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駿台史学 一一九号 一;三〇頁 ω ¢ZO≧ ω=お〉ス Zo.=P>=o q . 近世村落の形 下総国猿島郡沓掛村における 要旨 小稿は現茨城県猿島町にあった沓掛村を検討の対象に、その近世村落として する時期は資料も少なく、寛文検地帳写と明治十六年の地籍図のほか、墓石類や伝 ごく初頭における沓掛村では少なくとも二つの小集落があり、その一方は宿場や市場の があったことを指摘するとともに、近世初頭におけるそれら集落の村内北部への移動とそれ われたこととその特徴的な集落形成について明らかにした。沓掛村におけるその後の特徴的動向は そこにおける屋敷の造成1 1集落形成を近世初頭に行われた集落形成と比較し、小農経営の展開をみ 個々の農民の平準化が図られていることを指摘した。集落の動態から見ると、沓掛村の村民結合は村全体の結 る農民の生活と密着した地域的結合が強まっていくようである。 キーワード一村、集落、集落移動、家父長制経営、小農経営、村民結合 (1) た猿島町史の通史編にまとめることとなったが、沓掛村についてはそ の後も現地調査を継続し、史料の少なさを個々の家や村に伝わる伝承 関東平野のほぼ中央、猿島台地東側に位置する山村や沓掛村等現茨 等の調査によって補いながら、同村の集落の動態を正確に把握するこ 城県猿島町に属している近世の村々を例にその形成について検討を加 とに努めてきた。小稿はその結果を踏まえながら、沓掛村の近世村落 えてきた。その成果は最終的には調査のほぼ終了時に編纂が開始され としての形成を集落の動態を中心に再把握を試みようとするものであ

Transcript of キーワード一村、集落、集落移動、家父長制経営、 …...Zo.=P>=o q仁ωけb...

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近世村落の形成

下総国猿島郡沓掛村における集落の動態を中心に

要旨

小稿

は現茨城

県猿島

町にあ

った沓

掛村を検討の対象に、そ

の近世村落

としての形成

を集落

形成

との関連

で検討

したものである。

対象

する時期

は資料

も少

なく、寛

文検地

帳写と明治十

六年

の地籍

図のほか、墓

石類や伝

承等

を資料

として使

用した。検討

の結

果、戦

国末

・近世

く初頭

における沓掛

村では少なくとも二

つの小集落

があり、その

一方は宿

場や市

場の機能

を持

つ集落

で、

その集落

に沓掛村

の名

称の起

こり

があ

ったことを指摘

するとともに、

近世

初頭におけるそれら集落

の村

内北部

への移動

とそれにともなう集落

の形成

が強

い家

父長権

のもとで行

われたこととその特

徴的な集落

形成

ついて明らかにした。沓

掛村

におけるその後

の特徴的動向

は屋敷

の造成

をともなう新

田の開発にあるが、

そこにおける屋敷

の造成

11集落

形成

を近世

初頭

に行われた集落

形成

と比較

し、小農経営

の展開

をみる新

田の開発過

程における集落

においては

々の農

民の平準

化が図られていることを指摘

した。集落

の動態

から見ると、沓掛村

の村民結合

は村全体

の結合と

いうことより、坪

と称

され

る農民

の生活

と密着

した地域

的結合

が強

っていくようである。

ーワード

一村、集落、集落

移動、家

父長制経営、小農経営、村民結

(1)

た猿島町史の通史編にまとめることとな

ったが、沓掛村についてはそ

の後も現地調査を継続し、史料の少なさを個々の家や村に伝わる伝承

関東平野のほぼ中央、猿島台地東側に位置する山村や沓掛村等現茨

の調査によ

って補いながら、同村の集落の動態を正確に把握するこ

 ユ

 

城県猿島町に属している近世の村

々を例にその形成について検討を加

とに努めてきた。小稿はその結果を踏まえながら、沓掛村の近世村落

えてきた。その成果は最終的には調査のほぼ終了時に編纂が開始され

としての形成を集落の動態を中心に再把握を試みようとするものであ

る。村民の社会的結合関係を考えようとする時、集落のあり方はその

以上層が三二名で名請人全体の

一八%、四反以上

一町五反以下層が八

山つの手掛かりになると考えられるからである。

七名で同じく四八%、四反以下層が六二名で三四%とな

っている。四

沓掛村の領主支配や検地施行(及び、検地に見る沓掛村の状況等に

反以上

一町五反以下の小規模な農業経営者層が中核を占めているが、

ついてその概要を確認しておくと、領主支配は北側隣村山村に北接す

沓掛村の近世村落として発展した姿を示すものと理解したい。新田は

る逆井村の逆井常好が天正

一八年関宿に入封した松平康元に家臣化し

上層農民の経営拡大をもたらしているが、小規模な農業経営者層の自

   

ていることからすれば、逆井村はじめ沓掛村を含むこの地域の村々は

立を促したのも新田であ

った。屋敷地名請人は

一〇七名であるが、ぞ

近世初頭より関宿藩領に編入され、享保十年正月飯沼新田開発に伴

の内訳は最大の耕地所持者主計はじめ本田及び新田に屋敷地を有する

 ヨ 

て幕領に編入されるまで、代々の関宿藩主によ

って支配されてきたも

者が四名、本田に屋敷を有する者が五八名、新田に屋敷を有する者が

のと考えられる。検地施行は寛永二年九月の関宿藩小笠原氏、及び、

四五名とな

っている。

万治三年から寛文四年にかけての同じく板倉氏による領内総検地の施

右の屋敷地名請人

一〇七名の屋敷地が沓掛村にどのように集落を形

行が山村や近隣する生子村で確認され麗・

,

成し・またそれがいかに形成されてきたかを考察することが小稿

の課

一 コ

 う 

沓掛村に残存する検地帳は、寛文元年六月の関宿藩板倉氏による検

題であるが、その形成の大凡の時期を考えておくと、本田帳上の屋敷

(

地の際のもので、その時の検地帳写が残存している。.検地帳は本田帳

は寛永二年前後まで、新田帳上の屋敷は寛永二年前後以降ということ

と新田帳とからな

っているが、村の規模は本田

・新田を合わせると村

になろう。

では

一一一八石余、面積では

一六

一町五反八畝余の大村とな

ってい

の集

るが、

この検地に先立

つ検地が寛永

二年であることからすれば、この

新田とは寛永二年以降開かれた田

・畑

・屋敷で、寛文元年検地によ

明治

一六年九月の沓掛村地籍図をもとに、沓掛村本村部の集落の展

 さ 

て新たに掌握された土地と理解されよう。沓掛村は畑勝地の村落だが、

開状況を示したものが第1図である。地籍図の宅地は二四三筆を数え

新田は田

(三〇町六反七畝余)の

一六%、畑

(一二三町八反二畝余)

るが、これによ

って沓掛村

の集落を見ると、宅地は鎮守香取社を中心

の三六%を占めている。

にして半径三〇〇メートル内外

の円周より外縁

に立地している。

名請人は

一八

一名を数えるが、その所持耕地面積によ

って階層構成

香取社

の南側には岩井町方面から入

った谷が延びている。沓掛村地

を見ると、計五町

一反五畝余の名請地を有する主計を最高

一町五反

内のその谷は神明谷と称されている。村内南半部では神明谷という自

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第1図 集落の展開状況1

然地形によ

って香取社とは隔てられ

ているが、沓掛村北半部

では香取

が造成されている。向原坪も

一見すると子古内坪南側の集落

に似

てい

社から畑地を隔

てた外縁

に意図的

に集落が作られていったごとくであ

るが、子細に見るとその集落は東西に延びた道に沿

った六戸ほどの屋

る。図中の下妻町道

・岩井町道に沿

った宅地

の多くは近世中

・後期沓

敷群とその後ろ側の四戸ほどの屋敷群からな

っている。山崎坪は子古

掛村が町場として発展した時、建

てられていった店舗

であろう。集落

内坪

・向原坪とも集落のあり方は異なるが、西側には二~四戸からな

が神社から離れて形成される背景を明確にはし得ないが、沓掛村

の集

る五つの屋敷群が谷を挟んで集村状を成し、その東側には弧状の道

落はまたその展開する場所によ

っても形態を異にしている。

比較的整然と並んだ屋敷群とその南に二つの道に挟まれた密な屋敷群

村内の地域的な農民の結合単位を猿島台地の村

々では坪と称する。

が展開している。

坪は近世村落の確立過程に実質的

に形成されてくる村内

の地域的な農

寺社は香取社のほか村内北東部に龍泉寺があるが、その他

の寺

・堂

民の結合単位と考えられるが、沓掛村

では香取社付近下妻道

・水海道

はそれぞれの集落に隣接し、墓所を伴うものが多い。龍泉寺は二石の

町道に境町道が交差する地点から北西部を西村坪、北東部を中北坪、

朱印地を有するが、いつ頃の開基になる寺か不明である。神社は香取

形の

神明谷対岸の村内南西部を子古内坪、同じく南方を向原坪、そして神

社周辺に多く散在するが、宝永三年三月

「寺社方御差出シ帳」によれ

)

(7)

3

明谷北側の村内南東部を山崎坪と称している。

ば、香取社が金乗院持、山崎の天神社が秀蔵院持、向原の大日堂が薬

村内の集落の特徴を坪ごとに見ると、西村坪と中北坪とでは、幾

王院持、西村の観音堂

・春名山

・神明社

・稲荷社が福寿院持とな

って

かの短い線分を繋げて弧を描くような道の主に北側に屋敷が建てられ、

いる。墓所を伴う寺

・堂については以下で触れる。なお、沓掛村の寺

西村坪では更にその外縁の比較的真

っ直ぐな二つの道では、その道に

堂の本寺はす

べて生子村の満蔵院

(真言宗)である。

そって整然と屋敷が並び、ほかに六戸からなる屋敷群がやや離れた所

それでは右のごとき沓掛村の明治

一六年の集落は沓掛村の寛文検地

   

に位置している。中北坪では線分状

の道にそ

って屋敷が並ぶ集落

のほ

の屋敷地とどのような関係にあるのであろうか。

か、その東に

= の屋敷と三戸からなる屋敷群がある。村内南側は北

寛文元年検地帳の屋敷の名請人は

一〇七名であるが、その筆数は

側とは集落のあり方を異にしているが、神明谷対岸の子古内坪では岩

一五筆である。その内訳は本田帳の屋敷が六四筆、新田帳の屋敷が五

井町道に沿

った比較的新しいと思われる家々を除くと、三~十戸前後

一筆であるが、検地帳には検地帳が写された時点の所持者名が記入さ

からなる屋敷群が散在し、そのうち南側の二つの屋敷群は道で仕切ら

れているので、それを手掛かりにしつつ、寛文検地屋敷地名請人と明

れた長方形の区画の中に、また、他

一つも同様の区画の内外に屋敷

一六年地籍図の宅地所持者とを照合するど、本田帳の屋敷六四華中

の三七筆、新田帳の屋敷五

一華中の二九筆の所在が判明する。第1図

を従えて再入村して再開発していった村であることが考えられる。.逆

中Hと記入した宅地が本田帳上の屋敷であり、Sと記入した宅地が新

井村西坪ではその七戸によ

って近世における最初の集落が形成された。

田帳上の屋敷である。これによ

って再度第1図を見ると、見られるご

また、山村では駒寄坪の家々は大坂陣の際大坂方に与したという但馬

とく香取社を中心とする半径三〇〇

メートル内外の同心円上の集落は

守とその三名の子供が土着したことにはじまると伝えられる。駒寄

向原坪以外はすべて本田帳上の屋敷

であり、新田帳の屋敷はその外縁

は両墓制という村内のほかの小集落とは異なる葬制が行われ、検地帳

に展開していることが理解される。西村坪と中北坪の幾

つかの短い線

にもその屋敷地名請人は新田帳にしか現出していないことが、駒寄坪

分を繋げたような道に沿

った屋敷、子古内坪の神明谷近くに散在する

が村外からの入村者によ

って形成されたことを裏付けている。近世村

屋敷群、山崎坪の谷を挟んで散在す

る屋敷群はいずれも沓掛村の古い

落が形成され始める時期は兵農分離が現実に進行し定着する過程であ

集落であり、西村坪の比較的真

っ直ぐな二つの道にそ

って整然と並ん

だが、村

々では入村や離村があり、入村者による開発等活発な動きの

だ屋敷、子古内坪の南端部の道で長方形に仕切られたような区画内の

見られた時期であ

ったのである。

集落・向原坪のす

べての屋敷・そして・山崎坪の弧状

の道に比較的整

沓掛村にも村外からの入村の伝承があり、また、古屋敷ないし本屋

一 

 り 

然と並んだ屋敷群とその南に二つの道に挟まれた密な屋敷群等は新田、

敷の伝承がある。その伝承は本田帳上の屋敷が形成される以前の状況

(

つまり寛永二年以降寛文元年までに新たに作られた集落と考えられる

を伝える伝承である。沓掛村には既述のごとく坪という地域的な結合

のである。

単位が形成されているが、各坪には西村坪では観音堂

・阿弥陀堂

.堀

それでは本田帳の屋敷が、あるいは本田帳上の屋敷が形成する集落

田堂、中北坪では薬王院、子古内坪では大乗院

.尊勝院、山崎坪では

 ママ 

はいつ頃作られてくるのであろうか。逆井村では逆井利光が

「関宿改

秀蔵院等の小規模な寺

・堂がある。墓所を同じくする者をこの地域で

   

城之刻、逆井江引込田畑切開」

いたと伝えられ、逆井村開発巧者

・逆

は堂敷と称するが、そのうち西村坪の堀田堂

・阿弥陀堂

.観音堂の古

井六軒と称される農民の屋敷が逆井家から大凡

一五〇メートルの範囲

くからの堂敷には入村と古屋敷の伝承が、中北坪の薬王院の古くから

 ママ 

内に点在している。「改城之刻」が関宿城主梁田氏が後北条氏

に降伏

の堂敷には古屋敷の伝承があり、そして、山崎坪や向原坪にも中北の

した天正二年を指すのか、天正

一八年松平康元の関宿入封を指すのか

古屋敷に続く場所に古屋敷の伝承があると言うのである。これらの沓

正確ではないが、逆井城が後北条氏

の支配下にあ

ったことからすれば

掛村の伝承は沓掛村の集落の形成を考えるうえで重要な手掛かりとな

天正

一八年であろうか、逆井村は逆井利光が家来筋であろう六軒の著

る。沓掛というと、中山道の沓掛

(信濃国佐久郡)が著名だが、当村

になぜそのような宿場を思わせる村名が付けられたのか、その謂われ

中北坪の古屋敷と伝えられる場所を含めて、明治

一六年九月

の沓掛

も古屋敷に見出せるように思われる。

村地籍図によ

って中道の周辺部の占地状況を示したものが第2図であ

次に、古屋敷の伝承がある場所に

ついてその占地状況を確認しなが

る。第2図を見ると、中道の北側で香取社に接する地番四

一〇六~四

ら沓掛村の集落の形成について考え

ていきたい。

=

三の畑には中北坪に宅地を有する稲石角左.衛門

・木村金兵衛

・木

村新左衛門

・木村佐五右衛門の畑地と林が東側

へ順に並んでいるが、

彼等は中北の薬王院

の堂敷である。薬王院の入り口右手にある古い墓

明治

一六年九月の沓掛村地籍図に見る沓掛村の集落の外縁部は寛文

石群の並び方は、東側

へ稲石作左衛門

・同角左衛門

・同権右衛門

・木

検地新田帳の屋敷であ

った。その屋敷あるいはそのように考えられる

村伊左衛門

・同重左衛門

・同字兵衛

・同金市

・倉持某

・木村新左衛門

屋敷を地籍園から取り除けば本田帳

の屋敷が見えてくる。そして更に

同佐五右衛門の家の順で並んでおり、'

その墓石の並び方と古屋敷の並

本田帳の屋敷より以前にあ

った古屋敷のあり方が分かれば、今度はそ

び方とが似ていることが、それらが古屋敷であることの証左としても

を逆に辿る・、とによ・て沓掛村の集叢

の露

が見窒

れていゑ

.木餐

衛家は薯

のほぼ選

あ・木村評

る筈である。

市家と同じ家であり、同家は寛文検地名請人右京の後高と考えられる

.

・、」

が、佐五右衛門とは兄弟の関係で・右京

●左京

(佐五右衛門家)を各

中道周辺部の占地

.

ったことが伝えられ、層

宇兵衛家は金市家の隠居分家であると伝え航

中北坪の古屋敷は香取社の東側に道に接してあ

ったと言う。第1図

れている。右京幡所持耕地二町三反二畝余を有する村内七位の名請人

を見ると、香取社から東

へ向か

って延びる

一本の道がある。その道は

とな

っているが、金市家は元禄七年には名主であ

ったことが確認され

 け 

香取社

の所とそこから二〇〇メートルほど行った所が鉤の手状に曲がつ

る。新左衛門家と金市家との関係、また、稲石姓の者相互の関係も明

ている。寛文検地帳

では

一反四畝ほどの畑地と山崎坪の本田帳の屋敷

確ではないが、中北の古屋敷と称ざれる香取社東側中道に面した地番

のある小字が

「中道」と称されているが、,屋敷

の位置から考えられる

一〇六~四

=

三の畑は、幾度もの同族団的分裂をはじめる以前の

その道は香取社東に延びる中北坪

の古屋敷と伝えられる場所が接する

中北坪

の木村姓や稲石姓

の農民の祖先

の古屋敷なのである。地番四

道以外にはなく、以下、香取社から東に延びる道を中道と称すること

〇六~四

一=二の畑と林を木村姓や稲石姓

の農民のブ

ロック別面積か

としよう。

.

ら古屋敷の面積を見積もると、木村姓の三名では三反九畝余

(うち、

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第2図

中道

周辺部

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(6)

近世村落の形成

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(7)

林四畝余)、稲石姓

一名では二反二畝余

(うち、林七畝余)

とな

って

はその伝承が語

っていると考えられるが、その伝承はそこに僅かな土

いる。

地しか散在させていない向原坪にも残

っている。

それでは中道には木村

ザ稲石姓の農民の古屋敷しかなか

ったのであ

中道の付け方に着目すると、先に指摘したごとく香取社の所とその

ろうか。木村佐五右衛門家の畑より東には西村坪に屋敷のある者の畑

二〇〇メートル東の所が鉤の手状に曲げられている。そしてその道を

があるが、

一枚で三反余

・一反余の大きな耕地片をも

つ倉持久右衛門

中心に見ると西側には香取社、東側に秀蔵院が位置することになるが、

は屋号をオーダナと言い近世後期に財を成した在方商人であるが、同

防御のための道の曲がりやそこに信仰の対象物を置

いたこのような道

 セ 

家には元和三年に入村したという伝承がある。久右衛門のほか

一反余

の作り方は戦国期の宿駅

・市場に見られるものであり、沓掛村

の中北

の大きな耕地片をも

つ木村庄左衛門も以下に述

べるごとく入村伝承が

坪の古屋敷伝承と道の付け方は戦国期には沓掛村が市場

..宿駅として

あることからすれば、木村佐五右衛門の畑より東の久右衛門の

一枚三

発展したことを伝えているのではなかろうか。そして、消滅の原因は

反余の畑のある所までは、木村

・稲石姓の農民の古屋敷があ

った頃に

分からないが、沓掛村という村名の起

こりもそのような所からきてい

はまだ西村坪に屋敷のある人々の畑地はなか

・たものと考えられる・

るのではないかと考えられるのである。秀蔵院から東

一五〇メー

ー コ

久右衛門の

一枚三反余の広い畑の東側を更に見ると、今度は山崎坪に

の所にも道が曲げられているのが見られるが、

この周辺については古

(

屋敷を有する人々の畑地とな

っている。中道

の南側でも古屋敷があ

屋敷

の伝承はないようである。

た頃には西村坪の人々の土地はなく、そこは中北坪

・山崎坪に屋敷

中北坪

の古屋敷伝承は、古屋敷のあり方や中道

の付け方など

ある人々の土地が展開していたという傾向は指摘

できる。なお、第2

って沓掛村が恐らく戦国末期までは宿駅

・市場とし

ての機能を

図中の上地は、維新期の廃仏殿釈によ

って壊された香取社

に北接する

った村落であ

ったことを推測せしめる。中北坪

.山崎坪には稲石

.

金葉院の跡地が上地にな

っていることから、旧金乗院

の所持地

であ

木村姓のほか倉持

・張替

・針谷姓の農民がいるが、彼等の古屋敷が既

たと思われる。

`

に新たな家を創出していたとしても、宿駅としては戸数は少ないよう

では、なぜ右のように中道周辺には中北坪のほか山崎坪の人々の畑

に思われる。宿駅が消滅する際村外

へ出ていった者がいたことが推測

が多いのであろうか。山崎坪でも中

道に沿

った所をデイヤシキ

(出屋

できる。

敷)と言い、山崎坪に集落を造

っていった祖先はそこから移

ったと言

中北坪

・山崎坪の古屋敷について充分な立証をしていく

ことは困難

う伝承がある。中道周辺に中北坪のほか山崎坪の人々の畑が多い理由

だが、この伝承は寛文検地本田帳の屋敷が形成される以前、沓掛村

は宿場の機能をもち中道に恐らく沿

って並ぶように存在していた集落

もそれは並んで存在していると言う。

のあ

ったことを示している。寛文検地帳は

「北原村営先」という小字

第3図を見ると、神明社の位置する

一区画の畑地は堀田堂敷によ

から縄が打たれているが、その多く

の筆には中北坪を示す

「中」と毒

て多く占地されているようにも見えるが、中北の古屋敷と似た形状で

る所持者の名前が後睾で記入されており、中北坪の者によ

って多くが

並ぶ畑地が神明社の南に接している。地番八匹

一から東

へ畑の所持者

占地されていることを示している。寛文検地帳のその小字面積二町八

を確認すると、木村藤蔵

・古谷野勘左衛門

・木村惣兵衛

・同太兵衛

一畝余

(七

一筆)を同帳

で中北に居住していることが確認される名

倉持三右衛門

・木村平十郎

・同兵右衛門

・倉片久右漸門の順に並んで

請人の占地から見ても、その面積は金乗院

の土地を含めて

一町六反七

いる。そして三右衛門以東の畑に南接して、地番八〇九

の木村治右衛

畝余

(三八筆)で、「北原村宮先」の六〇%を占めており、か

つ北原

の畑よ婬同七左衛門

・同魯平の畑が東に連な

っている。以上のうち

村の屋敷に住する者が連続して名請

けしている箇所も認められるが、

堀田堂敷は木村藤蔵

・同平十郎

・治右衛門

・七左衛門

・魯平

の五名

「北原村」とは中北や山崎の古屋敷が形成していた宿場

の機能をも

ある。しかし、以上の堀田堂敷の中には本田帳上の屋敷を有する者催

た集落の名称で壽

・理蟹

れ・のミ

・すれば、「北」・は

見出せ毒

+郎・治右衛門・差

衛門攣

れも新田帳毒

9)

神明谷の北≦

口・つ・」とであり、「宮」

取社が吏

は北原村

の宮で

屋敷に居住している・とが確認される

(魯干

屋・"ゴゼ・ド・の屋敷

・た・」とをその小字は示してい・・とになる。

は奮

田帳にも見出せないが、その位置某

・下の新田に近接レ

北原村と称された集落が沓掛村の中心的集落と考えられるが、沓掛

.

ている)。

村には古屋敷の伝承があるもう

;

の場所がある。香取社西側の神明

では、堀田堂敷で本田帳古

屋敷に住する意

というと・地番八一二

社周辺

である。次に神明社周辺の占地から古屋敷について考えよう。.

六に木村庄左衛門、地番八四五

・八三七

・八三五に与左衛門の畑があ

るがへ右の新田帳上

の屋敷忙居住する堀田堂敷はすべて木村庄左衛門

神明社周辺部の占地

-

の分家、あるいはその系統の分家なのである。庄左衛門

の場合、神明

香取社の西の神明社のある

一区画

の土地の占地を示す走、第3図の

社に南接する東κ並んだ畑地が古屋敷であるとすれぜV分家射出以前

ごとくである。ここには堀田堂敷の古屋敷があ

ったという伝承があり、

・.そこに屋敷を構えていたと考えても不思議はないであろう。そこに並

また、堀田堂敷には利根川方面から入

ってこの地に土着し、.墾田した

んだ畑地の、地番八〇

二の所持者木村太兵衛、同じく地番八〇六の倉

のでそれが堀田堂の各称にな

ったと

いう伝えもある。古屋敷はここで

持三右衛門、地

番八

一六の木村兵右衛門、地番八

一五の倉持久右衛門

畿 轟 蝉 脚 覇 鰻 朧 ・, ㎝ ω .・ 舗 ・, 心 鞠 踊 前 .. ω △ ・. 断 り .・ ゴ 諺 唱 悪 . . . 団 警 語 曄 蝉

oσ H ピ 遠 ω . O O 瑞 麟 咄 浬 oo ⑦ N

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。。 g ・・ δ c・ G・ 卜・ c・ 贈

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c◎ 目 ω . 富 A ・ トコ o Q 暑 斗 鄭 聴 判

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o◎ H 刈 ' 帰 コ ヨ 奮 ① ■ O ↓ 暑 茸 判 十 番

◎σ   Qo ・ 笛 ド ト⊃ Φ ゆ 尊 出 掛 毬 謡 o◎ O O

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oo 心 O . 繭 画 引 益 轟 .   ω 叫 蛇 姻 酵 母 蕪 ヨ o◎ ハ ㊤ ■ 笛 ㎝ . 卜⊃ 恥 ゆ 無 山 掛 避 コ 』

co 品 目 畠 賢 妻 温 遠 O ◆ 卜◎ ① 暑 ‡ ㍊ 烈 oo α O . 冊 調 理 蔚 誉 O . 卜⊃ 刈 . ゆ 熱 田 母 蕪 詔

等はいずれも本田帳に現れる屋敷に居住している。倉持三右衛門の畑

けする村内第三位の耕地所持者、同じく木村庄左衛門の祖新右衛門は

一枚で三反八畝余もの大きな畑とな

っており、三右衛門は外にも同

二町四反六畝余を名請けする村内第五位の耕地所持者とな

っており、

様の畑を所持しているが、寛文検地

における三右衛門家の当主権三郎

堀田堂敷の古屋敷とされる場所には寛文検地最大の耕地所持者主計は

は総名請地面積

一町

一反八畝余で村内六十五位の耕地保有者に止ま

じめ村内上位五名の耕地所持者のうち三名

の古屋敷がここにあ

ったと

ている。それは権三郎が兄とされる家一寛文検地帳では権太郎

(一町

理解されるのである。

二反八畝余、五五位。ほぼ均等分割)から分出されて間もなか

ったか

本田帳の屋敷に居住している者

のそれぞれの家を墓所との関係で見

らであろう。その畑の並びには寛文検地における村内最大の耕地保有

ると、木村太兵衛

・同兵右衛門は阿弥陀堂敷に属し、倉持三右衛門

者主計

の屋敷も存在していたと考えられる。

同久右衛門は観音堂敷に属している。阿弥陀堂敷は堀田堂敷とは別系

地番八四〇の畑は古谷野勘左衛門

の所持する所とな

っている。勘左

の木村姓

の集団で太兵衛

・兵右衛門両家

の外

に弥兵衛家があるが、

衛門の屋敷は下妻町道に面した所

に二筆あるが、そこから七、八○メー

その三家には太兵衛を長男とする兄弟の関係があ

ったと言われ、阿弥

形の

トル北東釈迦堂内の貞享元年十二月の墓石に施主古谷野主計とあり、

陀堂は大坂落城後阿弥陀をも

って沓掛村に来た太兵衛の先祖によ

って

)

-

主計が古谷野姓であ

。た・」とが理蟹

れる。勘左衛門以外の古谷野姓

建てられたという伝承がある。観音堂敷の三右衛門も同じ倉持姓を名

0

の者の村内における屋敷を見ると、釈迦堂に比較的近い西村坪北の新

っても久右衛門とは別系統の倉持とされており・入村伝承はな

く・

田の屋敷の中に二戸あるが、寛文検地時の主計の屋敷とは考え難く、

久右衛門家よりも古くから沓掛に居住していたと考えられるが、既述

その位置については後述するが、勘左衛門も主計の分かれと考えられ、

のごとく元和三年入村が伝えられる倉持久右衛門の畑がこの区画の東

とすれば地番八四〇の畑は主計が所持し

ていたことは充分考えられ

端にあるのは興味深い。なお、阿弥陀堂敷の弥兵衛の祖弥蔵は寛文検

よう。

地で二町六反四畝余を名請けする村内第四位の耕地所持者とな

ってい

以上のごとく考えられるとすれば、堀田堂敷の古屋敷の伝承は、掘

る。堀田堂の古屋敷があ

ったと伝えられる場所に祖先が屋敷を構えた

田堂敷のみでなく実は西村坪全体の古屋敷のあ

った場所を伝えている

者の所持耕地面積が多いのは、新田を七反~二町

一反余と多く名請け

のではなかろうか。

しているからである。ちなみに村内七位の耕地所持者中北の右京の新

寛文検地

における土地所持状況と

の関連

で本田帳

の屋敷に居住して

.田所持面積は五畝余であるが、後述のごとく右京は新田に分家を創出

いる者を見ると、木村太兵衛

の検地時

の祖惣三郎は二町七反余を名請

している。

沓掛村の二つの古屋敷

の伝承から、沓掛村中北坪には寛文検地本田

的だ

ったのではないかと考えられる。

帳上の屋敷が形成される以前

のいわば原集落があ

って、それは香取社

戦国末

・近世初頭の沓掛村

では少なくとも二つの集落のあ.つたこと

東側の中道周辺部にあ

った宿場

・市場の機能を有する集落で、その集

が考えられるが、それらが

一つの近世の村として掌握されたのは、二

落は北原村と称されていたのではな

いかと考えた。また、.西村坪にも

つの集落の水田は神明谷に混在しており、・そこに二つの集落が

一つの

原集落があ

って、それは神明社周辺部にあ

ったのではないかと考えた。

近世の村として掌握される契機があ

ったものと思われる。

中北の原集落においても西村

の原集落においてもどれ程の屋敷数でそ

それでは沓掛村の原集落は近世に入るとどのような動態を見せるで

の集落が構成されていたか明らかにはし得ないが、逆井村西坪では逆

あろうか。以下、沓掛村の集落の動態を中北

・西村

.子古内

.山崎

.

井利光が、逆井村開発巧者

・逆井六軒と称される農民の屋敷を逆井家

向原の順で坪別に検討しよう。

から大凡

一五〇メートルの範囲内に点在させた集落を形成していた。

山村では井岡村と称された小集落は寛永十

一年の観音堂棟札から六名

ほどによ

・て震

されていた・とが考えられ・生子村の北向内の築

中北坪

.

幻ユ

二年検地における屋敷地名請人は九名とな

つでいるから、沓掛村の場

沓掛村には北原村と称された香取社東の中道沿いに形成され宿場

.

(

合、北原村はその機能からほかの集落と異なることも考えられるが、・

市場の機能をも

った集落がか

つてあり、その集落が沓掛村の中心的集

西村坪

の原集落

では久右衛門を除けば五、六戸であろうか。

落で、中北坪の原集落であ

ったと考えた。その集落は近世社会が成立

生子村北向内

の寛永二年における屋敷地名請人の所持耕地は三町五

していく過程に消滅し、新たな集落をその北側に形成するが、それは

 に 

反二畝余を最高

に九名中七名が

一町

四反八畝余以上を所持している。

どのように形成されてい

ったのであろうか。

また、耕地

の所持規模は異なるが、逆井家の系譜には利光から三代後

第4図は、中北坪の屋敷の所在とその明治十六年における所持者名

の常智

「四郎右衛門

(利光二男)無子依テ江川村住人卜部兼直末葉

を記したものである。寛文検地における中北の屋敷地名請人は本田帳

養子、江川越石八拾石余、持高百三拾石余、下男女百人余、食客武拾

が二〇名

(寺を含む)、新田帳が三名であるが、本田帳

=二名、新

 い 

人、下女腹子五人」(括弧内

・読点は筆者)と書き込まれている。

田帳の

一名の屋敷の所在が判明する。明治十六年

における屋敷配置の

れには誇張もあろうが、戦国末

・近世初頭の小集落における農業経営

原形は既に寛文検地時には出来ていたことが理解

できるが、所在の判

は譜代下人等隷属的生産者を内包し、家父長権が強い農業経営が支配

明する寛文検地における屋敷を手掛かりにしつつ中北坪の集落形成に

近世村落の形成

 ゆ 

ついて検討しよう。

第4図を見ると、中北坪の集落南側には東西に道が延びているが、

、..

の道

に南

つ中

の主

の屋

は東

へ稲

・木

・倉

F蕊

のを見・・とが出来・・張替孫右衛門の屋敷より更に東の屋敷は新田

張替の各姓の農民の屋敷が大凡ブ

・・クを成しなが・順に並んでい・

衛魯

駝離

であ・.稲石

・木村の順は茎

院の薯

の配列とも同・であり、原集

落の星縫

の秩序が新たな舞

持ち込まれた一

に考義

・蔑

倉倉

同族ごとに屋敷が固ま

っていることはかってそこに各同族の分家創出

についてその本

●分家関係について見ると・既述のごとく木村金兵衛

)

こ村重左衛F

こ村久三郎

:村弥左衛F

;村仁右衛FI

持 善兵衛

持 七郎平

ヒ坪

集落のほぼ中央に最も大きなプロツクを形成している木村姓の農民

塁'目lj

とを示し

さ鳥

13

(検地名請人右京)と同佐五右衛門家

(検地名請人助次郎)とは兄

(

る第

弟の関係にあ

ったと伝えられるが、金兵衛家の分家には木村伊左衛門

同字兵衛

・倉持七郎平等がある。うち宇兵衛は隠居分家、七郎平は金

兵衛家の分家だが、七郎平はのちに倉持に改姓したと言う。検地帳の

髄薙

位置する倉持豊.兵衛と同じく弥兵衛となる.と看、う・、とは検地名請人

後筆によ

って七郎平家の寛文検地名請人を辿ると、同家前面に屋敷の

門女門門

左嘉

弥兵衛も木村姓であ・た・とを意味す・が、屋敷面積を地籍図に見・

鱗稲宿木

・難

の分割は七郎平の案

太き≦

反⊥ハ肇

善兵衛は八畝

余・な・てい・.伊左衛門の名は鑑

帳後睾の名請人中にも努

、右

あロ

よ す

.

.

うち

い分

るが

.七

つい

ても

つ分

のか

は.不

であ

る。

それ

ら分

の屋

敷は第4図では見られるごとく、金兵衛家の前面に位置している。.

行われたが、木村姓の農民

の同族団的分裂

に伴う屋敷の造成

は東

ところで、沓掛村

の近隣村における集落の形成の仕方には当初道に

と延び、いわば北折れ道に展開した。その中には擬制的な同族団関係

沿

って有力な者ないし本家筋となる者の屋敷が

一、二戸建てられ、そ

を結びながら屋敷を構えたものもあ

ったであろう。木村姓の農民の屋

の後

その屋敷

の前の東に延びる道を北にほぼ直角に折

って再び東に延

敷の東側には倉持姓の農民の屋敷があるが、倉持姓の農民の祖先は西

ばし、創出された分家ほかの屋敷を

その道北側に沿

って建てていった

村坪の倉持の遠い分かれなのではなかろうか。とすれば中北の集落と

  

と見られる集落

の形成の仕方がある。道を北に折

ってずらすことによ

しては新来の者なのであり、そのため彼等の屋敷は北折れ道の東端部

て屋敷を層序立てるような集落の形成の仕方である。中北坪の集落を

に配置されたのではなかろうか。彼等の屋敷

の検地帳

の小字

見ると、集落に南接する道も木村伊左衛門の屋敷の所で北にほぼ直角

「山ノ中分」

であることからすれば、そこは新たに開発

.分割された

に折り曲げられている。

土地のごとくであり、その小字名は倉持姓の農民の祖がそこに屋敷を

近隣村に見られる右のような集落

の形成から考えると、伊左衛門の

構えたのは木村姓の農民の同族団的分裂

の後という時間的経過をも

屋敷の場所には本家筋あ・いは集落内に強いヘゲ

モ†

を有す・者の

示・てい・よう・思われ・。そしてその北東北折れ道か・外れて張替

のユ

屋敷がなければならない。伊左衛門家とその屋敷裏側

の宇兵衛家が金

孫右衛門の屋敷がある。孫右衛門家は本田において分家創出を行

って

(

,

兵衛家の分家であ

ったことを考えると、そこは寛文検地時には中北

いないが、孫右衛門の屋敷

の小字も

「山ノ中分」

であることからすれ

最大の耕地所持者であ

った金兵衛祖先右京の屋敷

であ

ったことが考え

ぱ、その屋敷は倉持姓

の農民の屋敷創出以後

に造成されたのではなか

られるのである。稲石姓の農民

の祖

で寛文検地名請人と確認できるの

ろうか。

は、.稲石権右衛門の祖五郎兵衛

一人

である。その名請面積は

一町六反

集落

に南接する道が北に折れる手前に金兵衛家

の先祖は屋敷を構え

四畝余で村内二五位とな

っている。

なぜ、稲石姓の農民の祖先が金兵

ていたと考えたが、屋敷をそこから北側に退いた時は、集落の近世村

衛祖先の屋敷西側

に屋敷を構えたのかその理由は分からないが、中北

落としての発展がその強い家長権の効力を無用なものとした時期であ.っ

坪の原集落の考察からすれば、原集落

での屋敷配置の秩序が新集落形

たであろう。集落

の北側の谷を

「き

っかけ谷」と言う。金兵衛家の東

成に当た

っても取り入れられたから

ではないかと考えられる。

側その谷寄りに金兵衛家と兄弟の関係にあ

ったと伝えられる佐五右衛

中北坪

の集落はその西端部に稲石姓及び木村姓の農民の祖先が最初

門家等三

つの屋敷が並んでいるが、西端の忠左衛門家

(検地名請人兵

に屋敷を構えた。稲石姓の農民の同族団的分裂は祖先

の屋敷周辺

左衛門)は佐五右衛門家の分家である。また、新左衛門家

(検地名請

人見当たらず)を

「中ん家」と

いうが、忠左衛門家東側には屋敷があ

久右衛門

(オーダナ)

たらしく、その屋敷と佐五右衛門家

「中」という所からその屋号が

あるのであろう。

西村坪

平左衛門

(アブ

ラヤ)

又兵衛

(サ

カダナ)

八左衛門

(ヤ

マハチ)

善右衛門

(キ

ヌヤ、隠居分家)

八兵衛

(隠居分家、初代元治元年没)

中北坪と同様影

とその所持者を図示すると・第5図のごとくであ

善蔵

(ヤク・ヤ)も久右衛門の分家筋・当たる≦

口乞

る。西村坪は中北に比べると、寛文検地本田帳上の屋敷の外縁に多く

久右衛門家の分家はいずれも大きな商家だが、久右衛門

(検地名請

の新田帳上の屋敷を展開させている。寛文検地帳上の屋敷でその所在

人久右衛門)以外は寛文検地名請人として現出してこないのはそれが

が判明するのは、本田帳では十五名中十名

(寺を含む)、新

田帳

では

寛文以降に行われた分家だからであろう。第5図と照合すると、平左

一名中六名である。北側の路村状

の新田帳上の屋敷の小字は

「ふか

衛門

・又兵衛

・八左衛門

・善右衛門の屋敷は久右衛門家南

に並んでい

形渤

い」、同じく西側は六戸の屋敷群を含め

「木、下」とな

.ているので

るのが確認される。最も新しいと考え・りれる木ツ下の八兵衛家は隠居

それぞれその名称で新田を呼亭

」とにしよう。木ノ下の路村状集落は

分家で、その初代の没年は元治元年である。

.

q

検地帳上の屋敷が

一戸しか見出せないが、路村状集落の東端部からそ

以上によると本家の久右衛門家を除

く中心部の集落南側は寛文検地

の屋敷に至るまで集落は検地時にはほぼ形成されていたものとして考

まで屋敷はなか

ったことが理解されるが、西村の新たな集落は久右衛

察しよう。

門家の前の道の北側に形成されてい

ったことを確認しつつ、その集落

さて、それでは神明社周辺部に古屋敷を構えていた人々は西村坪に

形成について検討しよう。

どのように集落を形成したであろうか。

.

寛文検地における村内最大の耕地名請人主計の屋敷は西村にあ

った

第5図を見ると、本田帳上

の屋敷が集中する集落

の西端部

の道の南

と既述したが、それはどこにあるのであろうか。主計の屋敷は、久右

側に倉持久右衛門家があり、更にそ

の南側に屋敷が続いているが、そ

衛門家と道を隔ててその前に位置していた。第5図ではその位置に木

の多くは久右衛門家の分家筋

の家

々である。そこで、最初に久右衛門

村伊平治

・同仙吉

の屋敷があるが、両家は兄弟

の盟係にあ

って、.とも

家の分家についてその屋号も併せて図示すると、次

のごとくである。

にかつては古谷野を名乗

ったという言

い伝えがあり、堀田堂

の伊平治

(兄)のものと伝わる古

い墓石の中

には慶安や天和三年

の年銘の墓

難織

」謙

.難鞭羅搬

で台座に古谷野と彫られた墓石があるの

.

である。・神明社すぐ前の堀田堂敷木村藤蔵

.

・…

「.

(検地名請人不明三

古屋敷・思われ・畑

丘、

前 博之

勘左衛門家カ所持したのではなカろう力

既述のごと島

左衛門の屋敷は集落の忠

古谷野姓の者の屋敷はふかいの新田にあ

藤一兵

16.

村3村

村凡休

て、いずれも主計が古屋敷から移

った際の

(

ノ鶴

.

り外れた下詩

道沿いにあり、その他の

門灘

颪木雛ゆ驚

.∵踊霧

鰯網繋

倉持木村惣

郎右衛

村伊十1

久之助助

郎一

 倉持八兵衛

倉持権兵衛

ロ 

棚木

右衛門の屋敷が並んでい垂

平兵婁

そしてその屋敷の位置・は西村坪の集落形

成のされ方とも関係している。旧主計の屋

敷の東側は倉持三右衛門

.(検地名請人権三

郎)・同平兵衛

(検地名請人権太郎).・同乙

三右衛門家も兄弟爵

係にあ・たと言い、

.

の分

であ

る。

それ

の屋敷の所在場所はと見ると、旧主

計の渥敷方価から延びる道が北

推測されるように何らかの有利な条件を有毛ていたからであろうか。

折れ曲がる所に乙右衛門

(屋号カド

ナイ)の屋敷がある。平兵衛家と

前者であるとすれば、集落西端に屋敷を構える有力者の集落内

におけ

三右衛門家の寛文検地名請人の名請地を加算して分家以前の耕地保有

るヘゲモニーや家長権の衰退を待たねばならず、とすればその時期は

面積を見ると二町四反六畝余となり

これは村内五、六位の保有耕地面

寛文検地時近くまで下ることになろう。久右衛門家の祖は久右衛門

積となる。古谷野姓の農民の祖先及び倉持三右衛門の祖先は西村坪に

名で

一町六反九畝余の村内二十二位の耕地保有者として寛文検地帳に

最も古くからの居住者と考えられるが、集落内の有力な者の屋敷を集

登場しているからそう考えることは不自然である。ここでは後者にそ

の西端に置き、その屋敷前面の東

に延びる道を北に折り曲げて更に

の理由を考えておこう。

へと延ばし、その北側に屋敷を造

っていくこのような集落の形成の

北折れの道に屋敷を構えた寛文検地本田帳の屋敷名請人は今度は西

仕方は中北坪と基本的には同じである。しかし、中北では原集落の屋

村坪の中心集落

の外縁を開発し、新たに集落を造成していく。ふかい

敷配置が新たな集落にも持ち込まれたと考えられるのに対し、西村で

や木ノ下

への新田の開発は分家創出を伴いながら進行しているので・

形渤

は屋敷の配置は必ずしも原集落と同じではないようである。

以下、知る・とのできた堂暫

」とにその本

.裟

関係を整理し、判明

.b

倉持平兵衛

.同乙右衛門の屋敷より東

の北に折れた道の北側には=一

する場合は寛文検地本田帳

・新田帳

いずれの屋薯

請人の後高か、そ

q

右衛門家の分家

(佐右衛門家、オ・シヤ)のほか既に触れた堀田堂敷

して新田帳の場合・ど

・の新田か示すこととしよう

(次頁)・

以下を

や阿弥陀堂敷で寛文検地本田帳の屋敷名請人の後高の屋敷が並んでい

第5図と照合すると、どのように分家が新田に創出されているか看取

る。彼等の屋敷の前の小さな屋敷は沓掛村が近世中

・後期に久右衛門

されよう。,

(オーダナ)等の商家

の成長を見、新

たな町場どし

て発展した際下妻

町道に沿

った商店等と同時期に形成されていった商店であろう。阿弥

新田における屋敷居住者の祖が寛文検地新田帳の屋敷名請人かどう

陀堂敷の入村は大坂落城

(元和元年五月)後、久右衛門家の入村が元

か確認できない例が多いが、先に掲げた久右衛門の分家筋の木ノ下の

 り 

和三年と伝えられるが、その時期がほぼ同じであるのに久右衛門の屋

八兵衛家の初代の没年が元治元年というこどから窺えるように新田の

敷が寛文検地時

の主計の屋敷

の前にあるのは、実際の入村が元和三年

屋敷の中には寛文検地時からの屋敷ではないものも含まれよう。しか

より後のことであ

ったからであろうか。あるいは、入村時における久

し、山西坪の中心集落から分家創出によ

って新たな集落が形成されて

右衛門家が阿弥陀堂敷の祖先に比

べ、倉持姓を名乗

っていることから

ドく様子は理解されよう。路村状

の新田ではふかいが堀田堂敷に属す

[堀田堂

敷]

.

[阿弥陀堂敷]

(姉)

(兄弟)

木村栄太郎

木村太兵

(タ

マリャ)

(長次郎

H

検地名請人名

は惣

三郎

・ヤ

マチ

ョウ)

H

検地名請人名

介作

村兵右衛門

(ヒ

ョウ

ェド

ン)

伊十郎

(モリサ

マ)

(S)木

ノ下

(S)木ノ下

惣助

(S)木

ノ下

H

検地名請人名は五郎八

金兵衛

(S)木ノ下

隠居分家

(S)木

ノ下

S

検地名請人名は弥蔵

木ノ下

(弟)

松之助

木村庄左衛門

(サシ

マヤ)

H

検地名請人名は

新右衛門

門前

木村与左衛門

(S)木

ノ下

[観音堂敷]

)  

魯平

(ゴゼ

ンド

ン)

(兄)

1(

(Sカ)

倉持平兵衛

(酒

やん家)

藤蔵

H

検地名請人名

は権太郎

(S)

ふかい

七左衛門

(ヤ

マシチ)

S

検地名請人名は

[

乙右衛門

(カドナイ)

兵衛

与七郎

ふか

(S)木

ノ下

治右

衛門

(ジ

エンドン)

(S)

ふかい

隠居

(弟)

分家、

次男

を伴

倉持

三右衛門

(ヤ

マニシ)

(ヨゼ

ンド

ン)

H

検地名詩人名

源十郎

H

検地名詩人名は権三郎

源治

(S)

ノ下

倉持新右衛門

S

検地名請人名は勘助

木ノ下

Hは寛文検地本田帳の屋敷名請人の後高

Sは寛文検地新田帳の屋敷名請人の後高

善蔵

(マスヤ)

(S)は新田における屋敷居住者

佐右衛門

(オ

コシヤ)

新三郎

(デヤ

マニシ)

(S)木

ノ下

る農民と古谷野姓

の農民が、木

ノ下

では堀田堂敷に属する農民と観音

子古内坪には中北坪

・西村坪

のように古屋敷の伝承はない。後述の

堂敷の農民とが見出せるが、堀田堂

敷に属する農民はそのどちらにも

ように入村の伝承のある家も存在するが、どうも判然としない。そこ

見られ、開発に積極的

に関わ

っていることが分かる。

で、

ここでは本田帳上の屋敷の展開状況について確認し、屋敷の所持

木ノ下には路村状の新田集落

のほかその南

に六戸からなる新田集落

者などから新田開発の方法について考えてみよう。

があるが、その中心にある二戸が阿弥陀堂敷

の弥兵衛家及びその分家

本田帳上の屋敷名請人を検地帳の記載順に示し、その明治十六年

であることは、当初はそこに弥兵衛

の祖先の屋敷しかなか

ったのであ

おける所持者の判明するものについては図中の姓名を併せて記すと、

ろうか。

一方で路村状の集落が作られている時、なぜそのように屋敷

`

次のごとくである

(・で繋げている場合は連続することを示し、

・・

が造成されたのか不明だが、西村坪

の新田屋敷造成の基本的方向は

で繋げている場合は間に

一~四筆が入ることを、

で繋げている

本の真

っ直ぐな道に沿

った路村状の集落にあり、それは屋敷の面積は

場合は間に二十筆以上入ることを示している。●は帳が変わることを

異なるにせよ、

一本の真

っ直ぐな道

に沿うということでは平準化され

示す)。

形の

た集落であり、旧集落とは造成の原理を異にするものであ

った。阿弥

大膳

(木村きく)・長左衛門

(野

口長左衛門)・長作

・弥次右衛門

)

19

陀堂敷の弥兵衛家は太兵衛家

.兵右衛門家と兄弟の関係であ

。たと伝

(木村弥次右衛門

.同市郎右衛門).小左衛門

(木村小左衛門)..惣

えられるが、弥兵衛の屋敷が新田にあることは、弥兵衛の屋敷が太兵

五郎

(野口惣左衛門

・同所左衛門)●四郎兵衛

・・図書

(木村倉治).・

衛家

.兵右衛門家より新しく創出さ

れたことを示すものと考えられる。

・尊勝院

利兵衛

・利右衛門

・・大乗院

大膳の屋敷は、尊勝院の寛永十六年

・慶安三年の年銘のある同じ板

子古内坪

碑型の石塔に施主大膳と同喜多右衛門の名があり、喜多右衛門が木村

子古内坪について明治十六年の地籍図から屋敷の所在とその所持者

きく家

(11伊左衛門)の先祖であることから、木村きく家を大膳の屋

名を示すと第6図のごとくである。子古内坪の寛文検地における本田

敷に当てた。

帳上の屋敷名請人は十二名

(寺を含む)、新田帳上

のそれは十三名で

第6図と併せてみると、本田帳の屋敷は西村の神明社と神明谷を挟

ある。前者については七名、後者に

ついても七名の屋敷の所在が判明

んだ対岸に位置する屋敷群の大膳の屋敷が最初に現れ、その南側に適

する。

ここでも本田帳上の屋敷の南

の外縁に新田帳上の屋敷が展開し

によ

って四角く区切られた屋敷群の四筆の屋敷が続き、その屋敷群棄

ているが、屋敷の並び方は中北坪

・西村坪のそれとは異な

っている。

側の惣五郎の屋敷を記載し、大膳の屋敷の隣の図書の屋敷に戻

って、

ζ

かこ位置し

こであろ先

こ・検

.尊勝院(利兵衛

・利右衛門、大乗

院と続いているが、この配列から

門衛

.

すると、利兵衛

・利右衛門

の屋敷

左治

は大乗院北にある木村三松

・同部

右衛門

・同武兵衛

の屋敷のいずれ

所惣長吉

村村村

地名請人との関係は不明だ力

㌔離

辞義

ζ

U、

木、治

6図の

弓ま図

の南と

岩井町道近くとのニカ所

野野野木

治左衛F一

屋敷

.

、・古

)

.

,坪

に屋

る。

F

門衛

『右郎吉

.

本鮪

.∴曜

麟難

平左

すれば

野口長左衛門の屋敷も第

村'平兵衛一

半左衛門~

第6図 子

}す の{

切 れ 屋`

3ば 敷 渥

美'で 夏

ま 野 あ(

卜 口 ろr

r長 う ζ

皇 左 と1

量 衛 判 ・

1門 断 フ

ニ の さL屋 れi

量 敷 る ・

.も 。7

=第 と1

(20:

く区切-られた屋敷群の中にあ

・た

木謝諏諏

麟欝

図書の屋敷南側の道によ・一

.

のではないかと考えられる・

.

'

以上によれば、本田帳の示す子

.

,

.

古内

の集落は三カ所に別れて存在

していたと理解されるが、堂敷と

いう視点から見ると大乗院の堂敷

木村三松家

(伊右衛門)の嘉永二年

の年銘のある墓石に

「図書末代伊

喬木村権右衛門。本田

一町四反七畝余

・新田

一町八反四畝)・山三郎

右衛門」と彫られており、尊勝院の堂敷木村倉治家

(三右衛門)の嘉

(後喬木村吉十郎。本田八反余

・新田

一町四反六畝余)・半三郎

(後高

永五年

の年銘のある墓石側面には

「図書末代三右衛門」と彫られてい

木村半兵衛

・同半左衛門。本田九反七畝余

・新田

一町二畝余)は、順

る。両家はそれぞれの堂敷頭の位置

にあることから、図書の系統が二

に村内二位

・六位

・十

一位の耕地所持者とな

っている。所持耕地面積

つに別れて尊勝院と大乗院の堂敷が形成されたことが理解される。子

は新田を獲得することで増大しているが、彼等はいずれも本田をも所

古内坪全体で見ると、大乗院の堂敷は木村三松家のほか同部右衛門と

持七でいる。

このことは新田検地帳の屋敷名請人の中には新田に屋敷

野口姓

の人

々で、そのほか大多数は尊勝院の堂敷とな

っている。,

`

を構えることによ

って独立する者

のほか、本田にあ

った屋敷を廃して

ところで、子古内坪の入村伝承とはその図書末代の三右席門家に伝

新たに新田に屋敷を構えた者も

■いたことを推測させる。新田帳の屋敷

`わるのである。同家は上州方面から来たと伝えられる。だとすれば西

名請人

の中

には村内最大

の耕地所持者主計の屋敷もある。主計は西村

村の神明社対岸尊勝院南

の屋敷は入村した時以来の屋敷なのであろう

,・

坪ふかいの新田にも屋敷を所持しており、「主計が新田開発に積極的に

また・中北や西村の木村姓の農

民との関係はどうなるのであろう

関わ

・でいたことを示しているが・主計の居所は西村坪

であり・子古

)

ぜ、集落の雲

が中北坪・西村坪・異萱

北に折れた道に

内の鑑

後に木村太吉家の経箸

立してい智

・の・轟

α

並ぷ集落の形成が子古内

では見られないのであろうか。時期的に子古

で主家から独立してきた新田帳

の屋敷名請人も存在したであろう・

内の集落形成は中北坪

・西村坪より遅

いのであろうか。不明な点も多

・.

木村太吉家

(忠左衛門)の専勝院

の明和五年の墓石

には

「主計累世木

いが、以上のごとく寛文検地の本田帳の屋敷の展開状況を理解して、

村忠左衛門」とあるつ

.

7

、・,

次に新田の形成について若干の考察を加えよう。

新田帳の屋敷名請人と本田帳の屋敷名請人との本

・牙家附係など子

新田帳上の屋敷は十三名中七名しか所在が判明しないが、その屋敷

古内坪の場合、ほとんど判明し得なか

った。しかし、主計の屋敷

の存

は本田帳上の屋敷の外縁に位置す惹ことは理解される。検地帳の後筆

,在は、子古内坪の新田開発には西村坪の農民が関わ

っていた

ことを示

によると、第6図の木村又右衛門

・同伝左衛門は検地名請人縫殿助、.

していよう。

木村平兵衛

・同半左衛門は同じく半三郎の同族団的分裂の結果生じた

第6図中の新田帳の屋敷の南端蔀木村熊太郎家は同与五兵衛家

(検

屋敷であることが分かる。

地名請人清六後高)の分家であり、同太賀藏家は同熊太郎家の分家で

所持耕地面積を見ると子古内坪に新田帳上の屋敷を有する帯刀

(後

あるので、両家は寛文検地時には成立していなか

ったと考えられる。

子古内坪の尊勝院

の墓所には棺を置くため

二つ並べられた長方形の石の正面に

「根古内

村開発廻向石仏

両名主

(ママ)村中」

`

る.

門論

衡女

嘉衛灘

ようにも採れ・が、名前は記されていない.

、針

二鍵

・は聾

女作繊

β

獣嚢

総州肖

辮張

・の石塔は寛文検地か・四+年後建

て・れ

俗針

駝翻

ビ擁

韓擁

縫環

/針針門

平螂

山幻

清右衛門替八兵衛

久右衛門』

/る

崎坪

肺鱗

4

治無

張張

網ω

が一般化されていない・とをも一示して

張金

山崎坪

山崎坪の寛文鑑

における本田帳上の屋敷

解解翻

/

齢 左衛門

名請人は+六名

(寺を含む)・新田帳上のぞ

.

れば±

名である・薯

については七名・後

張張

者については十名の屋敷の所在が判明する。

山崎坪について明治十六年の地籍図から屋敷

の所在とその所持著名を示すと第7図のごとくである。

家と同五郎平家とが別れるが、五郎平家には同家が針谷平作家

(勘兵

香取神社から山崎坪に至る中道にはかつて宿場

・市場として機能し

衛ドン、検地名請人不明)の分家であり、平作家の本屋敷はハナビヤ

た集落11北原村があ

ったが、その衰退の後そこに居住していた人々は

マにあ

ったと言うことである。

ハナビヤマは向原坪の神明谷を挟んだ

山崎坪

へと住居を移したというデイヤシキの伝承のあることを紹介す

東、第1図では林とな

っている箇所にある地名であるが、このことは

るとともにその裏付けを先に行

った。しかし、ではその移動が具体的

検地名請人五郎右衛門の古屋敷が

ハナビヤ

マにあ

ったことを意味して

にどのように行われたかということ

になると、山崎坪でもそれ.を明ら

いるのであろうか。勘兵衛ドンの屋敷は第7図では新田の屋敷の並び

かにすることは困難であり、また、デイヤシキの伝承とは異なる集落

に位置しているが、分家創設時に新田に居住していたとは考え難く、

移動もあるようである。

検地帳には

ハナビヤ

マの小字もないので、分家創設時における平作家

新田帳の屋敷はここでは本田帳の東側の外縁に展開しているが、以

(勘兵衛ドン)の屋敷の所在は不明である。また、五郎平家西隣

の張

下、本田帳と新田帳の屋敷の展開状況を確認し

つつ山崎坪の集落の形

替善助家も本家は針谷文左衛門家と言われるから、本田帳上の屋敷は

形の

について検討しよう。

必ずしも東

へ延びるとは限らないことをも示しているが、大勢はやは

)

本田帳上の屋磐

請人でその屋敷の所在が判明す・のは+六名中七

新器

発k

新たな屋馨

・てい蕎

にあ・たのであろ

名と山崎坪

ではその判明する割合が低い。

それは帳上の屋敷の配列か

う。確認できる範囲で言えば、山崎坪では北に延びた神明谷の支谷の

らすれば、神明谷から北

に延びる支谷東側に存在していたであろう屋

天神社周辺部に

一~二戸の屋敷群からなる集落が形成され、その集落

敷群とそこに住む人

々の後高が判明しないことによると思われる。

を基点に東

に新田を開発していったと考えられるのである。・

確認できる本田帳

の屋敷から特記すべきことを指摘すると、

一つは

新田帳上の屋敷については十

=戸中十戸とそのほとんどの屋敷の所

中道に沿いつつ存在する針谷金右衛門家

(検地名請人と同

一名)と同

在が判明するが、新田の屋敷の所在を見ると、天神社付近の中道から

清作家

(検地名請人不明、文左衛門)は兄弟

の関係

にあ

ったとされ、

南東に延びた道

に沿

って平作

(後喬木村平作)・太郎右衛門

(後高和

更に、

これは新田帳上の屋敷だが、針谷孫兵衛家

(検地名請人権七)

田太左衛門)

の屋敷が、そして太郎右衛門家の南に久五郎

(後高張替

は文左衛門家の分家と言われることである。このことは中道

の旧集落

八兵衛)の屋敷が、北に茂作

(後高転出、

モンベエヤシキ)の屋敷が

から東側の新田に向か

って屋敷が形成されてきていることを示すもの

あり、茂作の屋敷北には権七

(後高針谷孫兵衛3

同源八)・助十郎

ではあるまいか。もう

一つは、検地名請人五郎右衛門から張替市郎平

(後高針谷長三郎陛トク

エンドン、帳上配列からすれば不.自然だが、

外に比定も出来ないのでこのように理解しておく)・新右衛門

(後高

山崎坪の張替

・針谷

・木村の各姓の農民の墓所は秀蔵院であるが、

針谷竹司

・甚兵衛)の屋敷群があり、そ

の屋敷群の西側には弧状になつ

山崎には張替五郎平家前方中道沿いと謳木村長兵衛家前、木村伊三郎

た道に沿

って監物・(後高木村伊三郎)・次郎左衛門

(後衛針谷治郎左

家前方部等にそれぞれの

一家墓がある。

衛門

・同三郎右衛門)・・仁左衛門

(木村新右衛門ゐ同長兵衛)

の順

,

=

.

.

.

一.,

屋敷が並んでいる。以上

の新田帳上

の屋敷で本

・、分家関係が分か

った

向原坪

家は、権七

く後高針谷孫兵衛

?同源八)のほか仁左衛門

(木村新右衛

、向原坪の屋敷はす

べて寛文検地の新田帳上の屋敷である。屋敷名請

・同長兵衛)と新右衛門

(後高針谷竹司

・甚兵衛)で、仁左衛門家

人の数は十

一名で,その屋敷の所在が判明するのは六名

であるゆ明治

の本家は中北の右京

(後高金兵衛)

であり、新右衛門は西村の新右衛

十六年の地籍図から屋敷とその所持者名を示すと第8図のごとくであ

(サシマヤ)

であろう。とすれば山崎坪の新田の開発は中北ばかり

る。検地名請人の屋敷の所在がほぼ半数しか判明しないのは、地籍図

でなく西村の有力農民も関わりながら進展していったと理解される。

の向原坪の南の部分が欠けているためである。.判明する六名中

.一,名は

山崎の餐

の検地・おけ・所持耕地面積を見て戟

与兵衛の配

八反

その欠けた部分・あ・屋敷であ…

の 

八畝余

(本田

一町七反四畝余

・新田八畝余)が最高で村内

一六位、新

第8図を見ると、向原坪の集落は南側の道に沿

って張替姓の農民の

(

田の屋敷に住する者

の最高は平作で

一町五反二畝余

(本田六五余

・新

屋敷が並び、その東半部の北側には木村姓

の農民の屋敷が並んでいる。

田五二余)、村内一一二

位とその所持耕

地規模は少ない。

これは中北や

向原坪も検地名請人の屋敷の所在状況から寛文検地時には集落の祖型

西村の有力農民が開発に関わ

っていたことと関係しているのかも知れ

が出来ていると判断されるが、向原坪

の集落

の形成

に関してもデイヤ

・ないが、新田開発に伴う分家の創出

には擬制的な同族団分裂の形を取

シキの伝承があ

った。向原坪

の人

々の中道周辺部

における畑地は少な

た多く

の隷属的生産者も含まれていたのではなかろうか。新田の開発

く、第2図

では香取社のすぐ東に木村八左衛門と張替佐十郎の畑とそ

終了時

11寛文検地時には屋敷の展開状況を見ると、山崎坪の集落の祖

こからやや離れて木村小十郎

の畑

の計三筆が確認されたに過ぎないが、

型は既

に出来ていたと判断されよう。

これをどう考えたらよいのか。また、向原の人々の墓所は張替を名乗

寛文検地後の分家創出としては、和田彦四郎家が同太左衛門家

の、

る人々は山崎

の秀蔵院

であり、木村を名乗る人々は子古内の尊勝院で

張替清右衛門家が同八兵衛家のそれぞれ分家

であることが伝えられて

ある。墓所と集落形成の関わりを重視するなら、向原の集落は山崎か

いる。

ら入

った張替姓

の人

々と子古内から入

った木村姓の人々によ

って形成

形成近世村落の

木村八左衛門

…ノ

(

行われていった,」ととなる。,」のように理解すると集落形態力相違す

されたと理解される。しかし、向原には山崎や子古内の人々が入

って

開発をしたという伝承は全くなく、子古内の木村との関係も分からな

いと言う。デイヤシキの伝承を採るとすれば、向原坪の屋敷はすべて

 ㌶

寛文検地の新田帳上の屋敷なのであり、中北の集落形成とは時間的隔

たりがあることとな

って、中道周辺部U北原村の集落移動は段階的に

ることも納得できることになろうか・

張●

なお、向原で最も寛文検地名請地面積が多いのは藤

二郎

(後高張替

「鷺

縮縫鐙趣娯操鹸臨轍

帳の後睾によれば張替六良兵衛

.木村4平治は検地名請人弥市力らの

・木

\β

伽一 〇 一

分かれであることが分かるほか・木村佐五左衛町家が同小平治家から

8

一 一

の分家であると伝えられる。

.、門

近世以前の沓掛村についてはほとんど明ちかにすることは出来ない

文検地帳写・明治=ハ年地琶

それに薯

類・伝承等の検討

・「・

を通じながら、.戦国末

・近世のこ図初頭の沓掛村には少なくとも二つ

・・

の集落があ

ったのではないかと考えた。

一つは中北坪の原集落とも言

うべき集落で、それは中道に沿

って形成されていた宿場

・市場の機能

を有した集落であ

って、北原村と称されていた。.宿とか市という名称

が残

っていないのは、そのような機能の顕著な発展がなか

ったからで

あろうか。猿島台地上の村々では行政村としての近世

の村が成立して

の北側に分家筋等の屋敷を配置するという方法であ

った。

一見すると

も村内の小集落を村と称しているが、北原村が神明谷の北の原

に形成

線分を繋げたように見えた道はそのようにして形成された道なのであ

されていたのでそのような名称が付けられたのであろう。香取社も北原

る。

これは北原村と西村

に共通して認められたが、両村が共同して同

の社であ

ったのではないかと考えられた。香取社の周囲から集落が

じような集落を造成したのではなく、

この段階では隷属的生産者を内

なくなるのは北原村香取社が沓掛村

の鎮守とな

っていく

ことと関係し

包した家父長的農業経営が支配的だ

ったことによるものと考えられ、∵

ているのかも知れない。もう

一つは西村坪の原集落と言うべき集落

で、

集落の移動は各集落ごとで行われたと理解されるのである。・

それは香取社の西側の神明社のある

一区画にあ

った。西村坪という名

子古内坪

・山崎坪において、寛文検地までには本田帳上の屋敷が形

称の中には西村という名称が含まれ

ており、西村坪の原集落

は西村と

成されていることが確認されたが、子古内坪

・山崎坪ではその屋敷が

称されていたのであろう。

この集落には元和元年

・同三年あるいはそ

形成する集落に中北坪

・西村坪で見られたいわば北折れ道は見当たら

の年は伝わらないが入村の伝承を有するものもいる。

他方、寛文検地

ない。ここでは多くても四

・五戸までの屋敷が蝟集した屋敷群がある

時には村内最大の耕地保薯

主計をはじめ入村伝承のないものも存在

のみである。その違いは集落形成の時間的隔たりがある・」とによるの

の 

しているので、西村も北原村と同時期に存在していたと考えられる。

か、あるいはほかの理由があるのかどうか明らかには出来ないが、新

(

北原村と西村

のあ

った同じ時期にほかに集落があ

ったのかどうか確

田帳上の屋敷でも北折れ道は見当たらず、明らかに北折れ道とは集落

認することはできないが、子古内坪

・山崎坪の原集落と言える集落が

形成の原理を異にすると考えられる集落が新田帳上の屋敷には認めら

ったとしても、それらが沓掛村と

いう

一つの行政村として掌握され

れる。西村坪のふかいと木ノ下

の新田における路村状をした集落であ

た契機は神明谷における水田の混在

にあ

ったであろう。しかし、村民

り、また、ふかいと木ノ下ほど整然としていないが、山崎坪の新田に

結合

のあり方として各集落間の農民結合が進展するかというと、そう

おける路村状をした集落

である。そこでは

一本の道に沿うと言うこと

ではないようである。

では個々の屋敷は同等

であり、北折れ道

の集落には認められない平準

慶長期であろうか、北原村と西村

は村内北側

へと集落を移動させるの

化の進展が認められる。明治

一六年

の地籍図は北折れ道の原理が崩れ

その集落の形成の仕方は、集落内に強

いヘゲモニーを有したであろう

ている様子をも示しているが、その背景には小農経営の発展という社

本家筋の農民の屋敷が建てられ、東

に延ばしたその前の道をほぼ直角

会的動向があろう。

に北側に折

って更に東

に延ばし、そ

のほぼ直角に折

った箇所以東の道

各坪の新田の開発には坪を異にする有力農民の参加があ

ったが、新

の屋

の造

のあ

に異

一さ

(4)

生子村

㊨残存検地帳

の表題を掲げ

ると寛永二年九月

「下総国幸嶋庄猿

こと

は、

田が

で計

に開

はな

島生子村御検地水帳」、万治三年七月

「下総

国猿島

郡生

子村

地帳

」・

「下総国猿島郡生子村新田畑検地帳」

(以上、鶴見金四郎氏所蔵)。

であ

ろう

の集

の動

は、

(5)

以下、沓掛村

の寛文検地

については(1)の拙稿

「近世村落

におけ

る集

.小

の発

レベ

の村

の強

う方

へは進

落と耕地

一寛文元年六月

『下総国猿島郡沓掛村御水帳写』

にみ

る一」・

った

こと

いる

は小

の発

に坪

へと

「猿島町旧村集落

の考察をめぐる

一断章」を参照された

い。

以下、

、村

では

に農

の結

いく

であ

のな

い場A口は上記拙稿

による。

(6)

明治十

六年九

月沓掛

村地籍図は倉

持義

氏所

蔵。

1図

の元

「郷土研究さしま」第

九号

の拙稿

のも

のを用

いた。

小稿

に当

っては

調

の他

で猿

の木

(7)

「猿島

町史」資料編

近世

別巻所

収。

・林

一之

・倉

・木村

・木

・木

(8)

籍図の宅地所持者

と寛文

検地帳

の屋

敷地名

請人

の比

ついては

止早一.倉持平左衛門.張替

氏をは・等

の方・に

(9)「探

聞蛯

ま」第九口写の拙稿を参昭{された魅

お世

.て

た。

て謝意

を表

い。

(01)

文政六年

二月

「田畑高反別改書抜帳」

(生

市氏

所蔵

)

には

「本最

」が斗代

「+」、「唇

五拾

三文取」

とな

.て

いる。

屋敷

ω

斗代

が定

められ、年貢地

とな

っていること

は、

この地方

に屋敷

の移動

(1)

今ま

で発表し

てきた論考

には

「山村1古新

田の開発を

中心

に一」

(木

多か

った

ことを窺

わせ

るが、小稿が検討

の対象

とする本屋敷

は年貢地

礎編著

『村落景観

の史的研究』所収。

一九八八年)・「山村

の集落一

名目とし

ての本屋敷

ではないので、も

一方

の伝

えられ

てきた言葉

11古

一六六〇年

におけ

る一」

(『郷土研究さしま』創刊号。

一九八九年)・「近

屋敷

の語を小稿

では使用す

ることと

したい。

世村落

における集落と耕地一寛文元年六月

『下総国猿島郡沓掛村御水帳

(H)

元禄七年三月

「(林改帳)」

(「猿島町史」資料編近世所収)

には名主

写』

にみる一」(『駿台史学』

第九〇号。

一九九四年)・「猿島町旧村集落

て金兵衛

・門之丞

・藤八郎

・与五兵衛

・三郎兵衛

・庄八郎

の六名

の名

の考察をめぐる

一断章」

(『郷土研究さしま』第九号。

一九九六年)等が

が記され

ている。金兵衛

は中北

の金兵衛

であ

ろう。与五兵衛

は子古内

ある。

.

与五兵衛と考えられるが、そ

の他

の名主

の居住集落

は不明

であ

る。

(2)

逆井家系

(逆井

氏所蔵

)。

(12)

参謀本部陸軍部測量局作成

の明治十三~十七年測図

によ

る関東地方

(3)

この時幕

領に編

入されたのは、飯

沼周辺

の私領村

々崎

・芦

ケ谷

・平

迅速測図

によ

って、か

つての宿場等を見ると鉤

の手状

の道

に連な

った集

.恩名

.仁連

.東山

.逆井

・山村

・生

・沓掛

・大

生郷

・古間木

を多く見出せる

のではな

いか。そ

の成立を記すも

のはほとんどないが、

鴻野山

.馬場

.栗山

の十

五力村

である

(大

石慎

三郎

校訂

『飯湖新

発記』

同様

の形状

の道

に市場が開設された相模国高座郡

の当麻宿

の成立を

「相

(上)巻

の二

.三)。

原市史」

(第

一巻)

「永正十

五年

(一五

一八)ご

ろか

ら程遠

らぬ

ころ」とし

ている。

(13)

「猿島町史」通史編

の近世第

一章参照。

(14)

(2)に同じ。

(15)

以下

の検討

にお

いて聞

き取

り調査

を行えなか

った家

ついては

「郷土

姓氏録」

(一九八三年

農産業協会

発行)

によ

って補

った場

合もある。

'

,

(16)

「猿島町史」通史編

の近世

一章

には菅

谷村道

・菅

谷北

の例

とと

に現在

の住宅地

図から中

北もそ

一例とし

て図示し

てある。

(17)

久右衛門家

の生

子の万藏院

にある墓誌

には

「倉持家ノ祖

ハ元宇都宮城

主本多正純

ノ家老

結城

宗光ノ

一子呑玉ナリ、元和三年母ト共

二当地

二来

リ万議院庇護

ノ下

二沓

ノ地

二土着

シ、代

々久右衛門

ヲ名乗リ」

(読点、

筆者)云

々とある。

)

8 

.

(

近世村落の形成

VillageFormationinJapan'sPre-ModernPeriod:

Focusingonvillagestatisticsfor

Kutsukake-mura,Sashima-gun,Shimosaprovince

KADOMAEHiroyuki

Thisarticleexaminestheformationofpre-modernvillagesinJapan.Ittakesasan

examplethecommunityformationandinteractionsoftheEdoperiodKutsukake・mura

villageinpresent-daySashima-machi,Ibarakiprefecture.Documentarymaterialsforthe

targetearlypre-modernperiodarescant..梅 舶 πη 々θηo配c加[landsurveyrecords],an1883

1andregistermap,gravestones,andorallytransmittedfolklorewereusedforthestudy.

Attheendofthewarringstatesperiod,theverybeginningofthepre-modernera,there

wereatleasttwosmallcommunitiesinKutsukake-mura.Ofthesetwo,onecommunity

functionedasaposttownandmarketplace.ThenameKutsukake-mura,literally"shoe-

hangingvillage"referredtothepracticeofhanginguptravelsandalsaspartofprayersfor

safetravel,andthusderivedfromthiscommunity'sfunctions.Thisarticleclarifiesthe

distinctivecommunityformationinthisvillage,indicatinghowthesetwocommunities

relocatedtothenorthernsectionofthevillageareaatthebeginningofthepre-modern

period,andhowthatmoveandcommunityformationwerebasedonstrongpatriarchal

authority.Thisarticlefurtherindicatesthatthelaterdistinctivedevelopmentsin

Kutsukake-muracenteredonhowyαsん 漉 ∫householddomainswerebuiltandnewfarming

fieldsdeveloped,Asnewfieldsweredeveloped,small・Scalefarmingoperationswerebegun

duringthisperiod,andthusthe:yashikihouseholddomainformation,i.e.communityforma-

tion,wasbasedontheequalstatusofeachoftheindividualfarmingfamilies.Astothe

integrationofvillagersintermsofcommunity,itisapparentthatratherthansmallcommu-

nitieswithinthevillageintegratingintoaunifiedvillage,therewasgreaterdevelopment

ofregionalintegrationaround'sπ δo,alandunitintegrallylinkedtothefarmer'slifestyle.

Keywords=mura,village,community,communityrelocation,patriarchaloperations,smallfarmopera-

tiOn,vnlagerintegratiOn

(29)