仏教タントリストが口にするもの - 京都精華大学...-64-...

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-64- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

仏教タントリストが口にするもの飲食による「即身成仏」について

静  春 樹

�����������

はじめに

 インド密教の内から自らを「金剛乗」(�������� ��)として別立したグループは,仏身獲得(「即

身成仏」)の手段として「性ヨーガによる成仏」を唱え,その基礎となる精緻な心身相関理論

を編み出していく。ところが一方で,彼らは飲食を手段とする仏身獲得をも唱導している。本

稿は二つの成仏の手段の相互関連を明らかにするための準備となる論考であり,「飲食による成

仏」のためにタントリストが口にする実体の具体的内容を明らかにするものである。

 第一章では,人体の排泄物である「五甘露」(������~ �����- �����), 五種類の動物の肉からなる「五・

灯明」(��������~ �����)について述べる。この問題は仏教タントリストたちが何故,ヒンドゥー教-

正統派の社会倫理と組織原理の中心をなす「淨」の観念に全く背を向けて,このような「不浄」

な実体の摂取を遵守するべき規範(������三昧耶)として自らに課したかという問題に繋がっ

ていく。

 第二章では,仏教タントリストのグループが行うべき人身供犠の儀礼について述べる。中世

インド社会の底辺においては,特異な儀礼内容の集会をする瑜伽女(女性ヨーガ行者)たちの

集団,即ち�������������(瑜伽女輪),あるいは- ���・������- ����-�����(荼枳尼網)の名で呼ばれる「魔女集-

会」が存在した。アウトカースト出身の彼女たちの集団に伝承されていたであろう人身供犠の

儀礼を仏教タントリストが採用し,仏教教理で意味づけて神通力の獲得と金剛身成就の手段と

していることを論じたい。

第一章「五甘露」・「五灯明」

 人体の排泄物は言うまでもなく汚物であり,糞尿,経血などに対する性的倒錯を伴う愛好は,

精神医学では「嗜糞尿狂」(����������)と名づけられている。男性および女性の仏教タントリ

ストたちにとっては,生涯に亘る������な,あるいは修法期間だけの一時的なパートナーとの

「正常な」性的関係はむしろ義務(三昧耶)であったことから,性的倒錯は論外として,人体

の排泄物に対する特別な傾向性は,それまでのインド密教から仏教タントリズムを画する一つ

のメルクマールとなるものである。この点に限定すると,仏教タントリズムはまさしく現代精

神病理学にとり格好の研究材料となるものであろう。

 インド密教が,正統派バラモンの社会通念からは唾棄すべきものとされる糞尿など人体の排

泄物を口にする行為1を修法・行法に取り込む動きは『真実摂経』(�����������������『初会金剛頂・

経』に同じ)の釈タントラ2から始まる3。こうした展開が極まって集約的な表現を見たのが,

九世紀初頭に現れた仏教タントリズムの「成立宣言」としての『秘密集会タントラ』(��������

�� ���������以下『秘密集会』)である4。その第五章には,「他人の財物に執着する者たち,常に愛

欲に溺れる人たち,糞尿を食物とする人たち,これらの人たちは本当のところ,成仏するに相

応しい者たちである(5)」と極端な「悪人正機」思想が宣揚されている5。後期密教の全期間

を通して権威をもって広く流通した『秘密集会』には,この他にも世間で貶められる不浄物の

摂取を公言した以下の如き文言は数多い。

次いで一切如来の主である金剛手菩薩は,一切の金剛ダーキニー(仏教の影響下にある人

肉食の女神)の三昧耶(規範)を,自己の身語心金剛(絶対的真理)より流出された。

糞尿と経血を食べ,常に酒などを飲み金剛ダーキニーとの〔性〕ヨーガに入り,住位の特

徴によって殺生をなすべし。(���17(24)偈)

次いで一切如来の主である金剛手菩薩は,また一切諸仏の三昧耶を自己の身語心金剛より

流出された。

糞・尿・精液・経血に対して,嫌悪すべきではない。儀軌に従って常に食べるべきである。

この秘密は〔身語心〕三金剛より生じたものである。(���17(47)偈)

 多くを挙げる必要を認めないが,インド後期密教全体の根本タントラと広く認められている

『秘密集会』には,「汚言狂」(����������)の文言に満ち充ちた文献と見られても仕方がない性

格がある。ヒンドゥー教の「淨・不浄」観念との関連で,ニロッド・C・チャウドリー(1996:

258)は,「液体のなかでも,唾液,精液,尿,糞便(これはインドでは〔食物のせいであろう

か〕かならず粘性である)などのような肉体の分泌物は,とりわけ不浄なものとされた。血は

穢れであり,とくに生理の血はひどく不浄とされた」と述べている。

 本論に入って,「五甘露」について見ていく。『秘密集会』では,第四章に「糞・尿・精液・

経血などを諸尊に供養するべし6」とあり,�������������作の註釈書『灯作明』はその箇所を,-

「『糞尿』云々などについて,糞尿とは,五甘露である。大肉と言うのは五種の灯明であり,

-65-京都精華大学紀要 第二十六号

-64- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

仏教タントリストが口にするもの飲食による「即身成仏」について

静  春 樹

�����������

はじめに

 インド密教の内から自らを「金剛乗」(�������� ��)として別立したグループは,仏身獲得(「即

身成仏」)の手段として「性ヨーガによる成仏」を唱え,その基礎となる精緻な心身相関理論

を編み出していく。ところが一方で,彼らは飲食を手段とする仏身獲得をも唱導している。本

稿は二つの成仏の手段の相互関連を明らかにするための準備となる論考であり,「飲食による成

仏」のためにタントリストが口にする実体の具体的内容を明らかにするものである。

 第一章では,人体の排泄物である「五甘露」(������~ �����- �����), 五種類の動物の肉からなる「五・

灯明」(��������~ �����)について述べる。この問題は仏教タントリストたちが何故,ヒンドゥー教-

正統派の社会倫理と組織原理の中心をなす「淨」の観念に全く背を向けて,このような「不浄」

な実体の摂取を遵守するべき規範(������三昧耶)として自らに課したかという問題に繋がっ

ていく。

 第二章では,仏教タントリストのグループが行うべき人身供犠の儀礼について述べる。中世

インド社会の底辺においては,特異な儀礼内容の集会をする瑜伽女(女性ヨーガ行者)たちの

集団,即ち�������������(瑜伽女輪),あるいは- ���・������- ����-�����(荼枳尼網)の名で呼ばれる「魔女集-

会」が存在した。アウトカースト出身の彼女たちの集団に伝承されていたであろう人身供犠の

儀礼を仏教タントリストが採用し,仏教教理で意味づけて神通力の獲得と金剛身成就の手段と

していることを論じたい。

第一章「五甘露」・「五灯明」

 人体の排泄物は言うまでもなく汚物であり,糞尿,経血などに対する性的倒錯を伴う愛好は,

精神医学では「嗜糞尿狂」(����������)と名づけられている。男性および女性の仏教タントリ

ストたちにとっては,生涯に亘る������な,あるいは修法期間だけの一時的なパートナーとの

「正常な」性的関係はむしろ義務(三昧耶)であったことから,性的倒錯は論外として,人体

の排泄物に対する特別な傾向性は,それまでのインド密教から仏教タントリズムを画する一つ

のメルクマールとなるものである。この点に限定すると,仏教タントリズムはまさしく現代精

神病理学にとり格好の研究材料となるものであろう。

 インド密教が,正統派バラモンの社会通念からは唾棄すべきものとされる糞尿など人体の排

泄物を口にする行為1を修法・行法に取り込む動きは『真実摂経』(�����������������『初会金剛頂・

経』に同じ)の釈タントラ2から始まる3。こうした展開が極まって集約的な表現を見たのが,

九世紀初頭に現れた仏教タントリズムの「成立宣言」としての『秘密集会タントラ』(��������

�� ���������以下『秘密集会』)である4。その第五章には,「他人の財物に執着する者たち,常に愛

欲に溺れる人たち,糞尿を食物とする人たち,これらの人たちは本当のところ,成仏するに相

応しい者たちである(5)」と極端な「悪人正機」思想が宣揚されている5。後期密教の全期間

を通して権威をもって広く流通した『秘密集会』には,この他にも世間で貶められる不浄物の

摂取を公言した以下の如き文言は数多い。

次いで一切如来の主である金剛手菩薩は,一切の金剛ダーキニー(仏教の影響下にある人

肉食の女神)の三昧耶(規範)を,自己の身語心金剛(絶対的真理)より流出された。

糞尿と経血を食べ,常に酒などを飲み金剛ダーキニーとの〔性〕ヨーガに入り,住位の特

徴によって殺生をなすべし。(���17(24)偈)

次いで一切如来の主である金剛手菩薩は,また一切諸仏の三昧耶を自己の身語心金剛より

流出された。

糞・尿・精液・経血に対して,嫌悪すべきではない。儀軌に従って常に食べるべきである。

この秘密は〔身語心〕三金剛より生じたものである。(���17(47)偈)

 多くを挙げる必要を認めないが,インド後期密教全体の根本タントラと広く認められている

『秘密集会』には,「汚言狂」(����������)の文言に満ち充ちた文献と見られても仕方がない性

格がある。ヒンドゥー教の「淨・不浄」観念との関連で,ニロッド・C・チャウドリー(1996:

258)は,「液体のなかでも,唾液,精液,尿,糞便(これはインドでは〔食物のせいであろう

か〕かならず粘性である)などのような肉体の分泌物は,とりわけ不浄なものとされた。血は

穢れであり,とくに生理の血はひどく不浄とされた」と述べている。

 本論に入って,「五甘露」について見ていく。『秘密集会』では,第四章に「糞・尿・精液・

経血などを諸尊に供養するべし6」とあり,�������������作の註釈書『灯作明』はその箇所を,-

「『糞尿』云々などについて,糞尿とは,五甘露である。大肉と言うのは五種の灯明であり,

-65-京都精華大学紀要 第二十六号

-66- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

それら二つのものの部分を等しくして,下弦の八日あるいは十四日に丸薬を作って陰干しして

7,(略)」と註釈している。さらに『秘密集会』第十六章では「糞・尿・肉・脂および第五のも

の8」とあって,「五甘露」の用語は見られないが,これらの実体が一組で挙げられていること

が理解される。

 「五甘露」については,『秘密集会』に見られるようにそれらの多くが人体からの排泄物を意

味していることは確かであり,糞便・尿・経血・精液の四種は殆どの文献に共通している。残

りの一つに脂や粘液を入れる場合がある一方で,大肉(人間の肉)を入れる場合があり,そう

なると次に述べる「五灯明」の大肉と重複することになる。しかし仏教タントリストたちの仲

間内で使用が義務づけられている「秘密の言葉」(符牒�������� ���� ������)によって「五甘露」が・

明示的に何を指しているのかについては同定が極めて困難である。それぞれの註釈書が別々な

実体を指すからである。まず,『サンプタ�����������註』を引用する。-

「ヨーガの儀軌を説く」とは,人間の身体に住する五甘露〔の説示〕である。かくの如く

(タントラでは)簡潔に示されているので詳しく釈して,「������������」は大便の乳糜であ・

る。尿は「薫香水」である。「栴檀」は戦場で殺された者の血である。「樟脳」は精液であ

る。「������」は大肉である。「�����」は自生の血(経血)である。「�������」は等至(性交)

の符牒である。「�������」は蓮華(女陰)である。「����」は髓である。「それらのものは

大薬であって」と言うのは人間の身体に存在する薬であるから「大」と言う符牒が付けら

れるのである9。

 次ぎにヴィクラマシーラ(��������� �����)大僧院10の僧院長を勤めたインド後期密教の大学匠-

アバヤーカラグプタ11(������� ����������以下アバヤーカラ)作『アームナーヤマンジャリー』

(������� ����-

������~ ���)を引用する。-

「大血」は汗である。「樟脳」は大肉,あるいは髄,あるいは脂,あるいは粘液である。

「赤栴檀」は大便であって身体と心を広大に生起して成熟させるためと歓ばせるためであ

る。「金剛水」は尿である。「心より正しく生じたもの」は精液であって,『秘密集会の続

タントラ』においても〔次ぎのように〕説かれており,「五つの垢は身体の諸存在におい

て本来的に輝いている。五智によって加持されるが故に五甘露である12」と言われる。三

昧耶とは五甘露である13。

 この「五甘露」と金剛界五仏の同置を明示的に説くのが後の節でも述べる『大印明点タント

ラ』(以下『大印明点』)の第十二章である。

五甘露の儀軌の優れた略説を私は説こう。〔五甘露を〕毘盧遮那仏(大日如来)・阿�仏・

不空成就仏・阿弥陀仏・宝生仏の〔金剛界〕五〔仏〕として示すべし。宝生仏は血(経血)

と説示される。無量光(阿弥陀)仏は精液と語られる。不空成就仏は大肉であり,阿�仏

は尿である。毘廬遮那仏は糞便であると釈説される。それは五甘露である14。

 仏教タントリストたちにとっての「三昧耶」の意味は特殊15である。瑜伽タントラ階梯まで

のインド密教にあって,「三昧耶」とは仏・如来の「本誓」を密教行者が自らの誓いとして自

発的に受持することであり,自利利他の修行に邁進する内的な根拠を意味した。その「三昧耶」

が無上瑜伽階梯にあっては,密教行者が必ず口にすべき飲食物として現れてくる。「三昧耶と

は五甘露である」との定義は,瑜伽タントラ階梯までの「三昧耶」理解からは,決して展開も

説明も出来ない。この点からしても,『真実摂経』以後のインド密教者の間に何らかの地殻変

動をもたらす動きがあったとしか考えられないのである。本稿は「インド密教に起こった地殻

変動」を論じるための前提の一部になるものである。

 さて,こうした人体からの排泄物や人肉である「五甘露」の摂取を具体的にどのように行う

かについての詳しい記述が�������������作『灯作明複註』に見られる。-

「五甘露」とは,糞便などの五つの実体である。「曼荼羅輪に献ずるべし」とは,その儀

軌は以下であって,生まれたばかりの乳児の地面に落ちる前の糞便に瓦器(�� ���� ��)をあ

てがって入れて,七日の間,自らの願う尊格のマントラと金剛薩 の百字〔真言〕を一緒

に読誦し,陰干しにして,それから薫香を白檀と栴檀に混ぜ合わせてから〔塗り〕付けて,

生起次第により毘廬遮那仏の姿として生起させて,それが仕上がってから再び真実の財物

と意楽するべきである。それ(乳児の糞便)が無ければ自身から出た最後の三滴だけを取

るべきであり,最初に出た粗い汚物は取るべきではないからである。それについての加持

次第は先の通りである。薫香水(尿)もまた最後に出た三滴だけを阿�仏のヨーガで加持

して取るのである。血もまた十二歳の娘の自生の花(経血)を取るべきであって,〔それ

が〕無ければ左手の薬指〔を切って〕から出た血を宝生の生起次第で加持して取るのであ

る。菩提心(精液)もまた月が欠けた時に二根等至(性交)の結果から出て地に落ちる前

のものを螺貝の器で取って(身語心)三金剛のヨーガで加持するのである16。

 この�������������の意趣釈17では,「五甘露」は,大便・小便・経血・精液と大肉であり,註釈-

-67-京都精華大学紀要 第二十六号

-66- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

それら二つのものの部分を等しくして,下弦の八日あるいは十四日に丸薬を作って陰干しして

7,(略)」と註釈している。さらに『秘密集会』第十六章では「糞・尿・肉・脂および第五のも

の8」とあって,「五甘露」の用語は見られないが,これらの実体が一組で挙げられていること

が理解される。

 「五甘露」については,『秘密集会』に見られるようにそれらの多くが人体からの排泄物を意

味していることは確かであり,糞便・尿・経血・精液の四種は殆どの文献に共通している。残

りの一つに脂や粘液を入れる場合がある一方で,大肉(人間の肉)を入れる場合があり,そう

なると次に述べる「五灯明」の大肉と重複することになる。しかし仏教タントリストたちの仲

間内で使用が義務づけられている「秘密の言葉」(符牒�������� ���� ������)によって「五甘露」が・

明示的に何を指しているのかについては同定が極めて困難である。それぞれの註釈書が別々な

実体を指すからである。まず,『サンプタ�����������註』を引用する。-

「ヨーガの儀軌を説く」とは,人間の身体に住する五甘露〔の説示〕である。かくの如く

(タントラでは)簡潔に示されているので詳しく釈して,「������������」は大便の乳糜であ・

る。尿は「薫香水」である。「栴檀」は戦場で殺された者の血である。「樟脳」は精液であ

る。「������」は大肉である。「�����」は自生の血(経血)である。「�������」は等至(性交)

の符牒である。「�������」は蓮華(女陰)である。「����」は髓である。「それらのものは

大薬であって」と言うのは人間の身体に存在する薬であるから「大」と言う符牒が付けら

れるのである9。

 次ぎにヴィクラマシーラ(��������� �����)大僧院10の僧院長を勤めたインド後期密教の大学匠-

アバヤーカラグプタ11(������� ����������以下アバヤーカラ)作『アームナーヤマンジャリー』

(������� ����-

������~ ���)を引用する。-

「大血」は汗である。「樟脳」は大肉,あるいは髄,あるいは脂,あるいは粘液である。

「赤栴檀」は大便であって身体と心を広大に生起して成熟させるためと歓ばせるためであ

る。「金剛水」は尿である。「心より正しく生じたもの」は精液であって,『秘密集会の続

タントラ』においても〔次ぎのように〕説かれており,「五つの垢は身体の諸存在におい

て本来的に輝いている。五智によって加持されるが故に五甘露である12」と言われる。三

昧耶とは五甘露である13。

 この「五甘露」と金剛界五仏の同置を明示的に説くのが後の節でも述べる『大印明点タント

ラ』(以下『大印明点』)の第十二章である。

五甘露の儀軌の優れた略説を私は説こう。〔五甘露を〕毘盧遮那仏(大日如来)・阿�仏・

不空成就仏・阿弥陀仏・宝生仏の〔金剛界〕五〔仏〕として示すべし。宝生仏は血(経血)

と説示される。無量光(阿弥陀)仏は精液と語られる。不空成就仏は大肉であり,阿�仏

は尿である。毘廬遮那仏は糞便であると釈説される。それは五甘露である14。

 仏教タントリストたちにとっての「三昧耶」の意味は特殊15である。瑜伽タントラ階梯まで

のインド密教にあって,「三昧耶」とは仏・如来の「本誓」を密教行者が自らの誓いとして自

発的に受持することであり,自利利他の修行に邁進する内的な根拠を意味した。その「三昧耶」

が無上瑜伽階梯にあっては,密教行者が必ず口にすべき飲食物として現れてくる。「三昧耶と

は五甘露である」との定義は,瑜伽タントラ階梯までの「三昧耶」理解からは,決して展開も

説明も出来ない。この点からしても,『真実摂経』以後のインド密教者の間に何らかの地殻変

動をもたらす動きがあったとしか考えられないのである。本稿は「インド密教に起こった地殻

変動」を論じるための前提の一部になるものである。

 さて,こうした人体からの排泄物や人肉である「五甘露」の摂取を具体的にどのように行う

かについての詳しい記述が�������������作『灯作明複註』に見られる。-

「五甘露」とは,糞便などの五つの実体である。「曼荼羅輪に献ずるべし」とは,その儀

軌は以下であって,生まれたばかりの乳児の地面に落ちる前の糞便に瓦器(�� ���� ��)をあ

てがって入れて,七日の間,自らの願う尊格のマントラと金剛薩 の百字〔真言〕を一緒

に読誦し,陰干しにして,それから薫香を白檀と栴檀に混ぜ合わせてから〔塗り〕付けて,

生起次第により毘廬遮那仏の姿として生起させて,それが仕上がってから再び真実の財物

と意楽するべきである。それ(乳児の糞便)が無ければ自身から出た最後の三滴だけを取

るべきであり,最初に出た粗い汚物は取るべきではないからである。それについての加持

次第は先の通りである。薫香水(尿)もまた最後に出た三滴だけを阿�仏のヨーガで加持

して取るのである。血もまた十二歳の娘の自生の花(経血)を取るべきであって,〔それ

が〕無ければ左手の薬指〔を切って〕から出た血を宝生の生起次第で加持して取るのであ

る。菩提心(精液)もまた月が欠けた時に二根等至(性交)の結果から出て地に落ちる前

のものを螺貝の器で取って(身語心)三金剛のヨーガで加持するのである16。

 この�������������の意趣釈17では,「五甘露」は,大便・小便・経血・精液と大肉であり,註釈-

-67-京都精華大学紀要 第二十六号

-68- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

はこのあと「大肉もまた『吉祥金剛甘露タントラ』の中で説かれている儀則で取るべきであっ

て」としてヨーガ行者が自己にヘールカ神を生起して(自身がヘールカ神に心身変容して)墓

場に赴きインド黒魔術(����������)の代表格である「����� ��(起屍鬼)の法」で死人から肉を

取る次第が説明されている。

 タントラ文献においては,人体からの排泄物と並んで18,人肉を含めた五種類の肉が「五灯

明」の名で現れる。この用語については「五甘露」とは異なって具体的に何を指すかが明らか

である。『秘密集会』第十二章には,「大肉・象肉・馬肉・犬肉・牛肉」が一組で挙げられてい

る19。

 「五灯明」の代表的な説明を『ヘーヴァジュラ・タントラ二儀軌』(以下『二儀軌』)〈現證儀

軌王品〉およびその『�����������註』から以下に引用する。

儀礼においては,三昧耶である五灯明を注意深く食すべきである。〔それらは〕頭文字が��,

頭文字が��,頭文字が��,終わりが�� ��,頭文字が�� ��である。同様にヘーヴァジュラ〔の

三昧耶をもつ者は〕成就のために五甘露を食すべきである20。

それについて,「人間」(����)の語の始めの文字は��,「牛」(��)の語の始めの文字は��,

��は「象」(������)の語の最初の文字,�� ��は「馬」(��� ��)の語の終わりの文字,同じく��

��は「犬」(�� ���)の語の最初の文字である。こうした材料を等同にして,親指の関節大ほ

どの丸薬を作って,清浄と為し混合し,火を煽って甘露と為して食べることで外の悉地と

なるのであり21,(略)

 註釈書では,五種類の肉は材料であって,それから作られた丸薬は浄化され,甘露となるた

めの儀礼を経なければならず,そうして甘露となったものを食しても獲得されるのは「外の悉

地」である点がタントラ作者と註釈家との落差を示している。

同様の内容が『二儀軌』〈飲食品〉を註釈した『�����������註』で述べられている。

説かれている食物は「三昧耶」云々と言うのであって三昧耶は五つであり,〔それらは〕

牛・犬・象・馬・人間である。「王の米」とは,人〔肉〕の三昧耶であり,「王の米」と

「骨生」というのは同義語である22。

 無上瑜伽階梯に特有な「三昧耶」の用法がここにも見られる。牛・犬・象・馬・人間の五種

類の肉,つまり彼らの符牒で「五灯明」は,仏教タントリストが摂取しなければならない「五

種三昧耶」である。他方で,バラモン教の下での社会通念では,「犬は動物の中でも最不浄の

類(『マハーバーラタ』���,139)」とされる。「五灯明」は別名「五鉤」とも呼ばれてタントラ

に出てくる。������������������第十六章〈五甘露の成就を明示する次第〉には,次のようにあ・

る。

肉や脂と同様に血を智者(ヨーガ行者)は受持するべし。悉地を願う行者は五鉤であれば

何であれ獲得することや,この場では秘密が第一事と説かれているので,もし首尾よく手

に入れたならば〔密かに〕受持するべし。牛肉と馬肉と象肉,また同様に人肉と犬肉を智

者は受持するべし。金剛薩 がお説きになった〔それらは〕五灯明と称される。獲得して

から〔下弦〕月の十日にこうした物品を正しく集めるべし。香味と混ぜ合わせてよく秘密

裡に準備するべし。修行者は秘密のうちに丸薬の形に正しく作るべし。その直後によくと

とのった特別な食物と飲み物によって,聚会の中央で加持してその後で〔飲食の〕行為を

正しく開始すべし。マントラ読誦と同じく禅定〔により〕願うところのすべての果が生じ

て,身体の����� ����(不死の霊薬)と最勝解脱の悉地が与えられる。諸々の行為の一切によ

く相応すれば虚空行の位が獲得されよう23。

 先に見た『大印明点』では,「五甘露」が金剛界五仏と同置されていた。それとは異なって,

こうした五種類の肉が金剛界五仏と同置されることで五真実とされている例である

������第二章(���������-�����)第三節〈曼荼羅供養〉の一部とその註釈������ ・ ����������作『聖四座釈』・

を以下に引用する。

次に供養の特別な行為とは,相応しいものと相応しくない〔という妄分別〕を離れ,鉤な

ど五種類を五真実となして,大鉤として建立されたものは,智慧の尊格(毘廬遮那仏)と

称される。金剛鉤として阿�仏,位の鉤には宝の自在者(宝生仏),王の鉤として不空成

就仏,動く鉤として無量光仏である。五鉤などについてはすべての真実を結合するべし24。

「大鉤」というのは,人間の肉である。「五智の」とは,五智を自性に願う意味である。

「金剛鉤は動揺しない者」とは,象の肉である。阿�仏を自性とするのである。「母の鈎25

は宝生」とは,犬の肉であり,宝生仏を自性とするのである。「勝者の鉤は不空」とは牛

の肉であり,不空成就仏を自性とする。「動く鉤は無量光」とは馬の肉であり,無量光仏

(阿弥陀仏)を自性とする。「五鉤などのすべてを真実と正しく結びつける」とは,その

���������・ ����-������・

-69-京都精華大学紀要 第二十六号

-68- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

はこのあと「大肉もまた『吉祥金剛甘露タントラ』の中で説かれている儀則で取るべきであっ

て」としてヨーガ行者が自己にヘールカ神を生起して(自身がヘールカ神に心身変容して)墓

場に赴きインド黒魔術(����������)の代表格である「����� ��(起屍鬼)の法」で死人から肉を

取る次第が説明されている。

 タントラ文献においては,人体からの排泄物と並んで18,人肉を含めた五種類の肉が「五灯

明」の名で現れる。この用語については「五甘露」とは異なって具体的に何を指すかが明らか

である。『秘密集会』第十二章には,「大肉・象肉・馬肉・犬肉・牛肉」が一組で挙げられてい

る19。

 「五灯明」の代表的な説明を『ヘーヴァジュラ・タントラ二儀軌』(以下『二儀軌』)〈現證儀

軌王品〉およびその『�����������註』から以下に引用する。

儀礼においては,三昧耶である五灯明を注意深く食すべきである。〔それらは〕頭文字が��,

頭文字が��,頭文字が��,終わりが�� ��,頭文字が�� ��である。同様にヘーヴァジュラ〔の

三昧耶をもつ者は〕成就のために五甘露を食すべきである20。

それについて,「人間」(����)の語の始めの文字は��,「牛」(��)の語の始めの文字は��,

��は「象」(������)の語の最初の文字,�� ��は「馬」(��� ��)の語の終わりの文字,同じく��

��は「犬」(�� ���)の語の最初の文字である。こうした材料を等同にして,親指の関節大ほ

どの丸薬を作って,清浄と為し混合し,火を煽って甘露と為して食べることで外の悉地と

なるのであり21,(略)

 註釈書では,五種類の肉は材料であって,それから作られた丸薬は浄化され,甘露となるた

めの儀礼を経なければならず,そうして甘露となったものを食しても獲得されるのは「外の悉

地」である点がタントラ作者と註釈家との落差を示している。

同様の内容が『二儀軌』〈飲食品〉を註釈した『�����������註』で述べられている。

説かれている食物は「三昧耶」云々と言うのであって三昧耶は五つであり,〔それらは〕

牛・犬・象・馬・人間である。「王の米」とは,人〔肉〕の三昧耶であり,「王の米」と

「骨生」というのは同義語である22。

 無上瑜伽階梯に特有な「三昧耶」の用法がここにも見られる。牛・犬・象・馬・人間の五種

類の肉,つまり彼らの符牒で「五灯明」は,仏教タントリストが摂取しなければならない「五

種三昧耶」である。他方で,バラモン教の下での社会通念では,「犬は動物の中でも最不浄の

類(『マハーバーラタ』���,139)」とされる。「五灯明」は別名「五鉤」とも呼ばれてタントラ

に出てくる。������������������第十六章〈五甘露の成就を明示する次第〉には,次のようにあ・

る。

肉や脂と同様に血を智者(ヨーガ行者)は受持するべし。悉地を願う行者は五鉤であれば

何であれ獲得することや,この場では秘密が第一事と説かれているので,もし首尾よく手

に入れたならば〔密かに〕受持するべし。牛肉と馬肉と象肉,また同様に人肉と犬肉を智

者は受持するべし。金剛薩 がお説きになった〔それらは〕五灯明と称される。獲得して

から〔下弦〕月の十日にこうした物品を正しく集めるべし。香味と混ぜ合わせてよく秘密

裡に準備するべし。修行者は秘密のうちに丸薬の形に正しく作るべし。その直後によくと

とのった特別な食物と飲み物によって,聚会の中央で加持してその後で〔飲食の〕行為を

正しく開始すべし。マントラ読誦と同じく禅定〔により〕願うところのすべての果が生じ

て,身体の����� ����(不死の霊薬)と最勝解脱の悉地が与えられる。諸々の行為の一切によ

く相応すれば虚空行の位が獲得されよう23。

 先に見た『大印明点』では,「五甘露」が金剛界五仏と同置されていた。それとは異なって,

こうした五種類の肉が金剛界五仏と同置されることで五真実とされている例である

������第二章(���������-�����)第三節〈曼荼羅供養〉の一部とその註釈������ ・ ����������作『聖四座釈』・

を以下に引用する。

次に供養の特別な行為とは,相応しいものと相応しくない〔という妄分別〕を離れ,鉤な

ど五種類を五真実となして,大鉤として建立されたものは,智慧の尊格(毘廬遮那仏)と

称される。金剛鉤として阿�仏,位の鉤には宝の自在者(宝生仏),王の鉤として不空成

就仏,動く鉤として無量光仏である。五鉤などについてはすべての真実を結合するべし24。

「大鉤」というのは,人間の肉である。「五智の」とは,五智を自性に願う意味である。

「金剛鉤は動揺しない者」とは,象の肉である。阿�仏を自性とするのである。「母の鈎25

は宝生」とは,犬の肉であり,宝生仏を自性とするのである。「勝者の鉤は不空」とは牛

の肉であり,不空成就仏を自性とする。「動く鉤は無量光」とは馬の肉であり,無量光仏

(阿弥陀仏)を自性とする。「五鉤などのすべてを真実と正しく結びつける」とは,その

���������・ ����-������・

-69-京都精華大学紀要 第二十六号

-70- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

うちの「すべての真実」とは涅槃であり,「それを結びつける」とは,縁という意味である。

それらはまた毘廬遮那仏と阿�仏と宝生仏と無量光仏と不空成就仏を自性とすると言われ

て,「凡そ誰であっても願う尊格のすべて」と言うのであり,五仏を自性とするが故に願

望が成就するのである26。

 タントラおよび註釈書では,「五灯明」,つまり五種類の肉が金剛界五仏と同置されているが,

少し異なった解釈が『サンヴァラ広釈句義明』に見られる。ここでは「五灯明」だけではなく,

「五甘露」と「五灯明」が混ぜ合わされて出来た実体に,金剛界五仏とのヨーガをなした阿闍

梨が加持をして,五感官の対象を象徴させた「五金剛女」の内の「味金剛女」(�����������)とし-

て生起させる。作者の�����������が「瑜伽女タントラ」である��������- ����������������(以下・

『チャクラサンヴァラ』)の註釈に『秘密集会』系統の「金剛女」を出しているのが注目される。

最初の一つの器に食べ物とガナチャクラに必須な資財と蘇息つまり菩提心(精液),中間

〔の器〕には自生の血(経血),最勝なる〔器には〕大血と薫香つまり大便と最初の水つ

まり尿であって,〔それら〕と一緒にするものは馬と象と犬と牛と人間の肉つまり五〔灯

明〕である。それを�����・・ ����-���・��・ ����-���の三文字で加持して後,〔金剛界の〕五族を自性にもつ・

が故に味金剛女(�����������)として生起するのである27。-

 『秘密集会』で明確にその姿を見せる「五甘露」・「五灯明」は,インド密教の最後に現れた

タントラである������������������の註釈書�������������(以下『ヴィマラプラバー』)においても- -

仏教タントリストの集会,ガナチャクラと関連させて次のように説かれている。

かくの如く糞と尿と髄と五灯明は八つの三昧耶であり,月(精液)と太陽(経血)は二つ

の三昧耶である。このように十種類の供物である五甘露と五灯明によってガナチャクラと

なるのである。酒と肉と性交と甘露を食べるという四個一組が阿闍梨によって為されるべ

きである。さもなければ魔の軍勢に捕らえられるというのが如来の説示である28。

 『ヴィマラプラバー』が説くようにガナチャクラとは,「酒と肉と性交と甘露を食べるという

四個一組」となった修法(同時に饗宴)であり,「五甘露」・「五灯明」はそれに不可分な資財

なのである。しかしこうした引用例はまさしく九牛の一毛に過ぎないものであって,無上瑜伽

階梯の文献の中では,仏教徒の集団的な修法の場に現れる「五甘露」・「五灯明」の用例は枚挙

にいとまがない。

 ところがタントラの註釈書に現れるガナチャクラとは違って,「ガナチャクラ儀軌」といっ

た儀礼マニュアルにおいて見られる「五甘露」はどのような実体であろうか。「ガナチャクラ

儀軌」から想像される仏教徒たちの集会は,依然として黒魔術的な要素をもつ秘儀的修法では

あっても,それは同時に祝祭的な要素を強めていることを見て取ることができる。多くのガナ

チャクラの儀礼マニュアルにおいては,ガナチャクラを「布施」する施主が準備する飲食物は,

口にして「本当に美味しい」品々である。例えば『�������������ガナチャクラ儀軌』では,「客・

人(会衆である男女ヨーガ行者)たちを喜ばせるために,集会で肉と酒と乾飯と麺餅と餅子と,

同様に主食と副食品と飲物と乳酪など」が施主によって用意される29。ネパールの阿闍梨

���������が作成し,その地で広く行われた儀礼集成書������ �����������中の「ガナチャクラ儀軌」・

においては,「各種調味料・米飯・バター・スープ・様々な魚と肉・ペストリー・蒸しパン・

揚げパン・酒・水・蒟醤・各種果物」(桜井2001:27)が提供される。������ ������(以下『ヴァジ-

ュラーヴァリー』)と構成が類似した『阿闍梨作法集』の「ガナチャクラ儀軌」も同様である30。

 タントラへの注釈書『アームナーヤマンジャリー』の中では,五甘露について古典的な註釈

をしているアバヤーカラは,儀礼集成書『ヴァジュラーヴァリー』の��������������� 儀礼の尊像供養・ ・

で「五甘露」が用いられる場面を以下のように説明している。

その次ぎに甘露軍拏利〔尊〕のマントラを読誦したダルバ草の束を用いて,銅器に入った

ヨーグルト,牛乳,ギー(������牛乳や水牛の乳から作った一種の液状バター),蜂蜜,黒砂糖-

が混ぜ合わさった外の五種の甘露でもって,次ぎに牛乳,ヨーグルト,ギー」,牛糞,牛

尿といった牛五淨(������������牛の体から出て地面に落ちる前に採取されたこれら五種類~

のもの)で尊像を沐浴し,〈��������・ ����-�������� �������・ ・ ����-����� ����〉のマントラを読誦して〔尊像に〕塗るべ・ ・

し31。

 儀礼集成書とは,諸々の儀礼を実際に行うに際してのマニュアルである。この場面で「五甘

露」として挙げられている実体はヨーグルト・牛乳・ギー・蜂蜜・砂糖が混ぜ合わされたもの

である。この実体を指してアバヤーカラは「外の五種甘露」と呼んでいる。『秘密集会』が宣

揚した教説に忠実であろうとすれば,三昧耶である「五甘露」は人体からの排泄物および人肉

であるべきであって,乳製品や蜂蜜・砂糖であることは出来ない。アバヤーカラに見られる後

世の阿闍梨たちはその齟齬を会通するために「内の五甘露」としての古典的な五種の実体に対

して,「外の五甘露」のカテゴリーを案出したと考えられる。

 さらにインド密教の阿闍梨たちは,この「内外」の落差をも観想によって,現実の飲食物に

本来のあるべき「五甘露」を具現化する方途で無化する魔術師である。成就法によって例えば

-71-京都精華大学紀要 第二十六号

-70- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

うちの「すべての真実」とは涅槃であり,「それを結びつける」とは,縁という意味である。

それらはまた毘廬遮那仏と阿�仏と宝生仏と無量光仏と不空成就仏を自性とすると言われ

て,「凡そ誰であっても願う尊格のすべて」と言うのであり,五仏を自性とするが故に願

望が成就するのである26。

 タントラおよび註釈書では,「五灯明」,つまり五種類の肉が金剛界五仏と同置されているが,

少し異なった解釈が『サンヴァラ広釈句義明』に見られる。ここでは「五灯明」だけではなく,

「五甘露」と「五灯明」が混ぜ合わされて出来た実体に,金剛界五仏とのヨーガをなした阿闍

梨が加持をして,五感官の対象を象徴させた「五金剛女」の内の「味金剛女」(�����������)とし-

て生起させる。作者の�����������が「瑜伽女タントラ」である��������- ����������������(以下・

『チャクラサンヴァラ』)の註釈に『秘密集会』系統の「金剛女」を出しているのが注目される。

最初の一つの器に食べ物とガナチャクラに必須な資財と蘇息つまり菩提心(精液),中間

〔の器〕には自生の血(経血),最勝なる〔器には〕大血と薫香つまり大便と最初の水つ

まり尿であって,〔それら〕と一緒にするものは馬と象と犬と牛と人間の肉つまり五〔灯

明〕である。それを�����・・ ����-���・��・ ����-���の三文字で加持して後,〔金剛界の〕五族を自性にもつ・

が故に味金剛女(�����������)として生起するのである27。-

 『秘密集会』で明確にその姿を見せる「五甘露」・「五灯明」は,インド密教の最後に現れた

タントラである������������������の註釈書�������������(以下『ヴィマラプラバー』)においても- -

仏教タントリストの集会,ガナチャクラと関連させて次のように説かれている。

かくの如く糞と尿と髄と五灯明は八つの三昧耶であり,月(精液)と太陽(経血)は二つ

の三昧耶である。このように十種類の供物である五甘露と五灯明によってガナチャクラと

なるのである。酒と肉と性交と甘露を食べるという四個一組が阿闍梨によって為されるべ

きである。さもなければ魔の軍勢に捕らえられるというのが如来の説示である28。

 『ヴィマラプラバー』が説くようにガナチャクラとは,「酒と肉と性交と甘露を食べるという

四個一組」となった修法(同時に饗宴)であり,「五甘露」・「五灯明」はそれに不可分な資財

なのである。しかしこうした引用例はまさしく九牛の一毛に過ぎないものであって,無上瑜伽

階梯の文献の中では,仏教徒の集団的な修法の場に現れる「五甘露」・「五灯明」の用例は枚挙

にいとまがない。

 ところがタントラの註釈書に現れるガナチャクラとは違って,「ガナチャクラ儀軌」といっ

た儀礼マニュアルにおいて見られる「五甘露」はどのような実体であろうか。「ガナチャクラ

儀軌」から想像される仏教徒たちの集会は,依然として黒魔術的な要素をもつ秘儀的修法では

あっても,それは同時に祝祭的な要素を強めていることを見て取ることができる。多くのガナ

チャクラの儀礼マニュアルにおいては,ガナチャクラを「布施」する施主が準備する飲食物は,

口にして「本当に美味しい」品々である。例えば『�������������ガナチャクラ儀軌』では,「客・

人(会衆である男女ヨーガ行者)たちを喜ばせるために,集会で肉と酒と乾飯と麺餅と餅子と,

同様に主食と副食品と飲物と乳酪など」が施主によって用意される29。ネパールの阿闍梨

���������が作成し,その地で広く行われた儀礼集成書������ �����������中の「ガナチャクラ儀軌」・

においては,「各種調味料・米飯・バター・スープ・様々な魚と肉・ペストリー・蒸しパン・

揚げパン・酒・水・蒟醤・各種果物」(桜井2001:27)が提供される。������ ������(以下『ヴァジ-

ュラーヴァリー』)と構成が類似した『阿闍梨作法集』の「ガナチャクラ儀軌」も同様である30。

 タントラへの注釈書『アームナーヤマンジャリー』の中では,五甘露について古典的な註釈

をしているアバヤーカラは,儀礼集成書『ヴァジュラーヴァリー』の��������������� 儀礼の尊像供養・ ・

で「五甘露」が用いられる場面を以下のように説明している。

その次ぎに甘露軍拏利〔尊〕のマントラを読誦したダルバ草の束を用いて,銅器に入った

ヨーグルト,牛乳,ギー(������牛乳や水牛の乳から作った一種の液状バター),蜂蜜,黒砂糖-

が混ぜ合わさった外の五種の甘露でもって,次ぎに牛乳,ヨーグルト,ギー」,牛糞,牛

尿といった牛五淨(������������牛の体から出て地面に落ちる前に採取されたこれら五種類~

のもの)で尊像を沐浴し,〈��������・ ����-�������� �������・ ・ ����-����� ����〉のマントラを読誦して〔尊像に〕塗るべ・ ・

し31。

 儀礼集成書とは,諸々の儀礼を実際に行うに際してのマニュアルである。この場面で「五甘

露」として挙げられている実体はヨーグルト・牛乳・ギー・蜂蜜・砂糖が混ぜ合わされたもの

である。この実体を指してアバヤーカラは「外の五種甘露」と呼んでいる。『秘密集会』が宣

揚した教説に忠実であろうとすれば,三昧耶である「五甘露」は人体からの排泄物および人肉

であるべきであって,乳製品や蜂蜜・砂糖であることは出来ない。アバヤーカラに見られる後

世の阿闍梨たちはその齟齬を会通するために「内の五甘露」としての古典的な五種の実体に対

して,「外の五甘露」のカテゴリーを案出したと考えられる。

 さらにインド密教の阿闍梨たちは,この「内外」の落差をも観想によって,現実の飲食物に

本来のあるべき「五甘露」を具現化する方途で無化する魔術師である。成就法によって例えば

-71-京都精華大学紀要 第二十六号

-72- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

乳製品が「甘露」と為される。これについてはキリスト教で行われる聖餐(聖体)の���������

(秘蹟)を考えて戴きたい。祭壇に置かれたパンと葡萄酒がイエス・キリストの肉と血に「聖

変化」する如く,集会の中央に置かれた現実の乳製品に被さってくる「聖性」は,本来の「五

甘露」に表象される仏教タントリストの共同観念としての三昧耶なのである。ここに見られる

「内外」の落差は丁度,成就法の構造を浮き彫りにする鏡として役立つ。「西蔵大蔵経」に『ガ

ナチャクラ儀軌』,『ガナチャクラ供養儀軌』の名で単独テキストとなっている文献,あるいは

曼荼羅儀軌に組み込まれたユニットとしての「ガナチャクラ儀軌」では,一部の例外を除き

「五甘露」「五灯明」の記述がトーンダウンしている。このことはタントラに忠実な註釈と実

際に行われた大衆的な祝祭の性格を帯びた集会マニュアルとの性格上の相違を示すものと考え

られる。

第二章�〈七生人〉の供犠

 チベットへの仏教の伝来は前伝期と後伝期に分けられる。前伝期とは,古代吐蕃王朝が仏教

の導入を国家的事業として押し進めた七世紀から王朝の滅亡と共に仏教が勢力を失った九世紀

中葉までを言う。十世紀に入るとチベット各地に散った吐蕃王朝の末裔が勢力を吹き返し,彼

らに担われて仏教復興の動きが活発になってくる。この後伝期の始まりに大きな役割を果たし,

その後のチベット仏教発展の基本路線を確定したのがベンガル地方の現在はバングラデシュと

なっている土地出身で,ヴィクラマシーラ大僧院の学頭(筆頭僧)を勤めたアティーシャ�

(������� ��982~1054入蔵1042)である。チッベトの歴史書『青冊史』にはアティーシャとチベッ-

ト仏教の改革に関係して次の記述が見られる。

 「アティーシャがガリ地方に来錫するに先立っての間,オディヤーナ(仏教タントリストに

とって伝説の理想郷,しかしインドのどの地方に当たるかについては現在に至るも確定をみて

いない)出身のシェーラップ・サンワと呼ばれる学匠で,カシミール人ラトナヴァジュラの弟

子となった者が,『大印明点』を始めとするタントラと註釈書などをひとまとめにした������

(明点・標点)に属するタントラを宣説し,それらはチベット人の益するところとなった32」

とある。しかし同書の他の箇所,「チャンチュップ・ギャムツォとチュウキ・ギャムツォが一

人の下僕を伴って,ニェン低地のワニャムに到った後,十八人の「盗賊比丘」が,彼らを誘拐

し,その手下の者は『ダーキニー33たちへの供犠にしよう』と叫んだ。34」に註して,翻訳者���������

は,「10世紀シェーラップ・サンワの名で知られ,または阿闍梨シャムタプ・マルポとして知

られたインドの学匠が,����������������������������(����420)を翻訳した。一部の著作者によれば,- - -

十八人の『盗賊比丘』たちは彼の弟子である。十八人の『盗賊比丘』たちの教義は堕落したタ

ントラの修法から成っており,彼らは女や男を誘拐してはタントラの饗宴(�������������・ �������)の- -

間に人間の供犠として用いた。彼らの修法が理由となって,チベット(西北部の)グゲ国の王

たちはアティーシャの招請を決めたと言われている35」とのコメントを記している。

 筆者が「後期ヘーヴァジュラ・タントラ群36」と呼ぶ��������������������������(『大印明点』)お- -

よび,����~������������������(����422以下『智慧明点』)のガナチャクラを説く章品には,確かに上-

記の逸話のとおり人間の供犠について明記されている箇所がある。本節ではその内容がまさし

く�����������(人肉嗜好)であり,あまりに衝撃的であるが故にわが国ではこれまで研究者に

取り上げられることが憚られた仏教徒たちの人身供犠の儀礼を論じる。『二儀軌』〈説密印品〉

は,ヘーヴァジュラ(ヘールカ神の異名)のサークルで行われるべき人身の供犠を疑問の余地

なく次のように説く。

瑜伽女タントラであるヘーヴァジュラ〔のサークル〕における,一切有情の利益のために

瑜伽女たちが集合する節会(特定の日)を汝に語ろう(19)。

金剛蔵は申し上げた。「世尊よ。それは何日でありましょうか」。

世尊はお答えになった。「〔���� ���月の〕下弦月第十四日と同じく第八日である(20)。

〔ヨーガ行者は〕絞首台に吊された者や戦場で殺された者や七生人(����������)の肉を食

すべきである。(21)。智者は努めて悲を生起してから〔七生人〕殺害儀礼(��� �������)を行・

うのである。悲に欠けた者は〔この儀礼に〕成功しないが故に,悲を生起するべきである

(22)。難調なる者を〔秘密真言乗に〕趣入せしめるために〔殺害儀礼の〕一切が儀軌ど

おりに為される。そこでは次のように思念すべきであって,即ち昼は世尊・持金剛,夜は

般若母(般若波羅蜜母)である(23)37。

 『二儀軌』のこの箇所について,『�����������註』,および������������作『������������ ��� 』からそれ・ ・ ・

ぞれの註釈を以下に引用する。

さらにまた別に食物を説いて,「憧旛と武器〔によって〕突き刺された者や七返の者をも

食すべし」と言うについて,幢幡とは盗賊などの男女で王によって罰されて切られた者で

あって,身体を武器で切り刻まれて死体を焼く木に吊り下げられたままの者である。「七

返の者」とは,ここでは男性か女性で七生に〔亘り〕人間の身で転生している者であって,

その徴はまた影が七つできることと眼が瞬きをしないことと額に皺が三つあることと身体

に芳香を出すことなどであり,そのような〔者を〕見たならば頂礼して花を献じて囲繞し

た上で,以下の言葉で,「ヨーガの自在者よ,今や我等の如く利益を為さる時がやって来

-73-京都精華大学紀要 第二十六号

-72- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

乳製品が「甘露」と為される。これについてはキリスト教で行われる聖餐(聖体)の���������

(秘蹟)を考えて戴きたい。祭壇に置かれたパンと葡萄酒がイエス・キリストの肉と血に「聖

変化」する如く,集会の中央に置かれた現実の乳製品に被さってくる「聖性」は,本来の「五

甘露」に表象される仏教タントリストの共同観念としての三昧耶なのである。ここに見られる

「内外」の落差は丁度,成就法の構造を浮き彫りにする鏡として役立つ。「西蔵大蔵経」に『ガ

ナチャクラ儀軌』,『ガナチャクラ供養儀軌』の名で単独テキストとなっている文献,あるいは

曼荼羅儀軌に組み込まれたユニットとしての「ガナチャクラ儀軌」では,一部の例外を除き

「五甘露」「五灯明」の記述がトーンダウンしている。このことはタントラに忠実な註釈と実

際に行われた大衆的な祝祭の性格を帯びた集会マニュアルとの性格上の相違を示すものと考え

られる。

第二章�〈七生人〉の供犠

 チベットへの仏教の伝来は前伝期と後伝期に分けられる。前伝期とは,古代吐蕃王朝が仏教

の導入を国家的事業として押し進めた七世紀から王朝の滅亡と共に仏教が勢力を失った九世紀

中葉までを言う。十世紀に入るとチベット各地に散った吐蕃王朝の末裔が勢力を吹き返し,彼

らに担われて仏教復興の動きが活発になってくる。この後伝期の始まりに大きな役割を果たし,

その後のチベット仏教発展の基本路線を確定したのがベンガル地方の現在はバングラデシュと

なっている土地出身で,ヴィクラマシーラ大僧院の学頭(筆頭僧)を勤めたアティーシャ�

(������� ��982~1054入蔵1042)である。チッベトの歴史書『青冊史』にはアティーシャとチベッ-

ト仏教の改革に関係して次の記述が見られる。

 「アティーシャがガリ地方に来錫するに先立っての間,オディヤーナ(仏教タントリストに

とって伝説の理想郷,しかしインドのどの地方に当たるかについては現在に至るも確定をみて

いない)出身のシェーラップ・サンワと呼ばれる学匠で,カシミール人ラトナヴァジュラの弟

子となった者が,『大印明点』を始めとするタントラと註釈書などをひとまとめにした������

(明点・標点)に属するタントラを宣説し,それらはチベット人の益するところとなった32」

とある。しかし同書の他の箇所,「チャンチュップ・ギャムツォとチュウキ・ギャムツォが一

人の下僕を伴って,ニェン低地のワニャムに到った後,十八人の「盗賊比丘」が,彼らを誘拐

し,その手下の者は『ダーキニー33たちへの供犠にしよう』と叫んだ。34」に註して,翻訳者���������

は,「10世紀シェーラップ・サンワの名で知られ,または阿闍梨シャムタプ・マルポとして知

られたインドの学匠が,����������������������������(����420)を翻訳した。一部の著作者によれば,- - -

十八人の『盗賊比丘』たちは彼の弟子である。十八人の『盗賊比丘』たちの教義は堕落したタ

ントラの修法から成っており,彼らは女や男を誘拐してはタントラの饗宴(�������������・ �������)の- -

間に人間の供犠として用いた。彼らの修法が理由となって,チベット(西北部の)グゲ国の王

たちはアティーシャの招請を決めたと言われている35」とのコメントを記している。

 筆者が「後期ヘーヴァジュラ・タントラ群36」と呼ぶ��������������������������(『大印明点』)お- -

よび,����~������������������(����422以下『智慧明点』)のガナチャクラを説く章品には,確かに上-

記の逸話のとおり人間の供犠について明記されている箇所がある。本節ではその内容がまさし

く�����������(人肉嗜好)であり,あまりに衝撃的であるが故にわが国ではこれまで研究者に

取り上げられることが憚られた仏教徒たちの人身供犠の儀礼を論じる。『二儀軌』〈説密印品〉

は,ヘーヴァジュラ(ヘールカ神の異名)のサークルで行われるべき人身の供犠を疑問の余地

なく次のように説く。

瑜伽女タントラであるヘーヴァジュラ〔のサークル〕における,一切有情の利益のために

瑜伽女たちが集合する節会(特定の日)を汝に語ろう(19)。

金剛蔵は申し上げた。「世尊よ。それは何日でありましょうか」。

世尊はお答えになった。「〔���� ���月の〕下弦月第十四日と同じく第八日である(20)。

〔ヨーガ行者は〕絞首台に吊された者や戦場で殺された者や七生人(����������)の肉を食

すべきである。(21)。智者は努めて悲を生起してから〔七生人〕殺害儀礼(��� �������)を行・

うのである。悲に欠けた者は〔この儀礼に〕成功しないが故に,悲を生起するべきである

(22)。難調なる者を〔秘密真言乗に〕趣入せしめるために〔殺害儀礼の〕一切が儀軌ど

おりに為される。そこでは次のように思念すべきであって,即ち昼は世尊・持金剛,夜は

般若母(般若波羅蜜母)である(23)37。

 『二儀軌』のこの箇所について,『�����������註』,および������������作『������������ ��� 』からそれ・ ・ ・

ぞれの註釈を以下に引用する。

さらにまた別に食物を説いて,「憧旛と武器〔によって〕突き刺された者や七返の者をも

食すべし」と言うについて,幢幡とは盗賊などの男女で王によって罰されて切られた者で

あって,身体を武器で切り刻まれて死体を焼く木に吊り下げられたままの者である。「七

返の者」とは,ここでは男性か女性で七生に〔亘り〕人間の身で転生している者であって,

その徴はまた影が七つできることと眼が瞬きをしないことと額に皺が三つあることと身体

に芳香を出すことなどであり,そのような〔者を〕見たならば頂礼して花を献じて囲繞し

た上で,以下の言葉で,「ヨーガの自在者よ,今や我等の如く利益を為さる時がやって来

-73-京都精華大学紀要 第二十六号

-74- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

ました」と語りかけるならば,その時は,〔命を〕投げ出すであろう。その者が〔命を〕

投げ出すや直ちにその肉で棗の核ほどの〔大きさで〕丸薬を作り,「我等全員が食べるが,

汝は一切の有情に十分に行き渡るべし」〔と唱える〕。そうすることで虚空行の悉地が与え

られる。同様に通常の,縛り首にされた者や武器で突き刺された者などの肉を洗浄し混ぜ

合わせることなどをした上で,丸薬を作り食べることによっても皺と白髪などを克服して

しまうのである38。

「悲を生起して」云々などについては,最初に四無量心(慈・悲・喜・捨)の観想を為す

のである。「努めて」と言うのは必須としてである。「賢者」とは智者である。もし有情た

ちを殺害しても〔空性の故に〕所縁とはならないと言うのであれば,それなのにどうして

四無量心を最初に観想しなければならないのかと言うならば,「悲がなければ」云々など

が説かれていて,如何なる時にも最初に四無量心を観想しなければ無上正等菩提を本質と

する悉地は無いのであって,空性のみの観想によっては声聞(小乗の徒)などの涅槃とな

る怖れがある。その故にまさに悲を生起することによって〔それを〕抑制するのである。

「難調なる者」と言うのは,善逝(仏陀)の教法を憎む者たちであり,カウラ(�����)を

始めとする者たちである。その者たちを秘密真言乗(密教)に結びつけるために説かれて

いるのである。「儀軌どおりに」云々などは,この場ではまさしく儀軌によってこそ成功

するのである。〔従って〕何処であれ「殺害」などと結びついた語が見られたら,このよ

うに理解するべきである。「昼は世尊・持金剛」云々などについて,「常に」と言うのは,

あらゆる時である。世間の人などの側では幢幡(刑死人)〔などの肉を大ぴらに食べるこ

と〕は控えるべきであるが,ガナチャクラなどの人けのない場所では享受すべしと言うこ

とである39。

 〈七生人〉供犠儀礼を述べる前に,仏教では人間に生まれてこられる可能性を如何に稀と見

ているかに触れておく。仏教は「人身受け難き」ことを説くのに「盲亀浮木の喩」を好んで挙

げる。ガンジス河の川底に一匹の盲目の亀が棲んでいて,千年に一度,息をするために水面に

浮上する。丁度その時,上流から一本の丸太が流れてきており,たまたまその丸太に亀の首が

すっぽりと入り込むだけの穴が開いていたとしても,亀が広いガンジス河の水面のどこかに首

を出した瞬間に丸太の穴に首を突っ込む場合は稀有であろう。丁度その程度に仏教では人間と

して生まれることは難しいと説く。しかし〈七生人〉は七回にもわたり「人身を受け」ている

稀有の上にも稀有な存在なのである。

 ところで『二儀軌』〈説密印品〉は「一切有情の利益のために〔七生人の供犠を行う〕瑜伽

女たちが集合する節会」と説いているが,これはタントラ作成に当たり,仏教徒の側からする

儀礼の意味づけであり,瑜伽女たちが〈七生人〉供犠をそのように考えていたわけではないだ

ろう。瑜伽女たちの集会が人身供犠を行う当初から仏教徒たちが関与していたとは考えられな

い。また仏教徒たちが瑜伽女の集団に近づき,共同して人身供犠の儀礼を作り上げたとも考え

難い。こうした観点から『二儀軌』の文言を見ると,我々はインド中世において,人身供犠を

伝承し実行していた女性集団の存在を仏教徒のサークル外部に想定せざるを得ない。瑜伽女タ

ントラ文献を創作した仏教徒たちの中で特にヘーヴァジュラの徒は,既存の人身供犠儀礼に意

味づけして,取り込んで以後,それを遵守すべき三昧耶(慣習)として保持したのである。こ

の瑜伽女たちによる人身供犠はヨーロッパ古典古代にギリシャやローマへ入ったオリエントの

いくつかの密儀宗教を崇拝する女性集団を想起させる。あるいはまた,ヨーロッパ史の底流に

見られる�����������が想起される。しかしインド社会思想史の文脈において,瑜伽女集団の伝

統的な儀礼の核となる〈七生人〉の観念がいつ・どのように生まれたかについての詳細は今後

の研究課題として残される。

 市民社会の倫理を見えざる「裁きの神」とする我々現代人の論法では,人間の殺害儀礼を行

う者が「悲を生起させ」云々も無いというものであろうが,輪廻転生を自明の前提とする彼ら

仏教タントリストの論法では,〈七生人〉(とされた者)にとっては,その自己犠牲によって提

供する肉で作られる丸薬が食べる者たちの成仏の因となることは有情利益に資することに他な

らない。これは『ジャータカ(仏本生譚)』以来,仏教徒が培ってきた「菩薩」の理念である。

こうして殺害された〈七生人〉が次ぎにどうなるのかを『二儀軌』は語っていない。だがこの

人物はその自己犠牲によって釈尊の場合のように過去世からの時が熟しておれば仏身を成就す

る(仏陀となる)か,そうでなければ大乗菩薩の「無住処涅槃40」の理念に従い無始無終の輪

廻転生をまた繰り返すかであると考えるのは仏教の論法からして間違ってはいない。

 瑜伽女たちの場合は,『屍鬼二十五話41』に描写されている如くに,拉致42(彼女たちからす

れば集会への「招待」)した人間を集会の場で有無を言わさずに殺害していたところが,仏教

徒を自認するヘーヴァジュラの徒の場合はさすがにそれも出来ず,〈七生人〉(とされた者)の

合意・同意を得た上で屠殺するために二つの註釈書が説くような大乗の基本にある「四無量心」

の生起と〈七生人〉に対する『ジャータカ』的自己犠牲の要請となったと考えられる。

 『������������ ��� 』では,「難調なる者(�������)であるカウラたちなど」とヒンドゥー教タント・

リズム・シャークタ(�� �� ���性力派)の一派が名指しされている。このことはヒンドゥー教側と

仏教側との儀礼の貸借関係は別にして,ヘーヴァジュラのサークルとヒンドゥー教シャークタ

派が共に人身供犠と人肉食の儀礼に関係していたことを物語る。あるいはまた,この箇所から,

仏教タントリストとヒンドゥー教タントリストの間の競合と近親憎悪を見ることもできよう。

-75-京都精華大学紀要 第二十六号

-74- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

ました」と語りかけるならば,その時は,〔命を〕投げ出すであろう。その者が〔命を〕

投げ出すや直ちにその肉で棗の核ほどの〔大きさで〕丸薬を作り,「我等全員が食べるが,

汝は一切の有情に十分に行き渡るべし」〔と唱える〕。そうすることで虚空行の悉地が与え

られる。同様に通常の,縛り首にされた者や武器で突き刺された者などの肉を洗浄し混ぜ

合わせることなどをした上で,丸薬を作り食べることによっても皺と白髪などを克服して

しまうのである38。

「悲を生起して」云々などについては,最初に四無量心(慈・悲・喜・捨)の観想を為す

のである。「努めて」と言うのは必須としてである。「賢者」とは智者である。もし有情た

ちを殺害しても〔空性の故に〕所縁とはならないと言うのであれば,それなのにどうして

四無量心を最初に観想しなければならないのかと言うならば,「悲がなければ」云々など

が説かれていて,如何なる時にも最初に四無量心を観想しなければ無上正等菩提を本質と

する悉地は無いのであって,空性のみの観想によっては声聞(小乗の徒)などの涅槃とな

る怖れがある。その故にまさに悲を生起することによって〔それを〕抑制するのである。

「難調なる者」と言うのは,善逝(仏陀)の教法を憎む者たちであり,カウラ(�����)を

始めとする者たちである。その者たちを秘密真言乗(密教)に結びつけるために説かれて

いるのである。「儀軌どおりに」云々などは,この場ではまさしく儀軌によってこそ成功

するのである。〔従って〕何処であれ「殺害」などと結びついた語が見られたら,このよ

うに理解するべきである。「昼は世尊・持金剛」云々などについて,「常に」と言うのは,

あらゆる時である。世間の人などの側では幢幡(刑死人)〔などの肉を大ぴらに食べるこ

と〕は控えるべきであるが,ガナチャクラなどの人けのない場所では享受すべしと言うこ

とである39。

 〈七生人〉供犠儀礼を述べる前に,仏教では人間に生まれてこられる可能性を如何に稀と見

ているかに触れておく。仏教は「人身受け難き」ことを説くのに「盲亀浮木の喩」を好んで挙

げる。ガンジス河の川底に一匹の盲目の亀が棲んでいて,千年に一度,息をするために水面に

浮上する。丁度その時,上流から一本の丸太が流れてきており,たまたまその丸太に亀の首が

すっぽりと入り込むだけの穴が開いていたとしても,亀が広いガンジス河の水面のどこかに首

を出した瞬間に丸太の穴に首を突っ込む場合は稀有であろう。丁度その程度に仏教では人間と

して生まれることは難しいと説く。しかし〈七生人〉は七回にもわたり「人身を受け」ている

稀有の上にも稀有な存在なのである。

 ところで『二儀軌』〈説密印品〉は「一切有情の利益のために〔七生人の供犠を行う〕瑜伽

女たちが集合する節会」と説いているが,これはタントラ作成に当たり,仏教徒の側からする

儀礼の意味づけであり,瑜伽女たちが〈七生人〉供犠をそのように考えていたわけではないだ

ろう。瑜伽女たちの集会が人身供犠を行う当初から仏教徒たちが関与していたとは考えられな

い。また仏教徒たちが瑜伽女の集団に近づき,共同して人身供犠の儀礼を作り上げたとも考え

難い。こうした観点から『二儀軌』の文言を見ると,我々はインド中世において,人身供犠を

伝承し実行していた女性集団の存在を仏教徒のサークル外部に想定せざるを得ない。瑜伽女タ

ントラ文献を創作した仏教徒たちの中で特にヘーヴァジュラの徒は,既存の人身供犠儀礼に意

味づけして,取り込んで以後,それを遵守すべき三昧耶(慣習)として保持したのである。こ

の瑜伽女たちによる人身供犠はヨーロッパ古典古代にギリシャやローマへ入ったオリエントの

いくつかの密儀宗教を崇拝する女性集団を想起させる。あるいはまた,ヨーロッパ史の底流に

見られる�����������が想起される。しかしインド社会思想史の文脈において,瑜伽女集団の伝

統的な儀礼の核となる〈七生人〉の観念がいつ・どのように生まれたかについての詳細は今後

の研究課題として残される。

 市民社会の倫理を見えざる「裁きの神」とする我々現代人の論法では,人間の殺害儀礼を行

う者が「悲を生起させ」云々も無いというものであろうが,輪廻転生を自明の前提とする彼ら

仏教タントリストの論法では,〈七生人〉(とされた者)にとっては,その自己犠牲によって提

供する肉で作られる丸薬が食べる者たちの成仏の因となることは有情利益に資することに他な

らない。これは『ジャータカ(仏本生譚)』以来,仏教徒が培ってきた「菩薩」の理念である。

こうして殺害された〈七生人〉が次ぎにどうなるのかを『二儀軌』は語っていない。だがこの

人物はその自己犠牲によって釈尊の場合のように過去世からの時が熟しておれば仏身を成就す

る(仏陀となる)か,そうでなければ大乗菩薩の「無住処涅槃40」の理念に従い無始無終の輪

廻転生をまた繰り返すかであると考えるのは仏教の論法からして間違ってはいない。

 瑜伽女たちの場合は,『屍鬼二十五話41』に描写されている如くに,拉致42(彼女たちからす

れば集会への「招待」)した人間を集会の場で有無を言わさずに殺害していたところが,仏教

徒を自認するヘーヴァジュラの徒の場合はさすがにそれも出来ず,〈七生人〉(とされた者)の

合意・同意を得た上で屠殺するために二つの註釈書が説くような大乗の基本にある「四無量心」

の生起と〈七生人〉に対する『ジャータカ』的自己犠牲の要請となったと考えられる。

 『������������ ��� 』では,「難調なる者(�������)であるカウラたちなど」とヒンドゥー教タント・

リズム・シャークタ(�� �� ���性力派)の一派が名指しされている。このことはヒンドゥー教側と

仏教側との儀礼の貸借関係は別にして,ヘーヴァジュラのサークルとヒンドゥー教シャークタ

派が共に人身供犠と人肉食の儀礼に関係していたことを物語る。あるいはまた,この箇所から,

仏教タントリストとヒンドゥー教タントリストの間の競合と近親憎悪を見ることもできよう。

-75-京都精華大学紀要 第二十六号

-76- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

 タントラに出る仏教徒たちのサークルが,刑死者や戦場で死んだ者および〈七生人〉の肉を

集会で食べる三昧耶(慣習)を有していたことは以上で明らかになったが,「刑死者や戦死者」

は脇に置いて,本節では〈七生人〉だけを選んで述べることにする。『二儀軌』〈現證儀軌王品〉

には,その〈七生人〉に固有の身体的特徴と性質を述べ,その肉を食べることで得られる功徳

を説く箇所が見られる。以下は『二儀軌』当該箇所とそれについての『�����������註』の引用

である。

そこで〔ヨーガ行者は〕ヘーヴァジュラの伝統で挙げられている諸々の徴をもつ七生人を

選び出すべし。七生人によって離歓喜の破壊者である成就(倶生歓喜)が得られる。七生

人は心地よい声と麗しい眼で,整った肢体は良い香りを放ち,七つの影をもつ。そうした

人物を目にしたならば,瑜伽者は目印を付けるべし。〔その者の肉を〕食べるだけで,虚

空行の力が瞬時に得られる43。

男であれ女であれ話す声が麗しく,切れ長の眼は白黒がはっきりと分かれていて,身体は

麝香の如く,また樟脳の如き芳香をもち,同様に大いなるオーラ〔を具えて〕,影が七つ

となって存在している者は七生人と印づけて吟味した上で,そのような者を獲得してから

ヨーガ行者は棗の核ほどの丸薬を作って食べることで虚空行となるのである。即ち無数劫

に亘り探し求めるそのような異熟した身体によって,何であれ無間罪(五逆罪)を作り,

それによって法界の特別な楽である非難される行為でさえも身体それ自体で洗い流すと説

かれている。従って「それを食べるだけで刹那に虚空行となる」と説かれているのである44。

 ここでは「虚空行」が強調されている。本稿の最初にも挙げたダーキニー(�・����������- ���)女神は-

もともと魔女・鬼女(�����������)であり,空中を自在に飛翔する存在とされる。この点でタ

ントリストが獲得する「虚空行」の能力と中世ヨーロッパで行われたとされる「魔女集会」に

集う魔女の空中飛翔との類似が注目される。

 以上に見られる如く,集会における〈七生人〉供犠儀礼,およびその結果得られた肉(大肉)

やそれから作る丸薬を口にすることによる功徳を説くのが『二儀軌』である。集会における人

身供犠儀礼がヘーヴァジュラのサークルだけではなく,「瑜伽女タントラ」の名で括られる仏

教タントリストたちの間で広く行われていたであろうことは,次の『チャクラサンヴァラ』第

十一章〈七生人の特徴の儀軌品〉が説く,〈七生人〉の目印および,人身供犠儀礼の結果得ら

れる効用についての記述からも了解される。そこには〈七生人〉の胸にあると信じられている

牛黄45(������)なるもので標点46(������)を身体の各所に作ることによる功徳の説示が見られ

る。

次ぎにまた,ヨーガ行者が七生に亘り〔人間として〕生まれた者を所依とするだけで速や

かに悉地に入るのである。獲得される悉地を説こう。

誰であれ男性で微塵が香気であって,真実を語り,長い時間も瞬きをせず,怒ることもな

く,口からの息が香気となって出てくる〔そのような〕者は七生人の生まれとなっている

のである。七つの影を作り,牛の歩みをもち,悲を正しく具え,それを示すならば,そ

〔の男性〕の胸に牛黄(������)があって,それを取って吉祥ヘールカの心真言のマント

ラを108返唱えて標点を作るならば,上昇して行って,一千万由旬47(������)を遊歩する

(虚空行)のである。それを所依とするだけで三世間の具慧者となるのである。五千万由

旬でさえも一日で往来できることになる。尊格の身でさえも得られる。吉祥ヘールカの心

真言を知る者は誰であれ,欲しいものが何でもそれぞれ与えられるのである48。

 上記の当該箇所を釈して,�����������作『サンヴァラ広釈句義明』は以下のように記している。-

(略)第七は鵞鳥の歩みをする者たちであり,七生人のそれらの特徴を知って,その者が

生きている限りその間に奉仕し依止して,死の時に際しては「汝の悉地を我に与えよ」と

懇願するべし。その者が罪禍無く死んだ時,その胸にある牛黄を取って,吉祥なるヘール

カ神の心真言または近心真言など適切なものを百返唱えてから,額に標点を作るならば虚

空に昇り,一千万由旬を遊歩するのである。胸に標点を作れば他心通が,眼に標点を作れ

ば天眼通が,耳に標点を作れば天耳通が生じ,足に標点を作れば神足の神通力が生じるな

どは『��������������49』で見るべきである。「かくの如く依止するだけで」とは,〔依

止すれば〕三世間の智慧を具える仏となるのである。由旬とは七生人の肉を食べると五十

由旬を往来できるようになるのである。これは世間の悉地である。その心臓を食べると禅

定と隠身が獲得され共の悉地である。吉祥なるヘールカ尊の真言と近真言であるものによ

って知った後で,後述する願うところの十二の行為50のそれぞれがすべて獲得される51。

 この�����������の見解から,〈七生人〉は「その者が生きている限りその間は承事して依止」さ-

れるのであり,『二儀軌』に見た,集会での「儀礼的殺害」(屠殺)の内容が実は〈七生人〉の

自死(自己犠牲)であるとして明記されている点が留意されるべきである。

 さて,冒頭の記述に戻り,自らを「ヘーヴァジュラの徒」とし,ヘーヴァジュラの伝統に忠

実であろうとするのが「後期ヘーヴァジュラ・タントラ群」に属する『大印明点』や『智慧明

-77-京都精華大学紀要 第二十六号

-76- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

 タントラに出る仏教徒たちのサークルが,刑死者や戦場で死んだ者および〈七生人〉の肉を

集会で食べる三昧耶(慣習)を有していたことは以上で明らかになったが,「刑死者や戦死者」

は脇に置いて,本節では〈七生人〉だけを選んで述べることにする。『二儀軌』〈現證儀軌王品〉

には,その〈七生人〉に固有の身体的特徴と性質を述べ,その肉を食べることで得られる功徳

を説く箇所が見られる。以下は『二儀軌』当該箇所とそれについての『�����������註』の引用

である。

そこで〔ヨーガ行者は〕ヘーヴァジュラの伝統で挙げられている諸々の徴をもつ七生人を

選び出すべし。七生人によって離歓喜の破壊者である成就(倶生歓喜)が得られる。七生

人は心地よい声と麗しい眼で,整った肢体は良い香りを放ち,七つの影をもつ。そうした

人物を目にしたならば,瑜伽者は目印を付けるべし。〔その者の肉を〕食べるだけで,虚

空行の力が瞬時に得られる43。

男であれ女であれ話す声が麗しく,切れ長の眼は白黒がはっきりと分かれていて,身体は

麝香の如く,また樟脳の如き芳香をもち,同様に大いなるオーラ〔を具えて〕,影が七つ

となって存在している者は七生人と印づけて吟味した上で,そのような者を獲得してから

ヨーガ行者は棗の核ほどの丸薬を作って食べることで虚空行となるのである。即ち無数劫

に亘り探し求めるそのような異熟した身体によって,何であれ無間罪(五逆罪)を作り,

それによって法界の特別な楽である非難される行為でさえも身体それ自体で洗い流すと説

かれている。従って「それを食べるだけで刹那に虚空行となる」と説かれているのである44。

 ここでは「虚空行」が強調されている。本稿の最初にも挙げたダーキニー(�・����������- ���)女神は-

もともと魔女・鬼女(�����������)であり,空中を自在に飛翔する存在とされる。この点でタ

ントリストが獲得する「虚空行」の能力と中世ヨーロッパで行われたとされる「魔女集会」に

集う魔女の空中飛翔との類似が注目される。

 以上に見られる如く,集会における〈七生人〉供犠儀礼,およびその結果得られた肉(大肉)

やそれから作る丸薬を口にすることによる功徳を説くのが『二儀軌』である。集会における人

身供犠儀礼がヘーヴァジュラのサークルだけではなく,「瑜伽女タントラ」の名で括られる仏

教タントリストたちの間で広く行われていたであろうことは,次の『チャクラサンヴァラ』第

十一章〈七生人の特徴の儀軌品〉が説く,〈七生人〉の目印および,人身供犠儀礼の結果得ら

れる効用についての記述からも了解される。そこには〈七生人〉の胸にあると信じられている

牛黄45(������)なるもので標点46(������)を身体の各所に作ることによる功徳の説示が見られ

る。

次ぎにまた,ヨーガ行者が七生に亘り〔人間として〕生まれた者を所依とするだけで速や

かに悉地に入るのである。獲得される悉地を説こう。

誰であれ男性で微塵が香気であって,真実を語り,長い時間も瞬きをせず,怒ることもな

く,口からの息が香気となって出てくる〔そのような〕者は七生人の生まれとなっている

のである。七つの影を作り,牛の歩みをもち,悲を正しく具え,それを示すならば,そ

〔の男性〕の胸に牛黄(������)があって,それを取って吉祥ヘールカの心真言のマント

ラを108返唱えて標点を作るならば,上昇して行って,一千万由旬47(������)を遊歩する

(虚空行)のである。それを所依とするだけで三世間の具慧者となるのである。五千万由

旬でさえも一日で往来できることになる。尊格の身でさえも得られる。吉祥ヘールカの心

真言を知る者は誰であれ,欲しいものが何でもそれぞれ与えられるのである48。

 上記の当該箇所を釈して,�����������作『サンヴァラ広釈句義明』は以下のように記している。-

(略)第七は鵞鳥の歩みをする者たちであり,七生人のそれらの特徴を知って,その者が

生きている限りその間に奉仕し依止して,死の時に際しては「汝の悉地を我に与えよ」と

懇願するべし。その者が罪禍無く死んだ時,その胸にある牛黄を取って,吉祥なるヘール

カ神の心真言または近心真言など適切なものを百返唱えてから,額に標点を作るならば虚

空に昇り,一千万由旬を遊歩するのである。胸に標点を作れば他心通が,眼に標点を作れ

ば天眼通が,耳に標点を作れば天耳通が生じ,足に標点を作れば神足の神通力が生じるな

どは『��������������49』で見るべきである。「かくの如く依止するだけで」とは,〔依

止すれば〕三世間の智慧を具える仏となるのである。由旬とは七生人の肉を食べると五十

由旬を往来できるようになるのである。これは世間の悉地である。その心臓を食べると禅

定と隠身が獲得され共の悉地である。吉祥なるヘールカ尊の真言と近真言であるものによ

って知った後で,後述する願うところの十二の行為50のそれぞれがすべて獲得される51。

 この�����������の見解から,〈七生人〉は「その者が生きている限りその間は承事して依止」さ-

れるのであり,『二儀軌』に見た,集会での「儀礼的殺害」(屠殺)の内容が実は〈七生人〉の

自死(自己犠牲)であるとして明記されている点が留意されるべきである。

 さて,冒頭の記述に戻り,自らを「ヘーヴァジュラの徒」とし,ヘーヴァジュラの伝統に忠

実であろうとするのが「後期ヘーヴァジュラ・タントラ群」に属する『大印明点』や『智慧明

-77-京都精華大学紀要 第二十六号

-78- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

点』を作成したグループである。彼らのサークルで広範囲の行われたであろう〈七生人〉供犠

儀礼とその功徳については,『大印明点』から,〈七生人〉を捌いた後の処置については同じく

『智慧明点』が説く箇所を引用する。

八日または十四日または十日の下弦月に槍の穂先または剣で殺すべし。五種姓の内の一つ

の種姓〔出身者〕である。病無くして楽が円満しており美しい容貌と若さを具えた者で七

生であるかまたは三生なる人を助手(��������� �����)が連れて来るのである。色々な供物と

施物の供養により専念して供養するべし。その肢体をよく摂受して,蓮華の器(頭蓋鉢)

はそれ(頭部)で作るべし。般若(女性ヨーガ行者)を伴った方便(男性ヨーガ行者)は

その器で酒を飲むべし。大力(人肉)を僅かばかり〔ヨーガ行者は〕自らの悉地を成就す

るために食すべし52。

〔悉地獲得に用いられる丸薬を作るために,探し出された七生人を〕三叉戟あるいは剣で

殺して,〔その肉を〕真夜中に取るべし53。

次にまた別のことを説こう。その場で行為は優れたものであり,所依とするだけで速やか

に悉地に入る者とは,肢体は心地よい香りがして非常に柔らかく,微塵は心地よい香りと

なっており,とても羞恥心があり,真実を語り,長い間も眼は瞬きをしない。怒ることな

く大悲あり,刹那に優しく語る,〔そのような〕七生人,あるいは三生人を努力して探し

求めるべし。福徳をもつ者によってその手に獲得される。さらに食べ終わってからその胸

にある牛黄〔を取って〕,心を集中して,ヘールカ神のマントラを七返読誦してから努め

て標点を作るべし。

直ちに上に舞い上がれ。一千万由旬〔の虚空を〕行くのである。それ(七生人の肉)を食

べるだけでも三界の智慧をもつ者となる。五億由旬を昼夜まる一日で行くのである。尊格

の身体すらも獲得されて千劫に住することになる。帝釈天の威力と同じである。女性は見

られただけでまさしく火でバターが溶けるようである54。

その場で供施のために畜生の姿をしたものを巧く手に入れるべし。一生人あるいは二生人

または三生人の若さを持つ者を求めるべし。病は一切なく楽を成就した者で,香りのよい

汗を出し,眼は長い間瞬きをしない者を智者は努めて手に入れるべし。様々な供施を為し

て,適切なカルトリ包丁を用いて捌くべし。優れた肢体(頭)で作った蓮華鉢(頭蓋鉢)

を飲用としてグルの前に〔置くべし〕。〔大肉の〕半分は輪〔のヨーガ行者〕に分配して,

半分は施食として撒くべし。大血と大肉は何であれ獲得したものを処理するのである55。

 〈七生人〉供犠儀礼をさらに詳しく知るために,『二儀軌』〈説密印品〉とほぼ同内容の〈七

生人〉殺害儀礼を持つ�����������������第五カルパ第一節を註釈した,『サンプタ�・ ����������註』を-

以下に引用する。

その者(男女のヨーガ行者)たちが集会する時が説かれて,「半月の十四日」とは下弦月

の二十九日と四日に大供養を為すべきであって,「幢幡と武器で殺された者」とは木に突

き刺された者(刑死者)あるいは戦における死者である。「七生人に依止するべし」と言

うのは,七生人あるいは『サンヴァラ』の中で述べられている如くに七家畜(人間・山

羊・馬・駱駝・驢馬・ジャッカル・豚)によって為すべきである。「努めて悲を生起して

から智者は殺害の行為を為すべし」とは,世間のダーキニーたちを歓ばせるために穀物の

粉を煉った生地で作られた家畜の内部を血を満たしたところで,赤栴檀を塗ってから,三

乳製品(乳・酪・蘇)と三種の甘味(氷砂糖・蔗糖・蜂蜜)と混ぜて一味となったその食

物,それ〔を用いてするの〕がダーキニーたちに対する施食施与とヨーガ行者による聚会

の飲食と内護摩(観念上での護摩)の所作である。

「かくの如くヨーガ行者が適切に為すべし」と言うのは悲に劣った者によっては成就しな

い。「その故に普く悲を行じ」と言われて,自分と他者を平等に見る心を具えたヨーガ行

者が,ダーキニーたちを養う方法が〔他には〕無いが故に,悲を生起してからその肉と血

を与えるべきである。以下のようにまた『サマーヨーガ』の中で,「大麦の粉を練った生

地で作られた家畜を赤栴檀で仕上げたものと,小麦粉を練った生地で作られた肉は王の粥

と言われるものである56」〔と説かれるのである57。〕

 ここに出る「七家畜」の儀礼は,『チャクラサンヴァラ』第四十九章でも説かれ,インドの

多くの学匠はもちろんとして,チベットの大学匠プトゥンもその『サンヴァラ釈』で解説して

いる儀礼である58。「大麦の粉を練った生地で作られた家畜」の語が『サマーヨーガ』第九章に

も出ていることから,『サマーヨーガ』と『チャクラサンヴァラ』との深い関係が理解される。

この儀礼はインド後期密教の瑜伽女タントラのサークルで広く行われた黒魔術の一種と思われ

る。しかしこの儀礼を『二儀軌』や「後期ヘーヴァジュラ・タントラ群」において見ることは

出来ない。

 以下は『サンヴァラ広釈句義明』と�� ������- ����������作�������� ���������������・ �������������- - ������からの引用・

である。

-79-京都精華大学紀要 第二十六号

-78- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

点』を作成したグループである。彼らのサークルで広範囲の行われたであろう〈七生人〉供犠

儀礼とその功徳については,『大印明点』から,〈七生人〉を捌いた後の処置については同じく

『智慧明点』が説く箇所を引用する。

八日または十四日または十日の下弦月に槍の穂先または剣で殺すべし。五種姓の内の一つ

の種姓〔出身者〕である。病無くして楽が円満しており美しい容貌と若さを具えた者で七

生であるかまたは三生なる人を助手(��������� �����)が連れて来るのである。色々な供物と

施物の供養により専念して供養するべし。その肢体をよく摂受して,蓮華の器(頭蓋鉢)

はそれ(頭部)で作るべし。般若(女性ヨーガ行者)を伴った方便(男性ヨーガ行者)は

その器で酒を飲むべし。大力(人肉)を僅かばかり〔ヨーガ行者は〕自らの悉地を成就す

るために食すべし52。

〔悉地獲得に用いられる丸薬を作るために,探し出された七生人を〕三叉戟あるいは剣で

殺して,〔その肉を〕真夜中に取るべし53。

次にまた別のことを説こう。その場で行為は優れたものであり,所依とするだけで速やか

に悉地に入る者とは,肢体は心地よい香りがして非常に柔らかく,微塵は心地よい香りと

なっており,とても羞恥心があり,真実を語り,長い間も眼は瞬きをしない。怒ることな

く大悲あり,刹那に優しく語る,〔そのような〕七生人,あるいは三生人を努力して探し

求めるべし。福徳をもつ者によってその手に獲得される。さらに食べ終わってからその胸

にある牛黄〔を取って〕,心を集中して,ヘールカ神のマントラを七返読誦してから努め

て標点を作るべし。

直ちに上に舞い上がれ。一千万由旬〔の虚空を〕行くのである。それ(七生人の肉)を食

べるだけでも三界の智慧をもつ者となる。五億由旬を昼夜まる一日で行くのである。尊格

の身体すらも獲得されて千劫に住することになる。帝釈天の威力と同じである。女性は見

られただけでまさしく火でバターが溶けるようである54。

その場で供施のために畜生の姿をしたものを巧く手に入れるべし。一生人あるいは二生人

または三生人の若さを持つ者を求めるべし。病は一切なく楽を成就した者で,香りのよい

汗を出し,眼は長い間瞬きをしない者を智者は努めて手に入れるべし。様々な供施を為し

て,適切なカルトリ包丁を用いて捌くべし。優れた肢体(頭)で作った蓮華鉢(頭蓋鉢)

を飲用としてグルの前に〔置くべし〕。〔大肉の〕半分は輪〔のヨーガ行者〕に分配して,

半分は施食として撒くべし。大血と大肉は何であれ獲得したものを処理するのである55。

 〈七生人〉供犠儀礼をさらに詳しく知るために,『二儀軌』〈説密印品〉とほぼ同内容の〈七

生人〉殺害儀礼を持つ�����������������第五カルパ第一節を註釈した,『サンプタ�・ ����������註』を-

以下に引用する。

その者(男女のヨーガ行者)たちが集会する時が説かれて,「半月の十四日」とは下弦月

の二十九日と四日に大供養を為すべきであって,「幢幡と武器で殺された者」とは木に突

き刺された者(刑死者)あるいは戦における死者である。「七生人に依止するべし」と言

うのは,七生人あるいは『サンヴァラ』の中で述べられている如くに七家畜(人間・山

羊・馬・駱駝・驢馬・ジャッカル・豚)によって為すべきである。「努めて悲を生起して

から智者は殺害の行為を為すべし」とは,世間のダーキニーたちを歓ばせるために穀物の

粉を煉った生地で作られた家畜の内部を血を満たしたところで,赤栴檀を塗ってから,三

乳製品(乳・酪・蘇)と三種の甘味(氷砂糖・蔗糖・蜂蜜)と混ぜて一味となったその食

物,それ〔を用いてするの〕がダーキニーたちに対する施食施与とヨーガ行者による聚会

の飲食と内護摩(観念上での護摩)の所作である。

「かくの如くヨーガ行者が適切に為すべし」と言うのは悲に劣った者によっては成就しな

い。「その故に普く悲を行じ」と言われて,自分と他者を平等に見る心を具えたヨーガ行

者が,ダーキニーたちを養う方法が〔他には〕無いが故に,悲を生起してからその肉と血

を与えるべきである。以下のようにまた『サマーヨーガ』の中で,「大麦の粉を練った生

地で作られた家畜を赤栴檀で仕上げたものと,小麦粉を練った生地で作られた肉は王の粥

と言われるものである56」〔と説かれるのである57。〕

 ここに出る「七家畜」の儀礼は,『チャクラサンヴァラ』第四十九章でも説かれ,インドの

多くの学匠はもちろんとして,チベットの大学匠プトゥンもその『サンヴァラ釈』で解説して

いる儀礼である58。「大麦の粉を練った生地で作られた家畜」の語が『サマーヨーガ』第九章に

も出ていることから,『サマーヨーガ』と『チャクラサンヴァラ』との深い関係が理解される。

この儀礼はインド後期密教の瑜伽女タントラのサークルで広く行われた黒魔術の一種と思われ

る。しかしこの儀礼を『二儀軌』や「後期ヘーヴァジュラ・タントラ群」において見ることは

出来ない。

 以下は『サンヴァラ広釈句義明』と�� ������- ����������作�������� ���������������・ �������������- - ������からの引用・

である。

-79-京都精華大学紀要 第二十六号

-80- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

その果とは誰であれ七生人について彼が〔そうであると〕知るだけで諸々の成就の悉地が

速やかに成立するのである。始めに七生人成就の方便のガナチャクラを為すのである。米

の粉〔で作った生地〕で七生人の数と等しい家畜の姿を作るのである。即ち人間と山羊と

馬と駱駝と驢馬とジャッカルと豚の七つの姿を作ったところで,内部を血で満たして施食

と護摩と飲食を為すべきである。かくの如くガナチャクラを為すことによってダーカたち

が歓んで,一生から七生の間に亘って〔人間として〕転生した者が分かることは確実であ

る59。

成就しないならばガナチャクラを為した上で,馬と狐と蝙蝠などの肉に八文字の最初に作

った果実を付けた粉60の影像を作ってからガナチャクラを為すならば神通〔力〕が生じて

七生人の徴でさえも分かり,その肉を食べるならば速やかに虚空を行くことは疑いない61。

 この「七家畜」の儀礼は,〈七生人〉の供犠に先立ち,そうした稀有な福分をもつ者の肉を

食べることでその福分に与ろうとする修行者たちが,〈七生人〉発見の機会をダーカ62やダーキ

ニーたちから授かるためにガナチャクラ供養を為すことに結びつくと考えられる。冒頭に引用

した逸話に再度触れておくと,「ダーキニーたちへの供犠にしよう」とチャンチュップ・ギャ

ムツォとチュウキ・ギャムツォと下僕の三人を誘拐しょうとした「盗賊比丘」たちの意図は,

この三人を〈七生人〉と見たのではなく,〈七生人〉発見の神通(力)をダーキニーたちから

授かるための準備の供犠とも考えられる。『チャクラサンヴァラ』系の文献はこのような黒魔

術が満ち充ちているが,その多くは諸々の悉地を修行者にもたらしてくれるものであり,今後

の研究によりその内容が詳しく解明される日が待たれる。

おわりに

 後期密教として展開した仏教タントリズムの観念総体は,インド亜大陸においては,それを

担った仏教の消滅と運命を共にした(一般に,イスラムの軍勢によるヴィクラマシーラ大僧院

の破壊・炎上の1203����をもってインド仏教の終焉とする)。しかしタントリズム自体はその後

も,おそらくはヒンドゥー教の異端的な部分に担われてであろうが社会の暗黒部分に存続し続

けるのであり,我々はその一つの傍証を以下の���ニュースに見ることが出来る。

カルカッタ(ロイター):インド東部カルカッタで,異臭が漂っているという通報を受け

て捜査していた警察が,人家から人間の頭蓋骨や骸骨500個を発見した。(中略)捜査官は

また,これらの骸骨がタントラ教(タントラに従って,宗教的実践をするインドの秘儀的

宗教)の儀式に使われた可能性があるとの見方も強めている。タントラ教の僧侶は,人間

の〔頭蓋〕骨が「救済」を得るための儀式に必須と信じているといわれている。6月には,

カルカッタから600キロ北シリグリ・シティのバス停で,人間の頭蓋骨86個が発見されて

いる。(「骸骨500体を人家から発見」����������2001�7�31)

略号

青冊史:������������1976(1949)������������ ����

二儀軌�本:������������ ��1976(1959)������������������� �������������������

『秘密集会』松長梵本:松長有慶 1978『秘密集会タントラ校訂梵本』東方出版

�����デルゲ版西蔵大蔵経

キーワード

ガナチャクラ 五甘露 五灯明 七生人供犠 ヘーヴァジュラ 仏教タントリズム

参照文献

上村勝彦(訳) 1978『屍鬼二十五話』(ソーマデーヴァ作)東洋文庫����323 平凡社

北村太道 1989「『������� ������������』における秘密成就法について」『密教学研究』���21

桜井宗信 2001「����������- ��������所説のガナチャクラ儀礼」『智山学報』���50・

静 春樹 2002「ガナチャクラから見た仏教タントリズムの修道論(試論)」『京都精華大学紀要』

津田真一 1987「『ヘーヴァジュラ・タントラ』に於る真理の問題」『反密教学』リプロポート

羽田野 伯猷 1986「������ �- ���-������������- ���・����������・

�������� �- ����������チベット近世仏教史・序説」『チベット・イン-

ド学集成』第一巻 法蔵館

真鍋 俊照 2002『邪教・立川流』 ちくま学芸文庫

森 雅秀 1995「インド密教におけるプラティシュター」『高野山大学密教文化研究所紀要』���9

吉本隆明 1996『宗教の最終のすがた』春秋社

ニロッド・C・チャウドリー(森本達雄訳)1996『ヒンドゥー教』みすず書房

��������1976(1949)����������������� ����

〔註〕

1 「(知らずに)糞尿・精液を飲んだ場合」,バラモンなどの再生族は再入門式(��������������)をしな

-81-京都精華大学紀要 第二十六号

-80- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

その果とは誰であれ七生人について彼が〔そうであると〕知るだけで諸々の成就の悉地が

速やかに成立するのである。始めに七生人成就の方便のガナチャクラを為すのである。米

の粉〔で作った生地〕で七生人の数と等しい家畜の姿を作るのである。即ち人間と山羊と

馬と駱駝と驢馬とジャッカルと豚の七つの姿を作ったところで,内部を血で満たして施食

と護摩と飲食を為すべきである。かくの如くガナチャクラを為すことによってダーカたち

が歓んで,一生から七生の間に亘って〔人間として〕転生した者が分かることは確実であ

る59。

成就しないならばガナチャクラを為した上で,馬と狐と蝙蝠などの肉に八文字の最初に作

った果実を付けた粉60の影像を作ってからガナチャクラを為すならば神通〔力〕が生じて

七生人の徴でさえも分かり,その肉を食べるならば速やかに虚空を行くことは疑いない61。

 この「七家畜」の儀礼は,〈七生人〉の供犠に先立ち,そうした稀有な福分をもつ者の肉を

食べることでその福分に与ろうとする修行者たちが,〈七生人〉発見の機会をダーカ62やダーキ

ニーたちから授かるためにガナチャクラ供養を為すことに結びつくと考えられる。冒頭に引用

した逸話に再度触れておくと,「ダーキニーたちへの供犠にしよう」とチャンチュップ・ギャ

ムツォとチュウキ・ギャムツォと下僕の三人を誘拐しょうとした「盗賊比丘」たちの意図は,

この三人を〈七生人〉と見たのではなく,〈七生人〉発見の神通(力)をダーキニーたちから

授かるための準備の供犠とも考えられる。『チャクラサンヴァラ』系の文献はこのような黒魔

術が満ち充ちているが,その多くは諸々の悉地を修行者にもたらしてくれるものであり,今後

の研究によりその内容が詳しく解明される日が待たれる。

おわりに

 後期密教として展開した仏教タントリズムの観念総体は,インド亜大陸においては,それを

担った仏教の消滅と運命を共にした(一般に,イスラムの軍勢によるヴィクラマシーラ大僧院

の破壊・炎上の1203����をもってインド仏教の終焉とする)。しかしタントリズム自体はその後

も,おそらくはヒンドゥー教の異端的な部分に担われてであろうが社会の暗黒部分に存続し続

けるのであり,我々はその一つの傍証を以下の���ニュースに見ることが出来る。

カルカッタ(ロイター):インド東部カルカッタで,異臭が漂っているという通報を受け

て捜査していた警察が,人家から人間の頭蓋骨や骸骨500個を発見した。(中略)捜査官は

また,これらの骸骨がタントラ教(タントラに従って,宗教的実践をするインドの秘儀的

宗教)の儀式に使われた可能性があるとの見方も強めている。タントラ教の僧侶は,人間

の〔頭蓋〕骨が「救済」を得るための儀式に必須と信じているといわれている。6月には,

カルカッタから600キロ北シリグリ・シティのバス停で,人間の頭蓋骨86個が発見されて

いる。(「骸骨500体を人家から発見」����������2001�7�31)

略号

青冊史:������������1976(1949)������������ ����

二儀軌�本:������������ ��1976(1959)������������������� �������������������

『秘密集会』松長梵本:松長有慶 1978『秘密集会タントラ校訂梵本』東方出版

�����デルゲ版西蔵大蔵経

キーワード

ガナチャクラ 五甘露 五灯明 七生人供犠 ヘーヴァジュラ 仏教タントリズム

参照文献

上村勝彦(訳) 1978『屍鬼二十五話』(ソーマデーヴァ作)東洋文庫����323 平凡社

北村太道 1989「『������� ������������』における秘密成就法について」『密教学研究』���21

桜井宗信 2001「����������- ��������所説のガナチャクラ儀礼」『智山学報』���50・

静 春樹 2002「ガナチャクラから見た仏教タントリズムの修道論(試論)」『京都精華大学紀要』

津田真一 1987「『ヘーヴァジュラ・タントラ』に於る真理の問題」『反密教学』リプロポート

羽田野 伯猷 1986「������ �- ���-������������- ���・����������・

�������� �- ����������チベット近世仏教史・序説」『チベット・イン-

ド学集成』第一巻 法蔵館

真鍋 俊照 2002『邪教・立川流』 ちくま学芸文庫

森 雅秀 1995「インド密教におけるプラティシュター」『高野山大学密教文化研究所紀要』���9

吉本隆明 1996『宗教の最終のすがた』春秋社

ニロッド・C・チャウドリー(森本達雄訳)1996『ヒンドゥー教』みすず書房

��������1976(1949)����������������� ����

〔註〕

1 「(知らずに)糞尿・精液を飲んだ場合」,バラモンなどの再生族は再入門式(��������������)をしな

-81-京都精華大学紀要 第二十六号

-82- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

ければならない。

2 タントラとは密教経典。仏の直説とされ礼拝の対象でもある。従って,タントラには個人の作者名は

無い。根本タントラとはタントリストたちのサークルの基本的な思想が説かれている文献である。その

続編が続タントラであり,根本タントラを註釈し,個別の主題を敷衍して説くのが釈タントラである。

このようなタントラを解説するのが註釈書である。

3 北村太道(1989:�4)参照。

4 静(2002:173�175)参照。

5 吉本(1996)参照。

6 『秘密集会』松長梵本��14(20)

7 ����1785『灯作明』���16����167�2�3

8 『秘密集会』松長梵本��88�24�

9 ����1199����81�4�5

10 ガンジス河北岸の現バングラデッシュに存在した大僧院。仏教の外護者であったパーラ王朝によって

建立されその庇護の下に隆盛を誇る。インド仏教最後の砦であったこの僧院がイスラムの軍隊により略

奪・炎上する1203年をもって組織的な仏教はインドから姿を消す。

11 羽田野(1986�241)によれば,アバヤーカラグプタはブッダガヤの金剛宝座およびナーランダー僧院

の院長をも兼務していたとされる。

12 『秘密集会』松長梵本��122(128)

13 ����1198����5�����62�5�7

14 ����422������74�5�7・

15 津田(1987�136)は『七部成就書』に属する�������������著『智慧成就』��94�第11�13偈�を引用して「(仏-

法僧の)三宝に対して信愛し,信心ある人,菩提心にて荘厳された人,衆生に対して悲愍ある人,三昧

耶を有する人,サンヴァラに住する者が常に食すべき」三昧耶食の内容を訳出している。

16 ����1793����4�����214�6��2

17 註釈書のスタイルにはいくつかあって,各章を追って註釈していく「逐語釈」,難しい語句・文言のみ

を釈する「難語釈」,そしてタントラの文言に基づきながらそれを借りて註釈者自身の見解を開陳する

「意趣釈」などである。

18 ����1199『サンプタ�����������註』���51�2�3-

  今は二辺を離れた等味を示すのであり,「他の人にとって食物ではないもの」と言うのは世間の人によ

って卑しむべきものとされる五甘露と五肉である。

19 『秘密集会』松長梵本��41(41�3)

20 二儀軌�本��40Ⅰ���������11(9)�(11)

21 ����1180����76�3�4

22 ����1182����270�1�2

23 ����373�����284�1�5

24 ����428�����199�2�4・

25 タントラでは,����������������となっている。

26 ����1608�����28�7��3

27 ����1412����358�7��2

28 ���������������������11���120

29 ����1231������43�1~

30 ����3305����215�6

31 ����3140������58�3�4�森(1995�125)参照。

32 青冊史����931参照。

33 ダーキニーはヒンドゥー教では大神シヴァの暗黒面を表す妃,カーリー女神の使婢。初期密教では人

間の死を半年前に知り,死するや否やその心臓を貪り喰らうとされる下級神(����������������)。仏教

タントリズムでは,ムミノーゼ的な蠱惑的にして戦慄すべき女神として,人生の岐路に立つタントリス

トの前に現れて禍福を告げ,成仏に導く存在である。チベットの図像では,全裸で片足を高く持ち上げ

た挑発的なポーズで描かれる場合が多い。

34 青冊史�����609参照。

35 ��������1976(1949)��696参照。

36 「後期ヘーヴァジュラ・タントラ群」の系譜と全体像は『智慧明点』���20������127�1�3で説かれる。・

37 二儀軌�本��24Ⅰ��������7(21�3)

38 ����1180����54�2�6

39 二儀軌�本���122

40 涅槃に赴く資格が既に十分にある菩薩が,「一切衆生が涅槃に到達するまで自分は涅槃に赴かずに,衆

生と共に輪廻転生を繰り返し,輪廻の場で衆生利益を果たしていきたい」とする大乗仏教の理念。

41 上村勝彦(訳1978�9�24)参照。

42 『ターラナータ印度仏教史』第二十五章〈ヴィルーパ〉の項(78�4�78�2)参照。

  ここでは仏教徒の何らかの影響下ある瑜伽女は「内のダーキニー���������������������」として,友

好関係にない「外のダーキニー」である瑜伽女たちは魔女(��������)名で区別されている。さらに「内

のダーキニー」の口から(内外の区別なく)彼女たちの集団������������������ � ����������がする

集会への(人身御供としての犠牲者)招待の仕方が述べられている。

43 二儀軌�本���40�1Ⅰ���������11(9)�(11)

-83-京都精華大学紀要 第二十六号

-82- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

ければならない。

2 タントラとは密教経典。仏の直説とされ礼拝の対象でもある。従って,タントラには個人の作者名は

無い。根本タントラとはタントリストたちのサークルの基本的な思想が説かれている文献である。その

続編が続タントラであり,根本タントラを註釈し,個別の主題を敷衍して説くのが釈タントラである。

このようなタントラを解説するのが註釈書である。

3 北村太道(1989:�4)参照。

4 静(2002:173�175)参照。

5 吉本(1996)参照。

6 『秘密集会』松長梵本��14(20)

7 ����1785『灯作明』���16����167�2�3

8 『秘密集会』松長梵本��88�24�

9 ����1199����81�4�5

10 ガンジス河北岸の現バングラデッシュに存在した大僧院。仏教の外護者であったパーラ王朝によって

建立されその庇護の下に隆盛を誇る。インド仏教最後の砦であったこの僧院がイスラムの軍隊により略

奪・炎上する1203年をもって組織的な仏教はインドから姿を消す。

11 羽田野(1986�241)によれば,アバヤーカラグプタはブッダガヤの金剛宝座およびナーランダー僧院

の院長をも兼務していたとされる。

12 『秘密集会』松長梵本��122(128)

13 ����1198����5�����62�5�7

14 ����422������74�5�7・

15 津田(1987�136)は『七部成就書』に属する�������������著『智慧成就』��94�第11�13偈�を引用して「(仏-

法僧の)三宝に対して信愛し,信心ある人,菩提心にて荘厳された人,衆生に対して悲愍ある人,三昧

耶を有する人,サンヴァラに住する者が常に食すべき」三昧耶食の内容を訳出している。

16 ����1793����4�����214�6��2

17 註釈書のスタイルにはいくつかあって,各章を追って註釈していく「逐語釈」,難しい語句・文言のみ

を釈する「難語釈」,そしてタントラの文言に基づきながらそれを借りて註釈者自身の見解を開陳する

「意趣釈」などである。

18 ����1199『サンプタ�����������註』���51�2�3-

  今は二辺を離れた等味を示すのであり,「他の人にとって食物ではないもの」と言うのは世間の人によ

って卑しむべきものとされる五甘露と五肉である。

19 『秘密集会』松長梵本��41(41�3)

20 二儀軌�本��40Ⅰ���������11(9)�(11)

21 ����1180����76�3�4

22 ����1182����270�1�2

23 ����373�����284�1�5

24 ����428�����199�2�4・

25 タントラでは,����������������となっている。

26 ����1608�����28�7��3

27 ����1412����358�7��2

28 ���������������������11���120

29 ����1231������43�1~

30 ����3305����215�6

31 ����3140������58�3�4�森(1995�125)参照。

32 青冊史����931参照。

33 ダーキニーはヒンドゥー教では大神シヴァの暗黒面を表す妃,カーリー女神の使婢。初期密教では人

間の死を半年前に知り,死するや否やその心臓を貪り喰らうとされる下級神(����������������)。仏教

タントリズムでは,ムミノーゼ的な蠱惑的にして戦慄すべき女神として,人生の岐路に立つタントリス

トの前に現れて禍福を告げ,成仏に導く存在である。チベットの図像では,全裸で片足を高く持ち上げ

た挑発的なポーズで描かれる場合が多い。

34 青冊史�����609参照。

35 ��������1976(1949)��696参照。

36 「後期ヘーヴァジュラ・タントラ群」の系譜と全体像は『智慧明点』���20������127�1�3で説かれる。・

37 二儀軌�本��24Ⅰ��������7(21�3)

38 ����1180����54�2�6

39 二儀軌�本���122

40 涅槃に赴く資格が既に十分にある菩薩が,「一切衆生が涅槃に到達するまで自分は涅槃に赴かずに,衆

生と共に輪廻転生を繰り返し,輪廻の場で衆生利益を果たしていきたい」とする大乗仏教の理念。

41 上村勝彦(訳1978�9�24)参照。

42 『ターラナータ印度仏教史』第二十五章〈ヴィルーパ〉の項(78�4�78�2)参照。

  ここでは仏教徒の何らかの影響下ある瑜伽女は「内のダーキニー���������������������」として,友

好関係にない「外のダーキニー」である瑜伽女たちは魔女(��������)名で区別されている。さらに「内

のダーキニー」の口から(内外の区別なく)彼女たちの集団������������������ � ����������がする

集会への(人身御供としての犠牲者)招待の仕方が述べられている。

43 二儀軌�本���40�1Ⅰ���������11(9)�(11)

-83-京都精華大学紀要 第二十六号

-84- 仏教タントリストが口にするもの 飲食による「即身成仏」について

44 ����1180����76�7��3

45 日本密教における異端として「邪教」の名を冠される「立川流」では,六粒からなる「人黄」なるも

のが頭頂に存在し, 枳尼(ダキニ)天が好んで食するとする。

46 今日のインドでも一般的に見られるように,額または他の場所に装飾または属する宗派の印として付

する着色標章のこと。

47 一由旬���������は約九哩。

48 ����368����222�4�223�1

49 ����369����66�����363�7�366�6

50 黒魔術的な十二の所作を指すのであろうが,筆者にはその内容が不明である。

51 ����1412�385�7��5

52 ����420����12�������75�7��2・

53 ����420����23�������86�6・

54 ����420����24�������87�7�88�4・

55 ����423����9�������107�6�108�1�・

56 ����366����9����184�5�6

57 ����1199����41�7��5

58 ����5044����49�����6�335�6�336�1

59 ����1412����444�7�445�1

60 筆者にはこの箇所の具体的な所作が不明である。

61 ����1414����61������226�4

62 ダーカ(�・��������)はダーキニーの男性版である。-