フランスに於ける移民の現状と問題点...論文...

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論文 フランスに於ける移民の現状と問題点 洋明 はじめに F i11 e ainee de l'Eglise" (教会の長女たるフランス)という呼び方は,教皇によるフ ランスの呼称で,それはまたフランスが歴史を通じていかにカトリックの国であった かを物語っている。 1991 年の統計でも人口の約80% がカトリックであると自認してい る。しかし 20 世紀になってイスラム教徒が急増し,現在ではその数は約 500 万人とも 言われ,プロテスタントを超えイスラム教はフランスに於いて第二の宗教と言われる ようになってきた。これは,第二次世界大戦以降の好景気時代にフランスがマグレブ 諸国からの労働移民を積極的に受け入れてきた結果である。そこで本論は,イスラム 化する移民の姿を追い,それに伴って起こる社会問題,さらにその背景にあるフラン ス社会について考えていく。 フランスに於ける移民 ヨーロッパの Carrefour(十字路)と呼ばれているフランスは,古くから多くの民族 が行き交う土地柄にあり,現在のフランスに見る各地方に於ける言語や文化,人の容 貌(肌や髪の色,背丈など)などの多様性はその名残とも言えよう。また「フランス」 という概念が確立されるようになったのは,絶対王政が台頭する 17 世紀になってのこ とであり,それまでは「移民J ,あるいは「外国人」ということはほとんど意識され ることはなカミった。 19 世紀始め頃には,外国人労働者がフランス圏内に既に居住していたが,その頃で もまだ双方に外国人意識は希薄であった。国境線が暖昧であったり,明確な「外国人」 という定義もなく,出入国や滞在のチェックが不十分であったことなどがその原因だ と考えられる。実際フランスでは, 19 世紀以前の外国人の数を示す公式な統計が存在 しない。従って本論で述べる移民とは,移民がフランス社会で意識されるようになっ てきた 19 世紀後半からのことに焦点をあてていきたい。 移民といってもその目的に応じて,地理,歴史,経済,社会的観点などから,経済 移民や政治難民,家族の合流など様々な移民がある。フランスは旧宗主国として,例 えば 1970 年代から 80 年代にかけてインドシナからの多くの政治難民を受け入れてい るし,政情が不安定な 80 年代のアフリカ諸国からの亡命難民も庇護している。また旧 -27-

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論文

フランスに於ける移民の現状と問題点

森 洋明

はじめに

“Fi11e ainee de l'Eglise" (教会の長女たるフランス)という呼び方は,教皇によるフ

ランスの呼称で,それはまたフランスが歴史を通じていかにカトリックの国であった

かを物語っている。1991年の統計でも人口の約80%がカトリックであると自認してい

る。しかし20世紀になってイスラム教徒が急増し,現在ではその数は約500万人とも

言われ,プロテスタントを超えイスラム教はフランスに於いて第二の宗教と言われる

ようになってきた。これは,第二次世界大戦以降の好景気時代にフランスがマグレブ

諸国からの労働移民を積極的に受け入れてきた結果である。そこで本論は,イスラム

化する移民の姿を追い,それに伴って起こる社会問題,さらにその背景にあるフラン

ス社会について考えていく。

フランスに於ける移民

ヨーロッパのCarrefour(十字路)と呼ばれているフランスは,古くから多くの民族

が行き交う土地柄にあり,現在のフランスに見る各地方に於ける言語や文化,人の容

貌(肌や髪の色,背丈など)などの多様性はその名残とも言えよう。また「フランス」

という概念が確立されるようになったのは,絶対王政が台頭する17世紀になってのこ

とであり,それまでは「移民J,あるいは「外国人」ということはほとんど意識され

ることはなカミった。

19世紀始め頃には,外国人労働者がフランス圏内に既に居住していたが,その頃で

もまだ双方に外国人意識は希薄であった。国境線が暖昧であったり,明確な「外国人」

という定義もなく,出入国や滞在のチェックが不十分であったことなどがその原因だ

と考えられる。実際フランスでは, 19世紀以前の外国人の数を示す公式な統計が存在

しない。従って本論で述べる移民とは,移民がフランス社会で意識されるようになっ

てきた 19世紀後半からのことに焦点をあてていきたい。

移民といってもその目的に応じて,地理,歴史,経済,社会的観点などから,経済

移民や政治難民,家族の合流など様々な移民がある。フランスは旧宗主国として,例

えば1970年代から80年代にかけてインドシナからの多くの政治難民を受け入れてい

るし,政情が不安定な80年代のアフリカ諸国からの亡命難民も庇護している。また旧

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東ヨーロッパ諸国で、の共産主義政権から脱出した人たちも受け入れている。統計によ

ると 90年代に入ってからでも東欧から 6200人,マグレブから 2500人,アジアから 1

万人,ブラックアフリカから 1万人の政治難民の申請があった。最近では難民資格の

付与は申請の 8割近くは却下されるが,カトリック団体や市民団体の支援を受けフラ

ンスにそのまま留まるケースも少なくない。またこの政治難民には「アルキ」と呼ば

れる,アルジ、エリア独立戦争中に,フランス側で、戦った現地人も含まれる。アルジエ

リア独立達成後は現地で「裏切り者」とされ,身の危険を訴えた彼らをフランスは保

護した。 90年代には約45万人を数え,最近彼らの第二世代の滞在条件に関する問題

がでできている。

移民の中でも最も多いのが労働移民である。1974年には労働移民の受け入れは正式

にストップしているが,定住化する移民が家族を呼び寄せることは,人道的配慮から

承認されていて,表 1にもあるように74年以降も移民の数は増え続ける。そしてそれ

らの多くが第二次大戦以降,フランスに来たマグレブ諸国からの労働移民であった。

またフランスは地理的な要因から密入国者も多い。ベルギーやドイツ,イタリア,

スペインなど約 3千キロにわたる陸続きの国境に対し,僅か百余りの国境監視所しか

ない。さらに国際空港や港,国際列車停車駅などを考慮すると,入国管理はさらに難以しくなる。また最近では1990年に結ぼれたシェンゲ、ン協疋で、国境で、の入国審査が廃し

されEU加盟国内の往来がより緩和されたことにより,他のヨーロッパ諸国からの密

入国者も増えている。こう Lた密入国者はもちろん正式な移民とは認識できないが,

一度入国すればその摘発は難しく,同国人の組織を通じて不法労働に就いたりして定

住化する場合が多い。

最近では,外国人と移民の区別も論議の対象となっている。国立人口統計学研究所

ミッシェル・トゥリパヲが,外国人とは, Iフランス国籍を持たず,フランスに在住

する者」で,移民とは, Iフランス以外で生まれたフランスに在住する外国出身者J(筆

者訳)という定義を提唱した。ここで興味深いのは「移民」の定義の中には「外国人」

の定義と違い,国籍に関する項目がないところで,そこに,後で述べるがフランス国

籍の事情が窺える。つまり外国人はフランス国籍を持たないが,移民の中にはフラン

ス国籍を持つもの(つまりフランス人)もいれば持たない者もいるということである。

この定義には,当時のフランスで勢いがあった極右政党を牽制する意味もあったとい

つ。

移民の変遷

さて移民の中でも最も多い経済移民について述べていく。

19世紀以降,フランスには大きく 3回の経済移民の波が押し寄せる。それはフラン

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表 1 フランスの外国人人口の推移

年 人数(位は百万)

1851 0.379 1861 0.506 1866 0.655 1872 0.741 1876 0.801 1881 1.001 1891 1.130 1896 1.027 1901 1.037 1906 1.046 1911 1.159 1919 1.417 1921 1.532 1926 2.409 1931 2.715 1936 2.200 1946 1.744 1954 1.765 1962 2.169 1968 2.621 1974 3.500 1982 3.680 1990 3.607

出典:国勢調査

人口比率(%)

1.0 1.3 1.7 2.0 2.1 2.6 2.8 2.6 2.7 2.7 3.0 3.7 4.0 6.0 6.4 5.3 4.4 4.1 4.7 5.3 6.5 6.8 6.4

ス経済事情と深く関わっている

が,その背景には18世紀後半か

らヨーロッパに先駆けてフラン

スの出生率が低下し足事実があ

るということも忘れてはならな

い。従って19世紀半ばには労働

者の需要に対して供給が追いつ

いていない状態にあった。

最初の波は 1860年代である。

鉄道工事や炭坑作業が盛んな頃

であった。この時一番多かった

のがベルギー人で,次いでイタ

リア人である。この 2国で全体

の約 3分の 2を占める。他にド

イツ,スペイン,スイスと続く。

当時パリの地下鉄工事がなされ

ており,多くのベルギー人がこ

の工事に就いている。北部では鉱山の労働に就く者も多く,この頃, 20年間で外国人

労働者の数は50万から 100万人に増えている。また 1850年のフランス人口と比較す

れば,フランス人口がこの間に 20%増加しただけなのに移民の数は 3倍になってい

る。

第二の波は第一次大戦後にくる。フランスではこの大戦の犠牲者136万は当時の労

働人口の約10%にあたり,加えて360万人の負傷者を出した。これらの多くが働き盛

りの労働人口であり,フランス経済にとっては大きな痛手であった。またこの時に計

算上誕生するはずの子供の数は170万人とも推定されていて,次代の労働者人口にも

大きな影響を与えることになる)。この当時は近隣諸国だけでなく,戦後に結ぼれた東

欧との労働協約によりポーランドやチェコスロパキア,ユーゴスラピアからの労働者

も多く受け入れている。

この結果,フランスに住む外国人の数は 1921年には 153万 2千人でその 10年後に

は271万 5千人になっている。 1930年には,アメリカでは住民 1万人に対し外国人の

数が492人であったが,フランスでは515人にもなり,当時フランスは世界で最も外

国人の比率の高い固となっている。

第三の移民の波は,第二次世界大戦後に来る。自動車産業に加え家電の製造が盛ん

になりだす頃である。 1954年には176万人だ、った外国人の数が, 1975年には350万人

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と 2倍近くにな 表2 フランスの外国人出身地別人口

る。戦争の犠牲者

の穴埋めに加え,

第一次大戦の出生

率への影響がこの

頃の労働者不足に

拍車をかけた。さ

らにフランスは

‘Trente Glorieuses"

(130年間の栄光J)

と呼ばれるかつて

ない好景気時代に

入っており,労働

1975

ポルトガル 758.9 アルジエリア 710.7 モロッコ 260.0 イタリア 462.9 スペイン 497.5 チュニジア 139.7 トルコ 50.9 ポーランド 93.7 ユーゴスラピア 70.3 他 397.8

合計 3442.4 (ヨーロッパ共同体) (1869.9)

出典:経済協力開発機構

(単位:千)

1982 1990

767.3 645.6 805.1 619.9 441.3 584.7 340.3 253.7 327.2 216.0 190.8 207.5 122.3 201.5 64.8 46.3 62.5 51.7 592.6 780.7

3714.2 3607.6 (1594.8) (1308.9)

者人口の需要は高まる一方だった。 1945年に移民局を設置し,国家主導で求人雇用が

行われた。 61年にはスペイン, 63年にはポルトガル,モロッコ,チュニジア, 65年

にはユーゴスラピア, トルコと労働移民に関する二国間協定が結ぼれている。

その中でもマグレブ諸国からの労働移民たちは特に多い。その理由としてこれらの

諸国がフランスの旧植民地であり言語的問題が少ないことと地理的に近いことが考え

られる。労働賃金の安い彼らは雇用者側にとっても都合が良かった。また送り出す方

の国も慢性的な雇用問題を抱えており,失業者を送り出せる絶好の機会でもあった。

特に,農村部で働き口のない失業者が多くフランスに渡った。フランスの保護領で

あったアルジ、エリアは特別な待遇を受け, 1964年までは自由に行き来できたので人数

的には一番多い。こうした労働者の 7割以上が工場労働に雇用され,その 7割は非熟

練労働で,建築,鉱山,化学製品工場,製鉄業などに就労する。つまり「きつい,き

たない,きけん」といった 3Kと呼ばれるところが彼らの仕事場であった。

当初,フランスでの生活が一時的なものであった労働移民の多くは,大都市近郊に

ある工場付近の仮設住居に住んでいた。しかし少しずつ移民の定住化が始まり,彼ら

の居住区域がスラム化するようになってくる。80年代に入ってこうした住居が撤去さ

れるようになり,労働者は「ホワイエ」と呼ばれる単身寮に移住させられる。しかし

常に過密状態で環境も劣悪,しかも家族の呼び寄せにより家族用の住宅設備の需要が

高まるようになってきた。

そこで, 1970年代以降大都市郊外に建設されたHLMと呼ばれる中・低所得者向け

の公的集合住宅(適性家賃住宅)に,多くの移民が入居することになる。例えば1975

年, HLMの外国人の入居比率が11.9%だったのが, 82年には48%にもなり,そのー

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方でフランス人の比率が下がってい守。近年ではこの数字がさらに高くなっている。

他のヨーロッパと比較して,イギリスやベルギー,またドイツなど外国人居住区が都

市内部にあるのに比べると,フランスは大都市郊外にあるのが特徴である。

1960年代から受け入れてきたマグレブからの移民は,これまでの同じ文化的背景を

持ったヨーロッパ諸国からの移民とは異なり,イスラム文化を持つ人たちであり,彼

らがキリスト教的文化圏で生活することにより,いろいろな形でフランス社会に影響

を与えるようになっていく。

経済移民の受け入れをフランスはオイルショックの翌年の1974年にはストップして

いるが,フランスの移民の数は増加する。そのほとんどは家族の呼び寄せによるもの

で,特にベルギーやイタリア,またスペイン,ポルトガル系の移民に比べて比較的若

い世代のマグレブ系移民に多い。家族合流は人道的見地から容認せざるを得ない。 74

年には一度は呼び寄せを禁止したが,家族が一緒に住む権利を奪うことにもなり,人

権問題にも関わる。「庇護の国フランス」にとって門戸を閉ざすことは不可能であり,

76年には条件付きで認めている。

景気後退しフランスの雇用問題が表面化すると, I出稼ぎ移民」に対して風当たり

が強くなる。しかし移民の多くはもともと自国で、職がなかった貧しい農村出身者であ

り,帰国しても職の保障はない。しかも家族もフランスに定着している。これに対し,

当時のレイモン・パール政権は,帰国をする者に帰国奨励金を出すと約束するが,約

5万人がこれに答えただ、けだ、った。表 1によれば, 1982年から 1990年にかけて外国

人の数が減少するが,これはこの間にフランス国籍を取得した者が多かったことで説

明される。

これまで一時滞在であった労働移民がフランス社会に定着することによって,様々

な分野で,フランスがかつて直面したことがなかった社会問題が浮き彫りになってく

る。そしてその問題の根底には,キリスト教をベースにしたヨーロッパ文化と多くの

マグレブ出身者が持つイスラム文化との違いがあると考えられる。

フランス社会との車L蝶

マグレブ系移民のフランス定着化から生じる問題に触れる前に,移民の現状につい

て触れておきたい。

先ず,失業問題である。もともとフランスの失業率は90年代には10%近くにもなっ

ていて,他のヨーロッパ諸国と比べても高い方で、あっ足。その中でも移民労働者層の

失業率はさらに高く, 1990年で男性が16.7%で女性が27.3%,平均では19.9%になる。

さらにマグレフゃ出身者に限って言えば,アルジ、エリア人で27%,モロッコ人で24%と

なっている。フランス労働人口の不足から,積極的に受け入れられてきた労働者では

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あるが, 80年代以降のフランスの景気後退では,こうした手に職のない外国人労働者

が真っ先に解雇の対象となった。世代別の失業率では事態はさらに深刻で, 1990年の

フランス人の 15-24才人口での失業率が20.2%に対し,外国人全体の平均失業率は

29.1%,それがマグレブ諸国出身者だけの数値になると 40%近くにもなる。

失業率の高さは彼らの生活に大きく影響する。先ず生活が不安定になり,経済的貧

困は治安の悪化を招く。近年多くの移民が居住する大都市近郊都市での犯罪の増加が

著しいのはその結果とも考えられる。例えば窃盗事件は1979年から 10年間で50%の

増加が記録されている。

次に親の失業が家庭内での親権の崩壊を招くケースも少なくない。伝統的に家長が

権威を持っているマグレブ出身の移民家庭では,その失墜は世代間コミュニケーショ

ンに亀裂を生じさせ,出身国の伝統的文化が移民の第二世代に受け継がれなくなって

しまう。こうした若者は,梶田孝道が指摘するように「ムスリム出身のフランス人」

となり, iモスクの建設や宗教の必要性は否定しない」が,イスラムの実践者ではな

くなってしまう。西洋的価値観を身につけた彼らは,自らを「ブール?と名乗り独自

のアイデンテイテイを形成しようとしている。

逆に親権の失墜する第一世代の移民の中には,自らの文化を再確認するために,イ

スラム教をより積極的に生活の中に取り入れ,結果として「イスラムへの回帰」へと

繋がっていく者もいる。そうすることによって失墜した権威を取り戻し,家庭内での

伝統的秩序を維持するのである。

またフランスの出生率の低さを懸念した政府は,住居や出産,就学など家族に対す

る社会保障を充実させているが,その対象としてフランス人と外国人の区別はなく,

フランスに居住するなら誰でもフランス人と同じ条件で保障を事受することができる。

大家族が多いマグレブ系やアフリカ系移民の中には,職をなくしてもこうした社会保

障だけで生活している人たちがいるという。ジャック・シラクがパリ市長であった当

時,こうした外国人の批判をしたことが,マスコミに取り上げられ問題となったが,

フランス人の中には同意見の者も多かった。

移民の若者の失業率の高さの背景には,確かにフランス全体でも若者の失業率が高

いという事実はあるが,教育問題とも無関係ではないと考えられる。特にアジア諸国

からの移民とは異なり,彼らの親世代は教育に対する関心が薄い場合が多いことが指

摘されている。また職場の簡単なコミュニケーション以外はフランス社会との接点が

少なく,生活に関しては自分たちのコミュニティ内で用が足りている彼らの中には,

フランス語を話せない人が多いことも影響しているのではないか。加えて小学校 l年

生から落第制度があるフランスの教育システムは,いわゆる「落ちこぼれ」をっくり

やすいともいわれている。義務教育期間を終えても読み書きできない子がいるのはそ

一 32一

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の影響かもしれない。また移民の居住区域が大都市の郊外に集まっているため,学校

に於ける移民の割合が高く,全体的な教育レベルの低下を招いている。筆者の子供が

通っていた小学校にも,移民が多く居住している地区からの越境入学の児童が多数い

た。彼らの親は口々に, 1あそこでは勉強できない」と訴える。

イスラムの可視化

フランスに於けるイスラム可視化は,労働条件の改善要求に見ることができる。 70

年代前半から工場内に於けるイスラム教徒の要求の中に,断食月のベルトコンベアの

速度低下やイマームに対してその役目に専従できるような配慮,また食物の忌避を考

慮した工場内のメニューの改善などの要求が出始めている。こうした要求は労働組合

活動と結びっく。求心力を失いかけていた労働組合にとって,組合のエネルギー源と

もなるので積極的に取り組まれていく。一方経営者側も,こうした要求を認めること

によって労働者のモラルが高まり職場に秩序が出来るなら,無断欠勤などの防止にも

なり,人事管理も行いやすくなるといったことから,要求を認めていく姿勢を示した。

こうした背景には,当時の社会が先に述べた“TrenteGlorieuses"の時期と重なってお

り,より多くの生産を必要とする風潮にあったことも考えられる。

職場だけでなく日常生活空間にもイスラムの可視化は加速する。ハラールミート

(イスラム教の儀式にのっとって処理した食肉)の専門庖や女性のスカーフなど,日

常生活の中で,これまでフランスで見ることのなかった文化が現れ始める。その中で

もモスクの存在は象徴的と言えるのではないだろうか。移民のイスラム教徒達は,初

めの頃は空き家などを利用して礼拝を行っていた。ところが,イスラム系移民の増加

に伴い, 80年代になるとモスクの建設がなされるようになる。その多くは移民が多く

居住する大都市郊外に建設されるようになり,現在では約千カ所を越えると言われて

いる。

フランスに於けるモスクは単なる礼拝の場だけでなく様々な機能をもっていると,

梶田孝道はオランダのイスラム研究者のワーデンブルグの議論にそって次のように整

理してい若。それによればモスクに 6つの機能があると分析する。一番目は礼拝。

金曜日。誕生,結婚,埋葬といった冠婚葬祭など公式的な機能を果たす。二番目に共

通の宗教によって結ぼれていると感じる人々にとっての出会いの場としての役割があ

る。日々の生活の中で少数派として生きざるを得ない彼らにとってモスクはムスリム

や同じ民族にとっての一体感を与える場となり,出会いとネットワークを利用して仕

事や様々な情報交換の場となる。三番目に文化的,社会的活動の中心としての機能を

持つ。モスクを中心にして出身国の文化や価値観の維持,伝達を促進する。文化的催

しもしばしばモスク周辺で行われる。四番目は教育的機能である。とくに世代間コ

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ミュニケーションが希薄になるのを受け,第二世代のためのアラビア語の講座やコー

ラン学級を開設したりしている。出身国の言語やコーランを学習させることは,第二

世代にイスラム的秩序を再確立させることが期待されている。五番目は周囲の西欧社

会と異なったアイデンティティを付与するという機能である。周囲の社会との違いを

強調することによってアイデンテイティの維持や再確認をする。そして最後に西欧社

会の中でのイスラムの存在の強調である。キリスト教文化圏に於いてモスクはイスラ

ムの存在を顕示する。

フランスに於けるモスクの建設には,サウジアラビアなどからの金銭的援助もあり,

フランスに於けるイスラムがフランスの移民だけのものでなく,少しずつ他のイスラ

ム国家をも巻き込むものとなってきている。従ってフランス政府も国内外の様々な問

題に於いて,徐々に組織化されていくイスラム団体の存在を考慮しないわけにはいか

ない。

フランス社会との車L蝶

二度にEる戦争で多くの犠牲者を出し,他のヨーロッパ諸国よりも早く出生率が低

下したフランスは,経済が成長するにつれて労働者不足を招き,多くの外国人労働者

を受け入れてきた。外国人労働者は劣悪な労働環境の中にも,ある者は短期の出稼ぎ

として,またある者は定住化し社会に同化していき,外国人労働者がフランスで大き

な社会問題となることは1960年代まで、なかった。だがそれは,それ以前の移民が近隣

諸国からの人たちで,ヨーロッパの文化を共有していたからであり,しかもフランス

社会が好景気に支えられていたからである。

しかし,第二次大戦後大挙して押し寄せたマグレブ出身の移民労働者は,これまで

と違いイスラムというヨーロッパとは異なる文化圏からの移民であり,さらに景気の

後退,労働者の定住化などが重なり,少しずつフランス社会との間に車L牒が生じ始め

るようになってきた。

まず挙げられるのが,他のイスラム世界の反西洋的風潮の影響を受けやすくなって

きたことである。 70年代以降に起こった,中東アラブ世界でのイスラム原理主義の台

頭,レバノンのイスラム教徒とキリスト教徒の衝突,パレスチナ問題,湾岸戦争,ア

ルジ、エリアでのイスラム原理主義の出現,そして最近ではアフガン戦争など,世界の

イスラムに関する動きにフランス国内での反応が敏感になってきている。昨年 9月11

日のニューヨーク同時多発テロに関しでも,フランスでアルカイダの組織のアジトが

摘発され逮捕者も出ている。マグレブ出身の移民が集中する大都市郊外の低家賃住宅

などは,こうした国際テロ組織のアジトとなりやすい。また教育に落ちこぼれ就職口

もなく,フランス社会に溶け込むこともできず,かといって自国の伝統的文化を継承

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していない若者が,テロ組織に勧誘され,原理主義の影響を受けることもある。

イスラム原理主義が関連するテロ事件も近年フランス社会で大きな問題となってい

る。マグレブ系ではないが,パリの繁華街での衣料品庖や郵便局,パリの警視庁,地

下鉄などが爆破テロの被害に遭い多数の犠牲者を出している。またフランス圏内に服

役中のテロ指導者の釈放を求める動きなどもある。原理主義と繋がった爆破テロやハ

イジャッ》)など,フランス国民の危機感を一層煽ることになる。

もちろんこうしたことはマグレブ出身のイスラム系の労働移民と関係のないことが

殆どなのだが,問題なのはフランス人がこうした人をイスラムのステレオタイプ的な

ものと見なしてしまう傾向にあり,それがフランスに於けるアラブ人に対する嫌悪聞

を高めることに繋がっていく恐れがあることだ。1985年の調査でもアラブ人に反感を

持つ人が20%,アフリカ黒人は 6%,アジア系が 6%となっている。またアラブ人と

の結婚を避けて欲しいと願っているフランス人は45%にも上る。アジアが25%,ユダ

ヤ人が17%に比べると反アラブ感情は顕著である。さらに 1992年の調査でも, 65%

の人が「フランスにはアラブ人が多すぎる」と d思っている。黒人に対しては38%でア

ジア系に対しては31%であるから,反アラブ感はやはり高いと言えよう。

日常生活に於けるイスラムの可視化の中で大きな社会問題となったのがスカーフ問題

であろう。

1989年,パリ郊外クレーユ市のアベ中学校に通う生徒の 3人が黒いチャドルを覆っ

て授業にでたのが事件の発端である。フランスの公立学校では政教分離の原則が徹底

し,宗教性を一切排除している。校長が子供の両親と話し合った。モロッコ出身の移

民である。話し合いの結果,校庭では許可されたが,授業中はチャドルを取ることで

合意を得た。しかし生徒がこれを無視し授業中もチャドルを取ろうとしなかったので,

罰として校長は授業を受けさせなかったのである。その処置に対して,全仏イスラム

連合が猛反発した。学校側は政教分離の精神を貫く姿勢を崩さず,この論争はやがて

国を二分する規模にまで発展していく。

外国人排斥を掲げている極右政党の国民戦線は,学校側の姿勢を支持し「スカーフ

なんか剥ぎ取ってしまえ」と過激な発言をしている。その他の右派の政党も政教分離

を貫く学校側を指示した。社会党は意見が分かれた。当時の首相ミッシェル・ロカー

ルは,当初共和国の伝統を守るためスカーフの着用に反対の姿勢を示したが,党内の

穏健派には寛大な意見も多く,とりわけ前大統領夫人の寛大な考え方は党内に大きな

影響を与えた。キリスト教団体は宗教の実践を擁護する立場をとっていた。

この公立学校に於けるスカーフ事件は各地に飛ぴ火し,同類の事件が起こっている。

例年にはオルレアンやリヨンでもスカーフに関する事件があり裁判にまで持ち込まれ

たが,司法の判断にもばらつきがあった。スカーフを取らない生徒を退学処分にした

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学校に対して,リヨンで、は公立学校の非宗教性を守っていくためには必要かつ適法で

あったと判断したが,オルレアンでは,退学は子供の学習したいという権利を侵害す

るもので違法で、あるとした。

またこのスカーフ事件から,これまでフランス社会で暗黙の内に受け入れられてき

た宗教的シンボルが問題視されるようにもなった。例えば,ユダヤ教徒がかぶるキッ

パは宗教的シンボルに該当しないのか,十字架のベンダントはどうなのかといった疑

問が噴出した。フランスの祝日が復活祭や聖霊降臨,聖母被昇天,万聖節,クリスマ

ス等の宗教にちなんだものが多く政教分離の原則に反するのではないかなどという意

見も飛び出し,政教分離の精神の暖昧さと,それが究極的にはキリスト教文化に立脚

していることが浮き彫りになった。筆者もフランス滞在中少なからず驚かされたのは,

国営放送が流しているカトリックの日曜のミサの実況生中継で、ぁ若。ただ、ユダヤ教や

イスラム教,プロテスタントの放送時間帯もあるので問題視されることはなかったが。

さらに学校に於けるイスラム教の実践は,肌を出す水泳などの体育科目への参加の拒

否や,金曜日の安息日には授業を退出することなどとなって現れる場合もある。学校

給食もそうしたことを配慮してか,忌避されている食材を使わないようにしたり,ま

たバイキング方式を採用しているところもある。筆者の子供が通った幼稚園でも,入

国の際に食物の忌避に対するアンケート用紙が配られていた。

モスクの建設も,付近の住民からの反対で、頓挫する場合があった(ザ,モスクから流

れてくるマイクの音が環境問題に発展し,地元住民との問題の種になることもある。

最近では墓地の問題が深刻化している。第二次大戦後に押し寄せた第一世代の移民の

高齢化によって,墓地の需要が年々高まってきていて,地方自治体はその対応に追わ

れている。

さらに反移民に対する世論は,外国人排斥を訴える極右政党に順風となり,政策に

移民排除を掲げた国民戦線が1984年の欧州議会選挙では 11%の支持率を得て, 11人

の議席を獲得したり, 88年の大統領選挙の一回目の投票でも, 11.5%の支持を得てい

る。移民の沢山いる地域で支持率の高いことは単なる偶然で、はない。 90年代には南仏

のトゥーロンやオランジ‘ュといった都市では国民戦線の市長も誕生した。

このようなフランス社会との車L牒から総括できることは,イスラム的世界は西洋的

な意味での,公的空間と私的空間との区別をはっきりさせないところにあり,こうし

たことがイスラム的習慣がフランス社会,とりわけ公的空間に必然的にあふれ出たこ

とにあるのではないだろうか。つまりこれまで不可視であったイスラムがフランス社

会で可視化され,それがとりわけ歴史を通じて宗教を公共の場から排除したフランス

の共和国精神と相容れないところに問題の種があると思われる。

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表3 国別外国人人口の数

総人口 外国人人口(%)非EC国出身の外国人人口の割合

ベルギー 9,947,782 880,812 (8.85) 3.39 デンマーク 5,135,409 150,644 (2.93) 2.32 ドイツ 62,514,155 4,845,882 (7.75) 5.65 ギ、リシャ 10,019,000 173,486 (1.73) 1.21 スペイン 38,924,464 407,647 (1.04) 0.42 フランス 56,634,299 3,607,590 (6.37) 4.05 アイルランド 3,505,900 80,600 (2.30) 0.5 イタリア 57,576,429 781,138 (1.35) * 1.00 ルクセンブルク 379,300 117,305 (30.90) 3.5 オランダ 14,892,574 641,918 (4.31) 3.21 ポルトガル 9,878,201 107,797 (1.09) 0.84 イギリス 56,997,700 1,894,000 (3.32) 1.78

*密入国者を含めると2.5%になる。

出典:GISTI (PLEIN DROIT) NO.20 Fev, 1993

フランスの社会背景

イスラム系移民とフランス社会との車L牒の背景には,フランス革命以来続いている

「共和国精神」が影響しているのではないだろうか。その象徴的なのが第五共和国憲

法の第一章「主権」の第一条に彊われている。「フランスは,不可分の非宗教的,民

主的かつ社会的な共和国である。フランスは,出身,人種または宗教による区別なし

に,すべての市民の法律の前の平等を保障する。フランスは,すべての信条を尊重す

る」。同憲法の前文に「フランス人民は, .1946年の憲法典前文によって確認され,か

つ,補充された1789年の宣言によって定義されるような人の権利および国民主権の原

則へのその愛着を厳粛に宣言する」とあるように,この精神は「人は,自由,かつ,

権利に於いて平等なものとして出生し,かっ,存在する。社会的差別は,共同の利益

に基づくのでなければ設けられることができない」となっている1789年のフランス革

命の際に出された人権宣言第一条に呼応する。

歴史を通じて多くの移民を受け入れてきたフランスは,移民の国と言っても過言で

はない。社会学者エドガール・モラン氏もフランスの'情報雑誌LabelFranceのインタ

ビューの中で, Iフランスはイル・ド・フランス(パリのある地方の名称)という小

さな王国が,幾世紀にも亘って多種多様な地域を同化させてきた国であり,絶えざる

フランス化によって成り立つ固として特徴づけられる」と指摘する。また「フランス

は19世紀以降,他のヨーロッパ諸国と違って,唯一移民を受け入れた国である」と続

け, Iフランスは,第三共和制 (1870年)以降,フランスで出生した子供に対し学校

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教育や帰化を通じて,外国人をフランスに同化させてきた」と,フランスの同化政策

を分析する。そしてこの同化政策の具体的な形が,フランスの国籍法に見て取ること

ができる。

フランスの国籍は血統主義だけでなく出生地主義とミックスした形をとっている。

国籍法23条には, I両親が外国人でもそのいずれかがフランス生まれの場合は,そ

の子供がフランス生まれであれば,出生時点からフランス国籍を持つ。」とされてお

り,また国籍法44条(国籍自動取得, 1889年-)には, I両親ともに外国生まれの外

国人でも,フランスで生まれたその子供は18才になったときフランス国籍を取得でき

る」とある。前者は二世代出生地主義と呼ばれており, 1851年から施行されている。

また後者は国籍自動取得に関したもので, 1889年に施行されている。このような法律

の背景には,当時から兵力要員の確保を狙う立法者の強い意志があった。それはまた

先に述べたフランスの出生率はヨーロッパに先駆けて低くなっていた事実からも裏付

けられる。

他の固と比較してみると,ヨーロッパで在住外国人が最も多いのは表3でも分かる

ようにドイツである。 1993年ドイツでの485万人はフランスの360万人よりはるかに

多い。しかし,その内面は,国籍取得の条件の違いが大きく影響する。つまりドイツ

はフランスと違い,血統主義しかとっていないので,外国人からは外国人しか生まれ

てこない仕組みになっているのである。

1990年を例にとると, 5305万人のフランス人口の内,フランスに移住してきた外国

人(外国生まれ)は413万人いる。そのうちフランス国籍を取得している人が129万

人いた。残りの284万人と,国籍法によりフランス国籍を取得する資格があっても取

得していない 2世外国人が74万人で合計358万人になる。しかしフランス国籍を持つ

人の中には,国籍法23条と 44条でフランス国籍を既に得た二世外国人(フランス生

まれ)が含まれていることを忘れてはいけない。フランス人口研究所の調べによ

るとその数は420万人である。まだフランス国籍を持っていない二世外国人 (74万人)

と合わせると500万人にもなる。しかし血統主義だけをとっているドイツに於いては,

こうした人たちはすべて外国人のままである。さらに三世外国人が440万人から 530

万人。フランス生まれの二世は必然的に全員フランス国籍を持つようになる。ドイツ

ではこうした人たちも外国人のままである。これらのことを考慮するなら,その数は

1200-1300万人に達する。以上のようなことが,フランスでは, I国民の 4人に 1人

は二代遡れば外国出身の血が混じっている」といわれる所以である。

こうした国籍に関する法律は,移民に対する考え方の相違から選挙戦ではしばしば

論議の種となる。またその結果,右派や左派と政権が交代すると法が変わることもあ

る。例えば, 1986年にシラク保守党内閣が国籍法の改正案を提案した。それによると,

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①フランス出生による生来取得は1988年 1月1日より前の生まれの者と限る。②16才

から23才までの聞に届け出をしなければならない。つまりフランス国籍を有すること

は, iフランス共同体への自律的な意志に基づい選択」でなければならないと右派は

捉えたのである。実際, 93年の法改正案は可決され,国籍取得は自動的で、はなく届け

出をしなくてはならないようになる。しかし98年,左派の社会党が政権につくとまた

法改正を行い,両親が外国人であっても,その子が成人の際にフランスに居住してい

て, 11才以降の聞に少なくとも 5年間,継続的若しくは断続的にフランスに常居所を

所有していた場合は「自動的」に国籍を取得することになる。また成年に達していな

くても, 11才以降継続的また断続的に 5年以上居所,若しくは常居所をフランスに

持っていたなら 16才になれば意思表示によって国籍が取得できるようになる。

1990年代の最初には,右派のパラデュール内閣の際,経済不振による失業率の増

加,外国人労働者の雇用問題,大都市近郊の治安の悪化などから,パスクァ内相が移

民の流入を規制するために,二つの改革の柱を打ち立てた。一つは「一定の収入を確

実に得ている保証がなければ,家族を呼び寄せることはできない」とした。それまで

配偶者や子供たちに対してもほぼ無条件で同様の権利を与えていたがそれを改め,本

人が一定の場所に居住し,一定の収入の保証がある場合のみ,家族の呼び寄せを許可

した。しかしその基準値もフランス社会の生活水準を基にしたものであり,発展途上

国のレベルからみればかなり高いものとなる。もう一つは「在留許可の期限が過ぎて

もなお不法滞在している者に対しては,即時国外退去するよう命じる権限を入国管理

局に与える」とした。その結果, 30年もフランスに残って暮らしてきたアルジ、エリア

人に突然の帰国命令が下るなど混乱が生じた。当時強制送還されるマリ人が教会に

立てこもり断食の抗議を行い社会問題へと発展した。こうした規制に対して「自由と

人権を重視してきたフランスの伝統に反している」という声も多くあり,多くの移民

を受け入れてきたフランス人の気質が窺える。しかも移民に対する論議では,国籍法

の根底にある出生地主義の見直しにまで至らないことも興味深い。ただこの種の論議

はフランス社会が抱えている問題を移民に起因させる印象を与え,論議すること自体

が,国民に対して移民の存在自体を問題視させてしまう危険性がある。

もう一つ,共和国精神に基づくフランス社会の特徴として政教分離の原理がある。

草命以来,この政教分離をめぐって共和派とカトリックが対立してきたが,今日では

それにイスラムが加わることによってより複雑になってきている。政教分離とは,あ

る意味で「宗教の徹底した個人イピ?を意味する。「宗教はあくまで個人の内面のみに

関わるべきもの」であり,宗教的色彩が公的空間に現れることを許さない考え方であ

る。だから信仰が個人の内面にとどまっている限りは問題にならず,国家が関与した

り立ち入ることは決してない。しかしイスラムは宗教であると同時に一つの生活上の

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規範でもあり,その実践は公的空間と私的空間を区別しない場合が多い。こうして公

的空間に於けるイスラムの可視化が進んで問題となったのが,例えば先に挙げたス

カーフ事件ともいえるのではないだろうか。

さらにフランスは中央集権主義的政治機構であるのも,移民問題に大きく影響する。

例えば他に移民の多いイギリスやドイツなどで問題が起こっても,地方自治体レベル

での問題であり,対応がより多様化できる。しかしフランスは全て中央政権からの判

断になるため,どうしても画一的な発想になり,個々のケースに対して臨機応変な対

応がしにくい構造になっている。例えば先に述べたスカーフ問題のようなことは,イ

ギリスでも見られるが,地方行政の裁量で判断が下されていて,一国が二分する騒ぎ

になるフランスとは大違いである。イル・ド・フランス地方が多種多様な地方をフラ

ンス化することによって成り立った国の,歴史的遺産なのかもしれない。

むすび

近年, EUの統合が進むにつれて, Iヨーロッパ的ネイティピスム」や「ヨーロッパ

ナショナリズム」の意識が芽生え,ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人の違いがより明確

に認識されるようになってきた。それはまた, Iヨーロッパのホームランド意識」の

現れとも言われている。それは長い間統合と分裂を繰り返してきた歴史や民族の多様

性にも関わらず,共通の文化基盤を長い年月をかけて形成してきたという自負からく

る。 EU内の国境の廃止や単一通貨ユーロの導入は,ヨーロッパに於けるグローパル

化を促進し, Iヨーロッパ人」意識はさらに高くなるだろう。

一方こうしたグローパル化は移民に対しては逆に, I遠隔地ナショナリズム」をも

たらしたと指摘されている。輸送や通信手段の進歩のおかげで, Iナショナリズムは

一定の領域内に限定されず,人の国際移動を反映する形で,遠くに住む人々によって

も担われる?ょうになってきている。遠隔地に住む移民や難民の聞に自らの出身国で

あるかのような, I想像の共同体」意識が芽生える。また出身地のナショナリズムの

影響を受けやすくなってきたのもその現れではないだろうか。

こうした動きは,一方ではグローパル化であり,もう一方ではローカル化とも捉え

ることができるのではないだろうか。フランスに在住するイスラム系移民が今後,

「ヨーロッパ人意識」を持ち始めるのか,それとも「遠隔地ナショナリズム」に惹か

れていくのか,それともそのどちらでもない独自のアイデンテイティを築くのか,い

ずれにせよフランスだけでなくヨーロッパ全体の移民に対する対応を考えていく時が

来ている。歴史的に常に「フランス化させる」という同化政策を推し進めてきたフラ

ンスが,どこまで「庇護の国」のイメージを損なわず,かっ共和国精神を貫いていく

ことができるのか。グローパル化が進む中で,どれだけローカル性を尊重できるのか

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がその鍵のように思われる。

(1) 1990年 6月にEUの5カ国で調印された協定。 97年10月から EU内に住む全ての市民の通行が自由

化された。政府間のこの協定で,域内国境に於ける検問・検査を廃してEC加盟国出身の人と物の自由

移動を図ろうとする。現在では,フランス,ドイツ,イタリア,ベルギー,オランダ,ルクセンブルグ,

スペイン,ポルトガル,ギリシアの 9ヶ国にオーストリアと北欧 5ヶ国(デンマーク,スウェーデン,

フィンランド,ノルウェー,アイスランド)を加えた 15ヶ国が加盟国となっている。

( 2) Miche1e Tribalat国立人口問題研究所所属 (l'InstitutNational des Etud巴sDemographiques)。定義のフ

ランス詩文は以下の通り。

-Une位姐ger: une personne qui reside en Fr組 ces組 savo註1anationalite合釦caise

-Un泊四ugre: une personne d' origine etrangとrequi vit en FranωS飢 sye出 nee.

(3 )他の国では 19世紀の後半からであるのに,フランスでは18世紀後半から出生率の低下が始まる。カ

トリックの国であるフランスに於いてこの出生率の低下は不思議な現象とされているが,二つの要因が

挙げられている。一つは草命後の混乱した社会の影響で,もう一つは科学の進歩に伴う伝統的価値観の

変化ではないかと考えられている。また 17世紀初めには20歳を切っていた結婚平均年齢が1780年には

26.5歳となっていることも出生率低下の原因と見られている。

(4) 1921年から 31年の 10年間,フランスの人口増加のうち移民に対する依存率は 74.4%になる。

(5 )一時滞在が前提であった単身向けの住居。そのため住宅設備の水準が低い。 1975年にはパリ近郊に

約7000の寝台があったが,その使用者の 8割が外国人であった。

( 6 )この背景には,当時フランスは超低金利時代で,フランス人の持ち家の取得が急増し, HLMからの

転出が増えた事実もある。

(7 )イギリスではロンドンのイースト・エンド,西ヨークシャーのブラッド・フォールド, ドイツでは

ベルリンのクロイツベルグ,ベルギーではブリュッセルのサンジルやスカールベークなど。

(8 )帰国を希望する外国人に対し, 1万フランの奨励金を出すものであった。

(9) 1965年から 82年の聞に300万人のフランス国籍取得が許可されたが, 82年から 90年にかけては500

万人がフランス国籍を取得した。

(10) 当時ヨーロッパ経済共同体の中で失業率の最も高い国はアイルランド(16.7%)で,次にスペイン

(15.9%) ,イタリア (10.8%) と続き, 4番目はフランス (9.4%)であった。

(11) Beurs,アラブ (arabe)の逆さ読みしたもの。移民の子としてフランスで生まれたアラブ系第二世

代の若者を指す言葉で80年代に定着した。

(12) 1991年 6月,ある会合の席で、ジャック・シラクは以下のように述べた。

<<Comm巴ntvou1ez-vous que 1e travailleur francais qui travail1e avec sa f,巴mmeet qui, ensemb1e, gagne environ

15000 francs, et qui voit sur 1e palier a cote de son 1江 M,entasse巴, une famille avec un p己,rede famille, trois ou

quatre epouses, et une vingtaine de gosses, et qui gagne 50000 francs de prestations sociales, sans naturellement

佐availler...si vous司joutez1e bruit et l' odeur, he bien 1巴仕availleurfrancais sur 1e palier devi巴ntfou..>> (妻と共に

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働いているフランス人が15000フラン稼ぐのに,同じ階に住む家族は,一人の夫に4人の妻を伴い 20

人くらいの子供がいて,当然仕事もなく社会保障ーだけで50000フランも稼ぐのをどうして受け入れられ

ょうか。それに物音や臭いを加えるなら,同じ階のフランス人労働者はおかしくなってしまう。)(筆者

訳)

(13)梶田孝道, rヨーロッパとイスラム「イスラムに直面するヨーロッパJl有信社, 1993年, 13頁。

(14) 1994年12月,アルジエリアでフランス航空機がハイジャックされた。犯人はフランスのマルセイユ

で給油中に射殺されたが,エッフェル塔に衝突する計画で、あったようで,オサマ・ピンラデインとのつ

ながりがあったと疑われている。

(15)国営放送France2では,毎日曜日午前中に宗教番組が放映される。

(16)マグレブ出身の移民が特に多いマルセイユでは,市長が大モスクの建設を公約するが,国民戦線の

反イスラム運動が展開され,建設の話が頓挫している。

(17)河村雅隆, rフランスという幻想一共和国の名の下にj,ブロンズ新社, 1996年, 19頁。

(18)梶田孝道, r国際社会のパースペクテイブj,東京大学出版会, 1996年, 80頁。

参考文献

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「移民第二世代とイスラムJrヨーロッパとイスラムー共存と相克のゆくえj(梶田孝道編入有信堂,

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・梶田孝道, r国際社会のパースペクテイブ.1,東京大学出版会, 1996年0

・河村雅隆, rフランスという幻想ー共和国の名の下にj,ブロンズ社, 1996年0

・坂本一, r知恵大国フランスj,講談社, 1992年0

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• Va11in, J., La popuZationfrancaise, La Decouv巴rte,1989

-インタ}ネットホームページ

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