大伴家持ホトトギス歌の特質 - Hiroshima...

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大伴家持 1 ii 独詠歌に注目して|| ホトトギスは、五月の連休頃の夏 いているが お盆頃である八月中旬になれば、鳴き かれなくなる まさしく夏の鳥である 万葉集では、ホト トギスが鳥の中で最も多く詠まれた その中でも越中守時 代の家持を中心にした人々に多く詠まれている 中西悟堂 ( 1 ) 氏は、ホトトギスが百五十六件、雁が六十三件とする 方、中川幸康氏はホトトギスが百五十三首であり、また二 ( 2 ) 番目に多い雁が六十七首であるとする 数から言えばホト トギスが圧倒的である 万葉集のホトトギスがカッコウなどを含むらしいことは、 指摘できても、その証明になるとなかなか難しい ただ、 万葉集のホトトギスには、さまざまな習性のなかで比較的 目立つのが鳴きながら飛ぶことであり、歌も鳴くことに集 中している また、高橋虫麻旦口歌(九・一七五五)や大伴 家持歌( 十九・四二ハ六 ) によって、ウグイスの巣に托卵 ァに :;f木 する習性もうたわれている さて、大伴家持の歌人としての人生は けで考えることが出来る 習作時代の天平十八年までと、 越中時代の天平十八年から天平勝宝三年まで 都に戻ってきてから因幡の国守であった天平宝字 である 年齢からは、十五歳から二十九歳まで、二十九歳 から三十四歳まで、三十四歳から四十二歳までである の論では、越中の守時代に、四十六首ものホトトギス歌を うたったことを配慮して、ホトトギス歌の特質を追求する L 、家持ホトトギス歌の特質は独詠歌にあると考える また、この論で言う家持のホトトギス歌は、歌中で「ホト トギ ス」とうたわれているか、或いは確実にホトトギスを うたったと判断される歌を指す 一般的には、ホトトギス の言葉がある歌を一言うようであるが、その意味で歌数が若 干多くな っている 9

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  • 大伴家持ホトトギス歌の特質

    1i

    i独詠歌に注目して||

    ホトトギスは、五月の連休頃の夏になればやってきて鳴

    いているが、お盆頃である八月中旬になれば、鳴き声も聞

    かれなくなる。まさしく夏の鳥である。万葉集では、ホト

    トギスが鳥の中で最も多く詠まれた。その中でも越中守時

    代の家持を中心にした人々に多く詠まれている。中西悟堂

    (1)

    氏は、ホトトギスが百五十六件、雁が六十三件とする。

    方、中川幸康氏はホトトギスが百五十三首であり、また二

    (2)

    番目に多い雁が六十七首であるとする。数から言えばホト

    トギスが圧倒的である。

    万葉集のホトトギスがカッコウなどを含むらしいことは、

    指摘できても、その証明になるとなかなか難しい。ただ、

    万葉集のホトトギスには、さまざまな習性のなかで比較的

    目立つのが鳴きながら飛ぶことであり、歌も鳴くことに集

    中している。また、高橋虫麻旦口歌(九・一七五五)や大伴

    家持歌(十九・四二ハ六)によって、ウグイスの巣に托卵

    ァに:;f木

    する習性もうたわれている。

    さて、大伴家持の歌人としての人生は、大きく三つにわ

    けで考えることが出来る。習作時代の天平十八年までと、

    越中時代の天平十八年から天平勝宝三年までの問、さらに

    都に戻ってきてから因幡の国守であった天平宝字三年まで

    である。年齢からは、十五歳から二十九歳まで、二十九歳

    から三十四歳まで、三十四歳から四十二歳までである。こ

    の論では、越中の守時代に、四十六首ものホトトギス歌を

    うたったことを配慮して、ホトトギス歌の特質を追求する。

    L、家持ホトトギス歌の特質は独詠歌にあると考える。

    また、この論で言う家持のホトトギス歌は、歌中で「ホト

    トギス」とうたわれているか、或いは確実にホトトギスを

    うたったと判断される歌を指す。

    一般的には、ホトトギス

    の言葉がある歌を一言うようであるが、その意味で歌数が若

    干多くな

    っている。

    9

  • 越中時代に集中してホトトギス歌がうたわれているので

    あるから、当然越中と

    いう風土も影響しているが、この論

    ではホトトギス歌に死者の影響があることを主に配慮して

    みたい。

    一、家持の習作時代

    まず、創作の日時で整理して家持のホトトギス歌を示せ

    ば次の如くである。

    習作時代

    天平十三年

    (担歳)

    四月一一一日一一一九一一

    1一一一九一一一一

    天平十六年(幻歳)

    四月五日三九一六j一一一九一九

    (4首)

    不明

    (天平四年から天平十六年迄か)

    一四七七一四八六一四八七

    一四八八一四九

    O

    一四九一一四九四一四九五一五

    O七

    O九

    以上十七首

    (3首)

    越中守時代

    天平十九年

    (却歳)

    三月二十日三九七八

    同月二九日

    三九八三一

    同月三

    O日

    三九八七

    四月十六日三九八八

    同月二六日三九九七

    同月三O日

    OO六

    天平二十年(訂歳)

    三月二四日四

    O四三

    同月二五日四

    O五

    同月二六日四

    O五四

    O六

    O六八

    天平感宝・

    天平勝宝元年

    (沼歳)

    O八四

    O八九j四O九二

    同月十四日四一

    O一

    閏五月一一一一一日四一

    三九八四

    四OO七

    同月二八日四一一九

    天平勝宝二年

    (お歳)

    三月一一

    O日

    一六六

    1四

    一六八

    10

    (4昔日)

    (3首)

  • 四一六九(この歌以降は、妻大嬢が

    越中に居る)

    一七

    一七二

    天独以平居上回勝因作四月宝月27六十三二首首六年二) 日(日

    二 34圭四歳四四四四四回目ー)ー

    七三 O 九 八 八 七 七の 九 七四九 O 七五作 j 、¥ ¥ 7 四四四四四四首 二 一 一一

    O 九 九 八 七 七八六二三九六

    3 四 4 3 首一首首) 九 ~ ~

    月四月三日

    同月四日

    同月九日

    四月

    贈答での作ロ首

    少納言時代

    天平勝宝六年(訂歳)

    O五

    天平勝宝八年(却歳)

    四月二十日四四六三

    四四六回

    この年表で明確なことは、まず越中時代に四十六首もの

    ホトトギスの歌を作っていた家持が、少納言時代には三首

    しか残していないことがある。次に夏は、四月から六月で

    ありながら、創作が三月と四月にほぼ限定されるのであり、

    数が少ないが菖蒲、薬玉などと結びつくと五月(閏五月を

    含む)もうたっている。夏の鳥としては、もっと盛夏の五

    月、晩夏の六月にも歌の素材になっていいはずである。奈

    良時代のホトトギスは、とりわけ六月に鳴かなかったので

    あろうか。現在では立秋を過ぎた八月上旬くらいまでは、

    里でもホトトギスは確実に鳴いている。これは、ホトトギ

    ス歌の主題として、晩春三月になるとホトトギスの鳴き声

    が待ち焦がれたためと、四月に入っても思うように初鳴き

    が聞き得なかったことへの嘆き、或いはその初鳴きに感激

    しているこの時代の好みとも関わる。鳴き声が日常茶飯事

    のこととなると創作意欲がなくなっていったのであろうし、

    鳴き声に拘りつつホトトギスと卯の花等の組み合わせにも

    感動していて、特定の植物が咲く時期にほぼ限定されてい

    る。橘(六十九首中二十八首がホトトギス歌)卯の花(二

    十二首中十八首がホトトギス歌)、

    菖蒲(十二首中十首がホ

    トトギス歌)、棟(四首中二首がホトトギス歌)と関わる

    ので天平勝宝元年間五月の歌は例外的である。

    -11一

    また、

    家持

  • の妻は、天平勝宝二年三月に越中国府にいたようであるが、

    それ以前は京にいた。ところが、ホトトギス歌の創作とい

    う意味からは、天平勝宝二年三月でわざわざ区分する理由

    に大嬢の越中での存在ではない。

    ちなみに越中秀歌として有名な天平勝宝二年三月

    一日に

    詠んだ、春

    の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(十

    九・四一一一一九)

    などの「少女」を、坂上大嬢が越中に居ることと重なると

    する考えもあるが、この娘子自体が幻想であるし、絵画的

    であることからも、実在の人物の直接的な影響を指摘する

    必要はない。また、確実に越中にいたであろう天平勝宝二

    年が越中時代でも最も多いホトトギス歌二十三一首を創作し

    ている。

    さらに、少納言に任命されて都に戻ってからは、

    ギスは、主要な歌の素材にはなっていないことも、

    からは見逃せない。

    まず家持のホトトギス歌で年代がは

    っきり知られない歌

    が巻八の夏雑歌と夏相聞にある。夏雑歌の八首を示せば次

    ホトト

    この表

    の通りである。

    大伴家持が塞公鳥の歌

    一首

    卯の花もいまだ咲かねばほととぎす佐保の山辺に来鳴

    き響もす(一四七七)

    大伴家持、一震公鳥の娩く陪一くを恨むる歌二首

    我が屋前の花橘をほととぎす来鳴かず地に散らしてむ

    とか(一

    四八六)

    ほととぎす思はずありき木の暗のかくなるまでになに

    か来鳴かぬ(一四八七)

    大伴家持、震公鳥を僅ぶる歌

    一首

    何処には鳴きもしにけむほととぎす我家の里に今日の

    みそ鳴く(一四八八)

    大伴家持が一答公鳥の歌

    一首

    ほととぎす待てど来鳴かず菖蒲草玉に貫く日をいまだ

    遠みか(一四九

    O)

    大伴家持、雨日に震公鳥の陪一くを聞く歌一首

    卯の花の過ぎば惜しみかほととぎす雨間も置かずこゆ

    鳴き渡る(一四九こ

    大伴家持が塞公鳥の歌二首

    夏山の木末の繁にほととぎす鳴き響むなる声の迄けさ

    12一

  • (一四九四)

    あしひきの木の間立ち潜くほととぎすかく聞きそめて

    後恋ひむかも(一四九五)

    以上の歌は、習作時代に詠まれたものであろうが、はっ

    きり天平のいつ頃かと限定できない。しかし、家持のホト

    トギス歌の特徴は、既に伺い知れる作品である。まず、こ

    れらの歌は、ホトトギス歌の一般的な特徴である特定の歌

    語を集中的に用いることと無縁ではない。例えば、「鳴く」

    「来」「行く」「渡る」等の動作を示す語、或いは組み合わ

    せとして

    「花橘」「卯の花」「あやめ草」といった植物と関

    わらせ、また場所を一不す「山」「わが家」等を取り入れて

    一首が形作られていることである。そのために自ずとうた

    う主題も類型的になる。その中で注目すべき個性が感じら

    れるのは、「夏山の」

    (一四九四)と「あしひきの」

    (一四

    九五)の二首である。

    一四七七番は、卯の花との組み合わせが見られる。

    一四

    人二番も同様である。

    一四七八番は、橘との組み合わせで

    ある。花の季節として、橘の花、卯の花は初夏の代表的な

    ものであり、ホトトギスの鳴き始める季節と重なることと、

    梅にウグイスの例もあるように、鳥類と花の組み合わせが

    大切な季節の美意識であった。これらの組み合わせが調和

    の美をもたらせたのであろうし、それが歌の面白みにもなっ

    た。

    一四八七番は、屋戸の橘とホトトギスの組み合わせで

    ある。屋戸とは、庶民の家も貴族の邸宅も指しているが、

    要は人の住む家のことである。その住宅には、貴族は橘や

    梅、さらに卯の花などを植えていたのであろう。橘はもち

    ろん皇親政治を理想としている家持であるから橘諸兄を象

    徴する植物である。さらに、類型的なのは、鳴かないこと

    を恨む歌である。立夏になればホトトギスが鳴くという常

    識までもが誕生しているのであるが、初鳴きを聞きたいと

    する願望は強かった。植物としては、あやめを詠んだのが

    一四九

    O香である。

    一四八七番に「木の暗」とあるが、こ

    の言葉は夏になり青葉が盛んに茂る状態であるから、木の

    陰が出来ることを言う。田辺福麻呂の奈良が過去の京に

    なったので悲しんだという長歌に

    「桜花木の晩ごもり

    貌烏は間無くしば鳴く」(六・一

    O四七)とあって、家持

    との年代的な前後は不明であるが、他者の用例はある。ま

    た、この「木の暗」は、その後の家持のホトトギス歌

    (四

    O五一、四一六六、四

    一九二、四三

    O五)にも用いられた。

    一四八八番は、我が家の里で鳴くことを喜ぶ歌である。

    今か今かと鳴き声を待つのであるから、その鳴き声を実際

    13

  • に耳にした感動も詠まれた。奈良時代の人々が鳴かないと

    恨み、鳴いたと言って喜ぶのであるが、家持もその一人で

    あった。以上の歌に対して、一四九四番の「声の遥けさ」

    とは、音感の鋭さから心情の陰影を感じさせる。一

    四九五

    番にある「木の間立ち潜く」は、日の鋭さ、或いは観察の

    見事さも見せている。稲岡耕二氏は、この言葉を特殊なも

    のとして、「立ち潜く」が彼しか用いていないことも併せ、

    (3)

    樹聞の鳥の敏捷な動き的確に表現している、としている。

    樹林で素早く行動しているホトトギスの特徴を的確に表現

    していて、「薮にウグイス」とも言うそのウグイスを「茂

    み飛びくく」(十七・三九六九、三九七一)と形容している

    のと同様に、鋭い鳥類観察から生まれたものである。

    巻八のホトトギス歌は、家持の越中時代の作品にも発展

    継承されるものであって、その意味では習作である。しか

    し、その中では、感覚の鋭さと観察する日の確かさを一示す

    歌もあった。これらのホトトギス歌は、「来鳴き」が四首に、

    「鳴く」が二首、「鳴き渡る」が

    一首に用いられていて、徹

    底的に鳴くことに拘りを見せている。このことは、越中時

    代も変わらないし、そもそもホトトギス歌の常識でもある。

    ちなみに「来鳴く」という歌語がホトトギス歌に用いられ

    ている。ウグイスは梅で鳴くという表現であるのに対して、

    ホトトギスは卯の花であれ、橘であれ、来て、そして鳴く、

    と言、っ。鳥がどこそこへ来て、鳴くと言うのであるから、

    その言葉の背景には、ウグイス、メジロ、オオルリ等と比

    較的異なり、ホトトギスが日中に姿を見せつつ鳴きながら

    飛期して移動する習性とも関わっているのであろう。

    二、家持と弟書持

    創作の年代が確実に知られるホトトギスの歌は、弟書持

    との贈答に始まる。天平十三年四月のことであるから、家

    持二十四歳であり、弟は家持よりも若干若か

    ったようであ

    るが、はっきりしたことが分からない。肩書きが記されて

    いないので、二十一歳にいたらない任官以前なのであろう

    か。天平十一年夏六月二十二歳の家持が亡くなった妻を悲

    しむ挽歌を作るとすぐに唱和している。巻十七にある五年

    後のホトトギス歌は、逆に弟から兄へ贈られている。

    14一

    震公烏を詠む歌二首

    橘は常花にもがほととぎす住むと来鳴かば聞かぬ日無

    けむ(三九

    O九)

    珠に貫く棟を家に植ゑたらば山ほととぎす離れず来む

    かも(三九一

    O)

  • 右、四月二日に大伴宿祢書持、奈良の宅より兄家

    持に贈る。

    檀橘初めて咲き、塞公鳥醗り嘆く。この時候に対

    ひ、註そ志を暢べざらむ。因りて三首の短歌を作

    りて、欝結の緒を散らさまくのみ。

    あしひきの山辺に居ればほととぎす木の間立ち潜き鳴

    かぬ日はなし(三九一一)

    ほととぎす何の心そ橘の玉貫く月し来鳴きとよむる

    (一二九二一)

    ほととぎす棟の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見る

    まで

    (三九二二)

    右、四月三日に内舎人大伴宿祢家持、久適の京よ

    り弟童日持に報へ送れり。

    家持も弟室田持も、表面はホトトギスの鳴き声を望んでい

    る。どちらも悲しみを託して詠んいる。書持は、三九

    O九

    番で橘がいつまでも咲き続ける花であってほしいと願望を

    述べ、そこが住む家であればやってきて毎日鳴き声を聞け

    る、といい、三九一

    O番では珠として貫く棟を植えたら、

    いつもきて鳴くことだ、と一言う。どちらも仮定の話として、

    橘と棟が取り上げられているが、いつも鳴き声を聞きたこ

    とからの思いつきである。

    書持は、天平十八年秋に突然死去して、孤独な家持に衝

    撃を与えている。しかし、歌は家持にいい刺激を与えてい

    る。まず書持独自の歌語としては「常花」がある。いつも

    咲いている花の意味で用いたのであるが、万葉集ではこの

    一例である。橘は、「時じくの香の木の実」(十八・四一

    一一)がなるのであるから、

    「時じくの花」として、

    即ち

    「常花」を考えたのであろうが、優れれた童日持の造語である。

    家持は天平十九年の三月の歌で、

    「常初花」(三九七八)と

    うたっている。

    15一

    妹も我も心は同じ比へれどいやなつかしく相

    見れば常初花に心ぐし愛しもなしにはしけや

    我が奥妻(十七・三九七八)

    し妻大嬢の形容に永久の初花の如く心惹かれるとしている。

    当然書持の歌語の影響も考えられる。女性の姿が「常初花」

    とあるが、永久にと願うのは、現実に逢えないことから来

    るのであろうが、「初花」を「常」とするのは、無理があっ

    たのであろう。面白い造語であるが、この後に用いられな

    い。もちろん橘は、橘諸兄の存在が暗示され、「常」とある

  • ことで賞賛する気持ちが働いているのであるが、書持が用

    いて家持も倣った棟はどうであろう。

    天平十三年四月とは、閏三月に五位以上に平城京での居

    住を禁止していて、久遁が新京と考えられるようになって

    いたのであろう。十

    一月には、新京として「大養徳恭仁大

    宮」と命名される。聖武天皇は天平十二年の藤原広嗣の反

    乱から五年間平城京に一戻らずにいたのであるが、家持も内

    舎人として天皇に仕えているのであるから、それなりの覚

    悟でいたのであろう。また、巻四と巻八には、家持と女性

    との相聞歌が見られるが、その多くはこの天平十二年頃か

    ら同十六年頃のものであろうか。

    巻八の夏相聞には、家持のホトトギス歌(一五

    O七1一

    五O九)もあるが、どちらかというと雅なホトトギスばか

    りではなく、めずらしく追いやっても花橘を散らしてしま

    う「醜塞公烏」(一五

    O七)と言ったりしている。時と場

    合では、邪魔な烏と言うことにもなるが、坂上大嬢に橘の

    花に添えて贈った歌であるから、例外的にそう言ってみた

    のであろう。とにかくホトトギスを大嬢に例えることは、

    醜いホトトギスの例であるだけに難しくなる。

    さて、奈良でも恐らく棟が自生していたのであろう。両

    者がこの南国風の棟を登場させているだけに筑紫で作られ

    た有名な山上憶良の歌が思い出される。

    妹が見し棟の花は散りぬベし我が泣く一保いまだ干なく

    に(五・七九八)

    書持の最初の歌は、橘諸兄に対する讃仰であっても、「橘

    は常花」といい、さらに夏烏であるホトトギスのいつも鳴

    き声を聞いていたい、と言うのである。二番目の歌に棟が

    うたわれている。その棟は父旅人の妻の死を悼む憶良の

    作った日本挽歌に登場した。とすれば、書持も、ここには

    明らかにその日本挽歌を踏まえて、ホトトギスが亡妻と関

    わる烏として存在していてもよい。家持の妻も棟の花が咲

    いている頃に亡くなったのかも知れないし、棟は、「あふ

    ち」であるから、「逢ふ」の意味がかけられている。さら

    にここでは「吾妹子に棟」(十

    ・一九七三)にあるように、

    「吾妹子に逢ふ」が連想される。即ち、ここにいるホトト

    ギスは、鳴き声を楽しむ夏の雅な烏というよりも、

    「古に恋

    ふらむ烏」(二・一一一

    額回王)という中国の伝説である

    萄の望帝の魂がこのホトトギスと化し、生前の故郷を偲ん

    で鳴く存在になることを踏まえている。この故事は、家持

    と書持の両者の共通の知識にあるので、憶良の挽歌を踏ま

    16

  • えた歌になっているのである。ここにあるのは、もちろん

    望帝の魂ではない、坂上大嬢でもない。家持の死んだ妻の

    魂と考えるのが適当である。童日持が家持に訴えたのは、亡

    妻の魂を運ぶ、或いは亡妻の形代としてのホトトギスであ

    る。家

    持は、大嬢に贈った相聞歌では、花を散らすホトトギ

    スを「醜ほととぎす」としていた。三九二二番はホトトギ

    スの散らす花を玉と見るわけであるから、すこぶる寛大で

    あり、さらに肯定的でもある。さすがに弟と同様な仮定法

    を避けて、第

    一首で山辺にいれば、鳴かない日はない、と

    言、っ。第二首では、橘の花を珠に通す月にやってきて鳴く

    のが震公鳥であるといい、第一二首では棟の花を散らすのは

    惜しいが、散る花が珠と見えることもある、とこれまた肯

    定的な内容である。個々に登場するホトトギスは、花を散

    らしても、橘の花咲く頃に来ることも、里ではない山に住

    むことも全て肯定している。大嬢の相聞歌にうたわれてい

    る醜震公烏との対照を配慮したとき、亡妻の魂を運ぶホト

    トギスの存在、或いは亡妻そのものと見なすホトトギスの

    存在があって、両者の歌が詠まれている。

    三一九一一番の題詞には、場所、年次、作者だけではなく、

    創作の意図も表現されているが、最も年代の古い家持の文

    芸について述べたものである。とりわけ「欝結の緒を散ら

    さまくのみ」は、終生持ち続けた和歌を創作する基本であ

    る。さらに歌語として注目されるのは、家持の「ほととぎ

    す木の間立ち潜き」である。家持が優れた鳥類の観察者で

    あったことは、この言葉でも領かれるし、越中時代でも健

    在である。俊敏に森をくぐり抜けていく鳥の習性を熟知し

    ているのである。

    内舎人時代、越中時代、少納言時代にそれぞれ併せて六

    十六首もホトトギスをうたいながら、年代が確定的な天平

    十三年弟の贈答に始まるのが亡妻の形代としてのホトトギ

    スの存在である。そもそもホトトギスは、巻十に夏の雑歌、

    夏の相聞歌として、三十五首がある。そこでも歌としては、

    植物と関連する言葉として「珠に貫き

    ・交へて」、植物とし

    「卯の花」「橘の花」「菖蒲」等、ホトトギスの動作とし

    ては、「来鳴き」「渡る」など、さらに時期的なこととして

    は、未だ鳴かない、或いは待ち焦がれる、とうたわれる。

    さらに鳴き声を聴いては偲ぶと一言う様な形式的な歌が多い。

    下回忠氏は、万葉集のホトトギス歌を「幽明を結ぶ鳥」

    「人

    を結ぶ鳥」「待ち焦がれる鳥」「孤愁を呼ぶ鳥」「風雅の鳥」

    という分類を試みている。その分類からは、幽明を結ぶ鳥

    として弟書持との贈答歌は、ホトトギスがうたわれている。

    17

  • 当然、孤独も強まる。恋の橋渡しをするのであれば、人を

    結ぶのであり、鳴き声を待ち焦がれ、孤独を強めたり、或

    いは風雅の鳥ともなる。そのいずれもが越中守以前の家持

    によってうたわれている。

    さらに天平十六年の巻十七にある独詠(三九一六j三一九

    一一一)は、孤愁を強める烏の存在であることは無論のこと

    として、さらに新しい試みが為されている。

    天平十六年早々のことである。将来を期待した安積皇が

    閏一月に亡くなられた。家持は、二月と三月にそれぞれ挽

    歌をうたう。皇親政治に期待していただけに、その失望も

    理解できる。このホトトギス歌群は、全体が憂欝な心情に

    満ちている。

    十六年四月五日に独り奈良の故宅に居りて作る歌

    六首

    橘のにほへる香かもほととぎす鳴く夜の雨にうつろひ

    ぬらむ(三九二ハ)

    ほととぎす夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れず

    か鳴かむ(三九一七)

    橘のにほへる園にほととぎす鳴くと人告ぐ網ささまし

    を(三九一八)

    あをによし奈良の都は古りぬれど本ほととぎす鳴かず

    あらなくに(三九一九)

    鶏鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの屋前(三

    九二

    O)

    杜若衣に摺り付け大夫の着襲ひ狩する月は来にけり

    (三九一

    一一)

    右、大伴宿祢家持の作。

    三九一六番は、薫りをうたう点が珍しいが、雨降る夜に

    鳴くホトトギスがもの悲しきを漂わせて、

    「うつろひ」と

    するところに不安な前途を感じさせている。三九一七番は、

    さらに夜に鳴くホトトギスの鳴き声に親近感を一亦し、さら

    にそのホトトギスを捕まえたいと言うのである。三首日の

    三九一八番は、前歌の網で捕まえたいということを繰り返

    している。三九一九番は、京は古くなってもホトトギスは

    昔のままである、とうたう。ここまでがホトトギス歌の連

    作で、その最後の心情を継承して詠っているのが五番目の

    三九二

    O番である。故郷と思っている奈良の家も、橘も昔

    のままである、と言、つには、第一首にある「うつろひ」を

    意識して否定したものでもある。人は分からないが、本ホ

    トトギスは、昔と同じなのであると言う。そう考えると、

    18

  • 第四首までの結論が第五首になる。最後の「杜若」の歌(一一一

    九二一)は、将来を期待した安積皇子挽歌の反歌で「万代

    に恵みし心何処か寄せむ」(四八

    O)と嘆いた大夫の根本に

    ある「大伴の名」を意識している。

    中西進氏は、五首で長歌を、最後の第六首が反歌の内容

    (5)

    があるという。即ち、家持の試みは、四首でホトトギス連

    作を試み、長歌の内容を緩める発想で第五首でうたい収め

    たのであるが、さらに収まりがつかずに反歌として最後は

    内舎人であるにもかかわらずに聖武の側を離れて独り奈良

    にいる心情を吐露したのであるとする。ホトトギスは、孤

    愁を強める鳥でありながら、その

    一方で昔のことを思い出

    させて、悲しの心を解放させていても、諦めきれない家持

    がいた。その心情を五首の連作で表現して、さらに第六首

    目で反歌の内容を持たせているのは、新しいホトトギス歌

    の創作態度である。かかる試みが次にホトトギスを主題と

    する長歌を作らせていくことになる。

    =一、亡弟、亡妻、そして亡父

    家持は、越中で大伴池主等の下僚と歌を贈答しているし、

    宴席でも歌を披露している。身分の違いを乗り越えた思い

    やりのある家持の心がそれらの歌からも知られる。ホトト

    ギス歌に関しては、独り静かに居て詠んだ歌に心の陰影が

    表現されている。ホトトギス歌四十六首中で独り居て詠ん

    だ歌は、

    二十七首である。二十七首のほとんどの根底に中

    国の望帝故事があって、家持の心情に陰影を与えている。

    即ち、中国の伝説である萄の望帝の魂がこのホトトギスと

    化し、生前の故郷を偲んで鳴く存在になることを踏まえて

    いるので、ホトトギスが光と影になっている。

    家持は、越中に赴任してからほぼ二ヶ月ほどの九月に弟

    書持の死が伝えられた。残された歌がわずかであるために

    歌人としての力量も推し量りにくい。兄弟の贈答を読む限

    りは、書持は庭に花などを植えていることの好きなことか

    らも知れる風流の人物である。翌年の天平十九年

    一月であ

    ろうか、家持自身も死を考えてしまう程の大病を患う。や

    や回復してからは歌友として池主の存在が顕著にな

    った。

    有名な山柿の言葉が三月三日の序(十七・

    三九六九)に登

    場して、さらに両者は創作に意欲を燃やしている。ホトト

    ギスは、三月二十日の歌からうたわれた。日付で五月まで

    の巻十七の歌を整理して示せば、以下の通りである。

    - 19

    三月二十日

    家持

    恋緒をうたう歌(三九七八j三

  • 三月三十九日

    三月三十日

    四月十六日

    四月二十日

    四月二十四日

    四月二十六日

    四月二十六日

    ※四月二十六日

    四月二十七日

    九八二)

    立夏になっても塞公鳥が鳴かな

    いことを恨む歌(三九八三、三

    九八四)

    二上山の賦

    (三九八五

    1コ一九八

    七)

    家持夜に塞公烏が鳴くのを聞

    く歌(二一九八八)

    正税帳で上京するための宴で披

    露した別れの心情をうたう歌

    (三九八九、三九九

    O)

    布勢の水海に遊覧する賦

    (三九

    九一、

    三九九二)

    布勢の賦に敬和する賦(三九九

    二二三九九四)

    家持、内蔵縄麻目、古歌

    嫁の館で聞かれた銭別で披露さ

    れた歌(三九九五1三九九八)

    国守館で聞かれた宴席歌(三九

    九九)

    家持

    {永持

    家持

    家持

    家持

    池主

    家持

    家持

    立山の賦(四

    0001四

    OO

    四月二十八日

    一)

    家持立山賦に敬和した賦(四

    O

    O三1四OO五)

    京に入る日が近づいて別れを悲

    しむ歌(四

    OO六、四

    OO七)

    家持としばしの別れを惜しむ歌

    (四

    OO八1四O一O)

    池主

    四月三十日

    家持

    五月二日

    池主

    米印は、ホトトギスがうたわれていない歌である。歌群

    の場合は、全てでなくても一群のどれかの歌にホトトギス

    がうたわれていることが知られる。

    ところで、習作時代にあまたの女性と相聞歌の往来が

    あったのであるが、越中では宴席の歌と独詠の歌にほぼ終

    始する。その中でまず注目したいのが「山柿」に言及した

    三月三日の序がある。次には、ホトトギス歌の考察からは

    「五賦」も興味深い。山柿が歌を作る理念を述べたものであ

    れば、さらに京にいる人へのお土産の歌が池主と家持の万

    葉五賦である。越中を紹介する意図は、家持の二上・布勢

    の水海・立山の三賦に具体化された。

    しかし、この論では妹の存在に注目している。そこで京

    にいる妹を思って詠んだという珍しい恋をうたう歌を取り

    20

  • 上げる。三月二十日には、妹がいないので寂しいと感じる

    心、即ちそれが恋緒であるとする歌を作っている。万葉集

    の「恋ひ」とは、直接逢っていないので寂しいという感情

    である。長歌と短歌で現実に逢えないところからくる寂し

    さをうたうのは、恋の本質である。短歌の一首だけ紹介す

    る。歌は、現実に逢えないので夢で見ても恋心は止むこと

    がない、と言、っ。

    あしひきの山き隔りて遠けども心し行けば夢に見えけ

    (三九八

    引用した歌を含めた京にいる妻を思う歌(三九七八

    1二一

    九八二)は、表面的に妻坂上大嬢をうたっている。しかし、

    その中で

    「常初花」(三九七八)等の表現からは、書持の

    「常花」を用いた歌から死者の面影も付きまとう。また、引

    用した歌などは、一般的には夢で逢うのは、妹が家持を恋

    いしているからであろうが、わが心によって妹が現れるな

    どはどう考えても一般的ではない。この恋歌は、表面と裏

    腹な陰りがある。本当に妹に贈ったのであろうか。後に五

    百個の真珠を贈りたいと願う相関歌

    (十八・四

    一O一1四

    一O五)があるが、真珠の数が数だけに虚構的な妹の存在

    を考えさせてしまい、これも実際に贈っていたのであろう

    か、とつい思ってしまう。とにかく守赴任から二年目の天

    平十九年の越中では歌友池主を見いだしていながら、その

    一方で都を強く意識して作歌しているのが家持である。

    恋をうたってから九日後には、越中で初めてのホトトギ

    スを主題とする歌があり、越中の風土と京との対比の中で

    生じた感情をうたう。

    立夏四月既に累日を経たるに、由し未だ塞公鳥の

    陪一くを聞かず、因りて作る恨みの歌二首

    あしひきの山も近きをほととぎす月立つまでに何か来

    鳴かぬ(十七

    ・三九八三一)

    玉に貫く花橘を乏しみしこの我が里に来鳴かずあるら

    し(同

    ・三九八四)

    重公鳥は、立夏の日に来鳴くこと必定す。また越

    中の風土は、桂橘の有ること希らなり。これによ

    りて、大伴宿祢家持、懐に感発して、柳かにこの

    歌を裁る。[三月二十九日]

    21

    家持は、京を常に意識していた。越中の風土に親しむ気

    持ちが勝ってくると越中の地名を歌に積極的に取り入れて

  • うたう傾向がある。左注では、越中と京の風土の相違が話

    題になっている。何気ないことに思えるが、

    天平時代の貴

    族に郁の風土に注目している人物が存在していることに驚

    く。一一一九一

    一番でも用いた「樟橘」とは家持の独自な表現

    であるが、橘のことであろう。樟橘が越中で少ないことと

    立夏の日には必ずホトトギスが鳴くことが対比されている。

    書持への贈歌で家持は、山辺では必ずホトトギスが鳴いて

    いるとうたった。また、京では立夏にはホトトギスが来て

    鳴くと言う。立夏が過ぎていて、さらに山が近いのに鳴か

    ないのは、京と違うところである。山とは、ここでは二上

    山であろう。翌一一一月三十日に作

    った二上山賦の短歌には、

    玉匝二上山に鳴く鳥の声の恋ひしき時はきにけり(十

    七・三九八七)

    とあって、翌日もホトトギスが鳴いていない。

    花橘も越中が雪国であるだけに珍しいのであろうし、ホ

    トトギスは京では必ず立夏に来て鳴くのにここ越中では鳴

    かないとしている。そして、「あしひきの山も近きを」と

    あるところに、弟へ贈った歌の「あしひきの山辺に居れば」

    (三九一一)を踏まえているとところに、亡弟とホトトギ

    スとの結びつきにもなっているのである。中西進氏は、越

    中でのホトトギス歌の背景に亡弟等の存在があったことを

    言挙げする。このホトトギスが亡弟の形代でもあること、

    そして越中の風土が大和と異質であることが最初のホトト

    ギス歌に指摘できるのである。

    さらに四月には、次の秀歌を作るのである。

    四月十六日夜裏遁かに在公烏の陪一くを聞きて懐を

    述ぶる歌一首

    ぬばたまの月に向かひてほととぎす鳴く音遥けし里遠

    みかも(十七・三一九八八)

    右一首は、大伴宿祢家持作れり。

    22

    ホトトギスが夜に鳴いていることも孤独な心情を刺激す

    るのであろうが、ここにあるのは、鳴き声を

    「音遥けし」

    と感じる感性である。

    もちろん家持だけがホトトギスの鳴き声を「遥けし」と

    うたったのではない。家持自身も嘗て巻八の夏雑歌に収め

    られている歌で「鳴き響むなる声の遥けさ」(一四九四)

    と言っている。

    また、湯原王が鹿の鳴き声にも「遥けさ」と言、っ。

  • 湯原王の鳴く鹿の歌一首

    秋萩の散りのまがひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の透

    けさ(八・一五五

    O)

    家持は、それを「声」(こゑ)とせずに「音」(おと)と

    して捉えたところに、巻八の自作歌とも異なる情緒をもた

    らせている。声とはまさしく鳴き声の意味であるが、音で

    あれば松であれ、笹であれ、或いは動物の鳴き声でもいい

    のであるが、声よりも広い意味で用いる。家持は、声とせ

    ずに音として表現したのは、どうしてであろうか。

    今夜のおぼつかなきに震公烏鳴くなる声の音の遥けさ

    (十・

    一九五二)

    引用した歌を参考にすれば、声を音として捉え直して遥

    けさを感じているのは、「Aヱ夜のおぼつかなき」ことである。

    ホトトギスの声をその声として捉えれば、ごく自然である

    が、それをさまざまな自然界の音としている状況があって、

    「声の音」なる語も生まれているのである。家持は、さら

    に震公烏の声を、声という段階を経ないで直裁的に音とい

    うレベルで捉えていると理解される。即ち、自然の中での

    さまざまな音として鳴き声を捉えるあまりに鋭敏すぎる心

    情であるが故に、おぼつかない状態にいたっていて、さら

    に音を遥かなものとしていたからである。

    越中時代の家持歌に天平十一年に死去した妻の影響を七

    (7)

    タ歌に指摘したことがある。亡妻の影は亡父

    ・亡弟のみな

    らず考えてみる必要がある。そもそも大嬢の越中での存在

    の極めて稀薄なことがある。大嬢が越中にいることが確認

    できるのは、天平勝宝三年三月からであり、それ以前の足

    かけ五年間は京にいたらしい。越中での存在も大嬢の要請

    で母坂上郎女に家持が歌(十九

    ・四一六六

    1四一六八)を

    贈ったので、たまたま彼女の存在が知られる。

    それに対して家持は、天平十三年のホトトギス歌で亡妻

    を偲び、さらに七夕歌ではそれとなく織女に亡妻を重ねて

    うたっている。

    23

    ちなみに七夕伝説に対する興味が家持にはあった。牽牛

    と織女が一年に一夜しか逢えないという悲劇、或いはエキ

    ゾチックな宮中儀式としての興味、天の川と日本神話の安

    の川との結びつき、日本に珍しい天空の説話であること等

    が考えられる。しかし、家持の七夕歌が首尾

    一貫して独居

    述懐であるのは、これまでに指摘されていない内容を考え

    ていいのではないかとして、越中での創作である天平勝宝

  • 元年以降七夕歌では、とりわけ亡妻が追想されているので

    あろう、と考える。

    例えば、

    「茂作」とある、

    妹が袖われ枕かむ川の瀬に霧立ち渡れさ夜更けぬとに

    (十九・四二ハ三)

    にある「われ枕かむ」に注目すれば、旅人の亡妻を悼む、

    帰るべく時はなりけり都にて誰が手本をかわれ枕かむ

    (二了四三一九)

    の歌を踏まえている。とすれば、亡妻を思いやりつつ創作

    していることを認めていい。さらに、この茂作以降、長歌

    を含めておびただしいホトトギス歌を天平勝宝二年に作る

    のは、亡妻に触発されたこともあったのである。ちなみに

    「ぬばたまの月に向かひて」(三九八八)と月に向かって鳴

    くホトトギスは、天平十九年から三年後の天平勝宝二年旧

    江村での四部作(四

    一五九

    1四一六五)のすぐ後である三

    月二十日の日付を持つ長歌に「暁の月に向ひて行き還

    鳴き響むれど」(四一ムハ六)とあり、さらにさらに池

    主に贈った四月三日の日付を持つ長歌に

    「タさらば月に

    向ひて菖蒲玉貫くまでに鳴き響め安眠寝しめず」

    (四一七七)とある。月に向かって鳴くホトトギスは、以上

    の長歌二首と短歌

    一首であるが、一体ホトトギスが向かっ

    て鳴いた月とは、何かを比聡しているのではないか。月は、

    男性も女性も比喰で一不す場合がある。竹取物語では、かぐ

    や姫は月の世界の人であるから、当然男女が月にいたとい

    うことも想像できる。或いは、万葉集では、月人(一一一一

    O

    一)と月人壮子

    (二

    O一O)等もある。月が人と見なされ

    なくても、月には人がいた。

    家持は、挽歌(二了四六回)でナデシコに亡妻を見立で

    ていた。同様に天平勝宝六年の七夕歌

    (四三

    O六i四一二

    三一)には、第二首から第四首まで、

    「花」

    「初尾花」「和草」

    がうたわれているが、それらが亡妻を連想させているので

    ある。花になぞらえるのは、

    亡き妻なのである。越中時代

    の七夕二群(四一一

    一五、四

    一二六

    ・四

    二ハ二一)には、「思ほ

    しきこと」(四一一一五)が巻十三の二三三六番の挽歌で用い

    られていて、それ以外の三例が全て家持であること、そし

    て「枕かむ」(四一六一一一)という歌語が旅人の作「梧桐の

    日本琴一面」

    (五・八

    一O)の夢の乙女と重ならせるのは、

    旅人への拘りがあったし、架空の女性でもある。これらは、

    24

  • 亡妻が七夕の織女と重ねられていることにも関わっている。

    七夕歌でも亡き人の思いを重ねるのであるが、ホトトギス

    歌でも家持は亡き人を偲ぶよすがにしている。父・弟のみ

    ならずホトトギスは、天平十

    一年に亡くなった妻の霊でも

    あった。

    越中で独り居てホトトギス歌を作る家持は、越中以前に

    ホトトギスを亡妻の形代としていたように、天平十九年以

    降のホトトギス歌には、亡弟書持を踏まえて詠んでいる。

    そして、越中の七夕歌などを参考にすれば、亡妻の影もホ

    トトギス歌にあっても当然のことである。即ち、亡弟

    ・亡

    妻そして亡父がホトトギスに仮託されてホトトギス歌がう

    たわれているのであるし、またホトトギスが亡き人を偲ん

    で鳴くのである。

    四、都と都

    越中でホトトギス歌の創作には池主の存在が「望郷の念」

    と共に「追懐の念」として強く働いたと強調するは、佐藤

    (B)

    隆氏である。贈答などを配慮すればその結論も当然である。

    しかし、ホトトギス歌は、やはり独詠に特質が見られる。

    歌数も越中時代では四十六中で、宴席が七首、贈答が十二

    首、さらに独詠が二十七首である。

    或いは、池主に贈ったホトトギス歌(四一七七

    i四一七

    九)を、家持の

    「感旧の意」という過去を回顧して現在を

    嘆息する感情から作られているという西一夫氏の説もあ

    る。また、ホトトギス歌に対して中西進氏の指摘する亡弟

    書持等の存在も大きいし、さらにこの論のように亡妻に対

    する思いも配慮してよい。

    一方、都と京という対比もホト

    トギス歌の創作と結びつく。越中から帰任後のことを考え

    れば当然のことである。越中時代には、五年間で四十六首

    のホトトギス歌と呼ぶものをうたっていたが、三十四歳か

    ら四十二歳までの足かけ八年間では、三首の歌だけである。

    越中時代の総歌数は、二百二十三首であり、少納言時代は

    九十一首であり、ホトトギス歌の比率もすこぶる劣ってい

    る。ではどうしてそのようなことになったのであろう。そ

    の原因の

    一つは、「天離る都」である越中にいることが、い

    つも京と地方という比較を家持にもたらしていたのであろ

    う。部にいるという事実が京を追慕させ、擬似の京を越中

    に作らしめたのである。即ち、雅なことを求めたことも、

    ホトトギスに親しめさせた原因の

    一つに思える。

    25

    独り曜の裏に居て、遥かに塞公鳥の鳴くを聞きて

    作れる歌一首弁せて短歌

  • 国のまほらに山をしもさはに多みと百鳥の来

    居て鳴く声春されば聞きの愛しもいづれをか別

    きてしのはむ卯の花の咲く月立てばめづらしく

    鳴くほととぎす菖蒲草珠貫くまでに昼暮らし

    夜渡し聞けど聞くごとに心つごきてうち嘆き

    あはれの烏と言はぬ時なし(十八・四

    O八九)

    行方なくあり渡るともほととぎす鳴きし渡らばかくや

    しのはむ(四

    O九

    O)

    卯の花のともにし鳴けばほととぎすいやめづらしも名

    告り鳴くなへ(四

    O九一)

    ほととぎすいとねたけくは橘の花散る時に来鳴き響む

    (四O九二)

    右の四首は、十日に大伴宿祢家持作れり。

    る引用した歌は、天平勝宝元年五月十日の作である。長歌

    には、たくさんの鳥が来て鳴くが、卯の花の咲く四月から

    菖蒲を薬珠に通す五月まで昼も夜も鳴き声を聞く毎に感歎

    する興味ある鳥がホトトギスである、と言う。家持は、短

    歌だけでは物足りなかったのであろう、ホトトギスを主題

    とする長歌を初めて作った。それが引用した四

    O八九番か

    らの長短四首である。もちろん長歌創作以前に短歌の連作

    で長歌の形式を踏まえた創作も試みていた。これ以降もホ

    トトギスを主題とする長歌は巻十九の三首

    (四一七七、四

    一八

    O、四二

    O七)を作り、ホトトギスと花を主題とする

    長歌も巻十九の三首(四一六六、四一九一一)を詠み、旺盛

    な作歌力を示している。

    ホトトギス長歌が最初に作られたのは、天平勝宝元年三

    月に久しぶりで越前の大伴池主と京の叔母坂上郎女から歌

    が贈られて来ていて、五月に東大寺の占墾地使の僧平栄も

    越中にいて宴会が行われていた。ホトトギスの長歌が詠ま

    れた前日の九日には、少日秦石竹の館で宴が聞かれていた。

    そして五月十日に初めてのホトトギス長歌がうたわれたの

    である。二一月からの刺激がホトトギスを主題にする長歌創

    作にいたるのである。しかし、題詞には

    「独り」とあり、

    左注でも大伴宿祢家持であり、守などの役職を記していな

    い。宴会、池主等下僚との贈答と言った席で詠まれたホト

    トギス歌もあるが、基本は独り居て静かに鳴き声を偲ぶと

    う形式である。天平十六年の時は、独り居て短歌六首で連

    作して、長歌の構造を模倣している。ここでも、独り居て

    長歌によってホトトギスを主題にしている。その長歌では

    ホトトギスを昼であろうと夜であろうと鳴き声を聞くと「あ

    26

  • はれの烏」と言、っ。「あはれ」とあるところからも、喜び

    であれ、悲しい気持ちであれ、家持を刺激して止まないの

    である。

    翌年の天平勝宝三年は、ホトトギス歌が最も多く作られ

    た。その中で取り上げたいのが次の巻十九の長短四首であ

    る。

    震公烏を感むる情に飽かずして、懐を述べて作る

    歌一首井せて短歌

    春過ぎて夏来向かへばあしひきの山呼び響め

    さ夜中に鳴くほととぎす初声を聞けばなつかし

    鳴き渡れども猶ししのはゆ(四一八

    O)

    反歌三首

    さ夜ふけて暁月に影見えて鳴くほととぎす聞けばなつ

    かし(四一八一)

    ほととぎす聞けども飽かず網取りに取りて懐けな離れ

    ず鳴くがね(四一八一一)

    ほととぎす飼ひ通せらば今年経て来向かふ夏はまづ鳴

    (四一八一二)

    きなむを

    天平勝宝二年という年が越中赴任是かけ五年目になる。

    家持は三十三歳になった。

    一、二月の歌はないが、三月に

    なると俄然歌を作り出す。大騰の歌(十九・四一五五、四

    一五六)、や憶良の歌に追和した大夫が振るうを願う歌

    (十

    九・四一六回、四一六五)等の創作の後、長短併せて九首

    のホトトギス歌を作る。さらに越前の池主へホトトギス歌

    として長短三首を贈っている。月とホトトギスの組み合わ

    せは典型的なものであるが、月に照らされて鳴くホトトギ

    スの姿がうたわれている第-反歌は、珍しい。また、第一一一

    反歌は、ホトトギスを飼育すると一三一口う。これも鳴き声を愛

    でるために野鳥を飼育すると言うのは、これに勝る方法は

    ないのであるから、究極の鑑賞である。

    まず題詞に「霊公烏を感むる情に飽かずして」とあり、

    反歌にも「聞けども飽かず」とある。この一一一月と四月は、

    ホトトギス歌を作ることに熱中したのであるが、その中で

    興味を引くのがこの「飽かず」という一言葉である。三月三

    十日にうたった長歌四一六六番の結びでも

    「暁の月に向

    ひて行き還り鳴き響むれどいかに飽き足らむ」と

    あって、「飽きるだろうか、いや飽きない」とうたう。さ

    らに「聞けど飽き足らず」(四一七六)「聞けども飽かず」

    (四一八一一)とあり、大伴池主・久米広縄に贈る歌や宴席の

    27

  • 歌ではない、奥などによって詠んだ独詠の歌で用いられて

    いる。ここに家持のホトトギス歌の個性があ

    った。即ち、

    ホトトギスを愛でるのは、鳴き声に尽きるのであり、その

    鳴き声をいくら聞いても興味の尽さることがなかった天平

    勝宝二年三月、四月であった。そのためには、飼育も辞さ

    ないと言う風狂がある。

    越中時代には、都と京という対立の中で歌を創作してい

    る。万葉の歌人では、珍しいほど都である越中の風土に敏

    感である。そして、都であることで孤独も深めているが、

    宴席などでも満たされない悲傷を独り居て静かに解放する

    創作が試みられている。ホトトギス歌も例外ではなく、贈

    ・宴席でも雅なホトトギスを題材とする詠歌もあるが、

    独り静かにうたっている歌により個性が発揮された。ホト

    トギスに執着するのは、宴席などでは風雅な鳥でありなが

    ら、さらに京とのつながりを持ち、さらに私的な創作の場

    では亡妻

    ・亡弟との出会いを鳥に感じていたからである。

    宴席などでは歌友池主の存在も影響していたが、それでも

    独詠に託する孤独な心情に満ちていた。四

    一八

    一番などの

    夜が更けた暁月に照らされたホトトギスの鳴き声を懐かし

    いと感じる心などは、空恐ろしいほど深遠な孤独を感じる。

    この孤独感は、越中だけのと言うよりも

    一生涯持ち続けた。

    但し、綾々述べてきたのは、ホトトギスへの親近感は越中

    の特質になっているが、初めて経験する国守であった、冬

    の厳しい寒い雪国であった、突然弟の死に遭遇した、大嬢

    の存在が希薄で亡妻への強い思いがあった、ホトトギスが

    思うように立夏を過ぎても鳴かなか

    った等が重層的に刺激

    を与えたのが原因していると考えるべきであるが、天平勝

    宝二年ではいくら聞いても飽きることのないホトトギスの

    鳴き声に対する風狂の思いも付け加えたい。

    震公鳥を詠める歌

    一首

    木の暗の繁き峰の上をほととぎす鳴きて越ゆなり今し

    来らしも(二十

    ・四三

    O五)

    右の一首、四月に大伴宿祢家持の作。

    ほととぎすまづ鳴く朝闘いかにせば我が門過ぎじ語り

    継ぐまで(同・四四六三)

    ほととぎすかけつつ君が松陰に紐解き放くる月近づき

    ぬ(同

    ・四四六四)

    右の二首、二十日に大伴宿祢家持興に依りて作る。

    28

    引用した三首は、守から都に戻った少納言時代の詠歌で

    ある。天平勝宝四年と五年は、ホトトギス歌がない。四一一一

  • O五番は、越中から帰任して三年たった六年の四月の作品

    である。巻八の一四八六番にも「木の暗」がうたわれてい

    たが、青葉茂る夏になった状態が「木の暗」であるが、当

    然ホトトギス鳴いていいという季節感に基づいている。こ

    のホトトギス歌は、四月の作であるが、同月に引き続き秋

    の七夕歌を八首(二十・四三

    O六1四一一一二三)をうたって

    いて、心情の連続を伺わせる。即ち、ホトトギスをうたう

    ことで亡妻への追想が強まり、さらに七夕歌に収徴されて

    いくのである。

    次の四四六三番と四四六四番は、天平勝宝八年四月二十

    日の詠歌である。難波の堀江で詠んだ三首に連続して詠ま

    れている。風雅なホトトギスの憧れと君と呼称する人への

    いたわりを詠んでいる。

    都に帰ってからさらに宴席の歌が多くなるが、独り静か

    にうたう機会が無かったわけではない。ホトトギス歌は風

    雅な世界でもあったから、その余裕すらなく働いていたの

    であろうか。歌は作っても、さらに種種のことで精神が追

    いつめられていて雅なホトトギス歌を作る余裕がなかった

    のであろうし、京では亡妻・亡弟の思い出も都ほどの距離

    を感じさせなかったからでもあろう。ホトトギス歌と言っ

    ても、その創作動機は多面的であるにせよ、都と都を配慮

    するのが一番客観的である。即ち、都から遠く離れている

    ことが、亡弟・亡妻を意識させ、或いは、四三六四にある

    ような「君」に対するいたわりを抱かせて、ホトトギスの

    初鳴きを待望していたのが家持であった。天平勝宝三年は

    とりわけ飽きることのない鳴き声に魅了されていた。

    大伴家持は、ホトトギスが大好きであった。夏が近づい

    てくると歌の創作に強い刺激が与えられた。立夏を過ぎて

    鳴かなければ鳴かないで、鳴き声に執着した。それらの歌

    は、多作ではあっても特別な詩心として紹介しなければな

    らない作品が残念ながら少ない。但し、引用する歌などは、

    秀歌としてもっと評価されていい代表的なホトトギス歌で

    ホγ

    。。

    29

    ぬばたまの月に向かひてほととぎす鳴く音遥けし里遠

    みかも(十七・三九八八)

    足かけ六年間の越中時代にホトトギス歌が長歌を含めて

    多作されている。独詠の歌を主な対象として、ホトトギス

    歌の背景に亡父・亡弟と亡妻のあることを緩々述べた。と

  • りわけ独り居て詠んだホトトギス歌は、亡父・亡弟、そし

    て亡妻の存在、さらに、越中という風土も創作に関わるの

    である。都から遠いことが都を追慕して、さらに雅な世界

    も憧れさせた。宴席と贈答も試みられているが、歌の創作

    した場が知られる越中では、二十七首の独詠が一番多く創

    作されている。最初の国守生活でついつい惨状態にいたる

    こと、橘が少ない雪国であり、冬が宮本く厳しいので春が待

    望されていたし、待ちに待つホトトギスが案外立夏を過ぎ

    ても鳴かなかったことが、風土と個人的な趣向と複雑に絡

    み合って創作した。天平勝宝二年は、さらに聞き飽さるこ

    とのない鳴き声であるという風狂の思いに執着したことが、

    ホトトギス歌を創作する意欲に結びついていたのである。

    (注)

    特に集中難解の鳥について」

    (『万

    (1)

    「万葉集の動物二

    葉集大成民俗篇』)

    (2)

    「鳥の古代(三)」(「日本大学桜文論叢」第幻号)

    (3)

    稲岡耕二

    「家持の『立ちくく」

    『飛びくく』の周辺||万

    葉集における自然の精細描写試論||(上

    ・下)」

    (「国語と

    国文学」第四十巻2・3号)

    (4)

    「万葉のほととぎす」(「福山市立女子短期大学紀要」第十

    七号)

    (5)

    「大伴家持万葉歌人の歌と生涯

    (2)』には、この六首

    の連作は、「最初の五首で一つの長歌をつくりあげ、最後の

    一首はその反歌であるというふうに考えることができる」

    (『大伴家持万葉歌人の歌と生涯(3)』二八三頁)とある。

    但し、六首で施句形式であるとの立場は、橋本達雄氏に

    見られる。第一首が起、第二首三首が承、第四首五首が転、

    第六首が結である、と指摘する

    (「万葉集全注巻十七』六一二

    頁)。

    (6)

    『大伴家持万葉歌人の歌と生涯

    (4こには、

    「いずれに

    しでも、ホトトギスはいにしえを恋うる鳥である

    (第一巻

    一一一二ページほか)。それを考えると、十七年前に亡くなっ

    た父旅人、二年前に亡くした弟書持への思慕がこの中にこ

    められている」と、巻十八にある田辺福麻呂の宴で披露さ

    れた天平二十年のホトトギス歌(四

    O三五)でいう。五八頁。

    このような指摘はホトトギス歌の随所で見られる。

    (7)

    「大伴家持七夕歌の特質」(「広島女学院大学日本文学」第

    十三号)

    (8)

    「越中守大伴家持とホトトギス||歌友大伴池、王を中心に

    して|

    |」(「美夫君志」第四十四号)

    (9)

    「家持の

    「感旧之意』

    ||1池主に贈るほととぎすの歌||」

    (「筑波大学日本語と日本文学」第二十号)

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