Title 秦漢代手工業の展開 : 秦漢代工官の變遷から考 …...&トリ£局、。ル...

34
Title 秦漢代手工業の展開 : 秦漢代工官の變遷から考える Author(s) 山田, 勝芳 Citation 東洋史研究 (1998), 56(4): 701-732 Issue Date 1998-03-31 URL https://doi.org/10.14989/155163 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 秦漢代手工業の展開 : 秦漢代工官の變遷から考える

Author(s) 山田, 勝芳

Citation 東洋史研究 (1998), 56(4): 701-732

Issue Date 1998-03-31

URL https://doi.org/10.14989/155163

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

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&トリ£局、。ル

第五十六巻

|

|秦漢代工官の饗遷から考えるi

1

秦代の工

・工室関係法規定と労働編制

秦代の諸

工室

秦統一期の工室と手工業

前漢代の中央工官

前漢代の地方工官

後漢時代の工官と官営手工業の獲化

結論

中園古代手工業の衰退

t土

字01

秦漢時代の手工業、

ι

とりわけ青銅器銘文や陶器銘文等から知られる官営手工業、

第四挽

卒成十年三月設行

- 1一

あるいは市官の監督下にあったとみら

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7回

れる工房等に関係する諸史料の増加は、この時代の官営手工業の諸側面をかなり明らかにした。さらに、睡虎地秦墓竹筒

の秦代工官・工人閥係法律文は、具瞳的な工官運営・製品規格・努働ノル

マ・営働編制・

チェック償制等を明らかに

fこ

また工官に関係する官印

・封泥等の史料も多い。

」のような全般的史料の増加は

『漢書』巻一

九上、

百官公卿表

上、及び『続漢書』百官志から知られた各種工官の設置朕況についても、新たな視角から検討することを可能にしつつあ

る。官営手工業は君主御用の諸器物

・武器等の生産と、軍事園家睦制を維持するための大量の武器生産を主目的とした。各

種民間手工業者が戦園時代以降増加し、都市を中心として生産活動を展開していたが、絶えずこの官営手工業との関連で

考えねばならない。なぜなら軍事櫨制維持のために強制的に多様な形態で工匠が官営工業に吸牧されている時期と、それ

が緩和された時期とでは自ずから民間手工業の在り方も異なってくるからである。さらに、

この官経由と民間との闘わりと

- 2 ー

その展開についての追究は、必然的に手工業全般の大きな時代的援遜の考察を要請し、中園古代一商工業の襲動という極め

て大きな研究課題にも関わるのである。

(1〉

秦漢時代の官営手工業の制捜遜を制度史的に検討し、

本稿においては

それによってこれらの課題をも追究したい。

ぉ、ここでいう工官は官営手工業全般を念頭に置きつつも、

より狭く器物

・武器製作を措賞した諸官を指して

いる。

秦代の工・工室閥係法規定と鉱労働編制

(

2

)

先に雲夢睡虎地秦墓竹簡から知られる秦代の工官・市官・田官について論じたが、そこでの工官に闘する結論をまず述

べておくと以下のようになる。

中央

・地方の器物・武器等製作携嘗官署の多くは

「工室」を正式名稽とし、漢代には正式名稽となる「工官」は、

ある

いは工捻首官署という意味の俗稀として秦代から使われていた可能性がある。三五日とは異なり、秦の庫は武器の牧臓のみ

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せいぜいそれを修繕する工が配置されているに過ぎず、基本的に内史や郡に直属した工室と懸とは切り離されて

いたところに特色があった。工室の長官は工師であり、その下に丞以下の官吏と工の班長とでもいうべき曹長、及び工が

配置され、丞相や郡守の命書によって作造していた。工室はそれが置かれていた蘇名を冠して某懸工室、略して「鯨工」

とも呼ばれることがあり、機陽雄一寸の要鯨では右・左の二工室が置かれることがあった。

これとは別に秦・前漢時代の貨幣史を論じた際に、秦代の工官について、「先進地域の三菅地域とは異なり、秦は経済

的に遅れていた分、園家が主導権をとって各種武器・器物の製造を行わざるをえず、そこに中央・地方に工室を数多く設

3〉

置した理由があった。」という理解を示した。

を行い、

本節においては工・工室開係法規定と献労働編制を、次節では工室の設置朕況をそれぞれ問題とし、同時に右の理解につ

いても必要に慮じて確認・補充をしておきたい。

睡虎地秦墓竹簡では、

「作務」とある関市律一僚、

工律が六僚、

(七

O七筒、

(4〉

一七

O頁)

- 3 ー

と同じ意味の工人程三僚、均工律二篠、

長」が見える一俊、

「工の人程」即ち「作務員程」

「隠官工」が見える軍爵律一保、及び秦律雑抄の「省」

「牒工」等が見える一僚、工による「斡」の選揮に闘する一俊、等が直接関係する規定であ

る。主としてこれらの法規定から知られる事柄をあげると以下のようになる。

「工隷臣」

「工師」

「酋日

「命書L

(

5

)

秦代、法律用語で、器物・武器製作を措嘗する工人は「工」と、手工業及び手工業者は「作務」とそれぞれ呼ばれた。

民間手工業者は、関市律(一六四筒、四一了四三頁)により、その販買については市吏に申告することが義務づけられ、木

「市」紘一寸と熔印された高紐漆器の存在から考えて、器物製作段階で市吏のチェックを受けることもあったとみ

胎に「亭」

(

6

)

られる。

703

中央・地方各工室配属の工は、工名籍に-記載され、その名籍では

「新工」・「故工」

なされ、それぞれの教育期聞は新工が二年、故工が一年であった。またこの教育期間でも一定の製作ノルマ達成が求めら

(かつて工であった者〉という匡分も

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704

(

7

)

れたし、速やかに技術をマスターして期聞を短縮すれば恩賞を受け、逆の場合はその名を内史に報告された。この工名籍

の中央の管轄機聞は内史であった(均工律。

一七八・一七九簡。四六頁)。

秦は武器や器物製作のために工の確保に努めており、隷臣妾

・城旦等の刑徒でも工の技能のある者については

「工隷

臣」等とした(均工律。

一八

O街。四六1

四七頁。

秦律雑抄。三四六|三四八簡。八四頁)。

彼等についてはたとえ本人ないし親

また「隠官工」もある(軍爵律。一一二三筒。五

族、が軍功爵を得て「庶人」になっても、

やはり工であることを求められた。

五・1

五六頁U

(

8

)

されたのと同様に、時制等の肉瞳損傷を被った者を「おもて」に出さずに各種器物製作に従事させたものである。

これは

秦王政元年(前二四六)の十二月に起きた事件で鯨城旦刑とされた楽人が

「隠官」

(築工・繁人)と

このような出自を有する工は、同一器物・武器については大小等にういて同一規格で製作することを求められた(工律。

これは耕戦の民動員においでほぼ同一の訓練を行い、

〔功)

格を有する大量の武器が必要であったからである。また「歳紅」

一六五節。四コ一頁)。

同一の装備を支給しようとするとき、

一定の規

- 4ー

(年閲製作ノルマ)が決められ(均工律)

製作した器物に

ついては「省」

(量と質の検査〉を受けることになっていた。各曹の省で「臆」(評債最下)とされると曹長と工はそれぞれ

「盾L

「絡」の罰金刑を受けたハ秦律雑抄。三四五三四九簡。八三・八四頁)。また秦律雑抄の

「采山」の規定に績いて

ルマ未達成あるいは検査前の紛失について曹長が罰金刑を受ける規定があるが(三五

0・三五一簡。八四l八五頁)、

これは

この前後にある「采山」あるいは「大官」・「右・左府」・「采織」だけに関係するものではなく、

工全般に関わる規定であ

ったと推測する。

工が配属された中央・地方の各工室には、

昭王二五年(前二八二)紀

(

9

)

工師とともに丞の記載があるので昭王代のある時期に機構整備が行われたとする。

長官の工師以下が置かれていた。

江村治樹氏は、

年の上郡文以降、

「丞」は畜夫の補佐

たる「佐」等とは異なる各官臆・官署の次官である。官僚機構における同一役職名は、その官麗・官署聞に上下のランク

があっても機能的にはほぼ同様であったと理解される。従って、秦ではこの時期に工室について工師を長官として機構整

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備を行い、他の牒や各官署と同様な次官としての丞を配置したと考えられる。本来工匠の長を意味した「大匠』が秦代に

将作少府の官となり前漢代に賂作大匠の長官となるような展開を遂げたのと同様に、秦の工師は「工の親方」的な本来の

意味から工室の長官という官名への護展を遂げた。

工師・丞の下に吏が配置され、器物生産に関わらない、官署の一般的事務を捲嘗した。そのため吏は工師・丞及び曹長

(

)

と工というラインとは異なって工室が新設されたとき以外、省殴による罰を受けていない。漢代の工官では、器物製作工

は「造」、主任の吏(「主者」)は「主」、

主に長官・次官がなる省官は「省」と記した。

これに比べるならば、秦代では宇

工半吏的曹長がいわば

「主」

の役割を帯びていた。

これは、

工師|工大人(のち曹長)|工という古い工房組織以来の、

工人中心的組織原理が濃厚に蔑されていたためである。工師もそのような性格のため「省」される立場であった。従って

「省」の役割は上級官醸の内史ないし郡であったものと思われる。工師は、牒令が牒沓夫・大昔夫とも呼ばれたと同様に

(秦律雑抄。三四六1

三四八街。八四頁〉とも呼ばれたと考えられ、省規定から知られるように各年度の器物

製作のノルマ達成・品質管理、更には工の教育に責任を負った。また工名籍を所属する内史ないし郡に上呈し、上計の際

「(工室)畜夫」

- 5 ー

には細かく器物ごとに支出帳簿を別にすることが求められた(工律。

二ハ六簡。四三頁)。

また工は鯨等の各官署にも器物製作あるいは修繕のために若干配属されていたとみられ、庫配胃腸の修繕工は武器製作を

行うこともあった。従って、郡の武庫配置の工についても同様のことが考えられる。その外、荷駄運搬用の大車の製作も

木工及び陶工が配置されていたようであるが、刑徒

行った土木工事捲嘗の司空には(司空律。二一四|一二六筒。四九頁)、

工の比重が高かったものと思われる。

及び工とともに各種器物・武器製作、

(

)

性別によって決められたノルマ規定が工人程であ司た。また均の理念に基づいて工の第働を均にするために均工律が作ら

工室や各官に配置されている工、

(

)

織布・縫製等に従事した者の身長(年齢)及び

705

れた。

工律はその残された篠文からみて器物製作とその上計、製作諸器物の取扱規定といえるが、秦律雑抄の工室・工開

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706

係規定が工律の文であるとすれば、

工律は「官営工房と工、及び

器物製作・取扱に関する律」となる。また工律では官有器物取扱における刻久

・漆書による所藤機関の明示が強く求めら

それは官営工房と官所属工とに闘する内容であるから、

れていた。

これらの工関係諸規定から浮かび上がってくるのは、秦の軍園主義的韓制の下、武器

・軍服等の生産を第一義的に求め

られた工室や諸工房の在り方である。またそこに従事する工

・刑徒工

・刑徒

・箔役被徴護者等の第働編制である。

工室は鯨城等の都市に置かれていたとみられ、銅山で採掘され精錬された銅等の原料によって青銅武器

・器物の生産に

嘗ったが、文

・戟等はま円銅の刃部だけでは武器としての役目を果たさず、木幹を作って銅文等と接合させる必要があるの

で木工・

漆工も配置されていた。その木幹にも製作した工室・

工人名等が刻重・漆書されていたはずであり、このことが

残存青銅武器の全てに銘があるわけではない理由の一つになると思われる。これら以外にも鍛製武器製造専門の工人等も

必要であった。

- 6ー

このような多種類の工を抱えておく必要が各工室にはあった。これらの工については工官所属の工だけでなく、

(

)

長」から窺われる径役による民間工匠の徴設も考えられるし、また「工隷臣」

「工更

と考えられる。

この工室所属工匠の中にも恵文王

「四年」

「工城互」「工鬼薪」等刑徒工も多かった

(

M

)

(後元四年だとすれば前三二一

〉銘や秦王政二一年(前一一一一六)銘

(『文物』一九六六|一)

に上造(第二級〉の有爵者が知られる。

このことは工室所属の工匠たちの身分とも関わる問題であ

り、彼らは基本的に爵位を持ち得る者として認められており、決して工室の隷属民ではなかったということを意味する。

軍園的瞳制維持のために工室に労働力を集中して武器生産を行った秦は、右の民間工匠や工名籍に附けられた工隷臣等

の刑徒だけではなく、多くの刑徒たちを皐純傍働に従事させた。熟練技術を要する部分の他に、運搬、

フイゴを動かす者

等の多様な皐純努働力を必要としていたからである。また各豚の司空の下には、

していたはずであり、

その職務上、麻内の大多数の刑徒が所属

この司空(沓夫)の下の刑徒こそが工室の刑徒第働力の供給元であった。

更に「下吏」

(工人程。

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七五街。四五頁〉という言葉から推測されるように、労役によって責(負債)・貸〈罰金)・噴罪を償おうとする居作者もあ

り、これも使われることがあアたであろう。女子の場合は、

工室に必ずしも限定されず、むしろ鯨の官府等での仕事の方

が多かったであろうが、軍服縫製や武器に必要な紐類の生産に嘗ることもあアたであろう。このような傍役は、非常事態

〈間以)

の場合は更に「小」の「可使」年齢までに嬢大されることがあったものとみられる。

工室の第働力の多くは工室が所在する鯨に大き

く依存していたのである。そこに蘇の長官である鯨令が工室についても一定の開興をすることになり、とりわけ工室設置

(

)

初年度については秦律雑抄に見られたように大きな責任を負ったのである。

秦の工室で注意しなければならないのは、工室は工の教育機関でもあったが、絶えず新たな教育を要する工が入ってく

るという前提にたっており、技術俸授においてオープンな形が主で、俸授面で特定の家柄は考慮されていないということ

である。これは同一規格の武器等の大量生産を貧現するために都合がよいシステムであり、工の子だけが工になるのでは

このように、得役従事者や豚司空の刑徒のみならず居作者等も含めて、

- 7ー

なく、ある程度技術を習得できそうな者は工にされたということができる。

秦代の諸工室

職圏各園は総力戦を展開するために様々な形態の官管工房を設置し、また君主の宮廷生活のために採算を度外視した器

物製作も行った。主としてこの二つの要因が関連しあって戦園時代の官管工房は量的・質的な護展をみた。諸園の府・庫

(

系統工房については佐原康夫氏の研究があり、また三菅地域の兵器監造者に鯨令が多いことからこの地域の都市の自立性

(叩叩)

の強さを指摘する江村治樹氏の研究もある。これらによれば、三晋を始めとする東方各園では、府や庫という器物・武器

を牧蔵管理する機関の下に工房があり、その製作責任者は多く工師で、音夫のこともあり、この主排者の下に造者たる工

707

が所属したこと

更に監造者には園都及び地方の蘇令や中央直属工房では相邦〈越)や邦司冠(貌)等があた司たことが

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708

(

)

わかる。また『守法守令等十三篇』の「庫法」等にも庫に畜夫

・吏とともに工師

・工が見られる。

このような東方諸固に封して、秦では工室という名稿の、府や庫に所属しない濁立の工官が中央

・地方の器物

・武器製

作を捻嘗し、庫には中央の武庫及び各郡武庫及び各燃の庫があ

った。また戦圏諸国の庫附属工房の工師は、官吏だとして

また冶工

・木工等ごと、あるいは小工房、ことに複数存在した可能性もあったのに

封して、秦の工師は工室の長官であり、これとは決定的に異なるのである。なお工室の運営が+次第に官僚制的に行われる

ようになると、本来的に工匠の長であ?た工師にも工出身者以外の者が任命されるようになり、長官名が他の諸官と同様

も車回夫ないしそれ以下のクラスであり、

に令

・長に襲化したと思われるが、

それは統一以降であったとみられる。

(初)

百官公卿表上の中尉所属「寺互」は「寺工」の誤りであるが、漢では寺工で製作した武器を同じ中尉所属の武庫に牧蔵

(

し、少府所属の考工製作の武器を若直に牧醸した。そして寺工は漢初少府に所属しており、朔

って秦一帝園期では官営手工

- 8 ー

業全般を統括した少府が、

漢代に見られる若直のような御用武器牧臓庫のみならず、中央の武庫をも所属させた可能性が

高い。現在、秦器で中央の武庫に牧蔵されたことがわかるのは、

丞丹、工九。武庫」

(

)

という銘を有する秦王政五年(前二四二〉呂不幸克で、

「五年、相邦目不幸造、少府工室剤、

「少府」

これは少府工室製作、

武庫牧顕であることを示す。

これに寺工製

作、武庫牧臓を示す

「寺工」

「武庫受属邦」

「威陽」

「戊午」

(『文物』一九八九|六。矛)

という銘を加えることができる。少府工室と寺工という少府所属工官が製作した武器が主に武庫に牧撤されており、右の

ような漢代の所属関係から考えても、武庫もまた少府所属であったし、

それが秦王政初年に測るとみてよい。また内史地

匿の各鯨所在工室が製作した武器も、

その近溢の燃の庫のみならず中央の武庫にも牧癒されたであろう。

(お)

さて、中央の工官については陳卒氏や亥仲一氏等の諸研究や績々と報告される青銅武器

・器物銘文によ

って、寺工・少

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府ヱ室・詔事・属邦工室が知られるし、右工もあった。湖南省長沙古墓出土の、

(

)

(

)

「廿九年、大后口告、吏丞向、右工市象、工大人蓋」「長」

(

)

という針刻銘を有する漆厄は、李事勤氏が述べるように、文字が秦園風であるのみならず官職・工匠の記し方が秦制を反

長沙に置かれた可能性が高いもの

映しており、

昭王二九年(前二七八)に楚人である王母宣太后が命じて造り、

その後、

である。主排者が右工工師であり、作造者が「工大人」であることは明らかである。

また、湖南省岳城出土の銅支によって昭王二

O年(前二八七〉に西工があ司たことがわかり(『湖南考古輯刊』

二年〉、責盛嘩氏は一九七八年快西省賓鶏市出土の所謂「隣西」支の銘を「西工宰」と画再議して、この「西」は醜西郡の

(

西鯨ではなく、中央の西工で、それに見える「武庫」も中央のものであるとした。この樟讃に従い岳城出土の銅支銘と合

わせ考えると、少なくとも昭王の二

0年代には、中央に西工という工官があったことと、その長官が工師、あるいは宰で

あアたことがわかる。局郡に東工・西工があるのも、秦武王元年(盟三

O)ころに成都城が造営された際、威陽の諸制度

(mm)

を模したことに起因するのであるから、既に威陽にも東工・西工があったといえるし、それを謹するのが右の西工ではな

一、

一九八

- 9ー

かろうか。従ってその賓在を誼する有銘器物は現在まだ護見されていないが、威陽にも東工があった可能性が高い。

(

)

(

)

陳卒氏が昭王一五年(前二九二)か一六年と推定している「丞相鏑造、威口口市葉」

一方、陳卒氏が恵文王前四年(前三

また威陽にも工室があったことが、

銘〈『貞松堂集古遺文』績編巻下、戟)によってわかる。

には「楳陽工」とのみあるのに、二世元年(前二O九〉の

「元年、丞相斯造、機陽左工去疾、工上口口」「石巴」「武庫」

には「左工」とあり、始皇帝時代には楳陽の工官は右工室と左工室の二つとなっていたことが知られる。この様陽工室の

(『考古典文物』一九八三|三。文)

709

援大は後述する統一後の改編と関わると思われる。

(

工藤元男氏の研究があり、

属邦については、

「外臣邦」を除く「臣邦」

HH属邦措嘗官で典属邦がその長官であるとし、

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710

また郡が設置された場合に異民族の住む牒を道とし、

それも統制したとする。長官名については屡邦の可能性もあると考

いずれにしても秦における異民族統治の重要な役割を帯びた官であった。これら屡邦の異民族を動員する場

一般の豚と同様に武器を支給する必要があ司たため、層邦が武器を製造する機闘を置く必要が生じたと考えられる。

臣邦・道においては一般の豚とは異なり、異民族に武器が渡る危険を避けて大量の武器を配置していなかったと考えら

れ、そのため中央で常時武器生産をし、ストックしておく必要があアたのであろう。

えているが、

ム口、さて、現段階で知られる武器等の銘文によれば、秦王政初年の相邦呂不意監造以後、萄郡などの特別な溢郡や臨時的な

場合を除いて、

丞相・郡守監造例が始皇帝時代にはなくなっている。そして丞相李斯監造文のように、

二世皇帝一元年には

丞相監造が見られるが、李斯が超高とともに二世皇帝一をたてたことによる、皇帝に劃する丞相の地位の一定の向上が背景

(mm)

にあるものと思われるが、江村治樹氏も述べるように材料不足であってこれ以上の推測は容易ではない。ただ相邦呂不意

「九年、相邦目不意造、局守金、東工守文居、文三。」

「成都」

「局東工」

(『考古』一九九一

l一〉

- 10ー

監造については次のように考えている。

銘の秦王政九年(前二三八)相邦呂不意監造免は萄郡守の監造擢を相邦が取り上げていることを示している。

この時期、

(

)

中央工室の寺工・少府工室・詔事が現れてくるが、秦における少府制度は自不掌将来によるのではないかと推測され、こ

れら工室も目不意との閲わりが考えられ、

少なくとも少府工室についてはその可能性は高いと考えられる。

この段階以

降、中央工室としての東・西南工、右・左南工が見えなくなっており、

おそらく呂不意による新たな工室設置は、これら

奮来の工室の慶止・再編を伴ったのであろう。従って、相邦目不章は中央各工室を再編・把握し、

さらに内史地域に郷接

する上郡や漣郡の萄郡の工室の監造権を掌握しつつあったといえる。

しかし呂不幸は秦王政九年〈前二三八)謬毒の凱に坐し、

翌一

O年相邦を克ぜられた。

この自不意の失脚、

秦王政の親

政以後は、中央工官は王が直接掌握して少府工室のみならずおそらく寺工等をも少府に所属させ、

秦王政の二

O年〈前-

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更に奮来内史に直属した内史地匿の鯨工室のみならず上郡等の鯨

工室をも直属させるに至司たものと思われる。即ちロロ不意による擢力集中を秦王政がそのまま縫承したため、より一一暦の

権力強化を寅現することができたといえよう。中央集権と機構整備を寅現したロロ不幸の存在なくして、秦王政の絶大な擢

(

)

力集中はありえなかったのである。

二七〉ころにはほとんどの中央工官が少府所属となり、

このような秦王政親政段階の権力の強さが監造樺を中央に集中させ、

いわば理念的に全ての器物・武器監造は王・皇一一帝

によるという形となったため、もはや相邦・丞相及び郡守が監造者として見えなくなったのではなかろうか。

秦統一期の工室と手工業

秦王政二六年(前二二一)、秦は全中園を統一して皇一帝という稽競を採用した。

この段階では中央の工室も、地方の郡の

た(『史記』巻六、秦始皇本紀)。

これは武器のかなりの部分が銅製であったことを示している史料でもあるが、

このような

-11ー

工室もほとんどが少府の下に所属したとみられるが、同年、始皇帝は民聞の武器を渡牧して

E大な鍾銀と銅人一二を作つ

民間の武器の設牧だけにとどまらず、奮六園の武器の再配置、武器生産機構の改編をも貫行したことを間接的に一示すもの

ではなかろうか。秦の瞳制を奮六闘にも布こうとしたとき、蓄六園の府や庫に附属する工房での器物・武器生産を改編す

る方向に向かわざるをえない。武器牧臓庫としての庫は奮六園地域に設置した郡豚の武庫・庫として再配置の上で残され

たであろうが、武器生産能力をそのまま蓄六固に温存することはしなかったものと考えられる。武器生産機能を有した庫

の工房についてはほとんどを整理し、

また府所属工房についても同様の慮置をとり、

その工匠の若干については中央工室

や新たに再編された地方工室に移したものとみられる。

ただ府系統については、度量衡器など統一政策の一環として、大量に製造して配布する必要があったから再編されて蔑

711

されたものもあったかもしれない。また高度な技術を有した工匠については、蓄六園の宮殿等と同様に秦本固に移されて

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712

中央工室に配属された可能性が高い。このようにして、奮六闘の中央の府はほとんど慶され、

一方秦一帝園の「府」は、中

央の少府・御府

・私府(皇后宮〉を除いて、

中央各官の少内、

・廓の少府・少内の形で残り、

財庫的機能だけをもつに

至ったと考えられる。

軍園瞳制から解放され

このように奮六園の工匠の在り方には大慶動が生じた。右のように官営工房に配属された者を除き、

多くの工匠は重い

一般の民間工匠として生業を営む者が多くなったし、民間工匠も従来に比べて径役の形での武器

生産等、軍園樫制維持のための努役奉仕量は減少したであろう。これは秦本閣についてもいえるものと思われる。

秦一帝一園の中央各工室は再編

・再配置されて少府に所属していたとみられる。寺工は漢代にも縫承されており、

(幻)

工室は漢代の考工室の前身と推測される。さらに最近の秦代封泥に闘する報告によれば、

また少府

「属邦工室」

「属邦工丞」

「割問

事之印」「泰匠丞印」

(お)

とすれば、大匠に丞があること、封泥においても属邦工室と詔事・少府工室及び寺工の存在を確認できること、及び漢代

(

)

その後主傷都尉、宗正、廷尉に改属した内官の存在を確認できる。この内官も漢代中央工官の一つであ

「少府工丞」

「内官丞印」

「寺工之印」

「寺工丞印」

「築府丞印」等がある。これらが偽作でない

- 12ー

に少府に所屈し、

えられるが

るから、泰代、少なくとも統一時期には少府に内官があったといえる。層邦工室と詔事もなんらかの形で再編されたと考

また祭府等の

一音楽措嘗官には楽器製作工が配属されてお

詔事は漢代の向方の前身であった可能性がある。

り、これらは工官的性格も有していた。

地方工官も

一定の整理がなされたものと考えられる。奮来の鯨工室制をそのまま維持していた所もあったであろうが、

統一以後の地方工室製作銘を有する事例がほとんど見られない現肢では、地方工官の整理が行われたこと、また武器の製

作そのものも大幅に減少し、従来各工室で製造した武器だけでも莫大な量があり、更に奮六園の武器も加えると、量的に

十分であったことを一示すものと考えたい。二世皇帝元年文に左工が見える様陽は要鯨のため再編過程でむしろ強化して

右・左雨工室とした可能性があると考えている。

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このような工室の整理統合の過程で、中央工室の中には蓄六園のものを吸牧して大きくなったものもあったであろう

が、少なくと屯地方工室では整理統合によって多くの献労働力が解放されたはずである。官管工房工匠の民間工匠化、民間

刑徒は多くは土木工事等の労働に充賞されていた

が、今まで工室に配属さ

J

れていた者もそれに振り向けることができ、それによって一般民の稽役務働を減少させたはずで

主匠の自由度の増加、

及び前述のような各種第働力の解放が進んだ。

ある。こ

のような工官をめぐる全般的な賦況によるならば、一帝園期に封外戦争があったにしても、再び戟園時代のように官替

工房べ大量の献労働力を緊縛することはもはやなく、手工業献労働力の大きな儀裕を生み出し、自由度が増した民間工匠も多

種類の器物やより高度な技術を要する附加債値の高い器物製作に向うことができるようになったといえよう。要するに、

民間手工業の隆盛化が起こったと考えねばならないのである。

この開、民間武器の渡牧に見られるように、民間存在の武器の減少は原料となる銅の徐剰をも生み出したはずである。

その齢制銅の向う先は様々な銅製品であったろうが、とりわけ銅銭に向った可能性が高い。秦は恵文王時代以来半雨鎮を

(間山)

護行してきたが、その鋳造に閲しては、中央・地方の各工室が主に措嘗Lたものと推測される。この貼、工室の職掌に銅

銭鋳造を附け加えなければならない。武器製作やこの銅銭鋳造の必要性があった以上、銅に劃する統制はあ司たものと考

えられるべ鏡等の銅器製作を行っていた民間工匠は、原料調達面で園家の統制下にあったと考えられるのである。

貨幣統一には秦の工室再編が必要であり、蓄六園の各種工房の整理に一定の時聞が必要であった。始皇帝三七年(前二

一01瞳制を整えて大規模な貨幣鐸造を賓施したが、直後に秦は崩壊し、牟南銭による貨幣統一という課題は漢に残さ

れ、漢初の自由鋳造政策によって貫現された。この聞の民開銅銭鋳造を支えた要因が、民間工匠の増加と原料銅の儀剰傾

向であったことはいうまでもない。

- 13ー

713

このように秦による統一は、奮秦本園の工官の整理をもたらし、また奮六園の府・庫系統の工房の整理も準めることに

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714

なり、

いずれにおいても献労働力

・原料の面で民聞に絵剰を生じさせ、様々な手工業が盛んになる重要な要因となったので

ある。この段階での軍事と民間手工業との相互関係をこのように押さえることができる。

前漢代の中央工官

前漢代、

「工室」

が正式名稿となる時期をまず検討しておきたい。少府所属の考工室が考工と改稿されたのは武一帝太初

元年(前一

O四)であるが、

「工官」の初見はもう少し早い。

『史記』巻五七、緯侯周勃世家に「工官・向方」とあって、

方、 この「工官」は官名として解揮できるので景一帯一時代には地方工室等は工官を正式名稽とするに至ったものとみられる。

内官とともに左工室の存在が知られる。

湾王園の封泥によれば、

漢初の王園の官署配置は漢中央と類似していたか

(お〉

「左工室印」封泥もあ

しかも「右工室丞」

- 14ー

ら、漢中央と同様の官署名と考えられるので、右・左工室の存在を推測でき、

「工室」が正式名稀であったことは動かない。従って現段階では、郡「太守」が俗稽・隼穏として秦代から使わ

れていたと同様に、「工官」が俗稽として使われてきたが、景一帝が中二年(前一四八)に郡「守」を「太守」に改名したと

)

同様に、その頃に考工室を除いた各「工室」も「工官」と改稿したと考えたい。

るから

百官表に見られる中央の工官は以下の如くである。

宗正属官に内官(長・丞)があり、

これは前述したように、最初少

府に所属し、後に主震、宗正、更に廷尉に所属した。内官は器物製作を携嘗したが、特色があるのは度量衡器を製作した

またそこには獄があり、劉氏一族の罪人を牧監した。

とみられることである。

(令

・丞)は前述のように寺工の誤りである。

が、主僧都尉の廃止とともに執金吾に改廃し、そこで生産された武器は主に武庫に牧蔵された。寺工は武器

・器物の製作

中尉(後、執金吾)所属の「寺互」

寺工は少府から主管都尉に移管された

とともに穂瓦蝿造にも任じた官で、多くの刑徒を抱えていたし、獄官としては特に主霞郡尉所属時期には列侯と官侵保持

者の牧監を行

った。

なお中尉所属都船〈令

・三丞)

は秦代以来の官署であるが、

名稿からみても造船捨嘗官であ

ったと考

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(

)

えられ、治水にも関係し、獄官でもあった。

最も多くの工官を管轄していたのは少府である。右のように内官・寺工が前漢前期には少府に所属していた。また水衡

都尉所属の鐸銭関係諸官も漢初には少府所属であった。少府所属諸官の職掌については加藤繁氏の研究があり、また陳直

(

)

氏も印・封泥等によって種々見解を述べている。これらを参考にしながら各工官について検討したい。

鋳鐘三官として鍾官・技巧・捧銅〈各令・丞〉があり、また百官表には見えないが、冶銭関係の右・左採鏡、右・左冶

(川町)

織が秦代に引き績き存在し、後に合瞳して「鍛官」となった。考工室(令・丞)は宮外にあって贋大な面積を有した、少

府における器物・武器製造の主力機関である。陳直氏は前述の右・左工室封泥により、考工室が漢初右・左の二つに分か

れていた可能性を指摘している。しかし後述のように前漢後期から王奔代、考工とは別に右工が存在するから、漢初の右

工が他の工官に吸放されてたとえば右工室丞が置かれる形で存績していたものが、前漢後期に復活したと考えられる。武

一帝代、考工室が工室と改稿されたことによって秦以来の工官の名稽「工室」は完全に排拭された。また御用器物製作に嘗

(4〉

アた向方(令・丞〉もあり、来央宮中に工房があ司たとみられる。

-15 -

東園匠〈令・丞)は陵内の器物製作を捨嘗し、その器物を東園の秘器と呼んだ。

(各令・丞)も衣服、とりわけ皇一帝一・皇后等用の祭服生産の面で大きな役割を果たし、

後宮の官稗・宮人等を用いて織製を行い、

さらに工官とはし難いが、東織・西織

成一帝河卒元年(前二八)に東織室は

省かれ、

西織室は織室と改稿された。

て縫製を行ったものとみられる。

御府(令・丞)が官蝉・宮人等を使役し

中央工官を考える上で検討しなければならないのは『漢書』巻七二、貢高俸の「三工官」である。これは元一帝一初元元年

(前四八)の上奏の中に衣のように見える。

故時、費三服官は職物十笥に過ぎず。方今、斉三服官は作工各数千人、

り、各五百高を用い、三工官は官ごとに費五千高。東西織室も亦然り。

一歳の費、

敷距高。

萄・贋漢は金銀器を主

715

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716

このうち、湾の三服官は元一帝初元五年〈前四四)に盟識官・常卒倉等とともに慶されたが、京一帝一緩和二年(前七)六月の詔

(mM)

(『漢書』巻二、哀一帝紀)と見えるからまもなく復活したことがわかるが、これは御用及び後宮用の多

に再び「第三服官」

くの衣服を織作した。宋

・呉仁傑『雨漢刊誤補遺』巻二「三服官」のいうように、三カ所の官舎工房があったものと考え

られ、従って、全世で作工六、七千人以上、

費用は年間数億であったことになる。これが『漢書』巻二八上、地理志上、

湾郡臨泊豚の

「服官」である。

なおそれとは別に陳留郡裏邑鯨にも服官が見え、

前漢末にこの南燃に服官があったことが

わかる。

地方工官の萄郡

・庚漢郡商工官に射して、中央工官として「三工官」があげられている。これについては、仲河内懐

萄成都

・康漢郡の三工官(如淳注)、

ω少府胃腸官の考工室て右工室

・東園匠(顔師古注)、

ω考工室の

一令二丞(清

・銭大昭

(

)

(

)

ω考工

・向方

・東園匠(加藤繁)、例「工」字のつく考工・供工

・寺工(大庭備)、

(

M

W

)

(陳直)の各読がある。

『漢書燐疑』を

一九)、

ω考工令

・向方令

- 16

及び上林苑中の工官(寺工と供府〉

元一帝初年に少府属官であったのは考工・向方・東園匠である。

またそれらに加えて右工

・供工もあった。また執金吾所属寺工及び宗正所属内官もあった。

(

(前四三〉銘漆器がある(卒壊出土)。

右工は元一帝一の「永光元年」

元一帝一が節倹策を質施した初元年聞のすぐあとのこの時

期に、新たに工官を設置したと考えることは不自然であるから、宣一帝代には置かれていたものであろう。そして漢初に右

工・左工が存在し少府所属であ

ったと推測され、

また王奔代の共工(漢の少府〉

と右工の関係からみても、

この時期の右

工も少府所属であったとしてよい。供工も「永光元年」銘漆器があり(卒壊出土)、

これも右工と同様の理由で既に宣帝代

にはあったものとみられる。陳直氏が推測するように、供府は水衡都尉所属であった可能性が高い。供府と供工との関係

が名稽からみても密接であるから、供府使用器物製作のために上林苑内につくられた工官とも考えられ、上林苑中にあっ

たとする陳直読に従いたい。寺工製作器物は前漢後期にも多いのでこの時期に存在したことは問題がない。内官は存在し

ていたことは誤りないとしても前漢後期の資料はなく、費用が多い工官であったとはみられない。

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少府の考工・向方・右工・東園匠、執金吾の寺工、水衡都尉の供工とな

る。付設のように「工」という文字を重視するならば、考工・右工・寺工・供工の四つの可能性が生じる。しかしこの解

揮はこの部分だけでは可能性があるといえるので'あるがお貢高俸全瞳からみれば別の一考えが可能であるc

貢局は、宮室、後宮の女性、厩馬の制誠、乗輿服御器物の三分の二の倒減、及び苑園を民に興えよ、司地下を貫たす」

こ‘とを罷めよ、諸陵園の女性の無子者を家に開せと主張した。元一帝一はこれに躍えて、宜春下苑を貧民広輿え、太僕の馬、

水衡の食肉獣、角抵諸戯、古門コ一服宮を罷めた1

責再が霊光にことよせて非難して

いる、陵墓主副葬品の豪華さも貢扇の重

要な主張黙であか、この陵内器物之そは「俊広従うべきい第一のものである。

このようにみれば、

ー付設が東園犀製作器物が見られないことを理由に強く否定するにも関わらず、莫大な支出を要した

東園匠が含まれないた}は考えられないのである。じかも宣一帝代1

王吉は「角抵を去り、出直木府を減じ、向方を省け」(『漢書』

巻七一寸主士ロ簿〉と主張し宅おり、向方も御周器物製作に莫大な経費を要していた。

ー御用器物製造を三分の一に減らせと主

張する買高の言中に倫方が含まれないはずがない。その御用を含む後宮等で使凋オる器物の大部分は考工で製作されてお

り、三分の↓にまで制滅寸る場合、考工も劃象とならざるをえない。一方、寺工は園家の武器製作を主任務とする公的な

(門出)

もので)後巳当浮費」

h

(

司漢書』

各七七、湧勝隆俸)として儒家官僚から批剣される一帝室財政支出とは性格が異なっていた。

,、以上により、

'結論的には少府所属の考工・向方・東園匠とする

ω読に従う。これによって前漢後期の中央工官の概要が

把握される。そのまとめは衣の地方工官の検討を終えてからにしたい。

従って「三工官」の可能性の貼からいえば、

_._ J、、

前漢代の地方エ官

-'17.-

717

複とし、

司漢書』巻二八土、一地理志上には一

O郡勝に工官をあげている。加藤繁氏はこのうち泰山郡及び贋漢郡の「工官」は重

(必〉

さらに河南郡は紫陽勝、賢漢郡は錐牒にあったと七た。しかし河南郡と慶漢郡については検討の儀地がある。こ

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718

れを除いて所在豚が明確なものは、河内郡の懐勝、頴川郡の陽翠勝、南陽郡の宛勝、済南郡の東卒陵勝、局郡の成都勝、

泰山郡の奉高燃の六カ所である。これら各蘇はいずれも郡の首燃であり、人口が多く手工業者が多い中心都市であアた。

地理志記載の工官は『漢書』百官表には記載されていないが、私は百官表に見えない工官・盟官・鍛官・均職官・木

官・銅官等は、前漢後期、中央の大司農

・少府の統制下にありながら、郡園には直属しない、豚と同格の特殊な地方官化

していて、この二重的性格も王奔代を経て後漢に至って清算され、豚と同様に郡固に直属し、全くの地方官化すると考え

(

(

ている。最近公表された吾ノ潤漢簡には盟官・鍛官を「都官」と表現しているが、それはこのような性格に因るのである。

このように地方所在の工官の性格を押さえて、

かつ工官のほとんどが郡治のある首懸に置かれているという事情を考え

ヱ日v

、と、

工官所在豚が首勝以外とされる河南郡・贋漢郡についても検討の徐地が生ずる。

河南郡の場合は首豚の洛陽にあったと思われる。洛陽武庫の武器生産を洛陽城内で行ったと考えるのが自然であり、紫

陽等の餓官精錬の原料織や銅によって製造したとみられる。中山王劉勝墓出土の銅器銘に王園の郎中が洛陽で購入した事

(

)

例があることから知られるように、河東同様銅器生産が活設であったからこそ郎中が涯遣されたのであろう。

地理志の局郡の成都牒及び庚漢郡と錐牒の僚に「工官有りL

「庚漢郡工官」があり、これは後漢前期も同様であった。

- 18ー

とある。

出土漆器銘等には

「局西工」

「萄郡西工」

及び

しかし王奔代には「成都郡工官」

る。王奔は萄を「導江」に、庚漢を「就都」にし、成都はそのままとし、贋漢郡の梓温鯨を「子同」に改めた。この銘で

は工官のあった鯨名をあたかも郡名であるかのように記している。従って贋漢郡工官は首鯨の梓温牒にあったとすること

(

)

ができる。漆器銘文には「庚漢郡工官」とだけあって、それ以外の例がないので贋漢郡に複数の工官があったとはいえな

「各五百高を用い」とあるのも、この二郡の工官が各一工官であったことを示す史

「子同郡工官」となってい

ぃ。また前述の貢高俸に

「窃・贋漢」

料となる。従って、従鯨にはなかったと考えるべきである。

錐鯨の「工官」については、

四川、成都府、漢州の僚の「銅

王先謙『漢書補注』が、顧租再『讃史方輿紀要』巻六七、

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官山」の記事を引用して、

「工官、蓋し銅官ならん」というように、この「工官」は「銅官」の誤りと考えられる。銅官

山は『惰書』巻二九、地理志上、局郡の金泉鯨に見え、その名稽はかなり遡りうるし、漢代この地に銅官が置かれたこと

に因む可能性がある。

(

)

地方工官のうち秦代にあったのは萄郡東工・西工である。東工は漢代に贋漢郡工官に改名された可能性もないとはいえ

ないが、前述のように東・西ともに萄郡成都域内にあったと推測され、それ故慶漢郡には前漢代に設置されたものと思わ

れる。萄郡・贋漢郡と河南郡・河内郡・南陽郡は、漢初以来王園が置かれなかった郡であり、少なくとも易・河南は漢初

から工官が置かれていたし、他の多くも武一帝代には存在したとみてよい。

一方、王園の厭であった所に設置された工官は王園の権限・領域回牧過程の中で設置されていった。漢初の王園は漢中

央と同様な官僚機構を有していた。前述の贋王園の場合に明瞭なように、右・左工室等が少なくとも各王園の王城にはあ

ったから、一

O王園から一七王園くらいの各王園にそれぞれ中央工官として設置されていた。しかし景一帝三年(前一五四〉

の呉楚七園の観はこのような献況に決定的な影響を興え、景一帝中五年(前一四五)の治園・任官・賦役の擢の回牧段階で

は、武器生産に関わる各王園の工官は少府の慶止とともに慶されたものと推測される。たとえ若干の工房が残っていたに

しても、もはや令・長が置かれるようなものではなく、王国で必要な器物製作にあたる程度のものであった。中山王劉勝

)

夫妻墓の銅器も中山園の工匠製作が明らかであっても、工官製作を謹明するものはない。従って、少なくとも武一帝代には

各王園の工官はほとんど鹿止されていたものとみてよい。それに代って重要な鯨に漢中央の工官が置かれたのである。

ただ地理志はあくまでも漢末の記録に基づいたものであり、漢初、これら以外の直轄郡の重要都市にも工官が置かれて

いた可能性はある。その場合は秦一帝一園段階で一定の整理統合が進められたものの権承であったろう。そしてそれらが鹿止

- 19ー

719

されたとすれば、積極封外政策をとった武一帝一代ではなく、昭一帝一代以降、おそらく元一帝代あたりのことであ円たろう。

なお銅官については、秦代には銅鏡石のある鯨に「采銅畜夫」が置かれて採掘精錬がなされた程度と推測されるが、前

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720

漢では丹揚郡(もと郭郡)に置かれ、

また前述のように贋漢郡錐燃にも置かれた。

後漢

・永元八年(九六〉

「河東銅官」銘

響機(『貞松堂集古遺文』巻二ハ)により、後漢代河東郡に銅官の存在が知られ、更に山西省洪洞蘇護見の安口巴宮銅鼎に「四

年三月甲子銅官」とあり(『文物』

一九八二|九てこれは前漢文一帝後元四年(前一六O〉、武一帝建元四年(前二二七)、元光四年

(前ごニ一)、元朔四年(前一二五〉等の可能性があり、震見地との関連で河東銅官製造とすることができれば、少なくとも

武一帝一代以降後漢代までこの地に銅官があったということができる。

しかし、河東の安邑宮のために別の地の銅官が製作し

た可能性も否定できない。また洪遺『隷績』巻一一「武都太守歌動碑」に「故道銅官」とあり、

七三)に涼州武都郡故道膝に銅官を置いたことがわかる。

後漢末霊一帝烹卒二年(一

文一帝代の四銭牢雨銭鋳造に大きな役割を果たした呉王漢の銅山と郵遁の萄

・巌道銅山が景帯代に国政され、そこに銅官

が置かれた可能性が高い。前者はおそあく首鯨の宛陵牒に銅官を置き、各鯨の銅山に出先機関を置いたとみられる丹揚郡

銅官として前漢末まで存績した。一方後者は鹿止されたが、産銅地の多い盆州方面の一銅山として慶漢郡錐豚のものが前

漢末に存在したということができる。そして河東銅{呂は前漢時代には置摩が繰り返されていたか、あるいは後漢時代に始

-20 ~

めて置か十れたのであろう。ただこの地には小規模であっても産銅地がかなりあり、民開手工業者による銅器製造もなされ

ていた。これが中山王劉勝夫妻墓銅器銘に見られる河東での銅器買い附けの前提であった。

また、中央工官

・地方工官を問わず問題になるのは「護工卒史」である。これについては大庭僑

・町田章南氏の研究が

(

)

あり、

'大庭氏一は主として銅器銘を、町田氏は主と

Lて漆器銘を取り上げている。

(

)耳、及び肩水金開出土建箭粁の針刻銘

之れに近年出土の宋央官三競遺祉の骨

「元鳳三年、執金吾護工卒史喜、考工令通、

丞常、令史奉省:::」

(『文物』

一九七八|一〉

等を加えて考えてみる。この銘により少府所属考工が執金吾所属武庫牧臓用の武器製作を行う場合には、執金五ロから謹工

卒史が涯遣されていたことがわかる。従って地方工官製作武器についても同様に執金吾護工卒史が「省」官として涯遣さ

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れたことが考えられる。

-護工卒史の設置は武一帝一代に進む監察機構の援充・整備と関わったものと思われるが、中央の少府

所属工官等では長安城内にあるので随時監察が可能であり、少府から常時護工卒史を涯遣することはなく、それは他の執

金吾と寺工の場合等も同様であったとみられる。後漢代には直属上級官鹿の太僕から考工に護工卒史、護工擦が涯遣され

ている。また地方工官にも護工卒史が涯遣されているが、これは器物製作命令を出した官麗からの涯遣と考えられ、少府

属官が少ないので技術官吏を抱えていた太僕からの涯遣であった可能性がある。なおこの護工卒史は郡だいえば督郵のよ

うな機能をもっていたといえる。

以上の中央・地方各工官の考察によって、中央には前期に右工室・左工室、考工室、寺工、向方、内官、東園匠、及び

東織室・西織室、鋳鏡・冶銭関係官が、地方には秦代以来の停統のある局郡西主官を始めとする河南郡等の工官があって

少府に所属し、各王園にもそれぞれ右

・左工室などの工室が存在した。また景帯代には銅官も設置され始めた。武一帝一代に

は水衡都尉の設置、少府からの移管等によって大幅な襲更が生じ、以後、少府は中央において街方

・考工・東園匠・東西

(

)

織室を、地方において工官・服官

・銅官等を管轄した。なお工官は一時均鞍卒準の下に組み込まれたこともある。また執

金吾は武器製作を主任務とする寺工を管轄し、内官は宗正が管轄した。水衡都尉は鋳銭関係官を管轄し、前漢後期には供

(

)

工を管轄した。また大司農は地方の盟官・織官を管轄した。

- 21ー

要するに、中央が直接掌握している官管工業の敷が多いだけでなく、その規模も大きかった。費三服官などは六、七千

人以上であったことは前述のとおりである。ヰア構漢簡の永始四年(前一一二)兵車器集簿によれば東海郡の武庫牧臓の武器

(

は「乗輿」が五八種、一一高四千件以上、その他が一八二種、二一ニ一五高三千件以上であるという。常備軍維持のための

武器牧頭数の莫大さがわかり、製造・修繕経費の多さも推測される。このような秦以来維持されてきた軍事瞳制が工官の

存績に密接に関わったことが知られる。

この他にも土木関係官署等の数は多く、配属工匠・刑徒等は莫大な

r

ものになる。前漢時代の武器・器物・衣服製作につ

721

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722

いていえば、園家

・官臆の自給的性格が濃い時代であ司た。それを支えたのは、前漢時代の繁築を主導した黄河ベル

ト地

帯ないしそれに郊接する諸都市の生産性の高さである。戦園時代の秦とは異なり、前漢においては工人の集積したこのよ

うな諸都市に基盤を置いており、これが官営

・民間共通の基盤となプた。地方工官設置豚は各地方の代表的ないずれも一商

工業が活滋な都市であり、その経済力・技術力が工官の存在を支えていた。依然として強力な軍事瞳制を維持しつつも、

武一一帝代には封外戦争のために若干官営工房が擦充された可能性があるが、秦統一段階の縮小された官営工房数はほぼ維持

されてきたと認められる。従って、前漢中期までの経済の損大期には、秦統一段階に比べても民間手工業の徐裕が大きか

ったものと考えられる。

しかし武一帝代、黄河ベルト地帯を始めとする諸都市は、園家によって告絹等の形で富の強奪を被り、前漢後期には、一一商

業的なものの横溢の失亡、都市の衰弱、土地中心経済の進展が見られ、後背地の森林・燃料不足や、渠等による農業生産

ンティア地帯の人口が増加してくるが、

一方黄河ベルト地帯の南に位置する准河を中心にして東西に延びるフロ

ここでは有名な奨重の荘園に見られるように(『後漢書』巻三二、焚宏俸〉、

- 22ー

及び牧畜等にも衰退傾向が見られるようになる。

自給自

足的な性格が非常に濃いものであった。従って都市内手工業者製作の日常器はそれほど必要としない。

製作される高債な器物については、都市内の工匠からの購入ないし招務工匠の生産によっ・たであろう。

一方高度な技術で

要するに、従来の人口集中地域の商工業パワ

lの低下、新人口増加地域での人口の績散と荘園的経済の準展によって、

貨幣経済・商業とともに手工業の全櫨的低下が起こったのである。以後の後退局面では事態は悪循環に陥り、貨幣経済の

(

)

活性化をもくろんだ王奔の貨幣政策の失敗へと績く。前漢後期には、北方前線地帯の緊張緩和による軍事瞳制の緩みをも

一因として、たとえ工官数が減少しなくても生産額の低下が生じていたとみられる。貢高等の縮小論はこのような事態と

無関係ではないのである。従っ

て手工業は後退局面では官営・民間共に縮小し、生産額の低下が引き起こされ、

都市にお

一方附加債値の高い高官修器の生産は相射的に増加したであろう。

いては日常器の生産は従来より減少し、

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後漢時代の工官と官営手工業の襲化

前漢代に比べて後漢代の中央工官は極めて少ない。『績漢書』百官志の中央工官はわずかである。太僕所属の考工(令・

左右丞)は、前漢代少府所属で後漢に至って太僕に改属した。武庫牧識のための武器生産を主任務とし、綬の織成、器物

製作等諸雑工を捲嘗した。武器は嘗然のこととして、製造器物についても皇帝一・後宮用ではなく中央諸官用が主であった

とみられる。考工では五欽銭の鋳型が製作されたが、考工で直接貨幣鋳造を行ったのではなく、その租範・母範が、逸られ

て各郡園単位で貨幣の鋳造がなされた。

(

少府には「文属官」として向方(令・丞)があり、高度な技術を有した工匠が配置され、御用の万剣や精巧な諸器物製

作を携賞した。向方は『後漢書』巻一

O上、皇后紀上、和烹郵皇后僚に

其の易・(贋)漢の釦器・九稽侃万は並びに復た調さず。:::叉御府・向方・織室の錦繍・水軌・締穀・金銀・珠玉・

犀象・薄璃・彫鍍翫弄の物、皆絶えて作らず。

- 23ー

と見えるように、金銀等の賓器を主に製作した。和一帝代には宣官の察倫が山内方令を加位されており、後漢前期から宣官官

署化していた可能性がある。『遁典』巻二七、職官、少府監に、後漢末、中・左・右三向方としたとあるが、後漢後期の

宣官勢力の援大の中、賓物が集積し高債な器物・武器が製作されていたため、置官によって績大されたものとみられる。

こうして向方は中央工官の中心的役割を後漢末以後果たすが、後漢前・中期においては向方製作の武器・器物は比較的少

なか司たであろう。なお前漢・王奔代にあった右工と供工は後漢初期には慶されたものとみられる。

御府(令、丞・織室丞)は官解を使役して宮中用衣服の製作・繕修と洗濯を捨嘗し、その衣服は豪者華美なものであっ

た。この御府の一丞として織室丞が置かれていた。これは前漢時代の織室がもはや濁立した官署としてではなく、御府内

723

分署として存績していたことを示す。前述のように、前漢代は皇帝・皇后以下の祭服を主に製作した。しかし『績漢書』

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724'

輿服志下によれば

「莞冠」即ち祭服は陳留郡裏邑鯨から献上されていた。これは絹織物業の盛んな裏口巴鯨に郡直属の工

房があ

ったのではなく、税物徴牧を携嘗した郡直属工官の監督下で民間工匠が製作したものを陳留郡が貢献の一つとして

献上したのであろう。織室が部太后の節倹策の劉象になっているから、少なくとも安一一帝初年までは織室の製作量は多かっ

たはずである。従って輿服志の停える朕況は後漢後期のものとみられる。郵太后の節倹策以降織室の機能低下が起こ

って

十分な回復ができなかったため、高級織物生産地-として有名な裏邑から「献」・「調L

という形で上稔させだものと思われ

る。要するに、後漢では中央工官の減少と小規模化が進んだのである。

地方工官については、漆器・銅器銘文によって工房をもっ萄郡西工官と庚漢郡ヱ官の存在が知られ、中央から護工卒史

が波遣されていた。王奔時代には漆器銘文の「省」官の賦況から工官は郡直轄となっていたとみられるが、後漢はそれを

継承したのである。百官志五の郡の俊広司工有ること多ければ、工官を置き、工の税物を主る。」とあるように、豚と同

格の郡直属の盟官・織官等,とともに、工が多い所に税物徴牧のために工官が置かれたが、工房をもつものではなかった。

「税物」ば買り上げに劉す石税も含むが、物納が多かっ沿ことを示すと思われる。これを郡が「献」

「調」の形で上験し

- 24ー

たのである。

漆器銘文等によれば、和一帝一代までば萄郡西

・贋漢郡南工官が存在し、郡園の一般的な貢献とは別に漆器と万創等が調さ

れていた。王奔末の戦凱のため工房が破壊されて工匠が分散していた中原各工官とは異なって、萄が大きな戟観に巻き込

まれる事が無く、公孫述が易一帯をいわば温存したため工官も存績し、それを入手した後漢がこの二郡に工官を置いたと

いう経緯が考えられ、この二郡だけは例外的に前漢・主奔代と同様、

-中央への器物上聡の義務を有する工官として存績

し、少なくとも郵太后の節倹策費施時期までは

一定の数量を毎年中央に上験して

いた。なお、この節倹策は鶏帯延卒元年

(一

O六)六月十三日の節約策を打ち出した詔以後展開されたものと考えられる。

この時期以降雨工官製作器物銘が見ら

れないので、官営工房としての商工官はこの時期以降廃止されたのであろう。

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後漢時代のものとみられる「萄郡巌氏造作」銘(『漢金文録』巻五、銅洗)等に、

「萄郡」を冠した"「巌氏」などの特定の

工匠の氏名が見られる。漆器銘文では「萄郡西工・:宜子孫、直氏作」(卒壊出土〉という例もある。これは工官の中で特定

(臼〉

の家による世襲的繕承がなされたことを示すものとみられる。工官所属時代には「工官」を冠してその氏名を記し、工官

麿止後は工官名をもはや記さず

「局郡」

都蘇の工匠の租税と器物調達を任務とした工官が存在したことと、

いたことを示すものであろう。

「萄」によって局郡製作を一万すだけである。このような銘文の在り方は、局郡成

五六引菅令〉と同様な形で行われていたものとみてよい。

工匠が銘に「萄」とだけ記載して申告納税し販買して

後代の、漆器製作において申告させ、一製品に年月姓名を朱書させる規定(『太卒御覚』巻七

(

西

)

(

)

なお元始二年〈後二〉の「萄郡口口・:牢氏口口口」銘木胎案(卒

壊出土)は既に世襲化が前漢後期に始まっていたことを示すものとみられる。

このように漆器一・銅器・万創等の製作において、前漢後期には工官内で特定の一族による技術の俸授が始まっていたと

すれぽ、秦律に見られたような、工官内で技術教育がなされ、

する、

一定の習熟まで工官が責任を負っていたのとは性格を異に

一族による俸授がその内部で行われるようになってきたものと考えざるをえない。秦・前漢の工官が多くの未熟練

- 25ー

努働者を抱え九大量の器物・武器製作のために、一定の共通の技術水準まで引き上げ、大量生産に必要な工匠を確保した

のに劃して、こうした一族による技術俸授は他の者への俸授を制約することになりやすい。つまり次第に技術の贋がりが

制約され始めたのである。既に秦代でも漆器銘文等広よれば都市内の手工業者は血縁的技術俸授を行つでいたようであ

り、女子や子供も漆器生産に加わっていた。しか

Lまだ秦・前漢代は、個人への停授が排除されていない。ところが、前

漢後期には個人への停授・教育をしてきた工官内でもこのような襲化が生じてきたことが問題である。

'秦・前漢代、耕地面積・諸生産・法律等あらゆる面で、量的損大による現貫への封躍がなされたが、法律傑文の増加を

除き、生産面では前漢後期に量的按大が行き詰まりをみせて縮小に向い、貨幣経済の停滞・表、退が生じていた。手工業も

その大きな国変動からは逃れられないのであり、技術停承という最も根幹的な部分で、静かに量から質への轄換が起とって

725

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726

いたのである。これは、技術が量的抜大から、質を維持した上での量的縮小へ轄換したことを意味する。商品生産・流逼

が狭まりつつあったことに針躍して、工匠たちもより者修的生産を行うようになってきたことと関係するであろう。そし

てそれは一位舎全瞳の保守化のなかで、

血縁的教育・俸授をより重視するよ

(

)

いわば家事的停承の時代への轄換である。あるいは門生・故吏のような「封建」的闘係と同

工匠も技術を個人から個人へ停授するよりは、

うになったことを意味する。

様な関係が、

血縁以外の者への技術俸授において強まったことも考えられる。

以上のように後漢代の官営手工業には、中央の考工・向方、

御府の下の織室、及び地方の萄郡西工官

・贋漢郡工官、各

郡の鍛官の工場、及び河東等若干の銅官があった。前漢代の工官の数と規模に比べて著しく減少

・縮小し、かっその内部

において工匠の世襲化が進行し定着していた。

後漢前期に見られた財政困難、郡鯨数の削減、内郡園常備軍の撤鹿等の背景には、黄河ベルト地帯を中心とする人口の

激減、回復の遅さ、そして経済全般の停滞があった。前漢代までのような軍事瞳制をとることはもはやできず、武器も考

工での製造に加えて民間工匠の雇用や買い上げで間に合う程度に減少していたとみられる。衣服も同様であり、特殊な祭

- 26ー

服等は織室で織成・製作しても、

日常の衣服の多くは陳留や斉郡からの「献」あるいは「調」でまかなわれていたであろ

ぅ。越布の場合は曾稽郡の毎年の献物であったが(『後漢書』巻八

一、

濁行停・陵績俸)、

これと同様に布吊の産地から一定の

数量を上轍させていたものとみられる。財政権の多くを地方に移管していた後漢では、このような「献」あるいは「調」

という形で地方から富を中央に吸い上げたのである。

このように後漢では、中央

・地方が官営工房の直営よりは、工官を通じて民間工匠から得たものが多くなっていたとみ

られる。特別な御用器や衣服及び最低必要な武器

・器物は向方・御府及び考工による製作を行い、それ以外はこの形で調

達した。いわば後漢は中央には直営する力がなく、工官設置郡からの「調」的牧奪に依援し、郡はさらに民間工匠からの

税物徴牧

・買牧を賞態的には強奪のような形で行ったものとみられる。この工官に把握された民間工匠は、官営工房には

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所属しないものの、逆に官への隷属性が強まったといえよう。右述の工匠における世襲化と卒行する、身分的把握の進行

である。

なお後漢後期には自然災害・売族の反凱によって財政難に陥っていたにも関わらず、外戚・宣官勢力の伸長と皇帝の箸

修とが財政支出を増加させた。それをまかなうために、河内郡等からの布吊上轍に見られるような「調」形式で上轍を増

加させた。嘗然、陳留郡や斉郡からの調も増加したであろう。またこのような皇帝の奪修と宣官勢力の伸長が、

中・左・右の三向方に績大させた最大の要因であったと思われる。

向方を

結論

中園古代手工業の衰退

秦の統一を承けた前漢代、都市の経済力・技術力を基盤として中央・地方に

E大な各種工官を設置して武器・器物等の

自排を達成した。これら工官には多くの工匠と刑徒を含む労働者が配置されていた。民開手工業者も上は盟鍛業者を始め

として活設な生産活動を展開した。このような民間商工業の活設な朕況が『史記』巷二一九、貨殖列俸の一商品の豊富さに

見られるのである。しかし、盟織に闘しては専貰制の賓施によってその利盆を園家に吸牧させ、工匠たちは盟官・鎮宮内

でその技術を維持・向上させた。

- 27ー

民間・園家ともに活設だった手工業も、武一帝後半以降全般的経済費動の中で衰えがみられるようになる。その中で「市

場」の縮小が進み、狭い範圏を劃象とする日用品的器物生産はある程度維持されながらも、都市居住の工匠はより奪修的

生産、即ち販貰範聞の廉い附加債値の高い一商品の製造に従事するようになる。そして官替手工業においても、その組織自

瞳が工を再生産していたのに劃して、内部での血縁的技術停授にとって代られる。

王奔時代を経た後漢では、黄河ベルト地帯の人口と都市生産力の低下、人口が増加した南方での人口蹟散と荘園的経

営、これらに伴う技術者の援散によって、一商工業の落ち込みは準む。従って工匠の敷も減少したとみられる。後漢は直営

727

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728

工官の数も規模も縮小し、税物権嘗の工官を通じての民間工匠からの強奪を行った。全般的後退局面の中では、後漢が軍

事剛匝制を大幅に弛めたにも関わらず、

民間手工業の設展はなかったし

工官に

把握された

工匠

への園家の

寄生性が強ま

り、工匠の園家への身分的隷層化も起こりつつあった。

「後漢時代の民間私営手工業は、瑳展傾向にあったと思われるのであり」

「全盟として見るならば、後漢時代の手工業

(

)

と商業とは、とくに額著な線盟的低落傾向にあるとは認められない」という高敏氏のような理解もあるが、屋宴『政論』

に見える五原郡における織作開始は(『太卒御覧』巻二七)、後漢代に手工業が護展したことを意味するのではなく、人口が

少ない漫郡における生産の停滞とそれに伴う工匠の減少をこそ一示す。また後漢末開中地区の農民は牛車を作る技術をもた

なかったが〈『青書』巻二六、

食貨志)、秦

・前漢代には日常的によく使われていた牛車(大車〉の製作技術さえもがこの地域

で失われていたことを示している。全睦的技術者の不足朕況を考えるべきなのである。

全般的手工業の減少の中でむしろ質的には向上する部分もあり、その技術が血縁的に停授された。中央では向方に高度

- 28'ー

技術者が集中したと思われる。官営手工業においても、後漢後期には、民間で一般的であ

った者修品製作という傾向が現

(

)

われ、軍事における世襲的兵員確保の動向と同様に、特殊技術者の確保の傾向が見られたといえよう。身分的把握が進行

していた民間工匠が製作した奪修的器物は、豪族等の需要の存在によって洛陽を中心にしてかなりの生産がなされたであ

ろうが、もはや量的減少傾向が支配していたと思われる。

なお、後漢時代に各地の特産物の記録がかなり見られるようになる。各地域の先賢俸や地誌的なものが作られてくる

が、この時代に郡単位で強まってきた郷土意識が各地の特産物を強調する形で記録し始めていたことと関係する。そして

特産物市場は康域的であったために、

それが量的に多くはなくても特産品として強調されて記録されることともなった。

決して後漢時代の一商品生産が活漉とな司たことを意味するのではなく、むしろ規模を縮小する形で特産物としてその地域

ごとにその生産

・技術が、

しかもかなり制約された形で俸授されたのである。即ちここにおいても量ではなく質を維持し

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つつ縮小していった扶況が、逆に各地に特産物が増えたかのような印象を輿えるのである。

三園時代、再び戟園時代同様の軍事瞳制がとられたとき、この数少ない工匠たちを園家に緊縛し、かつ世襲的に固いこ

もうとするようになる。ここに民間エ匠の一層の減少が生じ、また工官等の工匠はその隷属性を増し、一部は賎民に近い

者も現われた。こうして園家は必要な工匠を隷属させ、身分制的に束縛するようになる。全般的身分制の時代にふさわし

く工匠もまた「百工」として位置附けられたのである。

このような工匠をめぐる朕況は、人口の減少、全瞳的生産の停滞と密,接に関係しつつ、民関手工業者を「量」的に制約

し、民間手工業は辛ちじて血縁的技術停授によってその技術を維持

Lえた。しかも敷が少ないという致命的な問題を抱え

ており、観音南北朝期の手工業の全般的媛大は困難であった。ただ強調しなければならないのは、皐聞も含めて、一族に

蓄積された「停承すべきもの」は、ある場合にはより高度なものを生み出したであろうし、ある場合にはその技術の停承

者が絶えたことによって後代に俸わらなかったものもあるであろうということである。

729

註(1〉この問題に関係する研究は、加藤繁「漢代に於ける圏家財

政と帝室財政との区別並に一帝室財政一斑」(一九一八,.一九

年初出。『支那経済史考詮』上、東洋文庫、一九五三年、所

牧)。佐藤武敏『中園古代工業史の研究』

一吉川弘文館ー一九

六二年。4

角谷定俊「秦における青銅工業の一考察1工官を中

心に

l」一(『駿牽史事』五五、一九ん二年)。佐原康夫「戟園

時代の府・庫について」(『東洋史研匁』四三lて一九八四

年)。影山剛『中園古代の商工業と事責制』東京大準出版舎、

一一九八四年。陳直『漢書新詮』天津人民出版社、一九七九

年。方詩銘「従出土文物看漢代。工官。間一些問題」(『上海

- 29-

博物館集刊』一九八二l一一〉。亥仲一「秦中央督造的兵器刻

僻綜述L↑

r(

『考古典文物』一九八四1五)。陳卒「試論戦園型

秦兵的年代及有開問題」p

(

『中園考古拳研究論集|紀念夏嬬

先生考古一五十周年』一一一秦出版社、

~一九八也年)。王輝「殿園ー

ゥ府。之考察」

'同同『中園考古拳研究論集』所牧)。主皐理

「秦代軍工生産標準化的初歩考察」〈『考首輿文物』一九八七

|五)。高敏(大櫛敦弘誇)尋常漢時代の官私手工業」〈『中

園|祉舎と文化J』四、一九八九年六月)。李光箪「秦。王

師。考」(『文博』一九九二|一二〉。楊涼「。河内工官。的設

置及其湾機生産年代考」(『文物』-九九四|五〉。等多数あ

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730

る。

(2)JPEF52ミEE--aORngSLORn-号。同巧RE-

玄2rmw門的

HLF釦ロ仏臼

550のr・5uu、口同日々wwm

〉の、叶〉

〉ω【〉、『目。〉・呂田。・(「秦代の工官・市官・田官」)

(3〉拙稿「秦・前漢代貨幣史l東アジア貨幣史研究の基礎とし

てl」(『日本文化研究所研究報告』三

O、一九九四年)。

(

4

)

陸虎地秦墓竹衡については、《雲夢陵虎地秦墓》編篤組

『雲夢陸虎地秦墓』(文物出版社、一九八一年九月)の筒番

挽と、薩虎地秦墓竹筒整理小組『陸虎地秦墓竹筒』(文物出

版社、一九九

O年九月〉の頁数とをあげる。

(

5

)

拙稿「中園古代の一商と貰ーその一意味と思想史的背景lL

(『東洋史研究』四七|て一九八八年〉。

(

6

)

佐藤武敏「秦・漢初の漆器の生産について」(『古史春秋』

四、一九八七年〉に基づいた前掲拙稿「秦代の工官・市官・

田官」での漆器生産についての検討。

(7〉内史へ期間未了者名籍を塗った結果は、彼等が訓練を受け

た二年聞は、通常の力役・兵役を菟除されていたはずであるか

ら、その義務を一度に果たすことを求められたのみならず、

なんらかの罰、たとえば最前線へ迭られるなどのことがあっ

たであろう。

〈8)

『文物』一九九五|ニ掲載の『奏議書』。

(

9

)

江村治樹「戦園時代出土文字資料概述」(林巴奈夫編『戟

園時代出土文物の研究』京都大皐人文科察研究所、

一九八五

年〉。

(叩)前掲拙稿「秦代の工官・市官・田官」で、この部分を「工

室が年度ごとに製作するべき器物についての定めに従わず、

また(丞相や郡守の)命書も無いのに、敢えて規定以外の器

物を製作したならば、

工師と丞はそれぞれニ甲の罰金とす

る。豚工が設立後始めて〈郡や中央に)器物を上納して、そ

の成績が殿であった場合、(工室〉車田夫即ち工師を一甲の罰

金とし、豚車田夫即ち鯨令及び工室の丞以下の吏・曹長はいず

れも一盾の罰金とする。」と謬した。この「豚畜夫」は鯨令

と考えられ、秦代工室が置かれていた燃は必ずしも多くはな

いが、その豚内に工室か新設された場合は豚令が工室の監督

責任を負い、二年目以降は工室はあくまでも内史ないし郡に

責任を負ったものと考えられる。

(江)拙稿『秦漢財政牧入の研究』(汲古書院、一九九三年)の

第四章第二節参照。

〈ロ)拙稿「中園古代における均の理念1

均総卒準と『周躍』の

思想史的検討|」

(『思想』七二一、一

九八四年)参照。

(日〉前掲拙著第四章第四節参照。

(U〉陳卒前掲論文。

(日)『墨子』備城門篇等に見える城邑防衛戦における総動員陸

制(拙稿「歴史書に記載されないもの|「守御器簿」をめぐ

って

l」卒成四・五年度科皐研究費報告書『中園における歴

史認識と歴史意識の展開についての総合的研究』一九九四

年〉が参考になる。

(MC註(叩〉参照。

(口)佐原康夫前掲論文。

(日)江村治樹「戦闘三耳目都市の性格」(『名古屋大畢文皐部研究

- 30ー

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731

論集』

XCV・史皐二一二、一九八六年)。

(四〉銀雀山漢墓竹筒整理小組『銀雀山漢墓竹筒〈萱)』〈文物出

版社、一九八五年〉。

(却)責盛嘩

J

「寺工新考」(『考古』一九八三l九)。拙稿「前漢

武帯代の財政機構改革」〈『東北大皐東洋史論集』一、一九

八四年〉。

(紅)拙稿「で射と二つの新設見l未央宮三掠建築遺祉と揚州胡

場五鋭漢墓

l」(『歴史』七八、一九九二年〉。

(辺〉裳仲一前掲論文。

(お)陳卒・裳仲一前掲論文。

(MA)

李皐動「論美決枚戯曲幾件商周文物」(『文物』一九七九

ー一二)。

(お)資盛嘩「新出秦兵器銘刻新探」(『文博』一九八八!六〉。

(お〉前掲拙稿「秦代の工官・市官・田官L。

(幻)陳卒前掲論文。

(お〉工藤元男「陸虎地秦墓竹衡の属邦律をめぐって」(『東洋史

研究』四三|一、一九八四年)。

(却〉江村治樹前掲「戦闘時代出土文字資料概述」。

(却)拙稿「秦漢時代の大内と少内」(『集刊東洋暴』五七、一九

八七年)。

(況〉西嶋定生「謬寄の鋭について」〈一九七二年初出。『中園

古代園家と東アジア世界』東京大皐出版舎、一九八三年、所

牧)の理解とは異なることになる。

(mM

〉『考古典文物』一九九七|一。

(お)封泥を扱う場合は、江村治樹「東京圏立博物館保管陳介族

奮臓の封泥|とくにその形式と使用法について|」(『MUS

EUM』三六四、一九八一〉の参照が必要。

〈担)前掲拙稿「前漢武一帝代の財政機構改革」。

(お〉前掲拙稿「秦・前漢代貨幣史」。

(お)周準『再績封泥考略』等。陳直前掲著書。

(日出)前掲拙稿「秦代の工官・市官・田官」では文帯頃とした

が、このように-訂正する。なお武帯初年の銅鼎銘に「工宮」

が見える(『文物』一九八二|九)。

(叩拍〉前掲拙稿「前漢武一帝代の財政機構改革」。

(鈎)加藤繁前掲論文、陳直前掲著書。

(川叫)前掲拙著第六章第二節参照。

(

4

)

「中山同方」〈『漢金文録』各一一)銘は戸宮中の倫方」の意味

であり、『三輔黄園』巻六の「作室、上方工作之所」と『漢

書』巻九九下、王葬俸下の「作室門」により向方の工房が未

央宮中にあったと考えられる。

〈必〉加藤繁前掲論文。また予湾漢衡の「輪銭資服官」。

(必〉加藤繁前掲論文。

(川悦〉大庭修「漢の畜夫」(一九五五年初出。『秦漢法制史の研

究』創文社、一九八二年、所牧)。

(必〉陳直前掲著書。

〈日明〉以下に言及する卒嬢出土漆器銘文等については、それらを

網羅している町田章「漢代紀年銘漆器褒成」(同着『古代東

アジアの装飾墓』同朋舎出版、一九八七年)を参照。

(円引)拙稿「漢代財政制度に関する一考察」(『北海道教育大皐

紀要』(第一部B)一一一一一lて一九七二年〉。

- 31ー

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732

(必)加藤舶来前掲論文。

(必)前掲制稿

「前漢武一帝代の財政機構改革」。

(叩)『文物』一九九六|八、並びに『文物』一九九七|一。

(日)中園社舎科附学院考古研究所

・一円北省文物管理庭『満城漢墓

愛掘報告』上下、文物出版社、一九八

O年。

(臼)町田一章前掲論文は

「梓誼郡」とするが、就都郡子同豚(梓

撞豚)所在である。

(臼)方詩銘前掲論文。

(臼)前矯『繍城漢墓愛掘報告』。

(%以「十六工官」とある居延漢簡二五

0・一七は地湾(肩水候

官)出土で、梱包番挽二五

Oには宣

・元期の紀年が見えるの

七、これが首時の工官数である可能性がある。

(回以大庭筒・町田章前掲論文。

(閉山)佐原康夫

「漢長安城未央宮三挽建築遺祉について」(『史

林』七四|

一、一九九一年)。前掲拙稿「で射と二つの新設

見」。

(四四)拙稿「均輪卒準と桑弘羊|中園古代における財政と商業

ー」(『東洋史研究』四G

[一ニ、一九八

一年)。

(印)中央・地方の武庫や郡豚の庫あるいは王図

・列侯園の庫に

は、秦代同様修繕のために工が配置されていたようであり、

彼等が器物製作を行うこともあった(『漢金文録』巻

二、洛

陽武庫鍾。

『文物』一九七八|八、汝陰侯園器物)。

(印)『文物』一九九六

l八。

(

mU)

拙稿「王奔代貨幣史」

(『東北大皐東洋史論集』六、

九五年〉。

(臼)拙稿「後漢の大司炭と少府」(『史流』一八、

一九七七年)。

(臼〉永元六年(九四)考工製作銅湾機に「郭工田孫作」等とあ

り(『考古輿文物』一九八九|六)、建初二年(七七)萄郡西

工官製作銅剣に「王惰造」「直千五百」

(『文物』

一九七九

!七)とあり、貌正始二年(二四一)左向方製作湾機に「耳

匠馬康、師王丙」(『考古奥文物』

一九九

O一ニ)と見え、

名だけではなく姓を記しているのもこの動向と関わり、また

「直千五百」は工官製作銅剣が販資されたことを示すものと

みられる。

(臼)川勝義雄『六朝貴族制社舎の研究』岩波書庖、一九八二

年。

(臼〉高敏前掲論文。

(侃)漬口重園「雨漢の中央諸軍に就いて」(一九三九年初出。

『秦漢惰唐史の研究』

上、東京大皐出版舎、一九六六年、所

牧)。

- 32ー

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THE DEVELOPMENT OF MANUAL INDUSTRIES AND

THE VICISSITUDES OF GOVERNMENT WORKSHOPS

   

(GONGGUAN 工官)INTHE QIN AND HAN

             

DYNASTIES

Yamada Katsuyoshi

  

This paper is a consideration concerned with the vicissitudesof the

structure and of the labor organization of the centraland local Government

Workshops (gong guan 工官)in the Qin and Han dynasties. The

conclusions are as follows:

  

During the Qin dynasty, the period when the Government Workshop

system

 

was

 

established,the Workshops were controlled by the Privy

Treasury (Shao fu 少府).This system was continued during the Former

Han dynasty. The Qin dynasty unified China in 221 B.C.E., and they

also reorganized the weapon manufacturing systems in the other siχstates.

As a result,workmen (gong工) all over the country were freed from

various restraintsand were thus able to form a driving force behind the

development of private manual industries. Under the militaristicstructures

of the Qin and Former Han dynasties, however, many central and local

Government Workshops were assigned to produce weapons, vessels and

other items for imperial and military uSe。

  

In the Later Han period, after the era of Wang Mang, the number of

government workshops decreased, and another type of governmental o伍ce,

the Office of Work (gong guan工官), was establishedin local districts.

This o伍ce was in charge of levying taχes. Latein the period of the

Former Han dynasty patrimony became predominant in areas of skilled

work, and actual work skillsbecame limited toa few people. In addition,

the overall decline in commerce and industry caused a decrease in the

number of workmen. In this conteχt,hierarchicalrestraintson workmen

came

 

to be enforced during and after the Three Kingdoms period.