長州処分問題をめぐる仙台藩の動向 -情報収集・藩内 URL DOI...ZPHS-HFFE 向吋...

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Meiji University Title � -�- Author(s) �,Citation �, 159: (1)-(39) URL http://hdl.handle.net/10291/18797 Rights Issue Date 2017-02-28 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Title長州処分問題をめぐる仙台藩の動向 -情報収集・藩内

意見集約と対外発信に着目して-

Author(s) 竹ヶ原,康佑

Citation 駿台史學, 159: (1)-(39)

URL http://hdl.handle.net/10291/18797

Rights

Issue Date 2017-02-28

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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駿台史学第一五九号(一)

l

(

三九)頁、ニO一七年二月

ωC冨HV〉同師自の〉同日{切ロロι弘田氏。ュ邑宮武司王

ZPHS-HFFE向吋NCロ・署・(同)1(ω恒)

長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

ー情報収集・藩内意見集約と対外発信に着目して|

竹ケ原

要旨本稿は、元治i慶応期前半頃(一八六四j六五頃〉における仙台藩の政治的動向を、当時朝敵の立場にあった長州藩への対応問

題H長州処分問題に対する、情報収集と意見発信を中心に検討するものである。

まず第一章では、同問題勃発前の藩内状況を、①藩上層部からの即今摸夷論者の排除と、軍務を通じて台頭した中下級藩士層「軍事

官僚」層に代表される人材登用、②雪完を期して接触を求めた長州藩使節への冷淡な対応、に示される、藩の政治姿勢の不確定状況を

中心に確認した。第二章では、兵学者と記録役による畿内方面での情報収集・探索および記録化活動を素材に、同藩が中央情勢を把握

した方法と、収集情報の内容分析を試みた。特に問藩が藩士を適宜政局要地に派遣し、国元で記録を整理・集積することで、藩士聞で

の情報共有化と政見を模索する基盤を整えた点を確認した。続く第三章では、藩主・藩士聞での意見徴収↓集約↓対外発信に至る展開

をふまえ、政治姿勢の決定↓発信過程を検討し、情報の流れと意見形成の関係性ゃ、収集情報の対外姿勢への影響を分析した。

以上を通じて、①当該期の仙台藩は具体的政見を模索・形成する過程にあり、一貫して政局から距離を置こうとしたという従来の理

解は再考する必要がある点、②畿内と国許との距離に起因する情報タイムラグ問題を抱えつつ、藩士層は政局への関心を失っていな

かった点、③登用された中下級藩士層が、藩の情報収集

l共有|意見発信の土台を担っていた点、④近隣・遠隔含む諸侯との意見共有

志向も散見され、時にその発信役を担った点、などを指摘した。

キーワード一仙台藩、長州処分問題、情報取集、藩内意見集約と発信、奥羽諸侯

、.,,,唱Eム,t・、

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はじめに

戦前以来の幕末政治史研究において、主要な対象は西南雄藩・朝

廷・幕府に限られがちであった。この点は一九九

0年代以降に上記

以外の諸侯や朝幕内の多様な勢力へと関心が拡大した現在において

い叫、上記三者以外の視点から当該期の政局情勢や闇家的政治課題を

照射する作業が十二分には進展していない傾向が続いてい幻ことか

らも読み取れよう。こうした状況を反映する事例として、政局中心

地が京都を中心とする畿内一帯に移行して以降の東国・奥羽政治社

康佑

会の特徴・役割を、同地を領有する諸俣の視点から考察する作業が

ほとんどなされていない点が挙げられ刻。この畿内重視傾向は、中

竹ケ原

央政治情勢と地方情勢の相互関係、換言すれば中央|地方聞がどの

様な相互作用を及ぼしながら、当該期の列島全域にまたがる政治社

会を形成していたのかを等閑視することに繋がり、全国規模の政治

課題と地方領主勢力の聞に存在した政治姿勢や利害関係の相互関係

への具体的説明が今なおなされていない遠因にもなっていると考え

られお。

そこで本稿では、東国最大の国持大名である陸奥国仙台藩(伊達

氏六二万石)を対象に、元治

1慶応期前半頃(一八六四

1六五頃)

の国家的重要政治課題である長州処分間臨への、同藩の主体的関与

のあり方を検討したい。対象としての仙台藩の特徴として、上述の

石高と共に、中世以来の藩主伊達氏の官位・由緒問題を論拠とす

る、奥羽二州の武家の筆頭勢力ないしは朝臣として同地から蝦夷地

ゃ に、か

前け後てのの時武期備も充

宮警2会警花者に品、努

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暴t高白け己ら 喜怒れ識

たり、積極的な政治活動を期待されるという客観的評価などを指摘

できる。ゆえに同藩の動向を軸に、近隣諸侯の動向も適宜視野に入

れた上で東国・奥羽政治社会を捉えなおす作業は、上述した中央l

地方間利害関係の具体相の分析にも結びつくケ

1ス・スタディとな

ろ、つ。より踏み込んで幕末期仙台藩研究史を振り返ると、天保以来の飢

鐘被害と財政難、保守的門閥体制に由来する政治問題から距離を置

く傾向を詳述した平重道氏、由緒としての「鎮守府将軍」や「大

(2)

藩」としての奥羽二州の治安維持・安定化に尽力した有力大名とい

う側面を論証した栗原伸一郎・難波信雄両氏、陸奥守・左近衛権中

将という藩主官位を論拠としての「朝臣」伊達氏の役割を海防出

精・武備充実に見出し、具体的な警衛地を禁裏・畿内と蝦夷地・領

国奥州いずれに設定するかという文久期の藩内自己認識論争等を事

例に「北方警備」担当役という公的立ち位置を獲得していく過程な

どを検討した筆者別稿などが挙げられお。これらの成果の問題点と

して、①全国的政治問題への対応姿勢と客観的評価に基づく具体的

政治動向が不明確である、②戊辰戦争期以前の外部との関係、特に

諸侯との関係への検討が手薄である、③「大藩」意識の具体層がや

や暖昧で、特に文久期以降の、諸侯の動向が政局聞で重要な比重を

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占めた時期の動向について検討の余地がある、④同藩はどの様に中

央の政治情報をキャッチしていたのかについてはほぼ不明確で、特

に青山忠正氏の指摘する、京都からの距離感に起因する情報「タイ

ム・ラグ」の実態は、やや陵昧なままである、⑤藩内の情勢につい

でほぼ検討されておらず、わずかに一部藩士層の動向と藩政内での

機能を詳述した栗原氏、海防問題と人材登用システム「軍事官僚」

長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

層の形成・拡大の関係性を部分的に論じた筆写の検討を挙げ得る程

度であるーといった点を指摘でき、あわせて仙台藩は外部に対して

政見を表明するケ

lスは皆無だったのか、平氏の指摘のとおり徹底

して中央政局から距離を置き続けたのか、などの基本的動向に対す

る理解すら不十分であることも課題として残されている。

こうした成果と課題を念頭に、具体的課題として、まず西国方面

での情報収集および国元での分析活動を、中下級藩士層や陪臣層の

記録を手がかりに概観し、当該期の同藩がどの様な探索活動を試み

たのかについて検討する。この作業を通じて、遠境に領国を有した

ために「タイム・ラグ」という側面で弱点を内包したとされる同藩

が、どの様な情報を集めて畿内中央政局の情勢ないし同地で流布し

ている政見などを察知していたのか、部分的には明確になろう。次

に藩内で藩主伊達慶邦(一八二五

1七四)

への建白・上書や慶邦か

らの意見聴取などの形式で盛場した諸意見を集約した上で、藩土間

で大枠で共有されていた政治的意見の特徴を抽出し、あわせて上述

の情報収集活動を通じて掴んだ情報と実際に藩士たちが抱いた意見

の聞に、どの程度の関連が確認できるか考察する。以上は藩内状況

に関する検討となるが、続いて朝幕等の藩外部勢力に対して仙台藩

がどの様な政治的意見を発信したり働きかけを行ったのかについて

検討し、同藩が主体となる意見発信の展開と特徴を考察する。ここ

では内側の意見を集約して外側へと発信する役割を担った藩主慶邦

の動向を、特に対外周旋活動を中心に分析することで、藩の意思決

定構造の一端についても論究したい。なお今回は江戸・京都藩邸の

留守居等の動向については検討が及ばないが、当該問題との関連性

を意識して別途検討したい。

ところで奥羽諸侯に対する一般的評価というと、戊展戦争の敗者

という点を強調しての「朝敵」評価、特に保守的封建領主層との側

(3)

面を重んじ、財政改革の失敗や王政復古路線の拒絶を強調する見解

などが中心であり、あわせて階級闘争要素の欠如の指摘なども想定

し得る。本稿ではこうした理解を聞い直すと共に、特に幕末期の同

勢力の動向の中から戊辰期における奥羽越列藩同盟結成に関わる動

向の伏線を摘出することを目的とはしないものの、仮に両時期の連

続性を一次史料から看取できれば、

一八六

0年代前半期から戊辰期

を通じての政治姿勢の特徴を、部分的には明確にすることに繋がる

ため、この点も副次的課題として意識しておきたい。更に上述した

仙台藩と近隣諸侯との関係性についても、同藩自体の理解を補助

し、かつ東国・奥羽政治社会の同時代下における特質をあらわす一

要素とも考えられることから、同様に念頭に置いておきた吋。

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また長期スパンでの展望ながら、「公論」問題と仙台藩の関係性

を、東国・奥羽からの視点を軸に検討することも、副次的課題とし

たい。この点は長州藩への寛典処分と政治秩序維持を希求する西国

諸侯の動向を詳述した久住真也氏、秋田藩士の京都情報収集と国許

の藩上層部の関係性を、時に両者が君離しつつも一体性を失わな

かった点などを中心に検討した天野真志氏、そもそも「公論」概念

は諸勢力関「輿論」の統合効果を有していたことを指摘した井上勲

氏らの成黙を念頭に、同藩の動向は同時代下の「輿論」とどの程度

の、どの様な同調もしくは諦離がみられるものなのかを考察するこ

康佑

とで、戊辰の敗者という観点だけから仙台藩の姿を理解できるもの

なのか、という問題にアプローチするための土台となると見通して

竹ヶ原

いる。また原口清氏による、慶応三j四年噴における「公論」の標

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m く謡封摘建を権勘会

学長3語、化

戊す

審議後三

22 け色

藷と侯ヒ

領主層の位置・役割を再考し、さらには戊辰戦争期における新政府

ー奥羽越列藩同盟対立構図の再考にもつながる側面もあると考えら

れるため、念頭に置いておきたい。

第一章

文久末j元治初期の藩内状況

(l)上洛後の執政部人事と政策姿勢の再画定

まず本章では、国政上の重要課題である摸夷決行問題や「国家意

志」の形成とも密に関わる長州問題への対応が、遠境領主仙台藩に

とっても喫緊の課題と化してくる時期の藩内状況を確認しておきた

ぃ。この点は、国政問題との距離が縮まる時期の奥州領主の姿を理

解するために重要なポイントであると考えている。

まず、朝幕開での国事評議、特に接夷決行をめぐる具体策の評議

を期して文久三年(一八六三)三月に行われた将軍徳川家茂上洛の

前後の時期における、藩内情勢を確認する。次に掲げる史料は、文

久二年(一八六二)六月に藩士宛に出された、慶邦の「直書」であ

る【史料1

屋形様

慶邦公

御直書謹写

(4)

近来不容易形勢ニ付将軍家御政事向御変草復古之儀被

きそ

近々外夷之軍勢御着湊ひ

仰出、且

公武御情実通徹相成兼候廉も有之候ニ

付、近々

御上洛御合議御熟候無之御内沙汰有之、加之当節京都表

不穏、

勅使参向之由、彼是不容易御模様ニ付而ハ、此度何様之御

所置被

様|仰格|出

之|哉御|茂

義|撃以|所御|基|当本|家被|之相|義

候|嘉御|永趣|之意|渡極直篤書

万|震

非常之義等有之節ハ京師及江戸江之忠勤ハ勿論、国家之恥辱ニ不相

成様、各々誠忠不怠、不計事ニ候条、委細同年以来段々申付侯趣弥

厚相心得寓掲誠実を体し、節倹ヲ始文武一新之際相立、実用実備行

届候様口渡可心置、何茂国家為心物之義無遠慮可申出、委細ハ奉行

共聞申候也

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六月廿五日

やや漠然とした論調ではあるが、ここでは伊達氏主従一統は「貞山

様」

H藩祖伊達政宗の「御武勲」に恥じない行動をとり「京師及江

戸」(朝幕)に対する「忠勤」を守らねばならないこ左、「国家」の

ために意見を上申することの奨励、などが説かれている。ここでは

「国家」の語は、仙台藩・伊達氏家中といった意味合いで使用され

長州処分問題をめぐる仙台務の動向

ている。この「直書」は、当該期以降の国政問題に対する、藩の漠

然とした基本姿勢を打ち出したものと理解できる。

次に、文久コ一年四月に慶邦一行が帰国した後の、上措への尽力者

に対する褒章について確認する。

【史料2

先達而上京致、諸事無滞相済、此比帰国之処、何れも多少者有之と

いへ共粉骨を童相勤候義者、尋常之事ニ無之、依而夫々賞之義、奉

行共初申候ニ付、詰所以上ハ十五日迄ニと令候、然る一一取調さへ出

候ハ¥明日者饗応と申、明日申付相当て相当之訳ニ有之問、別而

骨折候左之而々江、明日饗応前、直々申付度存候、

但木土佐

此度上京共申付、日夜別市心配骨折相勤候ニ付、別段之訳を以、

年数ハ不足ニ候へ共、三百石加増、

遠藤敬之允

坂本平右衛門

此度上京申付、日夜別問心配骨折致候ニ付、別段之訳を以、列徒

小姓頭上申付之、

右其方共ニても、功労之程ケ様ニて可然存候ハヘ明日饗応前可申

付候、外ニ

三好監物

此度上京共申付、日夜別而心配骨折相勤候ニ付、別段之訳を以、

年数者無之候へ共、百石加増、

右者下候ハ¥早速是又ヶ様之功労ニて相当ニ其方存候ハ〉可然、

片倉小十郎

(5)

此度上京共致す候処、勅書か小十郎指置可申被

仰出も有之、指

残、老人

別而心配骨折ニ付、別段之訳を以、道中龍遣之、右者下

候ハ¥早速云々前向、

遠藤小三郎

此度上京之節、別而心配骨折候ニ村、別段之訳を以、

一一貫文加

増、右者下候も程合有之問、名代ニて被下、可然存候ハ¥左様致

へく、是者十五日此ニても可然候、

何ニも考、否可申聞事、詰所以上以下、其外賞之事者、伺可申問、

兼而之如く、凡下之分不伺分者、不伺可申付、併此度者別段之事

付、軽輩といへ共被下候、相済候ハ¥役人名指立一紙ニ仕、追市

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可為見候事、

ここでは、筆頭奉行(家老)但木土佐以下の〈功臣〉らがピック

アップされている点に着目できる。この時期は、大枠で「尊擁派」

として括ることのできる勢力、とりわけ京坂地域の警衛に参加する

などの形で、藩を挙げて畿内政局に参画することを唱えた勢力が執

政部H藩政の主流にある藩上層部から排除されていく時期と、ほぽ

重複している。それは国許での「割拠」姿勢を固めるための効果を

有しつ喝、藩としての具体的な姿勢を模索し、そのために活用すべ

康佑

き人材を選定しつつある時期という側面を示しているだろう。この

段階で、全体統括者の但木・個々に活動する中下級藩士層・由緒等

に依拠して渉外活動を担当する重臣片倉氏、などの家中内での役割

分担がなされてきていることに着目しておきたい。

竹ヶ原

(2)長州藩使節からの接触

続いて翌元治元年(一人六回)、長州藩使者・木梨彦右衛門の奥

羽来訪に対する・仙台藩の応対の状況をみていきたい。慶邦は江戸

警衛、特に和宮警衛を名目に同年二月九日に仙台を発ち、同二十日

に江戸に到着し、五月二一日に幕開より帰国の許可を受け、その途

についている。以下、参府途上における木梨と慶邦の面会の様相を

(n】

確認する。

【史料

31①】

長木梨長左衛門与欺一説ニ彦右衛門とも云申者奥羽辺を動さん

と使者等参J

候儀認差出置候通之処二月廿三目。同廿六日迄米沢ニ滞

留君侯ニ謁し候由米沢ハ恐怖との事此恐怖と申儀得与不相分なにさ

ま惑わされハすましとの事其七日米沢立廿八日上ノ山泊廿九日大雨

ニ付同所滞留三月期日山形泊秋田ノ方江趣き候由右ハ最初仙台侯御

出府御道中御旅宿ニ而右長人拝謁其節仙侯何之御返答も不被為成一

寸ノ御逢ニ而有之タルヲ右米沢等江参りテハ徹夜得と御談合申上候

杯と申述たる欺之由

【史料3l②】

金子〈私注|上山藩士金子与三郎)相話侠ニ長州之木梨長左衛

(6)

門と欺申者側用人と申事此節長州侯より使者として米沢仙台秋田紅

夫々廻り侠筈之由遊説之気味と相見候由長州より差出候奉

勅始末

と申写半紙七人枚計りも有之侠書附世間ニ流布いたし候事いづれ右

等之振合を以申参り候歎何様奥羽辺之人気を動し侠了簡と相見得と

の事如何成ル行装ニ而参り候哉国も通行可致ニ付参り候は、程次第

説破みたし見んと存居候処未タ参り不甲内国許出立いたし候との事

二月下勾なり承り候得者道ニ而最早参りたると申儀承り侠との事先

頃江戸表

而長州屋敷より米沢展敷江何欺箱入之進物遣し

れ国

許長ヲ云フより御園江米沢ヲ云使者参る筈との事ニ而有之たる欺之

由依而右進物米沢屋敷より国許へ送り候由米沢藩人上ノ山江参り金

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子ニ其附いたし候ニ付申聞候由ニ者其贈り物ハ妙なる儀ニ而妄りニ

可受訳ニ有之間敷云云議論委細申聞侯処成ル程との事ニ而右進物ハ

江戸屋敷の方ヘ又送り返シたる欺之齢

木梨は「奉

勅始末」を通じての「奥羽辺之人気」の取り込み、つ

まりあくまで奉勅捷夷に徹したに過ぎない自藩の立場を奥羽諸侯に

説き、理解を得ることを目的に慶邦に接触してきたことが分かる。

長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

しかし慶応邦からは「何之御返答も不被為成一すノ御逢」のみとい

ぅ、淡泊な対応しか示されなかった。

この反応は、本稿では、まだ藩の対長州姿勢、換言すれば国政レ

ベルにも食い込む接夷決行問題に向き合う姿勢が確定しておらず、

軽率な対応姿勢の表明を避けた慶邦の思惑の一端、と解しておきた

ぃ。同じ奥羽諸侯でも、夜を徹して応じた米沢藩主上杉斉憲の懇切

な対応とは対照的なものだが、同藩の場合は前年の八・一人政変の

際に「御所側につきながらも、長州藩や三条らに同情的な態度を示

(剖}

した」ことなどがあったため、長州側の内情をある程度理解してお

り、その入説にも理解を示せたということだろう。ここで詳細に触

れることはできないが、羽州上山藩でも対長州問題が争点化してお

り、全体に爾奥羽羽州諸侯聞にて同問題の重要性が増加し、対応姿

勢を確定させる必要性が浮上した点を、以上の展開から看取でき

(お】'hw

。以上本章では、文久三年の上洛を契機に、接夷問題へのコミット

自体は拒絶しない姿勢を固めた(少なくとも、その一員に入ること

を否定しない)ものの、捷夷決行のあり方が自身の存亡に関わった

西国諸髄ほどの危機感を欠いていた時期の、奥羽諸侯が置かれた状

況の一端を概観した。そこからは先行き不透明な中央情勢への不安

と共に、取り残されることへの懸念、早急に具体的対応策を講じる

必要性を惹起し、全国的政治問題、換言すれば国家意志・「国是」

問臨)と無縁でなくなる奥羽諸侯の姿を垣間見ることができる。そ

して彼らが自らの役割の模索・共有化を開始する画期を、当該期か

ら看取することが可能だろう。

第二章対長州問題に関する情報収集・記録化

活動

(7)

(l)兵学者・山内司馬の西国方面探索活動

次に本章では、長州藩関連を中心とする、仙台藩の①西国方面へ

の藩士派遣と情報収集・探索活動、②国元での記録化作業とその性

質等、を概観していく。この作業を通じて、同藩が中央政局情勢を

把握した方法、具体的に集め得た情報の内容・傾向、地域的タイム

ラグの実態などの分析につなげることを目指したい。

まず本節では、兵学者・山内司馬の西国方面探索活動を検討する

こととするが、はじめに同人のプロフィールを引用しておく。

【参考資料1】

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ヤマノウチ・シパ【山内司馬】

兵学家。韓は道換、

一の誰は豹、字は文箱、通称司馬、テン(私注

ーさんずいに奨)橋と号す。甲越ニ家の兵法に通じ、慶邦公に仕へ

て番頭となる、嘗て公の命を奉じ、藩祖政宗公以下文武の功臣寄才

異能の士廿六人の伝記を編述して上る、名づけて揚美録といふ又命

に依り佐々雅葉、山崎駿河と歩兵調練の方を立て、或は西洋式兵術

を議武場(仙台角五郎丁)に教授す、司馬文武の両道に精しく当時

の諸名流と交はる、維新後名取郡岩沼小学校長となり小学教育家と

康佑

して功あり、明治人年十二月十九日没す、享年五十二一、仙台元寺小

路満願寺に葬る。(場美録序一n】

竹ケ原

上記もふまえて端的にその人物像をまとめると、中州涜・越後流・

高島流の兵学者兼儒学者である点ゃ、国元での活動の特色のひとつ

に、桃生郡雄勝の肝煎であり赤子制導役なども務めた、水沼丈作との

親交などを挙げられる。山内は永沼に「実事之御備向」の相談を行

ぃ、共に藩主慶邦への銃砲献上、捕鯨を通じた射撃訓練実施などに

たもこ取と りが組、む

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-て)い

には、同年に組織された海防担当組織である海岸方(海岸方御用

掛)指揮官・中嶋恒康(一八一人

1六一二)より「兵学家業人」へ推

挙され、安政二年(一八五五)には藩主慶邦「御兵学相手」へと登

用されてい封。こうした嘉永i安政期における藩内「軍事官僚」形

成期の中心に、山内が位置していたことが分かろ切。

次に、彼が書き留めた風説書「文翰叢書」から、長州処分問題に

関わる情報収集・探索活動に関わる活動をピックアップして検討し

ていきたい。同史料群は-MA政1明治初期に至る、藩主伊達氏関係、

風説類、和洋兵学(一部蘭・独語等欧文一)、各種詩歌、和漢籍筆写、

和漢英雄語、忠臣・功臣・孝子・烈婦等の顕彰、藩内社会問題、絵

画類などまでを収めた、雑多な記録史料であお。その中でも、大規

模な政治問題に関わる事項の記録が特に豊富な時期が、文久末期以

降の長州問題および戊辰戦争前後であり、彼がこれらの問題を重視

していたこと、直間接的に情報収集・記録化に力を注いでいたこと

が看取できよう。

(8)

それでは、実際に彼が畿内の地で触れた当該問題の具体的内容と

して、以下、元治元年における情報収集・探索活動の実態を概観し

ていきたい(以下特記のない引用部は「文轄叢書」より)。まず行

程については、明記がないため出立・帰国日時は不明ながら、のち

の行程をみる限り、文久四年(のち元治改元)

-i二月頃に国許仙

台を発ったものと考えられる。

出立後、まず「時文久四甲子仲春廿五日」に「下総妙見寺」にで

「大蔵卿筆」の「宝蔵」・「天拝山天神」を「奉写」した後、「東都白

銀畳林寺」にて加藤清正揮嘉・手形を筆写している(日時不詳)。

こうして江戸近辺を遊学的に歩いた後、大坂

1京都南部方面に向

かった様で、元治元年六月下旬より、禁門の変前後の長州勢の動向

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を直間接的に調査・追跡している。この点は特に「京都騒動弁大火

事」と題してまとめられているため、以下参照して状況を追ってい

くと、六月下旬、「天神橋屋敷前通」での長州勢および「竹田海道

固メ」の会津・松山勢の装備・箪装を「六月廿六日付大坂Aσ来抜

書」と小題を付して整理し、七月一九日には伏見より「鳥羽海道」

方面での長州勢と大垣藩兵との砲撃戦と、近辺からの出火の模様を

記録している。翌七月二

O日には天王山・嵯峨天龍寺よりの長州勢

長州処分問題をめぐる仙台務の動向

「打込」と御所周辺での戦闘を見分し、①その際の出火は「川原町

長州御屋敷伏見御屋敷」の「内。焼立」である、②洛中への類焼に

よる「遷幸」が計画されている、③前日に「毛利讃岐守」ら率いる

援軍「三万人」が「兵庫湊」に上陸した、等の浮説も記録してい

る。あわせて同日付の「京師抜写」という箇所には、「大津辺も危

く相見得」状況等が記されている。その後少し聞が空き、「元治紀

元初霜十三日」には、「京都本園寺」にて「什宝」・「加藤清正肖像」

を筆写している。以上から、畿内における「長州ひいき」の傾向を

持ちつつも、大人数の武士層の駐在や戦闘により生じた畿内社会の

混乱状況などに直接触れた仙台藩士とい、っ、山内の立場が浮かんで

{お}

来るだろう。なお途中での帰国は確認できないため、国一兆に逐次情

報を書き送っていたか、または帰国後にまとめて報告を行ったこと

が考えられるが、情報の国許への流れ・報知といういう点について

は、今後の課題と致したい。

そして、この探索活動の性質であるが、まず第一に私的遊学を兼

ねた活動という側面が強い点を挙げられる。公務的側面を示す記

(担)

載・文言に乏しい点が論拠である。また情報ソlスや面会者等の記

載がほとんどない点に鑑みるとい芯一部の重臣から内々に打診を受け

ての、秘密裏の探索であった可能性もある。また本閣寺訪問の意義

であるが、尊捷派的性質が強く、

一橋慶喜の支援勢力でもあった水

戸藩本園寺党に、意図的に接触した可能性も考えられる。またこち

らは後述するが、将箪進発後j第二次征長期にも探索を行った可能

性もある。

次に、山内収集情報の傾向・特色を確認したい。【第1表}を参

考にみていくと、征討総督徳川慶勝ほか、幕府先鋒機関と中国諸侯

の動向を注視していることが看取できる。また前後の時期を含めて

(9)

長州寄りの内容が多いことも特徴的である。例えば以下【史料4

は、第二次征長戦期における、奇兵隊士が彦根井伊・高田榊原両氏

という譜代諸侯に挑発的言辞を向けている史料だが、こうした内容

のものを自身の記録集に入れた背景には、「長州ひいき」状況を正

確に記したいという、彼の意図があったと考えられる。なお同史料

は第こ次征長期のものなので、当該期にも山内が酋国探索を行って

いた可能性が想定できる。

【史料4

井伊掃部頭

榊原式部大輔

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其方共先祖ニ不似武辺ニ疎く此度致敗北候故、可扱処塵候所、対幕

府寛大之所置を以生捕候向を、宿場之備人加急用玖波村迄送帰候

問、無係念連帰可申、各器械をハ憧ニ預置候問、此上武辺を励口口

口可来事

右連札被致長家。広島表当家之陣所江送り、死骸分捕候品形付

捕之者や其人ニ無口ッ、口上相達候由

松平伯香守

御役御免御糾問之上、牧野越中守江御願被

名代

七回月村十主五斗Bd

仰付候事

康佑

また以下の{史料

5】は、長州藩主従および三条実美以下七卿

竹村liR

(五卿)の苦境や正当性を訴え、「御留守居L

を通じて諸侯に雪菟の

ための「御周旋」を依頼したものだが、もし山内が滞京中に「御留

守層」と接触して同訴状を目にしていた(その上で筆写していた)

としたら、京都藩邸とも接点を持って活動していたことが想定でき

る。この点も今後の課題と致したい。

【史料

5】

私共僻有之微匝ニ而威厳を不奉

惜推参仕候儀誠心恐多候得共、宰

相父子井三候殿以下従来捷夷之

叡慮一意ニ被致道奉候処不図蒙

勅勘、其後数月国方ニ而憂慢謹慎罷在候、於

臣子之身分痛苦悶怖

之至ニ不堪候、此上ハ

聖慈皇天后土号泣愁訴仕候外有之間敷、別

紙之通書綴候得共、入京致候儀恐多候間閣老稲葉公ニ

天朝江上達

之義願出置候、猶又君侯様方ニも何卒三保殿己下宰相父子心事御調

整勢御惑悲を以可致御執成被成下度、則右書面指出候間急度御取成

可被下候、尤多人数罷出候得共頭立候者。十分鎮静相加へ柳

放之

儀ハ不仕候、其段ハ無御懸念私共邸情制憐感を以被下御周旋口被有

様口立度被仰上被下度候

2草

六月

忠太郎

入江九

加州様

薩州様

仙蓋様

困州様

藤堂様

桑名様

久留米様

御留守唐

(10)

以上から、全体に幕府先鋒の動向など、長州藩に近い場の状況を

国元に報知していることが確認でき、蕃土層の意見形勢への影響力

が想定できるが、この点は次章にて検討したい。なお節の前半でも

ふれたが、具体的行程や情報源等については、本稿ではこれ以上明

確にすることはできないため、今後の改題と致したい。

また参考として、この時期東凶方面の探索を行っていた裕士であ

る玉虫左太夫について、簡単に触れておきたい。「遊歴生」という

公職にあって水戸藩決起勢の動向を追跡していた玉虫は、文久期に

は畿内方面に赴いており、前者は『波山紀事』、後者は『官武通記』

としてまとめられてい総。こうした職歴・記録の発表に鑑みて、山

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内より公式性の高い活動として、藩内では位置付けられていたと思

われる。また玉虫は長州処分問題には直接関与せず、両者で棲み分

けがなされていた側面もあったと思われる。

(2)重臣片倉氏記録役・武藤弘毅の情報記録化

続いて本節では、藩陪臣であり、重臣片倉郎記録役であった武藤

弘毅による、国許での関連情報記録化活動を検討したい。まず武藤

長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

のプロフィールを、二点続けて引用する。

【参考資料2l①】

ムト1・コ

lキ【武藤弘毅】

故実家。字は重遣、通称十郎右衛門、後ち十郎と改め、道斎と号

す、刈田郡白石邑主片倉氏の家臣、宗景邦憲、景憲三代の政事に参

与せる功労者にして文学に長じ、地方の史実に精通し、維新前後の

郷土史、片倉氏の記録を蒐輯すること数十巻に及ぶ、明治世八年没

す、享年九十一、同町傑山寺に葬る。

【参考資料

21②】

(前略)武藤家の初代は片倉小十郎景網に仕え、大坂の障で勲功を

あげ、以来、家中家格一番座を勤める。

十代・十郎右衛門弘毅は知行壱貫九十人文を受け、片倉家の記録

役筆頭を勤めている。生来文学に長じ、絵画の才にも優れ、数々の

公式記録や絵巻物などを残している。なかでも、維新時の、東北全

域の動乱の様相を記した「奥羽盛衰見聞誌」や、「仙台藩慶邦公御

入部絵巻」「石清水八幡宮奉行列絵巻」などは、よく知られた優れ

た資料である。(後略)

幕末期までは記録役を務め、維新後は各種記録・郷土史の整理編纂

等に従事していたことが確認できる。なお武藤自身が山内や玉虫の

ように探索に出向いた形跡はなく、彼らを中心とする探索担当藩士

から得た情報を整理し、藩内にもたらす役割を担ったか、と考えら

れる。次

に【第2表】を参照して、武藤が記録した情報の傾向・特色等

(11)

を考察してみたい。これは武藤筆「文久耳袋」(白石市図書館所蔵)

という政局情報記録集から関連情報を摘出したものとなる。同史料

に収められた情報の傾向として、朝幕の内部情勢や、そこからの諸

侯への指示などが中心である点を看取でき、この点は自信で見聞き

した状況録を多く収めている山内の「文翰叢書」と若干異なる点で

あり、仙台藩が朝幕と直間接的に関わる問題を整理して記録した、

藩または片倉氏の公式記録的側面も含んでいるか、と考えられる。

武藤自身は陪臣なため、彼の記録がただちに公式記録と化すわけで

はなかろうが、次章で触れるように、藩士層の対長州意見との内容

的相似はみられるため、藩士内での回覧に使用された可能性を否定

することは避けておく。また志士的人物による⑬や、孝明天皇によ

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る⑮などを別にすると、全体に幕府要人からの発信となるものが多

く含まれ、片倉氏家中が幕臣と何らかの接触を試みたり、パイプを

有していたことも想定できる。

「文久耳袋」は、「文鞘叢書」と比較すると情報量は少ないが、

定水準の情報の質量は有している。そのため間接的収集ではなく、

片倉氏家中からも、畿内や江戸へと探索者を派遣しており、そこか

ら国許白石にもたらされた情報を、記録役武藤が整理していた、と

いう展開が考えられる。また詳細は次章で検討するが、こうして藩

内にもたらされた情報は、山内によるものと共に藩士層へと回覧・

康佑

共有されていたこと、武藤による記録化が渉外役重臣「片倉氏によ

る情報記録」として、藩の政見形成へと影響を及ぼしたこと、など

竹ケ原

を、以上の検討から展望的に指摘しておきたい。

以上の検討を通じて、「周旋方」等を設置してはいないもの錦、

適宜藩士・を政局要地に派遣し、あわせて国元にて記録を整理・集積

し、藩士聞での情報共有化と具体的意見の模索へと繋げる基盤が作

られていたことを確認した。これは人材登用システムの機能の一

例、特に「軍事官僚」層が情報問題へも進出していく拡充例とも解

釈できお。またこの頃には、こうした勢力と藩主名代として渉外に

当たる一門層との職掌分担状況や、出先|国許間での迅速な情報疎

通・藩としての対策確定の難しさも浮上してきてお閥、仙台藩の対

外姿勢に迷いが生じた時期でもあった。

なお情報収集・記録に携わった人物たちが、具体的に藩主とどう

接触していたか(意思を疎通していたか)という点ゃ、彼らの直属

の指導者は誰なのかという点など、現時点では判然としない点も多

く、引き続き検討を行うこととしたい。

第三章対長州意見の形成・集約・発信とその

周辺

(1)藩士層の対長州処分意見

続いて本章では、藩主・藩士聞での意見徴収・集約そして対外発

信に繋がる、

一連の展開を確認していきたい。この点を通じて、藩

の公式政治姿勢決定過程の具体相と、その発信の様相を考察し、情

報の流れと意見形成の関係性

(H意見形成の背景)の明確化や、集

(12)

め得た情報の対外姿勢への影響などの分析に繋げていきたい。また

副次的に周辺諸侯との関係性などにも若干触れて、こうした課題へ

のアプローチの補助線としたい。

後掲する【史料6】からもわかる通り、慶邦は大体元治元年八月

前頃に、藩士層への対長州処分意見の徴収を行った。これは嘉永期

以来の度々の意見徴収という、彼の一貫した姿勢の一例であり、

「親裁」を志向しつつも藩内合議を重視する慶邦の姿を示す行為と

〔叫】

ぃ、える。

次に、藩士層からの具体的意見を確認していく。まず①藩士大河

内大炊左衛門の意見を、【史料6】をふまえてみていきたい。

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【史料6

松平大膳太夫殿江戸表屋敷意字召上候余付、乍恐心付之義申上候様

聞候様被成下、先達而御奉行中迄

被成下度、大意書取被召出被為

指出世候処、未何連共被

仰出無之内、此度長州征伐之義、松平阿

波守殿御筆頭、脇坂淡路守様ま手、武拾人程被蒙

仰候由、大日付

衆江之御達之由、今日一覧仕候処、十九日京師之事件か付廿三日前

書之通被

仰出候上者

将軍家江御尋問も無之

朝廷之御決議計

長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

而被

仰付候事ニ相見得候処、乍樺被為於

御前ニ候而者如何被思

召候哉、乍恐拙者義愚見か口、此度被相命侠諸侯方征伐之義、早速

御請被仰上聞敷奉存候、右趣旨者、横浜之義者、交易残表ニ仕、内

意ハ日本を窺候哉、底意難相知、且撰夷御決定等之義、自然彼等も

相心得賠可申、依市者、如何存合居候や、此節か乗し変心も者可ら

れ寿、是非此節皇国一和一振、貫徹可士御時世ニ御座候処、然ニ

長州征伐之義、禁閥江発砲、右大膳太夫殿御父子黒印之軍令状、園

司信濃所持等之義、重大之悪事との趣余相見得侯処、禁闘江発砲之

義も、戦争之問、何様之訳可在之哉、長州之人数与計も難見皆、且

策令状、仮令黒印在之候共、真偽之問御父子被相札日合も無之、右

仰付候而者、大腸太夫殿御父子御心株相違不仕ものニ

も無之、早卒之御決議と奉存候処、此度之征伐、全逆賊之御取調と

相見得候処、暫逆賊と御決定相成候とも、外冠目前ニ在之上者、御

ヲ以征伐被

所置振も可在之の処、長州之義ハ、是迄

尊王撰夷ヲ相唱候義専一

ニ在之、勅旨ヲ奉シ、異船を討砕候義者、魁タル事、衆人之知処ニ

御座候、然ニ只今変心逆賊となられへき道理無之様、於拙者ニ者奉

存候、先遣而古川監物京都御門御警衛之節、勅円ヲ以御免被

仰付

一円か相心得られ候方。、肥後守

様紅対し、御家中奉恨、此度之事件ニ及候哉ハ、不分明ニ候得共、

候義、松平肥後守様御取計故と、

先者右故かも可有之やと奉存候、且接夷遅々か付而者、京師江内奏

仕、御遷行之取計、接夷之義旗を被揚度御内慮之程無之と計も不被

存様ニ奉存候、乍去発表仕候義ニ無之侠江ば、億度を以相考候義ニ

而、忌詳之事ニ御座候問、あからさまニハ申上兼候、勿論長州之義

は、人民未背キ候と・申事ニ茂無之、

尊不一撰夷越御上下回結被

成侠や之様一一奉存、依而者、此度京師之義者、何可訳合も可有之、

右之外、長州ισ兵端をひらき候義有之間敷、然処江、諸藩江征討被

(13)

仰付候ハ¥於長州ニハ、

一統死を以防戦可壮、左候ハ¥死傷之

者幾万人も相出可申、皆

皇国之よ里みニ罷成候儀ハ、小児と以へ

とも弁知へき事ニ候処、如何成

廟堂之御吟味ニ有之へくや、千万

恐慢、大息罷在申候、且柔能強ヲ制と申事も御座候問、依而者、古

とく敷征討等不被仰付、、此度京都之事件、何様之訳ニ在之へく、

右大膳太夫殿情実得与御聞被届候ハ¥事穏ニ而、利非分明可仕、

(暴)

若又長州人σ此・米慕行御座候ハ¥其節ハ絞討も勿論之事ニ候処、無

左候而者、此度長州征討之諸侯方民力を蓋し、自然国家疲弊仕、擢

夷御断万一之節、御国威ふる以兼侠様罷成候而ハ、甚重大之事ニ奉

存候間右征討之義被相拍、事穏ニ御聞札、理非分明ニ御吟味罷成候

ハ¥御国威不相振候儀も在之間敷、此度被仰付候諸藩、長州江向

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ひ戦争ニ及侯義ニ而者、西藩麻之如く乱れ、東方ハ浮浪之輩弥々蜂

起仕、皇国之衰微、実ニ大患奉存候、右ニ付、此度征伐之義被相

拍、事穏カか御聞被届、罪状御決断罷成候様、急々

天朝ヲ始奉、

幕府江も被仰立候ハ¥皇国之御為此上御座在間敷、乍恐奉存候、

右之趣、御一門衆御奉行中有司之輩江茂厚く御評議被遊、御建白被

遊候方と奉存、不顧遠慮奉申上候御事、

別而奉申上候、自筆ヲ以可泰申上筈ニ御座候得共、拙者義六十

九歳ニ罷成、

此頃之冷気かて、右之手志ひれ、長文認兼、幸

忠三郎養子姉歯武之進、拙者次男か而、此度四ノ手御太鼓打被

康佑

仰付、罷登居候余付、幸之義と同人ニ為認、奉申上候御事、

八月十四日

源太夫父隠居

竹ヶ原

大河内大炊左衛問

彼の意見は、長州側の罪状が暖味な状態で「全逆賊之御取調」が行

われていることへの懐疑と、藩主毛利父子の「情実」を確認するこ

とや「理非分明」を吟味することを求めているものである。その上

で、

一門・奉行聞での評議を経て、(幕府宛)建白を行うことを提

言している。

次に②陪臣である一門百一理伊達氏家中からの意見を確認する。彼

らの主張は長州藩士と「相公」

H

毛利敬親父子の一連の行為は、

「天下之正気」に合致するもので、七卿(五卿)と合流して再起を

とげること期待し、あわせて朝廷内での文久政変画策者である「中

川王」

H

中川宮朝彦親王への警戒心を述べるものである。ここでは

天皇を「聖主」、幕府を「覇府」という様に漢風表記が散見され、

儒学的名分意識に基づく政局理解がなされていた兆しが看取でき

(崎}る

。なお、彼らが一門家の家中H

陪臣という立場にあって長州側や

七卿の詳細な動向を把握している点、主観的には「天下之正集」を

把握している点などに鑑みるに、百一理伊達氏家中からも探索者を派

遣した可能性が想定できるが、現時点では判然としない。

続いて③遊歴生・玉虫左太夫の意見をみていく。ここでは主に内

乱警戒・回避意識に基づき、長州藩「暴動」の原因たる幕府の「因

循」姿勢への批判と寛大な長州処分の依頼、そして「御傑約」に背

信する「無謂撰夷」は不可、との主張をまとめた対幕府建白の提言

と、「御自国御園」策の推進が主張されてい針。こうした「奥羽」

(14)

安定への尽力を通じて全国的安定に貢献するという見解は、当該期

{蝿】

の奥羽諸侯・藩士聞に共有され始めた見解であると共に、「奥州王」

たる伊達氏の自己認識としての自国における「割拠」姿勢や、藩単

{駒}

位での「日本」への貢献志向とも通じるものといえる。

以上、事例数は少ないものの、確認し得た意見はいずれも長州寄

りの、征討の対象とされた長州藩に対して同情的なものである。現

時点で筆者は反長州意見を確認できておらず、なお検討を要するも

のの、こうした論調の意見が多数登場した背景として、①山内らに

よる「長州ひいき」状況の報知、②「奥羽安定」策を発想源とする

内乱回避志向、③奉勅撰夷体制下にて打払いを断行した、長州藩の

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実行力への賛齢、などを想定している。その上で、諸侯聞で抱かれ

た内乱回避志向および秩序維持志向、幕府独裁を警戒する西国方面

の「公論」との親和協も相まって、いわば当該期のトレンドともい

える見解に近しい意見を、仙台藩士らも抱くに至ったと考えられ

るさらに「大名家単位で思考・行動することが、そのまま「日本」

長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

意識の不在を意味したわけではない」「「藩」単位での活動からも

「日本」への貢献は可能、との戦略的判断が成り立ち得たサ)状況を

ふまえると、この時期の仙台藩は、かつて木梨ら畏州使節へと対応

した際とは異なり、情報収集・集約活動を経て、藩を挙げての具体

的政策論議が可能となった段階を迎えたと理解できる。こうした状

況下での、「藩」レベルからの国政問題への意見表明の一形態が、

上記の藩内論議から読み取れよう。この点は次節でみる対外意見発

信へも繋がる点である。

なお一門・重臣層からの意見はほとんど確認できず、これは直接

渉外に当たることもある立場ゆえの自重意識のあらわれかと予測し

ているが、詳細は今後の課題と致したい。

(2)慶邦出府・幕府宛建白と周辺諸侯との関係性

続く本節では、元治元年秋における慶邦の江戸出府(十月上旬江

戸着j十一月一七日帰国)と、滞府中の動向を確認したい。

まず奥羽国持諸侯との接触・会合と幕府宛建白の提出についてみ

ていきたい。すでに江戸にあった米沢藩主上杉斉憲が十月一四日付

で在国の世子茂憲に宛てた書面には、「同席之仙台、盛岡、秋田、

動昨之四諸侯、参府ニ相成、余程賑々敷相成候守とあり、この噴奥

羽方面諸侯が江戸に集結する形となっていたことがうかがえる。

そして慶邦は、大河内や玉虫らが提言していた、対幕府建白を実

行することとなるが、以下の史料から、その際の周辺状況を確認し

,.、‘0

4AU

【史料7】

(花押)(慶邦)

大保孫三郎殿

(15)

大内縫殿殿

但木土佐殿

尚、随時自愛可有候事、

便ニ一書申入候、其方共無異消光之・回、目出度存候、扱出府后、再

三再四、同列共井ニ小老及文之允泰之允敬之允平蔵平右衛門へも厚

遂評議、建白指出候、夫ニ付而之事件者、同列共より可承与、別而

者不申入候、扱当表之模様者、先以火災も不足、世之中も存之外静

之方ニて、宜候へ共、其実は可歎事計りニて、実ニ一日も不知世之

中と成候ま¥国元へ一日も早く帰国致候外無他事候へ共、都合と

申も有之問、来月ニも成、模様次第、そろくと下り方へ取立候積

り、尤願指出候段ニ成候手者、成丈速ニ下向之事ニ侠、登候手見候

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初|へ、|ノ、

奥|、、叫 l キ己A叶 l ゴ日

之|為

右|盟主I.~ 倒JI 征中

n>. I →

内lτ被l位

指I12置|占

墜I1'11 去|辺生|之

品I~~I 其と|ハ41 多ク

候|府、I …

夫之ニ故釣、

れー我候達

魚ニ者、仮初ニも不成我等一一候、廿五日ニ者登

営、御内座へ被相

通候佳、定め者建白之儀品々

一通りに手、

御詑可有之と存候処、

馬杯之御沙汰のみニ候、尤水野牧野諏訪三人出居、彼等も唯四方山

話のみにて、実ニ太平無事の模様ニ候、誠二可歎可憂事ニ候、徳川

之御家も不遠と存候、返くも下向のみ心懸居事ニ候、申も如何ニ候

ヘ共、出府之所ハ、我達井ニ其方共、不折入事ニ候、併今比ケ様之

事申手も、よく能く候問、此上者、下向之事のみ都合を致候、唯場

康佑

合の大切と存候、百里之其地に手ハ、天下之形勢ニ付、今少し心を

入、周旋張も可有之と可存候得共、中々出不申事と、何れも存居

竹ヶ原

候、何ニも用事のみ申入候問、必其方共丈ニ仕、他言用捨可有候、

臨時厭可申存候事、

(元治元年)

神無月廿七日

(日)

見侯ハ、返還、

引用部の「問列」は但木ら奉行の「同列」とも解せるが、前後の時

期の接触や、後述する将軍進発

(H武力征長の推進)反対意見の共

有に鑑みるに、上杉・佐竹ら同席諸侯とも解釈し得る。

ここでの慶邦の意向は、藩内(藩内外)で「厚遂評議」た上で建

白書を提出したものの、九州諸侯などは参府しておらず、幕閣は

我々奥羽諸侯を「御府内被指置候丈之計略」であるとみえること、

二五日に「登営」してみても、建白に対する応答どころか「唯四方

山話のみにで」、「徳川之御家も不遠」と感じられること、早期の帰

国を望んでいること、などに整理できる。なおとの時の建白書の原

本は確認できないが、上記史料中から、十月三五日にはすでに幕開

(将軍)

へ提出済みであったことが確認できる。

あわせて同月下旬頃における、越前藩士で当時日田平餐書生寮舎長

を務めていた山本龍次郎の国許宛報告書には、①「御進発御座候而

は此表危候問、御延引相成候様、押而御進発-一相成候得ハ、私御留

守は御断」、②「仙台公始奥州之諸藩佐竹等も参府被致、唯今而は

下馬杯ハ余程賑々敷相成候故、漣も御進発は無党束」などの状況が

(師)

記されており、国許における藩士層の意見を踏まえての対外発信の

(16)

実行と、その延長として、江戸へ参府して藩内外の意見を押し出し

て幕政に食い込む「奥州之諸藩」の姿が、江戸府内に現出していた

ことが、っかがえる。

また、①上杉茂憲も「御征伐被仰逮候列閏藩士共、怒ヲ合候模様

相聞申候、左候ハ、御征伐なとハと聞も/¥御六グ敷L

という眼下

の状況をふまえ、「嶋呼徳川之御運命も尽候事と日夜嵯息耳ニ御座

候寸という、慶邦と相似した見解を抱いていること、②この頃、江

戸では会津藩から秋田藩佐竹氏に京都守護職が交代するという風説

が流れており、長州藩と確執がない上に好意的姿勢が濃厚な同藩が

在京の重職に挙用されることへの期待感がうかがえるこ回、なども

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勘考すると、当該期の江戸情勢からは、奥羽諸侯聞における対幕府

姿勢・問題意識の共有の兆しの萌芽が、暖昧ながら散見される。こ

の点は東国の政治社会の特徴や国政上での存在意義などを考察する

上で、看過できないポイントとなると見通しており、いずれ機会を

改めて検討したく考えている。

以上の点から、①山内・武藤らによる情報の収集・整理・記録、

②藩士層の意見形成、③藩主の意見への影響、④藩全体の対外姿勢

長州、l処分問題をめぐる仙台藩の動向

の確立|に至る一連の流れの成立を看取でき、ここからは遠境領

主・仙台藩の情報収集と意思形成の相関関係の一事例を読み取るこ

とができるだろう。

(3)西国諸侯からみた東国・奥羽諸侯の動向および第二次征長

期における仙台藩の動向

本節では若干視点を変え、地理的に長州藩に近い西国諸侯の視点

から、前節でみた東国側の動向を振り返ってみたい。あわせて慶応

二年(一人六六)を中心とする第二次征長期の仙台藩の動向につい

ても、ごく簡潔に整理しておきたい。

まず、禁門の変項における尼崎藩儒者・服部清三郎による「諸大

名のランク付け」には、「東国では上杉・仙台は「正論家」である

が、佐竹は長州にかぶれているようだサ

v

という評価が述べられてい

る。服部は「長州にかぶれ」ていない点を、「正論家」の条件とし

たようである。次に、慶応元年六月五日付マ慶邦に宛てられた、因

州藩主油田慶徳の書状を確認する。

【史料8】

す楕粛皇、難甚晴之時候、先以

天幕益御安泰、御同意奉恐悦候、

御次

貴家御揃愈御清安被成御起居、奉珍重候、随而当節如何御消

光被成候哉、御安否御訊問申展度、加何御座候、書外期後信之時

候、恐慎謹言、

松平相模守

(慶応元年)六月五日

慶(花押)

松平陸奥守様玉

按下

(17)

尚以、時下御自重奉専祈候、此程

大樹公御進発ニ付而者、又々御

出府哉ニ伝聞、度々之御上下、御苦労之御事奉存候、本文御見舞、

美作守股(私注一世子伊達茂村)御初へも、可然御鶴声可被下候、

少子無異議日罷在候問、調放念可被下候、家族共。も、御見舞申上

度申出候、以上古

ここからは、「天幕益御安泰」への「同意」の確認を通じて、両者

の意思疎通の形跡が予想できるこ回、「大樹公御進発」に伴、つ慶邦

の「又々御出府」への配慮、などを通じて、長州領に近い同藩の、

遠隔地同士の通交を重視する姿勢が、部分的には垣間見られよう。

続いて、長州藩関係者による「慶応三年八・九月段階」の「諸家評

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論」には、「「依勢進退」する藩としては加賀・仙台・秋田・米沢藩

など」との記載がみえる。こうした事例からは、東固有力諸侯の向

背や同地方の情勢に目を向ける西国諸侯の姿が静かぴ上がってく

る。これは、前者と比較して、より長州処分問題という国家的政治

課題を身近に感じた後者が、その課題解決のために連携意識を抱い

ていた可能性を示唆する例とも解せようが、具体的検討は今後の課

題と致したい。

続いて第二次征長期における仙台藩の動向を、簡潔ながら確認し

たい。まずは以下の史料を確認する。

康佑

【史料9】

竹ケ原

元治二年老中江宜々指出拍、

今般毛利大膳為御征伐、被遊

御進発候ニ付、私儀御用之儀可被為

仰候ニ付、出府仕候処、御国家重大

之事件ニ付、向又反復熟慮仕候処、根元、右家来共知此禁閥江相逼

有候問、早々出府可仕旨、蒙

候も、天朝合度々鎖港之儀被

仰出、叡慮御遵奉之儀も段々被

而叩,aq

t

出置、鎖港御談判中之由ニ者候得共、未其御実功相顕候廉も不相見

得候方ヨリ事起候ニ可有敗、且此度之挙動、輩載之下ニ而及発砲候

儀者、其罪申迄も無之候得共、全奉対

朝廷砲撃仕候訳ニも不相見

得、左侯得者、朝敵反逆之所為ニハ有之間敷、乍併、右大膳父子挙

動之内、不軽罪科も御座候ハ¥其罪等次第、幾重ニも被

何付振

も可有之儀ニ而、方今国力疲弊、外冠目前ニ相逼倹折柄、諸藩之兵

を以、御征伐相成候儀ニ而者、愈国力相衰、不少之人民苦悩而己相

加、皇国擾乱之端被相関候事ニ可相至哉も難計、勿論早速

御進発

藩御異征同 伐之相説成等候相共出、挙

容国易外ニ冠御一鎮件静以相来成兼人候心儀別も 而候不ハ折‘合、時

御節威光追ニ々も各

相拘可申、穿右御征伐之儀ハ被相控、右大膳父子之儀ハ、其罪等次

第、別ニ御吟味罷成候様仕度奉存候、不肖之私、右様建言仕候も、

恐入候得共、全私情を以申立候筋ニ無之、御国家之御大事、此一挙

ニ関係仕候ニ付、不顧忌韓申上候、以上、

十月

松平陸奥鴇

これは元治二年(慶応元年・一八六五)十月に、慶邦自ら老中に提

出した意見書である。ここでは、「大膳父子」(毛利父子)の行動は

(18)

あくまで「鎖港御談判」の効果が判然としないことを受けてのもの

で、「朝敵反逆之所為」には該当しない、なので「其罪等次第、別

ニ御吟味」あるべきである、という見解を、「御国家之御大事、此

一挙ニ関係仕候」との思いのもとに申し述べている。

一年前に出府

した際の、奥羽諸侯らと同様に将軍進発に反対した際の行動や(本

章第二節)、その出府を前に藩内から徴収した諾意見(同第一節・

【史料

6}など)とも相似した論調であり、慶邦はこの時期にも明

確に、長州藩への強硬征討反対・寛典処分希求という意見を抱いて

いたことがわかる。また、実際にどの程度の影響力があったのかは

判然としないが、ここでも藩士層の意見をふまえた対外意見発信を

行っていることが感じられる。

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またjζ

の時期の仙台藩(とりわけ慶邦個人)の対幕府姿勢の、

もう一つの特徴に、征長への非協力姿勢の増加を挙げられる。以下

の史料からは、結果的には認められないものの、口実を探して将軍

留守中の江戸警衛を拒もうとする、彼の姿勢が読み取れる。

【史料叩】

慶応二寅年八月十七日出

長州処分問題をめぐる仙台濯の動向

私儀

御進発御留守中

響衛御免被成下候様仕度

季候

右御警衛

被仰付置侠以来病気ニ付国許江御暇被成下、私為名代一門之

内江人数差添為相登置具後取詰療養相童侯得共

A 7

以a快方

無之出府も仕兼罷在候儀御座候、然ニ当夏中。之不季候降雨

多引続之冷気ニ而田畑共生有不足、加之去ル過ル七日。連日

之暴風雨ニ而悉く損傷ニ及ひ一圏実結之見込之見込無之、凶

作委細之儀者近々別而取調御届も可仕之所、実ニ飢笹大凶作

一被罷四民餓死仕候場合ニ有之、従来不如意之上段々不時之

物入も相嵩

囲内疲弊仕候折柄前文之変災出来仕

民間圃穀

も段々不足仕居抜米を以為し取続候他無之

此上四民救荒之

儀も千万無覚束甚

兼心候配場罷合在、候

尤此依節而柄者之為儀御万警々衛ー差四置民候騒人立数候rJ.段之ニ扶至助候 も而存者分手|行広|届

之領内不一通儀ニ相成、容易ニ鎮撫も無心元彼是探痛心仕候

儀ニ御座候、当節の形勢ニ対し候而も斯奉願候儀甚遠慮至極

御座候得共委細前書之次第柄無操相願候間

格BU 之御評議

を以如願

御許容被成下度奉存候、以上

Ji、月

松平陸奥守

即日御附札

書面之趣者当地御人数少之儀ニ付難相整候

ここでは征長協力よりも「四民救荒」を優先し、かつ領国外での活

動よりも「手広之領内」安定を重視させようとする意向が述べられ

ている。恐らく背景には、「当節の形勢ニ対し」て、「奥羽安定」役

を担うという伊達氏の自己認識を重視する思考や、「救荒」策を

担っている「藩官僚」らの活動を妨げたくないという意識が存在し

{伍}

たと筆者は予測しているが、さしあたり、仙台藩は間接的な征長協

(19)

力拒否姿勢を確立させていた点、内実の差異はあれ、幕府主導の武

力征討を厭う西国語侯の姿勢とも共通する姿勢が散見される点を指

摘しておきたい。

以上三節にわたる検討を通じて、①藩主|藩士聞での意見疎通と

共通見解の形勢がなされていた。ここからは藩士からの情報の流れ

と主従聞での共有、両者間での、藩としての意見模索とその確立に

至るプロセスの一端、そしてその対外発信までに至る一連の連環性

などが看取できる。②奥羽諸侯との間で、長州藩への寛典処分を求

める姿勢を共有しており、元治元年十月の将軍進発反対要求などの

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実行などに結び付いた。また上山・米沢藩ら羽州諸侯との「奥羽安

定」策の共都も、その背景に存在したと考えられるーなどの点を提

示した。これらは東国の政治社会・諸侯間関係の実情やその役割を

探る事例ともなり得る点であり、より多くの事例・史料とも照合し

て、説得的な分析を試みる必要があるだろう。

なお課題点としては、藩内での階層や家格などによる意見の共

有・差異等は確認できるのか、また慶邦自身の具体的意見はどの様

なものなのかといった点を想定している。特に後者は、彼は全面的

に藩士からの進言を受け容れていたのか、幕府に向けて意見を述べ

康佑

た際、どの程度個人の意見を反映させていたのか、という、慶邦の

パーソナリティーや藩の公式意思決定構造を理解するためにも不可

竹ヶ原

欠な課題であり、今後検討を深めたく考えている。

むすびにかえて

以上本稿では、仙台藩の長州処分問題への対応を、外部との関係

性や東国情勢等にも意識を向けて分析してきた。その結論は以下三

点に整理できる。

①元治j慶応期前半頃の仙台藩は、長州処分問題という当該期の

国家意志とも密に関わる問題への対応をめぐって、西国方面の情勢

への対応策や、主体的な意見等を形成していく過程にあった。この

点に限れば、

先行研究における、

一貫して政局から距離を置こうと

した姿勢の強調という評価は、再考すべきものであることがわかろ

、「ノ0

②西国諸侯との地域的差異、特に中央H京都からの距離・情報伝

遥のタイムラグ問題は抱えつつも、務士層の聞では政局への関心は

失われていなかった。元治元年に慶邦が意見を求めた際も、大河内

のような直参層から亘理伊達氏家中のような陪臣層まで、詳細な意

見を述べることで応じており、この点は、文久三年の上洛を契機に

即今破約譲夷論者らを藩政から退け、朝廷との交渉を経て、奉勅撰

夷体制内での北方警衛役という立ち位置を固めたからといっ也、完

全に関心を失ったわけではないことの証左だろ、"。なおこの点につ

いて、当該期に国許において、北方警備役の貫徹を裏付ける「割

拠」姿勢の確立・強化策が進められた点や、「奥州王」としての自

(20)

己認識と「奥羽安定」策を主導する責任感が背景にあったことを想

定している。

③全体にこの時期には、中下級藩士層の登用とその積極的活動が

多く確認できる。小禄藩士層の藩の意志決定への組み込みと慶邦の

「親裁」体制模索の動向については、栗原伸一郎氏の一連の検討に

詳しいが、本稿では特に、彼らの情報分野での存在感と機能を、

般藩士層から藩主に至るまでの政情理解と、藩全体としての意見形

成への影響力に注目し、対外意見発信、特に対幕府発信の士台を、

こうした勢力が担っていた可能性を指摘した。なお探索役、記録役

等のそれぞれの公的な位置(役職名等)や、周囲との具体的関係性

については別途検討を要する課題であり、あわせて一門・重臣層と

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中下級藩士層および陪臣層との聞の意見の差異などについても、本

稿では触れられなかった点であお。さらに国許および江戸藩邸を拠

点に軍備増強・財政再建に尽力していた「軍事官僚」層との関保性

も、今後検討すべき課題だろう。

また第三一章での検討を握り返ると、東国諸侯、特に奥羽の大大名

の役割として、領国が江戸に近いという地の利を生かし、情勢に応

じて逐次在府幕閣に献策を行う役割を果たしていた点、この点にお

長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

りい、て

寛は大西な国

長語

処信分吾や見

君主塾す量渋zだ

永眠

2官

三ミサ論る」自己

を)と

~I も戸容に易て で発あ

信する機能を祖った可能性も指摘しておきたい。この点は有力諸侯

聞での全国的連携志向の萌芽、と仮定することもできようが、本稿

では十分な事例・史料をふまえられなかったため、展望のレベルに

留めておきたい。

最後に、全体を通じての筆者の仮説・展望を提示しておきたい。

まず仮説として、文久期

1戊辰戦争期を通じての仙台藩の動向の特

徴に、独断での行動を回避する傾向、より踏み込んで述べると、外

部との意見調整や全国規模での諸侯連携を踏まえて自身の進退を決

し、板力単独で行動したり、政見そ表明したりしない姿勢を挙げら

れ、その姿勢が大まかに確立した閥期を、今回検討した長州処分間

題期に求められるのではないか、との見通しを立てている。この点

は独力でも行動し、時に自ら巷間の意見を誘導しようとする薩摩藩

とは異なっており、

一見して日和見とみえがちな諸侯の動向の背景

にある心性を検討する上でも、何らかの手がかりとなるかも知れな

いと考える。

そして展望として、冒頭で若干触れた点と重なるが、戊辰戦争期

における周辺諸侯・寛永寺宮門跡輪王寺宵公現法親王ほか旧幕府勢

力・肥後藩ほか岡田諸侯に至るまでの諸勢力との、名目的な意見共

有志向や連携志向の原型が、当該期に対長州問題を通じてあらわれ

た、以上一連の姿勢などに求められる可能性を提起しておきたい。

戊辰期の仙台藩が、単なる「奥羽越列藩」同盟に限らず、広範な地

域・勢力との連携を強く意識していたことは、近年の栗原氏や太田

秀春氏らによる成果を通じて明らかにされてきた的、現時点で筆者

は、こうした志向性は慶応四年に会津・庄内藩征討問題を通じて急

(21)

に発生したものというよりは、全国的政治問題との距離が否応なし

に縮まった文久期頃から、数年間を経て形成されてきたものと解す

る方が妥当なのではないだろうか、と見通している。この点は今後

の中長期的課題としておきたい。

(1)

近年の研究史や傾向を端的に整理したものに、高木不二「幕末政

治史の研究史から|私的総括と見えてくる課題|」(明治維新史学会

編『明治維新史研究の今を問う』〈有志舎、二

O一一〉所収)があ

る。

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康佑

(2)

例えば、家近良樹氏による「朝廷|幕府|諸藩といった単純な枠

組みにもとづく分析では史実に対応しきれなくなっているのが現

状」・「藩にかぎっていえば、複雑な利害関係にある諸勢力によって

構成されている筈の藩を、尊王藩や佐幕藩と一枚岩的に捉える、あ

るいは藩内の諸勢力を接夷派・公武合体派・倒(討)幕派といった

括り方で対置す分析する発想では、もはやその実態が捉えきれなく

なっている」といった指摘を挙げられる。同「序」(同編二

OO六、

二頁)。

(3)

後掲する天野真志氏、栗原伸一郎氏、友田昌宏氏らによる一連の

成果が、この点に該当する貴重な成果である。

(4)

こうした傾向は、維新期政治過程史全体を西南雄藩を中心とする

西国諸侯の利害関係や、同地域情勢を背景とする政治行動に依拠し

て叙述されることにつながり、換言すれば西国勢力の視点から叙述

された「維新史」を普遍的なものと誤認し、列島全域で多様な形で

模索された政体構想などを捨象することにもなりかねないものと考

h

えている。

(5)

文久三年八月一八日の文久政変および元治元年七月一九日の禁門

の変を経て「朝敵」となった長州藩への制裁・再征問題のこと。当

該期における同問題の存在感、他の政治・外交問題と比較しての優

先順位の高さに関しては諸説あるが、「夷秋の儀、長州伍伐後迄は左

右御沙汰に及ばせらるべき事」「藤原案美等部野の匹夫の暴説を信用

し宇内の形勢を察せす国家の危殆を思はす朕か命を矯て軽率に擁

夷の令を布告し妄に討幕の師を奥さんとし長門宰相の暴臣の如き其

主を愚弄し故なきに夷舶を砲撃し幕使を暗殺し私に実美等を本国に

誘引す此の知き狂暴の輩必罰せすんはあらす」といった孝明天皇の

意向からも、重要さは明らかであろう。引用順に『孝明天皇紀』五

(平安神宮、一九六九)元治元年九月一一一一日条、「尊接録皇武令」

竹ヶ原

(『改訂肥後藩国事史料』巻四〈細川家編纂所、一九三二〉五九一

頁)。なお後者の「震翰写」は、元治元年二月二四日に江戸城に登城

した慶邦へ老中牧野忠恭が提示し、細川家ほか諸侯とその嫡子への

廻達を依頼したものである。あわせて第三章二

l一一一節も参照された

V

(6)

詳細には立ち入らないが、橋口一九八O、藤原一九八一、星一九

九五、奈倉二

OO七などでは、同藩への期待感を述べた俗謡や錦絵

などが多く紹介されている。

(7)

後掲する平氏・栗原氏・筆者による一連の成果を参照されたい。

(8)

難波二

OO六・二

OO人では、京都藩邸詰役人は財政関係を主に

管轄していた点などを中心に検討されており、例えば藩の政治姿勢

を模索するための情報収集活動、などの視角は重視されていない。

(9)

青山二

GOO-第三章での指摘。

(叩)栗原二

O一五AjCおよぴ審査中拙稿を参照。

(日)以上を通じて当該期の仙台藩の政治姿勢を政治的行動思遊・中央

政局への不干渉という点に着目して評価した平氏の成果や、「大藩」

「鎮守府将軍」という自己認識の面から詳述した難波氏・築原氏の成

果を深化させることが、本稿の大きな課題である。

(回)石井一九七四・同一九八四、橋口-九八一など。民対に戦前の郷

土史編纂の成果である栗原郡教育舎『遠藤允信翁勤王事蹟』などは、

奥羽における「勤王」路線を強調した点において、近代における戊

辰の敗者の名誉回復志向の一端を示すものといえる。

(日)具体的には、羽州米沢藩(上杉氏一五万石)・秋田藩(佐竹氏ニO

万石)・上山藩(藤井松平氏三万石)、また近隣ではないが、当該問

題と関連しての通交が確認できる因州藩(池図氏三二万石)などと

の関係に触れていきたい。なお列藩同盟の広範な諸侯連携志向につ

いては栗原二

O一0・ニ

O一五

Bに詳しい。

(22)

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長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

(日)久住一九九九・天野一一

O一一・井上一九七五などを参照。

(日)原口一九六三。

(団〉原口一九八七、久住二QO二。

(口)武藤弘毅「御軍用心懸之義仰出留」(白石市図書館所蔵)。

(川崎)「伊達慶邦直書」(「大日本古文書家わけ一一一伊達家文畜之九」

〈東京帝国大学文科大学史料編世帯掛編、一九一ニ〉三九九1問。一

頁。以下引用時は『伊達家九』と略記)。

(凹)拙稿二

O一四D。同勢力は、換言すれば即今破約譲夷へのコミツ

トを唱えた勢力である。

(却)拙稿審査中。

(幻)こうした片倉氏の機能、務内における役割については、拙稿一一

O

一四D・第四章で検討した。あわせて注却も参照。

(担)詳細は別途調査を要するが、この時木梨は伊達郡桑折で慶邦一行

を待ち構えた様である。この地は伊達氏の本貰地にあたり、源頼朝

の奥州藤原氏攻撃で武功を挙げた家祖朝宗(念西公・念西入道)が

拝領した経緯がある。一六世紀末の奥羽仕置で伊達領をはなれたも

のの、朝宗の墓所はのこり、近世期の仙台藩主は参勤交代等で江戸

に参府する際の墓参を恒例とした。木梨はこの点を知った上で待機

したとも考えられる。この点は田崎公司氏(大阪商業大学)よりの

ご指摘を参照した。

(幻){史料3|①】は「元治元年尊擦録探索書」(『改訂肥後背静岡事史

料F

〈細川家編纂所、一九三一一〉五九O頁)、【3|②】は「元治元年

尊機録探索害又附録」(同前、六四一頁)。

(担)友田二

OO六・九七頁。

(お)上山藩の動向については、上山市史編さん委員会編一九八四、栗

原二

OO四、長南二

O一三、拙稿二

O一六を参照。なお当該期の同

藩は、藩士金子与三郎を中心に、奥羽地域を安定させることで、西

国情勢の変動や混迷に対応し、かつ列島全域を挙げての対外問題対

処に応じていくという志向である「奥羽安定」策を掲げて仙台・米

沢藩など近隣大大名聞の周旋を試み、交渉を絞て両藩の同意を得て

い'hvo

(部)こうした接夷問題との関係については、奈良二

OQ四、町田二

O

一O、拙稿二

O一四Dなどを参照。

(訂)原口一九八七、久住二

OO五。

(却)菊固定郷『仙台人名大辞書』(仙台人名大辞書刊行会、一九三一二)

一五五七頁。

(却)佐藤2010A、「永招秀和家文書」(東北大学災害科学国際研究

所所蔵画像デI夕、原史料は東日本大渓災津波にて流出)。

(却)中嶋恒康「海岸方自筆留」(個人蔵・白石市教育委員会寄託)。

(担)この点は拙稿審査中第一章・第三章にて検討した。

(担)宮城県図書館みやぎ資料室所蔵。

(沼)三宅一九九八、岩城二

O一一。

(担)時期のずれはあるが、嘉永六年に儒者・露学者小野寺鳳谷が南蝦

夷地を探索した際も、個人での遊学と藩上層部に同地情勢を報じる

ための公務という両側面を有していた。小野寺鳳谷著・梅津茂講述

『北端即日築北海詩稿』(私家版、一九九五)。同史料は梅津氏ご遺族

よりご恵与頂いた。深謝申し上げたい。

(お)仙台藩の京都における窓口は以下二点が確認できるが、この時の

山内との接触の有無については別途確認したい。①儀礼・贈答面が

中心ながら、近世を通じて近衛家との通交関係が保たれており、幕

末期には近衛忠岡山|慶邦聞の義父関係も築かれた。②中川宮家臣・

伊丹蔵人は京都に常駐した連歌師である石井氏と姻戚関係にあり、

文久二年に奉行・遠藤允信らが対朝廷入説を試みた際にも、この人

脈が活用された。また同じく連歌師である猪苗代氏も近世を通じて

(23)

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康佑

在京し、公家諸家との通交などを担った。詳細は拙稿2014Dお

よび審査中拙稿(特に第一章二節)参照。

(松山)「長州奇兵隊タ友之通商侯江送来候書面」(「文稲叢書」所収)。

(WU)

「長州家中願書」(同前所収)。

(羽)玉虫の動向は、きしあたり拙稿「玉虫左太夫」(楼井良樹ほか編

『明治時代史大辞典」〈古川弘文館、ニ

O二一〉六ニ

01六一一一頁)

などを参照。

(却)同氏は藩祖政宗を支えた初代片倉小十郎(景綱)以来、「軍事と外

交の専門官」的地位にあり、有事には藩主後見役を担う役割を有し

た。また文久期には島津久光と並んでの国事周旋進出への期待を集

めたり、「豊太閤」(農臣秀吉)に速なる由緒に基づく朝廷との通交

役などを担当した。港内での家格はコ山在、領地と居館は刈田郡白

石城一万三千石。引用・参照順に菅野一一

O一一、天野二

O一

稿二

O一四C・D。

(却)引用順に前掲『仙台人名大辞書』一

OO八頁、白石市図書館ホl

ムベ

1ジ(最終閲覧日l一一

O一六年五月一一一一日)。宮G一¥¥割当者

-aq・

岳町0日間

E'BぞおとU¥

印問旦oロ¥門SEwg¥BE己lwOBOロN3¥片山口包

gwz¥

在ロ閉山

gwロ00・耳目)

(4)

難波二

OO八、天野二

O一一。

(位)栗原一一

O一五B・

c、拙稿審査中。

(羽)元治期には一門官床伊達家当主・伊達六郎が渉外役の一端を担つ

た例がみられる。併せて禁門の家勃発時の京都藩邸が、兵力を要す

る有事に十分に対応できていない点からは、出先|国許聞のスムー

ズな意思疎通ができていない点も看取でき、青山氏の指摘する「タ

イム・ラグ」が障害となっていた事実もうかがえる。拙稿二

O一四

c、青山二

000参照。

(叫)「親裁」志向については栗原二

O一五を、「合議」志向については

竹ケ原

【史料1】、注却「海岸方自筆留」、拙稿二

O一四A・同D・二

O一五

を、それぞれ参照。

(必)「大河内大炊左衛門意見書」〈可伊達家九』四三七i四凹一一員)。

(必)「長藩巧書」(佐々木肇監修「伊達市開拓記念館所蔵一旦期一伊達家史

料~〈伊達市開拓記念館、二

O一一〉三五七

1三六一二)。

また「伊達家文庫」(喰火湾文化研究所所繭)に収められている一日一

理伊達氏郷学・日就館の旧蔵書には、漢籍および崎門学派関係書籍

が多く含まれ、家中の教養や政治姿勢の形勢に影響を及ぼしたこと

が想定できる。山遺二

OO七参照。

(釘)「玉虫誼茂意見書」(『伊達家九』四四六1四五三頁)。

(川知)栗原二

OO四、友田ニ

OO九、長南ニ

O二一一、拙稿ニ

O一六。

(相)拙稿審査中。

(叩)奈良二

O二一・四O頁。

(日)仮説レベルながら、喫緊の要地でない奥州・蝦夷地の警衡を担当

する伊達氏の立場からの(拙稿二

O一四D)、海上交通の要衝たる下

関にて打払いを断行した長州藩に対する賛意や、夷秋を接、つ行為へ

の武人的メンタリテイからの共感が背景にあったのではないかと考

えている。この点は宮地ニ

000を参照した。

(回)久住一九九九。

(臼)注叩に同じ。

(叫)「(ニハ)上杉斉憲朱筆勘返状」(司特別展上杉伯爵家の明治」〈米

沢市上杉博物館、二

OO入〉二一一j一一三頁)。また斉愈は問月三一一一日

に仙台藩邸を訪問して慶邦と面会しているが、具体的な対話内容は

不明である(「楽山公治家記録」〈仙台市博物館・宮城県図書館みや

ぎ資料室所蔵〉元治元年僚)。

(日)「伊達慶邦直書」(『伊達家』四五三j四五五頁)。

(回)「元治元年十月下旬〈カ〉藩庁宛山本龍次郎報告書」(「筆叢拾遺」

(24)

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長州処分問題をめぐる仙台港の動向

〈福井県立図書館所蔵、松平文庫七九O

l一〉

良勝司氏(立命館大学)よりご教示頂いた。

(貯)「(二ハ)上杉斉憲朱筆勘返状」(同注目前者所収、二O

j二一頁)。

なおこの見解に対し、斉憲は「筆紙問ニ難尽事共ニ候」と応じてい

る(同前)。

(回)前者は注目「(二ハ)上杉斉憲朱筆勘返状」、後者は岩城二

O一一

をそれぞれ参照。なお前者の風説について、茂憲は斉憲に「虚実」

を問い、斉憲は「一切不承事」と回答している。

(印)岩城二

O一一・二

O三頁。

(印)「池田慶徳害状」(『伊達家九』四五人1四五九頁〉。

(飢)併せて仙台藩が【第l表】|日・日や【第2表

}luなど、因州

務の政見を部分的ながらも把握していたことを勘考すると、かねて

より慶徳|慶邦聞で書簡等を通じての直間接的なやり取りがなされ

ていたことも推測し得る。

(位)家近二O一四・一九二頁。

(臼)「伊達慶邦意見書控」(『伊達家九』四五九j四六O頁)。

(悦)「黒川秀波筆記」(「大日本維新史料稿本」〈東京大学史料編纂所所

蔵〉所収、

KE08510738)。

(邸)「藩官僚」の詳細は佐藤201OBを参照されたい。また同年に

は、一部の地域で認められていた「金銘」(年貢の金納)を「石銘」

(現物納)に切り替える許可を出すなどの農政改革が進められ、農村

に対する施策が藩の重要課題と化していた(『仙台市史』第七章第三

節|一)。

(船)またこの時期には、【史料4】に代表される親長州情報の収集も行

われていた。当該期の探索・情報収集活動については現時点では判

然としないが、こうした情報を把握している点から、山内ら探索役

を担った藩士が再び畿内・西国方面に出向いたか、彼らが以前の活

こ。なお同史料は奈

動時などにあらかじめ築いた情報網を通じて情報収集を行っていた

ことが推測できる。

(町)第一章第二節、注Ul姐も参照。

(槌)拙稿D第一章における「一月政変」の検討を参照。

(印)平一九六O以来、こうした仙台藩理解が支配的であった。

(叩)この点は拙稿ニ

O一六および同審査中で、やや具体的な検討を試

みている。

(冗)栗原二O一五AlCなど。

(η)例えば注必で亘理伊達氏家中(日陪臣層)らが中川宮への警戒心

を抱いていたことを確認したが、一方で一門官床伊達氏当主・伊遼

六郎は同時期に上洛して宮と接触しており(拙稿二

O一四C・第三

章)、直接渉外に当たる層とそれ以外の層で、意見の議離が生じてい

た可能性が考えられる。

(η)「公論」をめぐる中国諸侯の動向については、久住一九九九参照。

(九)井上一九七五参照。

(市)さしあたり栗原二

O一O、同二

O一五B、太田二

O一五などを参

照。

(25)

参考文献

青山忠正『明治維新と国家形成』(吉川弘文館、ニ

000)

同「通商条約の勅許と天皇」(『偽教大学歴史学部論集』五、二O一五)

天野真志「国事周旋と一一言路j幕末期秋田藩の政治方針をめぐる対立から

ー」(『腫史』第一二ハ輯、二

O一一)

家近良樹編『もうひとつの明治維新』(有志舎、二OO六)

同『江戸幕府崩壊1孝明天皇と「一会桑」

1』(講談社、二O一四)

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康佑

石井孝『維新の内乱』(至誠堂、一九七四〉

同『戊辰戦争論』(古川弘文館、一九八四〉

井上勲「幕末・維新期における「公議輿論」概念の諸相j近代日本にお

ける公権力形成の前史としての試論i」(「思想』六O九、一九七五)

岩城卓二「畿内の幕末社会」(明治維新史学会編『講座明治維新第2巻

幕末政治と社会変動』〈有志舎、二

O一一〉所収)

太田秀春「奥羽越列藩同盟における公議府と軍事」(平川新編『江戸時代

の政治と地域社会第一巻藩政と幕末政局』〈清文堂出版、二

O一五〉

所収)

上山市史編さん要員会編『上山市史中巻近世近代編』(上山市、一九

八四)

菅野正道『せんだい歴史の窓』(河北新報出版センター、二

O一二

久住真也「長州戦争期の政治運動と「公論」」(『日本史研究』四四三、一

九九九)

同「長州再征と将軍畿内滞在問題」(『日本史研究』四七人号、ニOO二)

同『長州戦争と徳川将軍』(岩田書院、二OO五)

栗原伸一郎「幕末期の上山藩と奥羽諸藩1上山藩士金子与三郎の思想と

行動を中心に1」(『東北文化研究室紀要』四五、二

OO四)

同「戊辰戦争期の仙台藩と肥後藩」(『市史せんだい』

Vol、二

O、ニ

O

一O)

同「幕末仙台藩の自己認識と政治動向1奥羽地域に対する意識を中心に

ー」(平川編ニ

O一五所収、引用時は栗原二

O一五Aと表記)

同『幕末戊辰仙台藩の群像1但木土佐とその周辺1』(国宝大崎人幡宮、

二O-五、同Bと表記)

同「幕末期における仙台藩の意思決定過程と落主伊達慶邦」(ニ

O一五年

度東北史学会大会口頭報告、同Cと表記)

佐藤大介「海の「郷土」と地域社会j仙台領桃生郡名振浜・永招丈作の

竹ヶ原

軌跡j」(斎藤善之・高橋美貴編『近世南三陸の海村社会と海商』〈清

文堂出版、二

O一O〉所収、引用時は佐藤二

O一OAと表記)

同「天保飢佳からの復興と藩官僚1仙台藩士荒井東吾「民間盛衰記」の

分析から1」(『東北アジア研究』第一四号、二

O-o、引用時は佐藤

ニO一OBと表記)

仙台市史編さん委員会編『仙台市史通史編五近世一一一』(仙台市、ニ

OO

囚)

平重道「幕末・明治初年の仙台簿」(東北大学地域社会研究会編『宮城県

の地理と歴史』〈東北出版、一九六O〉所収、のち同『仙台藩の歴史第

一伊達政宗・戊辰戦争』〈宝文堂、一九六九〉所収)

長南伸治「金子清邦宛書状を読む」(公益財団法人上山城郷土資料館、ニ

O二ニ)

友田昌宏『戊辰雪寛j米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」

i」(講談社、ニ

OO九)

奈倉哲三『絵解き幕末楓刺画と天皇』(柏書房、二OO七)

奈良勝司「奉勅撰夷体制下における徳川将軍家の動向j文久三年将軍

上洛後の性格規定をめぐる相克j」(『日本史研究』五O七、二

OO囚)

同『明治維新と世界認識体系』(有志舎、ニO一O)

同「幕末政治と〈決断〉の制度化1江戸幕閣の動向からみる1」(『ヒス

トリア』二一一三、ニ

O一O)

同「書評桐原健真著冨ロ田松陰の思想と行動」」(『明治維新史研究』第

人号、ニO一二)

難波信雄「大藩の選択1仙台藩の明治維新1」(『東北学院大学東北文化

研究所紀要』三七、ニOO五)

同「維新変革と仙台務の京都情報」(『市史せんだい』

Vo--

一六、ニ

00六)

同「歴史手帖仙台藩の京都留守居と遊歴生ll維新期の情報収集システ

(26)

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長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

ムと関連してj」(『日本歴史』七二三、二

OO八)

橋口虎之介『仙台戊辰物語」(歴史図書社、一九人O)

原口清『戊辰戦争』(塙書房、司九六一一一)

同「近代天皇制成立の政治的背景」(遠山茂樹編『近代天皇制の成立」

〈岩波書府、一九八七〉所収)

藤原相之助『仙台戊辰史』(荒井活版製造所、一九一一〉

同『奥羽戊辰戦争と仙台藩1世良修蔵事件顛末1』(柏書房、一九八二

星亮一『奥羽越列藩同盟』(中公新書、一九九五)

町田明広『接夷の幕末史』〈講談社現代新書、二

O一O)

三谷博編『東アジアの公論形成』(東京大学出版会、二

OO四)

三宅紹宣「幕末の長州における民衆の役割」(アエラムックヨ笠木学のみ

かた。』〈朝日新聞社、一九九八〉所収)

宮地止人『天皐制の政治史的研究』(校倉書一房、一九人一)

同「明治維新の論じ方」(駒津大学「史学論集』第三O号、一一

000)

山港進「仙台藩亘理伊達家の蔵書と郷学日就館」(二松学舎大学『日本漢

文学研究』二、二

OO七)

拙稿「市川三左衛門」(楼井良樹ほか編『明治時代史大辞典』第一巻〈士口

川弘文館、二

O一一〉)

同「玉虫左太夫」(同第二巻、二

O二一)

同「仙台藩校・養賢堂蔵書と洋式共学」(『図書の譜』一七、一一

O一一一一)

同「仙台務海岸方小考l構成員の職掌分析を中心にj」(『文学研究論集」

四O、二O一四、引用時は拙稿二O一四Aと表記)

同「仙台藩共学者・山内司馬の翻訳

A

共事調査・記録化作業」(「図畜の諸」

一人、二O一回、同Bと表記)

同「元治元年における仙台藩の動向1藩主伊達慶邦と一門伊達六郎を中

心に1」(『米沢史学』三O、二

O一四、同Cと表記)

同「奉勅撰夷体制確立期における仙台藩の動向j藩主上洛をめぐる諸相

から1」(『風俗史学』五九、二

O一四〈二

O一五刊行〉同Dと表記)

同「嘉永期における仙台藩重臣・中嶋恒康の海防政策と砲術攻究」(『明

治大学博物館研究報告」二

O、二

O一五)

同「文久l元治期における羽州上山藩士・金子与三郎関係史料に関する

一考察」(「明治大学文学部・文学研究科学術研究論集」六、二

O

二ハ)

同「文久期における仙台務内政争の争点と「割拠」策への展開」(審査

中、引用時は拙稿審査中と略記)

du守E

z--吉一回

本稿は一一O一六年度明治維新史学会大会における発表を基に成稿した。

質疑にて際して貴重など意見を下さった各位に深謝申し上げたい。

また史料調査に際してご高配賜った水野沙織氏(仙台市博物館)およ

ぴ同情報資料センター各位、模井和人氏(白石市図書館)、日下和寿・岸

野太一両氏(白石市教育委員会)、窪田高広・伊藤博道両氏(丸森町教育

委員会)、宮城県図書館みやぎ資料室各位、史料情報をご教示下さった引

地昭夫氏(元丸森町文化財保護委員長)、佐藤大介氏・天野真志氏(東北

大学災害科学国際研究所)、栗原伸一郎氏(宮城県公文書館)、友田昌宏

氏(東北大学東北アジア研究センター)、個別に貴重など助言を下さった

襖井氏、天野氏、一二谷博氏(跡見学園女子大学〉、奈良勝司氏(立命館大

学)、宮下和幸氏(金沢市立玉川図書館近世史料館)、岸本覚氏(鳥取大

学)、町田明広氏(神田外語大学)ほか各位に深謝申し上げたい。

(27)

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I第 1表】山内司馬収集情報の概要

起磁睡も・宇

年月 作成者・差出人・名義人など 表題・件名 内容

1 (文久3年) 9月25日 津山藩主松平慶倫ほか 「六藩建白」 「薩長之儀ハ衆心勤王之基本相関Jくもの

であり、両藩の「和睦J推進と毛利父子へ

の寛大な対応を希望する。

2 (文久3年か)10月30日 「中川宮の事ニ付張紙j 近衛父子らと共に会津藩に与して鎖港策を

退けた中川宮の行為を「主上を欺Jくもの

と批判。 11/1に下立売門へ掲示。

3 (文久3年か) 9月11日 (長州藩士)遠藤太郎 「長州カミて公使暗殺j 御使番中根市之丞・御小人目付鈴木八五郎

ら一行が長州領内津市の旅宿にて襲撃さ

れ、中根らが斬殺された。

4 (je治7G年) 1月 (2日) 「長門宰相内某J/島津忠義 「長州かて接夷之届井薩公よりの届 12/24に豊浦郡府中沖合に「異訟jが現れ

出j たため赤間関砲台に[相図Jし様子を見た

ところ、「押而砲台前面江乗来」たため

「急襲」と解して砲撃した。/長崎製鉄所

での修理のために蒸気訟を回航中、小倉領

田浦に碇泊していたところ、「長府台場」

より「発砲Jをうけ、小倉側へ非難したが

回避し切れず「不残焼失Jした。乗組人数

は「士閤J9入、「機関之者J19人ら。

5 (元治克年) 1月2日 (肥後藩士)村上新之丞 「長州かて薩州之舟江発砲之次第村 豊前島崎に碇泊していた肥後藩船大能丸に

上新之丞言上J よる薩摩藩船員救助活動の記録。炎上する

向車合¥の「乗付jは困難であったため、乗

組員を「見寄り次第御助け」、 10人救助、

40人ほどは自力で「上陸有之」、最終的に

「惣乗組六十八九人Jの内48人の「存命」

を確認。翌朝遺体ー名を陸上で発見、長州

側の発砲数は「凡四十発Jと推定。

6 (文久3年)12月28日 毛利慶親 「十二月廿八日長州宰相届出」 長門国赤間関に現れた「異国軍艦jを砲撃

(自)

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(ON)

した。当方に損害なし、相手方は不明

7 (文久3年か)11月 野宮定功・飛鳥井雅典 「列藩江被仰出之事J 近頃洛中に出入りする「浮浪者Jゃ「浪

士Jの中には「激論暴行之徒」が少なくな

いが、一部の「有志之徒Jは「十万石以上

之諸藩江可召抱Jである

8 元治元年1月15日 (幕閣) 「松平肥後守五万石御加増陸軍総裁 (同左)

被 仰 付 事J9 元治元年1月15日 (幕閣) 「松平春議京都守護職被仰付事」 (同左)

10 7じ治克年 1月21日・同27日・ (幕閤) 「将軍家上洛ニ付貢献物弁従一位宣 1/27将軍家茂より朝廷への献上物(太万・

2月27日 下」 白銀等)/2/27 r神武天皇御陵御成功jに

っき「従一位」宣下

11 (元治元年) 「副使J [長州。上使」 「長州家士jが「密々御使者Jと面会して

いたとの風説/r柳川侯雲州侯」が「国許

御固相成」との風説

12 (文久 3 年~7G治ヌじ年か) 松平春獄 「松平春毅建白J 「通信」と「航海Jは世界の常道、援夷戦

争の「御勝算御計略jはなし、今や[邪

宗jの弊害はない、「越前家一定之論Jは

列強と並んで「大軍艦数十般」を遣わして

西洋の品物を購入・販売し「富強Jを図る

という趣旨、相手が「信」を破れば「曲Jは相手にあり、国家の「患jを見ての「不

諌」は忠臣のすることではない

13 元治7G年1月10日 池田慶徳 「因州侯建白J 「援夷之叡慮」貫徹と「天下之人心一致ー

和」を通じた幕府の対朝廷協力を進言、長

州藩・七卿の行為は「叡慮遵奉jの素志に

基づいているため寛大に対応すべき

14 元治元年 孝明天皇/徳川家茂(+伊達慶邦 「定翰井御請書」 三条実美・長州藩士らの異国船砲撃・幕吏

「拝見J) 暗殺等は私の意思を捻じ曲げるものゆえ、

必ず罰する。将軍・諸侯は私の「赤子Jで

置議Q機OSAYvnx帰国昭

E余或一念蝋

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知県脚質睡も・宇

年月 作成者・差出人・名義人など 表題・件名 内容

あるので、普協力して倹約・軍備充実に努

める様に/(家茂の左記康翰奉受→慶邦へ

回覧)

15 克治苅年8月 「因州藩某J 「因州藩士建白」 「長藩士哀訴之趣jは「感心之至」、「雪

菟」希求への同意、「何回jかがその趣旨

を「汲取jり「正大明白之御処置」のある

様に取り計らうべき、「九円を鎖し」て言

路が行き届かず「大基本未タ被為立」ない

現状を改めるべき

16 元治元年4月29日/5月3日 徳川家茂/一橋慶喜・酒井忠績ほ 「御請写J/ 1大樹参内 聖輪及請 三条実美ら、「宰相之暴臣jへの対応含む

か老中 書j 「長州処置」は朝廷の「御差図jを受けず

に行う

17 7G治克年7月11日 (山内司馬筆写)/1皇国忠義 「京都会主て天珠ニ遭候者之肖像弁佐 池内大学ら晒首の様子の筆写/佐久間修理

士J 久間修理事J (像山)への斬好次第書

18 (元治克年) 松平定敬 「古高俊太郎泉地焼揚候事風説ニ付 古品らの焼き討ち計画の概要、同志が京都

御廻状j 内外に潜伏している可能性があるため、滞

京中諸藩士らで「探索之上生捕Jること、

松平定敬よりの「達」

19 7G治7G年7月 但木土佐→石田正親 「江戸形勢風唱j 松平直克ほか在府幕閣の人事/1長州一

件Jは毛利父子隠居、家老切腹、浪士ら

「国梯jの上「取調」の風唱/1異国人Jが「軍艦五十余般」で横浜に迫り「公儀御

指図」を待っている、滞在費「一日金一万

弐千両jを幕府が支払っている、上記が

「実事Jなら[戦之競Jもあり得る

20 元治元年6月 潰忠太郎・入江九一 「長州藩中趣意出七侯狂嘆願出j 政変にで三条実美らと共に「勅勘」を蒙っ

([史料5】) たことは「痛苦」に堪えない、「君侯様方」

よりの「御執成Jを頼みたい

(。的)

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(同的)

21 元治元年7月 (長州勢の布陣と「九門」守備体制 (同左)

の概況)

22 元治元年6月26日-7月20日 (山内司馬) 「京都騒動弁大火事J (山内の禁門の変調査見聞録、第二章(1)

参照)

23 (元治元年か) 7月・ 9月 「有之ニ付仰出井大目付達等」 長州勢の結集から入京、戦闘での敗北に至

る概況

24 (元治元年) 8月3日 神保伯香守・京極越中守・田村肥 「廿ニ諸侯長州征伐被仰付事J 「松平阿波守」以下諸侯への毛利父子追討

後守 指令

25 (元治元年) 「御使番」金田貞之助・朽木亀 「上意振」 一橋慶喜への「震翰j下賜、「親征行幸」

六・松野源八郎 は延引、松平容保の[忠誠之周旋」への労

い、[長州入京」は許さず

26 (Ji;治7G年) 8月14日 水野忠精ほか老中 「長州追討ニ付近国之諸藩江攻口被 西国諸侯への攻撃配置指不

侯仰渡(ママ}事J

27 (元治元年) 7月25日 脇坂安宅 「上位振J 「芸州路J→岩国城→「山口表」への陸路

攻撃成功を祈る「上意J(7/29水野忠精宅

にて薩摩藩士へ「申渡J)

28 (元治元年) 牧野忠泰・大目付大井出羽守 「毛利大膳太夫江戸屋敷被召上急渡 御所への発砲および家老へ「父子之軍令

隠居様被仰渡事J 保jを持たせていたことにより、江戸藩邸

召し上げと隠居を命じる

29 (万治元年か) 「長防分限高J 長防二国の石高・郡村数・男女別人口の概

30 (元治元年) (山内司馬筆写) 「芸州広島泊三て長州家臣増田福原因 広島・園泰寺での成瀬隼人正らによる長州

司の三級成瀬隼人致実験候図」 藩三家老首実検の図

31 (文久3年以降か) 三候実美・「西三候殿J(三候西季 「脱走之公家述懐之和歌J (和歌二首)

知か)

32 (元治~慶応元年頃か) 松平右近将監 「九月廿三日松平右近将監殿。届候

書簡」

33 (慶応元年か) (幕閤→徳川慶勝) 「尾張前大納言殿。再度御達j 「大膳父子」を紅戸へ「召寄」るにあた

り、警衛の人数を出されたい。指揮は大目|

霊掻Q機hw零時eVQhw眼EhmA尽zrhw略

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Lmh+

年月 作成者・差出人・名義人など 表題・件名 内容

付駒井甲斐守と日付御手洗幹一郎が担当す

34 慶応JG年2月 松平美濃守他 「松平美濃守始江御達」 「美濃守J(黒田氏か)・細川・有馬・島津

各氏への「実美始五人」の「江戸表召呼」

の際の警衛の指示

35 (慶応克年か) 駒井甲斐守 「駒井甲斐守御先鋒一意。御達」 「大坂表」にて尾張藩の「人数jと合流の

上、「長州表jへ向かい、毛利父子を江戸

へ「召寄Jる旨を吉川監物または家老へ申

し伝えること。もし「極少数人之附添Jを

希望したら特別に許可する。「両国鎮静j

については吉川か家老に「厳重ニ申付J、追って指示する旨を伝えること

36 (克治~慶応か) 「乱人真伝一橋膏内股一切大名 一橋慶喜に対する風唱。「治世を乱寿によ

薬j しJI大樹を枯伝よし」など薬の効用に聡

える

37 (慶応克年か) 4月12日・同 倉敷代官(代官所役人)桜井久之 「備中倉敷御代官届j 長州藩陪臣らによる倉敷代官所襲撃・役人

19日 助・松平備前守 斬殺事件の概況。海路広島を経て逃亡した

が、 15日に4人「生捕J、「討取Jと「行倒

死J各1人

38 慶応JG年4月(同19日老中へ 牧野遠江守・諏訪左京先 「大目付。」 毛利父子に「悔悟jの気配が見られないた

廻状) め、 f急速御進発jを決行する。 5/16を予

39 (慶応頃) (毛利敬親か) 「長州侯のうた」 (和歌一首)

40 (慶応JG年か)11月19日 (幕閤) 「長州御征伐ー付一度目討手等被付 毛利父子の「伏罪Jについて「疑惑之廉J候御書付」 があるため、「攻口割当Jを通知する

41 (慶応2年か) 一橋慶喜 「一橋公建白」 将軍家茂の病状悪化と九州戦線「解兵Jに

伴い、これ以上の指揮継続は困難、諸侯を

招集して意見を集め、「利害得失」を定め

(N的)

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(的問)

た上、「天下公論jに基づいて今後の対応

を決めたい。

42 慶応元年5月4日 (幕閣か) 「長州御征伐御進発保々j 従軍中の心得。「喧際口論J、作物・竹木の

勝手な採取、独断での「陣挽人返jの禁止

など

43 慶応冗年5月4日 板倉勝静ほか老中 「覚」 行軍中の敵兵との遭遇への備えや陣中での

火の扱いの注意など

44 (慶応2年) 7月24日 溝口主膳正・真田信濃守 f<松平右近将監宛巨録)J 6/26の「益田表Jでの「苦戦勇闘jの上、

6/18演田城を「白焼」する判断を下したこ

とは「殊勝之至」なので、「御尋目録j

<f目録千両J)を渡す

45 (慶応2年) 6月15日 井伊直憲 「井伊家長州勢と戦争二付御届出」 彦根・高田藩兵および陸軍奉行竹中丹後守

の長外l勢との抗戦から広島への撤退までの

概況

46 (慶応2年) 6月14日 榊原式部大輔家来上回志馬 「同榊原式部大輔御届」 大嶋における「松山勢J. f陸軍隊」と「大

嶋土民1・長州藩軍艦との砲撃戦の概況お

よぴ「陸軍一大隊御増加」と「一橋中納言

相続」の要請

47 (慶応2年) 7月 徳川家茂 「御意被出二付一橋中納言殿」 将軍家茂「危篤Jにつき、一橋慶喜に徳川

家相続と「名代出張」を依頼する

48 (慶応2年) 8月1日 板倉勝静 「八月朔日於芙蓉問布衣以上之面々 戦況が芳しくないが、改めて「銃隊相立」、

。御老中列座周防守演達」 再攻撃を計りたい。「誠ニ浮沈存亡之場合Jであるので、「御思沢」に報いるためにこ

の旨を心得るように

49 (慶応2年か) 松平伯香守名代田村主斗 「長州。井伊榊原両侯江送候書面」 その方たちは「武辺」に疎く敗北したが

(【史料4)) 「生捕Jった者は引き渡す。今後は「武辺

を励」すように

50 (慶応二年頃) (毛利元徳) 「長州御息直書j 「防長二国」一統は「援夷之宣旨」を奉

じようとしたが「松平肥後守」が「遮而相

痘議門町機但零時多vn可制服

E余dq-LThw略

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土壁画星

空 【参考】山内司馬「文輸相(宮城県図輔みやぎ資料室臓)

年月 作成者・差出人・名義人など 表題・件名 内容

拒」んだ上、天皇に「謀反jと告げて「当

家之武道江統Jをつけた。家老に「軍令

保」を持たせて上洛させたのは「肥後を揚

捕Jるためであったが、「禁閥勉発之趣j

と触れ回られた。「以来三ヶ年」、山口に新

城を築き、「農工農商迄義を立身命を描候

覚悟」である。万一敗れても二国を枕に皆

で最期を遂げる所存であり、「此上計謀有

之筋ハ直々可参Jである

51 慶応2年6月か 歩兵奉行河野伊予守・戸田肥後 「御使番松浦五右衛門大嶋抱戦承り 6/8よりの幕府「御軍艦J. r歩兵二大隊御

守 書」 持小筒組二組J. r松平隠岐守殿人数Jらに

よる大嶋攻撃~制圧の概況。 6/14島内に

「潜伏」している残党のいないことを確認

し、岩国へ撤退したものと判断 (申的)

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(白的)

I第2表】武藤弘毅記録情報の概要

年月 作成者・差出人・名義人など 表題・件名 内容

1 文久3年9月23日 井伊直憲 (毛利父子讃責) 毛利父子は「異勅J行為につき「早々罷

来Jるべき、異義を唱えたら「近国之大

名Jに「尋問」を行わせる

2 元治元年7月23日 水野忠精 「和泉守殿御渡八月朔日御触口大目 毛利父子は「悔悟Jを装い[不容意趣」を

付江J 企て、かっ国司信濃らに「黒印之軍令篠j

授けていたことから征伐に値する。諸侯は

国許で「軍勢」を整えて待機すること

3 7G治7G年8月3日 (幕閤) (征長軍および将軍留守中の江戸警 (同左)

衛の人員配置)

4 7G治克年7月25日-8月13日 (長州勢の上洛~戦闘~退京から征 (悶左)

討体制確立までの概況)

5 「大坂軍議取調J 将軍馬印および旗下の「袖印」などの簡素

な絵図

6 克治克年10月22日 久留米藩士・吉田彦次郎 「久留米藩吉田彦次郎口達書取写 10/22の(大坂城での)軍議に参席した久

但御軍議之席ニ於てJ 留米藩士による概況記録。「長防之絵図」

を開いて「御総督J.薩摩藩士「大嶋吉之

助」・日付らを中心としての攻め手の配

置・攻撃手順などの打ち合わせ。

7 元治元年10月14日/16日 徳川家茂/武家伝奏(→徳川慶 「御黒印J 将軍家茂からの総督職務達成祈願/r伝奏

勝) 衆Jからの「三社御祈J対応への労い

8 元治元年10月 (征長総督徳川慶勝・尾張藩重役 (攻撃指示) 11/11 r諸軍持口」へ配置、 11/18r御攻掛

か) りjの指示

9 (元治元年)10月 (幕閣) (r松平兵部jへの「同姓Jr相模 (岡左)

守jへの援軍出兵取り次ぎ指示)

10 元治元年10月 諏訪忠誠ほか老中 「保々 軍令状J. r下知状」 従軍中の行動規範の指示書

11 文久3年5月 「皇大国之忠士烏山九郎秋龍j (幕府対外政策批判) 生麦事件賠償問題等に関する幕閣の姿勢は

「皇国之大恥辱j、老中と「水戸中納言J

痘担制門町機狙事時十vn耳和国同

Eh明感一本蝋

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医Lmヤヤ

年月 作成者・差出人・名義人など 表題・件名 内容

(徳JII慶篤か)らは斬首すべき

12 7G治ヌじ年1月10日 池田慶徳 「文久四年甲子正月 因州侯。武家 「接夷之叡慮j貫徹と「天下之人心一致ー

伝奏衆江被指出候書付之写J 和」を通じた幕府の対朝廷協力を進言、長

州藩・七卿の行為は「叡慮遵奉Jの素志に

基づいているため寛大に対応すべき

13 文久4年(5i;治克年) 1月 孝明天皇 「震翰写j ニ条実美・長州藩士らの異国船砲撃・幕吏

暗殺等は私の意思を捻じ曲げるものゆえ、

必ず罰する。将軍・諸侯は私の「赤子」で

あるので、皆協力して倹約・軍備充実に努

める様に

14 元治7G年 (2月か) 徳川家茂 「御請写」 鎖港談判の遅滞を各めない天皇への報,恩の

ために旧慣を改め、諸侯を兄弟と思い、冗

費を省いて摂海以下の防備体制充実や軍艦

建造に励みたい。列強へ使節を派遣したが

「夷情Jは判然とせず、一致団結して当た

りたい

15 元治元年3月 (武藤弘毅か) (幕閣、片倉小十郎 <r宗景君J)ら 3/4将軍一行二条城入城、「惣御人数一万余

の動向) 人J、3/5r水戸中納言公」入京、随従六千

人程、 3/6r宗景君御廻勤司近衛康幡三卿

へJ16 (元治克年、月未詳)11日 徳川家茂(井上正直→片倉へ回覧 「写」 将軍・諸侯の合議を踏まえて「国是Jを閏

か) め、叡慮を守り「政令一途ニ出J人心がー

致するよう尽力したい。

17 (克治7G年) 4月 徳川家茂 「御請写」 横浜鎖港の成功を期す、各地の海防は「急

務J、長州藩・七卿への対応は朝廷から

「御委任jされているので指図はない見込

18 元治克年4月29日 一橋慶喜・松平直克ら老中 「写j 諸侯への上洛指示(若年者は名代可)、「国

(@的)

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務Jについては「御委任」を受けたが事に

より衆議も踏まえる、他朝廷への「重罪J者は厳罰する、等の通知

19 元治元年5月 (武藤弘毅か) (5/3~5/27における将軍家茂と慶 5/2~5/3の家茂参内と 5/23の「田安仮御

邦の動向) 殿」における慶邦(江戸警衛担当)への慰

労の模様

20 7G治7じ年 片倉小十郎 「覚」 慶邦の将軍留守中江戸警衛への謝意、今後

の毛利父子追討の際には老中衆連名で「御

出府」を依頼するので心得て欲しい旨の通

21 元治元年8月 片倉小十郎 「覚」 「禁裡御所Jより「錦之御陣羽織j拝領な

(ト的)

【参考】武藤弘毅「文久耳袋J(白石市図書館所蔵)

在蔀門町機hw零時十vn吊制限Ehm或TTh

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竹ケ原康佑

Position of the Sendai Domain on the Punishment of Choshu Domain at the End of the Tokugawa Period: Intelligence Activities, Integration of Opinions, and

Dispatching Information

T AKEGAHARA Kosuke

This paper examines the political situation of the Sendai Domain of northeastern J apan

from 1864 to 1865, with special reference to its intelligence activities and information dispatch

concerning the Choshu punishment. At that time, the Choshu Domain was condemned for

being antagonistic to the imperial court of Japan.

The author argues也atbefore the Choshu punishment issue broke out in the four出 month

of 1864 (lunar calendar), the position of the Sendai Domain was very uncertain. The domain

government expelled high-ranking elites in support of the doctrine of excluding foreigners, and

actively promoted middle-class and low-ranking samurai who gained influence owing to their

mi1itary contribution. The domain government also showed indifferent attitude to missions

sent by the Choshu government who sought for exculpation.

At that time, the Sendai Domain dispatched a military scholar and secretarial sta宜toKyoto

and its surrounding regions for intelligence activities. The domain gathered information and

the information was recorded and organized in the domain. The author argues that this

practice became the foundation for sharing information with local samurai and for searching for

political standpoint of the domain.

Finally, the author examines the process of political decision making and dispatching也e

decision, having reviewed process of integrating opinions of various samurai bureaucrats and

feudal lords to dispatching information. The author also analyzes the relationship between

information flow and generating opinions and impact of intelligence activities on attitude

toward exterior. When Lord DATE Yoshikuni (1825-1874) held a hearing from samurai

bureaucrats, the majority of them proposed出atChoshu Domain be dealt with leniently. Lord

DA TE was in agreement on the lenient position, and proposed it to the baku.ル ce~tral

government. This was an outcome of the process of political decision making and information

flow of the Sendai Domain.

Based on these observations,出eauthor points out the following: 1) the Sendai Domain at

也attime was still in search of its own political position, and previous views that the Sendai

Domain attempted to stay out of the political mainstream should be reconsidered; 2) samurai

bureaucrats of the Sendai Domain never lost interest in the politics at the center despite a long

distance involved between the center and northeastern J ap

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長州処分問題をめぐる仙台藩の動向

sometimes shared views with feudallords of neighboring domains and occasionally dispatched

such views on behalf of the neighboring domains.

Keywords: Sendai Domain of northeastern J apan, end of也eTokugawa Period, information

gathering, flow, and dispatch.

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