法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... ·...

16
( ) i 1 姿 姿 姿 ( = ) ( ) 姿 ( ) 姿

Transcript of 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... ·...

Page 1: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

法然浄土教における生死観

(二)

「死」

の視座を中心とし

てi

大河内

1

〔抄

録〕

法然

の生死観を見ていくと、現世で我々が決して無視できな

「死」と

いう事象に対して、真摯に向き合う姿勢が示されている。

そのような法然の姿勢について、これまで充分に検討がなされて

こなか

ったように思われる。そこで本論では、「死」と

いう根本

への法然の姿勢を取り上げ

て、生死観を考察した。

先ずは、「死」に

ついての法然

の理解について、遺文に見られ

る文言を整理した。そしてその理解を基に、法然浄土教

の特徴で

ある

「来迎正念」、「平生念仏」等について考察することで、「死」

を視座とした法然

の生死観を明らかにしていった。これらの作業

から、「死」を見

つめる中に念仏者

「生」

の在り方が示され、

そのような法然の生死の思想が、現代に生きる我々にも不可欠な

視点であることを提示する。

緒言

現世に有限な存在として生き

る我々にと

って、「死」は様

々な苦痛

をもたらす事象である。ここで話題とする法然上人

(一=三二⊥

一二

以下、敬称略)

の教えは、

そのような

「死」を契機とした往生

極楽

の教えである。ならば、念仏を申す信仰生活とは、「死」を思慮

することを欠くことはできないはすである。しかしながら、現実的に

佛教大学大学院紀要

第三五号

(二〇〇七年三月)

「死」は、出来うる限り考えたくな

いも

のとして、日常において忌

避されているのではなかろうか。そのような姿勢は、「いけらば念佛

の功

つもり、しならば淨土

へま

いりなん。とてもかく

ても此身には、

( )

思ひわづらふ事ぞなきと思ぬれば死生ともにわづらひなし」と

「生」

のうちに

「死」を見据えた法然

の姿勢とは、正反対

のものと言える。

「死」を見据えることが難しくな

った今、法然の生死をめぐる思想を

探ることは、意義深

いものと考えられる。

Page 2: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

法然浄土教における生死観

(二)

(大河内大博)

そこで、本稿では、そのような法然の生死観

のうち、「死」の視座

(2)

を中心として、法然浄土教における生死観を探

っていきたい。とりわ

け、法然

の教示した生死の思想を、それが現代に生きる我々に念仏実

践を通していかに生き抜き、ど

のように死を受けとめるべきであると

 M 

指南しているか、と

いう問題意識を軸にしながら考察していく。

一、「死」の理解

そもそも仏教とは、この人間界も含めた苦しみ、迷

いの世界を超え、

涅槃の境地に入ることを目的と

して修行を重ねる実践宗教である。そ

のような宗教たる仏教の中、特

に浄土教では、人間を凡夫と捉え、厳

い修行も尊

い教えも体得でき

ないこの私が救われる道としての死後

往生を説く。

つまり、浄土教は

「この娑婆世界をいとひすてて、いそ

(4

)

きて極楽にむまる

・」法門であり

、この世を厭

い離れて、極楽浄土

生まれることを目的とする。そ

の間には、人間にお

いて最大

の関心事

たる

「死」と

いう境が存在する。

主体的に念仏による死後往生を捉えた時、凡夫たるこの私にと

って、

「死」という苦しみをいかに考え

るか、も

っと言うならば、命ある問

「死」をどのように見

つめて捉えていくかという問題は、到底無視

できない話題となる。このよう

な問題は、有史以来、洋

の東西を問わ

ず、大きな関心事とな

っていたはずであり、宗教の究極的命題とも言

えよう。

そこで本節では、法然

「死」とその周辺に存在する事柄

への姿勢

を見ていき、凡夫であるが故に超克できな

「死」と

いう課題に対し

て苦しんだであろう人々に、どのような説示をしたのかを整理するこ

とで、法然浄土教における生死観をみていく。

一-

「死」をめぐる諸相と法然の理解

ゴータマ

・ブッダは、人間は死すべき存在

であり、死を苦の根本

一つであると教示した。法然も

「おしむといへども死するは人のいの

(5)

ちなり」と、生命

の限りを教示している。その死が人間にと

って苦し

みである理由は、死にゆく過程の中で様

々な耐え難

い変化がもたらさ

れ、諸行無常

の理を無視できない状況に追

いやられるからに他ならな

い。しかし、そのような変化を受け入れることができず、健康な体

の執着や愛する者との別れの回避、延命を望むのが凡夫たる人間であ

り、そこに死をめぐる

一層の苦しみが生じうるのである。

根本苦たる

「死」が誰しもに訪れるという厳然たる事実と、その現

実を回避したいと

いう相矛盾する思

いは、法然在世時の衆生も現代に

生きる我

々も、そう変わりなく抱えている心境であろう。このような

心境にあるものは、この世、この身、この命

への執着にあると言える。

仏教でいう覚りは、あらゆる執着を絶

った先にあるも

のであるから、

これらの死をめぐる諸相は当然問題

の中心となるが、それが出来ない

いう凡夫観に根ざす浄土教においても、人間である以上、やはり無

関心では

いられな

い問題であると言える。

では、法然はそのような

一大関心事たる

「死」に

ついてどのように

捉え、人々を教化したのだろうか。遺文を概観すると、死ぬことを、

Page 3: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

(6)

(7)

(8)

「死ぬる」、「死におよぶ」という直接的な表現以外に、「いのち終わる」、

(9

)

(10

)

(11

)

「い

のち

つき

る」、

「い

のち

」、

「い

のち

」と

(12

)

り、臨終については

「息のたえ

ん時」と表現している。これらから、

法然は肉体的生命が終わる

「死」

を、いのち

(寿命)が

「終わる、尽

きる、息が絶える」事として捉え

ていたことが伺

い知れる。

「死」を理解する上で、そのような

「死」そのも

の以外に、死に至

るまでにどのような出来事が存在するのかも問題にしなければならな

い。我々に訪れる事象は、身体的なも

のだけでなく、心理的

・精神的

なものから、宗教的なものまで、身心両方に起こりうる事柄である。

しかも、凡夫たる人間にと

っては、それら

一切はまさに死をめぐる苦

しみとして、厳然と存在するも

のである。以下、死に至る過程の中で

の人間の苦しみに

ついての言説を整理し、法然の死をめぐる理解の

助としたい。

(・置)

現世

への執着

いよ

いよこの世での命が限られてきた時に生じる苦しみに、「現世

への執着」を指摘することができよう。その代表的なも

のとして、臨

終における執着を、境界愛、自體愛、當生愛

の三種類に分けた三種の

愛心が挙げられる。日本におけるその初見は、千観

(九

一八-九八三)

(13)(14

)

『十願発心記』で、それによると、境界愛とは、臨終に際し、

一緒

に暮らしてきた妻子や親し

い者など、関わり合いの深

い人間関係と

生涯をかけて手にした土地や家

屋と

った財産

への深重な愛着を言

い、自體愛とは、まさに命が終え

るであろう所まで身心が衰えた時に

佛教大学大学院紀要

第三五号

(二〇〇七年三月)

生じる

「この私の命」

への深い執着を指し、當生愛とは、命終えた後

の世界を願う心を言う。これらは凡夫の執着心であり、それ故我

々を

苦しめる根本となるものとして捉えられている。

以上のような三愛について、法然は

「逆修説法」第

一七日で、

所謂ル疾苦逼け身つ將欲レ死.ト之時、必.起誘境界自體當生.三種.愛心

(15)

也。

と述べ、「三部経大意」でも、

ハ衆生ノ命チ終ル時

二臨

テ、百苦來リ逼テ、身心ヤスキ事ナク、

悪縁外

ニヒキ、妄念内

ニモヨヲシテ、境界、自體、當生ノ三種ノ

(16

)

愛心キヲイ起リ

と述べており、臨終には三種

の愛心が必ず生じる、と

いう捉え方をし

ていたことがわかる。

このように、法然は死を目前にした時、人間関係や財産を失いたく

(境界愛)、自分の身体、命を失

いたくない

(自體愛)、という今

世で得たものを手放したくな

いと

いう執着の苦しみと、死んだらどう

なるのか

(當生愛)、という死後

への恐怖、と

いう現実

の苦しみを捉

えている。

(・H)

死別

先に見た三愛の境界愛にもあ

ったごとく、この世の者との別れもま

た、人間の苦しみである。そのような死別の苦しみ

(愛別離苦)に

いて、法然は

「逆修説法」第三七日に、

此.娑婆世界.凡夫具縛.人之事ト與レ心不二相應

一、意樂各別二.而常二

Page 4: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

然浄

土教

における生死観

(二)

(大河内大博)

シ、

二厭

、或

ハ成

二父

↓、

ハ成

二師

↓モ、或

ハ結

訟夫

ハ作

ゴシテ朋

↓タ一.ヒ.、

モ副

ヒ亦

ヌレハ者

二遠

↓、

背前

ノ生

考、如

レ是

キ一アモ矣

。モ矣

砂ル別

↓.之

ニハ、惜

ユ名

↓之

二催

シ、

(17)

不レ堪レ悲二之涙難瞬押事候。

と述べており、父母や師弟、夫婦、友人など、あらゆる人間関係にお

いて、共に寄り添

ったならば、死んで別れなければならな

いことは、

名残惜しく、涙が流れることである、と実に人間味溢れる想いを吐露

している。まさに、「死にたくな

い」という逝く者の叫びと

「死んで

欲しくな

い」という遺される者

の嘆きが、死別の苦しみを生むのであ

ろう。(而

)

身体的苦しみ

命の限りが迫り、弱体化した体をさらに苦しめるのが病である。死に

至る身体的苦しみに

ついて法然は、

やまひをもせてしに候人も、うるはしくおはる時には、斷末魔のく

るしみとて、八萬の塵勞門より、無量のやまひ身をせめ候事、百千

のほこつるきにて、身をきりさくかことくして、見んとおもふ物を

( )

もみす、舌のねすくみて、いはんとおもふ事もいはれす候也。

と、たとえ病気に縁が無か

った人でも、死の間際になるとたくさんの

病に罹り、その苦しみはと

いうと、百千もの鉾や剣で身を切り裂かれ

るようなも

のであり、見ようと思

っても物は見えず、口をきこうと思

っても話すことができな

い状態になる、と述べている。

また、先に確認した

「三部経大意」にも、

ハ衆生ノ命チ終ル時

二臨テ、百苦來リ逼テ、身心ヤスキ事ナク、

(19)

惡縁外

ニヒキ、妄念内

ニモヨヲシテ

とあり、これらは本願を信じて念仏する者も逃れることができない、

言わば人間である以上、誰しもが避けては通れな

い死に際の苦しみで

あると法然は捉えている。

(V)

死後

への恐怖

「死んだらどうなるのか」この問いは、有史以来人間のも

つ命題と

も言うべき問題である。その問

いが、死を前にした者には恐怖そのも

のとなり、死後の不安

へと繋が

っていく。死を機

に極楽浄土という固

の世界に生まれる念仏者にと

っては、信が決定している限り、この

ような死後の恐怖や不安とは無縁と言

っていいはずである。しかしな

がら、先述の三愛

の當生愛にあるが如く、やはり凡夫たる人間にと

て死後の問題は、耐え難い苦しみとなるほど

の関心事であると言えよ

froこ

のような死後

への憂

いについて、法然は、

念佛の行者のそんし候

へきやうは、後世おおそれ往生おねかひて

念佛すれは、おはるときかならすら

いかうせさせ給よしをそんし

(20

)

て、念佛申よりほかのことは候はす

と述べ、死後

への恐怖をなくさなければならないとは説

いておらず、

その憂

いを持ちながらでも往生を願

い、阿弥陀仏の救

いを信じて念仏

するべき姿を指し示している。尚、この場合

「おそれ」とは、死後

もまた迷

いの世界を流転するかもしれな

いという恐れのことであろう

Page 5: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

と思われる。

しかしながら他方では、

(21)

念佛申ながら後世をなげく人は、三心不具の人也

と死後を

「なげく」ことは三心が欠如している者である、との見解を

示している。

つまり、死後

への不安は当然

のものとして許容しているものの、阿

弥陀仏の本願を信じ、念仏を修

したならば、「極楽浄土」と

いう後世

については嘆

いてはならな

い、との見方を示しており、心情としての

死後の憂

いと死後世界

の不信仰と

の境界をは

っきりと画している。

(v)

死期の不定

善導

(六

一三

-六八

一)

の書物を見てみると、『観念法門』、『往生

礼讃』、『臨終正念訣』等で臨終行儀に

ついての詳細な論述が見られる

ことから、善導においては、死期を見定めることは、ある程度意識せ

(22

)

られていたことが伺

い知れる。し

かしながら、法然は、死期は我々人

間の思

い計れるものではない、と

いう見方をしていたようである。例

えば、「要義問答」には、

(23

)

ノ月

ハリ

ノト

ム。

「往

用心

(24)

・し人の死の縁は、かねておもふにもかなひ候はす

と述べ、「いつ、どのように死を迎えるのか」と

いった人の生き死に

は誰にもわからないと

いう考え

に立

っている。そして、死は誰しもに

平等に訪れるという至極当然の摂理を、

佛教大学大学院紀要

第三五号

(二〇〇七年三月)

モト

マリ

ヘキ

モ候

ハス、

モ人

(25)

サキタツカハリメバカリニテコソ候

へ。

と、先か後かの違

いのみの事として捉えている。法然は、「いつ死ぬ

のか」と

いうようなことを問題にすることは、遅かれ早かれ

いずれは

誰もが死するという事実

の前には無益であると考えていたのではない

だろうか。とは言うものの、このような言説が散見できると

いうこと

は、法然にと

ってもその時代に生きた人々にと

っても、「いつ死ぬの

か」という死期については無関心ではいられなか

ったことを伺わせる。

それ故に、

無上念々にいたり、老少きはめて不定なり、やまひきたらん事か

ねてしらす、生死のちかつく事たれかおほ

へん。も

つとも

いそく

へし、はけむ

へし。念佛に三心を具すと

いへるも、これらのこと

(26)

はりをはいてす。

と、生死を表裏

一体のものとして捉え、死期

の不定なる現実を見極め

るよう、注意を促しているのであろう。

(V)

死に様

死を逃れることが出来な

いのならば、せめて安らかな死に様

であり

たいと願うのが心情というものである。法然在世

の時代、念仏信者が

その理想的な形として追い求めたのが、善知識と共に迎える安らかな

臨終の姿であ

った。法然も

「往生浄土用心」で、

先徳たち

のおし

へにも、臨終

の時に、阿彌陀佛を西のかへに安置

しま

いらせて、病者そのま

へに西むきにふして、善知識に念佛を

Page 6: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

法然浄

土教

における生死観

(二)

(大河内大博)

(27)

・められよとこそ候

へ。それこそあらまほしき事にて候

へ。

と、臨終時に阿弥陀仏を西に安

置し、善知識のすすめによ

って念仏を

称えながら死を迎える様相を

「あらまほしき事」として捉え

ている。

しかしながら、続けて、

・し人の死の縁は、かね

ておもふにもかなひ候はす、にはかに

おほちみちにておはる事も候。又大小便利のところにてしぬる人

も候。前業のかれかたくて、たちかたなにていのちをうしなひ、

(28)

火にやけ、水におほれて、

いのちをほろほすたくひおほく候

へは

(29

)

とあり、また

「人の命は食事

の時、むせて死する事もあるなり」と常

に述べていた如く、実に具体的な内容で、入間がいかなる死縁によ

て命を終えるかわからな

い、と

いう現実の直視を促している。

二、法

然の臨終観

-

終来迎思想を中心

にi

先に管見したように、法然は死をめぐる様

々な苦しみについて具体

的に捉え、それらの

一切を包み隠すことなく説示している。そして死

苦について、「本願信して往生ねかひ候はん行者も、この苦はのかれ

(°)

すとて、悶絶し候」と、本願念仏

の利益が、苦しみの除去には至らな

いことを明確に教示した上で、「いきのたえん時は、阿弥陀ほとけの

(1M)

ちからにて、正念になりて往生をし候

へし」と、まさに死ぬ瞬間にお

いて、阿弥陀仏によ

って念仏者

が救われていくことを説示するのであ

る。こ

のような、死にゆく過程

の中での苦しみにお

いてではなく、死を

迎える直前での救いとはいかなるものなのか。本節では、来迎、正念な

どの捉え方を手がかりに、法然

の臨終観についての特質を整理したい。

二-一

臨終来迎思想

臨終来迎思想は大乗仏教に広く見られる思想であり、来迎する仏

.

(32

)

菩薩も経典により異なる。法然

の来迎思想を見ていくにあたり、来迎

する仏は阿弥陀仏であり、その論拠となる経典は、浄土三部経である

ことは言うまでもな

い。以下、三部経各々に見られる説示について概

観し、法然浄土教における臨終来迎思想を明らかにしていく。

『無量寿経』に見られる臨終来迎

『無量寿経』では、第十九願とその願成就文

(上輩段)、中輩

.下

(MM)

輩段の計四箇所に来迎の説示を確認することができる。それらをまと

めると、「臨寿終時」、「臨終」に、無量寿仏

(阿弥陀仏)と大衆、あ

るいは化仏が、「現其人前」もしくは

「夢見」し、衆生は

「随」して

往生する、となる。

第十九願は

「来迎引接願」、「聖衆来迎願」、「臨終現前願」などと称

(34)

される願文であるが、第十九願の内容だけでは、臨終に仏が現前する

までに留まり、迎えとるという

「来迎」、「引接」までは読みとること

ができな

い。つまり、阿弥陀仏が臨終に行者の前に現れると

いうこと

が、その行者を極楽浄土

へと導くことと結び

つくには、願成就文

「随彼佛」を待たなくてはならないと

いうことになる。法然も、「三部

経大意」にお

いて、

Page 7: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

(35)

次三

ご輩往生ノ文アリ。是

ハ第十九ノ臨終現前ノ願成就ノ文也。

と述べていることから、第十九願と三輩段とを結びつけていたことが

確認できる。その第十九願については、同じく

「三部経大意」で、

臨終ノ時

ニミツカラ菩薩聖衆囲繞シテ、其人ノ前

二現セムト云

(36

)

願ヲ建

テ給ヘリ。第十九ノ願是也。

と述べ、また

「その来迎引接願は、すなはち此の四十八願中の第十九

(37)

」と

の来

いる

の見方

いた

こと

る。

三輩

一々を

ると

は来

の主

の差

が見

下輩

では

の益

で内

があ

三輩

認す

『選

四章

に、

.觀

二云

ク又

.經

.下

.初

二云

ク佛

キ,マ.二一切

.

ハ不

ニシ一ア有

コ上

一隨

コ其

ノ根

略佛

ナ勸

テ專

.念

コシム無

.

↓其

.人

以ル終

.ト時

盥会聖

↓自

.來

テ迎

シ,ア盡

トク得

ーシメタマ。ト往

( )

ユニ此

ノ釋

ノ意

一一三輩

二云

コナリ念

↓也

『観

の釈

って、

三輩

の見

いる

にあ

いて

「タ

ノ時

二、

ヨク

ル念

ニョ

テ、

ニカ

(39)

ナラス佛來迎シタマフ」とあることから、法然も、善導の

『観念法門』

に示されている三輩すべてに仏と聖衆による来迎があるとする意と相

違なく、念仏者すべてに通じると捉えていたことがわかる。

これらから、法然の臨終来迎思想は、第十九願によって、三輩の差

別なく念仏者には命終える時に必ず阿弥陀仏の来迎がある、とまとめ

佛教大学大学院紀要

第三五号

(二〇〇七年三月)

られよう。尚、善導には第十九願を来迎の根拠とした説示は見当たら

ない。

『観無量寿経』に見られる臨終来迎

『観無量寿経』を見てみると、九品中、中品下生、下品下生を除く、

(40)

残り

の七品位において、来迎の説示を確認することができ、その内容

には差異が見られる。

『無量寿経』と

の違

いを確認すると、『無量寿経』では

「随」と

う言葉によ

って来迎が表現されており、よって主体は来迎にあずかる

行者であ

ったが、

『観無量寿経』では、「迎接」という言葉によ

ってそ

れを表わし、主体が阿弥陀仏にな

っている。特に上品中生、中品中生、

(41)

下品上生では、「我」と

「汝」との関係性が明確に示されている。

さて、法然の

『観無量寿経』に説かれる臨終来迎の解釈についてで

あるが、

『無量寿経』

では、念仏者には等しく仏

の来迎があるとの捉

え方をしていたのであるから、その解釈からすると、今ここの九品に

ついても同じことが言えるはずである。特に九品全体に来迎があるの

かどうかについては、三輩段と九品と

の関係が

「開合

の違」であり、

九品もまた三輩段同様に

「故に知ぬ。九品の行はただ念仏に在ること

(42)

を」であることから、来迎について触れられていな

い中品下生と下品

下生も含めて、すべての品位において念仏者は仏の来迎にあずかる、

との解釈に至るはずである。そのことは、「逆修説法」第

一七日に、

下品下生ニハ命終.之時見下金蓮花.猶シ如けル日輪づ住躯ル.其人前旗。如噴

文者雖レ見驚ト無許化佛來迎唖之樣払、善導.御意ハ依

訊觀經、十

一門,義瓢

Page 8: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

法然浄

土教

におけ

る生

死観

(二)

(大河内大博)

、第

。明

4命

.之

、聖

迎接

シタマ.不

同、

ノ遲

↓。

.十

一門

ハ約

二對

.

.二九

ノ文

々.品

.中

二皆

叫此

一上。

(43)

下品

下生

ノ中

ニモ可

けリ有

ルニ來

一。

『観

疏』

の意

があ

の見

(44

)

方を示していることから確認できる。

その

一方で、「三部経大意」の内容を見てみると、

臨終現前ノ願

二、大衆圍繞

シテ其人前

二現セムト立給

ヘリ。中品

ハ聲聞衆來迎

ス、下品

ハ化佛ノ三尊、或

ハ金蓮臺等來迎

スト云

リ。而ヲ大衆ト圍繞シテ現

セムト立給

ヘリ。本願意趣、上品ノ來

(45

)

迎ヲマウケ給

ヘル物也

と、第十九願と上品の品位と

の関係について言及している。ここから

は、九品

の中に法然が差を認め

ていることを指摘することができる。

とすれば、第十九願によって

「念仏する者はすべて仏の来迎にあずか

る」とする法然

の考えは上品者

を指していることになるのだろうか。

そこで、「東大寺十問答」を見てみると、

問。臨終來迎は、報佛にておはしまし候か。

答。念佛往生

の人は、報佛

の迎にあ

つかる。雑行の人々の往生す

るは、かならす化佛の來迎にて候也。念佛もあるいは餘行をまし

へ、あるいは疑心をいさ

・かもましふる物は、化佛の來迎を見て、

(46)

佛をかくしたてま

つるもの也。

とある。

つまり、法然の言う

「念仏する者は仏の来迎にあずかる」と

する来迎観は、念仏を疑

いなく修する者を指すのであ

って、上品者の

みに位置づけることは妥当ではな

い。「三部経大意」

の内容は、その

前後から鑑みて、念仏者である以上、上品往生を目指すべきである、

(47)

とする法然の向上性が背景とな

った表現なのであろう。

『阿弥陀経』に見られる臨終来迎

『阿弥陀経』説示の臨終来迎は実に明解であると言えよう。「其人」

である

一日乃至七日

一心不乱に念仏した行者は、「臨命終時」に、「阿

彌陀佛與諸聖衆」が

「前」に在して、「終時」に心が

「不顛倒」の状

態で

「即得往生」すると、時間軸が、平生↓臨終↓命終↓往生と簡潔

(48)

に整理されて説かれている。

この箇所における法然

の言説を見てみると、先ず

「阿弥陀経釈」で

は、

『阿弥陀経』に説かれる来迎が

『観無量寿経』説示の九品中、ど

の品位にあたるかに

ついて検討し、「不審尤も多し」としながらも、

(49)

上品上生であろうとしている。

また

「往生浄土用心」では、

人のいのちおはらんとする時、阿彌陀ほとけ聖衆と

・もに、目の

へにきたり給ひたらんを、ま

つ見まいらせてのちに、心は顛倒

(50)

せすして、極樂にむまるへしとこそ心えて候

へ。

と、『阿弥陀経』と同じ、臨終↓現前↓不顛倒↓往生の順序を意識し

た捉え方をしている。

以上の三部経理解から概観すると、法然の臨終来迎観は、三部経説

示すべてに通入した思想であり、それらは全く

の別体ではなく、それ

ぞれが会通し合

っていることがわかる。

特に

『阿弥陀経』説示箇所が

『観無量寿経』

の上品段

(第十四観)

Page 9: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

に当てられ、その上品段

(第十

四観)が

『無量寿経』

の第十九願に該

当せられて、

『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』が会通し合う

点は、興味深い見解として注目に値しよう。

二⊥

[

来迎正念

三部経に説示されていた通り、来迎は行者を極楽浄土

へと引接する

ためにあり、それが言うなれば、来迎

の目的であると言える。それに

加えて、法然は来迎

の働きに

ついて、「逆修説法」第

一七日で人師

(51)

(52

)

の中

「令

ゆ.住

二正

略之

」、

「来

卦シテ引

二道

↓之

」、

(53)

「為

に對

二治

セ.ヵ魔

↓来

の三

て言

いる

の内

の臨

の特

一義

の来

って

いる

であ

って

の義

つい

て見

いき

い。

「逆

一七

べら

いる内

二臨

り來

ヘリ。所

ル疾

け身

弓將

レ死

。ト之

ス起

.三

ノ愛

一也

二阿

茸大

弓現

⊃タマ.行

ノ前

く時

ノ事

ナル故

二歸

ノ心

ノ外

ニハ無

⊃他

一。

レハ亡

コ三種

弓更

二無

け起

ハ又

.テ行

略加

シタマ。ヵ故

ニハ説

稗慈

シ.ア令

諏心

↓不

一レ亂

二捨

叶命

ア、即

」往

↓住

献ト

退

.ハ説

二諸

、聖

↓現

二在

コ其

略、

.

・人

二顛

一、

レ往

中生

-.阿

.極

長。令

不亂

(54

)

與訃ハ心不顛倒

一、即令励.住二正念略之義也。

とある。先ず阿弥陀仏の来迎は命終るに臨む時、行者を正念に住させ

佛教大学大学院紀要

第三五号

(二〇〇七年三月)

のも

の働

の主

の正

のと

て、

の愛

いる

て、

こと

ってそ

三種

の愛

が滅

に起

こと

『称

『阿

の正

であ

いる。

て見

いく

二臨

ナルヵ故

二來

↓,マ.二、

,マ。ヵ故

ナリト云之

.成

セ.人

ハ、

二必

.可

レ得

二聖

.來

一。

二來

一時

二可

け,住

二正

一也

二今

.行

,不

け辨

二其

.旨

言尋常

.行

↓、

コ怯

弓遙

二期

二臨

.時

弓祈

ユ正

↓、

モ僻

ナリ也

ク々

。得

二此

.旨

弓、

二尋

、行

己不

レ起

.心

弓、

」ハ臨

く可

レ成

コ決

ノ思

弓也

ハ是

レ至

ノ義

ナリ、

力.人

レ留

レ心

導。

(55

)

此ノ爲二臨終正念り來迎。ト云ノ義ハ、靜慮院ノ靜照法橋ノ釋也。

とあり、来迎正念の義を正しく理解せずに、臨終

の時に自分

の力

で正

念に住することばかりを願

っている風潮を嘆

いている。源信

(九四

-一〇

一七)

の浄土教がそうであ

ったように、正念に住することが重

要視される影響が、法然在世時にも強く残

っていたことがわかる。ま

(56)

さに

「臨終正念による来迎」という考え方が

一般的であ

ったのである。

そのような現状を法然は、「最も僻胤なり」と強

い調子で退け、平生

の念仏における心構えこそが最も大切であると示している。この平生

念仏の特徴については、後に詳しく論ずる。

最後に以上

の義は、静照

(?

-一〇〇三)による解釈であるとして

(57)

いるが、法然はこの義を積極的に説き、正念による来迎を至るところ

Page 10: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

法然浄土教における生死観

(二)

(大河内大博)

で力説している。それ故、法然

の臨終来迎観

11来迎正念であると

の指

摘になるのである。

他の遺文における正念来迎に

ついて確認すると、「太胡

の太郎実秀

へつかはす御返事」に、

(58)

佛ノ來迎シタマフ事

ハ、モト

ヨリ行者ノ臨終正念ノタメニテ候ナリ

(59)

とあり、同じ内容のも

のは他に複数確認することができる。また、こ

の道理を弁えない者については、

それを心えぬ人は、みなわか臨終正念にて念佛申したらんおりそ、

ほとけはむか

へ給ふ

へきと

のみ心えたるは、佛の本願を信せす、

(60)

經の文を心えぬ也

と強く退け、臨終正念が来迎によることは、「仏

の本願」、「経

の文」

としての道理であることが明確にされている。

では、何故

に法然は

「正念来

迎」から

コペル

ニクス的転回を計り、

仏辺からの働きかけである

「来

迎正念」の受けとめに至

ったのであろ

うか。それは、先で指摘した法

然の死の理解と深い関係があるように

思われる。すなわち、「往生浄土用心しを見てみると、

そのうゑ三種

の愛心おこり

候ひぬれは、魔縁たよりをえて、正念

をうしなひ候也。この愛心

をは善知識

のちからはかりにてはのぞ

(61

)

きかたく候。阿彌陀ほとけの御ちからにてのぞかせ給ひ候

へく候。

とあり、臨終になると我々凡夫は、正念を失い心が顛倒するものであ

るとの前提に立ち、だからこそ救われてゆくためには阿弥陀仏の力に

依るしかありえないのだ、ということが示されているのである。この

ような来迎正念に

ついて高橋弘次氏は、「そこには衆生にかかわ

って

一〇

最後まで救いとらずにおかな

い仏の慈悲のはたらきをみることができ

(62)

る」と述べている。まさに我々にと

って意識せざるを得な

い、いかん

ともし難い死に際

の苦しみは、阿弥陀仏にと

っても放

っておけな

い出

来事なのである。だからこそ法然は、死をめぐる様々な苦しみをあり

(63)

のままに語り、凡夫が救われていく道を阿弥陀仏に託したのであろう。

二-三

法然の臨終観の特色

以上、管見してきたように、法然の臨終観は、三部経説示の仏の来

迎を基にし、正念に住することができな

い凡夫の救

いを来迎に求め、

まさにこの眼で仏の来迎を見

て往生してゆくと

いう、臨終↓来迎↓正

念↓往生の連綿とした時間軸

の捉え方にその特色がある。そして、そ

の救いはすでに本願として、つまり阿弥陀仏の慈悲

の心によってある

とする点もまた注目に値する。

このように、臨終来迎

・来迎正念は、凡夫には不可欠なことであ

て、その出来事は日頃より意識せざるを得な

い事柄

であ

ったも

のと思

われる。そのことを読み取ることができるのが、法然の深心釈である。

善導浄土教、法然浄土教の根幹たる三心については、法然は多くの文

献で教示しており、その釈は言うまでもなく善導

の意を受けたもので

ある。しかしながら、法然の釈には、善導においては特別に強調され

ることのなかった

「臨終来迎

への深心」が明確化されている。つまり、

「浄土宗略抄」に、

詮してはふかく佛

のちかひをたのみて、

いかなるところをもきら

はす、

一定むかへ給そと信して、うたかふ心のなきを深心とは申

Page 11: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

(64)

候也。

とある如く、善導には見当たらな

い臨終来迎

への信心が、具体的に挙

(65)

げられている。このことからも

、法然にと

って来迎という救

いの形態

が、いかに重要であ

ったかを確認することができる。

三、「死」

の視座

から

「生

1

平生念仏の教えー

おおよそ死は経験としては語り

ようがなく、それ故、これまでに愚

見してきたように、死そのものはもちろんのこと、死に至るまでの諸

相、死んでからの世界などが、重大な課題とな

って我々人間を悩ませ

(66

)

るのである。法然浄土教におけ

るそれらの特徴は、

一切の死をめぐる

諸相をありのまま受けとめた上

で、死の直前たる臨終において、念仏

者には阿弥陀仏の慈悲による救

いがあり、その救

いを信じて疑わない

所に宗教的な営みが見

いだされ

ている点にあろう。ならば、その信じ

て疑わない信仰は、「生」

の営み

のうち、

つまり平生にお

いて具足し

なければならないことになる。

これは、前述した来迎正念と同様、そ

の時代における臨終重視

の風潮からの転換を図

ったも

のとも指摘でき

る。以

下、法然

の臨終来迎、来迎正念に関する記述と平生念仏との関わ

りを整理し、その特徴から法然

「生」と

「死」に関する受けとめを

っていきたい。

佛教大学大学院紀要

第三五号

(二〇〇七年三月)

三-

念仏と来迎

(67)

「逆

一七

て、

の正

こと

い、

の行

いた

。々意

二得

二此

.旨

弓、

二尋

.行

4不

レ起

二怯

.心

↓、

」ハ臨

(68

)

一一可

レ成

コ決定

ノ思

↓也

ハ是

レ至

ノ義

ナリ、

ヵ.人

け留

レ心

ヲ。

いう

「尋

の行

って培

「至

の義

。そ

「太

の太

ノ時

二、

ヨク

ク申

ル念

ヨリ

テ、

ニカ

フ。

ノキ

ヘル

ツリ

テ、

ハ住

ト申

ツタ

エテ候

ニ、

ノ念

ハム

テ、

ミイ

ノ候

(69)

ハ、

ユユシキビカヰムニイリタルコトニテ候ナリ。

と、諄々と述べているように、平生の念仏による臨終来迎が明確に示

され、平生を怠る者をやはり厳しく戒めている。このような平生念仏

(70

)

と来迎との関係は、複数の遺文に見られる思想で、法然

の首尾

一貫し

た捉え方であ

ったことがわかる。

三-二

「摂取不捨」の利益

念仏者には、『観無量寿経』に説かれる

「光明遍ク照コ十方世界弓念佛

Page 12: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

法然浄土教における生死観

(二)

(大河内大博)

(71)

,衆生.摂取.不レ捨,マハ」の利益がある。この摂取される時期について、

「念佛往生要義抄」では、問

いに答える形で、

平生の時なり。そのゆへは、往生

の心ま事にて、わが身をうたが

ふ事なくて、來迎をま

つ人は、これ三心具足

の念佛申す人なり。

この三心具足しぬればかならず極樂にうまると

いふ事は觀經

の説

なり。か

・る心ざしある人を、阿彌陀佛は八萬四千の光明をはな

ちててらし給ふ也。平生

の時てらしはじめて、最後まですて給は

(72)

ぬなり。かるがゆへに不捨

の誓約と申候

と、摂取の利益は平生の時から蒙るとしている。また、「十二箇條

問答」には、

念佛する物をは、彌陀光明をはなちてつねにてらしてすて給はね

(73)

は、惡縁にあはすして、かならす臨終に正念をえて往生するなり。

とあり、光明のはたらきで悪縁

が取り除かれ、臨終正念に住すること

が教示されている。

つまり、摂取不捨の利益の中にも臨終の救

いが示

されており、その利益

の蒙る時期もまた、平生からはじま

って最後ま

で捨てることはない、との考え

が示されている。

三⊥

「死」から

「生」へ

これまでの内容を見ると、いかに平生念仏が大事

であるかが容易に

わかるわけだが、法然

の法語には、必ずしも平生念仏こそが大事

であ

るとするものばかりではな

い。例えば、「念佛往生要義抄」には、

問ていはく、最後の念佛と平生の念佛と、

いつれかすぐれたるや。

答ていはく、た

fおなじ事也。そのゆ

へは、平生の念佛、臨終

一二

念佛とて、なんのかはりめかあらん。平生

の念佛の、死ぬれば臨

(74

)

終の念佛となり、臨終

の念佛の、のぶれば平生の念佛となるなり。

とあり、平生念仏と臨終念仏とを同等に見ていることがわかる。その

理由に

ついて、平生の念仏であると思

っていても、それが最後の念仏

になれば臨終の念仏になるし、最後だと思

って称えた念仏も、体調が

戻れば平生の念仏となる、と

いう

「生き死にの不思議」を考慮した考

えに立

った捉え方をしている。法然は

「往生浄土用心」で様々な死縁

(75)

について具体的に言及していたように、この世の生き死には我々の思

い計れるも

のではない、と

いう極めて現実的な命

の捉え方をしている。

だからこそ、凡夫故に無視できない死に際の苦しみの解決を求めた時、

仏の本願、慈悲による来迎にしかその救

いはなく、そして、いつ、

かなる時に死が訪れるかわからないこの世において万人が救われる道

として、平生に臨終の来迎が確定する平生業成

へと結実していったの

であろう。そのことは、

無上念々にいたり、老少きはめて不定なり、やまひきたらん事か

ねてしらす、生死のちかつく事たれかおほ

へん。も

つとも

いそく

(76)

へし、はけむ

へし。

と、死期の不定故に、急

いで念仏に励むべきであると忠告しているこ

とからも明白である。

阿川文正氏は来迎による救

いと平生念仏

の関係に着目し、「法然が

平生の念仏を重視し、平生

の念仏も臨終

の念仏も同

一に見られ、長時

修を中心として上尽

一形下至

一声の念仏を説かれて、しかも来迎

の上

の正念往生を強調されたのは、如何に往生人に負担をかけずに、称名

Page 13: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

念仏によ

って弥陀の浄土に往生

させようとするかという法然の願いで

(77

)

った。」と述

べ、法然の願

いが

「負担をかけず」と

いう臨終

の救

にあり、それが平生重視

の称名念仏に帰結されたことを端的に指摘し

ている。

以上

のように、法然浄土教の特徴たる平生念仏は、「死」というも

のを考えざるを得な

い中から導き出された教えであると言える。それ

は、「死」をめぐる問題を意識したからこそ見

いだされた、「生」の営

みであると指摘できよう。

小結

生を受け、成長する過程

の中

で、我

々は数々の死を目にし、耳にす

る。そして、

一人称としての死を認識した時、死苦を目の当たりにす

ることとなる。

つまり、「死」を

めぐる問題は、すべて

「生」あるう

ちに、我々に突き

つけられる問題であると言える。法然はそのような

「死」に

ついて、身体的痛みや死別の苦しみ、死期の不定、死後

への

不安など、我々を苦しめる諸相

をありのまま語り、その事実の厳然た

る事を指し示している。その上で、念仏者には、仏の来迎

(来迎正念)

いう利益のあることを教示し、それら諸

々の苦しみから、臨終には

仏の御力によ

って解放される、という救

いで以て、

一切の死苦が

一気

に解決される教えを説く。だからこそ、念仏を申す時期は、自ずと

「生」ある間が示され、平生念仏

の重視と

いう法然浄土教

の特色が表

わされてくるのである。

つまり法

然は、避けることのできな

い死につ

佛教大学大学院紀要

第三五号

(二〇〇七年三月)

いて、臨終来迎

の不定なることが平生念仏によ

って決定することを指

(78

)

し示すことで、死の解決を計

ったと言える。

(79)

「独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る」現実世界において、

法然は念仏

一行を全身全霊で修することにより、「いけらば念佛の功

つもり、しならば淨土

へま

いりなん。とてもかくても此身には、思ひ

( )

わづらふ事ぞなきと思ぬれば死生ともにわづら

いひなし」とした境地

( )

いだ

いる

よう

の生

の我

々が

「死

いう

のま

ってし

か生

いた

「生

い、

いう

であ

ろう

の理

「死

と向

った

の生

であ

る。

〔注

〕(1)

「つね

に仰

せられけ

る御詞」

(『昭和

新修

然上人全

集』以

『昭法全

と略

記、四九

五頁)。

(2)法然

の生死観

ついては、拙稿

『法

然浄土教

における生死観

(一)

1

「生」

の視座

を中心と

てー』

(『仏教福

祉』第九

号、浄土宗

総合研究

'

110

0六年

)

で、

「生」

の視

座から

みた生死観

いて考

察し

で、参照

された

い。

(3)尚、

「生死観」

いう用

語に

ついて、仏典

では、生

死と

いうと

「サ

ンサ

ーラ

(samsara輪

廻)」

を意味することが多

いが、

ここでは

「輪廻」

とし

ての生

死の意味を離れ、今

一般的に用

いら

れて

いる生から死

へ、あ

いは死から生

へと、我

々の命を見

つめる際

の生と

死を

意味するも

のと

一三

Page 14: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

法然浄

土教

における生

死観

(二)

(大河内大博)

て捉え、検討

して

いき

い。このような現代的な生死観

の定義

ついて、

ti:'ii宏達氏

「生

の中

に死を見

つめ

ていく、あ

いは死を通し

て生を考

える観念体系

いし思想構成」

(藤田宏達稿

「原始仏教

における生死観」

『印度

哲学仏教

学』第

三号、

一九

八八年、

三八頁)と

端的

にま

とめ

ので、

ここで

「生死観」

は、藤田氏

の定義を

いて考え

ていく

こと

とする。

(4)「浄土宗略抄」

(『昭法全』

五九

一頁)。

(5)「御流罪

の時門弟

に示されけ

る御詞」其

(『昭法全』

四七

七頁)。

(6)「往生浄土用心」

(『昭法全』

五六四頁)。

(7)「念佛往生義」

(『昭法全』六九

二頁)。

(8)

「往生浄

土用心」

(『昭法全』

五六

三頁)、

「浄土宗略抄

(『昭法全』

五九

六頁)等。

(9)

「往生浄土用心」

(『昭法全』

五六二頁

)。

(10)

「念佛大意」

(『昭法全』

一四頁)。

(11)

「登山状」

(『昭法全』

一九頁)。

(12)

「往生浄

土用心」

(『昭法全』

五六三、五六四頁)。

(13)佐

藤哲英著

『叡

山浄土教

の研究』

資料編、百華苑

一九八九年

一九八

下。

(14)神居

文彰稿

「臨終

における

三愛

の問題」

『印度學

佛教學

研究』第

四十

巻第

二號

一九九三年、八五八頁。

(15)

『昭法全』

二三四頁。

(16)

『昭法全』

三二頁。

(17)

『昭法全』

二五〇~二五

一頁。

(18)「往

生浄土用心」

(『昭法全』五六三頁)。

(19)

『昭法全』

三二頁。

(20)

「法性寺左京

大夫

の伯母なり

ける女房

に遣はす御

返事」

(『昭法全』

一四

九頁)。

(21)

「禅勝房傳説

の詞」

(『昭法全』

四六

一頁)。

h22)神

居文彰稿

「臨

の予知

『印度學

佛教學

研究』第

四十

三巻

二號

九九

五年

、九

六頁

(23)

『昭法全』

一三頁

(24)

『昭法全』

五六四頁。

(25)

「正如

へつかはす御

文」

(『昭法全』

五四〇~五四

一頁)。

(26)

「念佛

往生義

(『昭法全』

六九〇頁)。

(27)

鬥昭法

全』

五六四頁。

(28)同右。

(29)「つねに仰せられける御詞」

(『昭法全』四九三頁)。

(30)「往生浄土用心」

(『昭法全』五六三頁)。

(31)同右。

(32)藤

田宏達

『原始淨土思

の研究』岩波書

店、

一九七

〇年

、五六六~

六七頁。

(33)第十九願

(『浄

土宗全書』

・七~八頁)、願成就文

・上輩段

(同

一九頁)、

中輩段

(同

一九頁)、下輩段

(同

一九~

二〇頁)。

以下、

『浄土宗全書』は

『浄全』と略記。

(34)坪井俊映著

『浄土三部経概説』新訂版、法蔵館、

一九九

六年

、八七頁

(35)

『昭法全』

二九頁。

(36)

『昭法全』三

二頁。

(37)

「逆修説法」第

一七

(『昭法全』

二三四頁、

原漢文)。

(38)

『選択集』

(土

川本)

一~四二頁。

(39)

「太胡

の太郎実秀

へつか

はす御返事」

(『昭法全』

五二

一頁)。

同じ内容

は、

「正如房

へつか

はす御

文」

(『昭法全』

五四

五頁

)、

「念佛

生要義抄」

(『昭法全』

六八五頁)等

にも見

られる。

Page 15: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

(04)

上品上生

(『浄全』

一・四六~

四七

頁)、上

品中生

(同四七頁)、上品

(同

四七~四八頁)、中品上

(同四八頁)、中品

中生

(同

四八~

四九

頁)、下品上生

(同

四九頁)、

下品中生

(同

四九~

五〇頁)。

(41)善導

「我」

「汝」

の関

ついて、

『観

経疏』

散善

(『浄

全』

・六三頁

上)

の中品

中生段

の解説

にお

いて、

「我

H阿弥陀

・聖衆」

が、

「汝

11行者」

に対し

て明ら

かにする内容

を五

つ列

挙し、来

迎に

つい

て説示し

ている。

尚、藤堂恭俊氏

は、そ

のような

「我

」と

「汝」

の間柄

におきる来迎

いて、そ

の両者

の呼

応関係

に焦点を

当てて論じ

ている

(藤

堂恭俊稿

「来

迎と臨終」

『浄

土教文化論』、浄

土宗

総合研究所編、浄

土宗

出版局、

一九

一年

、二九七~

二九八頁)。

(42)

『選択集』

(土川本)四七~四八頁、原漢文。

(43)

『昭法全』

二三三頁。

(44)

「法

性寺左京

大夫

の伯

母なり

ける女房

へ遣はす御

返事」

(『昭法全』

五九

〇頁

)にも、九品

にそれぞれ来迎

があ

るが省略され

ており

、第

十九願か

らす

れば、すべて

の品位に必ず来迎がある、と

の解釈が見られる。

(45)

『昭法全』

四五頁。

(46)

『昭法全』

六四七頁。

(47)詳

しく

は、拙

稿

(前掲

稿、七五~七六頁)を参照された

い。

(48)

『浄全』

一・五四頁。

(49)

『昭法全』

=ご六頁。

(50)

『昭法全』

五六三~五六四頁。

(51)

『昭法全』

二三四頁

(52)

『昭法全』

一ゴニ五頁

(53)同右。

(54)

『昭法全』

二三四頁

佛教大学大学院紀要

第三

五号

(二〇〇七年

三月)

(55)同右。

(56)藤堂稿、前掲稿、三〇〇頁。

(57)静照

『阿

弥陀如来四十

八願釈』

(『浄全』續

・五頁下)

の第

十九願釈

を見ると、来迎正念

と読みとれる内

容で釈し

ている。

(58)

『昭法全』

五二

一頁

(59)

「浄

土宗略抄」

(『昭法全』

五九

六頁)、

「正如房

へつかはす御

文」

(『昭法

全』

五四五頁)等。

(60)

「浄

土宗略抄」

(『昭法全』

五九六頁

)。

(61)

『昭法全』

五六三頁

(62)

高橋

弘次

『黯

法然浄土教

の諸問題』山喜房佛書林

一九

九四年、八七

~八八頁。

(63)

のよう

な阿

弥陀

の絶対

的な

はた

らき

は、

臨終

おけ

る善知

が、

「日こ

ろた

にも御念佛

へは

、御

臨終

に善

知識候

はすとも

、ほとけ

はむ

へさせ給

へき

にて候

(「往

生浄土

用心」

『昭法全』

五六二頁)と

る如く不要

になり、

さらに、

「凡夫善知

ヲオ

ホシ

メシ

ステテ、佛

ヲ善

ニタ

ノミ

マイ

ラセサセタ

マフヘク候

へ」

(「正如

へつかはす御文

『昭法全』

五四五頁)と、阿

弥陀仏

11善知識

へと発

展し

ていく

のであ

る。

から

こそ、

「念佛

はやうなきを

やうとす

。た

"

つねに念佛

すれば、

にはかならず佛きたり

てむ

へて、極楽

にはま

いるなりと」

(「沙

彌随

に示

されける御詞」其

『昭法

全』

一〇頁

)とあるよう

に、臨終

様態

の有

りよう

を定めな

い法

の臨終観

へと繋

がり、且

「つね

に」

仏をす

る起行

へと重点

がシフトし

ていく

こと

になる。

(64)

『昭法全』

五九

五頁。

(65)

法然

の三心

べてに見

れる

わけ

ではな

いが、

の他

「御消

息」

(『昭法全』

五八

一頁)、

「法性寺左

京大夫

の伯母

なりける女房

へ遣はす御

返事」

(『昭法全』

五八九頁)、

「十二問答」

(『昭

法全』

六四〇頁)、

「念

一五

Page 16: 法 り 然 い 死 は 臨 の ぬ 肉 ち る 終 つき る い の ち を き わ ... · 2016-04-19 · て i 大 河 内 大 博 1 〔 抄 録 〕 法 然 の 生 死 観 を

法然浄

土教

における生死観

(二)

(大河内

大博

)

佛往生義」

(『昭法全』六九

一頁)等、複数

の遺文

に確認

でき

る。

(66)死

の経

で言うな

らば

、法

の三昧発得

体験は浄土

の体験

であり、死

経験とも受け

とめられるが、

ここでは

一般的解釈と

して

の死

の体験

の有

無を指す

に留め

ておく。

(67)

『昭法全』

二三四頁。

(68)同右。

(69)

『昭法全』五

一頁。

(70)

「正如房

へつかはす御文

(『昭法全』

五四五~五

四六頁)、「浄土宗略抄」

(『昭法全』五九六~五九七頁)等。

(71)

『浄全』

一・四四頁。

(72)

『昭法全』六八七頁。

(73)

『昭法全』六七四頁。

(74)

『昭法全』六八六頁。

(75)

『昭法全』

五六

四頁。

(76)

「念佛往生義」

(『昭法全』

六九

〇頁)。

(77)

阿川文

正稿

「臨

終と救済

法然

上人語録

を中心

とし

てー」

『佛教文化

研究』第

三四号、浄土宗教学

院、

一九

九〇年

、五五頁。

(78)法

の主眼が

「死」

の克服

ではなく、出離解脱

の道

である

ことは言う

でもな

いが、我

々が決

して無

視できな

「死」

の苦

しみを蔑

ろにしたと

は考え

にくく、それ故、臨終

来迎、来迎正念

には、臨終

の苦し

みの解

を読

みと

ること

ができう

ると

思われる。

(79)

『無量寿経』

(『浄全』

一・二五頁、原漢文)。

(80)同右。

(81)

この法語は、念仏

一行

の専念

の中に、生き

死にが我

々が思

いわずらうも

ではなくして、す

べてを阿弥陀仏

にまかせるべきも

のであるとす

る、法然

の生命観、死の概念、死後世界が凝縮され

ている詞

であると言え

よう。

一六

(おおこうち

だいはく

上宮太子高等学校非常勤講師)

(指導

"藤堂

俊英

教授)

二〇〇六年十月十九日受理