小泉八雲が愛し 混淆文化 相互理解の礎 - JICE 一般財団法人 ...2 no.64 2009...

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私の提言「途上国とマネジメント」 途上国を知る・日本を知る 多士彩才Interview この人にきく 1 こん こう 文化に価値を見出していた小泉八雲 小泉八雲( ラフカディオ ハーン日本人られるようになっ たのは、「今から 七百年あまり のこと 、下関海峡…」 いう しでまる 「耳なし 芳一のはなし 、英語教育のテキストと して使われるようになってからのことでしたその八雲来日 したのは39 時。明治 23 年(1890 年)、八 はジャーナリストとして 日本をめざしますが、航海途中、契約内 がおかしなことにづいて契約破棄。目的ったまま 横浜きます。途方れていた八雲べてくれたのはアメリ ニューオリンズ時代万博会場った外務省服部一三 この当時文部省) でした。服部斡旋、島根県松江尋常中 学校(現・松江北高校) 同県尋常師範学校(現・島根大学) 英語教師ることができたのです。八雲親日家「古事記」 れていたこと 、日本伝統文化がたくさんっている 松江赴任 したことはのちの八雲には幸運だったと えるでしょう 八雲はその後、熊本、神戸、東京転々 赴任。亡 くなるまでの 14 年間日本する 著書14 冊遺 しますしかし そのほとん どは 「耳なし 芳一」 とはにするもので、海外読者向けにれた “日本文化論” でしたその内容、「クレオール文化のよう 混淆文化 こそポスト コロニアル (植民地主義以降) 文化である べきだというもので、八雲がいかに先駆的思想だったか れます。平易ですぐれた 『怪談・奇談』 一方、一 神教ではなく 多神教文化がもたらすかさ 、混淆文化かさをくから 見出 していた数少ない 日本研究家だったのです五感を駆使したコミュニケーションが大切 ギリシャ まれの八雲、幼少頃、裸神様登場するギリシ 神話絵本しそうにめていたそうですが、大叔母がそのいて、子 どもの八雲せまいとするのを、「キリスト はなんてことをするんだろう じますキリスト 教教育けなが 、一神教には懐疑的馴染めなかったことがわるエピソードです物事本質 とは――幼からそうした つめていたですが、来日 してからも 物事本質見極めようとする 言動ません。拙いブロークンジャパニーズでしたが、五感のすべてを使 ったコミュニケーションを駆使 、物事をひも いていきますその、自分息子には小学校かせず、昔話による 総合教育していますそうやって五感力、想像力むことで、相手やる 醸成できると 確信 していたからでしたその八雲精神にあらためてスポットをてるべく 、私小中学生 対象スーパーヘルンさん講座」 する ども 毎年開いて いますいまや 自宅・塾・学校往復するだけのどもたちに、自然 れて 「五感いてしいっているからですこいずみ・ぼん 小泉八雲の曾孫。昭和36年東京都生まれ。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士 課程前期修了。専攻は民俗学。昭和62年に松江赴任。高校教員や小泉八雲記念館学芸員を経 て現職。平成13~14年まで、セントラル・ワシントン大学交換教授。平成16年から松江市主催「子ど も塾」塾長をつとめ、子どもたちの五感力の育成に取り組んでいる。おもな著書に『民俗学者・小泉 八雲』、共著『文学アルバム 小泉八雲』『八雲の五十四年』などがある。小泉八雲記念館顧問。 小泉 凡 さん 島根県立大学短期大学部准教授 小泉八雲記念館顧問 Bon Koizumi Interview この人にきく 小泉八雲が愛し 混淆文化 相互理解の礎 八雲は混淆文化に 価値を見出していた 数少ないジャーナリスト 新年のご挨拶

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私の提言「途上国とマネジメント」

途上国を知る・日本を知る多士彩才/���������

Interview この人にきく

1

混こん

淆こう

文化に価値を見出していた小泉八雲 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が日本人に広く知られるようになったのは、「今から七百年あまり昔のこと、下関海峡の壇ノ浦で…」という書き出しで始まる「耳なし芳一のはなし」が、英語教育のテキストとして使われるようになってからのことでした。 その八雲が来日したのは39歳の時。明治23年(1890年)、八雲はジャーナリストとして日本をめざしますが、航海の途中、契約内容がおかしなことに気づいて契約を破棄。目的を失ったまま横浜に着きます。途方に暮れていた八雲に手を差し伸べてくれたのは、アメリカ・ニューオリンズ時代に万博会場で知り合った外務省の服部一三(この当時は文部省)でした。服部の斡旋で、島根県松江尋常中学校(現・松江北高校)と同県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師の職を得ることができたのです。八雲が親日家で「古事記」に触れていたこと、日本の伝統文化がたくさん残っている松江に赴任したことは、のちの八雲には幸運だったと言えるでしょう。 八雲はその後、熊本、神戸、東京に転 と々赴任。亡くなるまでの約14年間に日本に関する著書を14冊遺します。しかし、そのほとんどは「耳なし芳一」とは趣を異にするもので、海外の読者向けに書かれた“日本文化論”でした。その主な内容は、「クレオール文化のような混淆文化こそポスト・コロニアル(植民地主義以降)の文化であるべきだ」というもので、八雲がいかに先駆的な思想の持ち主だったかが窺い知れます。平易ですぐれた『怪談・奇談』を遺す一方、一神教ではなく多神教の文化がもたらす豊かさ、混淆文化の豊かさを、早くから見出していた数少ない日本研究家だったのです。

五感を駆使したコミュニケーションが大切

 ギリシャ生まれの八雲は、幼少の頃、裸の神様が登場するギリシャ神話の絵本を楽しそうに眺めていたそうですが、大叔母がその絵の上に服を描いて、子どもの八雲に見せまいとするのを見て、「キリスト教はなんてことをするんだろう」と感じます。キリスト教教育を受けながら、一神教には懐疑的で馴染めなかったことが伝わるエピソードです。 物事の本質とは何か――幼い頃からそうした目で見つめていた八雲ですが、来日してからも物事の本質を見極めようとする言動は衰えません。拙いブロークンジャパニーズでしたが、五感のすべてを使ったコミュニケーションを駆使し、物事をひも解いていきます。その一方で、自分の息子には小学校に行かせず、昔話による総合教育を施しています。そうやって五感力、想像力を育むことで、相手を思いやる心も醸成できると確信していたからでした。 その八雲の精神にあらためてスポットを当てるべく、私は小中学生を対象に「スーパーヘルンさん講座」と称する子ども塾を毎年開いています。いまや自宅・塾・学校を往復するだけの子どもたちに、自然に触れて「五感を磨いて欲しい」と願っているからです。

こいずみ・ぼん小泉八雲の曾孫。昭和36年東京都生まれ。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻博士課程前期修了。専攻は民俗学。昭和62年に松江赴任。高校教員や小泉八雲記念館学芸員を経て現職。平成13~14年まで、セントラル・ワシントン大学交換教授。平成16年から松江市主催「子ども塾」塾長をつとめ、子どもたちの五感力の育成に取り組んでいる。おもな著書に『民俗学者・小泉八雲』、共著『文学アルバム 小泉八雲』『八雲の五十四年』などがある。小泉八雲記念館顧問。

小泉 凡さん島根県立大学短期大学部准教授

小泉八雲記念館顧問

Bon KoizumiInterviewこの人にきく

小泉八雲が愛した 「混淆文化」は相互理解の礎

八雲は混淆文化に価値を見出していた数少ないジャーナリスト

 

平成二十一年の年頭にあたり、謹

んで新年の御祝詞を申し上げます。

 

旧年中は一方ならぬ御厚情を賜

り、誠にありがとうございました。本

年も引き続き国際協力、特に人造

り協力のお手伝いを通じ、皆様方の

お役に立てるよう一層の努力をして

参りたいと存じます。

財団法人

日本国際協力センター

理事長

松岡

和久

新年のご挨拶

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no.64 2009 January

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ジャカルタの水道公社に

蒔いたマネジメントの概念

 

私が、インドネシアの首都ジャカ

ルタにあるパムジャヤ(PAM

JAYA・水道公社=当時)のプロジ

ェクト「ジャカルタ市上下水道排水管

整備事業」に携わったのは1992年

(平成4年)9月からの約2年間です。

そのプロジェクトは、インドネシア政

府に供与された日本の円借款による

事業で、私の雇用主は国際協力機構

(JICA)でも国際協力銀行

(JBIC:現JICA)でもなく借

款の供与先であるパムジャヤでした。

私は、借款の供与先である公社に深

く関わってマネジメントという概念を

根付かせるために赴任したわけです。

そのパムジャヤで私が行ったことをご

紹介しましょう。

 

私が赴任した当時、ジャカルタ市

の人口は650万人を超えており、

東南アジアの中でも大規模かつ急成

長を遂げている都市のひとつでした。

パムジャヤはその市街地を中心に80

数カ所にポンプ・事業所を持ってお

り、ジャカルタの上下水道を一手に管

轄する大規模な公社でしたが、急速

な人口増加に対して管理に手が回ら

ず、盗水により代金の回収が十分で

きないだけでなく、水道メーターや

ポンプなどの状況を把握することす

ら十分にできていない状態でした。

私の仕事は、それらの整備が主な目

的でした。

 

パムジャヤでのマネジメント指導の

経験を通し、援助の現場での一番の

問題点は、「減価償却」という概念が

ないことと気づきました。当時のイ

ンドネシアは古いオランダ会計が一部

残るものの、自国の「会計基準」が存

在しませんでした。そこで、私が赴

任して最初に手がけたのは、会計の

初歩の初歩である、資産の洗い出し

でした。 

 

固定資産を管理するために、公社

内に新しく「資産管理部」を設置して

もらいました。その上で、パムジャ

ヤの各部署から代表者に集まっても

らい、「なぜ、資産の管理が必要か」

「どのような方法で行うのか」「作業

の手順は…」などを説いたうえで、

資産管理のためのシールを作り、管

理する資産にシールを貼り、シール

番号を管理台帳に記載していくとい

う作業に取りかかりました。

 

職員たちからは、「誰が盗んだか

調べるオーディット(監査)?」と心配

する声も聞かれましたが、「この公

社にどれくらいの資産があるかを把

握するためにやります。けっして誰

が盗んだかを調べるためではありま

せん。次に援助してもらうためにも

大切なことなのです。資産を把握す

る仕組みを作りましょう」

 

その呼びかけはその後、年に1回

しています。海外から途上国に赴く

援助関係者においても、その国に移

転しようとする技術の重要性は唱え

ても、それを管理するという想いは

希薄のようです。しかしそれは、い

くら名プレーヤーをそろえても優勝

できるとは限らないように、いい監

督がいて、いいマネジャーがいなけれ

ば優勝できないチームと同じです。

何年も途上国に援助し続けていなが

ら成功しなかった案件では、そうし

たマネジメントの重要性を軽視して

きたことが原因にあるのではないで

しょうか。援助に関わっている人た

ちは、もっとマネジメン

トの重要性を自覚して欲

しいものです。

 

私がインドネシアのジ

ャカルタでマネジメント

を手がけてからすでに15

年が経ちました。当時に

比べ、市街地の道路や建

物も立派に見えます。し

かし、金融危機などで手

痛いダメージを受けやす

いのもまた、マネジメン

トが育っていないからな

のです。

 

援助という名の下に、

機材だけを供与するのは

もっと残酷です。例えば

それは、靴を履く習慣が

話だったからです。そんな家庭です

ら、お手伝いさんを雇っていたので

した。

 

また、「白田さんは日本人だから

お金持ちで、ご飯なんか作らないん

でしょ?」と聞かれたこともあります。

そこではこう答えました。「何言って

るの!

自分で食事も作るし、洗濯

もするわよ!

あなた方もそのうち、

国民の所得水準と教育レベルが上が

ればお手伝いさんをする人はいなく

なり、自分でできることは何でも自

分でやらなければならなくなるのよ」

 

いつまでも援助を受け続けるので

はなく、少しでも自らの収益で次に

備える気持ちを持つ。また人材には

限界があることを知らしめるような

意識改革こそが、自分が援助の現場

に身を投じている真の目的だと考え

たからでした。

援助という名の下に

機材供与するのは残酷だ

 

インドネシア同様、他の途上国に

は今もさまざまな形で援助の手が差

し伸べられています。しかし、どの

途上国を見ても、援助とは技術者を

育てること、技術移転をすることと

いう考え方がいまだに根強く、マネ

ジメントの重要性には目が向けられ

ないことに、内心、忸じ

怩じ

たる思いを

しらた よしこ東京都出身。倒産研究の第一人者。筑波大学では経営学博士号第一号。筑波大学大学院 経営・政策科学研究科企業科学専攻修了。日本航空㈱国際線客室乗務員、企業経営、スポルディングジャパン㈱社長付、㈱帝国データバンク副社長付、中央クーパース・アンド・ライブランドコンサルティング㈱マネージングアソシエイツを経て、平成8年筑波技術短期大学助教授、平成13年日本大学助教授、同14年同大教授。同17年芝浦工大大学院工学マネジメント研究科教授。同19年より筑波大学大学院教授。教授を務める国際経営プロフェッショナル専攻課程は全講義を英語で提供する社会人教育に特化した経営学修士(MBA)専門職大学院。

なかったところに「靴を持っていった

ら喜んで履いてくれたんだよ!」と

嬉々としているのに等しい。

 

靴を履く習慣のなかった人たちは、

裸足の時は痛いと感じませんが、ひ

とたび靴を履くことを覚えたら、靴

なしでの生活はできません。そうい

う残酷なことを、今まで途上国に対

してしてきていないとは言い切れな

いでしょう。

 

その国の国民の自助努力で、みん

なで靴を履ける国になる。先進国で

ある私たちにできることは、そうい

う手助けなのだと信じて疑いません。

かつてのジャカルタのメインストリート「タムリン通り」(撮影:筆者)

行うルーチンワークになりました。

途上国の意識改革こそが

自分の使命だった

 

なぜODA事業では減価償却とい

う概念を取り入れていないのでしょ

うか。

 一般の企業会計では、減価償却に

は3つの目的があると言われていま

す。現在保有する資産額を確定する

ため、そして収益に対応する費用を

把握するため、さらには投資したお

金を取り戻すためです。売り上げの

一部をプールしておいて、次の設備投

資に充てるのです。しかし、援助の

現場では減価償却という概念がない

ため、供与された設備が数年後に壊

れてしまったら、また、「お金を貸し

て!」「お金を頂戴!」となるのです。

 

そこで私は、積極的に彼らの生活

の中に〝介入〞していくことで、彼ら

の考え方を少しでも変えようと孤軍

奮闘しました。食事をともにしたり、

オフィスで働く仲間たちのホームパ

ーティや子どもの誕生日にも行った

りしました。しかし、そうした行為

は、彼らには稀有な存在に写ったよ

うです。なぜなら、イスラム世界で

は厳然としたヒエラルキーがあり、

彼らにとって日本人はそのヒエラル

キーのさらに埒外的な存在。日本人

が家に来てくれるなんてあり得ない

右が白田さん、中央がスコットランドの

水質の専門家、左がインドネシアの

ローカル・コンサルタント

パムジャヤスタッフの子どもの誕生日パーティでのひとコマ

私の提言

白田佳子さん (筑波大学大学院 ビジネス科学研究科 教授 博士(経営学))

援助の世界にも望まれるマネジメントの概念企業倒産の予知モデルを開発したことで知られる筑波大学大学院の白田佳子教授は、

会計学者として海外にその名を知られた存在だ。航空会社の国際線客室乗務員として各国を飛びまわっていた経験があるほか、

政府開発援助(ODA)事業のコンサルタントとして途上国の公社実施能力調査にも携わったこともある世界通。その白田教授に、援助の現場での「マネジメントの重要性」について尋ねた。

途上国とマネジメント

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no.64 2009 Januaryno.63 2008 October

カンボジアから来たNPO代表

 

昨年の秋、手林佳正さんが日本の開発協力事業で駐在したこ

とのある国から、ふたりの外国人が日本にやってきた。ひとりは、

カンボジアのシェムリアップ州病院内に拠点を持つ精神保健NGO

「SUM

H Su

pporters fo

r Men

tal Health

」代表で、ソーシャル

ワーカーのタイ・ピサルさんだ。

 「彼は今回、日本のNPO法人『SUMH 

途上国の精神保

健を支えるネットワーク』が招待して、千葉県の農村部と東京の

下町の医療機関や地域ケア機関で、4週ずつ現場研修を受けま

した。かつて一緒に働いていたので、互いに気心も知れている間柄。

昔話に花が咲く時間を数回、持ちました」

 

今回のプロジェクトは、1970年代から長く続いたポルポト派

による大量虐殺によって、村人のほぼ3分の1が虐殺されてしまっ

たカンボジアの農村部の復興を手助けしようとするもの。この国

では家族や友人を亡くした多くの市民が心の問題に悩まされ、

PTSD(心的外傷)などを抱えているが、精神的な病をケアす

る医師や医療施設が少ない。そのため、公的な地域の保健医療

システムに、精神保健分野を取り入れようと、活動モデルを提供

し、その従事者の養成や研修を行ってきた。今年で9年目を迎

える。

 

タイさんが暮らすシェムリアップには、世界遺産のアンコールワッ

ト遺跡がある。市街地は外国人旅行者たちが滞在するホテルや

ゲストハウスなどが建ち並ぶものの、そこから車で数分のところに

自然と一体化して暮らす農村が広がっている。アンコール時代を彷

彿とさせる村からの来訪者だ。

秋葉原を喜んだネパール人医師

 

もうひとりは、東京で開かれた国際学会に参加するためにネパ

ールからやってきた精神科医師のシャラッド・マン・タムラカールさ

ん。

 

昨年の夏、手林さんがカトマンズに滞在中、ある研修会で知り

合った。

 

その研修会とは、医師や看護師、心理士、ソーシャルワーカー

などの精神保健分野で働く人々を対象にしたものだったが、旧知

の元精神病院院長から「今度日本へ行く人だ」と紹介され、今回

の学会会場で会うことを約束していたのだという。

 「彼は首都の警察病院の精神科病床と、おもに外国人が受診

する総合病院の精神科に勤務している30代後半の医師。積極性

を感じさせる人ですが、会ったのは日本に着いて2日目。当初は

緊張感を漂わせていたものの、帰国するころにはだいぶリラックス

していました」

 

手林さんは研修の合間をぬって、シャラッドさんらを秋葉原に

案内したそうだ。

 「CDラジカセ、炊飯器など

電化製品を嬉々として買ってい

ました。その表情からもわか

りましたが、来日中もっとも楽

しかったのは秋葉原だったそう

です。食事では、彼らはヒンズ

ー教徒ですから、右手だけを

使って食事しますが、ハシを使っ

て食べることにも挑戦していま

したね。滞在中にちょうど断

食日があって、ぼくらは食事し

ているのに、彼らは水だけとい

うこともありました。東京デ

ィズニーランドへも連れて行って

もらったらしく、ジャングルクル

ーズがおもしろかったそうです。

山国ネパールでは、船に乗った

ことがない人が少なくありませ

ん」郷

愁を覚えさせた

線香の香り

 

ふたりとも短い滞在だったが、

総じて彼らが抱く現代日本の

イメージは、アジアでつくられ

たものだろう。

 「〝お決まり〞の日本のイメー

ジは相変わらずで、高層ビルが

林立し、新しいきれいなクルマ

が規則正しく走っているという

印象を持ったようです。高速

道路も印象的な様子で、特に道路と道路が上と下で交差すると

ころでは目を見張っていました」

 

しかし、日本の田舎を見る目は少しちがった。屋根の低い平屋

の農家が、田畑や豊かな森、丘のある自然のなかにあるのを見て、

ほっと気を休め、親近感を覚えていたようだったという。

 

東京の下町では、寺院にも目を留めていた。眺めるだけでな

く、中に入って参拝もした。線香の香りに郷愁を感じているふう

に見えたそうだ。

 「彼らが日本の社会と日本人に対して、異文化ショックを感じて

いる様子はまったくなかったですね。それにはいくつかの理由があ

ると思います。たとえばそれは、自分が日本に来た目的や、自

分がすべきことがはっきりしていることが挙げられるでしょう。そ

れに、自分が生まれ育った国の文化や習慣が日本と酷似している

ものがあり、日本を理解しやすいということがあったかもしれませ

ん」

 

受け入れる側の日本でも、滞在者の文化や生活習慣のちがい

を理解しておくのが大切だと、手林さんは指摘する。

 「たとえば、日本側が彼らに対して実行可能な課題を示して

サポートしたり、滞在中に活用できる有益なリソースを与えて自

主的な行動を促進したりする必要性もさることながら、生活面

でのサポートも重要です。彼らは往々にして、好奇心が旺盛なの

で、異文化と触れ合う体験を好み、楽しむ傾向がある。少しく

らいなら我慢もできる。日本にいるときは、自分がリラックスす

る時間や場所などをつくることに長けているし、適当に他罰的。

つまり、許せる範囲で文句も言えるので、かえってそれが、ストレ

スが溜まりづらくていいのかもしれません」

 

異文化交流のあるべき姿を考えたとき、生活習慣のちがいを

理解することがもっとも大切なのではないか

――人と人とのつながりは、講習のカリキ

ュラムではなく、日常生活のなかで顕著にな

ることを、手林さんは教えてくれている。

生活習慣に目を向けて

互いに認め合う関係づくりへ

手林佳正さん

てばやし よしまさ人間行動学(心理学)博士。日本心理学会認定心理士。多文化間精神医学会認定・多文化間精神保健専門アドバイザー。日本の病院精神医療や地域精神保健に20数年関わった後、平成8年より12年間、カンボジア、ウガンダ、ブラジル、ドミニカ共和国、ネパールなどの開発途上国の精神保健分野の開発協力事業でJICAとNGOの立場で駐在。今年2月、「西八王子カウンセリングルーム」を開業予定。幅広い心理相談に従事。

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途上国を知る

日本を知る

カンボジア・シェムリアップのアンコールワット

ポルポト時代の共同炊事場跡で断酒会を行う人々(カンボジア)

家族心理療法の技術移転のひとコマ(ドミニカ共和国)

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知をつなぐ。世界をつなぐ。未来をつなぐ。

JICEには、多彩な専門分野をもつスタッフが、人と人をつなぐ架け橋として活躍しています。個性豊かな横顔を紹介していきます。

洞爺湖サミットの通訳では稀有な醍醐味を味わった

 幼稚園で英語を「遊びながら習っていたら好きになった」という木本彰子さん。中学時代、その木本さんに幸運が舞い込んだ。父親の転勤でアメリカに渡ることになったのだ。足掛け3年、英語に磨きをかけて帰国した木本さんは、「将来は英語を活かせる職業に」と願うようになっていった。 その願いは後に叶った。大学を卒業して通訳・翻訳の仕事についたが、2年ほどして結婚し、3人の子どもを授かった。子どもが小さい間は家でできる翻訳の仕事をしていたが、今度は夫のイギリスへの転勤が待ち受けていた。帰国したのは昭和63年のことだ。 「帰国して間もない頃、新聞をめくっていると、『あなたも国際協力の担い手に!』というJICEのキャッチコピーが目に飛び込み、すぐに応募しました。非常勤の研修監理員として採用されて、かれこれ20年になります」 そんな木本さんに昨年7月、白羽の矢が立った。洞爺湖サミットの期間中、ファーストレディたち向けにつくられた「配偶者プログラム」で通訳を務めるという大役だった。 「奥様方のために特別につくられたプログラムで、特設のファーマーズマ

ーケットで北海道の物産を見たり、レセプションや記念植樹の式典で通訳を務めたりしました。奥様方の素顔を間近で拝見できたのは幸運でした。みなさん、チャーミングで堂 と々していらして、オーラのようなものを感じましたね」 今回の洞爺湖サミットでの通訳は、JICEから

ボランティアでの協力を申し出たものだったが、これほど大がかりな催し物での通訳はめったに担当できるものではない。木本さんは洞爺湖サミットで通訳を務めることが決まってから、JICEの「すばらしいアイデアに感謝」しつつ、サミットに関わっているNGOの通訳も積極的にボランティアで引き受けた。そうすることで「サミットを多面的にとらえることができる」と考えたからだ。 「JICEでの仕事は、いろんな分野の人と接することができるのが醍醐味ですが、今回は格別。参加したスタッフにはいい刺激になり、ものすごく勉強になりました。もっと多くの研修監理員がこのような行事に関われると良いと思いました」

研修監理員

木本彰子さん

経済産業省「サウジアラビアジュニアインストラクター研修」の実施

広報紙『����』に対するご意見、ご感想、ご質問、今後取り上げてほしいテーマや人物などを、下記アドレスへメールでお寄せください。広報紙『����』編集事務局 ������:��������� ������������皆さまの声をお聞かせください

私たち����は、個人情報保護法を遵守し、徹底した個人情報の管理をいたします。

平成21年1月20日発行 ●発行所:財団法人日本国際協力センター(ジャイス)〒160-0023 東京都新宿区西新宿六丁目10番1号日土地西新宿ビル20・21階 TEL.03-5322-2500 FAX.03-5322-2520 http://sv2.jice.org

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 JICEは2008年11月から09年3月まで、サウジアラビア・日本自動車技術高等研修所(SJAHI)の研修生2人を受け入れ、研修を実施しています。SJAHIは技術者・労働者の育成に力を入れる同国政府の要請を受けて日本が設立した研修所です。日本は01年9月から専門家派遣や機材供与、研修生の受け入れを行ってきましたが、06年からのフェーズⅡにはSJAHIの本邦研修が含まれていないため、経済産業省の補助金事業として自動車工業会やメーカー各社と協力しています。 研修は、ホンダ、トヨタ、三菱、日産など計10社の日本の自動車関連メーカーで行われ、研修生は最新の自動車整備技術とその教授法を学びます。また、日本語や日本について知るための講義も取り入れています。 研修生2人は、帰国後、インストラクターとして、研修で習得した技術・知識をSJAHIの学生に教える予定です。これによって最新の自動車整備技術がサウジアラビアに普及し、自動車産業の質の向上に寄与することが期待されています。また、研修生を通してSJAHI学生の日本と日本人に対する理解を深め、両国のより深い友好関係を目指しています。

SAARC理工系人材育成招聘について

 2008年11月、JICEは07年度から実施中の「21世紀東アジア青少年大交流計画(JENESYS)」の一環として、南アジア地域協力連合(SAARC)加盟国の理工系の大学生、大学院生らを招聘し、大学、企業などで研修、施設見学、大学交流プログラムなどを実施しました。

 目的は、SAARC加盟国の理工系の学生(大学院生が中心)が日本の最先端技術に触れ、日本の大学院生や企業関係者と交流し、将来の両国の姿についての具体的なイメージを創生、共有できるよう支援することです。さらに、研究者・学生ネットワークを構築することで、今後の人的交流、共同研究などの実現可能性を高めることを目指しています。 08年度は、インドから16人、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ネパール各4人の計32人を招聘しました。研修では主に、電子産業、ナノテクノロジー、製造業、省エネ、防災などの分野に精通した大学や企業などを訪問し、講義、施設見学、ディスカッションを行います。 また企業視察では、企業倫理、CSR(企業の社会的責任)などの説明を聞き、企業の方針・役割を学ぶ機会も設けました。

役員・評議員の異動 〔平成20年10月2日~12月31日〕〔12月15日付〕 辞任 評議員  角﨑 利夫〔12月16日付〕 就任 評議員  伊藤 誠

no.64 2009 January

ファーストレディになるとそれなりの雰囲気があることに感心させられました