Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ...

25
Title <論説>ケンギル都市同盟について : 初期メソポタミア史 の一問題 Author(s) 中原, 与茂九郎 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1964), 47(1): 93-111 Issue Date 1964-01-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_47_93 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Transcript of Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ...

Page 1: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

Title <論説>ケンギル都市同盟について : 初期メソポタミア史の一問題

Author(s) 中原, 与茂九郎

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1964),47(1): 93-111

Issue Date 1964-01-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_47_93

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケンギル都市同盟について

初期メソポタミア史の一問題

中原与茂九郎

ケンギル都市1覗1について(1判鱒

  梗概 シカゴ大学の↓・智8σω①昌教授は数年蔚にN魚串。貯聾h鋒諺も・。・}・門一20σq陣ρ露・男同。。・(お鵯)誌上に「メソポタミアにお

〔ける初期の数治的発展」と題する五〇頁におよぶ大論文を発表された。同教授は当該論文のうちにH躍蜜二幅の麟±叛文書のうち

西 の送致文書を資料として初期王朝X~災の過渡期にシュメールにはウルク、アダブ、ニップ:ル、ラガシ数、シュルツパーク、ウン

㎞ マの六都市長家によって軍事的都市潤盟が締結されていたことを提唱された。圃贈与はこれを囚①詳αQ埣ピopαQ躍Φと呼称された。また

一 このような都市歪軸の存在は初期王朝王期の文献とされているウル出土の古拙文書にすでに児繊されることを指摘された。

〆  ヤコブセン訓教旨のケンギル罰嗣皿説を同教授が使翔されなかったファうおよびウルの行揺以交勲岡を・も舶岬えで幅送還吟味したのが・羅篇首蹴つで

                                     て

 ある。ヤコブセン教授がファラ海霧の国寡○目.ズ{を峯感亭σqτ崇重σQ三門)11評二号詳↑uG三詳曾》すなわちシ詰メ:ル全士的意味に解臨

池 されたのに対して筆者はこれを罰盟本部所在地であり、この本部所在地が全土的慧昧に使絹されるようになるのは初期王朝叢期の中

幽頃であることを推論した。

は じ め に

 筆者はさきに 「シュメール都市国家と『国土』の人口

   ①

について」において源関前二五〇〇年頃のシュルツバイク

(。。ぎ凄})℃鉢)都市国家の・日由斑人口を三時の行政文書を資

料として約一六万と計算した。またラガシュのエソシ、エ

ソテメナ(豪華。旨。舜。・卜。昏OO七d・6・)がニップ乳ルのエソリ

ル神へ略筆した水瓶の残存破片に記録されている従来ラガ

93 (93)

Page 3: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

シュの人並と考えられていた三六〇〇人をラガシュ以外の

他の都市の真人家族の家長の数であると論証した。またラ

ガシュのエソシ、グデア(O三密欝ρ曽OO切・∩・)の肖像碑文

Bに記録されている円数二一六、○○○人はグデアの支配

下にあ.つた「騨土」(ズ巴9諺)すなわちシュメールの広い地

域に居焦する自由家族の家長(ρびむp)の数と解して、京大

嚢部の『人魂誌に書て三家族五五入を潔してい

る行政文書を分析検討して得た自由民家族貴四名をこれに

乗じて八六四、○00人という円数を得た。 この円数は

『人文』にとりあげた d同三め 諺母ダ 閉嘗彪ご 緊四σq鎌

くω¢同叢℃℃9回泊一qゆμ難球四の詣ハ都市慣闘慶琢㎝圖に鮪脚鰍衛さあルていた「ケ

ソギル同盟」(数窪αQ貯ピ窪σq篇)諸国の自由民人口八八四、

     も   へ   も   も

一六〇人にひってきすることを指摘した。そしてこの二つ

の数年の近似から推してグデアの早馬下にあった「国土」

とは叙上六都市圏家を奮むシュメ…ル全土の重要地域の大

半を占めるものであること、そしてケソギル岡盟に加入し

ていなかったウル(¢鴨)その他都市を含めれば全シュメ…

ルの葭由災の総人口は一〇〇万を下らなかったであろうと

推算した。

 最近奏者が手にしたクレーマー教授(0像曜 ツが 瞬《厭P雷HO琶)の大

著曽ヨ9酪三。・(お。。。)の第三章「社会・シ講メールの都市」

で同教授はシュメールの人口問題について次の知く述べて

おられる。

  ………都市人口の大きさの算定を試みたい。しかしこれは合

 理的正確さをもって行うことはむつかしい。それは公武の人目

 調査の記録がないからである。いなすくなくともあとづけをす

 る資料が牽だ雛晃されていないからである。ラガシニに評して

 はヂイヤコノフが経済文書による、どちらかといえぽ不完全な

 闘接酌データによって研究した結果自由民人qを一〇万人と計

 算した。ウル第三王朝の首都ウルの前二千年頃の人隣について

 ウーり…(6“ Hじ. ノノ.OO一一〇~M)は一九鷲七年にかれの論文「,社会

 の磯回化」において約三六万と推算した。かれの数字は薄弱な

 比較とうたがわしい臆説とを墓…礎としているのでその数回は約

 半分に切った方が賢明であろう。それにしてもウルは二〇万に

             ③

 近い人口をもっていたであろう。

と。これによって最近欧米に3置けるシュメ…ル都市の人口

についてはラガシュ、一〇万1ーディヤコノフ。ウル三六万

腫ウィリー(約二〇万1ークレーマー)の一二説がある。筆者がシ

ュメールの都市やシ簿メール全土の入口を考察するに至っ

94 (94)

Page 4: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケン・ギル都市問盟について(中原)

た動機はヤコブセン教授(繍’●蜜8ぴ器二)の齪。メソポタミ

アの初期の政治的発展』のうちに取り上げられた「ケソギ

ル同盟」説にヒントを得たことにあった。そこで本稿にお

いてはケソギル同工皿の恥仔み仕、性格、音盤我などについて管見

をのべてみ・たい。 しかしそれに先立って 『西南…アジア研

.究』篤二〇考の拙稿の一部の訂正を行いたい。

一 アッカード時代のラガシュの

地積の再考

 『西愚闇アジア史研究』第一〇口万所軌執拙稿巾・、 、「⑤アッカ

ード時代の一碑文に記録されているラガシュの地積につい

て偏一一七頁下から四、.五費の「この数を碑文に残ってい

垂警加算すれば、・〆、の合計纏は藝讐三轟

欝~平方キロに換算すれば約一b。。9潔財諺鱒となる」の

ど⑩G。9薬園B。.を一興鐙£^亀に訂正する。この地積はラガ.

シュの地積というより、むしろシュメール全土の地積に措

定される広さである。ソ連のディヤコノブ氏は8ロ霞Φρ亭

09昌σQ貯がωbOOと解した単巻数掌をOOOと解して、 この

石柱碑文の地積筆意竃縫算されてい㌍

 、石柱碑文には表面から裏面Oo憎H<刈 まではその大部

分は破損しているが残存部分には合計された地積と土地名

とが列記されている。 一四行目の野ぴ㌣ρ7ぼ出み9が本碑

丈の性格を決定する重要な鍵となっている。その文意は、

「彼が受けとったもの(診9幽げ点山)から(㌶)」 である。

また(一bQ)〉麟㌣鳥α鳶(一ω)質餌類糾山瓢σq〔二の語順からして「ア

ッカード王国」(墨箏貯σqa>αqp&謀)でな~.、 「アッカ…

ド」 「王国」と理解せねばならない。この二つの文法約束

を生かして前論文の引用文を解釈すれば次の如くである。

  合計回N鵯⑫ぽ養田-倉計十七の室要都市(が)合計八の主

           ⑤

 要区細朝地(  く嵩ρ霧一αq斜-]P麟 G薩僻σQ)(の中にある)1は、アッカード

         ぬ   ぬ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヤ   ヘ   ヤ   へ   も   へ       も   ら   ヘ   ヤ   ヘ   ミ

 のほかに、王羅に彼が受けとったものであり、そのうちから、

  [石碑に具体的に記してある土地名と合計地顔とをラガシ島の

              ⑥

  エソシ支配地として、某に与えた。]

 このように解される嵩h刈り障ヨ博をシュメール全土の地

積と措定すればへ 「八の主要区劃地」(。。ヨ骸ぬ9、一、欝・。ρσq)を

アッカード王朝の奥州統治の「八行政区」と解して、前論

                  ⑦

文に既述した「サルゴソ年代詑」の伝承に従ってこの数を

八にて除した平均値幅μ謡げ亀をアヅヵード時代の「ラガ

95 (95)

Page 5: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

シュ州」の大凡の地積としてあげることが出来る。したが

って前論・文のラガシュの地積一b◎。Oぽp臨はこれを約一も刈ぴδ

犀欝。.に訂正する。

 アッカード時代のラガシュは同王朝の行政区編成の際、

初期王朝末期のラガシ江に更にいくばくかの地域が附加さ

       ⑧

れたものから成立しているとなす筆者の前論文の考えはこ

の換箪地積訂正によっても不変である。ちなみに前論文で

         ヤ   も   ヤ

は触れなかったが、仮りにウルカギナ王末年に彼がウンマ

                 し  し  や  も  も         り  も

のエソシ、ル!ガルザッギシに破れ、ラガシ鎚王からギル

、 、   ⑨

ス王の地位に転落し、ラガシュ領のすくなからぬ地域を失

っておったとしても、その失地はアヅカ!ドの「行政区し

に編入されていると考えるのである。

ニ ヤコブセン教授の

 の提唱

「ケンギル同盟」

 『人文』、『西南アジア研究』両誌で筆者が取り扱ったシ

ュメール都市圏家の人目の考察に使用した資料は当時の行

政文書や王碑文に記された記事と…数字とである。これら記

事との関連において数字を操作する方法を思い付くにいた

ったのはシカゴ大学のヤコブセン教授(↓・習oo馨2嗣)の論

文、.南憂事勺○葎ド巴∪。く鉱。℃毒¢暮冨窓霧。℃o夢諺一伊、、

のうちに提示された「ケソギル同盟」(鍛窪σqマびのpσQ9)の,

 ⑭

存在に示唆をえたによる。そこで本章において周教授が提

                    ⑲

示されたケソギル同盟についての洞教授の所説を紹介し、・

それに関連して筆者の管見を述べてみたい。

 ケソギル同盟存在についてのヤコブセン教授の論考は実-

          ち  ち     し  コ

証資料に基づくもので神話、伝説を援用する推論でないの

が特微的である。教授はダイメルおよびジェスタソの手写、

翻字になるZ,ヲ文書を研究ざれた結果侍従(長)、代理

(羅弘ζ日)、小姓(誓穿鉱)、酌とり(鋸σQ})、料理人(露多芸α冒)、

楽人(露シO)など宮廷生活にふさわしい職員のおびただし

い人数一一四四名の酌取り、一二二名の楽人や歌手、六

五名の料理人等々1一を記した文書を見出された。また鍛

冶工、石大工、籠作り等の専門技術者の人数も同様におび

ただしい…数にのぼるのを知られた。これらの階層に属する

もので宮殿にやとわれた人々の数は殆んど信じ難い程の大

数である。ファラ文書の発見された富殿に措定される建物

の大きさと比較するときZ,ラ文書に記録されている現実

96 (96)

Page 6: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケンギル都市岡盟について(中原)

の巨大な生計集団(ヨ§葺6夢9霧○ぎ苞)は溺個の口的一-一

軍事的と推定される!iで構成された組織を表現している

のではないかと推測された。 「六七〇名の戦いに行く人]

(雪Oαq嚢烹ヨ①(誇)σQ窪)、「合計六八O人、戦い」、(σQ的窪-誇

鵠O⑳自揚煮①)と記した文書や「戦いに行った」(ヨ只溶)αq①巳、

「戦いから帰った」(ヨ寸土σqゆεなどの語勾を見出された。

                 ⑧

同じ性質の内容を記している二個の文書を見つけられるに

翁よんで、ついにケソギル同盟の構想を打ち黒された。文

馨に記された「どこか他の場所に駐在している人女、シュ

メール人」(忌書ざ寮葺書鼠①一⑳雲.ぎ目p。Q§6書証乙一一ぴ苧

(ぽ毎pH(?窪鰹)をシ餌ルッパークから他の地点に移された

ケソギル同盟軍であろうと解された。また両文書に記され

た六都市がともに同じ順序に鼓べられているのをもって筆

頭に出てくるウルクを当該同盟の指導的都市であろうと推

断された。

 ヤコブセン教授は本出畢(第六章)に 「シェルッパーク出土

の宮殿文漁日」と寵久顯船をつけておられる加川く、ファラ寧く堂儲の

性質と「表題」にもとずくメソポタミアの初期の政治的発

展を把握するを主昌的とされ、ケソギル岡盟を主な課題と

しておられるのではない。 「王の権…力と紐繊とが永続化さ

れ強化されて行く発展の姿は初期王朝皿の初期に53けるシ

ュルツパーク(ファラ)の宮殿文書によってある程度これを

確認するを得」とか「ファラ文書からはこの時代の一般的

        も   も   も

な政治状態はただべつ見程度の竜のしか得られない」と述

べておられるように。またシュルツパークと北方のキシュ

やシッパルとの関係にも触れられているし、ケソギル岡盟

諸都市は勿論他の都市からの「都市への訪問者」(葺瓢(試C)

二例一)がシュルツパークの隔日殿に…斎われて給…料判の日文給を・りけ

ている事実もファラ文書を引いて指摘しておられる。拙稿

の主題は「ケソギル岡盟」にあるのだから尚進んで㎜剛教授

のケソギル同明皿観を追って行きたい。

三 ケンギル同盟の分析と緊窪臓(冠)の意味

 ヤコブセン鋤躰授に 「ケソギル同明皿」という政治的概・怠を

提供した直接の資料はダイメルがその一部を手写し他を翻

字した窯9紹と属。.潔の二文書である。ヤ教授はその

論文の脚註70において両文書を次のように翻字翻訳してお

られる。

97 (97)

Page 7: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

 瓢ρ罵”誌邸αq霞償磐9H二σq卍譜δ鱒諺号夢国緯塾謬鐸鳶譜①O

 ピ品器弘一三ω髪煮℃唱巴(和謹。。①¢讐諺臆謹露び甲門真-α霞葺副ρ

 (疑。ゐ?σq鱈Uq-含詮誓ヨ(-琶ρ)渥Φ<.警出凶σq旦零Oσq騙吋鐸鰹

 寡σ曇-儒営午焦償同巴峯)

 瞬。。N麟”忌\マ、〉噂回8刈園鴎〉》謹11忌鴎。一\▽〉℃OO焔遭ぐ罫

 》”㎝①殴ド、マ鴫・力…、〉”。。①曽侵4>減働θ藻翠群解餅C捧〉》Q

またΦ恥の末尾を、

 σQ昏山亭溶罐Oαq蛋讐終罫(一郎凄⇔辺垂?2μ㍉σQ圃

 砂難、設O>鴇簿恥じ捧〉寿”☆災哉、X緬)。

                       な  も  も

と訳された。そしてこの訳はファラ文書の綴字法のあいま

も   も

いさのため試訳であるとことわっておられる。しかしこの

試訳はアッカード時代の一目↓訟OOのデータからえられた

              ⑭             、

解釈から導き出したものである。ただし裏面二行照の巨d・

譲d・囚d・切跨を罫量σ『魯σ『9「とらえられた人々」

と読むことは正しいのであるが、このように訳すと「逃亡

者」あるいは「捕虜」の意となって敵側の記録と見ねばな

らず、フ岬,ラ出土という文書全体の性質からこの訳はとら

なかったと記しておられる。

 ヤ教授は三無の( )のうちは訳されなかった。よって

簗潜はヤ教授が訳されなかった部分の一行上からの試訳を

行ってみる。

 ○σ昌(か㎝)冨ε閑三(ゐY量び弩σ即困畷(一)晒屋冨-σq陣(b。)O蘇ム郎

        ⑭

 (G。)(壁σq-)鋒讐B(∴⇒ρ)菊。<」(日)鋒∴鉱σqぎ鵯Oσqβ讐鰍(b。)

 一〇9犀巳(一O)ム窪σ警σ餌

面裏表

9翻激4

98 (98>

Page 8: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケンギル都宙隣盟について(中原)

  「県社をとった人。ケンギ(地名)。ドゥドゥ、与えられた手の

 もの、合計六七〇人の武器をとった人」

 この文嘉思は「ウルク、アダブ、 ニップール、ラガシュ、

                         も   も   し

シュルツパークおよびウンマから弼集された軍隊はケンギ

、 、、 、    ⑮

においてドゥドゥの指揮に与えられたもの。合計六七〇人

の軍隊」である。

 ヤ教授と筆者との両文書の解釈の相違点はヤ教授が

図①雛αQ睡をシ浩メールの地と解されたのに対して筆潜はこれ

を後述するようにシェメールでなく一地名と解する点にあ

る。軍隊の駐屯地がケソギであるとす盗点である。

 シュメール交宇国¢ には種々の読み方と意味がある。

α鍵P岱護§と読めば、 「居住する」、「滞在する」、 「駐

在する」の意となり、これをα僧ダと読めば讐つかむし、「と

                 ⑯

る」、「とらえる」の意となる。け三重ご(σQ秀多巳)と読めば

、.浮育む継父.. 「武篇幡」、「刃物」の音心となる。イシソ・ラルサ

時代に編纂された王朝表にもたとえば「キシュは武器にて

打たれた」(薩旅鷺σq旅囲dσ㌣讐-。。お)の如く麟¢をけ巳(鉦

の音心に用いている。なぜ簸者が冨ε罫巳(山欝) 「武器の

人」と解したかは次の礫曲によるのである。 鷹○.憲の簾

                 

一行にはばOσqξ瓢終¢昌餌σq禅評び¢・区αと記され第二行

には島。嶺》創聾び毅とのみ記され、以下数字と都市名とのみ

が列記されている。このような記書法はシュメールの伝統

的書式であって、すでに初期王朝-期のウル・アーケイヅ

ク・テキストにも見られる。すなわち同種類の事項を列記

する場合には最初に完全な事項を記し、そのあとは数量と

男名、あるいは身分、地名のみが列記されるのが普通であ

り、時には数量と事項の一碧を列糊したあとに共通の性質

を記し、最後に合計…数量とつくられる文書の性質とが記さ

れているのが行政・経済文書のうち、この種のものの一般

的書法である。窯○幽⑩蒔は前者の例であり、翼98は後

者の例である。窯ρ⑩蒔の一一二行に寓OσQ謹薇\¢津瓢σq鳶貼

 もUq・国¢と記されてお9、ご一行臼には塾の題野辺斜σ蕊と略

記され以下同様の形式で四都市名とその人数が列記され末

尾に「A鰹計六五〇人、]じ¢・麟d師瓢・O囲・回〈同しと説四され・

     へ

ている。ビG・囚¢がこれらの入々の身分である。

 そこで隈礁をε膣巳一丁へ罫さ鱈「武器」と解してUC・

囚dをζξ一二(-㌶) 、武器の人」と読めば、身分は軍人で

あることが知られる。また匿○り総のび9賦¢・ズ¢・切〉・

99 (99)

Page 9: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

を㌶け’斎三(-oY島牧ヴ覧)ρと読んだのは次のよ・’3な理慮によ

る。それは初…期王朝末期のラガシ凱乱叉盤削に劃封地(σQぎ蒼詳)

を与えられた人々が『臨画。;賦役に動貴されて給与を受け

た記録が多数見乾せる。これらの人々を欝}窪目『臼ξα、σρ

「クル↑賦役)をとった人」と呼称している。また使用人

や職員をご巴溢壁ム斜ぴ『σ9 「。ハソをとった人一 (猛欝日ω

ヵ①メノ、嵩ω)と呼称している。 これらの熟語と対比さして

  ピq。囚ご。囚d。切誇を写搭ド巳(一Φ)ム餌プ戦き餌「武器をと

った人」 と訳したわけである。諸ρ,窯の罫峰三肖三を

αρび『σ算の省略されたものとみることも出来る。このよう

に試訳すれば結果的にはヤコブセン教授が主張されるケソ

ギル同盟の一面、すなわちその軍事約性格が冒そう明確化

されることとなる。

 シュメール語文献、ことにある時代の政治的社会的事清

をいわば断片的に記録している行政・経済文書の解読の園

難さは、 一方においては細部においては直なお解決さるべ

き問題の残されているシュメール文法に依拠しつつ、他方

においては長音多義のシュメール文字の性質を考慮して解

読に従事せねばならぬ点にある。

 この二つの文書に置いて次に問題となるのは潟窯・○{・

復円の解釈である。既述したようにヤ教授はこれを「シュ

メール人」、あるいは「ケソギルへ軍)」と解されている。換

言せばヤ教授は今日定説となっている凄-。亭σq澱艦影。轟帥じ

し(m二霞昌すなわち「シュメールの叙しと解された。両文

書を翻字した故ダイメルも窪嬉.、と旨を隻醇玉葛蔓・・

              ⑰

としているがこれをシュメールの意味に解された。そこで

シュメール文献ではこの語がどのように使われているかを

探索してみよう。

 ジェスタソの手写したファラかハ訟“集の・つ認りにな聞くの役脱厭

者がある配給物をうけたことを記している文潜には、三σQ-

①剥ぐ両譲。OH・以Hとあり(、鵠GeO鴇・○})ン,・評Oo )、池の土

地の地積を記した文磐には心(ぴ鐸Y碁離\誘客・07隈Hと

ある(一ぴ一α噛『㎝oOOぴ.H.一1■bり)。前者は門図螺・OH・ズHのエソ

シ職」、 後者は「鵜賭・OH・彫目の土地四ブル扁の意味であ.

る。 (客。.8瓢9豫とも綴宇はこの声誉に記されている。) こ

れらの記事が示すものは団客・○{二自はシ洗メール全土

ではなく、ある地名と解さねば意味が題じない。ラガシュ

のエソシ、エアソナトゥム(目pヨ回暮巴記、)は「はげ謄…碑「文」

IOO (!0(1>

Page 10: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケ曹ソ説ぎノし’2一$i..1了剛曼{llこつV、v( (r’1・.竃1駅)

の・一3ちに彼が戦った㎜関々の名を記している。その一部に…

・:\〉晦干m㌦く琶午囲回p-貯讐\㏄o毒\試囲・鵠窯・OH\・:・:〔アルア

を破壊したC聚H・国守・OHのシュ・エを……」(図。く・<HHH・

・。

モ)とある。シュ・エを人名と解する理由は同エソシの境

界石碑文A等に彼が戦った園なのうち国名のみを記したも

                  ⑱

のと国名と鴛署名とを併記したものがあるのに比定したの

である。ここに引用した部分の碑文の内容から推して閉7

図鴬・Ω目は都市名・か特定の地名でなければならない。また

ウルカギナ王治世二年の一⊥叉蛍麟(O℃e日)にはその末尾に

「ラガシュの王ウルカギナの妻シャ・シャ(もりげ鶴プ餌)はニ

ソ・アス神(職器?㍗。。εのために国囲・膨冥・○溜において

(土記の供物を)奉献した」とあり、同年の同内容の他の文

                       ⑭

書(U℃・ま)には囚{・に壌・○が・劉Hと記されている。

 叙上列記した記事から決論されることは鵠翼・QH・際卸

数H・国鳥・○ゴ図H・図瓢・O同ひ顕H・自由。○炉・国H と記

された地名はいつれもシュメール全土を旛示したものでな

く、ある地名ないし場所を示している固有地名であること

である。 d℃膳0の践目・熟客・○溜・凋Hにおいては麹H

認炉

@ハ一①弊〇一,嵩尾部孚叶一くO しし申なって H〈ゆ溢σq{詫 τこ㎜男刈り・かじ一柵瀞岬常同窟制噸の・

るいは地名の姿をとっている。シニメール翫…の轍職偉掌法が不

規則であったZ、ラ時代の闘窯・○囲二自は綴字法がよう

やく安定してくる初期王朝羅の中期ごろのエアソナトゥム

時代になって累囲・繋累・O目に定着したものと思われる。

ウル卜師ナ王時代の文書には9が○溜の文字に代って

いる。これは同音の文字が仮借されてしかも同義に用いら

れている場合が行政・経済文書にしばしば見出されるその

一例としてこれを理解することが出来る。この地の主神が

ニン・アス神とその句話神(?)ニソ・キガル神(良蜜巳臥σq巴)

であ.り、ニソ・アス神の神官長は「頭の人執冨〒。・pαq&密⇔鄭あβ)

と呼称されていることもこの文書(一)勺■ ㎝瞬闇 菊⑦く. H.)によっ

て知られる。しかし開①障σq一の所在場面は現在のところ不

明である。砂漠か山嶽かに近い要衝の地にあったものと推

測される。

 実証記録が示す緊ぢ亭αq一はシュメール地方にある固有

地名であ.らねばならぬ。しからば次に生ずる聞題はこの

囚窪σQ一とシュメール全土の呼称となった麟9σQ一との関係

はどうであるか。この問題を解く一方法は何時頃から

瞬①鵠σ笥一が全土的呼称となったかを明らかにすることであろ

101 (101)

Page 11: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

う。現在のところケソギが全土的音心尽で使われている最初

の文献はラガシュのエアソナトゥム一世とその甥エソテメ

ナとの中間の時期に措定されているウルク国王エソシャク

                 ⑳

シュアソナ(一田口もつ甥ρ嗣ハ償ωン僻降謬伊)の碑文である。かれの一碑文

に「ケソギの主、国土の王」(窪巴-。亭σq=賃σq㌶圃窮一二ヨ占峯)

の称号を、かれは使っている。ケソギが全土約意味に使用さ

れるようになった誘礪は、六主要都市の結成した全土約意

義を屯つたケソギ(ル)同盟の本部所在地ケソギ(ル)の名

が恐らく同盟.崩壊後のある時期に同盟の全土約意義が圓顧

されたことにあるであろう。そして現在の資料が示すとこ

ろではケソギを全土的に使用した最初の人がかつてのケン

ギル同盟の指導的都市であったウルクの岡王であったこと

も示唆的である。

 次に僅少の二つの文書が語るケンギル同盟の内容につい

て検討を行ってみたい。

四 ケンギル同盟の組織

 翼ρゆト∂とズ9Φ騨の両丈書はヤコブセン教授の解され

る如く同性質の交書である。ただ94号文書では六都市から

の派遣軍の人数について各都市からの人数と含計数との闘

に雄違がみられる。前者を計算すれば七三三人となり、文

書には合計は六五〇人と記されている。この誤差は文書を

記録した書記の誤記か、翻字された故ダイメル教授の誤写

tダイメルは人数は両文書ともシ誕メール文字のまま丹

念に手写されている一かあるいは各都市からはじめに派

                   サ

遣された員数のうち八三名は中途に戦死か病死して同盟木

部に最後まで駐在した実数が六五〇名であったかのいつれ

                       O

ケンギル同盟軍の講成表

都宙小・・921…9・i合・廷

   i ?1 9・ 1.ZS (li)iES 9・Nippur

   I 60 @1 !!0 @1 170 C.PI.agashsh{ruppak l s6 6,)1 66 cs)li22 @

u… 閨D.『璽巳2貫⑱121盈⑱

合    ・’il・ }670    i(733650)

附記○内の数字は派遣員数の顧位, 囁()は文iilに記され嘗・る魚葎

 数を示す。

て員…数と合計数との表を掲げる。

かであろう

九二号文警で

は各都市の派

遣貝数とその

合計数とが一

致している。

次に検討の便

覚上爾文歎国に

記された都市

順にしたがっ

102 〈!02)

Page 12: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

   中原「ケソギル都市同盟について」訂正

一〇三頁上段

       メズメ        む

  一〇行目 「最下位」を「第四位」に訂正。

  一五一六行目 「バランスの最もくつれているのがウンマであり」を

      抹消す。

  一六行目 ラガシュの上に「ウンマ」を入れる。

一〇三頁下段       ・

 四行目 ニヅプールの次に「ウンマ」を入れる。

 五-八行鼠  「⇔」項を抹消す。

 九行目 「㊨」を「◎」に訂正す。’

  一八行麟  「(×+鱒①冨挫巳εごを「(×+鱒①欝窪剛包.⇔豊洲σq)」に訂正

      す。

Page 13: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケンギル都了1.r阿盟iこついて(中原)

 両文書の示すところでは六都市から圃盟本部の所在地ケ

ソギ(ル)に派遣された人数は区々であった、前述した如

くヤコブセン新雛投は両文勲日ともウルクが筆丁帝都み巾であるた

め同都市がケソギル同盟の指導的地位にあったであろうと

推測された。今これを派遣軍人員数の点からみると爾文書

ともアダブが第一位でウルクは第二位である。両丈書にお

いて順位の変らないのはアダブとウルクとシュルツ.ハーク

のみである。シュルッパ…クはいつれにおいても六位と最

下位にある。またウンマの場合は図表が示す如く一方では

最下泣にあるが他方では第三位にあり、合計数では一二位と

なっている。ニップールの場合は一方が三位、他方が五位、

ム加計…数では五位である。ラガシュは五位と四位、A口計…数で

は四位である。このように派遣人員数を分析してみると順

位の変ρりないものは一位アダブ、二位【ウルク、六位シュル

ツパークの一二都市である。バランスの最もくつれているの

がウンマであり、比較的バランスのとれているのがラガシ

ュとニップールとである。

 以上の分析によって推測される⊥ハ都市同盟の派遣軍の構

成は次のような規約あるいは諒解が存在していたのではな

かろうか。

 の 派遣軍・の割当はその隅園力に対応するある一定の比率

によった竜のではなかろうか?ーアダヅ、ウルク、ラガ

シュ、ニップールの場合i

 ⇔ 都市のその蒔の事情によって=疋割蓋率に達しなか

ったような場合には次翻において、その過不足分を精算す

ることが認められておったのではなかろうか?tウソ碑、

の場含一

 ⇔ 岡盟派遣軍の維持費の分担比率以上を負担する場合

には派遣軍兵数は比例的に減ぜられたのではなかろうか2

ーシ訊ルッパークの場舎1これは自由民人口十六万を

有したシュルツパークの派遣軍兵数が最下位であった点と

ヤコブセン教授も指摘しておらるるようにフーノラ文書のう

ちに軍事的性格をもった文書と大生計集団的物量を記録し

     も  き

た文書とが散見される事実とを結びつけての推測である。

↓oQω“①Q。は粘土板の断片であるが表面にコ一九の立派な

衣服」(障Φ雰σq魯品・)「六八のやぶれた衣服」(①。。まαq}μ三)

とあ.り、裏面に「擁÷b⊃①倒懸の人、ウルク」(z+卜。⑦露げ巳(巳

と読める文.書もフーノラ文書のうちに見繊せる。これはウル

103 (103)

Page 14: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ク派遣軍兵の衣料がζルヅ.ハークで調達されたことを意

味した文書であろう。

 以上の資料分析からの,推論は僅か二文書からのものであ

る。ファラ文書の数はダイメル、ジェスタソの串版したも

のにとどまらないであろう。未発表の粘土板文書のうちに

       も  も  も  も  も

この種の文書が眠っているか竜知れない。 (ジェスタソは一

九五七年に、 一九三七年の日QQ“の補遺として同じイスタンブール

博物館所蔵の粘土板文書から、五〇偲ばかりを追加して手写胤版し

  ㊥

ている。)

 次に¶ケソギル一同明皿の軍・事罠的は轍果セ刀のh山嶽、西方の砂漠

からの蛮族のシュメールへの侵入を防ぐ防禦的なものであ

                     く

ったものと推測される。その理由としては6ωω象G。(09

回同・畔)に讐ρ79の語が見えることである。

 この文轡の表爾には「二五人が三偲のパソを、四五人が

一個のパソを、二八人の女(目P一)が一個のパソをうけとっ

た。(これらの人は)ヨ鴛摘餌(後のアムル人) (である)」と記

され、裏灘には「大きなパソ一四八」と記されている。こ

の文書は恐らくシュメ;ル○地に西方の砂漠から侵入して

きた野蛮な遊牧民(マルトウ賦アムル族のうち)のうち捕 虜と

なり奴隷化されていた藩への食料給与の記録であ.ろうと考

えられる。所謂アムル人と呼称されている人民は初期王朝

猟の初期時代にすでにζメール史と関係があったことが

’知らノれ“⇔。 齋見方のエラム慮↑地から1の亦玖楠倣の侵一入は奴蝋隷(O同)、

女奴(σq①き。)の文字が「山と男」、「山と女」のム至思文字で

あり、初期王朝-期のウル出土の古拙文書のうちにすでに

見串されることによって覗知することが出来る。たとえば

国■切¢霞O≦。。のd翻β嵩溢P鱒㎝り文書の表面に人名が記さ

れ、裏面に「奴隷二三、女奴一二し(b。ω臼\にGq§曜ひ)と記さ

れている。

 西紀前三千年紀の申事はシェメール地方の蜜と繁栄とが

              ⑪、

その最盛期に到達した時代であるとすれば、慮嶽、砂漠の

野蛮人がこれをねらって侵攻掠奪の機をねらったことは当

然である。

 ケソギル周扇皿の‡一州的は軍・事的φな」ものであ・つたが照凹時に

同盟都市間には親善友好の政治的関係も樹立していたもの

と考えられる。この点についてはヤコブセン教授が指摘し

ておられるように五都市からやってきた多数の人たがシュ

ルツパークの宮殿使胴入に登用され給与をうけている事笑

IQ4 〈104)

Page 15: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケンギル都市岡.盟に.ついP(:(rFi原)

がこれを証明している。

  く

 ↓G。㏄題O文書は鷹察宮(昆茜ε、侍従(護H《巴)、書記

((ヨσ工事)、国詰?σQ巳ρ)、代理(月切鰹(ヨH)等上級の宮殿使

用人の給与表と考えられるがこれらシ謳ルッパーク人の役

職者にまじって五都市からの人が一名つつ給与された大麦

の数量とその人名とが記され、そのすぐ下の行に給与をう

けてないシュルツパーク人の監察官(巳ヨσq薄)の名が記され

  ⑳

ている。この五名の五同盟都市からの人は恐らくシュルツ

パークに派遣されていた使節であるようにも解される。こ

れは初期王朝末期にラガシュとアダプとの王妃がお互に親

善の贈物を交換した際薗園に各た駐在していた入がその任

                ⑳

にあたっている事情を記した一文畿口(結目O一¢)からの推測

である。

五 ウル古拙文書にみられる都市同盟

 ヤコブセン教授は初期王朝夏期に描定され.ているウル娼

土の古拙文書のうちにすでに都市同盟が存在していたであ

                      ⑳

ろうと「ケソギル諏盤」の原型を指摘しておられる。

 ヤ教授は¢切ξさ♂〈μC同図蓬餌/、霧一。髪8舞富=〉撃

。躍ao8㊦4ω(11d粥層鵠)嵩○・Q。鐸の文書がシュメールの初

期の軍事組織を示す資料であると指摘された。すなわちこ

の文書を将校(灘午ぴ鋤α9)の下に下士宜(償σq巳ρ)に引率さ

れた兵士が部隊(償同ρ1ω國円一H僧)に編成されているそのリストで

あると解された。 また同教授はび①σq導一b》ン匿}誉8ω。9r

目憲℃鴨霧玖9騙(C国・媛H)の(瓢す.馬歯鼻)捺印銘およびレグレ

ソのこれら捺印銘の註訳をもとにして謎の土製壷に捺印さ

れている集合印章銘のうちにシ.ユメールの主要都市の名を

見繊された。 すなわち図①終ンO菩p畷ユ(賭ρおρ琶ご

や劉ぴH詳ン伽撃び2¢瓜”区”賦¢終N廷霧(劉。・下り)の名」を

見患された。そして同教授はこれらの集合印章銘はこれら

     ち   も

の都市からウルに物資を送付した公約引渡しの集奮印章銘

と解された。こ.の外や教授はC驚8ぼ瓢。。ω①Oに〔O〕同・

図客。閤目と記された三文字を類①ゐ早σq一と読まれた。以上

三つのデータを結びつけてヤ教授はケソギル都市同盟の存

在を主張されたのである。

 ヤ教授がとりあげられた鋤○・。。凝文書を詳細に分析すれ

ば次の如くである。この文書は約半分が失われており、残

存部分竜かなり・文無が消されている。表爾の60一H?熔に105 (iO5)

Page 16: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ま                       、

 ①)b。Hqαq伊欝……\圃)卜⊃一自σq巳90¢Oみ震\Q。)卜。一=αq巳麟〉σ々\㊤)

 瓢噛む帥旨α斜い亨ご「一二(人)。ウグラは某。二一(入)。ウグラ

 はグド・トゥル、一=(人)。ウグラはアグ。ヌパンダはルル

とあり、裏面OO一.囲一山に、

同)σq争ρ㌣鴇器①自亭ω圃学監ρ質午σ帥昌αρ》ヨ震と争ω霞\bO)①ω

p午びμ雷餌ρび雪ぎ\ω)置渉郎ウ留コ鎌㊤ン露㌣①彰霞…:・「総計二二

六人の都営、ヌ・バンダはアマル・ウドサル。六三(人の郷隊)、

ヌ・パンダはルル。六四(人の諸隊)、ヌ・パンダはアマ・エ・

シャル扁:・:・

とある。将校ルルは六三人の部隊長であり、ルルの配下に

は三人の下士嘗がそれぞれ二一名の兵士を引率しているこ

とが知られる。将校アマル・ウドサルのニ工六人の部隊の

下士官の数と兵士の数とは表面Oo一.H一-以下に記されて

いるが文書の破損のため第一行をのぞいては数字と人名の

一部分のみでこれを知ることが繊来ない。残存している文

字の最後は……〉欝属学㌘&南ρ同と読める。第一行人は、.お

呂撃石質σq巳ρ諺霞㌶芝露-σq磐、.「結集された四三人、ウグラ

はアマル・クガ」(○σOoドH」)とある。窮μあ睡学鴫ρの語意

は結集された( ’            く’の一巴山.節 O肖 ㊤cσ『1曽⇔)人民曾冨母煮母算。)で

ある。膳ω。陰冒晦ρとかト⊃一(駈回㍗養)は「結集された四三人」、

「(

居Wされた)二一人」の意味であるが、この四三人とか二

一人という人数は…1(粘土板の残存簸所に。。・。”鉢の数字と

痛σq巳ρの語が発見される。)1氏族(凶旨旨)の大小によってそ

の属族内の各小家族(O)から集められた家長(ρ9冨)や壮者

         ⑳               、、、、

(    《σQ∬噌髪)の数であろう。したがって毎でωゴ,-毒 は氏族単位で

結成された部隊であるように考えられる。二σQ胤欝や三二)㌣

                    ⑳

巳Pは歩む言参争σq鉱「渡殿のヌ・バンダ」の語彙が示

すように宮殿の官職であるが恐らく=σq巳pに任命された

人々は小家族の家長のうちの画名かであり、葺でび貯身に

任ぜられたものは氏族長(斜7び欝一ヨ壱自警)であったろう。

ニニ六名の部隊長となったアマル・ウドサルは大氏族長、

六三名の部隊長となったルルは小氏族長であったろう。と

まれ初期王朝-期のウルの古拙文.書の添す軍事組織は王権

と氏族共同体との結合によって編成されたものと考えたい。

 次にヤ教授が緊?Φ苧σQ一と読まれたづρω①O導爆を検討

してみる。この文書も大部分が破損されている。数行の残

存箇処から知られることはこの文書には分割された土地の

106 {IIO6)

Page 17: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケンギル郡衝罰盟iこついて(中原)

地積と人名とが記されている。第二欄にはごb。(び宮.)i\鱒)

蜘薯Y\ω)繭(げρ・Yピ巳亭伸暢\僻)μ(σρ・)ぎ寧§・

・・神く㎝轟(琴)u§碁ミ①)叫(量覧εぴ・弩・・\刈)

・・

wσ口・)ω(・犀・).・一三.第禰は殆んど蟹・てお

り、四行擬の残存部分に〔O冨・調合・囚囲とある。この四行

臼の○固・国劉・黙秘を地名とすれば第二欄四行目のO”霜

と岡じ性質の地名と見ねばならない。フ岬ノラ交需の場合と

同様にシュメール全土を指示しているものではない。

 ヤ教授が集合印章から摘出された都市のうちにはファラ

・叉灘出の山ハ都壷巾同明皿(ウルク、アグブ、ニップール、ラガシュ、シ 艦

ユルッパークウンマ)と比較すればラガシュ、ウンマとシュル

ツパークの名が見えない。その代りにウルとラルサ(Np弓貧

11酎・饗器)とケシュ(キシュではない〉とXとが加わっている。

もしウルを同盟の補給基地とすれば物資をウルに送達した

とする集合印章にウルの名が記されていても不自然ではな

い。ウルの経済と同盟の経済とは別掴のものであるからウ

ルがその同盟分担費を同盟本部に支払ったとすれば解釈は

つく。筆者が四章で推測した同盟費分担の義務がこれによ

って証明されることとなる。また”μ9ω⑰①文書のOH・同道

・穴山をファラ文書の肖オ・O咽・嘱自と阿じ場所とし、こ

こに同盟本部が置かれたとすればウルの立場はファラ文書

時代のシュルツパークと岡一の立場すなわちケソギル同盟

の補給基地となっていると解することが出来る。

 ウル出土の古拙文献の行政文書から初期王朝-期時代の

シュメールにおいてはすでに軍事的都締岡盟がシ払メール

の都市國家の幾つかによって形成されていたことが推測さ

れる。

お あ り に

 本稿において筆者はヤコブセン教授が主張されたケソギ

ル同盟をヤ教授と同様に行政文書を資料として種々検討し

てきた。しかしこれはケンギル圃羅そのものの検封であっ

てケソギル同八丁の初期川メソポタミア・更における位冊駐づけに

ついては触れなかった。初期王朝-時代の都市問擬は初期

王朝翌末期まで同盟加入都毒の変化はあったが続いたので

あろうか。あるいは都市同盟は.覇権都市の出現によって一

端崩壊し、その.覇権都市の没落後再びいわば第二闘都市同

盟が結成されたものであろうか。都市同盟は聞かつ的な一

!07 (107)

Page 18: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

時的の政治現象であ.るのかあ.るいは初期王朝綴時代までは

都市同盟という政治形態が本質的なものであって覇権都市

の出現が一時的政治現象であるかの問題などの考察には意

識的に触れなかった。これらについては現在の筆者ははっ

きりした決論的見解をもっていないからである。

 ジャムデト・ナスル期…の轟又脅…粥に筒兄られなかった「王」を

意味するいご(ど〆ピの文字はウルの古拙文身には多数見出

される。その多くは人名の構成要素としてである。たとえ

ばぴ鴬σq酔瓢’¢繋止亭σq9ワH邑αム欝「ウキソ・ガルが選んだ臓[王」

の如く圏王患現の事情を示唆するような人名が見出される

(¢吋、門類。。9離鼻)。鵜、人文』の上掲論文に述べた如く

巳小浜㌣σq〔二は本来は氏族連合体の長を意味したものと解さ

れるが(三八i九頁)、 ウル古拙・文謁のうち職員録と日され

る一文雷(p9=じ○)には○一月二三鼻貯σ登〔二「ギナ(人名)、

ウキソ・ガルし(ノμO)が嵩午ぴ》口島P?σQ猷ド一「宮殿のヌ。バ

ンダ」(<一①)、σq⇔麟巴σQm高「㍗審ミ隠脳の長」(HΦ一く心…<

ミ馨ξ国章蛇使匝(…。・)などの暴悪入名と共

に記されている。したがってこの前代にはウキソ・ガルは

すでに王権の支配下におかれた軍斑令官の如き地位にあっ

た武官と解すべきであろう。

 またdじ昌目灯Oには「耕地(σqぎ)、お(ブル)、ωO(グル)

の種穀(く伍O 昌d貫μ回質囲吋)、鱒O(グル)の牛の鋼料(警σq国争罵O)、

エルシ(人名)、(房か・)ド呼(グル)・・(シ・)の大麦

が収穫された(似Φ①)」と記されているが、その用語や書

式は初期王覇皿末期の経済文潟のそれと殆んど岡じ表現が

用いられている。

 製作年代が初期王朝王期に描定されているウル丈書、X

~斑期の交のフプ,ラ文書は瓢期末期の行政・経済文書に較

べて、その文字の古拙、綴字法の不定、表現の単純などの

差違は認められるが同じ性格をもっている重要な初期メソ

ポタミアの社ムム経済円中くの研庖九資料 であり、ηての一語の口入勲記

は政治史の研究資料ともなりうる文献である。

 故以ピじ鼠鑓9教授以後はこれら文潔日の資料的…価値を無

              ⑳

視しがちの欧米学者の聞にあって、米騨アッシリア学の心

学ヤコブセン教授がメソポタミア政治史研究にその賛料と

してこれら文書を使用されたことはこの方.蘭の実証的研究

を一歩前進せしめるものとして、まことに慶賀すべき業績

といわねばならない。

108 (108>

Page 19: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケンギル都衛罰盟について(・}.源.)

①『西南アジア研究油京大繭南アジア魚蝋会第マQ号(一九

 山ハ一二) 一〇九一一二隅頁。

② 

『人文』京火教養蔀 第九集(一九六三)三六…八.頁、四一

 」二頁。

③ω●客麟5ヨΦび出おω毒拓一士μ。。噌〇三$σqoδ8や。。Q。1ゆ.

④ 囲・ヅ幽「回】ρ犀○昌。~、”ωOao什図巴ρ島oQ挫pけ①一つ》討90瞬詳該Φψo℃?

 貯ヨ智”QQ戸ご買Φび岩。砂ooノ<”同⑩切ゆ.℃.一一の脚註4および嗣).障りピ

⑤ヨ骸ぬpきpは影二面筒一甲p(δであろう。づ6賂σq・ぎ些ミ奴翁㎞ミ

 「貯蔵所」、「置場」などの意がある。しかしこxではヨp鰹堕ゴθ

 と書かれず、営騒機欝出罫引ρ鰹09ぎみ(δと「σQ{ぎのヨp鐙の卿

くに分析され、所有格で表現されているので、困乏にわけて諺の絶

 (ミ鳶鰻)「境界」、σqぎをρ脈㌣σQ筒H霊富難禅○び・「地域」 「土地」

 の意味にとって「土.地の境界」「地域の境界篇、「置劉地」とし、

 ω船張は「頭」であるから讐p鰹σq守ご貯都σqを「主要な区湿地」す

 なわち政治的意味にとって「主要な行政区臨「州」の意に解する。

⑥[]内は鱒行以下破損欠号のところを↓}三な建む霧σqぎの

 解釈に岡除して補足したものである。なお.彼は㊧.行以下を

 ..〉瓢もりω①暁〉武勲果ご\(竃剛⇒Hぐ}三σQ嘱魚。げρ\(一p。。2.o鑓一)㌶罫020誘

 げρ蓉ρ〔≦伍三〇鳥霧℃霧Φ。陰障田村メδpぴ缶σq骸p風袋.劉。αqoσq①げ。菖

 と訳されて、⑯行の「から」(夢)の文法要累を坐かされなかっ

 た。筆者はこの欠交中にラガシュの乱地仙歓の帆総港(伽寡∴翻σq圃一一鰹で

 巴αq囲昌  初期王朝期…文献…のαq?鋤嵩旅α)とアッカード王猛とが

 詑録されていたで・あろうとアッカード王マニシュトゥスのオベ

 リスク碑文の「倉計」欝式から推測したい。アッカエド語のオ

                く     へ               く

 ペリスク碑{又の 一州爾か一引揖ふ」等μゾい、 0ほ¢-ツ朔祠ΩH箔 刈 (甲d野dり肇(〉噛

        し             く               く        へ   く

    く

 H<.⊆月ソ。厚G-窯囲O一窯日OO¢労C㏄(ン脅<.日ωyGG¢-瓢}O剛名㏄d-

   へ               く

 翼HO目宕日圃O¢影dりe(〉.く.誤)とある。石柱磯旧文には¶五ブル

 のσq継コρヨび簿苧びpσq骸変と五ブルのαq噛↓嵩σQ助7σq轡マヨpプし篇の合

 計蒙自∴ば喩轟) 一〇ブルの土地」(ヵ。〈9H嵩●α一Q◎)と記されてい

 るように合計地鳥でまとめられている。もし贋柱碑文の㈲行潅

客薙饗+薯憂二ω雪・・が馬繋に荒れ幕傷掛

  へ  あ                       ヘ  へ

 の△釦計であるならば、総.計と紀録さるべぎ筈である。またもし

 それが碑文に具体的に記されている諸合計と同性質のものなら

 ば㈹行日の合計地.凝となる聖体的な土.地名とその地諮ハとが記録

 されていなければならぬ。それが記されてない。なんとなれば

 ㈲貸目の上は石碑が広い空白(二二。二8痴態男窪一ことなつ

 ているがそこは破損されて(ρσσQOσ同,OO甥OP)いるのではないか

 らである。そこで㈹行難の合計地績と眉柱碑交に詑された下土

 地名と諸地諮【とは別傾のものの含計地稜と考えねばならない。

 すなわち、これはアッカ…ド董がアッヵ…ドの外に王鯉のもの

 として継承した重地の合計、すなわちシュメ。ールの地縫と考え

 ねばならない。そしてラガシュの地積は欠損している最後のと

 ころに記されていたものと推定するのである。

⑦前掲拙稿{一八頁。

⑧隅一一九頁。

⑨ル…ガルザッギシがラガシ晶に侵入してこれを大掠奪した状

 態を後に記した一文書にウル山下ナの称号をごαq巴ぴρσQ騒瓢と

 せず、ラガシュの一地鼠ギルス(戴霧口話)の王と記している。

(ユ09)a69

Page 20: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

 (弓げg窓離漿け巴磯貯”σδの償ヨ震駒。げ①昌 銭雛 〉巴(ρ鳥騎。プΦ挿

 類α巴σq旨ωo旨陀$昌(11Q告》緊と略す)ψ帆○。)。ディヤコノフ氏

 はうガシュの失地を50%以上と見瀧っている。(り貯犀。昌。/.”o℃・

 o欝.やトつり一)。

⑩N。冨。年葬{費〉霧}鼠。ざαq陣⑦累屑」。。(お鵯)ωω’㊤目一心9

@歴覧ωQD」卜。OI卜)幽く囲℃巴ρ8男。8巳ω貯。営ω巨歪署葵に

 おいて論述されている。

⑫〉.U①貯ぎ訓だ冒陸ω○冨津ωげΦ拷8壁伍周ρ峯(潔。H霧畠肖蓉零

 くO謬三戸憎ρH崇)PO卜。ω…舅9崇尉凝H(づN鳴)略号、以ρりP翼9㊤餅

.⑱

@H同日.質OOは拙稿 、シュメール都宙瞬家と「瞬土偏の人口に

 ついて」の一一九頁に訳出している。

⑭鐙實讐は巳σq詠午誇ぎあ自旨〉弦鱒警q・瓢壁-ヨρ〉診段舞

 「乎に与えられたもの」の意であろう。窯葵.ド画に暮露のアマ

 ル・キの配下・が謬団αq戯⇔-伽αびρ山ρげ恥ふ伽(O属び曾ゐ勲}9びふ伽)「イ干の

 ものとして連れて費かれたし(〇一)層H●一-圃)とある。この文欝に

 は動h員された入名[と死春の筆名とが指揮蒋の瑞とともに記され

 てあ茄り、 文港“の申木尾に .、卜⊃Φ路{σq-鰍信 「丸山ハ名の㎡すにあサの3もの」

   指揮考のもとで働いた生…存蒋  と記されている。一、舅鐙ρ

 目同・Oも。には、.澄鍵昧①ω銭亭臼巴、「ロバに与えられた大褒」

 「与えられたロ、バの大喪」(図①く.HH陰鼻)とある。 この外..敬?

                   く

 同影筥¢跡ω¢営.り「与えられた鍾穀」(日ωoQGQω卜。”○び・麟’G◎)珍

 ω餌巳諺ρ(8策.Q◎トっρ閑。~、●H●bo)礁βωβ旨(皆誌刈㎝ど)の表現が

 見られる。

⑱人名としたがむしろ受託函巴a回(ミ肉、野ミ亀ぎ)「蛇使い」の

 語が示すようにO¢.O¢・ざ節山飼いV一9罫に(検~【ミ)「追い立て

 る」、 …,つれて行く」、 「灘く」の意にとって「占象春」と解す

 る方がよいかも知れない。ちなみにファラ盗癖はは..bQ(  くρ昌αO)

                             く

 『島高道\ヨ戸鍼山9ゆ㌶げ、.「二(頚の獄バ、)ルラル、蛇使い」(門ωしC

 卜⊃b⊃卜⊃鴇崇H■這;Q◎)、.、H障煮\O午偉環\讐虹駆山巴巴μ、、「一イク(の土

 地)、ドウ・ドク、蛇使い㎏(りOトっ噌H●日…QQ)などが散見される。

 ラガシ払のウル・ナンシェ王の「,家族碑文」 のうちに驕欝嵩9巴

 という「蛇使い」が重臣として取級はれている。

⑯ ⇔oヨ副○♂ωびαQQ◎卜⊃団)。またウル第一二薫朝時代の肴歎交書に

    へ     く

 は(び¢)○}㏄.閉¢圓憐・累¢幽ゆン.重切(写)σq詳搾巳白}-?魚鮮σ『

 σ餌ヨ。「武器をとった人々」と記されている。(顕彊湊。).”彰三で

 O翫ρ質8ρσ一①げ㏄一冨睦ぴ○鵠9巴ノ、弾門畠ω①嵩比津Oツ幽環紛0餌貫μ層男〔自け擁囲・

 翼○μ餅勾O<融三岡)

⑰ 蜀帥 ,騨H蹟の序文、 一五.頁。

⑬ ウルク、ウル、キ・ウトウと父を交え、ミシメを撃破し、ア

 ルアを破壊し、……ヅヅ、アタシャクの.王(N苧N信\貯σq鎗〉回マ

 倒置ハ嚢)をアタシャクに追撃した等々。嗣.石.穂の第蹴剃から鎮瞬

 欄にかけて記録している。

⑲図・!、ン肖鍋9

⑳○辱○餌(蒼8冨Ω鉱窪。鴎切違}・}霞㌶(ρで寓ン、o一轡

 Oげ即℃.図回嵩)の末尾に記載されている「年茨偏による。

 ↓ず¢器孚〒O費瓢σq一轟ω〉開ω.同㎝①(9)<ρ。幣。}心一㎝) に記載。

 レ.勺OOσO則の翻字翻訳になる同王の一碑文には同王はキシュ王

 エンピ・イシュタルを捕虞にしたと記している。 (〉・憎。¢σoご

 鵠冨8艮。巴↓○冥護(¢累℃切ω!d回Hく”客ρ一も.犠b⊃ソ年代は

 ○β鳥鼻。℃・鼠鉾の偏牛表によるQ

He (110),

Page 21: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

ケンギル都市同難について(中屠○

⑳肉こ$9ど瓢8く亀。ω8欝玄。暮霧Qり§拓ユ。琶。砿臼警冠午

             ダ                         く

 ℃℃巴幽帥麟㌶轟々ひΦU、『紳斜昌σ¢一”℃㊤ユ㎝HΦ㎝刈一瓢8ωもe一

  く                                    く

 6Qoもな”8欝σざ洋。も摩も。βヨφユ①嵩昌OQ謄α①㏄¢思痛℃唱巴凶OG昌G。oコ、ひ。む。ρ潭

 譲添いゆ。伽oQ肇けρ鐸び。巳”勺9甑も6日Oωメ

⑳ ○㍗Oρ鳥(訓O℃.語幹℃’μ卜⊃.に.てギャボは顕示繁栄.の現象は

 単にウルの王慕の載雑な適適品にム象徴されているようにバビロ

 ニアに観られるばかりでなく、エジプトにおいては第四王朝の

 轟八ピラミッドの建凱双された+動議園、小アジアの80鴨団圃H.儲期の

 豪華な宝庫、ブ・ポソティス南のドラク(O・養5の三毛に示

 されている鄭くこの時期の古代世界に共麗したものであると述

 べている。

⑳⑩⑦(匂謄闘㌶).ω甲σq学びミ⊆さαq窪\三園賭二B器αミ巳巳αq騨(○び.H員

 一ひ⊃一囲く一lG◎)「九六(シラの大照災)、シャグパ、ウルク(の人)、礼

 ウル・ヌムシニダ、二ご5σq騨」りOび昏-σ餌戸当-自ραq\¢きヨ親調\に-σqβα-

                     し

 ら9σq山びN二\三ヨσqご(《o野回/.・Q◎…ごソリ①にら牢α\ン自9ぴ鷺\¢㍗

 畠裟缶山昌戸畑ム欝\H隊ヨαq帥脱(、物¢く」!..ω一①ソリ①Gマ飢Oε回メ7Nく窯8鴨露嚢

 \湯6蛋魏嵐QQ汐Oム欝\賭ヨβσq貯.(切。く’臨く‘刈一日O)と・あるQウルク、

 ウンマ、アダブ、ニッブ:ルからの入名は記されてあるがこの

 腐土板は表繊第七欄から裏諏第罵欄全部と第二、薫欄の下半分

 が破損しているので「ラガシ蕊しからの人はこの部分に記され

 ていたものと推定して誤りなからう。 窯ぎσq一答ミ平炉には

 く。σq世珍Φ~く錠αなど面々の意味があたえられている。 初期王

 朝末期においては動蔑(奴隷).不動醗の売買行為が成立した時、

 その旨を告知する響岩を費う世話役は議職事貫であった。

⑳ 

このガ八瀧口はラガシュのエンシ、ルーガルアンダ払粥世鷲寛牛のも

 ので、これによるとアダヅのエンシ妃ユン・アグリグ・ティが

 ラガ.シ函のエンシ妃バルナムタルラに晒一物をした黙即アダブのエ

 ンシ妃の臣アネダヌメアがアダブに滞在しているラガシュの人

 マアルガスグとともにラガシュに贈物を群蓋少した。その際アダ

 ブのエンシ妃はマアルガスグに一蔚の衣類を与えた。これに鰐

 してラガシ.一のエソシ妃はアダブのエンシ妃に返礼の贈物をし

 た。マアルガスグがアダブに同行した(?(ギαqヨ)。ラガシュの

 エンシ妃はい仕を単帰したアダブの人アネダヌメアの労をねぎらっ

 て三着の衣類と一吻蟹のバターを.彼に与えた。この文書によると

 爾王妃とも相手園の使臣に慰.労の下賜品を贈っているし、ラガ

 シュの人マアルガスグが再びアダブに帰任していることが知ら

 れるので両者とも欄手羅に駐在していた使臣であったと考える

 のである。マアルガスグを商人(島ρ臼曲貯)と見ることはこの

 交書の内容から推してむつかしいように思われる。

⑳ }餌ooぴ⑳2ご。℃●o諄.罷轡膨9ほδ。。げ℃o凱け搾巴困)pけ8脱p”℃戦㍗

 コ凱試~δゆ2づOo円餌。ざ駆回)餌けoohと9拷紳ヨ鉱切紡ぎ冨珍9ポ℃払O刈1り.

⑳氏族と小家族との関係は糊.人文』前掲論文、….灘i三八頁を

 参照。

⑳d団8戸累ρはN∩oドく弧①”阿破片同。ω■

⑳ 註⑯を参照。

⑳ たとえば門製麺の改一訂版ケンブリッヂ+n代史の分㎜欄の執一筆者

 ○勲自己氏はファラ文澱同は知識…のため(教科愉冨)に潮懸されたもの

 以外は物品、数量、照顧などのリストであって⇔9で9鉱}騨9臨欝鵠

 峰。置駐であると述べている.、○衆乙-○酬ソ2⇔●℃.麟.

           (一九六三・.=丁五) (契器蓋薮凝)

(111)111

Page 22: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

On Kao-shen心身in Wei-tsin-nen-P6-ch’αo.油画南北朝

                from wood to paper

                        by

                   Osamu Oba

  The study of an official written appointment ln Wei-tsin-nan-pe-

ch’ao 魏至豪南dヒ朝 has been di銀cult because of lack of the tra-

ditional inherited articles or sentences written or composed. The

writor, by his analysis on the apPointments ofl the ffan漢an趨

T’an8唐periods, manages to trace some shadow on the apPoint-

ment of this medlate period form meagre articles. No institution

and no sentences were not inherited, but we plan to investigate

especially the following three polnts, at first how its procedtire

vLras, and next what material the appointments were written on,

and what style its sentence was. At least, the appointnaent in the

Han period’ was written on wood, while that in T’ang on paper,

which denotes the transition of wood to paper in the Wei-tsin一・

nan-Pa-ch’ao.

  Around this change of writing material, three other points wilS.

be treated in this article. Naturally, the discussion has a trend

to the cultural history, somewhat neglectful of the aspect of in-

stitutional history, the latter of which shall be treated in future

collectively.

                 On the Kengir League

          A problem of Ancient Kistory of Mesopotamia

                           by

                  Yomokur6 Nakahara

  Professor T. Jacobsen proposed the existence of the “Kengix-

League”, a league of major cities in Sumer in the Period of the

E. D. 1 and in the transitional period of the E. D. Iltvlll in hig..

                          (164)

Page 23: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

b,(7)Xntg-ensz(S)EN. GI. KI X ensi of EN。 G王. KI”(ibld.

  627,0b. V 7-8). X indicates an unknown numeral sign.

                                     ヒ・c,._,.(1) A.ru-ati (2)mu,ha-lam  〈3)Su-2 (蜀 KI. EN. GI

  ‘‘.,._He destroyed Arua and 〔fought with P〕 Shue(probably

                          (163)

elaborative work of“Early P61itlcal Developme蔦t in Mesopotamia”

量nZeitschrift fuf Assyriologie, N. F.18,1957. He drew the idea

〈)fthe Kengir League from administrative documents of Ur arch-

aic texts ar!d jar.sealings impressed with collective sea王s unear.

thed at Ur, and from similar documents of Fara texts, especially

WF 92 and 94. Adlninistrative and economic doc醗ents of these

.texts are, I belie’ve, important sources for the study of political

.as well as socio-economic history of Ancient Sumer. It is certai1ユ

tha乞the apPreciation of these documents is a very dif丑。駐lt and

quite pai葺staking task for scholars. It is due to the character

・of these texts, i. e. the archaic writings, the ambiguities of the

く)rthography and the simp玉icity of expression.

  Iagree with the assumptlon proposed by Prof. Jacobsen that

・aleague of some major city states in Sumer for the purpose of

defending the civilized land of Sumer from attacks of desert                                  サltomads or mou就a呈n barbarian合. In TSS 648 we can fi11.d a meR一

                                             リ                          ザtion of mar-tu.peop圭e who re6elved foods.一45 gurus,!ninda su

.ti,28 mi,1ninda su ti,辮α撹%,“45 men who received one(piece

・of)bread each.28 wornen who received one (p呈ece of)bread

・each.(They were)maγ一tu (people)’,(14-II 1-4)..ma7-tu people

here mentioned were no doubt enslaved captives of wars.

  Prof. Jacobsen appreciated the word EN. GI. K:I in WF 92 and

94as the word apP玉ied£o the country of Sumer as a whole.

According to my童nvestlgation, however, of some documents of

Ur archaic texts, Fara texts and others, EN. GI. KI mentioned

.in WF 92 and 94 does not seem to indicate the country of Sumer

.as a whole. The reaso且why I should thiHk so depends on the

.sequent evidences of the documents.

:a,① 4(滅γ)一漉%  (2)EN. GI. K王 ③ 2⑦2)r)6(漉κ)A. A. KI

                                                ソ  ‘‘72∫肱(of)EN. GI。 KI,42漉%(of)A. A. KI.” (TSS 758,0b.

  11-3).

          ”                               ‘‘                                              ’

Page 24: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

  personal na難e)Qf K王. EN. GI__”       ヒ       サ

d.,(エ)Sa・一sa・(2)潮目Uru-ka-9画α

  fee.a (5) dNin一α一SM (6) KII、 EN. GI,

  wife of Uru.kagina, King of Lagash,

  GI弓. offered(these offerings)(DP 5王,

e,KI. EN. GI・. K:1(DP 46, col.8,5)

f,Adocument(UET H,  is a broken fragment and it seems

(SAK’ p. 18, VIII 1-4).

(3) lugal (4) Lagasrei-fea-

      v(7) su e-na-tag4 “Shasha..

for dNin-asu in KI. EN..

col. 8).

366) in which (G)1. EN. KI is mentionedi

                                 to

sort ef land ’allotinent to many persOns.

脚高(・)・号働)Lw-lu-ti④

〈col. 1 1-4).....,.[G)1. EN. KI (coL II 4).

be a list describing a

①・(・劾……(・)言

1(balr) ノlmar-a〃2aプ GA. K二f

All these documenta至evidences show thaもthe wordドGI. EN. KI,.

EN. GL KI, KL E尊. G王, K王. EN. GI窪, KL EN. GI4. KI mupt be・

・PPreci・t・d as a玉・ca至place n・m・・Th・・ef・・e EN◎1・Kl i・・

WF 92 and 94 must be also appreciated as a. loca}place name.

  1..ln毛end to give a tentat圭ve translation of WF 92, co1. II 3-rev...

                                               り11-3,thus:1銘tufeul(.e).dabs.ba, EN. GL KI,1)u:du, s%s%彫(一mα).ザ                                       リ

ste-nig2n 6708ums,緬伽ゐ窃」(,の一dabs.ba‘‘鶏en who took weapolユs..

(They were)given to Dudu(the comrnalx玉er)in Ke茸gi. Tota1:・                                          ノ670me簸who took weapo貧s’,. That I read LU. KU. KU. BA as

J舜tuleul(一e)一dabs-ba depend50n the fO}IOwing eVide益CeS・王1ユateXt:                                                         セワ6t. t!le tipa・・f U・III(H・ssey STH p・・t ll n・・14・rev・・1・・4)G玲

                                    ソKU。 E. KIU. BA. ME which I read(liのais tufeul.θ.dab5.ba.me“(men>

who took.weapo簸s”, In documents of the.time of敬u一茎くagina

(STH, part I nos.6-13)形hurδ(・の一dab5-ba“me簸who took肋γδ一

corv6e’,.王n Nik.13, rev.. u王1,3, li‘ninda(一e).daろ5.ba‘‘men wh(>

took圭oods,,..

  If GI. EN。 KI or£N. GI. KI is a local place name.as I indicate,..

it may be assumed as the headquater of the Kengir League where

stationed the soldiers despatched by the members of the League..

In℃his case, Ur and Shuruppak may be assumed as c量ties of th6;

supPly base for the Kengir troops。

  In a royal圭nscrlption of Enshakushanna, Ki臓g of Uruk in the

midd茎e period of the E. D. II王,.Kengi was used as the.designat量on、

of ’the country of Sumer as a whole.、 He took the title of en.

(162)

Page 25: Title ケンギル都市同盟について : 初期メソポ …...ケンギル都市同盟について 初期メソポタミア史の一問題 中原与茂九郎 ケンギル都市1覗1について(1判鱒

kengi lugal kalam-ma“Lord of 1〈engi and King of

The location of Kengl is unfortunately unknown at

as many lmportant places of Sumer are unknown.

the ]しa1ユd’,.

present just

Some Problems on the Witsen’s Map of

          North-eastern Asia

      by

Akio Funakoshi一

  Witsen(1641-1717), mayor of Amsterdam, president of the East                                                         ヰ

India Company, and ambassador to the Court of St. James’, was

aDutch gentleman, who was interested圭n the Orient in h圭s days

of Leiden University, from whlch he graduated to try to collect

.geographica} ma宅erial in the north-eastern Asia, staying in Moscow

as a suite of the diplomatic m三ssion. His work,‘Norden Cost

.Tartarien’(1692,1704,1785)was said to be the collection of the

狽?en east-Asian knowledge. This article wm treat the maps of

.north-eastern Asia of his own making, tracing圭ts origin, showing

its characteristic, and we want to poiRt the unique feature of the

laHd d{仔eren£from the sixteenth and seventeenth centuries’ West.

European map making world, and then we would eva圭uate its

importance of the geographical history圭n the two capes streching

’out to嬢e簸orth-eastern sea near the north-eastern end of Asia

which were the characteristic. of his map, a sim圭1ar type of王ユorth,

.eastern part in the map of West-European world from the end of

the.唐?venteenth century to the m三ddle of the eighteenth century.

His book,‘Norden Cost Tartarien,, was seemed to be introduced

ill Japan at the end of the eighteenth century, a copy of which.

was summarized and translated and annotated as‘T6holeu-dattan一

ツasalea-2aleleiづ7aleusetSU,棄ゴヒ縫華旦墾予f乍菊叢言己言尺説by Saza:ソoshi Baba ,鴇場

貞1由.At the end of this article, analyzing the background, object,

method, and result of this‘summary’, through the Japanese ev.

a娠atlon of the Witsen’s work at the biginning of the nineteen亡h

・ce撫ry, we try to evaluate the basic importance of Witsen’s

孤ateria、.

(161 )