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人間発達文化学類論集 第 29 2019 6 96

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人間発達文化学類論集 第 29号 2019年 6月

(一)

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葛飾北斎の絵手本

│『己痴羣夢多字画尽』と『略画早指南』│

磯 

崎 

康 

『己痴羣夢多字画尽』

 

葛飾北斎は、文化年間より晩年に至るまで絵手本を出版しつづけた。

絵手本は、絵画を学習する際の教本であり、臨本である。北斎が絵手

本を出版した理由について、『北斎漫画』八編の絳山序文に次のように

ある。北斎論では、しばしば引用される文章でもある。

葛飾一風を興し画名世に名高し、於玆其門に入て伎を学ぶ者多し、

翁これに教て曰画に師なし、唯真を写事をせば自ら得べし、門人

これを愁うれ

ふ、或人翁が言を聞て翁を諌曰翁は葛飾一家の画祖なり、

翁が風を慕ふ徒はこれが風たらん事を欲す、然れば何と他に師を

索むべけん、離婁の明公輸子の巧も規矩を以てせざれば方員を成

事能はず、翁の門に遊ぶの徒翁の臨本を得ざれば葛飾風たるを不

得何ぞこれを察せざるやと、翁この言を爾しか

りとし、山水人物鳥獣

草木堂宇器財に至るまで閑ある毎に写し出し以て門人に授く

 

文中に「離婁の明公輸子の巧も規き

矩く

を以てせざれば方員を成事能は

ず」とある。規はコンパス、矩は定規である。離り

婁ろう

は離朱ともいうが、

秋になって抜けかわった獣の細毛まで見えたという、視力のすぐれた

黄帝のときの人物である。公こ

輸ゆ

子し

は魯ろ

般はん

ともいうが、楚そ

王の命をうけ

敵城に登る長い梯子を作ったという、機械を造るのに巧みな細工師で

ある。この一文は、王道・仁義を説いた孟子の『離婁上』から引用さ

れた。「孟子曰、離婁之明、公輸子之巧、不以規矩、不能成方員」とあ

る。離婁のようなすぐれた視力があっても、公輸子のような巧みな技

術があっても、コンパスや定規がなければ、四角形や円形を作ること

はできないという。北斎はコンパス・定規による絵手本を描き、これ

をもって北斎画風を得ることができる、と門人らはいう。納得した北

斎は、あらゆるものを写しとって上木し、門人らに与えたのである。

 

北斎の門人はかなりいた。北斎から直接指導された者、また北斎に

私淑した者は全国におり、その数は二百人を超えるという。『古画備考』・

『増補浮世絵類考』・『葛飾北斎伝』・『本朝画家人名辞書』などを参考に、

多少とも名の知れた門人をあげておこう。

 

葛飾雷周は浮世絵師。没年不詳。

 

安田雷洲は江戸生まれの銅版画家、南画家。文化年間に活躍し、文

華軒とも号す。

 

斗と

雷らい

は浮世絵師。肉筆美人画にも長け、雲戴子とも号す。没年不詳。

 

柳川重信は江戸の浮世絵師。北斎の娘と結婚し、雷斗の号を譲られる。

天保三年(一八三二)閏十一月二十八日、四六歳にて没す。

 

雷山は浮世絵師。生没年不詳。

 

葛飾北ほく

鵞が

は江戸京橋に住す画家。狂歌摺物や読本の挿絵を描く。

 

北敬は江戸の浮世絵師。春陽斎とも号す。

 

魚屋北渓は江戸の浮世絵師。四ツ谷、赤坂永井町などの住す。魚売

りを業としたため「ととや北渓」と呼ばれ、狂歌摺物に長けた。嘉永

三年(一八五〇)四月九日、七〇歳にて没す。

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磯崎康彦 : 葛飾北斎の絵手本

(二)

95

 

葛飾北ほ

岱たい

は文化年間に活躍した浮世絵師。小さ

枝えだ

繁作『此花草紙』を

描く。

 

葛飾北ほく

溟めい

は江戸の浮世絵師で、肉筆画にも長けた。安政四年

(一八五七)八月九日、四九歳にて没す。

 

有坂北馬は江戸の神田、下谷三筋町に住す画家。狂歌摺物や読本の

類を描く。晩年剃髪し、弘化元年(一八四四)八月十六日、七四歳に

て没す。

 

葛飾北明は江戸の浮世絵師。生没年不明。

 

牧墨僊は名古屋の浮世絵師、銅版画家。北僊・北亭・月光亭・百斎

とも号す。文政七年(一八二四)五〇歳にて没す。

 

葛飾北ほ

目もく

は画家。草双紙、鬼武作『敵討恠(怪)談』などを描く。

没年不詳。

 

北洋は大坂の浮世絵師。千鶴亭とも号す。

 

近藤北泉は岡藩の浪人で、江戸麴町平川町に住す。戴岳とも号す。

 

葛飾北ほく

嵩すう

は江戸の画家で、神田明神下伊勢屋佐兵衛宅に同居す。種

彦作読本『浅間ケ嶽』、馬琴作『八丈奇談』などを描く。

 

北洲は大坂の人で、紙商で浮世絵師。春好斎とも号し、文政年間に

活躍す。

 

葛飾北周は江戸の浮世絵師。文化年間、鬼武や竹塚東子の黄表紙挿

絵を描く。没年不詳。

 

北ほく

寿じゅ

は昇亭とも号した江戸の浮世絵師。両国薬研堀に住す。十返舎

一九の草双紙『今昔矢口の仇浪』や高井蘭山作『敦盛外伝青葉笛』を

描く。名所絵も能くする。

 

北雲は東南西とも号した浮世絵師。大工であったが、北斎が辰政と

号した頃、北斎門下で学び絵師となる。文政二年『新編女水滸伝』を

描く。尾州名古屋に赴き活躍するも没年不詳。

 

北麿は浮世絵師。天保年間に活躍するも委細不明。

 

葛飾北円は江戸の浮世絵師。生没年不明。

 

辰しん

斎さい

は柳々居とも号した江戸の浮世絵師。神田小柳町に住す。北斎

が辰政と号したさい、北斎門下に入る。狂歌摺物や月次の詠草を描く

のに長けた。

 

山口重春は柳斎とも号した長崎出身の画家。大坂にて活躍し、嘉永

六年(一八五三)に没す。

 

三代俵屋宗理は江戸浅草に住した浮世絵師。狂歌摺物に巧なり。没

年不詳。

 

葛飾戴た

いそう

は尾州名古屋の画家。

 

葛飾為斎は酔桜軒とも号した江戸の浮世絵師。向島や浅草蔵前に住

す。北斎晩年の門人で、明治一三年、六〇歳にて没す。

 

絵馬屋額が

輔すけ

は画賛人とも号した狂歌師。浅草新堀に住す。嘉永七年

(一八五四)、七四歳にて没す。

 

露木為一は江戸の浮世絵師。北斎晩年の門人。没年不詳。

 

以上のほかに葛飾派の人物として震索・載輔・北ほく

嗚お

・岳亭春信らの

名前もみられるが、生没年や作品など委細不明である。北斎は門人に

手をとって教えることを嫌い、指導を求める門人には、自ら上木した

絵手本を示して描かせ、短所を指摘する程度であったという。

 

文化七年(一八一〇)、北斎は最初の絵手本『己おのが

痴ばか

羣むら

夢む

多だ

字じ

画え

尽つくし

を上梓した。前後編からなるが、前編序に「文化庚午孟春 

耕書堂蔦

唐丸誌」とあり、耕書堂蔦屋重三郎からの刊行である。林美一氏が、

同書は北斎の初作の絵手本として『江戸春秋』(昭和五十六年四月)で

発表され、全図も覆刻されている。また永田生慈氏の『北斎の絵手本

(一)』にも前後編が記載される。ただ同書後編は底本がないため、同

じ内容の改題後摺本『略画早学』後編を使用しての紹介である。

 『己痴羣夢多字画尽』前編の序で、重三郎は、書と画は鳥の羽のよう

に相互に助けあうものとする。しかし、「書は入り易く学び難し、画は

入り難く学び易し、」、そこで「入易きより引入て学び易きに至らしめ

んとす。」さすればこの道を志す子供らの助けになるという。書(文字)

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人間発達文化学類論集 第 29号 2019年 6月

(三)

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と画は、松平定信や司馬江漢らの発言からもわかるように相互補強関

係にあり、よく知られた事柄でもあった。

 

次いで北斎の友人柳亭種彦の序が続く。

竹に一いっ

心しん

八はつ

の画法あり。辶しんにうに遊魚三節の書法あり。是、書を以て

画を伝え、画を以て書を伝ふ。先いで

や哥うた

をもて画に導んと、かしこ

くも出雲八重垣の御ご

役やつ

介かい

にあづからざる手前勝手な三み

十そ

一ひと

文も

字じ

画え

は御ご

存ぞんじの

筆まめ故、鶴の股も

引ひき

、家あ

鴨ひる

の脚き

半はん

、一い

文もん

膏薬、灸のふた、

―ながい

ミぢかい

□しかくも○まる

も、やたらむしやうに書あつめ、哥うた

が絵え

になる、絵

が歌になる、間あひ

乃半はん

丁てう

序ぢょ

で塞ふさ

ぐ。彼かの

野たか

相むら

公が戯け

言げん

にならひ、冬は

柊しいれに

春椿い

さく、

夢む

多だ

画え

尽つくしの

濫はじ

觴まり

是也。

 

竹の一心八画法、辶の遊魚三節書法は書と画による文字絵である。

心のままに運筆する仮名三十一文字の歌も、鶴の股引かのように引き

伸ばしたり、家鴨の脚半かのように縮めたり、膏薬や灸のふたの四角

や丸を書きあつめて、歌が絵になる文字絵である。歌は、絵文字を解

きあかすための三十一文字にすぎない。これは、平安前期の廷臣で、

遣唐副使に任ぜられたが、大使の藤原常つね

嗣つぐ

の命にそむいたため、隠岐

に流罪された歌人である小野篁たかむら

(野相公)の戯言『小おのの野篁たかむら

歌うた

字じ

尽づくし

』にならった、と解してよいだろう。

 

種彦の序に次いで、挿図が載る。濃の

士し

孤こ

之し

山やま

水ミず

天てん

狗ぐ

が、文字絵の描

法を返へ

真ま

無む

志し

予よ

入にう

道どう

に教える場面である。天狗の見せる文字絵は、「そ

んし参らせ候」の文字からなる虚無僧図である。もっとも山水天狗も

ヘマムシ入道も、文字絵戯画として当時よく描かれた。ヘマムシ入道は、

草書の入道の二字を体にあて、ヘを頭、マを目、ムを鼻、シを口と顎

にあてて横顔を描くのである。

 

序、挿図に続き、本題である三三図の文字絵となる。画面の上段に一、

二、三の数字で運筆の順序を示し、下段に歌を載せ、歌をよみつつ上段

の番号に従って書けば、中央の人物・鳥・花・風景などの図柄に行き

つくのである。二、三の例をあげておこう。

 

鷺の文字絵については、図中に「天つくニ、三ハ二ツに二ハ四つ、

入とかいてぞ、鳥ハとぶなり」との三十一文字の歌がある。そして下

段左側に、「二八とり、三ンすじかいに、あし

はたち

、しをよこにして鷺

ハ立なり」との歌を加えて補説する。完成図は飛ぶ鳥と川辺に立つ鷺

である。

 

能の翁に登場する三番叟の文字絵について、「入人ヘ、一二三いに二

ツ入、三ツ入一ク、レ也、あし也」との歌をよみつつ、上段の数字で

示された文字を加えていけば翁図が完成する。ただ翁の衣に見られる

鶴と松の模様の指示は欠ける。

 

瓢簟から駒が出る図の文字絵について、「七八二、七ツむすびしひも

とけて、八へけむりの立チのぼるなり」の三十一文字の歌がある。左

側に「い二二三、七八一へ、候そう

候そう

ト、馬ハ日ひ

ことにかけいづる也」との

歌を加える。歌をよみつつ上段の番号をあてはめて完図となる。

 『己痴羣夢多字画尽』後編は、その内容が改題『略画早学』後編に該

当し、三六の文字絵からなる。蔦屋重三郎の出版広告から判断して、

前編と同年の文化七年に上梓されたと考えられる。序は次のようにあ

る。

此書ハ師を求めずして自おのづから

画え

の道に入い

しめんと欲ほ

するの書也。故

に文字を以

もって

運かき

筆かた

の法て

帖ほん

になぞらへ毎づ

図ごと

にこと〳〵く筆を下すべき

の序し

次だい

をわかちて、其傍に一二三の合あい

符もん

を記し、童こども

蒙しゆ

をして専もッハら

び易やす

からしめんとす。されど此書、独ひとり

幼こども

稚しゆ

の為に益あるのミにあ

らず、狂哥俳諧を翫

もてあそぶ

人々、席上需もとめに

応ずるの一助にして、実まこと

略画初う

学まなびの

楷かけ

梯はし

ともいふべし。

 

以上は、『己痴羣夢多字画尽』の概要を知る最適な文章といえよう。

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師を求めず、自ら画道に入りたい者の書であること。筆を下すべき順

序に番号をつけ、それに従って描くという学び易い手本であること。

そして児童のみならず、狂歌や俳諧を楽しむ人にも参考となるという。

序は続き、文字絵運筆の具体例をあげる。

頭かしら

書がき

に山一山二

山三

、かくのごとく挙あげ

たるハ、其画の書やうにして、一

より書はじめ、二三四と順に書べきをおしえたる也。又、かたハ

らにしるしたる狂歌ハ其画の書かき

法かた

を文字に擬

なぞらへた

るなり。哥う

と頭書

とを見てしるべし。ここに一図を挙あげ

て、其大たい

概がい

をしらしむ。余よ

是にならふて知るべし。

 「ここに一図を挙て」とあるが、この図は『己痴羣夢多字画尽』前編

の第四図と同じである。それは裃かみしも

をまとった座する武士の後ろ姿で、

武士は二羽の鶴が舞う富士山を見つめる。武士は年頭の賀客である。

三十一文字の歌は、「大八に小八かさねて、ふじのやま、羽四ヘ二つる

の、まひわたる也」とある。三十一文字の歌は意味はなく、文字絵を

覚えやすくするためである。大小の八の字をもって富士山を、也の草

書をもって鶴を描く。また画面左側に、「三つの山、か七が中につみ上

ケて、丸に十一のせて御礼れい

者しゃ

」とある。大中小の「山」の字で裃の後

ろ姿を、「か」の崩す字で右袖を描く。

 

後編の序では、富士山と鶴を省き、武士(賀客)の後ろ姿のみを再

出させ、賀客の文字絵を説明する。一の大字「出」・二の小字の「出」・

三の中字の「出」を用いて後ろ姿の裃を描き、四の草書「七」、五の草

書「か」を使って両袖を、そして六の「○」、七の「十一」を用いて頭

を描けば、文字絵の完成である。後編の序はこの書の意義、対象者、

運筆法などがよく解説され、『己痴羣夢多字画尽』の概要を理解させる。

後編より前編の序に相応しいといえよう。

 

後編の文字絵の二、三列を紹介しておこう。

 

象と唐人の文字絵について、「くニ上し、一二八人、としつかミ、こ

としか也二、ぞうハ立ツなり」との歌と上段の番号を参照に象を描く。

一方、左側の歌は、「六む

太イこハ、三小いりノつつム也、十一八わ、ふ

といとう人」である。該当する番号を上段からとり唐人図を完成させる。

 

蝙こう

蝠もり

の文字絵について、「つつい丁、三をならべて上二八、はねをひ

ろげて、ならぶ大入」の歌がある。上の句は、上段の番号をとりつつ

蝙蝠の顔の表現となり、下の句は、「大」と「入」を用いて蝙蝠の広げ

た羽となる。

 

桔き

梗きょう

の文字絵について、「六十のぢくに小ぐさハ七十の、きゝやう

の花ハ五八、

四十なり」とある。上段の六・十・七・五・八・四番の形象を

使って桔梗を描く。

 

北斎は難しい文字絵について、「本もんへひきくらべ、よく〳〵かん

がへべし」とか、「本もんにミあハせかくべし」などと注意する。文字

絵は、文字を用いて形象を描く戯画である。しかし前編の鶏図、後編

の葡萄にリス図、六む

べ山の風景図などは、文字絵というよりむしろ絵

手本の名に相応しい。ともあれ『己痴羣夢多字画尽』は、絵画を志す

者に文字絵をもって画道の手引きとなる教本であった。

森島中良の『紅毛雑話』

 

規き

矩く

は、コンパスと定規である。すでに『北斎漫画』八編の序でも

既述したが、中国では事態をわかりやすく説明するために古くから規

矩の語がとりあげられた。仁義王道と性善説を唱えた孟子は、『離り

婁ろう

句 

上』で、聖人は目を十分につくしたうえで、「規矩準じゅん

繩じょう

を以てす、

以て方員平直――四角・円形・平面・直線――を為すこと、用ふるに

勝た

ふ可からず」という。楽師は耳を十分につくしたうえで、六律の笛

を用い五音を正すことができる。為政者は心の思いをつくしたうえで

政を行い、さすれば仁心は、天下を覆うことができるという。また「規

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矩方員之至、聖人人倫之至也――コンパスと定規は四角と円形の極致、

聖人は倫理の極致である――」ともいう。規矩を形態の極点ととらえた。

 

沈南蘋は、円形を宇宙万物の生じた根源として、絵画論を展開した

一人である。享保一六年(一七三一)に来日し、二年後に帰国した清

朝の画家で、濃艶な色彩と緻密な花鳥画に長けた。南蘋は、自らの画

法を享保一七年に唐通事小頭見習となった神くま

代しろ

熊ゆう

斐ひ

らに伝えた。吉祥

画が主立つものであろう。熊斐は唐館で通事の仕事をする一方、多く

の門人を抱え、写生による華艶な描法を説いたと思われる。門弟の一

人に森蘭斎がいる。越後の森蘭斎は、山崎闇斎から儒学を学び、狩野

良信から画を学んだ。同郷の儒者五十嵐浚しゅん

明めい

のすすめで長崎へ行き、

熊斐に師事したのである。蘭斎は熊斐から沈南蘋の画風を学ぶが、師

没後、長崎を離れて大坂に住み、特に花鳥画に長けた。

 

森蘭斎は、作品よりむしろ天明二年(一七八二)に上木の『蘭斎画譜』

の著者として知られる。ここに南蘋の絵画論が載る。おそらく熊斐か

ら教えられたのであろう。

画は一環ヨリ起ル、是大極ニ法ル環ヲ竪ニ分レハ半環トナル、是

陰陽両儀ノ象トス、是ヲ上下ニ連ヌ、名テ連環トス、是天地ニ表

スコレニ半環ヲ加フ、是陰陽交リ一陽ヲ生シテ生生無む

窮きゅうノ象トス、

是画法ノ大綱ニシテ凡天地万物ヲ画スルニ此法ヲ出ルモノナシ、

連環半環ノ法ヨク相和セスンハ画体備ラス、此法全備スル者ハ気

韻生動シテ神妙ヲ筆端ニ現ス、連半魚ぎょ

鱗りん

千変万化ストイヘ尤、究

意原ノ一環トナル、是天地自然ニ法ル画ナリ、今彼土、古代名家

ノ画ヲ観ルニ連環半環ノ法備ラサルハナシ、是皆名家ノ秘訣ニシ

テ古来一轍ナルコト知ルヘシ

 

万物の生成過程は、一般に太極の動静により陰陽へと移行し、陰陽

の気は固まり五行の質を生じる。万物は陰陽五行によって作られる。

沈南蘋は、万物の生ずる根元である太極を太極円とする。円環を半分

にわけて半円環とし、陰陽の二元素とする。陰陽の変化により、つま

り半円環の上下左右の組合せにより万物のかたちは成立しているとい

う。

 

円環を絵画の根本的形態とする南蘋の絵画論は、とりわけ江戸での

南蘋風絵画の隆盛とともに知られたかもしれない。しかし、どの程度

であったか具体的にはわからない。ともあれ絵画の根基を円や四角形

に求める図譜や教本が、天明から寛政年間にかけて次々に出版される

のである。

 

森蘭斎は、寛政年間、江戸で画家として知られており、この頃大坂

か江戸に移り住んだと思われる。享和元年(一八〇一)九月に没し、

浅草本願寺中妙清寺に葬られた。

 

天明七年(一七八七)、森島中良は『紅毛雑話』を出版した。中良は

宝暦四年(一七五四)桂川甫三の次子として生まれ、兄は桂川甫周国くに

瑞あきら

である。桂川家は将軍家に蘭方医をもって仕えた名門であり、かつ

蘭学界の重鎮であった。中良は平賀源内に師事し、戯作者、狂歌師と

して活躍するも、蘭学方面では寛政四年、松平定信の蘭方医として禄

仕した。死亡年は、文化五年と七年説がある。

 『紅毛雑話』は一口で言えば、オランダ人の語った奇談雑話集である。

当時、出島のオランダ商館長は、毎年春に江戸参府をおこなった。江

戸での定じょう

宿やど

は、長崎屋(源右衛門)であった。オランダ人は珍しかっ

たのであろう。北斎も『画本東遊』で長崎屋之図を描いている。

 

江戸の蘭学者杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢、桂川甫周らは、こぞっ

て長崎屋に出掛け医学・博物学のみならず、わからない単語や文章な

どを問いただした。長崎屋訪問には、老中による許可が必要とされた

から、甫周の官医という立場は、蘭学者の訪問を容易にさせたと思わ

れる。

 

甫周は、参府中のオランダ人から聞いた珍しい数々の話を書きとめ、

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磯崎康彦 : 葛飾北斎の絵手本

(六)

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弟の中良はそれらを取捨選択して著したのが『紅毛雑話』であった。

中良は、雑話集のため出版の意図はなかったが、申椒堂主人の要望に

応えて公刊したのであった。

 『紅毛雑話』は巻之一より五まで、挿絵も多く、中良をはじめ司馬江

漢、馬孟煕(北山寒巌)、北尾政美(鍬形恵斎)が協力した。巻之四に

「紅毛の画法附銅あかがね

板ばん

の法」の一章が載る。この章には多くの挿図があ

り、次のように分類するとわかり易い。

第一類・

男子身体之図、婦人身体之図、骨節之式、手足之式、人物活

動之式、

第二類・同異本之式(成人や子供の顔貎、手足の挿図)

第三類・鏤板之具(銅版画の彫板用具図)

 

第一類のはじめに、「紅毛の画たるや至れり尽せり。凡此道を学ぶ者、

初メに男女の骨節を精く

はし

うし、夫より赤あ

裸はだか

の人物を書キ習ひ、其上に

て衣服を穿き

たる所を画くにいたる。下に出す画法は、『シキルデルブッ

ク』に載る一チニ図を模写して、好事の人の看に呈す。シキルデルは画、

ブックは書の事なり」とある。

 

文中の『シキルデルブック』とは、ヘラルド・ド・ライレッセ(G

erard

de Lairesse, 1640

-1711

)の著した『大絵画本』(H

et groot schilderboek

を指す。『大絵画本』は一七〇七年アムステルダムで出版され、第二版

は、ライレッセ死後の一七一二年、さらに一七二〇年、一七四〇年、

一七四五年と版を重ねた。オランダ語版から英独仏語にも翻訳され、

ヨーロッパ全土に広まった。わが国でも一七〇七年版が将来されたの

である。第一類の「男子身体之図」から「人物活動之式」までの全挿

図は、すべて『大絵本』からの模写図であった)

1(

。第三類の「鏤板之具」

は、蘭書『一般家庭事典』(A

lgemeen H

uishoudelijk Woordenboek

)か

らの模写図である。

 

さて、ここで問題となるのは、第二類の「同異本之式」である。こ

こには正面・側面・下向き・上向きの顔貎、手足などが円や四角形か

ら成立することを図示し、

  

是は「コンパス」矩にて割たる法なり

と説明する。これら諸図は西欧書籍からの模写であるとすぐにわかる

が、中良は一体どのような西洋本を見たのであろう。重要なのは、

  

同異本之式

という記述である。「同」は前と同じと解釈すれば、第一類のすべての

挿図が、ライレッセの『大絵画本』からの模写図であるから、ライレッ

セを指すことになる。「異本」は、『大絵画本』以外のライレッセの著

書といえる。結論をいそげば、ライレッセが一七〇一年に著した『素

描芸術の基礎』(G

rondlegginge ter Teekenkonst

)である。中良は『素

描芸術の基礎』を種本とし、かつブルマールト(A

braham B

loemaart

素描本を参考にして模写し、第二類の挿図にしたと判断できる。

オランダで出版された素描集

 

中良が参考とした蘭書をみれば、一七、一八世紀のオランダで出版さ

れた比例区分や幾何学形態を用いての素描本のうち、何がわが国に持

込まれたか調べる必要がある。

 

目だつ最初の人物は、ネーデルラントの素描家兼銅版画家クリスピ

ン・ド・パッセ(C

rispin de Passe, 1565-1637

)である。アントウェル

ペン、ケルン、ユートレヒトなどで活躍し、一六一三年前にユートレ

ヒトで市民権を獲得した。パッセは三男一女をもうけた。長男は父を

継いでクリスピン二世となり、次男シモンは銅版画家・素描家として

ロンドンやコペンハーゲンで活躍し、三男ウィレムは銅版画家として

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人間発達文化学類論集 第 29号 2019年 6月

(七)

ロンドンで活躍した。一人娘のマグダレーナも銅版画家となっている

から芸術家一家をなした。一六二四年パッセ一世(C

rispin de Passe I,

1589-1667

)はアムステルダムのブラウ店から『素描と絵画芸術の光明

に関して』(Van ’t light der Teken en Schider K

onst

)を出版した。ハイ

デルベルク大学図書館で調査できたので、その表紙を訳しておこう。

素描と絵画芸術の光明について。そこには、あてがわれた像や尺

度をもって身体各部を素描しうる容易なやり方を示す。まず始め

に男性・女性・子供の頭・手・足・脚を、さらに身体の全体像を

学べる。クリスピン・ファン・ド・パスの光明に関する尽力のみ

ならず素晴らしい銅版画も加えた。

アムステルダムで印刷され、ワーテルにあるヤン・ヤンツのもとで、

又パラスの西ウェスター・マルクト

広場にある著者宅でも購入できる。一六四三年)

2(

 

ここには円から構成される鹿図・長円からの鳥図や鸚鵡図・円や正

方形による豚図・正方形や直方体からの象図・長方形や直方体からの

馬図、さらに成人男女や子供の比例区分図などが図解される。『素描と

絵画芸術の光明に関して』は、初版後も一六四三年、一六六三年にも

再版され広く受け入れられた素描書であった。

 

一方、アブラハム・ブルマールト(A

braham B

loemaert, 1564

-1651

は建築家コルネリスの息子で、銅版画家兼肖像・歴史・風俗画家であ

る)3(

。最初の師は、ユートレヒトのヘリット・スプリンタやヨースト・ベー

ルであり、一六歳でパリに行き、三年間滞在した。一九歳のときユー

トレヒトに戻り、二八歳でユートレヒト出身の画家としてアムステル

ダム市に登録された。四七歳のとき、ユートレヒトの同業者組合の会

長となり一七年間勤めた。二度の結婚をとおし、六人の子供に恵まれ、

コルネリスは建築家、アドリアーンは画家兼銅版画家、フレデリクは

銅版画家となっている。

 

父のもとで修業したフレデリク(Frederik B

loemaert

)は――フリー

ドリヒともいう――父の作品をさかんに模写し、かつ銅版画で巧妙に

模刻した。それらの模刻図を集め、フレデリク没後の一七四〇年、オッ

テンス店から出版されたのが『アブラハム・ブルマールトによる新奇

で傑出した芸術素描書』(O

orspronkelyk en Vermaard K

onstryk Teken-

boek van Abraham

Bloem

aert

)であった。ここに、子供の正面の顔を四

つの円と正方形で構成した図、横向きの顔を三つの円と三角形で構成

した図、上向きや下向きの頭部と顔の比例区分図などが載る。

 

顔や人体の比例配分図、円・四角形による構成図解などは、一七世

紀のオランダの美術書にしばしば描かれた。ブルマールト以外にも、

アムステルダムで出版されたヤン・ド・ウィト(Jan de W

itt

)の『一

般芸術家の手引』(A

lgemeen kunstenaars H

andboek

)、またヘラルド・ド・

90

2. ヤン・ド・ウィト  『一般芸術家の手引』

1. クリスピン・ド・パッセ  『素描と絵画芸術の光明に関して』1643年版

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磯崎康彦 : 葛飾北斎の絵手本

(八)

ライレッセ(G

erard de Lairesse

)の著作にも見られた。

 

ライレッセは、一六四〇年九月リエージュで生まれ、四人兄弟の次

男であった。父をはじめ兄弟全員画家である。ライレッセの活躍は

一六六五年アムステルダムに移住してからであり、一六八〇年代には

押しも押されぬ著名画家となった。レンブラントと肩を並べたライレッ

セは、解剖学者ビドロー(G

. Bidloo, 1649

-1713

)から一六八五年の『人

体解剖学』(A

natomia hum

ani corporis

)出版にさいし、解剖図譜を依頼

された。この解剖書はわが国にも舶載され、杉田玄白や小田野直武ら

も見ていたのである。

 

ライレッセは一六八四年ハーフに赴き、法廷大会議室の歴史画を制

作し、天井画や壁画の画家として讃美された。一六九〇年、失明した

ライレッセは、制作にかわって自宅で芸術理論の講話に専心した。芸

術講話は、息子や門弟らによってまとめられ、『素描芸術の基礎』や『大

絵画本』となり、日の目をみたのである。

 

ここで問題なのは、一七〇一年出版の『素描芸術の基礎』(G

rond

legginge ter Teekenkonst

)である。ベルリン国立図書館で調査できた

ので報告しておきたい。表紙は次のようにある。

素描芸術の基礎――幾何学や尺度法の手段により、簡潔に確実に

素描芸術を学ぶ方法である。ヘラルド・ド・ライレッセにより(著

される)。第一部、ファル・ブルクのローキンにある書店ウィレム・

ド・カウプ  

一七〇一年)

4(

 

次いで第一課を訳しておこう。

芸術を学ぶ子供たちは、正しい基礎を与えることにより、また現

われていない部分を探ることにより、悩まずに修得できる。子供

らの記憶にしっかりと留めるまで、最初の、そしてやさしく軽や

かな原則からはじめて進めていく。というのは芸術の基礎を理解

することなしに、芸術の道を前進させることは不可能で、かつ完

成からとおのき、頂点に達することも不可能である。素描芸術の

最初の原則は、素描を知り実行し、幾何学のABCで記した多種

の内容からなりたつ。

そこでAで示した「点」、次のBの「垂直線」、Cの「斜線」、Dの

「横断線」、Eの「二本の曲線」、最後にFの「鉤形の線」を提示す

る)5(

 『素描芸術の基礎』は、前文のAからFまでの線を図示する。その後、

円・三角形・四角形など幾何学形態の分割や合成へと進み、壷・弓・

グラス・食器・梨・桜さくらんぼ桃

など日常目にするものを陰影をつけずに形の

みの素描に入る。第五課では、観察したものを固定化するため、視点・

地平線・基底・距離の関係を図示する。

 

顔容や手足が初めて登場するのは、第七課である。ライレッセは、

よく比例配分された像を作り、よき概念を得るため、「私はここに目・鼻・

口・耳の別の手本を示す)

6(

」という。「目・鼻・口・耳の手本はブロメル

ト(ブルマールト)の素描書に見られる。したがってここで同じもの

を示す必要はない)

7(

」との註を付ける。ライレッセは、ブルマールトと

は異なる配分を「別の手本」として提示したのである。

 

ライレッセの顔容区分は、顔の正面は長円形か卵形、顔の側面は正

方形に入る。瞼まぶた

は耳の上線と同じ位置、鼻は顔の三分の一の長さ、耳

は目の上線と鼻の下線の位置とした。これは、「男女において、もっと

も完全な区分と知らねばならない」(N

u moet m

en weeten dat deze

verdeelinge, de volmaakste zijn, zo w

el in Mans als V

rouwen

)という。さ

らに指と甲を区分した手、長方形内の足などを図示した。こうした身

体の手本を学んだあと、陰影をもって素描するよう薦めている。

 『素描芸術の基礎』は一七一三年、一七六六年も再版され、独仏英語

89

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人間発達文化学類論集 第 29号 2019年 6月

(九)

にも翻訳された。ヨーロッパで広く読まれた芸術書であった。

 

森島中良の『紅毛雑話』「同異本の式」とある第二類の諸図のうち、

卵形の顔、正面向き顔の目・鼻・口・耳による区分、横向きの顔の区分、

長方形に入れた手足などは、多少の差異はあるが、ライレッセ著『素

描芸術の基礎』第七課の諸図からとったと判断できる。また目・鼻・

口の区分線を入れた成人や子供の上向き・下向き・斜め向きの顔、さ

らに小円と三角形と四角形から組み立つ幼児の顔は、『アブラハム・ブ

ルマールトによる新奇で傑出した芸術素描書』から模写されたと考え

られる。

 『素描芸術の基礎』やブルマールトの素描書は、わが国に将来された

と思われるが、現在所在不明である。ただ『紅毛雑話』第一類挿図の

原本となったライレッセ著『大絵画本』は、石川大浪や谷文晁が所蔵し、

今日京都大学図書館で目にすることができる。

『略画早指南』

 

森島中良の『紅毛雑話』は、各種の略画本を誘発させた。鍬形蕙斎

や北斎らである。

 

鍬形蕙斎は北尾重政の門人であったところから初め北尾政美と号し

た。のちに蕙斎と、落髪後は鍬形紹真と称した。寛政七年(一七九五)

十二月、蕙斎は『略画式』を出版した。版元は須原屋市兵衛である。

標題名称について、序に「形にあらず精神を写す、形をたくまず略せ

るを以て略画式とす」とある。『略画式』は写生を根本としながらも、

形似にとらわれない描法を説いた。『紅毛雑話』からの刺激は、中良の

描く裸体人物図を転写していることからもわかる。そして「巧者に至

る時ハ、写生をはなるゝ事を大事とす」と注意する。

 

蕙斎はその後、『人物略画式』『山水略画式』『鳥獣略画式』など、人

88

物・花鳥・魚貝・虫類などの略画絵手本を描いた。森羅万象あらゆる

ものを略画とする態度は、北斎を刺激したと考えられる。

 

文化九年(一八一二)、葛飾北斎は『略画早はやおしえ

指南』初編を、次いで文

化一一年(一八一四)同本後編を上梓した。版元は、角かく

丸まる

屋や

甚助と鶴

屋金助の合梓である。『略画早指南』前編に鏡裏菴梅年の序、並びに附

言が載る。

丈山尺樹、寸馬豆人などいへる画に盡く其法あり、されど起る処は

方円を出ず、今、北斎老人、是を基として規矩の二つを以諸もろもろの画

をなすの定ば

位どり

を教ふ、彼かの

焼やき

筆ふで

を用て形をとるにおなじ、是を見、是

を学びてよく規矩の二つに自在ならバ、細密の画といふとも、此工

夫をもて、なるべしと略画早指南の巻首に贅ぜい

  

附言

一、此書ハひでうぎとぶんまハしをもって絵をかくの法にして、是

より入るときハ、絵のわり合をはやくしりて、かつかうつり合あい

おの

づから出来る也。

一、此外に略画の一ひと

筆ふで

書がき

、又筆意、筆あたり等を早く教へて直に

絵のかける書ハ来酉(文化一〇年)の春差出し申候

 

五代(九〇七│九六〇)の最初の王朝、後梁のとき活躍した荊けい

浩こう

は――字は浩然、号は洪谷子――宋以後に発達した山水画の祖という

べき画家で、『筆法記』や『山水節要』を著した。「画二山水一賦」で「丈

山尺樹、寸馬豆人」と述べた。山は丈、樹は尺、遠景の人馬は小さく

描くこと、つまり比例を正しくとることのたとえである。こうした画

法はあっても、結局はすべて四角と円からなりたつという。そこで北

斎は、コンパスと定規により絵の定位を教えた。それは、柳の小枝を

焼き焦がした朽ち筆で下絵を描くのと同じである。コンパスと定規に

よってこそ、対象の大小関係がわかり、自由に使いこなせれば細密画

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磯崎康彦 : 葛飾北斎の絵手本

(一〇)

も描けるという。

 

これよりコンパスと定規を使用しての描き方となる。二、三例をあげ

ておこう。

 

正面と背面の獅子を描く方法。諸種の円を用いて獅子図を図解する

が、「このかたちにかぎらず、ぶんまハしにて、しゅ〴〵にかたちをか

んがへかくべし」と付記する。さらに画中に、「しゝにかぎらず、此も

のをかくに、かならず、まるよりわるとこころへ、まなぶべし。」と加

える。

 

小犬と親犬を描く方法。小犬は各種の円を用いて描くが、「よく〳〵

ほんもんと、ひきくらべかくべし」と注意する。親犬は各種の円と四

角形からなるが、「もっともすじひきのところと、まるのかたちと、も

ちあハせてするのところを、こゝろをつけべし」と付記する。

 

鳩・鶴・鷺を描く方法。鳩は菱形を種々に組み合わせるのでなく、円・

三角形・四角形をまぜ合わせて描く。鶴や鷺も菱形を使わずに円・三

角形・四角形をもって描く。

 

雪中東坡図の描き方。円・亀甲形・三角形・四角形・菱形が複雑に

からみあう。東坡は「まる三かく二法にてかく事なれど、ばせうゆへ、

こんざつの法なり」という。雪中の松は、「せつちうにかきらず、まる

をくバり、十もんじをかける、ミきハ三がいびし(三蓋菱)を、ふた

へにとるなり」と指示する。

 

四角形にて鶏を描く方法。略画図は、対象の形によって考えていく

やり方である。鶏に四角となるところはないが、六つの大小の四角形

を斜めに重ねあわせて雄鶏を、三つの四角形を図のように重ね区分し

て雌鶏を描ける。

 

この他、菱形による鷺、円による蛙の親子、卵形による小鳥、菱形

による猪などを図解する。なかでも五乃至六つの小円で描く「鬼・潮

吹き・おかめ」の面は、森島中良による四つの小円と正方形から構成

された幼児の正面向きの顔、並びにブルマールトの同図を想起させる。

 『略画早指南』後編は、前編の付言に、「来酉の春差出申候」とあっ

たが、文化一〇年(一八一三)に出版されず、翌一一年に上梓された

と思われる。永田生慈氏は、文化一四年正月の衆星閣角丸屋甚助蔵板

目録を紹介された。「略画早指南初編 

載斗先生画 

此書ハ規き

矩く

の二ツ

をもって、諸もろ〳〵の形を画く万物規き

求く

を離はな

るゝ事なしされハ、此書により

て学まなバハ画道に入いらん

事こと

速すみやかなり。 

同二編早は

稽げい

古こ 

載斗先生画 

此書ハ山や

水ミづ

天てん

狗ぐ

のしこし山を始め、文字を以も

つて

形を為な

ゆえにいろはを習な

ひし幼童も

此法にていかやうにも画ること速

すミやか也

。」とある。そしてこの二編早稽古

が、『略画早指南』後編に該当するとされた。

 『略画早指南』後編の序は、次のようにある。

のしこし山の山水天狗ハ、ヘマムショ入道が慢心を愛して不思議の

画法を伝ふ、我又ヘマムショ入道に随ず

身しん

して、此法を学ぶ事数百年、

いまだ其意を詳にせずといへども、人物禽獣虫魚に至るまて悉ことごとく紙

中を放はなれ

飛ひ

行ぎゃうなす事こと

奇き

といふべし、書師はやくも是を知って、其画

を乞こ

ふ事しきりなれバ、辞する事あたわず、その増

あらましを

画かき

てあたふ(後

略)

 

深山に住む山水天狗は、へまむし入道から変わった遊戯である文字

絵の画法を伝えられた。我もへまむし入道につき従って学んだが、そ

の心はいまだわからない。しかし不思議なことに紙上の人物禽獣虫魚

は空中に飛び出た。これを知った書師はその画法を求めたため、これ

に答えたとある。

 

次いで、北斎らしき像が載る。両手、口、両足に筆を握り、後編早

指南を右手で「後」、口で「編」、左手で「早」、右足で「指」、左足で「南」

の文字を書く。

 

これより文字絵の描き方となる。二、三例をあげておこう。

 

ほてい(布袋)と書いて、その像を描く方法。「て4

のじをよこにのば

87

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人間発達文化学類論集 第 29号 2019年 6月

(一一)

86

し、ほ4

のじをひきのばす、い4

のぢをつけてくづす。」い4

、て4

、不也

4

4

崩くずし

書きをもって布袋の大袋を描くことができる。

 

象を描く方法。一から一一までの順番に従って、まず象の大まかな

外形をとらえる。その後、象の皺を加えるため、も4

の字を崩して「さ

かしまにし、又よこにくミあわせ、なをもんじの大小にて、しわつけ

ること」 

銅や足などの各所にし4

の崩し字を用いるが、「しのじハ、な

がミぢか、こんざつして、ふであたりにてかくなり」という。象の爪

は口の字をもって描く。

 「ミやまじ」と書いて久米仙人を描く方法。山4

の字を崩し、み4

の字も

すこし崩す。雲は「ミ山じといふもじを大にくづし、ふでをふるひて

かくべし」という。久米仙人は大和国竜門寺にこも仙術を学ぶが、飛

行中、洗濯をしている女のすねを見、神通力を失って落下した。その

雲中より落下する姿をとらえる。

 「御しんじん心」と書いて観音を描く方法。「すべてふでにふるひを

つけて、もじをひきのばしかくべし」と注記する。御4

の崩し字を頭部に、

し4

の崩し字を衣や頭光に、ん4

の崩し字を衣の裾に、心4

の崩し字を観音

の乗る葦の葉の描写にあてる。比較的わかりやすい文字絵である。

 

この外、「いっしん(一心)」と書いて人の姿を描く方法、「たいくつ」

と書いてあくびの姿を描く方法、「う」の字で鵜を描く方法、「し」の

字で獅子を描く方法、「かんざん十とく」と書いて寒山拾得を描く方法

などが紹介される。

 

最後は運筆法を説明する。日月山水図のような筆太となるさいは、

筆のはらを用いること。筆を左右にひくさい、筆の持ち方や運び方な

どを図示する。細いものをかくときは筆を立ててかくこと。かるくか

くときは、人差し指と中指に筆をはさみ軽く運ぶこと。そして最終頁に、

「の」の字から円窓を描き、窓から筆者が顔を覗かせ、「文字を歪め、

伸ばし、あるは逆さかしまに

書いてから作画したのでなく、描いた後に文字を

加えた。しかしこの書を是ぜ

とする人は、文字を先に書き、後に作画す

べきである」という。

 『己痴羣夢多字画尽』前後編や『略画早指南』後編は、文字の数字の

番号に従って作画する文字絵の教本である。そこには北斎独自の図柄

も挿入されるが、文字絵の手本自体は古くからあった。これらに比べて、

『略画早指南』前編は、コンパスと定規を使用しての作画方法であり、

当時珍しかったであろう。円・三角形・四角形・菱形など幾何学的形

態からの合理的な図解は、西洋画からの影響と思われ、北斎は舶載さ

れた蘭書を見ていたかもしれない。少なくとも、蘭書の絵画描法を紹

介した森島中良著『紅毛雑話』からの刺激は否定できなかろう。

 『紅毛雑話』の「紅毛の画法附銅板の法」の諸図は、既述の第一類か

ら第三類までの全挿図である。第一類の挿図はライレッセ著『大絵画本』

から、第二類の挿図はライレッセ著『素描芸術の基礎』とオッテンス

店出版の『アブラハム・ブルマールトによる新奇で傑出した芸術素描集』

から、そして第三類の挿図はショメル著『一般家庭事典』(N

oel

Chom

el:A

lgemeen H

uishoudelijk Woordenboek

)から、以上五冊の蘭

書からなった。

 

北斎の円による獅子・馬・牛・蛙など、卵形による小鳥、小円によ

る各種のお面などを見ると、五冊の蘭書のうち『アブラハム・ブルマー

ルトによる新奇で傑出した芸術素描集』から示唆されたとも考えられ

る。ただ中良が参照したこの蘭書は、桂川家に所蔵されいたのであろ

うが、北斎と桂川家の関係が未だ不詳である。ゴンブリッチ著『芸術

と幻想』(A

rt and illusion

)を参考とした辻惟雄氏は、「かれ(北斎)は、

『紅毛雑話』に追随することをいさぎよしとせず、原本の蘭書に直接あ

たって、動物など他のさまざまなモチーフの描き方についてもヒント

を得たと思われる。これもゴンブリッチの挿図に載るファン・デ・パッ

セの鹿と『略画早指南』の牛をくらべればよくわかる」という。しかし、

パッセの蘭書『素描と絵画芸術の光明に関して』は、わが国に将来さ

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磯崎康彦 : 葛飾北斎の絵手本

(一二)

85

れておらず、北斎は手にとることも見ることもできなかった。

 

蘭画に関心のあった北斎は、幾何学的形態を好み、天保二年

(一八三一)以降に制作された《富嶽三十六景》の基本構図の一部にも

活用したのである。

(平成三十一年四月十二日受理)

〔註〕

(1) 

磯崎康彦『ライレッセの大絵画本と近世洋風画家』(雄山閣出版、昭和五八年)

一三五│一四九ページ

(2) 

Van ’t light der Teken en Schilder konst daar in een zeer lighte manier om

ten

eersten des Lichaem

s ghedeelten met een voor ghegeven fijguur of m

aat te teek-

enen beginnende van ’t hooft handen voeten beenen en voor de gantsche gestalte

der Licham

en van Mannen, V

rouwen en K

inderen wort geleert. M

et grooten vlijt in

’t Licht gebracht voor C

rispijn van de Pas, en de met schoone koopre platen verci-

ert. Ghedruckt t ’ A

msterdam

, Ende m

en vintse te koop by Ian Iansz. op ’t Water, als

mede by den A

utheur selve, op de Wester

-Marckt in Pallas, 1643,

(3) 

Bloem

aat

は、<œ

>

が〔u

〕の発音符号のため、ブロマールトでなく、ブルマー

ルトとすべきである。

(4) 

Grondlegginge ter Teekenkonst, Zynde een korte en zeekere w

eg om door m

iddel

van Geom

etrie of Meetkunde, de Teeken

-konst volkomen te leeren. D

oor Gerard

De L

airesse, Eerste D

eel, t ’ Am

sterdam, B

y Willem

de Coup, B

oekverkooper op ’t

Rockin, aan de Val -brug.

(5) 

Om

den Leerling dezer K

onst, eene rechte Grondlegginge te geeven, om

tot

haare verborgenste deelen door te dringen, moet het den M

eester niet verveelen,

van haare eerste en teederste beginsselen, hunnen aanvangt te maaken, en hen die

zoo dikwils voor te houden, tot dat zy ze hunne geheugenis vast hebben ingedrukt;

want zonder die eerste G

ronden der Konsten te verstaan, is het onm

oogelyk in

haaren weg of loop te vorderen, verre van haare volm

aaktheid, en toppunt te konnen

bereiken.

   

De eerste beginsselen nu der Teeken

-konst, bestaan uyt het kennen en maaken

van trekken, verscheidentlyk gehaalt, dat dan ook als het A B

C der m

eetkunde is.

   

Dus brengen w

y hier den Leerlingen voor ’t ooge, eerst een Stip, m

et den Letter

A aangew

eezen. Vervolgens een rechte Linie, m

et den Letter B

, en tweeschuinsse

door C verbeeld. Verder ziet m

en hier een dwarsse L

inie, die de Letter D

aanwyst;

dan twee geboogene trekken, door de E

; en eindelyk een kromm

e als een haak, door

de F aangetoont.

(6) 

前掲(3)zijde 24, H

ier stel ik nu weeder andere voorbeelden, als O

ogen, Neus,

Mond, en O

oren.

(7) 

Deze voorbeelden van O

ogen, Neus, M

ond en Ooren, vind m

en genoegzaam in de

Teekenboeken van Blom

mert, w

aarom ik niet nodig agt, dezelve hier te vertoonen.

Page 13: 葛飾北斎の絵手本 - 福島大学ir.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R...磯崎康彦: 葛飾北斎の絵手本 (二) 95 葛飾北 ほく 岱たい は文化年間に活躍した浮世絵師。小

人間発達文化学類論集 第 29号 2019年 6月

(一三)

Eine flüchtige Skizze » Ryakuga-Hayaoshie « von Hokusai

ISOZAKI Yasuhiko

  Hokusai entwarf zahlreiche flüchtigen Skizzen. Eine Skizze seiner Vertretungswerke war » Ryakuga-

Hayaoshie « I, II. im Jahre 1812 und 1814. 1787 wurde ein neuartiges Buch » Komo-Zatsuwa « von Mor-

ishima Churyo herausgegeben. Das war ein ausführliches Erklärungsbuch der neuen und merkwürdigen

Dinge in Europa ; darin standen die von Churyo gezeichneten Illustrationen der holländischen Malerkunst. Sie wurden aus einem Bilderbuch » Oorspronkelyk en Vermaard Konstryk Tekenboek « von Abraham Blœ-

maert zitient. Hokusai mag Churyos Abbildungen oder Blœmaerts Bilderbuch angesehen haben.

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