日中戦争初期における「兵隊作家」火野葦平と 陸軍報道部...1938年3...

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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 46: 109-126 URL http://hdl.handle.net/10291/18641 Rights Issue Date 2017-02-28 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Title日中戦争初期における「兵隊作家」火野葦平と陸軍報

道部

Author(s) 五味,智英

Citation 文学研究論集, 46: 109-126

URL http://hdl.handle.net/10291/18641

Rights

Issue Date 2017-02-28

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                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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論文受付日 2016年 9 月23日 大学院研究論集委員会承認日 2016年10月31日

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文学研究論集

第46号 2017. 2

日中戦争初期における「兵隊作家」火野葦平と

陸軍報道部

Ashihei Hino ``soldier writer'' and the Army information corps

at the early stage of Sino-Japanese War

博士後期課程 史学専攻 2016年度入学

五 味 智 英

GOMI Tomoe

【論文要旨】

1937年 7 月,日中全面戦争開始で,政府は国民を戦争に統合するため国民精神総動員運動を行

った。それは文化,芸能まであらゆる分野に及び,文学者の国家動員のきっかけをもたらしたのは,

1938年 3 月,杭州で芥川賞を受賞した「兵隊作家」火野葦平であった。文藝春秋社社長で芥川賞

・直木賞創設者・菊池寛と軍によって挙行された陣中授与式で,火野は一躍マス・メディアに登

場,中支那派遣軍報道部班員に抜擢された。徐州会戦の従軍記『麦と兵隊』がベストセラーとなり,

「土と兵隊」「花と兵隊」もそれに続いた。火野は戦場の兵隊の実相をリアルに描き,国民の知りた

いという願いにも応え,軍期待の戦意昂揚をもたらし,「国民的英雄」ともてはやされた。

同時期,南京攻略において日本軍将兵の中国人捕虜や民間人への暴虐な行為が多発したが,軍は

国内への報道を禁止し,その蛮行を描いた石川達三の小説「生きてゐる兵隊」は即日発禁となった。

軍による南京事件の秘匿などマス・メディアへの統制と,戦争完遂への国民統合の「思想戦・宣伝

戦」の始動期に火野と軍報道部が出会い,その中で火野は活躍し大きな影響を与えていった。本稿

では彼の歴史的役割の導入部について考察する。

【キーワード】 日中全面戦争,陸軍報道部,「兵隊作家」火野葦平,芥川賞陣中授与式,思想戦・

宣伝戦

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はじめに

1931年の満州事変から,日中全面戦争,アジア・太平洋戦争にいたる15年戦争で,日本は自国

民のみならず,中国を始め東南アジア諸国,植民地の朝鮮(韓国),台湾に多大な犠牲と惨禍を与

えた。この様な侵略戦争を何故国民が受け入れ,時には熱烈に支持したのかという筆者の疑問から

研究が始まった。それには様々な要因はあるが,何と言っても国家・軍部による戦争への国民統合

政策による影響は大である。本稿では,人の心,知性を左右する文学の分野で,戦時もっとも活躍

した芥川賞受賞の「兵隊作家」火野葦平を取り上げた。火野を語るとき,陸軍報道部との関係は切

り離せない。彼は「兵隊三部作」1 で一世を風靡したが,敗戦後,軍とともに「戦争作家」として

激しいバッシングを受け,1948年に公職追放となった。2 年後追放解除となり,旺盛な執筆活動

で,再びマス・メディアの波に乗り活躍したが,1960年 1 月24日,自死によって突然その56年の

生涯を閉じた。

火野葦平は,兵隊作家,戦争文学を語る時欠かせない存在で,火野に関する作品論,作家論は多

い。特に近年,作家火野の見直しもあり,毎年 8 月15日前後には,テレビ番組や新聞で「火野葦

平」を取り上げることが多くなった。

筆者は戦時の文学者の中から「兵隊作家」火野葦平を戦争への国民統合において大きな影響を与

えたという視点で選んだ。彼が活躍した当時の情勢,政府・軍が抱えていた問題,火野の長い文学

経験と経歴,報道部での任務などを明らかにしながら,思想戦・宣伝戦における火野の歴史的役割

を考察したい。

日中全面戦争開始の1937年 9 月,北九州の文学青年,玉井勝則が召集され,柳川兵団の一兵士

として11月 5 日杭州湾に上陸した。そして南京攻略において見たものは何であったであろうか。

玉井勝則が,火野葦平のペンネームで出征直前に書き上げた小説「糞尿譚」に第 6 回芥川賞が

決定したことが,陸軍報道部班員火野葦平を誕生させることになったのである。

1938年 3 月杭州での陣中授与式に,芥川・直木両賞の創設者菊池寛が小林秀雄を派遣し,軍幹

部,兵隊,マス・メディアが多数参列した。文学授賞式としては異例であった。直後,火野は上海

の中支那派遣軍報道部班員に抜擢され,5 月には徐州会戦従軍という軍の迅速な指令であった。

1937~1938年は日本が中国への侵略戦争に国民を駆りたてていった時期であり,国内では1937

年12月,政府による「人民戦線」第一次検挙で400人が逮捕され,思想,言論,政治活動,集会,

結社の自由が圧殺された。同時期,南京攻略において日本軍将兵の中国兵,民間人への殺戮,掠

奪,放火,強姦などの暴虐行為が多発した。政府,軍は国内への報道を禁止し,帰還兵から銃後へ

の漏洩を危惧し,多数の通達,よびかけも出していた。

この南京事件を石川達三が兵隊から聞いて書いた小説「生きてゐる兵隊」を掲載した『中央公論』

3 月号2 が,即日発禁となったのが1938年 2 月で,3 月には国家総動員法が成立した。

このファッショ的な情勢は,火野の作家,報道部班員としての任務に大きな歴史的役割を与えた。

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作家の中野重治も,「石川,火野,上田などの作品が揃って1938年に発表されたということは,

この1938年という年が,この種の戦争文学を生み出すのに何らかの程度で本質的関係を持ってい

たということでもあろう。……排外主義,民族主義,日本による世界征服主義のイデオロギーはそ

れまでに文学の面でも大きくなってきていたが,これにあらたに執筆禁止のことが加わり,さらに

実作として大量に戦争作品が出てきた年,それが1938年」3 と述べているが,内閣情報部の活動か

ら見ても,重要な年であった。また中野は執筆禁止を言い渡された七名の内の一人であった。

厳しい言論統制と弾圧の一方で,軍やマス・メディアによって,芥川賞受賞の「兵隊作家」とし

て華々しく報道された火野葦平の登用の意味は深い。

火野は上海の報道部転属早々,軍から「重大なる任務」を与えられる。彼が報道部で書いた従軍

記「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」,いわゆる「兵隊三部作」が,250万部以上のベストセラ

ーとなり,火野は「国民的英雄」,「マス・メディアの寵児」となっていく。なぜこれほどの人気を

かちえたのか,それが軍にとって,いかなる影響と効果を与えたのかを見ていきたい。

彼が創出した明るい「美しい兵隊」像は当時の社会に受容され,「兵隊ブーム」を巻き起こし,

一種の社会的雰囲気を形成していった。その良き兵隊像を前面に出して,南京事件の暴虐な兵隊像

を隠蔽したのは,軍とともにマス・メディアの宣伝力もあった。

国民の意識,思考を戦争遂行に統一する国家情報統制宣伝機関が「思想戦・宣伝戦」を本格的に

始動させたのが日中全面戦争期であり,その中で火野が芥川賞作家・報道部班員として,如何なる

役割を果たし,影響を与えたかを歴史学的に考察・解明していきたい。火野は1945年 8 月の敗戦

まで陸軍報道部の下で活躍するが,本稿ではその導入部として,日中戦争初期に焦点を当てて考察

する。

第六回芥川賞作家・火野葦平の誕生

異例の陣中授与式が意味するもの

1938年 3 月27日,中国・杭州で芥川賞授与式が軍参加のもとで大々的に行われた。受賞者は,

無名の新人,現役の兵隊・玉井勝則伍長(ペンネームは火野葦平)であった。小説『糞尿譚』4 へ

の受賞であるが,内容は全く軍や戦争に関わるものではなかった。その授与式の様子は,以下の新

聞報道からうかがわれる。早くも軍上層部の作家火野葦平への期待が並々でないことを表している。

『東京朝日新聞』(1938年 4 月 3 日付朝刊)は,写真入りで次のように報じている。

上官も“占領の喜び”

【杭州にて山本特派員発】『糞尿譚』で第六回芥川賞を貰った火野葦平君こと玉井勝則伍長に

春陽うららかな二十七日西湖畔で賞品が渡された。わざわざ陣中に特派された文藝春秋社の

小林特派員は二十七日午前十時半片岡部隊に玉井伍長を訪うた。上官の清水大尉は我が事の

やうに喜んで特に戦友○○名の整列を許した。○○本部から水野中佐,軍報道班から佐藤少

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尉が臨席した。小林特派員から「火野葦平君,芥川直木賞委員会」と書いた賞品の包みを渡

すと……玉井伍長は挙手をして賞品を受け取る。

「出征前に書いて出したので入選決定したことも何も知りませんでした。陣中に賞品を頂

かうとは実に感慨無量,感謝に堪へません。幸ひ無事凱旋出来ました上はわが国文学界のた

め一層努力致します」

火野葦平が現役の兵隊であり,芥川賞受賞作家であることは,マス・メディアにとって,菊池寛

が述べているように“宣伝性抜群”であった。

同時期の直木賞は,井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』に決定した。羽織,袴の正装で文藝春秋

社へ出かけた井伏には表彰式もなく,彼が訪問した時,菊池は来客と将棋の 中で,「社員から手

渡された賞金らしき紙包を何やらぽつりと呟くとそれを私に手渡した。」5 と井伏は書いている。火

野への対応とあまりに違っていたのである。マス・メディアの話題性の差か,軍との関係重視か,

あるいは両方の要因でもあったろう。

火野葦平の経歴と受賞までの道のり

火野葦平の報道部転属後の活躍と心情の理解に経歴は重要なので,彼作成による「年譜」6 を参

照しながら,以下紹介する。

1907(明治40)年 1 月25日,本名玉井勝則は福岡県若松港で石炭荷役業を営む玉井組組頭の父

玉井金五郎と母マンの長男として誕生した。父は地元の有力者であり,市議も務めていた。

9 人の弟妹と玉井組の沖仲士(ごんぞう)のなかで育った。13歳の時から友人たちと回覧雑誌を

作り,17歳で詩や短編,三部作を創作し,早稲田大学英文科に入学後は大学の仲間たちと同人雑

誌『街』を発行し,文学三昧の生活だった。仲間には終生深い親交を結んだロシア文学科の中山省

三郎,作家となる丹羽文雄などがいた。

1928年,一年休学して福岡歩兵第二十四連隊に幹部候補生として入営した。除隊後大学出身者

は上官への道が可能だったが,兵営でレーニンの著作を隠し読みしたのが見つかり,除隊時には軍

曹から伍長に格下げされた。また,父が休学届の代わりに退学届を出したため,葦平は大学を中退

せざるをえなかった。いずれ家業を継ぐ覚悟はあったものの,文学との訣別に彼は大いに落胆した。

玉井組の若頭になった葦平は,1931年,若松港沖仲士労働組合を結成,書記長に就任し,労働

運動に没頭する決意をした。同時期,プロレタリア文学作品も耽読したとのことである。

「1932年 1 月,上海事変勃発,中国の苦力がストライキをしたため,玉井組は五十人の仲士とと

もに,上海へ派遣された。父とともに,私は石炭二五六四トンを積んだ三井物産の高見山丸に乗っ

て行った。私の 初の大陸行である。」7 と彼は書いており,この上海行は後年,小説『魔の河』8 に

著された。

1928年の 3・15五事件以来,治安維持法による共産党への大弾圧・大量検挙が続いていた。上

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海から帰国したばかりの火野も若松駅頭で検挙されたが,その後転向して再び仕事と文学に戻っ

た。葦平27歳の時である。文学的才能をもつ繊細な面と,玉井組の若頭として人の面倒をみる親

分肌の面をもつ青年であった。

火野に召集令状が来たのは,日中戦争開始 2 か月後の 9 月 7 日だった。同人誌『文学会議』の

投稿者であった火野は,書きかけていた小説「糞尿譚」の 後の仕上げを急ぎ,出征直前に同人誌

主宰の矢野朗に渡した。この作品は市井の糞尿汲み取り業者の奮闘と人間模様を扱った小説であっ

た。矢野は火野の出征を配慮し,他の同人の順番を変え,彼の作品を優先して掲載した。この偶然

が火野に芥川賞受賞のチャンスを与え,その後の彼の運命を変えただけでなく,火野の報道部入り

で,思想戦・宣伝戦にも影響を与えることになる。

9 月10日,火野は第18師団小倉14連隊に入営,第10軍柳川兵団の「杭州湾敵前上陸作戦」で11

月 5 日杭州湾に上陸し,各地で戦闘を続けながら12月17日南京に入城した。

首都南京の様子を火野は父宛ての手紙(12月15日付)9 に書いている。手紙の第一頁の欄外に

「この手紙みんなに読んで聞かせて下さい」と記し,16頁に及ぶ長文であった。

手紙の冒頭で,「十八師団が上陸以来,…… も激烈であった嘉善の戦で,我々百十四連隊(片

岡部隊)は三日間攻撃した」雨中,泥中での苦戦,トーチカをはさんでの死闘,中国兵32名が殺

され,死にきれずにいる老兵が火野に眼で「うってくれ」と胸を指さしたので撃ったという場面は,

「土と兵隊」にも描かれている。かわいい少年兵も殺され,散乱した所持品には,故郷,父母,き

ょうだい,妻の事などを書いたメモや,写真があり,それを見て火野は「戦争は悲惨だ」と書いて

いる。「相当の大激戦だったやうです。城外には支那兵の屍骸が山をなしてゐます。……支那の首

都も今は廃墟です」と,その惨状を彼は目撃していたのである。

食料については,「上陸以来急進軍のため,大行李が間に会はず,一回も軍から食料の給与を受

けません。皆,土地土地で,色んなものを徴発しては,食べて来たのです。三日位食はんこともあ

りました。」と,火野がまだ芥川賞作家でも,報道部班員でもなかった頃の一兵士の率直な記述で

ある。

食糧の現地調達について,吉田裕氏は「現地軍司令部が補給を無視した無謀な作戦計画を立案し

たうえで,食糧などの必要物資は『現地調達』することを各部隊に命じた。……この結果,大規模

な掠奪行為が全部隊にひろがるのは当然のことであった」10 と述べているように,これが様々な暴

虐行為を誘発したのである。

翌年 2 月杭州で,火野は芥川賞決定の報を新聞記者から得たが,同 2 月に上述した石川達三の

筆禍事件が起きている。石川達三は第一回芥川賞の受賞者であり,偶然とはいえ「運命」を感じる。

芥川賞・直木賞創設者・菊池寛の思惑

作家の菊池寛は,文藝春秋社社長として経営的手腕もあり,出版事業は成功していた。彼が芥川

賞を直木賞とともに創設したのは1935年で,第一回芥川賞受賞は石川達三の『蒼茫』に贈られ,

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火野葦平は1938年 2 月第六回受賞であった。

詮衡委員11 でもあった菊池は,雑誌『文藝春秋』(1938年 3 月号)の「話の屑籠」に火野の受賞

決定について次のように書いている。

芥川賞は,別項の通り,火野葦平君の「糞尿譚」に決定した。無名の新進作家人に贈り得た

ことは,芥川賞創設の主旨にも適し,我々としても欣快であった。……しかも,作者が出征中

であるなどは,興業価値百パーセントで,近来やや精彩を欠いていた芥川賞の単調を救い得て

充分であった。……自分は,真の戦争文学乃至戦場文学は,実戦の士でなければ書けないと云

う持論であるが,火野君の如き精力絶倫の新進作家が,中支の戦場を馳駆してゐることは,会

心の事で,我々は火野君から,的確に新しい戦争文学を期待してもいいのではないかと思ふ。

同年の『文藝春秋』6 月号の「話の屑籠」においても,菊池は「芥川賞の授賞式が,杭州の陣中

で行われたことは,芥川賞の歴史を飾る出来事だった。今度の受賞はいろいろな意味で,成功であ

った。火野君は,『東京朝日』のニュースに依れば,軍報道部に編入されたと云ふが,まことに適

材適所である。」12 と喜んでいる。

「受賞はいろいろな意味で成功」の意味は,菊池にとって自社の名声,利益のみならず,持論の

文学が国家に貢献できること,火野が軍報道部で今後活躍が見込まれること等に満足したというこ

とであろう。菊池は「国家から頼まれた事はなんでもやる」13 と軍への協力を惜しまなかった。

1938年 8 月,内閣情報部が,火野の『麦と兵隊』の成功で,漢口会戦への文学者「ペン部隊」14

派遣を決めたとき,菊池寛に作家達の取りまとめを依頼した。彼は迅速に22名もの著名な作家達

の快諾を取り付け,漢口へ送り出した。菊池自身の参加について,次のように心情を吐露している。

僕としては平素から,国家が文学を認めないことに不平不満をもらしてゐた手前,こんどの

やうな大々的に認めてくれた時,しかも僕を中心に話を進めてくれたのだから,自分の健康や

安危や都合などは,一切介意つてはゐられず,率先して,行くことを決心したのである15。

菊池寛は日本文芸家協会の会長を務め,文学界では常に中心的役割を果たし,内閣情報部主催の

思想戦講習会では情報部参与の肩書で「思想戦と文芸(日本の武士道)」16 のテーマで講演をした。

1940年には,「我々文筆の士も,国民大衆の元気を鼓舞するため,出来るだけのことをしたいと

思ふ。……文壇の有志を糾合して,全国を遊説して歩きたいと思ふ。」17 と,「文芸銃後運動」と称

する文学者講演会活動を自社の責任で全国的に展開した。さらに陸軍・海軍に「飛行機を一台づつ

献納することにした。」18 と記している。

菊池寛が,火野の陣中授与式を軍と共に執り行ったことは,上記の「興業価値百パーセント」で

自社の宣伝だけでなく,火野の報道部入りで文学者の国策貢献への願望が大きかった。戦後,菊池

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寛は火野と同様,戦時の戦争協力により公職追放され,1948年,狭心症で亡くなった。

国家情報統制宣伝機関と思想戦・宣伝戦

国家情報統制宣伝機関の変遷

国家,軍部が戦争を完遂するためには,国民の意識を戦争に向けさせる思想教育,世論誘導,宣

伝(プロパガンダ)が必要である。その重要な任務を担ったのが,国家情報統制宣伝機関であった。

彼等は,火野が陸軍報道部班員であり,国民に絶大な人気があったことで,彼を宣伝戦に利用し

た。火野も著作の執筆,講演,各種座談会,対談,ラジオ出演などで活躍した。この情報統制制宣

伝機関とは何か,またその組織的変遷について以下説明したい。

日本は第一次大戦時の欧米各国の総力戦の経験から「思想戦・宣伝戦」の理論や組織作りを各国

の文献を翻訳して学んでいる。内閣情報部長・横溝光暉は第一回思想戦講習会(1938年 2 月)に

おける講演「国家と情報宣伝」の中で,ドイツの宣伝省について「獨逸は近代式の宣伝国家であり

ます。……獨逸の情報竝びに啓発宣傳の事項の管轄に付きましては,宣傳省が統轄的にして, も

重要なる役目を果たして居ります」19 と紹介している。

日本には当初このような情報宣伝の統一した国家機関はなかった。陸軍,海軍,外務省が別個に

情報部(報道部)を設置していた。陸軍には,陸軍省新聞班,報道部,情報部が存在しており,統

一化は簡単ではなかった。しかし,1936年 7 月 1 日,「各省庁,各団体が無統制に行っていた各種

の強化宣伝運動を統制し,これに一貫した精神を与えて効率化するとともに,現時局に対応する新

たな啓発宣伝を企画する」20 という「情報委員会官制」が公布され,内閣に情報委員会が設置され

た。

1937年 9 月25日,情報委員会は内閣情報部に改組され,さらに1940年12月 6 日に情報局という

強固な統一組織となり,敗戦まで言論統制,国策推進の中心的役割を担ったのである。

これらの組織を総称して,内川芳美は「情報宣伝機構あるいは,情報宣伝機関」21,また「国家

情報機関」22 とも称しているが,筆者は国家情報統制宣伝機関とした。

思想戦,宣伝戦

思想戦・宣伝戦が総力戦の一手段として明確に位置づけられたのは,1934年10月発行の陸軍省

新聞班パンフレット『国防の本義と其強化の提唱』においてであろう。「通信,情報,宣伝」の項

に「思想宣傳戦は刃に血塗らずして対手を圧倒し,国家を崩壊し,敵軍を潰滅せしむる戦争方式で

ある。」23 と述べている。

陸軍省新聞班は,思想戦・宣伝戦を武力戦と同等に重視し,「思想,宣傳の中枢機関として,宣

傳省又は情報局の如き国家機関が平時より必要」24 とすでに提起している。情報委員会の設置に先

んじて1936年 5 月20日,内閣資源局企画部によって作成された「情報宣伝に関する実施計画綱領

(案)」は実に詳細で念密な計画であったが,なぜかその時には成立していない。

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情報官・陸軍砲兵中佐・清水盛明は,1936年の情報委員会を「思想戦機関としての情報委員会」

とみなし,「世界大戦以来,情報宣伝戦,すなわち思想戦が武力戦,経済戦と共に国防上に占める

地位は極めて重大であり,平時には経済戦と同様に文化戦において重要な役割を演ずる」25 と述べ

ている。さらに清水は,第一回思想戦講習会の講演「戦争と宣伝」26 で,宣伝を思想戦の も重要

な手段と重視し,宣伝対象の研究,群集心理,国民性,対外的には民族心理等の研究も挙げて,そ

の宣伝方法も驚くほど細かく具体的に説明しているのである。

彼は「啓発・宣伝」の分野として,音楽,ラジオ,映画,演劇,漫画,写真,書物,新聞,文学,

座談会,講演,伝単,ビラ,ポスター,広告,展覧会,博覧会他を列挙している。火野著作も,上

述したそれぞれの分野で活躍している「媒体者」によって国民に広がり,思想戦・宣伝戦に貢献す

ることになる。

内閣情報部情報官・陸軍歩兵少佐の竹田光次は,思想戦の概念として,次のように「文化戦」を

重視している。

平戦時を通じ我が信念(日本精神)を国民全般に徹底せしめ精神的結合を鞏固にし,外国に

対しては我が精神的威力を発揚すると共に我が信念に共鳴せしめ,対内,対外国策の遂行を容

易ならしめるものであり,戦時に於いては特に国民精神を総動員し,一面敵国の我に対する思

想的策謀を封じ,進んで其の戦意を喪失せしめ,若しくは其の国を内部より崩壊に導き戦勝を

獲得する為に行ふ一種の文化戦である27。

竹田は「思想戦において,多角的なこと,執拗なことが重要要素」であり,「思想宣伝戦は我々

日常の極く小さな生活部面にも行われていることを認識することが大切」28 と説いている。これら

はナチス・ドイツのヒットラーの宣伝手法を想起させる。日本はドイツの「PK 中隊(プロパガン

ダ カンパニー)」29 にも学んでいる。

東京の日本橋高島屋で開催された内閣情報部主催「第二回思想戦展覧会」で掲示された「思想戦

とは何か」30 を以下紹介したい。

思想戦とは何か

心は国家の千城である

心が揺げば幾千の戦車も威力を失ひ

幾萬の犠牲も無駄になる

心を攻めるのが思想戦である

思想戦は平時も戦時も戦場でも銃後でも

我々日常生活の中に戦はれてゐる

思想戦は武器に依らぬ戦である

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しかし総てが思想戦の武器になる

光の弾丸 音の弾丸 色の弾丸 紙の弾丸 無形の弾丸

我々は皆思想戦の戦士であり国運を背負ってゐる

我々の心構へこそ日本の興亡を決するものである

上記は,思想戦が様々な分野で行われていることを示し,「光の弾丸」は映画,「音」は音楽,

「色」は美術,「紙」は書物,新聞,雑誌,チラシ,ポスター等々で,「無形」はその他の啓発分野

を表すのであろう。一つの国策で国民の思想,精神を常時,多方面から包囲するのは,個人の自由

を完全に封殺することである。日本文化協会の「思想宣傳の目的とは即ち,尽忠報国の精神を基調

とし,国民の,社会的行動を国家の目的に向って統一運行するものであって,此が為には個人的欲

望や利害を超越し,或は進んで労苦,忍従の擧に出る事を必要とするものである。」31 という言葉か

らも,国民に「戦争完遂」への絶対服従を強いている。

上海派遣軍報道部班員への抜擢

火野の報道部転属の事情

火野が芥川賞受賞の決定を知ったのは,文藝春秋社からの連絡より早かったことを,九州の友人

劉寒吉への手紙(1938年 2 月13日付)で述べている。

八日に朝日新聞記者来り,六日に芥川賞に「糞尿譚」が決定したと聞かされた。文藝春秋

社から直接通告を受けないので,なんともいえぬが,朝日新聞が来たのだから,間違いでは

あるまいと思う。非常にうれしい32。

陣中授与式の 3 月27日までかなりの時間があり,この間に菊池寛と軍との間で,火野の陣中デ

ビュー,報道部班員への抜擢等の話し合いができたと思われる。軍は芥川賞決定早々に作家・火野

の利用価値に注目していた。

火野は陣中で授与式が行われる事を知り,「個人の事なので,兵隊を整列させたりするのは遠慮

したいとしきりに申し出たけれども,中隊長は聞かなかった。……これは後でわかったのだが,私

を報道部へ転属させる準備がすでに出来ていた模様である。」33 と述べている。上記から彼が「あま

り騒がれるのは困る」という気持と,自己の文学創作を軍部と結びつける危惧と警戒感が当初あっ

たことがうかがわれる。

当時,軍も南京事件という重大問題を抱えていた事情もあった。内閣情報部が1937年12月末

に,急遽,思想戦展覧会開催を決めた。会期は翌年 2 月 9~26日,会場は東京・日本橋高島屋とな

った。下記の「展覧会開催経過概要 一,実施計画」の内容からも,その切迫感が伝わってくる。

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昭和十二年十二月下旬時局の重大性に鑑み思想戦の重要性を一般国民に認識せしむる為,内

閣情報部主催のもとに思想戦展覧会を開催する事に内定して実行小委員会を組織し,実施の具

体的計画を協議する為十二月三十一日第一回小委員会を開会,思想戦展覧会の具体案として,

左記の要綱を起草せり34。 〔下線は筆者〕

大晦日に準備のための小委員会開催とは,日本の慣習では異例である。彼等は南京事件による戦

争遂行上の「阻害」が起きることに危機感を持っていたのであろうか。

展覧会の「記録写真」35 を見ると,日本軍関係の展示物だけでなく,諸外国の豊富な資料に,内

閣情報部の並々ならぬ思想戦への力の入れ方がわかる。近衛首相,秩父宮など多数要人の参観もあ

り,一般入参観者も「一日平均約七万人の入場者を見るに至れり」36 と「実施経過」に記している。

この様な軍の状況下では,上述の火野発言のように,彼の報道部転属は比較的早い時期に決定さ

れた可能性はある。

1938年 2 月,石川達三の「生きてゐる兵隊」の筆禍事件と同時期に,軍報道部の前に出現した

のが同じ芥川賞作家で,しかも火野が現役の兵隊であったことは,軍にとって僥倖ともいえた。同

年 4 月,馬淵逸雄報道部班長は,火野を上海派遣軍報道部に同道したのである。

以下の手紙は,火野が出発直前に父金五郎宛に書いたもので,軍命令により報道部班員に転属が

決定し,今後の任務と彼の決意が述べられており重要である。

この 後的大決戦である徐州総攻撃に参加できることは,無上の光栄であり私に与えられた

いろいろの任務の事は,ここでは書きませんが,非常に重,且つ大でありますけれども,大い

にやり甲斐のある仕事だと思ひ微力短才の私が果たして軍の期待に添へるだけの仕事が果たせ

るかどうか,多少その責任の大いさに不安でもありますが,男子としてもとより欣快とすると

ころ,全力をつくして,やってみたいと思って居ります。……徐州から帰れば,上海の本部で

勤務することになるでせう。

午後三時 杭州にて 勝則37 〔下線は筆者〕

同日,4 月30日付の大学時代の友人・中山省三郎宛の手紙にも「俺の受けている任務のこと,今

は書かない。微力短才,軍の期待に添うだけの仕事が出来るかどうか,一抹の不安なきを得ない

が,大いに遣り甲斐のある仕事と思い,もとより男子の本懐,全力を傾けてやってみるつもり

だ」38 と同じく書き,火野が軍報道部の任務におおいに乗り気になった様子がわかる。

しかし,ここでいう軍の「任務の重にして,大」「軍の期待にそう仕事」とは一体何であるのか。

報道部の仕事一般を指すとは思えず,作家火野だけに何か特別な任務が与えられたと推察するが,

文書による史料がなく証明できない。火野は戦後も具体的な説明をしていないのである。

軍報道部は 初から,火野の徐州会戦従軍と従軍記執筆を決めていた。火野は帰還直後の石川達

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三との雑誌対談で,「何を書くにしても軍の命令のやうなかっこうでしたから」39 と言っている。

戦後,火野は自己の公職追放に対する異議申立書を内閣総理大臣芦田均宛てに提出する際,指定

解除のための「證言」(嘆願書)を提出した。そのなかに元陸軍省報道部部長・馬淵逸雄の「證言」

があり,その中で馬淵は「火野が陣中に於て筆を執った 初の作品『麦と兵隊』は,徐州会戦に従

軍した軍の幕僚の強請的命令に依って書かれたもので,其出来上がった作品に対しても軍の干渉拘

束が多かった」40 と述べている。

上海の陸軍報道部の任務は,対支,対国内報道,宣伝その他多くの業務を抱えていた。彼の作家

としての重要な任務は,まず従軍記執筆であった。その他,伝単作成,陣中新聞への投稿と編集,

新聞の検閲,文化映画製作協力,日本からの従軍作家たちの接待などであった。「有名人」となっ

た火野は中国,台湾でもラジオ放送出演や,講演を軍にしばしば命じられたと,家族宛ての手紙に

書いている。何と言っても火野を有名にしたのは,報道班員として従軍中,孫 での戦闘で一時消

息を絶った事件で,各新聞が美談をまじえて報じた。

下記は『東京朝日新聞』(1938年 5 月19日付)の記事である。

芥川賞の火野伍長

奮戦・消息絶ゆ 同盟特派委員 7 名も

【瓦子口にて岡田特派委員十六日発】

十六日午前三時頃瓦子口南方三キロの孫 における敵の逆襲のため先に芥川賞を獲得したペ

ンの戦士火野葦平事軍報道部玉井勝則伍長並に同盟通信須藤記者外六名の同社特派員は敵と

激闘後消息を絶つに至った之を知った軍報道部高橋少佐は報道戦士並に部下思ひの情やみ難

く危険を冒して救援隊の先頭に立って捜査に赴いたが同少佐の心情は昔日の広瀬中佐のそれ

の如く鬼神を哭かしむるものあり,全軍崇敬の的となって居る

次は『東京日日新聞』(1938年 5 月21日付)記事で,火野の顔写真もつけて報じている。

芥川賞の火野伍長 血塗れで帰る 報道の重任を果たして

【○○十九日篠原,西瀬両特派員発】

芥川賞「糞尿譚」の作者火野葦平こと玉井勝則伍長は杭州戦線から軍報道班に転じ徐州大

会戦には高橋報道班長の部下として参加,はからずもこの日敵弾雨飛の真っただ中にゐた,

玉井伍長は鮮血に濡れた軍服で十七日夕幾度か死戦を越えて報道班宿舎に入り「なぁにこの

血は負傷者を看護したり繃帯所に運んだりした時に付いたものです。[中略]日本の兵隊さ

んは強いなァとしみじみ思いました,われ々は寡兵で不眠不休飲まず食はずで健闘しました。

〔二紙とも下線は筆者〕

上記二紙の記事で共通していることは,まず見出しが「芥川賞の火野伍長」である。「芥川賞」

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の社会的名声は大きく,その上に現役の兵隊であることが,読者の興味を引きつける。火野の報道

部班員としての戦場の活躍を述べ,『東京朝日』は高橋少佐の部下思いを「広瀬中佐」になぞらえ,

『東京日日』は兵隊賛美を強調した美談のストーリ作りである。なによりも,「兵隊三部作」がまだ

世に出る前から,芥川賞の兵隊作家・火野は,マス・メディアの話題の人であり,「国民的英雄」

となっていくのである。軍もマス・メディアも火野を大いに宣伝し利用した。

開戦時の報道部編成の任務

火野が転属した陸軍報道部の発足は如何なるものであったろうか

1937年 8 月15日,第二次上海事件を受けて,松井石根大将を軍司令官とした上海派遣軍が編成

され,報道部も上海に設置された。11月 7 日,上海派遣軍と第十軍を統括して中支那方面軍とな

り,軍司令官は同じく松井石根であった。

11月20日,大本営の設置にともない大本営陸軍報道部が編成された。その任務は,「作戦に関連

する宣伝及報道に関する業務に服す而して其の業務実施に付きては陸軍部幕僚,海軍報道部,内閣

情報部及外務省情報部と密接に連携し自己の有する宣伝機関を以て宣伝の実施に当るものなり。

……今後更に輿論の指導に留意せん」41 であった。

上海方面の報道,宣伝業務は特務部が行い,「松井集団特務部業務分担表」を同年11月14日付で

発表した。その業務は,「総務,諜報,宣伝,報道,科学諜報」の 5 班で担い,各班の業務内容も

詳細である。火野を指導する馬淵逸雄中佐は報道班担任で,彼の業務も多かった。

総務,諜報,宣伝の各班には対支の他に,「対蘇,対共産党,対欧米のへ宣伝,謀略,諜報」の

任務も課せられていた。「特務部業務分担表」から,「報道班の担任業務」のみを以下列挙する。

班 担任業務

報道班 班内業務の統制指導,報道機関を通して行ふ宣伝企画,報道業務と作戦諜報謀略の

調整,部外殊に海軍,外務関係機関との連絡,邦字新聞の指導,内地新聞に及ぼす

反響調査,庶務並軍機保護

戦況に関する情報蒐集,発表案の作成並発表,従軍記者の取締指導,方面軍並派遣

軍司令部との連絡,長江戦陣潭の編輯

従軍記者通信文写真の検閲前線各兵団司令部との連絡発表並記事資料の蒐集,

戦線に於ける従軍記者写真班の指導

「上海方面に於ける報道,宣伝業務の現況」によると,宣伝の重点は「対支,支那軍の分裂内訌,

抗戦意識の消耗反共産主義宣伝」となっており,新聞,雑誌,パンフレット,伝単,写真の作成,

放送などのほか,日本軍兵士に対する宣伝もあり,特に報道班の仕事は多岐に亘っていた42。

したがって,報道班の火野は従軍記の執筆以外でも任務は多かった。戦争完遂への国民の精神動

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員がますます強化されるなか,「国民的英雄」で,「兵隊」のシンボル的存在の火野の役割は重要視

されていった。

軍指導,管理下の「麦と兵隊」執筆

火野の報道部での第一の任務は徐州会戦の従軍記執筆だった。軍の期待する従軍記,つまり「皇

軍」,「聖戦」を描く任務が提示されたと考えられる。海外では南京事件は報道されていたし,軍上

層部において,将兵の蛮行が「遂には皇軍の真価を傷ふのみならず,軍秩維持上将又戦争完遂上阻

害を生起し,看過し得ざる所なり。」43 と問題視され,1938年 1 月に参謀総長・閑院宮載仁親王よ

り中支那派遣軍に異例の訓示が与えられた。軍紀,風紀の弛緩は戦争遂行に重大な影を落としてい

たのである。この状況の挽回にも,軍は「兵隊作家」火野の作品に期待をかけた。

火野は作家として,従軍中も見たこと,気付いたことはこまめに軍隊手帳に書き止めていた。早

筆の才能もあり,徐州会戦従軍日記「麦と兵隊」は従軍後早々に書き上げた。

しかし,執筆から刊行まですべて軍の指導,管理下にあり,彼には全く権限がなく,軍から執筆

上の禁止事項として以下の 7 項目が提示されたと火野は書いている。

第一,日本軍が負けているところを書いてはならない。皇軍は忠勇義烈,勇敢無比であって,

けっして負けたり退却したりはしないのである。

第二,戦争の暗黒面を書いてはならない。

第三,戦っている敵は憎憎しくいやらしく書かねばならなかった。味方はすべて立派で,敵は

すべて鬼畜でなければならない。

第四,作戦の全貌を書くことを許さない。兵隊のせまい身辺の動きは書けても,作戦全体は機

密に属しているから,スケールというものは出て来ない。

第五,部隊の編成と部隊名を書かせない。

第六,軍人の人間としての表現を許さない。分隊長以下の兵隊はいくらか性格描写ができる

が,小隊長以上は,全部,人格高潔,沈着勇敢に書かねばならない。

第七,女のことを書かせない44。

上記の執筆上の制限があった上に,「『麦と兵隊』は,さらに高橋〔九二〕少佐の下検分の後,軍

報道部長木村〔松次郎〕大佐の検閲を経て,軍参謀長河辺〔正三〕少将の同意と承諾」を必要とし

たのである。火野によれば, 終的には木村報道部長が付箋に「大変結構ト存ズ,参謀長閣下ニモ

御話シテ日本ノ売レル雑誌ニ発表スルコトニ同意ヲ得タリ」45 と書かれ,検閲は厳しかった。

「麦と兵隊」の出版会社選定も,軍幹部から 初,一番発行部数の多かった大衆雑誌『キング』

(大日本雄弁会・講談社発行)の話が出て火野は落胆したが, 終的には軍上層部は,知識人向け

総合雑誌『改造』の 8 月号(1938年)に掲載を決めた。発売直後の予想以上の売れ行きを見た軍

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は,単行本の 9 月出版を急がせた46。単行本は,幅広い大衆向けにと,漢字にはルビを振り,地

図,絵,写真も多くして,価格も安価にした。

『麦と兵隊』は南京事件後の執筆であり,それが軍の管理下で書かれたことで,「皇軍,聖戦」の

宣伝,戦意昂揚の役割への軍の期待は大きかった。

しかし,火野は作品の前書きで,「魂の奥底から私を駆り立てるものがあり,どんなに検閲がう

るさく,制限がきびしかろうとも,ギリギリの範囲内でぜひとも書いておきたい」47 と述べてお

り,そのことが国民に感動を与えた事は否めない。堅苦しい軍国主義調,抽象的な皇国調一点張り

の文章なら,読者に感動も与えなかったし,ベストセラーにはならなかったであろう。

当初「大本営報道部では,……あまりにも兵隊の苦労がありのままに書かれているので,戦意昂

揚どころか,厭戦的,反戦的気分を醸成する危険がある。」48 と警戒したそうであるが,驚異的売上

げ,国民に与えた宣伝効果が軍の予想以上となり,軍も火野の叙述,表現を認めたのである。

火野の軍の禁止事項との程よい距離感,国民各層に受容されたこと,火野自身が天皇に対する一

種信仰的な思いを持っていた事も軍の安心,許容範囲内であった。

軍の火野に対する見方について,彼は戦後次のように語っている。

戦争中にものを書くといふ事は検閲が厳重で大抵良いだらうと考へて書いた事までいけない

といって切り取られる始末で花と兵隊といふ小説などは約十七ヶ所も切り取られた 私は従軍

中でもあったので他の作家達よりはいろいろと便宜も与えられてゐたと思ふ 火野が書いたも

のならまあ良いだらうといふやうな事で他の作家の場合削除されそうな所も大目に見て貰へる

といふやうな事もあった それでもかなり注意して書かないといけなかった49。

火野の描写に対し軍が「大目に見た」戦場の兵士達の戦い,生活の描写が他の作家達の戦争文学

にも,一つの基準となったことで,火野の与えた影響は大きかった。

日本軍の杭州湾上陸以来の暴虐な行為を漏洩させないという軍上層部の基本方針に沿いながら,

すでに南京事件の真相を知っている火野は如何に描くかということは難題であったと思われる。

火野は芥川賞作家としての矜持があり,受賞後の第一作には多いに神経を使ったことを座談会の

中でも,戦後の『火野葦平選集』の「解説」でも次のように述べている。

僕はこの一篇には七転八倒した。……これは軍の意向(はっきりした形式ではなかったが)

にもとづいて書いたようなものだし,どうしても軍の意向を斟酌しなければならず,と云っ

て,兵隊にも読んで貰いたいし,と云って,えらい人達から,あんなものを書いた,などと笑

われたくない50。

火野は戦場での熾烈な戦い,日常の兵士の何気ない姿,生活を下級兵士の目線でリアルに描き,

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戦場に自分の息子,夫たちを送っている家族の「知りたい」という熱い思いにも応え,また戦争遂

行の戦意昂揚をはかる情報統制機関の思想戦・宣伝戦に貢献し,「火野が書いたものなら良いだろ

う」と,軍に一目置かれるようになった。

火野が望んだように第一作『麦と兵隊』は,あらゆる階層の人々に受容され,同業の文学者,評

論家の評価も高く,雑誌,新聞紙上に彼等の好意的批評が多数掲載されたのである。

『兵隊三部作』は短期間にベストセラーとなり,マス・メディアのプロパガンダの力もあって社

会に「兵隊ブーム」を巻き起こし,兵隊や戦争の暗いイメージを塗り替える感があった。「○○と

兵隊」は流行語となって新聞紙上に溢れ,映画,演劇,歌謡,舞踏に,さらには商品の宣伝にまで

「薬と兵隊」「乳と兵隊」「酒と兵隊」などと,「兵隊」を冠した言葉が飛びかったのである。

陸軍省から火野に様々な要望が出されたことを,火野は妻宛の以下の手紙に書いている。

今日陸軍省から「麦と兵隊」を歌にして,レコードに吹き込むから許可しろといふ手紙が来

た。そのうち,レコードにもなるだろう。芝居は東京だけかも知れないが,松竹で作る映画は

若松の方にも無論行くだらう。

「麦と兵隊」を今度,軍で,英語と独逸語に翻訳して海外に出すといふ相談をうけた。……

自分でも驚くほどの反響で,少し尻がくすぐったいみたいだが,それでも書き甲斐があったと

思ひ,非常に嬉しく思ってゐる。軍でも非常に喜んでくれてゐる。今,杭州湾敵前上陸前後の

戦闘記「土と兵隊」を書いてゐる。もう少しで書いてしまふ51。

火野の「兵隊もの」は,映画,芝居,歌,舞踏,ラジオ小説になり,国民の人気を博した。また

海外でも,軍によって外国語に翻訳され出版され,各国で読まれた。軍の意図は当り,米国のノー

ベル賞受賞作家・パール・バックにも賞賛された52。

日本文学研究者ドナルド・キーンも,青年兵時代に『麦と兵隊』を読んで,いたく感動し,「と

りわけ私は,恐ろしい戦禍の只中にあってさえ,火野が見いだした,感動的で,人間味溢れる事件

に打たれた。おかげで私は,まだその時期までは,至るところで勝ち誇っていた日本陸軍も,単な

る戦争機械ではなく,献身と同時に,恐れ,疑い,ねたみなど,ごく並みの人間的弱さに満ちた反

応を示す人々から成り立っているという,まことに当たり前な事実に,とくに感じ入ったことであ

った。」53 と書くに至っては,火野が,海外には知られた南京事件の暴虐な日本兵の印象を好転させ

るのにいかに貢献したかがわかる。軍にとっては火野の存在はまさしく天佑ともいえた。

おわりに

日中全面戦争開始後,日本は中国を「一撃のもとに屈服させる」との予想に反し,中国の強い抵

抗で戦争は長期化・泥沼化の様相を呈していった。政府,軍にとって,戦争遂行は絶対的な国策で

あり,国民の協力なくしては不可能であった。「挙国一致,尽忠報国,堅忍持久」のスローガンを

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掲げて国民精神総動員運動を始めたが,国民の心を長期間にわたり,統合することは容易ではな

い。国家情報統制宣伝機関は国民を戦争遂行に統一するため思想戦・宣伝戦を強化した。軍人の情

報官も多く,欧米の理論書の翻訳,研究にも力を入れていた。思想戦・宣伝戦の本格的始動期に,

さらに軍にとって「重大時局」に,「兵隊作家」火野葦平が報道部班員として存在したことは大き

い。『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』が,驚異的なベストセラーとなり,社会的に大きな反響

を巻き起こした。火野作品が強制や命令でなく,国民諸階層の心,精神をつかんだということであ

る。,政府,軍は文学,文学者の影響力に注目し,彼等を国策に協力させ,動員していった。内閣

情報部が漢口会戦の宣伝に,いち早く「ペン部隊」を派遣したことはその影響の具体例である。

また火野作品の兵隊像,戦争像で,南京事件の暴虐な兵隊像を人間的で明るい肯定的なイメージ

にかえたこと,「兵隊もの」を文学の分野にとどまらず,映画,演劇,音楽,放送,舞踏のジャン

ルにまで拡大し,更には大衆の日常生活にまで「兵隊」が親しみをもって広がったことで,一つの

社会的雰囲気を醸成し,政府,軍にとっての国民精神統一にも貢献したのである。戦争は死や惨苦

を伴い国民に耐乏生活を強いるが,国民は戦争に反対せず,国策に従った。全面的ではないが,火

野の絶大な人気が影響したことは否定できない。火野の経歴から見て分かるように,彼は 初か

ら,軍国主義,ファシズム,神道などを標榜していたわけではない。そしてその作品も堅苦しい軍

国主義調でもないが,現下の戦争の真相,全体像を描かず,火野が兵隊の「美しい」面のみを描け

ば,戦争を肯定し,戦争推進の国策に大きな力を与えることになる。

国家情報統制宣伝機関は火野著作の利用だけでなく,火野自身を全国的な講演会やラジオ放送に

も出演させ,「聖戦」,「皇軍」を宣伝させた。当時の新聞を始めマス・メディアは競って火野本人,

さらに火野の家族さえも,エピソードなど写真入りで掲載し,火野の人気を煽り,「国民的英雄」

「時代の寵児」と,もてはやした。戦争に協力した強大なマス・メディアの力も忘れてはならない。

陸軍報道部との出会いから1945年敗戦まで,火野と報道部との協力関係と火野利用は続き,多

分野での活躍と,影響力は衰えることはなかった。

【注】

1「麦と兵隊」(徐州会戦従軍日記)雑誌『改造』1938年 8 月号(改造社,1938年 8 月 1 日)

単行本『麦と兵隊』(改造社,1938年 9 月19日)ルビ付き,定価 1 円。

「土と兵隊」(杭州湾敵前上陸記)雑誌『文藝春秋』1938年11月特別号(文藝春秋社,1938年11月 1 日)

単行本『土と兵隊』(改造社,1938年11月24日) ルビ付き,定価60銭。

「花と兵隊」(杭州湾警備駐留記)『東京朝日新聞』夕刊連載(1938・12~1939・6・24)

単行本『花と兵隊』(改造社,1939年 8 月11日)

2 石川達三「生きてゐる兵隊」雑誌『中央公論』3 月号(中央公論社,1938年)

3 中野重治「第二世界戦におけるわが文学」『中野重治全集 第10巻』(筑摩書房,1962年)416頁。中野指摘

の作品は,石川達三『生きてゐる兵隊』,火野葦平『麦と兵隊』,上田廣『黄塵』。

4 火野葦平「糞尿譚」同人雑誌『文学会議』第 4 刷(1937年11月)に掲載。

鶴田友也(第 3 回芥川賞作家)が詮衡委員会へ紹介した。単行本は小川商店,1938年発行。

5『文藝春秋七十年史 本篇』(文芸春秋社,1991年)127頁。

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6 火野葦平「年譜」『火野葦平選集』第八巻(東京創元社,1959年)530~550頁。

7 同前,「年譜」538頁。

8 火野葦平『魔の河』長編小説(光文社,1957年)

9 火野葦平から父玉井金五郎宛書簡(1937年12月15日南京より軍事郵便で発送)

北九州市立文学館所蔵,写真撮影は筆者・五味が文学館にて行った。

10 吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店,1986年)80頁。

11 第 6 回芥川賞詮衡委員は菊池寛の他,川端康成,久米正雄,室生犀星,横光利一,佐藤春夫

瀧井孝作,宇野浩二,小島政二郎,佐々木茂索。芥川賞委員会は1938年 2 月 2 日と 7 日開催。

「第六回芥川賞選評」『芥川賞全集』第二巻(文藝春秋,1982年)347~358頁より筆者要約。

12 菊池寛「話の屑籠」『文藝春秋』6 月号(文藝春秋社,1938年)298頁。

13 前掲,『文藝春秋七十年史 本篇』134頁。

14「ペン部隊」は内閣情報部による有名大衆作家の漢口への派遣で,全て国の費用,現地での世話は陸海軍が

行った。陸軍班は尾崎士郎,久米正雄,川口松太郎,丹羽文雄,岸田国士,林芙美子ほか15名,海軍班は,

菊池寛,佐藤春夫,吉川英治,吉屋信子ほか 7 名,総勢22名でそれぞれ 9 月12日,14日出発。漢口陥落の宣

伝,報道,執筆,帰国後,報告講演。

出発前から帰国後までマス・メディアによって華々しく報道された。

15 菊池寛「話の屑籠」『文藝春秋』10月号(文藝春秋社,1938年)125頁。

16「1940年 2 月第三回思想戦講習会での菊池寛の講義」編集復刻版『情報局関係極秘資料』(不二出版,2003

年)75~78頁。

17 前掲,『文藝春秋七十年史 本篇』133頁。

18 菊池寛「話の屑籠」『文藝春秋』(1942年 3 月号)『菊池寛全集』第二十四巻(高松市菊池寛記念館,1995年)

512頁。

19 横溝光暉「国家と情報宣傳」(第一回思想戦講習会講義)『情報局関係極秘資料』(不二出版,2003年)124頁。

20「国民教化運動の発足―情報委員会の発足」防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書 陸軍軍戦備』(朝雲新聞社,

1979年)157~158頁。

21 内川芳美「解題」『現代史資料40 マス・メディア統制 1』(みすず書房,1973年)xix, xxii頁。

22 香内三郎「情報局の機構とその変容」『文学』1961年 5 月 vol.29号(岩波書店,1961年)567,571頁。

23 陸軍省新聞班『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍省,1934年)28頁。

24 同前,44頁。

25 陸軍砲兵中佐・清水盛明「思想戦機関としての情報委員会」『偕行社記事』10月特報(偕行社,1936年)35

頁を筆者(五味)が引用,要約。

26 清水盛明「戦争と宣伝」『情報局関係極秘資料』第六巻(不二出版,2003年)167頁。

27 竹田光次「思想戦の概念」『偕行社記事』11月号(偕行社,1938年)17~18頁。

28 同前,21頁。

29 PK 中隊とは,ドイツ国防軍宣伝中隊,「PK」とは,「プロパガンダ カンパニー」の略。

30『写真週報』104号(内閣情報部,1940年 2 月21日)99頁。

31 日本文化協会出版部『日本文化 第八冊 近代戦と思想宣伝戦』(日本文化協会,1937年)34頁。

32「杭州の火野葦平より劉寒吉宛書簡(1938年 2 月13日付)」火野葦平『作家の自伝57 火野葦平』(日本図書

センター,1997年)254頁。

33 火野葦平「解説」『火野葦平選集』第一巻(東京創元社,1958年)440頁。

34 内閣情報部「思想戦展覧会記録図鑑 展覧会開催経過概要」『内閣情報部 情報宣伝研究史料』第 8 巻(柏

書房,1994年)245頁。

35 同前,「記録写真」「出品目録「思想戦展覧会記録図鑑」261~378頁。

36 同前,「二,実施経過」252頁。

37 火野葦平から父・玉井金五郎宛書簡1938年 4 月30日(北九州市立文学館所蔵を五味撮影)

38 前掲,「中山省三郎宛書簡」火野葦平『作家の自伝57 火野葦平』267頁。

Page 19: 日中戦争初期における「兵隊作家」火野葦平と 陸軍報道部...1938年3 月,杭州で芥川賞を受賞した「兵隊作家」火野葦平であった。文藝春秋社社長で芥川賞

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39「火野葦平・石川達三対談」『中央公論』12月号(中央公論社,1939年)349頁。

この対談は火野の帰還した1939年11月,北九州の火野自宅にて行われた。

40 馬淵逸雄「證言」火野の公職追放異議申立書と共に提出(1948年 4 月)火野葦平資料館蔵

41「陸軍宣伝機関報告」『現代史資料 37 大本営』(みすず書房,1967年)369頁,373頁。

42「二四 上海方面に於ける報道,宣伝業務の現況」(「松井集団特務部業務分担表」から「報道班」の業務を

筆者が要約。文章「宣伝の重点」の要点のまとめも筆者によってなされた。)稲葉正夫編『現代史資料37

大本営』(みすず書房,1967年)383~388頁。

43「第四章 中支に於ける軍人軍属非違犯罪の趨向 第一節 一般状況」『続・現代史資料 6 軍事警察』(みす

ず書房,1982年)446頁。

44 火野葦平「解説」『火野葦平選集』第二巻 (東京創元社,1958年)406~408頁。

45 前掲,『作家の自伝57 火野葦平』276頁。

46 前掲,「解説」『火野葦平選集』第二巻,420頁。

47 同前,408頁。

48 同前,420頁。

49「Special interviews」(於福岡市)『米国戦略爆撃調査団文書』

「Entry 41, Paciˆc Survey Reports and Supporting Records 19281947」

火野葦平への聞き取り調書の第一頁,1945年11月24日。(国会図書館,憲政資料室所蔵)

50 前掲,火野葦平「解説」『火野葦平選集』第二巻,416~417頁。

51 中国の火野葦平から妻・玉井良子宛書簡(日付がないが,「土と兵隊執筆中」の内容から1938年 8~9 月と推

定)。

52 1939年 8 月 1 日付『ニュー・レパブリック』誌に,パール・バックが寄せた批評を,8 月 3 日付『東京朝日

新聞』が,「偉大なる戦争文学・麦と兵隊」の見出しで紹介した。

53 ドナルド・キーン「火野葦平」『声の残り 私の文壇交遊録』(朝日新聞社,1992年)12頁。