永作地蔵尊 · 2016. 12. 19. · 永作地蔵尊. お. 永作地蔵尊...

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永作地蔵尊

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  • 永作地蔵尊

    永作地蔵尊

    県道広畑線、布川遊園地より北へ100メートル、道のすぐそばにお堂

    があります。これが、小手郷巡礼礼所六番、一盃盛地蔵尊または、永作地

    蔵尊そしていぼ地蔵とも呼ばれて人々に親しまれている地蔵尊を安置する

    地蔵堂です。

    本尊は、花崗岩で作られ、台座とも高さ1.4メートルの大きいもので、

    台座に享保十九年七月、施主稲村○○、梅村泰助両名と記されています。

    各地にみられるいぼ地蔵と同じく、いぼのできたとき、心願をかけると

    落ちるといわれ、俚人の信仰を集め、身にあまるほどの衣裳を着、奉納の

    旗に囲まれておわします。

    本堂は、広畑線道路改修により、従来の所より北へ30メートルのとこ

    ろに昭和五十三年にたてられました。間口三間、奥行二間半です。前は堂

    内に地蔵尊を安置しておりましたが、現在では本像を堂宇外に安置してあ

    ります。地蔵尊は元来堂宇内に納めるものではないとの考えによるものだ

    そうです。

  • 春先は美しい景色 宗吾堂

    堰場の宗五郎堂

    堰場の公民館(

    布川六番組)前の小高い山の急坂を登ると、約100メー

    トルの場所に御堂「宗五郎堂」があります。現在の堂宇は昭和五十三年に

    再建新築されたものです。

    明治三十二年八月、下総国佐倉郷の宗五神社に参じ、分霊を奉祀したと

    いわれます。

    農民の救済のため身命を投げ出し、神と祭られた佐倉宗五郎(

    本名は木内

    惣五郎)

    は有名ですが、この近在には分霊した祀はないらしく、達南方面か

    らも信者が数多く参拝に集まります。

    境内には老松が茂り、また、参道の途中には「馬頭観音供養塔」も祠ら

    れ、馬飼育の歴史を伝えています。

    数年前より、氏子信者が境内一帯の公園化を計画し、桜の苗木を多く植

    えました。桜の名所として参拝に遊歩に賑わうことも間近いことでしょう。

  • 十良田の供養碑

    広畑線から中古屋への分岐点の反対側に旧道が少し残っています。

    その曲がり角のところに、高さ2.5メートル、幅70センチの大き

    な自然石に「南無阿弥陀佛」の名号が彫られた碑があります。右側面

    に「寛延四辛未年十月十日、人数七十五人、茂林自鑑代」と刻まれて

    います。寛延四年(

    1751)は宝暦元年です。造営途中で改元になっ

    たものと思われます。

    東北凶作年表によると、一七〇〇年代には頻繁に冷害があり、餓死

    者も数多く出たことが記されています。

    当碑もこれらの災厄による死者の霊を弔うための部落の人々の浄

    財によって建立されたものと考えられます。

    往時の人々が自然の猛威の前におののき、飢餓と戦いながら心の安

    らぎを信仰に求めていった姿が浮かぶような供養塔であります。

    大湖滴水の墓標

    東犬飼から、大城へ抜ける山道の途中、本田氏の墓地の一隅に犬飼嘉

    作の墓碑がありました。現在は砂防ダムができたことにより無くなてお

    り、現存は確認できていません。

    墓石は花崗岩でできた、30センチ角、高さ1メートルほどで、中央

    に大湖滴水信士、側面に天明五年(1785)六月と刻まれていました。

    享年二十五才であったといいます。

    犬飼嘉作という人は、非常に伝説的な説話の持ち主で、例えば、徳利

    の中へ入ったとか、祭りのとき瓜売りの瓜を集まった人にくれてしまっ

    たとか、一晩に仙台まで行ってまんじゅうを買ってきたとか、数えきれ

    ないほどです。そして最期には、二つ玉の鉄砲で打たれたということに

    なっています。一つめの玉は右手に握った(

    口に食わえた)

    がもう一つで

    胸を射抜かれたというのです。(月舘町伝承民話集)

    霊山の石田には「嘉作ころがし」という地名とともに、嘉作を射った

    人の名も伝わっていますが真疑の程は明らかでありません。

    嘉作にまつわる話は、多分に民話的なもので、後世の人がつけ足し、

    ふくらませながら語り伝えられてきたもののようです。「大湖滴水信士」

    を過去帳で調べても「嘉作」の名は見つかりません。

    しかし、犬飼の本田氏のもとには、忍術の書が伝わっており、何かし

    ら魔術師的な人の存在を裏書きしているかのようです。

  • 犬飼 熊野神社

    犬飼の熊野神社

    広畑線、犬飼に入ると右手の小高い山にのびる石段の下に石の烏居が建

    っています。これが犬飼部落の鎮守熊野神社です。

    祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、室町時代の末、永禄年間の頃、紀州熊

    野詣の際、受けてきた御神符を御神体として祀ったものと伝えられていま

    す。 胸

    つく石段は、現在西側にありますが、以前は北側になっていました。

    拝殿は昭和四年に再建、遷宮の式典を行なっています。

    社の裏手には、男体山、雷神、小牛田様、山神、嶽などの石塔と恵比寿

    大黒、稲荷の小祠にまじって猫神様も祀られ、地域の信仰の拠り所となっ

    てきた様子がしのばれます。

    この社地は、字名を大館といい、時代はわかりませんが、かつて、館の

    あったところといわれていますが、館主や時代については全くわかってい

    ません。

    境内の石段わきの桜は「種まき桜」と呼ばれ、この桜の開花を見て稲の

    種まきをしてきました。

  • 一番左端が青麻様

    犬飼の青麻様

    犬飼から石田大城に通じる小径を沢沿いに登っていくと、山中に小さな

    お篭り堂があり、そのわきに「青麻神社」の碑が建っています。青麻(あ

    おそ)様は中気除けの神様として信仰されてきました。本町内にもそちこ

    ちに小碑が建てられています。仙台市岩切青麻沢に祀られている青麻神社

    がその中心といわれています。

    この碑は、昭和八年に本田伴蔵氏が中心となって建立したものです。碑

    のわきには「山神祠」があり明治二十九年申旧正月十七日遷宮・松本政吉

    の板札があります。お籠り堂には山の神の鳥居奉納の寄附名が残されてい

    ますが鳥居は見当たりません。

    この祠の後ろに「普賢菩薩」を彫った石塔があります。普賢菩薩は滅罪

    延命の功徳を有し、白象に乗る美しい御姿です。辰と巳年生まれの人の一

    代守本尊です。

    ここに至る道の途中、茶畑への分岐点に近い大岩の下に縄掛不動尊が祀

    られています。

  • 5平米ほどの土地に敷き詰められた石塔郡

    犬飼公民館前の石塔群

    犬飼公民館の前に累々と石塔が集められています。主だったものをあげ

    ると、道路に面して2メートルを越す「湯殿山」(

    文化六年)

    「蠶」(

    文化九

    年)

    「二十三夜待塔」(

    文化九年)

    「金華山」「百万遍供養」「摩利支天」「青面

    金剛像」「庚申」と民俗信仰の見本市のようですが、いずれも1メートルを

    越す巨大なものであり、これらを造立した人々のエネルギーにまず圧倒さ

    れます。

    この地は、かつて、行屋のあったところで、明治の年代まではいろいろ

    な行や集会が行なわれたところでありました。明治の排仏棄釈の折、そち

    こちに建てられていた石塔をここに移したため、このような石塔群ができ

    たのだといいます。

    公民館の北側の斜面には、墓碑がまた数多く集められておりますが、こ

    の中に格子のようなものが前面にはめられた石祠があります。古くからキ

    リシタンのものと伝えられ、地域の人々も特別なものとして恐れ崇めてき

    たものです。しかし、地域の人たちの中にはかくれキリシタンについての

    言い伝えもなく、今でははっきりしないものになっています。何らかの傍

    証が見つかればたいへん貴重な史料となるものです。

  • 最滝大明神

    最滝大明神

    月舘町の東端、相馬郡飯館村との境にある最登山(

    625メートル)

    の西側

    の中腹の谷間に鎮座まします。

    祭神は最滝大明神、稲荷大明神、山神の三柱で岫城主であった本田氏の

    氏神です。

    天明年間には、近郷からの参詣者も多く、信仰者で賑わったらしく、相

    馬方面から賓銭泥棒が「かます」を背負って、最登山の東側の北ノ沢より

    山を越えてきたという話も残っています。

    また、江戸末期には、境内にある六畳敷もある大石が賭博場に利用され

    たということです。この大石は、大正二年の洪水で現在のように傾きまし

    た。 こ

    の近くにある最登の滝はすばらしい景色ですが訪れる人とてもなく、

    秘境そのものです。

  • 滝見観世音

    如意輪観世音(

    滝見観世音)

    脇佛の如意輸観世音は、堂宇再建と同年の十月、禅木食自在法

    師によって刻まれたもので、全長97センチ、全体に黒墨を塗り、

    口唇に朱を用い、切れ長の目などに特徴があります。岳林寺の地

    蔵尊と同一作者とみられます。

    この仏像は、昭和二十四年度、県文化センターで開催された県

    北の仏像展に出品、その容姿から「滝見観世音」と呼ばれるよう

    になったものです。

  • 三淀ヶ入不動尊

    三淀ヶ入不動尊と磨崖仏

    布川の清流を溯ると、字下神山の岩をかむ急流のほとりに不動堂があり

    ます。この辺は昔「よど」になっていたので「みよどがいり」という地名

    がつけられたといいますが、下神山よりは三淀ヶ入の方が一般的です。

    御堂内の不動尊像は、貞観元年文覚上人の作と言われたものだったそう

    ですが、御堂内に寝泊りしていた浮浪人によって持ち去られたと伝えられ

    ています。現在は、石造の不動尊像をお祭りし、七月二十七日が祭日です。

    また、御堂に向って右手の岩肌に、享保八年(

    1723)

    癸卯の年号のある

    半肉彫の磨崖仏(まがいぶつ)三十四観音像が刻まれています。花崗岩に

    彫られた観音像は二百年の風雪によってかなり風化はしていますが往時の

    面影を残しています。三十四体の観音像は、三十三観音に結願として一体

    を加え三十四体としたものではないかと考えられます。三十四観音は秩父

    地方にその例が多いとのことです。作者ならびに寄進者はいろいろと伝え

    られておりますがその裏付けとなるものは見当たりません。

    この磨崖仏の周辺には、巳待供養塔、日待供養塔などの石塔が立ち並び、

    すぐ上流にある御前堂とともに、昔の部落の人達の信仰の様が偲ばれて心

    安らぐものがあります。

    昭和四十二年月舘町教育委員会では当磨崖仏を町の重要文化財に指定

    し、その保護につとめることにしております。

  • 赤井堂地蔵尊

    赤井堂地蔵尊

    県道臼石線と広畑線の分岐点近くに建つ赤い堂宇が地蔵尊を安置する赤

    井堂です(あかは仏教の言葉で仏に供える浄水〔閼伽〕を言う=辞苑)。小

    手郷順礼礼所五番です。

    本尊の地蔵尊は高さ四〇センチの木像で、別名「しろかき地蔵」とか「子

    育て地蔵」ともいわれて親しまれており、地蔵尊にまつわる伝説も有名で

    す(月舘町伝承民話集)

    地蔵尊の由来としては、建武の昔、北畠家の臣として従軍した小鉢内の

    斎藤隼人正が、阿部野ヶ原の戦後幾多の苦難に逢いながらも帰郷すること

    のできたことを感謝し、持仏としていた地蔵尊をここに祀るようになった

    といわれています。その後、斎藤隼人正を家祖とする一族は産土神と併祀

    して今でも祭祀を続けています。先年の屋根の修理の際、弘化二丁巳(1

    845)(乙巳か)三月八日再建、施主五郎兵衛氏子十四名と記された棟札

    が発見されました。再建ですのでそれ以前よりあったことは間違いありま

    せん。

    堂前には、丸い繭形をした「蠶」(文政六年(1823)ほか「金華山」

    「辮財天」のほか庚申塔も立ち並び人目をひいています。

  • 徳明の馬頭観世音

    布川の熊野神社の向い、徳明の橋を渡って山道へはいると、すぐ右

    手に90センチ程の忿怒相の馬頭観世音像と、その左に「馬頭観世

    音・妙法農耕馬佛」明治三十六年と刻まれた石塔が立っています。碑

    面から見て、農耕馬の供養碑であるとみられます。

    馬頭観世音像には、享和三年(

    1803)

    三月七日、加藤…

    と二名の

    名が刻まれているようですが風化が激しく、よく読みとれません。

    この所も、明治のころまで「はくらく」によって馬の健康診断や、

    爪の手入れなどが定期的に行なわれていたところといわれています。

    布川庚申坂の百庚申

    町水道の浄水場の南に接して、お椀を伏せたような小さな山があ

    り、参道及び山頂には老松が茂り、常に松籟を聞くことができます。

    県道改修のとき、山裾を切り、布川のつけかえをしたので高さ数1

    0メートルの滝もでき、風光明眉な小公園となりました。

    浄水場の傍らより、山頂に至る小径の両側がいわゆる百庚申で、

    数知れぬ庚申塔が立てられ一大奇観を呈しています。山頂の一段と

    高い土壇の上には、石造りのお宮があり、祭神は天神様、その隣り

    に大きな自然石の「百庚申」があります。

    このあたりでの庚申信仰がいつごろより行なわれているかはわか

    りませんが、塔の年号からして享保以降であろうと思われます。造

    塔につきましても、数年に一度廻り来る七庚申のときに建てたとも

    言われますがよくわかりません。

    最も新しいものは、昭和五十三年建立になるものです。まだ信仰

    が失われずに続いています。

    最近、桜の植林も行なわれ、将来は桜の名所として町民の憩の場

    になることでしょうが先祖農民の信仰心を思い起こし、あらためて

    庚申塔にこめた願いを偲んでみたいと思います。

  • 千手観音堂

    千手観世音堂

    広畑線より中古屋へ入つて100メートルほど進んだ左側にある萱葺の

    御堂が千手観世音を安置してある観音堂です。創立は、寛永七年(

    1630)

    寅三月十七日大願主地方相衛門、世話人喜左エ門が清水寺住持を導師に招

    請し、千手観世音を奉祀した旨記した奉請の板札が現存しています。

    現在の堂宇は、寛政四子年(

    1792)

    八月十八日施主銀蔵、世話人喜左エ

    門外六名によって再建されたもののようで「奉再千手観音堂造営別当茂林

    寺」なる板札も納められています。

  • 昭和まで藁葺きの屋根だった。

    竹の内観世音

    赤井堂から西の方へ橋をわたって小径を辿ると、桜の古木の参道の奥に二間

    四方の堂宇があります。これが小手三十三観世音の二十五番札所、勢至観世音

    菩薩をまつる観音堂で一般に竹の内観世音と呼ばれています。

    御堂内には、40センチ角、高さ70センチの厨子があり、中には台座とも

    高さ三十センチ、寄木造りの観世音様が鎮座しています。

    信達一統誌によれば「大悲閣、竹ノ内という所に安置す。三月十七日祭礼な

    り、詠歌に『布川や波おり来てし水上のいと澄渡るあや竹の内』云々」と記さ

    れています。

    当勢至観世音は、当地の斎藤五左エ門が信夫郡山口村より移住のとき、文字

    摺観世音の御分霊としてまつったものです。

    現存の御堂は、記録によると斎藤五左エ門の分家が七軒となった天明元丑年

    (

    1781)

    十月二十八日に起工し、天明三卯年(

    1783)

    十月二十八日に入仏式

    を行なったものです。

    今次大戦直後までは、本堂の前に九メートルほどの石畳があり、その先に、

    二間に五間の楼門の形をした行屋がありました。昔は、部落の信者の人たちが

    お籠りなどをしていました。

    境内には、青葉山、百万遍供養塔、庚申塔など数多くの石塔が立ち、また、

    二重墓制の墓碑も沢山建てられてあります。

  • 摩利支天

    中古屋の摩利支天

    布川の大木坂より犬飼へぬける山道の頂上に、約七~八0平方メートル

    の広場を前にして雨露をしのぐ屋根の下に東向きに立つ石塔が「中古屋の

    摩利支天」です。碑の高さは約1メートルで、正面中央に「天照皇太神宮」

    右に「三寶荒神」左に「摩利支天」と刻まれ、右側面には、中央に「国祝」

    その下に「流方門手廿三人」「兵術門手廿六人」左側面には「寛政三子年十

    月」と記してあります。

    この所には、昔武術の道場があったといわれ、道場主である大木坂重蔵(

    説には斎藤重五郎)という棒術の達人が、武術の守護神である三神を祀り、

    門弟とともに精神の修養・武術の上達を願って建立したものといわれてき

    ました。

    この石塔の後方に、「重嶽良雲居士」の法名を刻んだ墓碑がありますが、

    文化元年没の重蔵の菩提を弔うために門弟たちによって道場跡に建てられ

    たもので、重蔵の墓は小込沢の旧墓地内にあり、石碑も建てられています。

    武術を通した人間修養の姿と師弟のきずなをしのばせてくれます。

    広場の周囲には松の古木が立ち、地域の人々の憩いの場であり、昔は旧

    三月八日の祭日には出店なども並び、踊りも催されるなどして賑わった所

    です。

  • 2009 年時の写真。2010 年、屋根の葺き替えなどをおこなった。

    布川の熊野神社

    村石の入口、老松が聳える山の麓に伊弉諾命、伊弉再命、久久能智命の

    三柱を祀る布川の鎮守熊野神社があります。

    神社の縁起として「熊野大権現麓山大権現両社宮慶長二年(1597)

    州上杉様給人小梁川民部申仁勧請仕申候」という文書が伝わっています。

    その後、宝暦の大火で類焼し古記録の大半を失いました。

    石の鳥居をくぐり、きざはしを登ると正面に拝殿があり、その奥に本殿

    があります。拝殿は大正十二年に再建されたもので、以前の建物は左手に

    遷されて古拝殿となっています。拝殿の右手には神馬庫、神輿庫を経て1

    メートルを越す大きな石塔が三基建てられていますが、昭和十七年に月舘

    町煙草耕作組合によって建立された「煙草大神」の碑は珍らしいものです。

    石塔を過ぎると農作の守護神「麓山(はやま)様」の社殿があります。

    大戦前までは、麓山籠りをはじめ「火渡り」の行や、口占(くちうら)な

    ど農作に関した神事が行なわれておりました。戦後はこのような神事は消

    滅してしまいましたが、拝殿前で行なわれた「火渡り」を記憶している人

    もあろうかと思われます。

    麓山様の隣りは、延命地蔵・愛宕様、金比羅様を合祀する社です。

    拝殿の裏手から裏参道には石塔が多く建てられ、今でも参拝する信者の

    姿を見ることができます。

    熊野神社には「三匹獅子舞」が伝わり、氏子の若者たちによって受け継

    がれてきました。伊勢参りのときおみやげとして獅子頭と舞を持ち帰った

    といわれていますが、弓を中心として三匹の獅子が踊るたいへん活動的な

  • 熊野神社三匹

    な舞です。

    一時は廃絶の危険にありましたが、若者たちによって継承され、大字団

    結の一事業として十月の祭礼の時に奉納されています。また、春の祭礼に

    は壮年の奉納する「太々御神楽」も欠かせないものでしたが、今では行な

    われなくなりました。

  • 布川御前堂

    布川の御前堂

    県道月舘臼石線、バス停「御前堂」の南、布川の清流を隔てて静かな木

    立の中に立つ御堂が「布川の御前堂」です。二間に二間の御堂は、つつま

    しく小手姫への信仰を今に伝えてきています。

    昔、小手姫がこの地においでになり、里人に養蚕と機織りの業を教え伝

    えたので、その御恩に感じた里人達の手によって祀られたものとの言い伝

    えがあります。

    堂の近くに、姫が使われた筬(おさ=織機の象徴とされる道具)

    を埋めた

    といわれる「筬塚」がありまた、御堂から50メートル程布川をさかのぼ

    ったところには、姫が布を晒した(

    布を白くするため水で流うこと)

    という

    「布晒石」があり、今でも巨岩の上を清流が走っています。

    このように、数ある小手姫伝説の中心にこの御前堂があり、この辺一帯

    は神域として地域民の信仰の場でもありました。

    今でも、御堂の格子には数多く繭が下げられ、信仰の続いていることが

    うかがえます。

    大正二年には、岩倉卿が、小手姫ゆかりの地としてここにおいでになり、

    盛大な祭祀を行なった記録もあり、布川の御前堂は近隣にも聞こえたとこ

    ろとなっているのです。

  • 茂林寺本堂

    万松山茂林寺

    月見橋を渡って布川へ入ってややしばし、屋並みの尽きた左手に細々と

    のびる石段、それが茂林寺への入口です。

    当寺は曹洞宗に属し、永平寺、総持寺を両本山とし、川俣町頭陀寺が本

    寺です。寺に残る記録等によりますと、創立は天正八年(

    1580)八月十

    五日頭陀寺九世金室全菊和尚を招請し、布川梅ヶ作に住む周防遠親類稲村

    丹波貞宗という人が小庵を造立したのが始まりといわれます。また、慶長

    八年(1603)

    周防が先祖菩提のため客殿を造立、中興開基檀那となり、

    山号を萬松山茂林寺と号しました。それより21年後の寛永元年三月に客

    殿を再建、更に53年後の元禄二年、周防の子孫稲村助右エ門が布川中堀

    地内に境内を開き客殿を造立しました。

    住職八世、鑑大和尚の代に起きた小手七ヶ村の大火(宝暦十年)

    でこの堂

    宇は焼失、天明年間に境内を現在地に移しました。その際、月舘の菅野新

    左衛門氏先祖は、山門の石段及び梵鐘を寄進されるなどの大きな功績を残

    されました。現住職は第十九世、創建以来四百年になんなんとしておりま

    す。 ま

    た、月舘町の古い資料の中には、月館野竹内の桑島與惣右衛門が文禄

    年間に小庵造立に尽力されたということも残っています。

    なお、菅野氏寄進の梵鐘は、今次大戦の時国へ献納され、その鐘楼のみ

    境内に淋しく残されています。

    鐘楼に対して建つ観音像は「梅花観音」と呼なれ昭和五十二年仙台市の

    千葉氏の寄進になるものです。

  • 白山権現 天狗・仁王の面

    山門の入口附近には、念佛供養塔や守庚申碑とともに、馬頭観世音の石碑があ

    ります。昭和三年の建立ですが、発願者、運送組合長、長根宗之助外十六名と

    の刻から、当時馬による運送業が盛んであったことがうかがえます。

    茂林寺参道を登って石段の左手にある御堂が「白山権現」で、本尊は、

    白山妙理大権現修理菩薩であります。白山権現とはこの近くには少ないも

    のですが、加賀白山の流れでしょうか。石川県から新潟県に多く山形県か

    ら鹿児島県までほぼ全国的にみられるそうです。

    当社の縁起として伝わるところによると、昔、夢枕で白蛇から絹織物の

    つくり方を教えられた人が、白蛇の霊への報恩という意味で、化身が白蛇

    である白山権現を祀ったとのことです。

    創立年代はわかりませんが、文政年間の布川の古地図には、中平に堂宇

    のあったことが記されておりまた、堂内に献納されている天狗と仁王の木

    面のうち、仁王面の裏に「寛政八丙辰中夏陸奥大久保氏奉納十二神大願」

    の文字が見られることから、当時既に祀られていたことがわかります。

    明治の中ごろ、堂宇の老朽甚しく、とりこわしの話もありましたが、信

    者の願いによりようやくとりこわしを免れ、明治四十二年、中平から現在

    地の茂林寺境内に移されました。祭りは部落青年の手により八十八夜の日

    に行なわれています。

  • 片草の乳代観音と子育地蔵

    片草の百庚申の傍らに在る御堂、それが「乳代観音と子育地蔵」が

    安置されている御堂です。

    両像とも木造彩色で約40センチの大きさです。

    観音像は、頭部及び手の一部が損失していますが古くより「片草観

    世音」別名「乳代

    ちちしろ

    観世音」と呼ばれ、乳房の病気や、乳の出の少ない

    婦人が竹筒に甘酒を入れて供え、祈願すると御利益があるとされ、祈

    願者も多かったところです。

    小手郷三十三観世音の札所で、ご詠歌は

    片草や、朝日かがやく観世音

    乳ぶさのねがい、あらたなるらん

    地蔵尊は延命地蔵ですが、「子育地蔵」といわれ、子どもの諸病に

    利益ありといわれてきました。

    この御堂は、文政十二年八月十七日創建の記録が残っていて、発起

    人は片草の善八、世話人は平左衛門外八名であることがわかっていま

    す。以前は旧県道近くにありましたが、道の拡幅などで倒壊の恐れが

    でたため現在地に造営されました。

    片草の百庚申

    二枚橋に至る旧県道、片草地内の急斜面に幅2メートル程の参道

    をはさんで大小の庚申塔が文字どおり百近く並んでいます。

    参道を登りつめた正面に、120センチの高さの自然石に(

    百庚

    申、明治二十七年十月十七日)の塔、左右に「青面金剛像」(

    庚申講

    の御本尊)

    二基が建てられています。

    このおびただしい庚申塔は、部落内のそちこちに散在していたも

    のを移したもので、造立年代も明治三年とか、それ以前のものもあ

    ります。年代を刻まないものは、当地に移したときに製作し、合わ

    せて百庚申としたものといわれています。

    当部落では、現在でも庚申講が続けられており、毎年の初庚申の

    日に講中が集まっています。会場は講中の家を回るわけですが、宿

    送りになっている箱の中には、嘉永七年(

    1857)

    の記録のある古

    扇も入っており、それ以前のものは骨ばかりになって読めません。

    江戸時代から続いている行事であります。

    講は、庚申真言を三十三回唱え、その後、宿(

    当番)

    の酒肴を馳走

    になるということです。

  • 椚平のお周防様

    布川の茶畑から犬飼に抜ける山あいに椚塚という所があります。

    200年ほど前までは、人家2~3軒あり、恵まれた暮しをしていましたが、

    ある年一旅僧がこの地に留ってからこの部落に大きな変化が起こり、旅僧は殺

    され、その為か部落の人たちも没落し、ついに転居して無住の地となってしま

    いました。土地を離れる際の供養碑や、旅僧を祀ったといわれる周防明神が草

    むらの中に淋しく立っています。

    現在は雑木林の中になり、とても住めそうにもない不便なところですが、か

    つては、茶畑と犬飼の中間にあって人の行き来もあり、自給自足の生活にはと

    くに困ることはなかったものとみられます。交通の変化とともに部落の離合離

    散の姿を感じさせられます。

    月舘ふるさとの小径をゆく

    より