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43 GIS -理論と応用 Theory and Applications of GIS, 2009, Vol. 17, No.1, pp.43-52 【原著論文】 アジア地域における窒素酸化物の排出による 酸性雨の生態系への影響 山下 研・伊藤史子 Adverse effects of acid deposition on ecosystems by the emission of nitrogen oxides in Asia Ken YAMASHITA, Fumiko ITO Abstract: The purpose of this study is to estimate the adverse effects on ecosystems by the acid deposition of nitrogen oxides NOxin the Asian region. The source-receptor relationships of the model of long-range transportation, ATMOS-N, were used to calculate the wet/dry deposition of the nitrogen Nin Asia with the emission inventory, REAS. Critical loads of N deposition in Asia were calculated from the relationships between the critical load of sulfur Sand balance of N in and out using the data of critical load of S of RAINS-ASIA, the digital vegetation data of Global Land Cover Characteristics Database of USGS and the digital soil data of FAO Digital Soil Map of the World. In order to assess the environmental impact, the gaps between N deposition and critical load of N were calculated. Keywords: 酸性雨(acid deposition),窒素酸化物(nitrogen oxides),発生源インベントリ(emission inventory),生態系(ecosystem),臨界負荷量(critical load1.はじめに 欧州や北米では,1960 年代頃より,酸性雨による 森林の衰退や湖中の生物の消滅などの生態系に対す る深刻な影響が明らかになり,酸性雨等の観測体制 の整備や原因と結果を解析するシミュレーションモ デルの開発と併せて,原因となる大気汚染物質排出 量の削減等の対策が,国際条約・協定などの国際的 な枠組みが設立される中で行われてきている(環境 庁,1997).一方アジアでは,急速な経済成長によ る化石燃料の燃焼の増加に伴い,今後酸性雨の原因 となる二酸化硫黄,窒素酸化物などの大気汚染物質 排出量の増大が予想されており,その影響が深刻な ものとなる恐れがあることから,対策が急がれてい る. 欧州地域では,酸性雨などの越境大気汚染問題対 策のための議定書締結の過程において,その原因物 質である二酸化硫黄(SO 2 ),窒素酸化物(NOx),ア ンモニア,揮発性有機化合物(VOCs)などを費用効 果的に削減するための科学的根拠となる統合アセス メントモデルとして RAINS が使用された(Alcamo et al., 1990).このモデルは,i)原因物質の発生状況 を示す発生源インベントリ,ii)原因物質の化学変 化を含む長距離輸送と沈着,iii)生態系への影響評 価, iv)原因物質の排出削減方法とその費用,を統合 的に解析するためのツールである.アジアにおい ては,SO 2 に対する統合アセスメントモデルとして RAINS-ASIA が開発されているが(Downing et al., 1997),その他の物質については開発されていない. 山下:〒950 - 2144 新潟県新潟市西区曽和1182 ㈶日本環境衛生センター酸性雨研究センター Acid Deposition and Oxidant Research Center E-mail[email protected]

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GIS-理論と応用Theory and Applications of GIS, 2009, Vol. 17, No.1, pp.43-52

【原著論文】

アジア地域における窒素酸化物の排出による酸性雨の生態系への影響

山下 研・伊藤史子

Adverse effects of acid deposition on ecosystems by the emission of nitrogen oxides in Asia

Ken YAMASHITA, Fumiko ITO

Abstract: The purpose of this study is to estimate the adverse effects on ecosystems by

the acid deposition of nitrogen oxides (NOx) in the Asian region. The source-receptor

relationships of the model of long-range transportation, ATMOS-N, were used to calculate the

wet/dry deposition of the nitrogen (N) in Asia with the emission inventory, REAS. Critical

loads of N deposition in Asia were calculated from the relationships between the critical load

of sulfur (S) and balance of N in and out using the data of critical load of S of RAINS-ASIA, the

digital vegetation data of Global Land Cover Characteristics Database of USGS and the digital

soil data of FAO Digital Soil Map of the World. In order to assess the environmental impact, the

gaps between N deposition and critical load of N were calculated.

Keywords: 酸性雨(acid deposition),窒素酸化物(nitrogen oxides),発生源インベントリ(emission

inventory),生態系(ecosystem),臨界負荷量(critical load)

1.はじめに 欧州や北米では,1960年代頃より,酸性雨による森林の衰退や湖中の生物の消滅などの生態系に対する深刻な影響が明らかになり,酸性雨等の観測体制の整備や原因と結果を解析するシミュレーションモデルの開発と併せて,原因となる大気汚染物質排出量の削減等の対策が,国際条約・協定などの国際的な枠組みが設立される中で行われてきている(環境庁,1997).一方アジアでは,急速な経済成長による化石燃料の燃焼の増加に伴い,今後酸性雨の原因となる二酸化硫黄,窒素酸化物などの大気汚染物質排出量の増大が予想されており,その影響が深刻な

ものとなる恐れがあることから,対策が急がれている. 欧州地域では,酸性雨などの越境大気汚染問題対策のための議定書締結の過程において,その原因物質である二酸化硫黄(SO2),窒素酸化物(NOx),アンモニア,揮発性有機化合物(VOCs)などを費用効果的に削減するための科学的根拠となる統合アセスメントモデルとして RAINSが使用された(Alcamo

et al., 1990).このモデルは,i)原因物質の発生状況を示す発生源インベントリ,ii)原因物質の化学変化を含む長距離輸送と沈着,iii)生態系への影響評価,iv)原因物質の排出削減方法とその費用,を統合的に解析するためのツールである.アジアにおいては,SO2に対する統合アセスメントモデルとしてRAINS-ASIAが開発されているが(Downing et al.,

1997),その他の物質については開発されていない.

山下:〒950 -2144 新潟県新潟市西区曽和1182 ㈶日本環境衛生センター酸性雨研究センター Acid Deposition and Oxidant Research Center E-mail:[email protected]

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筆者らは NOxに関する統合アセスメントモデル開発の第一歩としてその枠組みを提案した(Yamashita

et al., 2007)が,その各ステップの詳細はまだ開発されていなかった. 本論文では,この NOxに関する統合アセスメントモデルの ii),iii)について,酸性物質の沈着量と生態系影響の将来推計を含む詳細な地域分布の算出を行い,アジアにおける統合アセスメントモデルの開発に資することを目的とする.以下,第2章でNOxの排出状況の地域分布を示し,第3章では拡散・長距離輸送された NOxの沈着量を計算する.第4章と第5章で酸性物質の沈着量の生態系影響が現れる閾値(臨界負荷量)の推定と超過量の推計を行い,最後に第6章でまとめを述べることとする.

2.窒素酸化物の発生状況 酸性雨の原因となる大気汚染物質等がどこからどれだけ排出されているかを表す発生源インベントリについては,これまでいくつかの研究成果が発表されているが,ここでは Regional Emission Inventory

in Asia :REAS(Ohara et al.,2007)の窒素酸化物(NOx)の2000年,2010年及び2020年の発生源インベントリを利用して,解析を行った. REASは緯度経度0 .5°×0 .5°のグリッド毎の,燃料の燃焼と産業活動による発生源からの SO2,NOx,一酸化炭素(CO),非メタン炭化水素(NMVOC),ブラックカーボン(BC),有機炭素(OC)の発生源インベントリであるが,本研究で使用した長距離輸送モデルは1°×1°のグリッドに対応したモデルなので,REASの NOxデータを1°×1°のグリッドデータに変換して使用した.また2010年,2020年の排出量予測は経済成長や汚染物質の排出規制によって大きく変化するが,REASでは中国に関して次の3つのシナリオが想定されて,計算されている.

1 . 対策強化型 : Policy Success Case (PSC)2 . 持続可能性追求型 : Reference Case (REF) 3 . 現状推移型 : Policy Failure Case (PFC)

 このうち,持続可能性追求型シナリオは,エネル

ギー節約,クリーンエネルギーへの転換,新エネルギー技術の穏やかな展開や新しい排出抑制技術に伴った抑制されたエネルギー消費による中程度の排出率の持続可能なシナリオとされている. 図1は,2000年,2010年及び2020年(PSC,REF,PFCシナリオ)の発生源インベントリである.2000

年から2020年にかけて,PFCシナリオでは特に中国東部と南部,日本の関東関西地域,東南アジアの大都市地域とインドの一部で排出量が増大することがわかる.しかし,PSCシナリオにおいては,2010 -

2020年にかけての増大は PFCシナリオに比べて顕著ではない.また2010年と2020年の図では,それぞれの年で PSC,REF,PFCシナリオの順に,排出量が増大していることが示されている.

3. 長距離輸送モデルによる酸性物質沈着量分布推計

 酸性雨と総称される酸性物質の地表への沈着は、雨等に含まれて降下してくる湿性沈着とガスやエアロゾルとして沈着する乾性沈着に分けられる.一旦排出された SO2,NOx,アンモニア等の物質は,湿性沈着或いは乾性沈着として地上に戻ってくるまでに,大気中を時には数千キロも輸送される.大気中での輸送の間には,複雑な化学的,光化学的過程が存在する.NOxは一酸化窒素(NO),二酸化窒素(NO2),硝酸(HNO3)として地上に到達する.長距離輸送モデルは排出源情報,気象情報,地理情報を入力データとして,大気中に排出された大気汚染物質が長距離輸送され,化学反応を経て到着地に沈着するまでを推定・予測するためのモデルである. ATMOS-N1)は,アジア地域において NOxが化学反応をしながら発生源から沈着地へと運ばれる長距離輸送をシミュレーションするモデルであり(Holloway et al.,2002),気象場としては1990年のアメリカ環境予測センター(NCEP)のデータを使用して、緯度1°×経度1°のグリッド毎に発生源 -沈着地関係(Source-receptor relationships: SRRs)が示されている.前章の発生源インベントリから,このATMOS-Nを用いて,アジア地域の Nの沈着量分布を推計し,図示した結果が図2である.

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 図2は湿性沈着量と乾性沈着量の合計であるが、ATMOS-Nでは地域全体としてはその比は概ね1:1

となっている.ここでは前述の3つのシナリオ別に年次変化の将来推計を行うため,ATMOS-Nの SRRs

及び REASとも年間値ベースでの結果を使用して年間総量を算出している 2).またガス状窒素酸化物の乾性沈着は直接測定による研究事例は少なく,特に東アジアにおいてはほとんど報告されていない(松田他,2007).しかし2000年4月から2001年3月まで蟠竜湖(島根県)と伊自良湖(岐阜県)においてNO3(硝酸)の湿性沈着量と乾性沈着量が測定されており(酸性雨対策検討会,2004),湿性・乾性沈着

量の合計値は蟠竜湖と伊自良湖でそれぞれ990eq/

ha/yrと1 ,010eq/ha/yrであった.図2で計算された2000年の蟠竜湖と伊自良湖が含まれるグリッドの窒素酸化物沈着量はそれぞれ533eq/ha/yrと553eq/ha/yrであり,図2の計算結果の方が小さい値となっている. 図2によると,PFCシナリオでは2000年から2020

年へと沈着量が増加していくが,PSCシナリオでは増加の割合が緩やかである.また図1と比較して,発生源の周囲にも沈着が拡がっていく様子が示されている.

図1 2000年,2010年,2020年の NOx 排出量(REAS(Ohara et al., 2007)データより作成)

2000 年 2010 年 2020 年

PFC

PSC

REF

PSC:対策強化型シナリオ REF:持続可能性追求型シナリオ PFC:現状推移型シナリオ

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4. 生態系への影響の推定:窒素酸化物の臨界 負荷量

 酸性雨の環境への影響には,i) 大気汚染物質の直接的な影響,ii) 土壌と地表水の酸性化,iii) 窒素循環の歪み,に分けられる.酸性物質沈着の臨界負荷量とは,ii)について,それ以上の酸性物質の沈着があると生態系に悪影響が現れるとされる境界値のことであり,地形・土壌・生態系の特質によって定まるので地域毎に異なる値となる.臨界負荷量は,その地域の土壌が酸性化している度合いを示しているものではなく,土壌の緩衝能力の限界を示して

いる.例えば,低い臨界負荷量の地域は,他の地域に比べて早く土壌の緩衝能力を使い果たし,酸性化する高い危険性があるということを意味している.RAINS-ASIAは,アジアの硫黄酸化物による酸性雨の生態系への影響と,その対策として二酸化硫黄の排出削減費用を解析する統合アセスメントモデルであるが,筆者らは RAINS-ASIAで計算された硫黄酸化物の臨界負荷量マップから,アジアにおける窒素酸化物の臨界負荷量マップを作成する方法の概略を示した(Yamashita et al.,2007).本章ではさらに植生と土壌のデジタルデータを利用して,臨界負荷量

図2 2000年,2010年,2020年の窒素沈着量(REAS(Ohara et al., 2007))データ及び

ATMOS-N(Holloway et al., 2002)の SRRs より算出した値をもとに作成)

2000 年 2010 年 2020 年

PFC

PSC

PSC:対策強化型シナリオ REF:持続可能性追求型シナリオ PFC:現状推移型シナリオ

REF

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分布の地域毎の詳細を算出する.

4.1.窒素酸化物沈着の臨界負荷量の計算 硫黄沈着の臨界負荷量(CLmax(S))と窒素沈着の臨界負荷量(CL(N))の間には,式(1)~(3)で示される関係がある(Posch et al., 1995).

CLmax(N)=CLmin(N)+CLmax(S)/(1-fde) (1)CLmin(N)=Nu+Ni (2)CLnut(N)=Nu+Ni+Nle(crit)/(1-fde) (3)

ここで,Nu:植物による正味窒素吸収量(Nu(net))Ni:腐食などの安定な有機物としての窒素の長期的な不動化量CLmin(N) :窒素に対する最小臨界負荷量CLmax(N) :窒素に対する最大臨界負荷量CLnut(N) :窒素の富栄養化に対する臨界負荷量CLmax(S) : 硫黄に対する最大臨界負荷量

(RAINS-ASIA)Nle(crit) :窒素の臨界浸出量 3)

fde :脱窒係数(0~1)

 一般に貧栄養で酸性的な環境(例:高層湿原)では,大気からの窒素負荷は酸性化よりも富栄養化において重要な影響を及ぼすと推定される.しかし,アジアにおける窒素の臨界浸出量(Nle(crit))の推定に関する情報が少ないことから,本研究では窒素負荷の酸性化の側面のみを考慮することとし,(3)式の窒素の富栄養化に対する臨界負荷量(CLnut(N))は扱わないこととした.富栄養化の影響については,対象となる地域の特性によって大きく異なることなどから東アジアでは研究が進んでおらず,詳細な調査研究は今後の検討課題である. CLmax(N)と CLmin(N)を求めるが,CLmin(N)を求めるためには(2)式より Nu+Niが必要であり,CLmax

(N)を求めるためには(1)式より CLmin(N),fde及びCLmax(S)が必要である.以下の4 .2では植生データより Nuと Niを,4 .3では土壌データより fdeを算出する.

4.2.植生データによる窒素バランスの推定  Nuと Niについては,RAINS-ASIA PhaseII(Shindo

et al.,2000)より,主に日本国内の植生データを以下の森林分類毎に平均したものを使用した.欧州では,Niは2~5kg/ha/yr (Posch et al.,1995)としているが,アジアでは同様な情報は見当たらないので,日本での計算例(林他,2003)を参考にして,欧州の最低値2kg/ha/yrを採用した.また,Nu(total)-リター量 4)=Nu(net)の関係より,リターについても森林分類毎の平均値(Shindo et al.,2000)を使用した.結果を表1に示す 5).ここで,森林分類は次のとおりである.EB(Evergreen broad-leaved forest):常緑広葉樹DB(Deciduous broad-leaved forest):落葉広葉樹EN(Evergreen needle-leaved forest):常緑針葉樹DN(Deciduous needle-leaved forest):落葉針葉樹

表1 森林分類毎の窒素吸収量(Nu),リター及び不動化量(Ni)

窒素収支

森林分類 N

u

(tota

l

(kg/h

a/yr

Litte

r(kg

/ha/

yr

)N

u

(net

(kg/h

a/yr

Ni (kg

/ha/

yr

Nu

(net

)+Ni

(kg/h

a/yr

EB 103 .7 71 .0 32 .7 2 .0 34 .7DB 77 .8 54 .0 23 .8 2 .0 25 .8EN 44 .0 33 .8 10 .2 2 .0 12 .2DN 108 .5 - 7 .4 2 .0 9 .4平均 83 .5 (52 .9) 18 .5 2 .0 20 .5

 アメリカ地質調査所(USGS)では,1km×1km

の解像度で世界の植生デジタルデータ(GLCC)がいくつか用意されている 6).これらのうち最も区分の単純な Vegetation Lifeforms(VL)(Running et

al., 1994)を使用して,1°×1°の各グリッドにおける植生区分の最頻値を求め,それを図示したのが図3

である.図3から,日本では常緑針葉樹が主な植生であることや,東南アジアでは常緑広葉樹が主な植生であり,中国では様々な植生が見られるが1年生草地がかなりの面積を占めていることなどがわかる.ここで,VLの植生の区分分類コード 7)は1~7

まであるが,表1の森林分類にそれぞれ表2のように対応させ,Nu+Niの値を決定した.

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表2 VL と森林分類(表1)の対応

VL 1 2 3 4 5,6,7森林分類 EN EB DN DB -Nu(net)+Ni(kg/ha/yr) 12 .2 34 .7 9 .4 25 .8 2 .0

4.3.土壌データを利用した脱窒係数の推定 fde(脱窒係数)は,欧州では土壌型ごとに固定値として設定している例が多い(Posch et al.,1995他).本研究では,(1)式の fdeを決定するために,欧州と日本での研究例を参考にして,国連食糧農業機関(FAO)の The Digital Soil Map of the World(FAO/UNESCO,

2003)を利用して,各グリッド毎に最も面積の大きい土壌の型をそのグリッドの土壌型とした. この結果を表示したものが図4である.ここでは,土壌の最上位の分類型(表3に示す26型)で色分けを行っている(例えば Af:鉄質アクリソル,Ah:湿潤アクリソルは A:アクリソルにまとめて分類している). 図4を見ると,北日本ではリソゾル,西日本ではアクリソルが主な土壌型であり,中国の南部から東南アジアにかけてもアクリソルが多いが,中国の北部はリソゾルに加えて様々な土壌型が混在している.インド近辺はヴァーティソルやルビソルなどの土壌型が混在する様子がわかる. ここで,参考文献(林他,2003)等から,fdeについて表3のとおり,湿潤な種類の土壌については0 .5,そうでない土壌については0 .1と決める.

4.4.窒素の最大臨界負荷量の計算 RAINS-ASIAでは,アジア地域の1°×1°のグリッド毎の CLmax(S)が作成されており(Hettelingh et

al., 1995),対象とするグリッドの生態系の何パーセントがダメージを受けるかによって数値が異なっている.各グリッドの中には CLmax(S)の値に影響を及ぼす植生,土壌型その他の多くのファクターが存在するが,ここでは25%値(25%の生態系がダメージを受ける,すなわち75%の生態系を保護)を使用した.前2節では各グリッド毎に Nu+Niの値と fde

の値を決定したので,(1)式により,各グリッド毎の CLmax(N)が計算できる(図5).図5より,中国南東部,インドシナ半島,マレー半島などで,臨界負荷量が小さい,すなわち窒素の沈着に対して感受性が高い地域が存在することがわかる.

図3 アジアの植生分類 図5 窒素の臨界負荷量マップ

図4 アジアの土壌分類

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5.生態系への影響:窒素(N)の超過沈着量 臨界負荷量を超過した S(硫黄)と N(窒素)の沈着量(以下「超過沈着量」:Ex)の関係は,次のように表すことができる.

Ex(S+N)=Sdep+Ndep-CL(S+N) (4)

ここで、Ex(S+N):臨界負荷量を超過した Sと Nの沈着量Sdep:Sの沈着量Ndep:Nの沈着量CL(S+N):Sと Nの臨界負荷量

 図6では,(4)式の Ex≦0となる領域がハッチングされて表されている.Sdepと Ndepの値の組合せがこの領域内にあるとき(E0),生態系への影響はない.本研究では,Sdep >CLmax(S)の場合は NdepのCLmin(N)までの削減量(E2⇒ E2 '),Sdep≦ CLmax

(S)の場合は Ndepの Ex≦0の領域までの削減量(E1⇒ E1 ')を臨界負荷量からの超過量とする(E1,E2からの Sdepの削減(E1⇒ E1 '',E1 ''',E2⇒ E2 '')は考慮しない).ここで,Sdepは RAINS-ASIAで計算した値を使用した(SO2の発生源インベントリシナリオ:Base line,current emission and fuel standards

in all countries).

 2章で計算された各グリッド毎の Nの沈着量が,4 .4で設定された各グリッド毎の臨界負荷量を越えていれば,生態系に影響が出ることになる.窒素沈着の臨界負荷量からの超過量を計算した結果を図7

に示す.PFCシナリオでは中国南東部,朝鮮半島,東南アジア及びインドの一部等で Nの沈着量が臨界負荷量を超過している地域とその超過量が年を追うごとに増加するのが明らかであるが,REFシナリオではその増加がより穏やかであり,PSCシナリオでは2010年から2020年への地域的な拡がりは顕著ではない.いずれの年,シナリオにおいても,中国における超過地域と超過量が最も多いことがわかるが,これは窒素酸化物の排出量に関係して沈着量が多いことと,臨界負荷量がそれに比べて低い地域が多いことが理由である. なお,図8は図1,2,7のそれぞれ NOx排出量,窒素の沈着量,窒素の臨界負荷量に対する超過沈着量を対象領域全体で積算した結果である.2010年,2020年と排出量の増加とそれに伴う沈着量の増加に従って臨界負荷量を超過する窒素酸化物の量が増加し,生態系への負荷が高まっている.特に2020年においては,PFCシナリオと PSCシナリオを比較すると,臨界負荷量を超過する窒素酸化物の量は約3倍程度の差が生じている.

表3 土壌型分類別の脱窒率(fde)

fde=0 .5 fde=0 .1

シンボル 土壌型 シンボル 土壌型C CHERNOZEM A ACRISOL

D PODZOLUVISOL B CAMBISOL

E RENDZINA I LITHOSOL

F FERRALSOL N NITOSOL

G GLEYSOL Q ARENOSOL

H PHAEOZEM R REGOSOL

J FLUVISOL S SOLONETZ

K KASTANOZEM T ANDOSOL

L LUVISOL U RANKERT

M GRYZEM V VERTISOL

O HISTOSOL X XEROSOL

P PODZOL Y YERMOSOL

W PLANOSOL Z SOLONCHAK

0

0 100 200 300 400 500 600

100

200

300

400

500

CLmax(S)

CLmin(N) CLmax(N)

Sdep

Ndep

E1

E2E2'

E1'

E2''

E1''E1'''

E0

図6 N と S の沈着量と臨界負荷量の関係

(Posch et. al.,1995より作成)

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6.まとめ 本稿では,2000年から2020年までのアジア地域における窒素酸化物の排出・沈着により生態系への影響がどのように変化するかを,GISを用いて解析を行った.本研究の結果により,窒素酸化物排出が増加するに従って,生態系への影響が現れる地域が増大していき,有効な対策が取られない場合のシナリオでは,さらに生態系への影響が現れる地域が広がることがわかった.また地域の特性によって,影響が表れやすい地域とそうでない地域の分布が,明らかにされた.今後は,気象条件等の将来予測を含むより精密な輸送モデルの結果による分析,硫黄酸化物などの酸性物質全体と窒素による富栄養化を含

2000 年 2010 年 2020 年

PFC

PSC

REF

PSC:対策強化型シナリオ REF:持続可能性追求型シナリオ PFC:現状維持型シナリオ

図7 2000年,2010年,2020年の窒素酸化物の臨界負荷量に対する超過沈着量

図8  シナリオ別の地域全体の NOx 排出量,窒素酸化物

沈着量及び臨界負荷量を超過した窒素酸化物沈着量

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めた解析,解像度の精緻化などと併せて,原因物質の削減を視野に入れた検討が課題である.同時に,容易ではないこれらの科学的な課題を克服することは,アジア地域の酸性雨等の地球環境問題の解決の確かな第一歩となるものと思われる. 欧州では,臨界負荷量を利用した統合アセスメントモデル(RAINS)が,長距離越境大気汚染条約に基づく排出規制の科学的根拠となっており,さらに最近では,地球温暖化ガスも含めたモデル(GAINS)が開発されている.アジアでは,酸性雨問題に対処するために,東アジア酸性雨モニタリングネットワーク (Acid Deposition Monitoring Network in East Asia:

EANET)の活動が1998年から開始され,必要な対策への第一歩として,東アジアの酸性沈着及び生態系への影響のモニタリングを実施してきている 8).アジア地域でも有効な対策を早急に実施するために,統合アセスメントモデルの開発・利用が望まれるが,本研究がその一助となれば幸いである.

謝辞 本研究をおこなうにあたり,国立環境研究所大原利眞研究室長,ウィスコンシン大学 Tracey

Holloway教授からはそれぞれ発生源インベントリデータ(REAS)と長距離輸送モデル(ATMOS-N)の計算結果を提供いただいた.農業環境技術研究所林健太郎主任研究員からは臨界負荷量について,㈱中央グループ GIS事業部からは GISの利用について重要な示唆をいただいた.また新潟大学芹澤伸子教授からは貴重なコメントをいただいた.ここに謹んで感謝の意を表します.なお,本研究は平成18年度住友財団環境研究助成金の交付を受けた.

注1) ATMOS-Nの元になったモデルの ATMOSの

フルネームは、“Atmospheric Transport and

Deposition”2) 年内の季節変動については SRRsに関する月別値等の詳細な時系列データを入手することにより推定が可能となろう(REASには年内の時間変動のデータはない).例えば東南アジアでは

湿性沈着量は雨季には多く乾季には少ないこと、季節により偏西風の影響が強く現れる地域があることなどの詳細な状況が表現できると考えられる.

3) 生態系に影響を及ぼさないと考えられる最大の窒素浸出量

4) 植物の葉などが地面に落ちる量.一旦植物によって取り込まれた窒素等は,リターによって地表に戻る.

5) EBはEBとEBN(Natural evergreen broad-leaved

forest)を,DB は DB,DBN(Natural deciduous

broad-leaved forest),DBS(Substitutional

deciduous broad-leaved forest)を,ENは ENとENP(Planted evergreen needle-leaved forest)を合わせた分類とした.また DNのリターのデータはなかったので,EBと DBの比を ENにかけたものを DNの Nuの値とした.

6) USGS GLCCの web-site

http://edc 2 .usgs.gov/glcc/glcc.php

7) 1:常緑針葉樹,2:常緑広葉樹,3:落葉針葉樹,4:落葉広葉樹,5:1年生広葉植物,6:1年生草地,7:植物のない土地,8:水

8) EANETの web-site

http://www.eanet.cc/jpn/index.html

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(2008年7月9日原稿受理,2009年2月20日採用決定,2009年4月27日デジタルライブラリ掲載)