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EU の統合基盤について
現代ヨーロッパの危機の構図 観光文化学部教授 澤山明宏
1.はじめに
2008 年度の世界全体の国際観光客到着数(約9億 2,181万人)において1、フランス(約 7,930万人)をトップに、米国(約 5,803 万人)、スペイン(約 5,732万人)、中国(約 5,305万人)、イタリア(約 4,273万人)、英国(約 3,019万人)、ウクライナ(約 2,539 万人)、トルコ(約 2,499万人)、ドイツ(約 2,489万人)、ロシア(約 2,368万人)と続き、これらベスト 10カ国だけで、世界全体の 45.5%を占める。この中にウクライナ、
1 以下の数字は日本政府観光局の集計より
トルコ、ロシアも入っているが、これらの国もヨーロッパと無縁ではなく、ヨーロッパの輝きを反射する形で魅力を発揮していると言えよう。ヨーロッパが観光客数を誇っているという事実は、ヨーロッパを価値あるものと承認させる「ヨーロッパのソフトパワー」が世界に向けて発せられていることも意味する。それがヨーロッパの平和的安定を支えている核心とすれば、現代のヨーロッパおよびユーラシア情勢を見る上でヨーロッパのソフトパワーの中心である EU(The European
Union)を無視することはできない。
1952年 6カ国(ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)で設立され た ECSC ( European Coal and Steel
Community 欧州鉄鋼石炭共同体)は 1990 年代以後、経済のみならず政治的な共同体を指向し、2007 年には 27 加盟国を擁し、米国、中国、ロシアと渡りあう国際社会のメインプレイヤーの地位を確保している。このような展開をにらみながら、EU研究は飛躍的拡大を実現するに至った歴史、拡大を支える制度の研究に目が向けられ発展しているが、拡大によって EU およびヨーロッパは新たな危機の火種を抱えるに至っているのではないだろうか。この問題を意識しながらEU研究の方向を模索してきた。
本稿は EU の統合力の現状と将来について考察することによって、現代のヨーロッパの情勢についてのビジョンを持つことを目的とする。そのためにまず既知の事実を追いながら今日までの
【目次】 1.はじめに 2.EU 前史(1950 年台から 80 年代まで) (1)政治的背景と経済的利害 (2)統合理念 (3)単一欧州議定書 (4)統合基盤-EUに引き継がれるもの 3.拡大の時代(1990 年代以後) (1)周辺情勢の変化 (2)経済的利害から政治的・経済的利害へ (3)統合理念との矛盾 4.不安定化する統合基盤 (1)不安定化の構図 (2)周辺の揺らぎ (3)ヨーロッパの価値 (4)ヨーロッパの境界 5.文明論の視点から 6.結び
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EUの発展を概観することによってEUの統合力の基盤を抽出したい。その上でこれが冷戦終結の以前と以後とではいかに変化し、その変化が現在および今後の EU およびその周辺にどのような影響を及ぼすかという問題を検討しながら一定の見解を得ることを目指してみたい。
2.EU前史(1950年代から 80年代まで) (1)政治的背景と経済的利害 1952 年の EU の母体 ECSC の発足を促したものは次の三つの必要性である。
・冷戦 ・ヨーロッパ経済の復興 ・経済的利害の調整
第二次大戦終結後、ソビエト連邦の勢力が一挙に拡大し、分割されたドイツの東部、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、バルト三国など東部ヨーロッパ諸国がその勢力下におかれてしまった事情から、西ヨーロッパ諸国は米国の支援を受けながら経済力の復興が喫緊の課題となった。そのためには従来からドイツ、フランスの間に存在してきた経済的利害の調整が不可欠となり、当時の主要産業資源である鉄鋼・石炭の共同管理を軸とする共同体としてECSCが設立された。
すなわち 1950年代のヨーロッパの統合とは、西ヨーロッパの主に経済の利害を中心とするものであった。このことは後の EU への発展においても重要な意味を持つ。それは 1990 年以前の EU の前身である EC(ECSC を基礎に形成された欧州共同体)が、もっぱら経済問題に集中することが可能になったわけであり、極論すれば冷戦の深刻化という周辺情勢がなかったと
すれば、ECSC の成立も遅れたかあるいはなかったということである。
冷戦が西ヨーロッパとソビエト陣営の本格的軍事対決にエスカレートした場合は米国を中心とするNATOがこれを引き受ける制度が確立していた。このような冷戦という周辺の政治情勢を前提に西ヨーロッパの経済統合が進められたことになる。しかし、このような周辺情勢と経済的利害の上にはヨーロッパの統合を価値あるものとする理念が存在していた。1950年のフランス外相ロベール・シューマンによる宣言である。
(2)統合理念 「ヨーロッパは一日にして成らず、また、単一の構想によって成り立つものでもない。事実上の結束をまず生み出すという具体的な実績を積み上げることによって築かれるものだ。ヨーロッパの国々が結束するためには、フランスとドイツの積年の敵対関係が解消されなくてはならない。いかなる行動が取られるにせよ、第一にこの両国がかかわっていなくてはならないのである。(中略)その成果は、生活水準の向上と平和の実現に寄与するという目的に沿って、分け隔てなく、また、例外なく、全世界に提供されることになる。(中略)このようにして共通の経済体制の確立に欠くことのできない利益の融合が簡単かつ速やかに実現されることになる。そのことが長く血で血を洗う抗争を繰り返してきた国々の間にもっと寛大で深化した共同体を育てていく力になるかもしれない。基幹生産物を共同管理し、フランス、ドイツをはじめとする参加国に対して拘束力のある決定権を持つ最高機関を創設することにより、この提案は平和の
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維持に欠くことのできないヨーロッパの連邦化における初めての実質的な基礎の実現につながることになる」 (シューマン宣言から/駐日欧州連合代表部仮訳) シューマン宣言は経済的利害を克服しながらヨーロッパの統合の実現を訴えた点で注目すべきものである。このような理念表明がなかったとしたら、ECSC はソビエト陣営との対抗を目した米国の思惑によって設立された政治のための道具の一つに留まっていたかもしれない。あるいはその後の EU のあり方も現在のものとはかなり異なっていたであろう。シューマン宣言を核とした統合理念の存在によって、ECSC から EC、そして EUに発展していく過程でこの「西ヨーロッパ経済共同体」が全ヨーロッパを志向する可能性を持つことができたと見たい。
(3)単一欧州議定書
1980年代に至ってもECは西ヨーロッパ経済中心の共同体であった。これは 1986年 12カ国間で調印された単一欧州議定書を見ても明らかである。単一欧州議定書は域内市場の統合を強化することを主目的とし、そのために EC 理事会の意思決定プロセスを合理的かつ迅速にし、委員会、欧州議会の権限を強化することを狙っていた。例えば今日 EU においてすでに制度化している欧州理事会の特定多数決方式などはここで提案されており、1992 年に単一欧州市場を実現するとの目標は結果として実現している。しかし、単一欧州議定書が調印された 1987 年の時点で単一欧州議定書が想定するヨーロッパとは 12 ヶ国(フランス、ドイツ、イタリア、ベネルクス三国、デンマーク、アイルランド、イギリス、ギリシャ、ポルトガル、スペイン)であり、せいぜいスイス、スウエーデン、ノルウエーの新規加盟を想定した西ヨーロッパ
15ヶ国が「統合すべきヨーロッパ」であり、ソビエト圏の中に包括される東ヨーロッパは眼中にない。また、単一欧州議定書におけるヨーロッパは主に「市場」としてのヨーロッパである。すなわちそこで統合させるものは域内市場であり、その実現のために共通通貨の導入など EC の経済統合の強化が課題となっている。ここでは外交すなわち政治は経済に従属するに留まり、統合はあくまで経済統合を意味するものである。
統一欧州議定書の意味を深刻に捉えたのは当時 EC 諸国との通商で競争関係にあった日本であった。当時ヨーロッパ諸国への輸出を伸張させていた日本は EC が経済ブロックの形成に向かおうとしており、在ヨーロッパ日本企業はこのブロックから締め出されるのではないかと恐れていた。しかし、共通通貨とその前提となる欧州中央銀行の設立については技術的に困難であるという意見や、イギリスのマーガレット・サッチャー首相の否定的な対応を見て楽観に努めていた。このように第三者の目にも単一欧州議定書は域内経済の強化すなわち経済ブロック化を目指すものでしかなく、政治的な統合を目指すには実行可能性が低いものとして映っていた。これは当時の EC 内においても同様であったと見ていいだろう。
単一欧州議定書は「外交政策におけるヨーロッパの協力」(European Cooperation in the Sphere
of Foreign Policy)の規定も含むが、30条 6項(C)において議定書の諸規定がいずれも 1950 年代からある西ヨーロッパ防衛協定(Western European
Union)やNATOが規定する協力内容に優先することはないと明記している。すなわち当時の ECは独自に政治特に防衛問題に関与することを想定していないのである。政治協力は経済での結束を側面から支える手段でしかない。ただし、ドロール委員長の眼はけっして当時の加盟国の目先の経済的利益だけに向けられたものではなかったこと
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は指摘しておきたい。
「私たちが作り上げようとする境界のないこの地域の究極の目的は、移動の自由を認め、就労機会を提供し共に創造的になることによってヨーロッパを結束させることであり、それは経済面に限ったことではないのです。私たちの努力は諸文化の交流や、より大きい全体の一部に属しているという共感を伴わなければ価値がありません。そしてこれは各国のナショナル・アイデンティティを損なうものではありません」2 すなわちここでは「ヨーロッパの諸文化」が述べられ、より大きい全体が語られているのである。 (4)統合基盤-EUに引き継がれるもの 本章(1)において、ECSC 設立を促した必要性として「冷戦」「ヨーロッパ経済の復興」「経済的利害の調整」 の三つを挙げたが、これらは EC が EU に向かう以前の 1980 年代末時点で、次のような形で共同体を支える基盤の要素になっていた。
①周辺情勢 冷戦のような西ヨーロッパ諸国にコントロールできない背景である。偶発的事件としてもよい。ただし、1980年代までの状況下では周辺の政治情勢(冷戦、キプロス紛争など)は NATOおよび国連の枠組みなどを利用して関与するものであるため、共同体 2 Jacques Delors ’The Single Act and Europe: A
moment of truth’ Office for Official Publications of the
European Communities, Luxembourg 1986, pp. 22-37. (引用は筆者訳)
にとっては経済が主要関心事になる。周辺の経済情勢に敏感に反応する利害関係があってはじめてヨーロッパの経済統合が進展することになる。
②経済的利害関係 西ヨーロッパという限定された地域に位置する諸国が相互間で経済的利害の調整を行い、他地域に対しては競争力の維持を目的に各種制度を構築していく。ただし、これはヨーロッパの経済統合の基盤にはなるが、利害調整が失敗すれば統合は危うくなる。この様な危機を回避するためには根幹としての一定の価値観が共有されていなければならない。
③ヨーロッパ統合理念 二度の大戦を経過して意識されるに至ったヨーロッパへの価値意識、プライドである。これはシューマン宣言として具体化しているが、このような理念的なものが共有されなければ 1950年代から 30年間の経済統合を支えていなければならない。またこれが顕在化するのは冷戦終結後の 1990 年代になってからであり、ソビエト圏の諸国が「ヨーロッパへの帰属」を価値あるものとしてEU加盟に動く起因にもなっている。
1950年代から80年代のヨーロッパ統合を支えた以上の三つの要素を抱えたままECは冷戦の終結を迎えることになる。では、冷戦終結によって三要素がどのような影響を受け、また相互の関係がどのように変化したのか。次章で考えてみたい。
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3.拡大の時代(1990年代以後) (1)周辺情勢の変化 1989 年の東西ベルリンの壁の崩壊に象徴される冷戦の終結、東西ドイツの統一、そして1991年のソビエト連邦の解体に並行して、ECはEUとして統合拡大への道を歩むことになった。前章の三つの要素の一つの「周辺情勢」が大きく変化したわけである。歴史上の「もしも」を許すなら、冷戦終結がなかったら EUの統合拡大はあり得なかったということになるだろう。冷戦時代、周辺情勢は固定的なものであった。これが冷戦終結と同時に流動化していく。このような変化が他の要素「経済的利害」「統合理念」との関連で EUを動かしていくことになる。これら二つが 1990 年以前と比べてどのように変化したかに注目したい。
(2)経済的利害から政治的・経済的利害へ 単一欧州議定書において確認したとおり、EU は 1999 年に共通通貨ユーロの導入を実行した。英国などの不参加の国もあったものの、共通通貨導入はEU経済がドルなどの為替変動への抵抗力を強化し、またグローバル経済でのメインプレイヤーになる道を拓いた。しかし、それは加盟国間の経済関係の緊密化でもあり、一部の加盟国の経済および政治がユーロ相場に大きく波及し得ることも意味する。
一方、EUは旧ソビエト経済圏諸国(東欧諸国と仮称する)の加盟を認める上でも政治に深く関わらざるを得なくなっていた。すなわち市場経済、民主主義政治の運営経験に乏しい東欧諸国の加盟プロセスをどのように組み立てるかという問題が大きな課題となったが、これは同時に加盟後の EU 旧加盟国と新規加盟国の経済水準の格差をいかに調整するかという問題にもなり、この調整に目処をつけるのは
2000 年代に入ってからである。これについては 1992年時点でマーストリヒト条約によってECは EUとなり、そこで定めたコペンハーゲン基準によって加盟を希望する東欧諸国に対して明確な基準を与えた意義が大きい。
さらに、1980年代までの間 NATOの傘によってかわしてきた共通安全保障政策についても EUは取り組まねばならなくなった。試行錯誤の果てに EU 独自の共同軍を創設することはなく NATO への兵力供出に落着していく。それを決定付けたのはユーゴスラビア連邦をめぐるバルカン半島での紛争である。すなわち1991 年にユーゴスラビア連邦維持を主張するセルビアと独立を主張するスロベニア、クロアチアの間の紛争を横目で見ながら、EUはこれに軍事的に関与することはできなかった。そして最も凄惨をきわめたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は米国中心の NATO の軍事介入と国連の調停によって 1995年に収束を見たのである。EUもまたEC時代同様に軍事問題をNATOに預託できた、あるいは EUが扱う安全保障政策という政治問題から軍事問題をほぼ丸ごと抜き出せたことになる。その後 EUは自らをソフトパワーと名乗ることができたが、これは以上のような状況と不可分である。
EU は 1990 年代以後も軍事を除く政治と従来同様の経済的利害の調整に専念できることになったが、これによって新規加盟国の軍事問題にも関与する必要がなくなった。2000 年代に入って、米国がイラク戦争を開始する時に、イギリス、スペインや東欧各国とドイツ、フランスなどとの間で対応が異なるという亀裂が発生したが、これも深刻な問題となるには至らなかった。しかしながら、コペンハーゲン基準の導入によって一部の加盟希望国に対して加盟が著しく困難になる事態が生じたことも明
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記しておかねばならない。すなわちコペンハーゲン基準では加盟国に対し、自由市場経済と同時に民主主義政治の運営能力を問うものとであるが、これは EUが経済のみならず政治的な共同体に変貌したことを意味している。EC 以前の時代には、加盟を希望したトルコなどに対して経済条件だけを加盟審査に問えば十分であったところが、希望国の政治も問わねばならないことになったわけである。各国の政治には本来当該国の独自の歴史、文化が絡むものである以上、EU は加盟審査において歴史や文化も問う立場に入ったことになる。これが次節に述べる「統合理念」と複雑な関係を生み出すことになる。
(3)統合プロセスの矛盾 EUはシューマン宣言を尊重しヨーロッパへの参加を希望する国に対し門を開いている。加盟を希望する国に対しては原則的に差別的な区分をしないことになっている。しかし、もしEUが差別的な対応をしているとしたら、その行為は統合理念に矛盾するものであり、また統合理念が形骸化したということを意味するだろう。このような矛盾の事例を次に取り上げてみる。
2007 年に EU が加盟を認めたブルガリア、ルーマニアそして今なお加盟審査継続中のトルコの 3カ国の 2004年次の経済状態について見てみたい。(次表参照)
2004年度の各国経済実績 ブルガリア ルーマニア トルコ GDP (ユーロ) 19,434 (9,232)
58,914 (31,260) 242,262 (169,009) 一人当たりGDP (ユーロ) 2498 (1,111) 2,718 (1,387) 3,427 (2,662) 対前年成長率 (%) 5.6 8.3 8.9 経常収支 (百万ユーロ) ▲1,447 ▲4,402 ▲12,542 失業率(%) 11.9 8.0 10.3 消費者物価上昇率 (%) 6.1 11.9 9.3 ( )内数字は 1997年度の実績
EU委員会各国別プログレス・レポートより作成
一人当たり国民所得を基準とする世界銀行の分類に従えば、2004 年当時でもブルガリアとルーマニアは低位中所得国に属しODA対象国である。一方、トルコは上位中所得国として途上国の範疇には入らない。2001 年から翌年にかけての 2 年にわたる不況期からのトルコの立ち直りは著しく、トルコ政府の経済運営による結果であり、ブルガリア、ルーマニアとは十分比肩できるかそれ以上の経済力を示していた。さらに当時の EUの既存加盟国に比べてトルコの経済力が顕著に劣っていたわけでもなかった。
政治分野に至ると、プログレス・レポートは、ブルガリアにおける汚職摘発の不徹底、ルーマニアにおける人身売買(輸出)の横行というコペンハーゲン基準の「法の支配」「人権」に抵触する事実を厳しく指摘しながら、この二国の加盟を支持する結論を出している。しかし、ブルガリア、ルーマニアの加盟審査を寛大に進めて加盟実現を急いだ一方、EU委員会はトルコ
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には厳しい加盟審査を続けていることになる。コペンハーゲン基準を厳密に適用するならば、これら3カ国の加盟を共に延期するという選択が理にかなっていたはずである。
上記の事例に関連して、キプロス問題についての EUの対応も矛盾している。キプロス共和国(南キプロス)はトルコ系住民の占める北キプロスと潜在的紛争関係にあったにもかかわらず、EU は北キプロスを放置したまま 2004年に南キプロスの加盟を認めた。これについてEU 委員会の拡大担当閣僚は「南北キプロスの問題は国連がやがて解決することに期待している」と語っている。3 1990年代のユーゴ紛争、2008 年のグルジア紛争への積極的な調停介入に比べると、加盟国である南キプロスと隣接する北キプロスとの潜在的紛争関係の調停に EUは悲関与を決めたことになる。しかも北キプロスを支援するトルコに対し、EU は南キプロス籍の船舶の入港承認を要求し、これを拒むトルコに対して加盟交渉の凍結を通告している(2007年)。
トルコの加盟審査における EU の差別的な対応については、これをイスラム文化の国であるトルコとキリスト教文化の国で成り立つ現EU加盟国の文化的対立の潜在をその根拠とする見解は一応成り立つ。すなわち EUの無差別的な統合理念に対し、差別的な基準があるのではないかというダブル・スタンダードの存在を指摘することは可能である。その背景の一つに、トルコが加盟すれば EUの規定(シェンゲン協定)に基づいて加盟国間の人間の往来は自由になるため、トルコ人労働者が大量にオーストリ
3 2008 年 3月時点でのブリュッセルでのヘザー・グレイビ女史(Heather Grabbe)とのインタビューより。
アやドイツに移民として流入する結果、国民間の文化的摩擦が生じやすくなるとの危惧が挙げられる。また、トルコにおける軍の政治介入や少数民族に対する差別的処遇は EU にとっては認められないものであり、これらの特殊性が局部的なものであっても顕著になるために加盟承認に二の足を踏むことになる。
EU内部でトルコの加盟の是非をめぐる論議が活発になったのは 2000年代に入ってからであるが、トルコの加盟希望表明は古くは EECの時代の 1963年であり、さらに 1987年に ECに対し希望が表明されていた。そして EUの加盟審査が開始されたのは 2004年になってからである。そのプロセスの曲折はすでに述べたとおりであるが、現在 EUは加盟候補国としてトルコをクロアチア、マケドニアと並んで公式に位置づけながら加盟を保証するには至っていない。 本稿では EU の排除的な姿勢の批判ではなく、このような矛盾が生じた経緯とその影響に注目していきたい。この矛盾が EUの統合を推進してきた基盤要素間の矛盾に発するものであるとすれば、EUの統合自体を脅かしかねないほど広範なものになりかねず、またそれはヨーロッパおよびユーラシア全体にも大局的な影響を及ぼすことになると予想するからである。
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4.不安定化する統合基盤 (1)不安定化の構図 前章でまとめた 90 年代以前のヨーロッパ共同体の統合基盤として挙げた「周辺情勢」「経済的利害関係」「ヨーロッパ統合理念」の三つは当時にあっては相互に分離し、ピラミッド的なイメージの安定した関係にあったと言える。すなわち統合理念の上に経済的利害関係の調整が成り立ち、その上に偶発的な周辺状況の変化が起きるという優先順位が明瞭な関係である。周辺状況の大前提の冷戦は固定しており経済的利害の変化を引き起こすものではなかった。経済的利害に直接関係する課題は 1970 年代のドルショックに始まる為替変動や 1980 年代の日本の圧倒的な経済力の挑戦に集約されていた。
1990年以後になると、冷戦終結により周辺状況が大きく変化し揺らぐに至った。このために経済的利害が軍事抜きではあるにしても、共同外交政策および安全保障政策を含む政治・経済的利害に変化していく。その結果、新規加盟審査の複雑さが統合理念を矛盾したものとしてクローズアップさせる結果になる。また、EUの統合理念および政治・経済的利害が EU周辺にも大きく影響していく。すなわち周辺情勢ももはや独立の「外部」ではなく、EU の行動に応じて変化する関係に入ってくる。「周辺情勢」「利害関係」「統合理念」の三者が同等のウエイトを持ちながら相互に干渉しあう不安定な三角関係にたとえられるだろう。これは EUのパワーの顕在化であると同時にその不安定にも繋がっていくことを意味する。(次図参照)
【EU以前】
【EU以後】
このような三角関係による不安定がどのような問題として具体化するか、そしてそれがどのような危機を意味するかを次節以下で検討したい。
(2)周辺の揺らぎ
1990 年代になるまでの EC には例えばトルコのような加盟希望国に対して、その経済水準が西ヨーロッパに匹敵しないことを理由に加盟を延期することで済んだが、1999 年に共通通貨ユーロを導入したことから既存加盟国の経済、財政の維持がより重要になる結果、経済に関しても厳しい加盟審査が必要になった。これに加えて政治も審査対象となったマーストリヒト条約以後は、政治に関しても審査対象国の制度から地方で発生した事件までを細かく取り上げて審査することになる。これが審査プロセスを複雑化させてしまい、このプロセスの中で審査対象国の経済運営の不備に加えて政治制度から文化・慣習の特殊性までを浮き彫りにしていくことになる。
外部情勢 経済的利害 統合理念
統合理念
政治的・経済的利害 外部情勢
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EU は 2004 年に東欧諸国の加盟を中心に一挙に 15 カ国から 25 カ国へと拡大を実現した。しかし、既述の事情を考え合わせると、かなり複雑な事態が見えてくる。まず 2004 年のいわゆるEUの東方拡大について周辺国は積極的にこれを評価したと言える。トルコでは将来のEU 加盟への期待が高まり、ほぼ時期を同じくしてウクライナとグルジアにおいて民主主義政治を志向する政変が起きた。この二国は共にNATOへの加盟と併せてEU加盟が将来可能であろうという期待を抱いている。EU は軍事力を使用せずして、周辺地域を親 EU化させたことになり、これをソフトパワーと自称することができるに至ったのである。このソフトパワーの背骨は「統合された高度の自由市場経済」「安定した民主主義政治」という周辺国からの将来的期待であり、何よりもEUが維持してきた「ヨーロッパ統合理念」への信頼と憧憬である。これが背景となって、2000 年代前半には激しい紛争があったバルカン諸国の政情が安定化に向かう。スロベニアの加盟達成を見ながらクロアチアが加盟候補となり、ボスニア・ヘルツェゴビナやマケドニア、モンテネグロの政情も安定化する。コソボ自治区の分離独立の動きに対してセルビアもナショナリストの決起を抑え介入を自重した。 言うまでもなくこのような期待が裏切られた場合に裏返しの激しい失望とEUに対する怨嗟を生むことは十分予想できる。実際にその動きが 2005年に見え始めるのである。
EUはEU全体を代表する大統領の選出を定める欧州憲法条約の締結に動くが、2005 年、フランスとオランダの国民投票において批准が拒否される。EU内部に拡大と統合強化への警戒が表面化した。これに相前後して既述のようにトルコとの加盟交渉が暗礁に乗り上げていく。またウクライナのような過大な人口を抱
える国の新規加盟は EU 加盟国の財政負担を増大させるという警戒感も生まれる。
EU加盟の困難を見たトルコは、従来隠忍自重してきた PKK(クルド労働者党。EU を含む国際社会がテロ組織と認定)への大規模攻撃を目的として北イラクに侵攻した(2007 年)。もしこの時に北イラクに駐留する米軍が阻止に回っていたら NATO 軍同士の戦闘が展開した可能性もあった。一方、ロシアの動きに対し、EUが決定的な交渉力を発揮できないことを露見させる事件が相次ぐ。2005 年から 2008 年にかけて、ロシアは契約違反行為を根拠にウクライナ向けの天然ガス供給を再三停止したが、これに対して EU は決定的な方策を示すことができなかった。また、2008 年のロシアのグルジア侵攻に当たって、EUは調停に乗り出したもののグルジアが領域として主張してきた南オセチアはロシアの管理下に置かれたままに終わった。このような状況を見たか、2004年にオレンジ革命によって西ヨーロッパを志向したウクライナでは 2006年新ロシア派が議会選挙で優勢を得て以後政争が激化した。これらの事件は EU の統合理念が周辺情勢にポジティブな変化をもたらす一方、EU内の政治・経済的利害関係が拡大への EU 内部からの警戒を招き統合に対する抑制的な影響を及ぼす、あるいは統合理念の形骸化という事態をもたらす一例と見られる。
EUをめぐる危機の構図は「周辺からの統合への期待(統合理念への信頼)」という外部の状況に対し、「EU 内部の政治経済状況」が抑制的に作用する形が見えてくる。それは EUを支えてきた統合理念が EU にとって重石となってくる状態である。しかし、EUが統合理念を書き換えて拡大を公式に停止することはもはやできない。EUにとっての考えられる戦術
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は拡大を否定せず引き延ばしていく先送りであろう。現にトルコに対して EUはそういう戦術を採っているとしか見られない。
2010 年 3 月時点で問題になっているギリシャの財政不安という内部の政治・経済問題はどのように位置づけられるだろうか。ギリシャの財政問題は同国がユーロ加盟国である事情と世界的不況というEU外に端を発した外部情勢を背景としている。これがユーロへの世界的信頼を揺るがすことになっている。この問題を残したままではEUは拡大を当面見合わせざるを得なくなるだろう。EU財政の悪化を招きかねない事態を抱えたまま新たなしかも経済水準が低い新規加盟国を抱えることは選挙民が認めないからである。ほぼ時を同じくして周辺ではどのような動きが見られたか。2010 年のウクライナの大統領選挙ではロシア寄りの候補者が当選し、2004 年に始まった西寄りの流れは完全に変わってしまった。
このように本来はEU内部の問題であったものが周辺国への対応に転移していく。そして周辺国のEUへの期待と信頼も揺らぐ結果になり、EU の自由市場経済と民主主義政治も模範ではなくトラブルの要因とさえ見られかねなくなる。冷戦の終結という一回限りの偶然が EUの統合理念に力を与え+-たが、その結果、EU は中途半端な統合・拡大をすることができなくなってしまったわけである。このような観点から、今後のEUの周辺地域の政治情勢を注視する必要がある。
(3)価値概念としてのヨーロッパ 政治的・経済的な利害が EUの内部統合および外部拡大を抑止していくとすれば、「ヨーロッパの範囲」もまた問われざるをえなくなる。
統合理念としてのシューマン宣言の文言は不変であり続けても、このような事態の連鎖は統合理念の実質的な変容を意味することになる。
1990 年代以後、EU 加盟国の人々は以前にも増して「ヨーロッパとは何か」という問いを意識することになっている。しかも、2001 年の 9.11 テロ事件は、ヨーロッパ対非ヨーロッパ(特にイスラム)という視点を一層強化させ、それを包摂的ではなく排除的な思考に傾かせることは十分に想像できる。
「中道の政治が意味するもう一つは私たちの社会の結束を強めることです。これについて CDU がやらねばならないことは多くあります。社会の結束は私たちの共通の価値を土台としなければ成功しません。私たちの社会におけるキリスト教-ユダヤ教的伝統、憲法、言語、私たちの歴史に対する責任、これらすべてが国家という共同生活を成り立たせているのです」
引用したのは 2007年 12月 3日の CDU(キリスト教民主同盟)党大会におけるドイツ首相アンゲラ・メルケルの演説の一部である。CDU党員としてはキリスト教を「共通の価値」として挙げることは自然であるが、EUの中核国であるドイツの首相がなぜこのような発言をしなければならなかったのか。この演説においてメルケル首相はトルコを EU の正式加盟国ではなく「特権的パートナー」として遇する主張を明言しており、引用部分は文脈として繋がっているのである。メルケル首相は一貫してトルコの EU加盟反対の先鋒にある。ドイツではすでに約 200 万人のトルコからの移民がムスリム系トルコ人として生活している。そこへ EU加盟によってさらに多くのトルコ人がドイツ
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に移住すればドイツ人との文化摩擦の度合いを高めていくという警戒感があることは事実である。この警戒感を背景としたトルコの加盟反対とヨーロッパの伝統がメルケル演説では同時に語られているのである。すなわちドイツの政治中枢において、暗黙裡にヨーロッパと非ヨーロッパという構図が前提されている。4
以上を踏まえて、別の調査結果の概略を引用したい。2008 年 3 月、筆者がドイツの連邦議会議員に対し「ヨーロッパ諸国が共有する文化・伝統は何か?」という質問への回答を要請した結果、2名の議員(CDU1名、自由民主党(FDP)1名)がインタビューに応じ、6名の議員(社会民主党(SPD)4 名、緑の党 2 名)がアンケートに回答してくれた。
・民主主義、法治主義、自由、人権:2名 ・啓蒙精神:4名 ・キリスト教:3名 ・ない:1名
調査の母集団としては量的に少ないが、EUの中核国の連邦議員が実名公表もいとわずに提供した回答として重視し推論のためのデータとした。回答のうち「民主主義、法治主義、自由、人権」はコペンハーゲン基準に含まれるものであり、ヨーロッパ起源ではあっても世界的に理解され共有されつつある。啓蒙精神はキリスト教への盲信の反省から生まれたものであるが、キリスト教と対立せぬ抱き合わせの関係で述べた 1名がいることになる。この調査結果から言えることはきわめて限られるが、ヨーロッパ共通の価値観について1名を除く6議員 4 メルケル首相のトルコ加盟に対する姿勢は今日も変わっておらず、2010年 3月、訪問先のトルコにおいても正式加盟に対し否定的見解を述べている。(Frankfurter
Allgemeine FAZ.NET 29. März 2010)
が明瞭な回答を出そうとしており、うち 3名はCDU 党員ではないにもかかわらずキリスト教を挙げていることを記しておく。
「ヨーロッパが共有する文化・伝統」を「ない」と回答したのは革新的自由思想の緑の党の議員1名であった。緑の党のもう1名の議員は「ロシアを含めたあらゆる国が EU に加盟できる」との意見を述べている。これは伝統的価値意識を否定する立場として読めば、そのような価値観への異議という意味で、間接的な存在肯定であると読める。そしてトルコの EU加盟について、彼らはいずれも「困難である」との回答を示し、全員が文化的差異を基本的理由としている。
EUがヨーロッパの代名詞と化した今、ヨーロッパは一つの価値概念であり、「『ヨーロッパ』は地理的概念を超えて周囲と自分たちを区別する価値概念でもある」5という指摘がすでにある。価値概念である以上、これを共有できる者とできない者という区分が生じる。この区別は「EUに加盟できる者とできない者」という区別と等関係になる。
(4)ヨーロッパの境界 ヨーロッパへの所属が価値概念化しているのであれば、ヨーロッパとは地理的ではなくイデオロギーによって定義されるものである。これを裏付ける言説を 2008年当時の駐日ポーランド大使マルチン・リビツキ閣下(H.E. Dr.
Marcin RYBICKI)から聴取した。6
リビツキ大使:「ポーランドは 1000年間に 5 「ヨーロッパの東方拡大」(羽場久美子、小森田秋夫、田中素香編 2006年 岩波書店) p.2 6 『Merc』(一橋大学 2008年 5月 1日)pp.20-25
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わたってキリスト教国でありましたが、その意味では西ヨーロッパに属していたとも言えるわけです。(中略)にもかかわらずヤルタ協定によってポーランドは東ヨーロッパとされてしまいました」 筆者:「EUはポーランドを西ヨーロッパに回復させる積極的な意義をもったと評価されるわけですね?」 リビツキ大使:「まさにその通りです。西ヨーロッパの民主主義の法制度を採用できたことが重要なのです」 ここでは東ヨーロッパという地理的カテゴリーが EU 加盟によって西ヨーロッパに変換され地理的区分に対し政治的・価値的区分が優先して扱われている。ヨーロッパとは本来相対的なものであり、その境界は自然地理的には確定しがたいものであるが、これを客観的、絶対的なものとするためには一定の価値観が了解されていなければならないのである。ソビエト連邦の政治経済圏に所属していた過去を否定的に位置付けるために東ヨーロッパに対し西ヨーロッパが強調され、EU加盟は西ヨーロッパへの所属を意味する。このことはそれがたとえイデオロジカルなものであっても、ヨーロッパの境界が人為的に定まるということであり、包摂されるものと排除されるものがあることを意味する。
(5)排除の帰結
90 年代に EU はソフトパワーとして周辺地域にポジティブな影響を一方的に及ぼすことができたが、周辺の安定のためにこのソフトパワーを後退させるわけには行かなくなった。ヨーロッパを EU の独占物ではなく開かれたものとして周辺に継続してアピールしなければならない。そのために拡大方針を撤回できなく
なった。しかし、すでに加盟した東欧諸国に寛大であった拡大政策は加盟各国の政治的・経済的利害によって制約されている。もし EUが拡大を停止し周辺との間に境界を画することになれば、閉鎖的なヨーロッパが定着してしまう。ここから締め出された諸国は EU への信頼を失い、ヨーロッパが発散してきた価値もまた減衰し、それが EUの対外へのソフトパワー低下に繫がっていくだろう。
本来曖昧であるヨーロッパの恣意的な画定はとりもなおさず周辺地域の政治の不安定化を招くが、その周辺の広大さを改めて認めておかねばならない。ウクライナやトルコなどの隣接国の周辺にはさらに多数の周辺国家が存在し、相互に友好的あるいは敵対的関係にあり、その範囲はロシアや中央アジアにまで及ぶ。EUの周辺の政治経済が不安定のまま放置されるとしたら、それがユーラシアという広範な地域の不安定化に発展する可能性は十分ある。例えば、バルカン半島において 90 年代の紛争の中心にあったセルビアの動向はこの国の EU加盟の見通しにかかっている。ウクライナの周辺にはベラルーシ、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアなどのコーカサス諸国があり、その隣のウズベキスタン、トルクメニスタンはアフガニスタンと接している。EUとの加盟交渉が進展していないトルコはイラク、イラン、シリアとも国境を接している。いずれの国も今後の政治経済が安定しているとは言い難い。
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5.文明論の視点から 前章の考察の途上で筆者の念頭にあったのは、ヨーロッパ文明と EU の関わりである。EUはヨーロッパ文明を代表するものであるのか、もしそうであるなら、既存の文明論との関連において本稿の考察はどう表現されるか。
EU周辺の紛争に言及したことからまず「文明の衝突」という視点から捉えた場合、どのような位置付けとなるかを考えてみたい。まず諸文明の対立を不可避としたハンチントンの「文明の衝突」論に関連付けて検討してみたい。ハンチントンの説を要約すれば次のようになる。7
①現存する主要文明は八つである。 「中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、 イスラム文明、西欧文明、ロシア正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明(存在すると考えた場合)
②文明の断層線(フォルト・ライン、Fault
Line)で紛争が起こる。 ハンチントンは特にイスラム教徒と非イスラム教徒の紛争可能性を強調したが、彼に従って西欧文明を EUに見立てた場合、EUとロシア正教会文明の間(ウクライナ、バルカン半島など)および EUとイスラム文明の間(トルコ付近)において紛争の可能性が高いことになる。90 年代にバルカン半島が激しい紛争を経験したことは事実である。しかし、ハンチントンの推論は紛争の可能性を強調する一方で、それが具現化するプロセスに十分な配慮をしていない。90 年代のバルカン紛争は、民族・宗教の対立は冷戦終結に伴うユーゴスラビア連邦の存続の必要すなわち連邦からの各共和国の「独立の主張」が民族・宗教の差異を強調する結果
7 Samuel P. Huntington ’The Clash of Civilizations’
(1996 Simon & Schuster) pp.208-245
となり、民族・宗教の対立に発展したものであった。例えば、西欧文明、ロシア正教会文明、イスラム文明のいずれに帰属するかといった文明意識はそこにはなかったのである。
文明とはあくまで分析目的の概念である。例えば、アーノルド・トインビーにあっては、文明間の交流と摩擦は語られても対立を予言するものではなかった。ただ、トインビーは一つの文明が隣接地域との紛争回避を目的として防御線(例:万里の長城)を画定した場合に、外部住民(トインビーの表現では「蛮族」あるいは「外的プロレタリアート」)との摩擦が増大する事態を、歴史上に存在した諸文明の解体期特有の一般的な現象と捉えていた。8 トインビーの推論を地政学的文脈に置き換えたハンチントンは、文明を国家のような鮮明なアイデンティティを有し他文明と相容れないものとして再定義した。このような前提の下では、異なる文明の狭間にある地域はいずれかへの帰属あるいは対立をめぐって紛争を引き起こしかねないという結論になる。では、EUとその周辺の間あるいは周辺地域において今後紛争は理論的可能性に留まり続け、具体化することはないのだろうか。
これまでの検討から、EU周辺が紛争多発地域と化すのは、EUがヨーロッパ文明を代表する形でその境界線を閉鎖的に画定した場合であると結論したい。それは概念であるはずのヨーロッパ文明が地図上に描かれる事態である。すなわち EUが拡大を否定し、さらに自らをヨーロッパとして強調し、結果として本来は概念に過ぎない文明とフォルト・ラインを同時に具現してしまう事態において、そこで EUが周辺 8 Arnold J. Toynbee ‘A Study of History’ (Abridgement
of Volumes Ⅶ‐Ⅹ by D.C. Somerville 1985 Oxford Univ. Press Inc.) pp.120-143
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との良好な経済関係を維持できないか、周辺の経済問題の解決に貢献できない場合、何が起きるか。周辺は EUが主張する民主主義、人道主義などの今日承認されているヨーロッパ的価値観に背を向けかねないだろう。すなわちトインビーが個々の文明の衰退の兆候とした危機状況は、今日のヨーロッパにおいては EUからの周辺の離反と周辺の不安定化という形で発生するのである。
周辺の離反はとりもなおさず EU のソフトパワーが減衰し消滅していくことを意味する。そこに別のハードパワー(例:ロシア)が周辺地域の政治問題に介入して来た場合、EUが抑止力としてソフトパワーの効果を出せず、ハードパワーを示威しなければならなくなったとすればどうなるか。NATO以外の枠組みがない現状では、EUが独自に駆使できる戦略オプションはきわめて限られる。しかも、その場合にNATO あるいはその中心の米国が独自の軍事戦略優先の思惑に基づいてイニシアティブを取ろうとすれば、事態は緊張を高める危険な方向に動くことになるだろう。EUがこのような危機を予想しているかどうかは、EUの今後の欧州防衛への取り組みとロシアを含む近隣非加盟諸国との各分野の交渉に如実に見えてくることは間違いない。
6.結び 冷戦の開始も終結もヨーロッパ世界の人々にとっては偶然の外部事象であった。その偶然が EUに拡大発展の可能性を準備したが、冷戦終結からおおよそ 20 年を経た今、その偶然はさらなる発展の可能性となるか、あるいは桎梏となるかの選択を EUに迫りつつある。 今の EU には開かれたヨーロッパを代表し
続け、新規加盟を希望する国には寛容に、ある意味では先送り的に対応し続けるというオプションに限られつつあり、内の統合が強化される一方で外への統合(拡大)と相反する関係が生じるという皮肉がうかがえる現状である。 筆者は EU が独自のソフトパワーを持続させることによって周辺地域からユーラシアにわたる安定に寄与していくことを切に望む。しかしながら、本稿は EUの統合基盤の脆弱化がヨーロッパ統合の限界を露呈し、危機的状況を誘発する可能性を指摘するまでで終えることとする。
本稿で示したように、EU内の政治・経済事件あるいは偶発的に変化する周辺情勢を個別に捉えるのではなく、それらが相互に関連し、深層においては統合理念に象徴される価値観の問題が横たわっていることを仮定すれば、今後のヨーロッパとその周辺の情勢について一層の理解が得られると思う。この論旨の中心となる「ヨーロッパの価値」については、来歴と実態を検討し、文明論の観点からの考察をさらに推し進めたいところである。文明論的考察については本稿では十分言及できなかったが、トインビー以後、文明論の発展が乏しい現状であり、トインビーの著作も入手し難い今日であるが、近年のグローバル化社会についての研究には、トインビーが遺した文脈と照合することによってヨーロッパを含む世界情勢のビジョンの活性化に資するものが少なくないと見ている。また、EUとその周辺に関わる研究は日本の対外政策、特に観光促進によるソフトパワー確保の可能性という戦略的課題を展望するための類推の基礎にもなると考えるが、併せて今後の課題としたい。