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1 蜜陽、山の闘い:現地レポート【1】―原発送電塔建設反対 一兵 2014.5.14 しかし韓国政府と韓電は、戦闘警察など の公権力とそして「雇」動員 し、罵や侮辱そして力にって工事 強行してい。反対す住民には、「補償 金」と称したお金(こまで韓国の公共事業 では個人補償は認めていない)で買収 もくむ。そでも抵抗す住民には、息 子やなどに脅迫や懐柔強い。またあ いは韓電が強制収容した工事予定地に (元々はの住民の土地なのに)「不侵 入」したという口実で住民たち起訴告 発し、反対運動に対して工事の中断や害 口実に損害賠償請求す。 こうして政府と韓電かの圧力が強ま 中でも、蜜陽のの住民たちは9年にたっ て工事反対闘ってきた。建設反対運動 闘う中で蜜陽のの住民たちは、①世 規模の送電塔建設中断②型発電所 建設ではなく節電技術導入③中心 とした再政策の確立など 求めて。 しかし2012年1にはにす 故(75歳)が焚身自殺 し、2013年12にもにす 故(74歳)が農薬 で自殺し、また2014年2には韓 電の工事作業者が墜落事故で死亡すと いう悲劇が起こってしまった。人々の関 心が薄いでいく中で、韓国政府と韓電 に送電塔工事は着々と進み、だだ と蜜陽のの住民たちは孤立させ てい。 目次 目次 目次 目次蜜陽、山の闘い 【1】 p1 【2】 p3 先住民と開発―北ルソ ンの旅 阿川 p4 鉱山開発への抵抗 陳伊品 p5 山の旅 William Todcor p6 森林破壊と機栽培 戴佩如 p8 追 悼 : ぺ p10 ▼追悼:Lubi Nabu p12 蘭嶼:核廃料との闘い 古川ちかし p17 僕ちゃ内閣との対話 になない対話 山さたね p19 ■南韓 p22 抵抗と連帯 吉藍 p22 つながっていくこと 上前万子 p24 人民の抵抗 Obing Lubi p27 江汀平和: 台湾に突き付け難 阿川 p33 釜山の民主と日の平 和憲 山さたね p34 75年前の部落に戻た い:部の闘い Awil Kazuo p36 お知らせ △バザーにご協力ありが とうございました p11 △5-7の動 p21 △こかの動 p21 △編集後記 p36 台灣東亞歷史資源交流協會 台灣東亞歷史資源交流協會 台灣東亞歷史資源交流協會 台灣東亞歷史資源交流協會 會刊 會刊 會刊 會刊 歴史資源流協 歴史資源流協 歴史資源流協 歴史資源流協 East Asia Popular History Exchange, Taiwan (EAPHET) East Asia Popular History Exchange, Taiwan (EAPHET) East Asia Popular History Exchange, Taiwan (EAPHET) East Asia Popular History Exchange, Taiwan (EAPHET) [email protected] Tel/Fax:886-4-23145592 台灣台中市西屯區何厝街1125http://eaphet.myweb.hinet.net No.19 日文版 日文版 日文版 日文版 2014/8/11 1 韓国慶尚南道の蜜陽()は陽光 と山峰が豊かなだ。新芽が鮮やかな 山々の林道ぼこぼこと登っていくと 「76万5千送電塔、絶対反対」 「送電塔は自然も人も破壊す」とか た垂幕と看が顔出す。蜜陽の の住民たちが送電塔の工事反対闘って い現場だ。 4下旬に私は蜜陽の山小屋に3日間寝 ました。工事反対運動闘う たちがう城す山小屋では、公権力 に強制執行がいつまのか極度の緊張 が続く日々だった。 2005年に韓国政府と韓国電力(以下、韓電) は、蜜陽におけ送電塔工事計発表す 。韓国南部の釜山市機張郡に位置す新 原子力発電所か都圏まで電気 輸送す目的で、新原発か北慶南電 所までの総90.5kmの間に161箇所の送電塔 建設す計だ。釜山市機張郡や隣接す 慶尚南道梁山市などには109箇所の送電 塔既に建設みであ、蜜陽市には 世規模76万5千の送電塔 含む64箇所の送電塔工事が予定さて い。韓国政府と韓電は土地の強制収 進めたが、蜜陽の々では70、80 代のたちやたちが中 心となって送電塔工事への反対闘っ てきた。 密陽送電塔関連記事はp22以降の南韓関 連記事にもあますので、ご覧ください。

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Eaphet Newsletter No.19 日文版

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蜜陽、山の闘い:現地レポート【1】―原発送電塔建設反対 一兵 2014.5.14

しかし韓国政府と韓電は、戦闘警察など

の公権力とそして「雇われヤクザ」を動員

し、罵りや侮辱そして暴力によって工事を

強行している。反対する住民には、「補償

金」と称したお金(これまで韓国の公共事業

では個人補償は認められていない)で買収を

もくろむ。それでも抵抗する住民には、息

子や娘などに脅迫や懐柔を強いる。またあ

るいは韓電が強制収容した工事予定地に

(元々は村の住民の土地なのに)「不法侵

入」したという口実で住民たちを起訴・告

発し、反対運動に対して工事の中断や妨害

を口実に損害賠償を請求する。

こうして政府と韓電からの圧力が強まる

中でも、蜜陽の村の住民たちは9年にわたっ

て工事反対を闘ってきた。建設反対運動を

闘う中で蜜陽の村の住民たちは、①世界最

大規模の送電塔建設を中断②大型発電所

建設ではなく節電技術を導入③村を中心

とした再生エネルギー政策の確立などを

求めてる。

しかし2012年1月にはボラ村に暮らす

故イ・チウ(75歳)ハラボジが焚身自殺

し、2013年12月にもコジョン村に暮らす

故ユ・ハンスック(74歳)ハラボジが農薬

を飲んで自殺し、また2014年2月には韓

電の工事作業者が墜落事故で死亡すると

いう悲劇が起こってしまった。人々の関

心が薄らいでいく中で、韓国政府と韓電

による送電塔工事は着々と進み、だんだ

んと蜜陽の村の住民たちは孤立させられ

ている。

<<<<目次目次目次目次>>>>

■蜜陽、山の闘い【1】 p1

【2】 p3

■先住民と開発―北ルソ

ンの旅 阿川 p4

□鉱山開発への抵抗

陳伊品 p5

□キリキリ山の旅

William Todcor p6

□森林破壊と有機栽培

戴佩如 p8

▼追悼:ぺ・チュンヒ

ハルモニ p10

▼追悼:Lubi Nabu p12

◆蘭嶼:核廃料との闘い

古川ちかし p17

◆僕ちゃん内閣との対話

にならない対話

村山さたね p19

■南韓ツアー p22

□抵抗と連帯

吉田藍 p22

□つながっていくこと

上前万由子 p24

□人民の抵抗

Obing Lubi p27

◆江汀村平和キャンプ:

台湾に突き付けられる難

問 阿川 p33

◆釜山の民主と日本の平

和憲法 村山さたね p34

◆75年前の部落に戻りた

い:東部ブヌンの闘い

Awil Kazuo p36

お知らせ

△バザーにご協力ありが

とうございました p11

△5-7月の活動 p21

△これからの活動 p21

△編集後記 p36

台灣東亞歷史資源交流協會台灣東亞歷史資源交流協會台灣東亞歷史資源交流協會台灣東亞歷史資源交流協會 會刊會刊會刊會刊

東東東東アジアアジアアジアアジア歴史資源交流協会歴史資源交流協会歴史資源交流協会歴史資源交流協会ニューズレターニューズレターニューズレターニューズレター

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No.19 日文版日文版日文版日文版

2014/8/11

1

韓国慶尚南道の蜜陽(ミリャン)は陽光

と山峰が豊かな村だ。新芽が鮮やかな

山々の林道をぼこぼこと登っていくと

「76万5千ボルト送電塔、絶対反対」

「送電塔は自然も人も破壊する」と書か

れた垂れ幕と看板が顔を出す。蜜陽の村

の住民たちが送電塔の工事反対を闘って

いる現場だ。

4月下旬に私は蜜陽の山小屋に3日間寝

泊まりした。工事反対運動を闘うハルモ

ニたちがろう城する山小屋では、公権力

による強制執行がいつ始まるのか極度の緊張

が続く日々だった。

2005年に韓国政府と韓国電力(以下、韓電)

は、蜜陽における送電塔工事計画を発表す

る。韓国南部の釜山市機張郡に位置する新コ

リ原子力発電所からソウル首都圏まで電気を

輸送する目的で、新コリ原発から北慶南変電

所までの総90.5kmの間に161箇所の送電塔

を建設する計画だ。釜山市機張郡や隣接する

慶尚南道梁山市などには109箇所の送電

塔を既に建設済みであり、蜜陽市には

世界最大規模76万5千ボルトの送電塔を

含む64箇所の送電塔工事が予定されて

いる。韓国政府と韓電は土地の強制収

用を進めたが、蜜陽の村々では70、80

代のハルモニたちやハラボジたちが中

心となって送電塔工事への反対を闘っ

てきた。

密陽送電塔関連記事はp22以降の南韓ツアー関

連記事にもありますので、ご覧ください。

Page 2: Nl19Nnet

2

密陽:山の闘い【1】

3月末には韓電から通知書が送られてきた。公権

力による山小屋の強制撤去を告げる内容だ。私が訪

れた山小屋のハルモニたちも強制執行がいつ始まる

蜜陽の府北面(ブブックミョン)では現在6か所の

地点がまだ工事されずに残っていて、その内4か所

の地点に支援者がこしらえた山小屋にろう城し寝泊

まりしながらハルモニたちが闘っている。ハルモニ

たちは送電塔の工事地点を韓電の建設計画に合わせ

て番号で呼ぶ。127番の山小屋には二人のハルモニ

たちが寝泊まりし闘っていた。

127番の山小屋は急斜面の上にそびえ建ってい

る。ビニールハウスで造られた山小屋は、パワー

ショベルで掘ったお堀りと鉄条網で周囲を囲まれ、

工事作業員や警察が強制執行する際にはハルモニた

ちが立てこもって籠城するそうだ。山小屋の中には

オンドルや冷蔵庫、外には簡易トイレなど長期にお

よぶ闘いに備えて何でも揃っている。支援者からの

ラーメンやお菓子などが山積みになっていた。電気

は山の麓の協力者の家から引いてきて、水は他の地

点から運んでくる。

山小屋に居ると、上空をヘリコプターが飛び交

う。韓電が工事資材をヘリコプターで運搬し工事を

進めているためだ。韓電の工事関係者は林道を避け

て山の斜面をよじ登ってくるという。反対する住民

たちを警戒しつつも常に監視しているのだ。既に建

設されてしまった隣の地点には94mをこえる送電塔

のかと常に緊張した状態だった。食事や睡眠の間で

も山の林道を車が登る音や人の話す声などが聞こえ

ると(もしくは聞こえたような気がしても)韓電が来

たのではないかと、ハルモニたちは外に飛び出して

山に目を凝らし耳を澄ませる。山の登山客を韓電の

関係者ではないかと詰問する場面もあった。また村

ではある村人が700万ウォンを賠償に受け取ったと

か、色々と噂が絶えない。これまで反対運動に顔を

出していた村人がある日から来なくなり何故最近来

ないのかと誘うと、実は韓電から金を受け取ったと

声を細めて吐露したという。ある村人はこうつぶや

く。「(最近は)連帯者が増えてうれしいが、村の人

たちが来ないと・・・」 反対運動が長期化する中で、

地元住民たちは疲れきっているのだ。疑心と不安が

住民たちを蝕んでいる。

が見える。あれが76万5千ボルトの送電塔だそう

だ。

トクチョンハルモニは、毎日山小屋に寝泊まり

するのでなかなか家に帰る日がない。「家に帰って

も食べるものも何もない」と冗談を言うほど、山の

闘いが「日常」になってしまった。ハルモニが家に

久々に戻るというので、畑で唐辛子の苗植えを手

伝った。畑仕事をしながらとつとつと話す。「ハル

モニが山から降りたら、韓電が村にお金を出す」と

村の人たちが噂している。村の発展のためにも反対

運動を辞めて山を降りてほしいとの圧力があるそう

だ。この間は韓電から息子に電話がかかってきた。

息子は山に立て篭もって闘う高齢の母を心配してい

るそうだ。「息子が大学に通っていた頃は『学生運

動になんか絶対に行くな』と心配してたのに、そん

な私がこの歳になって反対運動をすることになった

(笑)。この闘いは命にかかわる闘いなんだよ。」普

段大人しいトクチョンハルモニの信念はたくまし

い。

山小屋に帰って夕食のあと、ヒョンプンデクハ

ルモニも帰ってきた。ハルモニは山小屋に寝泊まり

する連帯者に食事をふるまい、支援者たちが訪問す

ると熱く語りかけ、毎日がなにかと忙しい。「勝て

なくてもいいんだ。最後までやり抜くことが大事な

んだ。」とハルモニは気強く語る。しかしどこか疲

れた眼差しをする面も垣間みえる。

溜まった用事を済ませるために家に寄ってきた

ヒョンプンデクハルモニに、支援者が髪を切って綺

麗になりましたねと褒めた。ハルモニは笑いながら

「どうして分かったんだい。久々に髪を洗ったんだ

よ。」と答える。山の闘いが続く中で、髪を洗うの

も久しいことになってしまった。山の闘いは、未だ

終わりが見えない。(了)

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密陽:山の闘い【2】

蜜陽、山の闘い:現地レポート【2】―原発送電塔建設反対 阿川 2014.7.10

息子が学生運動してたときには私が電話かけて、

そんなことしてないでちゃんと勉強しなきゃだめだ

よなんて言ったもんだけど、今度は私がこの歳で

(80いくつだろうか、聞かなかったけれど)反対運

動してたら息子が電話かけてきて「母さん、いい歳

してそんなことよしな」なんていわれてね。まった

く人生面白いねえ。―ミリャン(蜜陽)のトクチョ

ン・ハルモニはほんとに面白そうにそう語る。6月

11日の行政代執行のときには、体を引き剥がされな

いように巻きつけた針金であやうく身体を引きちぎ

られるところだった。まだ痣が消えない。6月11日

まで9ヶ月間、ずっと山の上の抵抗小屋に住み、と

きおり下りてきては家の畑仕事をする、そんな毎日

だった。山の抵抗小屋は撤去されてしまった。下に

いても、ちょっとうとうとして寝覚めたときなど、

ああ、山へ行かなくちゃと焦る。支援の若いものた

ちに、すぐ上へ連れてって、と電話する。「ハルモ

ニ、上の小屋はもうないんだよ」といわれて、唖然

とする。そんな状態が続いている。

われわれは、現地レポート①を書いてくれた一兵

さんに連れられて7月5日にミリャンを訪れ、まずト

クチョン・ハルモニと出会ったのだ。6月11日の代

執行で、抵抗小屋はすべてなくなった。韓電はすべ

ての送電塔予定地を確保。まだ建っていないものも

多いが、土地は確保され、夜も見張りを立てて警戒

している。「私たちはまた始める」それが今の抵抗

運動のスローガンだ。土地を全部確保されたからっ

て何だ、私たちは負けちゃいない、また運動、はじ

めるからね…そういう意味だ。「送電塔なんか引っ

こ抜いてやる」と豪語するのはオクソン・ハルモニ

だ。ハルモニは代執行のときには裸になって「私た

ちは何も隠すものもなし、悪いことはしていない」

と抵抗した。

あんな鉄塔を建てられたけれど、私たちの心に鉄

塔が建ったわけじゃない、あんなものはいずれなく

なる…コジョン村の決起集会「私たちはまた始め

る」で挨拶にたった同村の理事長は村民にこう語っ

た。

われわれ一行は5日の晩は、一人のハルモニの家

に泊めてもらい、翌日、古里原発へと向かった。泊

まった晩は多くの支援者たちと宴会になり、遅くま

で話した。ときおり外に出ると、128番(鉄塔の番

号)の建設予定地が木が剥ぎ取られ、そこだけス

ポットライトがあてられ(警備のため)、山の中腹

に浮かび上がっている光景にどうしても目がいって

しまう。

私たちはまた始める。具体策はないようにも見え

るが、抵抗はやめない。嘆いていても事態は悪くな

るだけだ。70, 80の老人たちがあきらめない。若い

ものたちが引っ張られていく。ハルモニたちがひっ

ぱっていく。ハラボジたちが引っ張られていく。台

湾で人々の反対が核四を工事停止に追い込んだ事実

が、彼らにちょっとでも希望を与えられたかもしれ

ない。事情が違いすぎるのでピンとこなかったかも

しれない。台湾の人々にもミリャンの闘いを知って

ほしいと思った。(了)

トクチョン・ハルモニ(左端)

ハン・オクソン・ハルモニ (右端)

私たちはまた始める:コジョン村での集会(一兵、阿川)

密陽送電塔関連記事はp22以降の南韓ツアー関連記事にもあ

りますので、ご覧ください。

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先住民と開発―北ルソンの旅

性を求めて学校に行き、そ

ういう人たちがまた「開

発」を引っ提げて自分の故

郷を荒廃させていく…それ

でも、そういう流れに「適

応」しなくては生きていけ

ない。

―適応って、どういうこと?それおかしんじゃない

か、抵抗しなくちゃいけないんじゃないか。

―負けました、降参でーすってことじゃないです

よ。ある程度受け入れなければ交渉もできないで

しょ、適応する部分がなければポッキリ折れちゃう

でしょ。適応って、つまりは「生きる」って意味。

―心をある程度飼いならされて、売れる専門性を学

校行って身につけても、それを逆に開発への抵抗に

使える部分もある。そこに突破口があるんだよ。何

もかも否定しても、どこにも行きつかない。

なくない。自治を、いや独立を勝ち取るのだと主張

して徹底抗戦する構えの人たちもいる。イゴロット

の中にはまた、自治区もいらない、政府に協力して

平地に同化しようという勢力も(特に富裕層には)

大きい。

ベティの抵抗は一つの成果を上げた。フィリピン

が去年から12年一貫教育に以降。これを機に各地の

教育は最初の三年間は「母語」が基本となり、地域

の伝統的な知識が優先されるように様変わりをした

という。ベティたちだけの成果ではもちろんないだ

ろうが、彼女たちが10年近く努力して積み上げた地

元の歴史、地元の知識の文書化、記録が役立ったこ

とは確かだ。平地の経済や知識も受け入れながら、

自分たちのものを作り上げる地道な努力が政府にも

通じた、と言えるのかもしれない。彼女たちにとっ

ての持続可能な抵抗の道がどっちに伸びているか、

少しだけかもしれないが見えてきた。

若きイバロイ・イゴロットも30歳に

なった。10年間、一人になっても活動を

続けてきた30歳の言葉。

―大きなことをやろうとして失敗してそ

の失敗体験を残すより、小さくてもい

い、何かを成し遂げた(抵抗した)成果

を次世代に残すことが大事。目標を絞っ

て攻める。

もちろんイゴロットの抵抗運動は一枚岩ではな

い。最近、フィリピン政府はずっと非合法化され

てきたフィリピン共産党の「新人民軍New Peo-

ple’s Army:NPA」と和解したというニュースが

流れた。NPAが拠点としてきた北ルソンの山の中に

は、し か し Cordillera People’s Liberation

Army: CPLAが今でも武装闘争を掲げて政府と和解

するNPAと決別した。山の中にはCPLAのシンパも少

次頁から①鉱山開発への抵抗運動と、②換金作物

中心の乱開発的な農業への「持続可能」農業からの

抵抗運動、この二つについてツアー参加者が報告す

る。(了)

【おまけ】ツアー中に、330(3月30日)を迎えたた

め、マニラで台湾の「ひまわり学生運動」への連帯

示威活動を(きわめて小規模ではあったけれど)

行った。台湾では政府暴走による乱開発、市場開放

への大きな抵抗運動が3月18日に巻き起こり、学生

たちが立法院(国会)の建物を占拠した。占拠は24

日間続いたが、12日目の3月30日には周辺を50万~

70万人の市民が取り囲み、政府に抗議する活動が行

われた。1986年のエドサ革命に準じる市民の動員数

だった。フィリピンでも台湾でも、日本でも北ルソ

ンでも、闘う相手は開発独裁(新自由主義政権)と

いう点では共通している。

Eaphetでは2014年4月、コルディリエラ・グリー

ン・ネットワーク(反町真理子代表)と、リサー

チ・メイト(Betty Listino代表)の協力を得て、

コルディリエラ地域における先住民と開発をテーマ

にツアーを行いました。

* * * * *

「アメリカは私たちの心を飼いならした」-3年前

にそう語ってくれた若きイバロイ・イゴロット、ベベベベ

ティ・リスティーノティ・リスティーノティ・リスティーノティ・リスティーノさんのところで、彼女の仲間た

ちとおしゃべりしたときのキーワードは「適応」

だった。

―貨幣経済に飲み込まれ、開発され、抵抗し、でも

開発され、農地を奪われ、それでも「売れる」専門

先住民先住民先住民先住民とととと開発開発開発開発――――適応適応適応適応adoptionとととと、、、、持続可能持続可能持続可能持続可能sustainability―

「繋がっていく越境です―フィリピン、北ルソンの旅」 阿川

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5

全力に開放しましたが、過去の鉱山有害廃棄物の設

備も処理せずそのまま放置され、廃墟を処理しな

い、国民に安全な環境を与えない、国民の声を聴か

ないフィリピンの政府。これからの先住民族の暮ら

しはどうなるでしょう。(了)

参考資料: ・菲律賓史:東西文明交會的島國 三民書局股份有限

公司 陳鴻瑜 ・日本占領下のフィリピン 株式会社岩波書店 池

端雪浦 ・近現代日本・フィリピン関係史 株式会社岩波書

店 池端雪浦 ・菲律賓的資源經濟與菲化政策 正中書局 陳烈甫

先住民と開発―北ルソンの旅

フィリピンフィリピンフィリピンフィリピン鉱山開発鉱山開発鉱山開発鉱山開発へのへのへのへの抵抗抵抗抵抗抵抗 陳伊品

1850年代に、アメリカ人がフィリピンに来まし

た。「フィリピン人の顔立ちがアメリカインディア

ンに似てる、友達になりましょう」とアメリカ人が

そう言って、フィリピンに滞在し始めました。アメ

リカ人が学校作って、義務教育をフィリピン人に与

えましたが、同時に鉱山開発も進めました。その時

アメリカ人は山の土を借りるという話でしたが、本

当は資源の略奪でした。

米西戦争の平和条約(パリ条約1898年)によ

り、スペインが領有していたフィリピン群島をアメ

リカへ割譲しました。1903年に採掘が始まり、1930年代半ばにフィリピンで鉱山開発が本格的に開始さ

れました。フィリピン群島全体の鉱山に対して、詳

しい調査を行いました。

フィリピン群島の50%の面積を農地に開発する

ことは可能で、気候が長年暖かくて、太陽と雨も

たっぷりで、農業を発展して豊かな国になる条件を

持ってはずです。輸送路が10センチほど薄いコンク

リートのシートを二枚を置き並べたようで、実際に

ジプニーに乗って走った時は危なく感じたし、険難

な道路は農業でも鉱山でも何の開発にも支障になる

と思われますし、雨期豪雨によって道路はまた破壊

されます。灌漑用水路の維持管理をやらず、収量向

上のための農作方法を改良せず、肥料で土地を肥沃

することをせず、輪作をせず、土地が貧しく、農民

達も貧乏のままで生活を続けます。

鉱山開発によって、貧しい農民が道路建設を進

め、また電気と水を引いてくれ、地方の進歩と発展

が期待されましたが、鉱山会社のトンネルによっ

て、村の水源が枯渴しました。貧しい農民がもっと

貧しくなりました。町の進歩と発展もまるで神話の

ように実現してなかったし、鉱山会社は操業停止し

た時、原状回復が行われず、施設は放置されたま

ま、鉱山会社の人間が離れました。大きな鉱山会社

の濃縮装置には有害廃棄物が残り、そのまま廃墟に

なり、雨が降ったら廃墟が湖のように見えて、事情

知らない先住民の人がそこで魚を捕ったりした人も

いたそうです。露天掘りの掘り方が土砂災害を起こ

しました。

1933年から鉱山の開発により悪い影響があって

反対するコミュニティがありました。キブンガンの

Oswald Panggayanさんの証言によると、反対する声

に対して、鉱山会社は現地の先住民の人を本部長に

して、村の住民を説得させ、反対を諦めさせ、鉱山

の調査を進めたこともありました。他所の所で汚染

があったことを何も知らない農民を騙し、僅かな稲

作賠償金を与えて、鉱山の調査を進めたこともあり

ました。2010年地方政府が人民に圧力を掛け、また

軍隊を動かし、鉱山会社の設備運送を保護すること

もありました。鉱山会社が反対運動する村民に訴え

ました。法廷へ事情聴取のための長距離移動と交通

代、借金で膨大な訴訟費用を負担する中、長引く訴

訟過程の中で地方政府の人間が反対運動する村民を

諦めようと促しました。

鉱山開発によって、鉱山会社に就職して子供を

学校に行かせることができて、1980年代のフィリピ

ン経済に貢献したと聞いたこともあります。台湾政

府が発行したフィリピンの開発資料2005年版による

と、フィリピンの鉱山は9万平方キロメートルあっ

て、今まで開発したのは4千2百平方キロメートルの

みで、後95%もの鉱山資源があるという内容があり

ました。2004年12月に法人を開放させ、鉱山開発を

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6

先住民と開発―北ルソンの旅

先住民の文化を探す私の旅は、今

回、台湾と日本のNGOメンバーとそ

の支援フィリピン人メンバーととも

に鉱山開発に直面している先住民コ

ミュニティに赴き、そこでインタ

ビューをする旅と重なった。最初に

サント・ニーニョ【Santo Nino】の

打ち捨てられた鉱山を訪れた。タブ

レイ【Tublay】(ベンゲット)でハ

ル セ マ・ハ イ ウ ェ ー【Halsema

highway】を後にして東へ、部分的

にコンクリ舗装が施されてはいるが

大部分が狭くて未舗装のがたがた道

をジープで進んだ。サント・ニー

ニョ Santo Nino で、タブレイ

【Tublay】の 元 村 長【市 長?

Tublayの行政区画上の呼称が分

からないので、首長、が妥当か

もしれない】だったジョセフ・

コセンテ氏【Joseph Cosente】

の家を訪れる。コセンテ氏は打

ち捨てられたコンクリートの鉱

山施設を案内してくれた。希少

鉱物集めに使われた二つの大き

な 濃 縮 装 置【篩 分 機?分 級

機?】が見える。3ヘクタールほ

どあるように見える施設跡はコ

ンクリの土台がそのまま残り、

ところどころに植物が生えている。

コセンテ氏によると、あるパリンガの人がサン

ト・ニーニョでの採掘権を申請し、フィレックス

【Philex】鉱山会社を引っ張ってきて銅と金の採

掘を1970年から83年の間おこなったという。鉱山会

社が来た時、住民には何の相談もなく、施設を建設

する土地の所有者に稲田の補償費としていくらかの

金を支払っただけだとコセンテ氏は言う。鉱山会社

は住民を雇用するから心配はいらないと言い、鉱山

採掘で生じる破壊は会社が修復するので、これも心

配いらないと約束したのだそうだ。当初、施設建築

の労働者として雇われた(専門的技術を持たない)

先住民は、工事が完成すると仕事がなくなり、その

代わりに技術を持った労働者が他地域から雇い入れ

られた。山は平にされ、トンネルを掘られ、鉱山の

すそはアトック郡までの2キロのトンネルを通して

アンブラヤン川【Amburayan River】 にまで達し、

川は沈積土によって死に、ラ・ユニオン【La Un-

ion】地域の平地にも沈積土による被害をもたらし

た。鉱山が1983年に操業を停止したとき、原状回復

は行われず、施設は放置された。山腹は水なし湖の

ように大きな口を開け、植物は生えず、ごきぶりも

寄りつかない。大きなトンネルは、附近の村々の水

源だった水をすべて引き寄せてしまい、村々から水

がなくなった。

コセンテ氏へのインタビューを終えて、われわれ

はコロス【Coroz】へと向かった。サント・ニー

ニョ鉱山の上に位置する村だ。コルディレーラ・グ

リーン・ネットワーク【環境NGO:CGN】がコーヒー

栽培を援助した村だ。37ヘクタールの土地に2万5千

本のアラビカ・コーヒーを植えた。

昼食をとりながら我々はダンビスさんや他の老人

たちのインタビューを続けた。彼らは、1958年にラ

モン・フォンティーノ【Ramon Fontino】さんその

ほかの人たちが鉱山開発に抵抗した話をしてくれ

た。住民の中には、しかし、稲田の権利などを鉱山

会社に売ってしまう人がいて、会社は1961年に採掘

キリキリキリキリキリキリキリキリ山山山山のののの旅旅旅旅 by ウイリアム・トドコル William Todcor of CVM (翻訳:阿川)

設備建築に着工し、1970年に操業開始、1982年に破

産して翌83年に操業停止するまで採掘を続けた。

マリオ・ダニーロ【Mario Danilo】さん(下写真

右、左はWililamさん)はこのコミュニティの人だ

が、彼は鉱山会社のトンネルによって村の大きな水

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先住民と開発―北ルソンの旅

源のうち九つまでが枯渇し、残っ

た三つの小さな水源からも水がほ

とんど出なくなったと教えてくれ

た。この三つの水源だけで、現

在、平均4,5人の世帯、約100世帯

が生活しているという。

ダニーロさんは、自分はかつて

操業中の鉱山会社の労働組合幹部

だったと言う。ストライキしない

ように労働者を説得してくれたら

10万ペソくれると言われたが、コ

ミュニティへの裏切り者になるわ

けにはいかないと言って断ったの

だそうだ。

コロス村に別れを告げて、我々

は 次 に 遠 路、キ ブ ン ガ ン

【Kibungan】町に向かった。到着

したのは夜半だった。出迎えて

くれた役場の人が、町役場が運

営しているゲストハウスに案内

してくれた。途中で購入した食

事を終え、即興的な講義と話し

合いの後、休んだ。

朝、役場のブレネリン・シア

ト【Brenelyn Siadto】さんと

郡 農 業 局 の カ ヤ ッ ト【Mr

Cayat】さんの二人が農業関連

施設を案内してくれた。まず最

初に町長さんのオフィスでブレ

ネリンさんは我々一行に、当地

の観光スポットの写真を見せて

くれた。その後、町で推し進め

ている持続可能な生活プロジェ

クトを見学させてくれた。コー

ヒー栽培は順調に行っているが、そのほかの、たと

えば陶器作りなどは失敗、そのほかはまだ緒に着い

たばかりだと説明された。役場の従業員たちのコー

プで、町長のふるまいで贅沢なスナックをいただい

た。

我々は次にパリーナ村に向かった。岩山とその下

に棚田が望める魅力的な風景の中を移動した。

1時間ほどでパリーナに到着。村の役員の人たち

が出迎えてくれた。自己紹介を終えると、水の問

題、CGNの植林プロジェクトも含めて森が事故で焼

けてしまった話などをした。そうこうするうち、昼

食の準備ができたということで、食事をいただい

た。

私は村の役員の人たちに冗談半分に尋ねた。「ど

うしたらこんな立派な村役場が建てられるんだ、町

役場より立派じゃないか」と。彼らは大きな笑いで

答えてくれた。彼らに鉱山開発について尋ねると、

それならオズワルド・パンガヤン【Oswald Pang-

gayan】に聞けと言われた。

村の役員たちは、オズワルドの家に行くなら途中

でぜひキリキリ山に登るべきだと言った。そこで

我々は早速キリキリ山に向かった。

山は高く、昼食をたらふく食べた後の登山は厳し

かった。山頂からの眺めは素晴らしいものだった。

下に見える棚田が午後の日差しを浴びて芸術的な陰

影を作り出していた。

景色に堪能すると、我々は下山して、再びくねく

ね道をジープでパンガヤン氏の家に向かった。自宅

で待っていてくれたパンガヤン氏に簡単に自己紹介

した後、キブンガンでの鉱山問題について話を聞い

た。

ここで聞いた話のすべては「キブンガン住民の戦

い」という記事にまとめてある*。この記事はオス

ワルドさんを含めた多くの人の証言から出来てい

る。

我々の旅はここで終わった。スナックをいただい

た後、オズワルドさんに感謝してバギオに戻り、次

の冒険に備えての長い休憩に入った。(了)

*【編集部】同記事は英文で、Eaphetにありますの

で、ご希望の方はご連絡ください。William Todcor

さんはCommunity Volunteer Missioners (CVM) 所

属のジャーナリストで、ご自身もMountain Prov-

inceの出身で地域の問題について積極的に発信して

います。Eaphet ツアーには案内人、解説者という

形で参加してくださいました。

パリーナで

キリキリ山上のWilliamさん

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8

先住民と開発―北ルソンの旅

森、山、水……自然なものは先住民たちが大切にし

ている宝物だ。しかし、大事にする人は世界人口に

対して僅かな数だ。金が儲かるならばなんでもする

人に対して住民たちはどうした

らいいのか?フィリピンであれ

台湾であれどの国でもそういう

ことが日常的に発生する。生活

するためにもう精一杯で、対抗

する力もう……

今回のフィリピンStudy Tour

で私たちがコーディリエラ山岳

にCOROZという村を訪ねた。こ

の地方に暮らすのはイフガオ、

カリンガ、カンカナイ、イスネ

グなどの先住民族たち。彼らは伝統的には、棚田で

の米生産、狩猟、森の産物(山菜、果物、きのこな

ど)の採取、焼畑耕作で、暮らしに必要なほとんど

すべてのものを得てきた。いわば森に生かされてい

るのが彼らの暮らしだ。

山の人の熱情はやはりどの

国に行っても変わらないもん

だね。ご主人のMario氏、私た

ちを歓迎するために伝統的な

鶏料理のやり方を私たちに見

せてくれた。Mario氏は鶏の胆

の読み方を教えてくれた。そ

れは胆がきれいで健康である

かどうかを確認する方法だ。

なぜ確かめるかというと、も

し胆が健康ではなければ鶏を

食べることができ

な い。慰 霊 祭 を

行って、鶏の霊を

慰める。さらに胆

を読むことによっ

て私たち今回の旅

はきっと収穫を

いっぱい得て、出

会う人々と良い合

作ができることが

分かった。

鶏料理を待つ間に先住民の文化習慣について熱く

語った。そこで、一つおもしろいことが分かった。

ここの住民たちはほとんど複数の宗教を同時に信仰

しているそうだ。台湾と違って、二つ以上の宗教を

持つのが普遍的で、しかも矛盾しないものなのだ。

先住民たちは自分の民族の宗教をまずもっていて、

その他に例えばカソリックやキリスト教などを

信仰している。なんとおもしろいことだろう。

伝統的な料理を楽しんだ後にMario氏の奥さ

んと(The Cordillera Green Network―以下

CGNと略す)というNGOの一メンバーである)

Lilyさん(下写真)が森の話をしたりここの

コーヒー栽培の案内をしたりしてくれた。この

NGOはずっとCOROZ村、この地域人々に有機栽培

の技術を教えた

り住民たちの生

活を手伝ったり

している。

CGNはフィリピ

ン・ルソン島北

部山岳地方の環

境保全と先住民

族の暮らしの向上を目的として現地に根ざして活動

するフィリピンのNGO法人だ。

フィリピンは1990年から2005年の間で国の面積に

対する森面積の割合が急

速に減少していった。世

界最悪の森林破壊とも言

われている。何故かと言

うと、乾季における山火

事のためコーディリエラ

山岳地方の森林は次々な

くなり、広がっている野

菜の段々畑の姿もほとん

ど消えている。しかし、

本当に自然災害であろう

か?

かつての先住民たちは

家族が使わない余分な成

熟した木は製材して販売して、現金収入源となって

いた。が、国の森林保護政策が打ち出され、木材伐

採が一切禁止となってから逆に政府がコントロール

できないため不法伐採を

増長する結果となった。

森林消失による環境へ

の影響、森林がなくなっ

たことによる川の水不足

が、低地の稲作に及ぼす

影響など。こうして、森

林には原因不明の山火事

が頻発し、世の中の環境

保全に対する意識が高

まってきたのはいいこと

だが、にもかからわず、

森林破壊はすさまじいス

森林破壊森林破壊森林破壊森林破壊とととと有機栽培有機栽培有機栽培有機栽培 戴佩如

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先住民と開発―北ルソンの旅

ピードで進行しているのだ。

一方、森林破壊とともに先

住民族が自給自足から現金収

入の必要な暮らしに変わりつ

つある。森の破壊を止めるた

め住民自身が森林管理を行

う。住民たちの生活を保障す

るために、森林樹種の間に、

果樹などの換金作物が採れる

樹木を植え、さらに樹木の下

にイモ類、ショウガなど日陰でも育つ作物を植え

る。つまり、森林から収入が得られるようなシステ

ムを作り、住民の現金収入を確保し暮らしを助けな

がら、同時に森林保全を行なおうというものだ。

コーヒーは年に一回収穫だけど、稼いだ金は生活

なら十分足りると奥さんが言った。元々はコーヒー

ではなく野菜が主な経済源であっ

た。野菜は短い時間で収穫でき、

いつでも金を儲けるようにするん

だけど、土地は簡単に侵略される

からやめちゃった。そのかわりに

コーヒーを植え始めた。収穫の時

も土地が奪われることを心配しな

く金も十分に儲けられる。

奥さんがコーヒーはどういう気

候で育ちやすいとか、コーヒーの

木はどんな状態でできたコーヒーの実が一番いいな

ども教えてくれた。

園地からさらに降りて一番下に露天の栽培所みた

いな所があって、そこにコーヒーの苗木をたくさん

植えている。Lilyさんの話に聞くと、コーヒーの苗

木を2-4年(状況によってもっとかかるのもある)

栽培してから移植できるという。苗木は金がかかる

し、世話もすごく面倒だそうだ。一本の苗木は平地

の人にとってたぶん大したことではないけど、山の

人にとって50₱は大金だから、すごく大切にしてい

る。

コーヒー豆をいい値段で売るために害虫除去と土

地の肥やしもとても重要な一環で、木酢液とコンポ

ストも作ったりしている。木酢液というのは簡単に

言うと木のエッセンシャルオイルみたいなものだ。

木酢液は200以上の有機物が入っていて、植物成長

の促進や果実の酸性度を下げたり虫除きや黴菌・細

菌の抑制や脱臭等の効果がある。土地と葉っぱある

いは肥料と混合してから使用できる。殺虫剤や農薬

よりも木酢の方がコーヒー木の育てによく自然も破

壊しない。本当に一挙両得だね。

木酢液を作ったりして使用するのは今やっている

方法の一つだ。もう一つの方法は枝をドラム窯の中

に入れて焼いて、出てきた煙を空気の中に流し自然

の外気によって冷却・凝縮されて木酢液になり、使

用範囲は拡大できるようになる。

収穫した後に果実の外皮を取り外すことから水洗

いして乾燥させるにかけてすべてやるのだ。水洗式

の方がコーヒー豆の見た目が整いやすく商品価値が

高くなる利点があるからという考えがあるかもしれ

ない。ややこしいけど、いい値段で売るようにいろ

いろ工夫しなきゃね。

先住民族の多くが学歴が低く、マーケットへのア

クセスもなく、商売の交渉の能力も備えていない。

中間業者のいうままに、手をかけて育てたコーヒー

やカカオが買い叩かれることも十分ありえる。しか

も大切な森を守りながら暮らすのは何より大事だと

思う。だけど、森の原因不明の火事がまた起きたら

先住民たちの努力は一瞬にして消えてしまう恐れが

ある。どう対処したらいいのか?どう避けたらいい

のか?また考えるべき問題だね。(了)

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追悼:ぺ・チュンヒ ハルモニ

6666月月月月8888日日日日、、、、ナヌムのナヌムのナヌムのナヌムの家家家家でぺ・チュンヒでぺ・チュンヒでぺ・チュンヒでぺ・チュンヒ((((裵春姫裵春姫裵春姫裵春姫))))ハハハハ

ルモニがルモニがルモニがルモニが亡亡亡亡くなったくなったくなったくなった。。。。91919191歳歳歳歳だっただっただっただった。。。。

日本時代の慶北の星州で生まれたペ・ハルモニ

は、友達の家に遊びに行って‘金を稼げる’と騙

されて友達と一緒に挺身隊に入った。1942年、中

国の満州に連れていかれ、満州で3年間日本軍の性

的奴隷にされた。1945年に帰国したがいろいろ

あって日本に渡り、演歌歌手などをして生活。

1980年代初めに帰国。1997年にナヌムの家に来

た。

Eaphetの南韓ツアーでは(いくつかの例外を除

いてですが)ナヌムの家には必ずお邪魔して、

ぺ・ハルモニにはずいぶんお世話になりました。

ご冥福をお祈りします。【編集部】

最初に会ったのがいつのことか、もう実は覚えて

いません。90年代の終わりのことだったようにも思

う。私のことを「坊や」ってずっと言ってた。2000

年代に入って、私がナヌムの家に行く理由はぺ・ハ

ルモニも含めて数人のハルモニたちに会うためだっ

た。ぺ・ハルモニは「証言」はしない。少なくとも

私は聞いたことがない。でも、話の端々に体験した

ことが出てくるときがある。でも多くは語らない。

日本にいた時代についても、まとまった話は聞いた

ことがない。一 度、台湾からテレサテンのCDを

持っていったら、もっとクラシックなものもってお

いでよ、と叱られた。それで次には京劇みたいなの

を探してもっていった。チャンゴを叩きながら、ど

んな曲でも歌った。それも複数のバージョン、複数

の言語を駆使して。だんだん脚が思うように動かな

くなった。大好きだった買い物にも行く回数が減っ

ていった。あの兎ちゃんのぬいぐるみを付けたカバ

ンをもって。

気が小さくて、人見知り。度量が広くて外交的。

そんな相反する面をもった人だった。クジラのよう

に大きな心をもった人だったとも思う。

ぺ・ハルモニと最後に会ったのは、亡くなる1年

ほど前だった。何となく線が細くなったようで気に

なっていた。ハルモニたちが人間として生きた記憶

というか、慰安婦被害者という括りでは捕えられな

い人としての存在が、こうして薄れていくのだとし

たら、それもしかたのないことなのかもしれないと

思う。それでいいんだよ、とハルモニは言うかもし

れない。若いもんは若いもんでやることあるだろ

う、と。やること、やんなさいよ、と。はい、ハル

モニに叱られないようにやることやります。でも

やっぱりあの世で会ったらいつもの調子で叱られる

でしょうね。(了)

さようならさようならさようならさようなら、、、、ぺ・ハルモニぺ・ハルモニぺ・ハルモニぺ・ハルモニ(吉田藍)

ぺ・ハルモニ、いつもきれいに着飾ってて、歌が

上手で、韓国語はもちろん、日本語、中国語、ロシ

ア語なんかの歌もすぐぽんぽん歌ってくれた。

ちょっとわがままではっきりものを

言う、叱られたこともあったな…。

ナヌムの家で餃子作りをしていた

時、手際の悪い私を見ての事。子供

のころ、亡くなった秋田の祖母に叱

られた時のことを思い出した。

ぺ・ハルモニは水曜集会に行って

も、あまり抗議をしていなかった印

象がある。ある時、日本からお客さ

んが来なくなるから、日本に抗議をしてほしくない

というようなことを言っていた。日本政府や慰安婦

の歴史を否定しようとする人たちに言いたいことは

いっぱいあっただろう。でも国家や戦争に翻弄され

ながらも、どこにいてもたくましくその土地で生き

抜いてきたぺ・ハルモニだからこそそう言えるので

はないかと思う。自分が政治的な存在であることも

分かっていたのではないだろうか。

いがみ合うのではなく、楽しく歌

いあいたい。私たちが訪問した

時、被害の証言は聞いたことがな

いが、活動が終わってフリータイ

ムになった頃にやってきて、お酒

やおつまみを用意し、みんなで

ぺ・ハルモニを囲んでおしゃべり

したり歌を歌ったりした楽しい時

間を思い出す。

追悼追悼追悼追悼::::ぺ・チュンヒぺ・チュンヒぺ・チュンヒぺ・チュンヒ ハルモニハルモニハルモニハルモニ

2013年冬。

水曜集会で

ありがとうありがとうありがとうありがとう、、、、ぺ・ハルモニぺ・ハルモニぺ・ハルモニぺ・ハルモニ(古川ちかし)

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追悼:ぺ・チュンヒ ハルモニ

私には想像もできない人生を生きてきたであろう

ぺ・ハルモニからは、人間の命の力強さと逞しさを

感じた。

きっと今きれいな服を着て、楽しく歌っていると

思う。(了)

【編集部】ぺ・ハルモニのお墓は、ハプチョン近郊

の海印寺というお寺の納骨堂です。とても風光明媚

な山の中にあります。

南韓で存命の「慰安婦被害生存者」女性は54人に

まで激減しました。台湾での生存者はわずか5人だ

そうです。

バザーにごバザーにごバザーにごバザーにご協力協力協力協力ありがとうございました ありがとうございました ありがとうございました ありがとうございました

8月9日と10日、Eaphetバザー、行いました。たくさんの物資、みなさんから寄せられ、非常感謝で

す。ときどき雨の降る二日間だったので、客足はあまりよくなかったのですが、4000元強の売り上げで

した。ミッシェルさんがクッキーとシフォンケーキを焼いてくれました。特に高価な絵や美術品を李さ

んが寄付してくれたのですが、こちらは売れず。まだ協会で保管していますので、興味のある方はぜひ

ご一報を。仏像があります。 鑑定書つきです。版画を含む絵画も数点あります。

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追悼:Lubi Nabu

2014201420142014年年年年7777月月月月20202020日午後日午後日午後日午後10101010時時時時、、、、Lubi NabuLubi NabuLubi NabuLubi Nabu、、、、逝逝逝逝くくくく。。。。

Seediq TkdayaSeediq TkdayaSeediq TkdayaSeediq Tkdaya。。。。享年享年享年享年78787878歳歳歳歳。。。。

1937年パーラン社第四班に生まれ、三歳で中原へ

強制移住。父、Abu Ibuy(Qacuq)、母、Labe Wa-

tan(萬大Cimil)。

中原で大きくなるが、Snuwilの第四班に嫁いだ

(Snuwilの人、Sediq TodaのHasanさんと結婚)。

霧社の山にとって、ひとつの時代が終わったのか

もしれない。歴史に描かれることのない日本時代か

ら国民政府へ、そして民主化へと続いた台湾の山地

で、女性たちがGayaの残滓と押し寄せる全球化経済

の中で自律を模索したひとつの時代が終わったのか

もしれない。

Lubiと初めて出会ったのは、ルビーの長兄、Losi

の紹介だった。2000年か2001年ごろのことだと思う

けど、はっきりしない。霧社でお茶屋をしていた

Losiさんは、人が訪ねてくると喜んで昔の話をして

くれる地元の名士だった。実際、農会長を務め、郷

の議員にもなった人だった。そのLosiが逝ってし

まったのは2007年の1月だった。清流に行って「泊

まっていけ」と言われるたびに「これからSnuwilに

行くので…」と言って断っていたら清流の人から

「Snuwilに恋人がいるんだろ」と言われた。一度や

二度ではない。そのうち「ああ、Lubiね」というこ

とになった。Lubiは美人で織物がうまく、夫を亡く

していたから、あながち冗談ではなかったのかもし

れない。

若くして夫Hasanを失くした後、たくさんの後妻

の誘いを断ったLubi。6人の子どもを抱えて、そ

りゃあ並大抵な苦労じゃなかっただろう。息子三

人、娘三人。畑仕事をした。他人の畑も手伝って手

間賃を稼いだ。少し楽になってからは織物工作室を

(Snuwil、中原、清流で初めて)開業した。織物で

生計を立てられるよ。そういうことを教えて回っ

た。それでSnuwilでも工作室を始める人たちが出て

きた。織物工作室の先駆者だった。

18歳のときにキリスト教と出会い、洗礼を受け

た。水沙連のキリスト教化に尽力したKumu Lowsing

とともに清流に伝道した武勇伝は、記録映画「Lubi

Nabu」にも描いた。山のこと、キリスト教のこと―

みんなLubiが教えてくれた。それだけじゃない、

Lubiは私と学生たちのために、いろんな人を紹介し

てもくれた。山の郵便配達人、Phuk Nabisさん。高

砂義勇隊のPawan Walisさん、そのほか。みんな

Lubiがいなかったら会うことができなかったかもし

れない人たちだ。Lubiは紹介したらかならず自分も

同行して、私たちと同じように、いや私たち以上に

彼らに物語の細部を問いかけた。

帰帰帰帰っていったっていったっていったっていったLubi Nabu Awil Kazuo

2010年8月、突然工作室を畳んだLubi。どうした

のと言うと、膝が言うことをき

かず、もう疲れた、という。

今、考えると、この前後に中原

にいた娘さん、Iwanが病死し

た。こたえていたのは分かって

いたけれど、工作室を辞めると

いうことと、娘さんの死は、私

の中では結びついていなかっ

た。とにかくLubiを励ますため

に、みんなで工作室を建て直そ

うということになり、学生たち

と一緒に工作室をリニューアル

した。2011年6月のオープン当

日は村を挙げての祝宴となり、

Lubiも満面の笑みだった。

それからたったの3年だった。高血圧と膝の痛みを

抱えて、創作意欲も徐々に殺がれ

ていくのが傍目にもはっきり見え

た。最後の引き金になったのは、

桃園に嫁いでいた娘さん、Labayの

死だったようだ。二番目の娘さん

は結婚して母親と同居している

が、数年前に中風の発作で半身不

随。息子たち三人は健在なもの

の、娘たち三人を襲った不運が身

に応えたのかもしれない。最後は

蝋燭の火が消えるようにフッと気

力が失せたように見えた。

子どもたちが大きくなって独立

していったとき、私も年だから刺

青を入れようかねえと言ったら息

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追悼:Lubi Nabu

子たちに、母さんそれだけは

やめてくれと懇願されたそう

だ。Todaの女性は頬から口ま

で、そして額に三本だが、

Tkdayaの女性は額に五本、縦

の刺青が入る。「わたし、よ

おく夢に見るのよ。ここに、

こうして(五本の指を額にあ

てて)五本の刺青ね。」Lubi

の中にGayaは生きていたのだ

と思う。でも実現しなかっ

た。息子たちは、母の刺青をあきらめさせるために

昔のやり方で丸太の小屋を建て、中で火が炊けるよ

うに工夫した。母もそれで刺青は断念した。

日本が去ったとき小学2年生だったLubi。霧社の

山で初等教育が再開されたのは敗戦から2年目だっ

た。そして228事件とその後の

混乱、白色テロ、貨幣経済の浸

透、山の開発ブーム…Lubiの闘

いは終わりを知らなかった。静

かに静かに闘った。男たちと

闘った。ときには政府と闘っ

た。ときには部落の人たちと

闘った。信仰が彼女を支えたの

かもしれない。子どもたちへの

思いが彼女を支えたのかもしれ

ない。

Seediqの言葉で「wada」とは「行ってしまっ

た」「帰った」というような意味で、死をも意味す

るという。生命を織りなした方(Udux)がその生命

を連れていくことが死だとも言う。Lubiも帰って

いったのだ、額に誇らしげに五本の刺青を入れて。

(了)

「Lubiさん、起きてもいいよ」Lubiさんはついに

動き始め、皆さんに「大丈夫」と言ってくれると、

棺が閉められるまで心ではそうこっそりと思ってい

た。

Lubiさんのことを祈るべきだが、心の底ではやは

りLubiさんとお喋りすることを望む。Lubiさん、ご

めんなさい。もっと早く会いに行けなかった。Lubi

さんありがとうございます。Lubiさんのお蔭で、

「山」には特別な感情が増えた。Lubiさん、もう会

えないことが切ないんだ。

Lubiさんは行きたいところへ行ける、会いたい人

に会える、神様のところでいい生活を送れる、大切

な家族を見守れるように、Lubiさんの幸せを祈り続

ける。(了)

ルビー・ナブさんが亡くなったことをFacebookで

知った。7月下旬のことだった。

2011年の夏、当時病床に伏していたワリス・パワ

ンさんに会いに行ったことがあった。この時、ル

ビーさんのお宅にもお邪魔した。ルビーさんは「う

みん、よく来た」と突然の訪問を迎えてくれた。そ

して「膝がぽくぽくする」とルビーさん。しかし、

この時の、本当に束の間の再会が、ルビーさんとの

最後になった。膝のぽくぽくの行方も分からずじま

いになった。

2010年4月、私は、台湾から大阪に生活の場を移

した。その報告に伺った際、「うみんのお母さん

に、好きなのを選んで」と、ルビーさんは、自分が

織った織物を持たせてくれた。会ったこともない私

の母を、スヌイから思ってくれたルビーさん。そん

なルビーさんの所へ、私は、母を連れて行きたかっ

た。

ルビーさんのお母さんってどんな人だったのだろ

う。いつだったか、ルビーさんが歌を歌ってくれた

ことがあった。お母さんから教えてもらったという

その歌を歌うルビーさんの歌声は、どことなく寂し

くて、とても優しかった。そして、幾多の困難を経

験してきたルビーさんの歩みがこの歌には込められ

ているようだった。ルビーさんの思いが詰まったル

ビーさんの歌。ルビーさんにしか歌えないルビーさ

んの歌。これまでの歩みのなかで、ルビーさんはこ

の歌をどれだけ口ずさんできたのだろう。この歌

が、そして、お母さんが、ルビーさんを支え、ま

た、励ましてきたのかもしれない。

ルビーさんが亡くなってから数日の間、言葉通り

ありがとうありがとうありがとうありがとうLubi Uma Ting

スヌイとスヌイとスヌイとスヌイと私私私私をををを繋繋繋繋いでくれたいでくれたいでくれたいでくれた人人人人

ルビー・ナブさんルビー・ナブさんルビー・ナブさんルビー・ナブさん Umin Yoshiharu

2011年5月2日、Lubi工作室完成。右からUma(筆者), Lubi,

Iwan, Sayun, Sdulx, Losi

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の意味でしかルビーさんの死を感じることが出来な

かった。そして、今、こうしてルビーさんのことを

書こうとしても、私はルビーさんのこと、何も知ら

なかったんだと改めて思い知らされている。それで

も、私の耳にかすかに残るルビーさんの歌のことだ

けは、自分なりに書き留めておきたいと思った。

ルビーさん。いつも笑顔で迎えてくれてありがと

うございました。台湾を離れる報告をしに行ったと

き、またスヌイに戻ってきてもいいんだと感じさせ

てくれたのは、ルビーさんの笑顔とその優しさでし

た。近いうち、またスヌイに遊びに行きます。とこ

ろで、膝のぽくぽくは今どうですか?そして、お母

さんとまた一緒にあの歌を歌っていますか?(了)

追悼:Lubi Nabu

あなた、日本から?と、大学卒業後、働きもせず、

一人旅でふらっと霧社に立ち寄った際、優しく声を

掛けてくださったおばさん。それから5年後に東海

大学の活動の際、その方とまた偶然再会し、ルビー

さんと知ったのは、5年前のあの時と同じように、

優しい笑顔でお茶をいれてくれたときでした。

一家離散し、家なし、金無し、仕事なし、当然のご

とく彼女なしの、どんづまりの青春だった私に、嫁

はいるか?好きな娘いたら連れていってしまえばい

い、と真顔で心配してくれ、まさか5年後にまた、

同じ話を真顔で言ってくれるとは思いもよりません

でした。

更に5年後

ルビーさん、<教えのとおり、霧社の娘ではあり

ませんが、台湾から好きな娘を連れ去らせてもらい

ました。>今となっては、あの真顔の意味がわかる

ような気がしています。

R.I.P.ルビーさん (了)

Lubi さん~Lubi さんと知り合ってほんの短い1

年しかなかったけど、私の祖母みたいな存在になっ

ている。Lubi さんの優しい笑顔が私は一生忘れら

れないこと。いつも私たちのことを大歓迎してい

た。Lubi さん~病気に伴う痛みと子供が名残惜し

い気持ちも帰りによってすべてなくなるから、これ

からは快楽な日々をおくれる。幸せな日々はこれか

らだよ。絶対Lubi さんのことを忘れない。(了)

(右写真は、Lubiと筆者Obing。工作室にて)

↑ルビーさんと最初に会ったのは2003年5月、

「台日地区研究」で霧社を訪れた時だった。それ

から約8ヶ月後の2004年1月、台湾留学も終わりに

近づいていた頃、ルビーさんの民宿に泊めても

らった。これはそのときの写真。(左端が筆者)

←2009年10月25日。「台日地区研究」で霧社を訪

ねた時の写真。パーラン社があった場所を案内し

てくれたルビーさん。

ルビーさんのルビーさんのルビーさんのルビーさんの思思思思いいいい出出出出 yuji and yuki

我們對我們對我們對我們對您您您您的愛不會停止的愛不會停止的愛不會停止的愛不會停止 Obing Lubi

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研究所時代經常去拜訪霧社,在那邊結識不少地方

耆老,我承認,當時會願意去到山上,其實就是內心

某處想當個老師眼中優等生,完全是為了討老師歡心,

巴結老師來著的,所以不管自己內心到底想不想跟原

住民部落的人們交朋友,前後也跟著老師上山辦活動

不下數十次。

在這段期間,認識了一位在霧社開設工作室的媽媽,

她的專長是織布,我曾經應老師要求,採訪她小時候經

歷日本統治時代直至國民黨政府統治台灣的事,順道

一提,當時這位奶奶是用日文回答我問題的,我當時印

象最深刻的事是她邊哭邊講述過去辛苦,當時我當然

無法體會她所經驗過的一切,只知道她的過去真的像

是一本活歷史般精彩。

追悼:Lubi Nabu

「ロボせんせい。」語尾がやや上がり気味の、少女

的な音色。耳元に響くルビーさんの声は、いつも

ゆったりとしていて、のどかな夕暮れ時のように、

落ちつく。原民会の頼みで織物のデザインを考える

ことを話すときも、村で最初の織物工房(工作室)

を作ったことを話すときも、夫をなくし、自分の織

物を持って日月潭まで売りに行った話をする時も、

いつでも糸を手繰るように、おっとりとして、順序

よく。

娘を亡くしたつらさを語る時さえも。そして、兄

さん(ロシさん)の思い出を語る時も。

ロシさんの告別式が終わり、出口で悲しそうなル

ビーさんに会った。手を取り合っても涙が止まらず

言葉にはならない。その後、しばらく、山へ会いに

行くたびに、「兄さんを思い出すね」と、私の目を

見て、言う。

どのぐらい、ルビーさんにお話を聞いたのだろ

上個月,這位奶奶過世了,我得知消息時,只是有些

不知所措,我想,是因為她並非我的家人,又不是陌生

人,而且在我認識她時,她其實也七十幾歲了,走進死

亡是遲早且再自然不過的事,但聽到難免震驚,七月

底,我跟著系上老師以及幾位研究所同學前往她的靈

堂,正式跟她告別,當下看到她的遺容,還真的是難過

不已,因為奶奶是基督徒,奶奶的孫女跟家人都告訴

我,她在天國,遠離病痛,要記得替奶奶開心,但我的

眼淚還是止不住,不是因為難過,而是可惜,反正思緒

當下也混亂,但就是難過,當下我也一句話都說不出

口,只想靜靜地以自己的方式在內心紀念她。

最後,感謝她告訴我她的故事,讓我在台灣認識更多

族群過去的歷史…

謝謝你,LUBI桑。(完)

う。キリスト信仰、宣教経験……、でも一番よく聞

いていたのは「あの髪の短い男の子みたいな学生は

今どこにいる?」「あのおもしろい服を着た彼はも

う日本に帰った?」「あの背の高い学生、長い間見

ないね。」以前来たことのある学生の事だ。「もう

(山は)長いよね」と。人思いのルビーさんは「こ

と」よりも「ひと」の話をよくする。

ふっとルビーさんの歌声が、耳の中を響きだす。

確かおっ母さんに教えてもらった唄と言っていたと

思う。そういえば、タクターヤ語のクリスマスの詩

を教えてもらって、阿川さんが音符をつけて、和声

もつけて、クリスマス会で歌ったっけ?

ウカンさんの籠編み教室の後、夕方からルビーさ

んの織物の編み物教室。その日には終えられなかっ

たから、もって帰っていいよと言われ、編み糸をつ

けたまま、編み物の機械を東海まで持って帰ってき

て、文学院の研究室の大きな机の真ん中に据えた。

授業から疲れて帰ってくると、ど真ん中にある機械

の鮮やかな赤と緑に元気をつけられて、編み出す。

二週間後に、機械ごとまた山

へもって帰った。魯畢工作室

に入って、織った布を切って

はミシンにかけていた。横で

見守ってくれながら、ルビー

さんはどこからともなく何本

か紐や紐を通す木の玉を取り

出してきた。そして、一緒に

筆箱や小さな印鑑入れみたい

なものを作った。昔、母とも

よく一緒に裁縫をやってい

た。いつまで経っても私はよ

くできた手伝いだった。が、

ルビーさんは私をむしろ手

伝ってもらっている側にしてくれた。長年教師して

謝謝謝謝謝謝謝謝你你你你,,,,LUBI桑桑桑桑 Bakan Yafen

「「「「ルビーさんルビーさんルビーさんルビーさん、、、、元気元気元気元気?」?」?」?」 Lobau

いるけど、私は母親似だね。どう

したら、ルビーさんみたいにいい

教師になれるのだろう?

まだおぼえている、最初にル

ビーさんのところへ行った日のこ

と。ロシさんの紹介で、ルビーさ

んのところに宿泊することになっ

た。学生は20人以上はいたかな?

ルビーさんの家のお庭で、まずは

晩御飯を作った。私にとっても学

生にとっても、屋外営業用コンロ

から、足りないもの一杯の大人数

の料理、お話を聞く、山の合宿、

何もかもが初めてだった。どう手伝えればいいか分

からずに学生たちは横でうろちょろしていて、私も

2002年12月23日、スヌイ教会で。左から

Labay Napay, Lobau (筆者)、Lubi Nabu

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ルビーさんに会ったいちばん最初の記憶は、少し

遠く向こうに見える山を指でさしながら、ルビーさ

んが生まれた場所のことを話して聞かせてくれた場

面です。それから、ルビーさんの工作室を訪ねたと

きにも、いろいろな話を聞かせてもらいました。織

物のことや、グム・ロシンさんのことを教えても

らって、その場面の映画の撮影にも参加しました。

楽器の演奏や、歌をきかせてもらったりもしまし

た。あるとき工作室で、ルビーさんが作った携帯電

話用のポーチをもらいました。それからまた別のと

き、たしか、高峰へ向かう途中の道で、山のことを

描いた絵本の話をしたら、そのことについて、ル

ビーさんの考えを教えてくれました。忘れられない

記憶です。その後、山の斜面を登りながら、腹痛に

効く山の薬草について教えてもらいました。ルビー

ら、ルビーさんの工作室に向かった。

夕方なのに、ルビーさんは応接間のソファーで寝

ていた。小ルビーが横で、宿題をしていた。「元

気?」と聞いたら、乱れた髪に手をやりながら、

「いえ、あんまり」「ここが痛い」と手で足のほう

をさすった。先生は真剣に何かを話しかけていた

が、ルビーさんは小ルビーの話ばかりしたがってい

た。

別れ際のハグ、やわらかくて暖かい。笑いながら

「この子はいつも…」と言うルビーさんの体温、今

も体によみ返ってくる。

スヌイの夕暮れとルビーさん。ルビーさんのいな

くなったスヌイ。今後、山で夕方になったら、会え

なくても心はおのずと尋ねに行くのだろう。

ルビーさん、お元気ですか?もう足、痛まないん

でしょう。(了)

追悼:Lubi Nabu

何をどうすればいいのか、周りの人とどう仕事分担

すればいいのかわからないまま、心の中でOSをしな

がら、汗くたになっていた。ルビーさんもきっとこ

の人たちいつになったら晩御飯が食べられるのかと

思ったのだろう。が、それでも、何も言わずに、

釜、お皿、サラダ油、塩などなど、足りないものを

次から次へと出してくれた。お庭のコンロひとつだ

けで晩御飯を作ることになっていたはずだったが、

最後は小依がとてもきれいにしている屋内の台所ま

で使うことになった。使いながら、真剣にここはも

う二度と来させてもらえないんだろうと思った。

晩御飯の後は、お話だ。三人の息子さんの親孝行

の話が印象的だった。ルビーさんは本当に「有福」

な「才徳的婦人」だなと思った。寝る前の縁側で飲

んだ息子ロシさんが作ったお茶、おいしかった。

2014年3月29日、台北の先生が遊びに来た。山へ

行こうとお誘いをして、例によって、夕方になった

さんには、いつももらうことばかりでした。いつも

やさしくしてもらいました。いくつかの記憶がとき

どきふと蘇ります。本当にありがとうございまし

た。(了)

この間、久しぶりに会いまして、すごくうれし

かったです。でももしもうちょっと早めにあってい

ればよかったと思い、すごく残念と思います。

始めて2001年11月に会いまして、その時はLubiさ

んの日本語はすごく上手とおもい、すごく感心しま

した。いつも優雅でおだやかな雰囲気が感じます。

2001年からいままで、霧社は10回以上行きました。

ほとんどルビーさんの民宿へ行きました。

Lubiさんの民宿は大好きです、居心地は良かった

です。わたしにとって霧者=Lubiさんの民宿です。

そしてLubiとオビンはすごくかわいいです。

その日、ルビーさんに挨拶しに行った時、わたし

は泣きました。オビンからルビーさんは天国で私た

ちを守っています、きっと天国でも楽しく過ごして

るとおもいます、と言われました。

ルビーさんと出会ってよかったです。これからも

チャンスがあったら、また霧社に行きます。霧社に

いったら、ルビーさんのことを懐かしくなるとおも

います。今後ともよろしくお願いします。(了)

ルビーさんへルビーさんへルビーさんへルビーさんへ ドゥサン(大内宏信)

ルビーさんへのルビーさんへのルビーさんへのルビーさんへの手紙手紙手紙手紙 ラバイ(Joy)

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Lubiさんへの追悼文を多くの方が寄せてくれまし

た。すべてを掲載できなくてすいません。彼女が多

くの人たちの心に触れたあかしなのだろうと思いま

す。

Awilさんが書いているように、スヌイ(Snuwil)

部落で織物工作室を最初に始めたのがLubi Nabuさ

んでした。現在、工作室を構えている方が6人いま

すが、伝統の文様を自在に織ることができる方とな

ると、1,2名に限られているという意見もありま

す。Lubiさんを失って、スヌイでは織物の後継者が

極度に不足しています。このまま織物の技術が失わ

2014年8月12日、蘭嶼椰油村にある蘭嶼部落文化

基金会で「棄民と隠蔽:福島の現在」を行いまし

た。夕方7時開始で、終了したのは9時半くらいで

した。島の若い人たちを中心に、10数人が聞きに

来てくれました。討論が予定の時間を越えて、約1

時間ありました。最初はみなさん口が重く、基金

会の執行長であるSinan Mavivoさんが蘭嶼の状況

と福島の状況の類似性などについてまとめた話を

してくれたのですが、そのうち、みなさんがコメ

ントや質問を出すようになって、結局1時間ちかく

討論することになりました。

開始前には、Sinan Mavivoさんから「やはりみ

な健康被害に関心があるんです」と聞いていたけ

れど、話してみた感じでは健康被害について若い

人々はあまり実感がないようでした。2年くらい前

の調査では、高いところでは64μS/hrもの高線量

が出たにも関わらず、あまり危機意識が感じられな

いように思いました。

他の場所で話したときと違ったのは「どうして他

の場所に移住しないのか」という質問がなかったこ

とです。話題には出たのですが、土地を離れるのは

蘭嶼:核廃料との闘い

そりゃあむずかしいだろう、という

反応でした。蘭嶼がまさにそうだか

らなのかなと思いました。蘭嶼を離

れてダウの人々に生きていく道は考

えられない、そういうことなのか

な、と。

執行長さんはSinan Mavivoさんと

い う。直 訳 す る な ら Mavivo の 母

(Sinan)、という意味になるようで

す。Mavivoというのは彼女の長男の

名で、子どもが生まれるとその子の

母というのが彼女の名前になる。結

婚前は未婚を示す別の名があるそう

です。中文名があるのですが、彼女

は決して自分からはその名を私たち

に告げることがありませんでした。

れるのは極めて残念なことです。Lubiさんのよきラ

イバルであったBakan Nawiさんは、半年あれば基本

的なことは教えられるけれど、後はむずかしい文様

への挑戦心を持ち、創意工夫のある人でないと先へ

は続かない、と言います。部落の娘さんたちは趣味

も根気もない、とBakanさんは嘆いています。平地

の人たちにも教えてきたけれど、やはり創意工夫と

根気が足りないとも言います。

Lubiさんも後継者作りを頑張った時代もありまし

たが、山が非情な勢いで市場経済に飲み込まれてい

く中で、女性たちが(儲からない)織物に苦労と時

間をかけてまで取り組むことができない状況があり

ました。Lubiさんもいつしか、しかたのないことと

あきらめるようになっていたと思います。

失失失失われるわれるわれるわれる織物技術織物技術織物技術織物技術 【編集部】

蘭嶼蘭嶼蘭嶼蘭嶼::::核廃料核廃料核廃料核廃料とのとのとのとの闘闘闘闘いいいい 古川ちかし

貯蔵所で:Sinan Mavivoさん

(左)と廖明徳さん(奥)

部落文化基金会での「棄民と隠蔽」

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(ちなみに頼メイホエ―漢字は分かりませんが―さ

んと言う、と基金会の別の方がこっそり教えてくれ

ました)

蘭嶼の核廃料貯蔵の歴史はみなさんもご存じか

と思うので細部は割愛しますが、

▼1982年4月22日に貯蔵庫の工事が終わり、5月には

ドラム缶10000本が搬入された。以来、現在までに

10万本が搬入されている。

▼2000年、阿扁の「原住民族との新パートナーシッ

プ」宣言。蘭嶼の核廃棄物の撤去、移動を約束し

た。

▼2002年に実施のはずだったが、行われなかったた

め、全島で抗議。廃棄場事務所に侵入、占拠、火を

つけて焼くと脅した。それで行政院長が謝罪にやっ

てきて、新たに議定書を作成。内容は、新たに二つ

の行政単位を作ること。一つは廃棄場移転を計画、

実施する単位。もう一つは、蘭嶼のコミュニティ復

興のための単位。合わせて2.2億元の予算もつけ

た。▼蘭嶼部落文化基金会は、このとき、民進党か

らの200万元の寄付と、この新規予算に500万申請し

てもらった金で創設した。

▼ところが、翌年には上記二つの行政単位が消滅。

経費申請したくても窓口が組織ごと消えてしまっ

た。結局、初年度に申請して認可された金額だけし

か使えなかった。

▼2005年に、立法院が核廃料貯蔵場の設置・管理に

関する規制や条件などを定める法律を作った。それ

で、今後は法律に従えばいいのだから、行政院の方

で監督部署は必要なしということになった。

▼1997年、住民が核廃料積み下ろし港を封鎖。衝

突。以来、新規の搬入なし(99年に搬入しようとし

たのを住民が埠頭で阻止した)。

現在の執行長は反核ということが知られていたの

で、2年前に就任した際、基金会が反核運動中心に

なってしまうのではないかと心配する声もあったそ

うだ。部落復興と反核とのバランスがむずかしいよ

うです。

2007年から腐食したドラム缶の修復が行われてい

ますが、台電が公開している修復作業の様子と、実

際の作業員が隠し撮りした作業の様子とは明らかに

違っています。実際には何の防護服もつけず、普段

着姿の作業員が密閉もされていない部屋でドラム缶

の腐食した場所にガムテープを巻いて黄色のペンキ

を塗っている…そんな状態のようです。(了)

蘭嶼:核廃料との闘い

蘭嶼核廃料貯蔵所

蘭嶼部落文化基金会の人々と記念撮影。左から三番目

がSinan Mavivo執行長さん。

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7月1日、集団的自衛権集団的自衛権集団的自衛権集団的自衛権のののの行使容認行使容認行使容認行使容認を僕ちゃん内

閣が閣議決定した。実行するには自衛隊法、周辺事

態法など、具体的な法改正が必要だからまだ大丈夫

と言って見過ごすわけにはいかない。これは一政権

の憲法解釈なんだから政権が変われば変わるものと

お気楽にとらえるのは間違いだ。なぜなら行政府が

したことは人々との契約違反の犯罪行為だからだ。

行政府は憲法の下に仕事をするのが義務であり、

憲法がだめと言っていることを「私たちの解釈です

からあしからず」ということは、明確に、誰が見て

も、職務を逸脱した犯罪行為であり、人々への裏切

り行為だ。

―いやあ、憲法は別に「集団的自衛権を行使しては

いけない」って言ってるわけじゃないんですよ

お。『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又

は武力の行使は、国際紛争を解決する手段として

は、永久にこれを放棄する』とか『国の交戦権

は、これを認めない』っていうのは、字義通り解

釈したらだめなんですよお。自衛のための武力行

使を認めないわけじゃないでしょ?常識的に言っ

てそうだから自衛隊というのが現在あるわけで

しょ?個別的自衛権は当然の権利なんですよお。

でも、個別的って言って、自分の国だけの都合で

行動するのは、今のグローバルな世界でわがまま

じゃないですか。そんな時代は終わったんです

よ、みなさん。だから常識的な範囲でね、米軍と

も協力しましょうって、そう言ってるだけなんで

すよお。みなさん、常識もってくださいね。小学

生じゃないんだから、ものごとを字義通りに受け

取って、憲法違反だなんて騒ぐ前に、お願いしま

すね。僕ちゃんたちもがんばりますから。

「手前勝手な常識」で国政を運営していいのであ

れば憲法は何のためにあるのか。憲法99条は『天皇

又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の

公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負

ふ。』と規定している。憲法のこの条項は、国民が

「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官そ

の他の公務員」に対して「手前勝手な常識」で国民

の生活に影響する公(おおやけ)の判断や、その判

断に基づいた行動をするなよ、憲法を守れよ、と命

令している。【ちなみに、憲法全文の主体、つまり

誰が書いているかというと、それは“国民”という

ことになっています。】その命令に背いた場合、そ

の公務員は任期途中だろうと即刻首だ。

―でも、憲法65条には「行政権は内閣に属する」っ

て書いてあるから、僕ちゃんたちは内閣なんだか

ら、行政上必要な判断をする権利があるんだよお、

そんなことも知らないのお?

あほか。65条の大前提にあるのが99条だろうが。

65条が憲法を守らなくてもいいと言っているわけで

はないことは学者に聞かなくてもわかる。

―だから何べんも言ってるけど、憲法には従ってる

んだってば。ただ、その解釈をさあ、ちょっとさ

あ、現代人の都合ってもんに合わせてさあ、現実的

にさあ、やろうって言ってんだよ。分かんないかな

あ。じゃあ、聞くけど、中国や北朝鮮が攻撃してき

たらどうやって日本を守るのさ。言ってごらんよ。

個別的自衛権は今でもあるって「僕ちゃん」たち

は言ってるわけだから、日本が攻撃されたら「武力

で守る」んでしょ、そう言ってたよね。そのために

世界第二位だか第三位の軍備をもった軍隊に予算を

つぎ込んできたわけでしょ。なのに「どうやって守

るのさあ」と僕ちゃんたちが聞くのはおかしいだろ

う。

―あは!そこまでは認めてくれちゃうわけね。自衛

隊は憲法違反ではない、と。

日本国憲法は、国の交戦権は何であろうと認めな

いとはっきり言ってる。自衛だの、個別だの、集団

的だの、理屈をつけてこれはいいけどあれはだめ、

と言ってるわけではない。全部だめ。それが今の憲

法だ。武力行使とその手段としての軍をもたない状

態で、どうやって国民を守るのかはむずかしい課題

だが、憲法は(国民は)それを要求し、それを実行

するために行政府がある。僕ちゃんたちの「常識」

で“そんなの無理だよお”と思うなら、辞任しなさ

い。できない仕事を引き受けて、出来ないから僕

ちゃんたちに出来ることに仕事内容を変えるね、と

いうわけにはいかない。

僕ちゃん内閣との対話にならない対話

僕僕僕僕ちゃんちゃんちゃんちゃん内閣内閣内閣内閣とのとのとのとの対話対話対話対話にならないにならないにならないにならない対話対話対話対話 村山さたね

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―何をまあ、ごたいそうに。そういうのを原理主

義って言うんだよお。日本国憲法は聖書でもコーラ

ンでもないのに一字一句に拘って…。原理主義はテ

ロリストなんだよお。おおコワ。

一般の人々にとっては憲法がすべての価値の最上

部に存在するわけではない。しかし、僕ちゃんたち

公僕にとってはそうなのだ。そういう前提で公僕に

なったのだ。あなたたちは、仕事上は「憲法原理主

義者」でなければならない。憲法原理主義者となる

ことを宣誓して今の仕事をしているのだ。

―見解の相違ですねえ。

またその捨て台詞か。では少し矛先を変えよう。

憲法25条第一項は「すべて国民は、健康で文化的な

最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定して

いるが、福島第一原発による放射能汚染を抑制でき

ない状態のまま、僕ちゃんたちは汚染地域に国民を

住まわせ、健康にかかわる情報も与えないでいる。

あまつさえ、放射能安全基準を無根拠にどんどん上

げ、結果、急増している子どもたちの甲状腺がんに

ついても、白血病や心臓疾患についても、放射能汚

染とは無関係だと(これも根拠なく)断定してい

る。今や汚染は太平洋を越えてハワイや北アメリカ

大陸西岸部にまで及んでいるにもかかわらず、必要

な公衆衛生上の警告も与えず、対策も講じていな

い。

―福島第一原発事故は収束したんですよお、僕ちゃ

ん宣言したのに、まだ知らないんですかあ。いつま

でそんなこと言ってるんですかあ。(ちょっと放射

能漏れちゃってて止まんないんだけど、それは大声

では言わないでね、あとメルトアウェイしちゃった

燃料がどこ行ったかも分かんないんだけど、メルト

アウェイってそもそもそういう意味なんだからこれ

も大声では言わないでね。)放射能安全基準は、以

前が低すぎたんですよお。今、適正になったんです

よお。大体、安全基準なんて恣意的なもので、どれ

くらいだったら癌になるとか決まってるもんじゃな

いですしねえ。甲状腺がんや白血病が増えたですっ

て?そりゃ、違う。福島事故があったから、心配で

心配で、国も手伝って一生懸命検査をやったから、

今までだったら見逃していただろう甲状腺異常なん

かも発見されるようになったから、数が増えたよう

に見えるんですよお。やだなあ、ほんとに。僕ちゃ

んたちは近海ネタの寿司でも、福島の野菜でもおい

しく食べてますよお(へへ)。危ないなんて風評、

いや、たちの悪いウソを言う人たちがいて、僕ちゃ

んたち、ほんとに心を痛めてるんですよお。福島の

人たちのことを思ったらそんなこと言えないはずな

のにねえ。アメリカのことは、まあ、アメリカの政

府の責任だから僕ちゃんたちに言われてもねえ。

それでは、たとえば他地域でも「一生懸命検査」

してみれば、(過去には10万人に0.8人という統計

数字が出ている)18歳以下の甲状腺がんの発症率が

全国的に急上昇していることが発見できるかもしれ

ない。それは「心配で心配で」たまらない事項には

入らないのだろうか。放射線による疾患の発症に関

しては近年ではチェルノブイリやスリーマイルでの

例も含めて参照できる事例があるが、どのような被

曝がどのような疾患に繋がるかについては統計的な

一般論しか言えない。にもかかわらず福島県(県立

医大)は、子どもの甲状腺がんと被曝との関連性は

「考えにくい」と発表した。なぜ長期的に調査せ

ず、即座に関係なしと断定できるのか。例の「人体

にただちに影響の出るレベルではない」という無責

任で無根拠な政府発表と同じだ。

―だったら、危険かもしれませんよおと言って、

僕ちゃん内閣との対話にならない対話

人々をパニックさせる方がいいって言うんですか

あ。みんな逃げ出して、東電、政府、責任とれなん

て騒ぎだしたら収集つかないですよお。みんなに賠

償金請求されたら日本経済、国家財政破綻ですよ

お。そしたら、困るのはみなさんでしょう。僕ちゃ

んたちは、みなさんのためを思うからこそ、ときど

きウソだってつかざるを得ないんですよお。

国民は僕ちゃんたちの「赤子」じゃないんだか

ら、僕ちゃんたちの勝手な「思いやり」や「寄り添

い」は必要ない。人々は愚民ではなく、僕ちゃんた

ちも賢者からはほど遠いのだから。憲法を順守して

やるべきこと、やんなさい。

―何言ってんの、みんな愚民ですよお。(愚民って

いうのは、もちろん言葉のアヤですよお、念のた

め) 一部の人たちはごちゃごちゃ訳わかんないこ

と言うけど、選挙したらホラごらん、僕ちゃんたち

勝ったでしょお。先のことは知らないけど、目先に

好景気の匂いをさせておけば、大部分の人は福島の

現実なんか実際どうでもいいわけだし、復興応援が

福島の人たちを逃げられなくしてるなんて気づいて

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5月3日 棄民と隠蔽@台東①臨海小宿社

②Kituru咖啡館

5月7日 棄民と隠蔽@嘉義 洪雅書房

5月21日 棄民と隠蔽@台中 亞洲大學

5月23日 棄民と隠蔽@台北 淡江大學台北校區

5月26日 棄民と隠蔽@台中 台中教育大学

6月1日 棄民と隠蔽@台北 海邊的卡夫卡

6月7日 棄民と隠蔽@台中 台中市鹿峰國小

6月13日 棄民と隠蔽@高雄 三餘書店

6月21日 棄民と隠蔽@嘉義 西平社區發展協會

活動中心 ・Respirer

呼吸之間

7月2日~8日 繋がっていく越境です:

南韓ツアー

7月7日 棄民と隠蔽@高雄 全球教保產業工會高雄

会場・地球公民基金會

7月19日 棄民と隠蔽@屏東 全球教保產業工會屏東会

(毎週水曜日に聊聊映画会をしていますが、その情

報はここでは割愛しました。)

5555月月月月~~~~7777月協会活動月協会活動月協会活動月協会活動

ないからホイホイ乗ってくるし。(汚染食品、食べ

て応援キャンペーンなんて、あんなに簡単に騙され

るとは思ってなかったけど、楽勝だったよお。)実

際に景気が好転しなくたってそのときには世界経済

不安定化とか言い訳できるし、放射能汚染の被害が

もっと酷くなったときには「癌は国民病」とか「多

死社会」とか、言い訳なんかいくらでも準備してる

し。実際はペイしなくても東京オリンピックとかぶ

ち上げておけば、経済復興の夢、勝手に見てくれる

団塊世代とバブル世代がいるし。尖閣諸島問題だっ

て、こっちから中国挑発しまくったら案の上、向こ

うが反応してくれて、米軍協力できる体制ができあ

がって、人々にはしっかり嫌中気分がまん延し

ちゃったし。楽勝、楽勝。

原発だって、米軍や自衛隊の基地だって、リニア

中央新幹線だって、愚民は(あくまでアヤですよ)

みんなどうせNIMBY(私の裏庭には作らないで、

どっか別のとこに作って)でしょう。わがままで自

己中なくせに、はっきりものを言わないし、人と

違った意見や行動は出さないし、メディアさえ押さ

えておけば楽勝でやりやすいったらありゃしない。

誤解しないでくださいよお、僕ちゃんの言いたいの

は、みんなのことをほんとに考えてるのは僕ちゃん

たちなんだよってこと。

はたして日本の有権者たちがここまでバカにされ

ても分からないほど酷い視野狭窄に陥っているのか

どうか、まずは11月の沖縄知事選が一つのヒントに

なるかもしれない。基地建設賛成であろうと反対で

あろうと、県民との公約を一方的に廃棄し、辺野古

埋め立てを承認した知事を許さないという意思表示

を明確に出す必要がある。(了)

僕ちゃん内閣との対話にならない対話

これからのこれからのこれからのこれからの活動活動活動活動

棄民と隠蔽@高雄 7/7

8月3日~6日 済州島江汀村平和キャンプ参加

8月9日~11日 Eaphetバザー

8月15日 棄民と隠蔽@台中 哲学星期五

以後の活動は、夏休み明けに決定しますが、

▼毎週水曜日には聊聊映画会(夕方7:30~)

▼英語で読むかい、第二段。9月以降開始予定。

▼核電勉強会 隔週金曜日午後2時~4時(現在夏

休み中ですが、9月以降再開の予定)

▼スヌイ教会の壁画制作プロジェクト:東海山プ

ロの参加者がいないので、当面、Eaphetで製作を

進めることになります。実行日時はその都度決め

てご案内します。

▼台中で野菜を作ろうかい:張雅婷会員の家で、

畑を使わせてもらえることになりました。大豆な

ど、作りたいと考えています。どうぞご参加くだ

さい。

▼10月12日(日)夕方:福井AALの方々を迎えて

「ひまわり学運」と現在の台湾学生運動(座談

会)at Eaphet ▼10月13日(月)9:30~12:30 福井AALの方々を

迎えて 「台湾の反核運動」座談会

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遠い中東でイスラエルがパレスチナのガザ地区

を空爆し、多くの無実の人々が殺されているこの

時、マレーシア航空機ボーイング777型機がウクラ

イナに墜落し、乗員全員死亡、欧米とロシアは互い

に犯人を仕立てあげるための情報合戦を始めた。

その頃、沖縄の北部・辺野古では米軍基地建設

のために、美しい海を破壊する埋め立て工事が今に

も開始されようとしている。

日本の最西端与那国島には自衛隊のレーダー基

地を設置し、京都の京丹後には米軍のレーダーの建

設が予定されている。

九州の南部鹿児島の川内原発では、補助金に依

存せざるを得なくなった自治体の後押しの下、原子

力規制委員会により安全性の不明のまま再稼働が認

められ、日本の原発輸出が進められている。

東京から名古屋まで、また大阪まで、ある試算

では新幹線よりも電力使用量が5倍、電磁波はWHOの

定める1Gの200倍発するとされるリニアモーター

カーを通すために、日本の最大の断層中央構造体を

横切って、トンネルが掘られようとしている。トン

ネルの上の町は地下水が減少すると言われているの

に、反対の声はマスメディアには流れてこない。復

興とは程遠い福島原発事故に蓋をし、とにかく経済

優先で原発輸出、武器輸出、戦争参加に邁進をして

いる。

海を越えた済州島のカンジョン村では海軍基地

建設のために、神聖なるクロムビの岩を破壊し、地

元住民や支援者を暴力的に排除し着々と工事を進め

ている。

慶尚南道の密陽市では古里原発からの76万5千V

もの電気が送られる送電線が張られ、山に鉄塔を築

かれつつあるが、反対する地元のおばあさんと支援

者たちが立てこもった山小屋は強制的に排除され

た。釜山広域市と蔚山広域市の境にある古里原発の

隣の新古里原発には更に2~4号機が新設されようと

しているが、他の地域の例

に違わず、住民同士を分断

させ、原発輸出の威信をか

け強行している。他にも世

界中のあらゆる地域で、圧

倒的な国家や企業の力の

下、一部の利権や利益のた

めに、人々の抵抗も虚しく

生活を破壊され、健康を破

壊され、抹殺されているこ

とだろう。

私にはこれらが別々個別の事とは思えない。別

に首謀者が同じだと言いたいわけではなく、今世の

中の向かっている大きな潮流の中で起こっているよ

うに感じる。経済利益優先の戦争であり、核開発で

あり、軍備拡張であり、思い描いていた未来とは程

南韓ツアー2014:抵抗と連帯

遠い世界になりつつある。

今回の韓国ツアーでは「市民的

抵抗」というテーマ(だったは

ず)で、市民の抵抗運動もこの

大きな潮流に対抗するべく、一

つの流れにならなくてはいけな

いな、と強く感じた。

カンジョン村で台湾から移り住

んだエミリー・ワンとその夫君

から聞いた話が印象に残ってい

る。彼ら二人はカンジョン村の外から反対運動の為

に来た平和活動家だ。今カンジョン村は大きな分岐

点に立っていると言う。基地はもう60%は完成して

いるという。このまま反対運動を続けるのか、どう

にか折り合いを付けて受け入れるのか。地元住民で

Eaphetでは2014年7月2日

から8日まで南韓ツアーを

実施しました。短い日程の

中で済州島江汀村での海軍

基地抵抗運動に参加し、密

陽での送電線鉄塔建設阻止

運動を参観し、古里原発と

新古里原発を見学するとい

うものでした。同ツアーの

参加者が、ツアーを通して

考えたことを文章にしてく

れました。

南韓南韓南韓南韓ツアーツアーツアーツアー2014201420142014

抵抗抵抗抵抗抵抗とととと連帯連帯連帯連帯::::韓国韓国韓国韓国でででで思思思思ったことったことったことったこと 吉田藍

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23

長年反対を続けてきた人たちは、後者に回っている

人が多いという。今回済州道知事選で当選した人

は、基地建設には賛成派だが済州道出身の初の知事

になることで、済州道の意見が中央に届きやすくな

ることを期待しているのだろう。あくまでも基地に

反対し続ける人たちには平和・反戦という普遍的な

価値観のもと海を越えてやってきた人たちが多いの

だろう。今、両者の間に微妙な溝ができつつあると

いう。「開拓者たち」(The Fronteers)の平和活

動家のブラザー・ソンは、「いつか私たちも出てい

けと言われる日が来るかもしれない」と言ってい

た。

どちらがより土地を大切に思っているかという

ことではなく、微妙な感情の差が生まれてしまうの

はしょうがないように思える。それは東日本大震災

後の私の地元でも感じることだ。自分の問題として

コミットしても、同じフィールドで抵抗していくの

は難しいことだろう。しかし大きい力に対抗するた

めには多くの人の関心を引き付け、繋がり連帯し、

運動を継続的に行える体制を整えることがとても重

要だと思う。カンジョン村はその方法の多くを実践

し、学ばせてもらうことがとても多い。誰もが反対

運動の中でその土地に根差して行動できるわけでは

ない。カンジョン村の人たちに深く愛されながら、

懸命なエミリーの姿が頭から離れない。

台湾では反原発運動が盛り上がりを見せ、市民

の多くの関心を生んでいる。今回韓国に行く目的の

一つは韓国で原発がどう受け止められているのか知

りたかったということがある。台湾では市民運動に

対して、それほど抵抗を感じず、自分が抗議したい

ことにはみんな積極的に意見を言い、デモなどにも

参加できるし、参加した人に対してもそれほど変な

視線を向けることがない雰囲気がある(関心を持つ

かは別として)。私のイメージでは韓国は台湾のよ

うに市民によって民主化を勝ち取って来たという印

象があったので、日本と同じように運動に参加する

人が少なく、変な視線で見られると聞いて、意外な

感じがした。

古里であったスーヒさんは新古里原発の2、3号

機の新設にあたり、地域住民で反対するもの、賛成

する者の間で軋轢が生じていることを教えてくれ

た。新古里原発が建設されれば、補助金が降りて地

域が活性化するのだろうが、古里原発がある地域

が、いわゆる補助金で潤っているような町には見え

なかった。道路が整備されているとか、有効利用さ

れているのか疑問に思うような立派な公共施設など

が見られなかったからだ。閑散としていて、過疎化

が進む漁村という印象を受けた。韓国電力が開催し

た新古里原発の説明会に密陽の送電線建設に反対を

しているおばあさんたちを含む地域住民や支援者が

応援に駆け付けたが、そこで新古里原発賛成住民が

密陽からの人々を会場にいれないようにし、激しく

もみ合ったそうだ。それを韓国電力関係者や警察は

腕を組んで高みから見ていただけだったという。意

図的に人々を対立させているという構図がここでも

見られた。

カンジョン村で会った警察の女性は、私たちが

中国語を話しているのを聞き、「あなたたちは中国

人ですか?」と訪ねてきた。私は韓国語ができない

ので中国語で話せることが少しうれしくなり「中国

からじゃない、台湾からです」と返答した。しか

し、それは言葉が通じた時の楽しい交流ではなかっ

た。女性は続けて「あなたたちがやっていることは

違法行為です。強制出国になるかもしれませんと」

と忠告してきた。反対運動のメンバーからも警察と

は話さないようにと言われた。

もしこの女性と出会ったのが、

このメインゲートの前でなく、

市場やその辺の道端で、お互い

の素性を知らなければ、全く

違った出会いをしたんだろう

なぁと思った。もしかしたら友

達同士になったかもしれない。

密陽で警備をしていた兵役

中の若者たちにも同じようなこ

とを感じた。そこにいた警察か

機動隊か軍かは分からないが、

帽子についているワッペンには

二種類あって、銀色のものを付

けているのは兵役中の若者だと

教えてもらった。山の上の鉄塔

建設地に続く道路を通る車を検

問していた警備にハルモニ

がものすごい剣幕で詰め

寄った。こうやって外から

応援に来てくれる人たちを

検問することに対して抗議

しているとのことだった。

その時、確かによく見てい

ると、銀色の帽子の兵役中

の若者は表情にはあまり出

さないが、自分の置かれて

いる状況にどうしたらいい

のか戸惑っている感じがし

た。その後責任者らしき人

が出てきてハルモニと話を

付けていた。歳を感じさせ

ないハルモニの力強さに圧

倒され思わず感極まる光景

南韓ツアー2014:抵抗と連帯

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24

であったが、それと同時に自分の意思とは関係な

く、国家や権力の側に付かざるを得ないあの若者た

ちはこれをどう受け止められるのだろうと心配に

なった。「心が折れてしまわなければいいけど…」

と小さくつぶやいた。

ここ最近、以前との比較はできないけれど、確

実に色々な地域の市民同士の繋がりが強くできてい

るように思う。お互いの経験をシェアし合い、協力

し一緒に闘う。今回の韓国ツアーではそれを更に強

く感じた。これがもっと大きくなっていくことが、

私たちの抵抗なのではないかと思う。(了)

韓国から帰ってきて、もう二週間が経った。韓国

へ行くのは、5回目だけど、今までの4回は全てソウ

ルやソウル近辺だったので、はじめて行く釜山や済

州島は新鮮でとても楽しかった。もう一度ちゃん

と、韓国語を勉強したいなぁと思った一週間。自分

の足で訪れ、自分の目や耳、感覚を使うことの大切

さ、交流することの楽しさを改めて感じた日々だっ

た。約一週間のツアーの中で、私にとって、強く印

象に残っていることを中心に、いくつか書きたいと

思う。

今まで、韓国に5回行っているけれど、毎回毎

回、知らないことばかりだとつくづく感じながら、

帰ってきていた。そして、今回もやっぱり同じだっ

た。でも、今までと少し異なるのは、今まで高校の

ときに選択授業で3年間参加していたスタディツ

アーと今回のツアーが、自分の中でゆるく薄くでは

あるけれど、つながっていっているような気がした

ことだ。行った場所も、一緒に行ったメンバーも違

う、もちろん出会った人々も異なる。だけれど、今

回のツアー中、私の中で「あぁ、あのとき考えてた

ことだ。」とか「これは、あのときの話し合いとも

しかしてつながるかなぁ」と高校生の時に感じて、

モヤモヤしていたことやもっと考えたいなぁと思っ

ていたことが、ふわぁと頭の中にもう一度浮かんで

来たりして、なんだか今までと今がつながっていく

ような気がして、不思議だったし嬉しかった。

実は、協会で、カンジョン村の話しを聞くまで、

済州島=カジノや高級ホテル、韓国ドラマの撮影地

というぐらいの認識しかなかった。日本にも、米軍

基地は沢山あって、基地と人々の闘いは続いてい

る。私は、ただただ単純に、戦争はいらないと思う

から、基地なんていらないと思っていた。でも、そ

れを自分ごととして本気で考えていたかというと必

ずしもそうでない気がする。例えば、沖縄へいく度

に、「基地が多いなぁ」「嫌だなぁ、おかしい

なぁ」と思うけれど、自分の日常生活の中で基地に

ついて考えることはあまり無かったし、自分の目や

耳で、基地と闘う人々と話しをする機会もほとんど

なかった。だから、今回カンジョン村から帰ってき

て、今度、高江や辺野古にも行きたいって思った。

きっと、自分自身の生活に直接影響があれば、毎日

の様に基地について考えるのだと思う。それは、私

だけではなくてきっと多くの人が同じなのではない

だろうか。自分が経験していないことを自分ごとと

して考えることもとても難しい。それは、基地の問

題だけでなく、原発であったり、開発のことであっ

たり、この世界で起きているいろんな事に言えると

思う。だけれど、「想像力」を最大限に働かせれ

南韓ツアー2014:つながっていくこと

ば、顔のみえない誰かを思いやれる様になれるし、

自分のことに置き換えて考えられる様になれるはず

だと、私は信じたい。

カンジョン村での抗議ミサの時、私は、絶え間な

くゲートを出入りするトラックを只々座ってみてい

るしかできなかった。小さな身体のおばあちゃん

が、何度もトラックを阻止しようと、警察の隙をみ

ては前へ出て行く。おばあちゃんは、ひかれてしま

いそうになる。そんな光景を、すぐそばで座ってみ

ていて、どう表していいか分からない気持ちになっ

た。只々、反対の声を上げ続けるエネルギーの強さ

を感じた。豊かな自然が壊され、人々のコミュニ

ティや生活が、「補助金」「安慰金」等という名前

のお金の力によって引き裂かれて、その引き裂かれ

た溝はなかなか元通りになることができない。「国

を守る」為の基地というが、そこの人々の生活を守

つながっていくことつながっていくことつながっていくことつながっていくこと 上前 万由子

江汀村海軍基地建設現場で筆者(右)

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25

るどころか、その言葉自体が、そこの人々の

生活を壊していっているように感じた。軍事

基地をつくることは戦争を肯定してしまうこ

とでもある。平和の為の基地は存在しないは

ずだし、もし戦争をしなければ基地なんてい

らないのだから、基地の建設に反対だ。

蜜陽のことと、古里原発のことを少し書き

たい。刻一刻と送電塔の建設が進められる

が、ハルモニハラボジたちのあきらめない姿

をとても尊敬する。「元気や力に少しでもな

れたらと蜜陽にきたのに、ハルモニハラボジ

から元気とパワーをもらった。」と、ソウル

や釜山、韓国各地からきた人々がみんな言ってい

た。きっと、私もその一人だ。あのパワーやエネル

ギーは一体どこからくるのだろうか…この声をあげ

続けるエネルギーの強さは、カンジョン村で感じた

エネルギーの強さと同じだ。オクソンハルモニたち

は、「あんなもの、引っこ抜いてやる」と言ってい

たけれど、悲しいこと、悔しいことに、事態はどん

どん悪い方向へ進んでいく。ハルモニハラボジたち

の疲れや体調不良が続く日々の中、「私たちはま

たはじめる!」というスローガンや、「蜜陽の抵

抗シリーズ2」などと報道されている抵抗運動。

刻一刻と進む建設を前にし、具体的な策はまだな

いようにみえるが、抵抗はまた始まったばかり

だ。

今年の4月、台湾では多くの人々の反対と運動に

よって(もちろんそれだけではないし、あくまで

停止なのだけれど…)、第四原発の工事停止が決

定された。そのことが少しでも、蜜陽の人々の希

望にならないだろうか。台湾からなにかできるこ

とはないだろうか、台湾へ帰ってきてから頭の中

でぐるぐる考え続けている。これは、ただ単に、

送電塔の話しではないはずだ。原発のこと、原発

輸出のこと、都市で暮らす私たちが見落としてし

まっていることいろんなことにつながると思う。

だから、単なる、外国の小さな村の知らないおばあ

ちゃんおじいちゃんたちの闘いではないと思う。私

たちの生活にも、根底の部分でつながっていること

がたくさんあると思う。

蜜陽の送電塔は、釜山の古里原発・新古里原発で

つくられた電気を、大邱の変電所まで送るためのも

のだ。韓国電力と韓国政府のこの計画は、最終的

に、ソウルまで電気を送ることになっているそう

だ。だが、一番電気を使う大都市ソウルは、一番電

気の自給率が低い。そして、原発海外輸出の為に

も、政府も電力会社も何としてでも原発を稼働させ

たいようだ。なんだか、この構造は、日本と似てい

る気がする。東京は、沢山電気を使っているが、東

京で発電はあまりされていない。もちろん、東京に

原発もない。地方から大きな送電塔と変電所をいく

つも使い送られてきた、電気を使っているのだ。そ

して、私を含め多くの都市で生活する人々は、普段

の生活が誰かの犠牲の上に成り立っているかもしれ

ないということすら気付かないまま或は気付いてい

てもどうしようもないまま、日々を過ごしている。

どうすればよいかと考えた時に、きっと一番いいの

は、生活から変えていくということである。本来、

自分の使う物や食べるものを自分で自給できればそ

れが一番いい、だけれど、いますぐ、そんなことは

出来ない。できないのであれば、少しずつでも生活

を変えていく必要があると思う。例えば、電気をな

るべく使わない生活をしたり、環境に優しいものを

使ったり、よくないことを推し進めている企業の製

品を不買運動したり…とそれら小さなことからしか

出来ないのは少し悔しいけれど、何かしら自分の周

りでできることをやっていかなければなにもはじま

らないし変えれないだろう。

「公共事業」、「多くの人々の為」という名の

下、開発や原発建設、基地建設があちこちで進んで

いく。なんだか、この構造にとても違和感を抱いて

南韓ツアー2014:つながっていくこと

密陽でトクチョン・ハルモニ(右から2番目)と筆者(右から4番目)

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南韓ツアー2014:つながっていくこと

しまう。皆の為には誰

かの生活を犠牲にせざ

る負えないのだろう

か。「国 の 安 全 の 為

に」といわれ建設を進

められる基地、「国家

の経済発展と原発輸出

の為に」と建設が進め

られる。だけど、そん

なことの前に、人々の

基本的な平和な生活

は、国家と大企業の大

きな力によって破壊されている。こんな現状が、果

たして世界にはどれだけ存在するのだろうか。自分

たちだけが良ければいいや、国全体の発展を!経済

成長を!という考えの前に、なにか大切な基本的な

部分を見落としてはいないだろうか。一見、関係な

いと思うことでも、

きっとどこかでつな

がっているはずだ。も

し自分がそのの立場

だったらと想像するこ

とはとても大切だろ

う。

それから、蜜陽でハ

ルモニハラボジと直接

話しができたこと、家

に泊まらせてもらい、

ハルモニハラボジそし

て釜山やソウルから来ている支援者の人々と少し交

流できたこと、カンジョン村でいろんな仕事をやら

せてもらったり、平和の島連帯学習会で、発表を聞

いたり発表したりできたことが、とてもよかったし

楽しかった。言葉の壁があったから、全てを伝え合

うことができなかったのはとても残念だったけれ

ど、台湾に帰ってきてからもインターネットを通じ

てツアー中で出会った人々から、カンジョン村や蜜

陽のこと、古里原発のことを知ることができるし、

お互いに情報を交換したりできて嬉しい。距離的に

すぐに行くことや、何度も行くことは不可能だけれ

ど、インターネットを通じてつながっていくこと

は、関心を持ち続けることや連携すること、います

ぐできることのはじめの一歩なのではないかと思っ

ている。それから、やっぱり自分の言葉で自分の考

えを語れるようになりたいし、現地の言葉でその土

地の人々と交流したいと思った。なぜなら、その方

が、距離がぐんと近くなるような気がするからだ。

今回、蜜陽での宴会以外、通訳をしてくれたいっぺ

いさんにずっと頼りぱなしだったことを実はとても

反省している。例え、下手でも通訳に頼りっぱなし

になるよりも自分で一生懸命伝えようとする事や聞

き取ろうとする事が大切だということは、今までの

韓国の旅、そしてなにより台湾での生活で一番自分

が分かっているはずだ。だから、次はちゃんと自分

の口で、自分の言葉で、もっと自分の考えや思いを

語れる様に聞き取れる様にがんばりたいと思った。

少しツアーの感想とは話しが逸れてしまうけれど

もう一つ思ったことを書きたい。私は、自分の考え

を口に出すまでにとても時間がかかる時とかからな

い時の差が激しいと思う。その差はどういう基準で

くるかは自分自身よくわからないのだけれど、わか

らないことや知らないことを、「分からない。」

「知らない」と言うことだったり、すぐに感想にま

とめることが、どうしてだか分からないけど、少し

苦手だ。だけど、これはとても矛盾していて、分か

らないこと、知らないことを知ることや、感想を共

有し合うことはとても好きなのだ。ただ、「分から

ない」と感じると、自分の頭の中で黙々とグルグ

ルと考え始めて、みんなが忘れた頃に、急に話し

たいことを思いついて話したくなってしまう。

時々、ツラツラと綺麗な言葉で語れればいいなぁ

とも思う。だけど、ツラツ

ラと綺麗な言葉で語れなく

ても、言いたいこと自分の

中でぐるぐるしているもの

を、言葉にすることも大切

なのかもしれない、その中

できっと、何か得られるも

のはあるし、誰かと自分の

考えを共有し合うことで、

新しい発見や新しい考えに

出会えるだろうと、今回の

ツアー中、何度も思った。

カンジョンの海軍基地建設、蜜陽の送電塔、高江

や辺野古、集団的自衛権、原発、自由貿易などな

ど、なんだかどこもどれもため息をつかざるを得な

いような状況だ。だけど、こっちが諦めたら、相手

の思うつぼだ。「どう闘

いつづけていくか。」と

いうことを、何度も考え

た。なかなかすっきりと

答えはでないけれど、

「逆 の 発 想」と「つ な

がっていくこと」がとて

も大事だと思う。逆の発

想とは、私たちは放棄す

るから、みなさんもご一

緒にと呼びかける責任は

ありますよ、という発想

だ。きっと、原発や軍事

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基地いろんなことで、この発想は使えるはずだ。距

離的なこと、言葉のことなどから、常に一緒に何か

できるわけではないけれど、韓国、日本、台湾で起

きていること、その土地の人々の声に耳を傾け、関

心を持ち続けたい。ひとり一人や一つ一つの団体の

力はとても小さくて、国や大企業の大きな力には敵

わないから、小さな力を集めることが大切だ。い

ま、私にできることがあるのなら、それは、みてき

たこと、聞いてきたこと、感じたこと、それらをど

うにかして、伝えて行くことだと思うから、まずそ

の一歩をきちんとやり遂げたい。継続してそこへ足

を運びその土地の人々と交流していくこと、関心を

もちあいつづけることはとても大切だと思うし、い

ろんな発見や学び、出会いがあって、楽しいから、

来年もしくははそれよりも早く、もう一度、カン

ジョン村や蜜陽の人々へ会いに行きたい、そしてま

たいろんな人や事柄に出会いたい。(了)

南韓ツアー2014:南コリア―人民の抵抗

2014年3月、台湾で行った『ヒマワリ運動』とい

う人民の抵抗運動が台湾あちこちの人民の心の琴線

に触れ、各地で団体を作ったり、政府や企業を監視

したりし始める。自分の国家のため、輝く未来のた

めに。同時にその力を世界各地に広げ、世界各地で

戦ったり命をかけたりしている皆さんに希望を伝え

たい。希望と信念を持ちつつ……

政府と企業と財閥の行動はいいことでも悪いこと

でも、すべて人民との深い関わりがある。人民の声

を無視したり生活を破壊したりするなら「人民の抵

抗」は必然!台湾の存在自体に脅しかけている台湾

と中国間のECFA問題であれ、カンジョン村及びチェ

ジュ島全体の自然環境が汚染されてしまう海軍基地

建設の問題であれ、全世界に注目されたり議論され

たりしている原子力発電所の問題であれ、すべて

人々の命や財産に影響を及ぼす深刻な問題である。

むろん中身はそれぞれ違うけど、問題はどこにいっ

ても同じ。

台湾から出て南コリアへ、「人民の抵抗」はどう

なるの?

First stopFirst stopFirst stopFirst stop-カンジョン

村。カンジョン村は「世

界平和の島」と呼ばれて

いるチェジュ島にある村

で、「水 の 村」と も 言

う。豊富な湧水で知られ

ていて有名な村である。

カンジョン村を囲んでい

る海水の中には極めて珍

しい自然の宝物が埋められたりして、そして、南コ

リアの70%の水生生物がここに生きている。カン

ジョン村とその周りの海域は2002年の時に生物圏保

護区として国際連合教育科学文化機関(UNESCO)に

登録され、そして、04年と06年の時に「絶対保護指

定地域」と「優良生態村」と指定されていた。ま

た、Jungdoek海岸の絶対の眺めはチェジュ島「オレ

道-歩道7」として知られる天然の海岸である。

「南コリアのハワイ」と言われている観光地でもあ

る。

しかし、すべては海軍基地の建設が決められた時

に変わった。きれいなカンジョン村が消えていく

日々、チェジュ島の平和も失われていった。

1945年までに朝鮮と台湾は日本の植民

地であった。45年の8月に日本が敗戦し、

連合国の軍隊に降伏した。朝鮮と台湾は

植民地から脱けだして、光復を迎えた。

ところが、やっと自由になれると思った朝鮮と台湾

は続々と米国の軍隊と中国の国民党軍に占領される

結果となった。米国とソ連が北緯38度線/38線を分

割占領ラインとして朝鮮半島を二つに分け、北はソ

連、南は米国に管轄、支配されることになった。南

北の分裂により、北朝鮮にはソ連の支持の下で朝鮮

民主主義人民共和国が作られた。南コリアでは米軍

が北朝鮮政府の存在を認めない中、大韓民国政府が

成立した。50年代にかけて、大韓民国政府の反共親

米の軍事独裁のもとで、南コリアは白色テロの時代

に入り30年も長く続けてきた。80年代に冷戦はもう

すぐ終わるところで南コリアの経済は高度に成長し

始める。また、新自由主義の立ち上がりによって南

コリアは民主主義を迎える時代となった。1987年に

南コリアの大統領は民主化の宣言を発表した。しか

し、一体誰にとっての民主化であったのだろう?

南コリアのチェジュ島は、12、13世紀の頃に高麗

に呑み込まれたが、曾ては独立の精神を持っている

一つの国であった。いまでもこういう精神を保ちな

がら生きている。1948年、大韓民国政府の成立によ

るチェジュ島の抵抗でチェジュ島は南コリアの軍隊

南南南南コリアコリアコリアコリア----人民人民人民人民のののの抵抗 抵抗 抵抗 抵抗 Obing Lubi

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南韓ツアー2014:南コリア―人民の抵抗

や警察及び米軍に散々いじめられたり抹殺されたり

し、島民も【赤い】レッテルを貼られる結果となっ

た。今でも。これは皆がよく知る「4・3事件」で

あったが、事件は終わっていない、今でも頻繁にカ

ンジョン村で同様のことが起きているのだ。

1993年、南コリアの国防省は省内の会議でチェ

ジュ島海軍基地建設の草案を議決した。が、島民の

反対で工事は開始しなかった。でも、最後に海軍基

地の建設は2007年にカンジョン村で決定した。元村

長Yoon Tae-Jungの騙しのもとにチェジュ島知事に

よって決定された。元村長は広告宣伝に違反してカ

ンジョン村指導委員会を海軍基地建設会議に参加さ

せた。けど、出席者は全部海軍基地建設を支持して

いる人々であって、しかも【拍手】で「海軍基地建

設請願書」を通した。拍手で決定した、こういうバ

カバカしいやり方で大事な政策を決めることは別に

して、建設を進めるため会議に誘われたのはすべて

支持派の人であったこと自体が、島民を草のように

取り扱う許せない行為である。新しい村長Kang

Dong-Gyunが就任した後に改めて投票をしたことが

ある-反対票94%と逆転。けど、その結果は無視さ

れて工事は無理やりに開始された。その上、工事を

うまく進めるためチェジュ島知事がカンジョン村の

「絶対保護指定地域」地位を変えた。

「絶対保護指定地域の地位変更報告書」による

と、海軍基地は観光地という形で名を『軍民複合型

観光美港』に変え、この地域の環境は一切破壊しな

いとも書いている。ところが、工事を始めてすぐに

カンジョン村の生態は破壊され、命の岩と海床とし

て知られてるGureombiも爆破され、セメントに汚染

されてしまった。

――――4・・・・3事件事件事件事件がががが日日日日々々々々継続継続継続継続、、、、村民村民村民村民はどうしたらいいのはどうしたらいいのはどうしたらいいのはどうしたらいいの

かかかか????

初めてお会いした平和活動家-金東元(左)と

Emily Wang(右)ご夫婦。彼らの情熱的な接待で

我々の間に言語の壁があることを忘れていた。曾て

刑務所に入れられたり強制帰国及び入国拒否をされ

たりした金氏夫婦、彼らはカンジョン村の人ではな

いけど、在住者として心をこめて村の支援に力を尽

くしている。

活動家の金東元氏は元々はソーシャルワーカーで

あった。兵役につくのを待っている2011年の時に、

氏は知人に誘われてチェジュ島の法環村にいき、学

生団体のカウンセリング活動を行った。その後、カ

ンジョン村まで遊びに来た時、村全体の張り詰めた

雰囲気と住民-警察-海軍間の激しい衝突を目の前

に見てしまった。その時からの彼はカンジョン村の

ことをもっと深く知りたくなって、海軍基地建設の

問題に対して村民はどう見るか?どんな要因によっ

て地域共同体の崩壊が促進されるか?等考えるよう

になった。それで、これからの計画を変え入隊する

のをやめて、村の人たちを訪問したり海軍基地の正

門前での「百拝」活動に参加したりし始めた。

活動家のEmily Wang氏は台湾の人で、元々はチェ

ジュ島へ遊びに行き途中でカンジョン村に寄って、

たまたま村の人と警察間の激しい衝突を見た。氏に

とって一番信じられないのは村民や活動家、さらに

自分の友だちまでも目の前っで次々と逮捕されてし

まったこと。目の前に起きることを見ないふうを

装って、そのまま帰るわけにはいかないと思った

Emily氏は村に長期滞在を決めたのである。カン

ジョン村及びチェジュ島が今直面している問題はも

う生活の一部になっている。たとえコリアの人でな

くても村の人でなくてもこの問題はナショナルと関

係なく、責任だ!この戦争に参加する責任がある。

カンジョン村の村民と一緒に平和のために戦おう。

----人民人民人民人民のののの抵抗抵抗抵抗抵抗、「、「、「、「テロテロテロテロ」」」」処理処理処理処理

2011年に海軍基地建設が正式に開始された。村の

人がいくら抵抗をしても止められなかった。同年8

月に村民が次々に逮捕されてしまった。また大韓民

国政府が国内の警察をたくさん呼びかけカンジョン

村に配備したりして、チェジュ島の警察を加えて千

人以上も配置しJoungdoek海岸にいる住民を全部追

い出した。さらに、海岸への道はすべて封鎖され、

鉄条網とか監視カメラなどもあちこちに設置。強制

排除の当日に38人の人が逮捕された。その後は釈放

されたけど、全部ではない。リーダーや村民や平和

活動家は何人もまだ監禁されている。

海軍基地に反対する村民や平和活動家らは

「Gureombi非協力運動」を行い不満や要求を表し

た。陸上でも海上でも不服従運動を展開し、非暴力

的、平和的なやり方で行った。例えば、海軍基地の

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29

南韓ツアー2014:南コリア―人民の抵抗

前に座り込んだり、歌唱や踊り、バイク乗り、食

事、宴会の開催、宗教儀式、ストリートアートなど

をしたりしていた。紛争中に「一歩一平和」と「三

歩一拝」も進行していた。…

海軍は今ままで武力で、正当的ではないやり方で

村民を制服してきた。しかも、「国家安全」を阻害

したという罪名を関係者に与え、色々な調査や告訴

や罰金及び禁止令を展開し始める。そのため、帰る

こともできずに多額の罰金だけ身につけている人が

たくさん出た。繰り返し法律を使って島民の財産や

命を弱め、「正々堂々」と反対派を抹消する。残虐

な政府や企業及び海軍から自分の土地を守るために

闘っている村民のどこが悪いというのか!?

----計画的計画的計画的計画的なななな侵略侵略侵略侵略、、、、元元元元のののの家家家家はなくなったはなくなったはなくなったはなくなった

「海女」は海岸地域では地位が高くてパワーがあ

る権威者で、また海の保護者でもある。一緒に暮ら

してきた海が侵害されることを絶対許せない。1993

年にチェジュ島で海軍基地建設を決めた時にも海女

のおかげで建設を止めた。しかし、その時選ばれた

のはカンジョン村ではなかった。近くにある唯美

(Wimi)村落であった。海女の力で海軍が撃退さ

れて、建設も止められた。その後、海軍は場所を変

え和順(Hwasun)村落に来た。けど、またダメに

なった。二回撃退された海軍が教訓を覚えカンジョ

ン村に転戦しに来た。計画的にカンジョン村を侵略

しに来た。海女を征服したら海軍基地建設はうまく

行くと思う海軍が、海女を連れて海軍基地に見学し

たり特別サービスをたくさん与えたりした。また巨

額な【【【【慰謝料】】】】を定期的に出したりしている。これ

で海女が征服され海軍基地の建設も決定。カンジョ

ン村の海女が海やチェジュ島の海女と村民を売った

と批判されている。仲よしの友達や家族もそのため

決裂した。

カンジョン村とGureombi海岸を一緒に守ったり

してきた仲間はどんどん減り、曾ての「Gureombi

非協力運動」は「百拜」と「人間の鎖の踊り」しか

残っていない。海女の裏切と法律の攻撃で、多くの

活動家と村民は正面的に反対できなくなった。仲間

の減少と犠牲者の増加を避けるため不服従活動は以

前より柔らかくなった。毎回活動する時に、いきな

り横に押しのけられたりする人がいる。押しのけら

れた人たちはすべて刑罰や仮釈放中の活動家と村民

である。“我々は怖がるわけではない。仲間を失い

たくないだけです。”

――――海軍基地建設海軍基地建設海軍基地建設海軍基地建設はははは進行進行進行進行しているけどしているけどしているけどしているけど、、、、村民村民村民村民はははは抵抗抵抗抵抗抵抗しししし

続続続続けるけるけるける!!!!

実際にここの活動に参加して、警察に抑圧されり

海軍に騙されたりする村の人たちの今できることは

国内や海外の人に関心をもってもらって一緒に平和

のために力を入れること。建設は始まっているけ

ど、村の人たちは戦い続けている。

毎日「百拜」の後に海軍基地の前で平和的な抵抗

をして、多くの人に今カンジョン村及びチェジュ島

で起きていることを伝える。今でも警察がたくさん

警備されている。

たとえ海外から来た人でも厳しい警告や追い出し

の対象にされる。ある女性の警察が突然私たちの側

に来て、流暢な中国語で『あなたたちは中国の人で

すか?君らは知らないかもしれないがこの違法な活

動に参加するなら韓国の法律違反であなたたちを逮

捕し強制帰国する権利がありますからね。だから参

加することはできません。』と警告した。私たちは

一切答えなかった。

カンジョンの人口は多くないから簡単に監視され

海軍基地の人がカメラ

を置いて、証拠として

村の平和活動のすべて

を撮る。↓

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30

る。海軍基地建設の問題が発生して以来、村の人た

ちのすべての行動は海軍に記録されたり監視された

りする。必要な時に“敵人”を全滅する証拠にな

る。

工事は止められないけど、建設に関わるすべての

ことを透明化するのが今、村の人の要求の一つであ

る。島の平和のために、世界上にカンジョン村と同

じ問題が起こっている地域の平和のために、We’re

always ready to fight!

2nd stop2nd stop2nd stop2nd stop-Miryang(密陽)市。密陽市は慶尚南

道にある一つの町である。人口は約120戸で、平均1

戸は2-3人がいる。多くは中年や年配の人で、若い

人の姿はあんまり見えない。農業を主な産業として

いる密陽の人は汗が雨のように流すような毎日だけ

ど、落ち着いた生活をおくっている。

ところが、優しい人はいつも利用されやすい、騙

されやすい。あるハルモニ(おばあさん)がそうい

てくれた。この前に彼らを抵抗したり止めたりする

ためにハルモニとハラボジ(おじいさん)たちが鉄

線で人間の鎖のようにお互いの腰を巻きあって私た

ちの土地を守ったんだ。激しい衝突の中で、鉄線が

腹に喰い込んでしまった。少し動いても体全身に激

しい痛みを感じる。つい最近病院で手術して治った

んだ。体や心、もう傷だらけ。

2002年に韓国電力会社(KEPCO)が住民の承認を

得ないままに、密陽で765kv送電塔を作ることを勝

手に決めた。765kv送電塔は東南アジアで送電量が

一番大きい。一個の設置による電路の使用量や送電

塔設置の数量が減少し、使用範囲もさらに大幅に増

加する。企業にとってこんなに良い物がなぜ人口が

少ない村落に設置されるの?おかしくない!?

南韓ツアー2014:南コリア―人民の抵抗

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1978年に南コリアの最初の原発ができてから今ま

で、運転中の原子炉が23個もある。しかも、建設中

と計画中のがまた9個がある。アジアで屈指の国で

ある。これだけでなく、政府は2030年に原子炉を40

個まで増やすことを計画している、この計画は大部

決ったともいえる。南コリア国内の3分の1の電力は

原発が提供することになり、2030年までには原発依

存率が59%にアップすると。この計画を叶えるため

に建設は積極的に進行している。2007年11月、新古

里の電力を南北に送電するため、政府が密陽を「新

古里電子力発電所-慶尚南道変電所 765kv送電線

路(昌寧-密陽-梁山-機張-蔚州)」の一つの経

由地として選ばれた。2011年に日本福島原爆が起き

ても計画は変わらず、逆に工事は前より激しく続け

ている。52個の送電塔のうち14個は作っている。

福島核爆により南コリア国内の反核勢力が増大

し、市民も原発自体の存在の必要性を考え始めた。

送電塔のことも注目し始めた。自分の家や土地が送

電塔に破壊され、これからの世代も送電塔がもたら

す苦しみの中に生きる、密陽の住民たちは怖がって

いる。インターネットやテレビの放送でよく、送電

塔の近くに住むと皆ガンになると思う人たちを馬鹿

にしている。もし皆がそう思ったら国家建設は全て

できなくなるじゃない、そうすると国はどんどん小

さくなっていくしかない。大騒ぎしすぎ。と強調す

る。確かに 送電線から出る電磁波は「ロー電磁

波」だけど、「ノー電磁波」ではない。毎日電磁波

を吸収しているのは密陽の人だよ、死ねまで続け、

避けることもできない、どうやって彼らの一生を保

証するの!? そんな軽々しい言い方をいい加減にや

めなよ。

議論される建設は毎度人口が少ない所や青年が少

ない所が選ばれる。それはたぶん金や人力をたくさ

ん使う必要がなく、町より簡単に解決することがで

きるから。そう思うのは私だけか?

リーダーのハルモニが私たちを連れて山をのぼる

時に、途中で警備している警察に、通るなら歩いて

通って下さい、と止められた。年配の人に足で山を

超えさせるなんてひどいな~しかも、大型のトラッ

クを使って行く道を封じた。自分の村なのに好きな

ように行けない、外からの人に嫌がらせをされる。

密陽の人たちは756kv送電塔と対抗して9年。ハル

モニとハラボジは道で寝て長期対抗をしたりするこ

とや焼身自殺の激しい手段で彼らの要求をしてき

た。また、近年、反核の人たちは一緒に「反核バ

ス」に乗って密陽まで応援しに来るようになった。

すべて工事を止めるため。けど、いくら強烈な行為

をしようとしても企業や政府彼らの目的を達成する

までは止められない。もうどうしようもないの!? あ

るアジュンマ(おばさん)が自分は恥ずかしいと

思っている。今まで楽な生活を暮らしてきた。自分

の国のことを関心せずに次の世代の未来もどうでも

いいくらいであった。アジュンマは近年ずっと釜山

と密陽を行ったり来たりして、抵抗に参加してき

た。アジュンマは密陽の人ではないけど、これは密

陽だけの問題ではなく、国全体、さらに全世界に関

わる問題で、もう止められないと思って諦めるのは

南韓ツアー2014:南コリア―人民の抵抗

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間違っているという。止められないものは存在しな

いから。一人の力でも決めたことを変えられる、一

人の力が皆の力になって世界を変えられると信じて

いるから。そう信じているから抵抗し続けている。

Last stop-Korea’s Nuclear Power Plant:KORI SITE

2011年に日本福島核爆によって世界中に原発に対

する危機感が醸造された。核をゼロ化する理念もこ

の際に「次の福島はいらない」という標語で世界中

に伝わっていった。ところが、福島の教訓を気にし

ていない国もある、南コリアはその中の一つであ

る。

1978年に古里原発の完工と運営を始めてから、今

は23個の原子炉が運転中。福島原爆の後に建設中及

び計画中の原発を止めたり減少したりする考えは全

くなくて、逆に進行を前より急いでやっている。密

陽の756kv送電塔も新古里原発の電力輸送のためで

ある。南コリアでの新しい原発の完工や運転は平均

で毎年ある。福島原爆はなんでもないことで、我々

南コリアはそんなミスに絶対しないと約束する。

韓電(KEPCO)が原発は素晴らしい技術で人間が

欠かせない宝物であると信じ込ませるために古里展

覧会場(Kori Exhibition Center)にエネルギー発展史

みたいな展示スペースを作った。生活の中でエネル

ギーを消費する歴史や、そのエネルギーはどこから

来たかどうやって開発されるかも表した。発展して

から今に至るまでの原発は歴史上ベストなエネル

ギー技術で、水力、風力等などよりローコストで国

全体の電力要求を満たすことができる、しかも、地

球への汚染も他より低下している、と。

しかし、展示を見てそれで信じてしまう人はいる

か!?

福島核爆に伴った核産業の低下を怖がっている大

韓民国政府や企業は地球温暖化政策を打って核産業

の寿命を延ばす-原発の発電量を拡大して石炭(温

室効果ガスの代表的なもの)の発電の比率を減らし

て、これで低炭素・グリーン成長の目標を進める一

方で核産業も発展できる。原発の総装置は112,593

メガワット(MW)まで高め、発電容量も31.9%に調

整する。2010年の南コリアの原発発電は総発電量の

30%(約5,000億度)も占めて、台湾の2.5倍(約

2,070億度)である。30年までに60%の原発発電を

既に計画中。

けど、30年の60%の原発発電より核燃料の処理問

題のほうが足元に火がつくだろう~24個の原子炉が

毎日使用済の核燃料は730トンもある。原発内のタ

ンク貯蔵所の使用率は70%を超えている。今、これ

から使用済の核燃料はどこに置くか、どう処理する

か?また、事故は絶対起きないと自信満々に約束し

たけど、原発の建設は偽部品を大量に使っていると

暴露されたり稼働中の原子炉が頻繁に停止したりし

ていて、はたして安心できるか!?

Ulsan海岸の新古里のため、住民たちは生活はう

まくできない。ここの人たちの主な収入

は漁業や観光業からなんだけど原発の建

設以来、特に福島原爆と偽部品発覚の後

から収入を酷く減らしている。彼らが悪

いのではなく、ただ生きたいだけ。住民

たちは何度も抗議した。大韓民国政府は

この地域を新しい名前に変え、それでこ

こまで来た人、国内の人であれ外からの

人であれもっと騙してください、あなた

たちの生活のためにね、こういう態度で

信じられるもんか。「どうせ死ぬのは私

じゃないから」そういう態度を持つ政府

や企業を監視するのは人民の仕事であ

る。南コリアでも台湾でも日本でもどこ

でも、人民が危機感を感じないと、しっ

かりしないと、抵抗しないと、何もかも

失うんだ。(了)

南韓ツアー2014:南コリア―人民の抵抗

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33

8月3日から6日の日程で、江汀村で「平和の島連

帯、平和キャンプ」という催しものがあって、台湾

からEaphetのメンバー二人(阿川と林欣怡)と、蔡

焜霖さんが参加。Emily Wangさんと彼女の妹さんを

入れれば、台湾から5人の参加があった勘定になり

ます。沖縄から10人ほど来ました。あとは、オース

トラリア、ニュージーランド、などの人も5,6人い

て、南韓からの参加も合わせると総勢45人ほどの参

加者が集まりました。中学生、高校生も数人いまし

た。

初日に四・三記念公園を見ることからキャンプは

スタート。ここは済州島四・三事件の記録と解説が

ある展示場と、犠牲者の墓地からできています。

翌日からは午前中にプレゼンテーションがあり、

昼は海軍基地建設現場での抗議活動があり、午後は

遊びと交流と環境認識をかねた活動、夜は文化活動

と、盛りだくさんな内容。

プレゼンテーションで

は、沖 縄、ハ ワ イ、台

湾、チェジュの歴史、環

境汚染問題、軍事化など

について発表がありまし

た。ちょうど、与那国島

では自衛隊のレーダー基

地建設が始まったとこ

ろ。辺野古でも建設準備

作業が開始されたとこ

ろ。島の軍事化が、国防

の名の下に強引に進めら

れている最中だというこ

ともあって、参加者の意

識は高かった。

発表と討論は、朝鮮

語、日本語、英語が使

われたため、それぞれ

に通訳が奮闘した。心

配していたような問題

はおこらず、比較的ス

ムーズに進んだのは、

江汀村で今まで培って

きた国際連帯活動の成

果なのだろう。

海軍基地建設はかな

り進んでいたが、先日

の台風で埠頭のもっと

も先のケソン(コンク

リ の 巨 大 な 塊)が 傾

き、破損している様子

が見えた。人は許して

も自然が基地を許さない

だろう、と言う人もい

る。しかし、ここまで進

んだ工事が止まることは

まずない。同様に、ここ

まで粘って来た反対運動

がこのまま何事もなかっ

たかのように収束するこ

とも、まずない。基地が出来たとしても、それを観

光港や公園化する道もまだ塞がったわけではない。

米軍との密約問題、国際的にも保護すべしと決めら

れたグロンビ岩の強制爆破問題など、今後、真相を

明らかにしていかねばならない問題もある。江汀村

での運動が、今後の沖縄やグアムなどでの運動にも

大きく影響する。

済州島、沖縄、台湾、三島での平和の島連帯構想

は、まだ粗削りの段階

だ。私は台湾からの参

加なのだが、台湾とい

う島が、どのような意

味で「南韓に対する済

州島」や「日本に対す

る沖縄」と共通項を持

つかについてすっきり

とした考えに至っていない。

大局的に見れば「大陸に対する台湾島」、あるい

は「アメリカ合衆国に対する台湾島」という見方も

あるのかもしれないとは思う。しかし、台湾は、蘭

嶼や澎湖、金門などから見て、国防と国益を振りか

ざす台湾(中華民国)でもある。今、この段階で、

軍事化に抵抗する島の連帯を言うのであれば、むし

ろ蘭嶼や澎湖、金門なのではないかとも思う。実際

平和の島連帯:台湾に突き付けられる難問

江汀村平和江汀村平和江汀村平和江汀村平和キャンプキャンプキャンプキャンプ::::台湾台湾台湾台湾にににに突突突突きききき付付付付

けられるけられるけられるけられる難問 難問 難問 難問 阿川

↑海上示威行動中の平和キャンプ

↓工事が進んだ海軍基地

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34

のところ、台湾の人々に「軍事化への危機意識」は

ない。

私(阿川)は、このキャンプで「国民党の軍事主

義とアメリカ合衆国の軍事主義」というお題を与え

られて、話した。時間がなくて(時間配分の悪さは

私の得意)、最後まで話せなかった。現在の中華民

国政府が大陸との経済合作を優先する結果、軍事的

にはアメリカ合衆国と微妙な関係になっているこ

と、アメリカ合衆国自身も中国との関係悪化の際に

は台湾を必要とするが、台湾を必要としているジェ

スチャーを示してしまうことによって中国との関係

悪化は招きたくない、という綱渡りのような状況に

あること、したがって、あからさまな軍事行動がと

れない状態に両国ともが追い込まれているけれど、

一度動き出したらどうなるか分からないこと、など

について話す時間はなかった。

台湾の「台湾意識」がひまわり運動などを通して

再び浮上し、市民権をもっていくことは大陸との対

立を鮮明化することになる。それが軍事的対立へと

つながったときには、アメリカ合衆国や日本の軍隊

との緊密な合作が無条件に必要となる事態も予想さ

れる。その先にあるのは、江汀村や沖縄が抵抗しよ

うとしている軍事化を進んで受け入れ、拡大してい

く台湾なのかもしれないのだ。

三島の平和連帯という話は、台湾にとっては「軍

事化やぶったくり資本化以外の自立方法を模索せ

よ」という困難な要求なのだ。しかし、それにこた

える以外、答えようと努力する以外に、台湾の進む

道がないこともまた確かなように思われる。頭を抱

えながらキャンプから戻った。(了)

釜山港を見下ろす山頂に1999年に完成した「民主

抗争記念館」。李承晩を退陣に追い込んだ1960年の

4月革命、朴正煕政権下の1979年の金泳三議員除名

反対に端を発した釜馬民主抗争、そして1987年の6

月抗争に代表される「民主化運動」を讃えて記念す

る施設だった。釜馬民主抗争の20周年を記念して

1982年に造成された「中央公園」の中に作られた。

民主公園の対面には「忠魂塔」(主に独立運動と朝

鮮戦争でなくなった軍人や警官を讃える碑)がひと

きわ高く堂々と聳え立つ。こちらは1983年に釜山市

内の別の公園から移設されてきたというから、民主

抗争記念館よりも古い。

民主抗争記念館が作られた後、中央公園という呼

び名よりも民

主公園という

名で親しまれ

てきた。それ

が最近「ここ

は民主公園で

はなく中央公園だ」という勢力が勢いをつけ、これ

まで「民主公園」だったバス停は「中央公園/民主

公園」と、二つの名前を併記しなくてはならなく

なっている。民主という名称の使用自体を疑問視す

るというか、もうやめよう

という声も小さくないらし

い。その背景には、白色テ

ロ時代の独裁者として一時

は酷評された朴正煕への再

評価がある。今の南韓の経

済繁栄があるのは朴正煕大

統領のおかげだ、独裁強権

発動していなかったら、北

に飲み込まれていたか、ア

メリカ合衆国に飲み込まれ

ていたか分からない。独立

と反映は朴正煕に負う。そ

ういう評価が台頭してきているのだ。そのような評

価はこれまでも水面下(民主化万歳という時流に押

されて表に出にくかった)に存在した。先の大統領

選で朴槿惠の当選を阻止しようとして、若者たちが

休日にも関わらず(休日の選

挙では若者たちの投票率が低

くなることが知られている)

選挙に行こうと呼びかけた。

これに危機感をもった中高年

層が、締め切り時間ぎりぎり

になって大挙して投票所に押

し寄せた。朴槿惠の得票率は

ぎりぎりだったが、滑り込ん

だ。

民主抗争記念館の展示の最

初は「大韓民国憲法」前文

釜山の民主と日本の平和憲法

釜山釜山釜山釜山のののの民主民主民主民主とととと日本日本日本日本のののの平和憲法平和憲法平和憲法平和憲法

村山さたね

民主公園の表示。

こっちはハングル

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35

だ。大韓民国は民主共和

国であり主権在民だ、と

謳っている。1948.7に制定

された憲法で、李承晩政

権が誕生してわずか2カ月

後に発布されている。記

念館の解説員の方に「わ

ずか2カ月とは早いです

ね」と言うと「憲法はそ

のずっと以前から構想さ

れ、作 ら れ て き た ん で

す」という答えをもらっ

た。し か し、そ の“以

前”のときには南北分断

は予想されていなかっ

た。朝鮮という単位で構想された憲法と国名(大韓

民国)を、南が勝手に横領してしまった…そう言え

ないこともない。解説員の方

は「いずれ南北が統一される

ことになったら、この憲法が

統一憲法になるんです」と

言っていたが、そこには歴史

の捻じれを感じざるを得な

い。

中央公園内には光復記念館

も併設されている。光復記念

館と忠魂塔は親和性が高い。

1999年当時は、民主抗争記念

館もまたこれらと親和性を

持ったのだろうと思う。すべ

てが釜山の現在を-南韓の現

在を支えた英雄だったのだろうと思う。それが、民

主抗争記念館だけが仲間はずれにされようとしてい

るわけだ。

1999年といえば、民主の英雄、金大中が太陽政策

を引っさげて大統領になった直後だった。民主化運

動の闘士たちが表面的には名誉回復し、社会的に持

ち上げられるかに見えた時代だった。今になって思

えば、しかし、金大中もその他の民主化運動の闘士

たちも南韓社会の中枢部に進入したわけではなかっ

た。金大中が大統領となるにあたってIMFと国際金

融マフィアに南韓経済を売り渡した(この辺の事情

はNaomi Kleinのショック・ドクトリン、第13章

「Let it burn」に分かりやすく書かれていますが)

「罪」は、南韓ナショナリストから見れば許しがた

く、民主勢力は結局売国奴ではないかという汚名を

着せられてしまったのかもしれない。

朴槿惠が大統領に当選したとき、なぜあの朴正煕

の娘が?と意外に思った人はいただろうと思う。私

自身も、独裁者朴正煕という民主化時代の常識にと

らわれていたから、信じられない時代逆行に思え

た。しかし、その前の李明博からすでに時代逆行し

ていたのだ。李明博も金大中と同じように民主化の

闘士という触れ込みではあったが、李はむしろ民族

主義者というのが妥当だ。朴正煕との違いはその民

族主義の戦略にあったにすぎない。民族主義(ナ

ショナリズム)と民族経済の復興、それが李の路線

だった。その延長線上に、民族経済を発展させた功

労者としての朴正煕の再評価があり、娘の当選が

あった。この線上では、(偏狭なナショナリズムと

対抗関係にあるような)民主化運動も、民主も不純

なもの、排除すべきものとしてしか存在しない。

ひとつの時代が終焉すると、次の時代(権利者た

ち)は自己肯定のために、終焉した時代を悪し様に

言う。あの時代は暗黒時代だったが、今、夜明けが

きたのだと。そして、そういう「権力の交

代」から離れた場所にいる人たちは、こう

したイデオロギーというか価値の恣意的な

変化に振り回されることになる。

民主主義や、自然環境保護や、平和主義

がノームだった時代が、恣意的に終焉させ

られ、別の何かが、今、大きく頭をもたげ

てきている。その別の何かは自己肯定と、

終焉させなければならない時代の否定に躍

起になっている。釜山の「民主」廃止と、

日本の平和憲法形骸化とは、同じ流れの中

にあるように思う。(了)

右写真:民主抗争記念館の展示。非正規労

働者たちの靴を並べた作品

釜山の民主と日本の平和憲法

民主公園のシンボル、

民主の炎

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36

75年前年前年前年前のののの部落部落部落部落にににに戻戻戻戻りたいりたいりたいりたい::::東部東部東部東部ブヌンのブヌンのブヌンのブヌンの闘闘闘闘い い い い Awil Kazuo

8月11日、台東のBunun部落で、ナブさんとそのお

母さんに会う。Eaphetへの依頼があるというのだ。

依頼の内容は、日本を訴える資料作成への協力だっ

た。話はこうだ。ナブさんの部落は、1941年3月9日

の「内本鹿事件」の当事者だった部落だ。1941年以

前から始められていた(おそらく1930年の霧社事件

以降、いずれかの時点で開始された)山上の部落の

平地への強制移住に対して、堪忍袋の緒が切れた人

たちが日本警察の駐在所を襲って警察官を殺害、そ

れを契機に始まった抗争が「内本鹿事件」だが、結

局、日本警察が強制移住を強行し、山上の部落には

火が掛けられ焼かれた。

以来、20年ほど前まで一度も

元の部落に戻ることができな

かった。昔の部落

へは片道5日間か

かる。老人たちが

ヘリコプターに

乗って、部落を訪

問できたのは数年

前に原民会が経費

を負担してくれた

ときだったそう

だ。Eaphetに整理

を手伝ってほしい

という資料というのは、移住当

時の日本警察駐在所の記録の翻

訳だ。

依頼してきたのはナブさん

と、そのパートナーであるパナ

イさん(左の写真上中央)。二

人ともBubunの歌手だ。自分たち

の祖先の部落に戻ること、それ

を通して自分たちが何者なのかを知ること、次世代

にそれを伝えていくこと、そうしたことがナブさん

たちにとっては何よりも重要なのだ。

訴訟ということになる

と、どういう困難が待ち

受けているのか分からな

いが、私には荒唐無稽で

も無理難題でもなく、当

然の思いに思われた。

原住民の歴史は強制移

住の歴史だ。昔から「進

歩や変化なしに営々と伝統的な暮らしをしてきた」

わけでなどまったくない。ナブさんたちの「我々」

の立て直しの闘いは続く。(了)

編集後記編集後記編集後記編集後記(阿川 2014.8.11)

18号日文版が出たのが5月11日で、その後18号

中文版が出せず、三カ月以上の空白となってし

まった。歹勢、歹勢(パイセイ、パイセイ)。

▼5月以来、ヨーロッパ、アジア、中東で不穏な

な出来事が相次いだ。イスラエル国防軍(IDF)の

ガザへの無差別攻撃と、それを阻止しないどころ

か支援する日米政府の野蛮な行動には言葉を失

う。日本政府は攻撃が始まる前の5月12日、イス

ラエルと準同盟国になり(「日本・イスラエル共

同声明」)軍事面での協力関係が濃密化した。武

器輸出三原則の大幅見直しによって、イスラエル

のミサイル技術などが日本に入ってくる一方で、

三菱、ソニーなどのハイテク部品が軍需用にイス

ラエルにも輸出される(過去にはアメリカ合衆国

経由でしかイスラエルには行っていない)。オバ

マはイラク北部については「無垢の人民が大量に

殺戮されようとしてるのを見過ごすわけにはいか

ない」と爆撃再開を宣言したが、イスラエルの蛮

行については口を閉ざしたまま、武器提供を続け

ている。IDFに参与した国民は罰すると宣言した

のは南アフリカ共和国だけ。▼福島第一原発から

漏れ続ける汚染水が止まらない。凍土壁を作って

喰いとめる戦略は大失敗。東電は核燃料が見当た

らないことを認めた。そんな中で福島産のコメが

シンガポールに輸出再開される。給食に東日本の

牛乳(千葉県では121校の児童生徒に体調不良を

訴えるものが出ているにもかかわらず)や(東日

本以外でも高線量をマークしている)干しシイタ

ケなどを政府は積極的に学校給食に。狂ってい

る。▼そんな中、Eaphetに関連の深い二人の女性

を見送らねばならなかった。南韓のぺ・ハルモニ

と、南投のルビー・ナブさんだ。91歳と78歳だっ

た。一人は朝鮮から中国へ渡って慰安婦被害に

あった後、日本でかろうじて生き延び、余生はナ

ヌムの家で過ごしていた。一人は霧社事件後の強

制移住、その後の国民政府の政策などに翻弄され

つつ6人の子どもを育て、Seediqの織物を織り続

けた。▼民意を裏切って辺野古の埋め立て工事が

スタートした。与那国島でも自衛隊のレーダー基

地建設着工。奄美大島が自衛隊基地受け入れを表

明。▼台湾で起きた3月以降の抗争が平穏なもの

に見えてくるほど、ぶったくり資本主義と既得権

層vs人々の抗争は世界中で顕在化している。