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ドリス・レツシング「ワイン J (試訳) 羽多野 路地裏の小さなホテルから出てきた男と女が大通りに向かつて歩いていた 。 木々はまだ、葉をつけず,黒ずんで,寒々としていた 。 しかし,小枝には春を窺わせる 精気が溢れていた。それで,芽吹く緑の兆しがどこかに見出せるのではないかと期待し ながら,人々は木々を見上げるのであった。辺りすべてが静かであった。真っ青な,穏 やかな空であった 。 二人はだらだらと歩んでいた。何日も怠惰に過ごした後では,活動することなど到底 無理だと思われた 。それで,二人は,出かけたばかりだというのに,もうあっと言う聞 に腫を返してカフェ(喫茶庖)ヘ入り,通りに突き出たガラス張りの空間に疲れ切った 人のようにどっと腰を下ろした。 そこには誰もいなかった。人は皆昼食を求めて, レストランの方ヘ行っていた。い や,そういう人たちばかりで、はなかった。 というのも,その朝デモがあって,たった今 その隊列が通り過ぎたばかりで,隊列を外れた連中の最後尾がまだ見えていたからであ る。暴力的な拡声音もシュプレヒコールも歌も,はるかに遠ざかって,もはやパリの交 通騒音を飲み込むほどの騒ぎではなくなっていた。 しかし二人を眠りから覚まさせたの は,まぎれもなくこれらの騒ぎであった。 ウエーターが戸口にもたれて群衆を目で、追っていたが けだるそうにコーヒーの注文 を取った 。 男があくびをした。女がつられてあくびをした。二人は罪の意識にかられたかのよう にちらつと顔を見合わせ やれやれと視線をそらせた。コーヒーがきてもそのままで あった。二人とも黙ったままであった。 しばらくして女があくびをした。男はきっと なって,女に非難の目を向けた。そして彼女は目で言い返した。何かをしたいという気 持ちは, どちらにも目覚めていないように見えた。 しかし, こういうことだけは言える ように思えた。つまり,二人を駆り立てるものはまだ目覚めていなかったけれども,悲 しいことに,嫌みたらしい目で互いを見る術だけは目覚めていた。二人は,幻惑される ことなく, しっかりと互いを見ることだけはできた 。 当然のように,嫌みたっぷりの目が彼女の心の中で次第に大きく見開いてきた。彼女 (1 60) 177

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ドリス・レツシング「ワインJ (試訳)

羽多野 正 美

路地裏の小さなホテルから出てきた男と女が大通りに向かつて歩いていた。

木々はまだ、葉をつけず,黒ずんで,寒々としていた。しかし,小枝には春を窺わせる

精気が溢れていた。それで,芽吹く緑の兆しがどこかに見出せるのではないかと期待し

ながら,人々は木々を見上げるのであった。辺りすべてが静かであった。真っ青な,穏

やかな空であった。

二人はだらだらと歩んでいた。何日も怠惰に過ごした後では,活動することなど到底

無理だと思われた。それで,二人は,出かけたばかりだというのに,もうあっと言う聞

に腫を返してカフェ(喫茶庖)ヘ入り,通りに突き出たガラス張りの空間に疲れ切った

人のようにどっと腰を下ろした。

そこには誰もいなかった。人は皆昼食を求めて, レストランの方ヘ行っていた。い

や,そういう人たちばかりで、はなかった。というのも,その朝デモがあって,たった今

その隊列が通り過ぎたばかりで,隊列を外れた連中の最後尾がまだ見えていたからであ

る。暴力的な拡声音もシュプレヒコールも歌も,はるかに遠ざかって,もはやパリの交

通騒音を飲み込むほどの騒ぎではなくなっていた。しかし二人を眠りから覚まさせたの

は,まぎれもなくこれらの騒ぎであった。

ウエーターが戸口にもたれて群衆を目で、追っていたが けだるそうにコーヒーの注文

を取った。

男があくびをした。女がつられてあくびをした。二人は罪の意識にかられたかのよう

にちらつと顔を見合わせ やれやれと視線をそらせた。コーヒーがきてもそのままで

あった。二人とも黙ったままであった。しばらくして女があくびをした。男はきっと

なって,女に非難の目を向けた。そして彼女は目で言い返した。何かをしたいという気

持ちは, どちらにも目覚めていないように見えた。しかし, こういうことだけは言える

ように思えた。つまり,二人を駆り立てるものはまだ目覚めていなかったけれども,悲

しいことに,嫌みたらしい目で互いを見る術だけは目覚めていた。二人は,幻惑される

ことなく, しっかりと互いを見ることだけはできた。

当然のように,嫌みたっぷりの目が彼女の心の中で次第に大きく見開いてきた。彼女

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Page 2: 人間文化第 - AGUkiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__24F/02__24_177.pdf人間文化第24 号 はその気持ちを抑え込んだ。しかし,突然彼の心に残忍な気持ちが浮かんだ。「化粧,剥げとるよ」と彼は嫌みたっぷりに言った。「何よ,もう,頭にくるわね。ぶちのめされたいの」

人間文化第24号

はその気持ちを抑え込んだ。しかし,突然彼の心に残忍な気持ちが浮かんだ。

「化粧,剥げとるよ」と彼は嫌みたっぷりに言った。

「何よ,もう,頭にくるわね。ぶちのめされたいの」

しかし彼はいつも嫌みのせいでけんかになることがないようにしていた。彼女は肩をす

くめ,事の成り行きを彼にまかせ,向きを変えて外を見た。彼もそうした。通りのず、っ

とはずれから,蟻が慌てて逃げまどうかのような騒ぎがかすかに聞こえてきた。「ああ,

まだやっているようだ……」。そう彼がつぶやくのを彼女は聞いた。

彼女は噸るように言った。「何も変わりゃしないわよ。何もかも今までどおりさ……」

彼の顔がぱっと輝いた。「そうだ 思い出したよ……」と彼はうわず、った声で言い始

めた。彼はそう言って口をつぐんだ。彼はすごく懐かしそうな顔をして遠くのデモ隊を

じっと見つめていた。それで,彼女は次の言葉をせかせはしなかった。

外では,恋人同士や夫婦や学生たちゃ老人たちがあてもなく歩いていた。そこここ

に,すっかり裸になった木々,それに穏やかな青い空があった。一ヶ月もすれば,木々

は鮮やかな緑に映えるであろう。太陽は熱気を吹き下ろすであろう。人々の肌は褐色に

なり,足をむき出しにして,皆笑い声をたてるだろう。デモをする自分の姿が目に浮か

んだとき,彼女は「ああ,無理,無理」と独り言を言った。何の代わり映えもなく悲し

い思いをするのが関の山だわ。突然 自分は不幸だという気持ちがぐっと沸き上がって

きて,鳴咽しそうになった。彼女は,外国に滞在した 15年前の自分の姿を思い出して

いた。彼女はこうこうと輝く熱帯の月明かりの中に立って,静けさだけが支配する周り

の景色に向かつて両手を伸ばしていた。それから,彼女は小石をするどくきしませなが

ら小道を駆け下り,はあはあと息をきらせながら輝く草むらの中に倒れ込んだ。あれか

ら,もう,かれこれ15年……。

このとき突然,男は体をひねってウエーターを呼び ワインを注文した。

「まあ何てこと」。彼女は不機嫌そうに言った。「朝っぱらから ?J

「いいじゃないか」

彼女は一瞬そういう彼を完全に母性的に愛しく思ったが,次の瞬間,虚偽でしかない

そのような気持ちが顔に出ないようにぐっと抑えた。彼は,そわそわしながらワインが

くるのを待ち,グラスに注ぎ,そのグラスを一つずつまだ手っかずのままになっていた

コーヒーカップの横に置いた。その様子をじっと見ながら,彼女は再びあの夜の自分の

姿を懐かしそうに思い返していた。それは,月光を全身に浴びながら,誰にもわかって

貰えない願望を胸に,狂ったように木々の闘を走り回る自分の姿であった。どのような

願望……そう,そのことこそ,彼女には大問題なのであった。

「何を考えているのだ ?J先程と同じようにちょっと気持ちを逆なでするような言い

方で、言った。

「あ~っ,放っておいてよ」。彼女は不機嫌そうに抗議した。

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ドリス・レツシング「ワインJ (試訳) (羽多野)

「やれやれ。困ったものだ、」。彼はグラスを持ち上げ,彼女の顔を見,下に置いた。

「飲まないのか ?J

「まだそんな時閉じゃないわよ」

彼はグラスをそのままにしてタバコを吸い始めた。

こういうときには何かを見せつける必要があった。取るにたらないこと,そう,何気

ないことで良かったのだが,それぞれが違う存在なのだと互いに認めあえる何かが必要

であった。一つは,哀れみながらも愛想をつかしたという目で,おそらく優しくではあ

るが瞬きすることもなくじっと見ている,そう, じっと,それも絶えずお前を観察して

いるぞという風に見えるもの。もう一つは,発奮と頓挫,問題提起と解決という繰り返

しの中で衝動的に頭をもたげるもの,そう,暴力の衝動とも言えるもの。

彼はそんな素振りをして見せた。一触即発の状況の中で再び二人の目が合った。彼は

すぐ目をそらせ,苛立ちながらテーフゃルの上を指先で、opいた。彼女も 目をそむけ,芽吹

き始めたとはいえ,未だ黒い枝をじっと見た。

「忘れもしないよ」。彼はまた言い始めた。彼女はふたたび, 「ああ,また」と抗議の

口調で、言った。

彼は感情をぐっと抑え Iいいかい」と冷静な口調で、言った。「僕が愛したのは君だけ

だよ」。二人は笑った。

「確かこの通りだった。ここがあのカフェだったかも・・・…。それにしても,ずいぶん

変わっちゃった。毎年夏になると決まって行ったあの場所にも昨日行ってみたのだよ。

でも,もうペーストリーの屈になっていて,女将さんは僕の顔すら憶えていなかった。

・・・そう,あのとき,僕らはよくそのカフェへ行ったものさ。あの頃は皆で一緒に行っ

たものだよ。確か僕はそこで初めてその娘に会った。デートのできる場所はいくつも

あったけれど,そのカフェのことは,皆に知れ渡っていた。ウィーンから,プラハか

ら,いや, どこから来た者でも,そのカフェのことは知っていてね…・・・。そうさねえ,

このカフェで、はなかった気もするねえ……。それとも, こんなに小締麗な場所にやり替

えたのだろうか。あの当時は,こういう,皮の椅子やクロムなめし皮の椅子が置いてあ

るような庖ヘ来る余裕なんて誰にもなかったからね」

「さあ,それで ?J

「どういうわけか,あの娘のことが頭から離れないのさ。も う何年もその娘のことな

ど考えもしなかったのにね。確か,歳の頃は16くらいだった。とっても可愛い娘だっ

た……。いやお前,そりゃ考えすぎだよ。……よく一緒に勉強したものさ。その娘,い

つも,本を持って僕の部屋へ来た。その娘のこと,僕は好きだったけど,そのとき僕に

はガールフレンドがいたしね。その娘,ちょっと思い出せないけれど,何か他のものを

勉強していた」。ここで,再び彼は話をやめた。懐旧の想いで,顔がゆがんでいた。思

わず,彼女は顔をそむけて自分の肩越しに通りを見ゃった。デモ行進はどこへ行った

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か,もうすっかりいなくなっていた。歌声やシュプレヒコールさえ消えてしまってい

た。

「あの娘が忘れられないわけはねえ……」。そう言うと,彼は口をつぐんでしばらく物

思いにふけっていた。「処女の本能とでもいうのかなあ。拒絶される羽田になるかもし

れないというのに,体を差し出そうと忍んできて,裸になるなんていうのはさ・・…・」

「えっ! 何ですって!J彼女は驚きの叫び声をあげた。それと同時に,彼女の心に

怒りの気持ちが沸き起こってきた。彼女はそういう自分に気づいて,溜息をついた。

「それで ?J

「僕は決してその娘に手を出さなかった。一夏中,一緒に勉強しただけさ。ある週末

に,皆で一緒に出かけたことがあってね。勿論,金を持っている奴なんて誰もいなくて

-。だから,道端に立ってヒッチハイクをして, どこかの村で落ち合ったのさ。僕た

ちは納屋で寝させてもらう代わりにその農家の人が果物を取り入れるのを手伝ったん

だ。僕はガールフレンドと一緒だった。でも あの晩は そう マリーというその娘が

僕のそばにいた。月明かりの,美しい夜だった。私たちは皆で歌い,愛し合った。僕は

その娘とキスをした。でも,それ以上のことはしなかった。その晩,その娘は僕の所へ

忍んできた。僕は上のロフトで男の子と寝ていた。彼はもう眠っていた。僕はその娘を

他の者が寝ているところへ戻らせた。皆は下の干し草の中で寝ていた。僕は彼女にまだ

そんな年齢ではないと言ってやった。でも,正直なところ,彼女,僕のガールフレンド

より若いということはなかった」。彼は話をやめた。「もうあれから何年もたった今に

なって……」。彼は当惑した顔に後悔の色を浮かべた。「わからん」。彼は言った。「なぜ

あのとき彼女を皆の所ヘ戻したのかがわからんのだ、」。そう言って,彼は笑った。「で

も,別にどうってことないよね」

「恥知らずよ,あんたって人は」。彼女はそう言った。怒りの気持ちが強くなってい

た。「あなた,その娘にキスしたんでしょ」

彼は肩をすくめた。「だけどね,僕らはあのとき皆でふざけあっていたんだ。素晴ら

しい夜だった。 リンゴをもいでね。農家の主人は大声を上げて我々をののしっていた

ね。僕たちは作業をするどころか,いちゃついて,歌を歌いながらワインを飲んでばか

りいたからね。それに,当時はああいう時代だった。若者の運動の……ね。僕たちは信

義だの,ねたみだの,そういう類の物はすべてブルジ、ヨアの道徳観の残津だと J思ってい

たからね」。彼はふたたび、笑ったが,顔はゆがんでいた。「確かに僕はキスをした。彼女

はそう,僕のすぐ横にいた。しかも,その娘,僕はその週末ガールフレンドと一緒だと

いうことを知っていたのだよ」

「その娘にキスしたんでしょ」。彼女は非難するような口調で、言った。

彼はワイングラスの足(ステム)を指先でいじって,にやにゃしながら,妻の顔色を

窺っていた。「うん, したよ」。彼はぼそっとつぶやくような声で、言った。「キスしたよ」

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ドリス・レッシング「ワインJ (試訳) (羽多野)

突如彼女は切れた。「もうすっかりその気になっている女の子がいるとしましょうよ。

勉強をだしにしてその子をおびき寄せる。その後でキスをするってわけ。よーく,ご存

知だってことね」

「僕が何をよく知っていたって言うのだ」

「そんなことするなんて, とんでもなく残酷なことだわ」

「僕はまだ子供だったんだよ……」

「そんなこと,関係ないわよ」。彼女は不快感で今にも大声を出しそうになった。「彼

女と勉強しただけだって! 16の娘とー夏中一緒にいて,勉強しただけだって!J

「だけど,僕たちは皆,ほんとうに一生懸命勉強したんだよ。後に彼女はウィーンで

医者になったさ。彼女,ナチが侵攻してきたときやっとの思いで逃れたというのに

彼女はいらいらして言った。「それで まさしくその晩 あなたはその娘にキスをし

たんでしょ。その娘の気持ちを考えてもご覧なさいよ。他の人が眠りにつくのを待っ

て,もう一人の男が目を覚ましはしないかとびくびくしながら,梯子を伝ってロフトヘ

上がり, あなたが眠っているのを立ったままじっと見つめ,ゆっくり服を脱いで・・・・・・」

「ああ,僕は眠っていやしなかった。ふりをしていただけさ。彼女は服を着たままで,

上がってきた。短パンにセーター姿でさ……。僕たちの女の子は,誰もドレスを着てい

なかったし,口紅もつけていなかった…・・・。そんなことはずっとブルジョア的なこと

だった。僕は彼女が服を脱ぐのを見つめていた。ロフトは月明かりで一杯だった。彼女

は手で僕の口をふさいで,僕の横に滑り込んだんだ、」。彼は唖然としたよという顔に後

悔の色をにじませた。「ああ,さっぱりわからんよ。彼女は実に美しい人だった。なぜ

そのときのことが頭から離れないのだろう。ここ数日,ずっと頭から消えないのだ、」。

少し聞をおいて,ワイングラスをゆっくり回しながら続けて言った。「しかし,失敗だ

らけの人生だったけれど,そのことだけは失敗じゃなかった。そう思うよ」。彼は急に

妻の手を取って,キスをして,心の底から言った。「でも,今頃になって,あのときの

ことを思い出すなんて, どうしてだろう……」。二人の目が合った。二人は溜息をつい

た。

彼女は彼の手の中に自分の手を委ねながらゆっくりと言った。「それで,あなたはそ

の娘に手をつけなかったのね」

彼は笑った。「次の朝,彼女は僕に話しかけようともしなかった。彼女は,僕の親友

と恋愛を始めたよ。まぎれもない,あの晩ロフトで僕の横で寝ていたあの男とさ。彼女

は僕の意気地なさを嫌ったのだ。彼女,僕のことをそう思ったのは,正しいと思うよ」

「その娘のことを考えてもみなさいよ。そのときの彼女の気持ちをさ。あなたの方を

ほとんど見ることもできずに服に手をかけたのよ……」

「確かにその娘,ものすごく怒っていた。考えられる限りの悪態をついた。それで,

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人間文化第24号

周りの者皆にわかってしまうじゃないかと思って 口をつぐめと言い続けなければなら

なかったよ」

「彼女は梯子を降りて,暗闇の中で服を着た。それから彼女は,仲間の所へ戻ること

ができないで,納屋の外へ出て行った。彼女は果樹園へ入っていった。月がその時もな

おこうこうと輝いていた。辺り一面静寂が支配し,人っ子一人いなかった。そこで彼女

は,皆で歌い,笑い,いちゃっく様子を思い返した。あなたにキスされた木の下へ行っ

た。月はリンゴの木の上を照らしていた。彼女は決してそのときのことを忘れやしない

ことよ。決して,決してよ!J

彼は不思議そうに妻を見た。涙が彼女の顔を流れ落ちていた。

「とんでもないことだ、わ」。彼女は言った。「とんでもないわ。その娘の気持ちが癒さ

れることは決してないわ。一生の間 ず、っとね。一生のうちで すべてが満ち足りたと

き彼女は突然その夜のことを思い出すわ。何マイルも何マイルもただただ空虚に広がる

あの忌まわしい月明かりの中 人っ子一人いない場所で 独りたたずんだあの夜のこと

を……」

彼はきっとなって妻を見たが,次の瞬間,彼はおどけた自を向けるとともに,額に眉

を寄せてすまなさそうな顔をしながら,屈み込んで妻の手にキスをして言った。「ねえ

お前,僕,悪くないよね。ぜ、ったい悪くないよね」

「うん,わかってる」と彼女は言った。

彼はワイングラスを妻の両手の中に置いた。彼女はグラスを持ち上げて,深紅色の液

体の中を暖まって浮き上がってくる泡を眺めた。そして 彼に合わせて飲んだ。

(訳者あとがき)

この作品はドリス・レッシング(以下ドリス)が31歳を過ぎて間もなく知り合い,

恋に陥った男性(チェコ生まれの貧しい医者。男性の家族に迷惑がかからないよう,

実名でなく,ジャックという名で紹介されている)とパリへ旅行したときの体験に基

づいて書かれたもので, 1119号室へjJ (To Room Nineteen-Collected Stories Volume One,

HarperCollins, 1994) に収められている作品である。

ドリスは, 1949年,息子のピーターを連れて南ローデシア(現ジンパブ、エ)からロ

ンドンに移住した。当初,彼女はパイズウォーターに住むが そこは娼婦の多い町で

あった。息子の教育に悪いと思ったドリスはすぐさまデンバイ・ロードのフラットに移

り住んだ。それは安アパートで,長く住む場所ではないと考えたドリスはフラットを探

し続けた。1950年夏,やっと理想的なフラ ットが見つかり ケンジントンのチャーチ・

ストリートに引っ越した。ドリスはその後 4年間そのフラットに住んだ。

ケンジントンのチャーチ・ストリートでは,息子のピーターが保育園を気に入り,赤

貧ながらも生活は落ち着いた。ドリスはデンパイ・ロードで書き始めた小説『マーサ・

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ドリス・レッシング「ワインJ (試訳) (羽多野)

クエスト』の続きを書いていた。そんなとき,生涯の敵としてドリスが毛嫌いした母親

がピーターの世話やドリスの手伝いをすると言って南ローデシアからロンドンへやって

きた。母親から届いた手紙を読むや,布団をかぶってベッドで震えていたという。母親

がロンドンに到着するや, ドリスの精神状態は自身でコントロールできない程になっ

た。そのため, ドリスは,その後 3年間もの長い間,精神科医の治療を受けた程であっ

た。

精神的に参ったそんなある日, ドリスは友人の誘いで出かけたパーティで, ドリス自

身が「運命的な出会い J (ドリス・レツシング『日陰を歩いて.1], p.40) と述懐する

ジャックという男性と巡り会った。

ドリスはロンドンヘ渡るまで、に南ローデシアで 2度結婚し, 2度とも離婚した。最初

の夫ジョン・ウイズダムとは迫り来る戦争(第二次大戦)への恐怖にせき立てられるか

のように結婚した。二度目の夫,ゴットフリードとは,共産主義者同士という思想上の

つながりから結婚した。いずれの場合にも心底惚れ合って結婚したわけではなかった。

精神的に参ったドリスにとって,パーティで、出会ったジャックは心の支えとなった。

ジャックとのつき合いは 4年ほどで終わるが,その間ドリスとジャックは心底愛し合っ

た。家庭持ちのジャックとは正式な結婚をすることはできなかったが,二人だけの楽し

い日々はドリスの心を癒した。その間二人はよく旅行をした。

そんな旅行のうち,パリヘ旅行したときの体験が「ワイン」という作品を生み出し

た。ドリスは次のように書いている。

私はジャックと 2度ノ号リへ旅行に出かけました。その旅行の一つが「ワイン」と

いう小品に結実しました。私たちはサン・ジェルマン大通りのカフェに坐って,学

生のデモ隊がシュプレヒコールで、気勢をあげ,車をひっくり返しながら通り過ぎる

のを眺めていました。群衆はいったい何に不満を抱いていたというのでしょう。車

をひっくり返すのがフランス流自己主張の仕方のようですね。ジャックは同じ状況

を戦前(第二次世界大戦)に見たことがあると言いました。私自身もず、っと後に

なって同じ光景を目にしました。(同, p.51)

「ワイ ン」の作品で群衆が車をひっくり 返す光景はないが,時間が止まったかのよう

な昼下がりの倦怠感が支配する雰囲気の中で,歌を歌い,シュプレヒコールで、気勢をあ

げながら次第に遠ざかっていくデモ隊の動きは,物語の時間経過を読者に意識させなが

ら物語全体を引き締めている。

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