こうしてイギリスはエジプトが譲歩し始めたタイミングで戦争を敢行するという、国際世論・アラブ世論との関係では最悪の選択を余儀なくされたのである。イスラエルは10月29日、シナイ半島侵攻を開始する。次いで二日後、英仏は対エジプト空爆を開始するが、11月1日にはアメリカが国連総会に英仏イスラエル軍の即時撤兵を求める決議案を提出した67)。さらに、11月4日、カナダが国連緊急軍の設立を提案する決議案を国連総会に提出し、採択された68)。英仏は11月6日にポートサイドに上陸するが、同日イギリス政府は、エジプト・イスラエル両国が停戦に応じ、同時に国連緊急軍が国連決議に示された目的を達成することを国連事務総長が確約することを条件に、停戦を受諾する69)。国連緊急軍の第一陣は11月21日から運河地帯に配備され始めた70)。次いで12月3日に至り、ロイド外相が「英仏軍は一時的にエジプトとイスラエルの戦闘を中止させたが、今や国連軍がそれと交替する」と述べ、下院で英仏軍を遅滞なくポートサイドから撤退させることを声明した71)。

スエズ危機を通じたイギリス政府の目標は、ナセル政権打倒と運河国際化であったが、交渉による解決の展望が見え始めた段階で、十分な正当化根拠なく開戦に踏み切らされた結果、これらの目標から大きく後退させられることになる。つまり、二つの目的を達成するはるか以前に停戦と撤兵を受諾させられたのである。しかし、そうだとしても、イギリスはエジプトに対する懲罰的態度を堅持することには成功した。また、国連緊急軍の結成が国連総会によって決定されるまでは停戦に応じず、かつ英仏軍による軍事占領を国連緊急軍の駐留に継承させるかのような外観を創り出そうとした。かくしてイギリスは、中東で警察行動を遂

67) アメリカ側が最も恐れていたことは、西側三国が一致してアラブと敵対しているという外観が現れれば、アラブ世論を敵に回し、将来的に西欧への石油供給が途絶する危険が生まれることであった。そして、停戦決議に関してアメリカ自身がイニシアチブを発揮しなければ、ソ連が国連総会でイニシアチブを発揮すると考えられた。逆説的なことに、英仏という重要な同盟国を長期的に防衛するために、アメリカは両国を非難する決議案を国連総会に提出することを余儀なくされたのである。FRUS, 1955-1957, vol. XVI, doc. 455, Memorandum of Conversation, the 302d Meeting of the NSC, 1. 11. 1956.

68) Ibid., doc. 496, Editorial Note.69) Ibid., doc. 519, London to the Department of State, no. 2517, 6. 11. 1956.70) Kyle, Suez, p. 511.71) Ibid., p. 514.

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行する能力を保持していることを中東諸国に示そうと試みたのである72)。

Ⅴ 結論1956年7月の国有化宣言以後のスエズ危機は、中東からの石油に依存するイギ

リスに深刻なジレンマを突きつけたといってよい。それは、第二次大戦後の反植民地主義世論の強い時代において、中東の石油権益をいかに防衛するかという問題から発生するジレンマであった。第一に、石油採掘・基地使用・運河株式会社といった植民地主義的な権益は、可能な限り現地世論にとって受容可能な形に転換させる必要があった。そしてこれらの権益に対する現地勢力からの攻撃に対して、武力で反撃することも可能な限り避ける必要があった。武力はアラブの反英世論を硬化させることが明白であり、だからこそ他に手段が無くなったときに初めて行使できると認識されていたのである。実は、1953年の段階でイーデン(当時外相)はスエズ基地からの英軍撤退に関する交渉に関して、「20世紀後半においては、19世紀型の方法を用いて中東で我々の地位を確保することは不可能である73)」とするメモランダムを閣議に提出していた。つまり彼自身、抑圧的手段を用いて中東で政治的影響力を保持することが困難であることを十分に認識していたのである。しかしながら、第二に、ソ連からの武器供給という道を選択したエジプトには、絶えず懲罰的姿勢を示し続ける必要があった。もしエジプトが運河国有化によって最終的に利益を得ることがあれば、イラクなどもソ連からの軍備供給を選択してイギリスの政治的統制を離れ、自国の油田の国有化に踏み切る危険性があったのである。スエズ危機勃発直後の閣議における、「スエズ運河保持に失敗すれば、中東での権益を一つ一つ喪失することになる74)」というイーデ

72) さらに、スエズ運河地帯に駐留する国連緊急軍の存在が、エジプトの対イスラエル攻撃を困難にすることにより、アラブ世界でのナセルの政治的影響力が制約を受けることもイギリスのねらいであったと考えられる。現に1966年11月、イスラエル・シリア国境で武力衝突が頻発していたにもかかわらず、ナセルは国連緊急軍のためにイスラエルを攻撃できなかったため、彼はシリア・ヨルダンなどのマスメディアにより厳しく非難された。翌年の第三次中東戦争の直前、ナセルは国連緊急軍の撤退を国連に要請している。Ritchie Ovendale, The Origins of the Arab-Israeli Wars, (London and New York; Longman, 1984), p. 172, p. 178.

73) TNA, CAB129/59, C. (53)65, 16. 2. 1953.74) TNA, CAB128/30/2, CM(56)54, 27. 7. 1956.

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ンの発言は、これを的確に表現している。このジレンマの中でイギリスが選択したのは、軍事力の威嚇、外交圧力、経済

圧力などの行使によって、エジプトを屈服させることであった。エジプトがこれらの圧力に耐え切れなくなって、運河を通航する船舶を武力で妨害した場合には、国際世論の支持を得つつエジプトに対して軍事行動を展開できると考えられていた。重要なことは、いずれの場合も、ナセル政権打倒とスエズ運河の国際管理が目標とされていたことである。先行研究はしばしば、スエズ危機の平和的解決がナセルとの妥協を意味するが故に、最終的にイーデンはそれを拒絶したと主張するが、前述の「運河国際化を受容すれば、長期的にはナセル政権の崩壊につながる」という認識は、この想定が正しくないことを示している。また最初に述べた

「ヨルダン要因」も、10月半ばまでのイギリスの国連安保理での努力が放棄された理由を十分には説明しない。本論では割愛したが、確かにイスラエルとヨルダンの国境紛争が10月以後激化しており75)、そしてイギリスはヨルダン防衛のためにイスラエルと戦争状態に入ることを忌避していた。しかしそうだとしても、イギリスにとってエジプトとの戦争も好ましくはないことに変わりはなかった。ルーカスが彼の論文の中で、シャル案をイーデンが「歓迎した76)」と述べていることから分かるように、危機の平和的解決がナセルとの妥協であり不十分な解決だと認識されていた、との前提を彼も共有している。このように、「ヨルダン要因」による説明もまた、イーデンが最初から武力行使によるスエズ危機解決を望んでいたとの前提がなければ、成り立たない議論なのである。

しかし、イギリスは、運河国有化とナセル政権打倒という目標を達成する上で別のジレンマに直面する。中東がイギリスの勢力圏であるにもかからず、単独でこの政策を遂行するだけのパワーを有しておらず、米仏という同盟国に支援を求

75) 当時、イラク軍のヨルダン領土駐留が協議されていた。フランス外務省が10月15日にこの計画をイギリス外務省に伝えているが、このことは、いかに仏イスラエルの軍事交渉がフランス外務省をバイパスして行われていたかを示している。Ministère des Affaires Etrangères [以下 MAE], Levant, Egypte, carton 14, Dossier 1sd, vol. 501, London to MAE, no. 4507/19, 15. 10. 1956.

76) Scott Lucas, ‘The Path to Suez: Britain and the Struggle for the Middle East, 1953-6’, in Anne Deighton, ed., Britain and the First Cold War, (New York: St. Martin’s Press, 1990), p. 269.

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める必要があったのである。国際会議開催やエジプトへの経済制裁という意味では、アメリカの支持が不可欠であった。しかし、9月13日のダレス声明が示していたのは、イギリスが欲するコミットメントはアメリカから得られないことであった。そもそも、バグダード条約加盟や親英アラブ諸国への軍事援助に関し、アラブ諸国の反植民地主義世論の高揚を恐れるアメリカは消極的であり続けた。その結果イギリスは、9月後半以後はアメリカに代えて、アルジェリア問題故にアラブでは極めて不人気なフランスに支持を求めることを余儀なくされる。イギリスにとっての問題は、フランスが極めて好戦的で、かつイスラエルというアラブの敵と軍事的な意味で緊密な関係を持っていることであった。

イギリスが外交的勝利を収めつつあった10月中旬、まさにそれ故にフランスは共同戦線を離脱して戦争を決意し、その結果イギリスはフランスが主導する対エジプト軍事作戦に参加せざるを得なくなる。米英が仏イスラエル両国を制止できる余地が極めて少ない以上、シャル案提示以後にアメリカの協力を得れば、イギリス自身が参戦することはできなくなるため、結局イギリスはアメリカに支援を求めることすらできないという、極めて皮肉な立場に立たされていたのである。スエズ危機勃発時から10月半ばまでの目論見が外れ、正当化の極めて困難な武力行使を余儀なくされたため、イギリスは当初の目標を放棄し、ナセル政権打倒を図る前に停戦と撤兵の受諾を余儀なくされた。しかし、仏イスラエルの動きにより制約を受けたものの、イギリスはスエズ戦争によってナセルの威信に打撃を与え、同時にイラクをはじめとする中東の産油国が油田の国有化に踏み切ることを阻止するのに成功したのである。

インド・パキスタンの独立承認やアフリカで現地民への権力移譲を開始するなど、イギリスは第二次大戦後、比較的穏健な脱植民地化政策を進めていた。スエズ運河国有化は拒絶したとはいえ、その後にイギリスが求めた目標は運河の国際化であり、運河経営の奪還という時代錯誤的なものではなかった。イギリスにとっての問題は、単にスエズ運河に留まらず、死活的に重要なイギリス権益を中東諸国が国有化することをいかに阻止するかということでもあったのである。そしてそのためには、親英アラブ諸国から享受してきた、安全保障を供与できるという信頼性を保ち、同時に反英的態度を示すエジプトに対しては懲罰的姿勢を示し続

( )池田亮・スエズ危機と 1950 年代中葉のイギリス対中東政策 325

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けられることが決定的に重要であった。1956年10月半ばに仏イスラエルが対エジプト攻撃を行う姿勢を見せたことは、イギリスがこの二つの要請に応えられるか否かを決めるテストケースになってしまったのである。中東での影響力を維持し、安価な石油供給を維持するためには、現実のスエズ戦争こそが最も政治的リスクの低い選択だと判断されたのだと言える。武力行使の結果、国際世論と中東世論から厳しく非難されることは自明であったが、この不利益は甘受しなければならないと考えられた。この政策こそが、中東における石油利権を温存するためには不可欠だと考えられたからである。

【付記】本稿は、一橋大学21世紀COEプログラム「ヨーロッパの革新的研究拠点」による研究成果の一部である。記して感謝申し上げる。

( ) 一橋法学 第 7 巻 第 2 号 2008 年 7 月326