Title 日中国際結婚に関する一考察 : 業者婚する中国女 性の結婚 … · を経験した後に結婚移民を選択したという見解も出てきた(Nakamatsu2003)。
Harris and Tokaido (8) With Heusken’s Diary(Sir Oswald Ernald...
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ハリスと東海道(8)
―ヒュースケン日記とともに―
山 下 琢 巳*
Harris and Tokaido (8)
-With Heusken’s Diary-
Takumi YAMASHITA
はじめに
1857年11月23日(安政4年10月7日)、ハリスは、通商条約締結のために、下田柿崎の玉泉寺に置か
れていたアメリカ総領事館を出発して江戸に向かった。一行は、下田街道を通って、11月25日に三島
宿に到着、翌26日、東海道を下って、箱根峠を越えた。その日は、小田原で一泊、27日は、大磯で休
憩を取って、藤沢に宿泊した。28日は、神奈川で休息して、川崎に到着する。そして、ハリスは、江
戸を目前としたこの川崎宿で二夜を過ごす。ハリスが、川崎宿で迎えた翌日の11月29日は、キリスト
教徒にとっては休日である安息日(Sabbath)、それも降臨節における第一日曜日であった。ハリスは、
出府にあたって江戸入府の前日の安息日を川崎で迎えるという日取りを立て、それを幕府に承認させ
ていた。
前稿では、ハリスとヒュースケンが川崎の民間宿万年屋で迎えた日曜日の午後に訪れた川崎大師に
ついて、ふたりの日記をたどるとともに、他の西欧人による幕末期の川崎大師に関する記述を紹介し
た。この翌日、ふたりは、多摩川を渡って、江戸に向かう。この多摩川は、ハリスの川崎滞在の約3
年9ヶ月前の1854年3月14日(嘉永7年2月16日)に、ペリー艦隊の従軍牧師ビッチンガーの江戸行きを
阻んだ川であった。
本稿では、やや視点を変えて、多摩川の六郷の渡しを、幕末から明治にかけて幾度も往復した
A・B・ミットフォードの記録をたどる。なお、本稿では、この通称リーズデイル卿の遺産から知的
素地の形成において影響を受けた孫娘たち、すなわち20世紀に欧米で大きな話題を提供したミット
フォード6姉妹のことから起稿する。
�*�Takumi�YAMASHITA 日本伝統文化学科(Department�of�Japanese�Traditional�Culture)
東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・国際学部・応用心理学部― 第27号(2020)
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Ⅰ ジェシカ・ミットフォード
『ホンズと反逆者たち』
20世紀前半、欧米でその波瀾万丈な人生が話題となった6人の英国貴族の姉妹がいる。ナンシー
(Nancy�1904-1973)、パメラ(Pamela�1907-1994)、ダイアナ(Diana�1910-2003)、ユニティ(Unity�
1914-1948)、ジェシカ(Jessica�1917-1996)とデボラ(Deborah�1920-2014)のミットフォード家6姉妹
である1)。
長女ナンシーは、自叙伝的小説『愛の追跡』(The�Pursuit�of�Love,�1945)出版後ベストセラー作家に
なる。第二次大戦中にシャルル・ド・ゴール(Charles�André�Joseph�Pierre-Marie�de�Gaulle)の右腕と
言われた軍人ガストン・パレウスキー(Gaston�Palewski)に恋し、戦後、パリに移住、ヨーロッパ社
交界の華やかな世界を小説にする。生涯に小説を8作品、伝記を4作品執筆した。
次女パメラは、1936年、ケンブリッジ卒の原子物理学者デレク・ジャクソン(Derek�Jackson)と結
婚するも、離婚。イタリア人の女性馬術家ジュディッタ・トンマージ(Giuditta�Tommasi)と田舎で
余生を送る。
三女ダイアナは、1928年、ギネスビールの創業者一族である初代モイン男爵ウォルター・ギネス
(Walter�Edward�Guinness)の御曹司ブライアン・ギネス(Bryan�Walter�Guinness)と18歳で結婚。美男
美女の結婚として話題となる。しかしイギリスファシスト連合のリーダー、オズワルド・モズレー
(Sir�Oswald�Ernald�Mosley)と不倫関係となり、ブライアンと離婚。1936年、ふたりの結婚式はアド
ルフ・ヒトラー(Adolf�Hitler)を立会人に、ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph�Goebbels)の家で行われた。
第二次世界大戦中は、ファシズムにかかわる政治活動を理由に、イギリスで3年間拘留される。1950
年、パリの南東のオルセーにあるパッラーディオ建築の神殿風邸宅であるタンプル・ド・ラ・グロ
ワール(Temple�de�la�Gloire)に居を構え、作家活動にも従事する。自伝に『人生の光と影』(A�Life�
of�Contrasts ,�1977)がある。
四女ユニティは、1934年にミュンヘンへに留学。1935年2月9日、老舗レストラン「オステリア・バ
ヴァリア(Osteria�Bavaria)」で、ヒトラーのテーブルに招かれ、その後、ヒトラーの愛人と噂される
ようになる。1939年9月3日、ドイツがイギリスに宣戦布告をした日、ミュンヘン市内の英国庭園で
こめかみを撃って自殺を図る。ダイアナとユニティは、当時、女性としてヒトラーと対等に話すこ
とのできた希有な立場にあった。ヒトラーは、ふたりのことを「アリアン女性の完全な標本(perfect�
specimens�of�Aryan�womanhood)」と断言した。
五女ジェシカは、19歳の時、チャーチル(Winston�Churchill)の甥で、ジェシカからは又従兄弟に
あたるコミュニストのエズモンド・ロミリー(Esmond�Romilly)と内戦中のスペインに駆け落ちし結
婚、その後、夫婦でアメリカに渡る。カナダ空軍に入隊したエズモンドは第二次世界大戦中に消息不
明となる。ジェシカは、その後、1943年、アメリカ人公民権弁護士ロバート・トルーハフト(Robert�
Treuhaft)と再婚し、1944年にアメリカの市民権を取得する。
六女のデボラは、1941年、後に第11代デヴォンシャー公爵(11th�Duke�of�Devonshire)となるアン
ドリュー・キャヴェンディッシュ(Andrew�Cavendish)と結婚、16世紀建造のよき英国貴族の伝統を
保持するカントリー・ハウスで部屋数178のチャッツワース・ハウス(Chatsworth�House)の維持と改
ハリスと東海道(8)―ヒュースケン日記とともに―
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革に尽力した。なお、かつて岩倉使節団が、1872年10月30日に、このチャッツワース・ハウスを訪問
しており、使節団のひとり久米邦武はその邸宅の壮麗さと庭園のすばらしさに圧倒された2)。自伝に
『ザ・ハウス』(The�House,�1982)がある。
この6姉妹のうちの五女ジェシカ・ミットフォードは、1963年に刊行された『アメリカ式死に方』(The�
American�Way�of�Death,�Simon�&�Schuster)によってベストセラー作家となるが3)、処女作は、1960年
刊行の自らの半生を描いた『ホンズと反逆者たち』(日本訳では『令嬢ジェシカの反逆』)4)である。ホ
ンズとは、デッカ(ジェシカの愛称)とデボ(デボラの愛称)が子どもの頃に結成した秘密結社の名で、
もともとはヘンズ(henは雌鶏)と言った。ふたりは、1996年のデッカの死まで、お互いをヘンと呼び合っ
た。この書には、第一次世界大戦後の「狂騒の20年代」から「暗雲の30年代」、そして、第二次世界
大戦の開戦という動乱の時代に生き、貴族階級の少女が家庭の束縛から解放されて奔放な大人の女性
に成長していくという、いわばジェシカ自身の半生が描かれている。この小説は、戦争志願した夫エ
ズモンドが1941年11月、23歳の若さで戦死したという著者の象徴的な注によって終わっている。この
書は、刊行当時から好評をもって受け入れられたが、「ハリー・ポッター」シリーズの作者J・K・ロー
リング(J.�K.�Rowling)は、『ホンズと反逆者たち』を14歳の時に読んで、ジェシカの勇敢で理想に
燃える人物像に憧れを抱き、最も影響を受けた作家だとインタビューで答えている5)。
十四歳のときには、大好きな叔母から、ジェシカ・ミットフォードの才気あふれる自伝『令嬢
ジェシカの反逆』をもらった。ジョアンがその本に魅せられたのは、読み物としての面白さもも
ちろんだが、それが実在の人物が体験した真実の物語だったからだ。ジェシカ・ミットフォード
は多感な少女の心をつかみ、その後もジョアンの憧れの女性となるのだが、彼女が夢に向かって
歩いていく過程において、その影響は決して小さなものではなかった。「刺激を受けましたね。ジェ
シカが勇敢で理想に燃えた人物だったからです わたしが何よりも憧れるものです」
When�she�was�fourteen�her�great�aunt�gave�her�Hons�and�Rebels ,� the�witty�autobiography�of�Jessica�
Mitford.�Joanna�was�bewitched,�not�just�because�it�is�an�amusing�and�diverting�read�but�because�it�was�a�
true�story�of�a�real�person.�Jessica�Mitford�became�the�lifelong�heroine�of�the�impressionable�teenager�and,�
in�no�small�measure,�influenced�her�path�to�fulfillment:�‘I�found�her�inspiring�because�she�was�a�brave�and�
idealistic�person�-�the�qualities�I�most�admire.’
「ハリー・ポッター」シリーズは、全世界累計発行部数が、5億を突破しているといわれる。この現
在世界中で読者を獲得したシリーズを生み出したJ・K・ローリングが最も感銘を受けたのが、ジェ
シカ・ミットフォードの『ホンズと反逆者たち』であった。
身内の著作コレクション
1955年、38歳になったジェシカは、19年ぶりに母の家を訪れた。スコットランドのマル島(the�Isle�
of�Mull�in�Scotland)のインチ・ケネスにある母の家(The�house�on�Inch�Kenneth)は、3階(日本式では4階)
建ての質素な家屋とはいえ寝室10部屋、浴室4つを備え、母親のほかに料理人、女中、船頭、牛と山
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羊の世話人3人がいた。
中年に足を踏み入れたジェシカは、この家に残されていた家族の記念品を見て、過去の埋もれてい
た記憶を蘇らせる。それは、姉妹たちが子どもの頃に書いた詩や絵であり、また、母親のシドニーが
作成した家族に関する記事や写真を年代別に整理した何十冊にもおよぶ切り抜き帖、そして、書斎に
ある身内の著作コレクションであった。これらを通しての過去への追憶がジェシカの『ホンズと反逆
者たち』執筆のきっかけになったと、そのプロローグには記されている。
このうち書斎の様子は、次のように述べられる6)。
書斎には身内のものの著書ばかりならべた本棚がいくつかある。レデスデール卿の『回想録』
とは、私の祖父のいやになるほど厖大な自叙伝。『ある反逆者の著作集』とは、ザ・タイムズ紙
に載ったジョフ伯父の投書をまとめて印刷した私家版。エズモンド・ロミリー著『制限を越えて』
と『ボアディリャ』。サー・オズワルド・モズリーの著書二つ。姉ナンシーのかずかずの作品、
それも英語の原著と外国語の訳本とで一段いっぱいになっている棚の眺めはすばらしい。
There�are�shelves�of�family�books�in�the�drawing-room:�Memories �by�Lord�Redesdale,�Grandfather’s�
depressingly�huge�autobiography;�Writings�of�a�Rebel ,�a�privately�printed�volume�of�letters�to�The�Times�
by�Uncle�Geoff;�Esmond�Romilly’s�Out�of�Bounds�and�Boadilla ;�a�couple�of�books�by�Sir�Oswald�Mosley;�
an�impressive�shelf�of�Nancy’s�books,�both�in�English�and�in�translation.
ジェシカの目にまず留まった『回想録』(Memories ,�London,�Hutchinson�&�Co.)は、ジェシカの祖父リー
ズデイル卿が、晩年、執筆した自叙伝で、1915年、ロンドンで出版された。上下2巻で総頁数は816頁
に及ぶ。この『回想録』が、ジェシカの母シドニーの終の棲家となったインチ・ケネスの書斎の書架
に納められた経緯をたどると以下のようである。
ジェシカの父デイビッド・バートラム・フリーマン・ミットフォード(David�Bertram�Ogilvy�
Freeman-Mitford,�1878.3.13-1958.3.17)は、1916年8月に父リーズデイル男爵が死去し、第2代リーズデ
イル男爵位を継承する。継承権があり将来を嘱望された長男のクレメント(Clement)は、1915年、
第一次世界大戦で戦死していた。そして、1917年、デイビッド一家は、イングランド南西部グロスター
シャー(Gloucestershire)のバッツフォード(Batsford)にある父から相続したビクトリア朝ゴシック
様式の大邸宅(Batsford�House)に引っ越した。この屋敷の庭園には、オリエンタリズムの影響を受
けた広大な禅宗風の植物庭園(Batsford�Arboretum)があり、世界各地から集められた20種類以上の
竹が植えられていた。そして、その図書室は、初代リーズデイル卿が生涯をかけて世界各地から収集
した貴重書の宝庫であった。ここには、『回想録』とともに、後述する『ガーター勲章使節団日本訪
問記』や『日本の昔の物語』といったリーズデイル卿の著書も所蔵されていたと考えられる。
しかし、宏大な邸宅の維持が困難となり、初代リーズデイル卿が東洋から持ち帰った高価な骨董品、
そして大部分の蔵書とともに屋敷は1919年に売却される。
その後、一家は、オックスフォードシャー(Oxfordshire)コッツウォルズ(Cotswolds)のスウィン
ブルック(Swinbrook)近郊のアストル荘園(Asthall�Manor)にあったジェームズ一世朝風の切妻様
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式のマナー・ハウスを購入する。この邸宅には、納屋を改造した図書室があり、この図書室には、長
男で10歳のトムが選定したという選りすぐりの未売却蔵書がバッツフォードから運び込まれていた。
デッカは、後年、この図書室について次のように記している7)。
ひとつよかったのは、ほとんど無限に本を読む時間があったことだ。リーズデイルおじいさん
の蔵書のつまった図書室は、天国のような隠れ家だった。しかし、それ以外、楽しいことはまっ
たくなかった。
The�one�advantage�was�unlimited�time�to�read.�The�library�with�Grandfather�Redesdale’s�collection�was�
for�me�a�heavenly�escape�.�.�.�it�never�occurred�to�me�to�be�happy�with�my�lot.
1926年、アストルのマナー ・ハウスの反対側、スウィンブルックの町を見下ろす丘陵の上に、父デ
イビッドが立案し建築監督したスウィンブルック・ハウスが完成し、一家はそこに移り住む。石造り
の巨大な四角い3階建ての建物を見て、父デイビッドと末娘デボ以外の家族は、そのあまりの趣味の
悪さに茫然と青ざめ、長女のナンシーは何かの施設のように見えるこのスウィンブルック・ハウスを
スワインブルック(Swine-Brook�スワインは豚)と呼んだ。
そして、さらに、1936年、経済的な理由から一家はスウィンブルック・ハウスを売却し、ハイ・ウィ
コム(High�Wycombe)のオールド・ミル・コテージ(Old�Mill�Cottage)に移る。デッカとデボは、ミッ
トフォード家が経済的に落ちぶれていく様子を次のように歌った。
バッツフォードの「御殿」から、アストルの「お屋敷」へ、それからスウィンブルックの「お
うち」、そしてオールド・ミルの「小屋」
From�Batsford�Mansion,�to�Asthall�Manor ,�to�Swinbrook�House,�to�Old�Mill�Cottage.
インチ・ケネス・ハウス
その後、1939年に、ミットフォード夫婦は、引退後に住む家として、スウィンブルック・ハウス
を売却したおりの残金で、3階建ての質素な家と、コテージ、それに朽ちた教会のあるインチ・ケネ
ス島を購入する。しかし、この島の所有権を有していた長男のトムが、1945年3月24日、ビルマ戦線
で日本軍の機関銃の弾丸数発を被弾し、3月30日に死亡。敵国ドイツには好意を持ったが、その同盟
国日本を嫌悪したトムは、ヨーロッパ戦線を回避してアジア戦線に赴いていた。所有権は、スコット
ランドの法律に基づいて、トムの姉妹に移る。デッカのみが土地の6分の1を現金として受け取り、残
りの姉妹は全員一致で母シドニーが島を終身借用することに同意した。1963年5月25日、シドニーは、
83歳の誕生日を迎えてまもなく、インチ・ケネス島でこの世を去る。島は1966年に売却されるが、イ
ンチ・ケネス・ハウスは現在もなお存在する8)。
デッカは、インチ・ケネス・ハウスで目にとまった祖父リーズデイル卿の『回想録』について、『ホ
ンズと反逆者』において、プロローグのほかに、第3章でふたたび触れている。
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ナンシーが『高地の踊り』を本名で出版するといい張った時には、ちょっとした騒動がぱっと
燃えあがったけれど、両親も伯父伯母のだれかれさえもが実際は一族のうちに作家が出たことを
ひどく自慢に思っている様子が、はっきりして来た。みな、ずっと昔のミス・ミットフォード
つまりあの『クランフォード』の文体を真似て小説を書いた二流のヴィクトリア朝の作家メア
リー・ミットフォードを持ち出して来て、そういう素質はよく一世代とばしてから現れるものだ
といった。身内のものはレデスデール卿の『回想録』つまり祖父の恐ろしいほど退屈きわまる二
巻の自叙伝のことを指しているのであった。
In�spite�of�the�brief�row�that�flared�when�Nancy�insisted�on�publishing�Highland�Fling�under�her�own�
name,� it�became�evident� that�my�parents,�and�even�the�uncles�and�aunts,�were�actually�quite�proud�of�
having�an�author�in�the�family.�They�cited�an�earlier�Miss�Mitford�―�Mary�Mitford,�author�of�minor�Victorian�
novel�after�the�style�of�Cranford.�They�remarked�that�such�talent�often�skips�a�generation,�and�pointed�to�
Memories ,�by�Lord�Redesdale,�Grandfather’s�monstrously�boring�two-volume�history�of�his�life.
『ハイランド・フリング』(邦訳『高原の情事』また『高地の踊り』Highland�Fling�London:�Thornton�
Butterworth,�1931)は、長女ナンシーの処女作。この長編小説では、ナンシーの友人、知人、家族と
おぼしき様々な登場人物が、スコットランドのハウス・パーティに出席し、混乱状態を生みだして
いく。『クランフォード』(Cranford,�1851-1853)は、イギリスの女流作家エリザベス・ギャスケル
(Elizabeth�Cleghorn�Gaskell,�1810.9.29-1865.11.12)の中編小説9)。ギャスケルの故郷ナッツフォード
をモデルにした架空の町クランフォードを舞台に、この田舎町に生きる人びとの日常が描かれる。
メアリー・ミットフォードは、ヴィクトリア朝の女流作家メアリー・ラッセル・ミットフォード
(Mary�Russell�Mitford�,�1787.12.16-1855.1.10)のことか?彼女が住んでいた村の人々の生活をユーモ
アとウィットを交えて描いたシリーズ物『われらの村』(Our�Village,�Volume1,�1824;�Volume2,�1826;�
Volume3,�1828;�Volume4,�1830;�Volume5,�1832)で有名。ただし、このふたりの女流作家は、活動時期
に関してデッカの記述と時間的に齟齬し、このあたりの文意が不明確なものとなっている。
ミットフォード家の一族は、ナンシーの文才は、『回想録』などを執筆した祖父リーズデイル卿の
素質を受け継いだものとみなした。そして、祖父の『回想録』は、恐ろしく退屈な書であったにもか
かわらず、バッツフォードの図書室から、数度の引っ越しを経て、母の終の棲家となったインチ・ケ
ネス・ハウスの書斎の書架まで恙なく移され、19年ぶりに本国を訪ねたデッカの目に留まった。あた
かもミットフォード家の守護神であるかのように。6姉妹のうち4姉妹が自伝を著し、執筆活動に携
わった。
Ⅱ A・B・ミットフォード
ガーター勲章
1902年に日英同盟が締結。日本は、英国の支援を受けて日露戦争(1904.2.8-1905.9.5)に勝利する。
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これを受けて、日本と蜜月関係にあった英国は、ガーター勲章の明治天皇への捧呈を決定する。1906
年(明治39年)2月19日、ガーター勲章を携えたコンノート公アーサー殿下(Prince�Arthur,�1st�Duke�
of�Connaught�and�Strathearn)を乗せた英国海軍の巡洋艦ダイアデム号(Diadem)が、横浜に入港した。
ガーター勲章(Order�of�the�Garter)は、1348年にエドワード3世によって創始されたイングランドの
最高勲章で、アジアにおいては、明治天皇に初めて授与された。
使節団は、日本に約1ヶ月間滞在し、ガーター勲章捧呈の後、日本の軍事基地、また、明治維新
の功労者に関係する地方を訪れ、3月16日、カナディアン・パシフィック・ラインの郵船(Canadian�
Pacific�mail-steamer)エンプレス・オブ・ジャパン号(Empress�of�Japan)に乗って横浜を離れた。こ
の使節団の首席随員が、6姉妹の祖父にあたるリーズデイル卿その人であった。
初代リーズデイル男爵(1st�Baron�Redesdale)、本名はアルジャーノン・バートラム・フリーマン・ミッ
トフォード(Algernon�Bertram�Freeman-Mitford)。1837年2月24日、ロンドンで生まれる。父はヘンリー・
リブレー・ミットフォード(Henry�Reveley�Mitford,�1804-1883)、母はアッシュバーナム伯爵(3rd�Earl�
of�Ashburnham)の娘ジョージアナ(Georgiana)。
1840年、3歳の時に父母とともに大陸に渡り、まずフランクフルト・アム・マイン(Frankfurt�am�
Main)で暮らす。そして、1842年から1846年、5歳から9歳まではパリとトルーヴィル(Trouville)で
過ごす。ミットフォードは、ここで幼くしてフランス語の素養を身につけた。1846年、男子全寮制で
英国一の名門校とされるイートン・カレッジ(Eton�College)に入学、さらに、1855年、オックスフォー
ド大学の最大かつ裕福なカレッジであるクライスト・チャーチ校(Christ�Church,�Oxford)に進学す
る。1858年に外務省に入省し、サンクトペテルブルク英国大使館の三等書記官に任命される。その後、
1865年に北京の公使館に勤務し、中国語の習得に励む。しかし、清国駐在公使ラザフォード・オール
コック(Sir�Rutherford�Alcock)の義理の娘であるエイミー・ラウダー(Amy�Lowder)と恋愛関係となっ
たため、オールコックがこれを引き離すため、1866年、29歳の時に日本に転勤することとなった。
1874年、ミットフォードはエアリー伯爵(David�Ogilvy,�10th�Earl�of�Airlie,�1826.5.4-1881.9.25)の三
女クレメンティナ・ガートルード・ヘレン(Clementina�Gertrude�Helen,�1854-1932)と結婚し、以降、
五男四女をもうける。1886年、従兄弟のリーズデイル伯爵ジョン・フリーマン・ミットフォード(John�
Freeman-Mitford,�1st�Earl�of�Redesdale)の死により、その遺産とフリーマンの名前を受け継ぎ、また、
後年、デッカの父デイビッドが引き継ぐこととなるバッツフォードの屋敷を相続した10)。
ミットフォードは、公式には2度、日本に滞在している。1度目は、1866年10月16日(慶応3年10月20日)
から1870年1月1日(明治3年2月1日)の3年余、2度目は、1906年(明治39年)の2月19日から3月16日
の1ヶ月間である。最初の日本滞在については、『回想録』の第18章から第26章に記される11)。また、
後者の滞在については、日記形式で記録を残している12)。
『ガーター勲章使節団日本訪問記』
ミットフォードは、ガーター勲章使節団の首席随員として日本に滞在したおりの記録をThe�Garter�
Mission�to�Japan,�London,�Macmillan�and�Co.,�1906として出版する。この書は、日記形式で、その日の
出来事を妻のクレメンティナに報告するという形式を取っており、献辞と前書きには次のようにある。
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私がしたためた日記の宛先である、私の妻へ、このささやかな本を贈る(献辞)。
TO�MY�WIFE�/�FOR�WHOM�MY�JOURNAL�WAS�KEPT�/�I�DEDICATE�THIS�LITTLE�BOOK
この小著の形式について、元来、これは家へ送るために書かれた日記体の手紙を編纂したもの
であることをお断りしておかねばならない。文中の所々に「お前」とあるのはそのためである(前
書き)。
As�regards�the�form�which�this�little�book�takes,�I�may�point�out�that�it�consists�of�journal�letters�written�
primarily�for�home�consumption.�This�will�account�for�the�use�here�and�there�of�the�pronoun�“you.”
この書の眼目は、皇居でのガーター勲章捧呈式と明治天皇のご答礼、さらにその夜に行われた宮中
晩餐会の様子を記した第2章と次章に記される徳川慶喜との再会である。しかし、横須賀軍港、佐世
保軍港、江田島海軍兵学校などの軍事施設の見学、京都での亡き中井弘蔵と木戸孝允の墓参、鹿児島
での西郷隆盛の墓所参拝、京都、奈良の古都見物、さらに名古屋城の見物、そして、滞在の最後に詣
でた海晏寺の岩倉具視と寺島宗則の墓のことなどがほぼ同一の紙面を割いて記される。
ミットフォードにとって今回の日本滞在の目的は、維新後の日本の近代化の進捗状況を見極めると
ともに、古き良き日本の伝統文化の継承の確認、そして、若き頃、交わりを持って、今は鬼門に入っ
た人々の跡を弔うことであった。
イギリス本国で発刊後の翌年にあたる明治40年に、この書は、水田栄雄訳によって『大英貴賓之日
本観』(博文館、1907)と題して刊行される13)。水田栄雄(1869-1958)は、南陽外史の名で主にフラ
ンスの探偵小説を翻訳、また、シャーロック・ホームズ・シリーズを初めて翻訳したことでも知られ
る。1896年から1899年の間、英国に滞在、帰国後、『大英国漫遊実記』(博文館、1900)を著す。
『大英貴賓之日本観』には、時の内閣総理大臣西園寺公望、黒木為楨陸軍大将、東郷平八郎海軍大
将といった国家の権力者が書を寄せている。そして、この年、政界を引退し、早稲田大学総長になっ
ていた大隈重信は、この書の序文でその特質を次のように述べている。
昨年吾邦に御来朝相成ったコンノート殿下御一行の中に、四十余年前吾邦に派遣せられて外交
の要衝に当り、親しく吾邦封建制度の状態と、是れが政治上社会上の変遷を見且つ学んで、日英
同盟の今日あるに力を致した一名士、リーズデール卿も加はつて居られて、ガアタア使命を果た
し本国に帰朝の後、一書を著はして、親しく今昔の感懐と新旧日本の比較研究を説示して、日本
今日の進歩発達ある所以を発揮せられた。
幕末から明治極初期の激動期に日本に滞在したミットフォードは、それから約40年後に再び日本を
訪れて激変した社会に遭遇する。大隈は、この書には、近代人の象徴ともいえる英国エリートが見た
旧幕藩体制下の日本と明治維新後の日本が比較対象とされており、その間における政治また社会の進
歩発展が明確に述べられているとする。そして、続けて、この書には、今後の日本の発展のための示
ハリスと東海道(8)―ヒュースケン日記とともに―
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唆が含まれているとする。
宇宙の真理は、或一部人種の専有に非ず、社会万般の発明も、模做的より此揩段に進むとせば、
吾日本は今や漸やく国際的競争上、劣者より優者の地位に進んで、外に於ける今日の国際的地位
は、世界のグレート、パワアと伍する迄に進んで居るが、自ら内に顧みて国民の智識、道徳、実
業、風俗の改善す可きもの、亦鮮しと為ない。
Ⅲ 六郷の渡し
六郷川橋梁
1906年2月19日早暁、ガーター勲章使節団を乗せたダイアデム号が、礼砲とゴッド・セイヴ・ザ・
キングが演奏されるなか横浜港に入港、まず、接待役の政府高官とともに接伴員の黒木為楨陸軍大将
と東郷平八郎海軍大将が乗船、波止場での大勢の西洋人の出迎えを受け、一行は上陸した。その後、
一行は停車場近くの横浜御用邸(伊勢山離宮、1875年完成)に馬車で移動し、休憩の後、汽車で新橋
まで移動した。ミットフォードが記した車中からの景観と感慨を、現代語訳である長岡訳、漢語調を
残す明治訳の水田訳、そして、原文で示すと次のようである。
東京へ出発するまで約四十五分の待ち時間があったので、その間に出迎えの日本の高官たちと、
よい近づきになることができた。汽車に乗ってから約四十分で東京へ着いた。京都から東京へ通
じる大きな道路として有名な古い東海道沿いに、弁天の神社を過ぎ、神奈川を過ぎ、大名行列や
路傍の茶屋に影を落としている古い松並木を過ぎて、昔、我々が渡し舟に馬を乗せて川を渡った
川崎で、橋を渡り、昔は危険の多かった品川の近郊を通り過ぎた。そこはエディンバラの町の古
い路地と同じように、藩同士の争いや個人的な復讐が行われた場所であるが、今や極めて落ち着
いた品のある町となっている。さらに昔、公使館がすぐ下にあった泉岳寺を過ぎ、門良院の小さ
な古い寺を過ぎた。その寺こそ公使館が最初に江戸に戻った時、私が三十九年前に住んでいた場
所であった。昔のいろいろな記憶が、ある時は悲しく、ある時は楽しく、私の心に浮かび上がっ
てきた。あの頃、私と苦楽をともにした友人たちで、今残っている者は本当にわずかしかいない。
約四十分時の列車の走行は、一行を首府に誘ふて、弁天の祠、神奈川を過ぎ、川崎の橋を越へ、
品川と泉岳寺の古寺を過ぎ、余が三十九年前に起臥した、門寮院の旧寺院を過ぎた。或は悲しく
或は喜ばしい懐旧の記憶が、余の胸臆に蔟がり起つた。我等の艱苦と我等の快楽を共にした人々
で、猶今日に生存して居は幾人であろう!
Before�we�started�for�Tokyo�we�had�about�three-quarters�of�an�hour�to�wait,�which�we�spent�in�making�
better�acquaintance�with�our�Japanese�hosts,�and�then�a�run�of�about�forty�minutes�took�us�to�the�capital.�
Skirting� the�famous�old�Tokaido,� the�great� road�which� leads�from�Kyoto� to�Tokyo;�past� the�shrine�of�
東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・国際学部・応用心理学部― 第27号(2020)
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Benten;�past�Kanagawa;�past� the�old�cryptomerias�which�shaded�the�Daimyo’s�processions�and�wayside�
tea-houses;�over� the�bridge�at�Kawasaki�where�we�and�our�horses�used� to�be�ferried�across� the�river;�
through�the�wicked�suburb�of�Shinagawa,�where,�as�in�the�wynds�of�the�old�town�of�Edinburgh,�the�broils�
of�the�clans�and�the�vendettas�of�individuals�used�to�take�place,�now�grown�intensely�staid�and�respectable;�
past�the�old�temple�of�Sengakuji,�under�which�the�Legation�building�used�to�be;�past�the�little�old�temple�
of�Monriyo-in,�where�I� lived� thirty-nine�years�ago,�when�first� the�Legation�went�back� to�Yedo!�What�
memories,�some�sad,�some�gay,�crowded�upon�my�mind!�Of�those�who�shared�our�difficulties�and�our�
pleasures�how�few�are�left!
1872年(明治5年)9月、新橋―横浜間に鉄道が開通する。横浜―江戸間の鉄道施設の要望は、すで
に幕末から外交官や横浜居留地在住の外国人から出ており、1867年(慶応3年)にはアメリカが鉄道
建設の免許書を江戸幕府から得ていた。しかし、1869年(明治2年)、明治政府は、英国公使ハリー・パー
クス(Sir�Harry�Smith�Parkes)の進言を入れて日本独自で鉄道を施設することを決定、翌年から施設
工事が始まった。鉄道掛の監督上野景範は、お雇い外国人の建築師長のエドモンド・モレル(Edmund�
Morel)とともに工事を監督し、建築副役ジョン・ダイアック(John�Diack)、ジョン・イングランド(John�
England)、チャールズ・シェパード(Charles�Shepherd)らが直接工事の指導にあたった14)。
そして、区間中最大の橋梁である六郷川鉄道橋が完成したのは、全線開通の1年前の1871年(明治4
年)10月。本橋と避溢橋を合わせた全長は約343間(623.6㍍)、本橋部63間(114.5㍍)には、ヒノキ
製ラチス形横桁7連が架設され、橋脚も木製、橋台は石製で、橋上は板張りでその上に道床を設けた。
この鉄道橋は、木製であったため、腐食や水害での破損が著しく、1877年(明治10年)11月、鉄橋
へと改築された。新橋は、旧橋よりやや川上に架けられ、橋脚は、石およびコンクリートを基礎とし
た煉瓦積み、本橋部(182.6㍍)に鋳鉄製ワーレントラス桁6連が架設された。軌条は、縦枕木の上に
敷設された。鉄桁を設計したのは、建築師長雇R・V・ボイル(R.V.Boyle)で、1875年に英国ハミル
トンズ・ウィンザー・アイアンワークス社(Hamilton’s�Windsor�Ironworks)で製作されたものが輸入
された。工事の総監督は、ボイル(Boyle)で、架橋担当技術者は、T・シャン(T.�Shann)であった
15)。ミットフォードがガーター勲章使節団の一員として渡ったのは、この鉄橋であった。機関車はも
ちろんすべて英国製で、ミットフォードの感慨もひとしおであったと思われる。
高輪泉岳寺
1906年2月25日日曜日、ミットフォードは、駐日英国大使のサー・クロード・マクドナルド(Sir�
Claude�MacDonald)と、列車で通り過ぎた泉岳寺に向かった。泉岳寺から少し離れた場所にある門良
院はかつてミットフォードが暮らしていた小寺であった。しかし、その門良院は本堂と墓地を残すの
みで、ミットフォードが住居とした建物はどこにも見当たらなかった。加えて、その寺の敷地は、江
戸はずれでは最も美しい場所のひとつであったが、40年後の姿は、見るも無惨なほど荒れ果てていた。
思い出深い門良院訪問は、ミットフォードの日本再訪の楽しみのひとつであったが、期待を裏切られ
たミットフォードは、憂鬱な気分のままそこを離れた。ミットフォードは、近代化が日本にもたらし
た負の部分を目の当たりにすることとなった。ちなみに、この部分は、水田栄雄訳『大英貴賓之日本
ハリスと東海道(8)―ヒュースケン日記とともに―
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観』では、明治への否定的評価を記したものとして意識的に省略されている。近代化の代償として古
きよき日本が失われていくこととなる。
泉岳寺の大きな正門からほんの少し離れた所に、門良院という小さなお寺があるが、その寺は
江戸湾を見下ろす丘の上に建っていて、私がずっと昔に住んでいた場所である。その当時、そこ
は大きな江戸の町はずれでは最も美しい場所の一つで、建物も日本芸術の粋を凝らした優美な建
物であった。しかし、今やすべてが荒れ果てていた。お寺の本堂と墓地はそのまま残っていたが、
付属して建っていた私の住居のあった場所は昔の面影もない無残な姿と化していた。手入れがよ
く奇麗だった庭は全部壊されていた。寺の敷き地は売られたのか、あるいは貸したのか、昔は花
が咲き、木が茂って、華やかだった庭には一面に小さな店が建ち並び、野菜や乾魚や、塩漬けの
魚や、安いお茶やお菓子など、近所の貧しい人々のための粗末な日用品が並べてあった。むさく
るしいその付近を見回しても、昔、私が住んでいた家は全く目に入らなかった。それは気の滅入
るような光景だった。すっかり憂欝な気持ちになって、私はそこを離れた。
Not�a�stone’s�throw�from�the�great�portal�of�Sengakuji�is�Monriyoin,�a�little�temple�standing�on�a�hillock�
overlooking�the�Bay�of�Yedo,�where�I� lived�so�many�years�ago.�At�that� time�it�was�one�of� the�prettiest�
spots�in�all�the�suburbs�of�the�great�city,�and�the�house�was�as�dainty�as�Japanese�art�could�make�it.�Now�
it�has�all�gone�to�rack�and�ruin.�The�sacred�building�and�the�graveyard�are�still� there,�but� the�dwelling-
house�attached�to�the�temple�is�a�mere�wreck�of�its�former�self.�The�garden,�so�trim�and�so�pretty,�is�all�
destroyed.�The�temple�grounds�have�been�sold�or�let,�and�the�place�once�so�gay�with�flowering�shrubs�and�
trees�is�smothered�with�small�shops,�where�vegetables,�dried�and�salted�fish,�cheap�tea�and�cakes,�and�all�
the�humblest�necessaries�of�a�poor�neighbourhood�are�set�out.�In�the�squalor�of�these�surroundings�I�could�
not�recognise�my�former�home;�it�was�a�depressing�sight,�from�which,�in�melancholy�mood,�I�turned�away.
ミットフォードが北京勤務を解かれて、横浜に到着したのは、1866年(慶応2年)10月3日、横浜に
置かれた公使館で、日本での生活に馴染み始めた11月26日に、横浜大火に見舞われ、英国は、公使館
を高輪接遇所に移転する。高輪東禅寺に置かれていた初代英国公使館への度々の尊皇攘夷浪士の襲撃、
また、御殿山に建設中であった公使館の井上聞多(後の馨)、伊藤俊介(後の博文)などによる焼き
討ちによって、英国公使ラザフォード・オールコック(Sir�Rutherford�Alcock)は、公使館を横浜に移
していた。しかし、新たに公使に赴任したハリー・パークスは、公使館は江戸にあるべきだとの信念
から、泉岳寺前を公使館地所に利用したいと老中水野忠精に申し出ていた。
1916年(大正5年)8月17日、ミットフォードは、バッツフォード・ハウスで79歳で亡くなる。その
報に接した日のアーネスト・サトウ(Ernest�Satow)の日記には、次のように記されている16)。7月23日に、
バッツフォード・ハウスで、昼食をともにしたのが、今生の別れとなった。
8月17日晴れて暖か 散歩から帰ると、リーズデイル夫人の電報が届いていた。「主人は今朝安
らかに息を引き取りました」と。さっそく悔みの電報を夫人に送った。われわれがはじめて日本
東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・国際学部・応用心理学部― 第27号(2020)
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で会ったのは、1866年の秋、リーズデイルが当時横浜に在ったイギリス公使館の一員になったと
きである。それ以来、われわれはずっと親しい友人であった。わたしはかれの日本語の勉強の手
助けをするため、初歩的な日本語の例文を書き、これを『会話篇』と名付けて印刷させた。かれ
は日本語を学びはじめたとき、すでに相当の数の漢字を知っていた。やがてパークス公使が公使
館を江戸に移してからは、丁度公使館の門前に在って、泉岳寺とも向き合っていた門良院という
小さな寺を二人で借り、勤勉と放縦とが入り交った生活、つまり、よく働き、よく遊ぶといった
生活を共にした。われわれは数多くの冒険を共有したが、そのことは昨年かれが刊行した『回想
録』に述べられている通りである。かれは1837年2月の生まれだから、わたしよりも約6歳年長で
ある。わたしはかれのバッツフォードの古い家にも、それを後にかれが建て直した新しい家にも、
よく泊りにいったものである。最後に会ったのは、この7月23日、昼食を共にしたときだが、あ
のときは非常に元気そうに見えたのだが。
Aug�17�Fine�day�and�warm.� On�returning�I�found�this�telegram�from�Lady�Redesdale:�“My�husband�
died�most�peacefully�this�morning.”�I�sent�her�a�telegram�in�reply.�Redesdale�and�I�first�met�in�Japan�in�the�
autumn�of�1866,�when�he�joined�our�Legation�at�Yokohama,�and�have�been�fast�friends�ever�since.�I�wrote�
the�sentences�afterwards�printed�as�the�Kuai�wa�Hen�for�him�to�learn�Japanese�by.�He�already�knew�a�great�
deal�of�Chinese.�After�Parkes�moved�the�Legation�to�Yedo�we�lived�together�studiously�and�riotously�at�the�
little�temple�of�Monrio-In�just�outside�the�Legation�gates,�in�front�of�Sengakuji.�We�had�many�adventures�
together,�as�he�has�related�in�his�“Memories”�published�last�year.�He�was�born�in�Feb.�1837,�so�more�than�
six�years�my�senior.�I�often�stayed�with�him�at�Batsford�[Moreton-in-Marsh,�Glos.],�in�the�old�house�as�well�
as�the�fine�new�one�he�built.�The�last�time�I�saw�him�was�July�23�when�I�lunched�with�him.�He�was�then�in�
excellent�health.
ミットフォードは、29歳で英国公使館の外交部門(Diplomatic�Service)所属の二等書記官、サトウ
は、23歳で領事部門(Consular�Service)所属の通訳官、ミットフォードの役職のほうが高かった。ま
た、サトウは大陸からの移住者の父を持ち、新興のロンドン・ユニヴァーシティ・カレッジの出であっ
た。しかし、気の合ったふたりは、泉岳寺近くの門良院で共同生活を始めた。そして、ここでの生活
は、ふたりにとって生涯忘れられないものとなった。
ミットフォードは、日本から帰国した直後の1871年に『昔の日本の物語』(Tales�of�Old�Japan,�
London,�Macmillan)を出版し、赤穂浪士の物語を西洋に初めて紹介する。そのきっかけとなったのが
門良院での生活であった。
『回想録』のなかには、サトウとの門良院での生活が記録されているが、そのなかの一部を以下
にあげる。ミットフォードとサトウの食事は、毎回、料理屋から取り寄せた日本食であった。それ
は経費を切り詰めるためだったという。サトウの『一外交官の見た明治維新』(A�Diplomat�in�Japan,
1921)によれば、料理屋は、門良院の近くにあり江戸湾を見渡せた高級料亭の万清楼であったとされ
るが、西欧人にとって毎食日本料理というのはどんなものであったろうか17)。なお、当時、ミットフォー
ドの年俸は400ポンド、サトウの年俸は500ポンドであった(1ポンド≒2.5両)18)。
ハリスと東海道(8)―ヒュースケン日記とともに―
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我々はできるだけ倹約して、ささやかな家計を切り詰めた。料理人を雇う費用と、台所道具や
ナイフやフォークを整える必要を節約して、日本の料理屋から食事を持ってこさせることにした。
米の飯と魚でも十分だったが、時々、鶏肉や鴨の料理を追加することもあった。しかし、荒天が
続いて漁師が海へ出られなかった日には、料理屋の主人が大いに詫びを言いながら、竹の子と海
草の夕食を運んで来た。まさに徹底した精進日であった。
その頃からサトウと私は、二人でよく連れ立って出掛けたものである。私は名目的には上職者
であったので、我々の行動の報告書を自分で作成しなければならなかったが、はっきり言ってお
きたいのは、私が記録し報告した仕事の立案責任者は、すべて彼であったということである。あ
の重大な危機に臨んで、彼の果たした業績は最大の賛辞に値するもので、このことは深く銘記さ
れるべき事柄である。
We�mounted�out�little�ménage�very�frugally.�In�order�to�save�the�expense�of�a�cook,�a�batterie�de�cuisine,�
knives�and�forks,�etc.,�we�got�our�dinner�sent�in�from�a�Japanese�cookshop;�with�rice�and�fish�we�did�well�
enough�―�adding�now�and�then�a�little�dish�of�chicken�or�duck.�But�there�came�a�day�when�the�weather,�
having�been�too�bad�for�the�fishermen�to�go�out,�our�restaurateur�with�many�apologies�sent�us�a�dinner�of�
bamboo�shoots�and�sea-weed.�That�was�a�jour�maigre �with�a�vengeance.
From�that�time�forth�it�will�be�seen�that�Satow�and�I�hunted�very�much�in�couples.�I�was�nominally�the�
senior�and�had�to�draw�up�the�reports�of�our�proceedings,�but�I�may�say�once�for�all�that�his�was�the�brain�
which�was�responsible�for�the�work�which�I�recorded.�It� is�difficult�to�exaggerate�the�services�which�he�
rendered�in�very�critical�times,�and�it�is�right�that�this�should�not�be�forgotten.
船渡し
1857年11月30日月曜日、ハリスとヒュースケンは、六郷川を渡った。鉄道は未だ敷かれておらず、
橋も架けられていなかった。左内橋といわれる仮木橋が竣工するのは、六郷川鉄道橋より遅い1874年
(明治7年)1月であった19)。ふたりは小舟に乗って六郷川を渡った20)。
ハ 私は午前八時少し前に川崎を立った。六郷川を渡舟でわたった。この川は今の季節に拘らず、
広くて、深かった。
Ha I�left�Kawasaki�a�little�before�eight�A.M.,�and�was�ferried�over�the�River�Logo,�which�even�now�is�both�
broad�and�deep.
ヒ 早朝出発。万年屋は川崎の関所に近い。関所から出るとすぐ小舟に乗って、ロゴ川を渡る。ちょっ
と乗っただけですぐオワリに着き、梅園で休憩。
He We�depart�early�this�morning.�The�Mannenya�is�quite�near�the�barrier�of�Kawasaki.�A�few�steps�from�the�
barrier�we�embark�on�small�boats�to�cross�the�Logo�River.�After�a�short�ride�we�reach�Owari�where�we�rest�
東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・国際学部・応用心理学部― 第27号(2020)
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in�a�plum-tree�garden.
【注】
1)ミットフォード家6姉妹については、ダイアナの息子ジョナサンとその娘のキャサリン・ギネス
が著したThe�House�of�Mitford,�Jonathan�Guinness�&�Catherine�Guinness,�Hutchinson,�1984.�また、The�
Sisters:�The�Saga�of�the�Mitford�Family,�Mary�S.�Lovell,�W�W�Norton�&�Co�Inc,�2002.�参照。また、以
下、ミットフォード家に関しても、この2書を適宜参照した。なお、後者には、日本語訳として、
『ミットフォード家の娘たち―英国貴族美しき六姉妹の物語』(粟野真紀子、大城光子訳、講談社、
2005)がある。
2)��The�Iwakura�Mission�to�America�and�Europe:A�New�Assessment ,�Ian�Nish,�Japan�Library,�1998
3)デイビッド・ボウイ(David�Bowie)は、この書をお気に入り100選の一冊としている。“From�
Homer�to�Orwell:�David�Bowie’s�100�favourite�books�revealed”.�The�Independent�(London)�2013.10.1
4)��Hons�and�Rebels ,�Victor�Gollancz�Ltd,�1960. 日本語訳として、『令嬢ジェシカの反逆』(南井慶二訳、
朝日新聞社、1966)がある。
5)��J.K.�Rowling,�Sean�Smith,�CB�Creative�Books,�1999.�日本語訳に、『J.K.ローリングその魔法と真実―
ハリー・ポッター誕生の光と影』(鈴木彩織訳、メディアファクトリー、2001)がある。
6)本文は、注4に拠る。以下同じ。
7)��Ohio�State�University/812,�unpublished�MS.�オハイオ州立大学所蔵未発表原稿。
8)��https://www.rossofmullbunkrooms.co.uk/bunkrooms-news/the-island-of-inch-kenneth/ ここでは、この
家のキャプションが、mitford�mansion�house�inch�kenneth�isle�of�mull�となっている。��
9)日本語訳に『女だけの町―クランフォード』(小池滋訳、岩波文庫、1986)がある。
10)��A・B・ミットフォードについては、『A・B・ミットフォード』(大西俊男、近代文藝社、1993)参照。
11)日本語訳に『英国外交官の見た幕末維新』(長岡祥三訳、新人物往来社、1985、再版、講談社学
術文庫、1998)がある。
12)ミットフォードの2度の日本滞在の記録を適宜抜粋して、まとめたものに、元駐日英国大使
サー・ヒュー・コータッツィ(Sir�Hugh�Cortazzi)の『ミットフォードの日本』(Mitford’s�Japan�
:�Memories�and�Recollections,�1866-1906,�of�Algernon�Bertram�Mitford,� the�first�Lord�Redesdale,� The�
Athlone�Press,�London,�1985)がある。この書には、ミットフォードの小伝、日本に関する講演記
録なども収められ、英国国立公文書館所蔵の日本関係外交文書とミットフォードの父宛書館に
よって『回想録』が補完されている。この書のミットフォード小伝、『回想録』の部分のみを訳
したものとして『ある英国外交官の明治維新 ミットフォードの回想』(中須賀哲朗訳、中央公
論社、1986年)がある。
13)他の日本語訳に、『英国貴族の見た明治日本』(長岡祥三訳、新人物往来社、1986)、改題再版『ミッ
トフォード日本日記』(講談社学術文庫、2001)がある。
14)『日本国有鉄道百年史』1(日本国有鉄道、1969)参照。
15)『日本国有鉄道百年史』2(日本国有鉄道、1970)参照。
16)��The�Diaries�of�Sir�Ernest�Satow,�1912-1920�-�Volume�One�(1912-1916) ,�Ian�Ruxton�(Ed.�),�Lulu.com,�
ハリスと東海道(8)―ヒュースケン日記とともに―
131
2019.
17)訳文は、注11による。
18)『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄6 大政奉還』(萩原延壽、朝日新聞社、1999)参照。
19)『川崎誌考』(山田蔵太郎、石井文庫、1927)、『川崎市史』通史編(川崎市、1939)、『川崎市史』
通史編3近代(川崎市、1995)参照。
20)訳文は、『日本滞在記』(坂田精一訳、岩波文庫、1953)、および、『ヒュースケン日本日記』(青
木枝朗訳、岩波文庫、1989。初版は、1971年に校倉書房より刊行)、原文は、Mario�Emilio��Cosenza,��
The�Complete�Journal�of�Townsend�Harris�:�First�American�Consul�General�and�Minister�to�Japan,�New�
York,�Doubleday,�Doran�&�Company,�1930、および、Jeannette�C.�van�der�Corput�and��Robert�A.�Wilson,�
Japan�Journal�1855-1861,�Rutgers�University�Press,�1964�による。