Title 中国先秦時代の旗 Citation 49(2): 234 …...中国先秦時代の旗 66 (234) 林...

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Title <論説>中国先秦時代の旗 Author(s) 林, 巳奈夫 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1966), 49(2): 234-262 Issue Date 1966-03-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_49_234 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Transcript of Title 中国先秦時代の旗 Citation 49(2): 234 …...中国先秦時代の旗 66 (234) 林...

Title <論説>中国先秦時代の旗

Author(s) 林, 巳奈夫

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1966),49(2): 234-262

Issue Date 1966-03-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_49_234

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

中国先秦時代の旗

66 (234)

巳 奈 夫

的纏縫裸轄饗難響琵醗蘇議搬離灘姥ゼ“講講墜糠輪懲

                                                      

に違ひない。その研究は古代中瞬の宗教、軍事、社会制度を開かにする上に必須のものと考へられる。筆者は周礼、司常の官の掌  

る九種の旗の記述を参考ピし・先番代の図驚表現にみられる各種の旗の名称・作り・用途を研究した・旗につけられた轟の 

                                                      

点息匠の研究は旗墨染教義、四的機能を明かにすφ上に不可欠である墾一紙面の都合で別書ム甕鷲葬鴛∴

 軍隊の観念から軍旗や徽章類を除外することはできない。

中国先秦時代の武器、或ひは軍事組織の研究は従来いくつ

も発表されてみるが、旗については資料が不十分なためか、

まとまった研究がない。旗は、それを以て直接敵を殺傷す

る武器ではないが、古代中国人にとっては単なる附随的な

部隊の象徴に止ったはつはない。それは宗教的な威力をも

って、青銅製の武器と同等の、或いはそれ以上の力を以て

敵を圧倒するものであったと予想されるのである。旗を研

究することによって古代の軍隊の性格、組織を明らかにす

ることができるのではないか。築者が不十分な資料を以て

この方面の研究に手をつけた所以である。

 古代中国の旗には、当然のことながら各種の形態のもの

があると共に、それにはいろいろの意匠の図柄がつけられ

てるた。旗の研究はこの浦幌の研究をまって始めて完全な

ものとなるのであるが、ここには紙.面の都合で主として旗

の各種の形態を扱ふことにしたい。図柄の方は旗とはまた

中閣先秦時代の旗(林)

別の方面にも関聯するので、別の機会に論ずる所存である。

周礼、司常に記される旗

 先秦時代の旗の実物ないし、旗の圧痕などの痕跡は現在

殆んど全く発見されてるない。そこで資料は文献の記述と、

同時代の図像的表現に限られる。最初に先秦時代の旗の種

類、用途の別を記した剃礼、春官、司常の文から検討しよ

う。始めに司常の取扱ふ旗の種類を記して次のごとくいふ。

 司常掌莚旗之物名、各有属以待園事、日月為常、交龍為族、通

 臨為癒、雑酷為物、熊虎為旗、鳥隼為重、亀蛇為旋、全羽為礎、

 析羽為族

  即ち、黒の族旗、を司る役の司常は、次の九型の旗の異った図

 案と名称を取扱ふ。これらの旗には各々徽識、即ち小さい布製

 の徽章がついて.をり、それぞれ國の行事にそなへてある。日月

 の図案をつけたのを「、常」といひ、交龍の図案をつけたのを

 「肪」といふ。一色の生地で作ったのを皿、旛ごといひ、色ちが

 ひの生地で作ったのを「物」といふ。熊虎の図案をつけたのを

 「旗」といひ、鳥篭の図案をつけたのを「旗」といひ、悪事の

 図案をつけたのを「旗」といふ。鳥の羽根で作ったのを「論拠

 といひ、裂いた羽根で作ったのを「族」といふ

といふのである。ついで國の行事の際のこれらの旗の用途

が記されるが、これは略す。

 ここに記された各種の旗のうち、まつ鄭玄が形式の違ふ

ものとして説明してみるものからその県体的な形を考へて

みたい。

櫨i鰯玄は本文の瀕と物につき

 通畠謂大赤、団円引色、無飾、雑畠者以畠、素簸其側、膚股之

 蕉色

  即ち、美玉といふのは赤一色の旗をいひ、赤は瑚薫朝の山色

 によったもので、装飾はない。雑畠といふのは吊で作り、白い

 絹でふちを飾る。白は殴王朝の蕉色だ

といふ。三論譲は鄭玄が施、物をそれぞれそれ独立した一

種類の旗の名としてみるのは誤りで、これらは常、族、旗、

旗、旋の五種に共通した記述でなければならないといふ。

孫氏はこの五旗は五行の各色に対応して大常は黄、大族は

青といふやうに五色のうちの一色の布で作られた、といふ

説をとるからかう解するわけである。しかしこれは五行説

で古典を整理して説明するやうになってからの説で、先駈

時代に実際にあった事実の反影として週番を利用しようと

67 (235)

            き醐搬翻

む  @   こ

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1

2 で

   3

図1.漢時代の旛旗

68 (236)

中園先秦時代の旗(材こ)

2

ウ  ドが  ま

 プ ・糎

《凶

3

4 5 6

69 (237)

  6AG

.餐

図2.漢時代の旛旗

  象x  .塞

1

2 3

f4 5

    6

図3.戦国時代の旋旗

70 (238)

串悶先秦時伐の旗(林)

o o

乱 測索燕

2

4

’   、、∵∵、

し鰍

5

図4.春秋,戦国時代の族旗

71 (239)

巾照先秦時代の旗(:林)

いふ場合には採るには当るまい。

 …郷玄は塘について赤一色の旗だといふのについては、孫

弘繭譲が引くごとく漢魏時代に他にも生地の色だけで図案を

              ②

画いてないのを糖とする説がある。これは漢時代にあった

                  ③

朱一色の旗、例へば遼陽、棒台子屯営.爾墓の例のごとき類

を頭に置いていったものであり、また鄭玄が「雑吊為物」

について色ちがひの生地を縫ひ禽せて作った一種類の旗と

              ④

したのも、この墓の朱黒両色の旗のごときものを考へて言

ったに枳違ない。恐らく鄭玄が考へたごとく、先秦時代に

も同様なものがあったとみてよいと考へられる。

       ⑤

 一方、孫飴譲は王の五旗でも、大事には一色の生地のも

のを用ゐ、小事には色ちがひの生地をはいだものを用みた

らうといふ。大事、小事といふ標準で実際に区諾したかは

別として、通じ形式の旗でかういふ生地の使ひ方の違ふも

のがあったことは事実と考へられる。図3、1と2の左側

の旗を比べてみると、同じくβ月の類と思はれる図案を飾

った同形式の旗でありながら2の方は生地が一色と思はれ

るに対し、1の方は末の方が日月と同じ凸で浮き出しに表

はされ、ここは色ちがひの生地を使ったことを表はしてみ

ると解釈できるからである。

 物-…1司常の本文「雑吊預物」について郷玄は前引のご

とく旗の本体のへりに毅の正色たる白の絹でふちをつける

と解釈してみる。釈名、釈兵にも雑色の生地で燕尾形のふ

                   ⑥

ちをつけたものが「物」だといふ解説がある。これらは、

図1、1、2の旗のふちに縫ひつけら.れたやうなものを頭

において解釈したものであらう。

 これは一説であるが、漢人には別に次に記すごとく、ふ

ちどりとは別な、 「物」を独立の旗の一形式とする解釈が

ある。即ち、説文、側部に

 劾、州毘所建言、三層柄有三游、篠吊、上半異、野趣民……旛、

 或杁か

 即ち「劾は州盤の建でる旗である。この字形はこの旗の柄と、

 峯本の吹き流しを象る。生地は半幅つつ墜ちがひになってみる。

               ⑦

 ……この字はまたかに杁って砺に作る」

と。 

孫諮譲はここにコニ游」といふのは字形によっていった

     ③

ものだといふ。まあ、吹流しは三本には限るまい。ここに

いふ施は、鄭玄らのいふ旗のふち取りの布とは異なるもの

73 (241)

と思はれる。この字が象るといふからには、いろいろの色

の幡の狭い布を何本か束にした五月の節句の吹流し状のも

のでなければならない。零墨の図像のうちには見附からな

いが、戦国蒔代の狩猟の画像に現れる、図3、6の右の馬

車の後にみるものがこれに当ると思はれる。このやうな色

ちがひの布を何本か束ねたものが「物」とすれば、一色の

布一本を以てする檀と対にして挙げられるに丁度ふさはし

いであらう。 「物」は図3、6の左の馬車にみるごとく、

別の形式の旗の柄にとりつけられることもある。漢人が他

の形式の旗の附属物と解釈した「物」はふち取りのやうな

ものでなく、本来はこのやうな形で附加されたのではない

かと考へられるのである。

 同時代の図陳についての右の判断に誤りがなければ、

「物」(旛)は独立の旗の種類ではなく、常、游等五旗の形

式に関するものだとする孫論陣の説は一方的である。独立

の旗としても用ゐられるし、他の旗に附属するものとして

使はれることもある、といふのが真である。

         ⑨

 旛と旛-一孫治譲は血漿の本文に掲てくる…跳と、これに

つけるといはれる旛といふものについて考証してみる。即

                     ⑩

ち爾雅釈天、その郭注、公羊俵、寛公十二年何注などを引

き、旛は薦の端末につけられる燕尾形の布で色ちがひのも

のを用みることに注意し、劉煕が釈名に旗のわきにつける

としたのは間違ひだといってみる。

 図繰でさがすと、蟻とそれにつけられた施は、図1、3

に見るごときものに違ひない。端末は燕尾形になってをり、

く字形の文様が何段かついてみるのは、下色かの布を縫ひ

                        ぬ   も

合せたものであらうか。この旗は旗の柄につけられたふさ

状のものにつながれてるる。棒の先につけたこのやうなふ

さは旛と呼ばれたものに違ひない。後漢時代の車馬行列の

先頭を行く伍傭のもっこの式の持物(図2、1)が施であ

                   ⑪

ることはさきに筆者が説明したごとくである。

 梶に銚をつけることは先秦時代からあったことである。

即ち、詩、小雅、娼車の「設此旛突、思懸旅 」の句を鄭

                  ⑫

箋は、旗を施につないで戎車に建てたのだと説明してみる。

また左伝、定公四年には稗人が羽施を黒人から眠り、これ

               ⑬

に銚、旅をぶらさげた話が出てみる。

 族-一司常の「全羽義軍、析単為族」について鄭玄は

 全羽析羽皆五六、繋之於彊施之上、所謂注下灘干茸也

74 (242)

嬬擁蛍1先秦日寺f幾のな疑 (:{氷)

 即ち、全備、析羽はみな五色で、彊、族の上につないだものだ。

 詩、干梶の毛伝に「瀬野於干首」といふのがこれだ、と。

                          ⑭

孫論譲はこの黒羽、析羽について次のごとく考察してみる。

即ち北

俵、裏公十四年「竃竃子仮羽毛於斉……」の孔頴達の正義に

「全羽、析羽とは鳥の翼の羽根全部を使ふかその一本一本を別

に分けて使ふかの区別だろう」といふ。しかしこれは確かでな

い。質公彦は周礼の宏壮の正義に一,周礼には鳥の羽根を染める

官がある。鄭玄が「五采羽」といふのは鳥の羽根を五色に染め

て旛や施に使ったのだらう」といふ。 一方儀礼、郷射礼に隷旋

について7日羽書朱羽繰」といふから、 一本の羽根を目色に染

めるのでなく、一色だけに染めたものがあったのである。する

と、これを使った方が析羽であり、 一本一本が五色に染めてあ

ったのが全量だ

と。 

然し全羽、析羽といふ時、全、析の語は孫論譲のいふや

うな意味にとれるであらうか。析はいふまでもなく「破算

也」といふのが本義で、分、解、分異等の意味がある。孫

                ⑮

氏が周礼、楽師の正義で引くごとく楽師の注に群肝は「械

も                                             へ

析菰采糟」といひ、訴人の注に「祓列五采緻為之」といふ。

孫氏は後者の正義に注意するごとく、列は説文に「分解

也」といふ意味である。さうすると今の「析五聖維」はど

うしても「五采の糟を裂く(裂いて多数集めて使ふ)といふ

ことでなければならない。然らば問題の全羽、析羽といふ

                       ⑯

時も、一本一本の羽根をそのままの形で使ふものと、一本

一本の羽根を裂いた上で使ふもの、と取るべきである。

 旛…、旛、を形成する羽根についてはこれでわかったが、

その形はどうであらうか。前引の鄭注にはこれについて具

              ⑰

体的に記してみない。孫論譲はこの問題を考察した末、こ

れらは常、族、旗、旗、旛につけた施のごとき形式のもの

で、これを羽根で作ったものであり、実はさういふ名の独

立した旗の種類があったのではない、といふ結論を出して

みる。これもさきの旛、旗についての場合のごとく、五方、

五色に配された蓋旗の観念にとらはれた見解で、到底従ひ

難い。

 私は当然旛、旛ともに独立した種類の旗であると考へる。

族は説文に

 游車載権、析羽注施首

75 (243)

といふ。游車、即ち王が田猟などに使ふ車に建てるもので、

           ⑯

析羽を施の上にくっつけたものだ、といふのである。爾雅、

                  ⑲

釈天にも旅の上にくっつけるものを族といふ、とある。施

は前記のごとく、図2、1のごとく竿の頭につけた毛の房

の類である。このやうな形のものの上に析羽で作ったと思

はれる旗を着けた例は、本来の旗の類の図像の中からは見

出されないが、図4、4のごとく鼓の上に着けた例がある。

鼓の上から診た軸の上に旋とみられる房があり、その上に

軽く翻る長い旗の類がつけられてるる。この旗には魚骨状

の線が細かく画かれ、析羽をつづり合せたものと解釈しう

             ⑳

る。活常古画像石墓発掘報告に、鼓の上の飾りの説明とし

て漢書、礼楽志、安世房中歌の「裁上翠族」とあるのを引

いてみるのは正確である。この「庶施翠族」について顔師

古が、

 謂析五采羽、注翠旅心首言為厩耳

即ち「五采の羽を裂き、翠の旋の上につないで族としたの

だ」と説明してみるのは頗る適確である。立論譲らはこの

形を正確に表象し損つたために葛引のごとき考を持つに至

ったものである。

 爾…雅、釈天の「注詫首日薩」の注に郭僕は

 載施於竿頭、知今之瞳、田富備

といふ。ここに出てくる纏とは筆者がさきに説明したごと

⑳く、図2、2のごときもので、旋の房を大型にしたやうな

ものである。竿の頭に笠のやうな形でつく所に、施が竿頭

に短い紐で吊したのと異る点がある。郭撲の注はこの違ひ

を説明したのである。即ち爾雅に施といふのは、当時の施

のごとく(図2、1)紐で強したのでなく、瞳のやうに(図2、

2)竿頭に載せられたものだ、と注意を加へたのである。

図4、4の鼓についた飾りは施のつき方からみて条件に合

すると見られよう。この郭僕の注を族の説明と取るのは誤

りであることはいふまでもない。なほ「亦有旛」といふの

は、この竿頭にのせた塊には旋の他に硫もついてみた、と

いふ注意である。

 始めに引いた旛、族の作りについての蕉翁の注の最後に

「所謂注旋於落首」とあるのは、詩、干施「矛矛干施」の伝

「注施於干首、大夫之旛也」を引いたものといふ。ここの

鄭箋には旛、 「物」はみな首に施をつなぐ旨記されてみる。

然らば巖、旋の説明のためにこれを引いたといふのは、携、

76 (244>・

や国先秦時代の旗(林)

旋が施だといふのではなく、旛の竿の頭にも詫がついてみ

たことを言はうとしたのだと取らねばなるまい。族が詫で

ないこと、旛、 「物」が施でないのと岡様である。

 旛を本来の旗として使った例は漢時代の図像約資料には

今のところ見出しえない。戦国時代についてみると、図3、

1、2の右、図3、4のごとき、杉葉状のものが析羽をつ

づった族であらうことは、筆者がさきに注意したごとくで

 ㊧

ある。図3、4は田猟の車につけられてるる。司常に「旛

車載族」とあるのに当る。また図4、5には射の的である

侯のわきに麗かれた旗がみられる。これが郷射撃に服不氏

が合図をするに使ふ旋であらうこともさきに筆者が記した

     ㊧

ごとくである。これらはいつれも煙弾を以て作ってあるた

めか、軽々と空中をうねってみる。図4、3も同じく族で

あらうか。これらにはいつれもはっきり施につけられてる

ると断ずべき表現が欠如してみる。図4、5の旛の竿頭に

小円が表はされてみるのは、或ひは施のつもりかもしれな

いが。

 縫-次に「全羽為搬」どいふ旛とは具体約にどのよう

な形のものであらうか。説文には

 癒}、導車所柄軟、全紙 以為ムル、^尤、准一也(毅注のテキストによる)

とある。全羽でもつて允といふものを作るといふのであら

うか。允の何たるかは明かでない。導車、即ち車馬行列の

先頭に近いところに配置される車にのせるといふが、それ

らしきものをのせた図像も今のところ見附からない。

 また周礼、天官、夏釆に「大喪……以乗車建鞍、復於四

郊」とある緩について、気転は

 故書鞍為槌、杜三春云、 「当為緩、髄非」、是也

といふ。雑書に鞍を樋と書いてみるのは、杜子春のいふ通

                     ⑳

り緩とする方がよい、といふのである。孫諮譲はこれに対

し、段粗裁、金榜、駒引之の説を引いて、ここは謎とすべ

きで、縫は説文に旛の或体とする旛 であったはつだ、とい

ふ。するといまの聞題の搬…は天子がなくなった疇その乗用

車に建てて四郊を廻り、天子の魂を呼びかへす儀式に使は

れたことがわかる。

 鄭玄はこの紐について、礼記、明党位に「有虞茂之緩」

といはれる旛旗の一つであり、字は繧に作るべきだといひ、

その作りについて

 緩以施牛尾為之、綴於樋上、所謂注鷹於干善者

77 (245)

といふ。「所謂」以下は司常の文にも引かれるところであ

る。 「繧は早牛の尾で作り、・旗竿の上につける」といふの

である。この繧の説明は施そのものの説明である。孫治譲

     ⑳

が記すごとく、夏蝉の注で綴といふ名の旛旗を考へた際、

鄭玄が冠のあごひもの結び目から長く垂れた飾りひもとい

ふ意味の綾を意識してみたことは確かであらう。後者の意

味の縷は後漢時代にいくらも図像が残るごとく、図2、6

の男の頸の後にみるごときものである。

 この郷玄の鞍についての観念に何らかの古い時代からの

根抵があるとすれば、緩は塊と共通した作りの特徴をもつ

たものであったと考へられる。そして即事の鞍が実は司常

に「全羽為旛」といふ旛であるとなると旛は毛のやうなや

はらかいものの代りに、ぴんとした七つぼの羽根を束ねた、

例へばバドミントンの羽根のやうな作りのもの、といふこ

とにならう。

 西周初期の願方鏡銘中、作器者が…賜与された品物を記し

たうちに「遂毛」があり、陳夢家はこれを「旗旋」と読み、

      ㊧

左伝に出てくる馴鹿と類比してこれを全羽で作った旋とみ

  ⑳              ⑳

てるる。白川静劇も同意見である。薬玉とは毛で作った旅

や羽根(析羽か)で作った施に要し、全羽で作った鷹旗の

一種たる籐の形武の旅、とみてよいであらう。さうすると、

鄭玄が旛に対して旋のごときイメージをもつてみたのも誤

ってみないらしいことが知られる。図像でいへば、図5、

113、11、12の竿頭、15-19の父についた飾りのごとき

ものがこれと考へられる。礎の図像については馬糧にもっ

とくはしく説明する。

 司常の注に形式の違ひが説明されてみるのは右のごとく

である。ところで次に司常の本文にそれにつけられる図案

の槽違のみが、また醜美に旋、即ちふちにつけるひらひら

する布の数の相違のみが記されてみる常、競、旗、旗は同

じ形式の旗であらうか。恐らくさうではあるまい。次にこ

れを検討してみよう。

 常-司常に常は田月の図案をつけたものといはれるが、

日月をつけたものがすべて「常」といふわけではない。族

     ⑳

にこれがある。図案が旗の名称を区別する目安とはいへな

い証である。ところで「常」は周部では大証、祭礼などの

時に王が建てるものとされる。巡礼が編纂された時代に実

78 (246)

口耳鐸i先秦時代の遊退(番木〉

際に用ゐられたものも、恐らく大きさ、作りが最も堂々と

したものであったに違ひない。図1、1、2は鬼神の乗り

物であるが、裂地を何枚もはぎ合せた、まるで鍛帳のやう

な旗で、赤地にβ月と思はれる図案がつけられ、わき、下縁

にぴらぴらしたふち取りがある。「日月為常」といふ「常」

はかういふものを言ったものに違ひない。 「常漏の語は説

                   も  も  も

文に「下常也……裳、常或夙衣」といふ。はかまの意味で、

裳とも書く、といふのである。今の図にあるやうな、たて

に何枚もの裂地をはぎ合せた旗は常(はかま)の名にふさ

はしい。

 周礼、巾車によると常には十二本の静がつけられたとい

 ⑫

ふが、そのやうなものの図像は今のところ見出せない。

 游一司常には「交耀為旛」とある。雷名、釈兵にも同

       ⑯

様な解説があるが、龍を表はしたもの、といふだけではそ

の形式を推す手がかりとはならない。

 一方説文に

 游、旗有衆鈴、以令衆

即ち族は衆鈴のついた旗で、それで以て衆に令するものだ、

といひ、爾雅釈天にも

 有鈴臼族

即ち鈴のついたものを蕨といふ、とある。これらはこの旗

の形式を推す手がかりとなる。鈴をどこにつけたかについ

て・郭僕は爾雅の含条の注に蓋に懸けるとい触別に

             鐙        鐙

李巡の旛の端につけるといふ説がある。段玉器は竿頭につ

けるのは羽施で、鈴は竿頭につけるものではないから、李

巡の説の方がよいといふ。これは礼の説の範囲内での判断

であるが、ここではもう少し広い予震の資料から総贅言に

判断する必要がある。

 栃といふものは西周時代、王より臣下への賜りものとし

て金文中に頻繁に現れる。康王時代の大乱鼎に「なんじの

祖の南公の族を賜る」とあるのが最も蒔代の遡るものであ

                   ⑰

る。また例へば番生計に「朱鷺………二鈴あり」とあるごと

く、たしかに筋に鈴がついてみたことが証せられる。

 一方西周後期の金文の賜りものの中に「幣串」と繍と筋

を連続していふものが多い。繍は和鷺の鷲で、馬車の衡に

   スズ

つける鈴の類の意味がある。すると「綴笏」といふと一応

鷲のついた族、ということかとも考へうる。しかし族に附

属するものとしては古典中に例外なく「鈴」があげられて

79 (247)

をり、また金文の体例からいって、綴が族の附属昂である

なら「馬前」(族。白あり)とあるべきである。さらに金文

中には七年趙曹鼎、免簾等のごとく游だけを賜るものがあ

る。すると「繍族」とつづけて記されてみるのは馬車の附

属晶たる欝、及び族とみるべきである。

 ところで、驚は下がソケットになった柱状の台の上に固

          スズ

定された凸レンズ状の鈴で、物の上に樹てるやうに出来て

みる。もしさきの郭僕の説のやうに、游の竿頭につけると

                      レイ

したら欝が最適である。ところが族には鷺でなく鈴がつい

                     レイ

たことは右に記したところがら確定的である。鈴とはいふ

         スズ

までもなく漠然たる鈴ではなく、高さ数センチの昂鐘形の

鈴で、上に吊すための弓なりの耳がついた形のものをいふ。

    ンイ

游にこの鈴がついてみるとすれば、それは竿頭でなく、前

引の李巡のやうに、布製の部分でなければならない。

            レイ

 高さ数センチの青銅製の鈴を吊すとなると、この旗は横

に長くなびかせる形式のものではあるまい。このやうな重

しがついたのでは、このやうな旗はだらしなく垂れるだけ

でなく、竿に堅く巻きついたりしかねない。鈴がつくとい

ふ旋は、然らば股、西周初の図象記号に普遁に表はされえ

図5、1110のごとき旗であらう。竿のわきに臼本の幟

                ⑩

のごとき縦長の裂地、旛がついてみる。この表現からする

と、上には恐らく貨本の幟のごとく水平の支への榛があっ

たと思はれる。この縦長の部分の下辺外座は鈴を吊すのに

好適である。鈴はこの旛をぴんとさせるための重しの役も

兼ねたであらう。日本の織のこの部分に砂を容れた布袋を

おもしに下げることはよく見かける所である。

 以上鈴があるといふ手がかりから籏の形式を明かにする

ことができたと信ずる。

 旗一次は司常に「露礁為旗」といふ「旗」である。

                  も

「旗」にはいふまでもなく「司常掌九旗之物名」といふ

「旗」のごとく、旗指物全般を指す用例があることはいふ

までもない。しかしここでは狭義の「旗」の形が問題であ

る。ところが現在のところ、古典中にも図像中にもどのや

うなものが同時代に狭義の「旗」と呼ばれたか、その特殊

性を確定すべき適当な資料がみつからない。

          ⑧

 営業といふ言葉がある。段玉矛が「団旗学費之通称、族

有羽者、旗未有羽者、各挙其一、受認九旗」といふ。篠は

羽根のついた旗、旗は羽根のつかない旗で、各代表をあげ

8e (248)

中國先船時代の旗(林)

て九種類の旗を総括させたといふのである。恐らく「旗」

といふ種類の旗は例へば二代に例の多い図2、4.のごとく

最も普通にみかける布製の旗であったにちがひない。然ら

ば確定的ではないが、図3、1、2のごとく族を建てた船

と向ひ合った船に建てられてみるものは、恐らく狭義の旗

と呼ばれたものと考へてよいのではなからうか。

 面一-一それでは司常に「鳥隼為横」といふ横はどのやう

なものであらうか。爾雅釈天には

 錯革鳥日旗

といひ、説文にも

 漁…、描黒革-鳥其上(段注のテキストによる)

といふ。ここにいはれる「革鳥」とは何か。 「錯」くとい

ふのはどこにおくのか。段玉裁は説文の右の条の注にこの

問題に関係の注釈を引いてみる。

 即ち、毛亨は詩、六月「織文鳥章」の伝に「鳥章とは革

          ⑫

鳥を錯いて章上したもの」といひ、春秋公羊伝、宣公十二

年の疏に引かれる李巡の説では「革を以てこれを作り、継

    ⑬

の端に置く」といひ、同所に引かれる孫炎の説では「錯は

                         ⑭

置なり。革は急なり。急疾の鳥を慌に顯くをいふ」といふ。

郭僕は爾雅釈天の前上の注に「これは鳥の皮毛をまるはぎ

にし、これを竿頭に難くをいふ、礼記に『載,漏及鳴鳶』と

        ⑯

あるものだ」といふ。

 孫炎の解釈は周礼司常の規定と同じことになるが、彼だ

けが画くといって「錨く」といはない点に疑ひが残る。錯

は画とは異なり、錯金(象嵌のこと)の用語でわかるやうに、

生地の上に異った材質のものを文様として錆くことである。

「錯」を絶対多数で生かすとなると、革鳥を革で作った鳥

とし、これをおく、とした李巡の説がよささうである。李

巡の説は同時代の、旛の端に鳥頭を飾ったもの(図2、7)

を頭に置いて番つたものに相違ない。郭撲の、鳥の剥製を

竿頭につけたといふ説は、或ひは例へば折南画像石の鼓上

               ⑳

につけた櫨の頂上に鳥を飾ったもののごときを頭に置いて

言ったものかと思はれる。しかしこれでは「錯」の語義か

ら外れてしまふであらう。

 以上紙面を費して検討してきた司常の九旗を、そこに記

される順に要約すると次のごとくである。

 常-裳(はかま)のごとく、何枚もの裂地を縦にはぎ

81 (249)

会せて作った幅広い旗。当然上端に芯を入れ、芯の両端か

ら綱を渡して中央で昂る。

       ノボリ

 二一二本の織の形式をもつた旗で、上に艀があり、旛

      レイ

の下縁外端に鈴を吊す。

 擬一一色の長い裂地を竿の頭につけたもの。図案を画

かない。

 物(旛)1色ちがひの細長い裂地を何本か}まとめに

して竿につけた吹流し状の旗。

 旗i1長い裂地を竿の頭につけた旗で、図案を画いたも

の。 

旗一…1細長い裂地ないしは旛の端に鳥を象った革の飾り

をつけた旗。

 旛-二恩ばかりの細長い裂地の先に燕尾状の飾りを

(色わけにして何段か)つけた旗。

 旗-一点の羽根を裂かずに丸つぼのままバドミントンの

羽根状にまとめて竿の先につけたもの。

 族-一裂いた鳥の羽根を長い紐か布につづりつけた旗。

 かうみると司常に身分の高下に従って系列づけられてる

る九種の旗は、股周時代に実際に用ゐられてるた形式を異

にする各種の旗を、高きざ、作りの立派さの程度を参考に

して秩序づけたものであることが知られる。旗につけられ

る図案も、勿論司常に記されるごとく一形式に一種類とい

ふやうな窮屈なものであったとは思はれない。例へば既に

記したごとく日月の図案がつけられるのは「常」には限ら

れてみない。

二 徽

 旗のうちには日本の指物のやうに戦士が個人個人で体に

つける小型の類があり、また徽識と呼ばれる徽章類も盛ん

に用ゐられた。周礼、司常の「不為属」の属について嶺町

は 属謂徽識也、大熱謂之詰論、今城門雑面所被、及亭長著緯衣、

 皆其旧象

といふ。即ち「属といふのは徽識のことで、尚書大伝では

徽号と呼んでみる。後漢時代の城門僕射がつけるもの、亭

長が制服の赤い上衣につけてみるものはみなその伝統によ

るものだ」といふのである。漢時代に兵士が肩に赤い布で

作り、端が燕尾状になった徽章をっけ、また城門無籍が背

82 (25e>

中閣先買時代の旗(林)

に赤い幡を負ってみたことは孫論譲が孔広森、任大挙の説

              ⑰

を引いて証してみるところである。

 これらは漢より古い時代からの伝統であるといふのであ

る。幡、即ち旛を背に負ってみる図像は図3、3にみられ

る。車の後に立つ人物の背に立ってるるのは、注⑳に説明

した旛である。

 端が燕尾形の布切れといふと、丁度現今の団体旅行のメ

ンバ…が印につけてみるリボンのやうなものと考へられる

が、このやうなものは今のところ図像の中から発見するこ

とができない。然し、例へば春秋左氏伝、昭公二十一年に

「厨人望……日、揚徽老、公徒也」とあるごとく、先秦時

代からあったことは確かである。

 図像にみられる徽識のもう一つの例は図3、5である。

四人一組になって戦ふ歩兵の一人であるが、肩から族と同

様な、杉葉状のものが醸ってみる。これは国語、晋語に

            オ

「被羽先升」といふ「羽を被ふ」姿に違ひない。このやう

な風習はやはり後漢時代にまで遺ってをり、後漢書、質復

            ⑯

伝に「於是被羽先登」とある。

 これらの学識の用途について郵玄はさきの司常の条の注

に戦争で殺された時制かわかるやうに名を書いた札を下げ

         ⑲

ておくのだ、といったのに対し孫論譲は恵士奇の説を引き、

色、着ける場所などによって兵士の部暑や部隊を識別する

ものであったことをくはしく考証してみる。長くなるので

引用しない。

三 段、西周時代の文字、記号等に表はされた旗

 戦国時代以後の旗関係の図像については前二節で引証し

たので改めてもう一度解説する必要はなからう。しかし毅、

繭周時代の文字、記号に現れるものについては、前二節で

触れなかった問題もあるので、これについて説明を加へて

おきたい。

 游-図5、1110に現れる旗の類が游を象ったもので

あらうことはさきに記したごとくである。しかしこの記号

に表はされた旗の形は、金文旅、游などの字の各時代にお

ける字体の変遷をたどれば知られるごとく、明かに説文の

かに変化して行ったもとの形である。図象記号で竿ぞひの

旛を表はした幅広い部分が文字ではなくなってみる。図5、

5、6は同じ記号であるが、6では旛が略されてみる。游と83 (251)

旛は多く一つづきに表はされてみるが、両者が別々に竿に

つけられたごとき表現もある(図5、7、10)。図5、3、4

には游が二本表はされてみる。、竿は多く人の背の二倍以上

に表はされてみて、当時の旗竿の長さの標準を知ることが

できる。しかし図5、2のごとく短小なものもある。この形

    ユン

が説文のガ字の原形であるとはいへ、説文にいふ「施旗の

游が高く舞ひ上る様」といった限定された意味を表はすも

のでなく、游の画像そのものであることはいふまでもない。

 崇牙一図5、11の旗は旛と游の下縁が鋸歯状になって

みる。これは礼記、明堂位に

 有毒氏之繊、夏后氏之綱練、股之崇牙、周之難饗

とあるうち、股の崇牙といはれるものであらう。鄭玄の注

に「夏は旗の竿を練でつつみ、練で硫を作った。殴はまた

              ⑭

糟で重牙を作り、そのへりを飾った」と説明してみる。旛

のへりに牙状の飾りをつけるといふと、丁度この図のごと

きものとならう。これは旛にも同じ飾りが及んでみる。

 二一⊥別引の明品位の文に周の壁襲といふものが引かれ

てみる。鄭玄は「この義旗と翼はみな喪葬の飾である……

雲は枢路を前後左右からはさむ。天子は八巽で、みな壁と

垂羽をのせる。諸侯は六野で、みな圭をのせる。大夫は四

              @

嚢、士はこ巽で、みな綾をのせる」と解説する。雲の数は

下記、礼器によるものである。この嚢は棺を埋める時、一

         ⑧

緒に埋めるものである。陳県上村嶺一七〇六、一七〇一号

春秋前期ごろの墓から発見された青銅製の「棺飾」といは

れる遺物(図4、!、2)は右に引いた襲を青銅で作ったも

 のに違ひない。中央に圭が立ち、「諸侯課率、皆載坐」とい

 ふのに該当する。一七〇六号墓では墨描に立てかけられた

形で長辺に二つづつ、短辺には鳥形の飾りだけが各一つ、

       ⑭

計六個が発見され、 一七〇一号墓では縮上に置いた形で短

辺に各二、中央に一つ、更に短辺に対応する墓臓の壁の近

              ⑧

くに各一つ、計七つとなってみる。数がほぼ合ふのは偶然

とも思はれない。圭の立つ台は三宝のやうな独特な形をし

てみるが、或ひは図5、8の旗の頂上についてみる、施の

やうな飾りを影絵風に表現したものではなからうか。図4、

2の方は下方に釘孔がみえる。この下に何か柄をつけたも

のであらう。なほ上に鳥がとまった形の飾りがあるが、こ

のやうなものについて古典に記載があるかどうかは知らな

・い。相ひ近い遺物は陳西省宝町県陽平鎮の春秋後期の墓か

84 (252)

中国先秦縛代の旗(林)

        ⑧

らも発見されてるる。

右の判断に誤りがないとすると、これは旛旗関係の稀な遺

物といふことになる。また翼についての礼の所伝が春秋初

にまで遡る伝統をふまへたもので、意外に適確に実際に行

                     @

はれた縫会慣行を伝へたものであることが証される。

 旗i図5、1-7、11-13の旗の竿頭には、三叉また

はすすきの穂状のものがついてみる。後者は股時代の鳥の

羽根の表現である。羽、非などの字がこれに二ってるるこ

       ⑧

とから知られよう。また前者もやはり鳥の羽根で、これを

何本か束ねた形と考へられる。図5、7の記号は、また竿

                ⑲

頭が三叉になった形ででも表はされるからである。この羽

根はしゃんと立ってるるから裂いた羽根でなく金羽であら

う。全羽を東ねて上向きに竿頭に着けてみるのである。司

常に「転地為旛」といふ旛の一類に違ひない。

 園5、15119には所謂立父上の図象記号を引いた。黄の

「内」端に吊された飾りが、全羽をバドミントンの羽根状

にまとめた旛ではないかと先に推測した。15では長い羽根

の根本の方はぴんとして、先の方がひらひらした様が表は

されてみると見られる。16ではこれがもう少し簡潔になり、

以下171珍と簡略化のあとがたどられる、一九五〇年発掘

の武官村大墓、W8から嵐土した文には「内」に鳥羽の一

長段が残存してみたといふ。報告者はこれは「舞二言」の

           ⑭

執った武器だらうかといふ。ここに推測した父の「内」に

吊した旋の金羽のあとと見た方がよいであらう。

 ここに引いた曳の図像の秘の下端には「内」に用されて

るるのと同じ飾りがついてみる。するとこれも旛でなけれ

ばならない。ここは石突きに当り、このやうな所に羽根の

飾りを着けたら、父をつき立てた時台なしになりはしない

かとも考へられるが、股の文の秘は一米内外のごく短いも

のであるから、ここを地面に突き立てることはなかったに

違ひない。藏割りの柄の手許を地上に突くことはないのと

同様である。

 この秘につけられた魔は紐で吊すのでなく、直接秘に作

りつけられてみる。旗の竿頭につけると同じ方式である。

             ヘ  ヤ  も

さきに旋についてこれが竿頭にはたきのやうに、野牛の毛

           も  も  も

をくくりつけたものと、はたきの頭をもいで紐で竿、頭にぶ

                    ⑧

ら下げたやうなものと塁壁があったことを記した。旛にも

同様二つのとりつけ方があったことが知られたであらう。

85 (253)

 ところで「内」端と秘の下端にこのやうな飾りをつけた

立父形の翰墨記号を注意してみると、この父の援はすべて

長さが短く幅の広い形式のものである。実用的な機能にお

いて劣ると思はれるこの形式の父にこのやうな飾りがつい

てみるのは、この父が宗教的ないし儀式的性格の強いもの

であることを示すと思はれる。

 「牽」の竿頭1i図5、10の竿頭につくものは「幸」字

と同形であり、いふまでもなく手枷である。

 鹿一図5、8の竿頭の飾りは両側に垂れてみる。施か、

羽掩のやうな、やはらかい類を表はしたものと見られる。

 図5、12の游はーー11までのものと異なり、もとに丸い

ものがついてみる。恐らく施首に旛をつけたものであらう。

 膓-・図5、13につく吹流し状のものは、同形のものに

結ばれてみる。比例からみて図5、15-19の父の「内」に

着くものより長大である。施につないだ筋と見られよう。

図5、14は竿に直接筋をつけてみる。

 図5、20122は旅字である。詩形の旗と車は多く分離し

て書かれてみるが、ここに示したものは車上に人が立って

旗を持つもの、車上に立てた形のものを引いた。馬車の上

に旗を建てることが殴時代より行はれたことを知ることが

出来る。22は例外的に族の形式ではなく、筋の形式の旗が

建ってるる。

 申-図5、23125、31134はいつれも一本の竿に複数

の慌のついた、形式からいふと旛の形式に近い旗を表はし

た文宇である。唐蘭はこれらはいつれも「中」字であるこ

とを証し、図5、35は最も簡略化された体で、これらはみ

              ⑧

な旗を象ったものだといってみる。たしかと思はれる。ま

た旗の類で「中」といふ意味を表はすわけについて、この

旗は始めは氏族社会における徽織であり、周壁、黙劇に旗

に各種の記号、図案をつけるやうにいはれてみるのは古代

のトーテム制度の残存である。この徽幟は氏族員がそのも

とに参、署する中心となったために「中」の意味が生れた、

      ⑧

と説明してみる。胡厚宣もこの「中」字を旗と見、ト辞の

「立中」、「立蒔偏その他の語からこれを疵族の軍事、開墾

                  ⑧

活動の中心として立てられた旗と考へてるる。

 六礼、司常の文で知られるごとく、人を集合させるに各

社会グループの集合場所を示すのに旋旗が使はれたことは

たしかであり、般時代にもさういふことがあったに相違な

86 (254)

中国先秦霧拳代の旗(林)

い。しかし「中」を表はす文字にはヴアリエイショソが多

いとはいへ、複数、それも二本一まとめの旛…の束が、一本

の竿に上下対称につけられた形で表はされる傾向が強く、

自ら他の旗とは異なった一種類の形式を具へてるる。錦ち

どの種類の旗ででも「中」といふ意味が表はせたわけでな

いところに前引の諸説の難点がある。恐らくこの形式の旗

は股時代にさきに引いた説明よりももっと限定された象徴

的意味、機能をもつた旗であったと考へねばなるまい。し

かしその原義については筆者は今のところよい意見の持ち

合せがない。

 嘉、史-図5、26は金文の事字である。上半には明か

に竿頭に旛の類をつけ、游のある斎言の形が認められる。

しかしこの体の例は稀で、普通は游のない字体が用ゐられ、

                   ㊥

金文、甲骨文には図5、27、36と書かれてみる。この簡略

な方の体は、かに夙ふ字の游に当る筆劃を省くことがない

ことからみて、筆劃を省いたといふより、その象った鰐象

が多く游をつけてみなかったことを示すものであらう。こ

の字はまた躍増にも使はれることはいふまでもない。

 然らばこの族旗の竿の中途にある口慣は何であらうか。

旛旗につくものといへば直ちに図5、17、18の父につけら

れた巖の形が思ひ起されるであらう。ここでは下向きにな

ってみるが、事字では竿の中途に上向きにつけられてるる。

ぴんとした忍事をもつて作られたものと考へられる。戦国

              ⑭

時代初め頃の水陸交戦鴬嬢をみると、黄戟の秘の中途に、

旋と同様な杉葉状の飾りが上向きに出てみる。これも羽根

の装飾であることは疑ひない。このやうな旗のつけ方の遺

制とみることができる。

この事字から携を残して上部を切り去った形が甲骨文、金

文史字である(図5、28、29、37)。図5、17をみると、この

黄の秘の下半をとって上下逆にし、これを手にもった形が

史字であることが知られるであらう。稀な例であるが、史

見旛の蓋銘には史を普通に図5、29に作るに対し、器銘で

は30に作る。父につけた旛…を或ひは図5、40に、或ひは図

5、41に作るのと平行例と考へられる。史字の従ふ図5、

42

ェ父に着けられるのと同じ魔であることを証するもので

ある。

 かうみると、史は旛を手に持つ形、事は竿の途中に旛を

つけた当言を手に持つ形、といふことになる。史、事の

87 (255)

最も古い時代の資料である甲骨文の用例については、白露

              @

静氏がくはしく研究してゐられる。史の官の原義について

氏は「史は祭祀の祝告を掌るものであり、史の起原は祭肥

                 ⑧

における祝告の儀礼、祝辞の管掌にある」、とされたことは

正鵠をえたものと考へられる。然し、史、事の字形につい

て「図5、37、字の従ふ図5、43、44がいつれも祝冊を収

         ⑧

める器の形を示すもの」 「図5、36には遠くに使する意味

が含まれることが多い。いまその字形によっていへば図5、

45

ヘ叉頭の長桿であって、図5、37がただ宗廟の中で祝冊

を神木に懸けて捧持する形であるのに対して、遠く都外に

              @

出る意を含ませたものと見られる」といはれるのには賛成

し難い。長桿、神木に皿形の容器を懸け、これに冊を盛っ

て捧持するといふのも、中味が落ちばしないかと不安な限

りである。

 史字、事字の従ふ図5、44を形の方面から旛の類と見る

べきであることは前記のごとくである。また次に記すごと

く、さう解することによってこれらの文字の原義が頗る明

決に解釈されるのである。

 史の字が旛の類を手に持つ形で表はされるのは、旛が神

や祖霊を呼び降すための必須の道具であるからと考へられ

る。夏釆が復する(死者の魂を呼び返す)のに旛を用みたこ

とは七六頁に引いたごとくである。また周礼、男巫には

 労招以茅

とある。即ち四方の霊祭する神々を茅縫の類で招くのであ

る。神を招き降すほか、茅旛は宗繭でも使はれた。即ち、

春秋公羊伝、宣公十二年「弱冠肉担、左青茅雄」の注に

 茅族祀宗廟噺用、迎道神指、護寄集

といふ。即ち「茅族は宗廟を泥るのに用みる所で、神の意

を迎篤し、祭を護るものだ」といふのである。

 また各種の祭祀に際して行はれる舞には羽根や施の類が

用ゐられる。周礼、楽師に、

 凡舞、有油玉、有羽舞、有三舞、有産舞、有干舞、有人舞

とある。祓舞は丸のままの羽根或は五采の縛を束ねて柄を

    @

つけたものを持つ舞。善業は白羽を裂いたもので、祓と同

       ⑧

じ形に作ったものをもってする舞。皇舞は五采の羽根を裂

               @

いたもので祓と同じ形に作ったものをもってする舞。これ

らの六舞は楽師の注に始めから順に評語、宗廟、四方、瀞

塵、兵事、星辰を祭るに使ふといひ、塗師では始めから三

88 (256)

中岡先秦時代の旗(林)

っは順に社櫻、四方、纂輯に用みるとされ、兵舞は山川の

祭祀に用みるといふ。各種祭祀に用ゐられる舞に羽根を束

ねた撫…ないし羽施、掩の類を持ってするものが多いことが

わかる。これらの持物は本来単なる美観のための小道具で

あったとは考へ難い。いつれも神を招き降す旛と同じ意味

あひのものであったに違ひない。野馬の類の神事を司る官

である史が、羽根をつけた道具を手に持つ形で象られてみ

るのも同じ関聯においてであると見るのが穏当と考へられ

る所以である。

 それでは事・使宇がやはり旛をつけた雄旗の類を手にも

つ形で表はされるのはどう理解すべきであらうか。白川琉

は、 「事」は王のために祭認を行ふことが原義であり、卜

辞にみるごとく「使」は祭主の地に事(祭事)のためにお

            ⑭

もむく義がある、といはれる。祭事の羅的のために神を招

き降す施旗を王からあづかって持参することは当然のこと

であらう。さきに事字は多く持のない形で表はされ、それ

が実際に用ゐられた旗がこれを欠いてみるのを象ったので

あらうことに注意した。このやうな艀をとり玄つた旗は周

礼、夏譲に用ゐられてるる。躍ち前引のごとく王の官であ

る夏采は大喪に際し、王の乗車の馬車に旛をたて、これに

乗って四郊に復の礼を行ふわけであるが、それについて鄭

玄は

 王祀四郊乗玉翰、建大常、今以之復、唐輪簾、異之凝望、心因

 先王有徒繧者

と解説する。即ち「王は生時には四郊を祀るに玉で飾った

馬車に乗り、大常の旗を建ててみた。王がなくなった今、

この馬車に乗って復の礼を行ふのに、その裂地の部分をと

り去って(竿頭の旛だけを残し)、生時と区別する。また先王、

             ㊥

即ち有虞氏の用みたと伝へられる、裂地の部分をつけず旛

だけをつけた旛旗の制度によるのである」。と。

 ここに出てくる竿とこれにつけた巖だけを残して裂地の

部分を外してしまった旛旗は、丁度普通の事字の象る旋旗

の形そのままである。愚説は王の乗用の馬車にこれを建て

て祭事に四郊におもむくわけである。そして股時代の事・

使命は王のために臣が祭事のために祭罷の地におもむく義

があるのである。両者が無関係であると考へることは困難

であらう。かうみると事・使字が旛をつけた旛旗の類を手

に持つ形であることは決定的といってよいであらう。後世、

S9 (257)

王の使者が節をしるしに持って使ひにおもむく風醤がある。

節とは図2、5に示した人物が持つものである。傍に「漢

使者」と題されてみる。使者がこのような秩に旋のついた

ものを持ってしるしにするといふのも、恐らく使・事字に

象られるごとき、旛・鷹の類の施旗を持って王事にあたっ

た伝統の残存と解釈すべきであらう。

 事字には游のついた旋旗を手にもつ形のものもあること

は前記のごとくである。この旗は図5、1-10に示したご

とき、さきに筆者が旋とした形式の旗の竿に旛を附加した

形である。族が王の祭事に用ゐられる旗であったことは

西周時代になっても同じである。函周金文、特に後期のも

のには賜りものの品目を列挙した最後に「用事」 (別て事

せよ)とあるものが多い。この語のある例のうち、賜りも

のの中に旗を含むものが大半であるが、その旗はみな族で

 ⑯

ある。 「用て事する」ための旗が鋳であったことが知られ

⑧る。 

以上、旗といっても竿に魔や施のついたものは神を招き

降す力のある、いはば恐しい力をもつたものであったこと

が知られた。例へば戦場などにこれを持ち出されることは、

日本でいへば比叡山の僧兵が日吉の神輿をかつぎ娼してく

るのと同様、由々しい大事であったにちがひない。旗の宗

教的、社会的機能は、しかし、これにつけられたしるし、

図案についての研究を行はずしては十全に明かにすること

ができない。それについては近い将来に発表したいと期し

てみる。

①孫一九〇五、五霊、一四。

②孫一九〇五、五三、一四。左伝、傅、二十八年孔疏の引く孫炎の説

 に「悶其緩色以為旗、章不画工」といひ、釈名、釈兵に「旛(旛に同

 じ)通以赤色為之、無文采」といふ。

③李一九五五、二〇。

④同右、一九。

⑤孫一九〇五、一五。

⑥「雑畠為物、以雑色綴其辺為燕尾扁と。

⑦段玉裁は注に経典の「物扁の字はこの物の設だらうといふ。

⑧孫 九〇五、五王、一五。

⑨岡右、一五一六。

⑩幽雅、釈天に「継当繍施」とあり、郭注に「吊続旛末為燕尾者」と

 いひ、公羊伝、寛公十二年「荘王親自手族」の何注に「緬広充輻、長

 尋田撫…、継撫…如燕羅顕施」とある。

⑪ 林一九六六、一九閥-五。

⑫ 設魏春、属之於干施而建之戎箪。

⑬ 蕾人仮羽施於鄭、鄭人与之、明日或施以会。

⑭ 孫一九〇五、五三、 六。

90 (258)

中醐先秦時代の旗(林)

⑮ 同、四四、五。

一@ 金羽については楽蘭の正義に

 してみる。

(四四、こす孫論譲もこのやうに解釈

⑰ 孫一九〇五、五三、一六一八。

⑱注は属の義。

⑲注施首日漉。

⑳ 一二六世子。

⑳ 林一九六六、二〇一-二。

㊧ なほこの条の孫炎注(疏弓)には鷹の他鯵もあるとしてみる。李下

 注には(疏引)「施牛尾著竿首」といひ、施が旗だといふ説明ともみ

 えるが、公羊伝、賞公十二年齢に引くところでは「驚牛尾薩酋者」と

 あり、竿養が旋薫となり、動詞がない。原形を復原しえないのでここ

 には利用しない。

⑳ 周礼孤卿建栴、大夫建物、皆幕議施。

へ魍 林 九六一-二、ω、 四二。

殉 岡右、~二。

⑳} 孫一九〇颪、 一六、 四瓢一。

⑳ 頓知、四四。

譲 定公四年(注⑬所引の条)、襲公十四年(七二頁繊麗の条)。

⑳ 陳一九五五、一〇八一九。

⑳ 白川一九六五、 (九)、五二四。

          マ

⑳暴説、明堂位に篇所稀有二等、日月之章」といふ。

⑫ 周礼、節服氏の「維王之大常」の漉に鄭玄は「王旛十島旛、両々以

 締催綴連労」といふ。両側のへりに縫ひつけたといふ解釈である。

  「交龍為旗、族、依也、単作幽翠、梱話頭、諸侯所建也」と。

⑰鍵

県鈴於竿頭、画交譲於読。

詩、周頒、載晃「龍脇陽々、誤謬努々」の疏引「以鈴著簾端」。

説文、塀{子の注。

「朱游、鞭、金葬、二黒」とある。纈を郭沫若は(郭 九五七、考

 釈、ご工三)周礼、司常の「通畠為麟」の籏としてみる。是であらう。

 一方門金突」を錦妨(紡は柄)と駅し、「釈天所産『素錦心紅』、如為

 金属之紅不易挙、故知金必為錦」といふのは蛇足である。「金軍」「金

 母(子)」等はどう解釈しようといふのであらうか。ここは普通に「青

 銅の金具で飾った」の意味の「金」でよい。

磯呉一九〇六、二、四「織、和欝、脇、龍族」とある通りである。

  なほいつも鎌の次に鋳があげられるのは何故かといふことは、帰命

 後期金文の賜り物の列挙の順が繊定化してみた事実によって説明され

 よう。

鐙 林一九六四a、 二九〇。

⑳ この縦長の裂地は説文に「旛、旛胡也、謂旗影之下王者扁といふ旛

 と考へられる。ここにいふ胡は、牛の頸に垂れた皮のことで、父の刃

 の下に垂れた部分もこの名で呼ばれてみることはいふまでもない。こ

 の図象記号に装はされた縦長の裂地は胡の名にふさはしい。

⑪ 説文、ガの注。

⑫ 鳥章、錯革鳥為章也。

  以革為之、綴於旋端。

⑭ 錯、羅也、革、急也、言醐衡心疾之鳥干旛…。 (詩、六月疏の引田川には

 「子硫扁を「鎖鎌隠に作る)。

㊧ 此謂食剣鳥皮毛、置之竿頭、那礼記云、下寺及鳴鳶。

⑳ 欝一九五六、図版八八。

⑰ 孫一九〇五、  三。東京賦「黒田謹選揚揮」の薩…綜注に「揮為肩上

 緯幟、如燕尾春也」 (揮は徽)とあり、説文巾部に「微、徽識也、以

 緯{吊、三芳背」(段注のテキストによる)といひ、また衣部に「楮、

 卒也、卒衣有薄襟渚」とあるのを引く。また城門僕射の服装について

 は続漢霞輿服志に「卿非冠……宮殿門奥僕射繕事、負赤幡、晋麺燕尾、

 諸白射藤野如之」とあるのがこれだといふ。

⑳ 章懐太子注に「被猶負也、析羽為族旗、将軍所謂」といふ。或ひは

 無代の図2、3のやうな姿を想潔したのかと思はれるが、旋旗を負つ

9正 (259)

 たといふのは少々不正確で、被羽といふからには今の隈のやうに肩か

 背に燕けてるたと考へられる。

⑲兵凶購、若有死事者、当以相別也。

⑳ 孫一九〇五、五五、四四。

⑪ 夏綱其紅以練、為之慌、般又要撃為重芽、以飾縁側。

鐙 此旛旗及嬰、皆喪葬之飾……饗応枢路、左右前後、天子八翼、混載

 壁垂羽、諸侯六嬰、紫載申ま、大議大四婁、 土二翼ハ、紫茄球差。

萄 礼記、檀.君上に「二人旛塾主」とあるごとくである。階は棺のおほ

 ひ。

⑭ 中巾科学院考古研究所一九五九、図二九。

⑳岡右、図五。

⑭ 険西文管会一九六五、三三九、随一。

⑰ 筆者はさきに戦園時代の画像紋を研究した際、射、宴楽等について、

 儀礼などの礼の書が些小な細部まで戦国蒔代に実際に行はれた礼を伝

 へてみることに注意した(林誌九山四一…二)。

磯林一九五三、二一一。

魯 羅…一九廿工ハ、 一五、 士一Q

⑳郭~九五一、三七。

⑪七四頁。

⑫唐一九豊四、三七…四〇。

⑳ 同、鵬○!一。

⑭胡一九五五、序、五。

⑯ 園象記号、金文で三叉に表はされる翠色の竿を顎骨文では二叉の頭

 のついた形で表はすことは、艀、旅の甲骨文を麟5、38、39に袈はす

 ことを見れば明かであらう。

⑯ 目林一九六一-二、㎜凶工。

⑰ 白川一九五五、隣貰以下。

礁同右、一。

⑳同右、一四。

㊧同旨、 九。

⑳ 周礼舞師注に「鄭司農云、嬢舞蒋全羽」と。また鼓問注に郷玄は

 「帳、列五采繍為之、有藁扁と。

⑳ 舞噸の注に「羽、析白羽為之、形如帳」と。

⑳ 鄭司農が楽師注に羽根を頭につけた舞とするに対し、鄭玄は舞師の

 注に「皇、析出采羽為之、調帳帳」といふ。

㊧ 白川一九五五、二〇。

㊧ 礼盤、明賞位「有華氏之旗、夏爵氏之緩」注門標縫氏当…=口鞍、夏后

 氏当欝族、此蓋錨誤也」。

⑯ 便宜のため郭一九五七から引くと、尊王の次の葉に例が見撫される。

 六五、七二、七三、七七、七九、八○、八九、一〇〇、一〇六、一一

 四、一一五、}二一、= 五、一四九、一二○、}五照等。

・⑳ なほ白規静氏は大皿血鼎銘の「賜藩祖南公耕」について、門このような

 祖考の耕、市がどうして天子の許にあり、その子孫に賜与されるか」

 について「おそらく父根の後を嗣ぐものが、その綱襲の際に先んの遺

 品、特に曾て王から賜与されたものの中から択んで、これを天子に返

 納する礼があったのではないかと思われる」と推測されてるる(白娼

 }九六五、〔一二〕、六六八)。恐らくさういふことがあったであらう。

 ここで考察してきた族についていへば、これはいはば後世の節のやう

 なもので、任務が終ればやはり返却すべき筋合ひのものと考へられる

 からである。さうすると金文の[易」は賜ると読まれてみるが、今の

 意味で賜るといふのとは内容が違ってみたことになる。かういった問

 題は未だ明かにされてみない点が多い。

挿図目録

     へ

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   2

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   2

林一九山ハ四【、 図以

 ク    図25

重慶博物館一九五七、図31

0剛多く黛こお。。お09℃一.い××=一’

搏一九五一、二二三

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92 (260)

・rl:国先秦時代の旗(林)

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図4

図3h

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迅泳}九五九、石刻、図三三

〇7ρくρ昌βO匂弓一㊤OP℃一.びく四一累9一一G◎

【欝等一ふん五山ハ、図版い五五

関野~九一山ハ、第一 一〇図

林~九山ハ一一二、國-

中園奨術、圏版五九頁、騒七八

閑ρ謡σq吋Φ瓢一㊤艶”{諮.欲㊤

鄭安一九一六

林一九山ハ …二、 ㎜凶-

〃     〃 菌6

中国科学院考古研究所一九五九、図版五〇、

ク     〃 図版三、3

中国科学院考古研究所一九五六、麟一三八

沈~九五七、二九

湖南省博物館一九五九、図二、2

呵維一九三六、二、五

〃   〃 一四、コエ

〃   〃 ㎝五、一二

、予一九五七、四三

羅一九一二六、 一六、 四ハ四

〃〃ク〃ク〃〃ク

〃クク〃〃クク〃

=二、三〇

一四、一三

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一二、四三

一二、四九

一四、賜六

一四、一三

一一

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1

39 38 37 36 35 34 33 32 31 3e 29 28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14

ク〃ク〃〃〃〃ク中〃〃〃〃〃〃〃〃ク〃ク〃〃〃羅子ク          睡1                  一一          科                  九九          学                  三五          eeti ll 1! ll 1一,!1 11 ll 1/ 一1 !1 1! 11 一1 !1 rtt 一g 1一

          古 一五三六一一一エー一一一三六六二六四一〃〃〃クク〃〃〃研 三’”八霊’三一’’’”八九          究ク’八五菰”三”三ニニ四二源’          所  二  〇七五ニー七一        九二ニー三一クルーr・一・A 三      八   七

引用文獄目録

干雀吾 一九五七、

郭宝鋳 一九五一、

一七

〃ク

一八

三ご毛

二八九

二九〇

(著藩名五〇音順)

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93 (261)

   一i六 

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開髪一αqお図ど切こ一当卜。”》O螢窪一£器oh窪oO三器ω¢じご8壽。。・言夢①

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   五五、五、一五…四工

                       (鎌都大学助手)

94 (262)

inzmdation, it is difficult to prove the succession of settlement, and

to reconstitute exactly the past landscapes with very few related

sources. These several years, through the examination of documeRts,

the interpretation of aerial photographs and the field-survey, we have

tried £o make elear the limit of the manor and to reconstieute the

old physical environment and the medieva} settlemen£.

  This paper・ is a report of our latest result. The area is situated

on the piain under the alluvial action, forming a subsidence block,

high in the north and west .and low in the south and east, having

the’ remarkable netted traces of abancloned channels made with

frequent variation of the main current; in which the old central

sanclbanl〈s and natural levees formed a lower highlands. The develo-

pment otF the lleedct Rianor is thought to be a result of culgivating

at first this lower highlands and then aclvancing into the lowlands

such as current trace and back marsh. Those who maintained the

terininal Organ aS‘Zczifee在家’in the rUling syStem Of a rem碗e manOr,

were the leader class of the social groups which occupied separately

the lower higklands; but ‘Zaifee’ or.aanized only a small community,

not ruling naany serves of his own with his strong power like in

the other remote land of medieval Japan. ln the lkeda manor people

seeined to live separately arotmd the Zaifee, forniing a hamlet or .a

small scale of the thinly housed village as a unit which consisted of

several families ot almost the same origin occupying the lower high-

lands.

           べChiRese Flags in the Pノ’e-Ch《in先秦 Period

     by

Minao Hayashi

  No relics of the flags in the Pre-Ch’in先’秦 period have been found

yet; the arran.ffed description about £heir khids and uses is found in

the chapter S2z2-ch’ang ”t’]’Y:t# abotit the fiag-managiiig office of Chou-li

周礼,in which fiags with various names were distinguished nbt by

their forms but by their painted design; but the fiags in pictoi’ial

signs or characters in簿e Yi・n股and the westem Chozt西周period

and tho$e in the pictures from the Warring-states period to Han漢

dynasty had various styles.

 This article proves that various lcinds of flags in the chapter of

                            (331)

Chozt-li were natura!ly the following styles, uslng tlie sources of the

comments in classics and the above pictorial expressions:

Ch’ang

Ch’i

Chan

WuCh’i

Yiil

ChaoSui

Tsing

(常)一…・且g.1-1,2

(拶の……fig.5-1~10

(tw)・・・… fig. 3一一1, 2 left

(物)……行9.3-6

(旗)……丘9.2-4

(旗)・…一丘9.2-7

(麓◎……負9.1-3

(腿)……fig.5-1㌻3,11,12, i5~19

(旛)・…一且9。3-4

In addition, we explain the ensigns in the ciassics and the reai styles

of the flags and the like used in funeral, and also make reference to

the religious origin fiags in China-to invite God from Heaven.

Administration of Marltime Customs in the Ching清Dynasty

by

Takanobu Terada

  ‘History of the Maritime Customs in Ching清’can be roughly

divided into two periods;one is ill the period of Kang-hsi康照, Yung-

cheng雍正, Chien-lung乾隆, and Kia-ching嘉慶, and the o℃her ill the

period after the conclu.sion of the 1>々η1短η9薦京 Treaty in Tao-kuang

道うiL・ 22, 1842.  .                          軌

 This article tries to clraw a rough sl〈etch of maritime cus£oms

administratiod or instltutional liListory of niLaritime custonas in the

first half period, especially treats she organization and system of

maritime custonas ancl coilectioR and use of customs, to offer the

several materials in consicleration of the character of maritime cus-

tonas in Ching. . ,

(330)