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7
西 西 (1) 殿 沿 西 使 =認 L

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世田谷城の抜穴について

相原 明彦

中世吉良氏の世田谷城には抜穴が存在したとの説があつた。

0 浦辺仙橘氏

「この城の面白いのは抜穴のある事である。」とし、抜穴は、

城の腰曲輪の内部桜丸の直下より垂直に少し下って直ちに西に折

れ、漸く人の這う位の広さで、三、四十間を行って、豪徳寺詣道

の西側、人家のある処に抜ける。との風説があると紹介されてい

る。翁武蔵野」十三巻五、六号)

図0浦辺氏の城跡図。○印Aは浦辺氏記載の抜穴出入回。B及び

点線は筆者補筆。

に 鈴木堅次郎氏

大著

『世田谷城名残常盤記』において同氏は、「世田谷城の大

手は、区役所、勝国寺に向かう品川橋方面とし、その奥詰として

宮坂八幡が創建され、城と八幡社との間には抜穴が存在した。し

かもその穴道には金銀財宝がしま

つてあると古来伝説されてい

る。」と同書中数力所にわたって記述されている。但し、その具

体的な位置等については、全く言及していない。

に 一二田義春氏

三田氏は

『世田谷の中世城塞』において、世田谷城について独

図 (1)

創的、画期的な見解を詳細に述べておられる。城の本郭は豪徳寺

の現在の仏殿等を中心とする区域に位置し、その表参入路は南方

向の烏山川の右岸に沿う道路に向かっていた。即ち今の豪徳寺の

表参道がそれであつたろうと考え、これを基本として、周囲に防

衛上必要な、いくつかの郭が設けられたとする。

抜穴につていは、古老、高橋肇氏

(豪徳寺

一―

一月

一八)の

証言を引用している。高橋氏によれば、腰曲輪

(図②A点)に抜

穴があったことは知らぬが、陥没によつて現われた抜穴といわれ

る穴が二ヶ所あって

(図②B、C)、子供の頃入って遊んだとの

ことである。三田氏は、これを地下水路と推定し、八幡社西隣の

旧小川家の庭の湧水を地下水路にょりC、B、Aの順に導き、土

塁群の間の谷を水濠とするために使用したものと考え、A、B、

C点は、ところどころに竪穴を掘って水路をつなぐ工法をとつた

跡が陥没したものと推定された。

=認L

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一豪徳寺および世田谷城址周辺図

(2)

一表

篠公■神■

耳‐―、=

工嫁

ボ″ルちた

一月

0

(注)既成概念の世田谷城城中に……で表したのは、蛙声生氏作成図の土塁中既に破壊されて消滅した

部分である。また、豪徳寺の法堂の北側および招福庵などの西側に一――で表したのは、昭和 4年の陸軍陸地

測量部一万分の一地形図東京近傍第25号に表されている土塁中既に破壊されて消滅した部分である。

旧小川家の湧水位置 。陥没して現れた斜および堅の穴・北側凹地湧水の証言者は豪徳寺 1丁 目12

番18号 に代々居住している高橋肇氏、元造園業、明治29年 11月 23日 生である。

a゙曖 ―帝冬η'=11

マ・F~ズnt,つ

―=3θ――

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三田氏の図②を参照されたたい。A、B、Cの記号並びにこれ

らを結ぶ点線は筆者記入。A、Bの位置は浦辺氏図①のA、Bと

一致し、Cの位置は、鈴木氏のいう抜穴の所在地に略々一致する

ものとみられる。

半信半疑という言葉がある。従来この課題についての筆者の取

組みは、正にこの言葉の通りであった。

ところが、平成十年暮、筆者は豪徳寺住職、粕川鉄禅師より極

めて興味ある情報をいただいた。それは、

0 平成四年秋頃い同寺所有地である区内豪徳寺二―

一〇六八番

(住居表示、豪徳寺一一―二二―二三)の借地人と、和久哲也氏

が、家屋建替の為、旧家屋を解体し、小型ブルドーザで整地作業

をしていた時、運転手が土地にやわらかい部分があることに気づ

き地下に穴を発見した。戦時中の防空壕跡と推定されたが、同氏

から通報があり、念のため寺は世田谷区文化財係にこの処置につ

いて照会した。同係からは、折り返しそのまま作業を継続してよ

いとの回答があり、穴は再びブルドーザで埋められ踏み固められ

た。

に 区内宮坂

一―三八―

一人、金沢利三郎氏が、大正末期、東急

世田谷線のレール敷設工事の際、前記和久家のあたりから人幡社

方向に軌道敷地を横断する穴をみた。

というものであ

った。

この情報に基き調査したところを以下に報告する。

平成十

一年八月

一日、和久哲也氏を訪間、その見聞された内容に

ついて聴取した。和久氏は平成四年、日本同盟基督教団より家屋

を買取り、この元宣教師館であった古家を解体し整地作業をして

いた時に地中に穴が発見され、これを実見されたのである。

又、日本同盟基督教団の元職員、倉坪正男氏

(川崎市宮前区南

20坪分(売却分)

東急世田谷線

咆‐褥″、な

2F10帖 3室

8帖 1室6帖 3室45帖 1室

2帖 1室

― +Jゝ Jヒ図 (3)

齢町山妙‐嬢■ 、ス、

´

)`

公眈相 庭

磁鹸1瀾警 芝

植木

lF2Fは lFと 同じ

1教団事務所 (管理・倉坪) ど%坪 )

21帖

―=θイーー

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平台四―

も、当時隣の教団事務所に居住し、この発見された

穴を実見されていた。同年八月三十

一日、同氏を訪間、同じく実

見された内容について聴取した。以下両氏より聴取した内容につ

いて記述する。

図0は倉坪氏のスケッチであるが、穴は解体された元宣教師館

の下を、三田氏図②C点の辺りから、東急世田谷線の方向

へ斜め

に掘られていた。

穴の両端の状況については、C点方向に関し、和久氏は崩壊し

ていたとし、倉坪氏は行きどまりは壁で、床面上に高さ、奥行共

に約三十センチ位いの土の段があ

ったと云われる。

世田谷線方向については、両氏共、崩壊していたとみる。又、

両氏共、穴は世田谷線方向から掘削されたものと考えておられる。

土質は赤土、素堀りで木材等による補強はなか

った。和久氏は、

壁には黒色の土が塗

ってあり、ていねいな仕上げと感じたと云わ

れる。

横穴の延長は、和久氏約三メー

トル、倉坪氏約二

・五メートル、

中は、和久氏広いところで約ニメ

ートル、倉坪氏約

一・ニメートル、

高さは、和久氏約

一・五メートル、

倉坪氏約

一メートル、地表から穴

天丼迄の深さは、和久氏約

一メー

トル、倉坪氏約五十~六十センチ、

とみる。(表参照)

この横穴が防空壕跡と判断され

た根採とな

ったのが、穴の中に存

在した

ローソク立ての出現であ

る。この点につき、和久氏は縦横

一辺三~四センチ、厚さ約五ミリ

の板に三センチ位の釘が

一本うたれたものが、縦横二十センチ前

後、奥行十センチ位の壁面のがんに置かれていたとする。倉坪氏

は縦横十

×五十センチ位

いの板に、ろう受皿のついた四本の釘が

並列してうたれたものが、前述の横穴C点方向

つき当りの壁下の

土段上に置かれていたと云われる。この点に関し、両氏の記憶は

大きく異る。尚、このローソク立ては現存しない。

以上は聴取内容をそのまま記したものであるが、両氏が横穴を

実見されて六年余を経過しており、人間の記憶力の限界を知る思

いである。

この横穴が果して城の抜穴であ

ったのか、戦時中に掘られた防

空壕跡であ

つたのか、この決着は戦時中の同地住人の証言に待

外はない。登記所を調査した処によると、昭和九年十二月二十六

日より同二十

一年三月

一日の間、即ち戦時中同地に所在した家屋

の所有者は、同地に在住の滝口ゑい氏であ

った。

その建物登記簿によると、滝口氏の建物は、昭和二十

一年三月

一日次の所有者森岡興業いを経て、同二十七年八月四日日本同盟

基督教団

へその所有権が移転している。

日本同盟基督教団が同地に所有した建物は三棟あり、戦時中に

存在した滝口氏所有の建物は、図0右側の教団事務所に相当する

もので、この建物は平成十年十二月二十二日取毀わされた。

和久氏に譲渡された図0左側の宣教師館は、昭和四十年八月二

十七日教団により新築され和久氏に譲渡されたもので、登記面で

は平成四年七月二十三日に取毀わされている。横穴はこの建物の

下に、それ以前から存在したものであるが、宣教師館新築時には、

その存在を気付かれず、建築に際し崩れもしなか

った。又、建物

取毀しに際しても崩れることがなか

った。その以前戦時中に、こ

和 久 氏 倉坪 氏

長延

高さ

地表からの

深さ

約3m

(広 いところで)

約 2m

約1.5m

約 lm

約2.5m

約1.2m

約 lm

約50~60cm

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の敷地部分に建物が存在したか否か、登記面からは建物はなか

たものとみられる。

以上二棟の他に、同地には森岡興業榊所有の建築年代不詳の約

六坪の小規模な居宅があり、昭和二十八年五月八日に、同じく日

本同盟基督教団に譲渡され、昭和四十六年九月

一日に取毀わされ

ている

(実際の取毀わしはその前年の由)。この建物の所在場所

は、倉坪氏によれば教団事務所のすぐ南側で、横穴部分にはふれ

ぬ位置にあ

った。

登記面から追求できる建物の歴史は以上の通りであるが、これ

らの建物の所在した敷地の歴史を同地の所有者である豪徳寺地所

部に尋ねたところ、手許に存する書類から明らかにできる土地契

約の歴史は、昭和五十八年三月八日付の更新契約までで、それ以

前については解明できなか

った。契約更新時の契約面積は、前述

の教団所有建物の全ての敷地をカバーする二〇〇坪であ

った。

この土地契約面積がそのまま当初の滝口氏まで遡るものである

のか、即ち、滝国家の敷地面積が当初より二〇〇坪であ

ったのか、

立証できるものはないが、その可能性は高いものと思われる。即

ち、戦時中横穴の存在した部分は滝国家の庭であ

った可能性が極

めて高い。かくて、同地所在の横穴問題の解明には、何よりも滝

口氏の証言が不可欠であるが、同氏と連絡のとれる手がかりは、

遺憾ながら断たれている。

次に、宣教師館玄関部分に所在した井戸であるが、倉坪氏によ

ればこれは水のある井戸で、横穴とは全く無関係である。この井

戸については三田氏図②のC点の関連を期待したが、これは空し

い結果に終

った。

C点については、念のためその後平成十二年九月十日和久家と

道路を

へだてた上村氏と石辻氏を訪ね事情をお尋ねしたが、参考

となる情報はえられなか

った。上村みつ江氏

(豪徳寺二―一≡一―

八)は最近同地に転入されたもの。又、石辻桂

一氏

(同番地)は

戦時中より現在地に居住しておられた。

和久、倉坪両氏訪間に先だつ平成十年十二月十三日、金沢利三

郎氏を訪問しその実見された内容にいて聴取した。同氏は高齢で

あり、且

つその見聞同時より長年月が経過していたが、以下のお

―=θδ――

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話を聴取することができた。

東急世田谷線が下高井戸まで開通したのは大正十四年である

が、それ以前世田谷八幡宮東側の切り通し部分の工事が行われて

いた際、前記和久家の辺りから八幡宮方向

へ軌道を横断する横穴

を見た。その横穴は、切り通し工事のため掘り下げられた地面上

の丁度レール位いの水準にあ

った。地はだは赤土で、表面には更

に赤土がぬられ、つるつるした感じであ

った。穴はドーム状で、

高さはニメートル位いか、又、中は

一~

一・五メートル位いと記

憶している。工事中、人夫がその穴に落ちたのをみた記憶もある。

横穴は八幡宮側の島田製作所を経て、八幡宮境内方向にぬけてい

るものと推定された。

これをうけて、平成十

一年六月

一日、0島田製作所

(宮坂

一―

二五―

一〇)並びに世田谷八幡宮、蔵重氏

(宮坂

一―二六)を訪

間、横穴の存在について尋ねたが、何らうる処はなか

った。

以上、和久、倉坪両氏並びに金沢氏の見間をまとめ、図0に示

す。

エハ

次に、浦辺氏図0並びに三田氏図②に於けるA、B点について

の調査結果を報告する。先ずA点については、古老高橋氏も、そ

の存在を知らぬと述べているように、その地形、位置等からみて

抜穴の存在が考えられる場所ではない。三田氏も、せいぜい旧小

川家跡からの地下水路の端末ではな

いかと推定するに止めてい

る。このような事情からA点は調査の対象外とした。

次にB点は、一象徳寺山門にむか

って左側の角と推定されるので、

同地点に現在家屋を所有されている加藤玲子氏

(豪徳寺

一―

一九

一五)を平成十二年四月二日訪間、事情を聴取した。同氏の話

される処では、かつて敷地内に水をたたえた井戸があ

ったが、現

在の家屋建築に際し埋めたとのことで、それ以外格別参考となる

見間はなかった。この地点についても、A点同様その地形、位置

等からみて抜穴の存在が考えられる理由を欠く場所とみられる。

抜穴らしき横穴の存在が複数の方々により現実に確認されたの

は、図0に示す和久家敷地内から世田谷八幡宮方向にかけてであ

2一。こ

の場所は地形上から抜穴の存在を推測しうる唯

一の地点とみ

られるが、先ず城の戦略上の視点から考えてみることとする。鈴

木堅次郎氏の見方に従えば、城大手背後の脱出路としてここに抜

穴の存在する意義は了解できる。ところが、三田義春氏の見方で

は、この方角は城を囲む低瀑地帯を外れ、唯

一敵の攻撃にさらさ

れ易い危険性をもつ場所であり、この方角に抜穴をつくる意義は

うすい。

この場所の立地に関する両氏の見方を比較すると、三田氏の見

方が妥当であるように思われ、抜穴がこの場所に存在することヘ

の疑間は残る。

次に、確認された横穴自体の性格であるが、金沢氏目撃の横穴

は、多分に抜穴の可能性を具えたものとみてよいのではないか。

これに対し和久家敷地の横穴は、ローソク立ての出現により戦時

中防空壕として使用されたであろう事実は否定しがたい。問題は、

既述した通り、戦時中の同地居住者が従来より存在した横穴を防

空壕として利用したのか、新たに掘ったのかである。その解明の

ためには、戦時中の同地居住者滝回氏の証言に待つ外はない。し

かしながら誠に遺憾ながら、その手がかりは失われている。

但し、この和久家敷地の横穴についても、その構造、形状、寸

法等からみて、防空壕とは異なるものとの印象をうけることは否

=θ /~

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定しがたい。しかも、この横穴と金沢氏目撃の横穴には共通の性

格があるように感じられる。

今回調査の経過は以上の通りであるが、これから図0の横穴を

城の抜穴と断定するに足る十分な心証を得るには至らなかった。

それは資料の収集と解析に当って、自らの力不足を露呈したまで

のことで、その点全く辮解の余地がない。今、筆者が願うところ

は、この粗雑な報告が、将来この問題に興味をもたれる方のため

の一助となればということに尽きる。そして更に望みたいところ

は、今なおその全容が明らかでない中世の吉良氏世田谷城の姿が、

二十

一世紀の早い日に解明され、その復原整備と区民への公開が

なされることである。

最後に、今回の調査に際し心よく御協力を賜

った各位に、衷心

より感謝の意を表します。(平成十二年十二月記)

(本会理事)

家康公の廟所 (墓 )

(見学会にて 撮影 :下坂義夫)

―・ 38-―