Techno-century · 20世紀、記憶の大空へ。 1945年8月3日。...

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20世紀、記憶の大空へ。 1945 8 3 日。 幻の先尾翼式戦闘機《震電》は 技術者たちの夢をのせて、夏空へ飛び立った。 米国スミソニアン航空宇宙博物館に、半世紀余にわたって眠りつづける日本製の戦闘機があります。 太平洋戦争も最終末期、 “先尾翼式”という先例のない機体に、国運を担って開発された局地戦闘機 《震電》 これは今も渡辺鉄工に語り継がれる、幻の名機開発にまつわる、技術者たちの挑戦と苦闘の物語です。 昭和19年5月、渡辺鉄工の前進である九州飛行機株式会社に、 海軍から“新鋭機”の製作依頼がもたらされました。提示された課 題は、B-29などの重爆撃機を迎撃する高性能な局地戦闘機を つくること。型 式は単 発・単 葉 、先 尾 翼 式 。要 求 性 能は高 度 8,000mまで10分30秒以内で上昇し、高度8,700mを時速 740km以上で飛行できること、実用上昇限度12,000m以上、武 装は30mm固定機銃1型乙4挺という桁はずれなもの。それは、 既成の概念では到底実現できない要求でした。折から戦局は悪化 の一途をたどり、本土空襲は避けられない状況。戦局打開のひと つの切り札として、《震電》の一日も早い完成に希望が託されたの です。これを受けて九州飛行機では、総勢140名におよぶ設計チ ームを結成。通常なら1年以上を要する設計を3カ月で行うとい う強行スケジュールのもと、不可能へのチャレンジがスタートしま した。 先尾翼式という運用機史上初の試みと、並はずれた高性能のた めに、《震電》製作の行く手には数々の難問が待ち受けていました。 出征による優秀なスタッフの欠員や、部品不足なども技術者たち の作業を遅らせる要因になりました。しかし彼らは心を一つに、不 屈の闘志で未踏の技術領域に挑戦。空襲警報が鳴り響く中、不眠 不休の作業は続けられました。そして昭和20年6月、製作図面述 べ30万枚、2万工数という苦闘の果てに、ついに《震電》1号機は 完成したのです。 昭和20年8月3日、いよいよ初飛行の日。空は美しく晴れわたり、 風もなく絶好の飛行日和となりました。「行ってまいります」整列し た役員や技術者たちに向かって、パイロットが敬礼。プロペラがゆ っくりと回りはじめました。ふわりと機体が浮き上がった瞬間、 人々の間から万感の思いを込めたため息がもれ、続いて「万歳!」 の声が上がりました。眩しいばかりの夏空へグングンと高度を上 げる《震電》の機影を追いながら、誰もが込み上げる感動をかみし めていました。そして迎えた8月15日。《震電》は結局、たぐいまれ な高性能を実戦で証明することなく、終戦によって米軍に押収さ れることになります。 歴史のはざまで、翻弄され姿を消した《震電》。しかし、戦争がもた らした百花繚乱の航空機技術の精華として、この幻の名機がその 後のジェット機時代へつなぐ技術的な架け橋となったことは間違 いありません。そして、あの夏の日の輝きへ導いた技術者たちのベ ンチャースピリットは、渡辺鉄工が誇る歴史資産として、今なお私 たちの心に鮮やかに生きつづけています。 Techno-century

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20世紀、記憶の大空へ。

1945年8月3日。幻の先尾翼式戦闘機《震電》は技術者たちの夢をのせて、夏空へ飛び立った。米国スミソニアン航空宇宙博物館に、半世紀余にわたって眠りつづける日本製の戦闘機があります。太平洋戦争も最終末期、 “先尾翼式”という先例のない機体に、国運を担って開発された局地戦闘機 《震電》 。これは今も渡辺鉄工に語り継がれる、幻の名機開発にまつわる、技術者たちの挑戦と苦闘の物語です。

 昭和19年5月、渡辺鉄工の前進である九州飛行機株式会社に、海軍から“新鋭機”の製作依頼がもたらされました。提示された課題は、B-29などの重爆撃機を迎撃する高性能な局地戦闘機をつくること。型式は単発・単葉、先尾翼式。要求性能は高度8,000mまで10分30秒以内で上昇し、高度8,700mを時速740km以上で飛行できること、実用上昇限度12,000m以上、武装は30mm固定機銃1型乙4挺という桁はずれなもの。それは、既成の概念では到底実現できない要求でした。折から戦局は悪化の一途をたどり、本土空襲は避けられない状況。戦局打開のひとつの切り札として、《震電》の一日も早い完成に希望が託されたのです。これを受けて九州飛行機では、総勢140名におよぶ設計チームを結成。通常なら1年以上を要する設計を3カ月で行うという強行スケジュールのもと、不可能へのチャレンジがスタートしました。 先尾翼式という運用機史上初の試みと、並はずれた高性能のために、《震電》製作の行く手には数々の難問が待ち受けていました。出征による優秀なスタッフの欠員や、部品不足なども技術者たちの作業を遅らせる要因になりました。しかし彼らは心を一つに、不屈の闘志で未踏の技術領域に挑戦。空襲警報が鳴り響く中、不眠不休の作業は続けられました。そして昭和20年6月、製作図面述べ30万枚、2万工数という苦闘の果てに、ついに《震電》1号機は完成したのです。 昭和20年8月3日、いよいよ初飛行の日。空は美しく晴れわたり、風もなく絶好の飛行日和となりました。「行ってまいります」整列した役員や技術者たちに向かって、パイロットが敬礼。プロペラがゆっくりと回りはじめました。ふわりと機体が浮き上がった瞬間、人々の間から万感の思いを込めたため息がもれ、続いて「万歳!」の声が上がりました。眩しいばかりの夏空へグングンと高度を上げる《震電》の機影を追いながら、誰もが込み上げる感動をかみしめていました。そして迎えた8月15日。《震電》は結局、たぐいまれな高性能を実戦で証明することなく、終戦によって米軍に押収されることになります。 ◆歴史のはざまで、翻弄され姿を消した《震電》。しかし、戦争がもたらした百花繚乱の航空機技術の精華として、この幻の名機がその後のジェット機時代へつなぐ技術的な架け橋となったことは間違いありません。そして、あの夏の日の輝きへ導いた技術者たちのベンチャースピリットは、渡辺鉄工が誇る歴史資産として、今なお私たちの心に鮮やかに生きつづけています。

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