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トクヴィルにおける二つのアソシアシオン 本稿は、第四十九回日本社会学史学会大会シンポジウム コミュニタリアニズムの再検討ー個人化に抗する社会学 |』に際し、この主題に沿って、「個人 化」が進むとされ 現代社会における社会性について、近代民主主義論の古典的 論者トクヴィルのアソシアシオン論の再検討を通じて再考を 試みるものである。 トクヴィル のアソシアシオン論には異なる二つのアソシア シオンが含まれている。多数者の暴政を予防しうる中間集団 としての「政治的アソシアシオン (association politique) はよく知られているが はこれに加えて「市民的アソシア はじめに トクヴィ つのアソ '、 9 特集コ シオン (association civile) 」なるものが論じられている しかし、この後者についての議論を詳細に見 かならずしも(通常理解される)「自由で自立し 合意に基づく意図的な 結社』」としてのアソシアシオンで はなく、むしろそのような「結社」が可能となるための の自然発生的な共同性(コミューン性)を、その不可欠な要 素として含んでいることがわかる。 では、現代社会において、アソシアシオン(再興)の基盤 足りうるような共同性はどこに、どのように見出されうるの か?個人化の進行に比例して共同体の復権が叫ばれる現状 を踏まえつつ、トクヴィルのアソシアシオンに関する議論の 中にその手掛かりを探る 菊谷和宏 15

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トクヴィルにおける二つのアソシアシオン

本稿は、第四十九回日本社会学史学会大会シンポジウム

『コミュニタリアニズムの再検討ー個人化に抗する社会学

|』に際し、この主題に沿って、「個人化」が進むとされる

現代社会における社会性について、近代民主主義論の古典的

論者トクヴィルのアソシアシオン論の再検討を通じて再考を

試みるものである。

トクヴィル

のアソシアシオン論には異なる二つのアソシア

シオンが含まれている。多数者の暴政を予防しうる中間集団

としての「政治的アソシアシオン

(associationpolitique)」

はよく知られているが、実はこれに加えて「市民的アソシア

はじめに

トクヴィルにおける一

つのアソシアシオン

'

9‘

特集コミュニタリアニズムの再検討

シオン

(associationcivile)」なるものが論じられている。

しかし、この後者についての議論を詳細に見ると、それは

かならずしも(通常理解される)「自由で自立した諸個人の

合意に基づく意図的な

『結社』」としてのアソシアシオンで

はなく、むしろそのような「結社」が可能となるための

一定

の自然発生的な共同性(コミューン性)を、その不可欠な要

素として含んでいることがわかる。

では、現代社会において、アソシアシオン(再興)の基盤

足りうるような共同性はどこに、どのように見出されうるの

か?個人化の進行に比例して共同体の復権が叫ばれる現状

を踏まえつつ、トクヴィルのアソシアシオンに関する議論の

中にその手掛かりを探る。

15

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一般的な理解に従えば、アソシアシオンとは、「なんらか

の共通する目的や関心のために、個々人が、強制によること

なく自らの自由な意志に基づいて(典型的には契約をもっ

て)発足・維持•発展させる組織的集団」を意味し、しばし

ば「結社」とも訳される。したがってそれは共同体(コミュ

ーン)のような自然発生的な集団ではなく、目的に適うよう

意図的に設計された集団、典型的には政党・組合

・会社・

校などを指す。

この理解は、アソシアシオン概念が背負わされている歴史

を考えればとりわけ首肯できるものだろう。すなわち、革命

期のフランスにおいて国家と諸個人の間のいわゆる中間団体

は法的に禁止され(

一七九

二年、

ル・シ

ャプリエ法)、革命

以前に存在した(封建的)諸集団(同職ギルドなど)は破壊

された結果、諸個人は息苦しい封建的抑圧から解放されたと

同時に、今度は孤立しばらばらになってしまったと感じられ

るに至った。この状態は多くの識者によって、近代という時

代における人間と社会の危機と捉えられ、したがってこの状

態に対する処方箋を描くこと、すなわち、自由•平等といっ

アソシアシオン概念について

トクヴィル

、、、、

た近代の諸原理を保持した上で、孤立した諸個人をいかにし

、、、、、、、、

て再び結合させる

associerかを問うことこそが(広義の)ア

ソシアシオン論を生んだ歴史的地盤でありその後の展開の基

調であったからだ。

(一八

0五ー一八五九)にあっても、このよう

なアソシアシオン理解は踏襲されている。彼は二十代の若き

青年として民主国アメリカを旅し、彼の地における「発足す

るのも発展するのも諸個人の意志次第であるアソシアシオ

ン」

(Tocqueville1835: 194 11下三八)の数の多さと質の多

様さに驚き、「諸個人が力を合わせて自由に活動すること

[11アソシ

アシオン]では達成できない、と人間精神があき

らめざるをえないことなど何―っとして無い」

(ibid."195 11

下―――九)とさえ思われるその活動の活発さに驚き、これに

甜目し考察した。その際彼はこれをその志向する目的に応じ

て、政治的アソシアシオン

(associationpolitique)と市民的

アソシアシオン

(associationcivile)

の二種類に分け検討し

ている。以下順に見てみよう。

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トクヴィルにおける二つのアソシアシオン

二、国内各所での政治集会。

三、同じ意見の賛同者が選挙母体を結成し、中央の集会でそ

の意見を代表する代議員を任命するというもの。要する

一定数の個人がなんらかの主義主張

(doctrines)

賛同を公にし、この主義主張を広める活動に一定の仕方

で加わることを約束する、ただそれだけにとどまる集ま

り。

への

政治的アソシアシオンー多数者の暴政に抗す

る「しかたなしの」中間集団

このアソシアシオンについては主に

『アメリカのデモクラ

シー』第一

(-八三五)で論じられている。これはよく知

られた議論であり、単に「トクヴィルのアソシアシオン」と

言うだけでこちらのアソシアシオンを指すことさえある。

政治的アソシアシオンとは、トクヴィルによれば、広くな

んらかの政治的主題(課税の問題など)に対して自分たちの

意見の表明と影響力の行使を目的とする集まりであり、その

発展には次の三つの段階が見られる

(ibid.:195 11

三九ー

四0)。

そして、民王制社会におけるその重要な特質が次のように

規定される。

今日では‘[政治的]アソシアシオンの自由は多数者

の暴政に抗する必須の保証となっている。合衆国では、

一度ある政党が政権を握ると、すべての公権力がその手

に落ちる。個人的な友人があらゆる公職に就き、あらゆ

る機関の権限をほしいままにする。反対党のもっともす

ぐれた人物も権力との境界を突破することはできないの

で、権力の外側に地歩を固められる場がなければならな

い。少数派はその精神の力のすべてを挙げて、多数派の

物質的な力による抑圧に抗せねばならぬ。これは恐るべ

き毒を別の毒をもって制することである。

私には多数者の全能がアメリカの諸共和国[諸州]に

とって非常に大きな危険だと思われるので、これを制限

するために用いられる危険な手段も、まだしも良いもの

に見える。

……党派的専制や君王の恣意を妨げるのに、社会状態

が民主的な国ほど[政治的]アソシアシオンが必要な国

に政党である。

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は無い。貴族制の国々では、

二次的な団体が、権力の乱

用を抑制する自然のアソシアシオンとなっている。この

ようなアソシアシオンが皆無の国で、もし個々人がこれ

に似た何かを人為的、

一時的に創りえないとすれば、も

はやいかなる種類の暴政に対しても防波堤は見当たらず、

大国の人民も

一握りの叛徒、一人の人間によってやすや

すと制圧されるであろう。(ibid." 197ー

19811

下四四)

この議論は、

今日

一般的な表現で言えば、中間集団(中間

団体)論、すなわち国家と個人の間に存在し、両者の無媒介

的接触による圧政や愚政を回避ないし緩和する二次的集団の

議論であると言えよう。民主制社会における「多数者の暴

政」を強く懸念するトクヴィルは、

当時のアメリカ社会の実

態観察をもとに、ヨーロッパ社会と比較しつつ、民主制社会

に内在するこの弊害を回避・緩和する方策の一っとして、政

治的アソシアシオンの必要性・重要性を説いたのだ。

、、、

ただしこの主張は、上記引用に見られる通り手放しのもの

ではない。「毒をもって毒を制する」との表現にはこのこと

が端的に表されている。すなわち、中間集団としての政治的

アソシアシオンの抑圧性に対する、フランス史を顧みればも

っともな強い警戒感があるのだ。この点で近代社会における

政治的アソシアシオンのトクヴィルの位置付けはアンビバレ

ントなものであり、下に見る通りそれは多数者の圧政と無政

府状態との間の危ういバランスの上で、いわば「しかたな

く」認められているという点に留意が必要だろう。

政治における無制限のアソシアシオンの自由が、あら

ゆる自由の中で人民が引き受けうるぎりぎりの自由であ

るという事実に目をつぶることはできない。それは人民

を無政府状態の中に投げ込みはしないとしても、いわば

いつでもその縁に立たせるものである。[-八三一年の

政治的全国大会が、翌年の連邦通商法に対する公然たる

反乱に人民を駆り立てたようにOJ

しかしながら、これ

ほど危険きわまりないこの自由も、ある

一点では保証に

なる。アソシアシオンが自由な国には秘密結社

(societes secretes)~

自九

dっわいぬことである。アメリカに

徒党を組む者はあるが、陰謀家はいない。(ibid.:198 11

この種のアソシアシオンについては主に

『アメリカのデモ

四市民的アソシアシオンー潜在する共同性

下四五)

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トクヴ ィルにおける二つのア ソシアシオン

クラシー』第二巻

(-八四

0)で論じられている。政治学・

政治思想の領域で現在でも頻繁に言及される政治的アソシア

シオンに比べると、トクヴィルの市民的アソシアシオン論が

それとして検討されることは少ない。時には、政治的アソシ

アシオンと明確に区別されることなく一緒くたに論じられた

り、政治的アソシアシオンの「おまけ」のように触れられた

りさえする。しかるに、社会学の観点からは、こちらの議論

にも現代社会に対する大きな意義を以下のように認めること

ができる。

市民的アソシアシオンとは、政治的目的を持たない、日常

市民生活に関連して作られるおよそあらゆる種類•あらゆる

規模のアソシアシオンである。トクヴィル自身の例ではそれ

は、宗教団体、道徳向上のためのアソシアシオン、祭りの実

施や神学校の創設のための、また旅籠の建設、教会の建立、

書物の頒布、僻地への宜教師派遣のためのアソシアシオン、

病院や刑務所や学校を設立するためのアソシアシオン、さら

に「

―つの真理を顕彰し、偉大な手本を示してある感情を世

間に広める」ためのアソシアシオンなどがある

(Tocqueville

1840: 113 = L

一八八ー

一八九)。この規定は、一見してわか

る通り「人間の社交生活上の集まりのうち、政治的アソシア

シオン以外のすべて」とさえ捉えられかねない、非常に包括

的なものである。

トクヴィルは、こうした市民的アソシアシオンが、民主化

がますます進展する社会にあっては、社会の成立そのものに

とって、ひいては人類の文明そのものの維持にとって不可欠

であると、次のように主張した。

貴族制社会の中には常に、自分では何を為す力も無い

無数の人々に囲まれて、きわめて大きな力と富を有する

少数の市民が存在する。この人々は誰もがたった

一人で

大きな事業を為すことができる。

貴族制社会では[その本質上]人々が強固な了体とな

っているので、行動するために[あらためて]団体を作

る必要が無い。

そこでは、富と力とを有する市民が、それぞれ、恒久

的で脱退できない

―つのアソシアシオンの長のようなも

ので、このアソシアシオンの構成員はすべて彼に従属さ

せられ、彼の計画の実現に協力させられている。

ところが、民主制諸国では、市民は誰もが独立し、同

時に無力である。

一人ではほとんど何を為す力も無く、

誰一人として同胞を強制して自分に協力させることはで

きそうにない。彼らはだから、自由に援け合う術を学ば

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つまり、民玉制社会における政治的アソシアシオンの欠如

は、前節で見た通り個人の独立に対する大きな危険をもたら

す。しかしそれでもなお、その社会の富と知性は維持できる。

ところが、市民的アソシアシオンの欠如は、文明そのものの

危機に、人間社会そのものの危機に直結してしまう。人類は

その人間性を失い、野蛮に戻ってしまう。なぜなら、富も権

力も影響力も

一人で十分に所有し、社会的な事業を為すため

にアソシアシオンを成す必要などそもそも無い少数の大貴族

が領民たちを自然に従え、全体として緊密に結び付けられた

引用者による。以下同じ。)

な危険にさらされるであろう。それでも、

富と知性とは

、、、、

長く維持することができるかもしれない。だが日常生活

の中で[市民的]アソシアシオンを作る習慣を獲得しな

いとすれば、文明それ自体が危機に瀕する。個々人が単

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、、

独で大事を為す力を失い、共同でこれをおこなう能力を

、、、、、、、、、、、、、、、、、

身に付けないような人民は、やがて野蛮

(barbarie)

、、、、、、

戻るであろう。(ibid.:

114 11上

一九0ー一九一

[強調は

成す権利も趣味も持たないとすれば、彼らの独立は大き

民主的な国に住む人々が、政治的目的のために団体を

ぬ限り、誰もが無力に陥る。

まとまりを成していた貴族制社会とは異なり、境遇の平等化

が進み、個々人が独立し、それだけに

一人

一人は圧倒的に無

力な民王制社会では、社会的事業を為すために、また個々人

が孤立することなく互いに結び付き

(s'associer)

共同する

ために、要するにそもそも「社会

(societe)

を成す」ために

は、人為的に創られる人間の社交生活上の結び付き、すなわ

ち市民的アソシアシオンが不可欠だからである。

さて、このように見てくると、市民的アソシアシオンは、

実際には語の正確な意味でのアソシアシオンではないように

我々には思われる。というのも、文明社会の成立を前提とし、

自立した自由な個人を前提とする政治的アソシアシオンとは

異なり、市民的アソシアシオン概念には

「独立した個人の自

由意志による結合」以上のものが、非人為的な、自発的な、

正確に言えば共同体的な要素が混入しているからだ。いや、

混入と言うよりも、そもそも自立した個人の自由意志による

結合が可能となる条件として共同性がそこに含まれているよ

うにさえ思われるのだ。なぜなら、それ無くしては文明があ

りえない人間の集まりとは、それ無くしては富のみならず知

性も維持できない集まりとは、それ無くしては野蛮に、社会

ではなくいわば群れに戻ってしまうような人間の集まりとは、

、、、

自然発生的な共同体にほかならないからだ。

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トクヴィルにおける二つのアソシアシオン

『アメリカのデモクラシー』第二巻第二部に含まれるアソ

ン)である。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

とどのつまり、トクヴィルは、市民的アソシアシオンの概

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

念によって、自然発生的な集団を人為的に創り出そうと試み

、、、、、

ているのだ。

事実、

county)

(Etat[仏]、

state

[英])と郡

(comite,

の下位集団であるコミューン(地域共同体

i

commune, to

wnship)

について彼は言う。「コミュ

ーンとは、

、、、、、、、、、、、、、、、、、

自然に根差した唯

一のアソシアシオンであり、人間が集まる

、、、、、、、、、

ところであればどこにでも自ずから形成されるものである

)」(Tocqueville1835:

(ii se forme de s01-meme une commune

、、、、、、

58 11

上九六)。つまり、トクヴィルはそのアソシアシオン概

、、、、、、、、、、、、、、、、、

念の中に共同体の要素を組み入れようとさえしているのだ。

しかるに、語の正確な意味でのアソシアシオンが、共通の

目的に対する自立した諸個人の合意を前提とする以上、その

ような個人が未だ存在せずかえってそれを作り上げるような

人間の集まりや、自ずから自然に形成される集合体は、定義

上アソシアシオンとは言いえない。その集まりが、野生動物

同様の「群れ」でないのであれば、それは、語の正確な意味

において、それ自身は特定の目的を持たずかえってそこから

そのような目的と合意が生み出される、共同体

(コミュ

シアシオン論に先立って、同第一部で論じられている以下の

論理を考え合わせる時、このことは一層明確になろう。

……人々が互いに似通

った信仰を持たずに繁栄するこ

とのできる社会は存在しない、と言うよりもむしろ、

人々の間にそのような信仰無くして存続する社会という

ものは無いということは明らかである。なぜなら、共通

の観念無くして共通の行動は無いし、また共通の行動無

くしては、依然人間は存在しても社会体は存在しえない

(ii existe encore des hommes, ma

is non un corps social)

からである。それゆえに、社会がありうるためには……

すべての市民の精神が、主要観念によって結集させられ

一体となっていなければならない。そしてこれは、市民

一人一人が時々自らの意見を同じ

―つ

の源泉から汲み取

り‘[彼ら各人にとっては]完全に既成である信仰を受

け入れることに同意しなければ、ありえないことである。

(Tocqueville 1840: 16 11

上二六)

人間は教条的信仰

(croyancesdogmatiques)

無しに

はいられず、そうした信仰を持つのは非常に望ましいこ

とでさえある……。そのようなあらゆる信仰の中でもっ

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とも望ましいものは、宗教に関する信仰であるように私

には思われる……。(ibid." 27 11

上四四)

この意味においてこそトクヴィルは、民主制国家における

市民的アソシアシオンの欠如に、文明の崩壊、野蛮への回帰

までをも見て取るのだ。

市民的アソシアシオンの全体が共同体であるというわけで

はない。貴族制ならぬ民主制社会の中ではそれは「組織」と

してはあえて創設されねばならない。この点ではそれは自然

発生ではない。しかしその創設が無いとなれば、その社会は

もはや社会の体を成しえないのだ。市民的アソシアシオンは

無から創設されるのではなく、その社会が根底に持つ信仰に

基づいており、いわば社会の社会性そのものであるところの

共通の信仰の

「現れ」なのだから。この意味でこそ、民主制

社会における市民的アソシアシオンの欠如は、社会の社会性

それ自体の欠如ないし崩壊であり、その地盤の上に政治的ア

ソシアシオンが打ち立てられうる基本的な共同性の欠如ない

し崩壊であり、したが

って人間性の欠如ないし崩壊を意味し

ているのである。

この論理を前提としていたからこそ、市民的アソシアシオ

ンを語るトクヴィルの念頭には、当人にとってはおそらく無

11

意識に、ごく自然

・当然に、宗教的・道徳的なアソシアシオ

ンが置かれていたように思われる。トクヴィル自身による市

民的アソシアシオンの具体例を振り返ってみれば、宗教や道

徳に関連したアソシアシオンばかり、とは言わないまでもそ

れらが大多数を占めていることに気付かれよう市民的ア

ソシアシオンのあのあまりにも幅広い定義から考えれば、ず

っと多種多様な具体例が挙げられてしかるべきにもかかわら

ず。か

くしてトクヴィルは主張する。

感情と思想があらたまり、

展するのは、

こる。

心が広がり、

人間精神が発

すべて人々相互の働きかけによってのみ起

このような行動は民主制諸国にはほとんど無い……。

、、、、、、、、、、、、、

そこではだからこれを人為的に創らねばばならない

(Il

faut done l'y creer artificiellement)。そして、これはアソ

シアシオンだけが為しうることである。(ibid.:115-116

一九ニー一九三)

さもなければ、民主的な政府は、社会の政治面においての

みならず、その下地である人々の感情や思想に対してさえも、

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トクヴィルにおける二つのアソシアシオン

、、、、、

ごく自然に暴政・圧政をおこなうことになるだろう。そして

人類はその根底から衰退してゆくだろう。

アソシアシオンとコミューン

では、このいささか混乱し、ある程度まで矛盾したように

も見える、市民的アソシアシオンのアンビバレントな規定

ーっまり、アソシアシオンとコミューンの混滑は、

体どこから来ているのだろう?

それは直接的には、アメリカ合衆国の、ヨーロッパ諸国に

比べて特殊な成立事情に由来するもののようだ。トクヴィル

は言う。

合衆国の住民は、今住む土地に昨日着いたばかりであ

り、過去の慣行

(usages)

や思い出を何一っそこに持ち

込んではいない。彼らはもともとお互いを知らず、その

地で初めて出会う。

一言で言えば、合衆国に祖国の本能

はほとんど存在しえない。(Tocqueville1835: 247 11

―――-)

つまり、

アメリカ社会に過去は存在しない。そこにアソシ

アシオンの基盤足るべきコミューンは存在しなかった。その

担い手が到着していなかったのだから当然である。そしてそ

こに移民した人々は、過去の慣行や思い出の

一切を持たない

いわば新しい人間であり、彼らは新しい社会関係を創り出す

しかない。つまりアソシアシオンを合意によって創出するし

かない。そこに「人の心を生地に結び付けるあの定義しがた

い感情、理屈抜き、損得抜きの感情に主要な源泉を持つ」

(ibid.: 245 11下――九)祖国愛

(amourde la patrie)

など、

「それ自体一種の宗教であり、理屈ではない」

(ibid.)祖国愛

のような情緒的な絆などあろうはずもない。しかし、実際ア

メリカ社会は活発であり、無論そのアソシアシオンもきわめ

て活発に活動している。にもかかわらず、そこにはアソシア

シオンを生み出すそもそもの地盤、コミューンが存在しない。

この葛藤を抱えているからこそトクヴィルは、前節でも垣

間見た通り、コミューンについて、以下のように論じるのだ。

私がまずコミューンを検討するのは偶然ではない。

コミューンとは、自然に根差した唯一のアソシアシオ

ンであり、人間が集まるところであればどこにでも自ず

から形成されるものである。

それゆえコミューン的な社会

(societecommunale)

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は慣行、法制を問わず、どんな人民にも存在する。王国

を創り共和国を建てるのは人間であるが、コミューンは

、、、、、、、、、、

神の手から直に生ずるように思わ

れる

(lacommune

parait sortir directement des mains de Dieu)。L

が“L45

がら、人間が生まれて以来コミュ

ーンは存在したとして

も、コミューンの自由は希有で壊れやすいものである。

一人民が大規模な政治集会を組織することはいつ

でもで

きる[政治的アソシアシオンのこと]o

といぅのも、人

民の中には普通、実務の経験は無くとも、その代わりに

なるだけの学識を持つ人がいくらかはいるものだからで

ある0

[これに対して]コミュ

ーンはしばしば、立法者

の働きかけにも耳を貸さぬ粗野な人々で構成されている。

コミュ

ーンの独立を確立することの難しさは、国民の知

識が開けるにつれて減ずるどころか、むしろ啓蒙ととも

に増大する。文明の著しく進んだ社会はコミューンの自

由の行使をなかなか許さない。多くの逸脱を見ると我慢

できず、実験の最終結果に至る前に成功に絶望してしま

・・

・・・

したが

って、

コミュ

ーン

の自由は人間の努力次第でで

きるというものではない。それが人間の手で創り出され

ることは滅多になく、いわばひとりでに生まれてくるの

である。それは半ば野蛮な社会の中でほとんど人知れず

成長する。(ibid.:58-59 11

上九六ー九七)

この通り、コミューンは単なる行政制度ではない。これま

でとりわけ政治学的研究では、トクヴィルのコミュ

ーン概念

はむしろ「タウンシップ(これはトクヴィル自身が選んだ訳

語でもある)」や「タウン」と訳され、上位区分である郡

(カウンティ)や州(ステイト)と同じ社会制度として扱わ

れてきた。確かにこの引用の後に続くニューイングランド諸

州を対象としたいわばトクヴィルによるケーススタディでは、

そのような側面が前面に出てはいる。しかしその前提として、

コミューンは決して人が創った「制度」であるとは捉えられ

ていない点、トクヴィルの言葉をそのまま用いれば「神の手

から直に生ずる」ものであると、「人間が集まるところであ

れば自ずから形成される」ものであると捉えられている点に

注目すべきだ。この点は既に見た政治的アソシアシオンとの

決定的な相違点であり、また市民的アソシアシオンのアンビ

バレントな意味内容を理解する上で重要な点だからだ。

さらにこれと関連して、コミューンが「(自然に根差した

唯一の)アソシアシオン」であるという奇妙な規定にも注目

せねばならない。というのも、アソシアシオンとは本質的に

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トクヴィルにおける二つのアソシアシオン

「自然に根差していない」「人為的にわざわざ作った」集団を

指す語なのだから。ここに市民的アソシアシオンのアンビバ

レンスが、そしてアメリカを記述し分析するトクヴィルの葛

藤がはっきりと現れている。これをどう解くべきか?

先に見た通りヨーロッパ諸国と違いアメリカは過去を持た

ないと捉えるトクヴィルは、「アメリカ人の大きな利点は

……平等になるのではなく、平等に生まれたことである」

(Tocqueville 1840: 108 11上

一八

0)と考えるトクヴィルは、

そのような、コミューンの存在しない新槻界アメリカにおい

て、しかし社会が成り立っていること、そこにはアソシアシ

オンが活発に活動する民主的な文明社会があることを確認し、

これを説明しようと努力した。

しかし、史実を顧みれば、そもそもアメリカに過去の慣行

や思い出が、コミューンが無かったとの理解が間違っている

ことは明らかだ。そのように捉えれば確かにアメリカ社会と

ヨーロッパ社会の違いを鮮明に描き出すことができる。しか

し、実際には一切の慣行や思い出を捨ててアメリカに移住し

たわけではないのだ。彼らの全員ではないにせよその主要な

部分は、とりわけ植民地アメリカを開拓しその社会の礎を築

いた初期の移民たちは、いわゆる清教徒であり宗教共同体を

既にヨーロッパで成していた。そして旧世界における迫害の

-』-

ノ‘

おわりにーコミ

ューンとしての社会科学

結果そのような共同体(コミュ

ーン)として移民してきたの

である。特にトクヴィルが主たる研究対象としたニューイン

グランド諸州の歴史はまさしくそうである。この意味で、ア

メリカのアソシアシオンにも土台となるコミューンは存在し

ていた。ただしそれはヨーロッパ大陸にあったのだ。

しかし、あくまでアメリカにおける民主主義の進展を

ヨー

ロッパの未来像と捉え、新世界が新世界たるゆえん、新世界

と旧世界の違いの明確化に力点を置いた

(両世界の共通性を

無視したわけではないが)トクヴィルは「アメリカのアソシ

アシオンの基盤としてのヨーロッパのコミューン」なる見方

は取らず、

一見コミューンを前提としない、しかしその実コ

ミュ

ーンとアソシアシオンの混清である市民的アソシアシオ

ン概念を生み出し、結果「自然に根差したアソシアシオン」

を、「自然発生的な集団を人為的に創り出す」ことを主張す

ることになったのである。

ではこのようなトクヴィルのアソシアシオン論はいかなる

意味を持つのだろうか。それは現代社会に対してとりわけ示

唆的であるように思われる。というのも、個人化が進み共同

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休が弱体化したとされる現代社会が、それでもなおかつ社会

であり続けるとしたら、そこに個人化に抗して共同性を(人

為的に)活性化するにはどうすれば良いのかを示してくれて

いるからである。換言すれば、今日アソシアシオンは、無か

らでないとすれば、

一体何を基盤に創設しうるのか?

『アメリカのデモクラシー』執籠時の若きトクヴィルにと

ってその答えは、アメリカ移民の宗教共同体を考えれば、さ

らには別所での我々の検討(菊谷

二00五‘―

100八)を

も踏まえれば、宗教的信仰、とりわけキリスト教でしかあり

えないだろう。

しかし、現代に生きる我々の多くにとって、この回答は、

直ちに首肯できるものではなかろう。たとえキリスト教が、

イスラム教や仏教に置き換えられても同じことだろう。つま

り、少なくとも狭義の、伝統的な、オーソライズされた宗教

は、現代では我々が求めるような広範な社会関係の基盤足り

えないということだ。

にもかかわらず、我々が現に群れではなく社会を成してい

るとすれば、そしてかつてトクヴィルがアメリカに見出した

民王制社会の困難が現代社会にも引き継がれているとすれば、

いやむしろそれが新たな形で深刻化しているとすれば、さら

にそこに「個人化に抗する」共同性を備えた新たな社会関係

、つ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

社会的次元において、我々各人に選択の余地無く与えられ

、、、、、、、、

ているものは何か?

トクヴィルの論に沿って考えるとすれば、宗教がアソシア

シオンの基盤、文明社会の基盤、すなわちコミューン足りう

るのは、それが各人の意志や合意や選択によらず、「神の手

から直に生ずる」ものであるから、つまり神によって各人に

「与えられている」からであるように思われる。それは人間

の社会的関係の所与であり、各人に先立っている。それ無く

しては、人間の社会関係はそもそもありえない。それは、各

人の意志によることなく「自然発生」し、各人に対して与え

られる。

これに対してアソシアシオンとはもちろん、人が各人の合

意によって創り生み出すものである。その発足・維持・解消、

加入・脱退などはすべて人による選択が可能である。

紙面が尽きようとしている今もはや詳論は別稿に譲らざる

をえないが、この点こそコミューンとアソシアシオンの決定

この問いは、

現代的に換言して次のように表現できるだろ

出されねばならないだろう。

我々は、一体何を信じているのか?

を打ち立てようとするならば、

問いは本質的に次のように提

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トクヴィルにおける二つのアソシアシオン

的な相違点であると考えられる。この観点から両者を定義す

れば、コミュ

ーンとは「各人に選択の余地無く与えられた人

間関係」のことであると言える。それは典型的には宗教共同

体であり、より日常的には家族である(この同質性ゆえに両

者はしばしばごく自然に重なり合う)。対してアソシアシオ

ンとは「各人が選択しうる人間関係」のことである。典型的

には、会社だ。ある特定の目的のために設立され、これに合

意した各人が契約に基づいてその

一員となり、同様にそこか

ら脱する。

トクヴィルの立論の本質をこのように捉える時、市民的ア

ソシアシオン概念のあのアンビバレンスは

一層明確に理解可

能なものとなる。民主制的新世界アメリカと貴族制的旧世界

ヨーロ

ッパをクリアカットに対比させたトクヴィル。彼は、

それに先立ついかなる社会関係も(理念的には)「与えられ

て」おらず、「人間精神が発展する人々相互の働きかけ」も

自然には存在せず、あらゆる社会関係を各人の合意によるア

ソシアシオンという形で

一から「創出」せざるをえなかった

はずのアメリカ社会を見出した。しかし同時に、合意によ

ていると考えざるをえないもののこれを離れては社会関係そ

のものがありえない、その限りで選択の余地無く与えられた

ものすなわちコミューンであると考えるしかない地盤をもま

1851:92 11

-―一五)

「社会

た見出した。そしてこの葛藤が「市民的アソシアシオン」と

いう窮余の、しかし魅力的な策を生み出したのだ。

最後に、以上のすべてを踏まえた上で再び問おう。今日

我々に与えられ、我々が信じ得、それに基づいて諸関係を構

築しうる碁盤とは何だろうか?

アメリカから帰国し、一八四八年二月革命を含む大きな社

会変動を幾度も経験し、ついには公的生活から身を引いた、

『回想録』(-八五

一)執箪時のトクヴィルの回答は、次のも

のかもしれない。

そこ

[11二月革命]ではただ単に

一党派の勝利が問題と

、、、、、、、

されたのではなか

った。―

つの社会科学

(unescience

、、、、、

sociale)

が、

一っの哲学

(unephilosophie)

が、つまり

、、、、、、

あらゆる人間を教え従わせることのできる一っの共同の

、、宗教

(unereligion commune)

とでも言いうるものを確

立することが、渇望されていたのだ

った。(Tocqueville

さて、これは現代でも妥当な回答なのだろうか?

科学」や「哲学」は今日、各人に「与えられたもの」として

―つのコミューン、一っの共同の宗教足りうるのだろうか?

27

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参考文献(ただし本稿本文中に引用した訳文は適宜変更し

(1)

など)。

(きくたに

一七頁。

かずひろ・和歌山大学経済学部教授

-|

逆に言えば、共に生きている実感が薄れゆく現代社会におい

(l)

て、「個人化に抗したい」のは、一体誰なのだろうか?

[付記]

本稿は、和歌山大学経済学部研修専念制度に基づく研究成

果の一部である。

H我々に社会節に「与えられているもの」は、この

ような広義の宗教性以外にも存在する。例えば家族共同

体。とりわけ親子関係を含んだそれは各人に選択の余地

無く与えられている。ただし、それはしばしば既に宗教

性を帯びていることも確かであろう(秘跡としての婚姻

た)菊谷和宏、二

00五『トクヴィルとデュルケームー社会学的人

間観と生の意味』、東信堂。

二00八「共に生きるという自山について(上・下)

ー生の社会学への展望:トクヴィル、デュルケーム、ベ

ルクソン」、『思想』第

一010号

・第一

01―号、岩波

書店、一_一五ー五五頁・一四八ー一八一頁。

Tocqueville, A. d

e, 18

35 De la democratie en Amei‘iqueI90tum、es

complぎstome I-1, Ga

llimard 11松本礼二訳

『アメリカの

デモクラシー』第

一巻(上

・下)、岩波書店(岩波文庫)、

二00五。

, 18

40 De la democratie en Ame, ‘iqueII90紀0

res comp{蕊es

tome Iー

2,

Gallimard 11松本礼二訳『アメリカのデモクラシ

ー』第二巻(上・下)、岩波書店(岩波文庫)、二

00八。

, 18

51 Souvenirs, CE

uvres completes tome XII, Ga

llimard 11吉晋

安朗訳『フランスニ月革命の日々

:トクヴィル回想録j

岩波書店(岩波文庫)、

一九八八゜

富永茂樹、一九七九「トクヴィルにおけるアソシアシオンの概

念」、

『ソシオロジ』第二三巻一二号、社会学研究会、

28