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87 総合文化研究所年報 第25号(2017)pp.87−102 コスモポリタニズム(Cosmopolitanism)と ローカリズム(Localism) ─リスク社会に於ける比較研究の可能性─ 橋本 典子 〈要旨〉 21世紀に相応しい比較研究の在り方とその方法論とを探究した。従来の比較研究は 東西の比較がその多くを占めていた。しかし現在はインターネットやメディアが容易 に国境を越えているトランスナショナルな世界であり、特に温暖化等の未知の地球規 模の危機の時代である。21世紀の現実分析をウルリッヒ・ベックの『グローバル化の 社会学』を手掛かりに近代を「第一の文化」「第二の文化」そして弁証法的展開後の 「第三の文化」と位置付け、その特徴を、国家を前提とし国家を不可欠とするトラン スナショナルな世界という、国家と地球の様々な地域を包含する全体としての世界、 という二重構造でとらえる。それはコスモポリタン的社会である。空間的近接性と遠 隔性が逆転する世界である。ハーバーマスは「世界市民的連帯」を掲げる。新たな問 題に目覚めた市民達の連帯である。世界の様々な断片的部分から自らの「生の遍歴」 を経験し、他の世界市民と連帯をすることで、自らの新しい「場」を創造する人間の 内部で21世紀の比較研究の可能性が開けてくる。 キーワード: コスモポリタニズム、世界市民、ウルリッヒ・ベック、ユルゲン・ハーバーマス、トラ ンスナショナル グロバリゼーション(Globalization)が声高に語られた時、我々の「家(Eco-oikos)」 はこの地球であり、地球はカントが『永遠平和のために(Zum ewige Frieden,1795)』 で指摘したように、≪地球の表面は限られており我々はこれを共有空間として考察しなけ ればならない≫、という基本的な命題を自覚したのであろうか。今や世界、特にヨーロッ パはカントが「客人の権利ではなく訪問の権利」を認めるべきであるとした事態から、「居 住の権利」つまり新しい場に生活する人々の権利と義務そしてそれらの人々を受容する側 の意識の問題に直面することとなった。21世紀の最大の課題は地球という共有空間に「共 に生きる(live together)」ことであり、この問題は単に理論上の課題ではなく実践上の 問題である。グロバリゼーションの問題は現実の問題である。グロバリゼーションの実現

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コスモポリタニズム(Cosmopolitanism)と

ローカリズム(Localism)─リスク社会に於ける比較研究の可能性─

橋本 典子

〈要旨〉 21世紀に相応しい比較研究の在り方とその方法論とを探究した。従来の比較研究は東西の比較がその多くを占めていた。しかし現在はインターネットやメディアが容易に国境を越えているトランスナショナルな世界であり、特に温暖化等の未知の地球規模の危機の時代である。21世紀の現実分析をウルリッヒ・ベックの『グローバル化の社会学』を手掛かりに近代を「第一の文化」「第二の文化」そして弁証法的展開後の「第三の文化」と位置付け、その特徴を、国家を前提とし国家を不可欠とするトランスナショナルな世界という、国家と地球の様々な地域を包含する全体としての世界、という二重構造でとらえる。それはコスモポリタン的社会である。空間的近接性と遠隔性が逆転する世界である。ハーバーマスは「世界市民的連帯」を掲げる。新たな問題に目覚めた市民達の連帯である。世界の様々な断片的部分から自らの「生の遍歴」を経験し、他の世界市民と連帯をすることで、自らの新しい「場」を創造する人間の内部で21世紀の比較研究の可能性が開けてくる。

キーワード: コスモポリタニズム、世界市民、ウルリッヒ・ベック、ユルゲン・ハーバーマス、トラ

ンスナショナル

グロバリゼーション(Globalization)が声高に語られた時、我々の「家(Eco-oikos)」はこの地球であり、地球はカントが『永遠平和のために(Zum ewige Frieden,1795)』で指摘したように、≪地球の表面は限られており我々はこれを共有空間として考察しなければならない≫、という基本的な命題を自覚したのであろうか。今や世界、特にヨーロッパはカントが「客人の権利ではなく訪問の権利」を認めるべきであるとした事態から、「居住の権利」つまり新しい場に生活する人々の権利と義務そしてそれらの人々を受容する側の意識の問題に直面することとなった。21世紀の最大の課題は地球という共有空間に「共に生きる(live together)」ことであり、この問題は単に理論上の課題ではなく実践上の問題である。グロバリゼーションの問題は現実の問題である。グロバリゼーションの実現

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は、メディア界から始まり、経済界に於ける多国籍企業の出現、インターネット社会の成立、国境を越えた(trans-boundary)、或いは超国家的(trans-national)な問題の政治的解決の追究等によって実際には、地球上のあらゆる場で富めるものと貧困にあるものとの間の格差の増大へと至り、新たな課題を我々に課している。

20年前、1998年のボストンでの哲学国際会議の世界大会のテーマは「グロバリゼーション」であった。そのころ国連では言語の問題が中心的課題として論議されていた。指摘されていた事実は1年に5,000の言語が地球上から消えている、つまり祖父母の語る言語が孫世代に理解されず彼らの間にコミュニケーションが成立しない、祖父母の世代と共に日常言語が消滅している、という事である。言語が消滅することはその言語によって伝えられてきた神話が消えていくことである。神話ばかりでなく、その言語が担った英知が失われることである。これは人類の損失である。その頃、会議での公用語を英語にしようという強い要請があった。グロバリゼーションは世界一様化、言語の画一化、それの担い手は英語化であった。英語化現象は20世紀の技術革新に後押しされて、メディアのアメリカ化

(CNN、BBC)、インターネット社会の成立で決定的となった。そして今や日本でも初期教育の中に「バイリンガル」を育成しようとする方向性が受け入れられた。1言語、この場合英語のグロバリゼーション化は、文化の多様性に対して後退している様にも見える。特にグロバリゼーションは言語を通じての「相互理解」を深める一方で、地球上のあらゆる場で行われてきた様々な文化的歴史的特質についての「対話」の可能性を弱めてきているのではないか。例えば日本におけるアイヌ語の研究は金田一京助のアイヌ口承叙事文学

『ユーカラ』の研究が出発点であり、現在ではアイヌ民族の伝統を守り再現する試みが続けられている。私は中学生の時、金田一京助の『ユーカラ』と題する講演を聞いた。それは刺激的であった。-まず、金田一はアイヌの子供たちと仲良くなって「まず紙に滅茶苦茶な線描きの絵を描いた。すると子供たちが『それ何?』と聞いたので私は一番大事な

『何』というアイヌ語を知った。その後この『何?』という言葉で物の名前を一つ一つ子供達に問いかけた。私のアイヌ語の先生は子供達であった。」─と語った。アイヌ語を話しアイヌ研究の専門家コペンハーゲン大学クロス文化及び地域研究学部(Department of Cross-cultural and Regional Studies)のレフジング教授(Kirsten Refsing)に、比較研究の新たなプロジェクトを進めているが、従来の東西の比較研究は評価しつつ、現在これは乗り越えられなければならない、新たな視点が求められていると私は感じると語り、新たな視点へのアドバイスを求めた。「あなたにとって現代の比較研究の目的は何ですか?」という私の問いに、レフジング(Kirsten Refsing)教授は即座に「自分の偏見(Prejudice)を自覚することです。誰でも生まれながらに偏見を持っていますが、このことに気が付いていません。偏見に気が付きこれを直すには時間がかかります。」と答えた。最初、「偏見」という語に違和感を覚えたが、私はまずこれを受け入れてみようと考えた。

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1.比較研究の始まり

言語の比較という点では「翻訳」は比較研究の始まりと言えるであろう。1799年ナポレオンがエジプトに遠征した時に発見された「ロゼッタストーン(Rosetta Stone)」は、BC.196に彫られたと考えられているエジプトの神聖文字(ヒエログラフ)、民衆文字(デモティック─線上B文字)、ギリシア語の3文字で同一の文章が表現されていた。ここからヒエログラフの解読の歴史が始まった。更に古代のギリシア語からラテン語への翻訳は比較を前提としている、と言ってよいであろう。しかし比較研究という点では私はカンブレ大司教、フランソワ・フェヌロン(François Fénelon, 1651-1715)の『死者たちの対話

(Dialogue des morts, 1690)』を挙げたい。フェヌロンはその第7対話にソークラテースと孔子の対話を挙げている。(その他には、プラトンとアリストテレース、デモステネスとキケロ、デカルトとアリストテレース、等歴史的な比較である)東西の比較という点ではソークラテースと孔子が唯一である。東洋に対する憧れはマルコ・ポーロの『東方見聞録

(1299)』から始まったのであるから、17世紀に至って、本格的な研究がはじまっている、と言ってよいであろう。フェヌロンはソークラテースと孔子の共通点と類似点とを挙げている。最初にヨーロッパの人々は孔子を「中国のソークラテース」と呼んでいる、とソークラテースは言う。我々は東西ではあるが、共通点はほぼ同時代に生きていたこと、2人とも貧しく、謙虚であり、人々を有徳な人間にするべく大変な情熱を持っていたこと、である。孔子は礼儀正しく語り「中国のソークラテース」と呼ばれていることを光栄である、と返す。ソークラテースは理性的且弁証的にかかる類似性の理由を問う。孔子はつねに論理且美的な答えを簡潔に行う。フェヌロンの筆はソークラテースに常に問をさせ、孔子はこれに対して短く答える。その対比は、ソークラテースの長い表現による問いに対して

『論語』の孔子のごとく簡潔である。二人の大きな違いは、ソークラテースが世界を徳で照らすような教養ある少数の弟子たちの学校を創ったのに対して、孔子は中国の帝国のあらゆる場所に有徳な人々を搬出させるために多くの弟子たちを育てた、つまり中国の社会を教化することを考えていた。ソークラテースは何も書かず、ただ語った。これに対して孔子は『禮記』の一部分を自ら書いた。この記述によると既に17世紀には孔子の『論語』や『禮記』が研究されていたことが明らかである。更に18世紀にはトックビル(Tocquville, 1805-1859)による『アメリカのデモクラシー(De la démocratie de Amérique)』が書かれている。トックビルは、アメリカの刑務所調査のため様々な都市を訪問、そこで人々と対話をしその結果を報告している。比較研究の点で注目すべきことは民主主義を守るために、個人主義(Individualism)は容易に利己主義(Egoism)に陥りやすい、アメリカの人々はこれを避けるために「結社(Association)」を創っている、この点がフランス革命後のフランスとアメリカの大きな違いである。この「結社」の考えは現在でも生かされ、特に知的な共同研究への発展は注目しなければならない。(ただしトックビルの「個人主義」は実存主義の個人主義、例えばキルケゴールの Individu(これ以上分割できない個として

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の実存的存在、今ここの存在、「自己としての私」とは区別すべきであろう)。今道友信は『現代の思想』の中で比較研究について次のように書いている。

「すでに19世紀に Hegel が『歴史哲学』を書いていた時、一つの大きな学問的事件としてサンスクリット語の発見があった。ヨーロッパの古典文化を支えるギリシア語と同じ高水準の言語が、しかもその祖としてインドにあった、という事実は、ヨーロッパ人に自己と文化的同位の文化圏がよそにあったという発見になる。カッシラーはこのことを人文科学にとってはコペルニクス的転回である、という。それは西洋の学問が自律的で唯一の文化である、と確信していた西洋の学者たちにとって一大驚異であり、それから比較研究が始まる。…比較言語学は19世紀後半、サンスクリットの泰斗ミュラー(Müller)に始まり、それによって神話解読が世界的に進展したので、比較神話学や比較宗教学も成立…シュペングラーは1922年に Der Untergang des Abendlandes『西洋の没落』を著わし、西欧文化の文化独占の終結を予感し比較文明論の先駆となった。」(pp.63-64)

つまり、ヨーロッパにとってのサンスクリット語の発見は驚嘆であった。サンスクリット語は古代ギリシア語より古く、様々なヨーロッパ言語の基の言語である。ヨーロッパの文化に匹敵する文化がアジアにもあった、しかもサンスクリット語はヨーロッパの言語の祖であり、現在ではインド=ヨーロッパ語族と言われている。西欧文化を中心とし、西欧文化の独占の終結から東西文化の比較が始まったのである。比較研究は、比較されるべき個々の文化が高水準で同等の価値を認める場合に可能になる。

2.東西の比較研究、「芸術の同一概念の同時的逆転変」

東西の比較研究の一例として今道友信の芸術概念「表現(expressio)」と「模倣(imitatio)・再現(representatio)」の同時的逆転変を挙げよう。

西洋が古代ギリシア以来「模倣(imitatio)」を芸術理念とし、これが17世紀まで続いた。18世 紀 に デ ィ ド ロ(Denis Didroit, 1713-1784) が『 絵 画 論 』 の 中 で 初 め て「 表 現

(expressio)」の語を使用し芸術家の内面表現に展開した。つまり、「模倣」から「表現」である。これに対して、東洋は古代中国の絵画論で「表現(expressio)」が重要とされていたが19世紀に渡辺崋山(1793-1841)に至って写実が重んじられ「再現(representatio)」へと展開した。つまり東洋に於いては「表現」から「模倣」である。

周知のように、古代ギリシアの芸術の中心概念はミメーシスである。⑴ プラトーンに於いてはデミウルゴスがイデアを観ながら作品を創造したように、イデ

アを現実界で具体的事物に造形化する、つまり垂直的にイデア界の理念をミメーシスすることが理想であった。『イオン』では、ホメーロスは神がかりの狂気(mania, マニア)によってミューズの女神の世界に入り、ミューズの語る「怒り」を人間の言葉に翻訳した。(『イーリアス』の初めは「怒りを歌へ、女神よ」で始まる)それはミューズの女神

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の言葉をミメーシスすること(模倣、再現すること)で叙事詩を通して人々に真実を伝えた。

⑵ アリストテレースは『詩学』に於いて、ギリシア悲劇の主人公は現実に考えられる人物で、そのうちでも最も理想的な典型(typus)を求めて、その行為を模倣する、水平的なミメーシスを求めた。しかも最も理想的な人物は有徳で常に模範的な行為をする。しかし、運命の女神(テュケー)に翻弄され、最終的に絶望に陥る、その行為を模倣することが求められている。

  発見的認知(アナグノーリシス)と逆転変(ペルペテイア)が同時に起こる最も理想的な悲劇としてアリストテレースはソフォクレースの『オイディプス王』を挙げている。

西洋において、expressio(ex-press)の語は最初「農業用語」であった。その意は上から圧力をかけて(press)、最も大事なものを離して(ex、eks、そこから離れて)出す。ブドウの収穫の際に、その「最も大事なものを出す」、つまり“ブドウの汁を絞り出す”意であった。ディドロはこの語から芸術創作の場に expressio を使用して、「自分の内面

(本質)を出す」、つまりこれを「表現」とした。(ディドロ,『絵画論』)従って、西洋の芸術論は外界を「ミメーシス(再現)すること」から18世紀に「自己の内面の表出、表現」へと展開した。

中国に於いては、5世紀後半の謝赫(しゃかく)の理論を受けて、9世紀に趙彦遠(ちょうげんえい)が『歴代名画記』の中で「品等論」を展開、そこで画論の六法を挙げてこれを考察している。画論六法とは1)「気韻生動」2)「骨法用筆」3)「応物象形」4)「随類賦彩」5)「経営位置」6)「伝模移写」である。このうち第一は「気韻生動」つまり「気が生き生きとしていること」である。山を描く場合、山の「気」、つまり山の本質が描かれているか否か、という問題である。中国の「画論」では文人画が高く評価されていた。文人とは、儒教的有徳者であり、科挙に受かり、社会に於いて文化的支配階級に属していることが求められた。元の文人画家、黄公望は「画は意を表現するものである」と言った。「意」とは「本質」である。また唐の文人画家、王維(699-759、または701-761)は、「山を描くとき、その山が○○山と明示する必要はない」と語り、のちの蘇軾は、王維の作品について「詩中に画あり、画中に詩あり」と言っている。東洋に於いては、画の六法に明確なように「応物象形」物に応じて形を創ること、「伝模移写」西洋のミメーシスに当たる

「模倣すること」は後方に置かれている。日本の絵画では肖像画が重要であるが、源頼朝の肖像画は写実的とは言えない。征夷大将軍となった頼朝の「偉大さ、大きさ、権威付け」のために顔に比べて装束の部分が大きい。この肖像画は写実的とはいえない、明らかに頼朝の「本質」を描いている。

しかし、江戸時代、渡辺崋山(1793-1841)によって日本画、特に肖像画は大きな変化をする。崋山は文人画家、谷文晁に師事するが、彼自身西洋の遠近法、彩色法を学んで陰影技法を取り入れた「鷹見泉石像」(国宝)を描いた。彼は「写実的に描きなさい」と語っ

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た。当然、江戸時代にはオランダの影響で科学的観察が称揚されていた。従って、東洋に於いては「表現」から「再現」に芸術の概念は変化していった。

今道友信の「芸術の同一概念の同時的逆転変」「逆現象の同時展開」の主張は20世紀後半の東西の比較研究の一つの成果と言ってよいであろう。ところで現代21世紀の比較研究はどのように考えるべきであろうか。

3.21世紀の現代社会−リスク社会(ウルリッヒ・ベック)

⑴ 教皇フランシスコ『回勅ラウダート・シ─ともに暮らす家を大切に』2015年5月24日精霊降臨の主日に現在の教皇フランシスコによって全世界に向けて『回勅ラウダート・シ』は発令された。『回勅ラウダート・シ』は「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ」「私の主よ、あなたはたたえられますように」という賛歌の言葉から取られている。更にアッシジの聖フランシスコの『太陽の歌』「わたしの主よ、あなたはたたえられますように、私たちの姉妹である母なる大地のために。大地はわたしたちを養い、治め、さまざまの実と色とりどりの草花を生み出します。」を参照し、母なる大地の大切さを訴えている。大地は、我々人間を育み、自然の営みを生じさせる。

⑵ しかし、我々は地球の現状に注目しなければならない。我々は地球の現状、大地の現状をそこに生きる最も貧しい人々に連関すると捉えなくてはならない。『回勅』では次のように言う。「わたしたちは自らを、地球をほしいままにしてもよい支配者や所有者とみなすようになりました。罪によって傷ついたわたしたちの心に潜む暴力は、土壌や水や大気、そしてあらゆる種類の生き物に見て取れる病的兆候にも映し出されています。こうして、重荷を負わされ荒廃させられた地球は、見捨てられ虐げられたもっとも貧しい人々に連なっており、「産みの苦しみを味わって」(ローマ、8.22)いるのです。」

(p.10)と。つまり、我々は地球の支配者や所有者の如く振る舞い、人々の心に内在する暴力を地球上に及ぼし、その結果地球に存在する諸々の生物の「病的兆候」を引き起こし、その結果、このような地球の現状は「見捨てられ虐げられた最も貧しい人々」と繋がっている、という現状把握をすることである。

『回勅』の大きなポイントは「富はあらゆる人のためにある」という考えである。つまり、「大地(地球)は本質的に共通の相続財産であり、その実りは、あらゆる人の善益のためにある」。従って「あらゆるエコロジカルなアプローチは、貧しい人や不遇な人の基本的権利を考慮する社会的視点を組み入れなければならない。」(p.85)環境について考察することは、社会的視点、特に経済的視点を導入しなくてはならない。そして「財貨は万人のためにある、すなわち、誰もがそれを用いることが出来るという権利に私有財産は従属するという原則は、「倫理的、社会的秩序全体の第一原則である。」」(p.85)と語る。このことについて、聖ヨハネ・パウロ二世は次のように述べた。即ち「神が大地を全人類に

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与えたのは、人類のだれ一人としてかけることなく生命を維持するためであり、神は何人も排除したり、優遇したりしませんでした」と。神が大地を人類に与えたのは、すべての人間が生命を維持するためであり、その意味ですべての人は生まれつき平等である、という主張である。ところが、21世紀の現実は大きな問題を我々に課している。「遺伝子組み換え穀物の導入後、…小規模生産者たちが直接的な生産から…どんどん姿を消していくことによって、生産性のある土地が少数の地主の手に集中しました。…弱い立場の人々は時間労働者となり、多くの農業従事者は都会の貧困地区に移り住む破目になっています。こうした作物の拡大は、生態系の複雑なネットワークの破壊、多様な生産活動の減退、現在そして将来における地域経済への打撃をもたらします。」(p.119)例えば、現代技術の最先端、農業における遺伝子組み換え技術は、生産形態を変えるばかりでなく、また「生態系の複雑なネットワーク」を破壊し、多くの農業従事者を都会の貧困地区に移動させ、生産活動の多様性を維持できなくさせ、現在および将来の地域経済に打撃を与えている。

エコロジー(環境)は、その全体を形成するためには生態系すべてが互いに連関していることを理解しなければならない。「わたしたちは自然の一部で、その中に包摂されており、それゆえ、自然とのたえざる相互作用の中にあります。」(p.124)と『回勅』の中にも明確に語られている。我々は「自然の一部である」。環境としての自然を破壊することは我々自身を破壊することでもある。従って、「様々な自然システム間の相互作用及び社会の諸システムとの相互作用を考慮した包括的解決の探究が不可欠です。私たちは、環境危機と社会危機という2つの危機にではなく、むしろ、社会的でも環境的でもある一つの複雑な危機に直面しているのです。解決の戦略は、貧困との闘いと排除されている人々の尊厳の回復、そして同時に自然保護を、一つに統合したアプローチを必要としています。」

(p.124)『回勅』では、21世紀の危機が環境危機と社会的危機の2つの危機ではなく社会的且つ環境的な一つの複雑な危機であることを明言している。そしてそのために我々は貧困と闘い、貧困によって排除されている人々の尊厳を回復し、自然環境を保護することが求められる。全体を形成するのに欠くことのできないエコロジーは人間の「共通善」と関わる。「共通善」とは何か。つまり「全人的な発展に向けて譲渡不可能な基本的諸権利を付与された人格として人間を尊重する」(p.138)ことで「集団と個々の成員とが、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるような社会生活の諸条件の総体(第2バチカン公会議)」の実現を求めることである。そのためには「連帯」が必要である。何のための「連帯」か。「環境」「それは授かりものの論理に属しているのです。環境はあらゆる世代に貸し付けられているであって、いずれ次世代へと手渡さねばなりません。」(p.140) 従って我々は未来の世代のために環境を保護しなくてはならないのであって、これを破壊してはならない。我々が持つべき「連帯感」は「神から託された共通の家に住んでいるという自覚」

(p.142)であり、この「共通善」の追究は、時空間軸を超えて考えられるべきである。『回勅』はカトリックが全世界に向けて発信した現状分析と決意そして訴えである。ペーター・ケンプ(Peter Kemp, 1937-)は「貧困との闘い、排除された人々に人間の尊厳を

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与え、同時に自然を保護する、全体的(完全な)一つの接近を要求する解決の可能性」への視点を持つこの『回勅』を、「革命的な教皇の報告」とみる。これは社会の全面的な批判である。それは新しいパラダイムと技術から生じた様々な形の力(pouvoir)に対する批判である。つまり経済とその発展を見直すこと、一つ一つの被造物の本来的価値を再考し、環境を人間的な方向で理解する「別の方法」を追求しながら、真摯な且誠実な議論をし、国際及びそれぞれの地域の政治の重い責任を考え、廃棄物に対する文化的考え方を変え、「新しい生活スタイル」を追求することである。特にここ10年間の地球温暖化については数多くの科学研究が警告してきた。地球温暖化は人間活動による温室効果による、と。地球温暖化の結果、極地やグリーンランドを含む氷が解け、フィリピンや南太平洋の島々は海面上昇によって水面下に沈んでしまう。それぞれの島々はそこ特有の海洋文化を営んできた。特にインドネシアからオーストラリアにかけてはフランシスコ・ザビエルが日本に来る前に布教をし、現在でも多くのキリスト教徒が住んでいる。

それぞれの地域は、歴史的に固有の文化を持っている。このようなカトリックの『回勅』はそれぞれの文化圏とどのように関わるべきなのであろうか。1900年代を「危機の時代、リスク社会」と見たウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck, 1944-2016)の『グローバル化の社会学』を手掛かりに21世紀の比較研究の在り方を見ていきたい。

まず、ベックは「グローバリズム」と「グローバル化」とを明確に区別し、彼は「グローバル化」について提言する。この書籍の「はじめに」でベックは、「グローバル化とはなにを意味するのか。そして、どうすればグローバル化を政治的に形成すること(gestalten)が可能となるのか。」(p.9)と、彼自身の問題意識を語る。ベックによると「グローバル化」は政治の終焉を示すと思われたが、そうではなく「政治的なものが国民国家というカテゴリーの枠組みから離脱していく兆候さえ示している」が、「政治的な形成(Gestaltung)の試みに対して完全に閉ざされていたように見えた産業社会の制度が破られ、そこに政治的に介入できる余地が生まれた。」(p.12)そしてベックは問う。「なぜグローバル化は政治化を意味するのか」と。(p.13)「グローバル化」によって、今まで制御されてきた資本主義の活動力を拘束から解き放ち、特にグローバルに活動する企業は単に経済を形成するだけでなく、社会全体を形成するうえでも中心的役割を担うことになってきた。企業は利益の拡大のために、労働を削減し、労働を削減せざるを得ないからその政策は秘かに別のものに変質する。その結果、「いまでは経済成長を刺激するものは結局失業を生み出すのである。」(p.15)という事になった。グローバル化の政治は、「国民国家という足かせを外すことを目指す」が、それは国民国家の政治を無力なものにする。ベックは「サブ・ポリティックス」の概念を使って説明する。「サブ・ポリティックス」とは、グローバル化の政治によって、政府の決議や法律の変更も公共圏での議論もなく、世界社会という枠組みの中で政治システムの領域を越える経済行為と権力の可能性が問われ、それによって社会的なルールが書き換えられていくことである。従来の経済的行為は特定の場に結び付けられていたが、「グローバル化」の結果、世界社会が形成され、その結果、国民国家が相

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対化され、コミュニケーションのネットワーク、ライフスタイル等が特定の場所と結びつくのではなく、あらゆる場所で多元性を生み出し、その多様性が国民国家の領界上を容易に超えて互いに結びついている。

このような経済成長の騎士である多国籍企業の住人達はその国家にサービスを求めるくせにその国家への納税を逃れており、ベックの言葉では「仮想の納税者」になっている。その結果、納税の原理である国家の権威を徐々に弱体化させている、つまり国民国家の一つの支えである税金という支柱が崩壊されてきている。

現実はどうであろうか。「利益は伸びて雇用は失われる。」(p.19)新たな経済の奇跡が国民を恐怖に陥れる。

「EU 諸国はここ20年で50-70パーセント豊かになりました。経済は人口の増加よりもはるかに速いペースで成長しました。にもかかわらず、EU には今日2,000万人の失業者、5,000万人の貧困層、500万人のホームレスがいます。…増加した富は…? 人口の10パーセントである富裕層だけを豊かにするということを、私たちはアメリカを見て知っています。この10パーセントの人口が、成長で加わった富のうち96パーセントを手に入れました。」(p.20)

つまり貧しいものと富める者との格差がますます大きくなると同時に従来の国民国家の政府はこのことに対して無策である。

「超多国籍企業は、第一にインフラストラクチャーの質を最良のものにさせ、第二に補助金を受け取り、第三に税金を最少にさせ、第四に失業者のためのコストを外部化することによって、いわば四重に補助金を与えられる。(p.22)」という新しい構造が見えてくる。これはすべて国民国家を弱体化すること以外の何ものでもない。

ベックは更に、「国民国家による第一の近代モデル、言い換えると、(「国民」という)文化的アイデンティティと空間と国家とが一体をなすとみなされ組織されてきたモデルは疑わしいものになるが、それだからと言って、人類と地球と世界国家とから形成される新しい統一が見えてきたわけでもなければ、それが望ましいものになったわけでもない。」

(p.23)と、語る。つまり、第一の近代モデルとは、国民国家という形で空間と国家と文化的アイデンティティとが一致し一体となっていたこと、であるが、これに疑義が唱えられている。ではその先が見えるのか、というと論理的には「人類と地球と世界国家」であるが、これはまだ見えてこない。比較研究は従来ベックの言う第一近代モデルを基礎に行ってきたのではないか。ベックによると、哲学がポストモダンを語り、理性によって「モダンの死亡診断書」を書き、更に「個人化」によって社会の凝集性が失われ、そのため「社会はその集団的自己意識」を失い、政治的力をも失った。更に経済の分野では、「資本主義は労働を必要としなくなり、失業を生んでいる」(p.24)という経過を経ている。また、

「グローバル化」に近いが、グローバリティとも区別する。グローバリティとは、「我々ははるか以前から世界社会の中で生活している」(p.28)、今や「閉ざされた空間」は虚構になる、従って、どんなグールプも互いを締め出すことはできない、つまり「様々なエコロ

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ジー的、文化的、政治的形態が相互にぶつかりあう」社会、このような「世界社会」は「国民国家の政治に統合されない、あるいはそれによって規定されない(規定しえない)社会関係の総体である。」(p.28)と考える。グローバリティは、ベックによると第二の近代の状況を、何故政治が新たな形で創造されなければならないか、の理由を明らかにする。このような歴史的展開を経て、つまり弁証法的な展開によってここに新たに第三の文化が出てくる。これが「過程としてのグローバル化」である。ベックは「この過程はトランスナショナルな社会的結節点と社会的空間を作り出し、ローカルな文化の価値を引き上げる」

(p.31)と語る。「今日の(そしておそらく将来の)グローバル化の過程の特殊性は、文化的、政治的、

経済的、軍事的、エコロジー的領域に於いて、社会的空間とメディアによるイメージの流れとならんで、リージョナル─グローバルな関係のネットワークとマスメディアによるこのネットワークの定義が、経験的に確認されうるような広さ、密度、安定性にまで到達した点にある。したがって、世界社会は、すべての国民社会(Nationalgesellschaft)がその中に含まれ溶け込んでいくメガ国民社会ではなく、多様性と統合されていないこと、を特徴とする世界地平である。この地平は、コミュニケーションと行為によってつくられ保持されるときに開かれるのである。」(p.32)と確認した後で、ベックは「グローバル化」は非 - 世界国家でもある。世界国家と世界政府を持たない世界社会である。」(p.33)と言う。

4.コスモポリタニズムにむけて

カントは『永遠平和のために』の彼自身の注で、初めてコスモポリタンの語を使い、民主主義社会は世界市民の社会(Weltbürgergesellschaft)においてはじめて可能になる、とした。ベックは次のように語る。「カントは、多数者による自己統治をみずから考えみずから行為することと結びつけて考えていただけではない。むしろこの自己統治は、a)グローバル市民社会の自己経験4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、およびb)普遍的に妥当する基本権の関係4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

を前提にしている。」(p.174)と語り、グローバル市民社会の必要条件を語る。そして今やグローバル社会が現実に実現していることを認める。そして「多文化社会は空想の産物ではなくグローバルな現実である。…多文化社会は自動的に寛容な社会になるわけではなく、分裂や外国人嫌悪に行きつくこともある。…ひょっとすると国境横断的、文化横断的な生活形式が普通になる社会の新時代の幕開けかもしれない。」(p.176)と期待を込めて語る。そしてb)についてトランスナショナルに妥当している基本権がコスモポリタン民主主義を基礎づけている、とみる。更に「カントによれば、基本権の妥当性にかんして重要なことは、さまざまな国籍をもつ国家市民のあいだにもろもろの権利を積みあげていき、最後にはすべての人々に対して世界市民としての権利(Weltbürgerrecht)を保障することである。このことは、さまざまな(政治的および社会的)諸権利の内容を各国の内部に積みあげていくことを含んでいる。したがって、基本権の関係がグローバルに妥当するときにはじめ

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て(そして暫定的な仕方でのみ)、文明は野蛮から守られる。」(p.182)と語る。つまり現実は、グローバルな時代が既に始まっていて、次のことが該当する事態である。「国民国

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家は世界社会なしでは存在せず4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、世界社会は国民国家なしでは存在しない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

。」(p.202)更にベックは「(世界社会は)一方では(まだ)秩序を欠いていること、他方では(まだ)制度を欠いている4 4 4 4 4 4 4 4

ことである。世界社会における「世界」とは、「統一性なき多様性4 4 4 4 4 4 4 4

」のことである。これに対して「国民的」社会とは、「制限された多様性をもつ統一性

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」のことである。」(p.202)

したがって「世界社会とは、固定した領土をもたず、統合されておらず、排他的でない「社会」のことである。…〈世界社会における〉この場所とのつながりは、むしろ国民国家の社会像が想定していた空間的隔たりと社会的隔たりとの等置

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

を廃棄する。その結果として「トランスナショナルな」生活空間が生じてくる。」(p.203)現在は国民国家の社会が考察の軸としていた空間的隔たりと社会的隔たりの「等置」が廃棄されている。ただし、このトランスナショナルということを我々は「国家間」と捉えてはいけない。「トランスナショナルな共同生活とは、地理的には遠いにもかかわらず

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社会的には近いということを意味する。あるいは逆に、地理的には近いにもかかわらず

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社会的には遠いということを意味する。」(p.203)と。しかし、このことは人間のアイデンティティに問題を生ぜしめる。つまり、「複数の場所にわたるトランスナショナルなグローカルな生活遍歴では、人間どうしが接触し交わる地点が拡大し、何倍にも増大する。ひょっとするとその典型は、コンピュータを介したコミュニケーションの(ヴァーチャルな)つながりの形式かもしれない。」(p.203)このコンピュータやメディアによる人間の対話の積極的評価に基づく現代社会の描き方は、未来に対する期待が込められている。

ここで我々は「グローカル化」について考察しなくてはならない。ベックはローランド・ロバートソンを紹介して、「ローカルなものとグローバルなものが互いに排除しあうものではないことを論じている。ローカルなものはグローバルなものの一側面だと考えなくてはならない。グローバル化とはまた、いくつものローカルな文化が集まり互いに出会うことであって、ローカルな文化はこの「ローカル性の衝突」において、内容のうえで新たに規定されなければならない。ローバートソンは、文化のグローバル化という基礎概念を、グローバル化とローカル化を合成した「グローカル化」という語に置き換えることを提唱している。」(p.99)つまり、グローバルな文化は静態的ではなく、偶発的で弁証法的なプロセスである。したがって、ローカルな文化は相互に矛盾を含んだまま、ひとまとめに考察される。グローバル文化は巨大で外的なものに思われがちであるが、グローカル化のモデルに従うとグローバル化は小さなもの、具体的なものに於いて捉えられ、そこに於いてあらゆる文化研究として経験可能となる。

ベックは何度もユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas)に言及している。「世界市民的連帯」の形成について、「世界社会では一見分離しているかに見える複数の世界のあいだに新たな近さを生み出している」(p.119)、つまり新たな世界の問題に目覚めた市

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民が国家を超えて互いに連帯しあっている、と言う現実である。地球温暖化の問題はそれらの目覚めた市民達の連帯(世界市民的連帯)によって解決が目指されている。

5.「グローカル化」された世界、「第三の文化」での比較研究

現代社会は、ベックによると弁証法的展開をした「第三の文化」の社会である。「第三の文化」とは国民国家と「世界社会」とが次元を異にして二重構造化していることその総体である。「世界社会」では、資本、法、文化、テクノロジー、政治が活発にまた複雑に動いているある種の新世界である。問題となるのは、「世界社会」の新しい未知と混沌から生じる「危機」であり、そこには力の格差が歴然としてある。我々が認識しなければならないのは、「国家は時代遅れになっただけではなく、不可欠なものでもある、ということである。」(p.210)更にハーバーマスの次の言葉は大切である。「複数のレジームの市民社会と政治的公共圏において、コスモポリタンとして強制力をもちつつ連帯しようとする意識が芽生えるかどうかである。市民意識が内政に影響をおよぼすように変化したことによるこうした圧力のもとではじめて、グローバルな行為能力をもったアクター(行為者)の自己了解も変化し、選択の余地なく共同してお互いの利害を尊重しなくてはならない共同体のメンバーとして自らをより一層理解できるようになるのである。」(p.211)、つまり、国家の意識と目覚めた市民意識とトランスナショナルな意識をもつ市民が求められる。

ではその中で比較研究はどのように考えるべきなのか。明確な答えはない。私はここで私の経験した最近の新しい意味を持つ比較研究の実例を挙げてみようと思う。⑴日本とデンマークの国交150年を記念した特別展、”Japanomania” と⑵マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』である。⑴ 「北欧のジャポニズム」と考えて良い。パリの万国博覧会(1887)やロンドンの万国

博に北欧から実際に出かけた芸術家、またはその後のフランスのジャポニズムの影響(1800-1900)を受けた芸術家の作品の展覧会であった(於デンマーク国立美術館)。その初期の作品では画中に着物、屏風、扇子が描かれる、という形であったが、デンマーク所有の浮世絵(特に風景画─北斎とその多くは広重)が展示され、浮世絵が北欧の芸術にどんな影響を与えたのか、が追究されていた。最大の影響は「自然観の変化」「自然を捉える視点の変化」であった。特に広重の「雪景色」の表現、雪が木の上に覆いかぶさっているような表現は大きな影響を与えた。新しい芸術表現の特徴は非対称性、単純化、新たな様式性にあり、構図の変化には著しいものがある。また自然の細かいところに目を向ける、微細な表現に対する尊敬の視点である。構図で最も影響を受けた点は、近景の植物を画面全体に描き、その植物の間を通して遠景を描くという技法である。更にノルウェーのムンク(Edvard Munch, 1863-1944)の『思春期』の背景の描き方、『叫び』の画面を斜めに横切る橋などにジャポニズムの影響がある、と述べられていた。また、エミール・ガレ(Emile Gall, 1846-1904)のガラス器程ではないが、北欧の陶器、

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特に植物の文様、デザインに大きな影響を与えた。そして北欧の芸術家たちは雑誌“Le Japon, artistique”を読んでいた。このジャポニズムの動きは北欧のモダニズムの前奏曲(prélude)と位置付けられていた。

⑵ 『沈黙』(1966)は遠藤周作の小説である。スコセッシ監督はこの作品に28年間かけてついに2014年「沈黙─サイレンス」として完成、上演される。江戸時代後期、天草の乱が終った頃、激しいキリスト教弾圧に対してポルトガル人のイエズス会宣教師フェレイラが棄教したことを知った弟子のロドリゴはマカオで出会ったキチジローの案内で五島列島から上陸する。しかし彼ら(ロドリゴとガルペ)を日本に導いたキチジローにロドリゴは長崎奉行に密告され、棄教の苦しみを体験する。ロドリゴは神の奇跡と勝利を祈るが、神は沈黙しているだけであった。長崎奉行所でキリスト教の棄教を迫られた時、信者たちのうち棄教をしても救われない苦しみの呻き声を聴いて、その理由をロドリゴが棄教をしないためだとフェレイラから知らされる。ついに棄教を決意するロドリゴ。踏み絵を踏む瞬間、彼の足に大きな痛みが走る。踏み絵の中のイエスが「踏むがいい。おまえの足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛みを分かつため十字架を背負ったのだ。」と言う。そして裏切ったキチジローが、敗北にうちひしがれたロドリゴに許しを求める。イエスはキチジローの顔を通してロドリゴに話しかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ。」と。スコセッシ監督は長崎や外海等、キリシタンが関わった様々な場所を訪れている。のちに彼は「それは聖地巡礼のようでした」と語っている。そしてその過程を通して私自身の信仰の確認をしているかのようでした、とも言っている。『沈黙』は「修道院では禁書でした、でもみんな読んでいました」と九州の様々なキリシタン史跡を案内してくれた神父から聞いた。遠藤は『沈黙』のキチジローは、中学生の時母親に突然洗礼を受けさせられ、キリスト教になじめず「許し」を求め続けた私自身である、と語っている。遠藤の講義「Gabriel Marcel(1898-1975)について」の後で私は遠藤と個人的に話す機会を持ったが、私はフランス哲学、フランス文化についてよく勉強し真摯に他文化に尊敬の念をもって真剣に語る遠藤を見あげて

「キリスト教を生きている作家」であると感じた。最晩年、遠藤はガンジス河のほとりで沐浴する人々を見つめ、自然の流れに従って死んでいく人間の「在りのまま」を無言で見つめていた。

21世紀はベックの指摘する通り、トランスナショナルな視点と自らの国家的視点とが重層的に重なり合っている時代である。1)と 2)の視点の新しさは 1)については、「ジャポニズム」が北欧にもあったこと、そして様々な日本の浮世絵の影響の視点から北欧の芸術家たちが自分たちの表現を検討し表現に於いて新たな創造をしたこと、それは地域的であるが既にトランスナショナルな領域での実践であった。つまり、フランスやイギリスでの万博が「種」となり北欧の国々でジャポニズムから非対称性、単純化、様式性(デザイン

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性)を吸収しつつ、「自己に視点を還帰させ、自らを新たな表現の創造へと導いていること」、を指摘できる。2)については、遠藤周作自身の世界市民としての生の遍歴(日本でキリスト教徒になったこと、フランス留学で哲学や宗教観を学び、日本での作家生活、癌をおしてインドのガンジス川へ巡礼の旅に行ったこと)、自己の宗教上の「場の問題」、つまりトランスナショナルな世界におけるキリスト教と「日本に於けるキリスト教の位置の特殊性」、特にキリシタンの問題、これらの複雑な関係をスコセッシ監督は自ら追体験し、問題を自己に戻して映像化した。一つ或いは複数の国家に関わりながらスコセッシ監督は世界市民として、宗教の核心的問題を、自己に還帰する問題として考察した。この態度は想像的トランスナショナルな世界観(imaginative transnational worldview)の提示である。ここには新たな比較研究ということが出来る態度が垣間見える。

6.結び

比較研究の方法論は21世紀になって大きな変化をした。従来は東西の比較が殆どであったが、プロジェクトではこれからの比較研究の将来の可能性を考察してきた。ベックは21世紀の現状分析をすることによって、「第一の文化」「第二の文化」そしてそれらの弁証法的展開の結果として現代を「第三の文化」と捉えた。それは国家を超えるトランスナショナルな世界の時代が始まっていることを示している。しかしトランスナショナルな世界は想像的社会であり、現実には国家を不可欠な前提としている。従ってヘーゲルから始まった「国家」論は国家を含む地域文化の研究にまで拡大されなければならない。比較研究は従来の国家や地域の文化研究の深化を必要としており、研究者は様々な国家及び地域の断片を自ら収集する「生の遍歴」を経て比較研究を生きなくてはならない。

ベックが Macht und Gegenmacht in globalen Zeitalter で言っているようにデモクラシーと人間の権利の双方が形となったもう一つの建築物を見つけることがコスモポリタン的近代、「第三の文化」には必要である。

参考図書今道友信著『美について』講談社新書、1973年今道友信著『東洋の美学』TBS ブリタニカ、1980年今道友信著『東西の哲学』TBS ブリタニカ、1981年今道友信著『現代の思想』日本放送教育振興会、1985年Immanuel Kant: Zum ewige Frieden, 1795カント『永遠平和のために』高坂正顕訳、岩波書店、1949年トックビル『アメリカのデモクラシー』(1-4)松本礼二訳、2005-2008年教皇フランシスコ『回勅ラウダート・シ─ともに暮らす家を大切に』カトリック中央協議会、

2016年ウルリッヒ・ベック、木前利秋・中村健悟監訳『グローバル化の社会学』グローバリズムの誤

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謬─グローバル化への応答、国文社、2006年

ウルリッヒ・ベック、山本 啓訳『世界リスク社会』叢書ウニベルシタス、法政大学出版局、2014年

ウルリッヒ・ベック、東庸、伊藤美登里訳『危険社会』法政大学出版局、1998年Ulrich Beck: Macht und Gegenmacht im globalen Zeitalter, Suhrkamp, 2002.遠藤周作『沈黙』新潮文庫、1966年Noriko Hashimoto: Classical Partiality and Eco-ethica, pp.111-116, Revue International de

Philosophie, Acta Institutionis Philosophiae et Aestheticae, vol.1, ed. by Tomonobu Imamichi, Centre International pour l’étude Comparée de Philosophie et d’Esthétique, 1983.

Peter Kemp: Utopie et Dystopie-Eco-ethica dans la crise socio-environnementale, pp.13-30, Eco-ethica, vol. 5, edited by Peter Kemp and Noriko Hashimoto, Lit Verlag, Berlin, 2016.

Noriko Hashimoto: Between Dehumanization and Nosism-Environmental Philosophy on Technology and Human Being, pp.123-132, Eco-ethica, vol. 5, edited by Peter Kemp and Noriko Hashimoto, Lit Verlag, Berlin, 2016.

Jürgen Habermas: Plea for a Constitutionalization of International Law, in Philosophy and Social Criticism. SAGE Publications, vol. 40, no1, 2014.

Japanomania in the Nordic Countries, 1875-1918, edited by Gabriel P. Weisberg, Anna-Marie von Bonsdorff & Hanne Selkokari, Ateneum Art Museum, Finnish National Gallery, Helsinki National Museum of Art, Architecture and Design, Oslo SMK-States Museum of Kunst, Copenhagen Mercatorfonds, 2015.

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Cosmopolitanism and Localism─ On the Possibility for Comparative Studies

in the Risk-Society ─Noriko HASHIMOTO

Comparative studies have been done between Eastern and Western thought; but, in the 21st century in Risk-Society (an age in which the future is unclear), we must look for a new methodology for comparative studies. Following Ulrich Beck, I make clear a dialectic development through the first and second cultures into contemporary society as “the third culture”. “The third culture” has a dual structure based on the transnational world and each, separate nation. Cosmopolitanism promotes in its way the imaginative transnational idea of a world-citizen but based on the real nation and real localism. In the technologically-developed world with the Internet, we experience contradictory relationships with space in terms of nearness and remoteness. This remoteness may create a new solidarity among world-citizens.

Comparative studies in the 21st century will be possible from a transnational perspective.

Keywords :  Cosmopolitanism, Ulrich Beck, World Citizen, Jürgen Habermas, Transnational