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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 海路の賑わい : 当館所蔵の航路図付航路記(その1)(Flourish of Seaways - Voyages with Rout-Maps Maritime Museum Storing (1st Report) -) 著者 Author(s) 樋口, 元巳 掲載誌・巻号・ページ Citation 海事博物館研究年報,33:17-25 刊行日 Issue date 2005-03 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81005639 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005639 PDF issue: 2020-02-21

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

海路の賑わい : 当館所蔵の航路図付航路記(その1)(Flourish of Seaways- Voyages with Rout-Maps Marit ime Museum Storing (1st Report) -)

著者Author(s) 樋口, 元巳

掲載誌・巻号・ページCitat ion 海事博物館研究年報,33:17-25

刊行日Issue date 2005-03

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81005639

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005639

PDF issue: 2020-02-21

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海路の賑わい

-当館所蔵の航路図付航路記(その 1)-

航路図については既に南波松太郎先生の概説が

ある (1海事資料館年報j第4号 昭 和52年)。又、

松木哲先生の蔵品解説(1海事資料館収蔵目録」

等)があり、神戸市立博物館特別展「古地図にみ

る世界と日本J(昭和58年)での記念講演「日本

の航路凶について」がある。海事参考館、海事資

料館時代に資料の蒐集購入の任に当たったのは松

木先生である。零が 1つしか付かない乏しい購入

予算上の制約があって高価なものに手を出す余裕

は無い。ために松木先生はいろいろな種類の航路

凶を蒐集する事を lつの目標にされたという。海

事博物館蒐蔵品中、和船関係資料が異彩を放っそ

の一端として航路図の蒐集品が質量共に充実して

いるのはその御蔭である。航路図についてまとめ

ておきたいと松木先生が言われてから相久しい。

見聞と博識、驚嘆すべき記憶力とで是非まとめて

おいてほしいと願うものの、多忙と遅筆とが邪魔

をLてきた。その任にあらずとは知りつつ露払い

をしようとするのである。

松木先生の言われる色々な種類の航路図とは何

か。あれやこれや思い巡らした末、どうやらそれ

は航路図の中味だけではなく外面、体裁の事では

なかろうかと思い至った。これも何事も先達はあ

らまほしきことなりという結果になる O 勿論四界

海の事ゆえ瀬戸内のみならず東海西海北海南海等

の航路図はある。航路は横に長く連続するものだ

から紙を継ぎ足して行けば自ら巻子本か折本の形

態になる。大きな紙 l枚に描いても折り畳んだ折

帖にして保存する O 本の形態的歴史は巻子本から

冊子本へと便利なように展開したのとは逆に航路

図には巻子本が多い。

南波先生は概説で、航路図分類の基準には装頼

(綴本・折本・巻物・扉風等)、手書きか印刷か

(木版・銅版)、彩色の有無、航行区域などがある

とされた上で、主に装帳を基準にして解説される。

同概説では航路図には航路を主として記載して地

樋口元巴

図そのものの地形や河川・道路・集落等にこだわ

らないもの、一般の地図に航路を書き入れたもの

の二種があること、航路図は海路図、航路絵岡な

どとも称されることにも触れられた。簡にして要

を得た上記概説を冗長に書き改めて報告する O

元禄10年 (1697)刊の石川流宣の「日本山海図

道大全」は松前から対馬まで、更には朝鮮半島、

琉球に至る迄が描き込まれた絵図で、陸路と共に

海路が記入されている O 地図余白には東海道宿場、

一宮等と共に大阪より西国海路道法、潮干満図等

が掲げられる。又、天保前後になると名所図会が

次々と刊行される一方で道中案内記の類が陸続と

出版されている。「改正大日本道中案内図J(天保

10年刊、折本 l帖)などもその 1つで、松前から

対馬、琉球までの街道と海路とを細かく記載した

書である。見返しに「御居城在々津々名勝旧跡海

陸着微細」との効能書がある。当時の出版情勢を

窺うべく天保9年版の「東西船路名所記」の奥に

列挙されている秋田屋の刊行物を冗漫乍ら挙げて

おく。

大日本海陸図 東海道旅行図会小牛、 l冊 日本道

中行程記折本海陸行程細見記折本 難波船路記全

2冊東海道分間絵図折本 5巻 東北道中記東国名

勝志全部5冊 西国筋名跡図会大本 1冊 日本海陸両

道中独案内折本 大増補日本道中行程記折本 改正

日本道中行程記井船印入 増補日本行程細見記

日本行程指南車折本 西国航路之記小本 北海針筋

湊方角之図折本 西国筋道中記折本 1枚 大日本独

案内大形折本 日本早引道中記折本 東海道分間之

図三ツ切折本 木曾道中勝景図会 伊勢道中勝景図

会東海道勝景図会 大日本海陸通覧彩色本増

補海陸行程細見記ー名旅日記小本 1冊 新増重錆大日

本道中行程細見記折本東西船路名所記 大日本廻

船針直路之図 1枚摺

図会や名所誌等に大本、複数冊の書が若干ある

のを除けば殆どが小冊子及至小型折本の取り扱い

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Page 3: Kobe University Repository : Kernel大全J1 改正大日本道中案内図J1日本鳥服中国四 国大図経」はいづれも航路図と呼ぶべきものでは なく、地図であり案内図である。何を以て航路図

に便利な判型を採用している。書名を列挙するに

当って図会類等と他とを区別してまとめるとか、

同種のものをひとまとめにするとかの配慮は全く

窺えない。ただ漫然と並べただけかも知れぬが、

これらの書物を特に区別して扱う必要を感ぜず同

種類のものとしているのであろう O

大正16年元旦の大阪毎日新聞附録[日本鳥蹴中

国四国大図絵」という珍しい折帖がある。遥かに

樺太・台湾までもが描き込まれる O 街道に変って

鉄道が走り、和船は蒸気船になって海上航路上に

描かれているが、基本的には江戸時代の案内図と

同じものである。右に取り上げた「日本山海図道

大全J1改正大日本道中案内図J1日本鳥服中国四

国大図経」はいづれも航路図と呼ぶべきものでは

なく、地図であり案内図である。何を以て航路図

とするのか、その基準は何かは中々厄介で、ある。

石井謙二氏 (1船」法政大学出版部、「図説和船史

話」誠光堂等)の言われる航路誌的記述、港湾航

路の状況、風向、航路の里程、方位などの記述の

あるものが航路図(海路図とも)であり、航跡を

記したものは航路図ではなく海図であるとの考え

方がある O 事柄としてはその通りであるものの基

準としては厳密過ぎて実際的でない。用語も明確

に区別されている訳ではない。

航路図は航海上目当てになる山や建造物、土地

の名勝などは別にして地上の自然や施設を描く事

が目的でない。航路には軌道がないが、あるかの

ように描かれる O 必ずしも正確にではなく概念と

して描かれる事が多い。海上の航路に随って陸上

の自然や施設や港湾島艇を中心に目当てや城、寺

社等を描くばかりである O 航路図と云う限りは絵

図があるものという事になる o 1日本汐路之記J

には絵はない。絵は無くともよいのである O 航路

の記されていない絵図さえある O 航路図を定義し

ないまま取り上げて行く事になるが、凡そ書名、

内容に随う事とする C 船の宇は異体字を用いる事

が多いが全て船で統ーしている O 分類は冊子本・

小型折本の部、一枚物・大型折本・扉風の部、巻

子本の部の三類とした。

冊子本・小型折本の部

写本に次のものがある。

(1) 1対州より大坂迄航路上り J1巻 1冊

(2) 1向地宮内海上絵図J1巻 1冊

(3) 1道法J3巻 3冊

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(以下資料に通し番号を付す。)

(1) 1対ナトはり大坂迄船路上り j墨付27了の小冊

子である。対馬から大阪川口迄の238里の航路の

潮汐代り覚を書き記す。「一、対州、はり勝本迄

四十八里、勝本江乗掛対馬瀬戸と云うより乗込、

又風に依中の瀬戸より入事も有、付同所揖の沖の

嶋をにゃくの嶋といふ、島に添ひて瀬有、同所の

北手沖に鼻毛といふ岩有、此角北風穴物風ニ北東

風ニハ殊外浪高し、瀬行早しjの箇条から始まる O

勝本から相嶋まで35里、同勝本から瀬戸浦まで 3

里、瀬戸浦から玄界か嶋まで25里、以下玄界か嶋一

鹿の嶋相嶋慈嶋山家御崎若松内裏下

関一回の浦(下路)と続く O 田の浦の条に「間ニ

速戸の瀬戸有、潮行早し、明神社有、田浦ハ東風

南風ニ吉」とあり、 j頼、目当、潮風を記す。以下

瀬戸内を辿って「一、兵庫より神戸迄一里、かふ

ベハ西風穴物風に吉、其外の風ハ悪し、一、神戸

より脇の浜迄ー里、脇の漬ハ西風穴物風北風ニ吉、

其外の風ハ悪し」を経て尼崎一安治川口一木津川

口に至る。木津川口の条には「西風南風強く吹ハ

浪高し、水押本の内に入レパ吉し、右尼ケ崎より

地方船筋浅し」とある。別丁追而書に「兵庫出川

口へ乗掛筋東ニ高山有り、くらがり峠と云、此山

目当之山也、金剛山と云有り、目当ニ用、又二子

山と云有り、是も日当に宜し」と云う。対馬近辺

に詳しい所に特長がある。全体の記述内容は「日

本汐路之記」と比較して特色は認められない。達

筆の写しであるが成立事情、書写者等に関する記

述は全くない。 潮風目当里程の記述に終始するの

は実用一点張りである。対馬の船頭などの作であ

ろうか。

右の写本に絵図を付け加えれば「日本航路細見

記」になる。「細見記」は後回しにし、写本の見

本が「向北宮内海上絵図」である。

(2) 1向北宮内海上絵図jは中本17丁の冊子であ

るO 別府湾から彦山、中津辺を西端とし、伊予、

能島を周辺に描きつつ、防州大島瀬戸から芸州隠

戸瀬戸までの海岸線、島棋を描き、港津地名を記

す。描線のみの簡単な図面であるが広島湾、厳島

周辺は詳細に書かれている。申し訳程度の簡単な

航路が書き込まれている o 1大島瀬戸口ヨリ岩田

辺マテハ落強キ所也、乗走リノ時由断有間敷事也」

Page 4: Kobe University Repository : Kernel大全J1 改正大日本道中案内図J1日本鳥服中国四 国大図経」はいづれも航路図と呼ぶべきものでは なく、地図であり案内図である。何を以て航路図

のような記事が若干ある。素人臭い絵で写しも雑

である。広島周辺の船頭の手に成るものか。奥に

「丈化十四年丁丑夏写之 高井藤右衛門任鳳」と

書き付けた貼紙がある O 冊子ゆえ 1丁 1Tとめく

れば良い。経験者にとっては簡単ながらも実用性

のある書だと思われる。

道法という語は現代では殆んど耳にしないが、

近世にはよく用いられた語のようである。京六角

堂の宿屋もちゃ惣左衛門が顧客宣伝用に配ったと

思われる宿場案内書がある。縦7.9cm、横16.9cm

6丁の三切本である。これには「西国道法」の題

が付けられている。先の石川流賓の地同でも出て

米た。元禄期に遠近道印と称した地凶狂もいた。

(3) I道法」と外題のある上中ド三冊の写本があ

る)箱書に「光松院様御自筆道法之二冊 外日光

子J:御成之御供之御党書一冊」とある。現在の箱の

中味は同装の 3冊各冊に「道法上・道法中・道法

下」の外題が表紙に直接書き付けられている。

「日光江御成之御供之御覚書」に相当するものは

ない。「道法上」は従大坂四国中国九州海上道法

他16道法、「道法中」は従江戸摂津大坂迄之道法

他 9道法から成る。一方「道法下」は「大坂より

下関迄船中道付」の内題があって瀬戸内九州航路

から成る。上中とは記述の内容も異なり、筆跡も

違っている O 箱の厚さも上記3冊分にしては少々

窮屈である。元々は上・中に相当するものと、外

に日光御成に関する覚書の小冊子があったもので

はなかろうかと推測している。

「道法tJl道法中Jは海路陸路を問わず全国

の道程を記述したものである。「道法上」の内容

は次の通り O

従大坂四国中国九州海上道法 従江戸奥州津軽

弘前迄之道法 従江戸奥州仙台迄之道法 従江戸

出羽鶴岡迄之道法 従下総古河奥州白河迄之道

法従下総古河奥州若松迄之道法従奥州白河出

羽山形迄之道法 従信濃古諸遠江見付迄之道法

従信濃上田近江膳所迄之道法 従越後高田出羽本

庄迄之道法 従越後高田美濃加納迄之道法従出

羽鶴岡奥州弘前迄之道法 従越中黒川尾張名古屋

迄之道法従越前福井山城二条迄之道法 従出羽

鶴岡同国窪田迄之道法 従若狭小漬但馬出石迄之

道法

最初の道法が海路で余は陸路である。次に「道

法中」は次の通り。

従江戸摂津大坂迄之道法 四国九州道法従江戸

摂津大坂迄之道法 従大坂長門下関迄陸地道法

従伊勢桑名紀伊和歌山迄道法 従伊勢亀山摂津大

坂迄之道法従山城二城丹波福知山迄道法従山

城二城備前国岡山迄道法 従因幡鳥取長門萩迄道

大阪江戸間は海陸共に記しているのである。最

初の従江戸摂津大坂迄之道法は東海道である O

「従江戸小田原;1廿里半、従江戸神奈川江七里、品

川橋有り、六江橋有り、中端橋有り、従神奈川藤

沢江五里、藤沢橋有り、従藤沢小田原江八里半、

相模川舟渡、花水川歩i度、佐川歩波」の如き記述

に終始する O

「道法下」は内題の次に下関までとの標題があ

るが、実際には九州全域にまで記述が及んでいる。

漢字片仮名交り、文末に「御座候」が頻出する O

高貴な人に提出したものかc 記述は次の様である。

「¥大坂ノ川口伝法ヨリ尼崎二里、是ヨリ白石

迄湊塩下シ申候而塩上セ申候イ寸、伝法ノ二ノ三ヲ

木ノ内ノ川風ニモヵ、リ所能御座候共云々

尼崎ヨリナル崎i上壱里、附地方アサク塩ヵ、リ不

申候 一、ナルヲ崎ヨリ西ノ宮へ:里、北風ニハ

塩ヵ、リ仕候、其外悪敷候 一、西ノ宮ヨリアフ

キへ壱里、西風北風アナシ風ニ塩ヵ、リ ¥ア

フキヨリミカケヘ壱里、何之風二茂悪教御座候

(以下略)J

後に見る刊本の記事と較べて特に異質なもので

はなく、どれも似た様な記述内容である O 当然そ

うあるべきものでそれ故信頼できるというもので

ある。光松院と称したのが誰なのかは不明。成立

年代も不明で、ある O 天保五年以後と考えられる。

道法に陸路・海路の別は無い。至便な方を選ぶ

のである。東海道に七里の渡があるように。江戸

から大阪までは東海道を、大阪から長崎までは海

路を取るのが一般である O それゆえ海陸図も作ら

れる事になる。

次に刊本の冊子・折帖を上げる。本館蔵に次の

ものがある。

(4) I西国船路道中記」小本 1冊

(5) I日本汐路之記J小本 l冊

(6) I増補日本汐路之記」小本 1冊

(7) I大日本海路図J2巻 2帖

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Page 5: Kobe University Repository : Kernel大全J1 改正大日本道中案内図J1日本鳥服中国四 国大図経」はいづれも航路図と呼ぶべきものでは なく、地図であり案内図である。何を以て航路図

(8) r東西航路名所記」小本 1冊

(9) r改正日本船路細見記J小本 1冊

(10) r海陸道中画譜」小本 1冊

(11) r新大日本航路細見記」小本 1冊、鋼板

航路誌の最も古い刊行書は貞享4年(1687)刊

「西国船路道中記Jとされる O これは未見。「国書

総目録」では「西国船路道中記」の項に貞享4年

版、享保 5年版を上げる。本館には元禄14年刊及

び同15年刊の「西国船路道中記Jがある O これが

右の書と同ーのものかは未確認である。

(4) r西国船路道中記」の元禄14年版は題余を欠

くものの内題は右の通りである Q 序は無く肢があ

るo r右此冊者或人之真宝、鉄橿蔵之書也、予累

年請求之、今鑓梓以与世人於重之、他日携此書、

則座而知遠近之駅路、面而着事跡之名所者也、日

本六十余州大之所覆、地之所載、海外塞上不済記

也、実天下之宝書也 元禄十四辛巳年正月吉日

書林和泉屋山口茂兵衛梓」。余り参考にならない

践である。船路誌的興味よりも地理的観光案内的

興味の方が勝っている O とは言え、以下の書との

比較の事もあり、引用が長くなって恐縮しつつ書

き出しの部分を上げる。

京よりふしみ迄三里 たかせふねのりきり代五

両(中略)五条の橋大仏同御まへの道両方ニみ冶

づか有

伏見京橋より大坂京橋へ船路十里

大坂よりでんぼへー里

でんぼよりあまがさきへ二里 でんぼう二のみ

を木の内ハ何風にでもとをり所よく候 たずし西

の風みなみ風つよく候へバなみ有 ーのみを木よ

りあまカfさきの間ちかたあさく候;ニよりきっ111と

伝法の川口の間一里の余有 きつ河よりあまがさ

きへ三里有(以下省略)

以下鳴尾西宮青木御影脇漬神戸兵庫を経て小倉

平戸長崎から薩摩国京泊に至る。

西国船路の記事が主であるが、その後に長門下

関より奥州、|回ふなへの西路(港津と里程のみ)、

大坂より西国方への海路長崎迄(同右)、昼夜な

がくみじかく成をしる事、しほ時月の出入之事の

記事を付載する。

「西国船路道中記jには元禄15年版がある。本

館蔵の横小本 1冊は元題愈を欠き、付題食に「西

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国名所口jとあり、傍に別筆で「大坂板道中記」

とある。 14年版と比較すれば内容は殆んど同一で

あるものの、如何なる事情のあったものか、板を

新しくしたものである。

冒頭に西国舟路名所絵図が2丁に亘つである O

大坂川口御番所から長崎までの航程を描くもので

あるが、陸地も全て島として表わすという異様な

描き方である O 御座船、唐船、南蛮人、丸山遊女

等が描かれている。次いで「西国船路道中記jと

題があって14年版と同じ「京よりふしみ迄三里」

以下の本文がある。ところが「伏見京橋より大坂

京橋迄舟路十里」の次に唐突に

大坂ニテ諸国船のりばをしるす

川ふねうんちん付

西国陸路 大坂より雲州松江の道同因州鳥取の

道(港津地名・里程のみ)

の三記事が挿み込まれ、その後に又「大坂より伝

法江一里j以下の先の本文の続きに戻る。諸国船

の居場はそのまま「改正日本船路細見記jに転載

される事になる。道中記の本文は板は新しいが内

容は14年版と同一で、ある。 14年版の巻末にある 4

項目の付載記事は「大坂より方々へ船路口のり長

崎迄」のみが残され他は省かれている。全部絵図

2丁、本文39丁になる。安井嘉兵衛、豊嶋又兵衛、

藤屋弥兵衛、腐金や庄兵衛、油屋より兵衛が板行

元になっている O

「西国船路道中記」は類書中では古い刊行物で

あるにも拘らず再三再版新版が出ている。その本

文は次代の船路記に受け継がれるのである。そん

な船路記の中でも「日本汐路之記Jr改正日本船

路細見記」は就中有名である。

(5) r日本汐路之記」小本 1冊、全部66丁の初版

は元文 3年(1738)に刊行されている。板元は西

村一良右衛門、銭屋庄兵衛、同三郎兵衛である O

本館蔵本は元題倉を欠く。見返しには「諸国通船

汐路之記」とも書かれている O 作者は辻柳陰子と

あるが不詳である O 叙に「此書初には大坂より長

崎まで海上船路の道のり名所瀬戸汐か、り風のよ

しあしくハしく是をしるし、次には国々船付城下

への道のり又東海北海の大廻し 凡あらゆる船路

これをもらさず 終りには月の出入汐のさしヲ|ち

しごまですべて渡海に便ある口の取りあつめ書記

す者也」とあるので内容が知れる。叙に依れば辻

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柳陰子は大坂の人で、長府との往還に此の瀬彼の

j頼を見聞するに委せて筆記したものが本書の元に

なったと云う O 見聞きに晴明出帆図が描かれてい

る他は本書には絵図は無い。叙に続いて汐路記目

録がある o Iあらゆる船路これをもらさず」と云

うのに従って上げておく。

自大坂歪九州長崎名所瀬戸汐掛風之善悪 白七葉

至:fI卜七

附録

θ 肥前松嶋より肥後川尻迄海 r_ :fI十八ヲ。椛嶋より京泊迄薩摩路井日向路海上 :fI十六ウ

弓茂木より肥後川尻迄之海上回十四ヲ

⑮豊前小倉より薩州鹿児嶋行程 四十ウ

⑤ 同小倉より筑前福岡迄金井手越道 四十五ヲ

③筑前より赤間越小倉迄行程 四十七ヲ

⑤ 同福岡より肥前長崎迄行程 四十八ヲ

⑬肥後熊本より八代迄行程 四十九ヲ

④豊後道中府内より熊本迄行程 五十二ヲ

⑦肥前轟木より長崎迄行程五十三ヲ

⑦ 長崎へ肥前通り行程

む肥後熊本より肥前佐賀迄行程五十四ヲ

巳佐賀より唐津迄之行程同丁ヲ

⑩唐津より福岡迄行程 同丁ウ

⑪肥後熊本より長崎迄行程 五十五ヲ

⑪小漬より長崎迄之行程五十六ヲ

⑪唐津より長崎迄之行程 同丁ウ

⑪大坂より長州下之関迄行程 五十七ウ

⑪長州下之関より奥州迄北海舟路 五十八ウ

⑦大坂より江戸品川迄東海大廻舟路 六十一ヲ

⑪昼夜長短井月之出入付汐差引知死期 大尾

海路は大阪から九州までの本文と附録のθuGl⑮ヨである O

目次の次に海上分見と題し主要港入津路を掲げ

るo I播州姫路高砂の川より入る 備前岡山牛窓

を過て右の方川により入る」の如くである O 第 7

丁から「汐路之記」の標題があって本文になる。

冒頭部分は次のとおり。

大阪より尼崎へ三里摂津川口の左右を安治

川富嶋と云O南浦に瑞見山有0口御番所享保六

年の冬御免今ハなしO大坂よりー里下北へより

て家村有伝法と云(増補版は以上の部分を別文

と差し変える)

尼が崎より西宮へ二里 松平遠江守殿御城下知

行四万石O大物の浦とも云大坂より西北にあた

酉の宮より兵庫へ五里 蛭子の宮有O此間右の

方松山の内摩耶山観音有Oあふぎへ一里打出あ

しやO見かけへ又一里O生田の森是よりおくに

布引瀧有O脇漬へ又一里(増補版は生田森と脇

i賓との順序を正しく入れ変える) 0神戸へ又一

里舟持多し

「国書総目録」には、増補を角書とし、別名に

東海北海西海南海増補日本汐路之記があるという。

高田政度編、版本に明和 7年版、寛政 8年版、寛

政12年版、刊年不明版があるとする。元丈3年版

が抜けている。増補版については明和 7年版は未

見である。寛政8年(1796)版によって代表させ

る事とする。

(6) I増補日本汐路之記」は外題を「改正新板増

補日本汐路之記J(改正新板は角書)とする O 見

返しに寛政改補新板とあって「東海北海両海南海

(角書)増補日本汐路之記jとある。叙は明和 7

年、高田政度編述のもので「汐路記たず西海を挙

て東海に及さず、問者遺憾なくんパあらず、予故

あって余多の船翁と親しく交る事都て四十年、習

熟するにハあらされども、朝に馴タに問ふて略見

聞するに任せ、普く船翁に謀りて海路行程磯嶋瀬

戸灘等の難所、湊の善悪より津々浦々の汐か、り

に至り遺たるを拾ひ図を補ふて、増補日本汐路記

と題し小冊として捜覧の便とす、所謂霧海の南舗

なるものなり jと云う。図を補ふてとあるが悶は

蕪い O

叙に言う如く増補版は元文版の前に次の三船路

を追加したものである。

大坂より江戸着東廻り之記

江戸より奥州南部迄北国廻り之記

下之関より津軽青森迄北国廻り之記

増補版全129丁の内85丁が実に増補分であり、

殆んど別の書と言うべきものになっている。但し

元文版の本丈及び附録の⑪までは冒頭の 1丁分を

除けば全て元文版と同板木を用いたものである。

増補版では元文版の⑮以下が削除され、新たに風

雨を知る事、潮の満干、諸願成就日(以上3丁分)

が添えられる O

-21-

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(7) I大日本海路図」は上下 2帖の折帖で、外題

に各々「大日本海路図東南上JI大日本海路図西

北下」とある。上巻43丁、下巻80丁、天保 9年

(1838)求板、同13年 (1842)改補とある。上巻

は浦辺順覧東海路之図、南洋涯方角之図の二部か

ら成る。東海路之図は松前から品川までで、上段

に港名所潮等の説明があり、下段に海岸沿線が描

かれている。南洋涯方角之図は江戸から大阪まで

の海路で「海路の目当を要とし、とりわけみなと

の方角出崎の針筋を明確にしたj ものである O い

づれも合紋で上り湊下り湊小湊嶋j頼磯を表わす。

船路は記入されておらず、上段の説明文は天地が

逆になっているものが交互に配されている。南洋

涯方角の図については安全丸才古撰とし、宝暦 2

年(1752) 9月紀州、旧方浦の才吉述ともある。

下巻は西海地方出崎入海見当方角と北海湊方角

之図との二部から成る。前者は大阪から長崎まで

の西海路、{走者は下聞から松前までの北海湊方角

図である。と巻とは紙面の構成が異なり、全面が

絵図になっており余白に簡単な説明が書き込まれ

るO 船路は点線で示されている。北海湊方角之図

については日野屋船愛染丸撰、明和 4年(1769)

長夜館沢田呂少誌とある O

本館蔵のものは天保5年求板、同13年改補とあ

る須原屋茂兵衛、秋田屋大右衛門他の板のもので

ある O 初版ではないのだろう。上巻と下巻とでは

絵図の扱い方、記述方法の相違、記述内容の多寡

等が異なる点は妙である O 但し板下は上下巻共に

同一人の手になるものと思われる。上下巻合わせ

て4部から成り、その 2部についてのみ撰述者が

記されている点も成立事情の複雑な事を思わせる。

南海と北海とは夫々安全丸、愛染丸の船頭らしい

人物が記される。上巻末に[日本船路細見記」と

いふ小本有、引合せ見給ふべし」ともある。「日

本船路細見記jは「日本船路細見記」の事だろう

か。 7号、天保5年の時点では未だこれは刊行され

ていない事になっている。埋木で、後に補ったとも

見えなしL 一一般的にはこうした書には何か先行書

があるものである O 本書の場合も一挙に解決とは

いかないものの都合良く先行書がみつかる O 元禄

15年(1703)に「大日本船路細見記」が出版され

ている o I南洋湊方角之図」が宝暦 2年(1753)

に刊行、「北海湊方角之図」が明和 4年(1767)

に刊行されている o I大日本海路図」上下 2帖は

22

この 2書に他の資料を継ぎ足して出来たものと思

われる O

近世に刊行された船路書では「日本汐路之記」

と共に「日本船路細見記」が著名である。売れ行

きもよく何度も再版され改正版も出ている。明治

になってからも改正増補版が作られた。本書の成

立事情も上記「大日本海路図」と同じような経緯

がある o I東西船路名所記jがその元本である O

(8) I東西船路名所記」は天保8年 (1837)序、

天保9年改刷とある小本 l冊である。内容は「日

本船路細見記」の後半部に相当する所と全く同じ

であるが、こちらが先になる。雅文調の序があり、

天保8年潜龍書屋美啓誌とある。

序に次いで西海路方角全図が見聞きで描かれ、

2丁ウから船路名所記の本文がある。 8丁目まで

は青と黄で彩色された美麗なものである。本丈は

「京よりふしみまで三里Oたかせふね有 伏見京

橋より大坂京橋へ船路十里」から始まって薩州の

「あくねより京どまりへ五里Jまでが34ヲまであ

り、瀬戸路の事、長州下の関より北国船路(港津

里程のみ)が 1丁半付される。丁付は35ウまでで、

これ以下には柱に丁付がない。記事は「日本船路

細見記」にも見える、船玉御神像、難波津内海之

図、諸国之船大坂着場所、泰平諸侯御船壁、船中

の心得井ニ妙術妙法数ヶ条、船玉大明神御神験、

広告、口演がある。泰平諸侯御船壁の部分に「天

保9年戊八朔改」の記事が見える。

奥付は関西船着発行書林として摂津から薩摩ま

でが列挙され、天保 9年8月新刊とあって、江戸、

京、堺、若山、大坂の版元書林が列挙さている。

詳細はいづれも次の「日本船路細見記」の所で触

れる事にする。

(9) I日本船路細見記」小本 1冊は、「国書総目

録」には角書を改正、別名を東海船路道中記、美

啓編とあり、版本に天保12年版、天保13年版、刊

年不明版があると記載される。本館には嘉永 4年

版があるので他にも別版のある可能性がある。天

保12年版は未見。天保11年(1840)干uの「改正東

海舟程全図jには「汐路之記」と共に「船路細見

記」が引用されている O これが本書を指すものと

すれば天保11年あるいはそれ以前に刊行されてい

る事になる。刊年不明版が初版であろうか。

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天保13年版では題余外題を「改正船路細見記J

とする。 但し見返しには「改正日本船路細見記J

とある。脇題余が付され本書の構成内容が一目で

きる。江戸時代の代表的船路書として需要も多く

船路書の集大成的な書である。船路誌がどのよう

なものであったかが分かるので脇題愈の目次を上

げておく O なお見返しには天保13年美啓誌とあり、

「船時計、夜時計、日時計、潮時計。出鼻浦々之

針筋及針盤用法。嶋々船着都之地名、日和之見様、

汐掛浦辺之善悪、満干之遅速、其外船中之重法不

残記需」とある。日次を上げる。

O 船王の御神像(神像図及び船玉械祝詞)

。難波津内海の図(大阪湾船路図、松川半山画)

。諸国の船大坂着場所(北前船、塩船、魚、船、江

戸廻船、菱垣船、樽船、金比羅参詣船、上荷船、

茶船、新三十石船、貸御座船の名が諸国船と共

に上がる O 安治川口図)

。諸大名御船印(泰平諸侯御船霊とて川口の御座

船図があり、天保十三春御印改正と傍書する O

中国、四国、九州大名の船印、帆幕絵図)

。風雨の見ゃう(風雨日和予知、風名図)

。磁石船時計の図(甫誠之円法、二十四位方針之

図)

。浦々御高札の写(異国船に臨むを禁ずる高札)

。大阪より江戸迄南海乗筋 十一丁目

。江戸より青森迄東廻り乗筋 廿三丁目

。下の関より松前迄北海乗筋 叶三丁目

。京より大坂迄川筋陸路 四十五丁目

。(序)

。(西海路方角全国)

O 大坂より長崎迄西洋乗筋 四十七丁目

。長崎より肥後さつまへ乗筋 七十四丁目

。長崎より大坂へ道中名所付 七十八丁目

。取梶おもかぢの訳(船の詞説明)

。汐にて食たく法

。大日本船路一覧(松前から釜山までの船路表、

里程を記す)

。夜中に星時計(磁石と破軍星によって時刻を知

る法)

。船中の心得井ニ妙術妙法数か条(漂流入の心得、

風難風に逢人の心得、船に酔ざる妙法、苦舟を

救ふj去、酔輸をさます法、山路に泥て悦惚を治

す法、落馬及墜落を済ふ法、洋中の心得)

。(瀬戸の覚、明石岩屋瀬戸、阿波の鳴門他)

O 諸国の汐さかも(潮流変化のこと)

O 浦々にて汐時計(諸国浦々潮時計、月の出入、

潮の指引)

。測景日時計(重法日時計)

・漂流を遁る、法(磁石によって方位を知る法、

逆磁石の法)

・方針二間三角井方向分量之図(船用逆針二間三

角を諭す)

・東廻り針筋図(従江戸青森迄東廻り)

・南廻り針筋図(大坂より江戸迄南海廻り、大坂

から浦賀まで)

-西海日向廻りの図(佐賀関より下の関迄、九州

大廻り)

・(海上乗分ケ、いよぢ嶋関西海下り、岩屋より

下の関迄、九州大廻り)

・北廻り針筋図(従下関松前迄北国廻り)

。年中日和考(年中日和の梗概)

。船玉の御神験(猿田彦大神、敏馬神社、石見回

神口山の大神 隠岐国焼火権現、奥州塩竃大明

神の事跡、)

以上が104丁の本丈である O 。印は「東西船路

名所記」と同文のもの、 -印は増補分である。記

事があるものの日次にない項は括弧を付して上げ

た。

本文の次は後書と奥付とである。先ず、大坂九

之助橋壱丁目、秋田屋良助本庖の書粥緒言(ほん

うるこうじゃう)一啓、二啓がある。二啓に「諸

国うらうら廻船筋瀬戸嶋々沖合より地方日あての

山々をしるし、或はその湊のよしあし水底あさ瀬

洲のあるなし、あるひは汐行風うけの心得、方角

針筋じしゃくの居方、洋には漂流のなんをさけ、

磯にははやしの患をのぞくの要をつくせり云々」

という。

次に「口演」と題する文章がある。時の経過で

地形の変わることもあるゆえ、記事と相違があれ

ば書面を以て知らせて欲しいと云うのである O 天

保13年7月補正、仕入元秋田屋良介の名である O

口演の次に「浦辺巡覧大日本海路之図改刻出来」

の広告があって、やっと奥付に達する。

この奥付が凄まじい。見聞き 1丁分の上段には

東西船着発行書林として、摂津尼崎兵庫、播州姫

路赤穂、備前岡山、備中玉嶋倉敷、備後尾道福山、

~23~

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芸ナト|広島、防州徳山、長州萩、筑前小倉博多、肥

前長崎、肥後熊本、薩川、l鹿把島、日向延岡、土州

高知、予州松山今治、讃州丸亀高松、阿州徳島、

淡州須本、紀ナ1'1若山、泉州左海、勢州j章、尾川、i名

古屋、常ナ1'1水戸、越後水漂の書障が上がっており、

下段には江戸大坂書林版元に江戸は須原屋他4庖、

大坂は敦賀屋他21庖が列挙されている(i東西船

路名所記」では上段の泉州以下はない。下段では

江戸2庖、大坂21J缶、京 l官、堺 1忠、若山 2庖

が上がる)。

「日本船路細見記jは「東西船路名所記」の増

補版である O 両者の本文が重なる部分は同一板木

を用いているのである。「日本船路細見記Jは既

刊の「東西船路名所記jの前に東海船路道中記と

して、大寂より江戸まで、江戸より青森まで、北

海船路の下関より松前までを追加し、その他針筋

等を増補したものである O 西国船路の記事も実は

「西国船路道中記」の本文の冒頭部分を少々修正

しただけでそっくり受け継いだ体のものである。

口演の所で読者に対し書面による修正情報を求め

ているが、ょう云うわという感じである。

「日本船路細見記Jの増補された東海船路等は

どこから来たものか。新たに執筆編集されたもの

なのだろうか。これも「日本汐路之記Jの本丈を

拝借したものである c 両本丈を対照して掲げれば

よく分かるが、ここでは遠慮すべきであろう。こ

れが当時の本の造り方である。杜摂とは言えない。

「和漢三才図会」の如き書でさえ既刊の、時には

最近刊行されたばかりの書をそっくりヲ|用しつつ

編集しているのである O なお、同書に関しては松

木先生の「船路細見記の系譜J(年報No.10.昭和

57年)がある。

(10) i海陸道中画譜」小本 1冊、橋本玉蘭粛画、

東都金辛堂板は不思議な書である。序に「永福閤

東講の群に入り伊勢雨宮を拝せしより久しく浪華

に遊びつ¥夫より中国九州を経て肥の長崎まで

巡歴しつ、帰さは水路を大坂迄来し、其海陸の名

所々々を細かに写しものせしを、常は座右に閤き

てつれづ『れの折ハ出し見るに、居ながらにして其

所に再び至て見る心地せり、(中略)大坂より下

の関までをー縮とし、次編は両海道を経て長崎ま

でをあらハさんとす 橋本玉蘭粛Jとある通りで

観光案内図である O 大阪より防長に至るまでの瀬

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戸内を船路経歴する構図で、全了絵図のみ、説明

文は無い。陸地には域名所等が描かれ、瀬戸内海

上には何処にも船が浮かぶ。青で彩色された絵は

悪くはないものの延々と特色のない土地々々が連

なっていて、そこがどこであってもよい様に印象

が薄い。巻末に地図が折り込まれている O 本館蔵

本は端切。この書は「国書総目録」にも未登録で

ちょっと珍しいものである O 次編が刊行されたか

否かも不明である。「金比羅詣海i箆記J(安永 7年

干リ)などがこれに類似したものである。版元は京

都書林菊屋七郎兵衛、勝村治右衛門、大坂書林河

内屋喜兵衛、敦賀屋九兵衛、河内屋茂兵衛、江戸

書林須原屋茂兵衛、山城屋佐兵衛他8居。干IJ年は

不明である。

(11) i新増大日本船路細見記」は「日本船路細見

記」を基本にして明治時代向けに添削編集し直し

た書である。横小本 l冊。銅版刷。明治 6年刊、

河9年再版。加藤祐一補訂、正樹斉美傭吉、松川

半山画。版元は心斎橋書津横玉圃柳原喜兵衛であ

る。御布令を転載し、横浜貿易場繁栄之図等を加

え新味を出そうとしているものの、船路記そのも

のは旧文に明治後の記事を付加するばかりで、全

体的には旧作を踏襲したものである。巻末の大日

本蒸気梧諸国通船井船宿名前附に、大日本蒸気船

三菱会社、日本国郵船汽船会社等の名が登場し、

明治初期の状況が窺う事ができる。

冊子本及び小型の折本については以とのようで

ある。 以下は落ち穂拾いである。

蛤路図と絵関・地図・案内図等との差は暖味で

ある。 瀬戸内海船路図と外題があっても中味は沿

岸図のみのものもある。沿岸図に針筋を記入した

だけのものもある。

「象頭山詣紀州加田ヨリ讃岐趨井播磨名勝間」

「象頭山詣道の記」など 1枚刷の観光参詣案内図

がある。特定の絵図ではあるが内海の船路が記さ

れている。これらは強いて船路図として扱う必要

はなかろう o i金比羅詣海|注記J(安永 7年刊、大

坂古文字屋市兵衛、同柏原屋より左衛門板)は折

本l粘、表紙共全35丁の書である。「陸地ハ摂津

より播磨情前備中路を歴て児島の下津井へ出る迄

路程五拾壱里半の問、駅々立場駄賃附道筋の名所

旧跡、又船路は大坂川Uより讃岐丸亀迄の海上路

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程五拾三里の問、乗が、り i奏々沖間の嶋々名所、

猶讃州地にいたりてハ金毘羅山諸堂由来井順路の

参詣名所旧跡等迄委敷書記云々」とある凡例が内

容をよく伝えている。安治川口から下津井まで、

下津井から丸亀までの沿岸船路、沿岸地域と島艇

が細かく描かれて、 t欄に簡略な説明がある O

「白赤間関至萩海辺図説J(弘化3年写、 1冊)

は巻子本或は折本にしても似合う冊子である。方

眼を描き、それに従って極めて詳細に海浜島艇が

描かれている。但し船路は記入していない。地図

には同境、群境、 i甫(番処・峰場・家.?タ時)、

嶋(峰場.?タ時)、洋(汐時)、港(汐時)、海門

(汐時)、礁(托)、浅沙(托)、 1m、町取、落旬、

里程を合印で記入する O 小船中船大船の通路を極

部分的に描く。小船は 7,8石から14,150石まで、

中船は2,300石まで、大船は7,800石以上とある O

絵図の次に港、船路、浦、洋、海門、島興、岬、

硯洲、見積表、見積度、里程を一覧表にして解説

する。

i巷伊碕何風ニモ繋クヘシ

竹子旬泊リト云、何風ニモ繋クヘシ、北

風ニハ入江フカクツナクヘシ

船路小i頼門 舟ヲ出シテ観音崎ヲ立行ク

事必里計舟竹ノ子六連ニ井フ 又

行ク事三里計リ舟眼サキニ井フトモ

水嶋ゼ、沖ニアリ 黒嶋井硯地ニアリ

又行ク事二里計

井沖ニアリ 南風ニテ行

のようである。船路の説明はあるが、表題通り海

辺を図示する事に主旨があって船路はそのー要素

に過ぎぬものである。軍事的目的のために作られ

た冊子であろうか。

前編終

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