NL No. 7 日文版

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7 2011/08/31 名古屋から見た原発問 名古屋から見た原発問 題―「節電」 題―「節電」 Eaphet No.7N #1/18

description

台湾東亜歴史資源交流協会 East Asia Popular History Exchange, Taiwan のニューズレター第七号日文版です。

Transcript of NL No. 7 日文版

Page 1: NL No. 7 日文版

日文版日文版日文版日文版 7 号号号号

2011/08/31

EaphetEaphetEaphetEaphetニューズレターニューズレターニューズレターニューズレター

第七号目次第七号目次第七号目次第七号目次 ▲名古屋から見た原発問題-節電(1-2頁)

■【聊聊映画館レビュー】(2-3頁)▽「帰途列

車」▽「我愛高跟鞋」▽「食品公司」▽「バス一七

四」 ▲これからの活動予定(3頁)▲Eaphet6月~8月の

主な活動(3頁) ■特集【東アジアと原子

力】第二回▽東アジアの原発―台湾の原発:その②

(4-5頁)▽緑の革命と原発(5-8頁)

■特集【フィリピンから】▽アメリカは私たちの心を

飼いならした(8頁)▽Give us justice now!(9

頁)▽Photo Essay「距離」(9-10頁)▽東アジ

アとアメリカ―その間を動いたフィリピンツアー(10

-12頁) ▲活動報告「在左邊的亞洲影展」(13頁)▲寄稿「菲

行―フィリピンで」(14-15頁)▲中国語で話そう第

二回(15頁) ▲「東アジアとアメリカ合衆国」沖縄編―報告(16

頁) ▲Eaphetが見た出来事6月-8月(16頁)

▲「社会起業と労働」ワークシップat「菩提長青村」

(17頁) ▲「東アジアとアメリカ合衆国」台灣編―報告(17―

18頁)

は節電グッズまで、目まぐるしいほど日常生活に充ちている。無

論、「節電」は地球のエネルギーの消耗と廃棄物などに関わるもの

だし、さらに脱原発の第一歩として、日常のハビトゥスだと思う。

しかし、個人の行動や考え方を超えて、外部から細かく指示を入れ

るのに対して、やはり理由がはっきりしない限り、すごく束縛だと

思うしかない。しかも、これぐらいの節電が一体どんな効果や目標

に繋がるのかということもはっきりしていない。

夏休夏休夏休夏休みみみみ一週間前倒一週間前倒一週間前倒一週間前倒しししし 今学期、私が在籍する名古屋大

学は予定の学年暦より一週間も早めに夏休みに入った。学校のお知

らせによると、節電対策のためだという。しかし、文系の私から見

れば、真夏に教室や研究室でエアコンや照明を使う電力

はそれほど消費していないと思う。それより

工学部や理系の二十四時間止められない実験

機材のほうがもっと電力を使なければいけな

いではないか。名古屋大学には工学部生が全

体の四割も占めている。教育と節電のバラ

ンスを取つためには各学部のそれぞれの節電

対策が違ってくるはずはないか。また、学生

たちが学校に来ない代わりに、自宅やどこか

の電気を使っていると

名古

屋か

ら見

た原

発問

名古

屋か

ら見

た原

発問

題―

「節

電」

題―

「節

電」

張雅婷

今年三月十一日、東日本大震災が起った。「想定外」という程度

を遥かに超えた災害をもたらした。半年経った現在も、被災地以

外の日本各地において、まだ可視的、不可視的に影響されている。

一つは福島やその周辺では、放射線汚染をめぐって食の安全問題が

大きく注目される。例えば、牛肉や野菜、果物の放射線汚染が震災

直後ではなく、福島原発事故が収束できぬ事態に発展してしまった

ことが明瞭になり、推測の被ばく範囲も徐々に拡大されているよう

だ。名古屋に居ても、コンビニやスーパーに置かれた茨城や福島産

の野菜や肉を見て、やはり買うかどうか迷ってしまうし、牛乳をは

じめ食べ物の値上げも最近になって著しくなった。とはいえ、その

一連の影響のなかで、私が常に戸惑うのは、政府や中部電力などに

よる節電協力の呼び掛けだ。 浜岡原発浜岡原発浜岡原発浜岡原発のののの停止停止停止停止

福島原発事故を機に、三十年内に起こる可能性が大きい東海大地

震に耐えるかという問題で、五月に静岡にある浜岡原発四・五号機

が二年後再開を目標に安全措置を整えるまで停止することになっ

た。また、ほかにも幾つかの理由を重ねて、電力が不足になる「お

それ」があるという判断に基づいて、今年の夏に名古屋も「節電

モード」に巻き込まれた。節電協力の呼びかけや節電対策、あるい

すれば、結局節電というのは、名古屋大学の省エネ効果となる一方、中部地方全体の節電に繋がらないとも言えよう。 学校の食堂や建物の廊下、玄関等の場所にも、電燈消しやエアコ

ンの代わりに、窓を開けて風通しの状態にするように工夫してい

る。そして、事務室の外にも竹簾を使ったり(右写真)、軽装で勤務

することを進めたりして、学校側は細かい所まで節電を行なってい

る。 ヤフーヤフーヤフーヤフーのののの電力電力電力電力のののの使用状使用状使用状使用状況況況況 六月下旬か七月頃、梅

雨明けにあたって真夏を迎える時期だと思うが、

ヤフージャパンのホームページに知らない間に中

部電力の電力使用状況のグラフが出ていた。毎日

の電力状況を随時に更新している(上写真)。パソ

コンに依存する私にとっては、ちょっと違和感を

感じざるを得ない。特に、電力使用状況はピー

クの午後一時~四時の間に、例えば九十三%とい

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路を急ぐ列車は、少女をどんどん憧れ

の進歩と繁栄から引き離す。 少女は思う―最も良い生活とはたく

さんのお金を稼ぎよりよい生活をする

ことだと。両親は―進学が正しい選択

だと、そして教育を提供できない自身

の無力さを嘆く。田舎の家庭の伝統的

規範を怨む少女。親の言う勉学もまた

よりよい生活のためなら、実は、親子

は同じ目的を持っているのだ。しか

し、勉学の行く末に本当に良い人生が

待っているのだろうか。 勉学、少女もやっていないわけでは

なかった。が、苦渋の過程に惨めな成

績。耐え切れれば何かよいことが待っ

ているという幻想より、目に見える都

会の華々しさや実際手に握れる札束の

方がどれほどずっしりと確実なのか!

都市部と農村部の格差、価値観の変

化。この時代に生きる私たちは何を追

い求めているのだろう。(了) 食

品公司

食品公司

食品公司

食品公司 Food, Inc.

Food, Inc.

Food, Inc.

Food, Inc.

紹介者:村山さたね

以前に「命の食べ方」を“聊聊し

た”けれど、あれがヨーロッパとする

と、この「食品公司」はUSA。その対比

は細かく見ていったら面白そうだ。

「命の食べ方」の淡々とした語りと映 像。「食品公司」の扇情的というか感

情たっぷりの正義感にあふれた語りと

映像。「命の」の方が突き放した感じ

がある。「食品」の方は、悪い奴やが

いるぞ、皆でがんばって食を取り戻そ

うという感じ。どっちの方がどうとい

うのは難しいけれど、多分日本や台灣

のメディアが作ったら「食品」的な感

じに近くなるだろうな…。 ぶよぶよに太って自分の足では歩け

ないブロイラー・チキン。とてもチキ

ンとは呼べないのでケンタッキー・フ

ライド・チキン社はKFCと改名したん

だろう、というくだりが印象に残る。

【二〇〇八年アメリカ合衆国作品、九

十四分】(了) 我

愛高

跟鞋

我愛

高跟

鞋我

愛高

跟鞋

我愛

高跟

鞋 My Fancy High

My Fancy High

My Fancy High

My Fancy High

Heels

Heels

Heels

Heels

紹介者:李國基

あなたはハイヒールを何足もってい

るだろうか?私たち一人ひとりに一体

何足必要なのか?あなたのハイヒール

とそれに使われている皮がどこから来

るのか知ってる?ハイヒールを作る人

たち、使われる動物たちのことを想像

できるだろうか。 本片に登場する五十二足のハイヒー

ルを愛蔵するファッション・デザイ

ナー、彼女は毎シーズン、流行に合わ

聊聊

映画

館レ

ビュ

ー聊

聊映

画館

レビ

ュー 毎週水

曜日の夜七時からの「聊聊」ではド

キュメンタリー作品を中心に、映像

を通して語られる歴史、社会、人々について議論している。このコー

ナーでは、六月から八月に「聊聊」

した作品の中からいくつか紹介しよ

う。

電力不足の節電に追われるより、脱

原発の節電に向き直って我慢すれば、

何か今まで周りの節電にうんざりして

いた私も、少しずつポジティブに考え

ることができるようになるだろう。

(了)

う数値を見た時に、「危ないなあ」と

思ったり「百%に達すると、すべての

電気が切られるかなあ」と心配したり

する。別に自分が電力を無駄に使って

いると思わないのに、毎日ホームペー

ジを開けると、このような気持ちが繰

り返して襲ってくる。私たちは節電の

ため、何が出来るのかを自発的に考え

る前に、周りから余計な電力を使うな

という圧力に晒される。地下鉄の駅構

内にあるテロップや、夏になるとよく

道の傍らに無料で配布するうちわにも

節電の呼びかけが書かれている。

節電節電節電節電ってってってって、、、、どこへどこへどこへどこへ繋繋繋繋がるがるがるがる???? もし、現状を維持したまま、電力使

用がまだ対応することができれば、停

止した浜岡原発四・五号機が二年後の

再稼働を目指すではなく、むしろ脱原

発に向かって少しずつ前進していくと

思う。節電は政府、学校側や電力会社

などによる一方通行のものではなく、

それは脱原発に繋がる理念として人々

に共有できるような行動に移すのは大

切だと思う。また、大手企業や工場の

「節電」対策にもっと手を入れるべき

だ。上述した節電の呼びかけは家庭内

や個人を対象にするだけではなく、何

よりも経済発展の支えと看做される企

業(とりわけ東海地方はほぼ自動車産業関

連の製造業が多い)に対して、節電と発

展を兼ねる道を模索しなければならな

いという緊迫的な課題として受け止め

られるべきものだ。また、節電の対策

を講じる前に、なぜ節電するのかとい

うことを人々に考えさせる必要があ

る。将来に繋げる節電効果はやはり個

人の考えと行動によるものだと思う。

その認識がなければ、あくまでも一時

的な流行りにすぎない。 帰途列車

帰途列車

帰途列車

帰途列車 紹介者:黃淑燕

四川省の田舎。借金を抱えた貧困家

庭、大学受験に失敗した少女、家計を

支えるため、出稼ぎに行っている母

親。中国沿海都市、急速な経済発展、

緊急かつ大量な非熟練労働者を求める

工場、そして、その進歩、発展を象徴

する都市から友人の手紙…。これらを

糸にどのような物語が紡ぎだされるも

のだろう。 中華民族の一大事、お正月。帰省大移動の中、鉄道の駅で一週間も立ち往生し、列車に乗る。都市を体験してしまった少女は親に連れられて帰途に着く。家

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せて美を生産しているけれど、大手ブ

ランド会社はこうした欲望城址で消費

される製品を作っている女工たちの賃

金を値切り、彼女らを酷使してハイ

ヒールや革製品を生産している。

ハイヒールを買える女性たちと、自

分で作っていながら買えない女性た

ち。ファッションは資本主義的な階級

を、そして地域差別を作り出してい

る。 カメラはさらにハイヒール生産

過程で虐待される動物たちを追いかけ

る。心痛むシーンだ。 買いたいと思うとき、少し考えてみ

てほしい。本当にそれが必要なのか、

と。ほかに代わるものはないのかどう

か。それを作る過程が人や動物にとっ

て過酷ではないものがないのかどう

か。(了)

これ

から

の活

動予

定こ

れか

らの

活動

予定

これ

から

の活

動予

定】 ▼毎週水(十九~二十一時)随邊聊随邊聊随邊聊随邊聊

聊聊聊聊…色々なドキュメンタリーを見た

り、討論したりしています。 ▼毎週金(十九~二十一時)ネッシネッシネッシネッシ

ンンンン…参加者各自がテーマを持ち、調

べ、発表したり、討論したりしていま

す。夏休みでしたが、九月十六日九月十六日九月十六日九月十六日

((((金金金金))))より再開します。 ▼九月十日~十二日 隨邊走走隨邊走走隨邊走走隨邊走走「平澤

米軍基地とドゥレバン訪問」 ▼十二月五日~十日(予定)、隨邊走隨邊走隨邊走隨邊走

走走走走「フィリピン先住民と戦争:フィリ

ピン・ツアー」参加者募集中です。

▽その他にも各種講座など毎月様々な

活動を行っています。詳しくはEaphet

HPをご覧下さい。 【

本年

度会

員更

新手

続き

本年

度会

員更

新手

続き

本年

度会

員更

新手

続き】

更新手続きはお済みですか? まだ

の方はEaphetまでご一報ください。年

会費五百元は下記の台湾郵便局口座に

お振込みいただくか、後日納金して頂

いても構いません。 新しくEaphet会員になりたい方も、

メールにてご連絡ください。 Eaphet会員になると…、ニューズレ

ターの送付、プロジェクトの企画、各

種活動への参加および宿泊や設備の利

用の特典利用などがあります。Eaphet

の運営は会員費に支えらえています。

是非一緒に盛り上げていきましょう。

郵便振込み口座 戸名: 台灣東亞歴史資源交流協會

郵局代號:7

00

帳號:0

02

14

41

-04

48

92

7 連絡先

EA

PH

ET

ma

il

ea

ph

et@

gm

ail.co

m バス

バス

バス

バス一七四

一七四

一七四

一七四 (Ô

nibus 174) 紹介者―吉田藍

二千年六月十二日、リオデジャネイ

ロで起こったバスハイジャック事件を

扱ったドキュメンタリー。貧しい環境

で育った若者、サンドロ・ド・ナシメ

ント(Sandro do Nascimento)は強盗

を企てるが失敗し、その後4時間にわた

りバス乗客を人質に取る。事件はテレ ビで生中継された。 バスジャックを起こしたサンドロ

は、一九九三年七月二十三日未明、リ

オデジャネイロの中心街でおこった

「カンデラリア教会虐殺事件」殺害事

件の生き残りである。リオの観光ス

ポットのひとつ、カンデラリア教会前

広場の路上で眠りこんでいた無防備な

ストリートチルドレンの七十人前後の

子どもたちを、警官を含むグループが

銃撃し、八人が殺された事件である。

映像の大半はバスの中で人質に対し

恫喝し、神経質に叫び続けるサンドロ

の姿と、知人が語るサンドロの生い立

ちだ。サンドロは夢を語っていた時期

もあったそうだ。 最終的に話は包囲した警察が強行投

入し、引きずり下されたサンドロに向

かって放たれた銃弾が、人質となった

女性に当たり、女性が死亡した。何と

も言い難い無情な終わり方は、ブラジ

ルの抱えている問題の解決が不透明な

印象を残した。(了) 【二〇〇二年ブラジル公開、監督ジョ

ゼ・パジーリャ(José Padilha)】

EaphetEaphetEaphetEaphet六月六月六月六月~~~~八月八月八月八月のののの主主主主なななな活動活動活動活動 六月一日六月一日六月一日六月一日▼随邊聊聊《我愛高跟鞋》

六月八日六月八日六月八日六月八日▼随邊聊聊《食品公司Food,

Inc.》六月十五日六月十五日六月十五日六月十五日▼随邊聊聊《歸途列

車》六月二十九日六月二十九日六月二十九日六月二十九日▼随邊聊聊《バス一

七四》 七月十三日七月十三日七月十三日七月十三日▼随邊聊聊《紅色高棉殺人

機器》▼隨邊走走《東アジアとアメリ

カ合衆国:フィリピン編下見ツアー》

開始―七月二十日終了。 七月二十日七月二十日七月二十日七月二十日▼随邊聊聊《中国:一个世

纪的革命(1/3)》 七月二十七日七月二十七日七月二十七日七月二十七日▼随邊聊聊《Report from

Baguio, Philippines》 七月二十八日七月二十八日七月二十八日七月二十八日▼隨邊走走《東アジアと

アメリカ合衆国:沖縄編》開始―八月

五日終了。 八月三日八月三日八月三日八月三日▼随邊聊聊《Shock

Doctrine》 八月十日八月十日八月十日八月十日▼随邊聊聊《中国:一个世纪

的革命(2/3)》 八月十三日八月十三日八月十三日八月十三日~~~~十五日十五日十五日十五日▼協会改装工事

八月十七日八月十七日八月十七日八月十七日▼随邊聊聊《中国:一个世

纪的革命(3/3)》 八月十八日八月十八日八月十八日八月十八日▼隨邊走走《東アジアとア

メリカ合衆国:台灣編》開始―八月二

十六日終了。 八月二十一日八月二十一日八月二十一日八月二十一日▼隨邊走走《貢寮反核自

救会》楊木火さんの話を聞く。 八月二十二日八月二十二日八月二十二日八月二十二日▼隨邊走走《清泉岡空軍

基地内、米軍足跡館》探訪。 八月二十三日八月二十三日八月二十三日八月二十三日▼隨邊走走《松岡部落と

ビルマ遊撃隊の記憶》 八月二十四日八月二十四日八月二十四日八月二十四日▼随邊聊聊《美援在台

灣》八月二十五日八月二十五日八月二十五日八月二十五日▼夏季BBQ大会・

台灣ツアー打ち上げ 八月三十一日八月三十一日八月三十一日八月三十一日▼随邊聊聊《台灣ツアー

二〇一一報告:アメリカ合衆国と東ア

ジア、台灣編》

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東東 東東ア

ジア

アジ

アア

ジア

アジ

アのの のの

原発

原発

原発

原発

―― ――台

湾台

湾台

湾台

湾のの のの

原原 原原東東 東東

アジ

アア

ジア

アジ

アア

ジア

のの のの原

発原

発原

発原

発―― ――

台湾

台湾

台湾

台湾

のの のの原原 原原

発発 発発発発 発発-- -- そ

のその

その

その②② ②②(三月二十三日緊急聊聊で報

告した内容の続きです) 古川ちかし

核四建設中止核四建設中止核四建設中止核四建設中止からからからから再開再開再開再開へのへのへのへの政治劇政治劇政治劇政治劇

二〇〇〇年三月、「核四(第四原

発)計画停止、既存原発を十年以内に

廃止」を掲げて民進党の陳水扁が総統

選を制した。(このとき、すでに核四の

1号機はちょうど一年前に、2号機も約半

年前に着工している。) 民進党政権は早速五月に核四建設続

行の是非を問う再評価委員会を立ち上

げ、工事は一時停止状態におかれた。

九月には経済部が核四建設中止を求め

る報告書を行政院に提出。当時の行政

院委員長だった唐飛は「もうついてい

けない」と辞任(十月六日)し、民進党

の張俊雄が行政院長に就任。張俊雄は

十月二十七日、核四建設中止を発表し

(「宝島を毒島に変え、子孫に害毒を及ぼ

すわけにはいかない」という有名な台詞を

残し)GE社に対して工事凍結を通告し

た。ここから約三ヶ月余りに渡る政治

の大混乱が始まった。 十月二十七日の行政院発表に対して

立法院は即時に異議申し立てを行い、 野党は団結して決定の白紙撤回を求め

た。張俊雄院長は大法官会議に判断を

ゆだねることで一時的に国民党をなだ

めたが、野党は総統罷免法案を提出、

政局運営をボイコットした。 十一月六日、陳水扁は混乱を招いた

ことを謝罪するにいたった(当時の世

論は陳水扁の核四建設中止に対して批判

的な向きが強く、民進党側はせっかく手

にした政権を一年も経たないうちにもぎ

取られようとしていた。陳水扁も必死

だった。)が、核四建設中止の意志は

曲げなかったため、野党によるボイ

コット状態が続いた。 二〇〇一年一月十五日、大法官会議

が最終判断を示した。いわく「行政院

の建設中止決定には手続き上の不備が

あり、建設続行・中止の決定は行政院

と立法院で再度意見調整すべし」と。

一月末に立法院では予想通りの大差で

特集: 福島第一原子力発電所の事故は、チェルノブイリ原発事故と同じく原発史上最悪のレベル7に評価された。日本では原発安全神話の崩壊と騒がれて い る。事 態 に“正 し く パニック”すると同時に、何が問題なのかを冷静に見て行く必要があると思う。第二回。

建設続行を決議。二月には両院は建設続行を条件付で合意する

に至った。 その条件とは①行政院は即刻建設続行を発表し、予算措置は

関連法で処理すること、②エネルギー不足を生じないという前

提で非核体制を最終的な目標とすること、③行政院は将来の原

子力政策をまとめ(原子力エネルギー関連法案)、立法院の審

議に付すこと、だった。 民進党側は「非核体制を最終

目標にする」という『名』を勝ち取ると同時に何とか政権を維

持した。国民党側は核四建設続行という『実』を勝ち取った。なんと

も絵に描いたような「政治的」な妥協

だった。混乱期間中、無期限に停止状

態に置かれた核四建設工事は工程を一年半ほど遅らせて、1号機は二〇

〇六年七月に、2号機は二〇〇七年七月に工事再開することになっ

た。違約金を含めて、これは四百三十億円ほどの工費上乗せを意味

した。結果的に続行であればGEも日立も東芝も損害がないばかりか

漁夫の利を得たようなものかもしれない。 台湾台湾台湾台湾のののの原発推進派原発推進派原発推進派原発推進派とととと日本日本日本日本

一九八六年以来毎年続けられてきた「日台原子力安全セミナー」

は、台湾側では原子能委員会、台湾電力公司、核能研究所、放射性

物質管理局、中華核能学会が、日本側では原産協会【日本原子力産

業協会(原産協会、JAIF)】が主催してきた。中華核能学会は一九七

二年(日台断交、台湾の国連追放の年)に結成され

たアカデミックな団体だが、ア

メリカ合衆国や日本と原子力開

発協力交渉を行う際にアカデミ

アの隠れ蓑が必要とされたのだ

ろう。ちなみに原産協会はすで

に一九七九年に韓国の原子力産

業界との間に「日韓原子力産

業セミナー」を

開始している。 日台原子力安全セミナーが最初に開

催されたのは蒋経国政権が翌年の戒厳

令解除を約束し、民進党が結党された

一九八六年だ。一九八六年は、アメリ

カ合衆国が冷戦体制の終焉とその後の

自由市場主義の導入へ向けて、冷戦初

期に自らが作り出した反共・親米の独

裁体制にさまざまな圧力をかけて体制

転換を迫り、韓国や台湾に“民主化”

を作り出した年として記憶される(台

湾が戒厳令を解除し大統領選挙を開始、韓

国の民主化宣言―これらは一九八七年の出

来事だったが一九八六年にはすでにこれら

は日程に組み込まれていた)。 なぜこの時期に台湾の原発推進派は

日本とのパイプの強化を必要としたの

か。考えられる一つの理由は、アメリ

カ合衆国が直接に(中国から非難される

あからさまな形で)原子力に関して台湾

援助ができにくくなっていたこと。そ

してこの年、日本では蒋介石生誕百周

年を記念して「蔣介石先生の遺徳を顕

彰する会」が東京で開催されるなど親Eaphet No.7N #4/18

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えた。ちなみに後のアメリカ合衆国極

東軍司令官、ダグラス・マッカーサー

が名を上げたのはこのボーナス・アー

ミーを武力で蹴散らして鎮圧した功績

による。 赤の革命、それは冷戦初期にアメリ

カ合衆国が最も恐れるものだった。

ヨーロッパと同じように戦火で荒廃し

たアジアでも、放っておけば民衆の不

満が爆発し、せっかくアメリカ合衆国

が肩入れして作り出した各地の傀儡政

権が転覆され、そこにソビエトの影響

下に社会主義政権が登場する―そうし

た赤の革命の“悪夢”に対して緑の革

命が火消し役になると期待された。

高収穫品種はアメリカ合衆国からの

援助という形で、中南米やアジアにば

ら撒かれた。各地で土地に合った品種

改良がアメリカ合衆国の援助(技術、資

本供与)によって開発され、導入当初

は収穫量が二倍、三倍と急増したが、

農作地は徐々に疲弊し、新しく導入さ

れた種子も年を経るにしたがい収穫量

が減少し始め、そのためさらに化学肥

料を大量に投入するという悪循環に

陥った。大量の化学肥料だけでなく大

量の水も必要で、そのための灌漑設備

を自前で賄えない小規模農場は大規模

農場に吸収され、農業のアグリビジネ

ス化が進んだ。 化学肥料は欧米の(爆薬生産のために

大戦中に乱立した)窒素工場から供給さ

れ、結果として欧米の大手アグリビジ

ネスが第三世界の小規模アグリビジネ

スを傘下に入れて穀物市場を独占して

いきやすくなった。 緑の革命の被害は、封建的な土地所

有制度が解体されておらず、近代的な

農地改革が行われにくい地域で極端に

現れた。フィリピンでは緑の革命への

台の動きが目立った。こうした親台派

には岸信介を筆頭に自民党幹部が相当

数入っており、彼らの動きがアメリカ

合衆国の意向と大きくずれていたとは

考えにくい。一方でアメリカ合衆国に

追随して台湾を形式上切り捨てた自民

党があり、もう一方で台湾関係法を制

定して中国を牽制しようとするアメリ

カ合衆国の意向に沿おうとする自民党

があったわけだ。後者の策謀の中には

台湾の原子力開発援助が組み込まれて

いた。日本の原発産業にとって将来の

顧客として台湾は魅力的だった。原産

協会は同じ年に中南米原子力事情視察

団を組織するなど、顧客開発に力を入

れ始めていた。 核四に初の「日の丸原発」採用と

なった背景には、こうした日台のコネ

クション作りがあった。 補足補足補足補足 緊急聊聊の報告内容としては以上だ

が、この稿をまとめるにあたって少々

補足しておきたい。 貢寮(核四が建設されている町)の

人々は民進党に裏切られたという感覚

を拭い去れないだろう。現在、核廃棄

物処理場の予定地に確定している台東

の達仁の人々にしても同じだ。民進党

の総統候補者、蔡英文は二〇二五年ま

での脱原発を公約に掲げているが、現

実には核四も達仁の処理場も、台電と

現国民党政府のほぼ計画通りに進めら

れている。三一一(東日本大震災と津波

の台湾での呼称)後、台湾議会は核四建

設に対して百四十億元(四億八千六百万

USドル)という巨額の増額を許可し

た。民進党が提出していた非核法案は

十一件ともに否決された。(了)

緑緑 緑緑のの のの革命

革命

革命

革命とと とと原発

原発

原発

原発

緑緑 緑緑のの のの革命

革命

革命

革命とと とと原発

原発

原発

原発

2011.4.30 阿川

緑緑緑緑のののの革命革命革命革命 一九六〇年代に猛威を振るった「緑

の革命」は、高収穫品種の導入によっ

て穀物の生産高を二倍から三倍にする

ことができると宣伝され、ロックフェ

ラー財団がバックとなってノーマン・

ボーローグの主催する研究団体が推進

力となって展開された(ボーローグは

この功績によって一九七〇年にノーベル

平和賞を受賞―左写真)。高収穫品種と

は、品種改良によって様々な穀物の背丈を低くする(茎を伸ばすことに使われるエネルギーを節約して種子を増やし、また風で倒れるなどの被害を押さえることで、収穫を増やす)こ

とだった。ボーローグが米軍占領下の

日本から持ち帰った「農林十号」(小

麦の改良品種)などもこうした品種の

一つとなった。 「緑の革命」とは「赤の革命(共産

主義革命)」を意識した名づけだった

とも言われる。アメリカ合衆国内でも

第二次大戦終結前後、小規模な貧農と

大農場の富農との格差が大きくなり、

このまま放っておけば貧農の不満が爆

発する恐れがあったようだ。一九三二

年のボーナス・アーミー事件は、社会

不満が政府を転覆する可能性もあると

いう不安をアメリカ合衆国支配層に与

反省から、土地の力の回復と有機農業

を目指した運動が小規模ながら始まっ

ているそうだが、根本的な土地改革が

できない以上、これは非常に困難な道

になる。むしろ緑の革命の問題点を遺

伝子組み換えによって補っていこうと

いう方向に、フィリピン政府やアメリ

カ合衆国なども動いているのが現状だ

ろう。その意味では緑の革命の負の遺

産から脱却する道はまだまだ遠い。

緑の革命は食料増産を目指し、それ

によって赤の革命を阻止しようとする

冷戦の重要な戦略の一つだった。それ

自体は『人道主義的なものであり人類

が抱える問題に正面から対処したの

だ』とも言えるかもしれないが、冷戦

の利害関心に発した戦略であったこと

は否定できない。そして、結果として

主に第三世界の農地を疲弊、汚染し、

食べるための農業を崩壊させるのに一

役買った。これもまた否定できない。

冷戦の中でアメリカ合衆国が行った

援助のもう一つの側面は、エネルギー

だ。食料方面で高収穫品種をばら撒く

ことでアメリカ・ブロックを形成しよ

うとしたことと、エネルギー方面で原

子力をばら撒いたことはアメリカ合衆

国が援助の名において行った冷戦戦略

のコインの表と裏であり、両者とも

「貧困は共産主義の温床」という発想

に根をもっていた。 第二次大戦第二次大戦第二次大戦第二次大戦とととと原子力原子力原子力原子力

第二次大戦開戦前夜の一九三八年十

二月にドイツでオットー・ハーンとフ

リッツ・シュトラスマンがウランの核

分裂の仮説を発表。翌年一九三九年九

月、ナチスドイツがポーランドに侵攻

して第二次大戦が始まった。同年十

月、アインシュタインとシラードが原

ボーローグボーローグボーローグボーローグ

Eaphet No.7N #5/18

Page 6: NL No. 7 日文版

子力の軍事応用の可能性を手紙でルー

ズベルト大統領に伝え、一九四〇年の

六月にはルーズベルトは原子爆弾製造

計画を認可。いわゆるマンハッタン・

プロジェクトだ。 ナチスドイツは当時の原子物理学の

大物、ヴェルナー・ハイゼンベルクが

指揮をとって原爆開発を行ったが、人

的資源を米国側にとられるなどの原因

で敗戦までに結局原子炉の基礎研究に

終始したと言われている(が真偽は闇の

中だ)。 一九四一年七月、物理学者フリッ

シュとパイエルスがウラン原子爆弾の

基本原理をイギリス原子爆弾開発委員

会に報告し、初めて原子爆弾が実現可

能で、爆撃機に搭載可能な大きさであ

ることが知られた。 このころから西側の学術雑誌に核分

裂反応や原子力エネルギーに関する論

文が掲載されなくなったことに気づい

たスターリンは、西側各国で原子爆弾

の開発が進行していることを察知、

イーゴリ・クルチャトフを責任者に原

子力プロジェクトを開始した。スター

リンは一九四八年までに原子爆弾を完

成しろと命じていたそうだ。 一九四二年十二月にはアメリカ合衆

国シカゴ大学実験原子炉で、フェルミ

たちが核分裂連鎖反応テストに成功す

る。翌一九四三年三月、原爆開発のた

めに作られたロス・アラモス原子力研

究所所長としてオッペンハイマーが就

任し、二年四ヶ月後の一九四五年七月

十六日にアメリカ合衆国は初の原子爆

弾の実験に成功(トリニティ実験-左写

真)。ほぼ一ヶ月後には、広島と長崎

に原子爆弾が投下され、太平洋戦争は

終結を迎える。 第二次大戦中(末期)に大慌てで開 発されたこの新技術は、冷戦の東西対

立の中で爆発的に促進されていった。

原子力の開発競争は国と軍と民間企業

が一体となって加速、一九四六年八月

の「原子エネルギー法」制定とアメリ

カ合衆国原子力委員会の立ち上げは、

それまで国と軍が独占してきた原子力

開発に民間企業の力を積極的に導入す

る道を開いた。 冷戦開始冷戦開始冷戦開始冷戦開始とととと原子力配備原子力配備原子力配備原子力配備

一九四九年九月に「ソ連が核実験に

成功した」という噂が流れるや、翌年

二月にイギリスの科学者が「ソ連協力

者」としてスパイ容疑で逮捕される事

件(クラウス・フックス事件)がおき

る。同じ一九五〇年七月には同様の容

疑でローゼンバーグ夫妻が逮捕される

(一九五一年四月に死刑判決)。一九五

四年四月のオッペンハイマー事件で

は、凶悪な水素爆弾に対する彼の反対

論は取り上げられず、オッペンハイ

マーはただソ連協力者として処罰され

た。一九五四年にはマッカーシズムへ

の批判が高まり、反マッカーシズムの

風潮が主流を占めるようになっていた

にもかかわらずだ。つまり原子力開発

は米ソ対立の国家的、軍事的、政治

的、経済的な焦点であり、この国家戦

略には科学者、技術者の懸念が入り込

む余地はなく、まして環境論者や人道

論者の懸念など歯牙にもかけられてい

なかった当時の状況が窺い知れる。

一九五三年八月、今度はソビエトが

水爆実験に成功したニュースが流れ

た。大変なことだったらしい。ソ連に

先を越されたアメリカ合衆国は、その

約半年後の一九五四年三月、ビキニ島

で水爆(ブラボー)実験。周知の第五福

竜丸被爆事件が起きる。

一環として必須だった。 アメリカ合衆国は一九五五年に日本

と中華民国を相手に原子力協力協定

を、一九五六年に韓国との間に同様の

協定を結び、防共ラインにおける原子

力開発を支援する体制を作り上げる。

アメリカ合衆国は原子力の平和利用を

呼びかけながら、NATO同盟国にはアメ

リカの核を配備していこうと画策して

いた(一九五三年十二月三日付け、

National Security Council文書)。 「「「「平和利用平和利用平和利用平和利用」」」」というというというという言説言説言説言説

一九五四年、日本では中曽根康弘が

原子力関連の予算を初めて提出し成立

させた。アメリカ合衆国からの濃縮ウ

ラン購入費も含め、しめて二億五千万

円。帝国軍人あがりの中曽根は、元警

察官僚で戦中は大政翼賛会の大物でも

あり、戦後は読売新聞社社主であった

正力松太郎とともに、その後の日本の

原子力開発を推進していくことにな

る。その翌年、一九五五年にアメリカ

商用原発の分野でもアメリカ合衆国

はソ連に遅れた。ソ連が世界最初の実

用規模の原子力発電所(オブニンスク発

電所)の運転を開始したのは一九五四

年六月。アメリカ合衆国は一九五一年

にすでに高速増殖炉EBR-1での実験的

な原子力発電に成功していた(アイダホ

州アーコの国立原子炉試験場)が、商用

発電には至っていなかった。ソ連に追

いつくには日を要し、アメリカ合衆国

初の商用原発シッピングポート原発が

稼動したのは一九五八年五月二十六日

のことだった。 一九五三年、ソ連の水爆実験直後

に、アイゼンハワーは国連で「原子力

の平和利用」を訴え“正義の味方”米

国をアピール。その裏でしかし、自ら

も水爆開発を急ぐと同時に拡大する共

産圏(ソ連、中国、北朝鮮)への防共ラ

インとしての韓国・日本・台湾の軍事

防衛強化を行った。東アジアの防共ラ

インへの原子力エネルギー配備はその

Eaphet No.7N #6/18

Page 7: NL No. 7 日文版

料再処理、プルトニウムを利用する高

速増殖炉といった「機微核技術

sensitive nuclear technology:SNT」

を持っているのは核保有国以外では日

本だけだ。 青森県六ヶ所村の核燃料再処理工

場はまともに稼働せず、高速増殖炉

もんじゅにいたっては、一九九一年

の試運転以来、ほとんど発電しない

まま、今日、一日五千万円の維持費

を浪費するに到っている。にもかか

わらず、政府はこれらの核燃料サイ

クル過程を今後も堅持するという。

この不合理は、これらが「機微核技

術」であることを理解すれば、すべ

て納得がいく。そしてその機微核技

術を国内に保持するために、日本の

商業原発が運営されているとすれ

ば、そこに市場経済の論理が通用し

ないことも理解できる。これは経済

ではなく、安全保障政策、日本の外

交政策の一環なのである。(古賀徹

「原子力発電と核武装」2011.4.5ブロ

グ) 日本の原子力開発がアメリカ合衆国

でのそれと同じように軍事性を帯びた

ものであった(ある)のかどうか、基

本法の言う「平和利用」は隠れ蓑なの

かどうかにはいろいろな意見があるだ

ろう。しかし、緑の革命が第三世界に

食料供給上のアメリカ・ブロックを作

り出したのと同じように、原子力エネ

ルギーもまたエネルギー供給上のアメ

リカ・ブロックを作り出したことは間

違いない。 東東東東アジアアジアアジアアジアのののの安定的維持安定的維持安定的維持安定的維持ととととエネルギーエネルギーエネルギーエネルギー

韓国、台湾、日本という東アジアの

防共ラインにおいて、貧困が社会改革

へつながる道を封じるためには、反

合衆国との間に「原子力協定」を結

び、「原子力基本法」が成立する。

第五福竜丸事件は、日本の世論を反

核、反原子力に大きく傾けたが、それ

を押し返して日本に原子力を持ちこむ

ためにアメリカ合衆国は心理作戦を展

開、まずは「新聞を押さえる」ため正

力にアプローチした。そのとき正力は

「貧困は共産主義を呼ぶ」、また「原

子力エネルギーは貧困を防ぐ」と意見

を表明し、読売新聞、日本テレビが原

子力の平和利用キャンペーンを展開し

たという。 日本の原子力基本法は、原子力の利

用を「平和目的に限って」認めるとい

うことを明記した世界唯一の国内法と

して評価されている。しかし、それが

成立した一九五五年の前年には日米相

互防衛援助協定の締結と同時に日本軍

(自衛隊)が再編成されている事情を考

えると、軍事とどこまで切り離せるの

かについては疑問視した人々も少なく

なかった。それを「平和利用」という

言葉で強引にねじ伏せた。自衛隊もま

た近隣アジア諸国の不安をよそに平和

のための軍隊だ、と喧伝されていた。

言説操作の背景にはアメリカ合衆国国

家安全保障会議とCIA、そして正力のあ

やつる日本のマス・メディアがあっ

た。 「日本は核武装を差し控えるが、核

武装のための技術的・産業的な潜在力

を保持する方針をとり、それを日本の

安全保障政策の主要な一環とするとい

うこと」―これは「国家安全保障の原

子力の公理」と呼ばれる一九五五年以

来の日本の原子力政策の基本方針だと

いう(吉岡斉「原子力の社会史」一九九

九、朝日選書)。核燃料を生産するウラ

ン濃縮、プルトニウムを取り出す核燃

共・親米の傀儡政権を食料面、エネル

ギー面で「援助」し、安定化させるこ

とが必要だった。安定とは不安定化要

因を取り除くことであり、その手っ取

り早い方法は既に一定の支配構造を有

している既得権層を温存することだっ

た。あるいはまた軍事独裁体制を作る

ことだった。こうしてアメリカ合衆国

と東アジアの旧体制の下で育った既得

権層の利害が一致した。 このことは、いくつもの捩れ(ねじ

れ)を東アジアにもたらした。ひとつは

明治から太平洋戦争まで自らの利益を

追求し続け肥大化していった日本の既

得権層を解体するどころか再利用し、

安定化してしまったことだ。なるほど

「戦後」に一定の改革はなされ「反

省」もされたのだろう。が、同時に戦

中までの権力保持者たちはGHQの“逆

コース”によって、その主要な部分は

温存され改革勢力は弾圧された。韓国

でもまた社会改革派は弾圧され、一時

は「日本協力者」と呼ばれ糾弾された

人々が権力を持ち続けた。台湾にはア

メリカ合衆国が国民党支配をもたらし

た(GHQ一般命令第一号によって台湾の日

本軍は国民党軍に降伏した)。 捩れは、どこかの時点で破綻を生

む。韓国の四・三事件、台湾の二二八

事件はそうした破綻の早期の例だろ

う。日本で大きな破綻を生まなかった

理由の一つは、明治以来の長期の体制

作りだったのかもしれない。外来の勢

力に侵略された韓国や台湾とは事情が

異なった。さらにエネルギーの独占体

制を、日本はエネルギーと利権とを密

接に絡めることで(少なくとも三一一震

災までは)上手に維持してきた。 田中角栄(当時の首相)は一九七四年

に過疎地を振興する名目で「電源三 法」(電源開発促進税法、電源開発促進

対策特別会計法、発電用施設周辺地域整

備法の総称)を成立させた。電源三法

とは乱暴に言ってしまえば「原発立地

自治体に金をばらまく仕掛け」だっ

た。電力会社は販売電力量に応じて1

kW時あたり37.5銭の「電源開発促進

税」を電気料金に上乗せして国に納付

する。主に都市部で徴収した税金を特

別会計に繰り入れ、それを交付金とし

て原発を置く自治体に還元するという

仕組みを作り上げた。(今年度予算案

では一般会計、特別会計合わせて四千億

円以上の予算が原子力分野に投下されて

いるという。)ある試算によると、原

発を誘致した自治体には(原発1基に

つき)運転開始までの十年間で約四百

八十一億円の金が流れ込み、五十年間

では千三百五十九億円という巨額にな

るという。こうして日本の原発開発は

大きな利権獲得競争と化し、原発密集

列島を作り上げ、電力会社を肥大化さ

せ、既得権層の安定的な支配を維持し

てきた。 新自由主義新自由主義新自由主義新自由主義とととと冷戦後冷戦後冷戦後冷戦後 冷戦期に日本が既得権層の支配の下

に膨大な中産階級(あるいは中流意識)

を生み出すことができたように思われ

る背景には、沖縄やその他のアジア諸

地域の第三世界化があった。「日本」Eaphet No.7N #7/18

米米米米FOXテレビテレビテレビテレビ

Page 8: NL No. 7 日文版

はアメリカ合衆国の子飼いの極東前線

基地であり、朝鮮戦争、ベトナム戦争

からイラク戦争まで、アメリカ合衆国

を経済的、軍事的に支えてきた。

一九八〇年代に始まる新自由主義政

策の導入は冷戦終了後を睨んだもの

だった。東西対立が消滅することは旧

東側の資源と労働力と市場が“解放”

されることを意味し、アメリカ合衆国

が東アジアに構築してきた反共・親米

の独裁体制をどうにか解体して、新自

由主義が好き勝手に振舞えるようにす

る必要が生じた。日本はアメリカ合衆

国の強力な圧力のもとに国鉄に始まっ

て郵政まで民営化を進め、市場介入的

な規制を次々に緩和してきた。最後に

残ったのがエネルギー分野なのだ。

福島第一原発事故に関してアメリカ

合衆国原子力委員会は異常な対応を見

せた。委員長であるオバマ子飼いの官

僚、グレゴリー・ヤツコが即時に非常

事態を宣言し、情報を一手に操作し、

早期の段階から事態の深刻さを宣伝し

た。日本政府が三十キロ圏内の退避勧

告を出したのに対して、ヤツコは米国

民に対して八十キロ退避勧告を出すな

ど、常に日本の対応の甘さを内外に印

象付けた。原子力産業を監視する機能

をもつ委員会の長であるから原発に関

しては厳しくチェックする義務がある

のだろう―そんな風に思っていたらア

メリカ合衆国内の原発についてのヤツ

コの対応は極めて甘い。なぜそこまで

日本の原発産業を攻撃するのか。そこ

には日本のエネルギー産業の独占体制

を解体しようとする意図があるよう

だ。ナオミ・クライン流に言うなら

ば、福島第一原発事故を「ショック・

ドクトリン」導入の好機と見る大きな

力が働いているようだ。(了)

後の戦地となったレパントの戦いにお

けるイゴロット部隊、第六十六歩兵部

隊のおじいさんたちに話を聞いてド

キュメンタリーを作成している。『彼

らはアメリカ合衆国軍のために戦った

のではない。彼らは自分たちの土地を

取り戻すために戦ったんです。』とは

言うものの、ドキュメンタリーに登場

するヴェテランたちはUSAIP NL(在

フィリピンアメリカ合衆国陸軍北ルソ

ン)のロゴの入ったヴェテランの帽子

を誇らしげにかぶって登場し、流暢な

英語で当時を語る。ここにもイゴロッ

トが置かれる複雑な自己イメージのあ

り様が見える。 多くの先住民は平地化を望んでい

る。イゴロットを名乗りたくないとい

う人も少なくない。そんな中で過去に

は蔑称であった「イゴロット」を自ら

名乗り、その歴史に光を当て、引き受

けていこうとする若者たちと出会っ

た。ベンゲットを先住民自治区にしよ

うという動きがあるが、ベティさんは

それは自分たちの世代では無理だろう

と言う。その理由は先住民の自己意識

化が不足しているからだという。まず

自分たちが何者なのか、それをみんな

がある程度意識化できなければ、自治

区を作っても意味がないというのだ。

リサーチ・メイトでは、今年も十二

月八日に第二回アジア太平洋合同慰霊

祭を企画しているが、今年は翌日にレ

パント等の戦跡へのフィールドツアー

を、さらに翌日にはフォーラム(勉強

会)を企画している。今泉さんは日本

からの参加者向けにフィリピンの戦い

についての勉強会を慰霊祭に先立って

行う計画を持っている。詳細が判明し

たらEaphetのHPでも案内したいと思

アメ

リカ

アメ

リカ

アメ

リカ

アメ

リカ

はは はは私私 私私

たち

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メリ

カア

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いな

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―ベティベティベティベティ・・・・リスティリスティリスティリスティ

ノノノノさんとさんとさんとさんとリサーチリサーチリサーチリサーチ・・・・メイトメイトメイトメイトのののの活動活動活動活動 アウイ・カズオ

『武力と十字架を掲げたスペ

インの三百年の支配にも最後ま

で抵抗したイゴロットのコミュ

ニティへのドアを、アメリカ合

衆国は「自己中心的な善意」と

「物資」によってこじ開けたん

です。そして「教育」によって私たちの心を飼いな

らしていった。でもスペインもアメリ

カも、そして日本も動機は同じ―ベン

ゲットの豊富な資源です。』(ベンゲッ

トは金山、銅山に溢れている。そこいら中

フィ

リピ

ンか

らフ

ィリ

ピン

から

Eaphet会員

ツアーで二年ぶりにフィリピンの友

人たちを訪ねた。 台中に大きなフィリピノ・コミュ

ニティがある。主に移住契約労働者

のコミュニティだ。二〇〇六年に初

めて、台中に住む移住労働者の家族

をフィリピンに尋ねたのがきっかけ

で、その後、二〇〇八年まで何度か

「家族を訪ねる」ツアーをしたが、

その後、台風などの影響もあってツ

アーが途絶えていた。今回、久しぶ

りに会った友人たちのことなどを報

告。

に廃坑がある。日本時代には三井鉱山が銅

を掘っていた。)フィリピンの先住民、

イゴロットの自立のためにNGOを立ち上

げた若きイバロイ・イゴロット、ベ

ティ・キャパウェイ・リスティノさん

(上の写真右)は言う。 七月十七日、雨模様のラ・トリニダ

ドで、去年、第一回アジア太平洋合同

慰霊祭を主催したResearchMateという

NGOの事務所を訪ねてベティさんほか若

いイゴロットの人達に出会った。バギ

オを拠点に活動している映画監督、今

泉光司さんの紹介だ。『土地は命で

す。土地と祖先、それがなかったら私

たちは何ものでもなくなってしま

う。』アメリカ合衆国支配下に急速に

キリスト教化していくと同時に、部落

が解体し、フィリピンの平地の行政組

織であるバランガイに組み込まれて

いったイゴロットの人達。バランガ

イ・キャプテンになったり、役職を与

えられるとなぜかカウボーイ・ハット

に皮のチョッキ、ピカピカのカウボー

イ・ブーツにいそいそと身を包むイゴ

ロットの男達(左写真)には、フィリ

ピンのほかの地域の人々とは違ったア

メリカ合衆国との関係を誇示する雰囲

気さえある。 ベティさんたちは、フィリピン戦最

Eaphet No.7N #8/18

Page 9: NL No. 7 日文版

す。ノイノイ大統領(Noynoy Aquino)

に、今回こそ実現してくれることを期

待しています。」しかし、親の七光り

で大統領になったノイノイを『自分で

は何もできないお坊ちゃん』と揶揄す

る人たちも多い。それでも今までのと

ころクリーンなイメージは保たれてい

るようだ(アロヨだって最初はそうだった

けど…)。 リチルダさんは言う。「女性への暴

力はずっと続いています。特に外国の

軍隊が駐留している場所では必ずあり

ます。ローラたちがいなくなった後

も、この闘いは続きます。でも、彼女

たちが生きている間に彼女たちにとっ

ての正義は実現しなくてはならない、

私たちはそう思っています。」「パン

パンガ政府は日本軍の特攻隊の紀念碑

は作っても、慰安婦関係の紀念碑など

なんです。それで、こっちに来てくれ

る若者たちと話す場所を、ということ

でここを作りました。」リチルダさん

は言う。「アウイさんは電話で『行く

のは四人しかいないんだけど』なんて

申し訳なさそうに言っていたけど、数

は問題じゃないんです。ここに来て

ローラたちの話を聞いてくれる人がい

れば、いつでも歓迎なんです。」

今回相手をしてくれたのは六人の

ローラたち、その中でNarcissa

Claveria さんが、自分の村が日本軍に

占領され、性奴隷にされた物語を語っ

てくれた。【彼女の物語りは次号に掲載

したい―編集者註。】彼女がタガログ語

で語り、それをリチルダさんが英語に

訳し、それをアウイが日本語に訳し、

それを(同行した)Sさんが中文に訳

し、やっと全員が何とか理解する―。

「フィリピン政府は日本政府に協力

的。慰安婦関係の立法がずっとできな

かった。でも今回は下院に何人も支持

してくれる議員さんが出てきていま

う。【次号に、ベティさんが文章を寄

せてくれることになっているので、こ

れもお楽しみに―編集者註】 G

ive us justice now!

Give us justice now!―

リラリラリラリラ・・・・ピリピナピリピナピリピナピリピナののののローラローラローラローラたちたちたちたち アウイ・カズオ 実に四年ぶりにフィリピン元慰安婦のおばあさん(ローラ)たちの「家」、リラ・ピリピナLila Pilipinaを訪れた。四年前の場所から引越ししていて道

に迷った。新しい家は、120 Narra

Street, Project 3にあった。代表の

リチルダ・エクストレマドゥーラさん

(Rechilda Extremadura)に電話で道

を教えてもらってようやくたどり着く

ことができた。リチルダさんは日本か

ら帰ったばかりで、日本で会った人々

のことをいろいろ教えてくれた。

以前の「家」は狭くて、ローラたち

の居住区である階上に上がる階段も狭

くて急なので、これで怪我しないだろ

うかと心配した記憶がある。今度の場

所は広い。ゆったりとした庭がある一

階はフィリピン慰安婦関係の展示と座

談のスペースがある。「以前はローラ

たちが大学とかに出かけて若者たちと

話をすることもよくしていたんですけ

ど、もう高齢になってきてそれも無理

Lola Narcissa Claveria

作る金はないと言います。まったくお

かしなことですね。」 Narcissa Claveriaさん、Felicidad

de Losreyes さん、Estelita Dyさ

ん、Remedios Diarinoさん、Hilaria

Bustamanteさん、Pirale Freviasさ

ん、六人のローラたちに感謝。 フ

ォト

・エ

ッセ

ー“

フォ

ト・

エッ

セー

“距

離”

距離

吳偉祺

人物撮影の鍵は”距離“だ。その

”距離“とは、撮る側と撮られる側の

間にある距離のことを指すだけではな

く、撮影に対して撮られる側がそれを

どう受けとめ、どう表れるか、或いは

自分の姿をうまく撮ってくれたと信じ

るかどうか、という心理的な距離のこ

とだ。 フィリピン・バギオで当地の原住

民の結婚式に参加したときに出会った

ある可愛い女の子のことを思う。そのEaphet No.7N #9/18

Ms. Rechilda Extremadura

Page 10: NL No. 7 日文版

とお互いの交流がうまくいけると思った。

今回のツアーで、たくさんの人たちを訪ねたり

出会ったりした。ほとんど初対面だったが、お互

いに文化・物語を交流したし、自分を囲む環境と

問題について話したし、飲んで歌って、Facebook

までも交換した。まるで初対面とは思えなく、国

籍と民族の違いも存在していないようになって

いった。互いの心に留めたのは真心とその時を思

いつくと浮かんできた懐かしさだった。(了)

(翻訳:イーワン思懿)

子はずっと落ち着かなかったから、

どうしてもうまく撮れなかった。し

かもその子は英語がわからないし、

私は当地の原住民の言葉がわからな

いという状況で、ぜんぜん通じな

い。しかしその子にカメラの画面を

見せると、写された自分の映像を見

た彼女はすぐうれしそうな顔を見せ

た。その反応を受けた私もうれしく

て何回も親指を立てて「Good」と表した。その後、撮影

東ア

ジア

とア

メ東

アジ

アと

アメ

リカ

リカ:そのそのそのその間間間間をををを動動動動いいいい

たたたた2011201120112011フィリピンツフィリピンツフィリピンツフィリピンツアーアーアーアー イーワン思懿

2011.08.30 今年七月十三日から

二十日までフィリピンへ行ってきた。三年ぶ

りなので、出発の前、けっこう楽しみにして

いた。以前会った人と再会したり、初めての

人にも出会った。この三年間、フィリピンと

いう“国家”は何の変化があるかを見に行く

つもりだったが、やっぱり今でも感じたこと

はうまく言えない、むしろうまく受け取れな

かった。今回は主に「東アジアとアメリ

カ:フィリピン編」という協会シリーズ計

画・ツアーのために下見しに行った。以下に

行かなかった皆さんの参考になるかもと思っ

て今回の日程を載せた。 7/13 初日の夜マニラ

到着。 7/14 朝UP Diliman見学、LILA Pilipina訪

問。午後Veterans Center Museum(閉館

で入れなかった)、Manila American

Eaphet No.7N #10/18

Page 11: NL No. 7 日文版

「力」をほめたたえているようだが、でも戦争によってた

くさん民間の人たちが死んだことを問わずに建てられた記

念館に対しては、違和感がある。 そして十六日の朝、バギオ

近くのLa Trinidadから三十キロ地点まで乗合自動車で行っ

た。今泉光司さん(*4)の話によれば、そこは太平洋戦争で

フィリピンを侵略した”日本軍(中に強制連行軍、植民地

志願兵がいたかも)“が最後に全滅さ

れたところだったが、今は私有地だ。

隅にも慰霊碑のようなものがあると言

われたが、私には見えなかった。その

後、もっと山の奥に行って、原住民族

Ibaloi IgorotのCadian村の結婚式に

参加した。今泉さんの誘いで原住民

Ibaloiの伝統的な儀式などがあるかも

しれないことを期待していたが、完全

にキリスト教式に行われてしまった。

そこから宗教の影響力が強いとわかっ

た。また、そこで目に留まったのは儀

式中、彼らの服装に飾ってある織物の

模様だった。その模様は台湾の原住民

族織物にずいぶん似ている、少なくと

もセイダッカ族に似ている。台湾原住

民とフィリピン原住民は元々血縁があ

るという話が頭に浮かんできた。夕

方、今泉さんと一緒にバギオにいる日

系一世か二世:S・トメさんのお宅を

訪ねた。一九四三年生まれ、日本人の

お父さんが戦争中に逃げ帰ってから、

イゴロット=Igorotのお母さんと大変

な暮らしをした。ダブル(混血)でひ

どい目にあって虐められたこともあっ

た。現在、娘さんと孫たちと一緒に住

Cemetery & Memorialなど見学。 7/15 午前中CHR訪問。夜行バスで

Baguio=バギオに出発、深夜二時バギオ

のLa Trinidad到着。 7/16 朝La Trinidadから三十KM地点ま

で乗合自動車で原住民部落Cadian村結婚

式参加、午後La Trinidad市場見学。夕

方、バギオの重富トメさん宅を訪問と食

事。 7/17 朝バギオへ移動と見学、モスリム

探し。午後Bencab美術館、キャンプ・

ジョンヘイ見学。夕方から夜ResearchMate訪問。

7/18 朝Baliwag=バリワーグへ移動。

午後Bulacan=ブラカンの高藤辰子さん

宅到着。 7/19 午前中ブラカンの児童施設Bethlehem見学、川沿いのスクワッター

区見学。昼Annaさんと再会。夕方ブラカ

ンからマニラへ戻った。 7/20 朝の飛行機で台湾に戻った。

四人であわせて七日間滞在した。ツ

アーで気付いたことはとても豊かだが、

具体的な文字にできることは実に少な

い。では、その中から最も印象を残って

いる二、三件を例として挙げよう。 まず最初の夜に、迎えに来てくれたブ

リーヨさん(*1)とやっと会えた。二〇

〇七年初めてフィリピンに行く前から、

「ブリーヨさん」という名前をよく聞い

たが、会う機会はなかなかなかった。翌

日の朝、ブリーヨさんの誘いでUP(フィ

リピン大学)のJon先生の日本語クラス

にちょっと顔を出して、つい日本語会話

練習の相手になってしまった。次に訪ね

たのはLILA Pilipina、一人のお婆さん

は証言してくれた。二回目の訪問で、

LILA Pilipinaは新しい場所へ引っ越し

て、展示室とかもかなり設置したことを 知った。そこで台湾はなぜこのような元

慰安婦の援助施設と展示室がないかと聞

かれたが、答えられなかった。その後、

Veterans Center Museum(一九九八年か

ら今までの退役兵士に関する博物館)に

向かったが着いたときもう閉館して入れ

なかった。ここの退役兵士とはWorld

War Ⅱで戦った、当時には米軍の指示に

属したフィリピン兵士のことだった。時

間を潰すため、近辺にあるAmerican

Cemetery(*2)に寄った。二回目であま

り変わっていないと感じた。めっちゃ広

くてアメリカとフィリピンの国旗があっ

て、太平洋戦争について何十枚大きな地

図で戦略を壁に描いて、十字架とか壁に

戦死兵隊さんの名前も刻んで記念してあ

るが、その意味はよくわからない。もち

ろん、そこはABMC(*3)が建てたものだ

とわかる、フィリピンを植民地から解放

して”民主的な国“にしたアメリカの

んでいる。その夜、トメさんは英語を

中心、ときどき山の言葉で話して、

フィリピンの“国語”―タガログ語は

話せなさそうだ(*5)。真っ白の髪、

楽しくお酒を飲んだり歌ったりした様

子をみて、私にはその昔の生活の大変

さを想像できない。また会えるといい

なあというお婆さんだ。翌日の夕方、

La Trinidadに戻ってResearchMate=

*1 二〇〇五年東海大学で行われたアジ

ア学生会議(

Tra

ns-A

siaS

tud

en

ts

Co

nfe

ren

ce)で阿川と知り合いになったら

しい。現在フィリピンのパンパンガ州の

サン・フェルナンド在住。

*2

Ma

nila

Am

erica

n C

em

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ry &

Me

mo

rial.

マニラのアメリカ墓地および紀念館。

*3

Am

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Ba

ttle

Mo

nu

me

nts

Co

mm

ission アメリカ戦争記念委員会。

*3 ドキュメンタリー映画監督、NPO

法人サルボン代表、フィリピン在住十六

年。作品「地球で生きるために:福岡正

信インドへ行く」「アボン小さい家」な

ど。ドキュメンタリー制作以外に、今も

フィリピン山岳地帯で無農薬麦栽培と販

売プロジェクトを行っている。 *5 阿川によるとタガログ語教育は一九

六〇年代にマルコスによって始動され

た。トメさんが受けたのは米語教育だ。

LILA Pilipinaでででで会会会会ったったったった六人六人六人六人ののののローラローラローラローラたちたちたちたち。。。。後後後後ろのろのろのろの左左左左からからからから杏杏杏杏奈奈奈奈、、、、Rechildaさんさんさんさん、、、、阿川阿川阿川阿川、、、、思懿思懿思懿思懿

歌が上手な トメさん

Eaphet No.7N #11/18

Page 12: NL No. 7 日文版

うがかなり多く得られるが、ある程度の認識を持たないと深い面のものが見えないから多くを得られない。今回のツアーについて全体の感想をいうと、東アジアの歴史を一緒にみないとどこか失ったり迷っ

たりしたみたい全体像及び前の方向が

見えないという実感を確実に感じた。

特に闇に隠してきたアメリカの姿を描

きたいなら。この間、アメリカが崩壊

しそうな経済危機が現れて、国勢及び

国際地位が弱くなり始めたと言われて

いる。だとしても、東アジアと中東地

域に対して歴史的な影響力はまだまだ

存在し続けていくと思う。今年の十二

月、バギオにて第二回目のアジア太平

洋平和慰霊祭を行うつもりだと今泉さ

んから聞いた。もし行けるなら、その

活動をとおして東アジア及びフィリピ

ンの全体像をもっとはっきりしていけ

るかもしれないと思う。(了)

きしている(興味ある方ぜひEaphet

に)。レスティノさんのほか、NGO事務

で活動している青年たち、例えば

Dave、Rainel、Karlなどとみんな一緒

に食事したり歌ったりした。その場で

英語能力をアップしないともっと交流

できないなあと嘆いて反省した。

最後の二日間、Bulacan=ブラカンの

高藤辰子さんを訪ねた。三回目だっ

た。辰子さんは相変わらず元気がよ

かった。そこで二人の「娘」:

RochelleさんとMarifeさんとチラッと

話をした。照れ屋の二人は将来教師を

目指していると辰子さんから聞いた一

方、フィリピン教育制度のせいで卒業

してから先生になるには知識がまだま

だ足りないではないかと辰子さんも心

配している。十九日の午前中に、近辺

の児童施設Bethlehemを見学した。台湾

から運んできた物資をやっとここで降

ろした。赤ちゃんは前と同じように十

人もいるし、隣にある川沿いの不法居

住区の子供たちもたくさんBethlehemの

教室に通っている。ここで思い付いた

のは十五日にCHR(*8)の訪問だ。そこ

から連想した疑問は、どうやって人

権・人命を守るべきか。不法居住者の

命を守るために、居住区から追い払う

か、川に沿って土手を築くか、どっ

ち? 或いは洪水で流れて死んでくれ

たら問題解決か? 捨て子の数を減ら

すために、コンドーム販売を解禁する

か、衛生教育をもっと普及するか、

どっち? 或いは目を閉じたほうが楽

か? けっして簡単に解決できる問題

ではないとわかる、政府及び民間団体

が時間をかければ少しでも解決できる

と思うが、今のフィリピンは新しい政

権に変わってから一年を経ったが、目

でみるとあまり変わっていないよう

リサーチメートというNGO団体を訪ね

た。今泉さんのブログによると、「彼

らは戦時中抗日ゲリラとして日本兵と

戦い、後に米極東軍歩兵隊として召集

され戦った山岳民族歩兵隊のドキュメ

ンタリーを制作しているグループ」だ

(*6)。 その夜に話してくれたのはBetty C.

Listino=レスティノさんだった。彼女

の話によると、現在NGOもイゴロット族

の伝統文化・言語を復興するために力

を入れている。そして去年の十二月八

日にはバギオのキャンプ・ジョンヘイ

にて第一回アジア太平洋平和慰霊祭

(*7)を行った。乱暴にいうと、国籍と

民族を問わずに太平洋戦争で亡くなっ

た人たちを共同記念して、お互いの歴

史を認識して、戦争のいろいろな事実

に向き合うという慰霊祭だ。聞くだけ

でちょっと感動してくるぐらいに今年

の慰霊祭に参加したい気持ちがうきう

だった。昼のとき、アンナー・Fさん

がブラカンまで来てくれた。再会した

アンナーさんはかなり痩せて、家族問

題及び経済問題でけっこう悩んでいる

らしい。泣いた彼女をみながら、三年

前に訪ねた彼女の家族、その一人一人

の顔がつい頭に浮かんできた。売られ

た牛のことも。ブラカンにいる日、私

は何回も思わずためいきをついた。翌

日の朝、いろんな気持ちを持ったまま

台湾に戻った。 ツアーからいつも持ち帰るのは満ち

溢れる重さと何とかしたい気持ちだ。

特にフィリピンから戻ったとき。自分

が生まれたところの歴史とか文化でさ

えまだまだ認識していないうちに、ま

たほかの国の歴史とか文化を突きつけ

られると、系統的な認識を建てにく

い。もちろん直接に接触・交流するほ*6

今泉さんのブログより(

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oo

.co.jp

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70

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*7 今泉さんのブログより。去年の開催案内:

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05

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11

.htm

l 慰

霊祭の意義:

http

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ah

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l 一回目の慰霊祭の公

式サイト:h

ttp://w

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b.co

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*8 C

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igh

ts 政府系機関

だが独立運営している。

ResearchMateでででで 左左左左からからからから杏奈杏奈杏奈杏奈、、、、今泉今泉今泉今泉、、、、Betty、、、、阿川阿川阿川阿川、、、、偉祺偉祺偉祺偉祺、、、、ブリーヨブリーヨブリーヨブリーヨ

Bethlehemのののの可愛可愛可愛可愛いいいい子供子供子供子供たちとたちとたちとたちと杏奈杏奈杏奈杏奈

Eaphet No.7N #12/18

Page 13: NL No. 7 日文版

在左

邊的亞

洲影展

在左

邊的亞

洲影展

陳炯志

起源起源起源起源::::「在左邊的亞洲影展」というド

キュメンタリー活動が二〇〇六年に始

まった。第二回は二〇一〇年に台北の

牯嶺街小劇場、楽生院と三鶯部落で行

われた。評判がよく、ツアーをやるこ

とになり、様々な場所へ遠征し各地の

団体の協力を得た。最初この活動を聞

いた時、とてもいい機会だと思った。

自分の関心ある韓国の社会運動を知り

たかったが、たまにテレビで見る韓国

の抗議運動では、人々の集結力や人々

のエネルギーを理解するチャンスがあ

まりなかった。又、協会の活動として

これも役に立つだろうと思った。台中

のNGO組織は少なく、これを主催側

としてアピールのするチャンスとな

り、他の組織と交流ができることも望

んでいた。 映像映像映像映像::::幾つかの映像の中から、プレ

ビューを見て討論の結果、《那些無法

離開的人們》と《和平里的回憶》を選

んだ。この二つは主に“立ち退き”が

テーマで、前者は都市開発での立ち退

き、後者は米軍基地拡大による村民の

立ち退き。《那些無法離開的人們》は

二〇〇七年の韓国の大規模な新都心計

画New Town Projectにより、龍山区上

道四洞で強制立ち退きによって命が奪

われた六人の悲劇。一方、《和平里的

回憶》は反米帝国、反立ち退き、平和

運動、ある生活闘争の「追伸」。二〇

〇六年米軍基地の拡大要求で、韓国国 防部が大楸里の老農民を強制立ち退き

させた。その結果、大勢の学生や運動

家がここに来て大楸里を支援した。

様々な活動により、立ち退きに反対し

ているおじいさんやおばあさんたちと

一緒に戦い、「和平村」も建てた。

協会で放映したこの二本の他に、台中

の東海書苑では《外宿》と《拉子辣媽

政治挑戰記》の上映会があった。

感想感想感想感想::::協会の二本と東海書苑の《外

宿》…抗争活動の部分の記録には、

人々の社会的が凝集されており、一番

感動的だった。台湾でもよく似たよう

な事件が起こっているが、大部分の人

はお金を受け取り引っ越し、他の仕事

を探す。こんなに長く抗争することは

ほとんどない。ここで幾つかの思いが

湧いた。それは、社会大衆や他の団体

がこのような活動を支持することと、

もう一つは「啟蒙者」又は「煽動者」

に関する討論。或いは左翼の伝統の

「知識分子」と「群衆」の関係。東海

書苑で《外宿》を上映したとき、《外

宿》の監督も出席し、皆と討論した。

監督は台湾の一般民衆が自分の権利を

主張する活動への態度に興味があっ

た。台湾では普通、自分と関係ないな

らあまり抗争に参加しない。韓国と比

べ、ドキュメンタリーのような抗争活

動が始まると、よく他の力が導入され

る。これは活動を続ける重要な支持で

あるが、よく政治的な目的が伴う。だ

から最初の当事者たちへは複雑な発展

となる。だが事実として、抗争活動を

続ければ続けるほどニュースとしての

価値をだんだん失っていき、最初に支

持してくれた力もだんだんとなくな

る。韓国ではいつでも抗争活動が行わ

れ、ある活動を何年も続ける。だから 抗争活動がなかなか注目されにくくな

る。又、映像の中で抗争活動の先導者

がよく見られる。例えば、《外宿》-

女性派遣労働者の抗争運動で、一人の

男性が、先導者のように見え注目され

た。監督の話によると、この男性は

元々同僚で、会社を首にされたので、

この活動に参加し、皆と討論し組織化

した重要な人物だ。同じような役割の

人物が《那些無法離開的人們》にもい

る。それは抗争の時、マイクを持って

参加者の感情に叫びかけながら代弁し

た人物だ。これについては監督の解釈

がなかったので、映像の人物や背景が

あまり分からないが、我々はただ映像

を見るだけではこのような感情が理解

できなくても、もしかしてこれは抗争

活動の中必要な部分なのだろう!た

だ拘束された感情だけではない。

私は抗争運動に関してあまり知らな

いが、今回ドキュメンタリーを見て一

つ疑問が浮かんできた。台湾一般民衆

の社会運動への疎遠をどうやって理解 できるだろうか?自ら以外のものから

疎遠になったからか、無行動や無関心

から生じたものなのだろうか。或いは

行動のやり方が一般民衆に対しては距

離があるものだからだろうか?これを

単純に一つの選択肢で討論するのには

疑問がある。民衆の疎遠な態度に関す

る批判もたくさんある。自分の経験か

らすると抗争行動や、マスコミから注

目されるように、大きく演じ、簡潔な

スローガンと特定のアピール相手が必

要だと理解する。でも時にこのような

誇張は、特定の人だけの魔法のスロー

ガンで、自分が完全に活動に飛び込む

ことができなくなる。もしかして、こ

の議題に関心を持つ人も私と同じ考え

かもしれない。一つの考えとしては、

この様な人たちがもっとこのような言

論ややり方に慣れることで、もっと多

くの人々が自由に活動へ参加できるよ

うになるだろう。このドキュメンタ

リーの活動に通し、もともと感じてい

たこと、考えが更に明確に表れてき

た。(了)(翻訳:遊重器)

活動報告活動報告活動報告活動報告「「「「在左邊的亞洲影展在左邊的亞洲影展在左邊的亞洲影展在左邊的亞洲影展」」」」―台

灣全島で上映会+討論会。台中ではE

ap

he

t(三月二十五日、二十六日)と

東海書苑で行った。

Eaphet No.7N #13/18

Page 14: NL No. 7 日文版

人のアメリカから帰ってきた親戚の家

から帰る時、招待に感謝を伝えている

と、チャンスがあったら是非アメリカ

行って見てねと熱く誘ってきた。悪い

意味ではないだろうが「こっち」と

「あっち」は違うよって言う感じだっ

た。もう一人海外から帰ってきた友達

の話では、彼女の子供が一番慣れない

のは台湾のニオイ、街の廃棄ガス、地

下の妙なニオイ。二つの経験で思った

のは、差別するつもりがなくても、自

分の感覚を言うだけで、ギャップを

マークしてしまうことがある。だから

今回の経験を書くということが出来な

くて、何度も写真を撮ろうとしたが撮

れなくなった。浮浪者に会ったりやス

ラムを歩いた時、「撮りたい」や「撮

らなきゃ」という気持ちが湧く。

訪ねること。 今回の経験を文字にするのは大問題

で、それぞれが言い切れないほどあ

る。例えば、この機会に多くの体験、

認識、理解できるチャンスをくれた

人々に、お礼を言いたい。学者は他人

が自分の人生体験を語ってくれること

に対して感謝の心を持つべきだと、謝

國雄老師は教えてくれた。旅の経験か

ら先生の話は体裁ではなく心からの声

であると信じることができた。文章の

長さが限られているので、私が感じた

「恐怖」「ギャップ」「希望」の三つ

の感覚を短くまとめたい。 旅に対して最初に浮かんできた感覚

は「恐怖恐怖恐怖恐怖」だ。ブローカーの情熱で借

りてくれたシングルスイートに泊まっ

たが、そこを出る時はやはり「警備状

態」にし、靴ひもをきつく締め、簡単

なバックを持ち、運動だと思って十九

階の階段を登ったり降りたりした。夜

になるとできるだけ外に出ない。もし

アメリカ映画「アイ・アム・レジェン

ド」を見たことがあれば、この「恐

怖」という感覚が分かるだろう。 「恐怖」は、生活環境の「ギャッ

プ」、私と彼ら、そして地元の貧富の

格差で生じたのものだ。どこでも見ら

れる浮浪者、一人の浮浪者もいれば、

家族でという人たちもいる。夜になる

と町に座ったり寝たりすることは普通

で、よく見かけたのはダンボールを敷

いたまま上に横になる人と、ゴミの上

に寝る人。段々慣れてきたが、道を歩

くとき突然出て来た足にびっくりした

り、体にゴザがかけ足だけ出してまだ

生きているのかと疑う人にであったり

もした。こういうシーンはコンビニ、

スターバックスや銀行、教会の前な

菲行

菲行―

フィリピン

フィリピン

フィリピン

フィリピンでで でで 陳炯志

この旅の後、文字が使いにくくなっ

た。経験と感覚が多すぎて、文字が、

言葉が足りないだけでなく、自分の感

情を言葉で吐露したらしたらある種の

差別と批判になってしまうことが心配

だからだ。 スケジュールをちょっと欲張って、

まったく自分の荷物とは逆で、五日間

の時間に全部を詰め込んだ。セブ航空

は金がないのに欲張りしたい、ちょう

ど私のような人に良く似合う。夜明け

に到着、夜に帰国、まるまる五日間使

える。行く前に、まもなく出産する妻

から圧力がかけられ、出発前に宿題を

結構しておいた。こうして旅行の楽し

さを減らしたかなと心配したが、やは

りまだ旅行のパワーというものを知ら

なかった。 この旅は三つに分かれ、一つは中心

の学術的目的―SMC, CMA, Migranteの

ような移住労働者に関するNGO組

織、とフィリピン大学のJorge Tigno教

授を訪ねることだった。そして、東海

大学王崇名老師のご紹介で知り合った

JSとGrandeという二つの地元のブロー

カーに会うこと。台湾ではbrokerと言

うが、フィリピンではブローカーのこ

とをagencyと呼ぶ。そして、東海大学

の黃淑燕老師から聞いた、Parolaとい

う警察も行かないマニラのスラム街を

ど、いろんなところで見られる。こん

なに浮浪者を見たら、Parolaの地下鉄

に沿ってあった部屋の住人のどれが貧

民なのか分からなくなってしまった。

「恐怖」はもちろんそれぞれのメッ

セージと、出発前に地元で受けたいろ

いろな親切とアドバイスを思い出させ

る。泊まった十九階のアパートの向こ

うにはスラムのような所があり、この

アパートの下にある二十四時間警備さ

れた三軒のコンビニとの対比を強烈に

した。地下鉄や売店の入り口に金属探

知機とボディチェックはあるので、こ

こには武器はないかもしれないが、逆

にここ以外には銃などいっぱいあると

いうことだ。この疑問は帰国後、一人

のフィリピンの友達が証明してくれ

た。彼は政府の違法銃回収活動の時、

いくつもの銃を放棄したが、家にまだ十丁くらい残っていたと

いう。この違法銃は米軍の帰るとき残したものだ。まるでジー

プニーのように(ジープニーは米軍の残していった車、いわゆ

る町のバスに使われている)。ブローカーの所で、銃の形にし

たビデオカメラをカバンから出した時、相手の顔が驚いたよう

に見えた理由が分かった。きっと驚かせたのだろう、申し訳な

いことをしてしまった。レストランにいた時もパソコンは置い

たままだったので、泥棒にご注意と親切に言われた。たった2

mだけ離れても、警備が出口で見張っても、強盗や泥棒に遭う

ことがよくあるそうだ。 次は「ギャップギャップギャップギャップ」について。

生活と文明のギャップ。以前一

Eaphet No.7N #14/18

特別寄稿特別寄稿特別寄稿特別寄稿―Eaphetフィリピン・ツ

アーとは別に、会員の陳炯志さんが自分の研究で今年フィリピンを

初めて単独旅行した経験について書いてくれた。

マニラ 参考写真(編集者)

Page 15: NL No. 7 日文版

人がよく見られ、歩道橋の下もニオ

イがすごい。バス亭には露天小便池

があっても同じく臭い。これらは文

明のギャップというより、インフラ

建設不足なのだろう。信号や公衆ト

イレなど、これは約四十年間、海外

移住労働を推奨し、労働力を輸出してきたフィ

リピン政府は、このような部分の建設をほぼ放棄している。

フィリピンの最後の日に、ブローカー、銀行と保険業者の会

議に参加した。それは海外に出稼ぎしたい貧しい人のための

ローンについての討論だった。もしフィリピンに来なければ、

こんなに貧しい人に会わなければ、私は左翼的な立場で、資本

家が儲かるための行為だと強く思っていただろう。でも、今の

私は利息や保険費用が合法であれば、資本家が利益を得なが

ら、他の人々が助かるならいいことだと感じる。各NGO組織

の視点ややり方はそれぞれ違い、複雑な国際移住労働者の問

題があり、いろんな面で関わりを持ち、それぞれの面で頑張る

人が必要なことは事実だ。これらの理念や実際の行為をもっと

深く理解できるまで、早急な批判を止め、すべての努力を信じ

たいと思っている。(了)(翻訳:遊重器)

ギャップを感じるが写真としての記録的意味があることは

認める。公園の噴水にいた時、ある浮浪者が自分の娘の

体を噴水で洗おうとしていた。娘が大泣きしながら、私

とその奥さんは目が合って笑った。「しょうがないね!

この子はお風呂したくないのね」と彼女はそう思っていた

だろうが、逆にこちらは「こんな汚い噴水で体を洗うの

か」と驚いていた。この旅で撮った写真は予想より少な

かった。なぜなら自分が納得できる理由がまだ見つからな

かったからだ。こういうギャップから、出稼ぎで海外

に行ってしまうと帰りたくなくなる訳が強く分かった。

最後に「希望希望希望希望」だ。ジープニーは信号がない交差点を通

るとき、止まらずそのまま突っ込み、あちこちにクラク

ションを残していく。地下鉄を出れば、路上で小便をする

参考写真(編集者)

Eaphet 說中文說中文說中文說中文!!!!!!!! 中中中中国国国国語語語語でででで話話話話そうそうそうそう No. No. No. No.002 この夏Eaphet主催で行われた台湾ツアー(8月18日~26日)では、建設中の第四原発「核四」のある「貢寮」に行きました。ツアー参加者は鉄道で福隆駅まで行き、夏の観光客が賑わう街を抜け、核四建設地に向かいました。 貢寮では1987年「貢寮反核自救会」という原発反対運動の組織が結成されました。その「貢寮反核自救会」の楊木火さんにお話を聞きながら、核四の周りの公園をトレッキングしました。 今年夏天今年夏天今年夏天今年夏天,,,,Eaphet主辦的台灣之旅主辦的台灣之旅主辦的台灣之旅主辦的台灣之旅((((8月月月月18日日日日~~~~26日日日日))))前往位於貢寮前往位於貢寮前往位於貢寮前往位於貢寮,,,,目前尚未完工的核四目前尚未完工的核四目前尚未完工的核四目前尚未完工的核四。。。。參加者們搭乘自參加者們搭乘自參加者們搭乘自參加者們搭乘自強號到福隆火車站強號到福隆火車站強號到福隆火車站強號到福隆火車站,,,,穿越擠滿了夏季遊客的站前街頭穿越擠滿了夏季遊客的站前街頭穿越擠滿了夏季遊客的站前街頭穿越擠滿了夏季遊客的站前街頭,,,,邁向目的地邁向目的地邁向目的地邁向目的地----核四廠核四廠核四廠核四廠。。。。 1987年貢寮居民組織成立年貢寮居民組織成立年貢寮居民組織成立年貢寮居民組織成立「「「「貢寮反核自救會貢寮反核自救會貢寮反核自救會貢寮反核自救會」,」,」,」,進行反核相關運動進行反核相關運動進行反核相關運動進行反核相關運動。。。。身為身為身為身為「「「「貢寮反核自救會貢寮反核自救會貢寮反核自救會貢寮反核自救會」」」」成員的楊木火先成員的楊木火先成員的楊木火先成員的楊木火先生帶著台灣之旅的參加者們生帶著台灣之旅的參加者們生帶著台灣之旅的參加者們生帶著台灣之旅的參加者們,,,,一邊參觀核四廠的週遭環境一邊參觀核四廠的週遭環境一邊參觀核四廠的週遭環境一邊參觀核四廠的週遭環境,,,,一邊介紹說明一邊介紹說明一邊介紹說明一邊介紹說明。。。。 楊:貢寮の海岸は元々大きな砂丘地帯だったんですよ。以前は砂丘の位置は季節の風によって砂が移動していました。 楊楊楊楊::::貢寮海岸原本是片廣大的沙丘地帶貢寮海岸原本是片廣大的沙丘地帶貢寮海岸原本是片廣大的沙丘地帶貢寮海岸原本是片廣大的沙丘地帶,,,,從前沙丘的位置會隨著季節風向從前沙丘的位置會隨著季節風向從前沙丘的位置會隨著季節風向從前沙丘的位置會隨著季節風向、、、、水流的改變而移動水流的改變而移動水流的改變而移動水流的改變而移動。。。。 参加者:今は海岸沿いに少し砂浜があるだけですね。 參加者參加者參加者參加者::::但現在看起來只有海岸邊有沙灘而已但現在看起來只有海岸邊有沙灘而已但現在看起來只有海岸邊有沙灘而已但現在看起來只有海岸邊有沙灘而已???? 楊:原発には大量の海水が必要です。海水を供給するために、海を埋め立て埠頭を建設したんです。その埠頭が海水の流れを止めて、砂が移動しなくなりました。 楊楊楊楊::::因為核能發電需要大量海水因為核能發電需要大量海水因為核能發電需要大量海水因為核能發電需要大量海水。。。。為了供應足夠的海水為了供應足夠的海水為了供應足夠的海水為了供應足夠的海水,,,,施工單位填海建設碼頭施工單位填海建設碼頭施工單位填海建設碼頭施工單位填海建設碼頭,,,,碼頭阻斷了海水的流動碼頭阻斷了海水的流動碼頭阻斷了海水的流動碼頭阻斷了海水的流動,,,,同時同時同時同時也使得沙土無法隨著水流移動也使得沙土無法隨著水流移動也使得沙土無法隨著水流移動也使得沙土無法隨著水流移動。。。。 参加者:こんなにきれいな海があり、砂浜があるのに、生き物の気配がありませんね。 參加者參加者參加者參加者::::雖然有這麼美麗的海和沙灘雖然有這麼美麗的海和沙灘雖然有這麼美麗的海和沙灘雖然有這麼美麗的海和沙灘,,,,卻似乎很少見到自然生物的蹤跡卻似乎很少見到自然生物的蹤跡卻似乎很少見到自然生物的蹤跡卻似乎很少見到自然生物的蹤跡???? 楊:原発が稼働し、大量の高温度の水が放出されれば、海水の温度も上がり、漁師は魚が捕れなくなります。 楊楊楊楊::::如果核四廠開始運作的話如果核四廠開始運作的話如果核四廠開始運作的話如果核四廠開始運作的話,,,,高溫度的水大量排出高溫度的水大量排出高溫度的水大量排出高溫度的水大量排出,,,,將會使得海水溫度明顯提昇將會使得海水溫度明顯提昇將會使得海水溫度明顯提昇將會使得海水溫度明顯提昇,,,,漁民們就捕不到魚了漁民們就捕不到魚了漁民們就捕不到魚了漁民們就捕不到魚了。。。。 参加者:人間が豊かになるはずのエネルギーが、自然の豊かさを壊すのは悲しいことですね。 參加者參加者參加者參加者::::原本應該為人類帶來繁榮的能源原本應該為人類帶來繁榮的能源原本應該為人類帶來繁榮的能源原本應該為人類帶來繁榮的能源,,,,卻反而破壞了豐富的自然資產卻反而破壞了豐富的自然資產卻反而破壞了豐富的自然資產卻反而破壞了豐富的自然資產,,,,真的是很令人難過的一件事真的是很令人難過的一件事真的是很令人難過的一件事真的是很令人難過的一件事。。。。

;原本(Yuánběn・元々)、沙丘地帶(Shāqiū dìdài・砂丘)、 沙灘(Shātān・砂浜)、核能發電(Hénéng fādiàn、原子力発電)、碼頭(M�tóu・桟橋、埠頭)、能源(Néngyuán・エネルギー)、難過(Nánguò・悲しい)

Eaphet No.7N #15/18

Page 16: NL No. 7 日文版

Ea

ph

etがが がが見見 見見たた たた出来事

出来事

出来事

出来事

五月底

五月底

五月底

五月底~~ ~~八月初

八月初

八月初

八月初

五月二十日五月二十日五月二十日五月二十日 立法院、核四建設核四建設核四建設核四建設など原発関

連で百四十億元の追加予算を認可。 六月六日六月六日六月六日六月六日 李明博李明博李明博李明博大統領が北コリアに対し

て「対決や対立の道から抜け出し、平和と

繁栄の道に進むべきだ」と呼びかけたが金

正日は「相手にする価値がない」と無視し

たのだそうな。 六月八日六月八日六月八日六月八日 台湾軍の退役将軍が「国軍(台

湾軍)、共軍(中国軍)はともに中国軍中国軍中国軍中国軍

だ」と発言、台湾国防部と馬総統はあわて

て否定。軍部に根深い中台統一派中台統一派中台統一派中台統一派の存在?

六月十四日六月十四日六月十四日六月十四日 立法院、民進党民進党民進党民進党から出されて

いた反核立法反核立法反核立法反核立法案を否決。結果、先の百四十

億元決議は存続。民進党は反核提案十一す

べての案件で敗北。 六月十五日六月十五日六月十五日六月十五日 米議会下院の超党派の十議員

がオバマ米政権によるリビアリビアリビアリビアでのでのでのでの軍事行動軍事行動軍事行動軍事行動

は議会の了承がなく「憲法違反」だとし

て、米連邦地裁に訴えた。 六月十八日六月十八日六月十八日六月十八日 北米在住の原爆被爆者原爆被爆者原爆被爆者原爆被爆者を対象

にした無料の健康診断がロサンゼルス近郊

で二日間の日程で始まった。 六月二十八日六月二十八日六月二十八日六月二十八日 フランス、次世代原発次世代原発次世代原発次世代原発に千

二百億円投入、ビジネス続行宣言。 七月十三日七月十三日七月十三日七月十三日 日本の菅首相、「脱脱脱脱・・・・原発依原発依原発依原発依

存存存存」宣言。米国国務省から緊急呼び出しを

受ける。 七月十四日七月十四日七月十四日七月十四日 スーダンスーダンスーダンスーダン南北境界の係争地、

南コルドファン地区の主要都市カドゥグリ

で、紛争犠牲者百人以上の遺体が穴に集団 埋葬されていたことが、衛星写真で確認

された。 七月二十日七月二十日七月二十日七月二十日 広瀬隆と明石昇二郎が「安

全デマ」を流す御用学者御用学者御用学者御用学者、原発関係者を

東京地検に一斉告発。 七月二十二日七月二十二日七月二十二日七月二十二日 ノルウェーノルウェーノルウェーノルウェー「「「「連続連続連続連続テロテロテロテロ」」」」事事事事

件件件件。犯人とされる男性は「ヨーロッパは

移民に汚染されている。日本や韓国や台

灣のように単一文化主義を取るべきだ」

と言ったそうな―誤解なのか正解なの

か…。同日、シリアで百二十万人の反ア

サドデモ。 七月二十三日七月二十三日七月二十三日七月二十三日 中国高速鉄道、浙江省温州

市で追突事故。 七月二十四日七月二十四日七月二十四日七月二十四日 ネオネオネオネオ・・・・ナチナチナチナチの聖地、ルドル

フ・ヘスの墓が撤去された。 八月四日八月四日八月四日八月四日 “大阪維新の会”が、君君君君がががが代不代不代不代不

斉唱斉唱斉唱斉唱でででで免職免職免職免職もあり得るという「職員基本

条例案」を準備していることが明るみに

出た。こわい、こわい。 八月六日八月六日八月六日八月六日 ロンドンで警官が黒人男性を

射殺したことが引き金になってイギリス

全土に暴動暴動暴動暴動が広がる。 八月八日八月八日八月八日八月八日 日本の菅首相、運転停止中の

高速増殖炉原型炉もんじゅもんじゅもんじゅもんじゅについて、廃

炉も含めて検討すると発表。 八月十五日八月十五日八月十五日八月十五日 日本の原発産業原発産業原発産業原発産業めぐるスキャ

ンダル、次々と明るみに―ウォールスト

リートジャーナル紙、やらせ問題などを

大きく報道。 フォーブス紙の長者番付で、中国富豪中国富豪中国富豪中国富豪

数(四十人)が香港(三十七人)、台灣

(三十五人)を上回った。華僑華人白書

に発表された。 八月十六日八月十六日八月十六日八月十六日 南南南南コリアコリアコリアコリア・・・・米国合同軍事演米国合同軍事演米国合同軍事演米国合同軍事演

習習習習、乙支(ウルチ)フリーダムガーディ

アン(UFG、十六~二十六日)に南コ

リア・米国両国の兵力と政府関係者ら計

五十三万人が参加すると発表。 八月三十日八月三十日八月三十日八月三十日 南コリア憲法裁判所は、政

府が旧日本軍の元従軍慰安婦や原爆被害

者に対する賠償問題をめぐり、南コリア

と日本の間の紛争を解決せずにいるのは

違憲だとする判断を下した。 Eaphet No.7N #16/18

「「 「「東東 東東

アジ

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とと ととア

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衆合

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国国 国国」」 」」沖縄編

沖縄編

沖縄編

沖縄編―― ――報告

報告

報告

報告

国国 国国」」 」」沖縄編

沖縄編

沖縄編

沖縄編―― ――報告

報告

報告

報告

宮平杏奈

今回、沖縄スタディーツアーは、東

村・伊江島・読谷町・嘉手納町・沖縄

市・宜野湾市・浦添市・那覇市・南風

原町・糸満市の各訪問先を七日間で回

り、まとめ会も含め九泊十日の日程で

行った(台風のため、台湾組みの帰省が

一日遅れ計十泊十一日だった)。

「「「「国家国家国家国家」」」」ってってってって一体何一体何一体何一体何???? 参加者J(沖縄に来るのは始めて)は

基地問題―人権問題―国家のつながり

に興味を持ち、ツアーに参加してい

た。「日本という国家の“安全”のた

めに、沖縄に基地を置き、人権が侵害

されている…国家が民を守らないのな

ら、国家とは一体なんだろう?」と彼

はよく訪問先の方々に問いかけてい

た。その質問に対してある方は、「基

地によって安全を確保しているのでは

ない。基地があることにより一番得を

しているのは企業だ!」と語る(この

言葉を聞いて『メア発言』が脳裏をよぎっ

た)。沖縄に基地がある理由のひとつ

に、日本国の存在だけでなく企業の影

がチラリと見えた瞬間であった(今回

のツアーでは、企業と基地の関わりはあま

り見えてこなかった)。最終的に、彼の

中で国家の存在は否定的に受け取ら

れ、「底辺で常に抑圧されている沖縄

像」が浮かんできたようだ。

言語言語言語言語ととととアイデンティティアイデンティティアイデンティティアイデンティティ

また、彼は琉球諸島あたりにはそれ

ぞれの言語が存在するが、今では話者

がほとんどいないことをJは嘆いてい

た。「日本のかつての皇民化政策と沖

縄支配により、沖縄の文化・習慣は抑

圧されてきた。その結果(いわゆる) “うちなーぐち”話者が減ったん

だ!」と彼は考える。また、このツ

アーの中盤、訪問先である大学生と知

り合った。彼は「世界のうちなーん

ちゅ大会」のボランティアスタッフを

する傍ら、「うちなーぐち」を“自

分”&“私たち”に取り戻すために地

元の人との会話を常に「うちなーぐ

ち」でしている。(たとえ相手がわから

なくても…)これにはその他の参加者

I、S、M、私も全員がびっくり。大

変地道で興味深い試みだと感心する一

方、“自分”―“私たち”のアイデン

ティティは言語に求めていいものなの

か…とも考える。そして、通訳二名が

“うちなーぐち”わからないので、ま

ずMが日本語へ、私とSは中国語へと

大変だった。

その他、日ごとの反省会のときも、

台湾―沖縄―日本の意見が飛び交い、

ぶつかり、結果アイデンティティの話

題へと移ることが多かった。沖縄の歴

史、基地問題を語る上で、アイデン

ティティの概念は切り離せないものの

ようである。 「「「「正正正正しいしいしいしい歴史歴史歴史歴史」」」」ってってってって????今今今今までまでまでまで見見見見てきてきてきてき

たたたた沖縄沖縄沖縄沖縄ってってってって何何何何だろうだろうだろうだろう…………

「正しい(または正確な)歴史」っ

て一体なんだろうか?」SとUは疑問

を抱えていた。S:「私は沖縄に一年

住んで『沖縄好き』だと言っていた。

今回のツアーでいろんなところを訪問

し、基地があることによるプラスの面

も、マイナスの面もどちらも聞けた。

私が認識していた沖縄はほんのピンポ

ン玉サイズだったと思う。」 U:

「私たちが沖縄の歴史を学んでいく中

で、語られていない歴史に出会うこと

がある。でも、現在語られていること も歴史で、語られていないことも歴史

で、何が“正しい”んだろう?歴史は

どうやって語り継がれるんだろ

う…。」と語る。

私たちがこのツアーで学んだこと、

語られていない歴史を、どうやって伝

えていくことができるだろうか?

(了)

Page 17: NL No. 7 日文版

Eaphet No.7N #17/18

「社会起業と労働」ワーク

「社会起業と労働」ワーク

シップ

シップ

at

at「「菩提長青村

菩提長青村」」

吉田藍

四月九日Eaphetの企画で十名ほどで

長青村に行ってきました。長青村には

これまで何度か訪れたことがありまし

たが、今回はあるテーマを決め、一日

長青村で過ごし、村公(村長の夫)のお

話を聞きながらみんなで考えるという

ワークショップ式の活動をしました。

テーマは「社会起業」です。 一九九九年の南投県国姓村を震源と

した大地震「九二一」後、家をなくし

た身寄りのないお年寄りがたくさんい

ました。そういったお年寄りたちが共

同で暮らすコミュニティー「菩提長青

村」を作ったのが、それまでレストラ

ンを経営していた陳芳姿と王子華の村

長夫婦です。 ここに住む人たちは、守られ、保護

される立場のお年寄りではなく、一人

一人ができる生産活動をして、コミュ

ニティーを支えています。コーヒーを

だす喫茶コーナーがあったり、団体客

に食事を提供したりします。そこで使

われる野菜は自家製でとても新鮮でお

いしいです。また近くの夜市では観葉

植物や手芸品を売っています。これら

の収入で長青村は生計を立てているそ

うです。全てのモノをお金で買って生

活している私にはなかなか信じがたい

ですが、自分たちで食べるものは自分

たちで作るので、意外と何とかなるそ

うです。 さて、今回のテーマ「社会起業」と

は何でしょうか。一般的企業経営の一

番の目的は利益を得ることですが、社

会起業の経営の目的は「社会のために

なること」です。ですが会社として持 続的に経営していくための利益も得る

必要があります。慈善活動に積極的な

企業もありますが、まず一番は利潤

で、ゆとりがなくては寄付などは出来

ないでしょう。それに対して社会起業

は「社会のためになること」が一番

で、お金はそれを継続させていくため

の道具です。援助されるのではなく、

利益を得ながら、社会のために持続的

に生産したりサービスなどを提供でき

るのが社会起業です。かなり頭の発想

の転換が必要とされますよね。 参加者は村公の話を聞いた後で、

「もしEaphetで起業を起こすなら何を

するか」を話し合いました。参加者は

色々な可能性を考えながらアイデアを

出し合いました。「歴史をテーマにし

たツアー会社を作る。」これは今でも

やっていますが、きっと採算は取れて

ないですよね。「一人一人の半生記本を手作りする。」一人一人の歴史を大

事にするEaphetの活動趣旨とも合いそ

うですが、需要があるかが問題です。

「翻訳会社を作る」中国語、日本語、

英語が交差する協会なら出来るかもし

れません。実際翻訳の仕事も舞い込む

ことがあります。他にもたくさんでた

アイデアを村公に聞いてもらい、可能

性や問題点について話し合いました。

今回出たアイデア一つ一つがのちに生

かされるかもしれません。とにかく社

会起業を始めるには、これまで誰も思

いつかなかったような発想、ひらめき

が大切だそうです。理想過ぎてもいい

から何かを発想してみることから始ま

ると感じました。 私たちは何の為に労働するのでしょ

うか。生きることの基本は労働だとい

う人もいます。しかし、その労働の性

質がどういうものなのかによって、自 分や家族、友人、社会にもたらすもの

はかなり違ってきます。どうせ働くな

らば自分もみんなも幸せになる働き方

ができればいいと思います。尚且つ環

境にも悪くないともっといいです。参

加者にはまだ学生の人もいましたが、

すでに働いている人もいました。私た

ちは何の為に労働するのか、その労働

は何を生むのかということについても

考えることができた一日になったので

はないかと思います。(了) 東

アジアとアメリカ合衆

東アジアとアメリカ合衆

国:台灣編、報告

国:台灣編、報告

古川ちかし

八月十八日から二十六日まで、台北

を出発点に、貢寮、台中、南投を、ア

メリカ合衆国の足跡を辿ってまわっ

た。東日本震災の影響か、日本からの

参加者は一人だけ。台灣留学中の人

や、部分参加の人達など、基本的には

総勢六人でのツアーになったが、台北

部分だけ参加してくれたり、ある一日

だけ参加してくれたりと、延べ人数は

二十二人になった。 アメリカ合衆国の台灣への関わりを

考えるとき、それがどこから始まるの

かがまず大問題だ。例えば、今回見た

国立中央図書館の展示「アメリカ合衆

国の足跡」では一九三七年にアメリカ

の船が緑島に漂流したのを島民が救助

したところから始まっていた。つま

り、ここでは「台灣」というのを台灣

島と解釈している。 一九四九年から米台関係を語り出す

人もいる。国民党が台灣に来てから、

というわけだ。しかし国民党とアメリ

カ合衆国との関係はもっと前まで遡

る。そもそも孫文が辛亥革命で呼び戻

されたとき滞在していたのがアメリカ

Page 18: NL No. 7 日文版

Eaphet No.7N #18/18

合衆国だ。アメリカ合衆国は日中戦争

不介入を宣言しながらも、AVG―

American Volunteer Groupという形で

軍事援助をしていたわけだし、援蒋

ルートを支えたのもアメリカ合衆国

だ。 台北には今でもアメリカ合衆国の軍

事顧問団(MAAG)のために作られ

た米軍寮(米軍住宅)が陽明山に残っ

ている。今回のツアーで、この米軍寮

脇に住む老人に話を聞いた。『あそこ

の土地の一部は私の家のものだったん

だ』と老人は語気荒く語り始めた。

『それを米軍を住まわせるからと言っ

て、取られた。なぜ断らなかったかっ

て?そんなことしていたら、どんな死

に方してたかわかりゃしない!』米軍

寮を廻りのコミュニティから仕切って

いたコンクリートの壁(左写真)は今

でも残っている。 ベトナム戦争が始まって一九六三年

に台中にも米軍の顧問団が常駐するようになるが、同じ時期、台北ではベトナムに従軍している兵隊

のためのR&R(米軍用語で休養・英気

を養う、みたいな意味)計画の下に、当

時の米軍司令部があった中山北路三段

付近に、米兵相手の繁華街ができる。

私たちは、今回は中山北路三段の晴光

市場を中心に、昔のことを覚えている

人を訪ね歩いた。晴光市場はPXからの

横流し品で栄えていただけでなく、米

兵相手のコールガールもたくさんいた

らしい。 時代は前後するが、朝鮮戦争への中

共の参戦を機にMAAGができる以前

は、アメリカ合衆国は台灣人にとって

は「美援」、つまり小麦粉や医療品な

どを無償で援助してくれたという記憶

として存在する。これを台湾人にとっ

てのアメリカとの接触の第一期だとす

れば、第二期は、このMAAG時代か

らベトナム戦争時期だろう。さらに第

三期は突然の一方的な断交(一九七九

年)の記憶によってマークされる。

以前、栄民(老兵、つまり国民党軍

の退役軍人で、そのほとんどは蒋介石

とともに台灣にやってきた外省人)の

人が口汚くアメリカ合衆国をののしる

のを聞いたことがあるが、アメリカ合

衆国に裏切られたという記憶は、この

突然の断交に原因があるようだ。今の

若者のほとんどは断交以降の生まれだ

からなのか、栄民の一部に今でも根強 く残るこうした怨嗟を知ってもピンと

こない。 前述のように、台中に米軍顧問団が

やってきて日本時代に作られた公館飛

行場を拡大したのは一九六三年のこと

だった。私たちはこの飛行場(現在の

清泉岡空軍基地)内にある「米軍足跡

館」を見に行った。見に行くには、二

週間前に公文(組織名で訪問許可を求

める公式文書)を提出し、訪問者一人

ひとりの名前、使用する車両ナンバー

まで事前に提出しないといけない。軍

の基地だから、それもしかたないのだ

が、米軍足跡館はなかなか充実した展

示だった。台北と同じように、米兵の

ための繁華街がどこにあったか、その

様子なども写真で展示されている。面

白かったのは米兵のためにアメリカ合

衆国から生きた豚を空輸していたとい

う写真。台灣にももちろん豚はいる。

米軍は兵士の「安全のため」豚を空輸

したのだというから、当時のアメリカ

合衆国が台灣をどのように見ていたか

のヒントになる。 私たちが南投に足を延

ばしたのは、一つは松岡部落という栄民(松岡の

栄民は一九六三年にビルマ、ラオス近辺の麻薬地

帯、ゴールデントライアングルから呼び戻され

た)村から台米関係を考えるためであり、もう一

つには、原住民にとって一九四五年以降のアメリ

カ合衆国との出会いがどのようなものだったのか

について話を聞くためだった。

麻薬地帯でゲリラ戦を戦った国民党

軍(戦後はもう軍隊とは呼べない代物

だったらしいが)が麻薬売買で上げた

利益は、アメリカ合衆国議会へのロ

ビーイング(いわゆるチャイナ・ロ

ビー)に使われたという話もある。

日本が去ったあと、山の人達はほぼ

4年間、台灣政府から捨て去られてい

た。そこに物資、医療、教会を持ち込

んできたのはアメリカ人でありカナダ

人であったようだ。山の人達の中にア

メリカ人に対して親しげに語る人がい

るのも不思議ではない。 台灣人の中には(特に上述の第一期

から第二期のことを語るとき)「一番

上にアメリカ人がいて、次に外省人が

いて、台灣人は一番下だった」と語る

人もいる。山の人達には、こうした認

識は(一般的にいって)ないようだ。

ツアーを通して、冷戦がどのように

台灣とアメリカ合衆国の関係を作り出

して行ったかについては一定の認識に

至ったと思うけれど、冷戦というもの

がなぜ終了したのか、そして冷戦の次に来たものは何だっ

たのか、について考えるところまでは到

達できなかった。そこが、まさに、今現

在の私たちを考えう上で重要なのだが、

それはツアーに参加した若者たちの宿題

となった。私もその宿題に応えなくては

ならないが、それにはもう少し時間が必

要なようだ。(了)