Title 三大政策と黄埔軍校 東洋史研究 (1987), 46(2): …Type Journal Article Textversion...

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Title "三大政策"と黄埔軍校 Author(s) 狹間, 直樹 Citation 東洋史研究 (1987), 46(2): 356-381 Issue Date 1987-09-30 URL https://doi.org/10.14989/154194 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title "三大政策"と黄埔軍校

Author(s) 狹間, 直樹

Citation 東洋史研究 (1987), 46(2): 356-381

Issue Date 1987-09-30

URL https://doi.org/10.14989/154194

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356

J

二大政策ψ

と黄捕軍校

五四三二一

『賀補潮』にみる多三大政策。

黄捕向感舎の創立

北伐と資埼の共産'終

-126ー

中園は、

一九二

0年代のなかばに世界政治のひとつの焦貼となった。孫文の率いる中園園民業がコミンテルンを後楯と

する中園共産黛と合作し、反一帝一園主義・反軍閥の大旗をかかげた園民革命が猛烈ないきおいで展開されたからである。一帝

園主義H殖民地睦制をゆるがす中園の革命運動のこの高揚は、欧洲大戦・ロシア革命以後の世界の将来に開心をもっすベ

ての人びとの関心をひかずにはおかなかった。

リフの山中から中園へと足をむけたV・シーンはその恰好の一例である

が、

B・ショウのいわゆる「病める良心」は、たしかにここ中閣の地に新たな祉曾的胎動がはじまっていることを見てと

(

l

)

ったのであった。

園民革命はつまるところ、北洋軍闘の政擢に代えるに園民禁の政権を以ってする、という形でいちおうの結着がつい

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た。しかしそれは、嘗初に革命の原動力となった園共合作の牢途崩壊という挫折を内包しての結着なのであった。

合作崩援後の園共商黛は、周知のように、生死をかけた闘争を展開して共産黛が勝利する。かつて同じ陣経間にあったも

のが敵H味方にわかれたばあい、嘗初の協力時代の歴史事象にたいする評債・解轄にも劃立後の立場・翻貼がふかく影響

するものである。この一九二

0年代の園共合作にとって象徴的ともいうべき一意味をもっ有名なスローガン、

なる新名詞もまさにそのような歴史的問題性を色こくおびたものにほかならないのである。

三ニ大政策。

三大政策とは、

「聯俄・聯共・扶助農工」の三政策に冠せられる統稽である。共産議

のちに毛浮東がもちいたように、

の側は、それこそ孫文の革命的三民主義の一核心であるとし、

立されたものとして取りあつかう。

ふつうそれを一九二四年の園民議一全大舎においてすでに確

一方園民黛の側は、よく引用されるのは顧孟徐の瑳言であるが、それを孫文思想とま

ったく無縁のもの、と主張する。

2〉

についての若干の考察」なる一文を提出した。結論はこうである。①園民革命の進展のなかで、しだいに孫文の革命的政

この問題を解明すベく、

わたしは昨年秋の孫中山研究園際問学術討論曾につ三大政策。

-127-

策をゥ聯俄タ

。曲演工φ

の三項に集約、強調するようにな

った。②

一九二六年一一月七日附

『人民週刊』で中共慶

東区委宣停部長任卓宣がそれら三政策の統稽として

Jニ大政策。なる語を創出(または公開使用)した。③ゆえにそれはま

さしく園民革命の寅践のなかから生みだされた歴史的産物なのである。

ゥ聯共。

討論舎に出てみると、魯振鮮氏がやはり三大政策をとりあげて、中共中央の

一一月四日舎議での陳濁秀の報告中の用例

(3)

を指摘された。もし陳報告をうけて任が用いたのなら、先後問題は簡単であるが、嘗時、上海から慶州まで数日で文献が

とどくとは考えにくい。陳報告の全文を讃みたかったが、内部護行資料ゆえ、訪華中にはついに閲覧することはできなか

のち、幸運にも讃む機舎をえたところ、陳濁秀の報告はどうみても、資埼軍校での共産業員の活動報告をうけての

ものなのである。江田憲治氏とそれについて話題にしたところ、氏は北京大泉裁の『賀補潮』のなかの多数の事例を教示

してくださった。本来ならそれら新資料をもとりこんで討論舎の論文集の原稿を修改すべきだったのだが、賀補軍校につ

った。

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いての知識に絞けるわたしには、興えられた時間内にそれだけの仕事をこなす力量がまるでなかったので、補論の形でそ

の事買について言及するにとどめざるをえなかった。そのさい別稿を準備すると殻告したものが本稿である。まだまだ未

熟で誤りもあろうが、大方の御教示をお願いするしだいである。

『賀補潮』にみる。三大政策。

ク聯俄ク

(4〉

潮』週刊第一一期(一九二六年一

O月一一一日)の臭善珍の文章である。『黄埼潮』は黄埼軍校の貰堵向島平舎の機関誌、同舎の

宣博科編輯股の編刊にかかる。黄埼寧校は中園園民黛が自前の軍隊を創りだすべく一九二四年六月一六日に、慶州の東方

(

5

)

約二

0キロの黄捕の地に開設したもので、正式名稽は中園圏民策陸軍軍官四学校といった。

。聯共タ

。農工。の三政策に。三大政策。なる統稽を冠して活字にした最初のものは、目下のところ、

『糞埼

-128ー

臭善珍の文章は「われわれは線理の聯俄聯共政策に疑問をもつのか?」と題されているが、それは経理第一隊の園民蛍町

議部の同志たちが慶州市での賓地演習のさいに宣俸のためにかかげた標語を題目として用いたものである。呉は湖北金山

(

6

)

の人、軍校第四期生、経理科大陵第一陵の属であるから、自陵の演習に素材をとったわけだが、「綿理の聯俄聯共政策」

なるスローガンが責埼の聞学生のあいだでは、おそくとも一九二六年九月のころには公然とかかげられていたのだった。

呉善珍は標題に即して

じたあと、

1、聯俄政策の精神を擁護する」、「2、聯共政策の精神を擁護する」の二簡をもうけて論

「以上の雨政策ーーそのほかにまだ農工政策があるーーこそ本黛改組後の特別の精神であり、本校がこれまで

に享有した光栄ある護審とこれから成就するであろう偉大な創拳の線根源である」と承ける。

そして

線理がつ聯俄。

。聯共。

ク農工。三大政策」を決定してから、

「議内の新蓄の右波:::西山曾議・上海偽中央・孫文主義皐舎などは:::

この三大政策に反劃することを中心としている」が、責捕の畢生は「この三大政策の精神を擁護してこれを革命と反革命

を排別する根援とせよ」とのベ、最後に「われわれは黛〈園民簸〉の翻黙に立ってこの三大政策110聯俄タ

。聯共。

。農

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ヱクーーを擁護せねばならない」、とむすぶのである。

これは、三大政策なるスローガンが右涯に劉抗して革命を推進せんがために、園民黛改組後の孫文精神の核心を一括し

て提示する新名詞として創られたことを疑問の徐地なく明白に物語ってくれる文重である。呉善珍が共産黛員であったの

かどうかは詳かでないが、新奮の右涯にたいするきわめて挑戦的な筆鋒からして、そうであったろうと推測される。とり

わけ、孫文主義皐舎を名指しで批判していることは注意されねばならない。というのは、責捕同率舎は後述するように、

孫文主義皐舎と中園青年軍人聯合舎の樹立衝突を解消すべく創られたものだったからである。

おなじ『黄堵潮』第一一期には三ニ大政策。を提唱した論文がもう二篇、載った。

一一は余酒度、他は瀞歩調のものであ

「賀補同皐舎の首面の重要工作」と題されたその文章で、余は二簡をたてて「付中山主義の理

論を把握すること」、「

ω線理の革命についての念天政策||聯俄・聯共・擁護農工利益ーーーを確と守ること」を丁寧にの

る。余は湖南卒江の人、軍校第二期生、共産議員ではあったが蒋介石との関係はよく、責捕同皐曾創立にさいし宣停科長

(

7

)

に任ぜられた人物である。

べたあと、

「前者がわれらの革命の理論であり、後者が革命の方法である」という。農工の項が不釣合にながく、

-129-

スロ

l

ガンとしては未成熟ではあるが、三大政策が提示され、しかも主義と政策の開係に、理論と方法の関係、との説明をあた

えている貼で、注目される。革命の方法としての三大政策は、さらに「組理這甥」と結びつけられることになるのだが、

それは後述する。そして、総理のこの革命の理論および方法の縫承者は、余によれば、蒋校長にほかならず、われわれは

線理の意志の韓現者である「校長の意志を意志とする」ことにより「総理の員の信徒」とならねばならない、と主張する

のである。

はよほどの文章好きだったようで

(

8

)

もう一人の瀞は、湖南賓慶の人、軍校第一期生、賀補同盟宇舎創立時の総務科文書股長で、共産黛員だったという。かれ

『黄埼潮』誌にほぼ毎競、ときに二篇、それもかなりの字数の文章をのせている。第

359

一一期にも署名論文五篇のうち二篇を書いているのだが、

三大政策に言及しているのは

「孫文主義とレl

ニン主義の比較

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(未完)という園共合作にとっての最重要事を論じた文章においてである。

「孫文主義の信徒」を自稽する滋によれ

観L.

ば、孫文主義とレ

Iニン主義とは反一帝一の戦線において聯盟の関係にあるものであり、反一帝一戦線の瑳展、園民革命運動の完

成のためには「孫文主義と孫中山先生手定の今聯俄。

ぷ反エクの三政策」を繕承寅践せねばならない、とする。

。聯共。

手定の

。聯俄φ

一九二六年八月二

O日に草したものである。ほかにもう一箇所「孫中山先生

ゥ農工。の三政策」とあるが、

同時に「中園園民黛の農工運動の重親、

ク聯俄クゥ聯共。の主

ク聯共タ三箇偉大政策」とも

」の文章は、文末の日附にしたがうなら

。聯共。

張」という表現もみえる。この論文の績編(第一八期〉では、

またべつにつ農工。

ク聯俄。

書いている。この績編には日附がないが、おそらく八月二

O日に仕上っていたのではないだろう。携はほかに、九月二五

(

9

)

日附の文章で「孫組理手訂の

。聯俄。

。聯共。

ク農工。三箇政策」(第三一期)といい、

一O月九日附のものでは「農工政

策に賛成し、孫中山先生の。聯俄ク

ク聯共。政策を擁護する」(第一一一期)といっている。

-130-

八月末から一

O月初にかけての

携の文章をみると、もともと農工の一項がひとつ、聯俄・聯共の二項がひとつと意識されていたものが、このころにワン

セットの革命的政策であると主張されはじめたことがよくわかる。そしてそれら三項にコニ政策」

「三箇政策」

「三箇偉

大政策」といったさまざまの統稽を試用してみたのちに、

一O月一六日附の文書を引用した第一四期の文章において瀞は

臭善珍のもちいたコニ大政策」なる名詞を始めて使用し、第一五

・一

六期合刊のものではそれを頻用するにいたってい

るはいうまでもないとして、

「三大政策」なる語を採用するにいたったのは、その四字句としての安定感

おそらく三民主義の封語としてのひびきのよさが決定的だったろう。

いろいろな名稽を使ったあと、携が結局

そういえば

孫文の民

族・民権

・民生の三主義も嘗初はコニ大主義」とよばれていたのであった。

以上

『黄埼潮』第一一期の三篇の文章を出護黙とし、三大政策なるスローガンの成立の一側面を瀧歩覇の文章をおい

(

ω

)

「最近宣俸大綱」なる連載物がある。第一

O期で「農工

ながら簡皐に迩づけてみた。

ほかに、無署名の重要論文として、

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政策」を、

第一一期では

「線理手訂の

ク聯俄。

ク聯共。政策」

そして第一二期でコ聯俄。

(

一O月四日卒業の第四期生を祝う文には、

をとりあげ、

ク聯共。

エク三大政策」がかなり丁寧に説明されている。また、

めた「。聯共。

ク聯俄。

一全大舎で綿理がさだ

(

)

。農工。一一一箇偉大的政策」との一句がみえ、第一五・一六期合刊の余世怖の文章でもっ聯俄ク

。聯共。

。農工。三大政策」といっている。

上述したところから、

すなわち、①一九二六年八J九月のころに、責埼箪校におい

つぎの三黙を確認できるだろう。

て、聯俄・聯共・農工の三つの政策をセ

γトにして、孫文の革命的政策ととらえる観黙が確立されるにいたったこと、②

嘗初の表現方法のばらつきからみて、名稽上の統一よりも、概念上での共通認識が先行したであろうこと、③名稽として

は「三大政策」なる名詞がしだいに普及したこと、である。

そしてさらに言うなら、複数の文章がいっせいにそれについて言及したということから推して、三大政策なるスロ

Iガ

ンの登場の背景に、

一定の意園をもった集国的な営篤の影をよみとったとしても、あながち不自然ではないだろう。そも

-131-

そも園共合作は、孫文の強力なイ一シアティブにより右汲の反針をおさえて成立したものであった。ゆえに、孫文の逝世

後に右涯のまきかえしがおこり、それに共産窯の側が封抗するという事態が嘗然のこととしておこったのである。そこ

で、共産禁がとったのは園民業内の左涯を結集して右涯に封抗するという方策であった。一九二五年五月にすでに察和森

(

)

は左汲の僚件を四つあげているが、そのうち「蘇俄と捕手する」「工農の利盆を保護する」の二項はまさに聯俄・農工で

あり、また「右涯と決絶する」がのちの聯共のネガティブな表現であることも見やすいところだろう。そして同年末の陳

(

U

)

調秀の文章では、左涯は「蘇俄と聯合しヘ「工農階紐および共産禁と聯合せねばならない」と主張されているのであっ

て、これなど三大政策なるスローガンのほとんど直接的な淵源であるといってよい。したがって、それに先行する前史が

なかったわけではないのだが、

『黄捕潮』第

一一期に突如として三大政策を盤高に提唱する三篇の文章が出現するにいた

った歴史的必然性はやはりあきらかにされねばならない一つの問題であろう。

361

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362

黄埼向島平舎の創立

三大政策なる新名詞をその誌上に数多登場させるにいたった『賀補潮』は、さきにも述べたように賀補同皐舎の機関誌

(

)

一九二六年六月二七日に創立された。禽員は軍校の

である。黄堵同率舎は、陸軍軍官摩校校長蒋介石を舎長にいただき、

卒業生、在校生の全員を劉象にしたもので、創立時すでに

「八千人」を数えた。内語は、第三期までの卒業生、

(

)

八千はその概数である。

および在

校の第四期生とやがて第五期生になるはずの「入伍数育生」であって、

同事曾創立の趣旨は、

「簡章」によれば、融和国結・切瑳琢磨し、総理の遺蝿を遵守して園民革命に努力する、

にある

とされる。

しかし員のねらいは、蒋介石自身がいみじくも語ったように、卒業生の「昇任降格

・轄任免職・結婚葬儀

・救

つまり、徹底的な人事管理、さらにいえば完全な人身支配のた

-132-

済補償などのすべてをきちんと管理する」ことにあった。

「筒章」には「曾務はすべて曾長

の命令に従う」とあるように、曾長はオlルマイティである。蒋がファシスト濁裁貫徹のためにこの機構をどれほど活用

(

)

したかについては、のちの回想が雄鼎に物語るところである。

(問〉

創立嘗初、同準舎の構成はこうだった。曾長に直属する秘書慮とそれに下属する線務

・組織・宣俸の三科があり、それ

めの機構で、

いわゆる同笛舎とはまったくその撰を殊にしたものなのであった。賓際、

らとは別に監察委員舎がもうけられた。あたかも政省市を思わせる配置であるが、舎長濁裁の貫徹を第一に考えるとそうな

らざるをえなかったのであろう。これら五部局の長が同率曾の最高幹部ポストであって、その任用には禽長が直接にあた

った。蒋

介石が幹部に登用したのは、秘書に曾擁情、監察委幹事に胡静庵、そして三科長に李正栢・楊引之

・余酒度、といっ

(刊日〉

た顔ぶれである。曾自身の回想によれば、自分は中立、胡

・楊は右波、余は共産議員である。曾が中立というのは、共産

禁系の大衆圏佳、青年軍人聯合舎の寝起人に名を連ねながら、左右の封立の激化とともに「共産業員の嫌疑をかけられる

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ことを恐れて」一該曾より股舎し、また右涯の孫文主義皐舎にも参加しなかった、というような意味においてである。胡は

蒋のもっともお気にいり、楊はほぼ一年後に、武漢のゥ討蒋大舎。で右汲としてひきまわされ、のちに慮刑された人物で

ある。宣

傍科長の余酒度が共産禁員であったことについては前簡でもふれた。

宣俸科には編輯・指導・塾術の三股があり、

『責埼潮』の刊行を携嘗した編輯股の股長鄭峻生は組織的には未詳ながら、思想的には共産禁と同じであり、鄭のあとを

(却)

ついだ鏡祭春ははっきりと共産黛員であったとレわれている。もちろん、かれらは非公然の身分で、蒋との関係のよいも

のであったろう。しかしこのとき蒋が、一方で黛務整理案とよばれる共産禁這いだしに着手していたことを考えるなら、

おそらくは共産業員と目されている人物を同皐舎の中心部にかれが配置したのには、それだけの一意味があったはずであ

る。換言すれば、そうせざるを得ない事情があったにちがいないのである。

その事情をきわめて簡単化していうなら、賀補軍校内における共産薫の力量、ということにつきる。糞堵軍校は、

-133ー

二四年六月一六日の開準記念式典で総理孫文が明言したように、園民議の革命軍をつくるために創立された陸軍軍官皐校

(

)

である。しかし、それは園民黛の皐校とはいえ、議代表制度の採用、政治部の設置、政治敬育の重視、さらには多数のソ

聯汲遣顧問の存在等、

ソ聯の影響をつよくうけていたのみならず、また、皐生募集から政治部活動に代表される日常活動

(

)

にいたるまで、中園共産禁の精力的な賞践に多くを負うものであった。つまり、軍校こそ園共合作のもっとも重要な具鐙

)

的果賞、といっても過言ではなかったのである。げんに、軍校出身者を主鐙とする黛軍は早くも二五年末には反射涯を卒

定して庚東を統一し、園民政府のためにゆるぎない基礎を確立したのだった。

園共合作による園民革命の準展は、いうまでもなく共産禁の護展、それも園民議にくらべてはるかに飛躍的な護展を内

包するものであった。いま議員数を指標にするなら、共産黛は一

二年七月の創立時に五十鈴開名、合作をきめた二三年六月

(

M

)

の三全大曾で四三二名だったのが、二六年五月には

一一、二五七名と急増する。そのうち庚東匡委の管轄下の黛員は四、

363

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364

ほぼ四割にあたる。その重要援酷である黄埼軍校の数値は詳かでないが、同準舎成立の翌日、六月

(

)

「そのうち

CP同志はいくら多くても二千人」といっている

二OO名というから、

二八日の演説で蒋介石が、軍校の皐生

・教職員計

一高齢人

が、これはおそらく過大な推計であろう。しかし、中隊の士官の一学がそうだつたとか、第一期生六四五人中の「八十飴

(

)

人」、また第四期生政治班四六

O人中の「九九人」が中共議員だったという数値もある。政治班での比率が高い

ことは容

易に珠想されるところだが、第一期生全睡でも一一一パーセント強なのだから、あるいは蒋の推計はかなり寅勢を反映した

ものだったかもしれない。

正確なところはわからないにしろ、軍校内の共産黛員の数はおそらく四桁に達したであろう。これはたいへんな量であ

るが、さらに重要なのはその質である。

「かれらは一人が十人分の働きをする」とは反針涯の誇大の鮮であるとしても、

「優秀な皐生はほとんど中共・共青にくわわった」

かならずしも晶展自の鮮と

-134-

というのは

首時「中共の威信は高く」、

(

ばかりはいえまい。優秀性は、寅行力

・園結力等もろもろの側面において瑳揮されたが、とりわけきわだっていたのは理

詳細・宣俸の方面であったにちがいなく、そうであればこそ、蒋も言うように「本黛のあらゆる宣俸機関・言論機関はすべ

(

)

てCP同志にまかせである」、という事態が一般的に見られたのであった。

賀補軍校内における共産黛勢力の概略はおよそ以上のようであったが、この共産黛の設展に封慮せんがためにこそ責埼

向島平舎は組織されたのである。

蒋介石の園民議における勢力の基盤は、黄埼軍校ならびにその出身者を母艦にした黛軍(のちの園民革命軍第一軍)にあっ

た。ある日の講話で「本校こそ本議の中心であり、かつまた本議の基礎であって、さらに言うなら全園の革命の所在でも

(mm〉

ある」とのべているが、これは蒋にとって掛値なしの本呈目だったにちがいない。賓際、園民黛内での蒋の地位は軍校の成

一九二六年一月の園民黛二全大舎では軍事報告をおこなうまでになり、さらに二月には

園民革命軍総監に任命されるにいたった。このとき、かれはそれを僻退するが、それは跳躍にさきだっ屈身なのであった。

長に比例していたといってよく、

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一九二五年三月に線理孫文が逝去すると、園民黛内の最高指導者の地位に、在兆銘・胡漢民・慶仲慢の三

E頭がつくこ

とになった。同年八月に慶が暗殺され、その事件慮理の過程で胡が暗殺加撞の嫌疑をうけて贋東を追われると、涯に樺力

が集中した。その結果、かれは中園園民糞中央政治委員曾主席・同軍事委員曾主席・同各寧線黛代表(軍校黛代表もふくま

れる)ならびに園民政府主席、と黛・軍・政の最高位を品兼任するにいたった。

しかしこの要職を濁占した在は、中山艦事

件を利用しての蒋の匪力に屈し、慶州を去るにいたる。在の離庚後、蒋は権力の掌握にかかるのだが、四月一六日

黛寧

事委員舎主席、六月五日

曾主席、とつづくのである。軍人部長は蒋のための新設ポストで、将領・黛代表の任兎擢をもつものだから、綿議代表を

上まわる権限があり、常委主席は庄の政委主席にほぼ見あうものといえよう。このようにして、園民黛の最高権力者とな

園民革命軍縮司令、同二九日

園民政府委員、七月五日

軍人部長、同六日

黛中央常務委員

ったのち、七月九日に蒋は「誓師北伐」の儀式をおこなって総司令に就任したのである。

園民革命軍は、

-135-

一月の二全大曾時には五軍編成、のち北伐開始時には八寧にまでふえる。蒋介石直系の第

一軍は「賀補

(

ω

)

の黛軍に、忠貧な庖勺軍をくわえたもの」と蒋自身がいうように、かれの虎の子部陵で、

寅際、第三期までの軍校卒業生の

(

)

全員を投入して育成につとめたものだった。第二軍以下は、湖南・雲南・庚東・康西等諸省の地方軍閥で、蒋介石に服従

するというよりは、北京中央政府をしめる北洋軍閥に封抗するために園民革命軍の陣営にくわわっているといってよいも

(mM〉

のなのである。軍純に歩兵数でもって買力をはかるなら、第一軍は一八圏(園は聯隊に相嘗する〉、それにたいし唐生智の第

八軍は二二圏、李宗仁の第七軍は一八圏、

他はそれぞれ八J一三国であって、

第一軍はほぼ六分の一をしめるにすぎな

ぃ。したがって肩書のにぎにぎしさとは別に、蒋の優位は相射的なものでしかなかったのであるが、孫文の園民議HH蹟東

政権の中極的位置をしめる第一軍の重要性が蒋を総司令におしあげたのである。

365

擢力の根本要素である軍事力を基本的に掌握した蒋介石にとって、さらに一歩をすすめて革命黛の権力者になるために

は、そのイデオロギーの代表者・盟現者になる必要があった。しかし、この面での素養に絞ける蒋は、孫文の後縫者・信

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366

徒としてその革命思想の解揮を濁占することによってしか、それを取りこむことはできなかった。つまり、孫文にたいし

て忠賓であるかに振舞いながら自己流の解穫を議員におしつけようというわけである。このような形でイデオロギーの掌

握者ともなったとき、蒋の濁裁は完成されるであろう。しかし、その目標に到達しようとすれば、共産主義者が障醍とな

るであろうから、

かれらは排除されねばならない。第一次園共合作は業内合作、すなわち共産黛員は個人として園民黛に

入業することによって二重黛籍をもっていた。いわゆる「跨議分子」であって、

かれらはふつう園民議員として日常活動

をおこなっていたのである。

共産黛員の排除を貫行するうえでの訪問介石にとっての困難は、園共合作こそ先綿理孫文のもっとも重要な革命のための

決定だったことである。孫文の信徒を稿するかぎり合作そのものを否定することはできない。蒋がとったのは、合作の看

板はかかげたままでの排除策であった。具践的には、跨黛議員を中心とする左汲と反共の右涯の封立・衝突を調停すると

の大義名分のもとに、二重黛籍をみとめぬことによって組織的な排除をはかったのである。ことは手近なところから着手

(

)

一九二五年二一月に黄埼寧校の特別黛部に提案された「圏結掛法」では、共産黛員の活動の公開と園民議員の共産

-136-

され

議入禁のさいの業部の許可の必要がいわれている。これは黛務整理案のはしりであるが、まずは共産黛の活動の輪廓を浮

びあがらせようとしたのである。翌年三月の中山艇事件後には、蒋の攻勢はさらに大脂になり、四月三日、「整軍粛黛、

(

)

北伐準備」の建議案がだされる。その

「軍政一意見」では、跨黛黛員に第一軍の軍官・黛代表のポストから退出するよう要

求した。園民議の革命理論は三民主義だから「共産主義および無政府主義分子」は不適任だというのである。第一軍内の

左右の封立はときに暴力事件をもひきおこしていたから、その解消をうたったこの提案を共産禁も結局うけいれた。退出

(

四月二

O日に蒋は第一軍を退出した共産議員を招宴している。そこでの演説で蒋は、一つの黛には一

いがいにない、と強調することにより、共産主義者を園民議から排除

は卒和一一泉に行われ、

つの主義だけでよく、園民議の領袖は線理(孫文〉

することの正嘗性を緯明したわけだが、もちろん合作そのものの否定にまで進むことはなかったのである。

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ついで五月一五日にはじまる園民篤二中全舎はほとんど蒋のお手盛にちかい舎だったのであって、共産黛員の活動を多

角的に制限する黛務整理案が跨黛議員の賛成もえて議決されるが、その後、六月七日の軍校での演説では、誤解の絵地な

ハお〉

く明白に、全共産議員が共産黛を退出して

「純粋の園民黛員」となるようよびかけた。すでに在兆銘を逃亡させるほどの

威力をそなえるにいたっていた蒋のことだから、その要求はおそらく強制にちかいものだったにちがいない。この前後、

共産禁員たることを選んで諸々の役職を退出したものが責堵軍校でご六

O徐人」、

(

)

となったのは三九人であった。

全鐙で二五

O飴人、

純粋の園民黛員

(

)

共産黛員の身分のまだ暴露されていないものが非公然の活動をつづけたことはいうまでもない。軍校での共産業の主た

(

)

る公然活動は、中園青年軍人聯合舎なる大衆圏穫を足場に展開されてきた。それは、

一九二五年二月一日に贋東の諸軍校

「工・農・皐・一商各界民衆と結びつく」との創立趣旨からもあきらかなように左涯の旗蛾

(

)

を鮮明にした圏穫であった。これに封抗するための右波の組織が孫文主義皐曾であるが、これでもって左涯の聯合舎を藍

(

4

)

倒しつくすというわけにはいかなかった。蒋介石が皐舎の後楯であったことはのちの回想の語るところであるが、表面的

には距離をおいていたはずである。共産黛を制限・排除するには外濠の大衆国鐙から取りつぶさねばならぬことをよく排

(

)

四月七日、軍校内の諸国鐙の解散命令を出すにいたる。軍校で校長命令に逆うことができるはずはなく、

ついで二

O日に孫文主義製舎が解散した。そのうえで、若干の準備期聞をおいて、六月

の横断的組織として結成され、

-137-

えていた蒋は、

一六日に中園青年軍人聯合舎が、

二七日に蒋介石を合同長とする全員加盟の黄埼同筆舎の護足となったのである。

北伐と黄捕の共産禁

367

賀補向島平舎をつくり北伐をはじめたころ、蒋介石は前述したように、共産黛を自分の掌握下におくべく黛レベルや大衆

園陸レベルでさまざまな方策をほどこしつつあったのである。それは、外面的には合作の形式を維持しながら、買質的に

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368

は共産禁を排除しようとするもので、以前の協調姿勢とのちのゥ清黛クにみられる粛清との中聞に位する、

だけの碍身。ともいうべき方策なのであった。

いわば今中寸分

寅際、蒋介石は嘗初、合作推準につとめる左涯として登場してきたのだった。

(MM〉

日の軍校園民黛特別黛部の選師事舎の演説では、園共雨黛の紛糾にふれて、「共産禁の同志を容納して園民黛に加入させ

た」のは線理の方針であるから、けっしてそれに背いてはならないとのベ、園民議のなかには「左汲と右汲の匿別」があ

一例をあげるなら、

一九二五年九月二ニ

るだけで、

「園民黛と共産黛の匡別」はあってはならないと強調している。もちろん蒋は、園民議の主義が三民主義であ

ること、園民黛員は三民主義を信奉して線理の信徒とならねばならないことをもあわせ述べてはいる。しかし、孫文がか

って吐いたとされる激越の僻

「もし園民黛の黛員が(合作に)反劃するのなら、わたしの方から共産業に加入しよう」と

の一句をわざわざ持ちだして「員正の革命同士山」である共産禁との合作をといているのだから、蒋が協調姿勢をとってい

-138ー

たことは否定さるべくもない。

しかし、園民黛と共産禁はやはり二つの黛であって三民主義と共産主義の理論にはちがいがある。その差異をこえてど

(

μ

)

うして雨黛は合作できるのか、著名な共産議員のひとり、俸代英の語るところはこうである。

惇は園民黛員で

CY(共産

主義青年園〉に入りたいとする青年の商者のちがいについての質問に答えて、園民黛員は帝園主義打倒を志ざす「園民革命

分子」、

CYはそれを一歩すすめて「階級闘争と農工事政」を主張する「無産階級革命戦士」、

ll園民薫は階級闘争・農

工専政をいわないだけで反射しないから、それを主張する

CYを「容納」できるのだ、とするのである。ここで

CYとし

て語られていることは嘗然に

CP(共産議〉にもあてはまる。このような認識がどれほど一般的だったのかは知らないが、

かの二中全曾閉幕式の演説の

(

)

なかでもまだ、無産階級の政黛である「共産禁が階級闘争を主張することに園民黛はかならずしも反射はしない」といっ

すくなくとも蒋が同様の認識を持っていたことは確買である。

たとえば二六年五月一一一一日、

ているからである。

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さて

蒋介石はあきらかに容共的な左涯としてふるまっていた。

(

)

「十月機大曾議」の決議案で「庚東の現在の政権は園民黛左涯の手中にある」といったとき、在兆銘を頂黙とする左

一九二五年秋のころには、

したがって共産禁の側で

も涯のなかにはっきり蒋をふくめていたのである。しかしその後、共産禁にたいして攻勢にのりだしたとき、蒋は自分が孫

(

U

)

文とちがう遁へと踏みだしたことを明白に認識していた。五月一一一一日の前引の演説のなかで、黛務整理案には「先総理の

在りし日の主張と異る黙」がいろいろあるが、それは時代と僚件のちがいがそうさせるので、線理もいまならこうされる

にちがいない、と言っているのは、まさに語るに落ちることだった。ただ蒋はさらに、整理案はあくまで紛糾解決のため

の組織上の措置にすぎず、革命の精神にかかわる「先線理の雨大政策

ll聯俄と容納共産分子」はけっして饗らない、と

ものべているのであって、看板として合作をかかげつ

e

つける姿勢をなおもたもちつキつけているのである。

ここで蒋介石が「先線理の南大政策」といっているのは、政治委員禽主席語延闘の演説をうけたものであるから、園民

薫の最高幹部のあいだで、のちの

。聯俄。

。聯共。にあたるものが孫文の重要な二大政策と考えられていたことがわか

る。ややのちに慶州市議部での演説で、蒋はまた「線理の南政策||第一一は俄園と聯合して一帝園主義に反抗すること、第

(川叩〉

二は共産伶子を容納して圏内軍閥に反抗すること」といっているところからみて、

-139ー

このよ

うな言い方がかなりク純粋の

園民黛員。のあいだにもひろまっていたとみてよいだろう。ここでいう「聯俄」とは、すぐあとにいう「世界革命の線司

令部」としてのコミンテルンとむすぶことであって、すでにソ聯人顧問の一部追い出しに着手していたにもかかわらず、

この黙で蒋はやはり先総理の決定をまもりとおすとの看板をかけつづけているのである。

一方、共産黛の側は中山艦事件から繁務整理案へと展開された蒋介石の攻勢にたいし、まともに針雁することはできな

(

かった。六月四日附の「中園園民黛中央にあてた書簡」に共産禁中央の日和見的針麿がよくあらわれているのだが、そこ

369

では黛務整理案を園民議の黛内問題だと

。理解。することによって、合作の縫績を懇望したのである。とすれば、蒋介石

のぷ十分だけの轄身タの策があたったわけだ。しかし攻勢はやはり現貧にかけられており、しかもしだいに激しさを増し

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370

(印〉

「七月旗大舎議」の決議案では、中山艦事件

・二中全

てくるとすれば、必然的にそれに封慮せざるをえなくなるだろう。

合同

・六七演説を二貫した共産議にたいする準攻」と明確に判断するにいたるのである。六七演説とは前にもすこしふれ

たが、

蒋が

「純粋な園民議員」になって総理の信徒たる自分に忠誠をつくすようもとめた黄埼軍校での演説である。そし

て「準攻」してくる蒋を、共産禁は「中開波」と規定し

「武装した中間汲」が廉東の政権をにぎっている、としたので

ある。

かつての左振はいまや中間涯とみなされるにいたった。攻勢をかけてきているのだから

J敵。のはずだが、合作の

封手なのだからク味方。でもある、というのが、この中開振規定の苦心のありどころだろうが、蒋のんふ十分だけの轄身タ

にみあうあいまいな規定だったといってよい。

蒋介石の政治的立場にたいしてこのように暖味な規定しかできなかったことに照躍して、

共産黛中央は

あろうこと

(

)

か、首面の政局の焦粘'である蒋を線司令としての北伐にたいして判断を放棄した。総書記の陳濁秀の個人署名論文はたし

-140ー

かに『機導』誌上に公表されたが、七月抜大曾議の諸決議でまったく北伐に言及されることがなかったという事賓のうち

に、このときの禁中央の混凱ぶりがよく反映されているだろう。陳論文は「投機的軍人政客」すなわち務介石の「個人的

権力欲」を云々することによって北伐反劃の一意見をうちだしたものである。これを要するに、北伐の必要性そのものは否

定できないとしても、蒋の権力強化、中間涯の勢力増大には賛成できない、ということになる。

嘗時、北伐はすでに園民的関心事になっていたから、陳濁秀の文章は即座におおきな波紋をひきおこした。北伐を薫議

として推進する園民黛では「中間汲や右傾左波の領袖蓮がみな不満をあらわにし」、質際に北伐をささえる黄捕箪校では、園

(

民議支部が中央に控訴し、あわせて一該誌の購讃を禁止した。圏民議中央は控訴を受理、常務曾議代理主席の張人傑が個人

として陳濁秀に反論するという形で針虚することになった。張は、北伐が「綿理の主張を貧現する第一歩」であり、北伐

の失敗は革命全躍の失敗となるであろうから、

「黛・園に忠」なるものとして陳の意見に反針せざるをえぬ、と明白にの

べたのだった。この張の一意見およびそれに前後して寄せられた符秀

・英世見・冥飛の手紙にたいして、陳は

一括して『務

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)

導』第一七一期で反論をくわえている。

陳溺秀らの上海の共産黛中央が北伐に反劃したのは、

かれら自身、軍事と政治の関係についての経験、理論に不足して

にもかかわらず、蒋の擢力強化により園民革命が共産黛の構想する革命とはことなる道を歩むように

)

なることにたいする危懐は正しいものだった。『繕導』第一七

O期にのせられた「贋東逼信」は、北伐が「軍事濁裁政治」

いたためであるが、

をもたらし、その結果、

「園民議の工農政策」をゆるがせていることを明瞭に報じている。

「人民の利盆」をそこない、

それを踏まえてのことであろう、陳は「中山先生の農工利益擁護・聯俄・聯共のこの革命政策」が北伐開始後ほぼくつが

えされてしまったとの認識に立って自設を堅持し、張人傑らに反論したのであった。

(

)

賀補同皐曾の機関誌『寅埼潮』が創刊されたのは七月二四日である。創刊読の激歩粛の文章で「北伐に努力する」こと

を明言していることから推せば、嘗初にはまだ北伐反封論の影響はなかったとみてよい。

しかし、なんといってもφ

死ク

371

のための戦闘を任務とする軍事皐校であり、北伐軍総司令を校長にいただいているのであるから、北伐をめぐる園共聞の

封立が即座に、それも他よりははるかに蛾烈な影響を軍校に及ぼしたことは確寅である。前掲の符秀・寅世見はともに軍

校第四期生、とりわけ責はかのごニ大政策。を-初めて活字にした臭善珍とおなじ経理大隊の皐生だったのである。中央の

最高指導者には北伐反劉論がひとつの撰揮の問題だったにしても寅捕の共産黛員にとっては北伐に従事する以外の遣はな

かったのだから、かれらはたいへんな困難に逢着したわけである。

(町山)

ところで、黄堵軍校の共産黛組織は、黄捕同開学舎創立のころには「特別支部」となっていた。黛勢の設展と軍校の改組

に割腹して、一九二六年三月中旬に、昇格させられたのである。書記は楊其綱、第一期生。軍校の改組とは、政治科の増

設等の改革にともなうもので、それをふまえて校名も陸軍軍官民平校から中央軍事政治皐校に愛えられた。政治科の増設に

ともない多数の著名な共産黛員が政治敬官として軍校にまねかれたため、責捕の共産黛の力量は突如として飛躍的に増大

したのだった。かくして責埼支部は特別支部とされ、さらに「賀補CP方面の最高指導機関」として「黄堵黛圏」が設置

-141ー

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372

されるにいたるのである。

(幻)

「七月抜大曾議」のある決議によれば

しか

議圏とはフラクシ司ンのことだが、

「業支部の組織・役割とはことなり、

じかの集圏のなかで、

黛の政策を貫現し、

また影響力を擦大するためにもっとも数果的な活動をするための指導機関であ

る。

「全鐙として黛の一意見を代表」せねばならないことは首然として、

一定の範圏内では行動方針をみずから決定できる

自主性をも有していたのである。嘗-初、業圏書記には、軍校政治部副主任の要職にあった熊雄があてられ、そのもとに幹

事として俸代英・安健誠・楊其綱が配された。俸・安はともにあらたに着任した政治敬官である。熊らの三人にくらべる

と楊の共産簾内での地位はかなりひくいが、黛固と支部をつなぐ役割として必要だったろう。五月に俸代英が省一…圏書記と

なった。俸は同じころ高語翠のあとをうけて政治主任教官にもなったから、

同皐曾創立のころにかれは表では軍校の要

人、裏では共産禁の賀補における「最高指導機関」の責任者になったわけである。

-142ー

賀補の共産黛員の大衆的な活動の場は、青年軍人聯合舎をうしなったあと、寅埼同盟平舎をおいてほかにはなかった。

(

かし、禽長濁裁のそこでの活動は、秘書の曾接情の語るところでは、

「組制到に校長の領導に服従する」以外にいかなるこ

ともで、きず、

「とりわけ共産主義の宣俸に従事することは許されなかった」のであって、

『貰堵潮』

を刊行する宣俸科な

どは「蒋介石ファシスト濁裁の宣俸工具」だったという。これは解放後の回想だから、

一面的な強調のすぎる言僻であろ

うが、その側面が主要であったことは肯なわれてよいだろう。このような燦件のもとで、陳濁秀の北伐反封論が出された

のだから、賀補の共産禁員の直面した困難は想像にあまりあるのだが、黛圏書記俸代英の指導はよく情況に劉躍したもの

(

)

「軍陵中での政治工作の方法」では、

でなかったかと思われる。

かれの九月一五日の演説、

一般の農工運動における宣停

と軍陵でのそれは別のものでなければならないこと、すなわち兵士を軍官に直接封立させて軍隊が瓦解するような宣俸を

してはならず、ときには「妥協」しつつ正しい主張を普及せねばならないことを、明確にのべているからである。

賀補の共産黛員は、

いかに嘗惑したにせよ、総書記の個人署名論文を擁護せねばならなかったはずである。その結果、

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右涯との衝突が暴力沙汰にまでいたったのは嘗然として、まじめな者ならだれしも共産黛を。背後から撃つ。内部の敵で

(

あるかにみたのだった。『賀補潮』第六期の西永の短文は、そのもってまわった陳濁秀擁護の論理のなかに、共産黛員の

おかれた苦境をうつしだしている。西永は、陳設の是非は雨涯の喧嘩によってではなく、輿論の審判にまかすべしとまず

逃げ、

さらに陳が故意に園民黛を攻撃してきでいるのなら、その計略にはまらぬよう劃手にならないのがよく、そうする

ことによりこの聯合戦線〈合作)をまもろう、

といっている。

とにもかくにも、

迫りくる風塵をかわそうとする苦心は明

らかであろう。

北伐問題で守勢に追いこまれた黄捕の共産黛員にとって攻勢への碍換貼はどこにもとめられねばならないのか。

『賀補

潮』誌をふくめて責捕では共産主義の宣俸は禁止されていたのだが、しかし共産黛のφ

正しい主張。の宣俸はせねばなら

ない。とすれば、北伐に従事しつつ、北伐が「軍人政客」の擢力欲をみたすためのものに堕することなく革命の員の一意味

での設展となるような宣俸をおこなうしかないだろう。しかもそれを三ニ民主義。の言葉で語らなければならないとすれ

ば、孫文の革命的な主義・政策のなかの共産黛の立場に合致するものを取りあげ、それを宣俸の重黙に据えることによっ

て局面の主導権を握ろうとする方針はだれかが考えつきそうなことではあった。

蒋介石はこのとき、なんども言ったように、イデオロギーとしては孫文の忠寅なる信徒を装っていた。園民黛の曾議で

(日〉

ははじめに「総理遺蝿」が朗請されたことからもわかるように、孫文の一言一句も園民黛においてはすべて金科玉僚だっ

たから、そうするしかなかったことも確かではあるのだが。

「遺甥」のなかでは、後段の嘗面の目標、すなわち園民舎議

の開催と不卒等僚拘の底棄がとりあげられることもあれば、前段の四十年来の革命経験の線括としての「民衆を喚起す

ハ臼)

る」と「世界でわれわれを針等に遇してくれる民族と聯合する」の二項が強調されることもよくみられた。

-143ー

。農工政策φ

が孫文ののこした重要な遺産であることは、嘗時にあってはほとんど自明ともいうべきことだったと思われるが、げんに

(

)

ある宣言で農工運動と責堵軍校とを総理の「雨大遺産」と言っていることのなかに、

373

。農工。の重要性とならベた軍校閲

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374

係者の自負をみることができるのである。とすれば「民衆を喚起する」がφ

農工政策。とむすびつけられるのに、どれほ

どの距離があったであろう。

「世界でわれわれを:::」の一句がゥ聯俄政策。であることも、説明を必要としなかったであろう。しかも、

「聯俄と

容納共産分子」が「先綿理の南大政策」であることは、蒋介石や語延闘も口にするほど耳に熟した言葉となっていたので

ムソ容共。のスローガンはもともとゥ聯俄ψ

の系として定着するにいたったと思われるのだが、蒋介石が共産黛員の

そして、

ある。

組織的排除にのりだしてきたいま、

園共合作は

とくに先総理の決定として強調する必要性はたかまっていた。

。容共φ

でもってはじまったにしても、このときには議務整理案によって雨黛の聯席曾議がもうけられたことに端的にみ

られるようにク聯共少といってもおかしくない現賓ができあがっていた。そのことを意識してのことかどうかは知らない

(

)

が、蒋介石も八月二五日の長沙での演説で、園民黛の設展のためには、圏内

・圏外の「革命同志」である

「共産禁および

蘇俄と聯絡して共同で奮闘すべし」と言っているのである。このようであったから

「線理の聯俄聯共政策::」のプラカ

-144ー

ードが軍校の演習に登場してもなんら違和感がなかったにちがいない。

」こまでくれば

ゥ聯共。を孫文の革命的政策の接心としてワンセ

「遺一明」の二大項にあてはめたφ

農工タと。聯俄ク

ットのものととらえようとするにいたるのは、

ほとんど必然の成行ではないだろうか。また蒋介石をひきだすが、前引の

長沙演説で、

かれは聯共

・聯俄の政策が一定の成功をおさめたことをいい、

つぞつけて改組いらい「民衆の利益」の面では

政綱どおりに貫行できていないことを遺憾におもうとのべているのである。すでに形成されていた。農工。と。聯俄。

。聯共タこそ孫文の革命的政策の該心であるとする漠然たる認識を、主睦的な攻勢のための武器として、

の革命の道へとむけさせるためのイデオロギー宣俸の最重要の環として利用しようとしたのが、

つまり北伐を員

『寅捕潮』の宣惇科とそ

の周濯で活動していた黄捕の共産禁員たちなのであった。宣俸のためには、概念の明確化が要求されるし、さらに魅力的

な新名調も考案されるのがのぞましい。かくして、寅捕の共産黛員の苦闘の成果としてゴニ大政策。なる新名詞が考案さ

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『黄捕潮』第一一期にそれに関する文一章が三篇も同時掲載されることになった、

と考えられるのである。

」ニ大政策。なる新名詞は、見られるように、園民革命の高揚とその鱒折を背景として一九二六年秋、資埼軍校の共産

議員たちによって考えだされたものであった。昨秋の討論禽提出論文では、蒋介石の同年春の共産黛にたいする攻勢にた

いする反攻として一一月の任卓宣(あるいは魯振群氏の指摘された陳濁秀のばあいでも事情は基本的におなじだが〉によるゥ三大政

策タスローガンの創出(または公開使用)を論じたのだが

そのさい北伐開始が蒋と共産黛の封抗関係にどう影をおとして

いまここに、蒋のもっとも重要な立脚基盤である賀補軍校を舞蓋とした黄堵同筆舎の成立

から、夏私にかけての北伐をからめた『責捕潮』誌上での共産議の宣停活動を跡づけることによって、事態の推移の節目

をより完全につなぎえた、と信ずる。

いるのかが気にはなっていた。

-145ー

ことはたかだか一つのスローガン的新名詞の創出にしかすぎないかのごとくであるが、園民黛また園民革命の指導権を

濁占しようとして、蒋介石が

。半分だけの轄身。をはかったとき、共産黛の側が孫文の革命的政策を嘗時の蒋も認めざる

をえない三つの内容に集約し、それらφ

聯俄。

。聯共dv

と。農工。

を一括するものとして案出した新名詞であったため、

ゴニ大政策少なるこの語は、

たんなる言葉の問題以上の歴史的意味をになうベく、その誕生のときから運命づけられてい

たといえる。

いま「嘗時の蒋」といったが、註のなかでも簡単にいくつかの貼を指摘しておいたように、賞際にのちの資料では「嘗

時の蒋」の員買の委がかなり入念に抹殺・改鼠されている(もちろん、大量の歴史事象のすべてを痕跡なくあらためることは不

可能なことだから、その作業が完全になされているわけではないのだが。〉。孫文の員の認識がどのようなものであったかは、また

Jニ大政策。の誕生にかかわる終介石の演説等の抹殺改鼠の事貫こそ、嘗時すなわち、すくな

375

べつの研究課題なのだが

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376

くとも一九二六年夏秋の頃にあってはん,聯俄。

。聯共。と。曲一周工。が孫文の革命的政策の根幹であると一般に考えられて

いたことを逆に照射しているのである。したがってク三大政策φ

を共産禁がかつてに創りだしたものとすることにより孫

文を自分たちの側にとりこもうとする園民黛の側の言い分は、園共合作の重要な一段にヴェールをかけることによってし

か成りたたないことになろう。

一方、孫文が革命的政策を採用した結果として園民集の改組・園共合作が開始されたのだから、

ゴ二大政策。なる新名

詞も園民議一全大曾いらい存在するものとして描きだすなら、それも歴史の複雑な過程を単純化し、

三ニ大政策。

なるス

?lガンそのものに凝集されている歴史創造のエネルギーを無視することになるだろう。果善珍がゴニ大政策少なる新名

詞を思いつくのにどれほどの思索をついやしたのかは分らないし、また分る必要もないことだが、蒋介石の濁裁下にある

賀補軍校また同皐禽においてそれも北伐をめぐって黛中央がまちがった方針をだしているという朕況のもとで、三民主

-146ー

義の言葉で共産主義の宣停をしなければならなか

った共産黛員の苦努のほどは思い半ばにすぎるものがあるのである。黄

(

W〉

捕の共産業員たちはりっぱにその任をはたしたのであるが、この忍耐力にささえられた創造性(それはかならずしも共産総員

だけのものと言うのではないて

換言すれば創造性にうらうちされた自己犠牲の精神、これこそが、下から園民革命をおしす

すめた原動力であり、

また「病める良心」を中園へと惹きつけた一核心だったのではないだろうか。

註略挽:《史料》:・・『賀補寧校史料』庚東人民出版枇

年。

《民日》

・:毛思誠縞『民園十五年以前之蒋介石先生』龍

門書庖一九六五年(影印)。

||リフの山々から中園へ』(卒凡社一九六四年)。

(

2

)

中華書局より刊行される討論禽論文集に牧録の激定。その

日本文は『中園研究月報』第四七七披掲載激定。

(3〉魯振鮮「一一一大政策研究中間幾箇問題」。陳の報告は『中共

中央文献選輯』

ω所枚。

(4〉『賀補潮』には黄捕軍校政治部機関誌の牢週刊と、それを

一九八二

1)

グィンセント

・シlン著、

一踊島正光誇『東方への私の放

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377

うけた同皐曾機関誌の週刊とがあるが、以下、とくに断らな

いかぎり、週刊を指す。週刊は七月二四日創刊、翌二七年一

月七日附の第二回・二五期合刊までは刊行が確認されてお

り、刊行は日附どおりだったようである。(第二、三、二

て二二、二三期は未見。)

(5〉陳以柿「賀補軍校大事記」〈『第一次園共合作時期的責捕軍

校』文史資料出版社一九八四年〉。以下、これに嬢るもの

は注記を略する。軍校の本部と祭生は、二四年末から翌年初

にかけて庚州北郊にうつり、責捕は敬導圏(のち熊軍)の官帯

住地となった〈「一年来本校政治部之概況」、『寅捕潮』牢週

刊第二四期〉。なお、二六年三月一日に校名は中央軍事政治

皐校と改められた。

(

6

)

「第四期肉祭姓名籍貫表」〈《史料》

五八

O頁)。以下、

《史

料》所枚同盟午録に銭るものは注記を省略する。

ハ7〉同皐舎の役職は「舎務報告」(『賀補潮』創刊続可以下、

これに嬢るものは注記を略す。共産黛員だったこと等は、曾

績情「賀補同製品閏始末」(『文史資料選輯』第一九輯、一七三

頁)。

(

8

)

王皐荘先生を介して得た庚東革命歴史博物館長繋額衡先生

の教示によれば、品附歩読は卒業時二

O哉、共産紫員、八一南

昌蜂起に参加、第二五師参謀彪長、二七年九月、庚東省三河

婿筆枝山にて融制死。王逸常の回想に、中共黛員「滋歩仁」が

あがっているが(《史料》

一一六頁)、おそらく同一人物であ

ろう。『賀補潮』第二四・二五期合刊の滋の文章から推せ

ば、のちに宣停科長になったようである。銭血の筆名をもち

いた文章もある。

(9〉「欧戦後園際政局的概観及今後革命之路」(第一三期〉。以

下、「際一該一宏様紀念隻十節」(第一二期〉、「園家主義波輿西山

曾議波之過去及現在」(第一四期〉、「十月革命後的蘇聯各階

級、世界輿中園革命運動」(第一五・一六期合刊)。

(

ω

)

第一

O期がすでに績編で、第九期から始るが、そこではと

くに注意すべき言及はない。

(日)「本曾慶賀第四期同皐畢業書」(第

一二期)。

〈ロ)「刊紙聯革命成功九週紀念日感想」(第一五

・一

六期合刊)。

(日〉「何謂園民熊左汲0・」(『轡導』第一一一一一期)。

(M〉「甚慶是園民黛左右波」(『轡導』第一一一一七期)。なお、三

大政策と

一全大曾宣言の関係については、寅彦「関子園民黛

大。宣言的幾箇問題」(一九八六年討論曾提出論文、の

ち『中園祉品目科皐』線第四六期〉に多くを教えられた。

(日)関翠

「責靖同皐曾成立経過」(《史料》

三八五

l九O頁、

『賀補潮』の原題は「曾務報告」〉。以下、創立事情を同文お

よび「簡章」(同三八二|五頁〉によるばあいは、注記を省

略。

(日〉「統計表」(《史料》九三頁)によれば各期の卒業生教は以

下のとおり。

第一期〈一九二四年一一月卒業)六四五名

第二期〈

一九二五年九月卒業

)

第三期(一九二六年一月卒業〉て二三三名

第四期(一九二六年三月入皐)二、六五四名

第五期(入伍数育生、本科入皐は二六年一一月)

-147ー

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378

二、四一八名

本科の在皐期閲は牢年、

務科の入伍数育期聞は、第三期以前

が一カ月、

第四期以後が六カ月である(草異之

「賀補建軍」、

『文史資料選輯』

第二輯五頁)。

なお、第四期から急増す

るのは、庚東の諸軍官皐校を統合したためである(《民同》

一九二六年三月八日篠〉。

(ロ〉たとえば、責務「古典捕厚生的政治組織及其演幾」(『文史資

料選輯』第

二輯〉。

(四〉註江川所掲の《史料》牧録にあたり削除されているが、関撃

の報告原文には機構図が含まれており、それには秘書庭が一一一

科を統括するよう図示されている。

〈川口)註7所掲曾擁情回憶。

のちの記述では曾を右汲とするもの

が多いが、蒋の信頼を得ながら、まるまるの右汲でないとい

う意味での中立的立場とみておくのがよいと思う。李正絡に

ついてはよくは分らない。曾は誤って総務科長を李歎庵とす

るが、

験庵は湖南長沙人、正絡は河南銀卒人(ともに第一

生)で別人である。ただ、曾もいう中山艇事件後の李歎庵の

共産黛脱退は蒋の反共攻勢の願者な成果だと一般に受けとめ

られたようだから(《史料》三五五頁、『包恩借回憶銭』人民

出版社一九八三年二三四頁)、同製曾成立時の右傾風潮

が間違った記憶のなかによく反映されているともいえるので

ある。胡については、方鼎英「賀補軍校

4

清熊。

回憶」(『文

史資料選輯』第六

O純二ハ一頁)。楊については、『革命人

物誌』第九集。

(mω)

鏡に

ついては王迩常の回憶

(《史料》

一一占ハ頁)。鄭につい

ては『賀補潮』誌の文章で階級闘争にふれる態度などからの

推測である。

〈幻)《史料》四七頁。第一期生の入皐は五月五日だが、二年前

の陳桐明叛飢の日を選んでの開暴式典に黛の軍隊にたいする

孫文の思いをみることができる。

(辺〉郭

一議回憶(《史料》三七頁〉、王逸常国憶(同一八

O頁〉

等。また、日本の研究としては、竹内寅「現代中園への観角

|

|策捕軍官間学校のこと||」(『思想』第六三五

・六三六

貌〉、および三石善吉

「黄繍軍校の設立過程とソ連」(『中哲

文撃曾報』第六貌)、「賀補軍校の創立」(『筑波法政』第五

七鋭〉等が詳しくその閲の事情を論じている。

(お)軍絞生主陸の数導闘が鶏軍に改められたのは一九二五年七

月である(《史料》一七九頁〉。庚東統一のための軍功は、二

四年一

O月の一商園事件、二五年二月の第

一次東征、六月の楊

希関

・劉震蜜銀座、

一O月の第二次東征の勝利が主なもので

ある。

(

M

)

『中共中央政治報告選輯』(中共中央黛校出版社一九八

一年〉八四頁。

(お)「総理紀念遡訓詞」

(『務校長演議集』、存悲摩社編『蒋総

統言論繋編』外録第二集所枚版、

一四五頁。また《史料》

一一一

七一頁〉。

(

M

A

)

註凶所掲車異之回憶一一、九頁。

(幻〉

《民日》一九二六年四月二

O日僚、同前車異之回憶九頁。

(お)

註おに同じ(一四六頁)。

《史料》

一一一七一

一具。

(mm)

《民間M

一九二六年一月二ハ日係。以下の蒋の職任はとく

-148ー

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379

に注記しないかぎり《民日》に援る。

(mω)

蒋の「軍事報告」のなかの語(《民日》一九二六年一月六

日係)。第二軍以下は、語延閣の湘軍、朱培徳の濃軍、李済

深の男軍、李一漏林の一幅箪〈闘す軍の一汲)と五軍編成(向上〉。

のち一月二

O日に程潜の援都軍が第六軍、三月二四日に李宗

仁の桟軍が第七軍、六月三日に唐生智の湘軍が第八軍に編成

され、「誓師北伐時」には全八軍となっている公民日》各

月日係〉。

(幻)註%に向じ(八二頁〉。第四期以降は在庚東の諸軍校をも

統合したため、第一軍だけとはいかなくなった。

(幻)「園民革命軍北伐出師前兵力番鋭指揮官姓名表・一九一一六

年五月調」(園防部史政局編

『北伐簡史』正中書局一九七

O年第三章挿表第一二〉。

(お)《民日》一九二五年一二月八日僚。

(斜〉《民民》一九二六年四月三日係。

〈お)《民日》一九二六年四月一四日・二

O日係。

(お)「六月七日総理紀念週訓話」(『蒋校長演議集』九九頁〉、

《史料》

三七七|八頁。

(幻〉註3所掲陳濁秀報告。周恩来「関於一九二四至二六年黛針

園民黛的関係」〈『周恩来選集』上巻人民出版社一九八

O

年三二頁〉。周の文章では、退出者の代表に蒋先雲、園

民燃となったものとして李歎庵があげられている。もって李

が重要な鱒向者とみなされていたことが分るのだが、はじ

め、共産黛の方針として李は図民熊籍をえらぶよう決められ

た、と包悪僧はいう(註印所掲回憶二三四頁〉。

(叩叫〉軍異之「回憶賀補」(『第一次園共合作時期的賀補軍校』一一

七七頁〉、健闘来傑「回憶中共黛組織在賀補軍校的活動情況」

(『庚東文史資料』第三七斡一五頁〉。

(鈎〉「中園青年軍人聯合曾成立大曾記」(《史料》一二三二頁〉。

(ω〉庚州の孫文主義拳曾は

一九二五年一一一月二九日に創立式典

を掌行したが(《史料》三一一一八頁)、先行の中山主義皐舎をふ

くめて、四月二四日創立、とするのが普通である。

(HU

〉たとえば註ロ所掲黄薙回想。

ハ必〉「取消黛内小組織校令」(《史料》三四六頁)。

(必)「校長在本校特別黛部第三居執行委員選翠大曾演説詞」

(『糞捕叢書』園民革命軍総司令部軍需庭一九二七年六月

刊、所枚『核開校長東征訓話集』一四四五頁〉。訓話集は一

九二五年一一一月一四日の刊公民

mg。なお、のちの『賀補

訓練集』(奥附なし〉にもこの演説は牧録されているが、わ

たしの引用部分をふくめて削除修正部分が多いので、注意を

要する。

ハ必)

「宏様可以加入C.Y||答復

一箇表示願意加入C.

Y的園民黛員」(『中園青年』第一

O六期、一九二五年一二

月一九日)。

(必〉『蒋校長演講集』八四頁。この部分は《民日》では削除さ

れている。

(必〉「中園現時的政局輿共産黛的職任議決案」(『中園共産黛資

料集』

2

動車書房

一九七一年二八頁〉。

〈円引)『蒋校長演講集』八一頁、《民間山》

一九一一六年五月一一一一日

候。

-149-

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(泊四〉『務校長演講集』一一一頁。コミンテルンを世界革命の線

司令部といった部分はのちの削除がもっともきびしい部分の

一であろう。

(必)「中園共産熊致中園園民熊書」(『鱒導』第一五七期)。

(印)「中園共産黛輿園民爆関係問題議決案」(『六大以前』人民

出版社一九八

O年五九五六頁〉。中開波はまた「新右

波」とも言われている。

(日)「論園民政府之北伐」(『鱒導』第二ハ一期)。このころは

庚州刊行の奥附。

(臼〉「中央局報告(一九二六年九月三

O日)」(『中共中央政治

報告選綿』七九l八O頁〉。北伐に出裂した時間は八月一一一一一日

に讃んで翌日に反封意見を電報でうったという公民日》)。

(日〉「譲者之韓」(『時刻』第一七一期、九月二

O日)。

(臼)叔堅「北伐設中庚東之政治吠況」(『抑制導』第一七

O期)。

(日)「黄埼畢生態注意之事」(『賀補潮』創刊挽〉。

(回〉劉天「中共黄捕特別支部的起源奥田技展」(《史料》一一八|

二一頁〉。ただし、改組時期は註5所掲大事記、俸の議図書

記就任は『慌代英文集』下〈人民出版社一九八四年)所牧

「生卒年表」による。また俸のまえの政治主任数官が高語四十

だったことは《民日》四月二

O日僚。

(閉山)「組織問題議決案」(『六大以前』六

O三|四頁〉。

〈回)註7所掲曾嫌情回憶(一七三・一八三頁〉。

(印)『輝代英文集』下八五二|一一一頁。ここで撚中央と貨捕支

部の中聞にある廉東区委の情況について簡翠にふれておく

と、やはり現寅への劉際にせまられて、かならずしも中央ベつ

たりとはいかなかったようである。医委宣停部長の張太雷は、

首初、北伐を基本的に擁護した(「此衣庚東出師之意義」、

『人民週刊』第一六期)。のちには北伐に内包される問題黙

についての「濁秀的一意見是割問」〈同第一八期)なる文章を

著して陳を支持したが、それは北伐反針を正面から唱えるも

のではなかった。ほかにもこの種のことはいろいろあったに

ちがいなく、康東区委は「中央の意見にいつも懐疑問な態度

をとり、積極的に採用しようとせね」と中央から批剣されて

いる(『中共中央政治報告選輯』一一一一一頁)。と同時に、農東

区委の蒋介石にたいする態度も張太雷と蒋の臨応援にみられる

ように妥協同であったようだ(太雷「到底要不要図民議」、

『人民週刊』第一四期/蒋註お所掲演説/雷「関於蒋介石同

志針。要不要因民議ψ

誤曾之解欝」、『人民週刊』第一八期〉。

(

ω

)

「議了陳濁秀先生『論園民政府之北伐』文以後我何際取之

態度」(『黄堵潮』第六期)。

(

N

U

)

たとえば、『黄捕潮』第四期の「品目務報告」等。その宗教

的儀式にもたぐいするやりかたを程私自が強く批判列したこと

は、昨秋の孫中山討論曾での陳銭建氏の文章「嬰秋白輿孫中

山及三民主義皐説」にみえるハ一

O頁)。

(臼)『責埼潮』誌上の滋歩情酬の文章で各一例をあげておけば、

「義和困輿現時革命運動」(第八期〉、「攻下武漢以後的政局

輿我何工作的標準」(第一

O期)。一九二五年五月二四日附の

「中園園民黛中央執行委員第三次全僅曾議接受総理遺個別宣

言」(『革命文献』第一一輯二六五頁)では、「吾人努力の

第一種序」として園民舎議開催と不卒等傑約撤廃がいわれて

-150ー

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いるが、おそらく嘗初にはそれら後段の目標が強調され、の

ちしだいに前段の線括の二項も強調されるようになったので

はないかと思われる。

(臼〉「本曾制到外重要宣言」(『賀補潮』第六期)。

(悦)「蒋総司令之政治黛務報告」(『賀補潮』第一一一一期〉。これ

は《民日》に不枚。務が留守の関、秘書の曾がよくその耳目

の役割をはたした(註7所掲回憶一七四頁)。

(筋)ここで一つ注意しておきたいのは、「責捕の校刊は海内外

に風行し、夜行部敏は三官内徐部に達した」(方鼎英前掲回憶、

一五七頁〉と言われ、また『賀補潮』誌約

一高徐部の八割が

賀補以外で頒布されていた(『賀補潮』第二四

・二五期合刊、

381

九五頁以下〉にもかかわらず、陳濁秀・任卓宣が責補外で

ゴニ大政策。の語を用いてからのち、また数箇月のあいだ

コニ箇革命政策」等の語が混用される

一時期を経過する(註

2所掲拙文参照)。個盟諸抗生は系統愛生をくりかえすのであ

ろうが、やはり糞埼軍校は祉倉一般からかなり隔離された存

在であったこともうかがえるのである。

『責埼潮』の入手にあたっては、王皐妊、林家有、寅彦等

の諸先生の援助を得た。記して敬しんで謝意を表すしだいで

ある。

-151ー

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lead powerful forces in the area between Jiangnan (江南) and Guanzhong

 

(開中) and they became a threat to the Tang government。

   

From the end of the reign of Dai-zong to the “restoration period”

of χian-20ng, one of the major currents of politicalhistory was how the

Tang

 

court forced these Military Commissioners to submit to central

control. The process can perhaps be described as follows: i)A Military

Commissioner who fomented rebellion was subjugated, ii) New Military

Commissioners were dispatched from the central government; and iii)

The old defense command was partitioned into several new ones, iv)

Any remaining forces of the old Military Commissioner were destroyed

by the new Military Commissioners。

   

By the beginning of the ninth century, the subjugation of the various

defense

 

commands

 

of

 

Henan

 

was

 

complete.

  

The

 

circumstances

 

of

“Rampant De丘anceof Military Men”that Naito Konan pointed to as

bringing about the collapse of the Tang dynasty had disappeared in

Henan. I would suggest that this was one of the reasons why the Tang

dynasty was able to survive for another 150 years after the An Lushan

rebellion.

THE “THREE CARDINAL POLICIES”AND THE

         

WHAMPOA ACADEMY

Hazama Naoki

   

“The Three Cardinal Policies”is the name given to the three poli・

cies of“Alliance with Soviet Russia,”“Co-operationwith the Communist

Party,”and“Assistanceto the Workers and Peasants,”that were linked

to an interpretationof Sun Yat-sen's New Three Principles of the People.

This was the new slogan that the Communist Party members in the

Whampoa

 

Academy thought up in the summer of 1926 against the

background of promoting the Nationalist Revolution. Indeed, thisacademy

itself゛asthe place where the contradictions betweenthe Kuomintang

and the Communist Party under the United Frontwere the most severe,

and in order to counteract Chiang Kai-shek's anti-Communist policies。

                    

-4-

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the CCP members of the Whampoa Academy arranged Sun Yat-sen's

revolutionary policiesinto three items that Chiang himself could not help

but acknowledge and called them the“Three Cardinal Policies.”

  

That is to say, this new name was a historicterm that was produced

by the Nationalist Revolution itself that came greatly to influence later

history.

 

Therefore, it is a mistake to say that it was unrelated to the

thought of Sun Yat-sen. Moreover, itis probably not accurate to regard

the policy as having eχistedbefore the beginning of the United Front

period.

PHAN BOl chau's LAST DAYS IN JAPAN ―The Final

  

stage of the Vietnamese Visit-to-the-EastMovement

         

of the Early 20th Century

Shiraishi Masaya

  

This is a part of a series of my papers concerning the final stage

of the Vietnamese students' movement in Japan in the early 20th century.

In this paper, I intend to analyze the following points,using Japanese

and French o伍cialdocuments as well as Vietnamese memoirs: (1)how

the French authorities discovered that Phan Boi Chau was staying in

Tokyo;(2)whatand how the French required of the Japanese govern-

ment concerning him; (3)how the Japanese responded to it; and (4)

what attitudes Phan Boi Chau showed against the Japanese and the

French authorities.