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Philosophy as Adventures of Ideas

Week17

良寛(in Japanese)

Kazuyoshi KAMIYAMA2017/1/02

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RYŌKAN (1758–1831)

Born in Izumozaki (Echigo, now Niigata prefecture)

A quiet and eccentric Zen Buddhist monk who lived much of his life

as a hermit(隠者).

Ryōkan is remembered for his poetry and calligraphy, which

present the essence of Zen life and Japanese mind.

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良寛(1758-1831)

越後国出雲崎生まれ

江戸時代後期の僧、歌人、漢詩人、書家

俗名、山本新左衛門文孝、幼名、栄蔵

号は大愚

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出雲崎

北国街道沿いにひらけた宿場町

元和2年(1616)江戸幕府はここに代官所を置き、天領として直接統治

佐渡から輸送される金銀の陸揚げ港

近隣の政治・経済の中心として、また北前船の発着地として栄える

良寛が生まれた橘屋は出雲崎の名主

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芭蕉:元禄2年(1689)7月、出羽からの旅の途中、出雲崎に宿泊(奥の細道)

酒田の余波(なごり)日をかさねて、北陸道の雲に望む

遥々(はるばる)のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百十里と聞く

鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振

(いちぶり)の関にいたる

此の間九日、暑湿(しょしつ)の労に神をなやまし、病おこりて事を記さず

荒海や佐渡に横たふ天の河

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人となり

生涯寺の住職とならず、托鉢(mendicancy)でくらす

子供たちを愛し、

手鞠、おはじき、かくれんぼうなどで遊ぶ

酒(「黄金の水」)を好む

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RYŌKAN LOVES CHILDREN

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容貌(解良栄重けらよししげ「良寛禅師奇話」)

師は神気(しんき)内に充ちて秀発(しゅうはつ)す。其の形容神仙の如し。長大にして清癯(せいく)、隆準(りゅうせつ)にして鳳眼(ほうがん)、温良にして厳正、一点香火の気なし、余嬙(よしゃう)高くして、宮室の美を知ることなし。今其の形状を追想するに、当今似たる人を見ず。(奇話第五十二段)

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師は神気が内面に満ち、それを周囲に発して神仙のようで

あった。その身体は、背は高くて痩せていた。鼻が高く目は

切れ長にして深みがあった。温和であって威厳があった。

それでいて、いかにも僧侶のようではなかった。その内に秘

めた美しさ(本体にある深遠な真理)を知ろうにも垣根が高

すぎて、常人には、それをのぞき見ることさえ出来なかった

。今になって、師のその様子を思い返してみても、当時も今

も、此の世の中に似た人を見ることは出来ない。

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少年時代(13-18)

大森子陽の漢学塾「三峰館」で学ぶ

儒学、漢詩、書

良寛はここで生涯の友となる、真木山の庄屋の出で後に医師となる

原田鵲斎(じゃくさい)や与板の豪商・三輪佐市、富取之則(ゆきのり)・

橘彦山(げんざん) など多くの友と出会う

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名主見習

安永4年(1775)盂蘭盆7月18日夜、家出

失踪期:18-22(22-26?) この頃、宗竜和尚に教えを

乞う(?)

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修業時代

備中玉島円通寺(曹洞宗)で国仙和尚のもとで修行

放浪時代

国仙死後、34歳から四国等を放浪

帰郷

39歳、出雲崎に近い郷本の浜の塩焚き小屋に住む

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国上山:五合庵(48歳~)

乙子神社草庵(59歳~)

木村家離れ(69歳~74歳)貞心尼との出会い、相聞歌死

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別れ

たらちねの 母に別れを

告げたれば

今は此世の などりとや

思ひましけむ 涙ぐむ

手に手をとりて 我面を

つくづくと見し おもかげは

猶目の前に あるごとし

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修行

円通寺に来ってより

幾度か冬春を経たる。

衣垢づけば聊か自ら濯ぎ

食尽くれば城いんを出づ

門前千家の邑 更に一人を知らず

曽て高僧伝を読むに 僧は可々清貧

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備中玉島円通寺

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師国仙の印可状

良寛庵主に附す

良也,愚の如く,道転(うた)た寛(ひろ)し

騰々任運,誰か看ることを得む

為に附す,山形爛藤(さんぎょうらんどう)の杖

到る処の壁間,午睡(ごすい)閑(のど)かなり

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良よ、おまえは一見愚かそうに見えるが、そうではない。辿り

ついた仏道は既に広々とした所に出ている。あくせくせず、

運を天に任せているが、そうしたことを誰がわかっているだろ

うか。私は今印可の一本の杖を与えよう。この杖を持って旅

に出よ。どこに行こうと良し、ただこの杖を壁に立てかけてお

け。昼寝をしていても良い。

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国仙の遺偈

入魔入仏 六十九年

魔仏を透出して 閑座閑眠

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「まだ私が年若い頃、土佐を旅していた時、城下三里のところで雨に降り込まれた。庵を見つけ宿借りを申し込んだ。招き入れてくれた僧は痩せこけ青白い顔をして最初に一言いっただけで話しかけても笑うばかりでものをいわない。夜更けまで向かい合っていたが僧なのに座禅も念仏もしない。「こいつは尋常ではないなと思った」が炉端で休んだ。翌日、目が覚めると僧も炉端で寝入っていた。その日も雨でもう一日宿を申し込むと何日でもと言って麦焦がしを練って食べさせてくれた。部屋の中には木仏が一体、『荘子』が二冊あるばかり。本の間に挟んであった草書があまりに見事だったので書いて欲しいと頼むと応じてくれた。サインに「越州の産 了寛書す」と記した。お礼にお金を渡そうとしたが受け取らないので、代わりに紙と短冊を置いて辞去した」(近藤万丈『寝覚めの友』 )

放浪の旅

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郷本の空庵(塩焚き小屋)に1人の旅僧が住み着いて半年余り経った頃、その僧が出雲崎の橘屋の文孝(良寛)ではないかとの噂あり。崑崙は文孝と三峰館の学友だった兄・彦山に話す。彦山はすぐ塩焚き小屋を訪ねたが留守だった。

部屋にあった書を見て、間違いなく文孝(良寛)であると確信し、それを隣人に告げて帰った。隣人はすぐ出雲崎の橘屋に知らせた。

橘屋の人達が来て、家に帰るよう説得するが、良寛はそれを断った。その後良寛の行方が分からなくなったが、数年後には五合庵に住んでいた。(橘崑崙「北越奇談」)

帰郷

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国上山(くがみやま)

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逸話

7才のころ、朝寝坊をして父親に叱られ、上目づかいで父親をじっと見た。

「親を睨むとカレイになるぞ」と言われて、フイと飛び出し、夕暮れになっても

帰って来ない。

母親が探し回ると、浜辺の岩の上でしょんぼりしているところを見つけられた。

「こんなところで何をしているの?」と言われて、

良寛「お母さん、私はまだカレイになっていませんか?」

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あるとき泥棒が入ったが盗むものがない。

良寛が寝ている布団を持っていこうとしたので、眠ったふりを

して自分から寝返りをうち、取やすいようにして、わざと盗ませた。

(または手ぶらで帰ろうとする盗人を呼び止め、綿入れを脱いで

渡した)

ぬす人に 取り残されし 窓の月

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The thief left it behind:the moonat my window.

1994年パリ地下鉄掲示詩

コンテスト1位

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この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ

春日は暮れずともよし

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白雪羔(はくせつこう) 少々御恵(おんめぐみ)

たまはりたく候以上十一月四日菓子屋三十郎殿 良寛

*白雪羔 = 落雁に似た乾菓子湯にとかし母乳の代用とされた乳の足りない赤ん坊のために,知人に依頼した手紙良寛72才

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戒語

言葉の多き/口の早き/話の長き/問わず語り/差し出口/手柄話/自慢話/人のもの言いきらぬうちにもの言う/子供をたらす/ことばの違う/たやすく約束する/よく心得ぬことを人に教える/ことごとしくもの言う/引き事の多き/ことわりの過ぎたる/あの人に言いてよきことをこの人に言う/そのことはたさぬうちにこのこと言う/へつらう事/人の話の邪魔をする/あなどること/人の隠す事をあからさまに言う/親切らしくもの言う/推し量りのことを真実になして言う/悪しきと知りながら言い通す/言葉とがめ/物知り顔に言う/さしたることもなきことを細々と言う/見ること聞くことを一つひとつ言う/よくものの講釈をしたがる/首をねじりて理屈を言う/口をすぼめてもの言う/押しの強き/よく知らぬことを憚りなく言う/寝入りたる人をあわただしく起こす/聞き取り話/人に会って都合よく取り繕って言う/

間の切れぬように物言う/わざと無造作に言う/人のことわりをよく聞き取らずして己がことを言い通す/幸いの重なりたるとき/物多くもらうときありがたきことと

言う/あゝ致しましたこう致しましたましたましたのあまり重なる

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僧は万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける

常不軽(じょうふきょう)

法華経の「常不軽菩薩品」で説かれる菩薩

人に会えば必ず礼拝をして、「あなたを尊敬いたします。決して軽んず

ることはいたしません。あなたは菩薩の行をして、仏になられる方だか

らです」と言って、衆生の心に宿る仏心を目ざめさせようとした。

人々が杖木で打ち、瓦石を投げてののしると避けて逃げるが、なお遠

くから礼拝することをやめなかった。

この尊い菩薩こそ、釈迦仏の前身であったと経は説く。

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焚くだけは風が持て来る落葉かな

長岡藩主牧野忠精(後、老中)は、文政2年(1819)、領内を巡視した後、

国上山を駕籠で上った。

巳にして候到る

禅師打坐敢て一語を発せず

候懇ろに城下に迎へむことを説く

禅師徐ろに筆を執り書して曰く、

焚くだけは風が持て来る落葉かな

候強ゆるを得ず、厚くいたはりて去られしぞ

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君看双眼色 不語似無憂(良寛の愛した句)

千峯雨霽露光冷 (大燈国師)

君看双眼色 不語似無憂 (白隠禅師)

千峯雨霽れて 露光すさまじ

君看よ双眼の色 不語無憂に似たり

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従容亭

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エピソード

大正5年10月上野の帝室博物館で、

夏目漱石、良寛の書を見る

「兜をぬいだ」

と感嘆

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田沢有願(うがん)という風変わりな僧がいた.晩年には田面庵(たのもあん)に

住んで,自由な生活を送ったが,良寛はしょっちゅう田面庵を訪ねて,酒を呑み,

画筆をとった.

有願は大男で丸顔にはげ頭だった.反対に良寛はやせて背が高かった.ふた

りがつれて歩くと,人目をひいた.ある日道ばたに乞食がゆき倒れていて,手当

をつくしたが死んだ.わきに椀に入っためしがあった.二人はよろこんで分けて

たべた。

風狂の相手だった.だが,良寛51歳の時に死亡する.

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有願居士の故居(こきょ)を過ぐ

去年三月,江上の路,

行(ゆくゆく),桃花を看て君が家に到る.

今日,再び来(きた)れば,君見えず,

桃花、旧に依って晩霞(ばんか)に酔う.

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天寒し 自愛せよ

江戸にて 維経尼 良寛

君欲求蔵経

遠離故園地

吁嗟吾何道天寒自愛

君は蔵経を求めんと欲し 遠く故園の地を離る

ああ,われ何をか道(い)わん 天寒し自愛せよ

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夢佐一覚後彷彿(三輪佐市:与板の豪商大坂屋、大森子陽塾の同窓)

二十余年一逢君

微風朧月野橋東

行々携手共相語

行至与板八幡宮

二十余年ひとたび君に逢ふ

微風朧月 野橋の東

行く行く手を携へて共に相語り

行きて至る与板の八幡宮

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この里に往き来の人はさはにあれど

さすたけの君しまさねば寂しかりけり

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良寛筆「自画像・歌賛」

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世の中に まじらぬとには あらねども

一人あそびぞ われはまされる

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生涯懶立身 生涯 身を立つるに懶(ものう)く騰々任天真 騰々(とうとう)として 天真に任(まか)す嚢中三升米 嚢中(のうちゅう) 三升の米炉辺一束薪 炉辺 一束の薪誰問迷悟跡 誰か問わん 迷悟の跡何知名利塵 何ぞ知らん 名利の塵夜雨草庵裡 夜雨 草庵の裡(うら)雙脚等間伸 雙脚(そうきゃく)等間に伸ばす

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一生、立身出世をするということにはものうく、そういう気にもならない

任運、つまり天の真実の法則に任すことによって、自由の境地に遊ぶ

わずかな米とわずかな薪、そこには悟りだとか、迷いだとかという問答もない

有名、無名、立身出世の悩みもない

夜、静かに雨の音を聞きながら、草庵の中で両足をのんびり投げ出している

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晩年

晩年良寛は貞心尼という年若い弟子をえた。

良寛の死後、貞心尼が編んだ歌集が「蓮の露」である。

彼女と良寛との相聞歌をふくむ「蓮の露」は良寛を後代に伝える上で

最も貴重な文獻である、と言われる。

貞心尼がはじめて良寛に会ったのは、彼女三十歳の時であり、その時

良寛はすでに七十歳であった、とされる。

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出会い

これぞこのほとけの道にあそびつゝ

撞くやつきせぬみのりなるらむ 貞心

つきてみよひふみよいむなこゝの十とを

とをさめてまた始まるを 良寛

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はじめてあひ見奉(たてまつ)りて --- 貞

きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ

夢かとぞおもふ

御かへし --- 師

夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も

それがまにまに

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梓弓春になりなば 草の庵をとくとひてまし あひたきものを 良寛

いつ\/とまちにし人は來りけり 今はあひ見て何かおもはむ 良寛

辞世

形見とて なに残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉

うらをみせおもてをみせてちるもみじ

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雪の中にたちたる 三千大千世界(みちおおち)またその中に 沫雪(あわゆき)ぞ降る

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夕されば燃ゆる思ひに耐えかねて

みぎはの草に蛍飛ぶらむ

貞心尼

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草むらの蛍とならば 宵々に黄金の水を

妹たまふてよ

良寛 to 「およし」

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APPENDIX

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良寛ミステリー

通説

父山本(新之助)以南、母秀子

宝暦8年(1758)誕生、天保2年(1831)没

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母おのぶの発見

1981年、佐渡史研究家、本間寅雄による発見

「佐渡国略記」(伊藤三右衛門)寛延3年(1750)

橘屋庄兵衛妹おのぶ、出雲崎・橘屋本家養子新次郎との結婚の

ため、母親・兄ら5人とともに、6月8日相川を出発、7月13日に帰る。

新次郎は越後新津出身17歳。

おのぶ、宝暦5年(1755)、与板町の新木家次男、重内(後の新之助以南)

と再婚

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波紋

良寛の母は、「秀子」ではなく、「おのぶ」だった。

おのぶと以南は再婚だった。

前夫新津出身の新次郎とは誰か?

過去帳等の調査の結果、

新次郎は、後の新津の大庄屋、桂家4代の桂誉章(たかあき)

と推定(宮榮二、田中圭一)

桂誉章は、京都から膨大な書籍を収集、「万巻楼」を立てた

越後の知識人

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波紋2

通説:良寛は18歳で家を出て、尼瀬・光照寺に入り出家、そこで4年過ごした

異説(田中圭一):盂蘭盆の7月18日夜、良寛は家督を弟に譲る、という書き

置きとともに家をでた、とされるが、そのとき父以南は「敦賀屋祝儀事件」を

起こしていて、狭量な父と良寛(栄蔵)は激しく対立していた可能性がある。

単なる家出ではなく、「出奔」といった激しいものだった可能性が高い。数年

間、良寛は消息を絶った。

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敦賀屋節句祝儀事件

安永 4年(1775)良寛18歳(異説では22歳)

6月1日頃、子陽塾を辞して、出雲崎町の名主見習役となる。

7月11日、敦賀屋節句祝儀事件起きる。

[以南は栄蔵(後の良寛)を立ち合わせ、敦賀屋長兵衛を叱責する。]

7月18日夜、良寛出奔。

敦賀屋長兵衛:その年3月に敦賀屋に入り婿。地蔵堂の大庄屋富取家

出身。大森子陽塾で最も信頼していた富取之則の兄弟。良寛、後に

「書与敦賀屋氏」を書く。之則については「聞之則物故」という詩

あり

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少年捨父奔他国

辛苦画虎猫不成

有人若問箇中意

箇是従来栄蔵生

少年父を捨てて他国に走り 辛苦虎を画いて猫にもならず

人あってもし箇中の意を問わば これこの従来の栄蔵生

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波紋3良寛出奔(父子対立)の背景は何か?

田中異説:良寛はおのぶの最初の夫、新次郎(桂誉章)の子であった可能性がある。良寛は生涯、自分の生年を明言していない。生年は、宝暦8

年(1758)ではなく、それより4年前であった可能性がある。

傍証:

1)桂誉章は、再婚後生まれた子(五代誉正)に「栄太」という名前を つけている。これは良寛の幼名「栄蔵」につながる。

2)良寛は備中円通寺で国仙のもと修行している。桂誉章は、円通寺 派に深く帰依しており、自らの屋敷内に「円通閣」という宗教施設を つくり、かつ、円通寺境内社秋葉神社をも自宅内に建立している。3)良寛は桂家と深い関わりを持ちつづけた。

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桂誉章の子誉正と彼の妻は、良寛の弟由之を俳諧の師としている。

かれらは、あるとき由之を通して良寛へ石榴七ツを贈り、良寛が

それに対して感謝の歌を残している。

紅の 七つのたからを

もろ手にて おしいただきぬ

人のたまもの

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波紋4

以南は60歳のとき、

「天真仏の告によりて身を桂川にすつ」

という辞世を残して京都で行方不明になる(入水自殺とされる)。

桂川と「桂」誉章との間に暗合をみることも可能。

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波紋5

田中異説(続):

良寛が出奔したのは18歳ではなく22歳のとき。

(「山本家家譜」への疑い by東郷豊治、良寛在世時代からの古資料

のほとんどが、22歳で出家と記す)

その4年間、桂誉章が良寛(栄蔵)をかくまった可能性がある。

また、良寛に国仙のもとでの修行をすすめた(円通寺行きをすすめた)

可能性がある。

*備中玉島(現倉敷市)円通寺:名僧徳翁良高以来の法系「西来寺

派」に属する。当時、曹洞宗のメッカの一つ。西来寺派は能登半

島に教線をのばしており、桂家は能登からの移住者だった。

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父以南は、良寛38歳のとき京都の桂川に身を投げて自死

良寛は、以南の

半切(はんせつ) 「朝霧に一段低し合歓(ねむ)の花」

短冊 「夜の霜身のなる果やつたよりも」

を形見として持っていたとされる

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良寛は、半切の上部に次の歌を書き込んでいた

父の書ける物を見て

水茎の

跡も涙に

かすみけり

在りし昔の

事を思ひて

沙門良寛書

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たらちねの母がかたみと

朝夕に佐渡の島べをうち見つるかも

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参考文献

貞心尼「蓮の露」 1835年

解良栄重(けら・よししげ)「良寛禅師奇話」(1846年頃)

田中圭一「良寛の実像ー歴史家からのメッセージ」刀水書房、1994年

瀬戸内寂聴「手毬」新潮文庫、1991年

荒井 魏「良寛の四季」岩波書店、2001年

Ryōkan as hermit.

English translations at Poet Seers.

English translations at Allpoetry.

http://wagen-memo.jugem.jp/?eid=688