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法学研究 中華人民共和国 目次 はじめに 代表的な安楽死事件 (5) (4) (3) (2) (1) 事件の概要 公訴理由 弁護側の主張 判決 事件の反響 安楽死に関する見解 ω 安楽死に否定的な見解 安楽死に肯定的な見解 安楽死立法の構想 ω 対象者 手続 濫用に対する措置 おわりに はじめに 「安楽死」という言葉は、多義的に用いられるようであるが、一般的 には、死期が切迫している病者の耐えがたい苦痛を緩和・除去して、安 楽な死をもたらすことを意味している。これは、人間の「死」をめぐる 問題であるため、医学上の問題、法律上の問題のみならず、様々な問題 を社会に提起する。安楽死を容認するか否か、また、容認するとしても どのような条件の下で容認すべきかということに関しては、各方面にお いて活発な議論がなされている。医療の現場において、安楽死の必要性 が求められており、積極的ではないにしろ、水面下で非合法に行われて 一215一

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法学研究論集第4号96・2

中華人民共和国における安楽死

目次一

 はじめに

二 代表的な安楽死事件

(5) (4) (3) (2) (1)

事件の概要

公訴理由

弁護側の主張

判決

事件の反響

三 安楽死に関する見解

 ω 安楽死に否定的な見解

 ② 安楽死に肯定的な見解

四 安楽死立法の構想

 ω 対象者

 ② 手続

 ③ 濫用に対する措置

五 おわりに

一 はじめに

 「安楽死」という言葉は、多義的に用いられるようであるが、一般的

には、死期が切迫している病者の耐えがたい苦痛を緩和・除去して、安

楽な死をもたらすことを意味している。これは、人間の「死」をめぐる

問題であるため、医学上の問題、法律上の問題のみならず、様々な問題

を社会に提起する。安楽死を容認するか否か、また、容認するとしても

どのような条件の下で容認すべきかということに関しては、各方面にお

いて活発な議論がなされている。医療の現場において、安楽死の必要性

が求められており、積極的ではないにしろ、水面下で非合法に行われて

一215一

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いるのは事実であろう。それに対して、法的にいかなる措置を講じるか

ということは、刑事政策的な問題である。「安楽死法」なる法を制定し、

                り

立法的な解決を図った例もみられる。

 わが国においても、一九九五年三月二八日に判決が下されたいわゆる

         ハ り

「東海大学安楽死事件」を含め、今日までにいくつかの安楽死事件が発

生しているが、いずれも嘱託殺人罪または殺人罪で有罪判決が下されて

おり、安楽死が容認された事例は存在しない。高齢化社会が進むわが国

において、末期医療の問題とも関連して、安楽死に関する問題は非常に

重要である。

 中華人民共和国の法学界において、安楽死に関して研究がなされるよ

うになったのは、比較的最近のことである。当初、安楽死に対しては、

                              ハ り

否定的な見解が有力であった。安楽死は故意殺人罪(刑法第=二二条)

を構成するが、社会的な危害が大きくないことを考慮して、処罰にあた

っては軽刑に処しうると解されており、多くの刑法に関する著述におい

ても、刑法各則の故意殺人罪の項の中で、安楽死の定義、日本の判例で

              ハるね

示された安楽死が容認される要件などに簡単に触れる程度であった。と

                              ハ ソ

ころが、一九入七年に、一九入六年六月に陳西省で発生した事件の報道

が全国的になされたのをきっかけに、法学界、医学界、哲学界および社

                              

会の各方面において、安楽死に関する研究がなされるようになり、厳格

な条件の下で安楽死を容認する見解もみられるようになった。一般世論

をみても、衛生関係の全国紙「健康報」が一九入入年四月に、安楽死問

題を取り上げたが、同紙には、医療従事者、党・政府幹部、労働者、農

民、軍人、教師、学生など社会各層から五百通の投書が寄せられ、その

九〇パーセントが安楽死に賛成であり、反対する者は強硬な主張をして

                 け

はいるものの少数派であったという。「人道主義にかなったもの」で、

「苦しむ患者を死ぬ前に救済する最善の選択」であるというのが賛成の

理由であり、「多くの読者はこの措置によって家族や社会にもたらされ

る経済的な節約を称賛している」と報じられている。さらに、一九九五

年三月に開催された全国人民代表大会第八期第三回会議においては、北

京市、湖南省および福建省の医師や農民など三〇人以上の人民代表貝か

                            ハおり

ら、安楽死の法制化を求める請願書が昨年に続いて提出されている。

 なお、中華人民共和国において、死亡に関する統一的な法は存在しな

いが、一九入七年六月に国務院が公布した「医療事故処理法」によると、

死亡の認定は心肺機能の停止によって行われている。しかし、わが国と

同様に、植物人間の問題、臓器移植問題などと関連して、脳死をもって

                     り

人の死とする主張もなされるようになってきた。臓器移植に関しては、

死刑囚からの臓器移植が行われているようであるが、この場合も、心肺

機能の停止が死亡の認定基準になっているため、移植に用いる死刑囚の

               (10)

臓器に心臓は含まれていないという。死亡の基本概念、脳死も含めた死

亡の認定基準、死亡の認定および宣告手続、死亡認定における違法行為

                             ハけ 

などを包括的に規定した「死亡統一法」の必要性も論じられている。

 本稿においては、中華人民共和国における代表的な安楽死事件、並び

に、最近の安楽死をめぐる議論を紹介し、法的観点から検討することに

する。

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(1)例えば、オランダにおいては、医師による安楽死を条件付きで容認す

  る「安楽死法」が、遣体処理法の一部改正という形で提出され、一九九

  三年二月に下院、同年一一月に上院を通過して成立した。

(2)判例時報一五三〇号二入頁(一九九五年)。

(3)刑法第=二二条は、「故意に人を殺した者は、死刑、無期懲役または

  十年以上の有期懲役に処する。情状の比較的軽い者は、三年以上十年以

  下の有期懲役に処する」と規定している(平野龍一・浅井敦編「中国の

  刑法と刑事訴訟法」東大出版会、一九入二年。以下、刑法および刑事訴

  訟法の条文は同書による)。自殺関与罪および同意殺人罪に相当する規

 定は存在せず、自殺を帯助および教唆した場合や、同意および嘱託によ

  る殺人の場合も、第=二二条の故意殺人罪が適用されるが、刑罰は軽減

  される。

(4)名古屋高判昭和三七年=一月二二日(高刑集一五巻九号六七四頁)の

  六要件。

(5)例えば、「”安楽死”与殺人罪」民主与法制一九入七年第入期三七ー三

 八頁など。

(6)本稿に引用したもののほか、社会科学の立場からのものとして、楚東

 平「安楽死」(上海文化出版社、一九入八年)、石宏広「”安楽死”問題

 的法律思考」当代法学一九九二年第四期五〇、五一、五九頁、楊福迅・

 孫万香「中国建立安楽死法律」青年思想家一九九二年第二期二三ー二五

 頁、李堅強「対我国安楽死法律分類構想」健康報一九九三年第五期一六

 頁などがある。

(7)朝日新聞一九入入年八月二二日。

(8)朝日新聞一九九五年三月一五日。

(9)例えば、林准主編『中国刑法教程」四二九ー四三〇頁(人民法院出版

 社、一九入九年)。

(10)承嬰「大陸死囚被割取器官真相」九十年代月刊一九九三年三月二四ー

 二五頁。

(11)ー5建妹「死亡立法研究」南京大学学報・哲学・人文・社会科学版一九

 九四年第二期=二六ー}四二頁。

二(1)

            

代表的な安楽死事件

変腹水と診断され、

成は、

科に入院させたところ、

は、潰

瘍並びに褥瘡11-m度と診断した。

くぷん緩和されたが、

昏睡状態に陥った。

雷院長に母親の治療効果について意見を求めたところ、

かっている」

る見込みがないならば、

とることができるか」

び医の倫理から、

る」っ

た。

た。 

同日午前九時頃、王明成およびその妹の王暁玲は、蒲医師に母親に安

楽死を行うように求めた。蒲医師は、最初は堅く断っていたが、王兄妹

の頼みを断りきれず、「安楽死は家族が切望し、一切の責任は家族にあ

る」と一筆書かせた後、退院させて医師が関係ない立場になった後で安

事件の概要

}九入四年一〇月、陳西省漢中市の夏素文(五九歳・女性)は、肝硬

        一九入六年六月に病状が悪化した。その長男の王明

 母親の看病のために漢中市に帰り、母親を市内の伝染病医院肝炎

          蒲連升医師(当該医院の主治医・肝炎科主任)

①肝硬変腹水(低蛋白血症)、②肝性脳病(肝腎総合症)、③滲出性

                一般的な治療によって、症状はい

         六月二七日の夜に症状が悪化し、二入日早朝には

        同日午前入時に医師が病室を回診した際、王明成は、

                         「すでに死にか

     という答えであった。それを聞いた王明成は、「母に助か

          苦痛を取り除き、早く息をひきとらせる措置を

         と尋ねたが、雷院長の答えは、社会主義制度およ

       「命のある限り治療を続けるのが革命的人道主義であ

として、そのような措置を許可することはできないというものであ

 王明成は、再度母親に対する安楽死を求めたが、雷院長は拒否し

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楽死を行うということにして、夏素文の退院の手続をとり(実際は退院

しない)、さらに、百ミリグラムの睡眠作用のある薬剤「冬眠霊」の処

方箋を作成し、それに家族の安楽死の要求を明白に注記した。王明成は、

その処方箋に「息子、王明成、六月二入日九時四〇分」と記入した。処

方箋が看護事務室に送られると、看護長は「注射してはならない」と看

護人に指示する一方、処方箋を医師事務室に送り返し、処方箋の執行を

拒否した。そこで、蒲医師は、省の衛生学校の実習生に夏素文に処方箋

を執行するように指示をした。初めは妥当ではないとしていた実習生で

あるが、蒲医師の叱責を受けて、致し方なく本意に逆らって夏素文に注

射をした(実際には七五ミリグラム注入)。蒲医師は、引き継ぎの李医

師に、夏素文が一二時にまだ息をひきとっていないならば、もう一本注

射を打つように指示し交代した。同日午後一時になっても、三時になっ

ても、母親がまだ死亡しないのを見て、王兄妹は相前後して医師事務室

を訪れ、李医師を捜し、「蒲医師は、少なくとも=一時には息をひきと

るとおっしゃいましたが、あの様子はどうなのですか」と尋ねたところ、

李医師は病室に来て、百ミリグラムの「冬眠霊」の処方箋を作成し、看

護人の趙に注射を打たせた。二九日午前五時頃、夏素文は病室で死亡し

た。死因は、肝硬変および睡眠薬使用による肝機能の悪化と診断された。

 夏素文の死後、家族間で遺産をめぐるいざこざが生じ、長女らが長男

らを殺人罪で告訴したため、事件が発覚することとなった。一九八六年

九月、蒲医師および王明成は、夏素文を死亡させたかどで、漢中市公安

局により拘留され取り調べを受け、同年一二月釈放された。一九入七年

八月一七日、蒲医師は再び拘留され取り調べを受け、同年九月、蒲医師

および王明成の両名は、故意殺人罪で逮捕された。一九八八年九月二三

日、両名は、審問を待つ間保釈された。一九八九年二月八日、漢中市人

民検察院は、二被告人について、故意殺人罪で漢中市人民法院に起訴し

た。②

 公訴理由

 「起訴書」は以下の通りである。被告人蒲連升(四六歳・男性)は、

漢中市伝染病医院の主治医、肝炎科主任であったが、医療準則に違反し

て、慎重に使用すべき薬物を濫用し、実習生に注射を強制し、当直の医

師にも継続して薬物を使用するように指示した。被告人王明成(三六

歳・男性)は、病院側の指導にも、止めさせようとの忠告にも耳を貸さ

ず、中華人民共和国の法律に違反する「安楽死」を、母親に対して実施

するように要求し続けた。その行為は、刑法第=二二条の規定する故意

殺人罪を構成する。

.公訴人である検察要貝は、法廷において、本件の事実および法律に基

づき、以下のことを指摘した。第一に、被告人は、病者の死亡を促進し

たことについて、相当に明確な「主観的故意」をそなえていること、第

二に、被告人が実施した行為は、病者の死亡を促進するという目的を積

極的に追求したものであること、第三に、被告人は、その非合法な行為

が、明らかに違法であることを知っていながら、看護人などが止めさせ

ようと忠告するのも聞かずに頑に実施したということである。それゆえ

に、両被告人の行為は、刑法第=二二条の故意殺人罪を構成する。公民

の人身の権利は、法律が規定するように、最も重要で、最も基本的な権

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利であり、刑法の重要な任務の一つは、公民の人身の権利が不法な侵害

                   

を受けないように保護することである。中華人民共和国の公民は命のあ

るかぎり、その人身の権利の法的保護を当然に受けるのである。両被告

人が、夏素文の生命権を不法に剥奪した行為は、重大な社会危害性を有

しており、さらに、中華人民共和国の法律の公然たる蔑視および躁踊に

あたる。被害者は、母親であり、老齢の身であり、重病を患っていると

いうのに、息子、娘および医師によって、このような措置を施されたと

いうことは、社会的に非常に悪い影響を与えた。仮に、このような故意

をもって不法に他人の生命権を剥奪する行為に対して、法に基づいて制

裁を加えないとするならば、思想の混乱を人々にもたらすのみならず、

犯罪分子は「安楽死」の手段をもって、老人・虚弱者・病者・身体障害

者を虐殺し、人命を軽視するようになり、人民の生命の安全を保障する

ことは困難になるであろう。「安楽死」の合法化は、国家関係部門によ

る調査.研究に基づいて、法律を制定し、厳格に規制する手続を確立し

なくてはならない。司法機関は、常に「法に従うべきであり、法に従わ

なくてはならず、厳格に法を執行しなければならず、違法を追及しなく

てはならない」のである。今日の中華人民共和国においては、何人を問

わず、他人に対して「安楽死」を行うことは、すべて違法であり、すべ

て法的な追及を受けなくてはならない。

 なお、医師の公訴にあたって、検察院内部では議論が三つに分かれた。

医師が睡眠薬を使用した目的は、病者の苦痛を緩和させるためであり、

道義的責任はあっても犯罪にはならないというもの、医師が生命を救う

                           ハヨソ

という職務を怠り、恣意的に睡眠薬を使用したのは、過失殺人罪に相当

するというもの、そして、故意殺人罪に該当するというものであったが、

最終的には故意殺人罪とする見解が多数を占めたという。

③ 弁護側の主張

 弁護人は、法廷での弁護において、本件の事実および法医の鑑定に基

づいて意見を提出し、被害者の夏素文が死亡した真の原因は、彼女が患

っていた不治の病によるものであるとした。すなわち、肝硬化の末期で

肝細胞がひどく衰弱し、ついには不可逆的肝性脳病を併発したというの

である。本病に対して、「冬眠霊」は慎重に使用されており、本件で用

いた薬物の量は、「中華人民共和国薬典」に規定されている一日当たり

に用いる最高量と同量であって、これは非常に安全な係数であり、病者

を中毒あるいは死亡にいたらすには、実質的に不足しているのである。

事実、薬物を用いた後も、何ら睡眠薬中毒に類似した症状はみられなか

った。それゆえ、「冬眠霊」と夏素文の死亡の間には、因果関係は存在

しないといえる。

 いわゆる「安楽死」は、中華人民共和国の法律に違反する根拠がなく、

「安楽死」は無罪である。犯罪は、社会危害性、刑事違法性および懲罰

                     ハるり

相当性の三つの要件を具備していなくてはならない。その行為の社会危

害性は、犯罪の最も本質的な特徴であり、犯罪と非犯罪を区別する重要

な指標である。「安楽死」は、現行法においては、まだ認められていな

いとはいえ、明文で禁止されているわけでもない。この種の行為は、社

会危害性を有しておらず、社会にとって有利でさえもある。犯罪は、主

観的および客観的な構成要件を同時に具備しなくてはならず、いずれか

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が欠ければ犯罪を構成しない。殺人罪を構成するには、主観的構成要件

である殺人の故意を具備しなくてはならないが、両被告人の主観的な動

機は、病者の苦痛を軽減することだけである。「安楽死」は特異の概念

である。その者の病気が不治の病であり、甚だしい苦痛に耐えかねてお

り、本人の意思に反しないという三つの条件を充足してはじめて実行で

きるのである。それゆえ、「安楽死」は、病者の必死の運命を変えるも

のではなく、ただ耐え忍ぷ術もない甚だしい苦痛を受け続ける運命を変

えるだけである。ゆえに、それは、一種の仁慈な行為であり、特定の状

況下においては、病者の利益を最大に体現するものである。「安楽死」

と刑法上の嘱託殺人とは、その概念、理論、根拠、実施対象、主観的意

思、実行順序および結果などの各点において異なる。「安楽死」と殺人

罪を混同して一緒に論ずることはできないのである。

ω 判決

 三日間の審理を経て、裁判長は以下の通り示した。「双方が提出した

いくつかの主張には十分な注意が必要であり、本合議廷は、法廷におい

てすでに明確にされた事実および証拠を、本件に関連するわが国の関係

法律に照らし適宜検討する。本件は新類型であり、影響の大きい事件で

                       ハ  

あることにかんがみて、我々は、刑事訴訟法第一〇七条および人民法院

         

組織法第一一条の規定に基づき、本院裁判委員会の研究および討議に付

し、そこで決定が下された後に、再び期日を定めて判決を言い渡すこと

とする。」

 一九九一年五月一七日、第一審判決が出された。被害者の夏素文の主

要な死因は肝性脳症であり、「冬眠霊」は病者の昏睡の度を深め、死亡

を促進したが、死亡の直接原因ではないと認定したうえで、被告人の行

為は、被害者の夏素文の生きる権利を奪う故意の行為にあたるが、情状

が軽く、犯罪を構成しないとして、無罪を言い渡した。人民検察院は抗

ハ ソ        け

訴を提起したが、原判は維持された。

㈲事件の反響

 本件が犯罪であるかあるいは犯罪でないかについて、傍聴者の間では

諸説紛々であった。起訴された医師に対して同情を寄せる者もいたが、

大部分の者は、法廷での最終判決を今か今かと待ち受けているという状

況であった。開廷時から、「民主与法制」、「健康報」、「陵西日報」、「中

国社会医学」、中央人民テレビ局、陳西人民テレビ局などの一四の報道

機関から二〇余名の記者が漢中市を訪れ、取材活動を行っていた。

 「民主与法制」編集部主任・沈嘉立の主張は以下の通りである。社会

の実践に基づいて、病者が不治の病を患い、ただ苦痛だけが残されてい

るというときに、「安楽死」を行うことは人道的であり、それによって

社会および家庭の負担を取り除くことができるのである。人間は、豊か

に生きることを提唱するのと同様に、自己の死ぬ方法を選択する権利も

有しており、豊かに死ぬことも豊かに生きることの一側面である。例え

ぜ、植物人間は、現代科学によって人工的に生かされているのであり、

自然に生きているのではない。植物人間に対しては、「安楽死」を行う

ことができないといわれている。健康に生きることができない人間に、

限りある衛生資源を浪費してはならない。中華人民共和国においては、

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特定の病気の末期症状の病者の治癒率には非常に差があり、「安楽死」

を行うことは、中華人民共和国の限りある衛生資源を合理的に利用する

点で、大きな意義があるのである。

 中央人民テレビ局の記者・任暁東の主張は以下の通りである。中華人

民共和国が「安楽死」を強力に唱導し、法律の制定を積極的に推進する

ことについては、どちらかといえば賛成である。「安楽死」問題は人類

社会の自己に対する一種の挑戦であると思うので、人類社会は自己の生

を直視できなくてはならないし、自己の死も直視しなくてはならないの

である。中華人民共和国は、五千年の文明および伝統を有する国家であ

るが、例えば「立派に死ぬよりは惨めでも生きていた方がよい」という

ような、封建的で価値のない観念を非常に多く有している。このような

思想.観念が存在することは、中華人民共和国の人民にとってあまり利

があるとはいえない。積極的に「安楽死」の唱導を推進することは、こ

のような状況において一つの重要な局面を変えることになる。

(1)主として、朝日新聞一九八七年八月二三日、一九九一年五月二〇日、

  首招勤「我国首例”安楽死”案庭審紀実」法律科学一九九〇年第三期七

  九~八一頁による。

(2)刑法第=一=条は、「公民の人身の権利、民主的権利およびその他の

  権利が、いかなる者、いかなる機関からも不法な侵害を受けないように

  これを保護する。」としている。人身の権利とは、他人の人身および人

  身に直接関係する権利であり、例えば、生命権、健康権、人身自由権、

  名誉権などである。

(3)刑法第=二一二条は、過失殺人罪について「過失により人を殺した者は、

  五年以下の有期懲役に処する。情状の特に悪質な者は、五年以上の有期

  懲役に処する。本法に別の規定がある場合は、その規定による」と定め

 ている。わが国の過失致死罪に相当するものである。

(4)刑法第一〇条に犯罪の概念についての規定がある。この規定に基づき、

 社会危害性、刑事違法性、懲罰相当性の三つが犯罪の成立要件とされて

 いる。社会危害性とは、社会への危害性を有した行為であるかどうかと

 いうことで、最も基本的な要件である。刑事違法性とは、刑法に違反す

 る行為であるかどうかということである。行為の社会危害性は、法律上

 は違法性としてあらわれるが、刑法に違反する行為は、民法や行政法な

 どの刑法以外の他の法律に違反する行為に比べて、社会危害性が大きく、

 その性質もより悪質であるため、犯罪と認められるのである。懲罰相当

 性とは、刑罰を受けるに値する行為かどうかということであるのである。

 犯罪は刑罰を適用する前提であり、刑罰は犯罪の法律効果である。刑罰

 を受けなくてはならないような、社会に危害を与える行為のみが犯罪と

 認められる。社会に危害を与えていない、または、危害を与えていても

 それが小さく、刑法に違反する程度に至っておらず、刑罰を受けるほど

 のものでない場合は、犯罪とは認められないのである。なお、この行為

 には、作為も不作為も含まれる。

(5)刑事訴訟法第一〇七条は、「院長は、重大な事件または疑義のある事

 件について必要があると認めたときは、裁判委貝会の討議に付してこれ

 を決定する。合議廷は、裁判委員会の決定を執行しなければならない」

 と規定する。

(6)人民法院組織法第一一条は、「各級人民法院は裁判委員会を設け、民

 主集中制を実行する。裁判委員会の任務は、裁判の経験を総括し、重大

 な事件または疑義のある事件およびその他の裁判活動に関する問題を討

 議することである。

  地方各級人民法院裁判委員会の委貝は、院長の申請により同級の人民

 代表大会常務委員会が任免する。最高人民法院裁判委員会の委員は、最

 高人民法院院長の申請により全国人民代表大会常務委員会が任免する。

  各級人民法院裁判委員会の会議は院長が主宰し、同級の人民検察院検

 察長はこれに列席することができる」と規定する。

(7)抗訴とは、刑事訴訟法第=二〇、=一=、一三三条に規定があり、わ

 が国の検察官上訴にあたる。

(8)肖国鵬「”安楽死”錫議」民主与法制一九九五年第一期三〇頁。

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三 安楽死に関する見解

㈲ 安楽死に否定的な見解

 中華人民共和国の刑法学界においては、安楽死に否定的な見解が多数

を占めており、司法の実践においても、それに従って、ほとんどすべて

の安楽死事件に対して、故意殺人罪の有罪の判決が下されている。安楽

          ハユリ

死に否定的な見解の根拠として、主に次の五点が挙げられている。

 なお、現行刑法には、安楽死は犯罪であると規定されておらず、安楽

死が犯罪を構成しないからこそ、安楽死は明文で禁止されていないとす

る見解もある。確かに、中華人民共和国刑法には、諸外国にみられるよ

うな自殺関与罪および同意殺人罪に相当する規定は存在しないが、しか

し、これは、安楽死という手段による故意殺人を殺人行為に含めないこ

とを意味しているのではない。法に基づかずに故意に人間の生命を奪う

行為はすべて殺人行為である。法に基づいて故意に人の生命を剥奪する

行為の主なものとして、死刑の執行、正当防衛による殺人が刑法に定め

られているが、これらを除いて、いかなる方式、手段にかかわらず、ま

た、被害対象にいかなる具体的事情があったか、いかなる動機によるか

も問わず、主観的に殺人の故意を有しており、客観的に殺人行為が行わ

れさえすれば、故意殺人罪を構成するに足りるのである。現行の医療衛

生法規において、医療従事者が不治の病に冒されている病者に安楽死を

行うことができるとする規定は見当たらず、実行した者は当然に違法と

     ハ ね

なるのである。

 ①革命人道主義の原則に違反する

 革命人道主義は、人間の生命の保障を最も基本的な準則としており、

人間の生命が侵害を受けないという保障の下においてだけ、人間の平等、

自由、権利および各方面の十分な発展を論ずることができるとする。中

華人民共和国刑法は、革命人道主義の精神を体現しており、仮に、安楽

死を刑法上容認し、犯罪として処理しないとするならば、それは、人道

主義の基本準則に違反することになり、中華人民共和国刑法の立法精神

に符合しないのである。

 ②医療工作の基本方針に違反する

 安楽死を行うことを容認することは、中華人民共和国の医療工作の基

本方針に違反する。「死にかかっている者を救助し、負傷者を世話す

る」ということを実行するのが、革命的人道主義の求めるところであり、

すべての病者に対して、積極的に応急手当および治療をしなくてはなら

ないのである。病者がまだ死にいたっていないのならば、まだ命をとり

とめる希望がわずかでもあるならば、見放してはならない。ところが、

安楽死は、それとは反対に、まだ死亡していない人間を医療従事者が死

にいたらしめる措置であり、それは、中華人民共和国の医療工作の基本

的な方針に矛盾するだけでなく、社会主義的な医の倫理に反することに

なる。

 ③自己の生命を処置する権利を有しない

 人間には、自己の生命を処置する権利がない。公民は、公共の安全を

害する破棄方法でさえなければ、他人にその破棄を委託することも含め

て、自己の財産を自由に処理することができ、これは違法ではない。と

ころが、人間の生命は、個人の最も基本的な権利であり、分割したり譲

一222一

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渡したりすることはできない。また、身体も髪も皮膚も両親から与えら

れたもので、勝手に処分することはできないという伝統的な考え方もあ

る。人間の生命は、社会的利益および国家的利益と密接に関係しており、

個人に自己の生命を意のままに処理することを許すことは、国家および

社会の利益に損害をもたらすことになる。それゆえに、基本的人権の擁

護および国家ならびに社会の利益の保護という見地から、安楽死の合法

化を提唱してはならないのである。

 ④医学の発展により不治の病は相対化する

 一般的に、安楽死を受ける人間はすべて、不治の病に冒され、治療の

見込みのない病者である。しかし、医学の発展という視点からみると、

不治の病に冒され、治療の見込みのないというのは相対的なものである。

過去において、肺結核は不治の病で、何ら救うてだてがないと認識され

ていたが、医学の発展につれて、肺結核は不治の病ではなくなった。そ

れでは、何を「不治の病」というのであろうか。これは、一つの科学的

な医学基準では示しがたい。また、マルクス主義の認識論の原理からい

うと、人類は、いかなる疾病の面前でも、何か行為をしなくてはならな

いのである。医療従事者の不断の努力によって、治療困難な病症が治療

される経験は日増しに増加し、しだいに一つまた一つと医学の難関は克

服され、不治の病は治療可能な病へと変わってきているのである。安楽

死の実行を認めるならば、医療従事者は「疾病に対する闘争」の精神を

喪失し、それによって新たな不治の病が出現することとなる。このまま

では、我々の医学の発展にとって不利であると同時に、責任感の強くな

い医療従事者は、自己の責任を放棄しやすくなるであろう。また、医療

は、難病との闘いの中でのみ発展するものであり、安楽死はそれを阻害

してしまうのである。

 ⑤病者の家族または医療従事者による濫用のおそれ

 安楽死の実行を認めると、病者の家族または医療従事者は、私利を図

ろうと濫用するおそれがある。病者の家族は、病者の遺産を得ようとし

て、または病者を負担であると感じて遺棄しようとして、そのような行

為に出る可能性がある。医療従事者のなかにも、病者の家族から賄賂を

受け取って、あるいはその他好ましくない動機および目的で、病者に対

して積極的安楽死を行う者もありうる。それゆえ、安楽死は、一連の好

ましくない結果を招くことになるので、法律上容認すべきではないので

ある。

           ハ り

② 安楽死に肯定的な見解

 安楽死は犯罪を構成するとして一律に処理することの妥当性に、疑念

を抱く見解もある。安楽死に否定的な見解の根拠に合理性を認めながら

も、病者が不治の病を患って、死期が切迫しており、耐えがたい苦痛に

悩まされているという状況で、医療従事者が同情心から安楽死を実行し

たというような場合に、これを犯罪として一律に処理することは、常識

的にいっても、そして法理からいっても、道理にあわないというのであ

る。そこで、厳格な要件を設け、一定の範囲内で安楽死を容認しようと

する。

 安楽死に肯定的な見解からは、以下の五点について主張されている。

 ①}定範囲の安楽死は革命人道主義精神の体現である

一223一

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 人間の生命を尊重することは、人道主義の基本準則であることはもち

ろんであるが、これは一般状況においてだけいえることである。病者が

不治の病を患って、死期が切迫しており、耐えがたい苦痛に悩まされて

いるという状況にあって、人間の生命が第一であるということだけを強

調し、入方手を尽くして病者の生命を延ばすことは、病者の苦痛を延長

させる以外に、何をもたらすというのだろうか。このような状況の下で

は、結局のところ、安楽死は人道主義に符合することになるのではない

だろうか。病魔が猛威をふるい、徐々に肉体をさいなんでいると認めら

れるのに、病者の生命に執着することが人道主義に符合するというので

あろうか。人道主義から、生命が保護されなくてはならないのはもちろ

んであるが、個人が瀕死の状態にあり、かつまた治療をすることもでき

ず、その生命の保護を失うことについて、何ら実際的な意義がない状況

においては、安楽死の要求の実現および尊厳の擁護が重要である。それ

ゆえ、その要求に基づいて安楽死を行い、その要求を実現するのみなら

ず、人格の尊厳を保持したまま死にいたらせるということは、人道主義

に符合しているといえるのである。

 ②自己の生命を処理する権利の有無は一概に論じられない

 一般的に、人間は社会的存在であり、その生死存亡は、社会的利益お

よび国家的利益と密接に関連しているといわれる。それゆえ、一般状況

において、人間は、自己の生命権を処分することはできない。例えば、

自殺は、社会に対して責任を負わない行為であり、容認することができ

ない、一種の誤った自己の処分方法である。しかし、特殊な条件の下で

は、人間は自己の生命を処分する権利を有するのではないだろうか。こ

の問題に関しては、社会的に承認された合法化事例を多く挙げることが

できる。例えば、自動車レース、ボクシング、激流下り、登山などのス

ポーツは、危険性が極めて高い競技であり、昔からそれらのスポーツ中

に生命を失った選手の数は計り知れない。それらのスポーツ競技におい

ては、選手は、実際、生命権および健康権を差し出しており、競技によ

る傷害・死亡については他人の責任を追及しないという承諾ができてい

る。スポーツの場にいる選手が、自己の生命および健康を処分すること

ができるというのに、なぜ、不治の病に冒された病者には、自己の生命

を処分する権利が認められないのだろうか。スポ:ツ競技中の選手の自

己の生命および健康についての承諾は、人間が、自己の生命および健康

を自由に処分してはならないという原則の例外的なものであるとする見

解もある。安楽死も、一種の例外状況とみることはできないのだろうか。

病者が不治の病を患い、苦痛に耐え忍ぷ状態において、自己の生命に対

する処分を認めることは、個人の権利の尊重の体現であり、また、社会

的利益および国家的利益に害を与えることにもならないのである。

 また、安楽死は、もはや生と死の選定ではなく、死亡方法の選択の違

いにすぎないとする見解もある。人間は生きる権利を有すると共に、自

己の生命を支配する権利も有しており、病者が自己の死亡方法を選択す

                             ハる 

る権利を尊重することは、病者の生存権を尊重するのと同じである。

 ③社会危害性を有しない

 犯罪を構成するというためには、その基本要件である社会危害性が必

要であるが、厳格な要件で制限された安楽死は、いかなる社会危害性も

有せず、それどころか、客観的にみて社会にとって有利でもある。第一

一224一

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に、医療工作にとってみれば、不治の病に冒され、長く治療を受けても

治らず、死期が切迫した状態にある病者に対して安楽死を行うことで、

医療従事者は繁雑で無益な工作から逃れることができ、他の病者に精力

を注ぐことができるのである。とりわけ、目前の医療任務が繁雑で、病

者の看病が困難な状況では有意義である。第二に、安楽死は、悲痛から

早く立ち直り、通常の学習、工作および生産の中に身を投じることでき

                      ハ  

る点で、死者の家族および知人にとって有効である。同時に、家族は病

者の介護をする義務を有するので、まもなく死亡する無意味な生命のた

めに有意義な生命を消耗することになり、これは社会にとって不利であ

る。最後に、不治の病に冒されている病者に安楽死を行うことは、社会

の負担を軽減することにもなる。社会主義国家においては、国家は老

人.虚弱者.病者.身体障害者に対して、生活を保護するという義務を

担っているが、国家の人力、財力および物力には限りがある。=疋の条

件の下に安楽死を容認するならば、国家の限りある財力および社会の限

りある資源を、その他の老人・虚弱者・病者・身体障害者のために用い

ることができるのである。一定の条件の下での安楽死は、社会に危害を

加えることはなく、犯罪を構成する基本要件である社会危害性もないの

で、犯罪として処理する必要もないのである。

 さらに、安楽死の行為は、故意殺人罪の構成要件に該当しないという

    ハ  

見解もある。故意殺人罪の主観的要件は、他人の生命を不法に剥奪する

という故意を具備していることであるが、安楽死を行う者は、現代医学

の水準から病者が治療困難な病であると診断し、その病者に対して同情

し常助する形で、病者の求めに応じて、病者が死にいたる過程での極度

の苦痛を免除または軽減するために安楽死を行うのであって、殺人の故

意を有していない。犯罪の客体についていえば、前述の如く不治の病に

冒されている病者の請求に基づいて、安楽死を行ったのであり、その生

命権の侵害にならないだけでなく(それどころか、生命権に対する十分

な尊重および保護になり、故意殺人の犯罪の客体に該当しないのである。

客観的にみれば、故意殺人罪は不法に他人の生命を剥奪する行為である

が、安楽死は正常な医療行為の一つといえる。

 ④刑罰の目的は犯罪の予防である

 刑罰の目的は犯罪の予防である。仮に、一定の条件の下で安楽死を行

った医療従事者を処罰するとすれば、かえって犯罪を予防するという目

的からかけ離れることになる。第一に、特別予防の見地からいえば、医

療従事者が安楽死を行うのは、一般に、耐えがたい苦痛に悩む病者に対

する同情または憐欄の情からであり、主観的にみても悪意はなく、社会

北対して何ら危害を加えることはないといえる。これを処罰するならば、

そのもともと有していた善良の心を傷つけたり、さらに、極端な者は、

社会および国家に対して憎しみを持ったりするなど、消極的な作用が生

じてしまう。このような状況と、刑罰は特別予防の目的を達成しなくて

はならないという要求は相矛盾する。第二に、一般予防の見地からいえ

ば、刑罰の威嚇作用は、一般市民の信服に基づいて成り立っているので

ある。安楽死を行った医療従事者を処罰するならば、これを不服に思う

一般市民も多いであろうし、医療従事者の不満も招くであろう。このよ

うな状態で、刑罰の】般予防効果はどうして発揮できようか。 一定の条

件の下で安楽死を行った医療従事者に対して刑罰を科すことによって、

一225一

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犯罪を予防するという目的は達成できないのである。なぜならば、この

種の行為に関して、根本的に犯罪が成立することはありえないからであ

る。それゆえ、実際上、安楽死を行った医療従事者を処罰することは、

刑法的見地からは無益である。

 ⑤安楽死の濫用のおそれ

 安楽死を行うことによって生じうる、好ましくない結果をいかに取り

扱うかという問題がある。一般状況において、厳格な条件の制限に基づ

く安楽死を行う場合には、好ましくない結果が生じる可能性は少ない。

例えば、病者本人が要求した場合にのみ安楽死を容認するならば、病者

の家族が財産目当てに安楽死を行うという状況は生じえない。もちろん、

社会情勢の複雑性により、安楽死が好ましくない結果を招く可能性を完

全に否定することはできないし、また、安楽死を行う過程で手違いがお

こる可能性も完全に否定することはできない。ただ、これは、安楽死そ

れ自体から生じるともいうこともできないし、実行中における人為的な

手違いから意識的にまたは無意識に生じるということもできない。安楽

死の濫用を防止するために、安楽死を容認する諸条件は、厳格に法定す

べきである。

(1)王作富・王勇「関於安楽死是否構成犯罪問題的探討」法学研究一九八

  入年第六期七三~七四頁。

(2)林亜剛「関於安楽死的認識及立法思考」法律科学一九九〇年第四期二

  七ー二八頁。なお、この論文については、安楽死概念の認識について論

  理上の混乱がみられ、例示にも客観的事実と合致しない点がみられると

  の指摘がなされている(張賛寧「関於安楽死的幾個問題-与える林亜

  剛同志商権」法律科学一九九一年第二期入七~九一頁)。

(3)前掲注(1)七四~七五頁。

(4)肖国鵬「”安楽死”錫議」民主与法制一九九五年第一期三〇頁。

(5)末期医療に関する資料であるが、上海の某病院の一九八三年から一九

 八五年までの在院死亡患者の統計によると、この三年間に死亡した六四

 三名のうち、その家族が心肺などの蘇生措置を行わないように求めたの

 は一入二名であり、死亡患者総数の二入・三パーセントを占めるという

  (林発雄等「関於安楽死及其立法思考」中国社会医学一九八九年第六

 期)。

(6)前掲注(4)。

         ハ り

四 安楽死立法の構想

 安楽死を肯定する立場からは、安楽死の法制化が強く求められている。

安楽死の本質からいって、対象者は、不治の病を患い、死期が切迫した

者で、本人が安楽死を希望する場合に限られる。これは、安楽死を立法

化した法制において共通している要件である。その手続および濫用に対

する措置については、詳細にわたって法定しなければならないのは当然

であるが、現行法といかに調和させて制度化するのかが問題となろう。

また、医療の現場での声も反映させる必要があるであろう。中華人民共

和国の法学界で提示されている安楽死立法の構想を以下にまとめてみる。

ω 対象者

①不治の病による死期の切迫

 安楽死を行うことができるのは、不治の病に冒され、死期が切迫して

いる病者に限られる。不治の病というのは、その当時の医学水準に照ら

一226一

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して、何ら治療の見込みもない疾病をいう。もちろん、不治の病の基準

は、医学水準が絶え間なく向上することによって変化する。現代医学に

おいては、不治の病とされている疾病が、将来の医学の発展によって不

治の病ではなくなることもあろう。将来において、安楽死を行うかどう

かを決定するときには、過去の型通りの基準を用いてはならないのであ

る。不治の病は、その名を見てすぐわかるように、何ら治療の見込みの

ない疾病を意味するのであり、ある程度治療の可能性があるのならば、

それを不治の病とみなすことはできず、その病者に対して安楽死を行っ

てはならない。死期の切迫というのは、一定の医学水準から判断して、

その病者が患っている不治の病によってまもなく死亡するであろうとい

う場合で、安楽死を行う時間と、その病者が患っている疾病によって死

亡するであろうと判断される時間の間に、さほど差がみられないことを

いう。死期と隔たっている時間が具体的にどのくらいかということにつ

いては、なお医学界の研究に委ねなければならない。不治の病と診断さ

れた病者が、一般的な医学水準によると、まだ数年、場合によっては数

十年も生き長らえるという状況におかれている、すなわち、不治の病で

はあるが、まだ死期が切迫していないので、治療の可能性がまだ排除で

きないという場合には、安楽死を行うことはできないのである。

 ただ、医師が不治の病に冒されている病者であると診断し、いかなる

治療もあきらめた後に、奇跡的に病気が治り健康になったとか、何日ま

たは何ヵ月生きることができると診断された者が、数年または数十年も

生き延びた後に死亡したという例も少なくない。このような特殊な状況

をかんがみて、医療従事者は、病老の生命に対して、重大な責任を負う

という精神にのっとって、病者の病状を診断する必要があり、僅かでも

希望がある場合には、病者に対して積極的な治療を中止することはでき

ないし、安楽死を行うと主張することもできないのである。診断の正確

性を保障するために、病者に対して不治の病および死期の切迫を診断す

る専門委員会を設置し、誤った診断を最低限におさえるようにしなくて

はならないのである。

 ②耐えがたいほどの苦痛

 病者が極度の病苦にさいなまれ、それが耐えがたい程度でなくてはな

らない。この病苦は、肉体的苦痛のみに限られ、精神的苦痛は含まれな

い。精神的苦痛は、実際上、統一した基準で判断できないからである。

病者には、白屯が不治の病を患っていると知ったときに、非常に大きい

精神的な苦痛に耐え忍ぷことができる者もいれば、楽観的に死に臨むこ

とができ、何ら精神的苦痛を感じない者もいる。病者が精神的苦痛を受

けているか否かは、環境、親族および友人の態度などと密接な関係にあ

り、精神的苦痛の概念は、識別しにくく変化しやすいものである。特に、

一度精神的苦痛にさいなまれ始めた病者であっても、その外部環境に対

して調整を加えたり、あるいはその内心を慰めたりすることができるな

らば、その精神的苦痛を消し去ることも可能である。それゆえ、精神的

苦痛だけを理由に、安楽死を行うことは、適当ではないのである。肉体

的苦痛にも強弱がみられるが、病者の肉体的苦痛が耐えがたい程度にな

った場合にだけ、安楽死を行うことが容認されるのである。

                       ハ  

 それに対して、精神的苦痛も含むとする見解もある。肉体的苦痛も精

神的苦痛も、病者自身が感じるところのものである。精神的苦痛を含ま

一227一

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ないとしても、肉体的苦痛は病者自身の感じるところに基づいて確定す

るのであり、それゆえ変化しやすいものである。この変化は、精神的な

要素と切り離して考えることはできない。精神的苦痛と切り離して、ど

のような基準によって、肉体が耐えられない苦痛にさいなまれている程

度をはかるというのだろうかと批判している。

 ③安楽死の意思表示

 安楽死は、病者の真摯な願望および明確な意思表示に基づいて行われ

なくてはならない。病者の真摯な願望とは、病者が誠心誠意望んだこと

であり、その他の方面から強制または強迫されて、安楽死を求めたので

はないということである。この点は、非常に重要である。病者が、各方

面、とりわけ家族から、公然とあるいば密かに、穏やかにあるいは強硬

な指示を受けて、安楽死の要求をやむをえなく表明することもありうる

からである。病者の真摯な願望に基づかない安楽死の要求が一度明らか

になれば、その者に対して安楽死を行うことはできない。病者の明確な

意思表示とは、病者が、病苦のなかで安楽死の要求を明確に示すことを

いう。明確な意思表示は、病者が言語または文字をもって明確に安楽死

を要求すべきことを意味している。暗示またはその他の方式による表示

は、明確な意思表示として認めることはできない。

 生命は最も尊いものである。それゆえ、原則として、何人も、病者本

人に代わって、安楽死の要求をすることはできない。病者の家族、監護

人であっても、それは許されない。未成年者、精神病患者、および疾病

による知的障害者などは、自己意思を表現する能力に欠けるので、安楽

死の要求を提示することができない。それゆえ、一般的な状況では、こ

れらの者に安楽死を行うことは容認されない。これは、いくぷん不公平

のようであるが、安楽死の範囲の厳格な制限を保障し、安楽死の濫用を

防止するのに必要なことである。不治の病に冒され、耐えがたい苦痛に

さいなまれている病者のすべてが、安楽死を望んでいるのではない。人

間の生きようとする本能は、苦しめられている病魔に抵抗する病者を奮

い立たせることもできる。自己の意思を表現できない人間は、自己の真

実の願望も表現できないので、安楽死を求める願望の是非を明らかにす

ることも困難であり、このような状況においては、人命は非常に重大な

ものであるから、他人の意思をもって病者の意思に代えることはできな

いのである。

 また、疾病のために、長期間意識がはっきりしない状態にあり、真摯

な意思を表示するすべがない者は、安楽死を行うことはできないとする

のが一般的である。しかし、意識がはっきりしていた時に前もって嘱託

していたならば、その病が重く苦痛にさいなまれ、自己の意思を表示で

きない場合であっても、安楽死を行うように要求したとみなし、その嘱

託が病者の真摯な願望であることが明確であれば、安楽死を行うことも

可能であろう。さらに、病者の希望を了解した近親者が請求した場合に

も、安楽死を容認しようとする見解もある。病者の希望を了解した近親

者とは、自分自身の眼で病者が長く病苦に耐えているのを見ながら、長

期にわたって病者を介護し、病者を理解できる家族のことをいう。

② 手続

 ①申請

一228一

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 安楽死の申請は、病者の意思に基づいた真摯な申請でなければならず、

申請にあたっては、証人の署名または公証をもって有効なものとする。

病者は、最初、主治医に安楽死の申請を提出し、主治医の意見提示およ

び署名を経て、病者が所在する病院から専門委貝会に提出され、その決

定に委ねられることになる。なお、この主治医は、病者およびその家族

との間に利害関係があってはならないのはいうまでもない。

 ②審査および決定

 安楽死の申請は、専門委員会において審査され、そこで安楽死を行う

かどうかについて決定し、その許可に基づいて実施するものとする。

 この専門委員会は、しかるべき地区に設置し、医療従事者および関係

医療行政部門人員によって組織され、当該委貝会が病状に関して診断を

行って、安楽死を許可するかどうかを決定するのである。専門委貝会は、

省と地区および市の二級に分ける、地区および市の委貝会の決定に異議

がある場合には、病者の家族は法定期間内に省の委貝会に再検討の申請

をすることができる。

 この医学的な専門審査のみでは不十分であり、司法的な審査も要求さ

れる。専門委貝会の安楽死を許可する決定は最終決定ではなく、この決

定がしかるべき人民法院の許可を得てはじめて、安楽死を実行に移すこ

とができるのである。専門審査は、医学的な専門的知識に基づいて、誤

診のないように十分に努めて、病者の疾病について改めて立会い診察を

行い、診断後、定められた期間内に意見を病者に伝えて意思を確認し、

なお堅持しているのならば、速やかに関係資料を司法審査に送る。司法

審査は、すくなくとも市級以上の人民法院で行われ、法医学者および専

門審査貝が、法医学者が提出した鑑定意見をもとに、関係資料を総合的

に調査・分析して審査を行い、許可の是非を決定するのである。専門委

員会の決定をふまえて、安楽死の要件に符合しないいかなる状況もみあ

たらない場合には、専門委員会の決定に対する許可を裁判方式で承認す

るのである。許可の前に、再度病者の意思の確認が行われ、ロ頭での真

摯な意思表示がなされたならば、安楽死の実施時間を決定し、病者本人

およびその家族に通知する。

 ③実施およびその方法

 安楽死は、人民法院が定めた時間、場所において、医療従事者の手に

よって厳粛に行うこととする。その方法もできる限り苦痛を減少させる

方法を採用しなくてはならない。迅速で、苦しみがなく、「安楽」の本

質を可能な限り確実に実現するものであって、人道主義の精神を体現し

た方法でなくてはならない。例えば、苦痛な症状をおこさせない毒劇物

を注射または服用させるとか、過度の麻酔薬を注射または吸入させると

かである。安楽死の濫用を防ぐために、その実行方法については、用い

る薬物および薬剤の量など、明確に法定する必要があろう。

 安楽死の実施現場に立ち会う者については、見解が分かれており、採

用した方法が、病者に苦痛を与えたりその他残酷な感覚を生じさせたり

することがないように、病者の家族およびその他の市民を証人として立

ち会わせるべきであるとするもの、病者およびその親族の精神的圧力を

                     ハヨ 

減少させるために、公開してはならないとするものがある。実施する医

療従事者の者の氏名などについては、秘密保持の措置をとり、実施後、

参加した者は関係資料に署名し、その関係資料は司法機関に引き渡され

一229一

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保存される。

 なお、特殊な状況においては、医療従事者の監督の下で、病者の家族

または他人に安楽死を行わせることも認め、病者が特定人に安楽死を実

施するように望んでいるならば、できる限りそれにそうようにすべきで

あろう。

ω 濫用に対する措置

 ①情状が軽い場合

 病者が重ねて安楽死を求めたとしても、当該の病者が不治の病に冒さ

れていない、または、死期が切迫していない、あるいは、肉体的苦痛が

耐えがたい程度には至っていないならば、安楽死を行うことはできない。

しかし、そのような状況で、医療従事者が病者につきまとわれ、なすす

べもなく、あるいは、病者に対する同情または憐欄の情から、安楽死を

行う場合がある。このような場合の有責の医療従事者は、故意殺人罪を

犯したことになるが、寛大な軽刑で処罰すべきである。情状が比較的軽

微で、危害が大きくない場合、例えば、病者が病を苦に服毒自殺を考え

ていることを知っており、病者につきまとわれ全く打つ手がない状況で、

やむをえず病者に一定量の麻酔薬を与え、病者の自殺を成功させたとい

う場合は、刑事処分を免れる判決を下すことも許される。

 病者が不治の病を患い、死期が切迫しており、耐えがたい苦痛にさい

なまれてはいるけれども、本人の意思が明確でないなど安楽死を要求す

る要件が満たされず、安楽死を申請できない場合に、病者の家族、親族

または友人が、病者に対する安楽死を一存で決めて、医療従事者に安楽

死を要求し、それに応じて医療従事者が安楽死を行う場合がある。この

ような場合は、有責な医療従事者が、刑事責任を負わなくてはならない

のはもちろんのこと、安楽死を要求した病者の家族、親族または友人も

刑事責任を負わなくてはならない。病者の家族、親族または友人が、同

情から、または病者の病苦を取り除こうとして、毒薬を服用させるなど、

自らの手で安楽死を行った場合も、刑事貴任を負わなくてはならない。

 ②情状が重い場合

 医療従事者または専門委貝会の審査委員が、例えば、病者に対する恨

み、または賄賂の収受といった好ましくない動機および目的で、安楽死

の要件に符合しない病者に対して安楽死を行った場合、不治の病でもな

く、治療の見込みのある人間に対して、不治の病であると告げ、別の目

的をもって安楽死の方法で殺害したというような場合は、情状の重い場

合に相当し、故意殺人罪で処罰する。

 病者の家族、親族または友人が、遺産の争奪のため、または扶助の義

務を逃れるためといった好ましくない動機によって、安楽死の要件を具

備しない状況で、その病者に安楽死を行うように強硬に要求したり、病

者の自殺を積極的に帯助した場合も、故意殺人罪で処罰する。

                  ハる 

 ③不履行または誠実に履行しない場合

 専門委員会の審査委員が、その職責を誠実に履行しないということは、

重大な医療紛争をまきおこし、国家の医療単位および司法機関の名声に

                          ハらり

重大な損害を与えることであり、直接の責任者は職務解怠罪で処罰する。

 法定の安楽死の方法によらず、人道主義精神に違反して、残虐な方法

をもって安楽死を行った場合は、現場監督および実施者を行政処分に処

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し、

情状が重い場合は職務解怠罪で処罰する。

(1)主として、王作富・王勇「関於安楽死是否構成犯罪問題的探討」法学

  研究一九八八年第六期七六ー七八頁、肖国鵬「”安楽死”銘議」民主与

  法制一九九五年第一期三一頁による。

(2)林亜剛「関於安楽死的認識及立法思考」法律科学一九九〇年第四期三

  〇頁。

(3)前掲注(2)。

°(4)前掲注(2)三一頁。

(5)刑法第一入七条は「国家工作要貝が職務を解怠し、公共財産、国家お

  よび人民の利益に重大な損害を与えたときは、五年以下の有期懲役また

  は拘役に処する」と定める。なお、国家工作要貝とは、「すべての国家

  機関、企業、事業体およびその他において法律にもとついて公務に従事

  している者」(刑法第八三条)のことで、医療従事者はこれに含まれる。

五 おわりに

 生と死は人類普遍のテーマである。いかなる人間にも死は例外なく訪

れる。その死をいかなる形で迎えるのか、その選択肢の一つが安楽死で

はなかろうか。

 陳西省での安楽死事件は、中華人民共和国における安楽死のリーディ

ングケースというべきものであり、直接の死因が安楽死を目的とした睡

眠薬投与によるものではないとしながらも、生きる権利を奪う故意の行

為に対して無罪を言い渡したことは、安楽死を司法判断で容認したとい

えよう。しかし、中華人民共和国は、わが国と同様、成文法体制の国家

であり、刑事判例は刑法の淵源とはなりえないというのが伝統的見解で

ある。最近になって、司法の実践から、現行法に対する調整システムと

して、刑事判例の存在が認識されるようになり、中華人民共和国独自の

判例制度を築こうとする動きもみられ、最高人民法院も判例研究に力点

                            ハ り

を置いているようであるが、まだ確立されるにはいたっていない。した

がって、判例にどれほどの法的拘束力があるかは疑問である。安楽死を

合法化するのであれば、現行刑法に基づく判例にその基礎を置くのでは

なく、立法化するのが適当であろう。中華人民共和国においては、諸外

国の法制度を研究し参考にしながら、独自の法制度を確立するという特

徴がみられる。例えば、法学界から提示されている安楽死立法の構想を

みても、安楽死の申請の審査についての厳格で複雑な手続が特徴的であ

る。厳格な手続によって安楽死の濫用を防止しようという意図はわかる

が、現実問題として、その手続があまりに複雑なゆえに、かなりの時間

を費やすことになり、安楽死を行うタイミングを失することにもなりか

ねない。これでは、仮に安楽死を容認したとしても、現実に法に従って

安楽死を実施するのはほとんど不可能になってしまうのではないだろう

か。また、安楽死は、通例、純粋安楽死、間接的安楽死、消極的安楽死、

積極的安楽死に分けて考えられており、このなかで、純粋安楽死は治療

行為として適法、間接的安楽死および消極的安楽死も適法とするのが通

説的見解であり、適法性が問題となるのは、直接的に生命を短縮すると

いう積極的安楽死である。中華人民共和国における議論をみていると、

安楽死を一括りにしており、それぞれを明確に区別して論じられている

ようには見受けられない。法律問題として安楽死を論じるのであれば、

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安楽死の態様に応じて、その適法性および法的措置を考察すべきではな

いだろうか。昨年、本年と安楽死の法制化を求める請願書が全国人民代

表大会に提出されており、また、新華社によると、北京市内の大病院が

「条件が満たされれば、安楽死を真先に実施する」と宣言しているとい

雀今後の展開を見守りたいものである。

(1)游偉「我国刑事判例制度初論」法学研究一九九四年第四期四〇~四五

  頁。

(2)朝日新聞一九九五年三月一五日。

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