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中世哲学会シンポジウム(2020/11/8) 1 ボナヴェントゥラにおける枢要徳 ――『ヘクサエメロン講解』第 6、7 講解を中心として 藤女子大学 松村良祐[email protected]1. はじめに ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』は、思慮・節制・勇気・正義の四つの徳目からな るいわゆる「枢要徳(virtutes cardinales)」をキリスト教的に理解するにあたっての基本的 な枠組みを 13 世紀の神学者たちに提供している。ロンバルドゥスは徳の起源を人間の内に 働く神に求めた上で(2, d.27, c.1-2)、 信仰・希望・愛徳という対神徳の考察に続く 『命題集』 第 3 巻第 33 区分に枢要徳の考察を置いているが 1 、ボナヴェントゥラも『命題集注解』にお いてロンバルドゥスに従って枢要徳を神から与えられる「無償の習性(habitus gratuitus)」 と理解した上で枢要徳を対神徳と関連付け、対神徳が人間を神へと秩序付ける習性である のに対し、枢要徳は人間を自己と隣人へと秩序付けるとしてその位置づけを明確にする 2 こうしたボナヴェントゥラの『命題集注解』がロンバルドゥスをもとに、その基本的な視 点をキリスト教思想の内に定位する枢要徳に置くのに対し、ボナヴェントゥラの最晩期に 当たる1273年の作品である『ヘクサエメロン講解』には、『命題集注解』とは異なった視点 からの枢要徳に対するアプローチを見ることができる 3 。実際、すぐ後で見るように、ボナ ヴェントゥラは『ヘクサエメロン講解』において枢要徳が古典古代の徳の伝統に連なるもの であることを自覚した上で、マクロビウス由来の徳の階層説をもとに古代の哲学者の枢要 徳論への接近を試みている。そこで、ボナヴェントゥラがこうした異教的な徳の伝統と向か い合い、キリスト教との対比において、人間を救済へと導く上で古代の徳論がどこまでの有 効性を持つものであるのか、その限界を明らかにしようとする点に、『ヘクサエメロン講解』 における枢要徳論の特徴があるわけである。 ところで、ボナヴェントゥラの枢要徳論に対する研究は、こうした『ヘクサエメロン講解』 の内にボナヴェントゥラの完成された枢要徳論の展開を認める Synan の研究以降、この最 晩期の著作を中心に行われてきた経緯がある。もっとも、Synan に続く『ヘクサエメロン講 1 Lombardus, Sententiae, 3, d.33, c.1: Post praedicta de quatuor virtutibus, quae principales vel cardinales vocantur, disserendum est; quae sunt iustitia, fortitudo, prudentia, temperantia 2 Bonaventura, 3 Sent., d.33, a.uni., q.1, resp.: Et quoniam contingit hominem ordinari ad Deum, contingit nihilominus himinem ordinari ad proximum et se ipsum, et in his eidem potest obliquari et impediri sive retardari: hinc est quod non solum indiget habitibus ipsum vigorantibus et rectificantibus, prout directe tendit in Deum, cuiusmodi sunt habitus virtutum theologicarum, sed etiam indiget habitibus ipsum regulantibus et rectificantibus, prout ordinatur ad se ipsum et ad proximum. 3 本提題で用いるボナヴェントゥラの著作と説教の執筆年代はそれぞれ Quinn 1972, pp.168-186 と Quinn 1974, pp.144-184 の研究による。また、『ヘクサエメロン講解』には 全集版と Delorme 版の二つの刊本が存在することが知られているが、本提題が基本テキス トとするのは全集版である。

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中世哲学会シンポジウム(2020/11/8)

1

ボナヴェントゥラにおける枢要徳

――『ヘクサエメロン講解』第 6、7講解を中心として

藤女子大学 松村良祐([email protected]

1. はじめに

ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』は、思慮・節制・勇気・正義の四つの徳目からな

るいわゆる「枢要徳(virtutes cardinales)」をキリスト教的に理解するにあたっての基本的

な枠組みを 13 世紀の神学者たちに提供している。ロンバルドゥスは徳の起源を人間の内に

働く神に求めた上で(2, d.27, c.1-2)、信仰・希望・愛徳という対神徳の考察に続く『命題集』

第 3 巻第 33 区分に枢要徳の考察を置いているが1、ボナヴェントゥラも『命題集注解』にお

いてロンバルドゥスに従って枢要徳を神から与えられる「無償の習性(habitus gratuitus)」

と理解した上で枢要徳を対神徳と関連付け、対神徳が人間を神へと秩序付ける習性である

のに対し、枢要徳は人間を自己と隣人へと秩序付けるとしてその位置づけを明確にする2。

こうしたボナヴェントゥラの『命題集注解』がロンバルドゥスをもとに、その基本的な視

点をキリスト教思想の内に定位する枢要徳に置くのに対し、ボナヴェントゥラの最晩期に

当たる 1273 年の作品である『ヘクサエメロン講解』には、『命題集注解』とは異なった視点

からの枢要徳に対するアプローチを見ることができる3。実際、すぐ後で見るように、ボナ

ヴェントゥラは『ヘクサエメロン講解』において枢要徳が古典古代の徳の伝統に連なるもの

であることを自覚した上で、マクロビウス由来の徳の階層説をもとに古代の哲学者の枢要

徳論への接近を試みている。そこで、ボナヴェントゥラがこうした異教的な徳の伝統と向か

い合い、キリスト教との対比において、人間を救済へと導く上で古代の徳論がどこまでの有

効性を持つものであるのか、その限界を明らかにしようとする点に、『ヘクサエメロン講解』

における枢要徳論の特徴があるわけである。

ところで、ボナヴェントゥラの枢要徳論に対する研究は、こうした『ヘクサエメロン講解』

の内にボナヴェントゥラの完成された枢要徳論の展開を認める Synan の研究以降、この最

晩期の著作を中心に行われてきた経緯がある。もっとも、Synan に続く『ヘクサエメロン講

1 Lombardus, Sententiae, 3, d.33, c.1: Post praedicta de quatuor virtutibus, quae principales vel cardinales vocantur, disserendum est; quae sunt iustitia, fortitudo, prudentia, temperantia 2 Bonaventura, 3 Sent., d.33, a.uni., q.1, resp.: Et quoniam contingit hominem ordinari ad Deum, contingit nihilominus himinem ordinari ad proximum et se ipsum, et in his eidem potest obliquari et impediri sive retardari: hinc est quod non solum indiget habitibus ipsum vigorantibus et rectificantibus, prout directe tendit in Deum, cuiusmodi sunt habitus virtutum theologicarum, sed etiam indiget habitibus ipsum regulantibus et rectificantibus, prout ordinatur ad se ipsum et ad proximum. 3 本提題で用いるボナヴェントゥラの著作と説教の執筆年代はそれぞれ Quinn 1972, pp.168-186 と Quinn 1974, pp.144-184 の研究による。また、『ヘクサエメロン講解』には全集版と Delorme 版の二つの刊本が存在することが知られているが、本提題が基本テキストとするのは全集版である。

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解』における枢要徳、あるいはボナヴェントゥラにおける枢要徳そのものを主題とした研究

は Emery と Hochschild による二つの論考を数えるのみであり、ボナヴェントゥラの枢要徳

論を含む倫理的思索の研究は今後の展開が待ち望まれている状況にある4。しかし、そうし

た二者の研究においても、『ヘクサエメロン講解』以外で枢要徳を主題とする彼の著作への

参照は余り見られない。Synan が指摘し、Emery がそれを肯定するように、ボナヴェントゥ

ラの枢要徳に関する完成された論述が『ヘクサエメロン講解』の内に存在することが確かで

あるとしても、ボナヴェントゥラの枢要徳論を解明するにあたっては、彼の他の著作と対比

し、その異同を確かめながら『ヘクサエメロン講解』の論述を位置づけていくことが必要と

なっていくように思われる。

そこで、本提題ではこうした Synan 以降の諸研究の驥尾に付し、『ヘクサエメロン講解』

を考察の中心に据えつつも、ボナヴェントゥラの他の著作における枢要徳への言及をもと

に、彼が古代の哲学者の語る枢要徳をどのように理解し、また受容していたのかを考察する

ことにしたい。

2. 『ヘクサエメロン講解』における枢要徳の基本理解

まず古代の哲学者の枢要徳に対するボナヴェントゥラの理解を確認しておきたい。ボナ

ヴェントゥラは『ヘクサエメロン講解』において、マクロビウス由来の徳の階層説を古代の

哲学者の枢要徳論を紐解くにあたってのフレームワークに据え、そこを基点として彼らの

内に潜む一筋の真理とその限界を明らかにしようとする。そこで、ボナヴェントゥラは古代

の哲学者の語る枢要徳を次のようにまとめている。

《引用 1》ところで、これら傑出した哲学者たち(illi praecipui philosophi)は信仰を持た

ないにもかかわらず、上述のように光に照らされ、枢要徳が(神からの)流出を通して我々

の認識の内に成立すると述べた。第一に、これら枢要徳はそれがこの世界における生活を

教示する限りでポリス的(politicae)と言われる。第二に、一人での観想に関わる限りで

浄化的(purgatoriae)と言われる。第三に浄魂的(purgati animi)と言われるが、魂はこ

れを通じて範型的なもの(exemplares)の内に休息を得る。それゆえ、彼らは、魂はこれ

らの徳を通じて正しいものとされ、浄化され、再形成されると言ったのである5。

4 ボナヴェントゥラの枢要徳を主題とした研究は少ない。ボナヴェントゥラの倫理思想に関する研究は国内にはほぼ見られないが、海外においてもそれほど多いわけではない。中世全体を視野に収めた Bejczy による『中世における枢要徳――4 世紀から 14 世紀の倫理思想の研究』(2011)でも、ボナヴェントゥラの名前が登場するものの、それはトマスやアルベルトゥスとの関わりにおいて時折言及されているに過ぎない。そうした中で、Emery とHochschildの二編を除き、ボナヴェントゥラの徳論全体を紹介するDe Benedictis やGilson、Quin 1976、Cullen の研究は注目に値するものと思われる。 5 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.7, n.4: Illi autem praecipui philosophi posuerunt, sic etiam illuminati, tamen sine fide, per defluxum in nostram cognitionem virtutes cardinales.

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古代の哲学者の語る枢要徳における真理は、彼らがそれらの徳を徳の範型的な原因であ

る神からの照明を受けて人間の内に成立し、人間を神へと向けて上昇させるものと理解し

ている点に見いだされる。そこでポリス的徳から浄化的徳、浄魂的徳へと至る枢要徳の段階

は、現世的な生に関わるポリス的徳の段階を基層に据えた上で、人間を地上的関心から引き

離し、神へと徐々に上昇させていく過程である。ボナヴェントゥラによれば、この種の理解

の見られる「これら傑出した哲学者たち(illi praecipui philosophi)」とはプラトンやプロテ

ィノスのことであり、ボナヴェントゥラは彼らを「古代の高貴な哲学者たち(antiqui et

nobiles philosophi)」とも呼んでいるが6、こうした範型因としての神理解は『ヘクサエメロ

ン講解』において共に古代の哲学者に数えられるプラトンやプロティノスとアリストテレ

スを分ける大きな分岐点になっている。すなわち、ボナヴェントゥラにおいて神の内に見い

だされる範型はあらゆるものの存在や認識、道徳の根拠(ratio)であるが、プラトンやプロ

ティノスがそうした範型の存在を肯定するのに対し、アリストテレスがそれを否定するこ

とで世界の永遠性や知性単一説など多くの「暗闇(caligo)」を生じさせたと言うのである7。

ところで、《引用 1》に見られる徳の階層的な説明は、マクロビウスの『「スキピオの夢」

注解』によって伝えられたプロティノスに由来するものであり、『ヘクサエメロン講解』の

全集版には 8 節にわたるその長い引用を見て取ることができる(coll.6, n.25-32)8。しかし、

徳の階層説を受容するにあたって、ボナヴェントゥラとマクロビウスの間には或る意識の

ズレが存在していることを指摘しておきたい9。つまり、マクロビウスにおいて、プロティ

Quae primo dicuntur politicae, in quantum docent conversationem in mundo; secundo, purgatoriae quantum ad solitariam contemplationem; tertio, purgati animi, ut animam quietari faciunt in exemplari. Dixerunt ergo, per has virtutes animam modificari, purgari et reformari. 6 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.6, n.6 et n.27, coll.7, n.3. その他、“nobilissimus Plotinus de secta Platonis”や“Plotinus, inter philosophiae professores cum Platone princeps”などの表現も見られる。もっとも、ボナヴェントゥラによれば、範型因としての神や徳の階層といった考えは、フィロンの『知恵の書』やソロモンの『雅歌』や『箴言』にも部分的に見出される。ボナヴェントゥラはフィロンやソロモンを「哲学者(philosophus)」として捉えているが、彼らが登場するのは、『ヘクサエメロン講解』第 6 講(n.7-9, 25)のみであり、プラトンやプロティノスらに比べて、その取り扱われ方は二次的である。Synan, pp.27-31. なお、ボナヴェントゥラは『知恵の書』の著者をフィロンとしているが、これはヒエロニムスの『ソロモンの諸書への序言(Praefactio Hieronymi in libros Salomonis)』以来の伝統的な考えである。 7 ボナヴェントゥラのアリストテレス批判は極めて概括的であるが、一応の体系化に達している。つまり、ボナヴェントゥラによれば、範型の否定から神の摂理と予定が否定され、そこから運命の必然性という考えが生じる。また、摂理の否定は世界における秩序の否定を意味し、そこから世界の永遠性が生じる。そして、無限数の知性が存在するという矛盾を回避するために、知性単一説が生じ、死後の賞罰が否定されるという。Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.6, n.2-5; 坂口、184-190 頁。 8 こうした引用が見られるのは全集版のみであり、Delorme 版にはその要約のみが載せられている。しかし、後述するように、ボナヴェントゥラの理解がマクロビウス本来の意図から外れたものであることは Delorme 版でも同様である。 9 Bejczy もこの齟齬を指摘する。Bejczy 2005, p.147, n.61; Bejczy 2011, p.216, n.339.

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ノスの階層説は至福を観想的な生に限定する哲学者たちを批判する文脈に置かれ10、マクロ

ビウスは『「スキピオの夢」注解』において、プロティノスの徳の階層説を紹介した上で、

次のように述べているのである。

《引用 2》それゆえ、もし徳の機能と効果が人に至福を授けるものであるならば、そして

また、ポリス的徳が存在すると認められるならば、人はポリス的徳によって至福を獲得す

ることになる。したがって、キケロが国家の指導者に関して、「そこで彼らは至福の者と

して永遠の生を享受できる」と言ったのは正しい。キケロは観想的徳により至福に至る者

もあれば活動的徳により至福に至る者もいることを示すために、無条件的に、あの最高の

神にとって国家以上に喜ばしいものはないとは言わなかったのである。そうではなく、

「少なくとも地上で行われることで」という条件を付け加えた。その理由は天上の神的な

事柄を主に扱う者と、国家の指導者とを区別するためであった。国家の指導者にも、地上

の活動を通じて天への道が用意されているのである11。

《引用 2》に見られるように、マクロビウスにおいて、プロティノスの徳の階層説は上昇

的な構図を保ちつつも、その個々の階層は至福に対してときに並列的な関係にあるものと

して理解される。つまり、マクロビウスの狙いはプロティノスの権威を恃みとして活動的生

の復権を試み、階層の底辺に位置するポリス的徳を持つ者も至福に与る可能性を確保しよ

うとする点にある。しかし、『ヘクサエメロン講解』におけるマクロビウスからの引用は上

記の《引用 2》の直前で終わりを迎え12、マクロビウスの試みに対する言及は『ヘクサエメ

10 Macrobius, Commentarii in Somnium Scipionis, 1, c.18, n.3(p.37, ll.4-6 et 20-25): unde qui aestimant nullis nisi philosophantibus inesse virtutes, nullos praeter philosophos beatos esse pronuntiant.(…)atque ita fit ut secundum hoc tam rigidae definitionis abruptum rerum publicarum rectores beati esse non possint. sed Plotinus inter philosophiae professores cum Platone princeps libro De virtutibus gradus earum verba et naturali divisionis ratione compositos per ordinem digerit. 11 Macrobius, Commentarii in Somnium Scipionis, 1, c.18, n.12(p.39, ll.16-25): si ergo hoc est officium et effectus virtutum, beare, constat autem et politicas esse virtutes: igitur et politicis efficiuntur beati. iure ergo Tullius de rerum publicarum rectoribus dixit: ubi beati aevo sempiterno fruantur: qui ut ostenderet alios otiosis, alios negotiosis virtutibus fieri beatos, non dixit absolute nihil esse illi principi deo acceptius quam civitates, sed adiecit, quod quidem in terris fiat, ut eos qui ab ipsis caelestibus incipiunt discerneret a rectoribus civitatum, quibus per terrenos actus inter paratur ad caelum. Cf. Cicero, De re publica, 6, c.13. 12 ボナヴェントゥラのマクロビウスからの引用部分は、『「スキピオの夢」注解』第 1 巻第8 章第 3-11 節にあたる。そこで《引用 2》はその直後の第 12 節に置かれるが、この箇所は『ヘクサエメロン講解』におけるボナヴェントゥラの引用には見られない。もっとも、マクロビウスの本来の意図が活動的生を観想的生と対等の関係に引き上げようとするものであったにせよ、ボナヴェントゥラがそうしたマクロビウスの意図を理解していなかった可能性もある。Delorme 版の次のテキストは、ボナヴェントゥラがプロティノスとマクロビウス の 間 に 齟 齬 は 存 在 し な い と 考 え て い た こ と を 窺 わ せ る 。 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, visio.1, coll.3, n.24-25 (ed. Delorme), p.97: Et dicuntur secundum tres gradus; primo enim dicuntur politicae, secundo dicuntur purgatoriae, tertio dicuntur animae purgatae. Et hoc totum adhuc est philosophiae, non fidei. Unde Plotinus dicit quod politicae proficiunt

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ロン講解』には見られない。実際、ボナヴェントゥラが理解する徳の階層説において、至福

へと到達できるのは、あくまで範型的な徳を間近で眺める浄魂的徳の段階にある者だけで

あり、ポリス的徳はいわば山の中腹にある浄化的徳から頂上にある浄魂的徳へと到達し、そ

こから範型的な徳を眺める登山を始めるにあたって「山のふもと(radix montis)」の出発点

にあるものに過ぎない13。それゆえ、ボナヴェントゥラにおいて、徳の階層説はポリス的な

徳を評価するマクロビウスの試みから引き剥がされ、新プラトン主義の上昇的な基本構図

のもとで受容されていると言える。

ところで、こうしたマクロビウス由来の徳の階層説は、枢要徳に神学的な位置づけを提供

するものとして中世の多くの神学者に活用されたことが Bejczy や Marenbon の研究によっ

て報告されている(9 世紀から 15 世紀に生産された『「スキピオの夢」注解』の写本は 230

を数え、12 世紀だけでも 106 の写本が作成されている14)。トマスも『神学大全』(1-2, q.61,

a.5, c.)においてボナヴェントゥラと同様に上昇的な基本構図のもとで徳の階層説を理解し

ているが15、ボナヴェントゥラやトマスからおよそ 1 世紀隔たったペトラルカが『親近書簡

集』の中でマクロビウスの同書をもとに、「周知のように、プロティノスの考えによれば、

単に浄化的徳や浄魂的徳を通じて至福な者になるばかりではなく、ポリス的徳を通じても

同様に至福な者になる16」と述べていることは、中世におけるマクロビウス受容の特質を考

in pergatorias, purgatoriae proficiunt in eas quae sunt animae purgatae et hae ultimae solae faciunt beatos; unde Macrobius: <Qui solum aestimant philosophis inesse virtutes, nonnisi philosophantes aestimant esse beatos>. なお、古代の哲学者に対する批判として、Coll. in Hexaëmeron, coll.7, n.5 には『「スキピオの夢」注解』第 1 巻第 12 章からの引用も見られることから、少なくとも『「スキピオの夢」注解』の第 1 巻第 8 章と 12 章はボナヴェントゥラの手元にあったものと思われる。 13 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.1, n.33: per hanc fidem proficit anima ascendendo ad virtutes politicas, quasi ad radicem montis, ubi Moyses fecit duodecim holocausta; deinde ad virtutes purgativas, quasi ad medium montis; deinde ad virtutes animi iam purgati quasi ad supremum montis, ubi aptus est locus ad contemplandas virtutes exemplars. ボナヴェントゥラは浄魂的徳の段階に到達した者のみが至福に与ると理解する。この点についてDelorme 版のテキストは明快である。Coll. in Hexaëmeron, visio.1, coll.3, n.24-25 (ed. Delorme), p.97: politicae proficiunt in pergatorias, purgatoriae proficiunt in eas quae sunt animae purgatae et hae ultimae solae faciunt beatos. 14 Bejczy 2011, pp.216-218; Marenbon, p.160f. Bejczy によれば、クレモナのローランド(1178–1259)は、マクロビウスの図式をもとに枢要徳を神学的に位置づけようとした最初期の神学者であり、その他、ロバート・キルウォールドビやジョン・ペッカム、アエギディウス・ロマヌスなど、13 世紀の多くの神学者がマクロビウスを活用している。また、中世から近代にかけての『「スキピオの夢」注解』の受容の系譜については、Henry, 248-250 や高田、124-148 頁も参考になる。 15 Thomas Aquinas, S.T.1-2, q.61, a.5, titl.: utrum dividantur convenienter in virtutes politicas, et purgatorias, et purgati animi, et exemplares. 範型因としての神理解を巡って、トマスとボナヴェントゥラにおけるアリストテレス理解は相違している。徳の範型が神の内に存在することは、トマスにおいてアリストテレスとの間に矛盾を引き起こすものはないとされるのに対し、ボナヴェントゥラは、アリストテレスは第一原因の内に事物の範型があることを批判したその主たるものとする。Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.6, n.2; Bejczy 2011, pp.216-218, p.278; Hochschild, pp.252-259. 16 Petrarca, Familiarium rerum libri, lib.3, 12, n.8: constetque, iuxta Plotini sententiam, non purgatoriis modo purgatique iam animi, sed politicis quoque virtutibus beatum fieri.この第

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える上で興味深い。

もっとも、『ヘクサエメロン講解』においてボナヴェントゥラが用いる権威はマクロビウ

ス由来のプロティノスだけではない。枢要徳は現世的な生に関わるポリス的徳の段階をそ

の基層に持つが、そこで枢要徳は自らの内に他の諸徳を含み、それゆえに「人間の生全体

(omnis vita hominis)」を秩序付ける、つまり人間の生のあらゆる局面においてその効果を

発揮することができる17。確かに、個別的な徳を考えるのであれば、人間の生において枢要

徳の個々の徳目よりも重要な徳が存在するのかもしれない。ボナヴェントゥラは『命題集注

解』の或る異論において「謙遜(humilitas)」や「忍耐(patientia)」をその例に挙げている

18。しかし、枢要徳は自身の内に他の諸徳を含む包括性を持ち、上述の徳もそれぞれ正義と

勇気の内に含まれるとボナヴェントゥラは理解する19。そして、『ヘクサエメロン講解』にお

いて、ボナヴェントゥラがこうしたいわゆる「徳の群れ」を包括する枢要徳の在り方を説明

する上で活用するのがキケロによる徳の分類であり、ボナヴェントゥラは、キケロをもとに

思慮、節制、勇気、正義の 4 つの徳目にそれぞれ 3 つの下位区分となる徳目を配置し、12

の徴をもとに天上を移動し、地上に生命を与える太陽のように、人間の生はそれら 12 の徳

目によって秩序付けられると言うのである20。

12 書簡は聖職者から政治家へと転じる決心をしたジェノバのマルコという若者に宛てられ、ペトラルカは、上記の箇所で、マクロビウスの言及するプロティノスや、マルタとマリアにおける活動的生と観想的生の違いをもとに、それら二つの道が同じ目的に通じていることをマルコに説明しようとする。 17 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.6, n.14. 18 Bonaventura, 3 Sent., d.33, a.uni., q.4, sed c. 4: Item, humilitas, patientia et obedientia sunt magnae virtutes nec tamen sunt aliqua praedictarum nec videntur theologicae. Ergo videtur cardinalis virtus non sufficienter dividantur per quatuor membra. 19 Bonaventura, 3 Sent., d.33, a.uni., q.4, ad 4: Ad illud quod obicitur de aliis virtutibus, utpote de humilitate, patientia et obedientia, dicendum quod omnes illae virtutes pro magna parte reduci habent ad istas sicut ad radicalia principia.(…)Unde patientia ad fortitudinem reducitur et aliae plures, quae sunt ipsius species materiales, secundum quod innunt tractatores morales. Humilitas vero et obedientia reduci habent ad ipsam iustitiam. 20 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.6, n.19: et sicut sol transiens per duodecim signa dat vitam, sic sol sapientialis, in nostrae mentis hemisphaerio radians et transiens, per has duodecim partes virtutum ordinat vitam nostram. ボナヴェントゥラはキケロに基づきつつも、そこに若干の変更を加えつつ、思慮を記憶(memoria)・認知(intelligentia)・予見(providentia)に、勇気を確信(fiducia)・忍耐(patientia)・堅忍(perseverantia)に、節制を平静(sobrietas)・貞潔(castitas)・節度(modestia)に分け、正義をその起源から自然法・慣習法・人定法に分けている。Cicero, De inventione, 2, 53-54, 159-165. キケロが『発想論』において正義を自然法と慣習法の2つに分けるの対し、ボナヴェントゥラはキケロにおいて慣習法の内に含まれていた人定法を独立させて、正義を3つに区分している。人定法が慣習や自然法と異なるのは事実である。しかし、それ以上にボナヴェントゥラが正義を3つに区分するのには、他の下位区分と合わせて 12 という数字を作り出そうとする意図があるのかもしれない。『ヘクサエメロン講解』において、ボナヴェントゥラは数の持つ象徴的な意味に対する関心を強くする。本文でも述べたように、日の出から日没までを 12 等分する不定時法をもとに、ボナヴェントゥラは、ちょうど太陽が 12 の徴を通じて移り行くことで生命を与えるのと同様に、知恵の太陽も徳のこれら 12 の側面を通じて我々の生を秩序付けると述べている。 これと同様の分類は 1270 年 11 月の『諸聖人の祝日の説教』にも見られるが、『ヘクサエ

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このように『ヘクサエメロン講解』において、マクロビウス由来の徳の階層説が古代の徳

論を紐解くにあたってのフレームワークに据えられているのに対し、キケロの徳論は枢要

徳と他の諸徳の関係や枢要徳の基本的な性格をボナヴェントゥラに提供している。しかし、

『ヘクサエメロン講解』には枢要徳の個々の徳目や枢要徳の徳目間の関係についての具体

的な考察は余り見られない。そこでの枢要徳そのものの扱いは簡潔であり、それは「疑問

(dubia)」を通じて枢要徳の個々の徳目を挙げる際の順序や内的連関など21、ロンバルドゥ

スの議論の不足に切り込もうとする『命題集注解』とは対照的である。むしろ、本提題の冒

頭でも述べたように、ボナヴェントゥラは『ヘクサエメロン講解』において徳そのものの考

察よりも、キリスト教との対比において、古代の徳論に横たわる真理とその限界を明らかに

することに軸足を置いている。

3. 駝鳥の羽を持つ哲学者:枢要徳と対神徳

さて、古代の徳論の内には、上述のようなほのかな光が見いだされつつも、ボナヴェント

ゥラは「彼らは依然として闇の中にいる(adhuc isti in tenebris fuerunt)」と述べ、古代の徳

論の限界を次に明らかにしようとする22。そこでボナヴェントゥラが対神徳の必要性へと議

論を展開させること自体に目新しさはない。しかし、ボナヴェントゥラが古代の哲学者の徳

のどういった点に不足を見て取り、どのような批判を行っているかを確認することは、ボナ

ヴェントゥラにおける古代の哲学者の徳論の位置づけを考える上で重要な意味を持つ。

さて、ボナヴェントゥラは、古代の哲学者は自然理性の限界のゆえに人間を蝕む病気や至

福を正しく理解せず、彼らの徳も人間を至福へと導く効果を持たないと言う。つまり、古代

の哲学者は「情感の腐敗(depravatio affectus)」という病気の原因を肉体に求めようとする

が、それは実のところ、原罪の結果、神から人間に与えられた「最も重い罰(punito

メロン講解』では正義をその起源から自然法、慣習法、人定法の三つに区分しているのに対し、説教では枢要徳を人間が天の国に到達するために必要な徳目として定めた上で、正義を上位の者に対する従順(obedientia)、隣人に対する節度(modestia)、下位の者に対する憐れみ(misericordia)に分類し、修道的文脈をもとに『ヘクサエメロン講解』とは異なった理解を示している。Bonaventura, Sermo in Festo Omnium Sanctorum: Et tripliciter haec sicut et aliae; habet nim tres portas iustitia: obedientiam, respectu superiorum, modestiam, respectu proximorum; misericordiam, respectu inferiorum. Istam vitam, licet sit recta et brevis, multi deseruerunt.

もっとも、この『諸聖人の祝日の説教』に見られる区分は『ヘクサエメロン講解』でも“secundum Tullium”と“secundum nos”という語の対比をもとに登場する。しかし、そこには obedientia や modestia、misericordia という語は登場しない。Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.6, n.18: Partes eius secundum Tullium sunt ex lege, a natura, ex consetudine; secundum nos una ordinat ad superiores, alia ad inferiores, tertia ad pares. 21 Lottin, pp.153-194, p.154 や Osborne, pp.150-171 は、枢要徳の数や順序、徳の分類、徳の結合、魂における徳の所在は 13 世紀の神学者に共通の問題関心であったと言う。しかし、Osborne が指摘するように、これらの問題に関するボナヴェントゥラの言及はそれほど多いものではない。 22 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.7, n.5.

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中世哲学会シンポジウム(2020/11/8)

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gravissima)」であり、その腐敗は肉体のみならず魂全体に及んでいる。しかし、信仰を持た

ない哲学者はそうした人間の現状を知らず、それゆえに彼らの徳は原罪によって歪んだ情

感を回復させるほどの効果を持つことができないわけである23。同様に、彼らは信仰を通し

て語られる永遠の生を知らないために魂を回帰的な円の内に置き、その徳を通じて人間を

正しい目的へと秩序付けることができない24。

こうしたボナヴェントゥラが批判を向ける情感の腐敗や至福に対する古代の哲学者の理

解は、マクロビウスやアウグスティヌスに採録されたプラトン主義者の教説に主に由来す

るものであるが25、我々は先に彼らがボナヴェントゥラによって「傑出した哲学者たち」や

「古代の高貴な哲学者たち」と呼ばれていたことを確認した。しかし、ボナヴェントゥラは

そうした卓越した哲学者たちであっても自然理性の力では決して到達することのできない

一線が存在し、そこで彼らが誤謬に陥ってしまっていることを指摘する。或る徳が人を何ら

かの目的へと導く上で効果あるものとされるためには、その徳がそれをもたらされる人間

の状況や目的に適ったものである必要がある。しかし、信仰を持たない古代の哲学者は、人

間の被る魂の病気や至福的な生といった人間の状況や目的を正しく知ることができず、そ

のために彼らの語る徳は人間を救済へと導くにあたって効果あるものとはなり得ないわけ

である。

このように、古代の哲学者の持つ暗闇は、信仰の欠如によって生じる無知とそこからもた

らされる彼らの徳の無力さに由来する。そして、こうした理解のもとで、『ヘクサエメロン

講解』においてしばしば引用される次の有名な一節が登場する。

《引用 3》こうした哲学者たちは駝鳥の羽(penna struthionis)を持っていた。というの

も、その情感が癒されることも秩序付けられることなく、また正しくされることもなかっ

たからである。実際、このことは信仰(fides)によってのみ生じるのである26。

古代の哲学者は徳を神の照明を受けて人間の内に成立し、人間を神へと秩序付けるもの

として理解する点において正しい。しかし、情感の腐敗という病を癒し、人間を神へと向け

23 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.7, n.8-11. 24 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.7, n.6: Non referebant ergo ad illam vitam, sed in abeunte quadam circulatione ponebant animam. Ignoraverunt ergo fidem, sine qua virtutes non valent, ut dicit Augustinus de Trinitate libro decimo tertio, capitulo vigesimo. 25 ボナヴェントゥラが古代の哲学者の徳論を批判するのは、1)彼らが魂を誤った目的へと秩序付けていること、2)魂の性向を秩序付けることができないこと、3)情動の腐敗という魂の病気とその原因、またそれを治す方法を知らないことの三点である。こうした 3 点について、全集版の編者は、それらはマクロビウスの『「スキピオの夢」注解』lib.1, c.11 とアウグスティヌスの『神の国』lib.14, c.3 et lib.21, c.3 から採られた新プラトン主義者の教説であるという。 26 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.7, n.12: Isti philosophi habuerunt pennas struthionum, quia affectus non errant sanati nec ordinati nec rectificati: quod non fit nisi per fidem.

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中世哲学会シンポジウム(2020/11/8)

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るにあたって、彼らの徳は羽でありながらもその用途を果たさない「駝鳥の羽」と同じであ

るとボナヴェントゥラは総括する。

こうしたボナヴェントゥラの主張の向かう先に「対神徳」の存在を予想することは容易で

ある。事実、ボナヴェントゥラは《引用 3》のすぐ後で、人間が原罪の結果被った情感の歪

みは神から注がれる愛徳のもとでのみ癒されるものであると述べている。

《引用 4》ところで、愛徳のみが情感を癒すことに注意しなければならない。すなわち、

アウグスティヌスの『神の国』によれば、愛は全ての情感の根元である。それゆえ、愛が

癒されなければ、全ての情感が歪んだもの(obliqui)になってしまう。しかし、純粋であ

り、配慮に富み、敬虔であり、永続的である神の愛によらずには、それは癒されない。神

の愛は節制に関して純粋であり、思慮に関して配慮に富み、正義に関して敬虔であり、勇

気に関して永続的である。それゆえ、愛徳は全ての徳の目的であると共に形相(finis et

forma omnium virtutum)であり、清らかな心から生じる希望と混じり気のない信仰の上

に据えられる27。

こうして、ボナヴェントゥラは人間が至福へと到達するためには対神徳、わけても愛徳の

注入が必要であると言う。人間は枢要徳のみの力をもとにしてはポリス的徳から浄魂的徳

へと至る徳の階層を上っていくことはできない。先に述べたように、情感の腐敗という人間

を蝕む病気は深刻であり、彼らの徳を通じて向けられる目的も正しいものではない。そこで、

枢要徳は愛徳の支えのもとで人間の情感の歪みを正し、人間を神へと正しく方向付けるこ

とで、徳の階層は人間にとって上昇可能なものとなるわけである28。

ところで、先に述べたように、このマクロビウス由来の徳の階層説はトマスの『神学大全』

にも見出される。しかし、それをトマスが枢要徳を主題とする問題の最終項(1-2, q.61, a.5)

に置くことで、『神学大全』における枢要徳論と対神徳論を橋渡しする役割を与えつつも、

27 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.7, n.14: Notandum autem, quod sola caritas sanat affectum. Amor enim, secundum Augustinum, de Civitate Dei, radix est omnium affectionum. Ergo necesse est, ut amor sit sanatus, alioquin omnes affectus sunt obliqui; non sanatur autem nisi per divinum amorem, qui amor divinus est purus, providus, pius et perpetuus: purus respectu temperantiae, providus respectu prudentiae, pius respectu iustitiae et perpetuus respectu fortitudinis. Caritas ergo est finis et forma omnium virtutum et fundatur super spem de corde puro et fide non ficta. 愛徳は他の諸徳を刷新し、自身の目的である神へ他の諸徳を秩序付けるという意味で、全ての徳の形相であると共に目的である。《引用 5》のテキストは目的という視点は余り見られないが、古代の哲学者が誤った究極目的を考えてることは本節で指摘した点であり、《引用 5》においても、愛徳を通じて人間が正しい目的へと秩序付けられることは、ボナヴェントゥラの意識の内にあるように思われる。 28 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.1, n.33: per hanc fidem proficit anima ascendendo ad virtutes politicas, quasi ad radicem montis, ubi Moyses fecit duodecim holocausta; deinde ad virtutes purgativas, quasi ad medium montis; deinde ad virtutes animi iam purgati quasi ad supremum montis, ubi aptus est locus ad contemplandas virtutes exemplars; coll.7, n.7.

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そこにそれ以上の展開が見られないのに対し29、ボナヴェントゥラはそれを対神徳と関係づ

け、徳の階層がどのようにして上昇可能なものになるかを明らかにしようとする。とはいえ、

この徳の階層説がボナヴェントゥラの内で完全に消化されているとは言い難い30。実際、ポ

リス的徳から浄魂的徳へと至るどの段階で対神徳の注入が必要になるのか、言い換えれば、

古代の哲学者はどの段階まで到達できるとボナヴェントゥラが考えているかは、その記述

からは判然としない。しかし、先に述べたように、徳の階層は現世における人間の生を秩序

付けるポリス的徳の段階を底辺に置き、そこから徐々に視線を神へと転じていく。そこで、

キケロをもとに人間の生を秩序付ける枢要徳の役割が肯定され、哲学者の徳論に対するボ

ナヴェントゥラの批判がもっぱら彼らの徳が人間を至福へと到達させる効果を持たないと

いう点に置かれていることからすれば、彼らの徳がポリス的徳の段階にあることを踏まえ

た上で、対神徳は人間がそこから上位の段階に到達する上で必要なものとなると理解する

が妥当であるように思われる31。

このように、ボナヴェントゥラは『ヘクサエメロン講解』において古代の徳論の限界を現

世的な生に置き、人間が徳の階層を上り、至福へと到達するためには枢要徳が対神徳によっ

て再定位される必要があると言う。それでは、こうしたボナヴェントゥラの主張は、彼の諸

著作においてどのように位置づけられるものなのであろうか。限られた紙幅で彼の徳論全

体を明らかにすることは困難であるが、『ヘクサエメロン講解』以外の彼の著作へと視野を

広げてみたい。

4. 哲学者の徳の有効性とその限界:ボナヴェントゥラの他著作における取り扱い

そこで、枢要徳を主題とする他の諸著作に視野を広げてみたときに確認できることは、ボ

ナヴェントゥラが哲学者の語る徳としての枢要徳に現世的な生における有効性を認めつつ

も、人間の至福への到達という視点から一貫してその不足を見取っていることである。それ

ゆえ、『ヘクサエメロン講解』におけるボナヴェントゥラの態度は、他の諸著作においても

29 桑原 2020、33-35 頁。トマスは枢要徳を主題とする問題の最終項(1-2, q.61, a.5)に「枢要徳をポリス的、浄化的、浄魂的、および範型的諸徳へと分類されるのは適切であるか」という設問を置くことで、枢要徳から対神徳へと続く考察の橋渡しを行っている(枢要徳を主題とする 1-2, q.61 に続く q.62 の主題は対神徳である)が、『神学大全』第 23 分冊の英語版訳者である Hughes は、それを『神学大全』においてそれまでに採用してきた『ニコマコス倫理学』の徳論からの脱却として捉えている。Hughes, p.129. Hochschild もこの点にそれまでポリス的次元で語られてきた徳の神への転換を見る。Hochschild, p.251.その他、1-2, q.61, a.5 の重大性を指摘するものとして松根 142-143 頁を参照。 30 De Benedictis, p.229, n.240. 31 人間は「獣のような状態(bestialis)」で徳の階層を上っていくことはできず、徳の階層を上っていくためには、まずその身を整える必要がある。そこで、古代の徳論は人間が信仰を受け入れ、徳の階層を上っていくための基盤を提供するとボナヴェントゥラは考えるBonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.5, n.1: In monte contemplationis cum Moyse, ut sit modestus et industrius, non bestialis, quia talis in montem ascendere non potest; bestia enim, quae tetigerit montem, lapidabitur.

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共有されている。

すなわち、ボナヴェントゥラの『「知恵の書」注解』はパリ大学教授時代に当たる 1253-

54 年頃に著された作品であるが、諸徳の源泉を神の知恵に求める「節制、思慮、正義、勇

気の徳を知恵は教える」という一節(8.7)を注解して、ボナヴェントゥラは次のように述

べている。

《引用 5》しかし、(枢要徳よりも)神学的徳がより有益でより高貴なものではないだろ

うか。答えて言わなければならない。ここで想定していることに従うのであれば、いま述

べられたように、人間の人間に対する関係という人間的な生について語られているので

あって、神に対する関係ではない。ところで、それらの徳以上に人間たちにとって有益な

ものはない(his nihil est utilius hominibus)。というのも、それらの徳は行為することと

受動することにおいて(in agendo et patiendo)人間にとって役立つからである32。

枢要徳を人間相互の関係を整える最上の徳であると見なす《引用 6》におけるボナヴェン

トゥラの主張は、キケロをもとに枢要徳を人間のあらゆる生の局面において有効な徳であ

ると主張していた先の『ヘクサエメロン講解』の立場を思い起こさせる。もっとも、『ヘク

サエメロン講解』が諸徳を覆う包括性という視点からそのことを説明していたのに対し、こ

こでは枢要徳は人間的な生を構成する行為と受動という両面からその全ての活動を支える

ものとして捉えられ、対神徳によらずに持つそのありのままの価値が認められている。とは

いえ、対神徳によらない限り、その有用性は現世的な生をこえるものではない。ボナヴェン

トゥラは、この種の徳は哲学者が獲得的な仕方で持つものであることを前置きした上で、彼

らの徳は功徳を伴わない形を欠いたものであるという点で、「完全な徳(virtus perfecta)」

ではなく「不完全な徳(virtus imperfecta)」であると総括する33。

こうした枢要徳についての取り扱いは、『「知恵の書」注解』とほぼ同じ時期の 1250-56 年

に著された『命題集注解』にも登場する。本提題の冒頭でも述べたように、『命題集注解』

において、ボナヴェントゥラは枢要徳を対神徳と関連付けた上で、対神徳と枢要徳がそれぞ

れ人間を神や自己、隣人へと秩序付けるものとして理解する。つまり、人間は対神徳によっ

て神へと方向付けられるわけであるが、枢要徳の徳目の内、思慮・節制・勇気が人間の自己

に対する関係を正しく整えるのに対し、正義は他者に対する関係を整えると言う34。

32 Bonaventura, Commentarius in librum Sapientiae, c.8, vers.7: Sed nunquid theologicae virtutis utiliores sunt et meliores ? Dicendum, quod sicut tactum est, loquitur de vita humana hominis in comparatione ad hominem, non ad Deum, quoniam praesupponit; his autem nihil est utilius hominibus, quia proficiunt homini in agendo et patiendo. 33 Bonaventura, Commentarius in librum Sapientiae, c.8, vers.7: Sed nunquid philosophi virtutem habuerunt ? Et videtur, quod sic; quia, secundum Philosophum, virtus habetur per acquisitionem. Dicendum, quod non habuerunt virtutes perfectas, sed imperfectas, quia sine merito et informes. 34 Bonaventura, 3 Sent., d.33, a.uni., q.1, resp: hinc est quod non solum indiget habitibus

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それゆえ、『命題集注解』において、ボナヴェントゥラは対神徳と枢要徳をそれらの徳の

向かう対象をもとに区別し、先の『ヘクサエメロン講解』とは異なった視点のもとで枢要徳

論を展開しているわけである。すなわち、『ヘクサエメロン講解』において、枢要徳はポリ

ス的徳の段階から浄魂的徳の段階へと至るマクロビウス由来の徳の階層説のもとで人間を

神へと向けるものとして理解され、対神徳もそうした枢要徳の働きの上に重ねられていた。

枢要徳はときに「ポリス的徳(virtus politica)」とも呼ばれるが、ボナヴェントゥラにおい

て「ポリス(polis)」という語が「複数/複数の人が存在すること(pluralitas)」という意味

で理解され35、枢要徳の本来の働きがそうした個々の人間同士の関わりの内に求められてい

ることからすれば、枢要徳の働きを神へと向ける『ヘクサエメロン講解』の理解は或る種拡

張的であると言える36。もっとも、枢要徳の有効性がそうした人間的生の場面に留められる

こと、言い換えれば、人間が至福へと到達する上で対神徳を必要とするという理解は『命題

集注解』と『ヘクサエメロン講解』において変わらない。『命題集注解』においても、枢要

徳は自己や隣人という人間相互の交わりにおいて道徳的な業を行わせるものであっても、

功徳という至福に値する業を行わせるまでに魂の能力を高めるものではない37。その業の範

囲は人間的な次元に留まり、功徳を行うためには神から注がれる恩寵のもとで枢要徳その

ものが高められる必要がある。

このように、ボナヴェントゥラの諸著作において、枢要徳を扱う上での枠組みには個々相

違する点が見られつつも、哲学者の語る枢要徳の有効性と限界に対する理解自体は基本的

に一貫していると言える38。確かに、ボナヴェントゥラは 1267 年の四旬節中に発表された

ipsum vigorantibus et rectificantibus, prout directe tendit in Deum, cuiusmodi sunt habitus virtutum theologicarum, sed etiam indiget habitibus ipsum regulantibus et rectificantibus, prout ordinatur ad se ipsum et ad proximum. Et tales sunt habitus virtutum cardinalium. 35 Bonaventura, 3 Sent., d.33, dub.5, resp.: sic istae virtutes dicuntur politicae, quia reddunt hominem bene ordinatum ad vivendum inter homines; unde politica virtus dicitur a polis, quod est pluralitas; 3 Sent., d.33, a.uni., q.1, resp. 36 もっとも、『ヘクサエメロン講解』においても、枢要徳が人間を正しい目的へと秩序付けることができないということからすれば、枢要徳の有効性が人間相互の関係に本来求められるものであることはここでも保持されていると言えるかもしれない。 37 ここでボナヴェントゥラが獲得的な枢要徳と功徳的な業の関係を否定する際に念頭に置くのは、魂の能力とそれをもとにして行う業の釣り合いという点である。つまり、徳は魂の能力の歪みを正し、何らかの業へと人間を習性付けるものであるものの、獲得的な枢要徳は功徳という超自然的な業を行わせるまでに魂の歪みを正し、その能力を高めるものではない。Bonaventura, 3 Sent., d.33, a.uni., q.5, resp. 38 枢要徳の完全性について、『命題集注解』では自然と恩寵の協働という視点からその説明が行われているが、こうした説明は『ヘクサエメロン講解』には余り見られない。むしろ、《引用 4》で言われていたように、枢要徳の完全性は神から注がれる恩寵に求められている。Bonaventura, 3 Sent., d.33, a.uni., q.5, resp.: Ex utraque etiam causa virtus politica potest suscipere complementam, videlicet quando concurrit divinae gratiae adiutorium, et bonae consuetudinis exercitium, per quae duo virtus cardinalis radicata in natura ducitur ad complementum perfectum. Et sic virtus cardinalis, in quantum est politica, ortum habens a natura, ducitur ad qoddam complementum ex assuefactione subsequente, ad maius complementum ducitur ex gratia superveniente, sed ad perfectum complementum ducitur ex utraque causa concurrente, videlicet gratia et assuefactione.

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『十戒講解』以降、ラテン・アヴェロエス主義を契機として次第に哲学への警戒感を募らせ

ていったことが知られている。その年の 12 月 18 日にパリで行われた『待降節第三日曜日

の説教』では、信仰に支えられた上で哲学を研究することに一定の理解が与えられつつも、

哲学はエデンの園に置かれた「善と悪の知識の木」にたとえられ、真理と「誤謬(falsitas)」

が混在していることに注意が説かれている39。また、そのおよそ一週間後の 12 月 26 日に行

われた『殉教者聖ステファノの祝日の説教』ではステファノの殉教との関わりにおいて「勇

気(fortitudo)」という徳が主題化され、どのような善が人間を至福へと導くものであるか

が問われている。そこで、ボナヴェントゥラはキリスト教の知恵と哲学者の知恵を対比した

上で、哲学者が十分に徳を理解せず、誤りへと陥っていることを指摘する。彼らの徳によっ

て生じる善は人間を至福へと導く上で十分なものではなく、それは神の恩寵によって形作

られることではじめて可能になると言う40。

こうした二つの説教に時折見られる「誤謬(falsitas)」や「誤り(error)」といった語は、

『「知恵の書」注解』や『命題集注解』には余り見られない後期に特有のものであり、哲学

に対するボナヴェントゥラの警戒心を窺わせる。しかし、その最晩期の『ヘクサエメロン講

解』において枢要徳が「人間の生全体(omnis vita hominis)」を秩序付けるものとして捉え

られていたように、哲学者の徳論が完全に否定されているわけではない。むしろ、これら後

期の作品においても、その有効性は現世的な生において保証された上で、それが救済を得る

力を持つことが否定されているのである。

このように、ボナヴェントゥラは哲学者の語る枢要徳に人間的生を整える有効性を認め

る一方で、人間を救済へと到達させる上での不足を見取っている。ここで、枢要徳が人間的

な生において持つ有益性がボナヴェントゥラにおいて必要以上に強調されてはならない。

確かに、『ヘクサエメロン講解』においても、枢要徳は神の創造の六日間において光つまり

自然理性の光が創造される第一目に置かれ、この点をもとに枢要徳は人間が自然理性の力

で獲得するものとして、いわばその突端に位置づけられる。しかし、ボナヴェントゥラの諸

著作を見渡してみたとき、獲得的な徳としての枢要徳は常に注入徳と対比され、その不完全

さが指摘される場合がほとんどであり、このことはボナヴェントゥラの関心が一貫して現

世的生ではなく天上的生に、つまり人間を至福へと導くことができる注入徳の方に置かれ

ていることを示している。ボナヴェントゥラが徳の完全性を測る基準とするのは、その徳が

人間を救済へと到達させるものであるか否かという点であり41、そこからして彼らの徳は現

39 Bonaventura, Sermo de Dominica tertia adventus, 2: Qui diligunt sacram Scripturam diligunt etiam philosophiam, ut per eam confirment fidem; sed philosophia est lignum scientiae boni et mali, quia veritati per mixta est falsitas. 40 Bonaventura, Sermo de Sancto Stephano Martyre, n.3: Sapientia christiana aliud dicit de operibus virtutum et aliud philosophi; philosophi dicunt secundum exteriorem intellectum, et nisi sane intelligantur, ducunt in errorem. Dicunt: boni sumus, quia bona facimus; sed certe bonum non est meritorium, nisi sit gratia informatum. 41 ボナヴェントゥラは徳の完全性をそれが人間を至福へと到達させることができるかどうかという点に置き、諸徳を virtus perfecta/viirtus imperfecta という二項対立のもとで理解

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中世哲学会シンポジウム(2020/11/8)

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世的な生において有効な徳であるというよりも、人間を救済へと導くことのできない「不完

全な徳(virtus imperfecta)」であり、人間を至福へと導くものとなるためには対神徳によっ

て刷新される必要があるというのが、諸著作を通じてのボナヴェントゥラの基本的な立場

なのである42。

5. 大宇宙と小宇宙の照応関係と聖書

以上に、哲学者の語る枢要徳に対するボナヴェントゥラの理解について見てきた。ところ

で、ボナヴェントゥラの『ヘクサエメロン講解』は被造的世界と人間の関係を「大宇宙

(mundus maior)」と「小宇宙(mundus minor)」の対応関係に置き、創造の六日間と完成

へと向かう人間の歩みが互いに照応し合い、お互いがお互いの内にその存在を読み取り合

うという関係になっている43。そこで、ボナヴェントゥラは『ヘクサエメロン講解』におい

て、古代の哲学者の徳論の限界を測る一方で、枢要徳を二つの宇宙の対応関係の内に置き、

独自の枢要徳論を展開してみせている。本提題を締め括る上で、最後に『ヘクサエメロン講

解』におけるボナヴェントゥラの枢要徳論を彩るこうした特徴に触れておきたい。

ボナヴェントゥラは、小宇宙としての人間が修める枢要徳が大宇宙としての被造的世界

に映し出されることについて、次のように説明している。

《引用 6》これらの徳はその高貴さ(nobilitas)のゆえに世界の在り方に対応している。

というのも、諸徳は光の作用、元素の四つの特性、原因の四つの効果、健康な生の四つ

の状態に結び付けられているからである。(…)また、元素の特性には次の四つのもの

が存在している。つまり、土には飾り立てられた乾きが存在し、水には光に満たされた

透明さが存在し、空気には柔らかさのある緻密さが存在し、火にはその働きの内に活発

さが存在している。そこで、土は節制であり、それは乾きを与えつつも、花によって飾

り立てられ、彩りを持つ。思慮は水の透明さに対応するが、それは光と一体になってい

るかのようである。正義は空気の柔らかさに対応している。というのも、空気は上昇し

する。Bonaventura, 2 Sent., d.27, dub.3; Cullen, pp.96-98; De Benedictis, pp.220-223. 42 「真実でありながらも不完全な徳(vera virtus, sed imperfecta)」という獲得的な徳に固有な領域に注意を払おうとするトマス的な用語はボナヴェントゥラの内には見られない。Thomas Aquinas, S.T., 2-2, q.23, a.7, c.: Si vero illud bonum particulare sit verum bonum, puta conservatio civitatis vel aliquid huiusmodi, erit quidem vera virtus, sed imperfecta, nisi referatur ad finale et perfectum bonum; Bejczy 2011, p.187.ここでトマスは愛徳をもとに人間を主要的な善である神へと秩序付ける「端的に真実な徳(virtus vera simpliciter)」、国家の保持のような特殊的な善へと秩序付ける「真実でありながらも不完全な徳(vera virtus, sed imperfecta)」、見せかけの善へと秩序付ける「徳の偽物(falsa similitudo virtutis)」の三つに分けている。 43 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.3, n.1: Praeter has est visio sextuplex, quae respondet operibus sex dierum; quibus minor mundus fit perfectus, sicut maior mundus sex diebus.

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たり下降したり、左右に動くからである。そして、勇気は火の活発さに対応している44。

こうした大宇宙と小宇宙という対概念のもとで、四元素や光の四つの作用といった被造

的世界を構成する諸原理と枢要徳を結び付けて理解することは、ボナヴェントゥラが 1270

年 11 月に行った『諸聖人の祝日の説教』にも見られるものであり、ボナヴェントゥラが『ヘ

クサエメロン講解』以前からこうした考えに親しんでいたことを窺わせる(そこでは枢要徳

に対応するものとして、大地の四方位や四つの季節なども挙げられている)45。実際、枢要

徳を巡るこの種の説明は、ボナヴェントゥラ以前にも中世において少なからぬ蓄積があり46、

この点に注目する Emery は、《引用 6》の背後に大グレゴリウスやグロステート、総長フィ

リップスの存在を見取っている47。

しかし、ボナヴェントゥラにおいて、それら大宇宙と小宇宙は、お互いがお互いの内に映

し出される単なる照応関係を持つことに留まるものではない。むしろ、ボナヴェントゥラは

大宇宙と小宇宙の関係を救済史的な視点のもとで再構成を試みている。すなわち、ボナヴェ

ントゥラによれば、神がこの被造的世界を創造したのはこの世界を通じて人間を自身のも

とへと導き帰そうという目的によるものであり、そうして神の創造した被造的世界には人

間によって読み解かれるべき多くの痕跡が残されている。そして、人間はそうした神が被造

的世界に残した痕跡に眼差しを向け、それを読み解くことで、自己を神へと向けて上昇させ

ていくことができるわけである48。それゆえ、上記の《引用 6》において、被造的世界を構

成する諸原理としての四元素や光の四つの作用が映し出すのは、単に自己の存在と対応関

44 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.6, n.20-21: Hae sunt tantae nobilitatis, quod disposition mundi his correspondet. Virtutes enim configurantur quatuor lucis influentis, quatuor elementorum proprietatibus, quatuor causarum efficaciis, quatuor vitae salubritatibus.(…)Item, quatuor elementorum proprietatibus: in terra est ariditas adornata, in aqua perspicuitas cum intensione lucis, in aere subtilitas cum mulcebritate, in igne virtuositas in actione. Prima est temperantia, quae aridum reddit, et tamen ornat et vestit floribus. Prudentia respondet aquae perspicuitati, quae quasi incorporate est luci. Iustitia respondet aeris mulcebritati; aer enim ascendit et descendit, ad dexteram et sinistram movetur. Fortitudo respondet vigori ignis. 45 Bonaventura, Sermo in Festo Omnium Sanctorum: Sicut enim videmus, quod quatuor sunt elementa, ex quibus omne mixtum, quatuor qualitates complectentes corpus humanum, quatuor tempora dividentia annum, et quatuor partes orbis terrae; sic sunt quatuor virtutes principalis sive cardinales, quibus perficitur homo interior et reducitur ad Deum. 46 古代からルネサンス期に至る大宇宙と小宇宙に関する通史的な研究として、Allers, pp.319-407 の研究があり、中世に焦点を絞ったものとしては、McEvoy 1974, pp.209-243 とMcEvoy 1986, pp.374-381 がある。大宇宙と小宇宙の対応は、12 世紀において多くの言及がなされた後は、13 世紀では小宇宙や大宇宙という語やその同義語が用いられつつも、アリストテレス自然学の受容と共に、それらへの関心は次第に低下していく。 47 Emery, pp.200-201. 48 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.13, n.12: Notandum autem, mundus, etsi servit homini quantum ad corpus, potissime tamen quantum ad animam; et si servit quantum ad vitam, potissime quantum ad sapientiam. Certum est, quod homo stans habebat cognitionem rerum creatarum et per illarum repraesentationem ferebatur in Deum ad ipsum laudandum, venerandum, amamdum; et ad hoc sunt creaturae et sic reducuntur in Deum.

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係にあるものとしての枢要徳ではなく、人間が神へと向けて自己を高め、上昇していく上で

修めるべき必須のものとしての枢要徳の姿なのである。そして、こうした理由のもとで、枢

要徳は人間を神へと導くその「高貴さ(nobilitas)」のために被造的世界へと投影されてい

るわけである。

もっとも、原罪以降の人間において、神が創造した被造的世界は人間が完成へと至る道の

り、或いは人間が修めるべき徳としての枢要徳を完全な仕方で映し出すものではない。むし

ろ、人間が修めるべきものとしての枢要徳のより完全な姿は聖書の内に映し出されている。

《引用 7》最初に、四つの徳はそれらの徳が信仰に起源を持つものである限りで(in

quantum originantur a fide)楽園の四本の川によって表される。この川は四つの徳へと注

ぎ込まれる聖霊の恩寵である。ピション川は節制を表し、ギホン川は思慮を表し、チグリ

ス川は勇気を表し、ユーフラテス川は正義を表している。ピション川は理性的な力に対応

し、ギホン川は欲情的な力に、チグリス川は怒情的な力に、ユーフラテス川は魂全体に対

応している49。

また、ボナヴェントゥラは次のようにも述べている。

《引用 8》同様に、四つの徳は、それらの徳が愛徳によって形成されるものである限りで

(in quantum informantur caritate)、礼拝堂の四つの飾りによって表される。つまり、四

枚の幕、紫色の皮、山羊の毛の覆い、赤く染められた羊の皮によって表される。四枚の幕

は節制に、紫色の皮は思慮に、山羊の毛の覆いは正義に、赤く染められた羊の皮は勇気に

対応する50。

ここで、聖書の内に映し出される枢要徳が被造的世界に映し出される先の《引用 6》の枢

要徳と同じものではないことは明らかである。《引用 7》に見られるように、ボナヴェント

ゥラは、枢要徳が聖書に映し出されるのは「それらの徳が信仰に起源を持つものである限り

において(in quantum originantur a fide)」であると述べ、そこに映し出される枢要徳が対

神徳と共に神によって注入されたものであることに注意を促している。神が自身のもとへ

と導き帰そうという目的のもとで人間のために被造的世界を創造したことは確かである。

しかし、人間はそうした神の意図に反し、原罪によって被造的世界を読み解く力を失い、そ

49 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.7, n.16: Per quatuor flumina paradise, in quantum originantur a fide. Flumen est gratia Spiritus sancti diffusi in has quatuor virtutes: Phison respondet temperantiae, Gehon prudentiae, Tigris fortitudini; Eupharates iustitiae. 50 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.7, n.17: Item, in quantum informantur caritate, designantur per quatuor ornamenta tabernaculi, quae erant quatuor cortinae, pelles hyacinthinae, saga cilicina et pelles arietum rubricatae. Cortina respondet temperantiae, pelles hyacinthinae caelestis coloris prudentiae, saga cilicina iustitiae, pelles arietum rubricatae.

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うして人間が修めるべき枢要徳の完全な姿は聖書というもう一冊の書物の内に映し出され

ることとなったわけである51。そして、人間はこうした聖書によって映し出された枢要徳を

もとに神へと確かに上昇していくことができるわけである。

ところで、こうした大宇宙と小宇宙という対概念に基づく被造的世界に対する理解は、12

世紀のシャルトル学派において隆盛を迎えた後は、アリストテレスの自然学の受容と共に

中世において徐々に衰退へと向かっていったことが知られている。実際、「大宇宙(mundus

magnus/maior)」や「小宇宙(mundus parvus/minor)」といった語は、トマスの内にはほと

んど見られない。また、それらの用語が見られる場合でも、多くはトマスが他の文献に登場

するそれらの語を解説するときにほぼ限られている52。そこで、以上に見たように、ボナヴ

ェントゥラは古代の哲学者の語る枢要徳を大宇宙と小宇宙、そして聖書との間の対応関係

の内に置き、神の創造と救済を巡る枠組みの中で再構成している点に『ヘクサエメロン講解』

における枢要徳論の特徴があると言える。

6. おわりに

本提題はボナヴェントゥラの最晩期の著作である『ヘクサエメロン講解』を考察の中心に

据えた上で、ボナヴェントゥラが古代の哲学者の枢要徳をどのように理解し、また受容した

かを見てきた。

以上に見たように、ボナヴェントゥラは『ヘクサエメロン講解』において枢要徳が古典古

代の徳の伝統に連なるものであることを自覚した上で、そうした異教的な徳の伝統と向か

い合い、キリスト教との対比において、人間を救済へと導く上で古代の徳論がどこまでの有

効性を持つものであるのか、その限界を明らかにしようとする。そこで、ボナヴェントゥラ

は至福への到達という視点のもとで、哲学者の徳とキリスト教徒の徳の間に決して越える

ことのできない一線を引く。哲学者の枢要徳が人間の魂を正し、人間相互の関係を整える最

上の徳であることは疑い得ない。しかし、彼らの徳は現世的な生における有益性以上の効果

を人間に与えることはできない。信仰を持たない哲学者は人間の現状や目的を正しく理解

できず、そのために彼らの徳は至福への到達という目的を見据えた効果あるものとはなり

得ないわけである。それゆえ、哲学者の徳は人間を救済へと到達させることのできない「不

51 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.13, n.12: Cadente autem homine, cum amisisset cognitionem, non erat qui reduceret eas in Deum. Unde iste liber, scilicet mundus, quasi emortuus et deletus erat; necessarius autem fuit alius liber, per quem iste illuminaretur, ut acciperet metaphoras rerum. Hic autem liber est Scripturae, qui ponit similitudines, proprietates et metaphoras rerum in libro mundi scriptarum. Liber srgo Scripturae reparativus est totius mundi ad Deum cognoscendum, laudandum, amandum; Coll. in Hexaëmeron, coll.16, n.7. 52 例えば、次のような個所に登場する。Thomas Aquinas, S.T.1, q.91, a.1, c.: Et ideo dicitur corpus hominis de limo terrae formatum, quia limus dicitur terra aquae permixta. Et propter hoc homo dicitur minor mundus, quia omnes creaturae mundi quodammodo inveniuntur in eo; In 2 Sent., d.1, q.2, a.3; In 8 Phys., lect.4; McEvoy 1986, p.380;トルファシュ、99 頁。

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完全な徳(virtus imperfecta)」であり、そこで人間が至福へと到達する上で枢要徳は対神徳

によって再定位される必要があるというのが、『ヘクサエメロン講解』あるいは他の諸著作

を通じてのボナヴェントゥラの一貫した理解であったわけである。

ところで、枢要徳が対神徳によらない限り、人間を至福へと導くことができないことは確

かである。しかし、それにもかかわらず、哲学者の語るものとしての枢要徳はボナヴェント

ゥラの思想体系の内に一定の位置を占めている。実際、本提題が考察の中心とした『ヘクサ

エメロン講解』でも、枢要徳は神による光の創造、つまり自然理性の光が注がれる「創造の

六日間」の第一日目に置かれ、上と下の水を分ける中間の堅固な場所の創造に対応するもの

としての信仰の注入が第二日目に続いていく53。そこで、創造の六日間の個々の日が前日の

業の完成を前提とし、その上に積み重なっていくということからすれば、創造の第一日目に

置かれる枢要徳も人間が完成へと向かう歩みの中で修めるべきものとして位置づけられ、

人間はそうした枢要徳の獲得をもとに自己を整える段階を踏まえることで、次の段階へと

進んでいくことができるのである54。

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53 Bonaventura, Coll. in Hexaëmeron, coll.3, n.25-26. 54 先の《引用 6》における枢要徳がその「高貴さ(nobilitas)」のゆえに世界の在り方に対応するという言葉はボナヴェントゥラの枢要徳理解の一端を窺わせる。

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