花びゅうウェーブ - 2015年10月号

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魅力 宮古民謡の 後世までも 継承の 2 大潮流と将来の方向 特 集

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Page 1: 花びゅうウェーブ - 2015年10月号

魅力

一、サヨーイ 

伊イ

ヴ良部とぅがマーン 

間バシ

がまんな

 

ヨー 

ぱなりゆとぅが 

間バシ

がまんなヨーイ 

渡バタ 

 

瀬ジ

ぬマーン 

休ユク 

ユ瀬ジ

ぬあてあなむぬヨー

 (平良と伊良部島との間に 

離れ島との間に 

渡る瀬が

 

休む瀬が多いことよ)

二、サヨーイ 

渡バタ 

瀬ジ

やマーン 

舟フニガマ小だらヨー  

 

休ユク 

ユ瀬ジ

や水ミスガマ

巣小だらヨーイ 

舟フニ

たどぅりマーン

 

水ミ

ス巣やたどぅり通カユ

い参ンミヤち

ヨー

 (渡る瀬は小舟だよ 

休む瀬もお舟だよ  

舟を頼り  

 

お舟を頼って通っていらっしゃい)

三、サヨーイ 

平ピサラバシ

良間ぬマーン 

波ナグイが

まをばヨー

 

一里が間バシ

ぬなぐいがまをばヨーイ 

我バ

が手ティ

しど

 

マーン 

女ブナリヤが手しど和ナダ

らきお供トゥムそでヨー

 (平良との間の波をば、一里間の波をば、私の手で、 

 

女の手で均な

してお供しますよ)

四、サヨーイ 

夕ユウドリガマ

凪小んな 

いらよかなしゃヨー 

 

板ヤドゥバスガマ

戸小や音ウトゥダ高かかりゃヨーイ 

鳴ナ

らんやどぅゆ

 

マーン 

むしる戸ヤドゥゆ下サ

ぎ待マ

ちぅりヨー

 (夕凪時には 

ねえ愛しい人よ 

板戸は音が高いから  

 

音の鳴らない戸を 

むしろの戸を下げて待っていてよ)

魅力宮古民謡の

後世までも ㊦継承の 2 大潮流と将来の方向

特 集

 

伊良部とうがに

゜す

゜す

゜す

゜す

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平良玄幸

■宮古民謡の2大潮流

(続き)

◎平良玄幸流工工四の誕生

 

平良玄幸さんは宮古民謡工工四

の作成において、前号で紹介した古

堅宗雄さんとともに草分け的存在

である。だが、古堅さんが多く紹

介されている一方で、平良さんの足

跡を示す記述はあまり見られない。

宮古で初めて声楽譜附きの宮古民

謡工工四を著した偉業の人であるが、

現在知る人はあまりに少ない。幸い

にも平良玄幸さんを知る洲鎌正篤

さん=平良字東仲宗根添(増原)=が

100歳余ってもとても元気で取材

に応じてくれたことと、「宮古芸能の

系譜」を著した平良重信さんの教示、

平良玄幸さんの二男・富持さんの証

言などでいくらか知ることができた。

平良玄幸さんは1894(明治27)

年、平良字東仲宗根添(底原)の生ま

れ。農業を営み、サトウキビを原料

に酒造業も手がけ、使用人も抱え

た富農であった。学区のPTA会長

を務めるなど人望が厚く、1927

(昭和2)年には33歳で平良町議の補

欠選挙に当選し1年4カ月ほど議

員を務めた。二男の富持さんに記憶

を尋ねると、「父が議員の頃について

は分からない。私がまだ生まれる前

のことなので」と言った後で、「小学

生の頃、地域の農家らがサトウキビ

を売りに来ていた。父はキビを買い

取ってキビ汁でもろみを造って酒を

取っていた。酒を大がめに入れてマ

スで小売りをしていたが、大人の小

遣いで子供たちがビンを持ってきて

は『1合ください』、『2合ください』と

買っていた」と酒造業の当時を思い

起こした。

 

玄幸さんは再婚を機に平良の街

に転居。長男・博さんと一緒に製

麺業を営み、平良の街や各地、八

重山までそうめんを箱に詰めて売

りに出していた。

 

1960年ごろ、教職にあって

宮古民謡の研究や後継者育成に努

めた友利明令氏に感化され、宮古

師の平良玄幸さんについて語る洲鎌正篤さん

民謡に関心を持つようになった。

玄幸さんは増原の根間玄綱さんか

ら三線の手ほどきを受けた。根間

さんは同年生の幼なじみだったの

で、平良の街から増原まで馬に

乗って三線習いに通った。

 

根間玄綱さんについては、同じ増

原の洲鎌正篤さんの知るところでも

あるので、少し紹介しておこう。

 

根間さんは三線の名手で、黒糖

作りもして裕福でもあった。腕力的

に事を運ぶところがあって、個人か

らは疎まれる面もあったという。し

かし洲鎌さんは「根間玄綱さんは公

共的にはいいことをした。社会の

ために尽くした人」と評価する。昔、

増原の道路は嶺や谷、岩角に当たっ

た曲がり道などで道路事情が悪く、

子供たちの登下校にも着物がぬれて

汚れたという。根間さんは強引な形

で農家の畑を無償で提供してもらい

道路を整備させた。このため農家に

は恨まれ呪われもしたが、洲鎌さん

は「この人のおかげで増原の道路は

良くなった。銅像を建て顕彰しても

おかしくない」と話した。

 

根間さんは公にはあまり出な

かった。若い頃から民謡三線を弾

いたが、沖縄本島から来た砂糖検

査員の勢理客さんにより琉球古典

音楽に触れてから、これにほれ込

んで朝から晩まで一人楽しんでい

たという。 

 

さて、平良玄幸さんはその根間

さんから古典音楽を教わり、民謡

にも力を入れたのである。

 

その後、玄幸さん

は当時宮古に寄留し

ていた仲宗根栄助、

金城順誉さんらから

も古典音楽を学び、

さらには沖縄本島に

渡って幸地亀千代さ

んに師事、野村流古

典音楽の教師免許を

宮古で初めて授与さ

続きは「購入」でお読みいただけます。

Page 3: 花びゅうウェーブ - 2015年10月号

1962年に発表した、「風に吹

かれて」でボブ・ディランは、当

時の若者の圧倒的な支持を得る。

 

ディランはこの曲をマーチン・

D28アコースティクギターと、

首にかけたホルダーに固定した

ハーモニカの伴奏だけで歌った。

 

それが彼のスタイルだったの

だ。

 

64年の秋、ニューヨークでのラ

イブの二部に彼は、エレキギター

をさげ、バンドのメンバーをひき

つれてステージに現れた。

 

観客はざわめいた。ディランに

罵声をあびせる者もいた。「裏切

り者!」

 

ビートルズやストーンズと違っ

て、生ギター一本だけで自分たち

のメッセージを代弁するディラン

に共感していたファンには、信望

していた教祖様が突然、キリスト

教から仏教かなにかに改宗したよ

うに映ったのだろう。

 

信者に追われ、曲の途中でディ

ランはステージを降りた。数分後、

再び戻った彼は、いつものマーチ

ンだけで「時代は変わる」を歌う。

目に、涙をためて・・・。

 

あんたの時間が貴重だとおもっ

たら

 

およぎはじめたほうがよい

 

さもなくば 

石のようにしずん

でしまう

 

とにかく時代は変わりつつある

んだから

 

ディランが以前のスタイルに戻

ることはなかった。でも彼は、平

和への思いや社会の問題などを訴

えることはやめなかった。

 

還暦を過ぎた今でもディランは

ステージにたっている。歌い続け

られたのはもちろん、支持してく

れるファンがいたからだ。

 

一度はそっぽを向いた信者たち

は、大切なのは、スタイルではな

く、彼の思いだと気づいたのだろ

う。ディランもまた彼らを愛して

いた。だからメッセージを送り続

けたのだ。

 

時代は変わる。めまぐるしいス

ピードで。それこそ、精一杯およ

いでも、石のようにしずんでしま

いそうなのが現代だ。でも、どん

な時代にあっても、人をいたわる

心や正しいと思う自分の考えを訴

え続ける努力を怠ってはならない

と思う。それぞれの、次の世代の

ためにも。

 

青春メッセージ。若い頃から好

きだったボブ・ディランについ

て————

たまに耳にするとい

ろいろ思い出して涙がちょちょ切

れそうになるので、女房子供の前

では聴かないようにしているディ

ランについて—

———

どうして

も書きたいと決めて書きました。

青春メッセージ

 あんたの時間が貴重だとおもったら

 およぎはじめたほうがよい

 さもなくば 石のようにしずんでしまう

 とにかく時代は変わりつつあるんだから

森田 保1959(昭和34)年10月27日生まれ。歯科医師(宮古島市内開業)。奥羽大学歯学部卒。

Page 4: 花びゅうウェーブ - 2015年10月号

 

毎日、うだる様な暑さの中、秘

かに冷夏を望んだ思いが、見事に

はずれ、海に帰れないトドのごと

く、海の見える窓辺に横たわり、

快適な沖縄の冬を、待ち望んでい

ます。

 

寒い金沢から、父の介護のため

に何十年ぶりに宮古に住んでから、

早、十年が過ぎています。小学校

卒業以来の宮古での生活に、不安

いっぱいの始まりでした。毎日が

慌ただしく過ぎていく、金沢での

生活に比べ、時間がゆったりと流

れ、美しい海を眺めながらの生活

を、今ではとても幸せに感じてい

ます。何しろ、ノーテンキのわた

しの事、思いもよらないいろいろ

な出来事に、何とか乗り切ること

ができました。

 

残念な事に、子供の頃から大好

きだった父は、2008年の暮れ

に、九十一歳で旅立ってしまいま

した。父との四年間は、とても忙

しく、大変な日々でしたが、父の

介護が嫌だと思う事なく、とても

充実した四年間を過ごせました。

父から、「ありがとう」と、感謝

の言葉をいっぱいかけてもらう度

に、わたしのほうがありがとうだ

と思う日々でした。

 

もちろん、わたし一人で介護を

したわけでなく、訪問介護をして

くださる先生がいてくださり、看

護師さんをはじめ、ケアマネー

ジャーさん、ヘルパーさん等、そ

の他、大勢の皆さんにささえられ

ての介護でした。皆さんのささえ

のおかげで、最後まで、家で父を

介護する事ができ、ほんとうに、

皆さんには感謝の気持ちでいっぱ

いです。

 

でも、介護生活には、思いも

かけない事がいっぱいおこりま

す。「毎日が一生」をモットーと

して、一日一日を、全力投球で過

ごす事にしているわたしは、父の

介護中も、生活を楽しむために、

興味のある事には、父の体調が良

いときや、ヘルパーさんの入る日

など、時間や状況があえば、何に

でもチャレンジしました。その事

で、囲りの心ない人々からは、父

をほったらかしにして、出かけて

ばかりと、かげ口をたたかれたり、

兄から、いろいろな、邪推をされ

たりと、父の介護より、そちらの

ほうで、つらい思いをしたりしま

した。

 

介護をされている方々は、皆さ

ん、日々、切磋琢磨しながら努力

されていると思います。たまに来

て、毎日頑張っている介護者を批

難するより、少しでも努力を認め

てあげたらと思います。介護生活

には、つらい事ばかりでもありま

せん。学ぶ事がいっぱいあります。

幸せを感じる事も、いっぱいあり

ます。ちょっとした事で、父が喜

ぶ姿を見せた時、何物にもかえが

たい幸せを感じるのは、わたしだ

けではないと思います。

青春メッセージ

◎「毎日が一生」を

     モットーとして

 1953年9月21日、池間島生まれ。豊見城高校、常磐短大(神戸)卒。尼崎市役所職員、専業主婦、金沢でセコムの寮母、喫茶店「エスタリコ」経営など経て、2005年父親の介護のため池間島に戻る。

古川 弘枝

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№ 9

宮古の風景

ヤエヤマオオコウモリ 翼手

目・オオコウモリ科。(ほ乳類)

 

南西諸島(宮古・八重山諸

島)に生息。クビワオオコウ

モリの1亜種。体全体が黒く、

首の回りだけが首輪状に白ま

たは黄の淡色の体毛に覆われ

ている。体長19︱25㎝。夜行

性で、主に果実や花、葉など

を食べる。

 

夜の宮古島の空を低く飛び

回る大きな鳥のような生き物

がいる。体色は暗褐色なので、

夜の闇に紛れてあまり目に付

かない。だが、知る人ぞ知る、

島全体に生息し、夜を我が世

界として活動している。木の

上で仲間同士で騒いで「ギャ

ー、ギャー」と鳴き声を発し

たりする。それは、ヤエヤマ

オオコウモリだ。まだ明るい

うちに木にぶら下がっている

個体を見つけることも出来た。

日が沈んで暗くなりかけた頃

から目が覚めたように動き出

した。やがて、数の多さにビ

ックリだった。カメラでとらえ

た姿を紹介する。宮古島市下

地の沖縄製糖工場近くで撮影

(川満)

宮古の風景