ハイデッガ一における詩の本質 佐々木 徹 -...

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ハイデッガ一における詩の本質 佐々木 Das Wesen der Dichtung bei M. Heidegger TohruSasaki この世のさまざまな呼称のなかで「詩人」という呼び名ほど,深く真実な響きをもつものは ないであろう。いわゆる世間的な肩書から隔たること遠く,それは,いかなる職業・地位・名 誉をも意味しない。生活の手段になることもなく,他を従える力も持たず,また,己れの名の みにすがり,そんな形で他におもねることもない。「詩人」は,この世のおりとあらゆる絆を 振り切ったところに孤高を持している。ために,現実的生活者からは,非生産的かつ消極的な おり方だと目される。第一,詩人は社会に貢献しない。詩人といえども社会的存在に変わりは ないのだから,この現実社会のなかで何らかの役割を果たすべきである。しかるに,詩人の書 くものはただ観念の中,空想の中だけを漂い,この世の現実を変えてゆこうという積極的な姿 勢に欠ける。詩人は,美しいかもしれないが非現実的な世界を,ただ描くだけである。すべて は紙の上でのこと,単なる言葉にすぎない。これが彼らの批評ないし批判である。たしかに詩 は言葉である。しかし,それが「単なる言葉」としか受けとめられないところでは「詩」の本 当の意味が理解されることはなく,また「言葉」の真の姿が開示されることもないであろう。 さらにまた「現実」というものの真実にふれることもないであろう。詩人がこの世のあらゆる 絆から離れて見えるのは,彼がまさしく「現実」の深みに降り立ち,そこでひとり真実を生き 真実を語っているからである。 1) 彼のように生きること,それこそが人生なので,私たちはその夢にすぎない。 いわゆる現実を「夢」と観じる立場は洋の東西を問わず珍しいことでlltない。現世を夢まぼ ろしの如しと見た智者あるいは勇者は少なくない。しかし,ここでは詩人であることが真の生 だといわれている。詩人の生に比すれば,それ以外のおり方は夢でしかない。詩人が詩作とい う形で生きている生は,通常一般の生の,それと気づかない根底の証しである。この世は夢に 2) すぎないとはよくいかれる言葉だが,夢の中の夢である詩がむしろ深く存在の根にふれるので 181

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ハイデッガ一における詩の本質

     佐々木 徹

Das Wesen der Dichtung bei M. Heidegger

        TohruSasaki

 この世のさまざまな呼称のなかで「詩人」という呼び名ほど,深く真実な響きをもつものは

ないであろう。いわゆる世間的な肩書から隔たること遠く,それは,いかなる職業・地位・名

誉をも意味しない。生活の手段になることもなく,他を従える力も持たず,また,己れの名の

みにすがり,そんな形で他におもねることもない。「詩人」は,この世のおりとあらゆる絆を

振り切ったところに孤高を持している。ために,現実的生活者からは,非生産的かつ消極的な

おり方だと目される。第一,詩人は社会に貢献しない。詩人といえども社会的存在に変わりは

ないのだから,この現実社会のなかで何らかの役割を果たすべきである。しかるに,詩人の書

くものはただ観念の中,空想の中だけを漂い,この世の現実を変えてゆこうという積極的な姿

勢に欠ける。詩人は,美しいかもしれないが非現実的な世界を,ただ描くだけである。すべて

は紙の上でのこと,単なる言葉にすぎない。これが彼らの批評ないし批判である。たしかに詩

は言葉である。しかし,それが「単なる言葉」としか受けとめられないところでは「詩」の本

当の意味が理解されることはなく,また「言葉」の真の姿が開示されることもないであろう。

さらにまた「現実」というものの真実にふれることもないであろう。詩人がこの世のあらゆる

絆から離れて見えるのは,彼がまさしく「現実」の深みに降り立ち,そこでひとり真実を生き

真実を語っているからである。

                                                    1)

彼のように生きること,それこそが人生なので,私たちはその夢にすぎない。

いわゆる現実を「夢」と観じる立場は洋の東西を問わず珍しいことでlltない。現世を夢まぼ

ろしの如しと見た智者あるいは勇者は少なくない。しかし,ここでは詩人であることが真の生

だといわれている。詩人の生に比すれば,それ以外のおり方は夢でしかない。詩人が詩作とい

う形で生きている生は,通常一般の生の,それと気づかない根底の証しである。この世は夢に

                       2)すぎないとはよくいかれる言葉だが,夢の中の夢である詩がむしろ深く存在の根にふれるので

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               ・ヽイデッifーにおける詩の本質

ある。以下,ハイデッガー『ヘルダーリンと詩の本質』(Holderlin und das Wesen der

Dichitung, 1936)を中心に, Dichtungの意味を考えてみたい。

 詩は言葉から成る。言葉はひとり人間のものである。花や木や鳥に,多分,言葉はない。詩

人として生きることは,したがって,人間の人間たる所以を生きることである。われわれの

生か詩人の生の夢でしかないといわれるのは,この意味である。夢を夢として覚り,それが何

の夢であるかを知るのは,まず詩人であり,ひいてはハイデッガーのような哲人であろう。

                             3)ハイデッガーのヘルダーリンにたいする傾倒は周知のところだが,彼はヘルダーリンを「詩人

の詩人」(der Dichter des Dichters)と言っている(Erlauterungen zu Holderlins Dich-

tung, 4. Aufl・,1971, S. 34. 以下EHと略記)。これは,詩人の中の詩人という意味ではな

い。そういった対比から出た言葉ではない。ハイデッガーによれば,ヘルダーリンこそ,真の

詩人なのである。「詩人の詩人」といわれるのは,彼がその作品において最も詩的なテーマを

扱った,つまり詩の本質を詩作した詩人だからである。しかし,詩についてうたうというのは,

むしろその詩が芸術作品として不完全な証拠ではないか。それは詩人のまちがった自己反省で

はないのか。ハイデッガーはこの問いに答えるべく,ヘルダーリンの五つの言葉を手がかりに,

    4)論を進める。

 1)詩は最も罪のない営みである。

 2)言葉は最も危険なものである。

 3)われわれは一つの対話である。

 4)詩人は常住不変なものを創る。

 5)詩人として人はこの地に住む。

                     2

 まず,詩には罪がなく責任がないといわれる。詩は単なる言葉にすぎない。紙の上の無邪気

な遊び。それはいかなる意味でも現実に働きかけることがない。詩は,人間のいろんな営みの

なかでも最も無害なものであり,それゆえに,ただ詩のみに没頭するおり方が非社会的だと非

難されたのである。しかし,ハイデッガーによれば,詩のこういった性格は一面にすぎず,モ

の本質ではない。詩はそのように無邪気な形をとることによって,みずからの本質を常識の眼

から守っている。詩は,いわゆる現実にたいしては夢のようなものである。しかし,それは現

実というものを常識という観念で覆い,固定させているかぎりである。いわゆる現実がもはや

現実としての足場をもたず無限に落ちてゆくとき,夢もまた夢でなくなる。

 先きにも言ったように,詩は言葉から成る。言葉はひと丿人間のものである。では,それは

いかなる意味で人間の「もの」(GUt)といわれ,また最も危険なものといわれるのであろう

力七

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佐々木  徹

 言葉は人間のものだが,人間は言葉を一つの道具として所有しているのではない。もちろん,

言葉は伝達手段として道具的性格を帯びる。言葉によって,われわれはある感情や経験,ひと

つの意志決定を伝える。しかし,伝達手段としての言葉は本来の言葉ではない。言葉の本質は,

そのものの名を呼ぶことによってあらゆるものの存在をひらくところにある。言葉があって初

めて存在するものはそのものとして開示される。「存在者の開けのなかに立つ可能性」(die

Mogligkeit, inmitten der Offenheit von Seiendem zu stehen)は,言葉が与えるのであ

る。伝達手段としての言葉は,存在者がそのものとして呼ばれ名づけられた結果にすぎない。

ゆえに,言葉が人間のものといわれるのは,それが人間によって所有され使用されているから

ではなく,人間自身のおり方が言葉と切り離せないからである。ハイデッガーにおいて,人間

は抽象的普遍的な「主観」「Subjekt)ではなく,ひとりひとりの「現存在」(Dasein)であっ

た。現存在はそのつど世界のなかにある。現存在は死すべきもの・有限なものとして,現に今

この世界のなかにある。現存在があるかぎり世界はひらかれる。この意味で,現存在は(世界

                5)内存在」(In-der-Welt-sein)である。人間は,現存在として,それが今あるということを告

知している。現存在自身の構造に「言」という性格が本質的に属している。現存在は,その存

在を通してみずからかあることを証している。現存在自身が「証し」(Zeugen)である(EH

36)。花や木や鳥に,そういった証しはない。ハイデッガーによれば,現存在のみが「存在す

るもの」から「存在」へと「超越」してゆく。つまり,現存在のみが自己の存在にかかおるの

であった。自己の存在にかかおりながら,そういった形で自己が開示され,同時に世界が開示

される。現存在はたえず自己の外へ出てゆく「超越」というおり方をしているが,それは何か

別の世界への超越ではなく,それによって初めて自己自身へと到るという性格のものである。

ハイデッガーのいう「証し」も同様に解せられる。人間は自己が何であるかを証しするといっ

た形で,現にある。その証しは,したがって,現存在の外からつけ加えられた説明ではなく,

それが現にあると同時につねにその存在と一つに生じている。人間はそういうものとして,つ

まり証しする存在として,根源的に言葉を与えられて,ある。この意味で,言葉は人回の「財

産」(Gut)である。

 では,なぜそれが危険なのであろうか。「単なる言葉」といわれるように,最も無害なもの

が言葉ではなかったか。

 人間存在に固有な言葉は,人間と人間以外のあらゆるものを開示するが,それは,そういっ

た形で,存在するもの全体の開示の場を作り出す。といって,その場は,存在するものすべて

がその上に成り立つものとして,存在するものと別に前もって考えられた基盤ではなく,存在

するものが存在すると同時にひらかれる,いわば地平である。そのようにしてひかれた場で,

人間は,さまざまな「存在者」(Seiendes)や「非存在者」(Nichtseiendes)と出会う。有る

ものに出会い,それに刺激され鼓舞される場合もあれば,実は存在しないものと出会って,モ

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ハイデッガーにおける詩の本質

れをそのものと思いこみ,欺かれ落胆する場合もある。「非存在者」(Nichtseiendes)は「無」

 (Nichts)ではない。真でないものが真として,愛でないものが愛として,われわれに迫り,

そして欺くとき,われわれは真と愛を喪い,また同時にわれわれ自身を失うが,これらはすべ

て言葉によって起こる。存在者と非存在者の間の混乱や欺隔は言葉があって初めて可能となる。

 「存在が存在者によって脅される」(Bedrohung des Seins durch Seiendes)という危険は,

かくして人間のもつ言葉と切り離すことができない(EH 36)。

 現実的な危険を生み出すもととなるという意味で,言葉は「最も危険なもの」であるが,さ

らに,その危険がつねに隠されているという意味で,その危険は本質的となる。つまり,言葉

は「単なる言葉」でもありうるのである。言葉は存在者の存在を開示するが,そこには真も偽

も聖も俗乱ありとあらゆるものが言葉として入りこむ。しか乱真や聖が厳粛に語られ,偽

や俗がそれらしくのべられるとはかぎらない。言葉が言葉であるというだけでは,その真偽・

聖俗はわからないのである。言葉は,みずから作り出した「仮象」(Schein)のなかでそれ自

身の本当の姿は隠している。存在者と非存在者の間の混乱や欺ilが言葉によって初めて可能と

なるというだけでなく,言葉が言葉であるかぎり,たえずそこには危険が孕まれているという

意味で,言葉は「最も危険なもの」といわれるのである。

 以上で,言葉が人間存在に固有であること,しかも道具のように人間が所有しているもので

はないこと,一見無邪気で罪のないように見えるが,その本質は最も危険なものであることが

明らかにされた。ついで,「われわれは一つの対話である」という言葉について,解明がなさ

れる。

                    3

 ハイデッガーによれば,人間はその存在の根底を言葉にもつが,その言葉の本来は「対話」

 (Gesprach)である。ハイデッガーは,「対話」という語をヘルダーリンの次のごとき詩のな

かに見出す。

多くのことを人は経験し

多くの神が名づけられた

われわれが一つの対話であり

互いに聴くことができて以来

Viel hat erfahren der Mensch.

Der Himmlischen vielegenannt,

Seit ein Gesprach wir sind・

Und horen konnen voneinander.

 ハイデッガーは「一つの対話」を強調してe i n Gesprach と書く。われわれ人間存在は

一つの対話である。そもそも対話とは,何かについて共に語りあうことだが,そんな形で話し

かつ聞くことができるのは,われわれが対話において一だからである。われわれが語る言葉の

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佐々木  徹

本質において,われわれの現実のあり方が本来一であることが明らかになる。ヘルダーリンの

詩では,人間存在が一つの対話であって以来,多くのことが経験され,多くの神が名づけられ

た,といわれている。ハイデッガーはこの「以来」(seit)から「時」(Zeit)と「世界」(Welt)

を,つまり「歴史」(Geschichte)を解き明かす。「以来」というのは,先ずわれわれが言葉

をもつ存在として,対話として成立し,しかるのちに,われわれの経験と神々とが,つまり世

界が成立した,という意味ではない。世界は言葉と同時的に起こる。ハイデッガーによれば,

人間は一つの対話である。一つの対話であるかぎり,その本質的な言葉は一にして変わらざる

ものでなければならない。それは常住不変なものとして,瞬間のうちにつねに現前していなけ

ればならない。そして,時は瞬間という形で,過去・現在・未来への拡がりを孕む。われわれ

が一つの対話であるのは,時が時として成も立つのと同時である。そこから初めて,その上で

初めて,生々流転ということも起こりうる。一にして変わらざるものだけが,実は変化しうる

のである。                                          つ

 神々がまず人間に語りかけ,それに応えるということが,神々を名づけるということである。

人間には対話としての言葉が与えられている。神々を名づけるということは,神々が人間を言

葉へもたらしたということと一つである。われわれの存在が本質的に言葉であるというのは,

神々から与えられた言葉に言葉でもって応答するという意味である。この応答は,人開かみず

からを証す存在として,対話という言葉として,現にあるということにふくまれている。応答

といっても,何か自己の外の者に向かって答えるのではなく,自己の存在そのものがそういり

形で有るということである。神の存在を認めるとか認めないとかいったこと乱その上で初め

て可能となる。

 人間が言葉であることによって,すべての存在するものが開示され,そこに世界が生起する。

と共に,時が成り立ち,或るものと或るものとの葛闘が生じ,或るものが栄え,或るものが滅

びる。「歴史」(Geschichte)はそのようにして起こる(geschehen)。人間が言葉であるとは,

人間が「歴史的」(geschichitlich)であることを意味する。ゆえに,言葉は人間存在の「最高

の出来事」(das hochste Ereignis)であるといわれる(EH 40)。

 すでに見たように,詩は言葉から成る。言葉は人間存在に「固有な」(elgen)ものであり,

それをわれわれは与えられて自分のものとしている。そこにer-eignen かおる。人間存在は

そういうものとしてつねにgeschichtlichにあると言えるが,ではそのなかで詩人はいった

いどのようなおり方をしているのであろうか。とくに詩人だけに与えられた使命かおるのだろ

うか。「詩人は常住不変なものを創る」という言葉をめぐって,べヽイデッガーはそのことを論

じている。

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ハイデッガーにおげる詩の本質

4

  「常住不変なもの」(das Bleibende)を詩人は「創る」(stiften)。それはどのようにして

か。

 ふつうの論理でいえば,常住不変なものは別にあらたに創られる必要もない。それはすでに

存在しているからこそ,常住不変といわれるのである。ところが,ハイデッガーは,まさに変

わらざるものこそ,過ぎ去ることに抗して,樹ち立てられねばならぬ,と言う。

 この世のおりとあらゆるものは過ぎ去るものとしてある。観念のなかのものさえ,それが有

るものとして表象されるかぎり,無への可能性としてある。すべては無常である。そんな中に

あって,果たして常住なるものが樹も立てられるのであろうか。そもそも常住不変なものとは

いったい何なのか。ハイデッガーによれば,それは「存在」(Sein)である。「存在」は「存

在するもの」(Seiendes)ではない。「存在するもの」のどこを捜しても「存在」に出会うこと

はなく,「存在」は「存在するもの」全体から導き出されるといったものでもない。有るもの

はすべて無常,移ろいゆくものである。しかし,そういう存在者を担いつらぬいている存在は

変わることがない。しか乱存在は存在するものを通してしか,あらわれない。常住不変なも

のは,存在するものの中に,そのつど瞬間的に現成する。詩人はそういった常住なる「存在」

を創る。それは「言葉による,言葉の中での樹立」(Stiftung durch das Wort und im Wort)

である(EH 41)。詩作とは,言葉による存在の樹立のことである。侈く過ぎてゆく存在者と

一つに,詩人は変わらざる存在を樹ち立てる。

  『芸術作品の根源』(Der Ursprung des Kunstwerkes, 1936)のなかでは, stiftenには

三つの意味があるといわれている。それは「始める」(anf angen),「基礎づける」(griinden),

 「贈る」(schenken)の三つである(Holzwege, 4. Aufl・, 1963. s. 64. 以下HWと略記)。

存在は存在するものと共に,それを通して,不断に創り出されねばならない。そういう意味で,

そのつど始まるという性格をもっている。また,存在者の存在は,何かすでに有るものから取

り出され導き出されるとい9だものでもない。それはいわば・こ戸世のいかなるものにも拠ら

ず,無制約的に,どこからともなく存在者へと到来する。この意味で,存在は与えられ贈られ

ていると言える。そしてまた,存在はこの世に有るものとして,世界のなかに開き出される。

それは時と結びつき,歴史的となる。歴史的でない,いかかる存在も考えられない。存在が存

在者として現にあるときには,つねにこの世界に,歴史的に,存在している。それはどこかの

中空を漂っているのではなく,この地をその拠るべき「根底」(Grund)としている。

 以上の三つの意味をふくむStiftungが詩人のなせるわざである。それは,すでに見た「言

葉」が本来もっている性格でもある。人間は現存在として,根源的に言葉である。名づけると

いう言葉の本質によって,世界が開かれ,時が時となり,人間と人間以外のものから成る歴史

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佐々木  徹

が始まる。これは何も詩人をまつまでもなく,人間が言葉であるかぎり生起する事柄である。

では,詩人というおり方は人間存在一般と根本的にはちがわないものなのか。とりたててハイ

デッガーが,詩人とその詩作に言及する理由はどこにあるのか。

 ここで,われわれは,先きに挙げた五つの言葉がすべてヘルダーリンという「詩人」の言葉

であることを思い起こそう。それら断片的に引かれた言葉は,いずれも詩ないし言葉について

語っている。ハイデッガーがヘルダーリンを「詩人の詩人」と呼ぶのは,ヘルダーリンが詩の

本質について詩作しているからであった。『何のための詩人か』(Wozu Dichter? 1945)で乱

真の詩人においては,詩人というおり方がその詩の問いとなる,といわれている(HW 251)。

 『何のための詩人か』は主としてりレケを取り扱っているが,冒頭にはヘルダーリンの言葉

 「乏しき時代にあって何のための詩人か」が引かれている。乏しき時代とは,神の失われた時

代である。神聖なるものを失い,しかもその喪失という事実にすら気づかない時代にあって,

詩人は喪われた神の跡をたすね,喪失を喪失としてうたう。それはまた有限なる存在である人

間の真の存在を問うことでもある。

 人間はそれが「ある」ことにおいて何ものにも守られていない存在である。ひとり人間のみ

ならず,すべて存在するものは,その存在へと投げかけられてある。有るものはみな,有るか

からあるとしか言いようのないところで存在している。その意味で,有るものはその存在へと

ひとつの危険を冒すといったおり方をしている。存在するものは,その存在0中へ冒険されて,

ある。ところが,同じ存在するものといって乱人間とそれ以外のものとにはちがいがある。

人間は人間以クトのものを自己の外に対象化して立てるといった形で存在している。そのかぎり

世界は閉ざされて人間の前にある。人間が主体となり,世界は客体となる。人間は自己自身を

すら対象化し客体化しうる。そこに人間の自己喪失の危機が生じる。人間はあらゆるものを対

象化し手段化して自己の意志をつらぬいてゆこうとするが,そういう形では人間自身の存在す

らそこから失われる。人回は他の存在者と同じく,その存在において守られていないものであ

ったが,さらに人間は,対象化という形で自己をもうひとつの危険へと差し向ける。

 こういった対象化か人間において起こるのは,人間が言葉をもつ存在だからである。言葉に

よって,世界は人間の前に立てられ表象化される。表象化された世界を自己の欲求にしたがっ

てさまざまに作り変えるのが「技術」(Technik)である。 しかし,ハイデッガーによれば,

言葉の本質はそれでは尽くされない。むしろ,そういった方向と根本的にちがうのが言葉の本

来である。言葉はすでにのべたように,存在がそこにおいて起こる出来事であった。言葉は存

在そのものを守る。表象化・対象化とはまさに反対に,言葉によって存在するものがそれ自身

へと到るのである。これは,根源的に言葉である人間存在と結びついた出来事であるが,人間は

技術的に自己貫徹するものとしては,そういった言葉の根源性から離れうる。現に存在してい

るその足下を忘れ,宙に浮いた主観となり,世界を喪い,また自己自身を失う。そういう方向

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ハイデッガーにおける詩の本質

から眼を転じさせ,有るものの真の存在を指し示すのが,詩人の使命である。詩人は,何らか

の対象を求めて詩作するのではない。詩人は,自己をつらぬく意志とは無縁である。対象化に

よって閉じられた世界を,詩人は言葉の本来にしたがってあらたに開く。創造はそこに可能と

なる。

 かくして,人間のなかに占める詩人の位置は明らかになった。ヘルダーリンの言葉は,われ

われが見失いがちな言葉の本質を,したがって存在の真理を,告げ知らせている。ハイデッガ

ーが引いている最後の言葉は「詩人として人はこの地に住む」であった。では,それはいかな

る意味でいわれているのであろうか。

5

 詩人というおり方は,人間のさまざまなおり方のうちの一つである。人間はこの世界でさま

ざまなおり方をしている。先きにのべた技術的なおり方もその一つである。というより,現代と

いう時代は,技術を通して自己の欲求をつらぬいてゆくおり方がこの地上を覆ってしまった時

代であろう。すでにながく,人間の努力はひたすらそういった技術化の方向へと注がれており,

そこには数多くの業績が積み重ねられている。しかし,ハイデッガーは,ヘルダーリンの言葉

とともに語る。「業績にみちてはいて乱しかし,人間は詩人としてこの地上に住むのである」

と。ここで,詩人というおり方は,単なる一つのおり方ではなくなる。本当は人間はこの地上

に詩人としてしか住めないのである,というのがその意味であろう。「詩人」というおり方に

ついてはすでに見た通りである。では「住む」(wohnen)とはどういうことか。われわれは

誰乱この地上に当然のごとく住んでいるのではなかったか。

 ハイデッガーは1951年に行なった『詩人として人は住む』という題の講演のなかで,「住む」

とは,今日ふつうに考えられているような住まいをもってそこに住むという意味ではないと言

っている(Vortrage und Aufsatze, 2. Aufl, 1959. s. 188. 以下VAと略記)。 ヘルダ

ーリソのいうwohnenは,「人間存在の根本特徴」(der Grundzug des menschlichen Da-

seins)である(VA 189)。人間はこの地上にさまざまな営みを通して業績を積んできたが,

それが真の意味での「住む」にふれることはない。「住む」の本質はそういった業績にあるの

ではない。「住むということは,詩作が起こり現成するときにのみ,生起する」(VA 202)。詩

は住むということと切り離せない。詩人として,あるいは詩を通して住むということが,人間

の本当のおり方である。言いかえれば,住むということは根源的に「詩」という形をとる。

 「詩」と「住む」は互いに他を求めながら本質的に結ばれている。では,われわれは実際に詩

人としてこの地に住んでいるのであろうか。われわれは詩的なおり方をしているであろうか。

答えは否であろう。われわれはむしろ,業績を追い求め,日夜あくせくして生きている。先き

にものべたように,それは技術化の方向である。では,「人間は詩人として住む」は何を言っ

-188-

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佐々木  徹

ているのであろうか。

 詩人として住むのが人間存在の本来だということは,われわれがいかにそれから遠いもり

方をしていて乱決定的にそれから離れることはありえないということである。われわれはふ

つう「詩的でない」(undichterisch)あり方をしている耽そういったおり方が可能なのは,

人間が本来「詩的」(dichterisch)だからである。ハイデッガーはこの説明として盲目の例を

出している(VA 203)。人間はその本来からして見る存在である。だからこそ盲目にもなりう

るので,樹木が盲目になることはありえない。「詩的でない」あり方だとわかるのも「詩的で

ある」ことを知っているかぎりにおいてである。人間が根源的に「詩」であるということは,

人間の「根本可能」(Grundvermogen)を意味する。 したがって,「人間は詩人として住む」

it,「人間は詩人として住むことができる」や「人間は詩人として住むべきである」やさらに

 「人間は詩人として住んでいない」という意味を派生的にふくむけれど乱根本的には「詩人

としてあるから,そうあるしかない」という意味である。

 人間存在の根が詩であるという事実は,それがあまりに身近な事実なので,かえって覆いか

くされる。足下の事実を見るためには,人間は肉眼のほかにさらにもうひとつの眼を必要とす

るのかもしれない。「エディプス王は多分,眼を一つ多くもっていたのであろう」というヘルダ

ーリンの言葉を,ハイデッガーはくりかえし引いている(EH 47, VA 203)。この言葉は,先

きに挙げた「彼のように生きること,それこそが人生なので,私たちはその夢にすぎない」と

呼応している。いつの世に乱真実を見,真実を語る者は少ない。ヘルダーリンはそのことを

告げながら,そういう形で真実をそれと示しているのである。このゆえにヘルダーリンは「詩

人の詩人」といわれる。彼は詩の本質を詩作する。それは概念としてではない。概念として詩

の本質を考えることが詩の中へ入ってきたとすれば,それは詩の世界が不完全な証拠でしかな

いであろう。ヘルダーリンはその詩において,詩の本質をそのつどあらたに創り出す。言葉の

なかで言葉であることを,歴史のなかで歴史であることを樹ち立てる。真の本質は歴史的であ

る。過去・現在・未来を孕む瞬間としてそのっと生起するものだけが真実である。詩のなかで

詩がうたわれるということは,人間が歴史的な存在であること,この地上に住んでいることの

事実に即した証しである,と言っていい。しかしこの事実に即すためには,詩人としての天票

を,通常の人間にはないもう一つの眼を必要とすることは,すでにのべた通りである。

                   6

 以上,ヘルダーリンの五つの言葉に拠りながら見てきたことをまとめると,次のようになる

だろう。

 まず最初に,詩は最も罪のない営みだといわれた。詩は言葉から成る。詩の本質は言葉の本

質である。しかし,詩は言葉を材料として作られるのではない。いい加減に言葉を使って言え

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ハイデッガーにおける詩の本質

ば詩になるといったものではない。詩の本質は言葉の本質と一つである。言葉の本質は,おり

とあらゆるものの名を言うことによって,その存在を樹立することであったが,それがすなわ

ち詩の本質でもある。言葉=詩にそういった本質かおるからこそ,日常の会話も可能となる。

それゆえ,詩は日常つかわれる言葉を素材として組み合わせればできるといったものではな

い。詩はむしろ日常語の底へ降り立ち,日常語を支えていると言える。 この意味で,詩は

Urspracheである(EH 43)。しか乱 それが現実に生きて動いている歴史的な人間存在の根

底となっている。先きに見たように,人間は一つの対話であった。対話というのは共に語りあ

うことだが,その前提として聴くことが求められる。対話として,言葉はもともと聴くという

性質をもっている。だからこそ,応じることも名づけることもできるのである。言葉は,その

本質である詩という形で存在を樹立することもあれば,単なる言葉となって存在を喪失するこ

ともある。日常のわれわれのあり方は,おおむね詩を忘れ存在を喪失している。言葉のこの側

面が危険といわれたのである。詩は罪のない無害な様相を呈しているが,それはいわゆる現実

との比較のかぎりであって,詩は根源的な現実そのものである。それにふれるためには,人間

でありながら人間を超えることが要求され,それにふれたならば,ヘルダーリンのように「狂

気という夜」に守られることが必要となる,そんな現実である。本来,詩という形で住んでい

るはずの人間のなかで,詩人は言葉の本質を敢えて冒険するゆえに,つねに最も危険な淵に面

して立っている。

 詩人はまた,神々と人間とのあいだに立っている。詩人は神々ではない。しかし,神々の合

図を聴きとることができる。詩とは根源的に神々を名づけることであったが,それはまず神々

から語りかけられた言葉を詩人が聴きえたからである。また,詩人は人回でありながら人間を

超えたところにいる。そのゆえに,ながく人々に伝えられてきた伝説を聴くことができるので

ある。詩人は,神と人とのあいだに立つ者として,神の声を聞き,それに言葉を与え,地上に

住む者の声を聴き,それを言葉に表わす。

 最も危険な宝である言葉が人間に与えられた。それゆえに人間は,創造と破壊,没落と回

帰をくりかえしつつ,永遠なるる母へ屯どろうとしている。己れが何であるかを証し,永遠

なる母から承けつぎ習いおぼえた聖なる愛を証しながら(EH 35)。

 人間は言葉をもつ者として自己の存在を証している鶴それは同時に,永遠なる愛を承けつ

ぎ習いおぼえたことの証しでもある。ハイデッガーのいう「神々」が何を意味するかは,また

あらためて論じられるべきであろうが,過ぎ去った神はもはやなく,来たるべき神もまだもら

われぬこの「乏しき時代」にあって,神と人とをつなぐ使命を,ハイデッガーが詩人に認めて

いることは,注意されていい。詩人とは言葉を冒険する者のことである。しかし,哲人もまた

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佐々木 徹

すぐれて言葉に携わる者である。言葉はその本質においてDichterとDenkerとを結ぶ。

ハイデッガーは『詩』(Das Gedicht, 1968)において「詩的な言い方だけが詩にふさわしい」

とのべている(EH 185)。しかし,それは詩的に美的に鑑賞さえすればいいということではな

い。『何のための詩人か』のなかでは,現代という存在忘却の時代に大切なのは,美的に詩の

中へ逃避することで乱みだりにそれを掘り起こして哲学を作ることでもなく,ただ静かにそ

の詩のなかで思索しながら,語られざるものに耳傾けることだと言っている(HW 252)。また。

 『詩人として人は住む』では,詩と思索が出会うのは,それぞれが本質的なちがいを保持する

かぎりにおいてだといわれている(VA 193)。Denken とDichtenはそんな形で本当に出会

うのである。

 初めに,詩人であることが真の人生であって,われわれはその夢にすぎないという言葉を引

いた。ハイデッガーが『ヘルダーリンと詩の本質』の最後に掲げている詩には「されば人生は

神的なものの夢である」という言葉が見える(EH 48)。          ('78. 8. 3)

                           註

1)ここでいわれている「彼」は,具体的にはエムペドクレスのことを指している。 Vgl. M. Heidegger,

 Holderlin und das Wesen der Dichtung, S. 45.

2)たとえば,ニーチェ『悲劇の誕生』(Die Geburt der Tragodie, 1872)には「仮象の仮象」(Schein

 des Scheins)という言葉が見られる。拙著『美は救済たりうるか』(創文社,昭和49年)第3部「ニー

 チェ」参照。

3)川原栄峰「詩人的に住む」(『理想』500号,昭和50年1月)には,ヘルダーリンにたいするハイデッ

 ガーの傾倒が数学的に詳しく挙げられている。

4)ハイデッガーが引用しているヘルダーリンの言葉はつぎの通りである。

  1. Dichten: ,,Dissunschuldigste aller Geschafte".

  2. ,,Darum ist der Giiter Gefahrlichstes, die Sprache dem Menschen gegeben…damit er zeuge,

    was er sei…“

  3. ,,Vielhat erfahren der Mensch.

    Der Himmlischen viele genannt,

    Seit ein Gesprach wir sind

    Und horen konnen voneinander".

  4. ,,Was bleibet aber, stiftendie Dichter".

  5. ,,Voll Verdienst, doch dichterisch wohnet

    Der Mensch auf dieser Erde"。

5)Vgl. M. Heidegger, Sein und Zeit, 11. Aufl・,s. 52 -63. ,,DasIn-der-Welt-sein uberhaupt als

 Grundverfassung des Daseins"

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