IMG 0032 · Title: IMG_0032 Author: annog Created Date: 5/16/2020 12:58:57 AM
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世田谷城の抜穴について
相原 明彦
一
中世吉良氏の世田谷城には抜穴が存在したとの説があつた。
0 浦辺仙橘氏
「この城の面白いのは抜穴のある事である。」とし、抜穴は、
城の腰曲輪の内部桜丸の直下より垂直に少し下って直ちに西に折
れ、漸く人の這う位の広さで、三、四十間を行って、豪徳寺詣道
の西側、人家のある処に抜ける。との風説があると紹介されてい
る。翁武蔵野」十三巻五、六号)
図0浦辺氏の城跡図。○印Aは浦辺氏記載の抜穴出入回。B及び
点線は筆者補筆。
に 鈴木堅次郎氏
大著
『世田谷城名残常盤記』において同氏は、「世田谷城の大
手は、区役所、勝国寺に向かう品川橋方面とし、その奥詰として
宮坂八幡が創建され、城と八幡社との間には抜穴が存在した。し
かもその穴道には金銀財宝がしま
つてあると古来伝説されてい
る。」と同書中数力所にわたって記述されている。但し、その具
体的な位置等については、全く言及していない。
に 一二田義春氏
三田氏は
『世田谷の中世城塞』において、世田谷城について独
図 (1)
創的、画期的な見解を詳細に述べておられる。城の本郭は豪徳寺
の現在の仏殿等を中心とする区域に位置し、その表参入路は南方
向の烏山川の右岸に沿う道路に向かっていた。即ち今の豪徳寺の
表参道がそれであつたろうと考え、これを基本として、周囲に防
衛上必要な、いくつかの郭が設けられたとする。
抜穴につていは、古老、高橋肇氏
(豪徳寺
一―
〓
一月
一八)の
証言を引用している。高橋氏によれば、腰曲輪
(図②A点)に抜
穴があったことは知らぬが、陥没によつて現われた抜穴といわれ
る穴が二ヶ所あって
(図②B、C)、子供の頃入って遊んだとの
ことである。三田氏は、これを地下水路と推定し、八幡社西隣の
旧小川家の庭の湧水を地下水路にょりC、B、Aの順に導き、土
塁群の間の谷を水濠とするために使用したものと考え、A、B、
C点は、ところどころに竪穴を掘って水路をつなぐ工法をとつた
跡が陥没したものと推定された。
=認L
図
一豪徳寺および世田谷城址周辺図
(2)
丈
吉
統
一表
篠公■神■
耳‐―、=
工嫁
柱
ボ″ルちた
可
一月
0
(注)既成概念の世田谷城城中に……で表したのは、蛙声生氏作成図の土塁中既に破壊されて消滅した
部分である。また、豪徳寺の法堂の北側および招福庵などの西側に一――で表したのは、昭和 4年の陸軍陸地
測量部一万分の一地形図東京近傍第25号に表されている土塁中既に破壊されて消滅した部分である。
旧小川家の湧水位置 。陥没して現れた斜および堅の穴・北側凹地湧水の証言者は豪徳寺 1丁 目12
番18号 に代々居住している高橋肇氏、元造園業、明治29年 11月 23日 生である。
″
a゙曖 ―帝冬η'=11
マ・F~ズnt,つ
―=3θ――
三田氏の図②を参照されたたい。A、B、Cの記号並びにこれ
らを結ぶ点線は筆者記入。A、Bの位置は浦辺氏図①のA、Bと
一致し、Cの位置は、鈴木氏のいう抜穴の所在地に略々一致する
ものとみられる。
二
半信半疑という言葉がある。従来この課題についての筆者の取
組みは、正にこの言葉の通りであった。
ところが、平成十年暮、筆者は豪徳寺住職、粕川鉄禅師より極
めて興味ある情報をいただいた。それは、
0 平成四年秋頃い同寺所有地である区内豪徳寺二―
一〇六八番
地
(住居表示、豪徳寺一一―二二―二三)の借地人と、和久哲也氏
が、家屋建替の為、旧家屋を解体し、小型ブルドーザで整地作業
をしていた時、運転手が土地にやわらかい部分があることに気づ
き地下に穴を発見した。戦時中の防空壕跡と推定されたが、同氏
から通報があり、念のため寺は世田谷区文化財係にこの処置につ
いて照会した。同係からは、折り返しそのまま作業を継続してよ
いとの回答があり、穴は再びブルドーザで埋められ踏み固められ
た。
に 区内宮坂
一―三八―
一人、金沢利三郎氏が、大正末期、東急
世田谷線のレール敷設工事の際、前記和久家のあたりから人幡社
方向に軌道敷地を横断する穴をみた。
というものであ
った。
この情報に基き調査したところを以下に報告する。
三
平成十
一年八月
一日、和久哲也氏を訪間、その見聞された内容に
ついて聴取した。和久氏は平成四年、日本同盟基督教団より家屋
を買取り、この元宣教師館であった古家を解体し整地作業をして
いた時に地中に穴が発見され、これを実見されたのである。
又、日本同盟基督教団の元職員、倉坪正男氏
(川崎市宮前区南
20坪分(売却分)
東急世田谷線
咆‐褥″、な
2F10帖 3室
8帖 1室6帖 3室45帖 1室
2帖 1室
― +Jゝ Jヒ図 (3)
巾
一
齢町山妙‐嬢■ 、ス、
´
)`
公眈相 庭
磁鹸1瀾警 芝
植木
lF2Fは lFと 同じ
1教団事務所 (管理・倉坪) ど%坪 )
食
堂
21帖
―=θイーー
平台四―
こ
も、当時隣の教団事務所に居住し、この発見された
穴を実見されていた。同年八月三十
一日、同氏を訪間、同じく実
見された内容について聴取した。以下両氏より聴取した内容につ
いて記述する。
図0は倉坪氏のスケッチであるが、穴は解体された元宣教師館
の下を、三田氏図②C点の辺りから、東急世田谷線の方向
へ斜め
に掘られていた。
穴の両端の状況については、C点方向に関し、和久氏は崩壊し
ていたとし、倉坪氏は行きどまりは壁で、床面上に高さ、奥行共
に約三十センチ位いの土の段があ
ったと云われる。
世田谷線方向については、両氏共、崩壊していたとみる。又、
両氏共、穴は世田谷線方向から掘削されたものと考えておられる。
土質は赤土、素堀りで木材等による補強はなか
った。和久氏は、
壁には黒色の土が塗
ってあり、ていねいな仕上げと感じたと云わ
れる。
横穴の延長は、和久氏約三メー
トル、倉坪氏約二
・五メートル、
中は、和久氏広いところで約ニメ
ートル、倉坪氏約
一・ニメートル、
高さは、和久氏約
一・五メートル、
倉坪氏約
一メートル、地表から穴
天丼迄の深さは、和久氏約
一メー
トル、倉坪氏約五十~六十センチ、
とみる。(表参照)
この横穴が防空壕跡と判断され
た根採とな
ったのが、穴の中に存
在した
ローソク立ての出現であ
る。この点につき、和久氏は縦横
一辺三~四センチ、厚さ約五ミリ
の板に三センチ位の釘が
一本うたれたものが、縦横二十センチ前
後、奥行十センチ位の壁面のがんに置かれていたとする。倉坪氏
は縦横十
×五十センチ位
いの板に、ろう受皿のついた四本の釘が
並列してうたれたものが、前述の横穴C点方向
つき当りの壁下の
土段上に置かれていたと云われる。この点に関し、両氏の記憶は
大きく異る。尚、このローソク立ては現存しない。
以上は聴取内容をそのまま記したものであるが、両氏が横穴を
実見されて六年余を経過しており、人間の記憶力の限界を知る思
いである。
この横穴が果して城の抜穴であ
ったのか、戦時中に掘られた防
空壕跡であ
つたのか、この決着は戦時中の同地住人の証言に待
つ
外はない。登記所を調査した処によると、昭和九年十二月二十六
日より同二十
一年三月
一日の間、即ち戦時中同地に所在した家屋
の所有者は、同地に在住の滝口ゑい氏であ
った。
四
その建物登記簿によると、滝口氏の建物は、昭和二十
一年三月
一日次の所有者森岡興業いを経て、同二十七年八月四日日本同盟
基督教団
へその所有権が移転している。
日本同盟基督教団が同地に所有した建物は三棟あり、戦時中に
存在した滝口氏所有の建物は、図0右側の教団事務所に相当する
もので、この建物は平成十年十二月二十二日取毀わされた。
和久氏に譲渡された図0左側の宣教師館は、昭和四十年八月二
十七日教団により新築され和久氏に譲渡されたもので、登記面で
は平成四年七月二十三日に取毀わされている。横穴はこの建物の
下に、それ以前から存在したものであるが、宣教師館新築時には、
その存在を気付かれず、建築に際し崩れもしなか
った。又、建物
取毀しに際しても崩れることがなか
った。その以前戦時中に、こ
和 久 氏 倉坪 氏
長延
巾
高さ
地表からの
深さ
約3m
(広 いところで)
約 2m
約1.5m
約 lm
約2.5m
約1.2m
約 lm
約50~60cm
の敷地部分に建物が存在したか否か、登記面からは建物はなか
っ
たものとみられる。
以上二棟の他に、同地には森岡興業榊所有の建築年代不詳の約
六坪の小規模な居宅があり、昭和二十八年五月八日に、同じく日
本同盟基督教団に譲渡され、昭和四十六年九月
一日に取毀わされ
ている
(実際の取毀わしはその前年の由)。この建物の所在場所
は、倉坪氏によれば教団事務所のすぐ南側で、横穴部分にはふれ
ぬ位置にあ
った。
登記面から追求できる建物の歴史は以上の通りであるが、これ
らの建物の所在した敷地の歴史を同地の所有者である豪徳寺地所
部に尋ねたところ、手許に存する書類から明らかにできる土地契
約の歴史は、昭和五十八年三月八日付の更新契約までで、それ以
前については解明できなか
った。契約更新時の契約面積は、前述
の教団所有建物の全ての敷地をカバーする二〇〇坪であ
った。
この土地契約面積がそのまま当初の滝口氏まで遡るものである
のか、即ち、滝国家の敷地面積が当初より二〇〇坪であ
ったのか、
立証できるものはないが、その可能性は高いものと思われる。即
ち、戦時中横穴の存在した部分は滝国家の庭であ
った可能性が極
めて高い。かくて、同地所在の横穴問題の解明には、何よりも滝
口氏の証言が不可欠であるが、同氏と連絡のとれる手がかりは、
遺憾ながら断たれている。
次に、宣教師館玄関部分に所在した井戸であるが、倉坪氏によ
ればこれは水のある井戸で、横穴とは全く無関係である。この井
戸については三田氏図②のC点の関連を期待したが、これは空し
い結果に終
った。
C点については、念のためその後平成十二年九月十日和久家と
道路を
へだてた上村氏と石辻氏を訪ね事情をお尋ねしたが、参考
となる情報はえられなか
った。上村みつ江氏
(豪徳寺二―一≡一―
八)は最近同地に転入されたもの。又、石辻桂
一氏
(同番地)は
戦時中より現在地に居住しておられた。
五
和久、倉坪両氏訪間に先だつ平成十年十二月十三日、金沢利三
郎氏を訪問しその実見された内容にいて聴取した。同氏は高齢で
あり、且
つその見聞同時より長年月が経過していたが、以下のお
―=θδ――
話を聴取することができた。
東急世田谷線が下高井戸まで開通したのは大正十四年である
が、それ以前世田谷八幡宮東側の切り通し部分の工事が行われて
いた際、前記和久家の辺りから八幡宮方向
へ軌道を横断する横穴
を見た。その横穴は、切り通し工事のため掘り下げられた地面上
の丁度レール位いの水準にあ
った。地はだは赤土で、表面には更
に赤土がぬられ、つるつるした感じであ
った。穴はドーム状で、
高さはニメートル位いか、又、中は
一~
一・五メートル位いと記
憶している。工事中、人夫がその穴に落ちたのをみた記憶もある。
横穴は八幡宮側の島田製作所を経て、八幡宮境内方向にぬけてい
るものと推定された。
これをうけて、平成十
一年六月
一日、0島田製作所
(宮坂
一―
二五―
一〇)並びに世田谷八幡宮、蔵重氏
(宮坂
一―二六)を訪
間、横穴の存在について尋ねたが、何らうる処はなか
った。
以上、和久、倉坪両氏並びに金沢氏の見間をまとめ、図0に示
す。
エハ
次に、浦辺氏図0並びに三田氏図②に於けるA、B点について
の調査結果を報告する。先ずA点については、古老高橋氏も、そ
の存在を知らぬと述べているように、その地形、位置等からみて
抜穴の存在が考えられる場所ではない。三田氏も、せいぜい旧小
川家跡からの地下水路の端末ではな
いかと推定するに止めてい
る。このような事情からA点は調査の対象外とした。
次にB点は、一象徳寺山門にむか
って左側の角と推定されるので、
同地点に現在家屋を所有されている加藤玲子氏
(豪徳寺
一―
一九
―
一五)を平成十二年四月二日訪間、事情を聴取した。同氏の話
される処では、かつて敷地内に水をたたえた井戸があ
ったが、現
在の家屋建築に際し埋めたとのことで、それ以外格別参考となる
見間はなかった。この地点についても、A点同様その地形、位置
等からみて抜穴の存在が考えられる理由を欠く場所とみられる。
七
抜穴らしき横穴の存在が複数の方々により現実に確認されたの
は、図0に示す和久家敷地内から世田谷八幡宮方向にかけてであ
2一。こ
の場所は地形上から抜穴の存在を推測しうる唯
一の地点とみ
られるが、先ず城の戦略上の視点から考えてみることとする。鈴
木堅次郎氏の見方に従えば、城大手背後の脱出路としてここに抜
穴の存在する意義は了解できる。ところが、三田義春氏の見方で
は、この方角は城を囲む低瀑地帯を外れ、唯
一敵の攻撃にさらさ
れ易い危険性をもつ場所であり、この方角に抜穴をつくる意義は
うすい。
この場所の立地に関する両氏の見方を比較すると、三田氏の見
方が妥当であるように思われ、抜穴がこの場所に存在することヘ
の疑間は残る。
次に、確認された横穴自体の性格であるが、金沢氏目撃の横穴
は、多分に抜穴の可能性を具えたものとみてよいのではないか。
これに対し和久家敷地の横穴は、ローソク立ての出現により戦時
中防空壕として使用されたであろう事実は否定しがたい。問題は、
既述した通り、戦時中の同地居住者が従来より存在した横穴を防
空壕として利用したのか、新たに掘ったのかである。その解明の
ためには、戦時中の同地居住者滝回氏の証言に待つ外はない。し
かしながら誠に遺憾ながら、その手がかりは失われている。
但し、この和久家敷地の横穴についても、その構造、形状、寸
法等からみて、防空壕とは異なるものとの印象をうけることは否
=θ /~
定しがたい。しかも、この横穴と金沢氏目撃の横穴には共通の性
格があるように感じられる。
*
今回調査の経過は以上の通りであるが、これから図0の横穴を
城の抜穴と断定するに足る十分な心証を得るには至らなかった。
それは資料の収集と解析に当って、自らの力不足を露呈したまで
のことで、その点全く辮解の余地がない。今、筆者が願うところ
は、この粗雑な報告が、将来この問題に興味をもたれる方のため
の一助となればということに尽きる。そして更に望みたいところ
は、今なおその全容が明らかでない中世の吉良氏世田谷城の姿が、
二十
一世紀の早い日に解明され、その復原整備と区民への公開が
なされることである。
最後に、今回の調査に際し心よく御協力を賜
った各位に、衷心
より感謝の意を表します。(平成十二年十二月記)
(本会理事)
家康公の廟所 (墓 )
(見学会にて 撮影 :下坂義夫)
―・ 38-―