新「日本の古代史」(上) · • 笠沙の御前に真来通り •...

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©佃收&手島歩三2015 1 新「日本の古代史」(上) 收著 星雲社 2014 ¥1600-

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新「日本の古代史」(上)

佃 收著

星雲社 2014 ¥1600-

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この書物は「東アジアの古代文化を考える会」同人誌「古代文化を考える」に佃収氏が投稿した古代史に関する考察を年代別に整理し、若干の改訂を加えたものである。

この文書では同誌の様々な個所を引用しており、さらに、佃氏が出版した「古代史の復元」シリーズ①~⑧引用している。そのため、推論過程が分かり難い面がある。

しかし、記紀、魏志倭人伝をはじめとする様々な古文書をデータベース化し、検索・照合した結果に基づく考察であるので、細部までは掲載できていないが、信頼できる水準に達していると受け止め、紹介する。

目次

1.弥生時代の「倭人」と「天孫降臨」

2.後漢時代の「倭」と卑弥呼の「倭国」(1世紀~3世紀中頃)

3.神武東征(逃亡)と長髄彦(3世紀後半~4世紀前半)

4.崇神天皇の渡来(3世紀末~4世紀前半)

5.貴国(4世紀後半~5世紀初)

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1.弥生時代の「倭人」と「天孫降臨」

• 中国呉地方の倭人

– 3世紀に日本列島(北部九州?)に居た倭人は「呉の太伯(紀元前1200年頃)の後裔、断髪・文身(刺青)」と述べる。(魏略)

– 周の時、倭人は香りのよい草を貢いだ(論衡・儒増編) 前1115~1079

• 倭人の移動

– 呉越の戦い前473年の後、倭人(辰族、安免辰さんずい伝氏、土へんなし墳彌辰伝氏を含む)は東表(」山東半島の根元の南辺り)に来ている。(契丹古伝)

– 蓋国はかねへん巨燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。(山海経)

– (大凌河の上流)高平川の水はこれに注ぐ、水は西の北平川を出る。東流して倭城の北に至る。倭地人がここに徒ったのであろう。(水経伝)

– もと東表の牟須氏から出た安免辰伝氏は殷と姻戚を結び、国をつちへんなし墳彌(卑弥)辰伝氏に譲る。そのすぐ後に漢が攻めてきた。(契丹古伝)紀元前200年頃

– 天氏(安免辰伝氏)は渤海湾を渡り朝鮮半島南部に逃げて、高天原を建国した(佃説)

– 燕人衛満は王に背き、渤海湾に注ぐさんずい貝水の畔に衛満朝鮮を建国した。その後周囲に侵略した。宮下文書に彌彌藝命の時代に西北大陸から大軍が攻めてきたとある。衛氏朝鮮に攻められたらしい。紀元前140年頃

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– 漢の武帝は紀元前108年に衛氏朝鮮を伐ち、四郡を設置して中国東北地方を支配する。このとき卑弥氏は朝鮮半島南部に逃げてきたのではないだろうか。(佃説)

– 韓は帯方の南に在り、東西は海をもって限りとなす。南は倭と接す。(三国志・韓伝)前108年頃 倭国はまだ朝鮮半島南部にある(佃説)、倭奴国の位置は海中かもしれない・・・

– 建中元年(57年)倭奴国奉貢朝賀す。倭人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。

– 脱解は元多婆那国の生まれなり、その国は倭国の東北一千里に在り。(三国史記)

– 安帝水初元年、倭国王師升らは生口百六十人を献じ、請見を願う。(後漢書・倭伝)107年

– 桓霊の間、倭国大乱(後漢書・倭伝)147~167,168~183年 韓とさ

んずい歳(わい)が強くなり、倭国は韓の侵略を受けて乱れたらしい(佃説)

– 220年~230年ころ公孫氏の支配から逃れるため、倭国は北部九州に逃げてくる。伊都国王朝と戦い勝利して邪馬壱国を建国する。(佃説)

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邪馬壱国建国の前から、日本列島に何度も騎馬民族が逃げてきているらしい。伊都国もその一つである。

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天孫降臨28p

• 竺紫の日向の高千穂のくしふる岳に天降りましき(古事記)• 韓国に向かい

• 笠沙の御前に真来通り

• 朝日の真刺す国

• 夕日の日照る国

– 福岡市西区吉武高木古墳の近くに日向川、日向峠がある。

– 火照須尊は高天原の金山の陵より吾父母即ち天孫二柱の御霊・・・を日向の可愛の山裾の長井宮に遷し祀り・・・(宮下文書)

• 海幸彦(火照須)は高天原に埋葬されていた父母(彌彌藝命と木花佐久夜毘賣)の霊・剣・鏡を可愛の山陵に埋葬した。

• 宮下文書

– 「天之世七代」が古事記の最初の「天之御中主神」の前に記載されている。

– 天之御中世は、一世代23年とすると、紀元前500年頃(呉越の戦いの頃)である。 そうであれば、「天之御中主神」は東表に逃げてきた人物である。(佃説)

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高天原への移動経路(宮下文書による)

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– (第一)「天之御中主神」の次に(第二) 「高御産巣日神」が出てくる。これは東表の「牟須氏」であろう。

– 古事記は「東表」時代の天氏(安免辰伝氏)から記載を始めている。また、宮下文書の「天之世七代」は呉の時代であろう、これは「論衡(後漢時代王充(27年~1世紀末頃)が書いた)」とも一致している(佃説)

– 第十五代、高皇産霊尊の子、農佐比古尊=国狭槌尊は蓬莱産の煙を目指して天降り、大海原に出た(渤海、黄海であろう)紀元前200年頃

– 国狭槌命の5代ほど後の彌彌藝命は北西大陸の大軍と戦うために、筑紫に天孫降臨し、多数の犠牲者を出すが撃退した。その後高天原に帰り、亡くなった。漢の武帝の頃?

– 彌彌藝命の第三皇子、日子火々出見尊の第一皇子、日子波さんずい斂武鵜葺不合尊は高天原で相談し、軍を二手に分けて筑紫に天孫降臨した。東の水門=博多湾に来て三種の神器を吉武高木古墳に葬る。()、南の水門=有明海に来て、吉野ケ里に?。 紀元前110年頃

– 天照大神(国狭槌尊→伊弉諾尊→天照大神)

偽書と言われている宮下文書には倭人が日本に渡ってきた経緯が書かれている

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伊都国と邪馬壱国の戦い

• 邪馬台国の位置

– 女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種(三国志、倭人伝)

• 大和の東に行っても、海の向こうに倭人が住む国はない。

– 舒明天皇が死去したとき、百済に派遣されていた安曇連比羅夫は百済の弔使と共に筑紫まで来て、そこから駅馬に乗って葬儀の場所に来た。

• 舒明天皇の葬儀の場所は陸路で行ける九州内である。

– 魏志倭人伝に書かれている邪馬壱国への行程

• 説明文を読むとき、「行」は実際に行ったことであり、その距離を正確に書いている。「行」がなくて距離だけ書いているのは聞き書きである。

– 松蘆国から見て伊都国は東南と書いているが、

• その頃中国では太陽の上る方向を東としていた。したがって季節により、かなり方向が変わる。東南と見てもおかしくない。(佃説)

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魏志倭人伝 行のある経路を辿る

• ここまで「邪馬壱国」としてきたが、恐らくこの国の人々は自国を「倭国」と呼んでいたであろう。(佃説)

• 狗奴国は邪馬壱国に支配されていない。

– 狗奴国王、卑弥狗呼は邪馬壱国と争っている。同じ卑弥族であるが、邪馬壱国よりも前に九州北部に建国していた。(桓壇古記)

– しかも、壱輿が亡くなった後、邪馬壱国は敗れ卑弥呼の墓は荒れ果てている。(契丹古伝:明治38年にラマ教寺院で発見された)

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狗奴国は後の熊襲であるらしい。(佃説)

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– 景初二年(236年)卑弥呼は初めて魏へ朝貢し、親魏倭王となる。

• 太守劉夏が船に乗せて金印を賜る。

– 正始元年(240年)、正始六年(245年)朝貢

– 正始8年(247年)、朝貢し、狗奴国との戦いの様子を説明

– 張政が来て、黄巾へん童を難升米に渡す。

• 卑弥呼は死ぬ(卑弥呼以死)

• 卑弥呼の後、男王が立ったが、国中不服

– 壱輿(13歳)を王とし、国中遂に定まる。

• 張政の帰国266年

– 魏志倭人伝は張政の報告を見て書いているのであろう(佃説)

• Page331 図5挿入

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伊都国と神武東征としょくへん堯(にぎ)速日命• 神武東征

– 邪馬壱国に敗れ支配されるようになった伊都国の支配者、神武天皇の父は一族を連れて東に移住する。250年頃

– 出発点は筑紫の日向である。– 彦さんずい斂尊は筑紫城に居り、その後子神武立つ(新唐書:1060年欧陽

修などが書いた)

– 伊都国は筑紫にあり、また即ち日向国なり、これより以東、倭に属す(桓壇古記:印刷されたのは1911年)

– 日本書紀に出てくる神武の兄、五瀬尊の名は伊都国の兄皇子であることを表している。(佃説)

– 神武東征の経路• 筑紫の日向、岡田宮、河内湖、吉野川近くの熊野、吉野、鳥見(佃説)

– 長髄彦と戦うpage151• しょくへん堯速日命は230年頃朝鮮半島から日本列島へ渡来し、長髄彦の妹

と婚姻して宇摩志摩治命を生み、ホケノ山古墳に埋葬された(佃説)• 宇摩志摩治命は長髄彦を殺して神武天皇に帰順した「先代旧事本紀」

– 神武天皇が死去すると、日向で生まれた當芸志美美命を大和で生まれた弟、神沼河耳命に殺された。

神武東征は神話でなく、史実である

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もし、そうであるなら、崇神天皇とにぎ速日命は同一人物であることになり、矛盾する。

崇神天皇と夫余 page171

• 崇神天皇は迦葉原夫余の王、依慮の子扶羅である可能性がある。

– 正州の依羅国は鮮卑慕容まだれ鬼に攻められ、白狼山を越え、夜海を渡り、ついに倭人を定めて王となる(桓壇古記)

– 夫余の王族の名前には「イ」が付いている。崇神天皇の子孫の名前にも「イ」が付いている。

– 河内から木津川を上り、京都府相楽郡山城町椿井に住み着いた。

– 知初国之御真木天皇(ハツクニシラスミマキノスメラミコト)

• 夫余族にとって初めての国を治めた天皇(佃説)

– 依羅が崇神天皇であるらしい。

– 古事記に崩年干支が出てくる最初の天皇戊寅年=318年

– 四道将軍を派遣した。その中に大彦(越に派遣)がいる。大彦の娘と婚姻している。

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景行天皇~神功皇后の熊襲征伐

• 景行天皇、日本武尊、仲哀天皇、神功皇后は熊襲征伐する– 景行天皇のルート

• 周芳の娑婆 → 菟狭 → 豊前の都(行橋市) → 日向(筑紫)

• 日本武尊は熊襲を伐つ– 仲哀天皇

• 角鹿へ来て(幸いす、仮宮を建てる)、そこから山城国紀伊郡紀伊に巡幸し徳勒津に居す。ここから海に立ち、穴門に到る

• 神功皇后を穴門の豊浦に呼び寄せる。

• 橿日宮にいて熊襲を伐ち、勝利したが、矢に当たり死去。

シリーズ5 page69図を挿入熊襲=狗奴国 である。

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• 景行天皇の崩年干支乙卯=355年– 神功皇后と同じ多羅族

• 仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の時代に多くの渡来人が来ており、(

天皇の部下には)「和気」(別)や「宿彌」の称号が付いている。中国東北からの渡来人であろう。

• 貴国の建国 364年 372年まで記事が連続

• 382年に (神功紀の中であるが)天皇となっている。(天皇は)男王であろう。

• 好大王の死去 412年

• 貴国の滅亡 407年以降

• 倭国の樹立 408年~412年

• 倭国の最初の朝貢 413年

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• 武内宿彌は筑紫から紀伊に逃げている。

– 雄略天皇が葛城山に登ったとき、一言主の一向に出合い、弓矢、着ている衣服を脱いで、拝み献ず。

– この葛城は肥前国三根郡葛木である。

– 吉備の田狭臣は葛城氏一族の娘と婚姻している。

• 397年

– 百済は帰国に王子を人質に出している。(紀)

• 398年

– 武内宿彌が北部九州から逃げて大和に住み、故郷の地名を付けた。

– 貴国は滅びている。

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貴国から倭国へ(シリーズ④)

• 好太王碑– 391年、倭は百残□□新羅を破り、持って臣民と為す。– 396年、王は水軍を率い、残国(百済)を討伐す。– 400年 歩騎五萬を遣わし新羅を救わしむ。・・・倭は新羅城に満つ– 404年 倭は不軌にして帯方郡に侵入す。

• 宋書– 倭国は高麗の東南、大海の中に在り。– 永初二年(421年 倭種、万里貢ぎを修む。・・・除授を賜うべし。

– 425年 讃はまた司馬曹達を遣わし奉り、方物を献ず。讃死し、弟の珍立つ。・・・安東将軍倭国王に除す。

– 443年 倭王さんずい齊、使いを遣わし奉献す。

– 451年 新羅、任那、加羅、慕韓六国軍事を(倭国の支配下に)加え、23人を軍郡に除す。さんずい齊死し、弟の武立つ。自ら百済・・・7国諸軍事安東大将軍倭国王を称す。

– 478年 上表して曰く、昔より祖ころもへん爾(そでい)みずから甲冑を貫き、山川を跋渉して・・・・東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らげること九十五国・・・(この位置関係を考えると、奈良の北に島はない、倭国は九州北部、筑紫であろう)

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• 貴国の滅亡と倭国

– 倭国の登場 四世紀末

– 398年 貴国の天皇である武内宿彌は筑紫を去り、紀伊に行き、大和に逃げている。

– 武内宿彌を追い出した人物は天皇と呼ばれている。

• 倭国王ではないだろうか(佃説)

– 464年 身狭村主青を呉国に遣わす

– 466年 身狭村主青は呉の献じた鵞鳥を持って筑紫に到る。・・・、鵞鳥は水間の君の犬に噛まれて死ぬ。

• 水間は福岡県三潴郡三潴町であろう。倭国は九州北部である。(佃説)

– 倭国は筑紫の君の国である。(佃説、古田武彦説)

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倭国から九州王朝へ(切り詰めて列記します)

• 磐井の乱 531年

– 部将である物部あら鹿火(荒甲)が筑紫の君を伐ったことを指す(佃説)

– 乱の後、あら鹿火は長門から西を手に入れている。(日本書紀を読むと)

大和の王権は何もしていない。

• 任那の衰退

– 任那に派遣されていた部将達は物部あら鹿火を王として認めず、新羅と通じて抵抗する。

– 大伴金村は任那制圧に失敗し、新羅に任那を奪われる。552年

• 物部王権の年号(襲国偽僭考)

– 殷到 531~535年

– 僧聴 536~540年

– 明要 541~552年

• 物部あら鹿火の次の代に物部尾輿が阿毎王権を建国する。

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• 筑紫君王朝の年号(蘇国偽僭考)

– 善記 522~525年

– 正和 526~530年

– 定和 531~537年

– 常色 538~545年

– 不明

– 法清 554~557年

• 貴楽年号と新王権

– 貴楽年号と法清年号は重なっている。

– 貴楽年号 552~569年

– 法清年号 554~557年

– 明要年号と法清年号は、異なる二つの王権の年号である。

– 新王権になって蘇我稲目宿彌大臣が登場する。

– 新王権を阿毎王権と呼ぶことにする。(佃説)

– 物部尾輿:十四世物部大市御狩連公 物部あら鹿火に土地を献じたが、子孫が天皇になっている。

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• 阿毎王権の年号

– 貴楽 552~569年

– 金光 570~575年

– 賢棲 576~580年

– 鏡常 581~584年

– 勝照 585~588年

– 端政 589~593年

• 上宮法皇と法興年号

– 上宮法皇は591年に即位し、夷余村(伊豫温泉-道後温泉)を逍遙した。(新日本紀):伊豫国風土記逸文

– 法興元年 591年即位

– 法興六年 596年 伊豫温泉へ行幸

– 法興三十二年 622年 死去

– 舒明天皇は上宮皇子の姪、宝皇女を皇后にしている。

• 舒明元年 629年即位

• 639年 伊豫温泉に幸す。

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– 上宮王家の年号(蘇国偽僭考)

• 法興 591~622年

• 仁王 623~628年

• 聖聴 629~632年

– 上宮王家は阿毎王権の年号の途中で独立し、肥前に新王権を樹立したのであろう(佃説)

• 豊王権– 用明天皇と推古天皇は兄妹である。

• 用明天皇の在位 585~587年

• 穴穂部皇子に殺され、崇峻天皇が即位する。

• 崇峻天皇は蘇我馬子に殺される。 在位 588~592年

• 推古天皇の在位 593~628年 推古天皇は蘇我馬子の姪である。

• 推古天皇の年号– 端政 589~593年

– 吉貴 594~600年

– 願転 601~604年

– 始哭 不明

• 推古天皇は用明天皇の子、田目皇子を豊浦で育てらしい。

• 田目皇子の子が孝徳天皇である。「乙巳の変」のあと、孝徳天皇は難波に移り、河内の磯長まで領土を拡大している。

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上宮王権と豊王権の対立(「古代文化を考える」第65号*2014冬)

• 上宮法皇は591年に阿毎王権のナンバー2(物部守屋)を伐ち、阿毎王権から独立して、上宮王権を樹立する。

• 用明天皇は585年に阿毎王権から独立し、豊王権を樹立した。

• 蘇我馬子は物部守屋を伐つとき、阿毎王権の重臣であったが、部隊長になっている。上宮王権(貴国の後裔)の宿彌(部将)として寝返ったらしい。

• 豊王権は物部守屋を伐つとき、竹田皇子を部隊長として派遣している。

• 推古天皇は上宮王家の支配から抜けだして豊王権を再興した。しかし、本拠地はあまりにも近いので、孝徳天皇は難波に移った。

• 孝徳天皇654年に崩御、天皇の子、有間皇子は658年に蘇我赤兄に殺された。有間皇子は即位していた可能性が高い。

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雑記

• 万葉集 舒明天皇の歌– 天皇、香具山に登り、国を望みし時の御製歌

• 大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は

• 奈良県の天香具山から海は見えないし、鴎はいない。九州北部の海の近くに天の香具山が在ったに違いない。(佃説)