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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 「畝傍」の遭難(A Quest for the Mysterious Disappearance of the "UNEBI") 著者 Author(s) 半澤, 正男 / 武田, 幸男 掲載誌・巻号・ページ Citation 海事資料館年報,11:14-19 刊行日 Issue date 1983 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81005916 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005916 PDF issue: 2020-01-27

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Page 1: Kobe University Repository : Kernel · 井静男氏は,その著、海軍艦艇史ーで仏の軍艦 研究家Henri Le Masson氏の意見を紹介して おられるが,これらを総合すると次のような状

Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

「畝傍」の遭難(A Quest for the Mysterious Disappearance of the"UNEBI")

著者Author(s) 半澤, 正男 / 武田, 幸男

掲載誌・巻号・ページCitat ion 海事資料館年報,11:14-19

刊行日Issue date 1983

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81005916

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005916

PDF issue: 2020-01-27

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「畝傍」の 遭難

A: r畝傍」が消えて 100年になろうとしてい

ます。当時の南シナ海の海象はどんなものだ

ったのでしょうか。 12月の南シナ海は北東モ

ンスーンが強い時期ですから 3本橋の装帆

を一杯に張っていたでしょうが。

B:クルップ社式の三稜褐色火薬は未だ当時研

究中でしたが,不安定な褐色薬と黒色某を火

薬庫以外の室や通路に混載していたと L、し、ま

すから,落雷による火災・爆発ということは

考えられませんか。

A: 3本摘は銅製で避雷針は不用と考えられて

いましたが,或いはボンディングが悪かった

のかも知れません。 r畝傍」の写真ではつい

ていないようです。マスト頂部のトラックの

-14 -

半津正男・武田幸男

上に1'1.何も見えません。しかし最近の研究で

は激しい需雨の中では,落雷は必ずしも措と

いうことではなく,植の近くに落ちる確率も

予想以上に高いということです。

B:当時の照明は石油ランプだったといいま

す。台風に逢って激しし、ゆれで出火したとい

うこともあるでしょう。 100年前のことで

す。当時の気象は殆んどわかっていません。

推定するだけです。

1 . 畝傍帰国せず

明治19年(西暦1886年)12月3日,わが国の

新鋭巡洋艦「此傍J (うねび〉はミシンガポー

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ルを出航す、との電信を発したまま

その消息を絶った。予定では畝傍艦

は12月12日頃にその英姿を横浜に現

す筈であった。

明治17年 5月にフランスのル・

アーブル (LeHavre)にあるフォ

ルジ・エ・シャンチェー造船所で起

工し 2年 5カ月の歳月をかけて竣

工した「畝傍」は排水量3,615トン,

垂線開長98m,最大幅13.1m,深さ

8.5m,吃水(平均)5.72mの構造

で 9基のボイラとレシプロ機関 2

基 (2軸)でもって出力 6千馬力,図1 ル・アーブル (LeHavre)出港の「畝傍」の

18ノットの定格速力で航行する。 9

月に行われた速力公試では最大出力 7千馬力

18.5ノットの最大速力を記録し,その運動性能

は非常に良好なことが確認され,電信でその朗

報を受けた海軍関係者は大きな安培と期待をも

って畝傍の帰国を待ちわびていた。

建造当時,世界最強の巡洋艦といわれた「畝

傍」の兵装は24サンチ砲 4門, 15.2サンチ砲 7

門,発射管 4門の他ガットリング機砲など 8門

という重装備で,特に24サンチ主砲はフランス

の開発した最新式のもので,旧式の24サンチ砲

の射程距離が 6千mに対し 8千m以上とい

われ i畝傍」と同時期にイギリスで建造され

た3,600トンの「浪速J i高千穂」 よりも高い

評価が与えられていた。

いうまでもなく i浪速J i高千穂J i畝

傍」の 3艦は,当時清国の丁汝昌提督のひきい

る北洋艦隊(定遠,鎮遠,経遠,来遠,済遠,

威遠〕の主力艦「定遠J i鎮遠J (7,300トン,

14.5ノッ ト, 30サンチ砲 4門〉に対抗するもの

として,苦しい財政状況の下で,当時の金額で

153万円の巨費を投じて建造されたものであ

る。

それだけに畝傍亡失の報は国民に大きなショ

ックを与えたことが当時の新聞記事で知ること

が出来る。

畝傍艦は10月18日ル・アーフ.ルを出港し,ジ

プラルタル海峡を経て地中海に入り, 11月3日

スケ .1チ(明治19年10月18日〉

にスエズ運河を通過している。地中海で暴風雨

に遭遇したがインド洋は静かで無事11月30日に

到着し,石炭と食糧の補給後12月3日に出航し

た。これ以後の予想される航路としては,台湾

の南端に向けて南シナ海を通り台湾東岸を北上

して大隅海峡,土佐沖を経て横浜へ直行する約

3千海里の航路で,平均12ノット,約10日を要

する。

当時は未だ無線通信が開発されておらず,有

線電信によるシンガポール・香港・上海・長崎

・東京の経路によって,出港の連絡が12月3日

に受信されている。

日本政府は軍艦扶桑と海門を出動させ,更に

灯台局明治丸(現,東京商船大学重要文化財〉

と日本郵船長門丸を加えて南シナ海から沖縄,

土佐沖,八丈島,小笠原にかけて捜索を行っ

た。更に,イギリス東洋緩隊から 3隻の軍艦が

香港より捜索に参加したが約3カ月の陸上,海

上全域にわたる捜索も全く手がかりはなく,荒

天による転覆,海賊による略奪,南シナ海での

珊瑚礁での遭難など諸説紛々とするもすべて臆

説の域を出なかった。

最終的には,パリとロンドンの 2保険会社に

かけていた650万フラン(1.245,300円)の保険

金でもって,イギリスに新艦発注がなされ,こ

れが巡洋般「千代田」として明治24年に日本に

回航されて i畝傍」の件は一応の結着を迎え

た。

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「畝傍」は国民待望の優秀な軍艦だっただけ

に人々の失望は大きく,実に様々な風説が飛び

かった。この聞の事情は渡辺加藤一氏著の海難

史話にミ消えた軍艦畝傍、として詳しく述べら

れている。また I畝傍」亡失の原因として福

井静男氏は,その著、海軍艦艇史ーで仏の軍艦

研究家 HenriLe Masson氏の意見を紹介して

おられるが,これらを総合すると次のような状

況と原因が浮かびJ:ってくる。

(1 ) 人為的原因・海軍からは飯牟樫海軍大尉,

森友大機関士(後の機関大尉〉鈴川,谷,笹

川兵曹長,沢村兵曹の計 6名が乗船したが,

操艦は海軍士官出身の仏人と仏で傭った水夫

など約 170人(大記分は仏海軍IH身者)で行

われ,船内の規律はあまり守られていなかっ

たようである。このため

a.長途の熱帯を行く航海で疲れがあった。

b.酒好きが多かったと思われる。

c.夜間やスコールの時は石油ランプを使用

していた。

d.泥酔または詩いによって石油ランプやア

ルコールを倒して引火したのではないかっ

e.熱帯の海面は静穏であるが,スコールは

大抵15時~17時頃にあり,わずか数分てや暗

雲にとざされ,激しい風が吹き出し,海が

非常に荒れる。この荒れは10~15分経統す

る。従って発火しでも酔いのため十分の消

火活動が出来ず大火災となり,火薬の誘爆

を生じた公算が大で、ある。

(2) 技術的原問:畝傍艦の設計閃では船長に比

ベて船巾が狭く,復元性能に不安があったが

実際は図面よりも更に30c初狭く造られた。ま

た,当初の設計では二二重底構造であったが,

重量軽減のため一重底と危り,船体はトップ

ヘビーの傾向があり,船底構造は強度不足が

懸念された。このため海軍部内で、も契約違反

であるという声が高かったといわれる。

「畝傍」が浪速型と特に異なった点は 3

本マストのパーク型机走設備を持ち,平常航

海では帆走30%,機走70%ぐらいとし燃料の

経済を計ると L、う従来の方針が採用されてい

たことである。このため,

a.当時の仏軍艦と同じく重兵装を上部に有

一 16-

し, トップヘピーである。

b. I浪速」に比べ長さが大きく水線巾がか

なり小さL、。

c.外舷のタンフ守ル・ホームが著しく大き

L 、。

d.従って横動揺時の榎原性能は,はるかに

劣るo

e.居住区の舷窓は仏式の大型角窓で,完全

な水携を期し難し、。まずこ酷暑のため, これ

を聞いていたと思われる。

f.もし艦内に火災が発生したとき,艦の動

揺が大であれば処置があるまし、。

g.大爆発の上,角型舷窓を一挙に大量の海

水が浸入,きわめて短時間に転覆沈没した

と思われる。

なお 3植式ヤードなどの帆走装置を有

し,ますます風圧面積(装帆面積112.0m')

が人ーきく,一層,復原性に欠陥があったの

は確かである。

「畝傍]の写真 4葉が福井静男氏によって紹

介されている。速力公試終了後の入渠中のもの

1影と, ノレ・アーフツレを出港する「畝傍jの3

影であるつ図 1はその内の 1枚から「畝傍」の

外形をスケッチしたもので,短い衝角,下に突

き出た船首部,舷側に大きくふくらんだ 2つの

24サンチスポンソン砲, 3本梧と 2本の煙筒,

舷側に並ぶ30をこえる薩窓の列,そして写真に

はデッキ上の乗組員と岸壁に見送る人の技など

出航当時の情景が展開されている。特に船尾の

大日章旗が印象的である。朝日の軍艦旗が制定

されるのはこれより数年後のことである。

橋が金属製であったという確証はないが,

1882年以後はヨーロッパの戦乱で木材が極端に

入手しにくかったことが記録に残っており 1886

年としては他の艦と同様に金属製であったと推

定されるc 当時は金属製ならば避常針は不用と

与えられていた。

Z 遭難の気象学,海洋学的芳察

「畝傍」の遭難については,前述のように

種有の直接的原因が考えられるが,その背景つ

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まり間接的原因として最もl主要なのは気象,天

候である。もちろん I畝傍」は軍艦である以

上,今の言葉でいう全天候型の重兵設置であっ

た。しかし,旧日本海軍の軍艦はこの「畝傍」

を始め,大ー侠に直接,間接原因する遭難事故が

意外に多いD すなわち,このあとの明治28年,

i圭湖島近海における荒天時水雷艇諮問号 (54ト

ン〉のそれ,昭和 7年,台湾近海における駆逐

艦「早CだJ (さわらび)の暴風雨による転槌,

昭和 9年, :;IUIHlli方泌市iにおげる新鋭 C1カ月

前に竣工)水雷艇「友鶴J (ともづる)の転覆

が続く。 ~i 4:軍艦のIllIt風,耐波性に対する問題

は潜在していたといえる。そして運命の「宮 4

艦隊事件」が昭和10年 9月26日に生起するに全

る。この時,二三陸沖に展開,演習中の連合艦隊

の一部を風速50mの猛台風が襲い,海軍の誇る

最新鋭の特型駆逐艦「初雪J, Iタ霧」の艦首

切断流失と L、う重大事態が出来(しゆったしサ

しfこ。

いうまでもなく海軍当局がこれらの事件に手

をりい、ていたわけではtJ'.く,それなりの対応が

行われていたc 戸 i~-玖守|事 /1:)) 院も,捜索活動

に全力を傾倒する←・方,造艦,造問, )古兵のnuで、真剣な対策が倹討されたっなかでも水際だっ

て鮮かだったのは山本権兵衛大佐 ('[4時)のそ

れであるの

のちに明治の海軍というより日木海軍近代化

の開祖となった山本権兵衛は,当日守備須賀軍港

に停泊中の軍艦「天成Jの艦長室で,やはりこ

の新造艦|畝傍」の到済企いらいらしながら符

t,i'Eびてし、たのこのへんの情景は伴野朗氏の名

作「九頭の龍」に活すされているσ 「畝傍Jの

「亡没ー (海軍省の If,式発友の用品)で, プラ

ンス流の軍艇の脆弱性(ぜいじゃく) (今の言

葉でいうと vulnera lJility) つまり耐風波陀の

欠如に気づき侍然とした山本は, 日本独自の設

計による軍艦の建造を推進すると共に,造船造

機の技術官の実艦乗艦という手をすぐ打った。

これは大海軍記者だった伊藤正徳正の名著「大

海軍を想う」にくわしし、。すなわち山本は明治

22年 0889年)新鋭「高雄」が就航すると自ら

艦長となり「造船造機の技術官を選故乗艦さ

せ, 40日間,怒議を乗り切る実験をして資料を

集めるJ¥; 、わゆる 7荒天試航」を始めた。この

ように技術に熱意と理解をもっ兵家左,佐埜佐

仲に始まり,近藤基樹(巡洋戦艦の設計で帝国

学士院賞を大正 2年 0913年〕受賞〉をへて,

平賀譲,藤本喜久雄,福田幹二にをる基本設計

主任一軍艦のトップ・デザイナーとのコンピ

で,世界最優秀といわれたわが国の軍艦は育っ

ていったc しかし「畝傍」に始まり「早版J,

「友鶴J, I初雪」さらには「タ霧Jと続く艦

艇避難の悲劇は日本近海,同太平洋の風と波が

L 、泊、に想像を絶する苛酷なものであるかを物語

ると共に,実用艦の設計ーがどのように難かしい

かなも示しているのである。

それはさておき「畝傍|遭難当時の天候,海

Ziについて考えてみよう。

ある海減, #Jj両の天候,海象を推定する最も

基礎的な資料は天気図である。しかし残念なが

らわが国で、は当時シンガポール近海まで及ぶ天

気凶が作成されていなかった。東京気象台(¥;、

支の気象庁)の創設が明治 8年 0875年〉天気

同の発行が明治16年 0883年〉で,これは当時

アジ 7 でPlt~のものであったO 畝傍の遭難は明

治19年 0886年)であるから,時間的にはこれ

をカバーしていたわけであるが,なにぶん当時

の天気回:-1,内地が主で数本の等圧線があるだ

け,市 γ ナ海の天気はとても推定出来ない。

ジL地球的の規模で,世界各地に残されている

気象データを記入,新しい併析的手法で天気図

な引き直したものには米気象局(¥;、まの米海

洋大気庁)の労作 「歴史的天気凶J (Daily

Historical '¥可eatherMaps) があるが, これ

も残念ながら「畝傍」以後の 1899年(明治32

年〕以降のものである。

結局,気象の一次資料として当時のシンガ

ポー心近海,南シナ海方面の状況を推定しうる

ものは歴史の古いインド気象局(ごューデリ~)

所蔵のベンカル湾海上気象資料だけであるC こ

のほかシンガポール,マニラ,上海では外人宣

教師が,わが同における箱館(し、まの函館〉長

崎などにおけるように気象観測をしていたもの

と忠われるのでこれを発掘する必要がある。

17 -

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このように「畝傍」遭難推定海面である南シ

ナ海の当時の天候,海象は直接推定が絶望的で

あるが,間接的推定の興味ある事実が見つかっ

た。それはアメリカにおける当時の大気象異変

の生起である。 1887年(明治20年) 1月(r畝傍」事件の翌月〉米国中西部の農牧畜地帯を大

寒波が襲い農業, 牧畜業に甚大な被害があっ

た。当時米国はまだ農業国といってよく,この

被害は手痛いものであった。 1886年(明治19

年〉からの気象異変で牧場の家畜の 6割がへい

死したといわれる。この大寒波は昨, 1983年の

同種のものに匹敵するものであり,それに続く

極端な干ばつは,ある意味でいまも米国農業に

後遺症のみられる1934年〈昭和 9年〉の「大砂

塵嵐J (The Great Duststorms)とも肩をな

らべるものであった。1934年(昭和 9年)のそ

れでは 5千万エーカの農牧地の表土 3億ト ンが

風で大西洋に吹きとばされてしまったのであ

る。この気象異変は米国農業法のうち最も基本

的のものといわれる土壌法(SoilConservation

Act. 1935) の制定につながり,社会的には

スタインベッグの名作「怒のぶどうJ (The

Grapes of Wrath, 1939)にみられるようなア

メリカ社会の一変革をもたらす規模のものであ

っTょ。

1886-87年(明治19-20年〉の気象異変がど

のようなものであったかは D.V. Hoyt (1979)

や W.E. Hardy (1980)の論文にくわしい

が,図 2はそのなかのもので北半球における年

平均気温偏差を明治 3年一昭和55年

0870-1980年〉にわたり図示したも

0.6

変〈もしあったとすれば〉と結びつくのであろ

うか。これは近年,気象学,海洋学でよくいわ

れるテレコネクション (teleconnection遠隔

地異常気象,海象同時生起現象〉によるもので

ある。太平洋をはさんで日本側,アメリカ側の

海水温偏差が逆転する,いわゆる「シーソー現

象」は1950年〈昭和25年〉代すでに臼本の海洋学

者である半津や字国道隆らによって指摘され,

アメリカのナマイアスやピャクネスによってく

わしい理論的説明が与えられた。テレコネクシ

ョンの最近の事例は昭和57年一58年 0982-83

年〉東太平洋で起こったエル ・ニーニョ (El

Nino)であり, このときオーストラリア南東

部,インド,インドネシア,スリランカでは大

早越(かんばっ)に見舞われている。早越が暴

風雨に直接つながる訳ではないが,異常気象の

一つであることは確かである。

さらに暴風雨でなくとも前述のように雷(か

みなめも「畝傍」遭難と関係があるかも知れ

ない。図 3は世界気象機関 (WMO)が作成し

た世界の雷雨発生の地域別,頻度分布(年間の

雷雨日数〉である。これを見ると東南アジアの

低緯度域,ことにシンガポール近海は雷雨発生

が年間,実に 140日と異常に高く世界有数の雷

発生海域であることがわかる。これから,気象

的にいえば, r畝傍Jはシンガポール出港まも

なく,当時の世界的な異常気象による強風,暴

風雨,或いは強烈な雷雨,落雷に遭遇,フラン

ス流のややトップヘビーな艦形も災して転覆し

ー一気温偏差…・・比

のである。 1880年(明治13年〉代中期,

北半球の平均気温偏差はマイナス0.5

度に達しようとしており,この期間ほ

ぽ百年の最低値である。点、線は太陽の

本影 ・半影比 (Umbral/Penumbral

Ratio)であるが, 太陽の活動をあら

わす示数の一つであり,この時期やは

り太陽活動が極小期に入っていたこと

を示している。

気 O.4t0.3

本軍手/ 学

オヒアメリカにおける 1886-87年

(明治19-20年)の気象異変が何故,

東アジア,シンガポール近海の気象異

- 18-

議叫 i

差J-o.4l二

1870 80 901900 10 20 30 40

年(i!!i歴)

50 60 70

0.21f

0.1 80

図2 187ト 19卸年の北半球,気温偏差経過と太陽の半彫・本

~比経過図 W. E. Hardy (1鎗0)による。 i畝傍」遭

録時,明治19年 (1回6)頃の異常低温に注意

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たか,落雷による火災,火薬爆発で沈没したと

いう推論も出来ょう 。 しかし,これはあくまで

推定の話しであって,気象データの綿密な発

掘,解析が必要であるのは言をまたなし、。旧 日

本海軍のさらには日本経艇の建設,技術確立期

に貴重な犠牲となった「畝傍」の乗員諸氏の御

冥福を「明治」は遠くなってしまったが,あら

ためておいのりするものである。

文献 :

Hardy, W. E. (1980) : Climatic changes

may be related to variations in solar

luminosity, Environmental Data and

Information Service, Vol. 11, No. 1, 15

~16

Hoyt, D. V. (1979) : Variation in sunspot

structure and climate, Climatic Change,

Vol. 2, No. 1, 79-92

Keehn, P. A. (1968) Bibliography on

Marine Atlases, American Meteorologi-

cal Society, Special Bibliographies on

Oceanography, Contribution No. 6, 184

pp.

U. S. Weather Bureau (1946) Daily

Historical Weather Maps. (1899~1939)

India Meteorological Dept. (1886) : Wea-

ther charts of the Bay of Bengal and

adjacent sea north of the Equator sho-

wing the mean pressure, winds and

currents in each month of the year.

Simla, India

これには畝傍遭難の年の ものの収録はない

が,続編がインド気象局に より刊行されている

と思われる。

Algue, J. (1904) Cyclones of the Far

East, Special report of the Director of

the Philippines Weather Bureau, Manila

Observatory

気象学者としても著名であったアルゲ師の書

物であるが筆者(半津〉未見

WMO (W orld Meteorological Organiza-

tion) (1956) : World distribntion of thu-

nderstorm days, WMO, Geneva, No. 12.

福井静男「海軍緩艇史2.巡洋艦J1980年,

KKベストセラーズ社

渡辺加藤一「海難史話J1981年,海文堂

伴野 朗 「九頭の龍J1975年,講談社

伊藤正徳 「大海軍を想うJ1981年,光入社

図3 世界の年間雷雨回数 (thunderotormdayo)分布図, WMO (1鈴6)に

よる。シンガポール近海の異常に高い日教に注意

-19 -