東洋平和と永遠平和 - 法政大学 [HOSEI...

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はじめに 本論に立ち入る前に,筆者は,本稿のテーマの意図と考察方法について,簡単に述べておきたい。最 初に本稿の目的について,筆者は,歴史哲学的観点から,安重根の遺稿「東洋平和論」の現代的意義を 明らかにする。次に筆者は,文化哲学的観点から,歴史の物語論(narrative theory)の方法を採用する。 韓国では安重根は,救国の義士,祖国の英雄として語られてきた。対照的に,日本では彼の存在は,ほ ぼ忘却され語られることがない。そこで筆者は,同じ人物の卓越した歴史的意義について,物語るべき 必要性を明らかにする (1) 。さらに筆者は,自分自身の個人史の観点,東アジアの歴史という共同体的な 観点,そして人類史という三つの観点に依拠して,安重根の遺稿「東洋平和論」の「記憶」(memoryをグローバルに共有する作業を試みる。最後に筆者は,これらの目的を達成するために,政治哲学・法 哲学的観点からドイツの哲学者イマヌエル・カントの提唱した「永遠平和論」を手がかりにして,今日 実現すべき「東洋平和」及び望ましい「東アジア共同体」の構想の 21 世紀的意義を解明する。 1 個人史と「歴史の記憶」の物語論 20 世紀の最も優れた歴史家の一人,E H ・カーは,自著の中で「歴史とは何か」という問に対して, 次の有名な見解を披瀝している。「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり,現在と 過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」 (2) 。カーの歴史哲学の精神とも呼ぶべきこの見解 は,本考察を進める上で,幾つかの有益な示唆を与えている。 第一に,100 年前に命を賭した安重根の遺稿「東洋平和論」の意義を考察することは,100 年前の過去 の人物と 100 年後の現代人との間の「対話」であり,両者の精神の「相互作用の不断の過程」である。第 二に,筆者は,この「対話」を現代の歴史の物語論として捉え直して,まず安重根と筆者個人との間の 「対話」として,ひとつの「歴史の記憶」を想起する。それは,安重根と筆者を結ぶ三つの「記憶の場」 にかんする物語である。第三に,筆者の見解によれば,歴史は,過去と現在との対話にとどまらず,同 時に未来を切り開く役割をもつ。したがって本論考で筆者は,過去,現在,未来という三つの歴史的次 元に即して過去の出来事を語り,特に未来世代に向けた視点から,「東洋平和論」の21世紀的意義を明ら 37 東洋平和と永遠平和 ― 安重根とイマヌエル・カントの理想 ―

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はじめに

本論に立ち入る前に,筆者は,本稿のテーマの意図と考察方法について,簡単に述べておきたい。最

初に本稿の目的について,筆者は,歴史哲学的観点から,安重根の遺稿「東洋平和論」の現代的意義を

明らかにする。次に筆者は,文化哲学的観点から,歴史の物語論(narrative theory)の方法を採用する。

韓国では安重根は,救国の義士,祖国の英雄として語られてきた。対照的に,日本では彼の存在は,ほ

ぼ忘却され語られることがない。そこで筆者は,同じ人物の卓越した歴史的意義について,物語るべき

必要性を明らかにする(1)。さらに筆者は,自分自身の個人史の観点,東アジアの歴史という共同体的な

観点,そして人類史という三つの観点に依拠して,安重根の遺稿「東洋平和論」の「記憶」(memory)

をグローバルに共有する作業を試みる。最後に筆者は,これらの目的を達成するために,政治哲学・法

哲学的観点からドイツの哲学者イマヌエル・カントの提唱した「永遠平和論」を手がかりにして,今日

実現すべき「東洋平和」及び望ましい「東アジア共同体」の構想の21世紀的意義を解明する。

1 個人史と「歴史の記憶」の物語論

20世紀の最も優れた歴史家の一人,E・H・カーは,自著の中で「歴史とは何か」という問に対して,

次の有名な見解を披瀝している。「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり,現在と

過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります」(2)。カーの歴史哲学の精神とも呼ぶべきこの見解

は,本考察を進める上で,幾つかの有益な示唆を与えている。

第一に,100年前に命を賭した安重根の遺稿「東洋平和論」の意義を考察することは,100年前の過去

の人物と100年後の現代人との間の「対話」であり,両者の精神の「相互作用の不断の過程」である。第

二に,筆者は,この「対話」を現代の歴史の物語論として捉え直して,まず安重根と筆者個人との間の

「対話」として,ひとつの「歴史の記憶」を想起する。それは,安重根と筆者を結ぶ三つの「記憶の場」

にかんする物語である。第三に,筆者の見解によれば,歴史は,過去と現在との対話にとどまらず,同

時に未来を切り開く役割をもつ。したがって本論考で筆者は,過去,現在,未来という三つの歴史的次

元に即して過去の出来事を語り,特に未来世代に向けた視点から,「東洋平和論」の21世紀的意義を明ら

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東洋平和と永遠平和

―安重根とイマヌエル・カントの理想―

牧 野 英 二

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かにする。

そこで筆者は,まず個人史の立場から,第一の「記憶の場」に立ち入る。筆者は,法政大学と安重根

との特別の関係を指摘したい。最初に述べたように,本稿のキーワードは,「記憶」という言葉にある。

一般には,「記憶」(memory)とは個人の意識や心のうちでの出来事と理解されてきた。しかし最近の社

会心理学の研究を踏まえて言えば,「記憶」は,まず個人の記憶,次に共同体や民族の記憶(地域や地方

の逸話の伝承など),また国家の記憶(歴史や歴史教科書での記述内容),そして国境を越えた人類の記憶

(世界史)などに区分することができる。また,モニュメントや展示会,例えば,安重根義士紀念館,大

林寺,アウシュヴィッツ,南京,ヒロシマ,ナガサキなど。これらは,「歴史の記憶の場」として,個人,

地域の人々,民族,国家,人類全体にまで及ぶ「記憶を蘇らせ,継承する場」として重要な意味をもっ

ている。

筆者は,偶然,自身の記憶と対面する運命に遭遇した。それが,水野吉太郎という人物の存在であっ

た。1909年10月26日,ハルビンで安重根が伊藤博文公爵を射殺した裁判の過程で,安重根の官選弁護人

を務めた水野吉太郎は,法政大学の卒業生であった。水野は,旅順の法廷で安重根を次のように弁護し

た。すなわち,この事件は韓国の刑法で裁くべきであり,そこには該当する条規がないので,被告は無

罪が妥当である。また安重根の行為は,日本の江戸時代幕末の井伊直弼の暗殺や明治時代の大隈重信の

暗殺未遂事件,イギリス公使館焼き討ち事件などに照らして,国を憂いて偽りのない,まごころをもっ

て行なった点では,幕末の志士と変わらず尊い行為である,と。実際,伊藤博文自身,藩の家老の暗殺

事件にかかわっていた。そこで水野弁護人は,日本の刑法で裁いた場合でも,殺人罪としては最も軽い

懲役3年が妥当であると主張した(3)。

筆者と安重根を結ぶ第二の「歴史の記憶の場」は,安重根が射殺した伊藤博文と法政大学との関係で

ある。そして安重根と伊藤博文を結びつける人物が梅謙次郎であった。梅謙次郎博士は,明治時代の日

本を代表する最も著名な民法学者である。彼は,初代内閣総理大臣・伊藤博文に協力して,初代韓国統

監の伊藤博文が日本による韓国の植民地支配を円滑に進めるために,韓国の司法制度・民法典の制定に

努めた人物であった(4)。

梅謙次郎は,当時,東京帝国大学教授の職にあり,同時に和仏法律学校の総長も務めていた。この和

仏法律学校とは,のちの法政大学のことである。法政大学は,1880年(明治13年)に設立され,1903年

(明治36)には専門学校令により,法政大学と名称を改め,初代の総理(総長)に,日本の「民法の父」

といわれる梅謙次郎博士が就任した。他方,同じ大学の卒業生の一人に,安重根の官選弁護人を務め,

彼の無罪論を主張した水野吉太郎がいたというわけである。

要するに,安重根と伊藤博文という二人の運命的な出会いの背景には,筆者の勤務する法政大学が韓

国と日本との両国を結ぶ「歴史の記憶の場」として介在していた。そこには伊藤博文に協力した梅謙次

郎と,伊藤博文を射殺した安重根を弁護した水野吉太郎という二人の人物が存在していた。この二人の

人物の生き方は,誠に対照的であった。

第三の「歴史の記憶の場」は,日本史からほぼ忘れられた千葉十七の物語を「歴史の記憶」として多

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くの人間の心に蘇らせることにある。宮城県栗原市出身の陸軍憲兵であった千葉十七は,旅順の監獄で

安重根が刑死するまで看守役の任務に当たっていた。この二人の間には,ある種の友情が芽生え,千葉

は,安重根を心底尊敬するようになった。

そこで筆者が最初に指摘したいのは,この史実をたんに想起することではなく,安重根と千葉十七と

の稀有な交友関係の「記憶の継承」という課題にある。千葉の優れた点は,安重根による伊藤博文射殺

という行為が,個人的な恨みではなく,愛国・救国のための抵抗運動であり,愛する家族や未来世代の

民族救済のための行為であったことを自覚していた点にあった。さらに千葉十七は,韓国を占領支配し

た加害者側の人間として,それに対する応答責任として,生涯,遺墨を拝み続け,安重根や韓国国民に

謝罪し罪責の念をもち続けた点にある(5)。

千葉は,看守として安重根の監視にあたるなかで,自己を犠牲にして祖国と韓国国民の解放を実現し

ようとした安重根の高邁な精神や崇高な人間性と平和思想に深く感動し,韓国国民を支配した人間より

も,支配されている人間がはるかに優れていることに気づかされた(6)。

次に筆者が指摘したいのは,千葉十七が安重根から譲り受けた遺墨を媒介として,この二人の関係の

記憶と自身の反省や罪責の気持ちを次の世代に継承するべきであるという深い自覚をもっていた点にあ

る。そして千葉十七は,それが次の世代に継承されることを心底から願っていたと思われる。千葉家の

遺族が安重根の遺墨を韓国に寄贈したのも,そうした千葉十七の遺志が理解され,それを次の世代の人

間に継承すべきであると考えていた,と筆者には思われる。千葉十七の菩提寺である大林寺では,約30

年前から現在でも,毎年9月に安重根と千葉十七の法要が営まれている。ここでもまた,筆者は「歴史の

記憶」を継承すべき「世代間倫理」の意義と,大林寺に集う日韓の関係者による「歴史の記憶を継続す

る場」を維持しようとする行為の重要性を指摘したいのである(7)。

2 安重根の「東洋平和論」とカントの「永遠平和論」

次に筆者は,安重根の絶筆「東洋平和論」と18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel

Kant)の「永遠平和論」との比較考察を試みる。現時点では,二人の平和論の比較考察を試みた研究者

は,グローバルに見てまだ存在しない。そこで筆者は,まず簡単に二人の平和の思想家の相違点を確認

して,次に両者の共通点の解明に進むことにする。

カントの哲学は,明治時代に日本の近代化とともに翻訳され紹介された。明治時代の日本では,カン

トは,釈迦,孔子,ソクラテスとともに「四聖人」の一人と見なされたこともあり,現実の社会や政治

には関心のない学者というイメージが定着していた(8)。彼は生涯独身で大学教授を務めて,引退した。

したがって,カントの書いた『永遠平和論』もまた,日本の多くの哲学研究者と同様に世間知らずの空

想的な理想論にすぎないという誤解が長い間支配的であった。カントは,18世紀のドイツ人で1795年

(71歳)に『永遠平和のために』(Zum ewigen Frieden)を執筆し,1804年,老衰により81歳で亡くな

った。

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他方,安重根は,日本の占領支配に命を賭けて戦った韓国の英雄であり,勇敢で有能な軍人であった。

彼は,1910年 3月 15日から処刑される直前の10日間というきわめて短期間に「東洋平和論」「序」と

「前鑑 一」,つまり序論と第一章の部分を執筆してこの世を去った。享年30歳(日本の満年齢)であっ

た。このように二人は,生きた時代や生活環境,境遇や行動様式もまったく異なる。したがって,これ

まで長い間,政治哲学,法哲学,国際政治学などの諸領域では,安重根とイマヌエル・カントの平和論

の間には少しの共通性もない,と考えられてきた。たしかに,従来の見方では,そのように考えたとし

てもまったく不思議はない。だが,二人の平和の哲学者の間には,驚くほどの共通性が存在する。

安重根の「東洋平和論」は,彼が処刑される直前の短期間に「序」と「前鑑 一」,第一章の部分だけ

が執筆されたので,彼の平和論の全体像を把握することはできない(9)。しかし,遺された文章を読むだ

けでも,その基本構想をある程度推測することは可能である。安重根は,「序」の中で,帝国主義の時代

には,中国,韓国,日本の三国が連携し団結してヨーロッパの列強の植民地支配に対抗すべき必要性を

力説する。次に,第一章にあたる「前鑑 一」では,彼は,当時の中国と日本の政治的・軍事的対立

(清日戦争),ロシアの極東政策を中心にした中国,日本との政治力学の現状を分析し,さらに日露の軍事

的緊張が韓国の主権を危機に陥らせる危険性を指摘する。彼は,それだけでなく,この混乱に乗じて西

洋列強によるアジア全体の植民地化という最悪の事態を危惧している。要するに,安重根には,白人に

よる東アジア人の支配に対する強い危機感があった。最後に,安重根が,日本の軍国主義政策が,大陸

や韓国に対する植民地支配に本格的に乗り出す危険性についても,的確に指摘している。

安重根は,他の箇所でも,具体的な平和のための戦略を提起している。彼は,旅順を永世中立地とし

て関係各国による常設委員会の設置を提案している。その主要論点のみを挙げれば,以下の通りである。

「旅順永世中立地設置施行方案」1. 三国による東洋平和会議の組織。2. 共同銀行設立,共同貨幣発行。3.

組織機構の拡大。4. 永世中立地旅順保護。5. 平和軍の育成。各国の青年の募集,少なくとも二ヶ国語の

教育。6. 共同経済発展。7. 国際的承認。三国のリーダーのローマ法王による大観。8. 韓国・中国に対す

る日本の侵略蛮行の反省など。およそ以上の提案及び提言である(10)。

この安重根の主張には,当時の国際情勢,特に東アジアに対するヨーロッパ列強の脅威,侵略政策を

強めるロシアや日本に対する強い警戒心とともに,他方,東アジアの平和のための理念,戦略,そして

戦術が現れている。また,以上の平和のための基本方針や戦略は,後述のように,21世紀の東アジアの

現状と安全保障という課題にとってきわめて示唆的である。特に東アジアの平和と安定のためには,中

国・韓国及び朝鮮(韓)半島・日本の三国の相互の信頼に基づく国家間の連携が必要であるという主張に

は,今日,これらの国民は,積極的に耳を傾ける努力が求められている。また,「中立地設置」の提案や

バイリンガルの言語教育の設置,平和軍の育成や共同通貨発行の提言などは,すでに「ヨーロッパ連合」

(EU)が部分的に実施している政策であり,きわめて現実的な「平和」のための具体的な提案である。安

重根の「東洋平和論」の構想は,彼が抗日運動・反植民地闘争の先頭に立って最前線で文字通り命を賭

して戦いながら,獄中の短期間に著述しただけに,きわめて重要である。

ではカントの永遠平和論は,どのような主張であったのか。彼の平和論の基本理念,戦略,戦術は,

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以下の通りである。カントは,「永遠平和」を人類が実現すべき「最高の政治的善」であると明言してい

る(11)。また,カントは,「永遠平和」の実現のために,次の6つの「国家間の永遠平和のための予備条項」

および3つの「確定条項」を提案している。特に,次の「予備条項」は,国家間に真に平和を実現できる

ためには,実現されていなければならない6つの必然的な条件が定式化されたものである。さらに「確定

条項」は,国家間の平和は新たに基礎づけられた国際法によって保障されるべきであると主張するカン

ト法哲学の要請である。

カントによれば,予備条項の1「将来戦争を起こすような材料を密かに留保して締結された平和条約は,

決して平和条約と見なされてはならない」。これは,列強諸国による東アジア諸国,特に清や朝鮮(韓)半

島の分割支配の禁止事項と解することができる。実際,カントにとっても,平和は,たんに戦争が事実

として起きていないこと,したがって戦闘状態にないことを意味するだけでなく,「あらゆる敵対行為の

終結を意味する」。2「独立して成立しているどのような国家も,(その大小はここでは問題ではない)継

承,交換,買収,あるいは贈与によって,他の国家の所有にされてはならない」。この記述は,日本によ

る「韓国併合」の禁止事項と解釈することができる。3「常備軍は時を追って全廃されるべきである」。こ

れは,明治政府による富国強兵政策が韓国や清などの他国支配を帰結したという歴史の帰結を予見して

いる。4「国家の対外的紛争に関連してどのような国債も発行されてはならない」。このカントの主張は,

安重根が伊藤を射殺した理由の15の罪状うちの一つ「二三〇〇万円の国債発行」の罪状と一致する。加

えて,戦前の日本の軍国主義の重税政策に対する批判と解釈することもできる。5「どのような国家も暴

力をもって他国の体制及び統治に干渉してはならない」。この見解は,国際法からみて国家間の共存の原

則を意味している(12)。6「どのような国家も他国との戦争において,将来の平和にさいして,相互の信頼

を不可能にせざるをえないような敵対行為は,決して行なってはならない。例えば,暗殺者や毒殺者の

使用,降伏条約の破棄,また敵国における暴動の先導などなど」。これらのカントの見解は,アジアにお

ける植民地支配時代に日本軍が韓国・中国などで行った野蛮な軍事行動を予見していた,と解釈するこ

とができる。

また,永遠平和のための第一の確定条項は,「各国家における市民的体制は共和的でなければならない」。

この見解の重要性は,明治以降の日本の超天皇主義やナチス・ドイツのヒトラー総統による独裁制が侵

略戦争と不可分であることを想起すれば,明白である。第二確定条項は,「国際法は自由な諸国家の連盟

[国際連盟]の上に基礎を置くべきである」。この原則は,周知のように「国際連合」(UN)の役割や

「ヨーロッパ連合」(EU)の設立の重要性を主張した見解である。第三確定条項は,「世界市民法は普遍的

な友好の諸条件に制限されるべきである」。この主張は,グローバル化時代に妥当すべき人類全体に及ぶ

法「世界市民法」の意義を強調したものである。さらにカントは,二つの「追加条項」として「永遠平

和の保障について」と,「永遠平和のための秘密条項」について補足説明を追加している。

しかし,本論考では,カントの永遠平和論の専門的な研究発表が主題ではないので,上記の個々のテ

ーマに立ち入ることはせず,これまでの論述で,筆者は,安重根とカントの平和の哲学の基本骨子を一

瞥した。そこで次に,二人の平和思想の共通点を7点に限定して明らかにする(13)。

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第一に,安重根は,義軍中将として韓国国内から中国,ロシア領を移動し日本軍と戦いながら,当時

の最新の国際情勢にも目配りし的確な情報を得ていた。カントもまた,バルト三国とポーランドに挟ま

れた東プロイセンの首都ケーニヒスベルクという港町に居住して,最新の国際情勢に通じていた。カン

トは,人間や社会,政治に対する冷静で厳しい見方をした現実感覚の持ち主であった。国際平和の実現

のために,常備軍の縮小や軍備の財政的なあり方など具体的な提言を行った点でも,両者は共通してい

る。この点でカントは,安重根と同じように物事に対する優れた洞察力と現実の政治のあり方や国際法

の役割も適切に把握していた。二人は,独立国家の国内法,民主的な国家間の国際法,そして人類全体

に及ぶ法的秩序による世界平和の実現のプロセスも念頭に入れていた。平和の実現と国家の独立は,不

可分であることも,二人は経験に根ざして深く自覚していた。カントもまた,ロシア軍に占領支配され

た土地で生活を強いられた経験の持ち主である。安重根は,ヨーロッパの列強,ロシア,中国や日本に

抑圧された朝鮮(韓)半島の国民として,また,カントは,ロシアとプロイセンという両大国に翻弄され,

食い尽くされたポーランドとバルト三国との間の飛び地で生活し,国際政治と戦争に翻弄された諸国民

に強い共感を抱いていた。

第二に,二人は,西洋の列強諸国がアジアを植民地支配していることに対して厳しい批判を展開して

いる。彼らは,ヨーロッパの植民地主義が東洋平和や永遠平和の実現を妨げているという洞察でも共通

の認識をもっていた。カント哲学の中心概念は,人間の自由にあり,彼は宗教論の発言のゆえに,当時

の権力者によって発言や講義,出版の自由も禁じられ,主著『純粋理性批判』は,焚書の対象になった

こともある。安重根もまた,日本軍捕虜を無条件に釈放した自由の戦士であり,祖国解放戦争に殉じた

憂国の志士であった。だが,彼の「東洋平和論」は,長い間「歴史の記憶」から忘却されていたのであ

る。人間の尊厳と自由,そして法的な平等の実現は,二人の共通の強い願いであった,と言ってよい。

二人は,植民地支配の非人間性を誰よりも深く認識していたのである。

第三に,二人は,平和思想と教育との深い関係についても,共通の認識をもっていた。平和の実現の

ためには国家が優れた人間を育成し,とりわけ道徳的な人間を育成しなければならないという教育哲学

の思想の重要性についても,二人の認識は一致していたのである。安重根は,学校を設立して教壇に立

ち,カントは,教育学の講義を行った人物である。安重根の遺言には,弟の定根には工業に従事し産業

を起こすこと,恭根には学者になること,そして息子プントには神父になることが求められていた(14)。

また,国際的な経済交流の促進が平和の実現に寄与するという認識でも,両者は一致している。二人は,

優れた教育こそ,国家の独立の実現と道徳的に優れた人間を育成して,ひいては国際関係の安定と平和

に貢献する,と考えていた。21世紀の現代でも,国内および国際政治の安定と保障,そして東洋平和と

永遠平和の実現には,優れた国際人の育成が不可欠である。

第四に,両者は,武力による真の平和の実現が不可能であることを見抜いていた。平和論は,逆の観

点から表現すれば,戦争論を意味する。戦争と政治との関係については,基本的に二つの対立する見解

があった。一方は,戦争は政治の一環ないし政治の延長であるという見解である。他方では,戦争は,

国家間の政治的交渉の破綻ないし限界を超えたものであるという見解がある。後者は,政治制度のあり

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方そのものにも危機を生み出すという考え方になる。戦争はできるかぎり,回避されなければならない。

「平和論」の理念を持たないクラウゼヴィッツの戦争論の見解とは異なり,安重根とカントの二人は,こ

の点でも共通の認識を有していた。プロイセン軍の将軍・クラウゼヴィッツと大韓国人の義軍中将・安

重根との相違は,ここでも明白である。それと同時に,戦争が回避できない事態でも,戦後の新たな平

和の実現のための努力は,不可欠である。この点の認識でも,二人は共通の理解をもっていた。

第五に,二人の哲学者の平和論の理論的前提には,キリスト教の神の存在と摂理が存在していたよう

に思われる。安重根は,カソリック教徒だったので,ローマ法王庁の世界的な影響力に期待していたが,

カントは,プロテスタントであり,彼は目に見える教会には批判的だったので,もっぱら歴史のなかで

働く自然と摂理に,人間の実現の努力の不十分さの補完的な役割を期待していた。二人は,宗教の役割

が世界の平和に重要な役割を果たすであろう,と確信していた。宗教間の対立という名の下で,大規模

な国際紛争が頻発している今日,二人の見解に改めて耳を傾ける必要がある。安重根とカントは,人間

が努力を尽くしつつ,同時に人間の能力を超えた力を信じながら,絶望に耐えることの意味を教えてい

るように筆者には思われる。

第六に,筆者は,二人の歴史の未来を見据えた哲学的洞察力の卓越さを指摘したい。多くの人々は,

東洋平和や永遠平和の可能性に懐疑的である。この疑念は,カントの時代も,安重根の時代も,国際紛

争の絶えない21世紀の今も変わっていない。国際連合の理念は,カントの永遠平和論にあるといわれ,

韓国の学者は,安重根の東洋平和論がヨーロッパ連合(EU)の理念の先駆である,と指摘している。筆

者には,この指摘が誤りであるとは思われない。二人の思想家は,現実の政治の冷酷さと戦争の危機を

十分自覚したからこそ,ともに平和の尊さと人間の尊厳を訴えたのである。カントは「永遠平和は空虚

な理念ではなく,われわれに課せられた使命である」,と述べている。また安重根は,「「東洋平和」「韓国

独立」の単語に至っては,既に天下民国の人の耳目に露わに,金石の如く信じるところとなり」,「このよ

うな文字思想は,仮に天神の能力を以ってしても消滅し能わざるもの」である,と強く確信していたの

である。

第七に,筆者は,安重根とカントの平和論の主張には,環境倫理学の領域では市民権を獲得した「世

代間倫理」の考えが基礎にあったことを指摘したい。二人とも,平和の実現のために,なによりも人間

が強い意志をもって着実に努力し続けることの重要さを訴えていた。もちろん,安重根もカントも,と

もにこの平和の実現の困難さを十分自覚していた。実際に,カントは,人間が相互に尊敬に値する人間

であるためには,永遠平和という人類に課せられた「歴史的使命」をどれだけ時間がかかってもたゆま

ず実現に向けて努力することが「人類の義務」である,と考えた。また,安重根は,東洋平和,韓国及

びアジアの諸国の独立は,当時はどんなに実現困難であっても,ひるまずたゆまず,外部の力,例えば

「天神の能力」をもってしても,決して消し去ることのできない「アジア人の義務」であり,そして「人

間の使命」であり,「歴史的義務」である,と考えた。この営みは,特定個人が自身の人生のなかで一挙

に実現できる事業ではない。東アジアの人間が,そして人類が平和の実現に向けて,世代を超えて,諸

国民の間で連携しながらその実現に向かって努力し続けなければならない。

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3 安重根の「東洋平和論」と「ヨーロッパ連合」の理念

これまで日本人が安重根の「東洋平和論」について,本格的に論じたことはないと思われる。彼の

「東洋平和論」と「東アジア共同体」との関係を考察した日本人もまた,これまでのところ存在しない。

第二次世界大戦終結以前,日本では盛んに「大東亜共栄圏」のスローガンが叫ばれ,それが国策として

軍事力によって推進されたことは周知のとおりである。しかし,このスローガンは,軍国主義・大日本

帝国のアジア侵略の自己正当化のために機能したものである。したがって,ここで筆者は,戦前のこれ

らの東アジア論には言及せず,最近の議論に限定する。

ところで筆者は,安重根の「東洋平和論」と「東アジア共同体」との関係を考察することが「歴史的

義務」であり,東アジアに生きる人間にとって彼の「東洋平和論」という「歴史の記憶」が重要な課題

である,と考える。しかし,「東アジア共同体」については,いまだに政治的スローガンの段階にとどま

り,厳密な意味での「構想」ですら示されていないのが実情である。そこで筆者は,文化哲学的観点及

び政治哲学的観点から,両者がともにその理念の先駆者と見られる「ヨーロッパ連合」(EU)の根本的な

あり方と比較することにしたい(15)。筆者は,哲学者の立場から,「ヨーロッパ連合」の意義を簡潔にまと

める作業から開始する。

周知のようにヨーロッパの統合の歴史と試行錯誤の努力は,1967年に発足した「ヨーロッパ共同体」

(EC)が1993年には正式に「ヨーロッパ連合」(EU)の名称のもとに12カ国で発足し,それ以後2004

年には,加盟国が25カ国に拡大しさらに加盟国の増加という新たな段階に進んでいる。今日では,トル

コの加盟問題やEUの憲法問題など,未解決の困難な課題を多数抱えながらも,EUの歩みは着実に進展

している。ここで筆者が提起したい疑問は,次の二点に集約される。第一に,二つの世界大戦や多数の

国家間の戦争を経た結果,ヨーロッパではEUという国家統合の運動が実現したのはなぜであるか。第二

に,東アジアでは,日本の帝国主義による侵略支配を除けば,ヨーロッパほど大きな歴史的カタストロ

フィーを経験していないにもかかわらず,「東アジア連合」というEUのような国家統合の方向性どころ

か,「東アジア共同体」という国家間の地域的連携すら実現できないのはなぜであるか。本論考では筆者

は,これらの困難な問いの回答を直接与えるのではなく,その前提に潜む哲学的・思想的・文化的問題

に限定して,問題の所在を素描してみたい。

筆者は,「東アジア共同体」という概念と「東アジア連合」という概念とを明確に区別すべきであると

提唱する。では,安重根の「東洋平和論」が目指したものは,どちらであったのか。これまでの議論は,

この区別が明確にされないまま論じられてきたように思われる。他方,現存する「ヨーロッパ連合」(EU)

は,もはや「ヨーロッパ共同体」(EC)ではない。EUは,最終的に国家統合を目指している。そのため

に最低限必要な条件は,幾つかある。第一に,EUは,超国家的な機関と組織であり,したがって他の地

域共同体とは異なり,超国家的な法的・制度的な機構を確立している。第二に,EUには,「EU法の優越」

という原則があり,したがってEU法は国内法よりも優越するので,加盟諸国の国内法は,EU法に制約

され,改正や修正が必要となる。関税,金融や通貨,安全保障,外交,司法などのさまざまな点で,加

文学部紀要 第 60号44

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東洋平和と永遠平和 45

盟諸国は主権国家であると同時にEUの決定に従う義務を負う。第三に,そこでは,人,物,サービス,

資本などの自由な移動が保障され,その結果,国境の壁は確実に消失しつつある。第四に,この方向を

推進すれば,やがてEUは,一種の「連邦国家」的な性格を強める可能性がある。例えば,地球環境の保

護,人道・救援活動,平和維持,平和創設を含む危機管理での戦闘部隊の任務などがEU条約で規定され

ている。これらが積極的かつ有効に機能すれば,国際平和の実現に重要な役割を果たすはずである。

しかし,こうした理念は,加盟諸国やその内部に生活する多様な民族の文化や言語・宗教・思想・教

育のあり方を妨げ,強権的に統一する危険はないであろうか。この点にかんしてEUの基本政策は,多文

化社会に生きるさまざまな民族の人権を重視して,きわめて周到に立案されている。そこでは第一に,

EU加盟国のなかでは,文化や言語・宗教・思想・教育などの多様性の尊重という理念が存在する。第二

に,それとともに,EUという一つの「ヨーロッパ連合」のメンバーとしてのアイデンティティーの形成

という課題の解決に向けた理念・戦略・戦術が見られる。第三に,こうした調和困難な課題の解決に向

けた主要な基本政策としては,特に多種多様な教育政策が指摘できる。EUの主要な教育・文化事業には,

ソクラテス(Socrates)計画という総合的教育交流計画による教育の質の向上に向けた行動プログラム

がある。具体的には,コメニウス(Comenius)と呼ばれる中等教育までの異文化間交流,エラスムス

(Erasmus)と呼ばれる高等教育機関における学生及び教員の交流。また,レオナルド・ダ・ヴィンチ

(Leonarudo da Vinci)計画のような青年労働者の職業訓練プログラム,さらにカルチャー

(Culture/Kultur)と呼ばれる総合文化プログラム。これは,共有文化の発展に寄与するため,国境を越

えた文化協力とヨーロッパのアイデンティティーの開発と強化を目指す目的で設定された。第四に,注

意すべきは,これらは,すべてヨーロッパの歴史上存在した哲学者,思想家,宗教家,芸術家の名前を

付したプログラムである点にある(16)。

以上のEUの基本政策から,異質な民族の言語を始め文化的な多様性を尊重しつつ,同時にヨーロッパ

人という統一理念や,彼らが共有しようとする価値観がある程度理解できる。上述の「2」で指摘した7

つの論点から明らかなように,筆者は,これらの理念や基本政策がすでに安重根の東洋平和論とカント

の永遠平和論に見出すことができる,と考えている。だが,安重根の東洋平和論は,東アジア人や「東

アジア共同体」の理念とどのように結びつくのであろうか。最後に,この疑問に答えることにしたい。

4 安重根の「東洋平和論」と新たな「東アジア共同体」の構想

100年前に執筆された「東洋平和論」と,近年にわかに議論され始めた「東アジア共同体」との間には,

どのような関係があるのだろうか。この問題を論じる場合,筆者は,「ヨーロッパ連合」(EU)と「東ア

ジア共同体」の構想との比較考察が有益である,と考える。その場合,まず注意すべきは,「東アジア共

同体」の構想の基本的な理解の立場にある。言い換えれば,「東アジア共同体」と「東アジア連合」との

区別の意味に注意する必要がある。では,安重根の「東洋平和論」の目指したものは,どちらであった,

と解釈すべきであろうか。上述のように,従来の議論は,この区別を明確にしないままで論じられてき

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たように思われる。また,筆者の考えでは,安重根の執筆した「東洋平和論」の理念は,近年の日本の

政治家が提唱した「東アジア共同体」という利益共同体の構想とはまったく異質である。

現段階で「東アジア共同体」の構想をめぐる主要な困難は,政治・経済・文化の三分野に関連する問

題群に整理可能である。国際会議で初めて明確にこの構想を提案した小泉首相(当時)らによる日本政

府の狙いには,多くの問題がある。だが,本稿はそれらを論じる場ではない。また最近の「東アジア共

同体」の構想をめぐる議論は,主として昨今の「経済危機の克服」という課題に目が向き,その基礎に

ある政治的・文化的・道徳的・宗教的な課題に目が向けられていない点に大きな問題がある(17)。この場

合,ほぼすべての論調は,アメリカ発の経済危機の克服という経済対策の手段として「東アジア共同体」

の構築やそこでの日本の指導力の発揮が強調されている。本文で詳しく論じたように,筆者の考えは,

この考えに対して慎重である。そこでここでは,主として平和論と文化及び教育政策との関連に問題を

限定して論じることにする。

「東アジア共同体」のあり方については,これまで日本では,対照的な観点から複数の見方が提示さ

れている。一方では小泉首相(当時)による「東アジア共同体」の構想を基本的に肯定的に捉え,その

実現の可能性を追求する立場がある(18)。

また,最近の日本では,「東アジア共同体」の構想を「環境共同体」へと拡大・深化させようとする新

たな試みもある(19)。この構想では,日本・中国・韓国が「相互に環境破壊を輸出し合う」という点で,

「既に環境共同体」としての役割を果たしているという厳しい認識を示している。加えて,そこでは,こ

れら三国の「環境問題に大きな共通点があった」という指摘とともに,未来に向けた取り組みの現状と

課題が論じられ,「環境NGO」の役割に大きな期待を寄せている。

さらに,この提案とも関連して「東アジア共同体」の構想を「市民ネットワーク」との関係から構築

しようとする主張が見られる(20)。この研究では,「北東アジアの地域的共通価値と環境技術移転メカニズ

ム」にも立ち入って考察され,たんに経済統合に限定されない幅広い観点から「東アジア共同体の共生

空間と市民社会」との積極的な関係が,未来志向的に論じられている。これらの見解は,総じて平和論

そのものを扱うことはせず,環境対策や地域経済,金融対策などを中心に据えた21世紀型の「東アジア

共同体」の構想である。これらは,安重根の時代にはまだ問題にならなかった地球規模の環境問題の解

決のためにも,重要な問題提起である。

もっとも,こうした見解が具体的に実現されるためには,東アジアの安定と平和が不可欠の前提とな

る。また,戦争は,いまも昔も最大の環境破壊の原因であるから,安重根の「東洋平和論」の構想が,

これらの考えと矛盾すると考えるべきではない。むしろ筆者の考えでは,安重根の「東洋平和論」には,

萌芽として,こうした問題の解決の手がかりが含まれていた,と解釈することができる。東アジア地域

の環境問題の解決のためにも,是非とも,東アジアの安定と平和の努力が求められている。

しかし,これらの文献では,当時の日本政府の主導する「東アジア共同体」構想の成立の前提条件に

対する根本的反省及び吟味・検討の作業が脆弱である。9月に政権交代した民主党の鳩山由紀夫首相によ

る「友愛」(fraternity)に基づく「東アジア共同体」(東南アジア諸国連合,日本,中国,韓国,台湾)

文学部紀要 第 60号46

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の創設の構想及び通貨統合の提案は,過去の提案と比較すれば,確かにアジア重視の構想ではあるが,

残念ながら問題の所在と困難さを十分捉えてはいない(21)。その点では,不十分ながら,次の文献のほう

がこの構想に含まれた困難な問題を自覚し,その本質に迫っている,と言ってよい(22)。谷口誠によれば,

「東アジアには経済圏を成立させるに足る十分な経済的可能性はあるが,成立の成否は,日・中・韓,と

くに日中間に相互信頼関係が樹立できるか否かにかかっている」(23)。この見解は,筆者からみて,「とく

に日・中・韓に相互信頼関係」の樹立が不可欠である,と修正すべきである。また,こうした経済的な

利益追求だけを目的にした相互依存関係は,谷口の指摘するように,かつての日米関係で生じた貿易摩

擦のように,アジア諸国間の信頼関係を損ない,悪化させる可能性もある。したがって本来の「東アジ

ア共同体」の構築に向けて,また将来の「東アジア連合」の理念作りに向けて,たんなる経済的な利益

追求や環境対策に限らない,東アジアの人間に相応しい包括的なパートナーシップの構築が求められて

いる。言い換えれば,政治・経済・金融・環境・宗教・教育などを含む包括的な共同体的構想と結びつ

いた「東洋平和論」の構築が,急務の課題である。

しかしながら,筆者のみるかぎり,従来の日本政府及びそのブレーンが提唱する「東アジア共同体」

の構想は,筆者の主張する構想や理念とは,まったく異質である。また,彼らの唱える「東アジア共同

体」の構想は,安重根の主張した「東洋平和論」の構想ともまったく異質である。それどころか,彼ら

の唱える構想自体が実現困難である。その主要な理由として筆者は,次の諸点を指摘することができる。

第一に,過去の戦争責任の明確化と真の和解の努力が不十分である。第二に,そのために韓国と日本,

中国と日本との間にいまだに解決できない「歴史認識」,教科書問題,領土問題などの課題がある。第三

に,日本人には,明治初期以来のアジア軽視と,それと不可分の「脱亜入欧」志向の意識が依然として

ある。第四に,日本政府や多くの日本人は,同じ東アジアのパートナーとして韓国や中国の人々と真の

信頼関係を構築しようという努力と熱意に欠けている。筆者の考えでは,これらは,いずれも真の「東

アジア共同体」の構想の実現を妨げる障壁となっている。

他方,最近の日本人は,グローバル化の影響により韓国・中国の文化にこれまでとはやや異なる見方

をしてきている。確かに,いわゆる「韓流」ブームは,日本人の間に韓国の文化や韓国人に対する好意

的な見方と友好的な環境を育んできた点は否定できない。しかし,この「ブーム」は,日本人の特性か

らみて,韓国の文化,政治,経済,歴史の共通理解などに対する有効な機会として機能するまでには至

っていない(24)。残念ながら,「韓流」が真の韓日相互の文化の理解に十分有効な役割を果たしていないの

である。それに加えて,真の「東アジア共同体」が少なくとも経済共同体として機能するためには,ま

ず関係国間での自由貿易協定の実現や,韓国に比べて中国の特出した外貨準備高や日本経済との格差の

是正など,韓国・中国・日本が主軸になったASEAN(東南アジア諸国連合)との連携の強化の実現が急

務である。これらの基本政策もまた,安重根の「東洋平和論」の構想と共通するものであった。

上述のように安重根は,「旅順永世中立地設置施行方案」に依拠して,1. 三国による東洋平和会議の組

織。2. 共同銀行設立,共同貨幣発行。3. 組織機構の拡大。4. 永世中立地旅順保護。5. 平和軍の育成。各

国の青年の募集,少なくとも二ヶ国語の教育。6. 共同経済発展。7. 国際的承認。三国のリーダーのロー

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マ法王による大観。8. 日本が韓国・中国に対して行った侵略蛮行を反省するなど平和に実現に向けた理

念,戦略,戦術を明確に提示していた。ところが,この安重根の諸提案のうち,最も重要な前提である

「8」で掲げられた侵略蛮行に対する日本の反省すら,まだ十分実現されていないのである。東アジアの平

和実現の第一歩は,ここにあるといわなければならない。筆者の見解では,日本が,いまもなお韓国・

中国との強固な信頼関係を構築できない根本的な理由は,これらの問題にある。

特に,ここで筆者が強調したいのは,EUでは,政治・経済・金融・軍事・環境・エネルギーなどの政

策だけでなく,上述の多種多様な教育政策の実施により,将来の未来世代に向けた平和のための具体的

努力を着実に進めている点にある。これらのEUの理念,戦略,戦術は,平和の実現に向けた基盤の整備

でもある。ところが,日本で「東アジア共同体」の構想が論じられる場合には,これらの理念どころか,

平和のための戦略やそのための基盤整備すら語られることがほとんどない。この現実は,安重根の「東

洋平和論」の構想と比べて,あまりにも貧困で立ち遅れた事態ではないだろうか。

以上の考察から明らかなように,これらの「東アジア共同体」の構想をめぐる問題は,100年前に安重

根が遺した「東洋平和論」の基本構想のなかですでに指摘された課題であった。21世紀を迎えて,東ア

ジア人は,いまだに「東洋平和論」に向けた明確な道筋をつけることができないのが実態である。した

がって日本の哲学者や政治家もまた,EUのような「東アジア連合」の理念すら提起することができない。

このことは,安重根の「遺言」が依然として実現できていないことを意味する。「ヨーロッパ連合」(EU)

を着実に展開するヨーロッパ地域だけでなく,アメリカでも「北米自由貿易協定」(NAFTA)による地

域統合が急速に拡大している。この意味でも,安重根の「東洋平和論」の構想は,今日なお有効で重要

な問題提起であり,21世紀に生きる東アジアの人間に課せられた緊急の課題である。

5 結論

安重根とイマヌエル・カントという東西の二人の平和思想家の理念,とりわけ安重根の遺言ともいう

べき「東洋平和論」の理念は,日本の政治家が近年提唱した「東アジア共同体」というたんなる利益共

同体の構想とはまったく異質なものであった(25)。筆者は,真の意味での「東アジア共同体」を実現可能

にするためには,ヨーロッパ連合(EU)のように,政治・経済・軍事だけでなく,文化・教育・宗教な

どの交流や相互の信頼関係の構築が最も重要な前提条件である,と考える。「東洋平和論」は,カントの

提唱した「永遠平和論」と響きあうことで,21世紀のグローバル化時代に生きる私たち東アジア人を結

ぶ新たな絆となるはずである。

そのためには,筆者は,安重根の「東洋平和論」の意義を正しく理解することが必要であり,それが

将来の韓国と日本,そして中国などの東アジア諸国民の真の信頼関係を構築する上で不可避の課題であ

る,と考える。さらに筆者は,世界平和の実現というグローバルな今日的課題の解決のためにも,こう

した考え方はきわめて重要である,と考えている。

文学部紀要 第 60号48

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東洋平和と永遠平和 49

(1)Cf. Martin Jay, Force Fields. Between Intellectual History and Cultural Critique, London/New York1993, pp.179ff.

(2)E. H. Carr, What is History?, London, Macmillan 1961.(E・H・カー著『歴史とは何か』岩波書店,清水幾太郎訳 p.40.)

(3)満州日日新聞社編『安重根事件公判速記録』(1910年 3月 28日発行,p.160.)ちなみに,この事件の公判速記録は,1910年 3月 26日の処刑の翌日に5000部印刷され,その一冊は,翌月4月に法政大学図書館に寄贈され

ている。

(4)李英美著『韓国司法制度と梅謙次郎』(法政大学出版局,2005年 11月,pp.2-86, 103-165.)なお,本書では,安重根と伊藤博文との関係には言及されていないが,梅謙次郎の縁で法典編纂のために編成された習慣調査チ

ームの専属調査員メンバーは,全員が法政大学の出身者であったことを明らかにしている。

(5)安重根に対する千葉十七の悔悟と反省の思いは,安重根の遺墨「為国献身軍人本分」を千葉が生涯拝み続け

た事実に加えて,この遺墨が千葉の遺族の手で韓国に返された点にも引き継がれている。鹿野琢見著『法のま

にまに』(海竜社,1982年,「安重根と千葉十七」pp.179-198.)斎藤泰彦著『わが心の安重根 千葉十七・合

掌の生涯』(五月書房,1994年)参照。

(6)安藤豊禄著『韓国わが心の故里』(原書房,1984年)。安藤は,伊藤とともに狙撃された満鉄筆頭理事・田中

清次郎との対話の記憶を次のように記録している。「通常ならば,最も憎むべき環境にあった人である。その

田中さんは,あなたが今まで会った世界の人々で,日本人を含め誰が一番偉いと思いますかとの私の問に対し

て,言下に〈それは安重根である〉と言い切った。〈残念であるが〉という一語を添えて」(同書,p.17)。(7)最近の記念すべき行事としては,2008年 9月 7日に宮城県栗原市で開催された大林寺と安重根義士崇慕会主

催の「日・韓親善学術講演会」である。ここでは金鎬逸・安重根義士紀念館館長による「安重根の夢 大韓独

立と東洋平和」と,筆者による「日韓の歴史の新たな歩みのために―安重根義士と歴史の記憶の場―」の二つ

の講演が行われた。

(8)2004年には,カント没後200年の記念行事が世界中で開催された。その時に,現在韓国人の事務総長が務め

る国際連合の理念は,カントの平和論にあるという議論が盛んに行なわれた。最近は,日本でもカントの永遠

平和論の見直しや再評価が進み,数年前ドイツ文学者の池内紀の永遠平和論の訳書が刊行されたおり,この書

物の帯に,瀬戸内寂聴が,「カントの考えと釈迦の教えが余りにも同じなのでびっくり。戦争絶対反対。命礼

賛の思想こそ永遠である」,と述べている。

(9)多くの文献は,第一章の論述も完成されていないと解釈しているが,安重根は「序」と第一章にあたる部分

「前鑑 一」を完成させた,とする解釈もある。例えば,韓碩青著『安重根』(作品社,金容権訳,1996年,第

二部,p.353.)を参照。確かに,「東洋平和論」は,上記の理由から全体像を把握することはできない。原文が漢文の「東洋平和論」は,日本の書籍サイズで4ページ程度の「序」と「東洋平和論 目録」に一行ずつ「前

鑑 一」「現状 二」「伏線 三」「問答 四」と記され,本論は4章構成で構想されていた。しかし,実際執

筆されたのは「前鑑」(第一章)の部分までである。だが,遺された文章だけでも,その基本構想は,ある程

度推測することができる。また,市川正明著『安重根と朝鮮独立運動の源流』(原書房,2005年,pp.172-191.)を参照。本書に収録された「東洋平和論」の「前鑑 一」は,日本語版で9ページ半の分量で終わっている。

ところで,本稿の完成直前に『世界』10月号(2009年 9月 8日,岩波書店)が刊行され,その中で,「伊藤

博文暗殺百年 安重根「東洋平和論」訳者・伊東昭雄」と題して,「彼は,なぜ伊藤博文を狙ったのか?処刑

直前まで書き綴った,日韓清(中国)民衆に向けた「東洋」連帯の構想。漢文から初めて翻訳。」を編集部が

強調している。筆者としては,この時期に,安重根の「東洋平和論」の全文が月刊誌によって,日本語で一般

読者に読まれる機会が得られたことを喜びたい。この機会に,安重根の平和思想が日本人に広く読まれること

を大いに期待している。しかし,『世界』編集部には,重大な事実誤認がある。それは,東洋平和論が「漢文

から初めて翻訳」と謳っている点である。なぜなら,原文漢文の日本語訳は,すでに2種類が存在するからで

ある。第一は,中野泰雄著『安重根 日韓関係の原像』(亜紀書房,1984年,増補版1991年 pp.208-220.)では,序文と本文の全訳が掲載されており,斎藤充功著『伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像』(時事

通信社,1994年 pp.114-120.)では,「訳者不明」として本文の全訳を掲載している。筆者は,『世界』発行当日,編集部にこの事実を指摘して,訂正を求めたことを付言しておく。

(10)上記の注(7)で紹介した金鎬逸・安重根義士紀念館館長による「安重根の夢 大韓独立と東洋平和」,金鎬

逸著「安重根の夢 大韓独立と東洋平和」(『日・韓親善学術講演』2008年 9月 7日,pp.3-14.)を参照。安重

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根義士崇慕会・安重根義士紀念館編『日本語版 大韓国人 安重根』(p.20)。また,満州日日新聞『安重根事件公判速記録』(大連,1910 年 3月 27 日印刷,28日発行,pp.5-8, pp.29-32, pp.37-39, p.91, pp.103-1-6,pp.172-177.)。斎藤充功著『伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像』(時事通信社,1994年,pp.113-120.)も参照。

(11)イマヌエル・カント著『永遠平和のために』(牧野英二他編『カント全集』岩波書店,全22巻+別巻1,第

14巻,pp.247-315)。カント著『人倫の形而上学』・第一部では「永遠平和の確立と,そのために,また救いのない戦争遂行に終止符を打つために,もっとも適切と思われる体制とを目指して努力しなければならない」

(『カント全集』岩波書店,第11巻,pp.207-208.),とカントは明確に主張している。(12)笹川紀勝・李泰鎮編『国際共同研究 韓国併合と現代―歴史と国際法からの再検討』(明石書店,2008年)。

この書物では,執筆者全員が以下の点で同じ歴史認識を共有している。第一に,1905年の「日韓保護条約」は

成立しておらず,無効である。第二に,「日韓保護条約」に基づいて締結された1910年の「日韓併合条約」も

成立しておらず,無効である。第三に,「韓国併合」についても21世紀の今日,なお取り組むべき未解決の課

題である。また,韓国の歴史学者による安重根の救国・抵抗運動の意義については,本書・第四章「韓国併合

をめぐる抵抗の問題」の中で一箇所,次のように触れている。「愛国烈士・安重根は,ハルビン駅で伊藤を射

殺し独立万歳を叫び朝鮮民族の気概を誇示した。安重根義士の伊藤暗殺理由について,当時の歴史記録は次の

ように記述している。「彼が予審法廷で伊藤暗殺の理由を陳述した際,一五ヵ条の罪目を挙げた。そのうち重

要なものは,まず,日本が何度も大韓帝国の独立を約束したが伊藤はそれにもかかわらず強圧的手段を使って

五条約を締結しわれらが独立を侵害したこと,東洋の平和を撹乱したこと,皇帝廃位,軍隊解散,利権略奪,

三〇〇万円の国債募集,などであった」」(『韶護堂集』巻九,安重根伝参照)(同書,p.338.)。(13)クラウゼヴィッツ著『戦争論』(Vgl. Carl von Clausewitz, Vom Kriege, Berlin 1832-37.ドイツ語初版。日

本クラウゼヴィッツ学会訳,芙蓉書房出版,2001年,特に第一章「戦争とは何か」pp.22-48.)参照。彼によれば,「戦争は,重大な目的を達成するための真剣な手段である」(p.42.)。また,「戦争は,政治的行為であるばかりでなく,本来政策のための手段であり,政治的交渉の継続であり,他の手段をもってする政治的交渉の

遂行である」(p.44.)。カントとクラウゼヴィッツとの戦争と平和の比較考察については,牧野英二著『カントを読む ポストモダニズム以降の批判哲学』(岩波書店,2003年,pp.284-300.)を参照。

(14)韓碩青著『安重根』(作品社,金容権訳,1996年,第二部,pp.360-361.)。(15)近年の「東アジア共同体」の構想の積極的意義を主張する見解としては,次の文献が参考になる。谷口誠著

『東アジア共同体―経済統合のゆくえと日本―』(岩波書店,2004年)。

(16)大矢吉之・古賀敬太・滝田豪編『EUと東アジア共同体』(萌書房,2006年,pp.96-102.)(17)例えば,最近の文献の典型的な例としては,『別冊世界 世界経済危機と東アジア』(2009年 4月,岩波書店)

所収の諸論考を参照。この文献のほぼすべての論調は,アメリカ発の経済危機の克服という経済対策の手段と

して「東アジア共同体」の構築やそこでの日本の指導力の発揮が強調されている。だが,日本人が「東アジア

共同体」の構想を韓国や中国の人々に向かって語るためには,そのための政治的・文化的・歴史的な次元での

前提条件が,まず満たされる必要があると考える。ちなみに,近年日本で議論される「東アジア共同体」の構

築にあたり,「アジア通貨基金」「アジア投資銀行」などの提案が今日随所で見られるが,これらは,すでに安

重根の「東洋平和論」に含まれていた提案である。

(18)例えば,次の文献を参照。大矢吉之・古賀敬太・滝田豪編『EUと東アジア共同体』(萌書房,2006年)には,こうした立場に依拠した論考が少なくない。

(19)例えば,『環境共同体としての日中韓』(寺西俊一監修,東アジア環境情報発伝所編,集英社,2006年)。

(20)『東アジアの中の日本~環境・経済・文化の共生を求めて~』(東アジア共生研究会編,富山大学出版会,

2008年)。

(21)Cf. The New York Times, August 27, 2009. A New Path for Japan. By Yukio HATOYAMA.ちなみに,この論文で鳩山由紀夫代表(当時)は,市場原理主義による地域の人々の生活に対する影響を緩和するために,

フランス革命の「自由,平等,博愛」の「博愛(fraternit )」に対応する「友愛」の理念に立ち返るべきである,と主張した。だが,「友愛」という理念によって彼は,真の東アジアの安定と平和,そしてアジアにおけ

る日本の信頼回復の実現に資するための道筋と実行の方法を,まだ明らかに示してはいない。

(22)谷口誠著『東アジア共同体―経済統合のゆくえと日本―』(岩波書店,2004年)。

(23)同書,vvi. ちなみに,現代世界における国際的協力関係をグローバルな観点から考察する場合には,行動規範に即して,以下の3つのアプローチに整理可能である。第一は,リアリズム(realism)に基づく「主権国

文学部紀要 第 60号50

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家主義的アプローチ」,第二は,リベラリズム(liberalism)に基づく「国際協調主義的アプローチ」,第三は,コンストラクティヴィズム(constructivism)に基づく「地球統治主義的アプローチ」である。これらについては,鈴木佑司・後藤一美編著『グローバリゼーションとグローバルガバナンス』(法政大学出版局,2009年,

pp.18ff.)を参照。筆者の解釈では,安重根の「東洋平和論」の構想には,これら3つの観点が含まれている。ただし,この課題は,本稿では立ち入ることができないので,機会を改めて論じることにしたい。

(24)徐勝,黄盛彬,庵逧由香編『「韓流」のうち外 韓国文化力と東アジアの融合反応』(御茶の水書房,2007年)

を参照。この書物でも,随所で日本における「韓流」と「嫌韓流」との錯綜した関係が論じられており,同時

に「韓流」が一過性の「ブーム」として「消費の対象」になっていく傾向も指摘されている。

(25)小泉首相(当時)及びその後の日本政府の「東アジア共同体」の構想,ASEAN+3をめぐる諸問題には,鳩山新首相提案を含めて本稿では立ち入ることはできない。これらについての筆者の基本的見解は,本文で述

べたとおりである。なお,従来の日本政府の「東アジア共同体」の構想,ASEAN+3をめぐる諸問題については,滝田賢治編『東アジア共同体への道』(中央大学出版部,2006年)他,参照。

付記 本稿は,2009年 10月 26日と27日に韓国ソウル市で開催された国際学術会議(安重根・ハルビン学会[中

韓共同]主催)で筆者が口頭発表した内容に若干の加筆・修正したものである。この研究発表の機会を与えて下

さった,同学会の共同会長のお一人である李泰鎮・ソウル大学名誉教授・大韓民国学術院会員には,深甚の謝意

を表する。

なお,本論考は,2009年度科学研究費補助金(挑戦的萌芽研究)「東アジアのカント哲学及び平和論の現代的

意義の国際的共同研究」(課題番号:21652003)の研究成果に属する。

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Peace in East Asia and Perpetual Peace:The Ideals of Ahn Jung-Geun and Immanuel Kant

MAKINO Eiji

This study aims to elucidate on aspects of“Peace in East Asia”and“Perpetual Peace.”Ahn

Jun-Geun was the Korean independence activist who shot and killed Ito Hirobumi (Japan’s first

Resident-General of Korea). Ahn is considered a patriotic martyr in South Korea, and wrote

“On Peace in East Asia”― a treatise asserting the independence of Korea. Immanuel Kant was a

German philosopher, and was the author of“On Perpetual Peace.”

The present paper outlines a comparative study of these two peaceful thinkers. As research

on this subject has been strangely neglected by critics, the two philosophical concepts of world

peace are weighed and the points common to both are clarified. The investigation represents

research on the possibility of peace and the ongoing status of East Asia.

The study first considers Ahn Jun-Geun’s ideas of peace in“On Peace in East Asia,”which is

then followed by an examination of Immanuel Kant’s“On Perpetual Peace.”The final part eluci-

dates on the opinions of the two philosophers regarding the concept of world peace.

Keywords: Peace in East Asia, Perpetual Peace, Patriotism

文学部紀要 第 60号52